PSP PRINT - 堺福音教会

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12 月
そよ風の吹くころ
堺福音教会
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。
(創世記 4章 8節)
神はエデンの園である決まった時刻に「園を歩き回った」。神は、
定められた時間に、定期的にアダムとエバを探して、お会いになり、彼
らに声をかけた。それが「そよ風の吹くころ」であった。神は、時間と
空間に制限されている人間のために、
それらを超えて人間のもとに来ら
れ、
そこでお会いになるのである。
あなたにとって「そよ風の吹くころ」は朝であろうか、それとも夜であろ
うか?とにかく、定期的に神との交わりを持つ必要性は、
ここにある。こ
れが、
本書のタイ
トルになった。
堺福音教会の週報には「時流」という、牧師の短い霊想コラムが
ある。これは!)(&年に我喜屋光雄先生が始められ、現在もなお我
喜屋明先生と福留正明先生が継承している。これまでの年月に書
かれた約 !
件以上の記事の中から適当に選んで、!年分に編集
したものが本書である。我喜屋先生が天に召されて! 年目の節目
の年に届けることができたことを感謝する。
"
!月!日…………神のカイロス
1
!月"日…………神の国
January
!月# 日…………点から点、
それを結ぶ線
!月$日…………宣教と教会
!月%日…………摂理と祈り
!月&日…………暗黙知 !月'日…………渇きの力
!月( 日…………み言葉の声
!月) 日…………神の国の鍵
!月! 日…………神の国は聖霊である
!月!!日…………天的思考
!月!"日…………神の次元
!月!#日…………右にも左にもそれず
!月!$日…………預言の源流
!月!%日…………アブラハムの祝福
!月!&日…………真珠よりも尊く
!月!'日…………春は来たりつつ
!月!(日…………聖霊が臨む時
!月!)日…………聖霊は風
!月" 日…………御霊とみ言葉
!月"!日…………長老と執事
!月""日…………シオンへの道
!月"#日…………にせ預言
!月"$日…………クリスチャンの罪
!月"%日…………力は神にある
!月"&日…………力から力へ
!月"'日…………栄光から栄光へ
!月"(日…………主の栄光
!月")日…………信じること
!月# 日…………教会のリーダー
!月#!日…………聖書的人情
#
"月!日…………日本に対する預言
2
February
"月"日…………教会の三つの働き
"月# 日…………祈りによる共同作業
"月$日…………使徒行伝と聖霊行伝
"月%日…………聖霊による識別
"月&日…………まず恵み、
そして恵み "月'日…………教会の賜物−父なる神−
"月( 日…………教会の賜物−イエスキリスト−
"月)日…………教会の賜物−聖霊−
"月! 日…………秋の雨、
春の雨
"月!!日…………リバイバルを造ろう
"月!"日…………神の恵みを見た
"月!#日…………新しい皮袋
"月!$日…………平安の家
"月!%日…………人間性の尊厳
"月!&日…………リバイバル
"月!'日…………主の祈り
"月!(日…………今は恵みの時
"月!)日…………御霊のネットワーク
"月" 日…………アンテオケ教会
"月"!日…………非凡なる凡人たち
"月""日…………神の言葉は生きている
"月"#日…………神の声
"月"$日…………礼拝と神の栄光
"月"%日…………誓い
"月"&日…………恵みは信仰をこえて
"月"'日…………神の国をもたらすもの
"月"(日…………神の召し
"月")日…………信仰による行動
$
#月!日…………開かれた門
3
March
#月"日…………真理の家、信仰の力
#月# 日…………祈りによる伝道
#月$日…………ギルガル
#月%日…………クリスチャンに必要な場所
#月&日…………啓示の聖霊 #月'日…………割礼
#月( 日…………牧会から拡大、
そして海外へ
#月)日…………まず聖霊、
そして聖霊
#月! 日…………主の前に
#月!! 日…………片手に鍬、
片手に槍
#月!"日…………イエス・キリストを着る
#月!#日…………クリスチャンの積極的思考
#月!$日…………からだ意識
#月!%日…………教会の機能と奉仕の領域
#月!&日…………みことばによる革命
#月!'日…………預言と教会
#月!(日…………主を待ち望む
#月!)日…………選び
#月" 日…………神−歴史−王
#月"!日…………世界の光
#月""日…………すべての祝福
#月"#日…………究極の恵み
#月"$日…………十字架と三種類の人
#月"%日…………御霊の三つの現れ
#月"&日…………知恵、
知識、
愛
#月"'日…………自由と選択
#月"(日…………座す、
歩く、
立つ
#月")日…………復活の力
#月# 日…………キリストと私
#月#!日…………福音のゴール
%
$月! 日…………初穂
4
April
$月"日…………不在の臨在
$月# 日…………三つの証言
$月$日…………三つの宣教
$月%日…………この土の器に
$月&日…………イースターありがとう $月'日…………燃やされる
$月( 日…………復活の重要性
$月)日…………お互いを通して
$月! 日…………文明と終末
$月!! 日…………二種類の知恵
$月!"日…………ひなを呼び覚ます
$月!#日…………父のふところ
$月!$日…………主の山には備えが
$月!%日…………テサロニケ教会と聖霊の導き
$月!&日…………再臨についての補足
$月!'日…………信仰ときよい良心
$月!(日…………ドリア、
ドーマ、
カリスマ
$月!)日…………キリストによるあがない
$月" 日…………ダイナミズムの中心点
$月"!日…………エリヤよ何をしているのか
$月""日…………死んでも生きる
$月"#日…………聖霊を受けよ
$月"$日…………地境をひろげよ
$月"%日…………主を知る
$月"&日…………突然訪れる日
$月"'日…………起きて食べよ
$月"(日…………香油のかおりでいっぱいに
$月")日…………まことのぶどうの木
$月# 日…………祝福の原点
&
%月! 日…………教会成長への希望
5
May
%月"日…………主よ、
今こそ御国を
%月# 日…………五旬節の日
%月$日…………すでに神は
%月%日…………完成を完成する
%月&日…………母なる神 %月'日…………お竹さん
%月( 日…………信仰の道
%月)日…………新しい酒と新しい皮袋
%月! 日…………
『間』と安息
%月!! 日…………宣教活動の#要素
%月!"日…………拡大宣教
%月!#日…………母の存在
%月!$日…………健康な教会の条件
%月!%日…………日本列島のための'千人
%月!&日…………神の祝福
%月!'日…………最善のささげもの
%月!(日…………預言の重要性
%月!)日…………教会は・
・
・
%月" 日…………神の愛と母の愛
%月"!日…………神殿の材料
%月""日…………幕屋、神殿、
教会
%月"#日…………母の愛
%月"$日…………力と愛と慎みの霊
%月"%日…………霊の視点
%月"&日…………ヨナのしるし
%月"'日…………喜びは…
%月"(日…………教会により、
キリストにより
%月")日…………ペンテコステ…外から
%月# 日…………ペンテコステ…上から
%月#!日…………主がともにおられる
'
&月! 日…………ペンテコステ
6
June
&月"日…………父なる神
&月# 日…………すると突然
&月$日…………恵みを学ぶ
&月%日…………愛されていること
&月&日…………目を上げて &月'日…………私には乏しいことがない
&月( 日…………約束
&月) 日…………光と影の国
&月! 日…………二つの選民
&月!! 日…………ペンテコステと教会
&月!"日…………王なる祭司
&月!#日…………殉教者の遺言
&月!$日…………勝利の原動力
&月!%日…………教会と聖霊
&月!&日…………結び目
&月!'日…………父になろう
&月!(日…………神の都
&月!)日…………神の声
&月" 日…………主の勝利の矢
&月"!日…………思いをこえて豊かに
&月""日…………父の悲哀と潜在力
&月"#日…………み言葉の領域
&月"$日…………やみの中に光
&月"%日…………神の声を聞く
&月"&日…………親の責任
&月"'日…………祝福はここに
&月"(日…………散らされた人々
&月")日…………御霊に導かれる人々
&月# 日…………霊の人を求む
(
'月!日…………教会と私
7
July
'月"日…………臨在を生きる
'月# 日…………神は、はじめに天と地を
'月$日…………恵みとまこと
'月%日…………天使のもてなし
'月&日…………人生、
その目のつけどころ '月'日…………召命
'月( 日…………異端の霊
'月)日…………偶像礼拝
'月! 日…………黙示録のキリスト像
'月!!日…………恵みの大河のなかに
'月!"日…………四人の人、
第四の人
'月!#日…………8YcCd_bi
'月!$日…………見る
'月!%日…………霊に燃え、
主に仕える
'月!&日…………天のお父様
'月!'日…………ほんとうに神の子どもです
'月!(日…………生ける水
'月!)日…………私の霊によって
'月" 日…………アーモンドを見ている
'月"!日…………わたしはまことのぶどうの木
'月""日…………恵みによって生きる
'月"#日…………健康ですか
'月"$日…………あなたは、神の子キリストか
'月"%日…………いのちの水の川
'月"&日…………神の愛に根ざす
'月"'日…………いつものように…
'月"(日…………ヤコブの神
'月")日…………弦楽器にあわせて
'月# 日…………あふれる神の愛
'月#!日…………ヒソプ
)
(月!日…………心の貧しい者
8
August
(月"日…………バプテスマのヨハネ
(月# 日…………集会の権威
(月$日…………将来と希望
(月%日…………恵みの御座
(月&日…………黙示録の祈り (月'日…………再臨に必要なハイテク
(月( 日…………再臨のキリスト信仰
(月) 日…………マラナ・タ
(主よ来て下さい)
(月! 日…………聖書の中の特別な数字
(月!!日…………アモスの時代
(月!"日…………予言者と預言者
(月!#日…………リバイバルの"つのタイプ
(月!$日…………洞察力と預言
(月!%日…………信仰、恵み
(月!&日…………悪人と善人
(月!'日…………種まく人
(月!(日…………舵を取る人
(月!)日…………ヨブ記からの暑中見舞い
(月" 日…………信仰の形
(月"!日…………忘れない
(月""日…………キリストの信仰
(月"#日…………継承モデル
(月"$日…………買い戻す
(月"%日…………うわさ信仰から体験信仰へ
(月"&日…………どうすればいいのか?
(月"'日…………主の日
(月"(日…………食い尽くした年を償う方
(月")日…………ひとつの祈り
(月# 日…………御霊にある自由
(月#!日…………君は愛されるため生まれた
!
)月! 日…………将来と平安
9
September
)月"日…………今、
歩み出す
)月# 日…………ヨシュアの決断
)月$日…………完了した
)月%日…………ギデオンの# 人
)月&日…………サムエルよ… )月'日…………大いなるものは愛
)月( 日…………偉大なる無駄
)月) 日…………キリストの受肉
)月! 日…………神の指
)月!!日…………わが霊による
)月!"日…………勝利の秘訣
)月!#日…………いのちの道を知らせて
)月!$日…………主は私の羊飼い
)月!%日…………彼らとともに
)月!&日…………あなたが必要です
)月!'日…………日暮れには…
)月!(日…………二つの呼びかけ
)月!)日…………ワーシップとサービス
)月" 日…………感謝して励む
)月"!日…………内なる人と、外なる人
)月""日…………神様から贈り物
)月"#日…………神の作品
)月"$日…………キリストに捕らえられ
)月"%日…………新しい人を着る
)月"&日…………新しい歌を歌おう
)月"'日…………使徒行伝はつづく
)月"(日…………キリストのからだ
)月")日…………前に向かって
)月# 日…………ご自分を無にして
!!
! 月! 日…………自由のあるところ
10
October
! 月"日…………さあ来て、
朝の食事をしなさい
! 月# 日…………#つの領域
! 月$日…………真理の帯
! 月%日…………御霊の酒
! 月&日…………もはや私ではない ! 月'日…………文字ではなく
! 月( 日…………主の戦い
! 月)日…………消えない火
! 月! 日…………信仰の時
! 月!!日…………御霊にある自由
! 月!"日…………悲しむ者は幸い
! 月!#日…………神の国
! 月!$日…………信仰を増して下さい
! 月!%日…………イエス・キリストの系図
! 月!&日…………こうして教会は…
! 月!'日…………共観福音書
! 月!(日…………天の御国とことば
! 月!)日…………自己をどう生かすか
! 月" 日…………宣教大命令
! 月"!日…………出て行って、
語り…
! 月""日…………み言葉の確かさ
! 月"#日…………古い人の処理
! 月"$日…………一日だけの苦労
! 月"%日…………依存する信仰
! 月"&日…………わたしはある
! 月"'日…………七つの例祭
! 月"(日…………何をしているのかわからない
! 月")日…………ぶどう酒がありません
! 月# 日…………強く、雄々しくあれ
! 月#!日…………あなたはどこにいるのか
!"
!!月!日…………あなたを去らせません
11
November
!!月"日…………ヨベルの年と十字架
!!月# 日…………私たちのヨベル
!!月$日…………神の義
!!月%日…………御名をあがめさせ給え
!!月&日…………アベルとそのささげ物 !!月'日…………神学校
!!月( 日…………恵みの信仰
!!月)日…………霊の戦いの武器
!!月! 日…………クリスチャンであること
!!月!!日…………そこに網をおろしなさい
!!月!"日…………天よりの声
!!月!#日…………神の時
!!月!$日…………み言葉と神の国
!!月!%日…………平安(平和)
の子
!!月!&日…………なんと美しいことよ
!!月!'日…………コンタクトポイント
!!月!(日…………サタンはすでに敗北している
!!月!)日…………すでに勝利、
だから勝利
!!月" 日…………安息のための歌
!!月"!日…………主を待ち望む者
!!月""日…………御霊に関する五つの命令
!!月"#日…………
「見る」
と
「見つめる」
!!月"$日…………ただ、この一事に
!!月"%日…………愛の行動
!!月"&日…………聖霊が疑問の解答
!!月"'日…………夢を解放する
!!月"(日…………恵みのゆえに
!!月")日…………み言葉が実現した
!!月# 日…………人をとる漁師に
!#
!"月!日…………クリスマス・アドベント
12
!"月"日…………ベツレヘムから君のいる町へ
December
!"月# 日…………ことばは肉体となった
!"月$日…………あなたのおことばどおりに
!"月%日…………天の御国の鍵
!"月&日…………クリスマスのしるし !"月'日…………その翼には癒しがある
!"月( 日…………セレブレーション
!"月)日…………クリスマスと宣教
!"月! 日…………栄光、恵み、まこと
!"月!!日…………恵みに恵みを
!"月!"日…………最高の贈り物
!"月!#日…………喜びと犠牲
!"月!$日…………恐れるな
!"月!%日…………震われないもの
!"月!&日…………クリスマスの光
!"月!'日…………その方の星
!"月!(日…………クリスマスの恵み
!"月!)日…………羊飼いのクリスマス
!"月" 日…………愛のあいさつ
!"月"!日…………インマヌエル
!"月""日…………時が来れば…
!"月"#日…………変わることがない
!"月"$日…………東方の博士
!"月"%日…………はじめにことばがあった
!"月"&日…………H’
]Qc
!"月"'日…………しあわせ者
!"月"(日…………わたしのところに
!"月")日…………神の祝福
!"月# 日…………神とともに歩んだ
!"月#!日…………積極的に待つ
!$
1
January
わたしは雲の中に、
わたしの虹を立てる。
それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
─ 創世記9:13 ─
1
January
● 月日
神のカイロス
天の下では、何事にも定まった時期があり、
(伝道者の書 3:11)
すべての営みには時がある。
時 という言葉のために、聖書の中では 2つのギリ
シャ語 ・・・クロノスとカイロス・・・が使い分けられて
いる。クロノスは何月何日というようにカレンダーの
時間を表し、数直線上に刻むことのできる概念を
表しており、カイロスは時期とかシーズンのような概
念で、
運命的なイベントの連なりを意味する。クロノ
スは量的な意味で、カイロスは質的なものを表すと
も言われる。
いつも年度が変わるこの時期には、1月 1日というク
ロノスを迎える。好むと好まざるに関わらず、機械
的にクロノスが刻まれていくのである。しかしながら、
我々が本当に期待するのは神様の力の表れ、カイ
ロスである。すなわち神様が一方的に働かれるリ
バイバルの時が訪れることである。
この日本に、
私たちの教会に起こるカイロスを期待す
る。
!&
1
January
● 月日
神の国
バプテスマのヨハネの日以来、
(マタイ11:12)
神の国は激しく攻められている。
ヨハネは神の国を紹介し、イエスはそれを現実のも
のとされ、死に束縛されていた人に 神の国 という、
自由の扉を開いた。人はその自由への出口を求
め、檻の中でひしめいているように見える。檻の外
は神の国で、豊かな自由が満ちあふれているのに、
出口が分からないため苦しみの中から抜け出すこ
とが出来ないでいる。もし多くの人が一度にこの
出口を見いだしたらどうなるのであろうか?
人々が神の国をリアルに知って、体験した時のパ
ニック状態は「わたしは、
あなたのただ中から、刻
んだ像と石の柱を断ち滅ぼす」
(ミカ5:13)
のような
もので、多くのクリスチャンはこのようなパニックが日本
に起こって欲しいと願っている。
誰かがこの神の国のことを伝えなければ何も起こら
ない。あなたが祈らなければ、この神の国は人の
心に届かない。
!'
1
January
● 月日
点から点、
それを結ぶ線
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入
れることができません。世はその方を見もせず、知
りもしないからです。
(ヨハネ14:17)
まず聖霊、そして聖霊 という言葉は、神様が示し
て下さった二つの点である。つまり、
この世界は聖
霊によって始まり、聖霊で終わるという始点と終点
である。この二つの点を結んでいる線は、
「十字
架」
という言葉で表現できる主イエス様の生涯であ
り、聖霊で始まり
(ルカ1:35)
、聖霊で終わる
(使徒
2:33)。
聖霊 という点が私たちの生活においてリアルなも
のとなるためには、
「十字架」
という線が重要である。
ここに第一の鍵がある。また聖霊はアブラハムの
祝福のゴール(終点)であったことを覚えよう
(ガラ
テヤ3:13,14)。これが第二の鍵である。
クリスチャンはその聖霊をすでに受けているのであ
る。
!(
1
January
● 月日
宣教と教会
それゆえ、あなたがたは行って・・・。(マタイ28:19)
宣教とは、
まず第一に遣わされることを意味している
が、一般に、世界中に福音を宣べ伝えることと理解
されている。つまり、世界宣教計画(マタイ28:18のことであり、身近なところでは、失われた一人
20)
の魂を探し求めることである。これは、主イエスの
宣教の特徴そのものであった(ルカ19:10)
。した
がって、魂を教会に結びつけるまでは、この宣教は
完成しない
(ヨハネ10:16,21:15-17)
。
魂を教会に導く宣教の働きが求められているが、
教会に導きたい魂は、もともと教会に属しているもの
であったと考えるべき
(ルカ15:4)
とすれば、宣教と
は迷子になった尋ね人の捜索活動であり、その結
果は出会いのドラマそのものになるはずである
(使
徒 13:48)。 迷子を連れて教会に帰ろう。 宣教しよう!
!)
1
January
● 月日
摂理と祈り
ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
「 私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいま
すように…。」そこで神は彼の願ったことをかなえ
られた。(Ⅰ 歴代 4:10)
人には、
それぞれに定められた摂理と選びがあるが、
これは祈りによって変わるように見受けられる。聖
書には、ヨナの宣教と祈りによって、滅亡するはず
であった運命を変えたニネベの例(ヨナ 3:4-10)
や、
ヒゼキヤ王の切実な祈りが神様の定めを変えた
(Ⅱ列王 20:1-6)例などが示されている。
もし誰も祈らなければ、神がセットされた摂理がその
まま働くが、祈りがあると神様はその決められていた
コースを変えられるのである。
摂理と祈りとのやりとり…その結果…それが歴史で
ある。神は歴史の中に働いておられ、聖徒達を
歴史を造る協力者 として選ばれたのである。
(ヨハネ15:16)
"
1
暗黙知 January
私たちはキリストのからだの部分だからです。
● 月日
(エペソ 5: 30) 言葉にせずとも了解できる、いわゆる暗黙知は、暗
黙のうちにお互いの気持ちを理解し合える感覚で、
本来すべての人に備わっているものである。これは、
時代を越え、国を越えて見られることであるが、人
間関係においては日本人特有の感覚で、とりわけ
日本の企業社会はこれを中心に成り立っており、
そ
れが強みであるとも言われている。
順境の時には力となる暗黙知も、変革期において
は創造的発想や冒険心を生まれ難くする。これ
は大きな障壁となり得る。教会も同様で、霊的暗
黙知の一つと言える"からだ意識 "は、本来大きな
力だが、そのために挑戦を阻むような保守主義に
固まってしまう弱さも持っている。いつも自戒しなけ
ればならぬ。
常に柔軟なものでありたい。
"!
1
January
● 月日
渇きの力
父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。(ルカ 11:2 )
この祈りが私たちの生活に現実となるように期待し
たい。
まず、いやしにおいて(マタイ12:28)
、啓示におい
て(エペソ1:17,18)
、さらに喜びにおいて(ローマ
14:17)。あるいは、経済において(マタイ6:33)…
御国が現実のものであるように願う。多くの人にとっ
て魅力的なものとなるように…
毎年、
夏の訪れと共に、
北極圏のトナカイは怒涛の
ように北極海の水を求めて突進するという。何もの
も彼らの行動を阻むことはできない。そのすさまじさ
は、 渇き のもつエネルギーの大きさを教えてくれる。
私たちも、詩人と共に渇きを持って(詩篇 42:1,2)
祈る者でありたい。
生ける神を求めて渇いています 、
と…
""
1
January
● 月日
み言葉の声
信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストに
ついてのみことばによるのです。(ローマ 10:17)
第 2次大戦後アメリカから宣教師として日本に来ら
れた日系の牧師が東京の山手線に乗っている時、
車内のスピーカーからアナウンスが流れた。「この
列車は当駅止まりですから、ここで乗り換えて下さ
い」。これを聞いた乗客は、みんな降り始めた。と
ころが、乗り合わせていた何人かのアメリカ兵たち
は意味がわからず戸惑い、そばにいたその牧師に
「どうしたらいいのか?」
と尋ねた。
その時、その先生は茶目っ気たっぷりに We heard
a voice, but you heard a sound (私たちが聞いた
のは声だったが、あなたがたが聞いたのは音だっ
た)
と答えたそうである。
声を聞いても正しく理解できるとは限らない…
神の声、
み言葉の声を聞こうではないか。
"#
1
January
● 月日
神の国の鍵
まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新し
く生まれなければ、神の国を見ることはできません。
(ヨハネ3:3)
神の国と、
この世を分ける境界線は新生の体験で
ある。新しく生まれるという体験によって、神の国を
見ることができるようになり、霊的なものに対する新し
い自覚を持つようになるのである
(ローマ8:15,16)
。
神の国に生きる者にとっては、この世に必ずつきま
とう衣食住の問題は二義的な問題になり
(マタイ
6:33,ローマ14:17)、すべての思い煩いから解放さ
れ、超越できると言う
(ピリピ 4:6,7)
。その鍵は、内
住の聖霊にある
(ルカ11:13)
。
この内住の聖霊を実感するためには、毎瞬間の
衝動や思いを、御霊に委ねることを習慣としていな
ければならない(ローマ 8:13,14)
。この点で多くの
クリスチャンは失敗している。特別な時は祈って
聖霊様の導きを期待するのに、当たり前のように見
える毎日の生活の中で御霊を迎えることをしないの
である。
"$
1
January
● 月日
神の国は聖霊である
なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と
平和と聖霊による喜びだからです。
(ローマ 14:17)
御霊は、私たちを神の国に導き入れ
(ヨハネ3:5)
、
しかも神や信仰についての確信を与える
(ローマ
8:15,16)。また、心のジレンマから解放し
(ローマ
8:2)、高い品性に導く
(ガラテヤ 5:22,23)
。
さらに、内なる霊を解放し、神との神秘的で、現実
的なコミュニケーションを可能にする
(Ⅰコリント14:2)
。
そして、場合によっては、肉体を癒し
(ローマ8:11)
、
悪霊を追い出す
(マタイ12:28)
のである。
御霊は助け主として、私と共に住み、クリスチャ
ン生活のあらゆる局面を導いて下さる
(ヨハネ
14:16,17,26)。
神の国は御霊による明白な信仰体験である。
"%
1
January
● 月日
天的思考
教会は永遠の昔に天においてすでに選ばれていた。
(エペソ1:4,5)
選びを現実のものとするために、キリストは天より私
たちのところまで来られ、あの十字架を私たちを道
連れにしたまま通られ、さらに、私たちを連れたまま
天に昇られた
(エペソ4:9)
。教会はキリストの御業
を行い、その天的立場を表し、現実に天にある存
在であり
(1:20-23、2:6)
、祝福に満ちた世界である
(1:3)。
キリストにあって・
・
・
・という思考は、
天的次元にあり、
霊的領域に属し、み言葉の世界そのものである。
それこそ信仰そのものであり、それゆえに神の偉大
な力が保証されているのである。この思考は、サ
タンの要塞を打ち破る決定的な力(Ⅱコリント10:4)
であるために、
彼は総力をあげて攻撃してくる。
霊の戦いの場は天において、
すなわち天的思考の
レベルで行われる
(エペソ6:12)
。
"&
1
January
● 月日
神の次元
すべての良い贈り物は上から来る。(ヤコブ 1:17)
上の次元、すなわち神の次元にすべての良いもの
が隠されている。これは移り変わることのない不
変なものであり、
真理のみ言葉の中に保たれている
(1:18)。したがって、新しく生まれた者はみ言葉
によって生きる力を持つようになり、その力を使って
み言葉の基準で発想できる。これが信仰である。
いつも神の次元から考えること…、それこそ信仰の
訓練なのである
(ローマ 12:2、
へブル 4:11)
。
上からの思考によれば、私たちは、常にすべての
良い完全な贈り物に満ちている世界に生きている。
決して貧しいことのない天にあるすべての霊的祝
福に囲まれている
(エペソ1:3)
。
サタンが恐れるのは、
神の次元からの発想なのだ。
"'
1
January
● 月日
右にも左にもそれず
ダビデの道に歩み、右にも、左にもそれなかった。
(Ⅱ 歴代 34:2)
この言葉は列王記や歴代誌に頻繁に出てくる言
葉で、
ソロモンは彼の父ダビデについて
「誠実と正
義と真心とをもって神の御前に歩んだ」
(Ⅰ列王
と言っている。つまり、ダビデの歩みそのものが
3:6)
当時の正しさの基準であったのである。しかしな
がら、誰もが知っているようにダビデは失敗の多い
人間であった。なぜそれが正しさの基準になった
のか? それは、
悔い改めることにかけては誰よりも誠実であり
(詩篇 51:1-4)
、どのような過ちを犯しても、神の赦
しを大胆に信じたことによっている。人間的には理
不尽にみえるが、
これが神様の基準なのである。
キリストの死と葬りと復活による神の義と呼ばれてい
る「十字架」(ローマ1:17)こそが、正しい歩みの基
準なのである。
"(
1
January
● 月日
預言の源流 預言する者は教会の徳を高めます。
(Iコリント14:4)
聖書は、教会の集会を建設的なものとする預言の
賜物が、豊かに働くように勧めている。預言の性
質は建徳、勧め、慰めであり、愛がその精神で
(Ⅰコ
リント14:1-3)
ある。全体の秩序を考えながら、
しか
も個人に配慮する
(Ⅰコリント14:26-33)
。
愛はこのような余裕から生まれる。その余裕は自己
建徳の結果と言ってよい。それは預言の源流であ
り霊の賜物なのである
(Ⅰコリント14:4)
。
霊のことば(異言)は、いつも流れている地下水脈
から、絶えず新鮮な流れを汲み出すようなものであ
り、心を潤すチャンネルになっている
(ヨハネ7:38)
。
預言と異言を熱心に求めよう。
決して、
異言を禁じてはならない
(Ⅰコリント14:39)
。
")
1
January
● 月日
アブラハムの祝福
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福
する。(創世記 12:2)
アブラハムが祝福されたのは彼の信仰によるので
あり、信仰義認(ガラテヤ 3:6-9)
と表現されている。
その結果、約束の子であるイサクを2度にわたっ
て受けることになり
(へブル 11:17-19)
、ついにあら
ゆる面での祝福を受けるに至った(創世記 24:1)
。
もちろん、彼は祝福を受けることを約束されてはい
たが
(創世記 12:1-3)
、
それらの祝福は信仰によっ
てひとつひとつ勝ち取っていかなければならなかっ
た。
私たちに約束されている すべての霊の祝福 (エ
ペソ1:3)
も、信仰によって受け取ってはじめて、現
実のものとなる。
信仰によって義とされた結果、私たちは約束の聖
霊を受けており
(ガラテヤ 3:14)
、み言葉の世界に
おいては、その祝福は現実そのものなのである
(ヤ
コブ 1:17,18)。
#
1
January
● 月日
真珠よりも尊く
しっかりした妻をだれが見つけることができよう。
彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。
(箴言 31:10)
理 想の女 性 像が箴 言 31章 10-30節に描かれ
ている。彼女は事業家で(11-24)
、慈善に富み
(20)
、知性的で(25,26)
、良き家庭人であり
(27を送っ
29)、人々に尊敬され、報われた人生(31)
ている。彼女の様な存在は真珠よりも尊い(10)
と
いう。こんなスーパーママが本当にいるだろうか?
その秘訣は信仰にあり、実は、すべてのクリスチャン
女性に与えられているものなのである。残念なこと
に多くの人はそれを信じることができない。
神は、私達をすばらしい作品とするために選んで下
さった
(エペソ2:10)
と書かれているが、それを本当
に信じることが出来るか?
この約束を信じて、自らを積極的に評価できるか、
それが鍵である。
#!
1
January
● 月日
春は来たりつつ
見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や
春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
(ヤコブ 5:7)
今日は阪神大震災(1995年 1月 17日)の記念日。
被災した人たちの苦しみや悲しみは、時間が経つ
につれて一層その厳しさを増しているように感じら
れる。この様な時に、次のような内村鑑三の詩を、
私たちの祈りとしたい。
春は来りつつある。 雪は降りつつある。 しかし春は来りつつある。 寒さは強くある。 しかし春は来りつつある。 春は来りつつある。 春は来りつつある。
雪の降るにもかかわらず、
寒さの強きにもかかわらず、
春は来りつつある。 慰めよ、
苦しめる友よ。
なんじの患難多きにもかかわらず、
なんじの苦痛強きにもかかわらず、
春はなんじにもまた来りつつある。
#"
1
January
● 月日
聖霊が臨む時
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき…力を受け
ます。(使徒 1:8)
聖霊が臨むとき力を受ける
(使徒 1:8)
。
これは昔から強調されてきたために、聖霊が力の
源であるかのような印象を与えてきた。たしかに、
力はそこにあるものの、聖霊が臨まれるときは、神が
人となり
(ルカ1:35)
、人が新しく生まれ(ヨハネ3:3(ヨハネ16:13)
ことが
6)、すべての真理に導かれる
強調されなければならない。
聖霊は決して栄養ドリンクのように一時的な力をも
たらすものではなく、神様を信じる者すべてに与えら
れている賜物なのである。聖書は、この賜物を絶
えず燃えたたせよ
(Ⅱテモテ1:6,7)
と語っている。
立ち止まって聖霊に心を向け、御霊との歩調を確
かめよう。
##
1
January
● 月日
聖霊は風
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞
くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。
(ヨハネ3:8)
聖霊ということばの原語は「風」
(ヨハネ3:8)
である。
旧約では、
「息」
(創世記 1:2)
とも表現されている。
風を、直接目で見ることはできないが、風の結果を
見て、
その働きを知る。木々のざわめき、
膨らんだヨッ
トの帆…を見て、確かにそこに風のあることに気付
く。聖霊は風として私達のそばを吹き抜け、キリスト
の香りを運ばれる。
あなたは風がもたらす結果を表し、確かに聖霊が
そこにおられることを確信させる役割を担っている。
聖霊によって私達は証人とされ、証人となり続ける
(使徒 1:8)。
この風が吹くところに、
平和と愛がある。
#$
1
January
● 月日
御霊とみ言葉
私たちは…この御声を、自分自身で聞いたのです。
(Ⅱペテロ1:18)
どんなドラマチックな体験も時が経てば記憶が薄
れ、感激は過ぎ去る。もし、キリスト者の信仰が過
去のキリストを偲ぶだけのものであれば、キリスト教
はずっと昔に形骸化していたであろう。神はキリス
トを、時代を越えて今に生かすために二つのものを
クリスチャンに備えられた。
ひとつは御霊
(ヨハネ16:13,14)
であり、
もうひとつは
み言葉である
(ヨハネ17:8)。
使徒ペテロが、山上におけるキリストとの出会いの
感動をいつまでも新鮮に保つことができたのは、み
言葉のゆえであった
(Ⅱペテロ1:18,19)
。
み言葉と御霊の交差した所で主と出会う人は幸
いである。
#%
1
January
● 月日
長老と執事
信仰と聖霊とに満ちたステパノ…を選び、…手を彼
らの上に置いた。(使徒 6:5,6)
長老と執事は教会における職務の二本柱である。
この二つの職務内容の大きな違いは、長老に対
するものが、み言葉と祈りの奉仕で、執事のそれは
教会の実際問題を扱う奉仕にある
(使徒 6:2-4)
。
初期の教会時代から30年を経て書かれたテモテ
第一の手紙 3章 1∼13節に、
このことがかなり具体
的に明示されている。
長老の特徴は、神の選びと霊的な指導性にあ
る
(3:2)。そして、執事は会衆の推薦で選ばれ
(3:10)
、信仰の人でなければならず(3:9)
、未知
の分野への可能性を秘めている
(3:13)
。ピリピ
の教会はたぶん小さな教会であったと思われるが、
そこにも複数の長老、執事達がいた(ピリピ 1:1)
。
規模の大小に関わらず、教会にはこのようなリー
ダーが必要なのである。
今日は、
そのために祈ろう。
#&
1
January
● 月日
シオンへの道
なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあ
り、その心の中にシオンへの大路のある人は。
(詩篇 84:5)
私たちが生きているこの時代が、
どのように進んで行
くのか、それは誰にもわからない。神様があらかじ
め知らせることをしないのは、
大きな恵みなのである。
実は、神の民は心の中にしっかりとした "道 "を持っ
ている。それは間違いなく、"シオン"へ至る道である。
御霊はそれを通して、確実に進むべき所へ導いて
下さる
(ローマ8:14)。そして、その結果として、時
代や環境の変化もまた明らかになっていくのである。
この道を確かめよう
(へブル 10:19,20)
。
#'
1
January
● 月日
にせ預言
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみ
な、神からのものです。(Ⅰヨハネ4:2)
正しい預言と偽りの預言がある。
旧約聖書の中でも特にエレミヤ書からこの事を考
えさせられる。偽りの預言の特徴は、御都合主義
や理想主義であり、
神秘的なことも多い。これに対
して、正しい預言は現実的、実際的で常識的であ
る。
人となったイエスを指し示す霊、生活の現実の中
で生きる神のみ言葉…新約の時代に生きる私達
には、み言葉から離れたところで正しい預言に出
会う事は、
決して無い。
常に正しい預言の霊に導かれよう。
#(
1
January
● 月日
クリスチャンの罪
わたしの民は二つの悪を行なった。(エレミヤ 2:13)
エレミヤ書に書かれてあるユダの罪は非常に単純
なものであった(エレミヤ 2:13)
。湧き水の泉であ
る主を捨て、自分のために水ためを掘った。すな
わち、人生の供給源としての主を信頼しなかった
のである。これは、多くのクリスチャンが陥る罪であ
る。
この罪は、使徒パウロがガラテヤの教会に指摘し
た罪であり
(ガラテヤ 3:1-3)
、
その結果は肉の奴隷
となり、偶像礼拝につながる
(コロサイ3:5)
。ここで
言う偶像礼拝とは、必ずしも宗教的な事のみを意
味しておらず、
主以外のものに大きな価値を置くこと
を指している。
そのようにならないためには、私達が空気の中で生
きるように、主の臨在の中に生きることである
(コロサ
イ2:6,7)。
それが求められている。
#)
1
January
● 月日
力は神にある
力は神にあり、神ひとたびこれをのたまえり、われ
再びこれを聞けり。(詩篇 62:11、文語訳)
上記の聖句は、一世紀前の大伝道者 D.L.ムー
ディがこよなく愛したものと言われている。また、
「あ
なたの口を大きくあけよ、私がそれを満たそう」
(詩篇 81:10)は、孤児の父ジョージ・
ミューラーが
愛した聖句である。
使徒パウロは「しるしと不思議をなす力により、さ
らにまた御霊の力によって、それを成し遂げて下
さいました」
(ローマ15:19)
と語っているが、その信
仰の人の特徴は観念的な瞑想にあるのではなく、
結果によって具体的に神の力を証しするところにあ
る。
力の源は、私達がすでに信じている主を、さらに具
体的に信じていくことにある。
力は神にある。これを信じよう。
$
1
January
● 月日
力から力へ
彼らは、力から力へと進み …。(詩篇 84:7)
クリスチャンが力から力へと進むためには、
まず教会
が天にある栄光に満ちあふれている必要がある。
「私は、高くあげられた王座に座しておられる主
を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがそ
の上に立っていた」
(イザヤ 6:1,2)
と叫び、
「いっさ
いのものを、いっさいのものによって満たす方の
満ちておられるところです」
(エペソ1:23)
と言うこ
とができるか? これが、
神の力の源である。そしてそれが、
クリスチャ
ン個人に流れ、
「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そ
こを泉のわく所とします。」
と叫ぶ。
そして、
「初めの雨もまたそこを祝福でおおいます」
(詩篇 84:6)
と証しするのである。
$!
1
January
● 月日
栄光から栄光へ
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現
れ。(ヘブル 1:3)
主はその栄光を現すために地上に来られ(ヨハネ
17:4)
、
クリスチャンはこの栄光をすでに授かっている
(ヨハネ 17:22)。
これは、
「私たちはみな、…栄光から栄光へと、主
と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは
まさに、御霊なる主の働きによるのです」
(Ⅱコリン
ト3:16-18)
という現実であり、
「あなたがわたしに
下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わ
たしたちが一つであるように、彼らも一つである
ためです。」
(ヨハネ17:22)
という、一致における現
実なのである。
御霊の体験と、
一致の中にこの栄光を見よう。
$"
1
January
● 月日
主の栄光
父よ。 時が来ました。あなたの子があなたの栄光
を現すために、子の栄光を現わしてください。
(ヨハネ17:1)
神の栄光とは、神の本質そのものである
(へブル
1:3)、と同時に、十字架もまた栄光である
(ヨハネ
7:39、17:1)。このみ言葉で "時 "と言われているの
は、もちろん十字架のことである。イエス・キリストが
十字架につくことによって、主の栄光が現わされた
のである。
さらに、私たちが聖霊を受けることは、教会がその
主の栄光の中にあることの証しである
(ヨハネ7:39、
使徒 2:33)。パウロは、
「神はあらかじめ定めた
人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、
義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりま
した」
(ローマ8:30)
と言っている。
主の栄光は、神の本質、十字架、
そして聖霊という
三つの側面を持っている。
$#
1
January
● 月日
信じること
神の全能の力の働きによって・・・・・神のすぐれた
力がどのように偉大なものであるかを、あなたがた
が知ることができますように。(エペソ1:19)
信じる人々には次のようなしるしが伴います。
(マルコ16:17)
信じるとは、二つの実際的な私達の態度のことを
表している。一つはみ言葉にかける姿勢であり、
も
う一つは、
すでに信じているという姿勢である。
この二つは、実は一つのものである。すなわち、す
でに信じていることは、常にみ言葉によって確かめら
れ、新しくされ、具体化されるからである。ただ、残
念なことは、信じることが観念的になり、しかも理想
主義的な自己満足にとどまり、具体的で実際的な
ものに至らないことが多い事である。本当は、信じ
ることによって、み言葉の現実性が明らかになるは
ずであるにも関わらず……
信仰の行動によって隠されている神の力を解放し
よう。
$$
1
January
● 月日
教会のリーダー
神の羊の群れを、牧しなさい。(Ⅰペテロ5:2)
士師記には多くのリーダーが現れるが、ここから真
のリーダー像が浮かび上がってくる。それによると、
神が用いられるリーダーの特徴の第一は、自然に
人々の模範になっている事である
(Ⅰペテロ5:2,3)
。
このような人は、常に人々の一歩先を歩み、何でも
自分が行うのではなく、
多くの人に活動の場を提供
していくのである。
特徴の第二は、柔軟性である
(Ⅰコリント2:15)
。こ
れに優れている人は、自分の意見をしっかりと持っ
てはいるが、
それに固執することはない。そのために、
しばしば主体性が無いかのように見えたりするが、
発想において非常に自由である。
このような特徴は、実は "霊の人 "の特徴でもある。
つまり、
主に安息しきった
(へブル4:10)
生活から、
こ
の様なリーダー性がうまれる。
$%
1
January
● 月日
聖書的人情
彼らは、エルバアル、すなわちギデオンがイスラエ
ルに尽くした善意の全てにふさわしい真実を彼の
家族に尽くさなかった(士師 8:35)。
わがたましいよ主をほめよ。主の良くして下さった
ことを何一つ忘れるな。(詩篇 103:2)
主は恩を忘れる者を憎むと聖書で語っている。旧
約聖書を読んでいると、このことを強く感じる。 忘
恩の罪 とでも呼ぶのがいいかもしれない。
義理人情は日本的美徳と言われているが、これは、
実は聖書的である。どのような国においても通じる、
かなり普遍的な美徳だと考えてよい。
私達の教会は、
スウェーデンからの宣教師によって
始められ、今日に至っている。ルーツになった人達
を忘れてはならない。
聖書的人情を大切にしよう。それは御心にかなっ
ている
$&
2
February
いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。
─ ピリピ4:4 ─
2
February
● 月日
日本に対する預言 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低
くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野
となる。(イザヤ 40:4)
以下は日本について、ある預言者に与えられた言
葉である。神様は確かにこの国を愛しておられる
のだ。
主は、御霊の油をもって日本を訪れる。リバイバ
ルはこの国の山や谷に囲まれた小さな町から始ま
り、しだいに大きな都市へ広がる。こうしてイザヤ
40:3-5の言葉は成就する。
主はすでにこの国を虜にしてきた二つの問題に勝
利した。すなわち
「伝統」
と
「恥」
である。これによっ
て、日本を縛ってきた支配者に勝利した。それゆ
えに、主は二重の祝福をもってこの国の民に臨まれ
る。こうしてイザヤ 40:1-2の言葉は成就する。か
つての貧しい伝道の時代は終わった。この国を
覆っていた恥は聖霊の祝福によって取り除かれ、
悲しみと恥の過去はぬぐい去られる、
エリシャに与え
られた霊の二倍の祝福は
(Ⅱ列王 2:9)
はこの民の
ものとなる。
$(
2
February
● 月日
教会の三つの働き
教会はキリストのからだであり…満ちておられると
ころです。(エペソ1:23)
教会には三つの大きな働きがある。まず、第一は
敬虔の奥義と呼ばれるもので
(Ⅰテモテ3:15,16)
、
キ
リストご自身についての真理である。すなわち、受
肉し、十字架につけられ、そして栄光を受けられて
生きておられる主のことで、教会はこのことを証する
のである。
第二は、使徒・預言者・伝道者・牧師・教師と5つ
の賜物で表現されている
(エペソ4:7-13)
もので、
教会の奉仕の土台となる5重の祝福である。
そして最後は、十字架の真理(エペソ4:20-24)
と
呼ばれるもので、信徒一人一人がそれを生活に適
用して実践するように与えられている聖化の働きで
ある。
この三つの真理(働き)に深く根ざす教会でありた
い。
$)
2
February
● 月日
祈りによる共同作業
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した
のです。(ヨハネ15:16)
祈りは神の基本方針を変えるものではないが
(エペ
ソ1:11)
、神の事業を遂行する上での様々な局面
を変えるものである。
神は祈りによって、神の事業に参加する特権を私
たち一人一人に与えておられる
(ヨハネ15:16)
。も
し私たちが祈らなければ、神は他の人を選んで祈
らせると言われる
(エステル 4:14)
。 もちろん、神は
私たちの祈りや、助けを必要とせずに何でも行うこ
とのできる方であるが、
その大きな愛のゆえに、不器
用で邪魔にさえなるような私たちに祈らせ、その祈り
のペースに合わせて、御自身のみ業を進めるので
ある。
祈りとは、
神との共同作業なのである。
それは私たちの特権である。このすばらしい事業
に目覚めよう。
%
2
February
● 月日
使徒行伝と聖霊行伝
こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住
み、たずねてくる人たちをみな迎えて、大胆に、少
しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イ
エス・キリストのことを伝えた。(使徒 28:30,31)
使徒の働き の主役は 2人の著名な使徒、ペテロ
とパウロである。この書には彼らを中心にして初代
教会がエルサレムからユダヤ、サマリヤそして地の
果てまで、主の宣言
(1:8)
を実現していく様子が記
され、続編があることを思わせるような形で突然終
わっている。
実は、その続編とは、その後 2,000年にわたる教会
の歴史になっているのである。時代は変わり、人も
去っていく。しかしいつも変わらずに活動し続ける
聖霊こそ、
真の主役である。
使徒行伝は、今もなお続いている聖霊行伝なので
ある。
%!
2
February
● 月日
聖霊による識別
その方は真理の御霊です。(ヨハネ14:17)
クリスチャンであるかどうかは、御霊が内住している
ことで識別される。すなわち、
『霊の人』であること
である
(Ⅰコリント2:15)。
このような自覚をもって、さらに御霊に依り頼む生
活を実現するか、あるいはそれを忘れ、自分の考え
で、自分の好みに従って行動するかどうかによって
霊的なクリスチャンであるか、その逆の肉的なクリス
チャンであるかに分かれる。
「御霊を受けている人は、すべてのことをわきま
えますが…」
(Ⅰコリント2:15)
、そして、
「…御霊に
属する人に対するようには話すことができないで、
肉に属する人、キリストにある幼子に対するよう
に話しました」
(Ⅰコリント3:1)
となるのである。
%"
2
February
● 月日
まず恵み、
そして恵み
彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び… 。
(使徒 11:23)
アンテオケ教会の特徴は『恵み』にあった。彼ら
は恵みによって生き、
恵みによって全てを評価した。
恵みとは、状況や人間に左右されることなく神様が
一方的に行われる業であるが、
ゼカリヤによれば聖
霊の働きそのものである
(ゼカリヤ 4:6,7)
。
恵みの御霊は、教会のかしらである主イエスを指し
示している。すなわち、
御霊は主の栄光を証しされ
(ヨハネ16:14、使徒 2:33)
、主イエスを通して常に
信徒の中に働かれるのである
(エペソ2:20-22、
Ⅰペ
テロ2:5)。
まず恵み、
そして恵み
御霊に導かれる教会は幸いである。
%#
2
February
● 月日
教会の賜物 −父なる神−
私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物
を持っている。(ローマ 12:6)
教会に与えられた賜物は、三位一体の神(父なる
神・子なるキリスト
・聖霊)
それぞれの特徴を表してい
る。
父なる神の特徴を示す賜物は、ローマ12:1-10に
示されている神様の資質を表す賜物である。創
造主なる神は、ご自身の資質を反映するものとして
私たちを造られた(創世記 1:27)
。その資質(詩
篇 139:13-16)
は献身を通して用いられる。
ユダヤ人の多くは、父が子供の資質を見抜いて
教育する。聖書に示されている教育方針(箴言
22:6)
を忠実に守って、有名な天才や有能な人材
を世界に輩出してきた。
教会は、信徒が持っている資質を開発し、それ
を奉仕に生かす所でなければならない。お互い
の賜物を認めて、互いを尊重するものでありたい
(ローマ12:10)。
%$
2
February
● 月日
教会の賜物 −イエスキリスト−
私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに
従って恵みを与えられました。(エペソ4:7)
教会には、イエスキリストの特徴で表現される賜物
が与えられている。すなわち、エペソ4:7-13に記さ
れている機能的な賜物である。
教会は、キリストの受肉を通して現されたすべてを
受け継いでいる
(エペソ1:23、コロサイ2:10)
。す
なわち、
キリストの死、葬り、復活そして栄光は、すべ
て教会のものである
(ローマ8:30)
。ここから、
キリス
トのミニストリー(奉仕の領域)は教会のものである
ことがわかる。キリストは使徒(へブル3:1)
、
預言者
(マタイ21:11)
、伝道者(使 10:38)
、牧師(ヨハネ
10:11)、教師(マタイ7:28,29)
であったが、教会も
この 5つの領域に召され、
その領域を完成するため
に賜物が与えられている。これによって教会の働き
が進められて行く
(エペソ4:12,13)
のである。
教会は、
この 5重の使命のもとに運営される。
%%
2
February
● 月日
教会の賜物 −聖霊−
さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私は
あなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただき
たいのです。(コリント12:1)
教会に与えられている第三の賜物は、Ⅰコリント
12:1-31にあるような力の特徴を表しているものであ
る。これは聖霊御自身が直接に特別な形をもっ
て表現される賜物で(12:7)
、ここには 9つのことが
書かれている
(12:8-11)。すなわち、知恵のことば、
知識のことば、信仰、いやし、奇蹟、預言、霊を見
分ける、
異言、
異言の解きあかしである。
御霊は繊細なお方であるから、愛の雰囲気を通し
て、
より力強く御自身を表現される
(エペソ4:30、
Ⅰテ
サロニケ5:19)。また、立派な劇場で行われるコン
サートで感じられるような雰囲気、すなわち少々改
まった気持ちで、しかも華やかで力強い御霊様と
接する態度が必要である。
御霊が喜んで働かれる雰囲気を求めよう。
%&
2
February
● 月日
秋の雨、
春の雨
主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜
わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨
とを降らせてくださるからだ。(ヨエル 2: 23)
パレスチナでは初めの雨は秋に降り、種蒔きが始ま
る。後の雨は春のもので、その時に収穫が始まる。
人々の営みはこのサイクルによって支えられてきた。
神は聖霊の雨を降らせて教会を活性化し、
その営
みを支え、豊かにされる。御霊による明確な動きが、
20世紀初頭にペンテコステ運動として起こり、1960
年代にはカリスマ運動があった。今、新しい御霊
の働き・・・リバイバル・・・が起ころうとしている。
それは一方的な神の主権、神の恵みであるが、人
間の方に飢え渇きのあるところに優先的に臨む。
次のサイクルは、
信徒が主役になるはずである。
待ち望もう。
%'
2
February
● 月日
リバイバルを造ろう
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
(使徒 2:1)
最近、外国から著名な説教者を招いてリバイバル
を待ち望む集会がさかんに行われている。何千人
もの人が会場に入りきれない程集まり、集会も賛美
と主の臨在に満ちあふれ、力強い御霊の働きがあ
る。
そのような集会に出席すると、大会衆による賛美の
迫力や、聖霊様が働かれることに触れることができ
る。それを通して、
「みなが一つ所に集まる」
(使
徒 2:1)
ことの重要性がわかる。
リバイバルは待つだけでなく、
造るものなのである。
集まって主を礼拝しよう。臨在に触れ、リバイバル
を造ろう。
%(
2
February
● 月日
神の恵みを見た
神の恵みを見て喜び…。(使徒 11:23)
バルナバは、
各地に散らされた信徒たちによって設
立されたアンテオケ教会を訪ね、 神の恵み を見
て喜んだ。
そこには、喜びと愛と活気溢れる交わりがあった。
聖霊の臨在が顕著であったに違いない。この教
会は 50万人を擁する教会に成長した。港町アン
テオケのここかしこに、数多くの家の教会が散在し
ていたと思われるが、
彼らはまた広い場所に皆が集
まり、大きな集会を持ち、町全体を影響した(使徒
11:26)
のである。
教会には、
家庭集会とか細胞グループなど呼ばれ
る、多くの小さな集会と共に、一つ所に皆が集まる
大きな集会も重要である。
神の恵みが見える教会を期待しようではないか。
%)
2
February
● 月日
新しい皮袋
新しいぶどう酒は新しい皮袋に。(ルカ 5:38)
1960年代に起こった聖霊刷新運動(カリスマティッ
ク・ムーブメント)はプロテスタントとカトリックの壁を
打ち破ったばかりでなく、あらゆる教派に広く、深く
浸透して行った。この運動の先駆者の一人であ
る、ダビデ・デュープリシス師は、聖霊によるバプテ
スマの働きの一つとして、実と殻をより分ける
(マタイ
3:11,12)
こと、
すなわち感情と聖霊の働きを分けるこ
とを強調された。
異言を語ることは、信仰と理性の両面性を表現し
ている
(コリント
Ⅰ14:15)。それによって、平和で、い
のちの御霊を知る。
御霊は教会と個人の皮袋を新しくし、御霊ご自身
の存在を明らかにしようとしておられる。宗教的霊
性の殻を破って、御霊ご自身に触れようではない
か。
&
2
February
● 月日
平安の家
平安は、その人の上にとどまります。(ルカ 10:6)
教会と宣教の原点は
『家』
である。
初代教会は家から始まった(使徒 1:13,14)
。異
邦人に初めて聖霊の恵みが与えられたのも家であ
り
(使徒 10:2,27,44)
、
ヨーロッパ伝道の基点となっ
たのもやはり家であった(使徒 16:15)
。初代教
会の時代には、人々は大会堂や大礼拝堂に集っ
たのではなく、家々に分かれて集った(使徒 2:46、
ローマ16:5、
コロサイ4:15)。
『家の教会』
の中心は、
その家の家長であり、家族
である。多くの場合、その家族には人をくつろがせ
る賜物が与えられており、その結果として祝福が約
束されている
(ルカ10:6)。
平安がとどまる家、人々がとどまる家がふやされる様
祈る
(ルカ10:6,7)。
&!
2
February
● 月日
人間性の尊厳
わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしは
あなたを愛している。(イザヤ 43:4)
ガンなどで、末期にある人達の最も深刻な問題
は、自分がもはや役に立たない人間であると考えて、
存在価値を失ってしまうところにあるという。人間
性の尊厳に関する問題であり、個人の存在意義
の問題である。
クリスチャン生活の目標は教会の完成にあるが、
同時に教会の目的は個人の解放にある
(エペソ
4:11-13)。教会に埋没する私ではなく、教会を通
して生かされる個性的な私でありたい。それこそが、
逆に教会を生かす道なのである
(Ⅰペテロ1:5)
。
神は私を愛しておられるのである。だからこそ、
『 私』
を大事にし、
隣人を尊重しよう。
&"
2
February
● 月日
リバイバル
わたしは、あなたがたに、…敵のあらゆる力に打ち
勝つ権威を授けた…。(ルカ 10:19)
リバイバルは、神によってもたらされるものであり、神
の主権に属するものであるが、その主権はある意
味で教会に委ねられたものである。したがってその
主権の宣言である
(ルカ10:19)
とも言える。
教会は、祈りを通して救霊にあたり、多くの人の病
を癒し、地域をすでに神に属するものとして宣言し、
そのように行動するのである
(エペソ6:18)
。これが
リバイバルである。
もう一つの大切な要素は、和解である。国と国と
の間で、教会間で、信者お互いの間で、世代間で
偏見と不満と無関心を取り除くことである。
一致こそリバイバルの鍵である。
&#
2
February
● 月日
主の祈り
天にいます私たちの父よ。御名が…。
(マタイ6:9、10)
私たちの神は天におられ
(詩篇 115:3)
、毎日の小
さな出来事をパノラマのように見ておられる。父と
しての愛に満ちておられ、
いつも私たちのことを心配
しておられる方であり
(Ⅰペテロ5:7)
、最も身近な方
である・・・・。そうであるならば、今のこの瞬間に体
験している出来事は、決して偶然で漫然としたもの
であるはずがない。
神がいつも、あなたを愛していること、それゆえに摂
理と計画によって人生の歩みを、ひとつひとつ導い
ておられることを知ると、 父よ、今のこの時の環境
の中で私を導いて下さい と祈るであろう。
祈りは、
このような神との瞬間を継続するようなやりと
りである。その結果、御名があがめられますように
という神の偉大さにふさわしい賛美と、その偉大さ
を多くの人に知って欲しいという願いに至るはずで
ある。
&$
2
February
● 月日
今は恵みの時
確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
(Ⅱ コリント6:2)
今の時代を、世紀末とか、不透明の時とか、混乱
の時代とか…悲観的に捉えて、その思いに捕われ
ていた自分に気付かされた。確かにまわりは暗い
ニュースで満ちている。しかし、神の恵みの時は変
わりなく続いている。
今日も、
明日も…それが神の約束である。その約束
に立てば、希望、夢、
ビジョンをもってチャレンジでき
るはずだという思いが湧きあがってくる。
十字架の恵みは新鮮である
(Ⅱコリント5:21)
。御
霊が時代を支配し、私のそばにおられる
(使徒
2:17,18、
ローマ8:9)。神は力強く、見よ、今は恵
みの時、
今は救いの日 だと
(Ⅱコリント6:2)
語ってい
る。
そうだ、
今は恵みの時なのだ!
&%
2
February
● 月日
御霊のネットワーク
聖徒たちをととのえて奉仕の働きをさせ、キリスト
のからだを建て上げるためであり。(エペソ4:12)
最近ネットワークという言葉がよく使われている。
辞書によると、この言葉は網羅状的な組織を意味
している。
教会の 5つの機能
(使徒、預言者、伝道者、牧師、
教師)
も、奉仕のネットワークと言える。これを働
かすために最も大事なことは、その接点になるリー
ダーである
(エペソ4:16)
。5つの機能を持つ網と、
その接点の組み合わせで、それぞれの奉仕が励ま
され、
生かされる。
『宣教』
のネットワークには、牧会宣教、拡大宣教、
世界宣教と三つの分野がある。この場合、網の
目の中心は教会である。
御霊のネットワークの中で自分の位置を確認しよう。
&&
2
February
● 月日
アンテオケ教会
神の恵み。(使徒 11:23)
シリアのアンテオケ教会は
『地の果て伝道』
の基地
であった。この教会はダイナミックな宣教教会とし
ての、あらゆる条件を備えていた。それをあげてみ
ると、
まず、信徒による伝道が盛んであった(11:21)
こと
であり、恵みがみち溢れていた(11:23)
と言われて
いる。
また、そこにはすぐれたリーダー達がおり
(11:24∼
26、13:1∼4)、聖霊様が豊かに働かれ、教えられ
やすい 教会であった
(11:26)
ことが分かる。
その結果、与える教会(11:29,30)
となり、海外宣
教の基地となった
(13:1-3、
14:26-28)。
このような教会を目指そうではないか。
&'
2
February
● 月日
非凡なる凡人たち
終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
(使徒 2:17)
使徒の働きの中には、パウロをはじめ、ピリポ、ペテ
ロ、バルナバなど有名な人達の活躍が目立ってい
るが、実は名前の知られていない多くの人達によっ
て、
あの働きや教会が支えられ、宣教が進められた
はずである。
あの有名なアンテオケ教会は、名の知られていない
弟子達によって始められた(使徒 11:19-21)
。し
かもパウロやバルナバがその働きを終えて去った後、
その成長を導いたのはやはり 平凡 な彼らであっ
た。ローマの教会も、やはり名も知られていない信
徒達が始めたのである。
聖霊の約束は、これら平凡な人達に対して(使徒
2:17,18)のものであり、昔も今もいわゆる普通の人
達が主役なのである。
&(
2
February
● 月日
神の言葉は生きている
神のことばは生きていて、力があり…。
(へブル 4:12)
ここで言う神の言葉は、完成された十字架のみわ
ざのことである
(へブル 4:10 、ローマ10:6-8)
。この
約束を信じて安息するとき、言葉は生きる
(へブル
4:10,12)。
その結果、み言葉の次元に立って心の内側を客
観的に判別することができるようになる。そして、神
様の言葉によって示された自分のありのままの姿を、
正直に主の前に持ち出すならば、主との生きた触
れ合いを体験できる
(へブル4:13-16)
のである。
主は、私達がいつもその様な神様の次元に生きる
ように祈られた(ヨハネ17:17)。そしてこれは、パウ
ロの切実な祈りであり
(エペソ1:17-23)
、 信仰の
言葉 と呼んだ
(ローマ10:6-8)
のである。
&)
2
February
● 月日
神の声
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して…い
ろいろな方法で語られましたが…この終わりの時
には、御子によって、私たちに語られました。
(へブル 1:1,2)
旧約時代に表された神の声は部分的、断片的で
影のようであった。しかしながら、新約の時代に生
きる我々には、キリストによって神の世界がもたらさ
れた。
もはや部分的な情報でなく、断片的な世界でもな
い。我々はいつも神様の世界に住んで、すべての
情報を吸収し、
全体像を見ることができる。
キリストの十字架によって、肉(感覚世界)
と霊(み
言葉世界)
とは分けられたので、我々は霊を通して
神の声に接する
(ローマ8:5,6,10、
13-16)
ことができ
る。
愛と平和がその声の特徴である
(ヤコブ 3:17)
。
'
2
February
● 月日
礼拝と神の栄光
真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する
時が来ます。(ヨハネ4:23)
エルサレムが滅亡した原因は、神の栄光が彼らか
ら去っていったからであるが、栄光が去っていった
のは民が偶像礼拝へと堕落し、真の礼拝を失っ
たからである。礼拝を通して神の栄光が表される
からである。
失われたイスラエルの礼拝は、新しい神殿の建設
によって回復し、さらにイエス・キリストの十字架に
よってもたらされた御霊時代の到来によって確かな
ものとなった。神の栄光が回復したのである。
我々は今その時代に生きている
(ヨハネ4:24、エペ
ソ1:6,12,14)。
礼拝に生きる教会でありたい。
'!
2
February
● 月日
誓い
神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないこと
をさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証
された。(へブル 6:17)
士師記を読んで強く印象に残ることの一つは「誓
い」
に対する厳しさである。イスラエル人は、誓った
ために同胞の一部族を滅ぼし
(士師 21:5-12)
、
エ
フタは、
ひとり娘を犠牲にした
(士師 11:30-40)
。
昔の日本には、 武士の一言 というものがあって、
やはり誓いは厳しさを持っていた。私たちの、約束
に対する誠実度はどうであろうか。
主イエスは安易な誓いを戒められて、
「一切誓って
はいけない」
(マタイ5:34-37)
と言われた。しかし
ながら、神の言葉は、神御自身が誓われたこと
(へ
ブル6:17)
であり、
十字架によって保証されたもので
(Ⅱコリント1:19-20)
、
これほど重要なものは無い。
'"
2
February
● 月日
恵みは信仰をこえて
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い
のゆえに、価なしに義と認められるのです。
(ローマ 3:24)
恵みとは、人間の努力や常識を超えたところに備え
られた神様の方法のことで、神様の処方箋と言っ
てもよい(ローマ3:21、4:6)。神様は、
イエス・キリス
トの十字架によってそのことを現実のものとされた
のである。
信仰とは、信じることのできない限界を神の真実に
委ねることである
(Ⅱテモテ2:13)
。それは我々のと
るべき態度や心のあり方が含まれているが、そこか
ら先は、神様の一方的な領域、すなわち
「恵み」
な
のである。
信仰を通して恵みに至り、それらが力強く働くように
期待する。
'#
2
February
● 月日
神の国をもたらすもの
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、
力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にい
るもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)
神の国は合法的に、すでに私達のものと約束され
ているが、戦いによって勝ち取り、自分のものとしな
ければならない(エペソ6:10-18)
。その戦いの相
手である悪魔に対抗する武器は、霊的な神の武
具であり
(6:13)
、祈りである
(6:18)
。それによって、
悪魔がもたらす悪しき雰囲気と、不信仰の壁を打
ち破ることができるのである。
主は、このような戦いを「祈りと断食によらなけれ
ば」
(マタイ17:21)
と言われた。断食には、確かに
不信仰の毒素を吸収する効果がある。また、霊
性を敏感にし、束縛された環境を解放する力があ
る。
その様な危機的祈りが必要である。
'$
2
February
● 月日
神の召し
その召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4:1)
神様の召しとは、クリスチャンが天的(霊的)教会
(エペソ2:22)
を建て上げる事への召命である。
そこは天的祝福が約束されている
(1:3)ので、クリ
スチャンがお互いに愛と平和によって調和し、御霊
の一致の中で、
それぞれに与えられている霊の賜物
(4:7)によって、奉仕に導かれ(4:12)
、具体的な
教会運営に参加するようになるのである。
すべての人が召されており、その奉仕を励ます
人が必要である。それが教会のリーダーである
(4:11,16)。
奉仕を励ますリーダーが起こされるように祈ろう。
'%
2
February
● 月日
信仰による行動
イエスは言われた。『それを、ここに持ってきなさ
い』。(マタイ14:18)
あの有名なパンの奇跡は、少年が手に持っていた
2匹の魚と5つのパンを、
「持ってきなさい」と言わ
れた主の言葉に従った時に起こった
(マタイ14:16-21)。
ひどい病気で苦しんでいる息子を持って絶望して
いた父もやはり、
「その子をわたしのところへ連れ
て来なさい」
という声に従って救われた
(マルコ9:19-24)。
すべての重荷は、そのようにして・・・・キリストのもと
へ持っていって・・・・・解決するのである
(マタイ11:28)。
信仰は努力することではなく、
主ご自身を信頼するこ
とを意味している。
'&
3
March
鳥のことを考えてみなさい。蒔きもせず、
刈り入れもせず、
納屋も倉もありません。
けれども、
神が彼らを養っていてくださいます。
あなたがたは、
鳥よりも、
はるかにすぐれたものです。
─ ルカ12:24 ─
3
March
● 月日
開かれた門
わたしは、だれも閉じることのできない門を、あな
たの前に開いておいた。 (黙示 3:8)
お隣の国、中国では 1949年に共産党政権が樹
立され、
そこで活躍していた多くの宣教師は退去さ
せられた。あの時に、宣教の門戸が閉ざされたが、
多数の宣教師が日本に転進することになり、
日本に
対する宣教活動は大きく前進した。
我々の教会も、そのような宣教師たちによって生み
出された。開拓の初期に働かれた先生の多くは
すでに老齢に達して帰国され、すでに天に召され
た方も多い。日本や中国を愛して、いつもその動
向を心配しながら祈っておられる姿は印象的であ
る。
日本では、いまなお大きく開かれている宣教の門戸
を覚えて、
その使命を新たにしたいものである。
'(
3
March
● 月日
真理の家、
信仰の力
私は福音を恥とは思いません。 福音は、ユダヤ人
をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとっ
て、救いを得させる神の力です。(ローマ 1:16)
信仰の力とは、
頑張って信じる力ではなく、
信じる者
に働く神の力である。その結果は救いであり
(ロー
マ 1:16)
、救いとはいのちと敬虔に関するものと言わ
れている
(Ⅱペテロ1:3,4)。
神の偉大な力は十字架のプロセスの中に働き、つ
いにキリストをすべての権威に引き上げ(エペソ
1:20,21)、また人々の中に働いてキリストと共に復
活させ、キリストと同じ立場に引き上げた(エペソ
2:5,6)。今その人はキリストと結ばれて天にあり、す
べての霊的祝福の中にある
(エペソ11:3、1:23、
2:6)。
クリスチャンよ、
このことに目が開かれよ!
パウロは、
そう祈っている
(エペソ1:17,18)
。
')
3
March
● 月日
祈りによる伝道
まず第一に…、すべての人のために…祈り、とりな
しと感謝を…。(Ⅱ テモテ 2:1)
祈りによる伝道とは、アルゼンチンのリバイバルの底
流となった宣教哲学である。
まず祈りの目標を宣教に置く。そして、救いはすべ
ての人のものであることを信じ
(Ⅰテモテ2:4-6)
、地
域社会のリーダー達のために祈る
(2:1)
。同時に
地域の家々を訪ね、人々の必要のために祈るので
ある。この場合大切なことは、人々に救いの必要
を語るのではなく、人々の必要を知ってそのために
祈るのである。その結果、多くの人は福音に心を
開き、祈りの力がイエスの御名によって現された
(ヨ
ハネ14:13,14)。
イエスの名は、十字架による御業の証明であり
(使
徒 3:15,16)
、主御自身の臨在が約束されている
(マタイ18:20)。リバイバルには、そうした実践的
祈りが必要である。
(
3
March
● 月日
ギルガル
イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、そ
の月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越
のいけにえをささげた。(ヨシュア 5:10)
ギルガルとは、ころがす という意味で、カナンの地
に入った新しい世代が割礼を受けて、苦しみのた
めにころがった場所である
(ヨシュア5:8,9)
。
割礼は神のものとされた聖別の証しであるが、肉
体の手術だけではなく、心の手術を意味している
(申命 30:6)。その結果、神の民が神を愛し
(申
命 30:6)
、律法を行うことができるのである
(エゼキ
エル 36:26,27、ローマ8:4)
。ギルガルは古き人を
脱ぎ捨て、新しい人を着て行動を開始する場所で
ある
(コロサイ2:11,3:9-12)
。また、マナの止んだ
所(ヨシュア5:12)
であり、超自然的要素のみに頼
る信仰から、すでに与えられている供給源を信じて、
自立的に成長した信仰に脱皮する場所である。
これはクリスチャン生活の原点を表している。
(!
3
March
● 月日
クリスチャンに必要な場所
エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打っ
た。 すると、水は両側に分かれた。 それでふたり
はかわいた土の上を渡った。(Ⅱ列王記 2:8)
エリヤ、
エリシャの旅程を通して
(Ⅱ列王 2:1-15)
、
ク
リスチャン生活に必要な4つの場所を考えよう。
第一はギルガル
(2:1)
であり、超自然の奇跡から、
み言葉による信仰によって自立する所。第二はベ
テル
(2:2,3)
で、
ヤコブが神と出会った場所である。
これは、私たちが十字架の声を聞いて、献身する
所であり、第三はエリコ
(2:4,5)である。ここは戦
いの場所で、
安息ゆえに本格的な霊の戦いがある
(ヨシュア6章)
ことを意味している。そして、第四
がヨルダン(2:6-14)川で、祝福の場所である。こ
こは、
荒野と安息の地を分けた場所である。
ヨルダン川は、私たちが聖霊のバプテスマを受け
る場所である。これを求めよう
(使徒 2:33、ヨハネ
7:37-39)。
("
3
March
● 月日
啓示の聖霊
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、
私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
(ローマ 8:16)
御霊の個人における中心的な働きは、力ではな
く啓示である。主イエスを通して働いた御霊の
力あるわざは、人々にご自身を示し、啓示に導くた
めであった(ヨハネ6:26-35,63)
。 主が御 霊に
期待されたものもそのことであった(ヨハネ14:26、
16:13,14)。
さて、私たちがクリスチャンであるという自覚は啓示
による
(ローマ8:15,16)。聖化の確信(ガラテヤ
2:20、ローマ8:2)、天的領域の感覚(エペソ1:3、
へブル 4:10)
もすべて啓示の結果である。
視覚、感覚、知覚があるように確かに霊覚と言える
啓示の次元がある
(Ⅰコリント2:14,15)
。そこに生き
るものは祝福があり
(エペソ1:3、ヤコブ 1:17,18)
、
安息があり
(へブル 4:10、
ローマ8:6)
、創造性、主
体性がある
(Ⅰコリント2:15、
Ⅰヨハネ2:27)
。また戦
いがある
(エペソ6:12)。
(#
3
March
● 月日
割礼
ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受
けていなかったので、彼らに割礼を施した。
(ヨシュア 5:7)
新しいイスラエルの世代は、ギルガルにおいて割礼
を受けた(ヨシュア5:7)。こうしてエジプト以来の
負債が除かれた
(5:9)
のである。なぜなら、彼らは
紅海を渡ってエジプトから離れたが、
心の中のエジ
プト、すなわち世俗性との戦いのために 40年の荒
野の生活を要した(申命 8:2,3)
。彼らはヨルダン
川を渡り、内なるエジプトと決別した。その証しが
割礼であった。
真の割 礼はキリストにおいて実 現する
(コロサ
イ2:11)が、それはクリスチャンの古き人との葛藤
(ローマ7:24)を経て、十字架によって導かれるの
である
(ガラテヤ 5:16)。
キリストと共に死に、
よみがえり
(ガラテヤ 2:20)
、内な
るエジプトと荒野から自由になって、乳と蜜の流れ
る地、御霊の領域(ローマ8:6)に生きる真の割礼
者となろう。
($
3
March
● 月日
牧会から拡大、
そして海外へ
こうして神のことばは、ますます広まって行き…。
(使徒 6:7)
このみ言葉は、成長する、生み出す、与える という
私達の教会理念の表現として与えられた言葉で
あるが、その原型はエルサレム教会に見ることが出
来る。
彼らの教会活動の原点は、
まずみ言葉、
交わり、
祈
り、
礼拝であった
(使徒 2:47)
。これを
「牧会宣教」
と呼ぼう。そうすると、教会が発展してアンテオケ教
会の誕生に至ったプロセスは「拡大宣教」
と言える
(11:19-23)。そしてさらに、アンテオケ教会から他
の教会へ発展したことは(13:1-4)
、いわゆる「海
外宣教」
そのものである。
この 3つの宣教は同時進行で行わねばならないが、
その基本は牧会宣教である。「牧会」は「宣教」
とは異なるもののように思われてきたが、宣教の原
点はみ言葉や礼拝にあり、牧会そのものなのであ
る。この原点をしっかり確認しなければならない。
(%
3
March
● 月日
まず聖霊、
そして聖霊
その方は真理の御霊です。(ヨハネ14:17)
クリスチャンであるかどうかは、聖霊様が内住してい
るかどうかによって区別される。
聖書はこのようなクリスチャンを、霊の人と呼んで、
そ
れがクリスチャンのアイデンティティになっている
(Ⅰコリ
ント2:15)
と言っている。クリスチャンは、聖霊によっ
て生まれるからである。
このような自覚をもって、
さらにますます御霊に依り頼
んだ生活をするか、それともそれを忘れて行動する
か…それによって、霊のクリスチャンか、肉のクリス
チャンかに分かれる
(Ⅰコリント2:15、
3:1)。
まず聖霊によってはじまり、
さらに聖霊によって…
(&
3
March
● 月日
主の前に
ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。
(Ⅱサムエル 7:18)
Ⅱサムエル記のキーワードは、
「主の前に座す」
であ
り、ダビデの生涯を特徴づける言葉である。ダビ
デは、主の前にありのままをさらけ出して生きた。そ
して、使徒パウロもまた、同じように生きた(Ⅱコリント
12:9-10)。
彼は、主の前にありのままの生活を送る人のことを、
『土の器』
と呼んでいる
(Ⅱコリント4:7)
。このよう
な人に共通な点は、漠然とした一般論で祈らずに、
具体的な個人的なことで祈る。事業家の見本と
されるネヘミヤの祈りもやはり非常に個人的であっ
た
(ネヘミヤ 5:19,13-14,22,31)
主の前では、個人的な問題を祈り、裸になれる幼
子のような姿に力の秘密がある
(マタイ11:25,26)
。
('
3
March
● 月日
片手に鍬、
片手に槍
城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶものたちは、
片手で仕事をし、片手で投げ槍を堅く握っていた。
(ネヘミヤ 4:17)
非常に実際的な働きをしながら、もう一方ではそれ
とは相反するかのような霊の戦いをする…これは、
教会の働きの特徴そのものである。
教会では様々な働きを進める上で、いつも生みの
苦しみがあり
(ガラテヤ 4:19)
、悪霊による攻撃を受
ける
(エペソ6:12)。その戦いは、
非常に霊的であり、
これを理解できない人にとっては抽象的と思えるか
もしれないが、非常に現実的なものである。教会
の働きを進めるためには、
そのような戦いを認識しな
がら、しかもこの世のあらゆる知恵を働かして神の
事業に当たらなければならない。
このことは、教会建設を始めとする、様々な教会の
プログラムを進める上で非常に大切なことである。
((
3
March
● 月日
イエス・キリストを着る
キリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリス
トをその身に着たのです。(ガラテヤ 3:27)
サムエル記や列王記を読んで感じることのひとつは、
どのように偉大な、"神の人 "と呼ばれるような人でも、
神様の恵みから離れると、その弱点を悪魔に突か
れて敗北する可能性があるということである。
ダビデや
(Ⅱサムエル 11:2)
、ソロモン
(Ⅰ列王 11:4)
がそうであり、カルメル山で、かの有名な大勝利を
納めたエリヤも、大事業の後に恵みを失い、失望
のどん底に追いやられた
(Ⅰ列王 19:3)
。
このような落とし穴に落ちないためには、
「主イエ
ス・キリストを着なさい。肉の欲の為に心を用い
てはいけません」
(ローマ13:14)
というみ言葉に従
うしかない。これが悪魔に対する対抗手段として
最良の武器である。
()
3
March
● 月日
クリスチャンの積極的思考
いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべ
ての事について感謝しなさい。
(Ⅰテサロニケ 5:16∼18)
いろいろな物事に対して積極的に対処する、いわ
ゆる 積極的思考 は、クリスチャンにとっても重要
なことであるが、ただ単に物事を無理矢理に楽観
的に考えたり、思い込んだりすることであれば、なに
も役立たない。
実は、クリスチャンは「すでに愛している」
とか「すで
に祈っている」と言えるような世界に生きているので
あって、クリスチャンはそのような積極的思考ができ
る。私たちは、人間性本来の感情の起伏に支配
されやすいところにも生きているので、ある種の選択
が迫られている。それがクリスチャンに課せられた
信仰の挑戦である。
どんなときにも
「愛している」、
「祈っている」
自分を発
見していたいものである
(使徒 9:11)
。
)
3
March
● 月日
からだ意識
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分
がその力量にふさわしく働く力により、…しっかり
と組み合わされ…愛のうちに建てられるのです。
(エペソ4:16)
クリスチャンの「からだ意識」
を考えるとき、その中心
はキリストであることを忘れてはならない。それは、
単
なるお互いのつながりの事だけを言っているのでは
ないからである。
健全な
「からだ意識」
を持つためには、
絶えず御霊
によって内なる人が刺激され、意識的にキリストを
認め、教会の目標が愛であることを覚え、行動的な
信仰を訓練しなければならない
(エペソ3:16-19)
。
外に向かって働くダイナミックな「からだ意識」を
持った教会を目指そう。
)!
3
March
● 月日
教会の機能と奉仕の領域
キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、
ある人を伝道者、ある人を牧師または教師として、
お立てになったのです。(エペソ4:11)
このみ言葉は教会の 5つの機能を表しているが、
奉仕に関する5つの領域とも考えることができる。こ
れらは、主イエスご自身の生涯に見られるものであ
る。
すなわち主は偉大な使徒(へブル3:1)
、預言者
(ルカ 24:19)
、伝道者(使徒 10:38)
、牧師(ヨハ
ネ10:11)
、教師(ルカ4:22)であられた。さらに主
は栄光を受けられた後、このような機能を御自身
のからだである教会に賜物
(ドリア)
として与えられた
(エペソ4:7,8)
のである。
このような奉仕の領域の中で、それぞれが自分のト
ポス
(場)
を見い出し、それを確かなものとすることが
クリスチャンにとっての課題なのである。
(エペソ
4:12)。
)"
3
March
● 月日
みことばによる革命
みことばの声を聞き、みことばを行う勇士たちよ。
主をほめたたえよ。(詩篇 103:20,21)
アメリカとソ連を軸とした冷戦構造が崩壊した時、
本格的な平和が訪れることを、世界中の多くの人
が期待した。
しかしながら、
それは見事に裏切られ、世界はますま
す混迷の度を深めているように見える。この様な
時に、静まってみ言葉を開くと、光を放ち、輝いてい
ることを発見する。これはやはり神の言葉なのだ 。
これ以外に確かなものはない…。
み言葉に密着し、
み言葉によって生活をしよう。
これ以外に私の人生はないのだ! )#
3
March
● 月日
預言と教会
愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言
することを熱心に求めなさい。(Ⅰコリント14:1)
現代の教会にとって、預言の賜物の回復こそ最も
大切なことである。
アンテオケ教会における世界宣教へのきっかけは
預言であった(使徒 13:1-4)
。また、大ききんが起
こった時の救援運動のきっかけがそうであったよう
に(使徒 11:27-30)
、預言の賜物が豊かに用いら
れるためのコンタクトポイントは愛である。アンテオケ
教会の預言者達は主を愛し、教会を愛し、世界を
愛していた。その結果として、御霊の語りかけを聞
くことが出来たのである。
私達も愛することを通して、自分が住んでいる町に
ついて、所属する教会について、隣人について、御
霊の声を聞くはずである。
)$
3
March
● 月日
主を待ち望む
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求める
たましいに。主の救いを黙って待つのは良い。
(哀歌 3:25∼26)
誰にも理解してもらえない逆境の中でしか知り得な
い主の恵みがある。
ただ、
「ひとり黙ってすわっているがよい。口を
ちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」
(哀歌 3:28-29)」というような時を過ごしていても、
主はいつも見放してはおられない。たとい悩みを
受けても、主は、
その豊かな恵みによって、あわれん
でくださる。
み言葉によって主を待ち望む人は幸いである
(詩
篇 119:147-148)。み言葉は私達に御国を継が
せることができ
(使徒 20:32)
、
天的領域に引き上げ、
絶えずすべての霊的祝福をもって新しくしてくれる
のである
(エペソ1:3)
)%
3
March
● 月日
選び
その日。 主はアブラムと契約を結んで仰せられた。
わたしはあなたの子孫に、この地を与える。
(創世記 15:18)
イスラエルはアラブ圏の真中に打ち込まれたくさび
であり、あたかも喉にささったとげのようなものである。
アラブの大義とはイスラエルと対決することであり、
ア
ラブ諸国の理念そのものである。アラブとイスラエ
ルの戦いは遺伝的なものであり、そのルーツは遠く
サラとハガルの関係に根ざしている
(創世記 16:1-
12)。
ただ、両者の関係がたとえどのようになろうと、
イスラ
エルについての神の選びは変わることがない。そ
の選びは、
アブラハムの時代からパレスチナの土地
と結びついて語られている
(創世記 13:15、イザヤ
41:8,9)。
神は私達を『神の国の相続人』
として選び、その
保証として御霊を与えられた
(エペソ1:14)
。私達
に対する選びもまた、
確かで変わることがない。
)&
3
March
● 月日
神−歴史−王
王の心は主の手の中にあって、水の流れようだ。
みこころのままに向きをかえられる。(箴言 21:1) 世界を動かすリーダー達の行動のすべては神の
計画の中にある。聖霊は彼らについて預言し、歴
史がそれを証明している。かつて繁栄を謳歌した
バビロンのネブカデネザル(エレミヤ 25:9)や、ペル
シヤの王クロスも
(イザヤ 44:28、45:1)
そうであった。
また、イエス様がベツレヘムで生まれるための環境
を作ることになった、ローマ皇帝の人口調査も決し
て偶然ではなかった
(ルカ2:1)
。
もちろん現代でも同じである。混迷しきった中国を
統一した毛沢東もやはり神の計画の中にあった。
彼がいなければ、今でも中国の主な交通機関は
整備されなかったと言われている。道路網を全国
に作る仕事が終った時、その生涯を閉じたのであ
る。
歴史の中に働かれる我らの神は偉大である。
)'
3
March
● 月日
世界の光
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は
隠れる事ができません。(マタイ5:14)
たとえ明るいニュースが無くて、どんなに社会が暗く
見えたとしても、決して沈んではならない。暗闇でこ
そ光は輝きを増すのである。キリスト者は「世界の
光」
として、暗いこの世に輝く存在なのである。クリ
スチャンの光である内住の御霊による次のような三
つの証しを確かめよう。
まず、思いをこえた神の平安があり
(ピリピ 4:7、ヨハ
ネ14:27、ローマ8:6)
、霊のチャンネル(異言)で
祈っており
(Ⅰコリント14:2,15)
、さらにクリスチャンの
価値観で生活している
(ローマ8:14-16)
。
私達に与えられているいのちの光(ヨハネ8:12)
を、
より鮮明にしよう。
)(
3
March
● 月日
すべての祝福
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエ
スによって異邦人に及ぶためであり…。
(ガラテヤ 3:14)
神は恵みそのものである。神は常に、
しかも一方的
に私たちに祝福を与えたいと願っておられる。アブ
ラハムの生涯を見れば、
そのことがよくわかる。
まず神はアブラハムを信仰によって義とされ、良心
の自由を与えられ(創世記 15:6)
、次にイサクを与
えて彼の信仰に報われた
(創世記 21:5)
。さらに、
生涯で最も大きな試練においてイサクを献げる信
仰を与えられ
(創世記 22:10)
、あらゆる面でアブラ
ハムを祝福された(創世記 24:1)
。その祝福の源
は信仰であり内住の御霊である。
クリスチャンはこの特権に生きている。希望を持とう
ではないか
(ローマ5:5)。
))
3
March
● 月日
究極の恵み
だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲み
なさい。(ヨハネ7:37)
アブラハムが神から受けた祝福の集大成は聖霊
であり
(ガラテヤ 3:14)
、主が我々に与えられた最
大の保証もまた聖霊であった
(ヨハネ14:16,17、使
徒 1:5,8)。
主が十字架につかれる前に、弟子や群衆に切々
と語られたあのメッセージは聖霊についてであった
(ヨハネ7:37-39)。神様のこのような働きを、 究
極の恵み と呼ぼう。
聖霊こそが、
宣教の原動力である
(使徒 1:8)
。
聖霊がどれほど大切かを深く考え、求めようではな
いか。
!
3
March
● 月日
十字架と三種類の人
キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪
と死の原理から、あなたを解放したからです。
(ローマ 8:2)
十字架とは、そこにおいて私達がキリストと一つにな
るという真理であり、それによって、罪と死の原理か
ら解放される
(ローマ8:1,2)。このような経験は、キ
リストの内にあるときに達成され(Ⅰコリント1:30)
、こ
れを現実のものとして下さったのは御霊である
(Ⅰコ
リント2:10)。
クリスチャンは、生まれながらの人(Ⅰコリント2:14)
、
御霊に属する人(2:15)
、肉に属する人(3:1)
と3
種類の人に分類される。そして、
その人達がどのよ
うな食物を食べているかによって、属しているところ
が判るのである。同じ霊の食物であっても、幼児
に適したものと成人向けのものもある
(3:2)
。
霊の人とは自分で直接聖書から栄養を摂ることが
できる人達のことである。
! !
3
March
● 月日
御霊の三つの現れ
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもで
す。(ローマ 8:14)
新生は、御霊の第一の現れであって、内住してお
られる御霊を明確にしている。新生によって、私
達は神の国を見るのである
(ヨハネ3:3、ローマ
8:15,16)。
また、
異言
(霊の言葉)
は、
聖霊の第二の現れであ
り、これは聖霊のバプテスマを明らかにしている。こ
れによって、クリスチャン個人の生活の中に聖霊の
主導権が確立される
(ヨハネ7:38、
Ⅰコリント14:2)
。
そして、この御霊の現れを通して様々な賜物が教
会に与えられる
(Ⅰコリント12:7)
。御霊の第三の現
れは、聖霊の実である。これは、聖化に深く関係し
たことである
(ガラテヤ 5:22,23)
。
御霊は十字架の原理によって古き人から切り離し、
キリストのいのちを実感させて下さる
(ローマ 8:11)
。
! "
3
March
● 月日
知恵、
知識、
愛
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえま
す。(Iコリント2:15)
知恵と知識、
そして愛はコリント人への第一の手紙
における重要なテーマである。
神の知恵が十字架に現され
(Ⅰコリント1:24,30)
、
そ
れが御霊の啓示によって私達の体験や知識とな
る
(2:10)。これは、まず神について
(8:4-6)
、偶像
について
(10:19,20)
、さらに生活について
(10:15-
27)具体的に教えてくれる。知識は良心に自由を
もたらす
(10:25,26)
が、気ままな自由ではなく、愛の
ゆえに制御されたものとなる
(8:9)
のである。
パウロはこの愛による自由の中に生きていた(8:9)
。
教会に与えられる霊の賜物もやはり愛によって制
御されるべきであり
(12:7、14:1)
、それは各種の集
会の中に表されるのである
(14:26)
。知恵、知
識、愛を調和させる。それが霊の人の特徴である
(2:15)。
! #
3
March
● 月日
自由と選択
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放し
てくださいました。(ガラテヤ 5:1)
ガラテヤ人への手紙の主題は「自由」である
(5:1)
が、それは罪の欲望にとらわれない自由(5:16)の
ことであり、律法の束縛からの自由(2:19-21)
、さ
らに、この世に対する自由(6:14)を意味している。
別の言い方をすれば、意志の自由のことであり、選
択し実行できる自由なのである。したがって、選択
の基準が曖昧であれば罪を選ぶことも可能になる。
そのような自由が聖書のテーマなのである。
この自由を、愛することに
(5:13)
、
また御霊に委ねる
ことに(5:16,25)用いるように勧められている。御
霊は私達の主体性を尊重しておられるので、私達
の選択の責任は大きいと考えなければならない。
肉の実か
(5:19-21)
、御霊の実か
(5:22)
、
どちらを
選ぶかは、
あなたが決める。
! $
3
March
● 月日
座す、
歩く、
立つ
神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福
をもって祝福してくださいました。(エペソ1:3)
エペソ人への手紙を読む度に、ウオッチマン・ニー
師の名著[キリスト者の行程」
を思い出す。エペソ
書全体を上記の 3つの動詞で見事に分析し、要
点をまとめている。
すなわち、クリスチャン生活とはまず座ること
(Sit、安
息)
から始まり
(2:6)
、歩むこと
(Walk、行動)
(4:1、
5:2、5:15)
そして悪魔に立ち向かう
(Stand、立ち上
がる)
(6:11)
、
というのである。
まず、原点に立って、信仰の原則である安息を確
かめよう
(へブル 4:10)。
キリストにあり、天にある立場を確認しよう
(エペソ
1:3)。
! %
3
March
● 月日
復活の力
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリスト
の苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同
じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活
に達したいのです。(ピリピ 3:10,11)
軟禁状況にあった使徒パウロが、活動したくてもで
きないというジレンマを克服し、自分のおかれてい
た困難な状況を積極的に受けとめ、それを生きる
力に変えることができたのは(ピリピ 1:12,18、4:4)
、
キリストの復活の力と一つになることができたから
(3:10,11)
である。
逆境から逃げるのではなく、かえってその状況を受
け入れ、
しかもそのど真ん中に主を見い出した。
すべてを主に委ねる信仰を持つ人に、主イエスを
死人のうちからよみがえらせて下さった同じ力が働
くのである
(Ⅱコリント1:9、
エペソ1:19、
ローマ8:11)
。
! &
3
March
● 月日
キリストと私
キリストにあって、満ち満ちている。(コロサイ2:10)
コロサイ人への手紙の主題は、
「キリストがすべて」、
あるいは「キリストにあってすべて」という言葉で表
現できよう。その内容は次の三つに要約できる。
まず、私は、
キリストの割礼…十字架のメス…によっ
て、
新しく生まれ変わり、
切り離された
(ローマ6:6,7)
ということであり、次は、切り離された古き人は、キリ
ストとともに墓の中に葬られ、私の罪の精算は済ん
でしまった。そして、第三点目は、キリストと共に復
活している
(コロサイ2:12)事である。
律法の負債から自由にされ(コロサイ2:14)
、キリス
トにある勝利者となった
(コロサイ2:15)
。
罪と律法を通して、
私を支配していたサタンが敗北
したためである。
! '
3
March
● 月日
福音のゴール
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝え
たのは、私も受けたこと…。(Iコリント15:3)
福音の中心は、キリストの死と葬りと復活の体験が
そのままクリスチャンの体験となり得るところにある
(Ⅰ
コリント15:1-4)
が、福音のゴールは復活と言ってよ
い
(Ⅰコリント15:51,52)。
クリスチャンは、最終的に「私たちはみなが眠って
しまうのでなく、みな変えられ」
(Ⅰコリント15:51)
、
主とおなじ栄光の姿になるのである。「終わりの
ラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに」
(52)
そう
なると約束されている。これが、クリスチャンに与え
られている約束である。
使徒パウロの最後の祈り、
『マラナ・タ』…主よ来て
下さい…が、
よく理解できる。
! (
4
April
教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。
─ エペソ1:23 ─
4
April
● 月日
初穂
しかし、今やキリストは、眠ったものの初穂として死
者の中からよみがえられました。(Iコリント15:20)
イエスキリストは、初穂として死人のうちより復活され
たが、この初穂とはいのちの保証であり、それが現
実であることの見本である。すなわち、キリストを信
じる者が持っている永遠のいのちは、新生によって
すでに与えられているが(Ⅰヨハネ5:11)
、その保証
はキリストのよみがえりにある。
このいのちこそが、
キリストの再臨の時に、
私達をキリ
ストと同じ復活体によみがえらせる
(ピリピ 3:21)の
であり、
キリストの復活はその見本のようなものである
(ルカ24:39)。
キリストの復活は、死の影に覆われた人類に対し
て約束されている輝かしい希望のメッセージなの
である。
!!
4
April
● 月日
不在の臨在
世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなた
がたはわたしを見ます。(ヨハネ14:19)
復活後 40日もの間、主に接した弟子達は、どんな
に幸いであったろうか(使徒 1:3)
。あの時彼らは
主イエスの三つの姿に触れた。すなわち、肉体の
主 、 復活体の主 、そして昇天後の 霊の主 で
ある。
今日の私達はこのうち 霊の主 にしか接すること
ができないが、だからといって恵みが少なくなるわけ
ではない。霊の主との交わりによって主の真の姿
に触れることができるのである
(Ⅱコリント3:6,16,17)
。
ペテロはイエスの肉声を聞いたが、それにまさって
聖書のことばはより確実であると証言している
(Ⅱペ
テロ1:18,19)。
主はもはやこの地上におられないが、
主が彼らの前
から見えなくなった時、彼らは主の臨在をリアルに
体験したのである
(ヨハネ14:19,20)
。
!!!
4
April
● 月日
三つの証言
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがた
は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサ
マリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証
人となります。(使徒 1:8)
このみ言葉によると、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、
そして地の果てと三つの宣教のステージがある。
私達の教会では 成長する、生み出す、与える と
いう言葉を使っている。教会の内部成長を「エル
サレム伝道」、教会を生み出す働きを
「ユダヤ、サ
マリヤ伝道」、
そして海外宣教のために与える働きを
「地の果て伝道」と位置づけ、これらをしばしば牧
会宣教、
拡大宣教、
海外宣教と呼んでいる。
この中で、
教会の最も基本となる、
「エルサレム伝道
(牧会宣教)」が祝されるよう祈ろう。そのために
は、エルサレム教会が祝福された(使徒 2:47)要
因を思い出そう。その一つは「宮に集って使徒達
の教えを聞いた」ことであり、他の一つは「家々で
交わった」
(使徒 2:42,46)
ことである。
!!"
4
April
● 月日
三つの宣教
イエスは苦しみを受けたのち、四十日の間、彼らに
現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証
拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに
示された。(使徒 1:3)
イエス様の復活された後、弟子達と過ごされた 40
日の主な話題は 神の国 であった(使徒 1:3)
。
この神の国の現実は、聖霊のバプテスマによって
教会にもたらされ(使徒 1:5、 8)
、その結果、教会
に 一致 が与えられた。彼らは礼拝を(宮で)共
にし
(使徒 2:46)
、礼拝におけるメッセージを共有
し
(使徒 2:42)
、家々での交わりで心を一つにした
(使徒 2:46)。
この三つは牧会宣教の基本であり、
これを通してク
リスチャンはアンテオケに散らされた(使徒 11:19)
のである。そしてさらに他の教会を生み出していく
拡大宣教に至り、またアンテオケからさらに地の果
てへ、
すなわち海外宣教にまで発展した。
教会には常に三つの宣教へのチャレンジがある。
!!#
4
April
● 月日
この土の器に
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているので
す。(Ⅱコリント4:7)
キリストがあなたの日々の生活の中で現実の方とな
るためには、
あなたは土の器でなければならない。
土の器であるためには、
くつろいで主と向き合うこと
が重要である
(Ⅱコリント3:17)
。土の器になる努力
をする必要はない。毎日の生活の中で普段着の
ままで主に信頼するのである。
その姿勢が祈りの生活であり、
御霊と親密に過ごし
ていることになっているのである。
落ち着いた威厳のある生活がそこにある
(Ⅰテモテ2:2)。
!!$
4
April
● 月日
イースターありがとう
キリストは死者の中から復活された…。
(Ⅰコリント15:12)
イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを証
明する第一のことは、その出来事に対する弟子達
の反応にある。すなわち、彼らの誰もが疑い、困惑
した。この状況は非常に自然であり、復活の記録
が事実であったことの強力な証拠である。証明
の第二は、信じる者の心に起こる新生の事実であ
る。クリスチャンにとってイエス・キリストは生きておら
れるか否かを改めて問いかけるような問題ではな
い。イエス・キリストは確かに生きておられるのである。
復活された主は、
ごく普通の人であり、
しかもそれを
越える存在であった。イエスキリストは、決して遠い
ところにおられる方ではなく、とても身近におられる
方である。
「イースターありがとう」
と言ってみると、
そこから感動
が沸き上がってくる。
!!%
4
April
● 月日
燃やされる
そこでふたりは話し合った。『道々お話しになって
いる間も』、聖書を説明して下さった間も、私たちの
心は内に燃えていたではないか。(ルカ 24:32)
弟子達が復活の主と親しく交わったことや、それに
続くあのペンテコステの経験によって、彼らはどんな
に心が燃やされ、
すばらしい日々を送ったことであろ
うか(ルカ24:32)。それから数十年経って教会が
安定期に入った頃には、
クリスチャンは燃やされるこ
とを期待するよりも、自ら燃えることを求められるように
なっていった
(Ⅱテモテ1:6,7)
。
今日の私達にも同じものが求められている。クリ
スチャンはすでに御霊に満たされており
(エペソ
5:18)、み言葉に触れている
(コロサイ3:16)
。した
がって、
燃えることができるのである。
ただ信仰によって…これが秘訣である
(Ⅱコリント4:18)。
!!&
4
April
● 月日
復活の重要性
どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、
と言っている人がいるのですか」。
(Ⅱ コリント15:12)
もしキリストがよみがえらなかったならば…、
・死者の復活はない
(Ⅰコリント15:13)
・信仰も宣教も意味がない
(Ⅰコリント15:14)
・罪の解決はない
(Ⅰコリント15:17)
・命の実感はない
(ローマ6:4)
・聖霊の働きはない
(使徒 2:32,33)
・奇跡は起こらない
(マルコ16:17)
と聖書に書かれている。しかしながら、
これらはすべ
て現実に起こったことであり、キリストの復活は歴史
的事実である。
クリスチャンが永遠のいのちを持っている保証と、
救
われていることの確かさは、キリストが復活したという
事実に根ざしている。
!!'
4
April
● 月日
お互いを通して
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、
互いのために祈りなさい。 いやされるためです。
義人の祈りは働くと、大きな力があります。
(ヤコブ 5:16)
聖霊は、各々のクリスチャンに対して個人的に働
かれるのが基本ではあるが、キリストの体の中で、
お互い を通して働かれることも忘れてはならない。
聖霊の賜物は、教会に与えられているので、クリス
チャンの愛の交わりを通して、しかも秩序ある形で
現れるのである。だからクリスチャンは誰でも謙遜
で、しかも大胆でなければならない。キリストのから
だ意識を、
より積極的に受けとめて、お互いに 祈
り合う時、
聖霊の働きを経験するのである。
義人とは、
キリストによって神様が認められた人であ
る。あなたは、自ら義人であると告白できるであろう
か。それができるなら幸いである。
あなたの祈りに、
大きな力が約束されている。
!!(
4
April
● 月日
文明と終末
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさ
い。(Ⅱ テサロニケ 2:3)
我々は今、ダニエル書に説明されている反キリス
トの出現(ダニエル 9:27,11:36、Ⅱテサロニケ2:1-
17)を間近に控えた時代に生きている。その時が
いつ訪れるか誰もわからない。しかしながら、歴史
の教訓から、滅亡は文明が成熟した時に突然
やって来る。ノアの時代がそうであったし
(マタイ
24:37-39)、ソドム、ゴモラの滅亡もそうであった
(ル
カ17:28,29)。さらに、あの強大なバビロン帝国も
一夜のうちに滅びた
(ダニエル 5:30)
。
いま日本は、高度の文明を謳歌している。この様
な一見すばらしく見える時代に惑わされてはならな
い。ダニエルのように霊の目で時代を見つめ、祈り
続ける者でなければならない。
我々の信仰が、
自分の生活に密着した身の回りの
ことから、もっと世界的な視野に広げられるよう祈ろ
うではないか。
!!)
4
April
● 月日
二種類の知恵
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの
者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことば
を秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知
識を増そうと探り回ろう。(ダニエル 12:3,4) この世の多くの人は、世の終わりが近づくにつれ新
しいことを求め続け、
いわゆる知識におぼれていく。
しかしながら、時代に流されず「朽ちる食物のため
でなく、永遠のいのちに至る食物のために生き
る」
(ヨハネ6:27)思慮深い人々もいる。このような
人は、
闇の世にあって星のように輝くことができる。
このような生活こそ、クリスチャンに約束された生き
方そのものである。これは、 知恵 と呼ばれ、毎日
の日常生活に生かされ
(Ⅰコリント2:15)
、
しかも御霊
による生活そのものである
(Ⅱコリント3:16,17)
。
!"
4
April
● 月日
ひなを呼び覚ます
わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞い
かけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くよ
うに。(申命記 32:11)
子どもの鷲は、いつか必ず巣から飛び立たなくては
いけない。もし、いつまでも飛び出せないなら、それ
は死を意味する。
親は、ひなを呼び覚まし、揺り動かし、飛び立つよう
に促す。それは、未だ体験したことのない世界へ
の旅立ちであり、親には心配があり、子どもには不
安と恐れがあるが、
同時に希望にも満ちている。
神は私たちの手の範囲にある小さな満足を打ち壊
し、神の子に与えたいと願っておられる恵みの世界
を見るようにしてくださる。神は、私たちのために成
長を願っておられるので、
巣を揺り動かす時がある。
勇気を出そう。あなたを支えている主の翼を信頼
して、
飛び出すがいい。
!"!
4
April
● 月日
父のふところ
いまだかって神を見た者はいない。 父のふところ
におられるひとり子の神が、神を説き明かされたの
である。(ヨハネ1:18)
主と静まることは、
「共にひとりになる」ことであって、
じっとしていることが目的ではない。そこで、主の声
を聞けるようになるのである。
私が 私になる時間 を持って、神と向き合う心の
状態にしなければ、本当の祈りは出来ない。神と
向き合うことで、鏡に映すように、自分の真実の姿
が見れるようになる。これは聖書の約束にある自
分と、肉の自分とを切り分ける作業とも言えるだろう。
パウロは、あなたがたは聖霊の宮なのです と言う
が、
そこは安息、
憩いの場所である。
あなたは、父のふところで抱かれる赤ん坊のように、
安心し、安息を得る。そのかけがえのない場所は
主イエスによってすでに与えられていることを確認す
ることである。
「わたしと一 緒におらせてください」
(ヨハネ
17:24)。
!""
4
April
● 月日
主の山には備えが
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イル
エと名づけた。今日でも、
「主の山の上には備えが
ある。」と言い伝えられている。(創世記 22:14)
神は、アブラハムに対して約束の子イサクをささげ
るように言われた。神がこれほど明確かつ個人的
に試練に会わせた人は、他にいないといわれてい
る。ただ、厳しい試練であっても、主の備えがあっ
た こともわかる。
ひとつは、
犠牲にすべきイサクに代わる羊であり、
もう
ひとつは、
ここに至る出来事そのもの
(創世記 22:
1)
である。試練への備えがカランを出てからの約 40
年をかけてなされたと言ってもよい。その歩みを振
り返るとき、
すべては備えであったことがわかる。
自分の身を守るために、妻を妹と二度偽り、神を信
頼せず、別の女性に子を生ませる不信仰があった
にも関わらず、
神は真実をもって彼を引き寄せた。
試練のための備えは、
主ご自身である。
!"#
4
April
● 月日
テサロニケ教会と聖霊の導き
多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみこと
ばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりまし
た。(Ⅰテサロニケ 1:6)
テサロニケ教会はピリピに次いでヨーロッパで2番
目に設立された教会である
(使徒 17:1-4)
。苦難
の中で生まれたこの教会は、聖霊の喜び(Ⅰテサロ
ニケ1:6)
、み言葉信仰(Ⅰテサロニケ2:13)
、与える
恵み(Ⅱコリント8:1,2)に富んでいた。この教会が
生まれたキッカケは、
トロアスでの幻
(使徒 16:1-10)
であったが、
これがヨーロッパ伝道の発端になった。
聖霊は、ある時には使徒達が宣教に行く事を「禁
じられ」、ある時は行動することを「許されなかっ
た」が、ある時は直ちに行く事を励まされた。聖霊
は自分の取るべき態度を主に委ねていた使徒達
を少しづつ導かれ、
伝道の業を進められた。
今日も御霊は、自らの道を主に委ねる者を的確に
導かれる。
!"$
4
April
● 月日
再臨についての補足
あなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。
(Ⅱテサロニケ 3:13)
テサロニケ第二の手紙は、再臨がその主題となっ
ているテサロニケ第一の手紙の補足であり、再臨
の第二の局面、すなわち主の地上再臨が主題
(Ⅱ
テサロニケ2:1-12)
となっている。また、別のもう一
つの重要な主題が扱われている。それは、この世
ではしばしば苦しむ者が報われず、かえって苦しま
ない者が楽をするという社会の矛盾に対する解答
である。それは、
『神にとって正しい』
という価値基
準である
(Ⅱテサロニケ1:7)
。
クリスチャンにとって苦難は、神の国にふさわしい者
とされるための必要な課程(Ⅱテサロニケ1:5)
とも
言われている。再臨後の世界においては、全ての
不公平は正されることが約束されている。
再臨に対する第一の備えは、
質実、
勤勉な生活で
ある
(Ⅱテサロニケ3:6-15)。
!"%
4
April
● 月日
信仰ときよい良心
きよい良心をもって信仰の奥義を保っている…。
(Ⅰ テモテ 3:9)
Ⅰテモテへの手紙における強調点は信仰ときよい良
心である。信仰はきよい良心から生まれ、きよい良
心によって信仰の奥義が保たれ
(Ⅰテモテ3:9)
、愛
に成長する
(Ⅰテモテ1:5)
ことが約束されている。
信仰におけるつまずきの多くは、良心の問題をあい
まいにするところから起こる
(Ⅰテモテ1:19)
。良心の
問題は信仰と無関係などと考えてはならない。きよ
い良心によって心を整えるなら、信じる事は自然に
なり、信仰には無理が生じない
(箴言 4:23)
からで
ある。きよい良心と信仰は、切り離せない関係にあ
る。したがって、信仰によってのみきよい良心を持
つ事が出来る
(Ⅰヨハネ1:9)
のである。
ここでは、
きよい良心にのみ信仰は根をおろすことを
強調しておこう。
!"&
4
April
● 月日
ドリア、
ドーマ、
カリスマ
私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに
従って恵みを与えられました。(エペソ4:7)
ドリア、
ドーマ、
カリスマはいずれも聖書の中では「賜
物」
と訳されているギリシャ語である。
ドリアは無代価の賜物という意味(エペソ4:7)で、
キリストの賜物と呼ばれ、
キリストが勝ち取られたもの
(エペソ4:10)である。ここから5つの側面(エペ
ソ4:11)を持つ賜物(エペソ4:8)が教会に与えら
れた。これがドーマである。そして、この 5つの面
を通して、恵みがクリスチャン個人に与えられている。
これはカリスマと呼ばれ、それぞれの奉仕(機能)
に
関係しているものになっている
(エペソ4:12)
。
キリストのからだの一部であれば必ず必要な機能
(奉仕)がある。それを発見し、開発することが重
要である。
!"'
4
April
● 月日
キリストによるあがない
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とさ
れました。(Ⅱコリント5:21)
ピレモンへの手紙は非常に短いが、
要点が明瞭で
あり福音の本質を示す見事な手紙である。これは、
パウロによって救いに導かれたオネシモについての
とりなしである
(ピレモン10-18)
。オネシモは、かつ
てはピレモンの奴隷で、当時の社会制度では、奴
隷の逃亡は厳刑であったにもかかわらず逃亡した
のである。
手紙の中でパウロは謙遜(9)
、権威(8)
、礼儀
(14)をつくして彼のことをとりなし、 あがない の意
味をよく説明している。パウロは彼の負債を肩代わ
りする事を申し出た
(18,19)
が、それはまさに主イエ
スが、私達の罪の負債を十字架で肩代わりして下
さった
(Ⅱコリント5:21)
ことに他ならない。
オネシモという言葉は、
本来 有益 という意味をもっ
ているが、彼の罪があがなわれた時はじめて、その
名前が意味を持つような人生が始まったのである
(11)。
!"(
4
April
● 月日
ダイナミズムの中心点
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを
終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだ
はずです。(へブル 4:10)
ダイナミックな働きの中心は、躍動するような力や充
実感ではなく、実は神の安息にある
(へブル 4:10)
。
キリストの働きを担う者は、これを知らなければなら
ない。
「みわざは創世の初めから、もう終わっている」、
「そして神は休まれた」
(へブル 4:3,4)
と言われて
いるが、
実は、
宇宙の運動の法則は創世の初めか
らすでに確立しており、全宇宙はその法則に従っ
て、静かに、しかも力強く働いているのである。同
様に、主イエスが十字架上で「完了した」
(ヨハネ
19:30)
と言われた時、一つの法則が確立した。そ
の法則とは人を生かす
「いのちの法則」
である。
誰でも、この法則にしたがうならば、力強い人生が
保証され、神の安息の中にいるときに、ダイナミック
な働きが可能となるのである。
!")
4
April
● 月日
エリヤよ何をしているのか
彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ご
した。すると、彼への主のことばがあった。主は「エ
リヤよ。ここで何をしているのか。」…。
(Ⅰ列王 19:9)
主 はエリヤに2回も同じ質 問をされ(Ⅰ列 王
19:9,13)、2回ともエリヤは、自己憐憫からくる同じ
答をしている
(19:10,14)
。それは、カルメル山にお
ける勇士の姿からは、とても考えられないものであっ
た。ただ、
このようなエリヤに非常に親しみを覚える
のは、私だけだろうか?超人のように見えるエリヤは、
実は普通の人間で、
ただ神の恵みによってのみ超
人であり得た
(ヤコブ 5:17)
からである。
神は失意の中にある者を理解、包容されるが、そ
こに留まることを願われない。また台風、地震、火
といった劇的な場に留まることも御心ではなく
(Ⅰ列
王 19:11-12)
、結果を主に委ねて、淡々と日々の
任務を果たしていく生活の中に、主が共におられる
(19:15-19)。
!#
4
April
● 月日
死んでも生きる
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
(ヨハネ11:25)
このみ言葉は、主の再臨の日にすべての信者に実
現するのであるが、我々が生きている現在の世界
でも、主はある人々を、
あのラザロのように死の彼方
から呼び戻されることがある。使徒パウロも、そのよ
うな経験をしたように思われる
(Ⅱコリント12:2-4、使
徒 14:19,20)。
ディ
・モールツ夫人は、28分間を天国で過ごし、再
び地上に戻られたという、
いわゆる臨死体験を持っ
ている。彼女は、
自分の病いのこと、
その結果確か
に死んだこと、
そして死から復活し、癒されたことなど
を、ごく自然に、
しかもさりげなく語っている。実に感
動的である。それは「死」
にこだわることから解放さ
れた者だから…と感じた。私もそのようでありたい。
「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」
(ピリピ 1:21)。
!#!
4
April
● 月日
聖霊を受けよ
彼らに息を吹きかけて言われた「聖霊を受けなさ
い」。(ヨハネ20:22)
主が復活されたことを通して、新しい人が誕生した。
主は新しい人の先祖であり、聖書はこれを「第二
のアダム」と呼んでいる
(Iコリント15:45-49)
。そこ
から新しい民族、すなわち教会が発展していくので
ある。
神が、第一のアダムを土から造って息を吹きかけ
られたとき、
「生き物」
となった(創世 2:7)
と言われ
ているように、イエス様は新しい人類の代表者で
ある弟子達にも息を吹きかけられた。そこで教会
は聖霊によって生きるものとなったのである
(ヨハネ
20:22)。
教会は生きている。それを知ることのできる共通の
御霊感覚はその証である
(エペソ4:3)
。
!#"
4
April
● 月日
地境をひろげよ
私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいます
ように。(Ⅰ 歴代 4:10)
ヤベツの祈りのように、教会の働きが広げられるた
めに三つの重要な事がある。それらは、
・使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という五つの
機能が整えられること
(エペソ4:11)。
・教会に仕える長老、
執事職が祝福されること。
(Ⅰテモテ3:1-13)。
・教会員一人一が、御霊の調和の中で霊の賜物
をもって奉仕することができること
(ローマ12:3)であ
る。
今は御霊の時代、
信徒の時代である。
まず私達の地境が広げられ、その結果として教会
の働きが広げられるように求めたい。
!##
4
April
● 月日
主を知る
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
(ルカ 24:31)
復活された後の主の特徴の一つは、弟子達の目
が開かれなかったため、主であると気付かなかった
ことである。
マリヤも気付かなかったし
(ヨハネ20:14)
、いつもあ
れほど近くにいた弟子達ですら
(ヨハネ21:4)
そうで
あった。また、
エマオへ行く途上にあった二人の弟
子もやはり同じであった(ルカ24:31)
。彼らがイエ
スだと気付いたとたんに、主は見えなくなったが、た
とえ見えなくても
「心は燃えていたではないか」
と話
し合った。
私たちは、
この目で確かめたいと思うが、たとえ見て
も、見なくても、本当は大きな問題ではない。なぜ
なら、主を知ることは、
ただ、
ただ啓示によるからであ
る
(Ⅰペテロ1:8,9)。
!#$
4
April
● 月日
突然訪れる日
その日、その時がいつであるかは、だれも知りませ
ん。(マタイ24:36)
エレミヤ書に記されている預言の中では、イスラエ
ル捕囚期間は「七十年」
とはっきりしていた(エレミ
ヤ 25:11,12,29:10)が、それがいつ起こるかは知ら
されていなかった。
聖書は、世の終わりを預言しているが、
その時期は
やはり知らされていない。ただ、その予表があると
言われている。
多くの人は まさか と思うはずである。あたかも地
震が突然起こるように、世の終わりもやはり突然訪
れるのである
(Ⅱペテロ3:10、
マタイ24:37∼39)
。
このような時代をどう生きるかが、私たちに問われて
いる。あなたは今日、聖書に密着した生活ができ
ているか?
!#%
4
April
● 月日
起きて食べよ
彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、
ひとりの御使いが彼にさわって、
「起きて、食べなさ
い。」と言った。(Ⅰ 列王 19:5)
失意の中で恐れていたエリヤに、神は御使いを通
して、もっとも日常的な、ありふれたこと…食べること
…を命じた。「焼け石で焼いたパン菓子一つと、
水のはいった壷」
(Ⅰ列王 19:6)
を用意し、
「起きて
食べなさい」
と
・・
そして、
激しい大風、
地震、
火がエリヤの前を通り過
ぎるが、その中には主がおられなかった
(12)
。しか
しながら、
その後に、
かすかな細い声が耳元に届く。
それが主であった。これが神様の方法である。エ
リヤの期待とは明らかに違ったが、とても自然な形
で現れた。
御霊はこのようにあなたを促される。主はこう言わ
れる。「わたしのところに来なさい。わたしがあ
なたがたを休ませてあげよう。」
(マタイ11:28)
。
!#&
4
April
● 月日
香油のかおりでいっぱいに
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百
グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛
でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっ
ぱいになった。(ヨハネ12:3)
主が愛されたベタニヤの兄姉マルタ、マリヤ、ラザ
ロの家庭は特に裕福ではなかったが、マリヤは高
価なナルドの香油を主イエスの頭に惜しみなく注い
だ。人は、
これを 行き過ぎ 、浪費 であると考える
(ヨハネ12:5、マルコ14:4,5)
。しかしながら、主イ
エスはマリヤの行為をほめられた
(マルコ14:9)
。
福音はこのような結果を生み、実に、このようなこと
のために存在するのである
(ローマ8:28、
Ⅰペテロ
1:8)。
今日、私たちを捕らえているのは主だろうか。純
粋な香油はマリヤの主に対する心そのものである。
すべての働きの基礎がここにある。注がれるべき
第一のお方、
主をほめたたえよう。
!#'
4
April
● 月日
まことのぶどうの木 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は
農夫です。(ヨハネ15:1)
主は、天の父とご自分、さらに教会との関係を、農
夫とぶどうの木、その枝にたとえられた。このみ言
葉は、
クリスチャンにとって聞き慣れた話である。今
日も神は、 私はまことのぶどうの木 と語り、十字架
に架けられたキリストと私達が一つに結合されてい
ることを示しておられる
(ローマ6:3-5)
。そしてキリス
トの復活と栄光にあずかる者として、無限の可能
性にも導いておられる。
まことのぶどうの木が、私達に語る約束は、確かな
ことばである。これに信頼して、従うとき、祈りの力
が解放され、神の豊かな祝福を経験する
(ヨハネ
15:7)。
今日も、時と場所を越えて変わらない まことのぶどう
の木 の偉大な力に目を注ぎ続けたい。
!#(
4
April
● 月日
祝福の原点 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふ
たりは一体となるのである。(創世記 2:24)
家庭 の原点は夫婦である
(創世記 2:24)
。リバ
イバルのことを祈り始める時、主は 家庭 や、夫婦
の関係を取り扱われるように思う。
リバイバルは、圧倒的な力で訪れるが、どこか遠い
ところから飛んで来るものではなく、私たちの内から、
すなわち 家庭 から来る。あなたの家庭が、愛の
家、
祈りの家
(イザヤ 56:7)
となるようにと願う。
どんなことが起こったとしても、
「最後は夫婦二人で
祈るしかない…」。これは、
ある伝道者が言った言
葉であるが、
スタートの最小単位は夫婦である。そ
れが家族の祝福の源であり、地域の祝福、教会
の祝福となって広がって行く。
それが実現するとき、天が大きく開かれるのである。
その時を待ち望みつつ、
祈る。
!#)
5
May
たいせつなのは、
植える者でも水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。
─Ⅰコリント3:7 ─
5
May
● 月日
教会成長への希望
彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟
子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ば
れるようになった。(使徒 11:26)
米国カリフォルニアのカルバリーチャペルは驚異的
に成長しているが、大きな感動と関心を持っている。
それは、この教会の特徴が奇跡的な業の現れに
あるのではなく、み言葉によって教会員を養うところ
にあること、礼拝メッセージは聖書講解が基調に
なっていることを見たためである。
教会には温かさがあり、
愛と賛美に溢れ、
敬虔であ
りながら、カジュアルな雰囲気が満ちている。この
教会を現代のアンテオケ教会(使徒 11:26)
と呼ん
でいいだろう。聖書に記されているアンテオケ教会
は過去のものではなく、しかも単なる理想教会でも
ない。
我々も、
アンテオケ教会を目指そうではないか。
!$"
5
May
● 月日
主よ、
今こそ御国を
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスに
こう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために
国を再興してくださるのですか」。(使徒 1:6)
御国を来たらせ給え と祈るのは、リバイバルを期
待しているからであり、より具体的には教会に神の
国の力が鮮明に現れるように願うからである。リバ
イバルという言葉には、爆発的なものを感じさせる
響きがあるが、
これによって教会成長が実現するわ
けではない。教会の成長は奇跡によってもたらさ
れるのではなく、み言葉によって養われ、
しかも御霊
に導かれる信徒が増やされることによって実現する
はずである。
一見地味に見える聖書通読は、大きな力になるは
ずである。教会ぐるみで聖書を通読することによっ
て、
み言葉の真理が生活に
(エペソ4:20-25)
生か
されて、
奉仕に生きる
(エペソ4:12)
はずである。
!$#
5
May
● 月日
五旬節の日
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
(使徒 2:1)
ペンテコステ とは、50日という意味で、旧約聖書
では過越祭の安息日の翌日から数えて 50日目に
祝われる収穫感謝祭のことを意味している
(レビ
23:15,16、出エジプト23:16)。
過越祭の安息日の夕暮、イスラエル民族の救いの
象徴となった小羊がほふられた(出エジプト12:3-
14)。安息日の翌日の日曜日、収穫の初穂の束が
神の御前に献げられ、
それから50日、
収穫を終えた
時がペンテコステとして祝われたのである。
新約の時代になって、神はこの日に照準を合わせ
て、収穫の御霊を教会に注がれた。つまりこの日
から50日前の安息日に主は十字架にかかって死
なれ、葬られ、
そして翌日の日曜日に初穂として死か
ら復活されたのである。
ペンテコステは十字架の必然の結果なのである
(使徒 2:33)。
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May
● 月日
すでに神は
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前か
らキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者に
しようとされました。(エペソ1:4)
エペソ人への手紙の中にはパウロの二つの祈り
(1:16-23、3:14-21)がある。ここから、教会の姿
(1:23)
と十字架の恵み(1:20-22、2:5-6)
、さらに
聖霊の力について教えられる。
十 字 架のプロセス
(1:20-23)を通して教 会が
(1:23、1:3)誕生した。その教会がキリストの愛に
満ちるためには、教会の一部である聖徒が信仰に
励まされる
(1:19、3:17)必要がある。 十字架の奥
義に目を開いて
(1:17-18)
信仰を生み出し、
強めて
くれるのは聖霊である
(1:9、3:16,20)
。私たちが
何かをする前にすでに神の選びがあり
(1:4)
、愛が
あり
(1:5、
2:4、3:19)、聖霊の働きがあるのである。
神はいつも
「すでに」働いている。
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May
● 月日
完成を完成する
神は七日目について、ある個所で、
「そして、神は、
すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言
われました。(ヘブル 4:4)
ヘブル人への手紙の鍵言の一つは「完成」であ
る。すなわち、救いの法則は天地創造の法則と
同じようにすでに完成しており
(4:3,4)
、その事実に
個人の信仰を当てはめ、安息して成長せよと言う
のである
(4:2,10,11)。それがキリストの深みにいた
る秘訣である。
その完 成された手 順、すなわち救いは、キリス
トの十字架によって完成している
(1:3、2:10、7:27、
9:12,26、
10:10,14)
のである。キリストはこの完成者
であり、しかも今なお大祭司として生きておられる方
(4:14、7:24)
である。 このキリストと結びついて歩む生活が、
「完成」の道
程である。
(7:25、
4:14-16、10:19-22、12:2)
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May
● 月日
母なる神
女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子
をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れて
も、このわたしはあなたを忘れない。
(イザヤ 49:15)
神は父として表現される
(エペソ3:15)
ことが一般
的であるが、母なる神を意味することもあるように思
う。
エル・シャダイ…全能の神…と言う言葉の中の 全
能 には十分という意味がある。神がアブラハムに
「完全であれ」と勧められたとき、 私は全能の神
である ということを意味していた。すなわちすべて
のことにおいて十分であり、供給者であることを保
証したのである。しかもそれを確かなものとして約束
された(創世記 17:1)。神が全能であるという表
現には、
母なる響きと味わいがある
(イザヤ 49:15)
。
これを味わいたい。
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May
● 月日
お竹さん
自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしの弟子になることはできません。
(ルカ 14:27)
ある集会で、宣教師のことを お竹さん と通訳した
方がおられたが、あまりにも適切な表現で感心した。
宣教師は根から切り離され、枝が切り払われ、最
後に節をくり貫かれて水路となる竹と同じであるとい
うのである。
宣教師は、まず便利で文化的な生活環境から切
り離され、しかも複雑な人間関係から自由にされ、
全く異質な文化の中で内面の葛藤を経験しなが
ら、どのようなものも受け入れることが出来るように訓
練され、不必要なプライドや熱心さは粉々に打ち
砕かれ…そして初めて神の恵みを伝える器として
用いられるという。 お竹さん が、良き宣教師の愛
称になってほしいものである。
実は、
この愛称はすべてのクリスチャンが受けるべき
であろう。神の恵みを流す良きパイプは成長の結
果できる者
(ルカ14:26,27,33)
だから…。
!$(
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May
● 月日
信仰の道
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
(ヨハネ4:6)
クリスチャンの信仰は決して主観的なものではない。
客観的なものであり、一つの基準に照らし合わせら
れる行為にある。その基準とは、キリストが十字架
を通して完成された「道」
(へブル 10:20)
そのもの
である。
「信仰の創始者、完成者であるイエスから目を離
さないでいなさい」
(へブル 12:2)
と勧められてい
るが、
これは「道」
であるキリストと結びついて生活し
なさいとの意味である。キリストは死と葬りと復活の
道を通って天に昇られ、
すべてを完成した者である
から、
私達も死と葬りと復活を通って天に至っている
(エペソ2:6)
のである。これを確認しよう。
あなたは、神の臨在の前にある。その領域こそが
信仰の道なのである。(へブル 10:19-22)
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May
● 月日
新しい酒と新しい皮袋
人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなこ
とはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、
ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってし
まいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、
両方とも保ちます。(マタイ9:17)
人々は、聖霊に満たされた弟子達を新しい酒(甘
い酒)
に酔っているとあざけり笑った
(使徒 2:13)
が、
その言葉は真理を説明するために適切なもので
あった。
主イエスは、新しい酒は新しい皮袋にと言われた
(マタイ9:17)が、これは発酵中の新しい酒は膨
張するので、
柔軟な新しい皮袋でなければならない
ことを言ったのである。古びた皮袋は伸びきってし
まって、
新しい酒に順応できないからである。
飢え渇くところに御霊は常に新鮮であり、新鮮な器
は御霊を生かすのである
(ヨハネ7:37,38)
。各自
の皮袋を点検しよう。
!%
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May
● 月日
『間』
と安息
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分
がその力量にふさわしく働く力により、また、備えら
れたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わ
され、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てら
れるのです。(エペソ4:16)
しばしば、日本文化の一つの特徴は
『間』
であると
言われ、多くの人は『間』
という空間でお互いに理
解し合うとも言われる。例えば、
「以心伝心」
という
言葉はその典型的な表現である。
御霊による一致は、教会の交わりの特徴であるが、
これは、このような『間』の中に生まれると言う表現
も可能と思われる。クリスチャンそれぞれが、神様
の中に安息して(へブル 4:10)
、沈黙する空間を
大切にしなければならない。まず、神との親しい交
わりの空間を実現して、人との間の
『間』
を生み出
し、
その結果としてダイナミックな働きが可能となる。
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May
● 月日
宣教活動の3要素
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕
を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強
固にせよ 。(イザヤ 54:2)
多くの教会の活動を支えているものは、セルと呼ば
れるような、小さな組織単位や地域ごとに区分した
小グループや、会衆
(青年会、婦人会、壮年会)
と呼ばれる年令や性別によって構成するグループ、
そしてこの 2つを統合する祭典としての礼拝である。
私たちの教会もこの理念に沿ってその働きが組織
化されてきた。中でも教会学校を会衆の一つに
位置づけているのは、あまり例をみないものと思って
いる。教会学校は教育のための 学校 ではない
と考えるからである。
この三つの分野を有機的につなぐための祈りの
ネットワーク。これが課題である。
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May
● 月日
拡大宣教
あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜び
をもってみことばを受け入れ、私たちと主とになら
う者になりました。(Ⅰ テサロニケ1:6)
テサロニケの教会は使徒パウロが特別に愛した
教会の一つである
(Ⅰテサロニケ2:7-8)
。激しい
迫害下であるにもかかわらず、短期間に非常に純
粋な教会が誕生したことは
(使徒 17:1-10)
、宣教
者パウロにとってどんなに大きな励ましであったこと
か。聖書はそれを伝えてくれる
(Ⅰテサロニケ1:6-8、
2:13、Ⅱテサ 3:1)。
宣教は本来、
見返りを求めない愛によって進められ
る。しかし当然ながら、多くの人々との新鮮な出会
いをもたらし、その結果として宣教するものは感動と
喜びを経験する。これが教会を生みだし、教会を
助けていく動機である。
宣教の拡大は、
教会の若さを保つ秘訣である。
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May
● 月日
母の存在
あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことば
をまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人
として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
(Ⅱ テモテ 2:15)
母なる国 、 母なる大地 、 母なる海 などと呼ば
れることが多いが、母の存在に意味づけは不要で、
愛するものであり、存在そのものの重要性にあると
思われる。
ゴルゴタの丘の十字架のそばに母マリヤがいた。
あの存在はイエスにとってどれほど大きな力になった
ことであろうか
(ヨハネ 19:25)
。また、
テモテが純粋
な信仰を持つようになったのも、母の存在が大きく
影響したと言われている
(Ⅱテモテ1:5)
。
愛する者が、そこに存在しており、しかも祈っている
姿が、
強さをもたらす。
母を思う心から、神を思う心が育まれる。命の源
であるからである。
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May
● 月日
健康な教会の条件
私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔
にかなう教え。(Ⅰ テモテ 6:3)
健康な教会には、み言葉に土台を置いた健全な
教えがなければならない
(Ⅰテモテ6:3、Ⅱテモテ4:3、
テトス2:1-15)。もしみ言葉を教えなければ、みんな
自分勝手に振る舞うようになってしまい、不健康に
なるからである。
教会の健康には、秩序が必要である
(Ⅰテモテ3:1-
13、テトス1:5-9)。これは組織と言ってもよい。ここ
には、長老や執事について記されているが、単に
特定の人のことだけを言っているのではなく、そのよ
うな働きについて教えていることに注意すべきであ
る。すなわち健康な教会にはリーダーが不可欠
なのである。健康な教会は、その条件をみ言葉に
よって知ったクリスチャンによって建て上げられる。
健康な教会となるよう祈ろう。
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May
● 月日
日本列島のための7千人
バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わ
たしのために残してある。(ローマ 11:4)
北海道の札幌の街に立って祈っていると、日本列
島をはるか沖縄まで見渡す様な不思議な感覚に
なる。
多くの宣教師がこの街を好むことを聞いていたが、
ここを訪れて、何かがあるような気がした。北大を
育てたあのクラーク博士のスピリットが今も息づい
ているのであろうか。
ここにアジアから世界を視野に入れてリバイバルを
祈り励んでいる聖徒達がいる。神は、沖縄から北
海道に至る多くの地に、御自身の「7千人」を選ん
でおられる。
あなたには、今日、その 7千人の一人になっている
確信があるか?
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May
● 月日
神の祝福
リベカは…主のみこころを求めに行った。
(創世記 25:22)
リベカは胎内の双子のことで主の御心を求め(創
世記 25:22,23)
、
神様の声を聞いた。彼女がその
後ヤコブを愛して特別扱いしたのは、人間的には
不公平なように見えるが、神のみこころを知った結
果であった。
一方、
エバは長子が生まれた時、
大きな期待をもっ
てその子にカイン(勝ち取ったという意味)
と名付け
た。そして、次に生まれた男児にはアベル(空しい
という意味)
と名付けた。彼女は、次男にはさほど
大きな期待を寄せなかったのであろうか(創世記
4:1-5)。
ヤコブは母の期待通りの人となり、カインはその逆
の人生をたどった。何故であろうか?親の期待を
子供にかけるのではなく、神の用意しておられる祝
福こそ子供の将来を保証する鍵なのである。
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May
● 月日
最善のささげもの
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百
グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛
でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっ
ぱいになった。(ヨハネ12:3)
香油を注いだこのマリヤは、単なる思いつきの行
為を行なったのではないと思われる。心の準備が
あって決心したであろう。そのために、彼女には、
動揺もなく、恐れもない。高価なものを惜しげもなく
イエス様の頭に注ぎかけた様子がわかる。そこに
は少しの打算もない。これは愛の行為である。
最善のものをささげた…その時のこの香りは、母が
自分の子に注ぐ愛である。母によって、打算では
無い愛が実践され、家庭に広がる。なんと美しい
香りであろうか。
このすばらしい福音の香りを感謝しよう。
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May
● 月日
預言の重要性
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わた
しはあなたがたのうちに新しい霊を与える。 わた
しは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉
の心を与える。(エゼキエル 11:19)
エゼキエルは、いくつかの重要な預言を示したが、
いくつか心に止めておきたい事がある。
たとえば、サタンの生い立ち
(28章)
、彼の終末時
の動き
(38,39章)
、反キリストの主要な舞台となる
(Ⅱテサロニケ2:4)第 三 神 殿の設 計 図(40-42
章)。これらは、クリスチャンにとってとっての重要な
基礎知識のひとつである。
今日の聖霊の時代も預言している
(11:19)
。これ
も重要である。全ての人を生かす聖霊(47:9)
の源はキリスト者に実現している現実である。こ
の源にそれぞれの心を絶えず全開にしよう
(エペソ
5:19)。
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May
● 月日
教会は…
教会はキリストのからだであり、いっさいのものを
いっさいのものによって満たす方の満ちておられる
ところです。(エペ 1:23)
「教会」
をテーマにすると、
1. 神は教会を喜ばれる
2. 教会は天使達を喜ばせる
3. サタンは教会を恐れる
4. 教会こそこの世の証人
5. 教会は聖霊のチャンネル
というコピーができる。
これからの教会を考え、祈る時に、大切なヒントを与
えてくれるように思う。
これから、
教会の時代が来る。
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May
● 月日
神の愛と母の愛
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造さ
れた。(創世記 1:27)
親はどうして子どもを愛するのだろうか?それは自分
自身の分身だからである。
神は大きな愛の故に御自身の分身として、自分を
映し出すものとして人を造られた。ご自分の分身
であるが故に、
人を愛してやまないのである。
ひとり子を犠牲にされるほどの愛を持って、
これを救
われた。母の愛はそのような神の愛の反映である。
この宇宙に、愛のあることを感謝しよう。それを感じ
させてくれる母のために感謝しよう。
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May
● 月日
神殿の材料
彼らは、戦いで得た分捕り物を、主の宮を修理する
ために聖別してささげた。(Ⅰ歴代誌 26:27)
ソロモンが建てた神殿の材料は、戦いにおける戦
利品であり、イスラエルがモーセと共にエジプトを出
る時にも、彼らから奪ったものを持っていた(出エジ
プト12:35,36)。彼らが、
礼拝のための幕屋を作っ
た時の材料も同様であり、
さらに、
イスラエルの民の
自発的なささげ物であった(出エジプト35:21-23)
。
彼らは、喜んで、自発的に、
「会見の天幕の仕事
のため、また、そのすべての作業のため…主へ
の奉納物を持って来た。すべて心から進んでさ
さげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、す
べての金の飾り物を持って来た」。(出エジプト
35:22)
霊の教会を建て上げる時の材料も同じである。サ
タンからの戦利品、すなわち各自に与えられている
賜物と、聖徒と呼ばれている自発的奉仕者である。
(エペソ4:12Ⅰペテロ2:5 エペ 2:20-22)
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May
● 月日
幕屋、
神殿、
教会
幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたし
があなたに示すのと全く同じように作らなければな
らない。(出エジプト25:9)
幕屋の設計図は神御自身が、詳細にイスラエルの
民に示された
(出エジプト25:9、25:40、27:8)
。彼
らはそれに従って建設した。
教会の設計図も同様である
(エペソ2:19-22)
。
教会はキリストの上に建てられ、
「あなたがたは使
徒と預言者という土台の上に建てられており
…」、
「御霊によって神の御住まいとなり」、その
結果、旧約の時代には「雲は会見の天幕をお
おい、主の栄光が幕屋に満ちた。」
(出エジプト
40:34)
のである。
新約時代の教会は、キリストのからだであり、キリス
トが満ち満ちている所である
(エペソ1:1-23、コロサ
イ2:10)。
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May
● 月日
母の愛
主よ。ダビデの子よ。 私をあわれんでください。
娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです 。
(マタイ15:22)
「母の日」に母の愛を考えよう。そして感謝の気持
ちを新たにしよう。
母の愛には、いつも大きな犠牲が伴っている。母
の愛は、
そのものが喜びであり、
報酬である。どのよ
うなことが起こっても、
その愛故に、
あきらめたりするこ
とは無いのである
(マタイ15:22-28)
。
神の愛も、どのようなことがあっても、変わることは無
い。そのために、
しばしば、本当にそこまで愛する?
と叫びたくなるような行動をみることがある
(ホセア
3:1、
ルカ15:20)。 そのような神の愛が、
御霊によって注がれている
(ローマ5:5)。
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May
● 月日
力と愛と慎みの霊
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょう
の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
(Ⅱ テモテ 1:7)
力と愛と慎み という相反するようなこの言葉は、
時
として戸惑いを覚えるが、母親の生活を見ていると
理解できるような気がする。この力とは、瞬間的な
パンチ力のようなものではなく、持続的な力(Ⅱテモ
テ1:3)
を意味するからである。
「車に例えれば、力はエンジン、愛はハンドル、つつ
しみはブレーキだ…」
と言われるが、つまり、
これらを
巧みに操縦することができればよい。それが御霊
の役目である。
子どもたちに対する愛の表現には知恵が必要であ
る。力の入れ加減や、そのサジ加減は簡単では
ない。いつも生活の中における様々な葛藤やうめ
きがありえるが、信じて動かず、とりなしている必要
がある。その時大切なのは、臆病の霊ではなく、
力
と愛と慎みの霊なのだ。
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May
● 月日
霊の視点
いかに幸いなことでしょう。 心に広い道を見てい
る人は。(詩篇 84:5、共同訳)
ペンテコステの日に起こった事によると、圧倒的な力
によって聖霊は上から臨んだといわれているが、聖
霊は、その人の内より溢れるとも表現されている
(ヨ
ハネ7:38)。
十字架は人の心に臨在への道を開く。すなわち、
主は死、葬り、復活、昇天と、階段のように場を変え
て、神に至り栄光を受けられ、その結果として臨在
がある。。
信仰はキリストの中にある認識と聖霊の実感であ
る
(ローマ8:2)
が、この確信に立って行動するとき、
聖霊が働いて奇跡が起こる
(マルコ16:20)
。
いつも十字架の道、すなわち主の臨在を見ている
人は幸いである。
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5
May
● 月日
ヨナのしるし
悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預
言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられま
せん。(マタイ12:39,40)
預言者ヨナは、
「主に祈って言った。ああ、主よ。
私がまだ国にいたときに、このことを申し上げた
ではありませんか。…私は、あなたが情け深く
あわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊
かであり、わざわいを思い直されることを知って
いた」
(ヨナ 4:1-2)
と言っており、
神が全ての人々を
愛しておられる方であることを、
彼はよく知っていたこ
とが分かる。
彼は広い視野をもった器であり、 だだっ子 のよう
な態度は、神との親しみを表しているとも言えるであ
ろう。神との深い親しみは、広い視野を与えるので
ある。
ヨナが魚の腹から生還したことがニネベの人々にし
るしとなったように、キリストの復活が宣教の原動力
なのである。
!&'
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May
● 月日
喜びは…
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。
喜びなさい 。(ピリピ 4:4)
主イエスは人としてこの地上を歩まれ、当時の社会
でさげすまされている多くの人の中に、ご自身を表
された。悲しみや苦しみ、弱さのために嘆き悲しん
でいる人々の中に主イエスが来られ、そこを喜びに
あふれる所としてくださった。
ところが、自分の弱さを見せることのなかったパリサ
イ人や律法学者に対しては違っていた。彼らは自
分を義とし、
表面的な喜びを追い求めたために、
主
を十字架に追いやってしまった。
「あなたはこのことを信じますか」
(ヨハネ11:26)
と、
今日も語っておられる言葉に耳を傾けよう
(エペソ
1:18,19)。
そして高らかに私たちの主を喜ぼう
(ピリピ 4:4)
。
!&(
5
May
● 月日
教会により、
キリストにより 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、
世々にわたって、とこしえまでありますように。アー
メン。(エペソ3:21)
このみ言葉には、まず教会が書かれ、その次にキリ
ストと書かれている。これには意味がある。教会
は、神を信じている者がたまたま集まった人の集団
ではない。「神は、ただみこころのままに、私たち
をイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられた」
(エペソ
1:5)
と言われ、摂理によって集められた人の集りで
ある
(使徒 13:48 、
Ⅰペテロ2:9)
。
クリスチャンの使命は 教会を共に建て上げること
である
(エペソ1:18,23、2:21-22、
Ⅰペテロ2:5)
。そ
のために信徒が聖なる祭司となって、それぞれの
個性が生かされ、生きる意味が明確にされる
(Ⅰペ
テロ1:5、
ローマ12:4,5)。
教会のビジョンを共有し、責任を分かち合い、喜び
を共にするものでありたい。
!&)
5
May
● 月日
ペンテコステ…外から
あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙
であり・・石の板にではなく、人の心の板に…。
(Ⅱ コリント3:3)
今日、ユダヤ教徒たちはペンテコステを、シャブオッ
トとして祝うが、これは聖霊降臨を記念するので
はなく、この日に十戒がモーセを通してイスラエル民
族に与えられたことを意味している。イスラエルの
民がエジプトから出てシナイ山のふもとに到着した
のがペンテコステであった(出エジプト19:1)が、こ
の日は彼らにとって記念すべき 律法の日 と考えて
いるからである。
実は、聖霊が来られた重要な目的の一つは真理
のためで、その真理とはキリストであり
(ヨハネ15:26、
16:14-16)、キリストとは十字架である
(ヨハネ16:8‐
11)。
この時、単なる文字であった神の言を律法から、
い
のちとして人々の心に受肉させ
(ヨハネ1:14)
、新し
いライフスタイルを与えたのである。
!'
5
May
● 月日
ペンテコステ…上から すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような
響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
(使徒 2:2)
ペンテコステの体験は、上から臨む
(使徒 2:2)
と同
時に、
内から溢れる
(ヨハネ7:38)
ものでもあった。
これは、十字架のみわざを完成された主の栄光
が、
人のものとして臨むことであり、
天的領域を体験
させるものである。言い換えると、神は、主イエスの
経験を人のものとしてくださり、新生している者のう
ちにすでに内住しておられる御霊(ローマ 8:15,16)
が溢れるという現象を伴って証ししてくださる
(使徒
2:1-4)。これが聖霊のバプテスマである
(使徒 1:5)
。
この時与えられる異言は、様々な文化的背景のあ
る人々に、共通の言語感覚を与え、その違いを超
えて一致を可能にする力がある
(Ⅰコリント12:13 エ
ペソ4:3)。言語に混乱があった
(創世記 11:1-9)
ところを、
聖霊は回復されたのである。
!'!
5
May
● 月日
主がともにおられる エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その
子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだっ
た。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。
この者がそれだ」。(Ⅰサムエル 16:12)
ダビデはサムエルを通して油注ぎを受けた(Ⅰサム
16:12)。それで十分であった。その日以後、彼に
新しい油注ぎは不用であった。ゴリアテとの戦い
の時も、改めて油注ぎをすることは必要ではなかっ
た。彼は「主がともにおられること」を信じ、彼
の使いなれた石投げを手に、立ち上がった(Ⅰサム
17:37、17:45)
だけである。
実は、
あなたにはすでに油が注がれている。主がと
もにおられる…そのことを信じるかどうかが問われて
いる。あなたには万軍の主がおられる。
「イエス・キリストは、
きのうもきょうも、いつまでも、
同じです。」
(ヘブル 13:8)
。 !'"
6
June
御霊の実は、
愛、
喜び、
平安、
寛容、
親切、
善意、
誠実、
柔和、
自制です。
─ ガラテヤ 5:27-28 ─
6
June
● 月日
ペンテコステ すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような
響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
(使徒 2:2)
ペンテコステのリバイバルは突然に起こったが、偶
然に起こったのではない。神はそのことを計画して
おられ(使徒 2:16-18)
、十字架によってその条件
が整えられた
(2:32,33)。 そして、教会は心を合わ
せ、
祈りに専念していた
(1:14)
のである。
リバイバルの接点は神の主権と十字架の保証、そ
れに教会の祈りである。リバイバルは持続し、初
代教会は発展した。その条件は一致にあった
(2:42,46)。 ヨハネス・ファシウス師は、 御霊の奇
跡的な働きは、御霊の賜物によるのではなく愛の
一致から生まれる と言われた。
祈りは愛を確かめるために神の御前に心を開く不
断の姿勢である。天からのリバイバルを待ち望もう。
!'$
6
June
● 月日
父なる神
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべて
の人のために、また王とすべての高い地位にある
人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげ
られるようにしなさい。(Ⅰ テモテ 2:1)
御国を来たらせ給え と祈る時、歴史の支配者で
ある神がその摂理の御手をもって、世界を、この国
を、教会を、家庭を、仕事を、私を導き祝福して下
さい、
との思いが込められている
(Ⅰテモテ2:1)
。
大局的な視野に立ったそのような祈りこそ、壮年男
子の使命である
(Ⅰテモテ2:1,8)
。それはまた、安
定した生活の秘訣でもある
(Ⅰテモテ2:2)
。
神は唯一であり全能なるお方、
そして誰も近づくこと
の出来ない方でありながら
(Ⅰテモテ6:15,16)
、
キリス
トを通して身近な方となった(Ⅰテモテ2:5,6)のであ
る。
!'%
6
June
● 月日
すると突然
五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然…。(使徒 2:1,2)
最初のペンテコステはこのようにして起こった。新し
い時代の幕明けであった。
以前開催された世界宣教会議(GCOWE)
の中
心課題は AD2000年までに、1,000の人口に一つ
の教会をというものであったが、
これを日本に当ては
めると12万の教会になる。一見して不可能に見え
ることを可能にするために、天からの超自然的な介
入を待つことは大切である。
今、
多くの国にそれが起こりつつある。インド北部に
ある釈迦の生誕地で、長年宣教師の墓場と言わ
れてきたウッタープラデシュ州がある。ここでも新し
いことが起っているという。
日本にも、
「突然」
そのことが起こることを期待したい。
!'&
6
June
● 月日
恵みを学ぶ
苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満
ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわら
ず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったの
です。(Ⅱ コリント 8:2)
私達は、
多くのプログラムを作って、
そこに御霊が働
いてくださることを期待するが、
そのことが、
御霊の働
きを閉じ込めることになってしまうことがある。本来
は、御霊のプログラムに私達が従うべきなのに…で
ある。
ある方が 愛されていることを学べ と言われ、 祈る
のではなく、ただ受けることを期待せよ とも語られた。
「初めの愛」
(黙 2:4)に帰るとは愛する努力では
なく、
愛されているという理解にとどまることである。
「あふれ出て、惜しみなく施す富」
(Ⅱコリント8:2)
はその結果である。ただ受けることを幼子に学ぼう。
主よ、
今、
幼子の信仰を与え給え。
!''
6
June
● 月日
愛されていること
神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。 私
たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平
安があなたがたの上にありますように。
(ローマ 1:7)
成長する、与える、生み出す という言葉が、私た
ちの教会のモットーとして与えられた宣教理念であ
る。これは、 み言葉にかける という姿勢から来て
いるが、ふと気が付くと、いつのまにか肩ひじを張っ
て、時には肩をいからせてこのスローガンを振りかざ
している姿を見て愕然とする。
与えることに自己満足してしまう…。本当は与えるこ
と以上に,与えられることを知らなければならないの
に…それを忘れている自分に気づく。
愛されていることを学ぼう。
!'(
6
June
● 月日
目を上げて
さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて
畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっ
ています。(ヨハネ4:35)
最近、私たちに語られている預言の一つは、収穫
が多い ということである。聖書は、収穫はすでに
備えられていると語っている。収穫のためにではな
く、 働き人のために祈れ と主イエスは言われたが、
これは必要を持っている人が多いこと
(マタイ9:36を意味している。
38)
サマリヤのスカルの町で必 要を持った一 人の
女 性(ヨハネ4:13)
、ピリピにおけるルデヤ( 使
16:14,15)
は、
このことを物語っている。救いの証し
を持って、
そのような人たちに出会うことが伝道であ
る。 目を上げて すでに収穫のただ中にあることに
目が開かれる必要がある。
福音がどんなに深遠で、かつ実際的な内容であ
るかに目が開かれなければならない(エペソ1:17-
23)。
!')
6
June
● 月日
私には乏しいことがない
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
(詩篇 23:1)
この詩篇は私たちの一日の歩みを表しているように
感じる。すなわち、
「主はその愛する者には、眠っ
ている間に」
(詩篇 127:2)備えて下さり、新しい日
が始まる。そして、私を豊かな、緑の牧場に連れて
行き、水のほとりに伴われる。そこで、私は、主との
親しい交わりの日を過ごすのである。
キリストにあって主の臨在を楽しみ、主をあがめ、祈
り、み言葉を黙想すると、主が備えて下さった霊
的祝福が満ちてくる。その恵みを受け取り
(イザヤ
30:15,18)、私のたましいは生き返る。
神より平安と知恵が溢れ出し、愛による勝利が私
を包む。主はそこにおられる。主は先廻りして待っ
ておられる。
いつくしみと恵みとは追ってくる。
!(
6
June
● 月日
約束
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべて
の営みには時がある。(伝道 3:1)
神はモーセに、足の裏で踏む所をことごとく与える
(申命記 11:24)
と語られた。その約束は、ヨシュ
アに受け継がれ
(ヨシュア1:3)
、戦いの後に成就し
た
(ヨシュア11:23)。
すべてのことに時がある
(伝道者 3:1)
。神の約束
の実現は人間の尺度では測りきれない。神への
信頼がなければ待つことができない。だからこそ一
瞬一瞬を委ねることに価値があり、そこに聖霊が働
かれるチャンネルが開かれる。
ロンドンで始められたマーチフォージーザスがまた
開催されるという。世界中の聖徒が十字架の勝
利の約束を信じて町に出て行く時となることを期待
する
(コロサイ1:6)。
!(!
6
June
● 月日
光と影の国
彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラ
エルと名づけた。(創世記 33:20)
最近イスラエルでは遺跡の発掘が盛んだと聞く。
それが進むと、聖書の史実が明らかにされるはず
であると思うと、嬉しい気持ちと共に、
ロマンがかきた
てられる。
しかしながら,聖書に記述されている民族の歴史
はロマンにはほど遠く,
流浪と迫害でうめられている。
やっと手にした国を失いたくない、
トーラ
(モーセ五
書)を中心にした国造りに励みたい…そのような切
迫感がみなぎっている。古い歴史の国イスラエル。
重い歴史を背負った民族…
イスラエルはロマンと現実の厳しさ、つまり光と影が
交錯する不思議な国である。
!("
6
June
● 月日
二つの選民
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをの
ろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される。(創世記 12:3)
イスラエルは、神の恵みを世界に伝える器として選
ばれた。アブラハム以来、ユダヤ人はそのことを自
覚して今日に至っている
(創世記 12:3、出エジプト
19:5-6)。
彼らは聖書の基となり、救い主を生みだし,彼らの
失敗も世界の富となった(ローマ 11:12)
。彼らは
選びのゆえに苦難と迫害を受けるが、最後は救い
をもって報いを受ける
(ローマ11:25-26)
と言われて
いる。
教会とイスラエルは神によって生まれた(ローマ
11:17)。その選びはキリストの花嫁となるためであ
る。新天地において 2つの選民は共に神の栄光
と祝福の中で調和するであろう。
マラナ・タ。 主よ来たりませ。(Ⅰコリント16:22)
!(#
6
June
● 月日
ペンテコステと教会
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてく
ださるとおりに、他国のことばで話しだした。
(使徒 2:4)
聖霊が下るとき、力を受ける。この力は新しい言葉
を通して与えられた(使徒 2:1-4)
。霊的なことが、
言葉を通して表されることは、考えてみれば不思議
なことである。「ことばは人」
(ヨハネ1:14)
とあるが,
それは人格の中心、表現であるためである。その
中心を御霊が支配されたのである。
異言は御霊が主導権を持っておられることの証し
であり、全人格が御霊の主導権に浸されるゆえに、
聖霊のバプテスマ
(浸し)
とよばれるのである。
聖霊が支配される、
その中に生き、
聖霊に満たされ
た教会となって、地の果てまで主の証人となるため
にペンテコステがある。
!($
6
June
● 月日
王なる祭司
あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖な
る国民、神の所有とされた民です。(Ⅰペテロ 2:9)
1970年代に世界中に広がったカリスマ運動は今
世紀における代表的な聖霊のみわざのひとつであ
る。これを通して、私達の教会も大きな恵みを受け、
教会の からだ意識 は、この頃に確立し、教勢は
2倍、3倍となった。上記のみ言葉はこの流れの
特徴を示している。
万人祭司 は、宗教改革の中心教理でありなが
ら、一部のグループや、イデオロギーとしてとどまって
いたように思われるが、400年余後になって実体と
なったのである。
私達は今、歴史的なこの流れの中にある。 みん
なで造る礼拝 、 みんなが祭司 …そのような教会
を実現しよう。
!(%
6
June
● 月日
殉教者の遺言
その手紙の中には理解しにくいところもあります。
無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所
のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解
し、自分自身に滅びを招いています。
(Ⅱ ペテロ3:16)
ペテロ第2の手紙は、
パウロによるテモテ第2の手紙
と並んで殉教直前に書かれた使徒絶筆である。
この二つの手紙の共通点は、み言葉の権威が強
調されていることであり
(1:19-21、3:5-7)
、当時すで
にペテロがパウロの手紙を 聖書 として、その権威
を評価していたことは非常に興味深い(3:16)
。こ
れらの手紙は簡素であるが、鋭くポイントを突き、新
しい教えではなく、すでに知っている真理を新鮮に
せよと勧めている
(1:12、
3:1) これは教会が常に必要としていることである。特に
歴史の中で変換点を迎える私達の教会にとって
重要である。
!(&
6
June
● 月日
勝利の原動力
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つ
からです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝っ
た勝利です。(Ⅰヨハネ 5:4)
「初めに帰る」、
「原点にとどまる」
という言葉が、
ヨハ
ネ第一の手紙の鍵の言葉である
(1:1、
2:7、2:24)。
使徒ヨハネは、
彼の晩年にこの手紙を書いたが、
そ
の時教会は安定し、成熟したクリスチャンが多くい
た。その彼らに、実に初歩的な教えを説いたので
ある。信仰の基本に忠実であることが、当時教会
に忍び込みつつあった異端に対する最も有効な
対抗策であった。
この原則は、今でも変わらない。勝利の原則は、
基本に忠実な歩みを確実にすることである。この
信仰こそが世に勝つ原動力なのである。
(5:4)
!('
6
June
● 月日
教会と聖霊
イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神
によって生まれたのです。生んでくださった方を愛
する者はだれでも、その方によって生まれた者をも
愛します。(Ⅰヨハネ5:1)
血は水よりも濃いという言葉がある。家族や親戚
のつながりが強いことを言った言葉であるが、クリス
チャンのお互いの関係は愛することにより、とても強
いと思われるが、
決して義務的なものではない。
これは、家族のつながりを持った者に与えられてい
る本能と言ってもよい(Ⅰヨハネ5:1)
。クリスチャン
が神の家族であるのは、神の御霊による。神の家
族であるクリスチャンは神の 軍隊 と言ってもよく、
一人一人はその兵士であり、聖霊のバプテスマは
そのための武装とも言えよう。
教会に命と、
力が燃え上がるように、
御霊を待ち望も
う。
!((
6
June
● 月日
結び目
キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分
がその力量にふさわしく働く力により、また、備えら
れたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わ
され、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てら
れるのです。
(エペソ4:16)
教会の使命は、
「ある人を使徒、ある人を預言者、
ある人を伝道者、ある人を牧師また教師」
(エペ
ソ4:11)
と言われているような5つの領域にわたって
おり、
聖徒達を奉仕に整えるという目的がある
(エペ
ソ4:11-12)。
キリスト、からだ、各部分の三点を結ぶ役割が、結
び目となるリーダーに与えられている
(エペソ4:16)
。
その信仰に立つ人が必要である。
備えられた結び目である、リーダーのために感謝し
よう。
!()
6
June
● 月日
父になろう
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。
あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなた
を多くの国民の父とするからである。(創世記 17:5)
アブラハムは父の模範と言ってよい。それは、神の
真実に対する揺るぎない信仰を持っていたという
事実の故である。
彼は御声に従って、見知らぬ地への冒険にチャレ
ンジした(創世記 12:4)。彼は子供の誕生のため
に、不可能に思えることを25年間も信じ続け、つい
にイサクを得た
(ローマ4:18)
。しかも、
そのイサクを
犠牲にすることを決心した。
彼の行動は、盲信でも盲従でもなく神との信頼
関係から生まれた当然の結果であった(ヘブル
11:17-19)。信仰こそ、父としての第一の資質であ
る。
父たちよ、
父になろう。
!)
6
June
● 月日
神の都
町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの
町の名は、
『主はここにおられる。』
と呼ばれる。
(エゼキエル 48:35)
エゼキエル書は神の都に関する記述で終わるが、
黙示録もまた同様である
(21,22章)
。両者には
違った出来事のことが書かれてあるが、神の都に
ついて記述され、神がその中心におられることを共
通として記述されている。「アドナイ
・シャマ:主はこ
こにおられる…」
という町の名がそのことを示している
(48:35)。
主の住まいはどこにあるのか? この地上における教会こそ神の都である。教会は
神の住居であり
(エゼキエル 2:21,22章)
、賛美は
その神の臨在を明らかにするのである
(詩篇 22:3)
。
!)!
6
June
● 月日
神の声
この終わりの時には、御子によって、私たちに語ら
れました。(ヘブル 1:2)
神は御子によってのみ語られ(ヘブル 1:2、ヨハネ
1:18)。クリスチャンは絶えずその声を聞いている。
いのち、平安、…と言われる神の声を、
いわゆるクリ
スチャン感覚
(ローマ8:6,15,16)
によって聞くのであ
る。それが啓示の世界である
(Ⅰコリント2:10)
。
御子の中心は十字架であり、したがって十字架
理解は(ローマ1:17、ガラテヤ 2:20)神の声そのも
のと言ってよい。それが,
み言葉なのである
(詩篇
103:20、
Ⅱコリント3:6)。
神の声は、日々の歩みにおいては御霊の働きに
触れる基本であり、良心との調和にある
(ローマ
8:13,14、
ヤコブ 3:17)。
神の声を確かめよう。
!)"
6
June
● 月日
主の勝利の矢
彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の
矢。 アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェク
でアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」。
(Ⅱ 列王記 13:17)
死に瀕したエリシャの病床に、
北イスラエルの王ヨア
シュがやってきた。その時、エリシャはヨアシュに弓
矢を持たせ、
敵の方角に矢を射た。その際に、
「主
の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。」と叫
んだ。そして、
「地面に向かって打て!」
と言ったが、
彼は 3度しか打たず、
エリシャは、
「あなたは5回、6
回打つべきだった。」
と怒った。
ここには、ヨアシュ王が神のみこころに沿っていな
かったにも関わらず、契約(13:23)
のゆえに、御顔
をそむけられない神の真実といつくしみが表されて
おり、
さらに神に求める際には、簡単にあきらめず、5
回、
6回打つべきことを教えている。
私たちの戦いは、天にいるもろもろの悪霊に対する
ものだからである
(エペソ6:12)
。
!)#
6
June
● 月日
思いをこえて豊かに
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というの
は、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるか
らである。」と言われたのです。ですから、私は、キ
リストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜ん
で私の弱さを誇りましょう。(Ⅱ コリント12:9)
神の恵みは人の思いを越えたところにある。限界
の向こう側で待っている
(Ⅱコリント12:9)
。また想
像を超えた形で働かれるのである。
極度の貧しさの中にも
(Ⅱコリント8:1,2)信じられな
いような平安の内に
(ピリピ 4:7)働く。恵みはまた、
与えるスピリットであり、主イエスの心そのものである
(Ⅱコリント8:9)。
この恵みこそ人の思いを越えたものであることを考え
よう
(エペソ3:20)。
!)$
6
June
● 月日
父の悲哀と潜在力
夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけ
ない。 父たちよ。 子どもをいらだたせてはいけま
せん。(コロサイ3:19,21)
ここでは、包容力 が父にもとめられていると理解で
きる。しかしながら悲しいかな、今日の多くの父達
には余裕が感じられず、打ちひしがれていように見
える。
その能力が神によってすでに与えられていることを知
らない人が多いのは、なんと残念なことか。そして、
父の父である神とのホットラインを確保している父は
なんと幸いなことか。
「ひざをかがめて、父と呼ばれるあらゆるものの
源なる父に祈る。」
(エペ 3:15[口語訳]
)
と、イエ
ス様は祈られた。
父のために祈ろう。
そして、
父達よ、
祈ろうではないか!
!)%
6
June
● 月日
み言葉の領域
父はみこころのままに、真理のことばをもって私た
ちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物
の初穂にするためなのです。(ヤコブ1:18)
罪は死を生み
(ヤコブ 1:14)
、み言葉はいのちを生
む(1:18)。そのいのちの領域は光(1:17)であり、
すべての霊の祝福が満ちるところ(エペソ1:3)
、人
知をこえた平安の境地(ピリピ 4:7)
である。この祝
福の領域は、
第4次元の空間とでも表現できるもの
であり、
み言葉そのものなのである。
そこで、
クリスチャンの戦い… み言葉の本能 と 肉
の本能 との戦い…が行われる。
み言葉を慕い(Ⅰペテロ2:2)
、み言葉を蓄えること
(詩篇 119:11)
が、
戦いの武器である。
!)&
6
June
● 月日
やみの中に光
私の敵。 私のことで喜ぶな。 私は倒れても起き上
がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であ
るからだ。(ミカ 7:8)
このようなミカの告白は、多くのクリスチャンの現実
を表している。恐れの中に信仰があり、弱さの中
に強さが見え、
絶望の中に安息がある。
やみの中ではじめて光の存在がわかる。すなわち、
恵みは罪の中でこそ明確にされるのである。
パウロ書簡でパウロは声を大きくして証しをしており
(Ⅱコリント12:9)
、ダビデもそのように語っている
(詩
篇 27:6)。
それが、我々のものにならなければならない(ピリピ
4:7)。
!)'
6
June
● 月日
神の声を聞く
この終わりの時には、御子によって、私たちに語ら
れました。(へブル 1:2)
神は御子を通して語っておられると言われているの
だから、
私達は神の声を聞くことができるはずだ。
まず、 御子のみわざを見る ことによって聞くことが
可能である。荒野におけるイスラエルの民は、エジ
プトにおける様々な奇跡、紅海が分かれる奇跡の
ほか、雲の柱、火の柱、マナが降る日常的な奇跡
…などの神のみわざを見て神の声を聞いた。残
念なことは、その事実を自分のものとして神に信頼
し、安息することができなかった(ヘブル 4:2)
ことで
あるが…
今日の私達は、十字架のみわざを通して神の声を
聞くことができる
(ヘブル 2:9,10 )
。パウロは、十字
架がもっとよく見えるように
(エペソ1:17,18)
、
神の声
をもっと聞くことができるように、
と祈っている。
!)(
6
June
● 月日
親の責任
愛は寛容であり、愛は親切です。また…すべてを
がまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを
耐え忍びます。(Ⅰコリント13:4,7)
子どもの教育は親の責任であるが、最終的には父
親の役割が重要である。親に要求される大切な
ことは、
「見守る」ことだ。そのためには忍耐が必
要である。自分の願いや希望を神様に預ける気
持ちがなければならない。どのような環境にあって
も子どもを信じ、神様の摂理を信じる信仰が必要
である。(Ⅰコリント13:7)
その信仰の出発点は、天の父である神の前にひざ
まずき
(エペソ3:14-16)
、悪霊につかれた子どもの
親が叫んだ
(マルコ9:24)
ように、
「信じます。不信
仰な私をお助け下さい」
と叫ぶことである。
心を砕かれることが、なければならない。このような
信仰を持てる親が教会でも、
社会でも用いられる。
!))
6
June
● 月日
祝福はここに
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。…
この方は恵みとまことに満ちておられた。 …私た
ちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵
みの上にさらに恵みを受けたのである。
(ヨハネ1:14-16)
はるか遠くにあった途方もない祝福が、神の子イエ
スによってこの世界にもたらされ、十字架を通して
私たちの生活の中で現実のものとなった(ヨハネ
1:14-17)。
私たちは、内住の御霊によって、すでにある という
ことを知っている
(ローマ8:15-16)
。祝福はここに
ある。これが福音の真髄であり、恵みと呼ばれて
いる。宣教においても、私たちはすでにその中にあ
ると主は言われた
(ヨハネ4:35-38)
。
主が常に私たちに志を与え、環境を開かれる。そ
の結果私たちに見えるかたちで、主の真実と恵み
が証される。
"
6
June
● 月日
散らされた人々
さて、ステパノのことから起こった迫害によって散
らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケ
までも進んで行った。(使徒 11:19)
ステパノの殉教をきっかけに、エルサレム教会に激
しい迫害がおこった(使徒 8:1)
。その結果、各地
に散らされた使徒達によって福音が伝えられ、宣
教が拡大した
(使徒8:4)。世界宣教の基地となっ
たアンテオケ教会は、これらの 散らされた人々 に
よって誕生したのである。(使徒 11:19-21)
。
私たちの教会が誕生したのも中国から政治的な
理由で追放された宣教師によってであった。また、
アルゼンチンのリバイバルは同国がフォークランド
諸島をめぐって英国と戦い、敗北を喫したのがキッ
カケと言われている。政治的に見える事柄の中にも、
聖霊の働きがある。(使徒 1:8、
ローマ8:14、
ゼカリ
ヤ 4:6)。
" !
6
June
● 月日
御霊に導かれる人々
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもで
す。(ローマ 8:14)
神の子である特権を味わうためには、日々御霊
に導かれることを実感できる必要がある
(ローマ
8:14)。御霊はすべてのクリスチャンの中に内住さ
れ、神への親しみと神の子である自覚を通して、ご
自身の存在を証しされる
(ローマ8:15-16)。またそ
の方はいのちと平安の思いをもって、私たちを導か
れる
(ローマ8:6)。
不安と不自然さを感じる時、その行動と衝動を御
霊に委ね、主を待ち望まなければならない(ローマ
8:13)。これが、
クリスチャンとして基本的なことであ
る。
御霊に導かれる神の子としての特権を味わおう。
" "
6
June
● 月日
霊の人を求む まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と
御霊によって生まれなければ、神の国にはいること
ができません。(ヨハネ3:5)
すべてのクリスチャンは神の国に生まれた者である
(ヨハネ3:5)。神の国とは、霊の次元のことで、私
達は霊において神を知り、自分が神の子どもであ
ることを知っている
(ローマ8:15,16)
。しかしながら、
それを霊の次元で受け止めないで、人間の次元
で考え、
行動してしまうこと、
それが問題になる。
人間の感情や常識、経験、先入観に従って行動
することから、すべての思いを御霊に委ねる人、つま
りどんな時にも、
「御霊様、あなたはどう思われます
か?」と、御霊の思いに委ねることを習慣としている
人…神様は、そのような霊の人を求めている
(Ⅰコリ
ント2:15)。
" #
7
July
主は私の羊飼い。私は、
乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
─ 詩篇 23:1-2 ─
7
July
● 月日
教会と私
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人
を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師
として、お立てになったのです。それは、聖徒たち
を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建
て上げるためであり…。(エペソ4:11,12)
教 会ではすべての信 徒が奉 仕する。これは
英語でミニストリー(Ministry)
と言われ、神に代
わって人々に愛をもってサービスすること
(Ⅰペテロ
4:10、 11)
を意味している。時には霊の賜物とも言
われている
(ローマ12:6-8、
Ⅰコリント12:4-11)
。こ
のミニストリーの基本は 5つある。そのリストはⅠコリン
ト12:28、エペソ2:20-22、
Ⅰペテロ2:4-9などに示さ
れている。これらの中で使徒、預言者はキリストに
ついての原則的真理を表し、伝道者、牧師、教師
はキリストの応用的側面を示しており、健全なみ言
葉観、
あるいは教会観が大切である。
すべての人がミニストリーする教会を求めよう。み
言葉を幅広く学びつつ忠実な教会生活の姿がそ
こにある。
" &
7
July
● 月日
臨在を生きる
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあな
たを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、
この手であなたをおおっておこう。
(出エジプト 33:22)
モーセは岩の裂け目から主の臨在の姿を見た
(出
エジプト18-23)。岩の裂け目とは新約のヘブル
書で強調されている キリストにある ことを表してい
る。
キリストは今、臨在の保証者(大祭司)
として天に
おられる
(ヘブル 2:17、 4:14-16、 6:20、 7:24,25、
8:6、 9:24、 10:21)。 キリストはそこに 至る道
を、十 字 架を通して完 成された(ヘブル 2:10、
6:19,20、 9:11,12、 10:19,20)。クリスチャンはキ
リストにあって、その臨在の中で生活するよう招
かれている。 臨在が御霊によって霊の領域から感覚の領域に
まで溢れることを期待する。
" '
7
July
● 月日
神は、
はじめに天と地を
初めに、神が天と地を創造した。(創世記 1:1)
聖書を書いたヘブル人は、神を全人類の神とし
て信じ、彼らの日々の祈りはユダヤ人の神に対す
るものではなく創造主なる神への呼びかけであっ
た。彼らが安息日を尊ぶのは、
それが人間の幸福
を保証する普遍的法則である事を知っているから
で、創造主なる神をたたえるためであり、選民として
の世界への証でもあった
(出エジプト20:8-11)
。
ユダヤ人の信仰は人類に対して普遍性を持った
ものであったが、その法則がイエスキリストを通して
全世界に及ぶようになったのである
(ヨハネ1:17)
。
イエス・キリストによって表現されたその内容は、旧
約聖書に隠されている。
これを探しだそう。
" (
7
July
● 月日
恵みとまこと
律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイ
エス・キリストによって実現したからである。
(ヨハネ1:17)
恵みとまこと は新約を代表することばであるが、旧
約にも記されておりユダヤ人の信仰を端的に表す
ものである。彼らは、
自らの努力ではどうしようもない
ことをよく知っている。また、彼らは「恵み」がユダヤ
人だけでなく多くの人のためにあり、
千代に及ぶこと
を信じている(出エジプト34:7)
。
ただ残念なことは、
この 恵みとまこと がイエス・キリス
トによってすでに実現していることを知らないことであ
るが、
それは、多くのクリスチャンにも言えることなので
ある。
恵みとまこと はキリストによって、
現実になっている。
" )
7
July
● 月日
天使のもてなし
彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって
立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために
天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をし
た。(創世記 18:2)
アブラハムの家を訪れたこの三人は天使であっ
た。そのうちの一人は、いわゆる普通の天使では
なかったように見える
(創世記 18:2-33)
。ギデオ
ンに現れた天使もやはり普通ではなかった(士記
6:11-24)。また、サムソンの父マノアに現れた天使
は名を
「不思議」だと答えた
(士記 13:17,18)
。
この天使のことを、旧約時代に天使の姿で現れた
主イエスであろうと考えるのは自然である。ヨハネ
8:56-58にある主の宣言はそのことを証明していると
思う。
ところで、普通の人として現れた天使をアブラハム
は旅人としてねんごろにもてなし、その報いを得た。
もてなし はレビ 19:34に基づいた聖書的な精神
であり、新約では、生活の保証が もてなし への報
いであると言われている
(ヘブル 13:1-8)
。
"!
7
July
● 月日
人生、
その目のつけどころ
からだの明かりは目です。それで、もしあなたの目
が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が
悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。
(マタイ6:22,23)
このみ言葉は有名な山上の垂訓の一句である。
この目は 心の窓 の象徴として解釈されやすい
が、
もともと
「目が良いとか悪い」
とかは、ヘブル的な
慣用句で、気前が良いとか悪いとかの意味である。
これを理解すると、19-24節に
「自分の宝を天にたく
わえよ」と言われている言葉へのつながりが理解で
きる。
良い人生(全身が明るい)か、あるいは悪い人生
(全身が暗い)
かは、金銭に対する考え方で決まる
というのである。
大阪の言葉で言えば、 気前がイイ か ケチ かに
よって人生が決まる…とも言える。
"!!
7
July
● 月日
召命
コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主
イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めてい
るすべての人々とともに、聖徒として召され、キリス
ト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。
(Ⅰコリント1:2)
召命には三段階ある。第一は信じることへの召し
(ヨハネ1:37-51)
、次に、一般的な奉仕に対する
召し
(ルカ5:10,11)
、
そして特定の奉仕への召し
(ヨ
ハネ21:15-17)
である。
使徒の働きに書かれている最初の執事達は、第
三の召しに該当する
(使徒 6:1-6)
。この特定の奉
仕は、
自分から望んでなれるものではなく、主が考え
て、そのように導いたものであり、いわば、主からの
強制 とも言えるものである。ただ、主は人格を無
視することは決して無く、
この召命に従う者には恵み
と力が約束されている
(Ⅰコリント15:10)
。
これは牧者達への召命のことばである。このような
特定の奉仕に召された人達のことを覚え、主に感
謝しよう。
"!"
7
July
● 月日
異端の霊
この人たちは、自分には理解もできないことをそし
り、わきまえのない動物のように、本能によって知
るような事がらの中で滅びるのです。(ユダ10)
ユダの手紙は異端の霊の本質に触れている。彼
らは夢見る者(8)
、すなわち理想主義者であり、自
然の本能のみで霊的な事柄を追求しようとする
(10,19)。また、御霊を持たず(19)
、理性の範
囲を越えてしまう
(6)のである。しかしながら、理性
の範囲は、御霊の秩序そのものであり、愛の調和
点であることを大胆に信じる必要がある。
健全なクリスチャン信仰は、人間性の常識と調和
しつつ、
しかも超自然の次元を生きる者なのである。
「まことに、
まことに、
あなたに告げます。人は、新
しく生まれなければ、神の国を見ることはできま
せん。」
(ヨハネ3:3) この言葉を忘れてはならない。
"!#
7
July
● 月日
偶像礼拝
子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(Ⅰヨハネ5:21)
この言葉は、
Ⅰヨハネの最後の言葉である。
「私達はキリストの内にいるのです」
(5:20)
という
メッセージがこの手紙の中心テーマと思われるの
で、戸惑いを感じる方がいるかもしれない。しかし
ながら、
この手紙の内容を見事に締めく
くったものと
考えられる。
クリスチャンにとっては、キリストのみ で十分である
はずで、
それ以外に心を移すことは偶像礼拝と言え
るからである。これは、罪の本質であるむさぼりを
切り離せないところから起こり
(コロサイ3:5-9)
、イス
ラエルが陥った危険である
(Ⅰコリント10:1-14)
。
キリストにあるなら古き人の処分の方法を知っている
(コロサイ3:9,10)はずである。したがって、 偶像
を警戒する というのは、一言でまとめるにふさわし
い。
"!$
7
July
● 月日
黙示録のキリスト像
山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れ
かかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、
私たちをかくまってくれ。(黙示 6:16)
黙示録のキリストには、恐ろしいまでの威厳をもった
キリスト
(1:12-20)の姿がある。それは教会を裁か
れる姿(2:1-3:22)
である。しかしながら、
それとは全
く対照的な、弱々しい小羊も描かれている。黙示
録にはこの呼び方が 52回使われている。また、原
語では 小さな小羊 と表現される特別な言葉が
29回使われ、この言葉は黙示録以外ではヨハネ
21:15にのみ使われている。
実は、この小 羊が世をさばくお方である
(5:4-
18:20)。小羊の怒りは恐ろしい(6:16)と言われてい
る。救いも、裁きも、十字架の血によっている
(5:9)
ことを知る必要がある。
厳しい神と、やさしい小羊。なんという対照!そこに、
真理が隠されている。
"!%
7
July
● 月日
恵みの大河のなかに
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る
ようになる。(ヨハネ7:38)
ある所で、何日も水に渇いて苦しんでいた漂流船
の乗組員が船影を認めて必死に叫んだ。「おー
い、水を飲ませてくれ!」…と。その時、大声が帰っ
てきた「船のまわりにバケツを投げて見ろ」。彼は、
言われた通り、バケツを入れて汲み上げ、
その水を
なめてみて驚いた。それは真水だったのだ。実は、
漂流しながらアマゾンの河口に入っていたことを知
らなかったのである。
あなたは、すでに恵みの河口にいる事を知っている
だろうか。それとも、
まだ「水を飲ませて」
と叫んでい
るのであろうか? 汲めば、
飲める水が、
あなたの周りにあるのだ。
"!&
7
July
● 月日
四人の人、
第四の人
すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわ
を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも
彼らは何の害も受けていない。 第四の者の姿は
神々の子のようだ」。(ダニエル 3:25)
ダニエル書の 1、2章にはベルテシャツァル、
シャデラ
ク、メシャク、アベデ・ネゴという四人の人のヘブル
の青年達の物語が描かれておあり、3章では、三
人の人達と共に第四の人が現れる
(3:25)
。
ここに書かれているエピソードを通して、驚くべき神
の奇跡を知ることができる。それは、この四人が命
を賭けて神に信頼した結果で(1:12、2:18、3:17-
18)、神への信仰が「私たちはあなたの神々に仕
えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしませ
ん」
(3:18)
という告白になっている。
さて、第四の人とは誰だろう。それはキリストの旧
約時代の姿に他ならない
(ヨハネ8:56,58)
。
"!'
7
July
● 月日
His Story
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる
御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の
栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
(ピリピ 3:21)
ダニエル書にはダニエルをはじめ、
多くの登場人物
の個人的な歴史が書かれているが、実はその歴
史は 神の歴史 であり、
これは英語で His Storyと
書かれる。
つまり、ネブカデネザル(ダニエル 4:32-33)
、ダリヨ
ス、
クロス
(8:20)
、
アレクサンダー
(8:21-22)
、
アウグ
スト
(ルカ2:1)…彼らは全て主の手の中に置かれ、
神が動かしている盤上の駒にすぎなかったのであ
る。
人権とか自由が声高に叫ばれている人間中心の
時代にあって、クリスチャンは歴史を通して神の主
権によって導かれている。そのような世界観に生き
ている。
"!(
7
July
● 月日
見る
しかし、もし、私があなたのところから取り去られる
とき、あなたが私を見ることができれば、そのこと
があなたにかなえられよう。(Ⅱ 列 2:10)
エリシャは「あなたの霊の、二つの分け前を」
と願っ
た時、
エリヤは「それは難しい。しかしもし見ることが
できれば、そのことがかなえられる。」
と言った。する
と、
「一台の火の戦車と火の馬とが現われ…」エリ
シャはそれを 見た のである。そして、彼がマントを
使って水を打つと両側に分かれた。彼の信仰の
結果がここに現れた。
使徒パウロは信じる者の可能性がどんなに大きい
か聖徒達が見ることができる様にと祈っている
(エ
ペソ1:18-19)。
あなたの周りに、自分の信仰の結果、自己評価の
反映としての具体例があるだろうか?そこに、
あなた
の夢を託すビジョンがあるだろうか?そこから、あな
たの人生に対するビジョンを引きだそう。あなたも、
エリシャの様に 見る ことができるように…願ってい
る。
"!)
7
July
● 月日
霊に燃え、
主に仕える
イスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、
先祖の咎を告白した。(ネヘミヤ 9:2)
目標を持ち、使命に生きる者にとって、
どんな困難も
チャレンジとなり、
充足感となる。
エズラの神殿建設、ネヘミヤの城壁建設に関わっ
た民がそうだった。彼らは神殿を建設するという明
確な目標を持ち、神の霊によって奮い立たされ
(エ
ズラ1:5)
、み言葉に励まされ
(5:2)
、戦い
(ネヘミヤ
4:17)、祈り
(ネヘミヤ 4:9)
、
完成した。
その結果、彼らのうちに霊的革命も達成された
(エ
ズラ10:1 ネヘミヤ 9:1-3)
ことは、
特筆すべきことであ
る。霊的な解決は、具体的な戦いを通して得られ
るのである。
今あなたに必要なことは、霊的なことだけを求める
だけでなく、
ビジョンを明確にして、具体的に心を熱
くすることである。
""
7
July
● 月日
天のお父様
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴
隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊
を受けたのです。 私たちは御霊によって、
「アバ、
父。」と呼びます。(ローマ 8:15)
主イエスの偉大な生涯の秘密は、神を父として信
頼されたことにある。
同じように、天の父を信頼する幼子を神は求めて
おられ、
そのような子にご自身を現わされる。「天地
の主であられる父よ。…これらのことを、賢い者
や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わし
てくださいました」
(マタイ11:25)
。
クリスチャンには、神を天の父と呼ぶ霊が常に与え
られている
(ローマ8:15)。実は、すでに父を知っ
ているのだ。その事実を受け入れ、その通りに信
頼してみよう。きっと父を身近に感じるはずだ。
今日、
本気で「天のお父様」
と呼んでみよう。
""!
7
July
● 月日
ほんとうに神の子どもです
この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じ
た人々には、神の子どもとされる特権をお与えに
なった。(ヨハネ1:12)
あの有名なベン・ハーは、奴隷からローマ総督の
養子になった。それは、
彼の生涯にとっての輝かし
い転機になった。その時から彼は、二つのルーツ
に生きる者となった。ユダヤ人として生まれたルー
ツ、そしてローマ高官の子としての身分である。そ
れを得た時、彼は奴隷という傷ついた歴史を持ち
ながらも、
その部分は完全に覆い隠された。
あなたも、キリストを通して神の子となった時、二つ
のルーツを生きることになった。罪と律法の束縛に
生まれながら、そこから解放された、いわゆる 生れ
ながらの私 。そして、
神の身分と特権に生きる、新
しい私 である。
あなたは今、
「わたしはわたし」
と叫びながら、
「ほん
とうに神の子どもです」
という確信に立つ。
"""
7
July
● 月日
生ける水
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る
ようになる。(ヨハネ7:38)
暑い国が舞台となっている聖書に、氷、雪に関する
記述が 26回ある。
例えば、
「神の息によって氷が張り、広い水が凍りつく」
(ヨブ 37:10)。「あなたは雪の倉にはいったこ
とがあるか。雹の倉を見たことがあるか」
(ヨブ
38:22)。「氷はだれの胎から生まれ出たか。空
の白い霜はだれが生んだか。 水は姿を変え
て石のようになり、深い淵の面は凍る」
(ヨブ
38:29-30)。「主は羊毛のように雪を降らせ、灰
のように霜をまかれる。主は氷をパンくずのよう
に投げつける。だれがその寒さに耐ええようか」
(詩 147:16-17)。
このようなみ言葉に耳を澄ませば、私達の内に湧き
出てくる
「生ける水」の音が聞こえる。
""#
7
July
● 月日
私の霊によって
私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の
賜物を、再び燃え立たせてください。(Ⅱ テモテ 1:6)
御霊の種火は絶えず燃えているので、どんなに時
が変わっても、雰囲気が悪くなっても、御霊は変わ
らない。
その源は、
どこにあるのだろうか?
第一は「キリストにある認識」の中にある
(ローマ8:2、
8:10)。すなわち、キリストにある ゆえに 御霊にあ
る という認識である。
第二は「異言の領域」にある。異言は言葉よりも
領域と考えてよい(Ⅰコリント14:2、14:15)
。この領
域にゆだねることが御霊に満たされることである
(エ
ペソ5:18-19)。したがって、知性でも、霊でも賛美
することができるのである
(Ⅰコリント14:15)
。
このような認識で、どんな時でも源に戻ることができ
る。
""$
7
July
● 月日
アーモンドを見ている
次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。
あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。
「アーモンドの枝を見ています」。(エレミヤ 1:11)
エレミヤが神から召された時は、
すでに北イスラエル
は滅び、南ユダも滅亡の危機にあり、いわゆる 冬
の時代 で、
何も期待できない時であった。
召された時、神から
「何を見ているのか。
」
と問いか
けられ、
「アーモンドの枝」
と応えた。アーモンドとい
うヘブル語には 目覚めている とか 見張っている
という意味がある。主は、
たとえ枯れ木のようであっ
ても、
それを見張っている。
私たちの町、地域、国も同じような可能性を秘めて
いる
(エレミヤ 18:7-10)。イエスが、
「わたしの愛
の中にとどまりなさい。」
(ヨハネ15:9)
と言われる
のは、そこから豊かな命が流れるようにするという意
味である。
力の限り見張ってあなたの心を守れ
""%
7
July
● 月日
わたしはまことのぶどうの木
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は
農夫です。(ヨハネ15:1)
「まこと」
という言葉はヨハネの福音書の中の鍵の
ことばのひとつである。主は「まことの光」
(1:9)
、
「まことのパン」
(6:33)
、
「まことの門」
(10:7)
と
言われ、そしてこの「まことのぶどうの木」なのであ
る。
主イエスの行為は、
永遠の父である まこと の農夫
に結びつけ、人生の安息に導く。主がいつも問題
にしているのは、
朽ちない永遠の事である。
あなたは、
「わたしはまことのぶどうの木」
と言われ
る方と結ばれて、初めて生きた交わりをもち、あなた
の まこと の故郷である、天の存在がリアルになっ
ているか。そこからいつも変わらない恵み、父の愛
が流れてくる。
主にある臨在を受け止めよう。主の喜びを体験し
よう。それが まこと である。
""&
7
July
● 月日
恵みによって生きる
私はキリストと共に十字架につけられました。もは
や私が生きているのではなく、キリストが私のうち
に生きておられるのです。(ガラテヤ 2:20)。
恵みによって救われたクリスチャンが、律法の古い
教えのとりこになっていくことに危機感をもって、パウ
ロはガラテヤ人へ手紙を書いた。律法はあるひと
つの状況に、
ひとつの事柄でしか関わることが出来
ないが、恵みは多様で柔軟、自由で変化に富んで
いる。律法は次から次へと生ずる危機につまずくが、
恵みはあらゆる事柄を充足させる。
私たちが、 信仰によって… という場合に、恵みの
神を信じているのか、神を信じている自分を信じて
いるのか…考える必要がある。
パウロは自分を、キリストと共に十字架につけ、生き
ているのは神の御子を信じる信仰によっている
(ガ
ラテヤ 2:20)
と叫んだ。神の恵みは、人が自分で
生み出すことの出来ない領域であり、キリストが勝
ち取ってくださったものである。
""'
7
July
● 月日
健康ですか
愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ている
ようにすべての点でも幸いを得、また健康であるよ
うに祈ります。(Ⅲ ヨハネ2:2)
世界保健機構(WHO)は、健康について「単に
体に病気がないとか弱くないというだけではなく、肉
体的にも精神的にも社会的にも完全に調和のとれ
た良い状態である」と定義していることが知られて
いる。ところが、ここにもうひとつの側面を加える必
要があるのではないかという議論が起こり、結論が
出た。それは、
「霊」
(Spirit)
であり、新しい定義は
次のように定められた。
Health is dynamic state of complete physical,
mental, spiritual and social well-being and not
merely the absence of disease or infirmity.
聖書は創世記から黙示録に至るまで神と人は霊
的存在であると語っている。キリストを信じる者は、
神の「聖霊」によって生まれ、
「聖霊」に満たされ、
「聖霊」
に導かれる。
その状態こそが、
真の意味の健康である。
""(
7
July
● 月日
あなたは、
神の子キリストか
私は、生ける神によって、あなたに命じます。あな
たは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言
いなさい。(マタイ26:63)
十字架を目前にして、主イエスは、
ご自分が油注が
れたメシヤであると公言されたが、もっと別の機会
に、…そう、例えば人々をいやし、2匹の魚と5つの
パンで 5,000人を養い、盲人の目を開き、足の不自
由な人の足を立たせ、ラザロを墓の中から呼び寄
せて、神の偉大な奇跡のみ業を見せたあの時こそ、
メシヤを宣言するのにふさわしかったのではないだ
ろうかという疑問が起こる。
しかし、現実には、
ご自分のことを
「キリスト」だと言っ
てはならないと何度も忠告し、ついに、このカヤパの
庭で、
ご自身がメシヤであると認められたのである。
降誕の時に天使は この方こそ、ご自分の民をその
罪から救ってくださる方 と語られ、不思議なわざや
奇跡を行うことは言われなかった。むしろ、
この方は、
死に向かわれることを言ったのである。
"")
7
July
● 月日
いのちの水の川 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がる
あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるように
なる。(エゼキエル 47:9)
主の尊い犠牲の血によって代価は払われ、すべて
あがな
の条件が整えられて贖いは完成した。その結果と
して聖霊が来られ、天国は開かれている
(エペソ
1:14)
ので、
栄えに満ちた喜びが私たちのものとなっ
た。
私たちに与えられた命は、栄光から栄光へ導く永
遠のものである。すでに完成したことを無駄にして、
主をもう一度十字架につけるようなことがあってはな
らない。逆戻りして、十字架を無価値にしてはいけ
ない!
神によって生まれたあなたは、生ける神の宮(Ⅰコリ
ント3:16)
であり、そのいのちは泉(ヨハネ4:14)
とな
り、生けるいのちの水の川となる
(7:38)
。それによっ
てできる川では、すべてのものが生きる
(エゼキエル
47:9)
のである。
"#
7
July
● 月日
神の愛に根ざす
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住ま
わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立
つ者としてくださるように。(新共同訳 エペソ3:17)。
歴史的に偉大な指導者たちはみな、世間の悪評
に囲まれながら、謙虚な態度で生きる人であった。
それは彼らが深く根を地に下ろしていたからで、高
く育つ木には、
深い根があるためである。
深い根を持っていないと、他の人の言葉に動かさ
れる。もし、
世間の評判を気にしすぎると、
自分を見
失うことになる。その時、いかに自分が表面的であ
るか分かる。
神の愛に深く根ざした人は、人からの称賛に執着
することなく、自己充足できる。充ち足りた心から主
を信じ、
委ねて待つならば、
主の働きを見る。
キリストにある者は皆、王なる祭司である
(Ⅰペテロ
2:9)。聖霊によって、父の愛が私たちの心に注が
れている
(ローマ5:5)。それを受け止めよう。
"#!
7
July
● 月日
いつものように…
彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の
神の前に祈り、感謝していた。(ダニエル 6:10)
少年時代に捕われの身となったダニエルは、異国
の王に影響を与え、生涯その使命を全うした。彼
は、いつものように(ダニエル 6:10)
…たびたび天
を仰ぎ、
祈りをささげた。
主は、場所や時間に制限を受けないで行われる、
霊とまことの礼拝を預言したが(ヨハネ4:23)
、ダニ
エルは、囚われの身でありながら、この異国の地で
その礼拝をささげていた。特別なこととしてではなく、
ごく普通に行われる礼拝と祈りが大切なのである。
十字架を前にしたイエスは、いつもの場所 に行
かれた。そこで弟子たちに語られた。すなわち、
「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
(ルカ
22:40)
であった。
ごく日常的な祈りが、無味乾燥な御題目のような言
葉にならないように…。
"#"
7
July
● 月日
ヤコブの神 彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。 彼は
その力で神と争った。(ホセア 12:3)
ヤコブは人間的な賢さに長けており、人を押しのけ
る強さを持っていた。彼は、母の胎の中で、兄エ
サウを押しのけた。ヤコブの強さは、御使いに勝
つほどであり、妻を得るために長年耐え忍ぶほどの
ものであった。
そのヤコブが泣いた時がある。御使いと闘って勝
ちを得た後である。「彼は御使いと格闘して勝っ
たが、泣いて…」
(ホセア 12:4)
。最強の相手に
勝ってみて、はじめて味わう虚しさ。孤独と恐れが
彼を襲った。そのとき、
不思議な力が流れた…
ヤコブと神が結びついて、生きるものとなった。もも
のつがいを打たれて足を引きずるヤコブは、自分の
力を頼めず、主を待ち望み、安息し、神の力を表す
者となった。
この主は、万軍の主
(ホセア12:5)
であり、ヤコブの
急所をついたお方である。
"##
7
July
● 月日
弦楽器にあわせて
私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、
私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器
に合わせて。(ハバクク3:19)
ハバククは「私が…しているのに、
なぜして・・・
してく
ださらないのですか…」と、何度も神に叫んだ。そ
の時の沈黙の中から、シグヨノテ (悲しみの歌)
(ハバクク3:1)が生まれた。大切なものを失った
悲しみの中で、すべての源なる主に抱かれて喜び
が生まれたのである。その時ハバクク
(抱きしめる)
という名前の意味が現実のものになった。
神の御手がその人の上にある時、
外なるものと共に
内なるもの、内臓とくちびる、骨と足元は震え、たまし
いが砕かれていく。その時、
自分を主張することから、
「静かに待ちます」
(ハバクク3:16)
に変えられる。
この祈りを指揮者の手に委ね、
弦楽器の調べに合
わせてささげた。この祈りが歌となり、響き渡る時、
全地はその御前に静まり、地は主の栄光を知ること
で満ちる。
"#$
7
July
● 月日
あふれる神の愛 わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいら
れようか。そこには、右も左もわきまえない十二万
以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。
(ヨナ 4:11)
ヨナは、ナザレから歩いて 1時間程の町、ガテ・ヘ
フェルの生まれで、北イスラエル王国で活躍した
(Ⅱ
列王 14:25)。彼は当時、名の通った預言者で
あり、国民的英雄であったと思われる。そのヨナに、
神は、敵国アッシリアに行って神の祝福のことばを
伝えよ、
と言った。当然ヨナは「どう考えても、
それは
不条理 です」
と叫んで、反抗した。そのことは常
識的であった。私たちの目に正しいことのように見
えても、神の考えは異なることがある。ヨナ書には、
ニネベの民に対する愛と同時にヨナに対する細や
かな愛が表されている。あふれる神の愛が、そっと
開かれた宝物のように見える。
神は、
「何度まで赦すべきですか」
(マタイ18:21)
と言ったペテロに対する答えとして、十字架を示さ
れた。それを「見いだす者には、それはいのちと
なり、
その全身を健やかにする。」
(箴言4:22)
。
"#%
7
July
● 月日
ヒソプ ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢
の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。
(出エジプト12:22)
ヒソプは聖書に出てくる植物で、聖書辞典には「し
そ科の植物で、葉をちぎるときに芳しい香りを放つ。
傷つけられると香る草。
」
と書かれている。
これが、
エジプトで行われた最初の過越の日、家の
鴨居と2本の門柱に羊の血をつけるのに用いられ
あがな
た。この羊の血はキリストの十字架による贖いの
血のひな形である。
災いが過ぎ越すとの約束は、血の塗られた門の
家の中に居た者に対するもの、家族に対するもの
であった。「主イエスを信じなさい。そうすれば
あなたもあなたの家族も救われます。」
(使徒
16:31)
「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてくださ
い。そうすれば、私はきよくなりましょう。」
(詩篇
51:7)。
"#&
8
August
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。
それはわざわいではなくて、
平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
─ エレミヤ 29:11 ─
8
August
● 月日
心の貧しい者
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のも
のだからです。(マタイ5:3)
心の貧しい という表現は、
「わたしは、高く聖な
る所に住み、心砕かれて、へりくだった人ととも
に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた
人の心を生かすためである。」というイザヤ 57:15
の言葉と、
「わたしが目を留める者は、へりくだっ
て心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」
(イザヤ 66:2)
の 心砕かれた者 からきている。
天の御国は、
その人のものと言われているが、本当
は そのようなものとする という表現の方が正しい。
それによって、 心の貧しい者は幸いです。神の国
はそのようなものだからです という意味になる。
そして次に続く8つの幸い…「悲しむ者、柔和な者、
義に飢え渇いている者、あわれみ深い者、心の
きよい者、平和をつくる者、義のために迫害され
ている者は幸いです」
(マタイ5:4-10)は、神の国
の条件と内容を表している。
"#(
8
August
● 月日
バプテスマのヨハネ
打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼
らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く。
彼らの王は彼らの前を進み、主が彼らの真先に進ま
れる。(ミカ 2:13)
主は、
「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、
天の御国は厳しく攻められています。そして、激
しく攻める者たちがそれを奪い取っています(マ
タイ11:12)」
と言われたが、
その時、
「ヤコブよ。わ
たしはあなたをことごとく必ず集める。わたしは
イスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは
彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れ
のように一つに集める。こうして人々のざわめき
が起ころう。」という、ミカ書 2章 12節のことばを想
起されたに違いない。
一晩中おりに閉じこめられていた羊の群れが、
朝に
なって、その出口にひしめき合いながら殺到して自
由の世界に出ようとする光景…それが、今日の姿
である。バプテスマのヨハネによって開かれた出口、
それを通し、自由を求めて神の国に殺到する群衆
…抑圧されていたところを解放され、殺到する群
衆の姿がそこにある。
"#)
8
August
● 月日
集会の権威
まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたが
たが地上でつなぐなら、それは天においてもつなが
れており、あなたがたが地上で解くなら、それは天
においても解かれているのです。(マタイ18:18)
このみ言葉は、
「もし、あなたがたのうちふたりが、
どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、
天におられるわたしの父は、それをかなえてくだ
さいます」という19節の言葉を使って祈る時の励
ましのように解釈される。しかしながら、
「ふたりで
も三人でも、わたしの名において集まる所には、
わたしもその中にいるからです」
(18:20)
とあるよ
うに、明らかに主を信じて集まる教会のことを言って
いる。
すなわち、教会における話し合いと決断は、
そのまま
天の決定になる、権威が与えられている。教会と
いう、
からだ組織体に対して言われた言葉として受
け止めよう。例えば、
「そこで使徒たちと長老たち、
また、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、
パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送る
ことを決議した」
(使徒 15:22)
という議論と決断
である。
"$
8
August
● 月日
将来と希望 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈
るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もし、あな
たがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わ
たしを見つけるだろう。(エレミヤ 29:12,13)
エレミヤを通して、神が語られたことばは真理で
あったが、ハナヌヤが語ったことばは偽りであった。
彼は占い師、夢見る者であった(29:8)
。彼は 2
年のうちに捕囚は終わると預言し
(28:2-3)
たが、
エ
レミヤはそれを70年と預言した(29:10)
。その預
言と励ましは、
「バビロンに家を建てて住み、畑を
作ってその実を食べよ。家族を作り、民を増や
せ。その町の繁栄を祈れ」
(29:5-7)
であり、 今、
ここ
(バビロン)
で祈れ と言われたのである。
私たちは、しばしば今の自分に満足せず、現状を
変えてほしいと願う。しかしながら、神があなたを召
し出そうとしておられる場所は、実は、今あなたが
立っている所である。イエス・キリストの十字架は、
遠い将来の夢のためではなく、今ここでそれを見出
す者のためにある。
"$!
8
August
● 月日
恵みの御座
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵み
をいただいて、おりにかなった助けを受けるため
に、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
(ヘブル 4:16)
旧約の時代には、大祭司が動物を殺して血を流
さなければ至聖所へ入ることはできなかった(ヘブ
ル 9:7)。犠牲となる動物をささげた時に、神に近
づくことがゆるされたのである。
新約の時代には、動物ではなくイエス・キリストの血
が十字架で流され、
これによって、キリストを救い主
と信じる者は、神に近づくことができるのである。そ
こが恵みの御座である。
しかも、主はよみがえられ、
ご自身の血を携えて天に
上って行かれた(ヘブル 9:12,24)
。それによって、
さばきの座が恵みの御座となったのである。
「大胆に恵みの御座に…」近づくと、私たちを喜び
に満たしてくれるのである。
"$"
8
August
● 月日
黙示録の祈り
「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエ
スよ、来てください。(黙示 22:20)
祈りは投資である。黙示録はそれを教えている。
祈りは即答されるとは限らない。祈りはまるで投資
のようなものに見える。積み上げられ、
蓄えられた祈
りが重要である。「…御使いが出て来て、金の
香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたく
さんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りと
ともに…」
(黙示 8:3)
と言われている。
祈りは、決して無駄にならない。「また、別の種は
いばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっ
しょに生え出て」
(ルカ8:7)
とあるように、祈りは清
濁混合の中にあって、決して優等生のものではな
いのである。
教会の究極の祈りは マラナ・タ(主よ来たりませ)
(Ⅰコリント16:22)である。この祈りに生きる教会は
時代に影響を与えずにはおかない。とにかく祈ろう
!
そして、
祈りを蓄えよう。
"$#
8
August
● 月日
再臨に必要なハイテク
そのとき、
『そら、キリストがここにいる』
とか、
『そこ
にいる』とか言う者があっても、信じてはいけませ
ん。(マタイ24:23)
衛星放送によって全世界に生中継が可能になっ
た時、
キリストの再臨の時には、だれがどんな事をし
ても…知らされる、
という聖書の言葉が確かに実現
できることが分かった。
主の再臨の重要な前兆は反キリストの出現で(Ⅱ
テサロニケ2:3-4)
、彼は恐らく傑出した政治家とし
て国際舞台に登場するであろう。そこで、彼の評
価を高める際立った一つの出来事が起こる
(黙
13:1-3)。また、彼の右腕となる偽預言者の行動
(13:11-17)
、などのニュースが、全世界に生放送
されるはずである。
この時、個人情報はコンピューター化されると考え
られる
(13:16-18)。黙示録は 2000年前に書か
れたが、
その時すでに、今日のハイテク社会を予告
しているかのようである。なんと壮大なことか!
"$$
8
August
● 月日
再臨のキリスト信仰 七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。
神の激しい怒りはここに窮まるのである。
(黙示 15:1)
私たちの身代わりとなり、十字架において神の怒り
を受けてくださったキリストは、
「ほふり場に引かれ
て行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙って
いる雌羊のように、彼は口を開かない。」
(イザヤ
53:7)。彼は人にも神にも捨てられ、すべてを父な
る神に委ねられた。
私たちの信仰、
永遠のいのちは、
さまざまな試練、
火
を通して精錬される。それは金にもまさって尊いも
のである。信仰とはキリストそのお方そのものである。
決して、
私たちの中のある一部分のことではない。
「時が近づいているからである。…正しい者は
いよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖
なるものとされなさい」
(黙示 22:11)
。
悔い改めを通して信仰から信仰へと導かれ、再臨
の主を待ち望もう。
"$%
8
August
● 月日
マラナ・タ
(主よ来て下さい)
これらのことをあかしする方がこう言われる。「し
かり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、
来てください。(黙示 22:20)
主の再臨によって、
被造物全体がうめき、
産みの苦
しみをしてきた(ローマ8:22)時代は終わる。その
時、朽ちるものと朽ちないものとの間に横たわってい
たギャップは完全に除かれる。
「朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬもの
が死なないものを着るとき、聖書に書いてある言
葉が成就するのである。
」
(Ⅰコリント15:54)
と言われ
ている通り、朽ちない霊は朽ちないからだを着て永
遠に生きる。
いま与えられている地上における人生はすばらし
い。しかし、
それを束縛していた制限が完全に除か
れた人生のすばらしさは想像を絶する。クリスチャ
ンはこの目標をしっかり持っているべきである。それ
が無ければ、この世の人の生き方と何ら変わらない。
それが信仰のゴールである。
"$&
8
August
● 月日
聖書の中の特別な数字
わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの
金の燭台について、その秘められた意味を言えば、
七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台
は七つの教会である。(黙示 1:20)
7 は神を表す完全数で黙示録に52回出て来る。
神は天地創造の 7日目に休まれたが、人は 6日目に
造られた。ここから、6 は人間の数字と言われてい
る。神に似せて造られたが、神では無いことを意味
していると言えよう。
12 、 40 も神の数字である。12部族、12使徒、
主の 40日の試練、
イスラエルの荒野の 40年…
ところで反キリストの数字は、
「その数字は人間をさ
しているからである。その数字は六百六十六で
ある。
」
(黙示 13:18)
と言われている。彼は人間な
のである。
この数字は、
6が 3つ並んでおり、超自然的な面も表
している。そこから
「三位一体」へも思いを巡らせる
ことができるからである。
"$'
8
August
● 月日
アモスの時代
ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。 アー
メンである方、忠実で、真実な証人、神に造られた
ものの根源である方がこう言われる。「わたしは、
あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもな
く、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、
熱いかであってほしい。(黙示 3:14,15)
預言者アモスは BC750年頃に活躍した人で、当
時イスラエルの南北両王国は、繁栄と平和の絶頂
にあったが、霊的、道徳的には退廃の極みにあっ
た。社会正義は地に墜ちており、今日の世界に似
ている。
時代はまさにラオデキヤ教会(黙 3:14-20)
のようで、
健全な霊性を保つことが困難である。この様な状
況から、主の再臨が近いことがわかる。だからこそ、
主に心を向けよう
(Ⅱコリント3:16,17(
)黙示 3:20)
これを習慣とすれば、時代の悪に流されることはな
い。かえって生ける水が
(ヨハネ7:38)
、
そして正義が
(アモス5:24)
川のように流れるであろう。
"$(
8
August
● 月日
予言者と預言者
預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与え
るために、人に向かって話します。(Ⅰコリント14:3)
予言者 とは未来についての予知能力を持った
者で、
一般的な言い方である。しかしながら聖書は、
神のメッセージを預かって伝えるものを、 預言者 と
して、発音は同じであるが区別している。もちろんこ
の預言者も予言という能力を発揮しているが、単に
予知することが目的ではないからだ。
人は未知のものを知りたいという強い欲求を持って
いる。そこに目をつけて、予言を売りものにするのは
ニセ預言者である。現代は、主が予告された様に
(マタイ24:11)
、
多くの偽者がはびこっている。
予言 を求めるのではなく、
「愛を追い求めなさい。
また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求
めなさい。
」
(Ⅰコリント14:1)
と言われている。
そう、預言 を求めよう。
"$)
8
August
● 月日
リバイバルの2つのタイプ
フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ
…。わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。
わたしは、だれも閉じることのできない門を、あな
たの前に開いておいた。(黙示 3:7-8)
黙示録 3章には 2つのタイプの教会が説明されて
いる。フィラデルフィア
(3:7-13)
とラオデキヤ(3:14である。
20)
フィラデルフィアはリバイバルの教会であり、
時代の波
に乗って発展した教会である。今日その様なタイプ
の教会をアフリカ、
南米、
ソ連、
東欧などで見ることが
できる。いわゆる現代社会が生みだした結果と言っ
てもよい。また、
もう一つはラオデキヤ教会で自己満
足に押し流されている教会である。
このような中、自発的に主を見いだし、
リバイバルを
造っていく可能性がそこにある
(3:20)
。
価値あるリバイバルである。リバイバルを造ろう
!
"%
8
August
● 月日
洞察力と預言
私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中
でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなので
す。(Ⅱ コリント2:15)
洞察力はリーダーシップの三つの要素のひとつで
ある。これは、 霊の人 の特徴と同じである。「御
霊を受けている人は、すべてのことをわきまえま
す」
(Ⅰコリント2:15)
とあるが、わきまえる 人こそ、霊の
人である。
集団の傾向や人間関係の状況を深く理解して、
そ
れを土台にみ言葉を選別して会衆に語りかける…
それが預言の大切な要素である。それは、誰にで
もある素質であり、
「あなたがたは、みながかわる
がわる預言できるのであって、すべての人が学ぶ
ことができ、すべての人が勧めを受けることがで
きるのです」
(Ⅰコリント14:31,32)
と言われている。
洞察力、預言の賜物が教会に求められている。そ
れがリーダーシップになる。
"%!
8
August
● 月日
信仰、
恵み
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守ら
れており、終わりのときに現わされるように用意さ
れている救いをいただくのです。(Ⅰ ペテロ1:5)
私達は、神の力によって守られている。「罪過の中
に死んでいたこの私たちをキリストとともに生か
し、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによ
るのです」
(エペソ2:5)
とあるように、その信仰は神
の恵みであり、救い そのものである。
神の真実は選ばれた者を恵みによって守り、全うさ
れるので、固い約束の上にある。「あなたがたを召
された方は真実ですから、きっとそのことをしてく
ださいます。
」
(Ⅰテサロニケ5:24)
という。
たとえ、
どのような状況に至っても、
あるいは信仰が無
くなったかのように見えたとしても…神の真実の御
手からの出ることは無い。
"%"
8
August
● 月日
悪人と善人
なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力
を増すのか(ヨブ 21:7)。それゆえ、悪者は、さばき
の中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに
立てない。(詩篇1:5,6)
悪人は神を無視する人であり、善人は神を真剣に
求める人である。そのどちらにも、報いがあると言わ
れており、当然善人が祝福を受けるはずである。し
かしながら、
「…この足がたわみそうで、私の歩み
は、すべるばかりだった。それは、…悪者が栄え
…彼らのからだは、
あぶらぎっている」
(詩篇 73:1ということが起こる。
4)
人生は、
「肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈
り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠
のいのちを刈り取る。
」
(ガラテヤ 6:8)
という原則に
沿って動いている。
ただ、神が共にいますという絶対保証を確認して、
「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせ
なのです」
(詩篇 73:28)
と叫ぼう。
"%#
8
August
● 月日
種まく人 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟
る人のことで、その人はほんとうに実を結び、ある
ものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍
の実を結びます。(マタイ13:23)
オランダの画家ゴッホの作品に「種まく人」がある。
そこに描かれている人、光、風、水…にいのちを感じ
る。種は土を通して栄養をもらい、世話されながら
成長する。
聖書は、み言葉を種に、
それを聞く人の心を土にた
とえて、
「心に植えつけられたみ言葉を、すなおに
受け入れなさい。
」
(ヤコブ 1:21)
と言っている。地
に植えられ、成長し、花を咲かせ、実を結ぶために
は、
心が耕され、
砕かれなければならない。
私たちの心には、怒り がある。それを他人、
社会、
そしてついに自分にぶつける。その元は自分自身
の罪と欲である。イエス
・キリストが一粒の種となって
死んでくださった。このお方を受け入れるなら、
種が
成長し、
豊かな実を結ぶ。
"%$
8
August
● 月日
舵を取る人 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知
恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさ
い。 私たちはその人たちをこの仕事に当たらせる
ことにします。(使徒 6:3)
教会を船にたとえると、それを運行するための重要
な役割は船長や操舵手にある。船長は行先を示
す役割であり、操舵手には船が航路を守るために
舵を操作し、船が安全に航行するために、見張る
責任がある。これは教会のリーダーのことである。
リーダーには、管理の賜物が必要で、原語(ギリ
シャ語)では操舵手の意味である。これが教会の
長老・執事会や役員会に相当する。初代教会に
おいて長老たちが重要な問題を討議した後、 聖
霊と私たちは次のように…決めました 。と宣言した
(使徒 15:28)
。教会の役員たちはこのように聖霊
の導きに敏感であるべきである。
「あなたがたの中から御霊と知恵に満ちた評判
の良い人たちを選びなさい…この仕事に当たら
せることにします」
(使徒 6:3)
。
"%%
8
August
● 月日
ヨブ記からの暑中見舞い
神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏ま
れる。神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、
南の天の室を造られた。(ヨブ 9:8-9)
暑さで弱っている時、
ヨブ記を読むがいい。
ヨブ記全体が、
暑い夏の夜空に星を見る様子を示
している。壮大な情景を表しながら、
「水は海から
消え去り、川は干上がり、かれる。
」
(14:11)
と、空
から見えるような真理を語っている。
このようなみ言葉に接すると、人生について深く考え
させられ、日常の小さな出来事から解放される思い
になる。
ヨブ記には、神御自身の深みから吹き上がってくる
涼風が漂っている。聖霊の風は決して激しい風だ
けではなく、
心地よくやさしい涼風もあるのだ。
暑い夏、帆を大きく張ってこの聖霊の風をいっぱい
に受け、
あなたの船を進めよう。
"%&
8
August
● 月日
信仰の形
しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなた
を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはあり
ません。ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは直りますから。
(マタイ8:8)
この百人隊長の言葉は大胆で、
堂々として、
また、
カ
ナンの女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬
でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきま
す。
」
(マタイ15:27)
と言い、あきらめない 信仰を表
している。
また、
「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何
一つとれませんでした。でもおことばどおり、網を
おろしてみましょう。
」
(ルカ5:5)は、相手に対する
義理から従う行動ではあるものの、これも一つの形
である。さらに、ひきつけのある息子を癒してほしい
と願う父親(マルコ9:17-24)の場合は、それしか方
法が無いと思うような絶望的な態度であった。
信仰の行動に公式は無い。ただ共通していること
は、
み言葉にかけて行動することである。
"%'
8
August
● 月日
忘れない
主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇 103:2)
不信仰の原因は先入観からくる
「頑固」である。こ
れは、
まわりの事を思いやることが出来ないほど鈍感
になっていることも意味している。
わずか 5つのパンで 5,000の人が食べた奇跡を目
の前にしながら、その後すぐに「そこで弟子たちは、
パンを持っていないということで、互いに議論し
始めた。
」
(マルコ8:16)
という。残念な事に、鮮明
な恵みを、
新鮮に思い返さなかったのである。
過去の体験の上に自らの信仰を打ち建てなければ
ならない。いつも、恵みの記憶に心を開くことが重
要である。
忘れることは信仰の大敵である。現在の困難にの
み目を向け、
過去の恵みを見ないように仕向けること
がサタンの特徴である。神から受けた恵みを忘れ
てはいけない。
"%(
8
August
● 月日
キリストの信仰
七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。
神の激しい怒りはここに窮まるのである。
(黙示 15:1)
黙示録に書かれている七つの災害の中で、
神に汚
れたことを言い続け、自分の行いを悔い改めない姿
は、
我々の罪深さそのものである。
自分の罪深さを考えると同時に、身代わりとなり、十
字架において神の怒りを受けてくださったキリストの
ことを考えよう。
「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈
る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開
かない。
」
(イザヤ 53:7)
。キリストは人にも、神にも捨
てられた。このキリストが、
私たちの内に生きておられ
る。
私たちに提供された信仰は、さまざまな試練、火を
通して精錬される金にもまさって尊い。十字架を通
られたキリストの信仰によるものだからである。信仰
は私たちの一部分ではなく、
キリストそのものなのであ
る。
"%)
8
August
● 月日
継承モデル
それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上
げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 彼は
エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、
「エ
リヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、
彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エ
リシャは渡った。(Ⅱ列王 2:13∼14)
エリシャはエリヤにどこまでもついて行き、別れ際に、
「あなたに何をして上げようか、求めなさい」
と言
われて、
「あなたの霊の、二つの分け前が私のも
のになりますように。
」
(2:9)
と願った。するとエリヤ
は、
「あなたはむずかしい注文をする。しかし、
もし、
私があなたのところから取り去られるとき、あなた
が私を見ることができれば、そのことがあなたに
かなえられよう。
」
(2:10)
と言った。しばらくする内に、
火の車、火の馬がエリヤを天に引き上げるのをエリ
シャは見た。
新約時代に生きるすべてのクリスチャンは、主イエス
が天に引き上げられ、栄光の御座についておられる
ゆえに、
その意味を悟ることができれば、聖霊のバプ
テスマを受ける。「今あなたがたが見聞きしている
この聖霊をお注ぎになったのです」
(使徒 2:33)
"&
8
August
● 月日
買い戻す
また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分
の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永
遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル 9:12)
あがな
罪の世界から贖うとは、
「買い戻す」
という意味であ
る。つまり、
そのためには、見合った代価が必要とな
るということである。私たちの罪が赦されるためには、
神の御子イエスの命という、
とてつもなく大きな代価
が必要であった。
イスラエルの民が、エジプトを出て行く時、災いを逃
れるために、神の命令に従って、門の かもい に小
羊の血が塗られた(出エジプト12:22)
。その家の
中にいるすべての者は救われた。その時は、小羊
の血であったが、あなたのためには、イエスの十字
架が必要であった。
「やぎと子牛との血によってではなく、
ご自分の血
によって、ただ一度、
まことの聖所にはいり、永遠
の贖いを成し遂げられたのです。
」
(ヘブル 9:12)
ゆえに、主イエスは十字架上で「完了した。
」
と叫ば
れたのである。
"&!
8
August
● 月日
うわさ信仰から体験信仰へ
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、
今、この目であなたを見ました。(ヨブ 42:5)
うわさで満足することなく、自ら体験すること。ヨブの
試練の大目的がここにあった。
ヨブの試練は、サタンと主との会話、
「主はサタン
に仰せられた。
『では、彼のすべての持ち物をお
まえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばし
てはならない。』そこで、サタンは主の前から出て
行った。
」
(1:12)
、
「主はサタンに仰せられた。
『で
は、彼をおまえの手に任せる。』
」
(2:6)から始まっ
た、
サタンと神との戦いであった。
ヨブの信仰は、慰めに現れる他の 4人と同じように、
非常に観念的なものであった。たが、この試練を
通して、彼は真実を神に語るようになり、現実的なも
のに変わっていく。しかしながら、彼の友はいつまで
も神についての美辞麗句を並べ、観念に酔い、ヨ
ブの試練の原因を知っているかの様に振る舞った。
それは霊的傲慢であり、
彼らの罪はここにある。
"&"
8
August
● 月日
どうすればいいのか?
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
ですから、…みことばを、すなおに受け入れなさい。
…また、みことばを実行する人になりなさい。自分
を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
(ヤコブ 1:20-22)
御霊の働きを実感したければ、どうすればいいの
か?悪を捨て、
み言葉を実行する時、
信仰が生きた
ものとなり、
御霊の働きを実感できる。そして、恐れ
から解放されることを体験する。「愛には恐れがあ
りません。全き愛は恐れを締め出します。
」
(Ⅰヨハ
ネ4:18)
と約束されているからである。
また、優しくなり、悲しませない時にも、御霊の働きを
経験する。「神の聖霊を悲しませてはいけません。
…お互いに親切にし、心の優しい人となり…互
いに赦し合いなさい。
」
(エペソ4:30-32)
「きょう、
もし御声を聞くならば、
あなたがたの心を
かたくなにしてはならない。
」
(ヘブル 4:7)
"&#
8
August
● 月日
主の日 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの
音のような大きな声を聞いた。(黙示 1:10)
聖書の中では、主の日 は、
さばきの日、
怒りの日
(ゼ
パニヤ 1:15、
Ⅱペテロ3:10)
だが、
キリストの復活の日、
日曜日の礼拝をも意味する。
黙示録を書いたヨハネは、ある主の日(新共同
訳)
に、
聖霊に導かれ、
天国を見ることになった。多
くの使徒はすでにこの世を去っていたが、彼は最後
まで生き残り、パトモスという流刑地で、主を見上げ、
主との交わりと賛美を楽しみ、7つの教会をとりなし、
主の日 を喜んで迎えていた。彼の白髪は輝いて
いたに違いない。常に喜びに満たされ、
御父のみも
とに召されるそのときまで、御国の尽きない新しさを味
わっていた。
あなたも、 主の日 を待ち望むなら、ヨハネのように、
御霊に感じて新しい歌を歌うことができる。
"&$
8
August
● 月日
食い尽くした年を償う方
いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、
わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い
尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。
(ヨエル 2:25)
あなたの歩みに中で、いなごの襲来のような経験は
あるだろうか?「大草原の小さな家」での出来事で
はなく、毎日の生活の中で突然起こることで、
もし日
常の中に働いている主の約束を信じることが出来な
ければ、あっと言う間に荒地になってしまうことがある
…その事である。
主は、
「御霊に導かれて荒野に上って行かれ」
(マ
タイ4:1)
、
「あなたが神の子なら、この石がパンに
なるように、
命じなさい。
」と悪魔に言われ、
イエスは
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から
出る一つ一つのことばによる」
(マタイ4:3-4)
と書
いてある。と言われた。この 書いてある… という
言葉が重要である。
御霊に導かれる人は、真理のみ言葉を土台に、責
められる根拠を無効にする。
"&%
8
August
● 月日
ひとつの祈り 神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。「あな
たに何を与えようか」…。ソロモンは神に言った。
…今、知恵と知識を私に下さい。…「あなたが富を
も、財宝をも、誉れをも求めず…自分のために知恵
と知識を求めた」。(Ⅱ 歴代 1:7-11)
ソロモンは神様から何が欲しいか尋ねられた時、
知恵 を求めた。すると神様は、彼が求めなかっ
た祝福をも併せて与えて下さった。「そのうえ、私
はあなたの前の、また後の王たちにもないほど
の富と財宝と誉れとをあなたに与えよう」
(Ⅱ歴
代 1:12)。これが、
神の国の法則である。
パウロもやはり、
「兄弟たちよ。私は、自分はすで
に捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一
事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘
れ、ひたむきに前のものに向かって進み…」
(ピリ
ピ 3:13)
と告白し、
キリストのみを追求した。
分別のある成長したクリスチャンは、 あれもこれも
ではなく、
一つの事を祈る。
"&&
8
August
● 月日
御霊にある自由
主の御霊のあるところには自由があります。
(Ⅱ コリント3:17)
御霊のあるところとはどこか・・・?そこに自由があると
いう。それは、
間違いなく 十字架 である。
旧約時代には、主の臨在は契約の箱のふたの上
で、ケルビム
(天使)
が向き合うその空間にあったと
書かれている。その箱の中には十戒の板が収めら
れていた。すなわち、
それは神の聖さとみ言葉であ
あがな
り、
贖いのふたは、
恵みを表している。
もし私たちが、罪の赦しを経験するキリストの十字
架にあるなら、神と自由に交わることができ、御霊は
恵みを啓示される。それは、キリストの血が流され
たと言う事実に依存しており、キリストの死によって、
確かなものとなったのである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私
のうちに生きておられるのです。」
(ガラテヤ 2:20)
。
"&'
8
August
● 月日
きみは愛されるため生まれた
わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わ
たしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。
(ヨハネ14:21 新共同訳)
こんな恵みの歌で人生が始められたら、
何と幸いだ
ろう。それが現実になった。あなたは、神様に愛
されるためにこの世に生まれたのだ。この歌は、単
なる願いや希望ではなく、キリストにあって現実にな
る。十字架と聖霊によって保証された、確かなも
のなのである。
イ
・
ミンソプは、
このように歌う
「きみは愛されるため生まれた
きみの生涯は愛で満ちている…
きみの存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう」
どんなに厳しい現実が目の前に迫っても、神様の約
束に触れるなら、優しい交わりがそこにあり、愛される
ために頑張らなくてよい。素直に信じ、正直であれ
ば十分であることがわかる。肩の力を抜いて、
聖霊
に満たされ、
心静め、
恵みの歌に耳を傾けよう。
"&(
9
September
あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです。
─Ⅰペテロ 5:7 ─
9
September
● 月日
将来と平安
あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師た
ちにごまかされるな。 あなたがたが夢を見させて
いる…彼らはわたしの名を使って偽りをあなたが
たに預言している…。(エレミヤ 29:8,9)
エレミヤを通して、神が語られたことばは真理で
あったが、ハナヌヤが語ったことばは偽りであった。
彼は占い師、
夢見る者であった。
ハナヌヤは、捕囚は 2年ほど我慢すれば終わると
預言し、エレミヤは 70年と預言した(29:10)
。そし
て、
この間に家を建て、畑を作ってその実を食べ、
そ
の町の繁栄を祈れ(5-7)
と言われた。そこで平安、
将来、
希望が与えられると言ったのである。
将来や平安は、今自分がいる所とは別のところに
求めたいと思い、今の自分ではなく別の誰かになり
たいと願うことが多い。神があなたを召し出し、将
来と平安を与えようとするところは、実は、今あなた
の立っている場所であるかもしれない。
"'
9
September
● 月日
今、
歩み出す
あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川
を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとし
ている地に行け。(ヨシュア 1:2)
神は新しいチャレンジに向けてヨシュアとイスラエル
の民に「立って…」と仰せられた。立つために必
要な最大の要素は、積極的な自己評価である。
それは正しい良心から生まれる。テモテに、
「この
命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信
仰とから出て来る愛を、目標としています。」
(Ⅰテ
モテ1:5)
と言われた通りである。
中国の有名な牧師ウオッチマン・ニーはその著書
の中でエペソ書からクリスチャン生活について、ま
ず天に座す事(エペソ2:6)
、歩くこと
(4:1)
、そして
立ち向かうこと
(6:13)
を説明している。
あなたに主が願っておられるチャレンジは、 今日、
歩みだす ことである。
"'!
9
September
● 月日
ヨシュアの決断
それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジ
プトに災害を下し…その後、あなたがたを連れ出し
た。わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトか
ら連れ出し…。(ヨシュア 24:5,6)
モーセは、エジプトから民を連れ出す決断をしたが、
あなたにもその決断が必要である。本当にあなた
が願っている国が自分の国となるためには、決断
が必要なのである。
この世界には三種類の人しかいない。第一は、
生
まれながらエジプトに住む人で、いわゆる神を知ら
ない人(Ⅰコリント2:14)。第二は荒野に住む肉に
属する人、すなわち良心や律法に支配される人。
そして第三は、約束の国カナンに住む人、すなわち
御霊に属する人
(Ⅰコリント3:1)
である。
あなたが、第三の人に所属しているなら、モーセと
同じ決心ができる。それが期待されている。
"'"
9
September
● 月日
完了した
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、
「完了し
た。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡し
になった。(ヨハネ19:30)
神が、御霊によってご自分のみこころを行うための
土台作りは、キリストの十字架で完了した。キリスト
は、それを宣言し、過去・現在・未来…すべてを貫
き、全世界に響き渡る恵みの真理がここに立てら
れた。
それは、すべての人のあらゆる罪を赦すための法
則であり、
すべての人に適用できるもので、
生まれつ
きの罪の性質から解放するためのものである。キ
リストは、父なる神に「わたしは成し遂げて、地上
であなたの栄光を現わしました。」
(ヨハネ17:4)
と
言われた。
その目は、死を越え、陰府を貫き、復活とその後の
昇天、御座での父との交わり、栄光の御霊を見て
おられたのである
(使徒 2:33)
。
"'#
9
September
● 月日
ギデオンの300人
こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞ
れ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止
めた。(士師 7:8)
神はただ単に集まった烏合の衆を用いることはなく、
聖霊に満たされた少数の民を用いられる。ギデオ
ンのもとに最後に残った 10,000人の兵士達の中
で、
さらに精選された者は、
わずか 300人であった。
「そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は
三百人であった。残りの民はみな、ひざをつい
て水を飲んだ」
(士師 7:6)
。これは、たとえ渇きの
ためであっても敵に備える心構えを失わなかった、
という意味である。
御霊に満たされた人の資質は、
「神が私たちに
与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です」
(Ⅱテモテ1:7)
にある。
自己制御できる人がその人である。
"'$
9
September
● 月日
サムエルよ…
ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私が
この子を主に願ったから。」と言って、その名をサム
エルと呼んだ。(Ⅰサムエル 1:20)
サムエル記に出てくる主な人物は、サウルとダビデ
であるが、彼らに油を注ぎ、神のみこころを伝え、彼
らを支えた重要な人物はサムエルであった。
サムエルは、母ハンナの祈りによって誕生した。彼
は、
神の主の宮で育った。彼の主に対する態度は、
お話しください。しもべは聞いております。 であっ
た。それが、彼の生活であり、祈りであった。彼は、
主が勝利をもたらしてくれた時には祭壇を築き、感
謝をささげ、まことに、主と共に歩み、主に用いられ
た。
しかしながら、彼は自分の息子を正しく育てること
ができずに苦しみ、うめきながらイスラエルのために
祈った。このような中で、
神は恵みの器ダビデを立
てたのである。
祈りの人を通して、主の宮の扉が開かれ、恵みとま
ことがあかしされた。ああ、
「サムエルよ…!」。
"'%
9
September
● 月日
大いなるものは愛
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望
と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
(Ⅰコリント 13:13)
時に、何も信じることができなくなり、霊的な希望を
失い、
ビジョンを持つことが出来ないことがある。失
望の中で焦る気持ちに襲われることがある。
そのような時、神を愛している自分を見つめると、愛
されていることが分かる。神様と命の関係で結
ばれており、どんなに切ろうとしても、切れないことを
知ってホッとする。「私たちをキリストの愛から引
き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみで
すか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険
ですか、剣ですか…」
(ローマ8:35-39)
を確認でき
る。
愛は信仰の究極の形であり、感じることのできる日
常の姿である。希望と信仰は未来を目指している
が、愛はそこにあっていつまでも変わらない。愛は
神を確かめるために最も実際的なものである。だ
からこそ、
最も偉大と言われているのだ。
"'&
9
September
● 月日
偉大なる無駄
人はパンだけで生きるのではない、人は主の口か
ら出るすべてのもので生きる、ということを、あな
たにわからせるためであった。(申命記 8:3)
エジプトからカナンまでの、たった 12日間の旅程を、
イスラエルの民は 40年も放浪した。これに、どのよ
うな意味があったのだろう。停滞と後退、不信仰
と葛藤ばかりで、なんと非生産的な年月であったろ
うか。
その時彼らには分からなかったが、神は明確な目
的を持っておられた。それは彼らが全ての点で神
の御心を確かめていく信仰を確立するためであっ
た
(申命 8:3)。
しばしば個人でも、教会でも、このような一見無駄
に見える停滞を経験する。しかし、神の御心は明
確である。神が与えようとされる賜物は、偶然でも
成り行きでもなく、ただ神によって与えられたことを証
明するためである。そのために私達は信じ、祈り、
待ち望まなければならない。すべての必要が神か
ら直接与えられることを期待しよう。
"''
9
September
● 月日
キリストの受肉
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私
たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来ら
れたひとり子としての栄光である。この方は恵み
とまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
キリストは受肉された。その意味はヤコブの夢「は
しごが地に向けて立てられている。その頂は天
に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上
り下りしている」
(創世記 28:12)
に表されている。
主は天に至る階段を造るために来られたのである。
キリストは、人となられ、罪人と同じように、死と葬り、
復活というプロセスを通って天に帰られ、人を救う
道を完成された。したがって、キリストと同化してい
る人は、
死と葬りによって、
罪から切り離される。
「古い人がキリストとともに十字架につけられた
のは、罪のからだが滅びて…罪の奴隷でなく…
キリストとともに生きることにもなる」
(ローマ 6:6-
8)。これがクリスチャン生活である。
"'(
9
September
● 月日
神の指
神の前から手の先が送られて、この文字が書かれ
たのです。その書かれた文字はこうです。「メネ、
メネ、テケル、ウ・パルシン」。(ダニエル 5:24,25)
このみ言葉は、おごり高ぶるバビロン王の目の前に、
突然神の指が現れて、突きつけられたもので、
「神
があなたの治世を数えて終わらせられたというこ
とです。…あなたの国が分割され、メディヤとペ
ルシヤとに与えられるということです。」
(ダニエル
5:26-28)
と解説され、バビロン帝国は、
この言葉の
通りに、
一夜にして亡びた。
今日でも、世界で起こっている出来事は、同じであ
る。神の指のひと触れによって歴史は変わり、状
況は変わる。ルカは、
「しかし、わたしが、神の指
によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の
国はあなたがたに来ているのです」
(ルカ11:20)
と書いている。
神の指を期待しよう。
この国が変わり、
人々が救われるように・・・。
"')
9
September
● 月日
わが霊による
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あ
なたがたの心のうちに住んでいてくださいますよ
うに。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあ
なたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長
さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を
持つように。(エペソ3:17,18)
教会には聖霊がある。そして信仰があり、
「愛に
根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが…」
(エペソ3:17)
と書かれてある通り、お互いに愛し
合うことのできるためのキリストの愛がある。
教会は、これらを貫いて働いている神の力が支え
ている。「私たちのうちに働く力によって、私たち
の願うところ、思うところのすべてを越えて豊か
に施すことのできる方に、教会により、またキリス
ト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、
とこし
えまでありますように。アーメン」
(エペソ3:20,21)
。
神を信じることとは、このような力を持っている教会
を信じる事である。
"(
9
September
● 月日
勝利の秘訣
ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士
が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、
その背の高さは六キュビト半…。(Ⅰサムエル 17:4)
イスラエル軍の前に、ペリシテから一人の代表戦士
が出て来た。その名はゴリヤテ、身長 3メートル近
くの巨人で、青銅のよろい、青銅の投げ槍で武装
していた。彼は、自信満々でイスラエルに果たし合
いを申し出、負けた方が奴隷として仕えることを要
求する。
イスラエルの民は、彼の姿やことばを聞いて意気消
沈、恐れて手も足も出なかった。そこへ、少年ダビ
デが現れたのである。彼は、自分の経験から、神
はこれまでと同じように助けてくれると信じた。
この経験…神と共に歩む経験…が、勝利の秘訣
である。「勇敢でありなさい。わたしはすでに世
に勝ったのです」
(ヨハネ16:33)
。
"(!
9
September
● 月日
いのちの道を知らせて
あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽
しみがとこしえにあります。(詩篇 16:11)
ダビデが語ったこの言葉を、
ペテロはペンテコステの
日に語ったメッセージの中で引用した。
御霊によるクリスチャン生活は、キリストを私たちの
人生のナンバーワンにすることではない。主は、そ
れを望んでおられない。もし、主がナンバーワンで
あるなら、ナンバーツーは誰になるのか?2番目は
存在しない。リストも順位もいらないのである。
主が、
すべてである。あなたは、
御霊から離れて、
ど
こへ行くのか。生きることはキリストである。
すでに死んでくださり、よみがえり、完成して、座して
おられ、私たちもそこにある。その喜びを、
ダビデは、
いのちの道 と表現したのである。
"("
9
September
● 月日
主は私の羊飼い
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
(詩篇 23:1)
ダビデの生涯を貫いている鍵の言葉は、
「主」で
あった。彼は事あるごとに主に尋ね求め、
「どこに
行くべきでしょうか…」
と言い続けた。ここに人生の
祝福の秘訣がある。「主は羊飼い」と言われてい
るが、
彼は、
どのような羊飼いであったのか。
まず、彼は、迷ってしまった羊がどこにいるか見つけ
るまで、探し出してくださる方であり、決して羊を置
き去りにすることなく、
羊のためにいのちを犠牲にする
(ヨハネ10:11-15)方であった。そして、彼は羊の
声を知っている
(ヨハネ10:4)
。
教会は、主の声を聞いて、集まって来た者が恵み
を分かち合う場所である。あなたが、主の羊として、
自分を正しく認め、
自分を過大評価することなく、卑
屈になることもないことを願っている。お互いが「愛」
という結びの帯で結ばれることを期待する。
"(#
9
September
● 月日
彼らとともに
知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のも
のだ。(ヨブ 12:13)
ヨブの友達がこのみ言葉のように、
ここに留まってい
れば、彼は、どれほど慰められたであろうか?しかし
彼らは、なんとか答えを見つけて、
ヨブに教えたかっ
た。それが空回りしたのである。
苦しむ者に対して、信仰者や神学者であるよりも前
に、弱い人間でありたいと思う。神様の道を伝える
ために、最も大切なのは、
このことである。苦しむ者
は、問題の答えを教えてくれる人ではなくて、
自分の
問題を聞いてくれて、
それを受け止め、一緒に涙を
流してくれる人を必要としている。
問題を受け止めるということは、それを感謝すること
である。聞き流すことでは、心を傾けている姿を伝
えることができない。つらい、苦しい思いを、感謝で
きるか…それが問われるのである。
"($
9
September
● 月日
あなたが必要です
向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろば
がつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに
気がつくでしょう。 それをほどいて、わたしのとこ
ろに連れて来なさい。(マタイ21:2-3)
主イエスは、
ご自分の働きをするために、人を必要と
される。働きを進めるために、
あなたが必要である。
すべてのものを従わせ、何でもご自分の思いのまま
に進めることが可能であるお方が、
人を使って、
「行
きなさい、そしてこう言いなさい」
と言われるのである。
主がへりくだって、ご自身の御業のために使って下
さる。何と驚くべきことであろうか。
主は、
自分の必要を訴え、
その人からの献身を受け
ることを望まれ、
「わたしの必要を満たしてほしい」
と
言われるのである。
あなたにはそれに応えるかどうかが問われている。
"(%
9
September
● 月日
日暮れには…
怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるま
で憤ったままでいてはいけません。
(エペソ 4:26)
日暮れまで憤ったままでいてはいけない、怒りを翌日
に持ち越してはいけないのは、それによって、
「悪魔
に機会を与えないようにしなさい」
(エペソ4:27)
という意味である。心にスキを作らないためには、
愛することに目を向ける必要がある。「愛は、すべ
てを信じ、すべてを期待し、すべてを耐える」
(コリ
ント13:7)。愛に満たされていることが大切である。
日が暮れる前に古き人を脱ぎ捨て、日の出とともに
新しい人を着る。そして御霊による愛に満たされ、
祝福のことばを語り、
恵みを数え、
親切で、
愛されて
いる子どもとして、
父なる神に従うのだ。
後ろのものを忘れ、前のものに向かって進み、あな
たの中の愛を育てる。ただ、
この一事に励もう
(ピリ
ピ 3:13)。
"(&
9
September
● 月日
二つの呼びかけ
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のた
ましいはあなたを慕いあえぎます。(詩篇 42:1)
このみ言葉には呼びかけがある。「神よ」という言
葉である。これは、全てのクリスチャンがいつも祈り
の中で叫ぶ言葉であり、
祈りの本質を表している。
そして、
この後に、
「わがたましいよ。なぜ、おまえ
は絶望しているのか」
(詩篇 42:5)
という語りかけ
がある。 わがたましいよ!と、自分が自分に呼びか
けるのである。
このことから、クリスチャンにとっての二つの世界が
鮮明になる。一つは「神」と言う超自然の世界で
あり、もうひとつは「わたし」
という現実の世界である。
この二つの世界を選択する権利が与えられている。
神はそれを人に委ねられたのである。
「わがたましいよ」という叫びは、自由の証である
(ガラテヤ 5:13)。
"('
9
September
● 月日
ワーシップとサービス
イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あな
たの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いて
ある」。(マタイ4:10)
英語では礼拝のことを、WorshipとService の二つ
で表現する。まず、
ワーシップは、価値のあるものを
表す名詞で、ギリシャ語では「ひれ伏して足に口づ
けする」の意味がある。
サービス
(仕える)
は「あなたがたのからだを、神に
受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささ
げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝
です」
(ローマ12:1)にあるもので、献身を表してい
る。
旧約時代の祭司は祭壇において犠牲を通して礼
拝の務めをしたが、新約の時代に求められる犠牲
は、
あなた自身である。献身を通して礼拝する。そ
の結果が、
ワーシップになる。
サービス
(仕えること)
はワーシップの土台である。
"((
9
September
● 月日
感謝して励む
エルサレム、それは、よくまとめられた町として建て
られている。(詩篇 122:3)
エルサレムは、
み言葉にあるような評価を受け、多く
の人に愛されていた。
最近、
私達の教会についての印象を、
外で聞くこと
があった。その言葉は概して良いものであるが、お
世辞かもしれないとは思っても、
嬉しいことである。
み言葉にかけ、十字架に生きる との理念を掲げ
て歩んできたが、いつも成長途上であることを覚え
て、謙遜さを持ち続けなければいけない。ただ、私
たちの教会に与えられている働きには、さらなる開
拓精神が課題と思っている。それによって、教会
の魅力が増すに違いない。
いつも聖霊の新しい動きに対してチャレンジ精神を
持ち続けよう。霊の祭典が礼拝である。
感謝しつつ…。
"()
9
September
● 月日
内なる人と、
外なる人
その忍耐を完全に働かせなさい。・・・ただし、少し
も疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹
かれて揺れ動く、海の大波のようです…。
(ヤコブ 1:4∼8)
クリスチャンは絶えず二つの勢力の中にある。 欲
望 と み言葉 である。これは、外なる人と内なる
人と表現することもできる。
内なる人は、み言葉に結びついた霊的な自覚と言
える。「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、
心に植えつけられたみ言葉を、すなおに受け入
れなさい。み言葉は、
あなたがたのたましいを救
うことができます」
(ヤコブ 1:21)
。外なる人の傾
向を捨てて、み言葉に素直になるなら、み言葉が
生きる。そして、次のステップは行動することである。
(ヤコブ 1:22)
教会には行動が問われているが、まず内なる人が
すでにみ言葉を信じていることを確認する必要があ
る。なぜならば、クリスチャンはみ言葉で生きるから
である。
")
9
September
● 月日
神様から贈り物
すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は
上から来る…。(ヤコブ 1:17)
神様が用意してくださっている 良い贈り物 は、ま
ず第一に、新生 の中に見つけることができる。
「だ
れでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく
造られた者です」
(Ⅱコリント5:17)
とあり、神様の贈
り物であることが示されている。
第二に、あなたがキリストにある立場を選ぶとき、
「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に
植えつけられたみことばを、すなおに受け入れな
さい。みことばは、あなたがたのたましいを救う
ことができます」
(ヤコブ 1:21)
とあるので、ここでも
神様の贈り物を見出すことができる。さらに「みこ
とばを実行する人になりなさい。」
(ヤコブ 1:22)
の通りに、
み言葉によって積極的に自己評価してい
く時にも、
それが可能になる。
全てのクリスチャンにはみ言葉につながれた命の
本能があると言ってよい。これを信仰の本能と表
現し、
み言葉を告白し、
行動する者となろう。
")!
9
September
● 月日
神の作品
私たちは神の作品であって、良い行いをするため
にキリスト・イエスにあって造られたのです。
(エペソ2:10)
私たちは 神の作品 と言われている。ということは、
神はアーティストである。神は、創造のわざを休ん
だ時に人を造ったと書かれてある。つまり、人は神
が安息された時に作られた作品である。
神は、
そのような人を、
どうして見捨てることができよう、
罪に汚され、律法に縛られ、サタンに支配され、痛
み、傷ついているご自分の作品を、
その愛と義のゆ
えに、イエスキリストを犠牲として、買い戻したのであ
る。
神は人を創り主の手に返し、回復し、輝きを取り戻
すために、神の作品のギャラリーである教会に集
めた。創り主の手に帰ろう。
急がず、
慌てず、
天にある場所に座って、
神の安息
に入ろう。
")"
9
September
● 月日
キリストに捕らえられ
私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされて
いるのでもありません。ただ捕らえようとして、追
求しているのです。そして、それを得るようにとキ
リスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
(ピリピ 3:12)
ピリピ教会のスタートは、
ご存じのように、
パウロが見
た幻によるマケドニアの叫びであった。パウロとシラ
スは、聖霊に導かれて行ったが、彼らを待ち受けて
いたものは、祝福ではなく、
あざけり、罵声、
むちと投
獄であった。魂の収穫もわずかであり、商人ルデ
ヤとその家族のみであった。しかしながら、彼らは
牢屋の中でも喜び歌ったのである。その結果、獄
舎の看守とその家族が救われ(使徒 16:33)
、ピリ
ピ教会の土台となった。
それから数年後、パウロは投獄されているローマか
らピリピの教会に手紙を書いた。それは喜びの手
紙であった。彼の喜びは、 私を捕らえているのは
牢屋でもなく、
過去の出来事でもない。キリストであ
る と表現されている。
")#
9
September
● 月日
新しい人を着る
新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のか
たちに似せられてますます新しくされ、真の知識に
至るのです。(コロサイ3:10)
コロサイ人への手紙のひとつのテーマは 新しい人
を着た という言葉に表されている。
もちろん、
「新しい人」
とはキリストであって、
古い人を
あがな
脱ぎ捨て、救われ、贖われ、勝ち取られ、御霊を内
に宿した人のことを意味している。
主を 私の救い主 と告白する人はこの新しい人に
なっている。パウロは、この 着る という言葉で話
を進め、
「愛されている者として…身につけなさ
い」
(コロサイ3:12)
、
「愛を着けなさい」
(3:14)
と書いている。
新しい人を着ている事実を前提にして、衣服を選
びなさいと語っているように見える。上にあるものを
求め、
キリストが用意している衣服を着よう。
")$
9
September
● 月日
新しい歌を歌おう
ハレルヤ。 主に新しい歌を歌え。 聖徒の集まりで
主への賛美を。(詩篇 149:1)
新しい歌にはそれを越える力がある。クリスチャン
は新しい歌を歌う民である。人は本来変ることを
望まない保守的なものであるが、この言葉には、新
鮮な気持ちで歌えということだけでなく、
はじめて歌う
という意味がある。新しい歌は、
主の十字架によっ
て与えられた歌で、
主なる神への応答である。
キリストにより、すべての妨げは取り除かれ、聖なる
民とされ、新しい歌を歌う民となったのである。「幸
いなことよ。…まことにその人は主のおしえを喜
びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は
水路のそばに植わった木のようだ」
(詩篇 1:1-2)
という新しい歌を聞き…
新しい歌を歌おう。
")%
9
September
● 月日
使徒行伝 はつづく
パウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たず
ねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げ
られることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリ
ストのことを教えた。(使徒 28:30-31)
第Ⅰ列王紀 5:4-5には、
「主は、周囲の者から守っ
て、私に安息を与えてくださり…私は、私の神、
主の名のために宮を建てようと思っています。」
と
ある。神様の働きは、旧約の時代から変わってい
ないことが分かる。
すなわち、神は、人を召して安息に導き、神の宮の
建設に当たらせる。キリストの十字架により、聖霊
によって平安と満たしを受けた弟子たちは、教会を
建て上げていったのである。
ある人は、使徒の働き のことを、聖霊行伝と呼び、
聖霊による働きの記録であることを強調しているが、
召された者の働きである 使徒行伝 という言葉も、
ふさわしい言葉と思う。教会はそのような記録を続
けている場である。
")&
9
September
● 月日
キリストのからだ あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひ
とりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27)
ここで、パウロは人のからだを用いて真理を解き明
かす。足が手に向かって、耳が目に向かって…
争ったりすれば、ひとつの体ではない。多様な器
官がそれぞれに機能を持っており、
それが、
ひとつの
目的を現わすために召されていると言うのである。
キリストにある教会は、ひとつの体となるように、御霊
によるバプテスマを受けた。すべての器官がキリス
トにある愛と恵みを受け、調和させ、整え、互いにい
たわりあう恵みを受けている。私が喜ぶとき、から
だ全体が喜ぶ。悲しむとき、
からだ全体が悲しむ。
教会のかしらなるキリストによって導かれる愛の領
域において、
その事実を確認しよう。
一番すぐれているのは愛である。愛を追い求めよう。
")'
9
September
● 月日
前に向かって 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考
えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のも
のに向かって進み…。(ピリピ 3:13-14)
野球には、俊足を生かした盗塁というのがある。
塁を飛び出すときには、大変な勇気が必要だが、
次の塁ではなく、その先のホームを目指して走る…
という。
パウロは私たちにキリストの栄冠を得るために、
目標
を目指して一心に走れと励ます。「うしろのもの
を忘れ、ひたむきに前を向いて走れ」
といい、そし
て「上にあるものを求めなさい。そこにはキリス
トが、神の右に座を占めておられます」
(コロサイ
3:1)
と言われる。
上におられる方を常に考えよう。そうすれば、不変
で不動。永遠の故郷(ホーム)は、あなたのため
に用意されていることがわかる。
あなたを励まされる神と共に、
前進しよう。
")(
9
September
● 月日
ご自分を無にして キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を
捨てられないとは考えず。(ピリピ 2:6)
どのような奇跡が起きても大切なことは、主イエスの
十字架である。イエスがご自分を無にして、仕える
者の姿を取られたことを深く知らなければならない。
神の御前にへりくだり、
自分自身が貧しい者であるこ
とに気づくこと、それが変革の第1歩である。神は
へりくだっている者に働かれ、
祝福を注がれる。
この言葉を イエスは…十字架を抱え込まれた 。
と訳された方がおられたが、あなたも教会も、その
喜びのゆえに 十字架を抱きとめる と言えるように
願う。
あなたが持っているものでは何も出来ないかもしれ
ないが、神にはできる。それに信頼して、天の窓が
開かれ、
あふれる祝福が流れ出すのを見よう。
"))
10
October
信仰は聞く
ことから始まり、
聞く
ことは、
キリストについてのみことばによるのです。
─ ローマ 10:17 ─
10
October
● 月日
自由のあるところ
「主の御霊のあるところには自由があります」。
(Ⅱ コリント3:17)
御霊のあるところとはどこか?もちろん、旧約時代に
あがな
は、主の臨在は契約の箱の贖いのふた
(贖罪所、
贖いの座)
と呼ばれる場所で、ケルビムが向かい
合っている空間にあった。しかしながら、新約の世
界に生きる者にとっては、十字架 である。
もしあなたが 十字架 にとどまるならば、あなたと神
の間にある覆いが取り除かれて、神と自由に交わる
ことができる。また、そこで、神の聖さが私たちの罪
を示し、
神の恵みを啓示され、
聖霊が働く。
もしあなたが 十字架 にとどまるならば、神の愛を自
由に受ける。「私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです」
(ローマ5:5)
と言われている通りである。
# "
10
October
● 月日
さあ来て、
朝の食事をしなさい
イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事を
しなさい。」弟子たちは主であることを知っていた
ので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋
ねる者はいなかった。(ヨハネ21:12)
「食べるものはありますか?」と聞かれた弟子たちは、
単純に
「はい、ありません」
と応えた。彼らは、夜通
しの漁にも関わらず、何もなく、疲れ果てて、お互い
の交わりの気持ちも、会話も失っていたに違いない。
もちろん主は、パンと魚のことをたずねたのであるが、
同時に彼らの霊の糧も心配しておられたのである。
彼らは、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。
その上に魚がのせてあり、パンもあった。主は備え
て、
待っておられた。
食事をしながら、
復活の主と出会い、
力を得た。主
は、朝の目覚めとともに私たちを迎えてくださる。鳥
の鳴き声、包丁のきざむ音、
目覚まし時計…は、主
の招きである。新しい時のはじまりを迎えよう。
# #
10
October
● 月日
3つの領域
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、
力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にい
るもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)
最近の伝道には、3つの領域が考えられている、そ
れは、ローワーゾーン(下層領域)
、ミドルゾーン
(中間層領域)
、アッパーゾーン(上層領域)
と呼
ばれるものである。
アッパーゾーンは、超越的な唯一神の領域、ロー
ワーゾーンは唯物主義、合理主義の領域であ
る。その中間に、聖霊の働きを含めて様々な霊の
働きが関わる、
ミドルゾーンがあり、
ここにおける働きを
「力の伝道(Power Ministry)
」
と呼んでいる。
現代は理性を絶対とする合理主義が支配してお
り、その影響は神学にも及んでいる。しかしながら、
多くの宣教師たちは、悪霊の現実に直面しており、
それが霊の戦いの場になっている
(エペソ6:12)
。
そこでは、さまざまな霊的な現象が起こり
(マルコ
16:17、 18),それが、
ミドルゾーンにおける神様の働
きとなっている。
# $
10
October
● 月日
真理の帯
神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと
立ちなさい。 腰には真理の帯を締め、胸には正義
の胸当てを着け、…救いのかぶとをかぶり、また御
霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい
…。(エペソ 6:13-17)
ここに言われている武装は、当時のローマ兵のそ
れを例にしている。最初の装備は真理の帯である
(6:14)。帯は厚い皮でできた幅広のベルトで、こ
れをまずしっかりと締める。真理をきつく締めなけれ
ば、
信仰生活は始まらない。
霊の戦いはまさに真理の獲得にある。なぜなら人
は本来、真理を生きるために造られたからである
(Ⅱ
コリント13:8)。その真理とは十字架を生きることで
あり、古い人から切り離された私が新しい人を着て
いる自覚をもって生活することである
(エペソ4:20-
24)。
サタンはこの真理を隠すか、ぼやかすかしてクリス
チャンを中途半端にしようと情熱を注ぐ。真理に
生きているかどうかを確かめよう。真理の帯を固く
締めよう。
# %
10
October
● 月日
御霊の酒
酒に酔ってはいけません。 そこには放蕩があるか
らです。 御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の
歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌
い、また賛美しなさい。(エペソ5:18-19)
酔酒には退廃の匂いがある。だからクリスチャンと
酔酒は似合わない。喫煙もおなじだ。
世の人は酒に刺激や癒しを求めるが、クリスチャン
のそれは御霊の酒に求めればよい。この世の酒
は自制心を失わせるが、御霊の酒は覚めて楽しみ
豊かな情緒に浸らせる。
御霊の流れは教会を貫き、クリスチャンの心を貫き、
潤いの川となって神に向かって溢れている
(Ⅰコリン
ト14:2)。この流れに身も心も委ねることが、 御霊
に満たされる(エペソ5:18)
ことである。
聖霊のバプテスマによって開かれている霊のチャン
ネルを通して、御霊に満たされよう。賛美を解放し
よう。
# &
10
October
● 月日
もはや私ではない
私はキリストとともに十字架につけられました。も
はや私が生きているのではなく、キリストが私のう
ちに生きておられるのです。いま私がこの世にあっ
て生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお
捨てになった神の御子を信じる信仰によっている
のです。(ガラテヤ 2:20)
比叡山の千日回峰行を成し遂げた或る高僧が、「
何か悟りを得ましたか」と聞かれて、
「ボーッとして何
だかわからんかった。仏を見たなどというのは錯覚
だろう。
」と答えたそうだ。内容はともかく、その正直
さにはすがすがしいものがあった。
聖書には、
「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着た」
(コロサイ3:9-10)
とあるが、本当にそのような生活
が現実になるところに福音のすばらしさ、クリスチャ
ン生活の真髄がある。
私はキリストと共に十字架で死んだが、
キリストと共
に生きている という言葉は、特別なものでなく、福
音を知った人々にとって現実である。烈しい修行
によるのでなく、キリストを信じることによって、実現す
るのである。
# '
10
October
● 月日
文字ではなく
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を
下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕
える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
(Ⅱコリント3:6)
聖書の言葉は、律法と同じように、私たちをキリスト
に導く養育係に過ぎない(ガラテヤ 3:24)が、み言
葉を信じることを通して、それが、信仰の対象となっ
てしまうことがある。 聖書信仰 は正しい表現では
あるものの、その盲点は、み言葉に表されている神
を信じ、聖霊の働きを信じていないことである。み
言葉は必ずキリストの臨在に、御霊の実感に導く
はずである。
海に突き出た長い桟橋があったとしよう。それをど
んどん歩き続けその先端に立って、海に浸りたい時、
どうすればよいか?もちろん、そこから飛び込めばよ
いのだ。
み言葉は、御霊の海に突き出た桟橋だ。そこで
足踏みするだけでは、観念の遊びになる。み言葉
から御霊に移らなければ御霊の現実に触れること
はできない。
# (
10
October
● 月日
主の戦い
あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れ
てはならない。 気落ちしてはならない。この戦い
はあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
(Ⅱ歴代 20:15)
イスラエルの民がエジプトを脱出した際には、執拗
に後を追うエジプトとの戦いを強いられた。民を導
くモーセは厳しい状況の中に置かれた。エジプト
軍は押し迫ってくる。イスラエルの民は恐れのため
に、どうして私たちを連れ出したりしたのかと訴える、
眼前は海…
行き詰まったモーセが叫んだのは、恐れるな 。主
の救いを見よ。あなたがたは永久にエジプト人を
見ることはない。 主があなたがたのために戦われ
る であった。モーセ自身も恐れと不安、苛立ちの
中にあったに違いないが、叫んだのである。神へ
の祈りの叫びであったのかもしれない。
私の内に住みついて、エジプトのように追いかけ、
付きまとう罪、
情欲、
古き人との戦いに、
キリストによっ
て、
勝利し、
安息に生きるのである。
# )
10
October
● 月日
消えない火
すると主の使いが彼に、現れた。 柴の中の火の炎
の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴
は焼け尽きなかった。(出エジプト3:2)
手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみ
まできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない
火で焼き尽くされます。(マタイ3:12)
消えない火 は神の臨在である。モーセは、その
光景を見て、神の召命を受けた。あなたは 消え
ない火を見て、
それに触れたか?と聞かれるなら、
ど
のように答えるか?
もちろん ハイと応えるべきである。なぜなら、
あなた
は確かに見て、今も見ているはずだからである。十
字架につけられたキリストが、あなたの前におり、聖
霊はあなたの内に宿ってくださっているから…。
消えない火、燃える柴、十字架につけられたキリスト、
これが臨在である。
あなたの立っているところは聖なる地である。
#!
10
October
● 月日
信仰の時
ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために
羊の群れを飼っています。 獅子や、熊が来て、群
れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、
それを殺し、その口から羊を救い出します。それが
私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺
しています」。(Ⅰ サムエル 17:34,35)
ゴリヤテに立ち向かったダビデの信仰は、
自信に満
ちている言葉で表現されているが、これは、いわゆ
る盲信ではない。現実に獅子や熊を打ち倒す実
績に裏打ちされた確信であった。
彼は、羊の群れを飼うという平凡な日常生活を
送っていたが、その中で育てられた信仰は、神が
選ばれた時に、神様が与えられた賜物として発揮
されたのである。特別な時のために、特別な準備
をすることはできない。平凡に見える生活の中で
培われるのである。
あなたの前に、
ゴリヤテが現われても、驚いてはなら
ない。目を見張るような答えが来ることを期待しよう。
それは、
主の戦いである…。
#!!
10
October
● 月日
御霊にある自由 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには
自由があります。(Ⅱコリント3:17)
モーセの時代においては、
誰もが直接神と交わるこ
とができた訳では無かった。特別に選ばれた人
や、決められた儀式が必要であり、非常に不自由
であった。しかしながら、時が満ちて
(ガラテヤ 4:4)
、
神の奥義が示され、十字架につけられたキリストを
通して、誰もが父なる神を交わることが出来るように
なった
(ガラテヤ 3:1)。
御霊によって、十字架のキリストは現実となり、信じ
る者の力
(Ⅰコリント1:18)
となった。私たちの内にキ
リストが形造られていくプロセスは、罪について、義
について、さばきについて
(ヨハネ16:8-11)知ること
である。
十字架はこのことを明確にしている。まず、罪が赦
され、神の義が示される。そこでは、サタンと死の
力は無力であり、さばきの時は希望になる。そして、
御霊にある自由は、私たちの安息の場、神との交
わり、
悔い改め、
いやし、
解放、
変革、
成長である。
#!"
10
October
● 月日
悲しむ者は幸い
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるから…。
(マタイ5:4)
このみ言葉で使われている「悲しむ」という原語は、
悲しさをあらわすことばの中でも最も強いことばであ
る。抑えても、抑えても涙が出てきて、悲しみで一
杯になる。そのような経験である。
誰しも、悲しみは経験したくないであろうが、人生に
悲しみは現実に起こる。悲しみを正しく知る人は、
人への愛着を増すと言えよう。ただ喜びしか知ら
ない人は、深い人生を表すことが出来ない。悲し
みは、新しい神様の領域を受け止めることが出来
るためのレッスンと言えよう。そこでは、十字架を仰
ぎ、
イエスの悲しみや涙を受け止め、
自分の罪の深
さを知るのである。神様が私の人生に働いておら
れ、
導いておられることを味わうことができる。 そのとき、はじめて確信に満ちた、安全で確かな
錨(ヘブル 6:19)のような喜びを知ることができる。
「その喜びをあなたから奪い去る者はありませ
ん」
(ヨハネ16:22)。
#!#
10
October
● 月日
神の国
時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を
信じなさい。(マルコ1:15)
福音書で何度も強調されている福音とは 神の
国 のことである
(例えば、マタイ9:35、マルコ1:15、
ルカ9:2)。これは、神の支配を意味しており、いわ
ゆる天国のことだけを言っているのはない。
この国は、本来人間に与えられたものであったが、
罪によって悪魔の支配下に置かれてしまったもの
である。主イエスはその支配権をサタンから人間
に回復させるために来られた。「この世を支配す
る者が来るからです。彼はわたしに対して何も
することはできません。」
(ヨハネ14:30)
と約束さ
れている。
主がこの地上で行った様々の奇跡と教えはそのこ
とのデモンストレーションであったと言えるが、その回
復を実現するためにはどうしても十字架の代価が
必要であった。
神の国の権威は教会に与えられている。
#!$
10
October
● 月日
信仰を増して下さい
使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してく
ださい。」しかし主は言われた。「もしあなたがた
に、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木
に、
『根こそぎ海の中に植われ』
と言えば、言いつけ
どおりになるのです。(ルカ 17:5,6)
弟子が信仰を増やしてほしいと言った時に、主は
からし種ほどの信仰があったなら… と言われたが、
信仰は努力などによって増やすものではなく、ある
条件が満たされると、
供給されるものである。
マタイの福音書には、イエスが 信じる者には、どん
なことでもできるのです と言われると、その子の父は
叫んで
「信じます。不信仰な私をお助けください」
(マルコ9:23-24)
と言った。これはみ言葉を信じ
ることを表し、
「この種のものは、祈りと断食によら
なければ…」
(マタイ17:21)
は、祈りもその条件とな
ることを意味している。
いづれにしても、
信仰は、
種が植えられ、
それが成長
するように大きくなるのである。
#!%
10
October
● 月日
イエス・キリストの系図
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト
の系図。 アブラハムにイサクが生まれ、・・・・ヤコ
ブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ば
れるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
(マタイ1:1-16)
ご存じのように、新約聖書は名前の羅列で始まり、
はじめて聖書を読む人を戸惑わせる。しかしながら、
イエス・キリストの系図は非常に重要である。これは、
キリストの生涯は歴史的な真実で、その歴史性が
重要であることを意味している。
特に、新約はそのことの証であり、聖霊はこの中で
働かれるのであるが、これを神秘化したり、理想化
したり、キリストの歴史性を否定したり、あるいは科
学的な分析を表に出して人間の宗教心にアピー
ルするのは異端のやり方である
(Ⅰヨハネ4:1-6)
。
それは、人間の知恵が神となる巧妙な偶像礼拝
にほかならない。
福音書を通して、歴史的人物、我らの救い主イエ
ス・キリストとの新たな出会いを体験しよう。
#!&
10
October
● 月日
こうして教会は…
こうして神のことばは、ますます広まって行き、エル
サレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、
多くの祭司たちが次々に信仰に入った。(使徒 6:7)
教会の成長は宣教の拡大にあり、教会が成長す
るのは、ペンテコステのような霊的な奇跡が起こる
時、と考えるかもしれないが、使徒の働きには、ごく
現実的で、
実際的なことが書かれてある。
まず、
第一は組織と賜物を整備した時である。
「彼
らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノを…選
び…祈って、手を彼らの上に置いた」
(使徒 6:5-
6)。第二は、試練を経た後である。「彼らはサウ
ロを殺そうとねらっていた。…こうして教会は、
聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数
がふえて行った。」
(9:29-31)。そしてさらに、有能
な指導者を得た時である。「彼はりっぱな人物
で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうし
て、大ぜいの人が主に導かれた」
(11:24-26)
。
組み合わされ、
結び合わされて成長するのである。
#!'
10
October
● 月日
共観福音書
私たちの間ですでに確信されている出来事につい
ては、初めからの目撃者で、みことばに仕える者と
なった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多く
の人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試み
ておりますので、私も、すべてのことを初めから綿
密に調べておりますから、あなたのために、順序を
立てて書いて差し上げるのがよいと思います。 尊
敬するテオピロ殿。(ルカ 1:1-3)
マタイ、マルコ、ルカによる聖書の記事は 共通の題
材が多く、共観福音書 と呼ばれている。
同じ内容の事実を伝えていながら、
マタイは旧約の
預言の成就としてのイエスをユダヤ人に紹介し、マ
ルコは現世的実際的なローマ人に対して、短い言
葉で具体的表現を用いて説明し、ルカは医者とし
ての特徴を持った視点で、哲学的なギリシャ人を
対象に、
かなり客観的に描写している。
聖書は、受ける者が様々であることを想定して書か
れており、誰でも受け取れるかたちで福音を伝えて
いる。まことに、
細やかな心遣いと言えよう。
#!(
10
October
● 月日
天の御国とことば
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。
人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大
喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買い
ます。(マタイ13:44)
マタイの福音書は 天国の書 とも呼ばれているが、
13章にはそのたとえが、
いくつか記されている。
まず、天国は神のことばそのもの(3-23)であること
を、 種まきの話 として語られ、さらに「彼の敵が
来て麦の中に毒麦を蒔いて行き…毒麦も現れ」
(25,26)
と言われている。人はこのみ言葉の基
準で選別される。
それは、たとえ平凡に見えても、
「天の御国は、から
し種のようなものです。…どんな種よりも小さ
いのですが、生長すると、どの野菜よりも大きく
なり…」
(31-32)条件次第で偉大な力になるので
ある。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から
出る一つ一つのことばによる」
(マタイ4:4)
と書い
てある。
#!)
10
October
● 月日
自己をどう生かすか
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のよ
うに、土台を据えました。そして、ほかの人がその
上に家を建てています。しかし、どのように建てる
かについてはそれぞれが注意しなければなりませ
ん。(Ⅰコリント3:10)
パウロは、自己中心に生きている人に対して、
「さて、
兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御
霊に属する人に対するようには話すことができ
ないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対
するように話しました。」
(3:1)
と言われたが、御霊
に信頼して生きる人には「御霊を受けている人は、
すべてのことをわきまえます…」
(2:15)
とも語って
いる。
霊のクリスチャンは使命感を持ち、充実感に溢れ、
永遠に残る信仰の報酬を受ける。「もしだれかの
建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は
損害を受けますが…自分自身は、火の中をくぐる
ようにして助かります」
(3:14,15)
。
これは、
クリスチャンに対するチャレンジである。
#"
10
October
● 月日
宣教大命令
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべての
ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わた
しは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに
います。(マタイ28:20)
銀行家として大家族を支えていたルイス・パラウ師
が伝道者に転向したきっかけは、敬虔なクリスチャ
ンであったお母さんの一言だったという。ルイスが、
「私にはまだ召命がありません。
」
と言った時、お母
さんは「何の召命ですか!主は 2000年前にすべて
の信徒にすでに召命を与えておられるではありませ
んか。」
と言われたそうである。
実は、全ての教会はこの召命
(大宣教命令と言わ
れている)を受けている。この命令には、確かな保
証が与えられており、全能の主が共に働いて下さ
るのである。
主の召命に応えよう。
#"!
10
October
● 月日
出て行って、
語り…
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝
えた。 主は彼らとともに働き、みことばに伴うしる
しをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ16:20)
主を信じきって静かにみ言葉を語られる人には大
きな力が働く。主の約束である、 宣教命令 に忠
実従っているからである。そこでは、人を驚かすよう
な奇跡や、何かのハプニングが起こることが約束さ
れている訳ではない。たとえセンセーショナルなこと
は何一つ無くても、静かに御霊が働き、人々の心を
捉えるのである。
十字架はまず自発的なものであり、そして次に他人
のために自分の権利を犠牲にすることにある。そ
の結果として、
主の意志に自分の意志を委ねること
になる。そこから命が流れて、
まわりの人々を生かし
ていく者でありたい。
主に従う働きは、み言葉を生活する結果であること
を確認したい。
#""
10
October
● 月日
み言葉の確かさ
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝
えた。 主は彼らとともに働き、みことばに伴うしる
しをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ16:20)
主は、み言葉が確かなものであることを示すために、
クリスチャンが常に、み言葉の次元で生きるようにと
切実に祈られた。「真理によって彼らを聖め別っ
てください。あなたのみことばは真理です。あ
なたがわたしを世に遣わされたように、わたしも
彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、
わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理に
よって聖め別たれるためです」
(ヨハネ17:17-19)
み言葉は命であり、クリスチャンが生きる領域を意
味している。それはキリストの領域、十字架の領域
と言ってよい。そこに、
「このキリストのうちに、知
恵と知識との宝がすべて隠されているのです」
(コロサイ2:3)
#"#
10
October
● 月日
古い人の処理
しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、す
なわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口
から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
(コロサイ3:8)
多くのクリスチャンは古い人を十字架で処理するこ
とを心得ていると思う。聖書が語る生まれつきの
人の特質である、いわゆる 肉 を十字架につける
べきことは知っている。しかし、その結果である、行
いについての処理についてはどうであろうか。
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主
のかたちに似せられてますます新しくされ、真の
知識に至るのです」
(コロサイ3:10)
と言われてい
るが、なかなかそれを実感することはできなくて苦し
む人が多い。
例えば「つい非難したくなる」感情が無くならない
時は、いつのまにかそれを正当化してしまうことにな
る。これは、悪魔にとって、攻撃の足場となり、聖霊
の働きを弱くする。聖霊に用いられるためには、こ
のようなものを、きっぱりと捨てる実行力と勇気がな
ければならない。怒りの原因を神に委ねよう。
#"$
10
October
● 月日
一日だけの苦労
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて
与えられます。 だから、あすのための心配は無用
です。あすのことはあすが心配します。 労苦はそ
の日その日に、十分あります。(マタイ6:33,34)
不信仰のゆえに、昨日のことと、明日のこと を区
別できなくて混乱する。きのうの怒りを持ち越し、あ
すの心配を先取りしてしまう。全てを主に委ね、
「今
日」
という日を大切に生活することは、
簡単ではない。
いま自分が置かれている場所で、
主を信じること、
主
を愛することを告白してみよう。あなたの前を覆っ
ている霧のために、ずっと向こうまで見えないことを
感謝してみよう。見えないことは、実は父の配慮な
のである。もし全部を見えたら…恐ろしさのあまり、
前進することはできないかもしれない。そこで、
「信じ
ます」
と告白してみよう。
「そうすれば、人のすべての考えに勝る神の平安
が、心と思いをキリストにあって守ってくれる」
(ピ
リピ 4:7)。
#"%
10
October
● 月日
依存する信仰
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まこと
に、まことに、あなたがたに告げます。子は、父が
しておられることを見て行なう以外には、自分から
は何事も行なうことができません。父がなさること
は何でも、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19)
信仰は自立的であるべきと思われるが、
ヨハネの福
音書には、実に逆のことが書かれている。それは、
依存関係にある信仰の力である。
主は、自分からは何もすることができない と言われ
たが、
これは、力が無かったからではなく、
自分の方
からは何もしないということである。これが力の秘密
であった。
同じようなことを、主は「わたしはぶどうの木で、あ
なたがたは枝です。…わたしを離れては、あな
たがたは何もすることができないからです」
(ヨ
ハネ15:5)
と言われたが、確かに御心に依存して
いる信仰である。主の御心とは、み言葉に従うこと
(15:7)
、互いに愛し合うこと
(15:12)であり、力の
秘密は御心に依存することなのである。
#"&
10
October
● 月日
わたしはある
神はモーセに仰せられた。「わたしは、
『わたしは
ある』という者である。」また仰せられた。「あなた
はイスラエル人にこう告げなければならない。『わ
たしはあるという方が、私をあなたがたのところに
遣わされた』
と。(出エジプト3:14)
モーセに現われた神は自分の名前を明らかにされ
た。ヤハウェである。このヘブル語の意味は「ある」
で、動詞形では「生きる」、
「いのちを持つ」
となる。
存在といのちは切っても切り離せないゆえに、
絶えず
「わたしはあなたと永遠に共に存在する」と励ます
神の姿が明らかになる。
あがな
主イエスは十字架において贖いのわざを完成され
た。すばらしい救いといのちは、
すでにあなたのもの
である。
常に存在される神は「イエス・キリストはきのう
もきょうも、いつまでも同じです」
(へブル 10:8)
、
「世の終わりまで、あなたがたと共に…」
(マタイ
28:20)
と言われる。
それが、
神の約束である。
#"'
10
October
● 月日
七つの例祭
あなたがたが聖なる会合として召集する【主】の例
祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六
日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休み
の安息、聖なる会合の日である。(レビ 23:2,3)
春に4つの祭りと秋に3つの祭りがある。それらは
新約におけるキリストの救い、福音の道程を予表し
ている。まず、過越の祭り は、
キリストの十字架の
死を表し、 種なしパンの祭り は過越の祭りと一緒
に行われて、人手によらない神の小羊を表し、 初
穂の祭り はキリストの復活を示している。さらに、
七週の祭り はペンテコステのことである。
その後、四か月後に収穫期があり、落穂を集めて
はならなかった。それは貧しい者、異邦人への恵
みであり、現在の時代を表している。さらに ラッパ
の祭り は教会の携挙、贖罪の祭り は大患難時
代、 仮庵の祭り は千年王国を表していると言わ
れている。レビ記は神の絵本のようである。
#"(
10
October
● 月日
何をしているのかわからない
そのとき、イエスはこう言われた。…彼らは、何を
しているのか自分でわからないのです。
(ルカ 23:34)
これは、キリストが十字架で語られたことばのひとつ
であるが、
人の罪性を端的に表している。
荒野を旅するイスラエルの民には、このような姿が
何度も出てくる。彼らは、
約束の地、
カナンを前にし
て、偵察隊を送ったが、
その不信仰のゆえに、踏み
出すことを恐れた。ただ、 私たちは罪を犯したの
だから、
とにかく上って行ってみよう 。と、翌朝早く
カナンへ向かった。そこには、神の臨在は無く、導
きも無かった。そのために、民は敵に打たれたので
ある。
どこまでいっても自己中心、自分の判断、自分の視
点でしか見ることができない、何をしているのかわか
らない 状態のままである。 わたしは生きている と
語られる主なる神を求める信仰、その信仰がなくて
は神に喜ばれることはできない。
#")
10
October
● 月日
ぶどう酒がありません
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって
「ぶどう酒がありません」と言った。(ヨハネ2:3)
イスラエルでは収穫のシーズンに結婚式が多く行
なわれた。主イエスが行なわれた最初のしるしと
なったカナの婚礼(ヨハネ2:1-11)
では、肝心のぶ
どう酒が底をついてしまった。この時、イエスは「ぶ
どう酒がありません。
」との母マリヤのことばを退けな
がらも、
水をぶどう酒に変えられた。
さらに
「きよめのしきたり」
(マルコ7:3-7)
にしたがっ
て水を満たすことにより、律法によっては到達でき
ないきよめを成し遂げてくださった。また、
「良いわ
ざに熱心なご自分の民を、きよめるため」
(テトス
2:14)
のしるしとしてくださったのである。
ぶどう酒がありません、
という私たちに、良いぶどう酒
(喜び)を与えてくださる主。そのために裂かれた
からだと流された血を感謝し、さらに神の栄光を望
み、神にある希望
(それこそ 良いぶどう酒 )
を体験
させていただこう
(ヨハネ1:16)
。
##
10
October
● 月日
強く、
雄々しくあれ
強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えると
その先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継
がせなければならないからだ。(ヨシュア 1:6-9)
モーセの後継者としてヨシュアが選ばれた。結果
的に、彼はモーセが成し遂げなかった神のみわざ
を実現することになったが、彼には恐れがあったに
違いない。偉大なモーセに比べて、いかに自分が
小さな存在であるかということを自覚し、しかも約束
の地にはまだ足を踏み入れていないことを考えて
戸惑いながら神の前に出ていた。彼は、モーセの
ように強い人間ではなかった。弱かった。だから
神は「強くあれ」と言われたのである。リーダーに
必要なことは、
強いことではない。
神は、いつも 主のしもべ に語りかけたと言われて
いる。忠実に主の声に従う しもべ を必要としてい
るのであり、主役はいつまでも主ご自身である。い
つも、神の約束に立ち、約束の地を自分の足の裏
で踏むように言われている。
先頭を進まれる神が導き手である。
##!
10
October
あなたはどこにいるのか
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。
● 月日 「あなたは、どこにいるのか」。(創世記 3:9)
主は、罪のために神から隠れているアダムとエバに
対して、どこにいるのか?と声をかけられた。
もちろん、本当にどこにいるかわからなくて言った言
葉ではない。主は、アダムとエバを探しておられ、
応答を期待しておられたのである。よい羊飼いと
同じように、
失われたものを探しておられる。
アダムとエバは、自分が裸であることに気づいて
(3:10)
、恥ずかしいと言ったが、罪を犯したため
に、そのままでは神の前に出られなかったのである。
そのために、
「神である主は、アダムとその妻の
ために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」
(3:21)。
どこにいるのか と、あなたを探しておられるキリスト
は、
あなたのことを心配しているのだ
(Ⅰペテロ5:7)
。
##"
11
November
それゆえ、
主はあなたがたに恵もうと待っておられ、
あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。
主は正義の神であるからだ。
─ イザヤ 30:18 ─
11
November
● 月日
あなたを去らせません
するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が
明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあな
たを去らせません。 私を祝福してくださらなけれ
ば」。(創世記 32:26)
創世記のこの個所には、ヤコブが夜明けまで その
ひと(神)
と格闘したと書かれてある。もちろん、神
は彼の生来の性格も何もかもご存知であったが、
そのひと は、この闘いに勝てないことを言ったかの
ように「去らせよ」
と言われ、ヤコブのもものつがいを
外して、彼を動けなくした。これは、ヤコブ自身が自
分の弱さがどこにあるか見つめて、主に触れられた
自分を分かるようにされたという意味であり、神はい
つもこのような経験に導いてくださるのである。
ヤコブの もものつがい は、
彼が生まれながらにして
持っている力の源である。彼は何に対しても計算
高く考え、細心の注意を払いながら自分の願望を
実現する者であった。そのヤコブを、
神は格闘して、
彼に教えたのである。彼は、
「あなたを去らせませ
ん」
と叫んで、大胆に神の祝福を求めて、それを得
た。
##$
11
November
● 月日
ヨベルの年と十字架
あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべて
の住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨ
ベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所
有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなけ
ればならない。(レビ 25:10)
旧約時代には、50年毎に ヨベルの年 が定めら
れていた。これは 解放の年 とも呼ばれ、その時
抱えている負債は免除され(25:28,31)
、奴隷は
解放され(25:39-41,54)
、畑地も野生に帰るべき
(25:11)
ものとされていていた。
預言者イザヤは、
「神である主の霊が…傷つい
た者をいやすために、わたしを遣わされた。捕
われ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」
(イ
ザヤ 61:1)
、
と言われた。これは、キリストの預言で
あり、主はご自身で、この預言が実現したと言われ
た。「主はわたしを遣わされた。捕われ人には
赦免を、盲人には目の開かれることを告げるため
に…」
(ルカ4:18)。
この時、一年きりのヨベルではないものがもたらされ、
解放の時代は今も続いている。恵みの時代に私
たちは生きている。
##%
11
November
● 月日
私たちのヨベル この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年であ
る。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたも
のを刈り入れてもならない。(レビ 25:11) ヨベルは、回復の年 と呼ばれる。これは、私たち
が持っている潜在力を解放すると言ってもよい。そ
の力は、
霊の賜物のことである
(ローマ12:3-8)
。そ
の解放が行われる場所は教会である。私たちに
与えられた賜物は 教会 のために与えられている
からである
(エペソ4:7-12)。
賜物には、5つのことが説明されている
(エペソ
4:11)。使徒的、預言的、伝道的、そして牧師的
や教師的がそれである。それぞれの賜物が、教会
の中で解放されるとき、ある方向性を持って動い
ていくのである。教会の成長はここにある
(エペソ
4:13)。決してプログラムで成長するのではない。
このための条件は献身である
(ローマ12:1)
。献
身は神に対してだけでなく、お互いの都合に自分
を提供することを含んでいる
(ローマ12:10)
。これ
が健全な教会の姿なのだ。
##&
11
November
● 月日
神の義
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰
による、なだめの供え物として、公にお示しにな
りました。それは、ご自身の義を現わすためです。
(ローマ 3:25)
キリストが十字架で流された血によって、
それを信じ
る者は義と認められる。これは、
もともと神御自身が
義であるために、それを人間に具体的に示すため
には、血 という犠牲が必要であったことによってい
る。旧約の時代には、礼拝の度に動物の血が流
された。罪を赦すためには、
どうしても犠牲が必要
であったのである。
神が義であることを完全に表わす方法は、主イエス
が十字架で血を流す以外に無かった。神は、新
約のこの時までの長い間、忍耐をもって見逃してこ
られたのである。
あがな
罪を赦すための贖いは十字架で完成した。信じ
る者に与えられる義は、
キリストにおいて完全に満た
された神の義そのものなのである。
##'
11
November
● 月日
御名をあがめさせ給え
ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、
槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、
おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の
【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
(Ⅰサムエル 17:45)
私に答えてください。
【主】
よ。私に答えてください。
この民が、あなたこそ、
【主】
よ、神であり、あなたが
彼らの心を翻してくださることを知るようにしてく
ださい。(Ⅰ列王 18:37)
巨人ゴリヤテに挑んだダビデ(Ⅰサムエル 17:45)
、
バアルの預言者 850人に挑んだエリヤ(Ⅰ列王
18:37)
に共通していることは、主の御名があがめら
れ、
人々の信仰を回復し、
励ます事にあった。
偶像礼拝が何の違和感もなく受け入れられている
この国に、
「すべての口が、
『イエスキリストは主
である。』
と告白して、父なる神がほめたたえられ
る」
(ピリピ 2:11)
ように、
祈らずにおられない。
##(
11
November
● 月日
アベルとそのささげ物
アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のも
のを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベ
ルとそのささげ物とに目を留められた。(創世記4:4)
アベルは「羊の初子の中から、それも最良のものを、
それも自分自身で、持って来た。」とあるが、カイン
は「地の作物の中から主へのささげ物を持ってき
た。」
と簡単に書かれている。アベルは、自分自身
で、進んで、心から、信仰をもって献げたことが言外
にある。これに対して、
「主は、
アベルとそのささげ物
とに目を留められた。」と書かれている。この表現で、
アベルとささげ物の間にある接続詞「と」の持つ意
味は大きい。
アベルは、未来に起こる出来事…主イエスの十字
あがな
架の贖いを見ることが出来たのではないかと思わ
れる。つまり、アダムとエバを通して神が示した、動
物の血が流されることや、献げることの重要性を
知っていたのである。献げ物は、血を流す動物で
あがな
なければいけなかった。それによってのみ、罪が贖
われたのである。
キリストは、
あなたのために血を流されたのである。
##)
11
November
● 月日
神学校
また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語った
すべての預言者たちも、今の時について宣べまし
た。(使徒 3:24)
その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人た
ちをお遣わしになりました。(使徒 13:20)
サムエルは、預言者学校を創設し、預言者職
の階級を創設した。神学校のルーツはここにあ
る。彼の前に、モーセも預言者と言われた(申命
18:18)が、組織化されたものは無かった。サムエ
ルを通して、神はイスラエルの民を道徳的、宗教的
な教育をするために、学校を作った。国家の内
面的な成長のために必要なものであり、イスラエル
をより高度な知的水準に引きあげたのである。
神学校
(聖書学校)
における生活では、み言葉の
学びと祈りに集中できる。そして、多くの神学校は
共同生活をするようになっているが、そこにおける人
間関係を通しての訓練にも大きな意味がある。リ
バイバルのために働き人が備えられるように祈ろう。
#$
11
November
● 月日
恵みの信仰 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるため
です。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも
満ちあふれました。(ローマ 5:20)
キリストを通して与えられる「恵み」は、他のどのよう
な宗教にも見られない特別なものである。それは、
キリストの十字架によって表される罪の赦しであり、
無条件に与えられる。たとえ、
どのような状況にあろ
うと、また、
どのような罪を犯しても、赦しは、無条件
で与えられる。これが恵みの真理である。
アガペーと言われる神の愛によって与えられる赦し
があるために、
「罪の中にとどまるべき」
(ローマ
6:1)
でしょうかと叫ばずにおられないのである。これ
が、
「恵み」の法則となる。
天の父は、
どのような時にも手をひろげて、あなたを
待っている。すべてを赦すために…。
#$!
11
November
● 月日
霊の戦いの武器
こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人
を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師
として、お立てになったのです。それは、聖徒たち
を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建
て上げるためであり…。(エペソ4:11,12)
預言は教会の主要な機能の一つであり、熱心に
追い求めるように勧められている。霊的な戦いに
必要なものの一つは、
この預言の賜物である。
さらに、
「悪魔の策略に対して立ち向かうことが
できるために、神のすべての武具を身に着けな
さい…」
(エペソ6:11)
と書かれている霊の戦いの
武器は信仰であるが、サタンに対して最も攻撃的
に用いられるものは賛美であり
(エペソ5:19)であり、
預言(Ⅰコリント14:3,4)
と、とりなしの祈りも
(エペソ
6:18)重要である。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも
御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず
目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐
の限りを尽くし、
また祈りなさい」
(エペソ6:18)
。
#$"
11
November
● 月日
クリスチャンであること
御使いは答えて言った。
「聖霊があなたの上に臨み、
いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、
生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
(ルカ 1:35)
ルカの福音書では、最も理想的な人はどのようなも
のかが描かれているが、
その基本は「新生」
である。
あがな
神は、人間を贖うようにされたが、その目的は罪人
を理想的な人に回復するためである。新しく生ま
れることによって、
神の子とされるのである。
「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに
住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にでは
なく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊
を持たない人は、
キリストのものではありません」
(ローマ 8:9)
と言われている通り、御霊を持たない
者はクリスチャンではない。
これがクリスチャンとしての条件である。
#$#
11
November
● 月日
そこに網をおろしなさい
話が終わると、シモンに、
「深みに漕ぎ出して、網を
おろして魚をとりなさい。」と言われた。 するとシ
モンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働
きましたが、何一つとれませんでした。でもおこと
ばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのと
おりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそ
うになった。(ルカ 5:4-6)
漁師たちは毎日の仕事に自信を持って取り組んで
いたと思われるが、夜通し試みたものの不漁で失
望落胆している時に、この言葉がかけられた。常
識的にはあり得ない事であった。しかしながら、主
が言葉をかけられ、彼らがそれに従った時、網が破
れそうになる程の大漁を得た。
常識的なことを超えるためには、主の声を聞く必要
がある。そして、それに従う勇気と大胆さが必要で
ある。彼らは、主の偉大さを身近に体験したと思
われるが、あなたも同じことを経験したければ、毎日
の生活の中で、小さなことにチャレンジする必要が
ある。その積み上げの結果として、彼らと同じこと
が起こる。
このみ言葉に賭けてみよう。
#$$
11
November
● 月日
天よりの声
彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその
人々を包み、そして、雲の中から、
「これは、わたし
の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを
聞きなさい。」という声がした。(マタイ17:5)
このみ言葉にあるように、ペテロが聞いたこの天よ
りの声は終生忘れることができないほどの経験で
あったと思われるが、彼はこの時の経験を語りな
がら、
「私たちは、さらに確かな預言のみ言葉を
持っています。夜明けとなって、明けの明星が
あなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照
らすともしびとして、それに目を留めているとよい
のです」
(Ⅰペテロ1:19)
、と言っている。奇跡的な
経験で無くて、
確かな神のみ言葉のことを指摘して
いるのである。
神の言葉が啓示の光として照らされる時、天よりの
御声となる。その御声は聖書と共に絶えず私達の
身近にある。御声を聞くためには、時には明星が
心の中に上るまで待ち望む必要がある。み言葉
の声を聞こう。
#$%
11
November
● 月日
神の時
主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一
日のようです。(Ⅱペテロ3:8)
神の時は、あたかも一日のようであったり、1,000年
のようであったりするが、綿密な計画に基づいた明
確なスケジュールの中に刻まれている。神の計画
はそれに従ってこの世にもたらされた。
「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御
子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また
律法の下にある者となさいました」
(ガラテヤ4:4)
のであり、主イエスの十字架に至る課程はすべて、
神の時 であった。
したがって、主の再臨も定められた時に、
「終わり
のラッパとともに、
たちまち、一瞬のうちに・・・」
(Ⅰ
コリント15:52)来る。
全ての人は神が支配し給う時の中に生かされてい
る。 神の時 を認めよう。
#$&
11
November
● 月日
み言葉と神の国
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた
偉大な大祭司である神の子イエスがおられるので
すから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではあり
ませんか。(ヘブル 4:14)
「天にはキリスト」、
「地にはみ言葉」
この二つの間に
「御霊」がある。この三つがひとつになって、神の
国を実感することができる。
主は、み言葉を通して天と地を往復されると考えて
よい。したがって、我々もみ言葉を通して、
イエス・キ
リストを通して、
主の臨在に触れることができる。
日々み言葉を通して、臨在の中にある。このことは、
み言葉を生きる者にとって、
真実なことである。それ
を新鮮にするためには、み言葉によって、自分の考
える事、
口にする事を選択しなければならない。
「御国を来たらせ給え」
という言葉が、実感となるよ
うに…。
#$'
11
November
● 月日
平安
(平和)
の子
さあ、行きなさい。 いいですか。 わたしがあなた
がたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すような
ものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに
行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけま
せん。どんな家にはいっても、まず、
『この家に平
(ルカ
10:3∼7)
安があるように。』
と言いなさい。
キリストに遣わされた弟子が、
町や村へ入って最初
にすることは、平安の子を探すこと、泊まる家を探す
ことであった。遣わすお方キリスト、
遣わされる弟子、
彼らを受入れる平安の子(家庭)
、
この 3者が合わ
さる時、
主の働きが前進する。
キリストが語られた働き手とは、弟子と平安の子
(家庭)
とを指している。主はそれぞれに召しと賜
物を与え、福音によってひとつにし、共に働くのであ
る。
平安は福音の非常に大切な要素で、平安の子
が求められている。
#$(
11
November
● 月日
なんと美しいことよ
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、な
んと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い
知らせを伝え、救いを告げ知らせ、
「あなたの神が
王となる。」とシオンに言う者の足は。
(イザヤ 52:7)
良い知らせを伝える者の足がなぜ美しいのだろう
か。その鍵は「山々の上に」
にある。
山々の上とは地上から高く離れた場所で、霊的に
は天にキリストと共にある
(エペソ2:6)
という意味で
ある。私たちはそこで安息し、天の神のことばを近
く聞きその恵みを楽しむことができる。その交わりの
中から神様の御心を受け取りそこから遣わされる。
アブラハムは「わたしが示す地へ行きなさい。」
(創
世記 12:1)
という天の声を受け取り、神に従い、そ
れを地上に反映させた。モーセはその顔が神の
栄光で輝き
(出エジプト34:35)
、栄光から栄光へ
(Ⅱコリント3:18、
詩篇 34:5)進んだ。
神と共に歩く人の足は美しいのだ。
#$)
11
November
● 月日
コンタクトポイント
ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存
じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピ
リポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の
下にいるのを見たのです」。(ヨハネ1:48)
クリスチャンにとって、自然から超自然の次元に魂
が移されていくポイント
(接触点)が重要である。こ
れを、コンタクトポイントと言う。
それは第一に、魂に対して積極的評価で臨むこと。
第二は、聖霊の働きに委ねること。そして、三番目
には、
勝利者としての立場を宣言することである。
イエスは、常にそのように人々に接していた。冷た
い心の持ち主だったナタナエルが上記のように変
えられたのは、
このポイントをつかれたからであった。
ナタナエルは、この時「御国をきたらせ給え」
という
祈りが実感になったのである。
#%
11
November
● 月日
サタンはすでに敗北している
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞い
た。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神
のキリストの権威が現われた。 私たちの兄弟たち
の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えて
いる者が投げ落とされたからである。
(黙示 12:10-11)
教会は、すでにサタンの支配に勝利しているので、
「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げま
す。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは
天においてもつながれており、あなたが地上で
解くなら、
それは天においても解かれています。」
(マタイ16:19) と言われた。常にこの視点で
物事を見なければならない。
そのうえで、
「すべての祈りと願いを用いて、どん
なときにも御霊によって祈りなさい。そのために
は絶えず目をさましていて、すべての聖徒のため
に、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」
(エペ
ソ6:18)
という祈りが大切である。
このような行為の積み重ねによって、サタンがすで
に敗北していることを明らかにしていくのである。
#%!
11
November
● 月日
すでに勝利、
だから勝利
しかし、神は、
さらに豊かな恵みを与えてくださいます。
ですから、
こう言われています。
「神は、
高ぶる者を退け、
へりくだる者に恵みをお授けになる。
」ですから、
神に
従いなさい。そして、
悪魔に立ち向かいなさい。そうす
れば、
悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
(ヤコブ 4:6∼7)
サタンに立ち向かう方法のコツは、自分がキリストに
あって勝利者である立場を彼に宣言することであ
る。
もちろん、その前提には、神に従うこと、即ちイエスを
神の子として信じる必要があるが、御子を信じるも
のは神の子であり
(ヨハネ1:12)
、勝利者なのであ
る。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを
歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちに
とどまっているからです。その人は神から生まれ
たので、罪のうちを歩むことができない。」
(Ⅰヨハ
ネ3:9)
と約束されているので、
安心してよい。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てま
す。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
(マ
タイ16:18)サタンは決して教会に勝つことはできな
い。
#%"
11
November
● 月日
安息のための歌
主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あ
なたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、
あなたの恵
みを、
夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは…。
(詩篇 92:1-2)
安息日の原点は感謝にあり、その秘訣は、み言
葉の中にある。安息は、すでに(already)、いつも
(always)、
すべて (all)にある。
あがな
み言葉は、キリストによる贖いのみわざ、すなわちキ
リストの十字架を証しており、イエスを信じる者はす
べて、すでに完了された天への大路を通っている。
それによって、過去、現在、将来におよぶすべての
罪(sin)の赦しと、毎日犯す罪(sins)からの解放、
新しいいのち、
聖霊の満たし、
油注ぎがある。
私たちは、主の家に植えられ、神の大庭で栄え、年
齢も立場も越えて実を結び、みずみずしく生い茂る
よう召されている。安息のための歌を共に歌おう。
#%#
11
November
● 月日
主を待ち望む者
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼
をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いて
(イザヤ 40:31)
も疲れない。
主を待ち望むことに二つの局面がある。一つは祈
りによって、主との深い交わりの時を過ごすことであ
り、危機に於いては、これが最も必要である。もう
一つは信仰によって主に心を向けることであり
(Ⅱコ
リント3:16-17)
、絶えず臨在の中に自分を確認す
ることである。これは日常的待ち望みと言ってよい。
もし信仰よりも問題が大きく見えて、圧倒されている
ならば、今ある力を増し加えるよりは、新しい力と取り
替えられる必要があろう。実は、原語にはそのよう
な意味が含まれている。
主を待ち望み、新しい力と取り替えられることを期待
しよう。
#%$
11
November
● 月日
御霊に関する五つの命令
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、
決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
(ガラテヤ 5:16)
御霊に関する命令の言葉を拾い上げてみよう。ま
ず第一に、御霊と共に 歩む 事である
(ガラテヤ
5:16)。そして、
もちろん、
御霊に 満たされる(エペ
ソ5:18)があり、御霊を 悲しませるな という言葉も
ある
(エペソ4:30)。御霊は、怒ることは無いが、悲
しまれるのである。
御霊を けがすな (ルカ12:10)
とも言われている。
これは、御霊の好みや性質を表している。このよう
なお方と、いつも共にいる事が重要で、御霊を 消
すな(Ⅰテサロニケ5:19)
という言葉が続く。
つねに御霊に信頼し、
行動することが命令されてい
る。
#%%
11
November
● 月日
「見る」
と
「見つめる」
初めからあったもの、
私たちが聞いたもの、
目で見たも
の、
じっと見、
また手でさわったもの、
すなわち、
いのちの
(Ⅰヨハネ1:1)
ことばについて…。
いのちのことば(福音)は、 二度聞くことば と言わ
れることがある。それは、福音が二つのものに依存
するからである。すなわち、語ろうとする声と、聞こう
とする耳が必要であることを意味している。
ところで、
「目で見る」ということばは視覚的な意味
を表しているが、
「じっと見つめる」という言葉には、
「その物の存在が持つ意味と重要さを把握する
行為」を表しており、確かに原語のギリシャ語には
そのような意味が隠されている。
ただ、見るだけでなく、見つめる人は幸いな存在で
ある。福音を聞くところから、さらに進んで、見つめ
るように期待したい。
(ピリピ 2:16)
主よ、
私を見つめる者としてください。
#%&
11
November
● 月日
ただ、
この一事に
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あ
なたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる
(ピリピ 3:17)
人たちに、
目を留めてください。
兄弟たちよ。私は、
自分はすでに捕えたなどと考えて
はいません。ただ、
この一事に励んでいます。
(ピリピ 3:13)
パウロはピリピの教会に宛ててこの手紙を書いた
が、この冒頭に、 私に見ならう者になってください
… と書いた。とても大胆な言葉のように思えるが、
続く言葉を見ると、自分に足りないところがあること
を表現し、そのために、 すでに得たとは思っていな
い 、どうにかして、死者の中からの復活に達した
い という真実な願いを表現している。
聖書に忠実であることや教会の一致と飢え渇きに
目を留める事が重要なテーマとして語られている。
聖書が語る原点に目を留めて、
この一事に励む事。
それが力になる。
渇きのあるところが潤される。
#%'
11
November
● 月日
愛の行動
ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、
娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そ
うと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の
神、主によって奮い立った。(Ⅰ サムエル 30:6)
サウル王による王国の末期、ツィケラグに帰ったダ
ビデを待っていたのは、
「ダビデとその部下が、三
日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人が
ネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らは
ツィケラグを攻撃して、
これを火で焼き払い、そこ
にいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこに
し、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去っ
た」
(Ⅰサムエル 30:1-2)
という、アマレクの略奪に
よって荒れ果てた町の姿であった。
しかし、
ダビデは主によって奮い立った。しかも、彼
らを追撃してきた軍から脱落した者をペソル川で
見つけ、
「彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も
飲ませた。
」
という。この時のダビデの態度に学ぼう。
愛が、
困難な状況を救う。
#%(
11
November
● 月日
聖霊が疑問の解答
御使いは答えて言った。
「聖霊があなたの上に臨み、
いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、
生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
(ルカ 1:35)
マリヤが言った疑問、
どうしてそのようなことになりえま
しょうに対する答えは、
「聖霊があなたの上に臨ま
れます」
(ルカ1:34-35)
であった。
「真夜中にその人のところに行き、
『君。パン
を三つ貸してくれ。』
(ルカ11:5)
という訴えに対
する答えにも、
「天の父が、求める人たちに、どう
して聖霊を下さらないことがありましょう」
(ルカ
11:13)
と言われた。
さらに、
イエスは言われた。「いつとか、どんなとき
とかいうことは、あなたがたは知らなくてもよい
のです。…聖霊があなたがたの上に臨まれると
き、
あなたがたは力を受けます」
(使徒 1:7-8)
。
すべての信徒が用いることのできる鍵は、聖霊であ
る。
#%)
11
November
● 月日
夢を解放する
わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 あな
たがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い
男は幻を見る。(ヨエル 2:28)
年寄りが見るといわれている夢。それは、神の夢で
ある。この夢を実現するために、御子キリストは、呪
いを身に受けて十字架を通られた。そして、
この夢
を伝えるために、
聖霊が教会に与えられた。
十字架に架かられる直前に、イエスは、
「父よ彼ら
をひとつにしてください」
(ヨハネ17:21-24)
と祈っ
た。これは教会の姿である。十字架は教会を生
み、成長させ、神の御前に栄光の教会を立たせる。
父なる神の夢である。
キリストと聖霊が、
それぞれの使命を果たしておられ
る。このモデルを見よう。私たちを切り出し、生け
る石としていのちを与えられ、他の石と組み合わさ
れて、父なる神の夢の実現に用いられることを期待
する。ハレルヤ!
#&
11
November
● 月日
恵みのゆえに
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われ
たのです。それは、自分自身から出たことではなく、
神からの賜物です。(エペソ2:8)
神は、
「神は、ただみこころのままに、私たちをイ
エス・キリストによってご自分の子にしようと、愛
をもってあらかじめ定めておられたのです」
(エペ
ソ1:5)
と言われる。御自身の御子を地上に送り、
恵みを実現された。人間の行いとは無関係に、
そ
れを定められた。
主イエスが「人は新しく生まれなければならない」
(ヨハネ3:3)
と、ニコデモに言われたが、彼は、そ
れは難しい と応え、一生懸命努力しようとしたに違
いない。しかしながら、主イエスはただ、
「仰ぎ見れ
ば救われる。」
(民数 21:8、ヨハネ3:15)
という道を
示された。これが恵みである。
ただ受け取る信仰、赦される信仰、求める信仰に
よって、
あふれるいのちを待ち望む。
#&!
11
November
● 月日
み言葉が実現した
今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いた
とおり実現しました。(ルカ 4:21)
「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた
者をいやすために、わたしを遣わされた。捕わ
れ人には解放を、囚人には釈放を告げ」
(イザヤ
61:1)を読まれたイエスは、 今日このみことばが実
現した と言われた。その時に、神の国の支配が
始まった。つまり、律法学者やパリサイ人の行いに
よる教えではなく、主のみ言葉の権威によって、神
が与えた「恵み」があふれた
(ルカ4:22)
のである。
今日主はどこにおられるのか。もちろん、
「あなたが
たの中におられるキリスト、栄光の望み」
(コロサ
イ1:27)である。キリストのからだなる兄姉を通して
ご、
自身を現してくださるのである。
神の国がキリストのからだなる教会を通して、
広げら
れますように。
#&"
11
November
● 月日
人をとる漁師に イエスは彼らに言われた。「わたしについて来な
さい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよ
う」。(マタイ4:19)
イエスがペテロとアンデレに出会った時に、わたし
について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師
にしてあげよう 。と言われた。その時、彼らはその
言葉か、あるいは、それを語られたイエスという人に
か…どちらかに惹かれた。すぐに網を捨てて行っ
たのは、
考えてみれば、
不思議なことである。
あなたにも、そのような時があったであろうか?神様
の招きと励ましの声が聞こえることであろう。
「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神
の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私
たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊で
はなく、力と愛と慎みとの霊です」
(Ⅱテモテ1:6-
7) すべてのクリスチャンは収穫の働き手に召されてい
る。
#&#
12
December
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
─ ヨハネ 1:4 ─
12
December
● 月日
クリスマス・アドベント
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひ
とりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はそ
の肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ 9:6)
アドベント
(待降節)が始まると、毎週ローソクに一
本ずつ火をともし、
それが四本目になった時にクリス
マス礼拝を迎える。クリスマスを待ち望むのである。
クリスマスは、遠い昔に起こったイエスキリストの誕
生を思って過去を振り返るが、それと同時に新し
い年の事を考え、時を超えて広がる宣教の可能
性や、色づいた収穫の畑をイメージしたい(ヨハネ
4:35)
ものである。
主の再臨の足音を聞いて、天と地にあるすべての
聖徒たちが栄光のからだをもって、空中で主と会う
時をイメージして
(Ⅰテサロニケ4:16,17)
、壮大なクリ
スマス
(イザヤ 9:6,7)
を待ち望もう。
#&&
12
December
● 月日
ベツレヘムから君のいる町へ
そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられ
る幼子を見、ひれ伏して拝んだ。(マタイ2:11)
世界で最初のクリスマスは、ひとつの家庭から始ま
り
(ルカ2:16)
、そこへ羊飼いや博士たちが導かれ、
全世界へ広がった(コロサイ1:6)
。馬小屋からス
タートしたが、
イエス様がおられたので、
そこが教会と
なり、
救いのみわざが広がっていった
(ルカ10:5-9)
。
私たちの教会でも、
家庭集会、
地域礼拝、
地域ミッ
ションなどと呼ぶ小さな集会から、市民会館におけ
る1,000人を超す大集会につながった。ベツレヘ
ムで始まった福音の火は、
「君のいる町へ」広がっ
たのである。
堺福音教会には市内に200箇所を越えるブランチ
があると言えば、誰もが驚く事であろうが、
「家の教
会」つまりクリスチャンホームと言えば、
納得していた
だけるであろう。
イエス様を家庭にお迎えし、礼拝(マタイ2:11)
しよ
う。
#&'
12
December
● 月日
ことばは肉体となった
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私
たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来ら
れたひとり子としての栄光である。この方は恵み
とまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
三位一体の一人でおられる御子は、父なる神を表
現された(ヘブル 1:3)永遠の神のことばである
(ヨ
ハネ1:1-5)
。この方以外に神を知る道はない
(ヨハ
ネ1:18、
14:6)
。
神のことばは人となり、私たちの次元において、神を
見、
神に触れ、
神を知るようにして下さった。人となっ
たこの方は、十字架の道で神と人が出会える場所
を備え、十字架の体験を通して神とのコミュニケー
ションを可能にされたのである
(ガラテヤ 2:20)
。神
は、いつもキリストを通して私たちに語りかけておられ、
クリスチャンはその声を聞いており、応答するのであ
る。
クリスマスはクリスチャンにとって、時間を越えた現実
の出来事である。
#&(
12
December
● 月日
あなたのおことばどおりに
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしため
です。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身にな
りますように。」こうして御使いは彼女から去って
行った。(ルカ 1:38)
マリヤに言われた神の言葉と、
その不思議は特別な
ものを感じさせるが、一方で私たちにも共感できるも
のがあるように思われる。
あなたのおことばどおりに… という言葉は、み言葉
を受け入れ、救いを信じるすべての人の内で叫び
たくなることではないだろうか。親密に、しかも個人
的に語りかけて下さる神の声を聞くと、たとえそれが
厳しい事であっても、不可能に見える事であっても、
マリヤと同じような個人的な経験となる。
この経験が信じるすべての人に広がって、
「わがた
ましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる
神を喜びたたえます」
(ルカ1:46,47)
というマリヤの
賛美が、
私たちの賛美となるように祈る。
#&)
12
December
● 月日
天の御国の鍵
わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。
(マタイ16:19)
「あなたは、生ける神の御子キリストです」
(マタイ
16:16)
というのはペテロの告白であったが、その時、
イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を
建てます」
(マタイ16:18)
と宣言された。そして、
さら
に 天の御国の鍵 を与えると言われたのである。
鍵を持っているということは、
家族のような身分が与え
られているという意味で、彼は、いつも安息と平和の
場所にいるという意味と考えてよい。
天であなたと御父が結ばれているのは、主イエスの
あがな
血によって勝利者となり、贖われ、子とされている契
約に基づいている。あなたと教会には、ハデスの門
も打ち勝てない天の御国の恵みが与えられている
(エペソ1:23)
。
「神と共に生き、共に喜び、共に感謝する」
という繋
がりを、
主ご自身が願い望まれた。
#'
12
December
● 月日
クリスマスのしるし
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておら
れるみどりごを見つけます。これが、あなたがたの
ためのしるしです。(ルカ 2:12)
クリスマスの時の、飼葉おけや星は、羊飼いたちや
天文学者であった東方の博士たちにとって、
それぞ
れ非常に身近なものであった。救い主を示す しる
し は実に、
ごく普通のものであった。
人にはそれぞれの環境において、神が示しておられ
る しるし がある。普通では見逃すような身近なそ
のしるしがきっかけとなって、救い主となる方を見いだ
すことになる。あなたにとって、
この しるし は何であっ
たか?
クリスマスのこの時期に、羊飼いたちや博士たちに
思いを馳せると、
主との出会いを新鮮にできる。
主をほめたたえ、
救われた恵みを賛美しよう。
#'!
12
December
● 月日
その翼には癒しがある
しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の
太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがた
は外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
(マラキ4:2)
救い主がこられた目的は神の国(支配)
を人類にも
たらすことであった。
信仰によって救い主に出逢うとき新生するので、神
の国を体験する
(ヨハネ3:3)
。 神の国 は、人の
住む世界とは異なる、神の領域を示すだけでなく、
神の力をデモンストレーションするものでもある。し
たがって、主イエスが明らかにした神の国では癒し
が起こり
(ルカ7:22)
、悪霊が追い出された(ルカ
11:20)
。
弟子達の祈りや証しでも、同じように神の力が表さ
れた
(使徒 4:30、
ローマ15:19)
。
今、教会にも同様のことが求められている。神の国
の力がより鮮明に示されるように期待する。
#'"
12
December
● 月日
セレブレーション
あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、
イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む
者のように心楽しむ。(イザヤ 30:29)
セレブレーションとは祭を祝うことである。クリスマスも、
やはりお祝いする時で、
その日を楽しみにして迎える。
日本人は祭が好きだと言われるが、ユダヤ人も同じ
で、
さまざまな祭りが行われている。
ある祭のクライマックスにおいて、主イエスは
「だれで
も渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさ
い」
(ヨハネ7:37)
と言われた。華やかな宴の後は
時として、
さみしく空しい思いになる。イエスは、
それを
見越したかのように、満ち足りた時間は、祭りの中で
はなく、
キリストが与える水を飲む事で得ることができる
と言われたのである。
「この水を飲む者はまた渇く、
しかしわたしの水は
決して渇くことがない」
(ヨハネ4:13,14)
。
#'#
12
December
● 月日
クリスマスと宣教
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。
今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知ら
せに来たのです。…御使いたちが彼らを離れて天
に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。
「さ
あ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてく
ださったこの出来事を見て来よう」。(ルカ2:10-15)
クリスマスに起こった事は、私たちの宣教を教えてい
る。まず「言葉が肉体となられ」
(ヨハネ1:14)
、宣
教の原点が明確にされた。そして、次に天使がク
リスマスのよきおとずれを、羊飼いに伝え
(ルカ2:9∼
15)救い主に出会うようにされた。彼らはそれを賛
美し
(ルカ2:20)
ながら、
他の人に知らせた。
一方、
東の博士達には、
彼らにふさわしい方法で伝
えられた。すなわち、星の動きを通して、やはり救い
主と出会うチャンスを提供された
(マタイ2:1-11)
。
宣教は、
それぞれの人に最も適切な方法で知らせる
ことが必要で、
クリスマスはそれを明確に示している。
#'$
12
December
● 月日
栄光、
恵み、
まこと
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私
たちはこの方の栄光を見た。(ヨハネ1:14)
栄光はクリスマスによって、見ることが出来るように
なった。キリストは「あなたがわたしに下さった栄
光を、彼らに与えました。…父よ。お願いします。
…わたしに下さった栄光を、彼らが見るようにな
るため…」
(ヨハネ17:22-24)
と言われ。それを実
現された。それが恵みであり、まことである。これら
は神の属性である愛と聖を表している。
恵みが明確になったがゆえに、律法の世界との違
いが明らかになった(ガラテヤ 4:3-6)
。主は信じる
者に、恵みが支配する生き方を可能にされた
(ロー
マ8:3-4)
のである。
クリスマスは律法の世界から、恵みの世界への分
岐点になっている。このクリスマスの恵みをかみしめ
よう。
#'%
12
December
● 月日
恵みに恵みを
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれです
か。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢え
ですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。… しか
し、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利
者となるのです。(ローマ 8:35-37)
神の恵みは、試練と患難を越えて満ち溢れる。そ
の時圧倒的な勝利者と言われる
(ヨハネ16:33)
。
神の御霊の領域、恵みの泉の領域は、さまざまな
ものが混じり合った混沌の向こうにあるように見える。
そこから恵みを引き出すチャンネルは、み言葉によっ
て物事を評価する習慣以外にない。
神が、
「光あれ」
と言って世界を造られた時、混沌
を貫いて秩序がもたらされた(創世記 1:3)
。言葉
によってこの世界は造られ、恵みの領域がもたらさ
れた。
どんなに惨めに思えても、
信仰によって勝利者である
ことを確認しよう
(Ⅰコリント15:57)
。
#'&
12
December
● 月日
最高の贈り物 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、
世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりと
して滅びることなく、永遠のいのちを持つためであ
る。(ヨハネ3:16)
愛を知らないならば、
恐れがあり
(Ⅰヨハネ4:18)
、
怒り
がある。それを解消するのは愛だけである。これを
現実のものとするために、神のひとり子、
イエスキリスト
が与えられた。それがクリスマス。神は最高の贈り
物を人間に与えられた。これ以上の愛はない。
イエスキリストは聖霊によって処女マリヤに宿り、生ま
れて下さった。この聖霊がキリストを与えられた父
の愛を伝え、
実感させてくださる。
地の上に平和が、父なる神の愛によって、御心にか
なう人々にあるように…父の心を子に向けさせ、子
の心を父に向けさせる
(マラキ4:6)
。
出会いのクリスマス。そのために祈ろう。
#''
12
December
● 月日
喜びと犠牲
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者
にはしたくなかったので、内密に去らせようと決め
た。 …恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい
…。(マタイ1:19-20)
クリスマスは御子の誕生であるがゆえに、多くの人に
大きな喜びをもたらしたが、大きな痛みと犠牲があっ
たことを忘れてはいけない。マリヤの犠牲
(ルカ1:38、
2:35)
、
ヨセフの苦悩
(マタイ1:19)
、
そしてベツレヘム
では多くの幼児が犠牲になった
(マタイ2:16-18)
。
このような喜びの時に、何故苦しみが伴わねばなら
ないのかと思われるかもしれないが。確かなことは、
たとえ犠牲があっても、特別な恵みと助けがあったこ
とである。
天使は、
「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力
があなたをおおいます」
(ルカ1:35)
と約束された。
もし、痛みを経験するような時があっても、いと高き
方の力が私たちをおおって下さるように 祈ろう。
#'(
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December
● 月日
恐れるな
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光
が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使
いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、
私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせ
に来たのです。(ルカ 2:9-10)
クリスマスには、天使が 恐れるな と叫び、救い主の
誕生のメッセージがもたらされた。 恐れ は慢性
的にすべての人の心を支配している。これは、アダ
ムとエバが罪を犯して神と断絶した時から起こった
(創世記 3:8-10)ためである。神は、人の心から、
この 恐れ を除くために救い主を送られた(Ⅰヨハネ
1:7)
。
どのような恐れも神との交わりが現実となる時、癒さ
れる。恐れを超えるためには、神の愛が必要なの
である。これはパウロの実感であり
(ローマ8:35-39)
、
厳しい試練の中にあったダビデの体験であった。
恐れるな このことばを心に深く響かせよう。
#')
12
December
● 月日
震われないもの
こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を
受けているのですから、感謝しようではありません
か。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神
に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
(ヘブル 12:28)
私たちの住んでいる世界には、思わず、まさか こん
なことが起こるとは…と叫ぶことが、しばしばある。 ま
さかこんな地震が… 、まさかこんな銀行がつぶれ
るなんて… 、まさかテロが… 。
このような事件が起こると、 天罰 と言う人がかなら
ず現れる。それほど大変なことではあるが、
決して納
得できる解答は得られない。ただ、この世に絶対と
いうものがないことだけは確かである。
このような時に大切な事は、
「揺り動かされない御
国」
(ヘブル 12:28)
と、
「神の国とその義を」
(マタ
イ6:33)
、
を真剣に求めることである。
#(
12
December
● 月日
クリスマスの光
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝
たなかった。(ヨハネ1:5)
打ち勝つ という言葉の原語(ギリシャ語)はカタラ
ンバノーと言うが、これには、 捉える、打ち勝つ、理
解する の意味があり、
このみ言葉は、
「これを悟らな
かった」
と訳されることもある。
著者ヨハネは、たぶん原語の二重の意味を、光と
暗やみの関係にあてはめたのであろう。彼は、
どの
ように小さな光でも、
闇はこれを消す事が出来ないこ
とを明確に示したのである。この事実に背を向ける
ことはできない。
多くの人はクリスマスを知っているが、クリスマスの光
は知らない。それは人の心の奥底にともる真理の
光に目をとめる事をしないからである。
真理を愛する者は必ず、クリスマスの光を見るので
ある
(ヨハネ3:21)
。
#(!
12
December
● 月日
その方の星
ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに
おいでになりますか。私たちは、東のほうでその方
の星を見たので、拝みにまいりました 。(マタイ2:2)
博士たちの国に不思議な輝きをもった星が出現し
た。彼らはこれを神からのメッセージだと信じ、行動
を起こした。彼らは「マギ」
と呼ばれ、占星術の学
者であったと言われているが、
その仕事や過去が何
であろうと、
「その方の星を見た」
(マタイ2:2)
と信
仰告白をした。
そのために、
彼らの生活は一変したに違いない。あ
の方の星 を信じることから、
イエスに出会ったために、
これまでの生活とは異なる歩みをすることになったの
である。彼らは、
「別の道から自分の国へ帰って
行った」
(マタイ2:12)
。
信仰告白によって得られる恵みは確かなものでは
あるが、主との出会いは、
これまでの生活とは異なる、
罪の生活との決別を意味する。
#("
12
December
● 月日
クリスマスの恵み
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主
がお生まれになりました。この方こそ主キリストで
す。(ルカ 2:11)
ベツレヘムで「定めの時がきたので」
(ガラテヤ
4:4)
、
マリヤとヨセフに赤子が与えられた。彼らは、
そ
の赤ちゃんを飼い葉おけの中に寝かせた。家畜の
匂いが漂う汚れた場所で救い主は誕生した。
彼は、神殿や王宮ではなく、誰でも訪れる事ので
きる場所で生まれ、罪人を招くために来た(マルコ
2:17)
。彼は、決して痛んだ葦を折ることもなく、
くす
ぶる燈心を消すこともない
(イザヤ 42:3)
方として来ら
れた。
イエス
・キリストの十字架に向かう歩みがここから始
あがな
まった。彼は罪のための贖いとなり、死とよみがえり
を通して、用意された恵みが時・場所・状況に限定
されずに、すべて信じる人々が経験出来るものとし
た。
あなたがたのための救い主が、
今日生まれた。
#(#
12
December
● 月日
羊飼いのクリスマス
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をし
ながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使い
が彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らした
…。(ルカ 2:8-9)
羊飼いたちに
「喜びの知らせ」
が告げられたが、
それ
に対する彼らの応答は、私たちの宣教の原理であ
る。
まず、知らされたのは、
「布にくるまって飼葉おけに
寝ておられるみどりごを見つけます」
(12)であっ
た。それで彼らは、
「急いで行って、…飼葉おけに
寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
」
(16)
。彼
らは、探すという行動を起こして、救い主に出会い、
単調であった生活が賛美の生活に変わった。
そして、彼らは「この幼子について告げられたこと
を知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼い
の話したことに驚いた」
(17,18)
。
クリスマスが、
救い主との出会いになるように祈る。
#($
12
December
● 月日
愛のあいさつ
御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめ
でとう、恵まれた方。主があなたとともにおられま
す。」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどっ
て、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
(ルカ 1:28,29)
マリヤに御使いガブリエルが訪れ、思いも及ばない
驚きのメッセージが届けられた。そのために、彼女
は戸惑った。彼女がその言葉を受け入れた時、
「御使いは彼女から去って行った」
(ルカ1:38)
と
書かれている。そばに居て見守り、助け、励ましてく
れたのではなく、
御使いは去って行った。
その時、彼女はエリサベツのことを思い出した。マ
リヤは立ち上がり、ユダにあるザカリヤの家へ急い
だ。マリヤとエリサベツが愛と祝福のあいさつを交
わした時、
「エリサベツは聖霊に満たされた」
(ルカ
1:41)
。
そして、あの有名な歌が生まれた。御霊は二人の
自然な生活の営みと交わりを通して、喜びを満たさ
れた。
#(%
12
December
● 月日
インマヌエル 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産
む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、
神は私たちとともにおられる、という意味である)。
(マタイ1:23)
神が共におられる 、それがこのクリスマスに神が用
意された贈物である。なんと幸いないことであろう。
父なる神は、御子イエスを小さな赤ん坊の姿で、ベ
ツレヘムの家畜小屋で生まれるように用意された。
それはすべての人に、救いが届くためであり、神が
共におられることを伝えるためであった。
神は、罪のために断絶していた天と地の領域を取
り戻し、恵みと希望を見出だすことができるようにさ
れた。あなたは、この共におられる主と豊かな人生
を送っておられるだろうか。
どのような環境であろうと、マリヤが賛美したように、
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが
救い主なる神を喜びたたえます」
(ルカ1:46)
と言
おうではないか。
#(&
12
December
● 月日
時が来れば…
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。 時
が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、
何をしても栄える。(詩 1:3)
時が来ると実がなることを信じて歩む者に、神は間
違いのない道を示しておられる。そのために、すで
に代価が払われ(ガラテヤ 3:13,14)ており、それを
保証するために御霊が内住
(ガラテヤ 3:14、エペソ
1:13,14)
していると言われている。
それを確認するためには、み言葉 の領域にとどま
ることである
(Ⅱコリント3:6)
。そうすれば、いつでも祝
福のシャワーを受ける
(エペソ1:3)
。 ただ、
それは感
覚的に分かるのではなく、み言葉によってのみ確認
できることである。
信仰によって、
今が祝福の時と宣言しよう。
#('
12
December
● 月日
変わることがない
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、
同じです。(ヘブル 13:8)
キリスト者としての最善の生活は、ヘブル人への手
紙 13章に示されている。
まず、
「いつも同じ」
(8)
と表現されている、
時を超越
した方に結ばれる 天的な生活 、
「兄弟愛をいつ
も持っていなさい」
(1)
と言われる 愛の生活 、さ
らに「金銭を愛する生活をしてはいけません」
(5)
、
「…その信仰にならいなさい」
と言われる、 聖い生
活と信仰の生活 が必要である。
さらに、
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美
のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの
果実を、神に絶えずささげようではありませんか」
(15)
と言われている 礼拝の生活 が、クリスチャン
にとって大切である。
意味のある人生を送るために、いつも変わらない主
を礼拝しよう。
#((
12
December
● 月日
東方の博士
東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう
言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった
方はどこにおいでになりますか」。(マタイ2:1-2)
東方の博士たちは不思議な星に導かれてエルサ
レムにやってきた。彼らの見た星は、アブラハムが
あなたの子孫は星のようになる と言われて空を見
上げた時と同じような輝きであったのだろうか。
夜空に輝く星の光は、長い時間を経てやっと地球
に届く。つまり、
あの輝きは過去を表していると考える
と、天地創造の時から、神様の思いは変わっていな
いことを示しているのではないかと思わされる。博士
たちが見た星は、
そのようなものであった。
東方の博士たちは、星そのものではなく、星が指し
示すお方を礼拝した。そこは、天からの答えと恵み
が満ちているからである。
#()
12
December
● 月日
はじめにことばがあった
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあっ
た。ことばは神であった。この方は、初めに神とと
もにおられた。(ヨハネ1:1-2)
ヨハネがクリスマスを描写したこのみ言葉は、創世
記の天地創造と重なって、
心に留まる。実に、
ことば
は、
神とともにあった。
ことばは、
人の心を表すもので、
ロゴスと言われる。こ
のことばなるお方は、
「神のあり方を捨てることが
できないとは考えないで」
(ピリピ 2:6)
、ご自分を無
にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ
た。それは、罪の中に死んでいる者たちを新しく生ま
れさせ、
生かすためであった。
キリストは、完全なる人としての性質をもって地上に
来られた。それがクリスマスである。
よき訪れを知らせる時、
クリスマスおめでとう。
#)
12
December
● 月日
X’
mas
イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主
を拝み、主にだけ仕えなさい。』
と書いてある」。
(ルカ 4:8)
クリスマスが、
しばしば X masと表記されるのは、ギリ
シャ語のXρ
ι
στ
οσ
(キリスト)
の最初の文字を使うか
らである。またマスは、
もともとラテン語ではミサと言わ
れ、礼拝のことである。つまり、クリスマスは、キリスト
礼拝 と訳すことができる。
羊飼いは、世界で最初のキリスト礼拝者となった。
その結果、彼らは賛美したと書かれている。また、
東方の博士たちも、礼拝するために旅を続け、イエ
スに出会い、彼らもまた賛美する者となったに違いな
い。
クリスマスの本来の意味である、
キリスト礼拝が実現
する時、人は希望に満ちた神の声を聞き、賛美に
満たされるのである。
永遠のいのちを与えて下さる主を賛美しよう。
#)!
12
December
● 月日
しあわせ者
主によって語られたことは必ず実現すると信じきっ
た人。(ルカ 1:45)
主が語られることを、すでに成し遂げられたものとし
て見てそれを宣言できる人とは、
どのような方だろう。
宣教師として召された方、教会のリーダーとして活
躍している方、
それとも普通の家庭の平凡な主婦…
仕事や立場ではなく、たとえ、病気のためにベットに
伏せている方であっても、
マリヤと同じように、
「これか
ら後、
どの時代の人々も、私をしあわせ者というで
しょう。
」
(ルカ1:48)
と言える。
神が、
私のための計画を持っており、
私を生かして、
それを実現して下さる。私には力も、自信も無いが、
私を導いて下さる方がそれをして下さる。
それゆえ、
私はただ、
いま生かされている場所で安息
していよう。神が「よくやった」
と言ってくださることを
信じて…それが私の幸せです。
#)"
12
December
● 月日
わたしのところに
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われ
た。「子どもたちを、わたしのところに来させなさ
い。 止めてはいけません。 神の国は、このような
者たちのものです。(マルコ10:14)
イエスは、子どもたちをそのままに…と言われた。大人
は、自分が育ってきた過程で築いてきた常識的な
価値観で子どもを見るが、イエスは純粋な子どもをそ
のまま受け入れるように言われた。
親にとって子どもは宝物であり、
しばしば手放すことの
できないものとなることがある。神がアブラハムにイサ
クを献げるように
(創世記 22:2)言われたのは、アブ
ラハムの信仰を見るためであった。彼は、神は人を
死者の中からよみがえらせる方と信じ、その結果 信
仰の父 と呼ばれるようになった。
ありのまま受け入れる事、
その中であなたの信仰を表
す事を、
主は望んでおられる。そして、わたしのところ
に来なさい と呼んでおられる。
#)#
12
December
● 月日
神の祝福
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべての
ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わた
しは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに
います。(マタイ28:20)
インマヌエル
(ともにおられる)
なるお方は、世の終わり
まであなたと共にいるという約束をしておられる。そ
のお方が、あなたの人生のすべてを祝福しておられ、
誰かがあなたの事を忘れ、
無視しようとも、
あなたのこ
とを何時も心配し
(Ⅰペテロ5:7)
、声をかけてくださる。
あなたは祝福されている。そして、
それは永遠に変わ
ることがない。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを
喜ぶ。
(
」マルコ1:11)
と言われる天の父の声が、
あな
たにもかけられている。あなたは愛されている。あな
たの歩むべき道はそこにある。
感謝を、
栄光の主にささげよう。
#)$
12
December
● 月日
神とともに歩んだ
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、
彼はいなくなった。(創世記 5:24)
「歩む」
を意味するヘブル語は、神と腕を組みながら
行き来し、
散歩をし、
神と語り合い、
より親しくなっていく
様を表す。
エノクの生涯は 365年(創世記 5:23)
と言われてい
るが、主は彼の人生そのものであった。しかしながら、
彼もまた私たちと同じように難しい問題や重荷を背
負っていたに違いない。ただ、
彼は神と手をつないで、
腕を組んで歩んだ。
その結果、
神の喜び、
神の視線、
神の心を共有でき
たので、
「彼は神に喜ばれていることがあかしされ
…」
(ヘブル11:5)
大胆に神を信じたのである。
自分で歩いてきたのではなくて、主の御手につなが
れて歩んで来た。感謝と賛美ができるというのはそう
いうことなのだ。
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12
December
● 月日
積極的に待つ
私は主を待つ。 ヤコブの家から御顔を隠しておら
れる方を。私はこの方に、望みをかける。
(イザヤ 8:17)
待つことは、霊的な生活にとって欠くことのできないも
のである。キリストの弟子として待つのは、空虚な体
あがな
験ではない。すでにキリストの十字架の贖いによっ
て完成された保証があるので、
確信と希望に満ちた
ことなのだ。
クリスマス前のアドベントにはキリストの誕生を待つ。
イースターが過ぎると聖霊が来られるのを待つ。そし
てペンテコステが過ぎて、主が栄光の内に再び来ら
れるのを待つ。
私たちには常に待つという事が大切であるが、
むなし
く待つのではなく、神の足跡をすでに見たという確信
にあって待っている。神を待つことは、積極的に、注
意を怠らず、
喜びに溢れる心で待つことである。
私たちが待っているのは、
何かの事件ではなく、
キリス
トご自身である。
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編集後記
本書は、聖書の引用箇所を飛ばして読めば、数分で読むことがで
きるように編集されている。
ぜひ、
これを食卓の一角に置いていただきたいと願っている。そして、
食事の前、あるいは後で読み、短い祈りをささげてくださるように勧める。
家族全員一緒に食事をすることは、なかなか難しいこともあろうが、各
自が簡単に肉体の糧と共に霊の糧を頂くことができると思う。それが
本書の願いである。
記事には、新しく造られた言葉や難しい表現もあり、
よく似た内容の
記事が複数回出てくることもある。時には、時間を使って聖書の引用
箇所を見ながらのデボーションは、
新しい発見につながると思う。
堺福音教会は、
いま
“虹の教会”
を目指している。ノアを通して神の
祝福を現し、その契約を明らかにするために、神は
“雲の中に輝く虹を
置いた”
。その契約に安息することを願っている。神の契約と、それに
導く聖霊の働きは風によって表現されている。!))(年 )月から""回に
わたって、月刊誌「恵みの雨」に連載された「風の翼」は、本書の記
事の一部になっているが、
そのことを表している。
本書の著者は、故我喜屋光雄先生、我喜屋明先生、福留正明
先生の#名である。教会という一つの体の中で生まれたものなので、
敢えて記事の担当者は書き留めなかった。ご理解いただきたい。
(奥野武俊)
#)(
そよ風の吹くころ
" !!年! 月!日発行
著 者:我喜屋光雄、
我喜屋明、
福留正明
編 集:奥野武俊
発行者:我喜屋明
発行所:堺福音教会 堺市南区若松台#丁#$!$
印 刷:プレイズ出版
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