以下の数字をクリックしると、 月の初めのページにスキップします 1月 7月 2月 8月 3月 9月 4月 10 月 5月 11 月 6月 12 月 そよ風の吹くころ 堺福音教会 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。 (創世記 4章 8節) 神はエデンの園である決まった時刻に「園を歩き回った」。神は、 定められた時間に、定期的にアダムとエバを探して、お会いになり、彼 らに声をかけた。それが「そよ風の吹くころ」であった。神は、時間と 空間に制限されている人間のために、 それらを超えて人間のもとに来ら れ、 そこでお会いになるのである。 あなたにとって「そよ風の吹くころ」は朝であろうか、それとも夜であろ うか?とにかく、定期的に神との交わりを持つ必要性は、 ここにある。こ れが、 本書のタイ トルになった。 堺福音教会の週報には「時流」という、牧師の短い霊想コラムが ある。これは!)(&年に我喜屋光雄先生が始められ、現在もなお我 喜屋明先生と福留正明先生が継承している。これまでの年月に書 かれた約 ! 件以上の記事の中から適当に選んで、!年分に編集 したものが本書である。我喜屋先生が天に召されて! 年目の節目 の年に届けることができたことを感謝する。 " !月!日…………神のカイロス 1 !月"日…………神の国 January !月# 日…………点から点、 それを結ぶ線 !月$日…………宣教と教会 !月%日…………摂理と祈り !月&日…………暗黙知 !月'日…………渇きの力 !月( 日…………み言葉の声 !月) 日…………神の国の鍵 !月! 日…………神の国は聖霊である !月!!日…………天的思考 !月!"日…………神の次元 !月!#日…………右にも左にもそれず !月!$日…………預言の源流 !月!%日…………アブラハムの祝福 !月!&日…………真珠よりも尊く !月!'日…………春は来たりつつ !月!(日…………聖霊が臨む時 !月!)日…………聖霊は風 !月" 日…………御霊とみ言葉 !月"!日…………長老と執事 !月""日…………シオンへの道 !月"#日…………にせ預言 !月"$日…………クリスチャンの罪 !月"%日…………力は神にある !月"&日…………力から力へ !月"'日…………栄光から栄光へ !月"(日…………主の栄光 !月")日…………信じること !月# 日…………教会のリーダー !月#!日…………聖書的人情 # "月!日…………日本に対する預言 2 February "月"日…………教会の三つの働き "月# 日…………祈りによる共同作業 "月$日…………使徒行伝と聖霊行伝 "月%日…………聖霊による識別 "月&日…………まず恵み、 そして恵み "月'日…………教会の賜物−父なる神− "月( 日…………教会の賜物−イエスキリスト− "月)日…………教会の賜物−聖霊− "月! 日…………秋の雨、 春の雨 "月!!日…………リバイバルを造ろう "月!"日…………神の恵みを見た "月!#日…………新しい皮袋 "月!$日…………平安の家 "月!%日…………人間性の尊厳 "月!&日…………リバイバル "月!'日…………主の祈り "月!(日…………今は恵みの時 "月!)日…………御霊のネットワーク "月" 日…………アンテオケ教会 "月"!日…………非凡なる凡人たち "月""日…………神の言葉は生きている "月"#日…………神の声 "月"$日…………礼拝と神の栄光 "月"%日…………誓い "月"&日…………恵みは信仰をこえて "月"'日…………神の国をもたらすもの "月"(日…………神の召し "月")日…………信仰による行動 $ #月!日…………開かれた門 3 March #月"日…………真理の家、信仰の力 #月# 日…………祈りによる伝道 #月$日…………ギルガル #月%日…………クリスチャンに必要な場所 #月&日…………啓示の聖霊 #月'日…………割礼 #月( 日…………牧会から拡大、 そして海外へ #月)日…………まず聖霊、 そして聖霊 #月! 日…………主の前に #月!! 日…………片手に鍬、 片手に槍 #月!"日…………イエス・キリストを着る #月!#日…………クリスチャンの積極的思考 #月!$日…………からだ意識 #月!%日…………教会の機能と奉仕の領域 #月!&日…………みことばによる革命 #月!'日…………預言と教会 #月!(日…………主を待ち望む #月!)日…………選び #月" 日…………神−歴史−王 #月"!日…………世界の光 #月""日…………すべての祝福 #月"#日…………究極の恵み #月"$日…………十字架と三種類の人 #月"%日…………御霊の三つの現れ #月"&日…………知恵、 知識、 愛 #月"'日…………自由と選択 #月"(日…………座す、 歩く、 立つ #月")日…………復活の力 #月# 日…………キリストと私 #月#!日…………福音のゴール % $月! 日…………初穂 4 April $月"日…………不在の臨在 $月# 日…………三つの証言 $月$日…………三つの宣教 $月%日…………この土の器に $月&日…………イースターありがとう $月'日…………燃やされる $月( 日…………復活の重要性 $月)日…………お互いを通して $月! 日…………文明と終末 $月!! 日…………二種類の知恵 $月!"日…………ひなを呼び覚ます $月!#日…………父のふところ $月!$日…………主の山には備えが $月!%日…………テサロニケ教会と聖霊の導き $月!&日…………再臨についての補足 $月!'日…………信仰ときよい良心 $月!(日…………ドリア、 ドーマ、 カリスマ $月!)日…………キリストによるあがない $月" 日…………ダイナミズムの中心点 $月"!日…………エリヤよ何をしているのか $月""日…………死んでも生きる $月"#日…………聖霊を受けよ $月"$日…………地境をひろげよ $月"%日…………主を知る $月"&日…………突然訪れる日 $月"'日…………起きて食べよ $月"(日…………香油のかおりでいっぱいに $月")日…………まことのぶどうの木 $月# 日…………祝福の原点 & %月! 日…………教会成長への希望 5 May %月"日…………主よ、 今こそ御国を %月# 日…………五旬節の日 %月$日…………すでに神は %月%日…………完成を完成する %月&日…………母なる神 %月'日…………お竹さん %月( 日…………信仰の道 %月)日…………新しい酒と新しい皮袋 %月! 日………… 『間』と安息 %月!! 日…………宣教活動の#要素 %月!"日…………拡大宣教 %月!#日…………母の存在 %月!$日…………健康な教会の条件 %月!%日…………日本列島のための'千人 %月!&日…………神の祝福 %月!'日…………最善のささげもの %月!(日…………預言の重要性 %月!)日…………教会は・ ・ ・ %月" 日…………神の愛と母の愛 %月"!日…………神殿の材料 %月""日…………幕屋、神殿、 教会 %月"#日…………母の愛 %月"$日…………力と愛と慎みの霊 %月"%日…………霊の視点 %月"&日…………ヨナのしるし %月"'日…………喜びは… %月"(日…………教会により、 キリストにより %月")日…………ペンテコステ…外から %月# 日…………ペンテコステ…上から %月#!日…………主がともにおられる ' &月! 日…………ペンテコステ 6 June &月"日…………父なる神 &月# 日…………すると突然 &月$日…………恵みを学ぶ &月%日…………愛されていること &月&日…………目を上げて &月'日…………私には乏しいことがない &月( 日…………約束 &月) 日…………光と影の国 &月! 日…………二つの選民 &月!! 日…………ペンテコステと教会 &月!"日…………王なる祭司 &月!#日…………殉教者の遺言 &月!$日…………勝利の原動力 &月!%日…………教会と聖霊 &月!&日…………結び目 &月!'日…………父になろう &月!(日…………神の都 &月!)日…………神の声 &月" 日…………主の勝利の矢 &月"!日…………思いをこえて豊かに &月""日…………父の悲哀と潜在力 &月"#日…………み言葉の領域 &月"$日…………やみの中に光 &月"%日…………神の声を聞く &月"&日…………親の責任 &月"'日…………祝福はここに &月"(日…………散らされた人々 &月")日…………御霊に導かれる人々 &月# 日…………霊の人を求む ( '月!日…………教会と私 7 July '月"日…………臨在を生きる '月# 日…………神は、はじめに天と地を '月$日…………恵みとまこと '月%日…………天使のもてなし '月&日…………人生、 その目のつけどころ '月'日…………召命 '月( 日…………異端の霊 '月)日…………偶像礼拝 '月! 日…………黙示録のキリスト像 '月!!日…………恵みの大河のなかに '月!"日…………四人の人、 第四の人 '月!#日…………8YcCd_bi '月!$日…………見る '月!%日…………霊に燃え、 主に仕える '月!&日…………天のお父様 '月!'日…………ほんとうに神の子どもです '月!(日…………生ける水 '月!)日…………私の霊によって '月" 日…………アーモンドを見ている '月"!日…………わたしはまことのぶどうの木 '月""日…………恵みによって生きる '月"#日…………健康ですか '月"$日…………あなたは、神の子キリストか '月"%日…………いのちの水の川 '月"&日…………神の愛に根ざす '月"'日…………いつものように… '月"(日…………ヤコブの神 '月")日…………弦楽器にあわせて '月# 日…………あふれる神の愛 '月#!日…………ヒソプ ) (月!日…………心の貧しい者 8 August (月"日…………バプテスマのヨハネ (月# 日…………集会の権威 (月$日…………将来と希望 (月%日…………恵みの御座 (月&日…………黙示録の祈り (月'日…………再臨に必要なハイテク (月( 日…………再臨のキリスト信仰 (月) 日…………マラナ・タ (主よ来て下さい) (月! 日…………聖書の中の特別な数字 (月!!日…………アモスの時代 (月!"日…………予言者と預言者 (月!#日…………リバイバルの"つのタイプ (月!$日…………洞察力と預言 (月!%日…………信仰、恵み (月!&日…………悪人と善人 (月!'日…………種まく人 (月!(日…………舵を取る人 (月!)日…………ヨブ記からの暑中見舞い (月" 日…………信仰の形 (月"!日…………忘れない (月""日…………キリストの信仰 (月"#日…………継承モデル (月"$日…………買い戻す (月"%日…………うわさ信仰から体験信仰へ (月"&日…………どうすればいいのか? (月"'日…………主の日 (月"(日…………食い尽くした年を償う方 (月")日…………ひとつの祈り (月# 日…………御霊にある自由 (月#!日…………君は愛されるため生まれた ! )月! 日…………将来と平安 9 September )月"日…………今、 歩み出す )月# 日…………ヨシュアの決断 )月$日…………完了した )月%日…………ギデオンの# 人 )月&日…………サムエルよ… )月'日…………大いなるものは愛 )月( 日…………偉大なる無駄 )月) 日…………キリストの受肉 )月! 日…………神の指 )月!!日…………わが霊による )月!"日…………勝利の秘訣 )月!#日…………いのちの道を知らせて )月!$日…………主は私の羊飼い )月!%日…………彼らとともに )月!&日…………あなたが必要です )月!'日…………日暮れには… )月!(日…………二つの呼びかけ )月!)日…………ワーシップとサービス )月" 日…………感謝して励む )月"!日…………内なる人と、外なる人 )月""日…………神様から贈り物 )月"#日…………神の作品 )月"$日…………キリストに捕らえられ )月"%日…………新しい人を着る )月"&日…………新しい歌を歌おう )月"'日…………使徒行伝はつづく )月"(日…………キリストのからだ )月")日…………前に向かって )月# 日…………ご自分を無にして !! ! 月! 日…………自由のあるところ 10 October ! 月"日…………さあ来て、 朝の食事をしなさい ! 月# 日…………#つの領域 ! 月$日…………真理の帯 ! 月%日…………御霊の酒 ! 月&日…………もはや私ではない ! 月'日…………文字ではなく ! 月( 日…………主の戦い ! 月)日…………消えない火 ! 月! 日…………信仰の時 ! 月!!日…………御霊にある自由 ! 月!"日…………悲しむ者は幸い ! 月!#日…………神の国 ! 月!$日…………信仰を増して下さい ! 月!%日…………イエス・キリストの系図 ! 月!&日…………こうして教会は… ! 月!'日…………共観福音書 ! 月!(日…………天の御国とことば ! 月!)日…………自己をどう生かすか ! 月" 日…………宣教大命令 ! 月"!日…………出て行って、 語り… ! 月""日…………み言葉の確かさ ! 月"#日…………古い人の処理 ! 月"$日…………一日だけの苦労 ! 月"%日…………依存する信仰 ! 月"&日…………わたしはある ! 月"'日…………七つの例祭 ! 月"(日…………何をしているのかわからない ! 月")日…………ぶどう酒がありません ! 月# 日…………強く、雄々しくあれ ! 月#!日…………あなたはどこにいるのか !" !!月!日…………あなたを去らせません 11 November !!月"日…………ヨベルの年と十字架 !!月# 日…………私たちのヨベル !!月$日…………神の義 !!月%日…………御名をあがめさせ給え !!月&日…………アベルとそのささげ物 !!月'日…………神学校 !!月( 日…………恵みの信仰 !!月)日…………霊の戦いの武器 !!月! 日…………クリスチャンであること !!月!!日…………そこに網をおろしなさい !!月!"日…………天よりの声 !!月!#日…………神の時 !!月!$日…………み言葉と神の国 !!月!%日…………平安(平和) の子 !!月!&日…………なんと美しいことよ !!月!'日…………コンタクトポイント !!月!(日…………サタンはすでに敗北している !!月!)日…………すでに勝利、 だから勝利 !!月" 日…………安息のための歌 !!月"!日…………主を待ち望む者 !!月""日…………御霊に関する五つの命令 !!月"#日………… 「見る」 と 「見つめる」 !!月"$日…………ただ、この一事に !!月"%日…………愛の行動 !!月"&日…………聖霊が疑問の解答 !!月"'日…………夢を解放する !!月"(日…………恵みのゆえに !!月")日…………み言葉が実現した !!月# 日…………人をとる漁師に !# !"月!日…………クリスマス・アドベント 12 !"月"日…………ベツレヘムから君のいる町へ December !"月# 日…………ことばは肉体となった !"月$日…………あなたのおことばどおりに !"月%日…………天の御国の鍵 !"月&日…………クリスマスのしるし !"月'日…………その翼には癒しがある !"月( 日…………セレブレーション !"月)日…………クリスマスと宣教 !"月! 日…………栄光、恵み、まこと !"月!!日…………恵みに恵みを !"月!"日…………最高の贈り物 !"月!#日…………喜びと犠牲 !"月!$日…………恐れるな !"月!%日…………震われないもの !"月!&日…………クリスマスの光 !"月!'日…………その方の星 !"月!(日…………クリスマスの恵み !"月!)日…………羊飼いのクリスマス !"月" 日…………愛のあいさつ !"月"!日…………インマヌエル !"月""日…………時が来れば… !"月"#日…………変わることがない !"月"$日…………東方の博士 !"月"%日…………はじめにことばがあった !"月"&日…………H’ ]Qc !"月"'日…………しあわせ者 !"月"(日…………わたしのところに !"月")日…………神の祝福 !"月# 日…………神とともに歩んだ !"月#!日…………積極的に待つ !$ 1 January わたしは雲の中に、 わたしの虹を立てる。 それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。 ─ 創世記9:13 ─ 1 January ● 月日 神のカイロス 天の下では、何事にも定まった時期があり、 (伝道者の書 3:11) すべての営みには時がある。 時 という言葉のために、聖書の中では 2つのギリ シャ語 ・・・クロノスとカイロス・・・が使い分けられて いる。クロノスは何月何日というようにカレンダーの 時間を表し、数直線上に刻むことのできる概念を 表しており、カイロスは時期とかシーズンのような概 念で、 運命的なイベントの連なりを意味する。クロノ スは量的な意味で、カイロスは質的なものを表すと も言われる。 いつも年度が変わるこの時期には、1月 1日というク ロノスを迎える。好むと好まざるに関わらず、機械 的にクロノスが刻まれていくのである。しかしながら、 我々が本当に期待するのは神様の力の表れ、カイ ロスである。すなわち神様が一方的に働かれるリ バイバルの時が訪れることである。 この日本に、 私たちの教会に起こるカイロスを期待す る。 !& 1 January ● 月日 神の国 バプテスマのヨハネの日以来、 (マタイ11:12) 神の国は激しく攻められている。 ヨハネは神の国を紹介し、イエスはそれを現実のも のとされ、死に束縛されていた人に 神の国 という、 自由の扉を開いた。人はその自由への出口を求 め、檻の中でひしめいているように見える。檻の外 は神の国で、豊かな自由が満ちあふれているのに、 出口が分からないため苦しみの中から抜け出すこ とが出来ないでいる。もし多くの人が一度にこの 出口を見いだしたらどうなるのであろうか? 人々が神の国をリアルに知って、体験した時のパ ニック状態は「わたしは、 あなたのただ中から、刻 んだ像と石の柱を断ち滅ぼす」 (ミカ5:13) のような もので、多くのクリスチャンはこのようなパニックが日本 に起こって欲しいと願っている。 誰かがこの神の国のことを伝えなければ何も起こら ない。あなたが祈らなければ、この神の国は人の 心に届かない。 !' 1 January ● 月日 点から点、 それを結ぶ線 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入 れることができません。世はその方を見もせず、知 りもしないからです。 (ヨハネ14:17) まず聖霊、そして聖霊 という言葉は、神様が示し て下さった二つの点である。つまり、 この世界は聖 霊によって始まり、聖霊で終わるという始点と終点 である。この二つの点を結んでいる線は、 「十字 架」 という言葉で表現できる主イエス様の生涯であ り、聖霊で始まり (ルカ1:35) 、聖霊で終わる (使徒 2:33)。 聖霊 という点が私たちの生活においてリアルなも のとなるためには、 「十字架」 という線が重要である。 ここに第一の鍵がある。また聖霊はアブラハムの 祝福のゴール(終点)であったことを覚えよう (ガラ テヤ3:13,14)。これが第二の鍵である。 クリスチャンはその聖霊をすでに受けているのであ る。 !( 1 January ● 月日 宣教と教会 それゆえ、あなたがたは行って・・・。(マタイ28:19) 宣教とは、 まず第一に遣わされることを意味している が、一般に、世界中に福音を宣べ伝えることと理解 されている。つまり、世界宣教計画(マタイ28:18のことであり、身近なところでは、失われた一人 20) の魂を探し求めることである。これは、主イエスの 宣教の特徴そのものであった(ルカ19:10) 。した がって、魂を教会に結びつけるまでは、この宣教は 完成しない (ヨハネ10:16,21:15-17) 。 魂を教会に導く宣教の働きが求められているが、 教会に導きたい魂は、もともと教会に属しているもの であったと考えるべき (ルカ15:4) とすれば、宣教と は迷子になった尋ね人の捜索活動であり、その結 果は出会いのドラマそのものになるはずである (使 徒 13:48)。 迷子を連れて教会に帰ろう。 宣教しよう! !) 1 January ● 月日 摂理と祈り ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。 「 私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいま すように…。」そこで神は彼の願ったことをかなえ られた。(Ⅰ 歴代 4:10) 人には、 それぞれに定められた摂理と選びがあるが、 これは祈りによって変わるように見受けられる。聖 書には、ヨナの宣教と祈りによって、滅亡するはず であった運命を変えたニネベの例(ヨナ 3:4-10) や、 ヒゼキヤ王の切実な祈りが神様の定めを変えた (Ⅱ列王 20:1-6)例などが示されている。 もし誰も祈らなければ、神がセットされた摂理がその まま働くが、祈りがあると神様はその決められていた コースを変えられるのである。 摂理と祈りとのやりとり…その結果…それが歴史で ある。神は歴史の中に働いておられ、聖徒達を 歴史を造る協力者 として選ばれたのである。 (ヨハネ15:16) " 1 暗黙知 January 私たちはキリストのからだの部分だからです。 ● 月日 (エペソ 5: 30) 言葉にせずとも了解できる、いわゆる暗黙知は、暗 黙のうちにお互いの気持ちを理解し合える感覚で、 本来すべての人に備わっているものである。これは、 時代を越え、国を越えて見られることであるが、人 間関係においては日本人特有の感覚で、とりわけ 日本の企業社会はこれを中心に成り立っており、 そ れが強みであるとも言われている。 順境の時には力となる暗黙知も、変革期において は創造的発想や冒険心を生まれ難くする。これ は大きな障壁となり得る。教会も同様で、霊的暗 黙知の一つと言える"からだ意識 "は、本来大きな 力だが、そのために挑戦を阻むような保守主義に 固まってしまう弱さも持っている。いつも自戒しなけ ればならぬ。 常に柔軟なものでありたい。 "! 1 January ● 月日 渇きの力 父よ。御名があがめられますように。 御国が来ますように。(ルカ 11:2 ) この祈りが私たちの生活に現実となるように期待し たい。 まず、いやしにおいて(マタイ12:28) 、啓示におい て(エペソ1:17,18) 、さらに喜びにおいて(ローマ 14:17)。あるいは、経済において(マタイ6:33)… 御国が現実のものであるように願う。多くの人にとっ て魅力的なものとなるように… 毎年、 夏の訪れと共に、 北極圏のトナカイは怒涛の ように北極海の水を求めて突進するという。何もの も彼らの行動を阻むことはできない。そのすさまじさ は、 渇き のもつエネルギーの大きさを教えてくれる。 私たちも、詩人と共に渇きを持って(詩篇 42:1,2) 祈る者でありたい。 生ける神を求めて渇いています 、 と… "" 1 January ● 月日 み言葉の声 信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストに ついてのみことばによるのです。(ローマ 10:17) 第 2次大戦後アメリカから宣教師として日本に来ら れた日系の牧師が東京の山手線に乗っている時、 車内のスピーカーからアナウンスが流れた。「この 列車は当駅止まりですから、ここで乗り換えて下さ い」。これを聞いた乗客は、みんな降り始めた。と ころが、乗り合わせていた何人かのアメリカ兵たち は意味がわからず戸惑い、そばにいたその牧師に 「どうしたらいいのか?」 と尋ねた。 その時、その先生は茶目っ気たっぷりに We heard a voice, but you heard a sound (私たちが聞いた のは声だったが、あなたがたが聞いたのは音だっ た) と答えたそうである。 声を聞いても正しく理解できるとは限らない… 神の声、 み言葉の声を聞こうではないか。 "# 1 January ● 月日 神の国の鍵 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新し く生まれなければ、神の国を見ることはできません。 (ヨハネ3:3) 神の国と、 この世を分ける境界線は新生の体験で ある。新しく生まれるという体験によって、神の国を 見ることができるようになり、霊的なものに対する新し い自覚を持つようになるのである (ローマ8:15,16) 。 神の国に生きる者にとっては、この世に必ずつきま とう衣食住の問題は二義的な問題になり (マタイ 6:33,ローマ14:17)、すべての思い煩いから解放さ れ、超越できると言う (ピリピ 4:6,7) 。その鍵は、内 住の聖霊にある (ルカ11:13) 。 この内住の聖霊を実感するためには、毎瞬間の 衝動や思いを、御霊に委ねることを習慣としていな ければならない(ローマ 8:13,14) 。この点で多くの クリスチャンは失敗している。特別な時は祈って 聖霊様の導きを期待するのに、当たり前のように見 える毎日の生活の中で御霊を迎えることをしないの である。 "$ 1 January ● 月日 神の国は聖霊である なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と 平和と聖霊による喜びだからです。 (ローマ 14:17) 御霊は、私たちを神の国に導き入れ (ヨハネ3:5) 、 しかも神や信仰についての確信を与える (ローマ 8:15,16)。また、心のジレンマから解放し (ローマ 8:2)、高い品性に導く (ガラテヤ 5:22,23) 。 さらに、内なる霊を解放し、神との神秘的で、現実 的なコミュニケーションを可能にする (Ⅰコリント14:2) 。 そして、場合によっては、肉体を癒し (ローマ8:11) 、 悪霊を追い出す (マタイ12:28) のである。 御霊は助け主として、私と共に住み、クリスチャ ン生活のあらゆる局面を導いて下さる (ヨハネ 14:16,17,26)。 神の国は御霊による明白な信仰体験である。 "% 1 January ● 月日 天的思考 教会は永遠の昔に天においてすでに選ばれていた。 (エペソ1:4,5) 選びを現実のものとするために、キリストは天より私 たちのところまで来られ、あの十字架を私たちを道 連れにしたまま通られ、さらに、私たちを連れたまま 天に昇られた (エペソ4:9) 。教会はキリストの御業 を行い、その天的立場を表し、現実に天にある存 在であり (1:20-23、2:6) 、祝福に満ちた世界である (1:3)。 キリストにあって・ ・ ・ ・という思考は、 天的次元にあり、 霊的領域に属し、み言葉の世界そのものである。 それこそ信仰そのものであり、それゆえに神の偉大 な力が保証されているのである。この思考は、サ タンの要塞を打ち破る決定的な力(Ⅱコリント10:4) であるために、 彼は総力をあげて攻撃してくる。 霊の戦いの場は天において、 すなわち天的思考の レベルで行われる (エペソ6:12) 。 "& 1 January ● 月日 神の次元 すべての良い贈り物は上から来る。(ヤコブ 1:17) 上の次元、すなわち神の次元にすべての良いもの が隠されている。これは移り変わることのない不 変なものであり、 真理のみ言葉の中に保たれている (1:18)。したがって、新しく生まれた者はみ言葉 によって生きる力を持つようになり、その力を使って み言葉の基準で発想できる。これが信仰である。 いつも神の次元から考えること…、それこそ信仰の 訓練なのである (ローマ 12:2、 へブル 4:11) 。 上からの思考によれば、私たちは、常にすべての 良い完全な贈り物に満ちている世界に生きている。 決して貧しいことのない天にあるすべての霊的祝 福に囲まれている (エペソ1:3) 。 サタンが恐れるのは、 神の次元からの発想なのだ。 "' 1 January ● 月日 右にも左にもそれず ダビデの道に歩み、右にも、左にもそれなかった。 (Ⅱ 歴代 34:2) この言葉は列王記や歴代誌に頻繁に出てくる言 葉で、 ソロモンは彼の父ダビデについて 「誠実と正 義と真心とをもって神の御前に歩んだ」 (Ⅰ列王 と言っている。つまり、ダビデの歩みそのものが 3:6) 当時の正しさの基準であったのである。しかしな がら、誰もが知っているようにダビデは失敗の多い 人間であった。なぜそれが正しさの基準になった のか? それは、 悔い改めることにかけては誰よりも誠実であり (詩篇 51:1-4) 、どのような過ちを犯しても、神の赦 しを大胆に信じたことによっている。人間的には理 不尽にみえるが、 これが神様の基準なのである。 キリストの死と葬りと復活による神の義と呼ばれてい る「十字架」(ローマ1:17)こそが、正しい歩みの基 準なのである。 "( 1 January ● 月日 預言の源流 預言する者は教会の徳を高めます。 (Iコリント14:4) 聖書は、教会の集会を建設的なものとする預言の 賜物が、豊かに働くように勧めている。預言の性 質は建徳、勧め、慰めであり、愛がその精神で (Ⅰコ リント14:1-3) ある。全体の秩序を考えながら、 しか も個人に配慮する (Ⅰコリント14:26-33) 。 愛はこのような余裕から生まれる。その余裕は自己 建徳の結果と言ってよい。それは預言の源流であ り霊の賜物なのである (Ⅰコリント14:4) 。 霊のことば(異言)は、いつも流れている地下水脈 から、絶えず新鮮な流れを汲み出すようなものであ り、心を潤すチャンネルになっている (ヨハネ7:38) 。 預言と異言を熱心に求めよう。 決して、 異言を禁じてはならない (Ⅰコリント14:39) 。 ") 1 January ● 月日 アブラハムの祝福 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福 する。(創世記 12:2) アブラハムが祝福されたのは彼の信仰によるので あり、信仰義認(ガラテヤ 3:6-9) と表現されている。 その結果、約束の子であるイサクを2度にわたっ て受けることになり (へブル 11:17-19) 、ついにあら ゆる面での祝福を受けるに至った(創世記 24:1) 。 もちろん、彼は祝福を受けることを約束されてはい たが (創世記 12:1-3) 、 それらの祝福は信仰によっ てひとつひとつ勝ち取っていかなければならなかっ た。 私たちに約束されている すべての霊の祝福 (エ ペソ1:3) も、信仰によって受け取ってはじめて、現 実のものとなる。 信仰によって義とされた結果、私たちは約束の聖 霊を受けており (ガラテヤ 3:14) 、み言葉の世界に おいては、その祝福は現実そのものなのである (ヤ コブ 1:17,18)。 # 1 January ● 月日 真珠よりも尊く しっかりした妻をだれが見つけることができよう。 彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。 (箴言 31:10) 理 想の女 性 像が箴 言 31章 10-30節に描かれ ている。彼女は事業家で(11-24) 、慈善に富み (20) 、知性的で(25,26) 、良き家庭人であり (27を送っ 29)、人々に尊敬され、報われた人生(31) ている。彼女の様な存在は真珠よりも尊い(10) と いう。こんなスーパーママが本当にいるだろうか? その秘訣は信仰にあり、実は、すべてのクリスチャン 女性に与えられているものなのである。残念なこと に多くの人はそれを信じることができない。 神は、私達をすばらしい作品とするために選んで下 さった (エペソ2:10) と書かれているが、それを本当 に信じることが出来るか? この約束を信じて、自らを積極的に評価できるか、 それが鍵である。 #! 1 January ● 月日 春は来たりつつ 見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や 春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。 (ヤコブ 5:7) 今日は阪神大震災(1995年 1月 17日)の記念日。 被災した人たちの苦しみや悲しみは、時間が経つ につれて一層その厳しさを増しているように感じら れる。この様な時に、次のような内村鑑三の詩を、 私たちの祈りとしたい。 春は来りつつある。 雪は降りつつある。 しかし春は来りつつある。 寒さは強くある。 しかし春は来りつつある。 春は来りつつある。 春は来りつつある。 雪の降るにもかかわらず、 寒さの強きにもかかわらず、 春は来りつつある。 慰めよ、 苦しめる友よ。 なんじの患難多きにもかかわらず、 なんじの苦痛強きにもかかわらず、 春はなんじにもまた来りつつある。 #" 1 January ● 月日 聖霊が臨む時 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき…力を受け ます。(使徒 1:8) 聖霊が臨むとき力を受ける (使徒 1:8) 。 これは昔から強調されてきたために、聖霊が力の 源であるかのような印象を与えてきた。たしかに、 力はそこにあるものの、聖霊が臨まれるときは、神が 人となり (ルカ1:35) 、人が新しく生まれ(ヨハネ3:3(ヨハネ16:13) ことが 6)、すべての真理に導かれる 強調されなければならない。 聖霊は決して栄養ドリンクのように一時的な力をも たらすものではなく、神様を信じる者すべてに与えら れている賜物なのである。聖書は、この賜物を絶 えず燃えたたせよ (Ⅱテモテ1:6,7) と語っている。 立ち止まって聖霊に心を向け、御霊との歩調を確 かめよう。 ## 1 January ● 月日 聖霊は風 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞 くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。 御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。 (ヨハネ3:8) 聖霊ということばの原語は「風」 (ヨハネ3:8) である。 旧約では、 「息」 (創世記 1:2) とも表現されている。 風を、直接目で見ることはできないが、風の結果を 見て、 その働きを知る。木々のざわめき、 膨らんだヨッ トの帆…を見て、確かにそこに風のあることに気付 く。聖霊は風として私達のそばを吹き抜け、キリスト の香りを運ばれる。 あなたは風がもたらす結果を表し、確かに聖霊が そこにおられることを確信させる役割を担っている。 聖霊によって私達は証人とされ、証人となり続ける (使徒 1:8)。 この風が吹くところに、 平和と愛がある。 #$ 1 January ● 月日 御霊とみ言葉 私たちは…この御声を、自分自身で聞いたのです。 (Ⅱペテロ1:18) どんなドラマチックな体験も時が経てば記憶が薄 れ、感激は過ぎ去る。もし、キリスト者の信仰が過 去のキリストを偲ぶだけのものであれば、キリスト教 はずっと昔に形骸化していたであろう。神はキリス トを、時代を越えて今に生かすために二つのものを クリスチャンに備えられた。 ひとつは御霊 (ヨハネ16:13,14) であり、 もうひとつは み言葉である (ヨハネ17:8)。 使徒ペテロが、山上におけるキリストとの出会いの 感動をいつまでも新鮮に保つことができたのは、み 言葉のゆえであった (Ⅱペテロ1:18,19) 。 み言葉と御霊の交差した所で主と出会う人は幸 いである。 #% 1 January ● 月日 長老と執事 信仰と聖霊とに満ちたステパノ…を選び、…手を彼 らの上に置いた。(使徒 6:5,6) 長老と執事は教会における職務の二本柱である。 この二つの職務内容の大きな違いは、長老に対 するものが、み言葉と祈りの奉仕で、執事のそれは 教会の実際問題を扱う奉仕にある (使徒 6:2-4) 。 初期の教会時代から30年を経て書かれたテモテ 第一の手紙 3章 1∼13節に、 このことがかなり具体 的に明示されている。 長老の特徴は、神の選びと霊的な指導性にあ る (3:2)。そして、執事は会衆の推薦で選ばれ (3:10) 、信仰の人でなければならず(3:9) 、未知 の分野への可能性を秘めている (3:13) 。ピリピ の教会はたぶん小さな教会であったと思われるが、 そこにも複数の長老、執事達がいた(ピリピ 1:1) 。 規模の大小に関わらず、教会にはこのようなリー ダーが必要なのである。 今日は、 そのために祈ろう。 #& 1 January ● 月日 シオンへの道 なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあ り、その心の中にシオンへの大路のある人は。 (詩篇 84:5) 私たちが生きているこの時代が、 どのように進んで行 くのか、それは誰にもわからない。神様があらかじ め知らせることをしないのは、 大きな恵みなのである。 実は、神の民は心の中にしっかりとした "道 "を持っ ている。それは間違いなく、"シオン"へ至る道である。 御霊はそれを通して、確実に進むべき所へ導いて 下さる (ローマ8:14)。そして、その結果として、時 代や環境の変化もまた明らかになっていくのである。 この道を確かめよう (へブル 10:19,20) 。 #' 1 January ● 月日 にせ預言 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみ な、神からのものです。(Ⅰヨハネ4:2) 正しい預言と偽りの預言がある。 旧約聖書の中でも特にエレミヤ書からこの事を考 えさせられる。偽りの預言の特徴は、御都合主義 や理想主義であり、 神秘的なことも多い。これに対 して、正しい預言は現実的、実際的で常識的であ る。 人となったイエスを指し示す霊、生活の現実の中 で生きる神のみ言葉…新約の時代に生きる私達 には、み言葉から離れたところで正しい預言に出 会う事は、 決して無い。 常に正しい預言の霊に導かれよう。 #( 1 January ● 月日 クリスチャンの罪 わたしの民は二つの悪を行なった。(エレミヤ 2:13) エレミヤ書に書かれてあるユダの罪は非常に単純 なものであった(エレミヤ 2:13) 。湧き水の泉であ る主を捨て、自分のために水ためを掘った。すな わち、人生の供給源としての主を信頼しなかった のである。これは、多くのクリスチャンが陥る罪であ る。 この罪は、使徒パウロがガラテヤの教会に指摘し た罪であり (ガラテヤ 3:1-3) 、 その結果は肉の奴隷 となり、偶像礼拝につながる (コロサイ3:5) 。ここで 言う偶像礼拝とは、必ずしも宗教的な事のみを意 味しておらず、 主以外のものに大きな価値を置くこと を指している。 そのようにならないためには、私達が空気の中で生 きるように、主の臨在の中に生きることである (コロサ イ2:6,7)。 それが求められている。 #) 1 January ● 月日 力は神にある 力は神にあり、神ひとたびこれをのたまえり、われ 再びこれを聞けり。(詩篇 62:11、文語訳) 上記の聖句は、一世紀前の大伝道者 D.L.ムー ディがこよなく愛したものと言われている。また、 「あ なたの口を大きくあけよ、私がそれを満たそう」 (詩篇 81:10)は、孤児の父ジョージ・ ミューラーが 愛した聖句である。 使徒パウロは「しるしと不思議をなす力により、さ らにまた御霊の力によって、それを成し遂げて下 さいました」 (ローマ15:19) と語っているが、その信 仰の人の特徴は観念的な瞑想にあるのではなく、 結果によって具体的に神の力を証しするところにあ る。 力の源は、私達がすでに信じている主を、さらに具 体的に信じていくことにある。 力は神にある。これを信じよう。 $ 1 January ● 月日 力から力へ 彼らは、力から力へと進み …。(詩篇 84:7) クリスチャンが力から力へと進むためには、 まず教会 が天にある栄光に満ちあふれている必要がある。 「私は、高くあげられた王座に座しておられる主 を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがそ の上に立っていた」 (イザヤ 6:1,2) と叫び、 「いっさ いのものを、いっさいのものによって満たす方の 満ちておられるところです」 (エペソ1:23) と言うこ とができるか? これが、 神の力の源である。そしてそれが、 クリスチャ ン個人に流れ、 「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そ こを泉のわく所とします。」 と叫ぶ。 そして、 「初めの雨もまたそこを祝福でおおいます」 (詩篇 84:6) と証しするのである。 $! 1 January ● 月日 栄光から栄光へ 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現 れ。(ヘブル 1:3) 主はその栄光を現すために地上に来られ(ヨハネ 17:4) 、 クリスチャンはこの栄光をすでに授かっている (ヨハネ 17:22)。 これは、 「私たちはみな、…栄光から栄光へと、主 と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは まさに、御霊なる主の働きによるのです」 (Ⅱコリン ト3:16-18) という現実であり、 「あなたがわたしに 下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わ たしたちが一つであるように、彼らも一つである ためです。」 (ヨハネ17:22) という、一致における現 実なのである。 御霊の体験と、 一致の中にこの栄光を見よう。 $" 1 January ● 月日 主の栄光 父よ。 時が来ました。あなたの子があなたの栄光 を現すために、子の栄光を現わしてください。 (ヨハネ17:1) 神の栄光とは、神の本質そのものである (へブル 1:3)、と同時に、十字架もまた栄光である (ヨハネ 7:39、17:1)。このみ言葉で "時 "と言われているの は、もちろん十字架のことである。イエス・キリストが 十字架につくことによって、主の栄光が現わされた のである。 さらに、私たちが聖霊を受けることは、教会がその 主の栄光の中にあることの証しである (ヨハネ7:39、 使徒 2:33)。パウロは、 「神はあらかじめ定めた 人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、 義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりま した」 (ローマ8:30) と言っている。 主の栄光は、神の本質、十字架、 そして聖霊という 三つの側面を持っている。 $# 1 January ● 月日 信じること 神の全能の力の働きによって・・・・・神のすぐれた 力がどのように偉大なものであるかを、あなたがた が知ることができますように。(エペソ1:19) 信じる人々には次のようなしるしが伴います。 (マルコ16:17) 信じるとは、二つの実際的な私達の態度のことを 表している。一つはみ言葉にかける姿勢であり、 も う一つは、 すでに信じているという姿勢である。 この二つは、実は一つのものである。すなわち、す でに信じていることは、常にみ言葉によって確かめら れ、新しくされ、具体化されるからである。ただ、残 念なことは、信じることが観念的になり、しかも理想 主義的な自己満足にとどまり、具体的で実際的な ものに至らないことが多い事である。本当は、信じ ることによって、み言葉の現実性が明らかになるは ずであるにも関わらず…… 信仰の行動によって隠されている神の力を解放し よう。 $$ 1 January ● 月日 教会のリーダー 神の羊の群れを、牧しなさい。(Ⅰペテロ5:2) 士師記には多くのリーダーが現れるが、ここから真 のリーダー像が浮かび上がってくる。それによると、 神が用いられるリーダーの特徴の第一は、自然に 人々の模範になっている事である (Ⅰペテロ5:2,3) 。 このような人は、常に人々の一歩先を歩み、何でも 自分が行うのではなく、 多くの人に活動の場を提供 していくのである。 特徴の第二は、柔軟性である (Ⅰコリント2:15) 。こ れに優れている人は、自分の意見をしっかりと持っ てはいるが、 それに固執することはない。そのために、 しばしば主体性が無いかのように見えたりするが、 発想において非常に自由である。 このような特徴は、実は "霊の人 "の特徴でもある。 つまり、 主に安息しきった (へブル4:10) 生活から、 こ の様なリーダー性がうまれる。 $% 1 January ● 月日 聖書的人情 彼らは、エルバアル、すなわちギデオンがイスラエ ルに尽くした善意の全てにふさわしい真実を彼の 家族に尽くさなかった(士師 8:35)。 わがたましいよ主をほめよ。主の良くして下さった ことを何一つ忘れるな。(詩篇 103:2) 主は恩を忘れる者を憎むと聖書で語っている。旧 約聖書を読んでいると、このことを強く感じる。 忘 恩の罪 とでも呼ぶのがいいかもしれない。 義理人情は日本的美徳と言われているが、これは、 実は聖書的である。どのような国においても通じる、 かなり普遍的な美徳だと考えてよい。 私達の教会は、 スウェーデンからの宣教師によって 始められ、今日に至っている。ルーツになった人達 を忘れてはならない。 聖書的人情を大切にしよう。それは御心にかなっ ている $& 2 February いつも主にあって喜びなさい。 もう一度言います。喜びなさい。 ─ ピリピ4:4 ─ 2 February ● 月日 日本に対する預言 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低 くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野 となる。(イザヤ 40:4) 以下は日本について、ある預言者に与えられた言 葉である。神様は確かにこの国を愛しておられる のだ。 主は、御霊の油をもって日本を訪れる。リバイバ ルはこの国の山や谷に囲まれた小さな町から始ま り、しだいに大きな都市へ広がる。こうしてイザヤ 40:3-5の言葉は成就する。 主はすでにこの国を虜にしてきた二つの問題に勝 利した。すなわち 「伝統」 と 「恥」 である。これによっ て、日本を縛ってきた支配者に勝利した。それゆ えに、主は二重の祝福をもってこの国の民に臨まれ る。こうしてイザヤ 40:1-2の言葉は成就する。か つての貧しい伝道の時代は終わった。この国を 覆っていた恥は聖霊の祝福によって取り除かれ、 悲しみと恥の過去はぬぐい去られる、 エリシャに与え られた霊の二倍の祝福は (Ⅱ列王 2:9) はこの民の ものとなる。 $( 2 February ● 月日 教会の三つの働き 教会はキリストのからだであり…満ちておられると ころです。(エペソ1:23) 教会には三つの大きな働きがある。まず、第一は 敬虔の奥義と呼ばれるもので (Ⅰテモテ3:15,16) 、 キ リストご自身についての真理である。すなわち、受 肉し、十字架につけられ、そして栄光を受けられて 生きておられる主のことで、教会はこのことを証する のである。 第二は、使徒・預言者・伝道者・牧師・教師と5つ の賜物で表現されている (エペソ4:7-13) もので、 教会の奉仕の土台となる5重の祝福である。 そして最後は、十字架の真理(エペソ4:20-24) と 呼ばれるもので、信徒一人一人がそれを生活に適 用して実践するように与えられている聖化の働きで ある。 この三つの真理(働き)に深く根ざす教会でありた い。 $) 2 February ● 月日 祈りによる共同作業 わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命した のです。(ヨハネ15:16) 祈りは神の基本方針を変えるものではないが (エペ ソ1:11) 、神の事業を遂行する上での様々な局面 を変えるものである。 神は祈りによって、神の事業に参加する特権を私 たち一人一人に与えておられる (ヨハネ15:16) 。も し私たちが祈らなければ、神は他の人を選んで祈 らせると言われる (エステル 4:14) 。 もちろん、神は 私たちの祈りや、助けを必要とせずに何でも行うこ とのできる方であるが、 その大きな愛のゆえに、不器 用で邪魔にさえなるような私たちに祈らせ、その祈り のペースに合わせて、御自身のみ業を進めるので ある。 祈りとは、 神との共同作業なのである。 それは私たちの特権である。このすばらしい事業 に目覚めよう。 % 2 February ● 月日 使徒行伝と聖霊行伝 こうしてパウロは満二年の間、自費で借りた家に住 み、たずねてくる人たちをみな迎えて、大胆に、少 しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イ エス・キリストのことを伝えた。(使徒 28:30,31) 使徒の働き の主役は 2人の著名な使徒、ペテロ とパウロである。この書には彼らを中心にして初代 教会がエルサレムからユダヤ、サマリヤそして地の 果てまで、主の宣言 (1:8) を実現していく様子が記 され、続編があることを思わせるような形で突然終 わっている。 実は、その続編とは、その後 2,000年にわたる教会 の歴史になっているのである。時代は変わり、人も 去っていく。しかしいつも変わらずに活動し続ける 聖霊こそ、 真の主役である。 使徒行伝は、今もなお続いている聖霊行伝なので ある。 %! 2 February ● 月日 聖霊による識別 その方は真理の御霊です。(ヨハネ14:17) クリスチャンであるかどうかは、御霊が内住している ことで識別される。すなわち、 『霊の人』であること である (Ⅰコリント2:15)。 このような自覚をもって、さらに御霊に依り頼む生 活を実現するか、あるいはそれを忘れ、自分の考え で、自分の好みに従って行動するかどうかによって 霊的なクリスチャンであるか、その逆の肉的なクリス チャンであるかに分かれる。 「御霊を受けている人は、すべてのことをわきま えますが…」 (Ⅰコリント2:15) 、そして、 「…御霊に 属する人に対するようには話すことができないで、 肉に属する人、キリストにある幼子に対するよう に話しました」 (Ⅰコリント3:1) となるのである。 %" 2 February ● 月日 まず恵み、 そして恵み 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び… 。 (使徒 11:23) アンテオケ教会の特徴は『恵み』にあった。彼ら は恵みによって生き、 恵みによって全てを評価した。 恵みとは、状況や人間に左右されることなく神様が 一方的に行われる業であるが、 ゼカリヤによれば聖 霊の働きそのものである (ゼカリヤ 4:6,7) 。 恵みの御霊は、教会のかしらである主イエスを指し 示している。すなわち、 御霊は主の栄光を証しされ (ヨハネ16:14、使徒 2:33) 、主イエスを通して常に 信徒の中に働かれるのである (エペソ2:20-22、 Ⅰペ テロ2:5)。 まず恵み、 そして恵み 御霊に導かれる教会は幸いである。 %# 2 February ● 月日 教会の賜物 −父なる神− 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物 を持っている。(ローマ 12:6) 教会に与えられた賜物は、三位一体の神(父なる 神・子なるキリスト ・聖霊) それぞれの特徴を表してい る。 父なる神の特徴を示す賜物は、ローマ12:1-10に 示されている神様の資質を表す賜物である。創 造主なる神は、ご自身の資質を反映するものとして 私たちを造られた(創世記 1:27) 。その資質(詩 篇 139:13-16) は献身を通して用いられる。 ユダヤ人の多くは、父が子供の資質を見抜いて 教育する。聖書に示されている教育方針(箴言 22:6) を忠実に守って、有名な天才や有能な人材 を世界に輩出してきた。 教会は、信徒が持っている資質を開発し、それ を奉仕に生かす所でなければならない。お互い の賜物を認めて、互いを尊重するものでありたい (ローマ12:10)。 %$ 2 February ● 月日 教会の賜物 −イエスキリスト− 私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに 従って恵みを与えられました。(エペソ4:7) 教会には、イエスキリストの特徴で表現される賜物 が与えられている。すなわち、エペソ4:7-13に記さ れている機能的な賜物である。 教会は、キリストの受肉を通して現されたすべてを 受け継いでいる (エペソ1:23、コロサイ2:10) 。す なわち、 キリストの死、葬り、復活そして栄光は、すべ て教会のものである (ローマ8:30) 。ここから、 キリス トのミニストリー(奉仕の領域)は教会のものである ことがわかる。キリストは使徒(へブル3:1) 、 預言者 (マタイ21:11) 、伝道者(使 10:38) 、牧師(ヨハネ 10:11)、教師(マタイ7:28,29) であったが、教会も この 5つの領域に召され、 その領域を完成するため に賜物が与えられている。これによって教会の働き が進められて行く (エペソ4:12,13) のである。 教会は、 この 5重の使命のもとに運営される。 %% 2 February ● 月日 教会の賜物 −聖霊− さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私は あなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただき たいのです。(コリント12:1) 教会に与えられている第三の賜物は、Ⅰコリント 12:1-31にあるような力の特徴を表しているものであ る。これは聖霊御自身が直接に特別な形をもっ て表現される賜物で(12:7) 、ここには 9つのことが 書かれている (12:8-11)。すなわち、知恵のことば、 知識のことば、信仰、いやし、奇蹟、預言、霊を見 分ける、 異言、 異言の解きあかしである。 御霊は繊細なお方であるから、愛の雰囲気を通し て、 より力強く御自身を表現される (エペソ4:30、 Ⅰテ サロニケ5:19)。また、立派な劇場で行われるコン サートで感じられるような雰囲気、すなわち少々改 まった気持ちで、しかも華やかで力強い御霊様と 接する態度が必要である。 御霊が喜んで働かれる雰囲気を求めよう。 %& 2 February ● 月日 秋の雨、 春の雨 主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜 わり、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨 とを降らせてくださるからだ。(ヨエル 2: 23) パレスチナでは初めの雨は秋に降り、種蒔きが始ま る。後の雨は春のもので、その時に収穫が始まる。 人々の営みはこのサイクルによって支えられてきた。 神は聖霊の雨を降らせて教会を活性化し、 その営 みを支え、豊かにされる。御霊による明確な動きが、 20世紀初頭にペンテコステ運動として起こり、1960 年代にはカリスマ運動があった。今、新しい御霊 の働き・・・リバイバル・・・が起ころうとしている。 それは一方的な神の主権、神の恵みであるが、人 間の方に飢え渇きのあるところに優先的に臨む。 次のサイクルは、 信徒が主役になるはずである。 待ち望もう。 %' 2 February ● 月日 リバイバルを造ろう 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 (使徒 2:1) 最近、外国から著名な説教者を招いてリバイバル を待ち望む集会がさかんに行われている。何千人 もの人が会場に入りきれない程集まり、集会も賛美 と主の臨在に満ちあふれ、力強い御霊の働きがあ る。 そのような集会に出席すると、大会衆による賛美の 迫力や、聖霊様が働かれることに触れることができ る。それを通して、 「みなが一つ所に集まる」 (使 徒 2:1) ことの重要性がわかる。 リバイバルは待つだけでなく、 造るものなのである。 集まって主を礼拝しよう。臨在に触れ、リバイバル を造ろう。 %( 2 February ● 月日 神の恵みを見た 神の恵みを見て喜び…。(使徒 11:23) バルナバは、 各地に散らされた信徒たちによって設 立されたアンテオケ教会を訪ね、 神の恵み を見 て喜んだ。 そこには、喜びと愛と活気溢れる交わりがあった。 聖霊の臨在が顕著であったに違いない。この教 会は 50万人を擁する教会に成長した。港町アン テオケのここかしこに、数多くの家の教会が散在し ていたと思われるが、 彼らはまた広い場所に皆が集 まり、大きな集会を持ち、町全体を影響した(使徒 11:26) のである。 教会には、 家庭集会とか細胞グループなど呼ばれ る、多くの小さな集会と共に、一つ所に皆が集まる 大きな集会も重要である。 神の恵みが見える教会を期待しようではないか。 %) 2 February ● 月日 新しい皮袋 新しいぶどう酒は新しい皮袋に。(ルカ 5:38) 1960年代に起こった聖霊刷新運動(カリスマティッ ク・ムーブメント)はプロテスタントとカトリックの壁を 打ち破ったばかりでなく、あらゆる教派に広く、深く 浸透して行った。この運動の先駆者の一人であ る、ダビデ・デュープリシス師は、聖霊によるバプテ スマの働きの一つとして、実と殻をより分ける (マタイ 3:11,12) こと、 すなわち感情と聖霊の働きを分けるこ とを強調された。 異言を語ることは、信仰と理性の両面性を表現し ている (コリント Ⅰ14:15)。それによって、平和で、い のちの御霊を知る。 御霊は教会と個人の皮袋を新しくし、御霊ご自身 の存在を明らかにしようとしておられる。宗教的霊 性の殻を破って、御霊ご自身に触れようではない か。 & 2 February ● 月日 平安の家 平安は、その人の上にとどまります。(ルカ 10:6) 教会と宣教の原点は 『家』 である。 初代教会は家から始まった(使徒 1:13,14) 。異 邦人に初めて聖霊の恵みが与えられたのも家であ り (使徒 10:2,27,44) 、 ヨーロッパ伝道の基点となっ たのもやはり家であった(使徒 16:15) 。初代教 会の時代には、人々は大会堂や大礼拝堂に集っ たのではなく、家々に分かれて集った(使徒 2:46、 ローマ16:5、 コロサイ4:15)。 『家の教会』 の中心は、 その家の家長であり、家族 である。多くの場合、その家族には人をくつろがせ る賜物が与えられており、その結果として祝福が約 束されている (ルカ10:6)。 平安がとどまる家、人々がとどまる家がふやされる様 祈る (ルカ10:6,7)。 &! 2 February ● 月日 人間性の尊厳 わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしは あなたを愛している。(イザヤ 43:4) ガンなどで、末期にある人達の最も深刻な問題 は、自分がもはや役に立たない人間であると考えて、 存在価値を失ってしまうところにあるという。人間 性の尊厳に関する問題であり、個人の存在意義 の問題である。 クリスチャン生活の目標は教会の完成にあるが、 同時に教会の目的は個人の解放にある (エペソ 4:11-13)。教会に埋没する私ではなく、教会を通 して生かされる個性的な私でありたい。それこそが、 逆に教会を生かす道なのである (Ⅰペテロ1:5) 。 神は私を愛しておられるのである。だからこそ、 『 私』 を大事にし、 隣人を尊重しよう。 &" 2 February ● 月日 リバイバル わたしは、あなたがたに、…敵のあらゆる力に打ち 勝つ権威を授けた…。(ルカ 10:19) リバイバルは、神によってもたらされるものであり、神 の主権に属するものであるが、その主権はある意 味で教会に委ねられたものである。したがってその 主権の宣言である (ルカ10:19) とも言える。 教会は、祈りを通して救霊にあたり、多くの人の病 を癒し、地域をすでに神に属するものとして宣言し、 そのように行動するのである (エペソ6:18) 。これが リバイバルである。 もう一つの大切な要素は、和解である。国と国と の間で、教会間で、信者お互いの間で、世代間で 偏見と不満と無関心を取り除くことである。 一致こそリバイバルの鍵である。 &# 2 February ● 月日 主の祈り 天にいます私たちの父よ。御名が…。 (マタイ6:9、10) 私たちの神は天におられ (詩篇 115:3) 、毎日の小 さな出来事をパノラマのように見ておられる。父と しての愛に満ちておられ、 いつも私たちのことを心配 しておられる方であり (Ⅰペテロ5:7) 、最も身近な方 である・・・・。そうであるならば、今のこの瞬間に体 験している出来事は、決して偶然で漫然としたもの であるはずがない。 神がいつも、あなたを愛していること、それゆえに摂 理と計画によって人生の歩みを、ひとつひとつ導い ておられることを知ると、 父よ、今のこの時の環境 の中で私を導いて下さい と祈るであろう。 祈りは、 このような神との瞬間を継続するようなやりと りである。その結果、御名があがめられますように という神の偉大さにふさわしい賛美と、その偉大さ を多くの人に知って欲しいという願いに至るはずで ある。 &$ 2 February ● 月日 今は恵みの時 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 (Ⅱ コリント6:2) 今の時代を、世紀末とか、不透明の時とか、混乱 の時代とか…悲観的に捉えて、その思いに捕われ ていた自分に気付かされた。確かにまわりは暗い ニュースで満ちている。しかし、神の恵みの時は変 わりなく続いている。 今日も、 明日も…それが神の約束である。その約束 に立てば、希望、夢、 ビジョンをもってチャレンジでき るはずだという思いが湧きあがってくる。 十字架の恵みは新鮮である (Ⅱコリント5:21) 。御 霊が時代を支配し、私のそばにおられる (使徒 2:17,18、 ローマ8:9)。神は力強く、見よ、今は恵 みの時、 今は救いの日 だと (Ⅱコリント6:2) 語ってい る。 そうだ、 今は恵みの時なのだ! &% 2 February ● 月日 御霊のネットワーク 聖徒たちをととのえて奉仕の働きをさせ、キリスト のからだを建て上げるためであり。(エペソ4:12) 最近ネットワークという言葉がよく使われている。 辞書によると、この言葉は網羅状的な組織を意味 している。 教会の 5つの機能 (使徒、預言者、伝道者、牧師、 教師) も、奉仕のネットワークと言える。これを働 かすために最も大事なことは、その接点になるリー ダーである (エペソ4:16) 。5つの機能を持つ網と、 その接点の組み合わせで、それぞれの奉仕が励ま され、 生かされる。 『宣教』 のネットワークには、牧会宣教、拡大宣教、 世界宣教と三つの分野がある。この場合、網の 目の中心は教会である。 御霊のネットワークの中で自分の位置を確認しよう。 && 2 February ● 月日 アンテオケ教会 神の恵み。(使徒 11:23) シリアのアンテオケ教会は 『地の果て伝道』 の基地 であった。この教会はダイナミックな宣教教会とし ての、あらゆる条件を備えていた。それをあげてみ ると、 まず、信徒による伝道が盛んであった(11:21) こと であり、恵みがみち溢れていた(11:23) と言われて いる。 また、そこにはすぐれたリーダー達がおり (11:24∼ 26、13:1∼4)、聖霊様が豊かに働かれ、教えられ やすい 教会であった (11:26) ことが分かる。 その結果、与える教会(11:29,30) となり、海外宣 教の基地となった (13:1-3、 14:26-28)。 このような教会を目指そうではないか。 &' 2 February ● 月日 非凡なる凡人たち 終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 (使徒 2:17) 使徒の働きの中には、パウロをはじめ、ピリポ、ペテ ロ、バルナバなど有名な人達の活躍が目立ってい るが、実は名前の知られていない多くの人達によっ て、 あの働きや教会が支えられ、宣教が進められた はずである。 あの有名なアンテオケ教会は、名の知られていない 弟子達によって始められた(使徒 11:19-21) 。し かもパウロやバルナバがその働きを終えて去った後、 その成長を導いたのはやはり 平凡 な彼らであっ た。ローマの教会も、やはり名も知られていない信 徒達が始めたのである。 聖霊の約束は、これら平凡な人達に対して(使徒 2:17,18)のものであり、昔も今もいわゆる普通の人 達が主役なのである。 &( 2 February ● 月日 神の言葉は生きている 神のことばは生きていて、力があり…。 (へブル 4:12) ここで言う神の言葉は、完成された十字架のみわ ざのことである (へブル 4:10 、ローマ10:6-8) 。この 約束を信じて安息するとき、言葉は生きる (へブル 4:10,12)。 その結果、み言葉の次元に立って心の内側を客 観的に判別することができるようになる。そして、神 様の言葉によって示された自分のありのままの姿を、 正直に主の前に持ち出すならば、主との生きた触 れ合いを体験できる (へブル4:13-16) のである。 主は、私達がいつもその様な神様の次元に生きる ように祈られた(ヨハネ17:17)。そしてこれは、パウ ロの切実な祈りであり (エペソ1:17-23) 、 信仰の 言葉 と呼んだ (ローマ10:6-8) のである。 &) 2 February ● 月日 神の声 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して…い ろいろな方法で語られましたが…この終わりの時 には、御子によって、私たちに語られました。 (へブル 1:1,2) 旧約時代に表された神の声は部分的、断片的で 影のようであった。しかしながら、新約の時代に生 きる我々には、キリストによって神の世界がもたらさ れた。 もはや部分的な情報でなく、断片的な世界でもな い。我々はいつも神様の世界に住んで、すべての 情報を吸収し、 全体像を見ることができる。 キリストの十字架によって、肉(感覚世界) と霊(み 言葉世界) とは分けられたので、我々は霊を通して 神の声に接する (ローマ8:5,6,10、 13-16) ことができ る。 愛と平和がその声の特徴である (ヤコブ 3:17) 。 ' 2 February ● 月日 礼拝と神の栄光 真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する 時が来ます。(ヨハネ4:23) エルサレムが滅亡した原因は、神の栄光が彼らか ら去っていったからであるが、栄光が去っていった のは民が偶像礼拝へと堕落し、真の礼拝を失っ たからである。礼拝を通して神の栄光が表される からである。 失われたイスラエルの礼拝は、新しい神殿の建設 によって回復し、さらにイエス・キリストの十字架に よってもたらされた御霊時代の到来によって確かな ものとなった。神の栄光が回復したのである。 我々は今その時代に生きている (ヨハネ4:24、エペ ソ1:6,12,14)。 礼拝に生きる教会でありたい。 '! 2 February ● 月日 誓い 神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないこと をさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証 された。(へブル 6:17) 士師記を読んで強く印象に残ることの一つは「誓 い」 に対する厳しさである。イスラエル人は、誓った ために同胞の一部族を滅ぼし (士師 21:5-12) 、 エ フタは、 ひとり娘を犠牲にした (士師 11:30-40) 。 昔の日本には、 武士の一言 というものがあって、 やはり誓いは厳しさを持っていた。私たちの、約束 に対する誠実度はどうであろうか。 主イエスは安易な誓いを戒められて、 「一切誓って はいけない」 (マタイ5:34-37) と言われた。しかし ながら、神の言葉は、神御自身が誓われたこと (へ ブル6:17) であり、 十字架によって保証されたもので (Ⅱコリント1:19-20) 、 これほど重要なものは無い。 '" 2 February ● 月日 恵みは信仰をこえて ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い のゆえに、価なしに義と認められるのです。 (ローマ 3:24) 恵みとは、人間の努力や常識を超えたところに備え られた神様の方法のことで、神様の処方箋と言っ てもよい(ローマ3:21、4:6)。神様は、 イエス・キリス トの十字架によってそのことを現実のものとされた のである。 信仰とは、信じることのできない限界を神の真実に 委ねることである (Ⅱテモテ2:13) 。それは我々のと るべき態度や心のあり方が含まれているが、そこか ら先は、神様の一方的な領域、すなわち 「恵み」 な のである。 信仰を通して恵みに至り、それらが力強く働くように 期待する。 '# 2 February ● 月日 神の国をもたらすもの 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、 力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にい るもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12) 神の国は合法的に、すでに私達のものと約束され ているが、戦いによって勝ち取り、自分のものとしな ければならない(エペソ6:10-18) 。その戦いの相 手である悪魔に対抗する武器は、霊的な神の武 具であり (6:13) 、祈りである (6:18) 。それによって、 悪魔がもたらす悪しき雰囲気と、不信仰の壁を打 ち破ることができるのである。 主は、このような戦いを「祈りと断食によらなけれ ば」 (マタイ17:21) と言われた。断食には、確かに 不信仰の毒素を吸収する効果がある。また、霊 性を敏感にし、束縛された環境を解放する力があ る。 その様な危機的祈りが必要である。 '$ 2 February ● 月日 神の召し その召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4:1) 神様の召しとは、クリスチャンが天的(霊的)教会 (エペソ2:22) を建て上げる事への召命である。 そこは天的祝福が約束されている (1:3)ので、クリ スチャンがお互いに愛と平和によって調和し、御霊 の一致の中で、 それぞれに与えられている霊の賜物 (4:7)によって、奉仕に導かれ(4:12) 、具体的な 教会運営に参加するようになるのである。 すべての人が召されており、その奉仕を励ます 人が必要である。それが教会のリーダーである (4:11,16)。 奉仕を励ますリーダーが起こされるように祈ろう。 '% 2 February ● 月日 信仰による行動 イエスは言われた。『それを、ここに持ってきなさ い』。(マタイ14:18) あの有名なパンの奇跡は、少年が手に持っていた 2匹の魚と5つのパンを、 「持ってきなさい」と言わ れた主の言葉に従った時に起こった (マタイ14:16-21)。 ひどい病気で苦しんでいる息子を持って絶望して いた父もやはり、 「その子をわたしのところへ連れ て来なさい」 という声に従って救われた (マルコ9:19-24)。 すべての重荷は、そのようにして・・・・キリストのもと へ持っていって・・・・・解決するのである (マタイ11:28)。 信仰は努力することではなく、 主ご自身を信頼するこ とを意味している。 '& 3 March 鳥のことを考えてみなさい。蒔きもせず、 刈り入れもせず、 納屋も倉もありません。 けれども、 神が彼らを養っていてくださいます。 あなたがたは、 鳥よりも、 はるかにすぐれたものです。 ─ ルカ12:24 ─ 3 March ● 月日 開かれた門 わたしは、だれも閉じることのできない門を、あな たの前に開いておいた。 (黙示 3:8) お隣の国、中国では 1949年に共産党政権が樹 立され、 そこで活躍していた多くの宣教師は退去さ せられた。あの時に、宣教の門戸が閉ざされたが、 多数の宣教師が日本に転進することになり、 日本に 対する宣教活動は大きく前進した。 我々の教会も、そのような宣教師たちによって生み 出された。開拓の初期に働かれた先生の多くは すでに老齢に達して帰国され、すでに天に召され た方も多い。日本や中国を愛して、いつもその動 向を心配しながら祈っておられる姿は印象的であ る。 日本では、いまなお大きく開かれている宣教の門戸 を覚えて、 その使命を新たにしたいものである。 '( 3 March ● 月日 真理の家、 信仰の力 私は福音を恥とは思いません。 福音は、ユダヤ人 をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとっ て、救いを得させる神の力です。(ローマ 1:16) 信仰の力とは、 頑張って信じる力ではなく、 信じる者 に働く神の力である。その結果は救いであり (ロー マ 1:16) 、救いとはいのちと敬虔に関するものと言わ れている (Ⅱペテロ1:3,4)。 神の偉大な力は十字架のプロセスの中に働き、つ いにキリストをすべての権威に引き上げ(エペソ 1:20,21)、また人々の中に働いてキリストと共に復 活させ、キリストと同じ立場に引き上げた(エペソ 2:5,6)。今その人はキリストと結ばれて天にあり、す べての霊的祝福の中にある (エペソ11:3、1:23、 2:6)。 クリスチャンよ、 このことに目が開かれよ! パウロは、 そう祈っている (エペソ1:17,18) 。 ') 3 March ● 月日 祈りによる伝道 まず第一に…、すべての人のために…祈り、とりな しと感謝を…。(Ⅱ テモテ 2:1) 祈りによる伝道とは、アルゼンチンのリバイバルの底 流となった宣教哲学である。 まず祈りの目標を宣教に置く。そして、救いはすべ ての人のものであることを信じ (Ⅰテモテ2:4-6) 、地 域社会のリーダー達のために祈る (2:1) 。同時に 地域の家々を訪ね、人々の必要のために祈るので ある。この場合大切なことは、人々に救いの必要 を語るのではなく、人々の必要を知ってそのために 祈るのである。その結果、多くの人は福音に心を 開き、祈りの力がイエスの御名によって現された (ヨ ハネ14:13,14)。 イエスの名は、十字架による御業の証明であり (使 徒 3:15,16) 、主御自身の臨在が約束されている (マタイ18:20)。リバイバルには、そうした実践的 祈りが必要である。 ( 3 March ● 月日 ギルガル イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、そ の月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越 のいけにえをささげた。(ヨシュア 5:10) ギルガルとは、ころがす という意味で、カナンの地 に入った新しい世代が割礼を受けて、苦しみのた めにころがった場所である (ヨシュア5:8,9) 。 割礼は神のものとされた聖別の証しであるが、肉 体の手術だけではなく、心の手術を意味している (申命 30:6)。その結果、神の民が神を愛し (申 命 30:6) 、律法を行うことができるのである (エゼキ エル 36:26,27、ローマ8:4) 。ギルガルは古き人を 脱ぎ捨て、新しい人を着て行動を開始する場所で ある (コロサイ2:11,3:9-12) 。また、マナの止んだ 所(ヨシュア5:12) であり、超自然的要素のみに頼 る信仰から、すでに与えられている供給源を信じて、 自立的に成長した信仰に脱皮する場所である。 これはクリスチャン生活の原点を表している。 (! 3 March ● 月日 クリスチャンに必要な場所 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打っ た。 すると、水は両側に分かれた。 それでふたり はかわいた土の上を渡った。(Ⅱ列王記 2:8) エリヤ、 エリシャの旅程を通して (Ⅱ列王 2:1-15) 、 ク リスチャン生活に必要な4つの場所を考えよう。 第一はギルガル (2:1) であり、超自然の奇跡から、 み言葉による信仰によって自立する所。第二はベ テル (2:2,3) で、 ヤコブが神と出会った場所である。 これは、私たちが十字架の声を聞いて、献身する 所であり、第三はエリコ (2:4,5)である。ここは戦 いの場所で、 安息ゆえに本格的な霊の戦いがある (ヨシュア6章) ことを意味している。そして、第四 がヨルダン(2:6-14)川で、祝福の場所である。こ こは、 荒野と安息の地を分けた場所である。 ヨルダン川は、私たちが聖霊のバプテスマを受け る場所である。これを求めよう (使徒 2:33、ヨハネ 7:37-39)。 (" 3 March ● 月日 啓示の聖霊 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、 私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 (ローマ 8:16) 御霊の個人における中心的な働きは、力ではな く啓示である。主イエスを通して働いた御霊の 力あるわざは、人々にご自身を示し、啓示に導くた めであった(ヨハネ6:26-35,63) 。 主が御 霊に 期待されたものもそのことであった(ヨハネ14:26、 16:13,14)。 さて、私たちがクリスチャンであるという自覚は啓示 による (ローマ8:15,16)。聖化の確信(ガラテヤ 2:20、ローマ8:2)、天的領域の感覚(エペソ1:3、 へブル 4:10) もすべて啓示の結果である。 視覚、感覚、知覚があるように確かに霊覚と言える 啓示の次元がある (Ⅰコリント2:14,15) 。そこに生き るものは祝福があり (エペソ1:3、ヤコブ 1:17,18) 、 安息があり (へブル 4:10、 ローマ8:6) 、創造性、主 体性がある (Ⅰコリント2:15、 Ⅰヨハネ2:27) 。また戦 いがある (エペソ6:12)。 (# 3 March ● 月日 割礼 ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受 けていなかったので、彼らに割礼を施した。 (ヨシュア 5:7) 新しいイスラエルの世代は、ギルガルにおいて割礼 を受けた(ヨシュア5:7)。こうしてエジプト以来の 負債が除かれた (5:9) のである。なぜなら、彼らは 紅海を渡ってエジプトから離れたが、 心の中のエジ プト、すなわち世俗性との戦いのために 40年の荒 野の生活を要した(申命 8:2,3) 。彼らはヨルダン 川を渡り、内なるエジプトと決別した。その証しが 割礼であった。 真の割 礼はキリストにおいて実 現する (コロサ イ2:11)が、それはクリスチャンの古き人との葛藤 (ローマ7:24)を経て、十字架によって導かれるの である (ガラテヤ 5:16)。 キリストと共に死に、 よみがえり (ガラテヤ 2:20) 、内な るエジプトと荒野から自由になって、乳と蜜の流れ る地、御霊の領域(ローマ8:6)に生きる真の割礼 者となろう。 ($ 3 March ● 月日 牧会から拡大、 そして海外へ こうして神のことばは、ますます広まって行き…。 (使徒 6:7) このみ言葉は、成長する、生み出す、与える という 私達の教会理念の表現として与えられた言葉で あるが、その原型はエルサレム教会に見ることが出 来る。 彼らの教会活動の原点は、 まずみ言葉、 交わり、 祈 り、 礼拝であった (使徒 2:47) 。これを 「牧会宣教」 と呼ぼう。そうすると、教会が発展してアンテオケ教 会の誕生に至ったプロセスは「拡大宣教」 と言える (11:19-23)。そしてさらに、アンテオケ教会から他 の教会へ発展したことは(13:1-4) 、いわゆる「海 外宣教」 そのものである。 この 3つの宣教は同時進行で行わねばならないが、 その基本は牧会宣教である。「牧会」は「宣教」 とは異なるもののように思われてきたが、宣教の原 点はみ言葉や礼拝にあり、牧会そのものなのであ る。この原点をしっかり確認しなければならない。 (% 3 March ● 月日 まず聖霊、 そして聖霊 その方は真理の御霊です。(ヨハネ14:17) クリスチャンであるかどうかは、聖霊様が内住してい るかどうかによって区別される。 聖書はこのようなクリスチャンを、霊の人と呼んで、 そ れがクリスチャンのアイデンティティになっている (Ⅰコリ ント2:15) と言っている。クリスチャンは、聖霊によっ て生まれるからである。 このような自覚をもって、 さらにますます御霊に依り頼 んだ生活をするか、それともそれを忘れて行動する か…それによって、霊のクリスチャンか、肉のクリス チャンかに分かれる (Ⅰコリント2:15、 3:1)。 まず聖霊によってはじまり、 さらに聖霊によって… (& 3 March ● 月日 主の前に ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。 (Ⅱサムエル 7:18) Ⅱサムエル記のキーワードは、 「主の前に座す」 であ り、ダビデの生涯を特徴づける言葉である。ダビ デは、主の前にありのままをさらけ出して生きた。そ して、使徒パウロもまた、同じように生きた(Ⅱコリント 12:9-10)。 彼は、主の前にありのままの生活を送る人のことを、 『土の器』 と呼んでいる (Ⅱコリント4:7) 。このよう な人に共通な点は、漠然とした一般論で祈らずに、 具体的な個人的なことで祈る。事業家の見本と されるネヘミヤの祈りもやはり非常に個人的であっ た (ネヘミヤ 5:19,13-14,22,31) 主の前では、個人的な問題を祈り、裸になれる幼 子のような姿に力の秘密がある (マタイ11:25,26) 。 (' 3 March ● 月日 片手に鍬、 片手に槍 城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶものたちは、 片手で仕事をし、片手で投げ槍を堅く握っていた。 (ネヘミヤ 4:17) 非常に実際的な働きをしながら、もう一方ではそれ とは相反するかのような霊の戦いをする…これは、 教会の働きの特徴そのものである。 教会では様々な働きを進める上で、いつも生みの 苦しみがあり (ガラテヤ 4:19) 、悪霊による攻撃を受 ける (エペソ6:12)。その戦いは、 非常に霊的であり、 これを理解できない人にとっては抽象的と思えるか もしれないが、非常に現実的なものである。教会 の働きを進めるためには、 そのような戦いを認識しな がら、しかもこの世のあらゆる知恵を働かして神の 事業に当たらなければならない。 このことは、教会建設を始めとする、様々な教会の プログラムを進める上で非常に大切なことである。 (( 3 March ● 月日 イエス・キリストを着る キリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリス トをその身に着たのです。(ガラテヤ 3:27) サムエル記や列王記を読んで感じることのひとつは、 どのように偉大な、"神の人 "と呼ばれるような人でも、 神様の恵みから離れると、その弱点を悪魔に突か れて敗北する可能性があるということである。 ダビデや (Ⅱサムエル 11:2) 、ソロモン (Ⅰ列王 11:4) がそうであり、カルメル山で、かの有名な大勝利を 納めたエリヤも、大事業の後に恵みを失い、失望 のどん底に追いやられた (Ⅰ列王 19:3) 。 このような落とし穴に落ちないためには、 「主イエ ス・キリストを着なさい。肉の欲の為に心を用い てはいけません」 (ローマ13:14) というみ言葉に従 うしかない。これが悪魔に対する対抗手段として 最良の武器である。 () 3 March ● 月日 クリスチャンの積極的思考 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべ ての事について感謝しなさい。 (Ⅰテサロニケ 5:16∼18) いろいろな物事に対して積極的に対処する、いわ ゆる 積極的思考 は、クリスチャンにとっても重要 なことであるが、ただ単に物事を無理矢理に楽観 的に考えたり、思い込んだりすることであれば、なに も役立たない。 実は、クリスチャンは「すでに愛している」 とか「すで に祈っている」と言えるような世界に生きているので あって、クリスチャンはそのような積極的思考ができ る。私たちは、人間性本来の感情の起伏に支配 されやすいところにも生きているので、ある種の選択 が迫られている。それがクリスチャンに課せられた 信仰の挑戦である。 どんなときにも 「愛している」、 「祈っている」 自分を発 見していたいものである (使徒 9:11) 。 ) 3 March ● 月日 からだ意識 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分 がその力量にふさわしく働く力により、…しっかり と組み合わされ…愛のうちに建てられるのです。 (エペソ4:16) クリスチャンの「からだ意識」 を考えるとき、その中心 はキリストであることを忘れてはならない。それは、 単 なるお互いのつながりの事だけを言っているのでは ないからである。 健全な 「からだ意識」 を持つためには、 絶えず御霊 によって内なる人が刺激され、意識的にキリストを 認め、教会の目標が愛であることを覚え、行動的な 信仰を訓練しなければならない (エペソ3:16-19) 。 外に向かって働くダイナミックな「からだ意識」を 持った教会を目指そう。 )! 3 March ● 月日 教会の機能と奉仕の領域 キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、 ある人を伝道者、ある人を牧師または教師として、 お立てになったのです。(エペソ4:11) このみ言葉は教会の 5つの機能を表しているが、 奉仕に関する5つの領域とも考えることができる。こ れらは、主イエスご自身の生涯に見られるものであ る。 すなわち主は偉大な使徒(へブル3:1) 、預言者 (ルカ 24:19) 、伝道者(使徒 10:38) 、牧師(ヨハ ネ10:11) 、教師(ルカ4:22)であられた。さらに主 は栄光を受けられた後、このような機能を御自身 のからだである教会に賜物 (ドリア) として与えられた (エペソ4:7,8) のである。 このような奉仕の領域の中で、それぞれが自分のト ポス (場) を見い出し、それを確かなものとすることが クリスチャンにとっての課題なのである。 (エペソ 4:12)。 )" 3 March ● 月日 みことばによる革命 みことばの声を聞き、みことばを行う勇士たちよ。 主をほめたたえよ。(詩篇 103:20,21) アメリカとソ連を軸とした冷戦構造が崩壊した時、 本格的な平和が訪れることを、世界中の多くの人 が期待した。 しかしながら、 それは見事に裏切られ、世界はますま す混迷の度を深めているように見える。この様な 時に、静まってみ言葉を開くと、光を放ち、輝いてい ることを発見する。これはやはり神の言葉なのだ 。 これ以外に確かなものはない…。 み言葉に密着し、 み言葉によって生活をしよう。 これ以外に私の人生はないのだ! )# 3 March ● 月日 預言と教会 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言 することを熱心に求めなさい。(Ⅰコリント14:1) 現代の教会にとって、預言の賜物の回復こそ最も 大切なことである。 アンテオケ教会における世界宣教へのきっかけは 預言であった(使徒 13:1-4) 。また、大ききんが起 こった時の救援運動のきっかけがそうであったよう に(使徒 11:27-30) 、預言の賜物が豊かに用いら れるためのコンタクトポイントは愛である。アンテオケ 教会の預言者達は主を愛し、教会を愛し、世界を 愛していた。その結果として、御霊の語りかけを聞 くことが出来たのである。 私達も愛することを通して、自分が住んでいる町に ついて、所属する教会について、隣人について、御 霊の声を聞くはずである。 )$ 3 March ● 月日 主を待ち望む 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求める たましいに。主の救いを黙って待つのは良い。 (哀歌 3:25∼26) 誰にも理解してもらえない逆境の中でしか知り得な い主の恵みがある。 ただ、 「ひとり黙ってすわっているがよい。口を ちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない」 (哀歌 3:28-29)」というような時を過ごしていても、 主はいつも見放してはおられない。たとい悩みを 受けても、主は、 その豊かな恵みによって、あわれん でくださる。 み言葉によって主を待ち望む人は幸いである (詩 篇 119:147-148)。み言葉は私達に御国を継が せることができ (使徒 20:32) 、 天的領域に引き上げ、 絶えずすべての霊的祝福をもって新しくしてくれる のである (エペソ1:3) )% 3 March ● 月日 選び その日。 主はアブラムと契約を結んで仰せられた。 わたしはあなたの子孫に、この地を与える。 (創世記 15:18) イスラエルはアラブ圏の真中に打ち込まれたくさび であり、あたかも喉にささったとげのようなものである。 アラブの大義とはイスラエルと対決することであり、 ア ラブ諸国の理念そのものである。アラブとイスラエ ルの戦いは遺伝的なものであり、そのルーツは遠く サラとハガルの関係に根ざしている (創世記 16:1- 12)。 ただ、両者の関係がたとえどのようになろうと、 イスラ エルについての神の選びは変わることがない。そ の選びは、 アブラハムの時代からパレスチナの土地 と結びついて語られている (創世記 13:15、イザヤ 41:8,9)。 神は私達を『神の国の相続人』 として選び、その 保証として御霊を与えられた (エペソ1:14) 。私達 に対する選びもまた、 確かで変わることがない。 )& 3 March ● 月日 神−歴史−王 王の心は主の手の中にあって、水の流れようだ。 みこころのままに向きをかえられる。(箴言 21:1) 世界を動かすリーダー達の行動のすべては神の 計画の中にある。聖霊は彼らについて預言し、歴 史がそれを証明している。かつて繁栄を謳歌した バビロンのネブカデネザル(エレミヤ 25:9)や、ペル シヤの王クロスも (イザヤ 44:28、45:1) そうであった。 また、イエス様がベツレヘムで生まれるための環境 を作ることになった、ローマ皇帝の人口調査も決し て偶然ではなかった (ルカ2:1) 。 もちろん現代でも同じである。混迷しきった中国を 統一した毛沢東もやはり神の計画の中にあった。 彼がいなければ、今でも中国の主な交通機関は 整備されなかったと言われている。道路網を全国 に作る仕事が終った時、その生涯を閉じたのであ る。 歴史の中に働かれる我らの神は偉大である。 )' 3 March ● 月日 世界の光 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は 隠れる事ができません。(マタイ5:14) たとえ明るいニュースが無くて、どんなに社会が暗く 見えたとしても、決して沈んではならない。暗闇でこ そ光は輝きを増すのである。キリスト者は「世界の 光」 として、暗いこの世に輝く存在なのである。クリ スチャンの光である内住の御霊による次のような三 つの証しを確かめよう。 まず、思いをこえた神の平安があり (ピリピ 4:7、ヨハ ネ14:27、ローマ8:6) 、霊のチャンネル(異言)で 祈っており (Ⅰコリント14:2,15) 、さらにクリスチャンの 価値観で生活している (ローマ8:14-16) 。 私達に与えられているいのちの光(ヨハネ8:12) を、 より鮮明にしよう。 )( 3 March ● 月日 すべての祝福 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエ スによって異邦人に及ぶためであり…。 (ガラテヤ 3:14) 神は恵みそのものである。神は常に、 しかも一方的 に私たちに祝福を与えたいと願っておられる。アブ ラハムの生涯を見れば、 そのことがよくわかる。 まず神はアブラハムを信仰によって義とされ、良心 の自由を与えられ(創世記 15:6) 、次にイサクを与 えて彼の信仰に報われた (創世記 21:5) 。さらに、 生涯で最も大きな試練においてイサクを献げる信 仰を与えられ (創世記 22:10) 、あらゆる面でアブラ ハムを祝福された(創世記 24:1) 。その祝福の源 は信仰であり内住の御霊である。 クリスチャンはこの特権に生きている。希望を持とう ではないか (ローマ5:5)。 )) 3 March ● 月日 究極の恵み だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲み なさい。(ヨハネ7:37) アブラハムが神から受けた祝福の集大成は聖霊 であり (ガラテヤ 3:14) 、主が我々に与えられた最 大の保証もまた聖霊であった (ヨハネ14:16,17、使 徒 1:5,8)。 主が十字架につかれる前に、弟子や群衆に切々 と語られたあのメッセージは聖霊についてであった (ヨハネ7:37-39)。神様のこのような働きを、 究 極の恵み と呼ぼう。 聖霊こそが、 宣教の原動力である (使徒 1:8) 。 聖霊がどれほど大切かを深く考え、求めようではな いか。 ! 3 March ● 月日 十字架と三種類の人 キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪 と死の原理から、あなたを解放したからです。 (ローマ 8:2) 十字架とは、そこにおいて私達がキリストと一つにな るという真理であり、それによって、罪と死の原理か ら解放される (ローマ8:1,2)。このような経験は、キ リストの内にあるときに達成され(Ⅰコリント1:30) 、こ れを現実のものとして下さったのは御霊である (Ⅰコ リント2:10)。 クリスチャンは、生まれながらの人(Ⅰコリント2:14) 、 御霊に属する人(2:15) 、肉に属する人(3:1) と3 種類の人に分類される。そして、 その人達がどのよ うな食物を食べているかによって、属しているところ が判るのである。同じ霊の食物であっても、幼児 に適したものと成人向けのものもある (3:2) 。 霊の人とは自分で直接聖書から栄養を摂ることが できる人達のことである。 ! ! 3 March ● 月日 御霊の三つの現れ 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもで す。(ローマ 8:14) 新生は、御霊の第一の現れであって、内住してお られる御霊を明確にしている。新生によって、私 達は神の国を見るのである (ヨハネ3:3、ローマ 8:15,16)。 また、 異言 (霊の言葉) は、 聖霊の第二の現れであ り、これは聖霊のバプテスマを明らかにしている。こ れによって、クリスチャン個人の生活の中に聖霊の 主導権が確立される (ヨハネ7:38、 Ⅰコリント14:2) 。 そして、この御霊の現れを通して様々な賜物が教 会に与えられる (Ⅰコリント12:7) 。御霊の第三の現 れは、聖霊の実である。これは、聖化に深く関係し たことである (ガラテヤ 5:22,23) 。 御霊は十字架の原理によって古き人から切り離し、 キリストのいのちを実感させて下さる (ローマ 8:11) 。 ! " 3 March ● 月日 知恵、 知識、 愛 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえま す。(Iコリント2:15) 知恵と知識、 そして愛はコリント人への第一の手紙 における重要なテーマである。 神の知恵が十字架に現され (Ⅰコリント1:24,30) 、 そ れが御霊の啓示によって私達の体験や知識とな る (2:10)。これは、まず神について (8:4-6) 、偶像 について (10:19,20) 、さらに生活について (10:15- 27)具体的に教えてくれる。知識は良心に自由を もたらす (10:25,26) が、気ままな自由ではなく、愛の ゆえに制御されたものとなる (8:9) のである。 パウロはこの愛による自由の中に生きていた(8:9) 。 教会に与えられる霊の賜物もやはり愛によって制 御されるべきであり (12:7、14:1) 、それは各種の集 会の中に表されるのである (14:26) 。知恵、知 識、愛を調和させる。それが霊の人の特徴である (2:15)。 ! # 3 March ● 月日 自由と選択 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放し てくださいました。(ガラテヤ 5:1) ガラテヤ人への手紙の主題は「自由」である (5:1) が、それは罪の欲望にとらわれない自由(5:16)の ことであり、律法の束縛からの自由(2:19-21) 、さ らに、この世に対する自由(6:14)を意味している。 別の言い方をすれば、意志の自由のことであり、選 択し実行できる自由なのである。したがって、選択 の基準が曖昧であれば罪を選ぶことも可能になる。 そのような自由が聖書のテーマなのである。 この自由を、愛することに (5:13) 、 また御霊に委ねる ことに(5:16,25)用いるように勧められている。御 霊は私達の主体性を尊重しておられるので、私達 の選択の責任は大きいと考えなければならない。 肉の実か (5:19-21) 、御霊の実か (5:22) 、 どちらを 選ぶかは、 あなたが決める。 ! $ 3 March ● 月日 座す、 歩く、 立つ 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福 をもって祝福してくださいました。(エペソ1:3) エペソ人への手紙を読む度に、ウオッチマン・ニー 師の名著[キリスト者の行程」 を思い出す。エペソ 書全体を上記の 3つの動詞で見事に分析し、要 点をまとめている。 すなわち、クリスチャン生活とはまず座ること (Sit、安 息) から始まり (2:6) 、歩むこと (Walk、行動) (4:1、 5:2、5:15) そして悪魔に立ち向かう (Stand、立ち上 がる) (6:11) 、 というのである。 まず、原点に立って、信仰の原則である安息を確 かめよう (へブル 4:10)。 キリストにあり、天にある立場を確認しよう (エペソ 1:3)。 ! % 3 March ● 月日 復活の力 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリスト の苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同 じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活 に達したいのです。(ピリピ 3:10,11) 軟禁状況にあった使徒パウロが、活動したくてもで きないというジレンマを克服し、自分のおかれてい た困難な状況を積極的に受けとめ、それを生きる 力に変えることができたのは(ピリピ 1:12,18、4:4) 、 キリストの復活の力と一つになることができたから (3:10,11) である。 逆境から逃げるのではなく、かえってその状況を受 け入れ、 しかもそのど真ん中に主を見い出した。 すべてを主に委ねる信仰を持つ人に、主イエスを 死人のうちからよみがえらせて下さった同じ力が働 くのである (Ⅱコリント1:9、 エペソ1:19、 ローマ8:11) 。 ! & 3 March ● 月日 キリストと私 キリストにあって、満ち満ちている。(コロサイ2:10) コロサイ人への手紙の主題は、 「キリストがすべて」、 あるいは「キリストにあってすべて」という言葉で表 現できよう。その内容は次の三つに要約できる。 まず、私は、 キリストの割礼…十字架のメス…によっ て、 新しく生まれ変わり、 切り離された (ローマ6:6,7) ということであり、次は、切り離された古き人は、キリ ストとともに墓の中に葬られ、私の罪の精算は済ん でしまった。そして、第三点目は、キリストと共に復 活している (コロサイ2:12)事である。 律法の負債から自由にされ(コロサイ2:14) 、キリス トにある勝利者となった (コロサイ2:15) 。 罪と律法を通して、 私を支配していたサタンが敗北 したためである。 ! ' 3 March ● 月日 福音のゴール 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝え たのは、私も受けたこと…。(Iコリント15:3) 福音の中心は、キリストの死と葬りと復活の体験が そのままクリスチャンの体験となり得るところにある (Ⅰ コリント15:1-4) が、福音のゴールは復活と言ってよ い (Ⅰコリント15:51,52)。 クリスチャンは、最終的に「私たちはみなが眠って しまうのでなく、みな変えられ」 (Ⅰコリント15:51) 、 主とおなじ栄光の姿になるのである。「終わりの ラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに」 (52) そう なると約束されている。これが、クリスチャンに与え られている約束である。 使徒パウロの最後の祈り、 『マラナ・タ』…主よ来て 下さい…が、 よく理解できる。 ! ( 4 April 教会はキリストのからだであり、 いっさいのものをいっさいのものによって 満たす方の満ちておられるところです。 ─ エペソ1:23 ─ 4 April ● 月日 初穂 しかし、今やキリストは、眠ったものの初穂として死 者の中からよみがえられました。(Iコリント15:20) イエスキリストは、初穂として死人のうちより復活され たが、この初穂とはいのちの保証であり、それが現 実であることの見本である。すなわち、キリストを信 じる者が持っている永遠のいのちは、新生によって すでに与えられているが(Ⅰヨハネ5:11) 、その保証 はキリストのよみがえりにある。 このいのちこそが、 キリストの再臨の時に、 私達をキリ ストと同じ復活体によみがえらせる (ピリピ 3:21)の であり、 キリストの復活はその見本のようなものである (ルカ24:39)。 キリストの復活は、死の影に覆われた人類に対し て約束されている輝かしい希望のメッセージなの である。 !! 4 April ● 月日 不在の臨在 世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなた がたはわたしを見ます。(ヨハネ14:19) 復活後 40日もの間、主に接した弟子達は、どんな に幸いであったろうか(使徒 1:3) 。あの時彼らは 主イエスの三つの姿に触れた。すなわち、肉体の 主 、 復活体の主 、そして昇天後の 霊の主 で ある。 今日の私達はこのうち 霊の主 にしか接すること ができないが、だからといって恵みが少なくなるわけ ではない。霊の主との交わりによって主の真の姿 に触れることができるのである (Ⅱコリント3:6,16,17) 。 ペテロはイエスの肉声を聞いたが、それにまさって 聖書のことばはより確実であると証言している (Ⅱペ テロ1:18,19)。 主はもはやこの地上におられないが、 主が彼らの前 から見えなくなった時、彼らは主の臨在をリアルに 体験したのである (ヨハネ14:19,20) 。 !!! 4 April ● 月日 三つの証言 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがた は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサ マリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証 人となります。(使徒 1:8) このみ言葉によると、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、 そして地の果てと三つの宣教のステージがある。 私達の教会では 成長する、生み出す、与える と いう言葉を使っている。教会の内部成長を「エル サレム伝道」、教会を生み出す働きを 「ユダヤ、サ マリヤ伝道」、 そして海外宣教のために与える働きを 「地の果て伝道」と位置づけ、これらをしばしば牧 会宣教、 拡大宣教、 海外宣教と呼んでいる。 この中で、 教会の最も基本となる、 「エルサレム伝道 (牧会宣教)」が祝されるよう祈ろう。そのために は、エルサレム教会が祝福された(使徒 2:47)要 因を思い出そう。その一つは「宮に集って使徒達 の教えを聞いた」ことであり、他の一つは「家々で 交わった」 (使徒 2:42,46) ことである。 !!" 4 April ● 月日 三つの宣教 イエスは苦しみを受けたのち、四十日の間、彼らに 現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証 拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに 示された。(使徒 1:3) イエス様の復活された後、弟子達と過ごされた 40 日の主な話題は 神の国 であった(使徒 1:3) 。 この神の国の現実は、聖霊のバプテスマによって 教会にもたらされ(使徒 1:5、 8) 、その結果、教会 に 一致 が与えられた。彼らは礼拝を(宮で)共 にし (使徒 2:46) 、礼拝におけるメッセージを共有 し (使徒 2:42) 、家々での交わりで心を一つにした (使徒 2:46)。 この三つは牧会宣教の基本であり、 これを通してク リスチャンはアンテオケに散らされた(使徒 11:19) のである。そしてさらに他の教会を生み出していく 拡大宣教に至り、またアンテオケからさらに地の果 てへ、 すなわち海外宣教にまで発展した。 教会には常に三つの宣教へのチャレンジがある。 !!# 4 April ● 月日 この土の器に 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているので す。(Ⅱコリント4:7) キリストがあなたの日々の生活の中で現実の方とな るためには、 あなたは土の器でなければならない。 土の器であるためには、 くつろいで主と向き合うこと が重要である (Ⅱコリント3:17) 。土の器になる努力 をする必要はない。毎日の生活の中で普段着の ままで主に信頼するのである。 その姿勢が祈りの生活であり、 御霊と親密に過ごし ていることになっているのである。 落ち着いた威厳のある生活がそこにある (Ⅰテモテ2:2)。 !!$ 4 April ● 月日 イースターありがとう キリストは死者の中から復活された…。 (Ⅰコリント15:12) イエス・キリストの復活が歴史的事実であることを証 明する第一のことは、その出来事に対する弟子達 の反応にある。すなわち、彼らの誰もが疑い、困惑 した。この状況は非常に自然であり、復活の記録 が事実であったことの強力な証拠である。証明 の第二は、信じる者の心に起こる新生の事実であ る。クリスチャンにとってイエス・キリストは生きておら れるか否かを改めて問いかけるような問題ではな い。イエス・キリストは確かに生きておられるのである。 復活された主は、 ごく普通の人であり、 しかもそれを 越える存在であった。イエスキリストは、決して遠い ところにおられる方ではなく、とても身近におられる 方である。 「イースターありがとう」 と言ってみると、 そこから感動 が沸き上がってくる。 !!% 4 April ● 月日 燃やされる そこでふたりは話し合った。『道々お話しになって いる間も』、聖書を説明して下さった間も、私たちの 心は内に燃えていたではないか。(ルカ 24:32) 弟子達が復活の主と親しく交わったことや、それに 続くあのペンテコステの経験によって、彼らはどんな に心が燃やされ、 すばらしい日々を送ったことであろ うか(ルカ24:32)。それから数十年経って教会が 安定期に入った頃には、 クリスチャンは燃やされるこ とを期待するよりも、自ら燃えることを求められるように なっていった (Ⅱテモテ1:6,7) 。 今日の私達にも同じものが求められている。クリ スチャンはすでに御霊に満たされており (エペソ 5:18)、み言葉に触れている (コロサイ3:16) 。した がって、 燃えることができるのである。 ただ信仰によって…これが秘訣である (Ⅱコリント4:18)。 !!& 4 April ● 月日 復活の重要性 どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、 と言っている人がいるのですか」。 (Ⅱ コリント15:12) もしキリストがよみがえらなかったならば…、 ・死者の復活はない (Ⅰコリント15:13) ・信仰も宣教も意味がない (Ⅰコリント15:14) ・罪の解決はない (Ⅰコリント15:17) ・命の実感はない (ローマ6:4) ・聖霊の働きはない (使徒 2:32,33) ・奇跡は起こらない (マルコ16:17) と聖書に書かれている。しかしながら、 これらはすべ て現実に起こったことであり、キリストの復活は歴史 的事実である。 クリスチャンが永遠のいのちを持っている保証と、 救 われていることの確かさは、キリストが復活したという 事実に根ざしている。 !!' 4 April ● 月日 お互いを通して ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、 互いのために祈りなさい。 いやされるためです。 義人の祈りは働くと、大きな力があります。 (ヤコブ 5:16) 聖霊は、各々のクリスチャンに対して個人的に働 かれるのが基本ではあるが、キリストの体の中で、 お互い を通して働かれることも忘れてはならない。 聖霊の賜物は、教会に与えられているので、クリス チャンの愛の交わりを通して、しかも秩序ある形で 現れるのである。だからクリスチャンは誰でも謙遜 で、しかも大胆でなければならない。キリストのから だ意識を、 より積極的に受けとめて、お互いに 祈 り合う時、 聖霊の働きを経験するのである。 義人とは、 キリストによって神様が認められた人であ る。あなたは、自ら義人であると告白できるであろう か。それができるなら幸いである。 あなたの祈りに、 大きな力が約束されている。 !!( 4 April ● 月日 文明と終末 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさ い。(Ⅱ テサロニケ 2:3) 我々は今、ダニエル書に説明されている反キリス トの出現(ダニエル 9:27,11:36、Ⅱテサロニケ2:1- 17)を間近に控えた時代に生きている。その時が いつ訪れるか誰もわからない。しかしながら、歴史 の教訓から、滅亡は文明が成熟した時に突然 やって来る。ノアの時代がそうであったし (マタイ 24:37-39)、ソドム、ゴモラの滅亡もそうであった (ル カ17:28,29)。さらに、あの強大なバビロン帝国も 一夜のうちに滅びた (ダニエル 5:30) 。 いま日本は、高度の文明を謳歌している。この様 な一見すばらしく見える時代に惑わされてはならな い。ダニエルのように霊の目で時代を見つめ、祈り 続ける者でなければならない。 我々の信仰が、 自分の生活に密着した身の回りの ことから、もっと世界的な視野に広げられるよう祈ろ うではないか。 !!) 4 April ● 月日 二種類の知恵 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの 者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことば を秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知 識を増そうと探り回ろう。(ダニエル 12:3,4) この世の多くの人は、世の終わりが近づくにつれ新 しいことを求め続け、 いわゆる知識におぼれていく。 しかしながら、時代に流されず「朽ちる食物のため でなく、永遠のいのちに至る食物のために生き る」 (ヨハネ6:27)思慮深い人々もいる。このような 人は、 闇の世にあって星のように輝くことができる。 このような生活こそ、クリスチャンに約束された生き 方そのものである。これは、 知恵 と呼ばれ、毎日 の日常生活に生かされ (Ⅰコリント2:15) 、 しかも御霊 による生活そのものである (Ⅱコリント3:16,17) 。 !" 4 April ● 月日 ひなを呼び覚ます わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞い かけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くよ うに。(申命記 32:11) 子どもの鷲は、いつか必ず巣から飛び立たなくては いけない。もし、いつまでも飛び出せないなら、それ は死を意味する。 親は、ひなを呼び覚まし、揺り動かし、飛び立つよう に促す。それは、未だ体験したことのない世界へ の旅立ちであり、親には心配があり、子どもには不 安と恐れがあるが、 同時に希望にも満ちている。 神は私たちの手の範囲にある小さな満足を打ち壊 し、神の子に与えたいと願っておられる恵みの世界 を見るようにしてくださる。神は、私たちのために成 長を願っておられるので、 巣を揺り動かす時がある。 勇気を出そう。あなたを支えている主の翼を信頼 して、 飛び出すがいい。 !"! 4 April ● 月日 父のふところ いまだかって神を見た者はいない。 父のふところ におられるひとり子の神が、神を説き明かされたの である。(ヨハネ1:18) 主と静まることは、 「共にひとりになる」ことであって、 じっとしていることが目的ではない。そこで、主の声 を聞けるようになるのである。 私が 私になる時間 を持って、神と向き合う心の 状態にしなければ、本当の祈りは出来ない。神と 向き合うことで、鏡に映すように、自分の真実の姿 が見れるようになる。これは聖書の約束にある自 分と、肉の自分とを切り分ける作業とも言えるだろう。 パウロは、あなたがたは聖霊の宮なのです と言う が、 そこは安息、 憩いの場所である。 あなたは、父のふところで抱かれる赤ん坊のように、 安心し、安息を得る。そのかけがえのない場所は 主イエスによってすでに与えられていることを確認す ることである。 「わたしと一 緒におらせてください」 (ヨハネ 17:24)。 !"" 4 April ● 月日 主の山には備えが そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イル エと名づけた。今日でも、 「主の山の上には備えが ある。」と言い伝えられている。(創世記 22:14) 神は、アブラハムに対して約束の子イサクをささげ るように言われた。神がこれほど明確かつ個人的 に試練に会わせた人は、他にいないといわれてい る。ただ、厳しい試練であっても、主の備えがあっ た こともわかる。 ひとつは、 犠牲にすべきイサクに代わる羊であり、 もう ひとつは、 ここに至る出来事そのもの (創世記 22: 1) である。試練への備えがカランを出てからの約 40 年をかけてなされたと言ってもよい。その歩みを振 り返るとき、 すべては備えであったことがわかる。 自分の身を守るために、妻を妹と二度偽り、神を信 頼せず、別の女性に子を生ませる不信仰があった にも関わらず、 神は真実をもって彼を引き寄せた。 試練のための備えは、 主ご自身である。 !"# 4 April ● 月日 テサロニケ教会と聖霊の導き 多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみこと ばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりまし た。(Ⅰテサロニケ 1:6) テサロニケ教会はピリピに次いでヨーロッパで2番 目に設立された教会である (使徒 17:1-4) 。苦難 の中で生まれたこの教会は、聖霊の喜び(Ⅰテサロ ニケ1:6) 、み言葉信仰(Ⅰテサロニケ2:13) 、与える 恵み(Ⅱコリント8:1,2)に富んでいた。この教会が 生まれたキッカケは、 トロアスでの幻 (使徒 16:1-10) であったが、 これがヨーロッパ伝道の発端になった。 聖霊は、ある時には使徒達が宣教に行く事を「禁 じられ」、ある時は行動することを「許されなかっ た」が、ある時は直ちに行く事を励まされた。聖霊 は自分の取るべき態度を主に委ねていた使徒達 を少しづつ導かれ、 伝道の業を進められた。 今日も御霊は、自らの道を主に委ねる者を的確に 導かれる。 !"$ 4 April ● 月日 再臨についての補足 あなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。 (Ⅱテサロニケ 3:13) テサロニケ第二の手紙は、再臨がその主題となっ ているテサロニケ第一の手紙の補足であり、再臨 の第二の局面、すなわち主の地上再臨が主題 (Ⅱ テサロニケ2:1-12) となっている。また、別のもう一 つの重要な主題が扱われている。それは、この世 ではしばしば苦しむ者が報われず、かえって苦しま ない者が楽をするという社会の矛盾に対する解答 である。それは、 『神にとって正しい』 という価値基 準である (Ⅱテサロニケ1:7) 。 クリスチャンにとって苦難は、神の国にふさわしい者 とされるための必要な課程(Ⅱテサロニケ1:5) とも 言われている。再臨後の世界においては、全ての 不公平は正されることが約束されている。 再臨に対する第一の備えは、 質実、 勤勉な生活で ある (Ⅱテサロニケ3:6-15)。 !"% 4 April ● 月日 信仰ときよい良心 きよい良心をもって信仰の奥義を保っている…。 (Ⅰ テモテ 3:9) Ⅰテモテへの手紙における強調点は信仰ときよい良 心である。信仰はきよい良心から生まれ、きよい良 心によって信仰の奥義が保たれ (Ⅰテモテ3:9) 、愛 に成長する (Ⅰテモテ1:5) ことが約束されている。 信仰におけるつまずきの多くは、良心の問題をあい まいにするところから起こる (Ⅰテモテ1:19) 。良心の 問題は信仰と無関係などと考えてはならない。きよ い良心によって心を整えるなら、信じる事は自然に なり、信仰には無理が生じない (箴言 4:23) からで ある。きよい良心と信仰は、切り離せない関係にあ る。したがって、信仰によってのみきよい良心を持 つ事が出来る (Ⅰヨハネ1:9) のである。 ここでは、 きよい良心にのみ信仰は根をおろすことを 強調しておこう。 !"& 4 April ● 月日 ドリア、 ドーマ、 カリスマ 私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに 従って恵みを与えられました。(エペソ4:7) ドリア、 ドーマ、 カリスマはいずれも聖書の中では「賜 物」 と訳されているギリシャ語である。 ドリアは無代価の賜物という意味(エペソ4:7)で、 キリストの賜物と呼ばれ、 キリストが勝ち取られたもの (エペソ4:10)である。ここから5つの側面(エペ ソ4:11)を持つ賜物(エペソ4:8)が教会に与えら れた。これがドーマである。そして、この 5つの面 を通して、恵みがクリスチャン個人に与えられている。 これはカリスマと呼ばれ、それぞれの奉仕(機能) に 関係しているものになっている (エペソ4:12) 。 キリストのからだの一部であれば必ず必要な機能 (奉仕)がある。それを発見し、開発することが重 要である。 !"' 4 April ● 月日 キリストによるあがない 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とさ れました。(Ⅱコリント5:21) ピレモンへの手紙は非常に短いが、 要点が明瞭で あり福音の本質を示す見事な手紙である。これは、 パウロによって救いに導かれたオネシモについての とりなしである (ピレモン10-18) 。オネシモは、かつ てはピレモンの奴隷で、当時の社会制度では、奴 隷の逃亡は厳刑であったにもかかわらず逃亡した のである。 手紙の中でパウロは謙遜(9) 、権威(8) 、礼儀 (14)をつくして彼のことをとりなし、 あがない の意 味をよく説明している。パウロは彼の負債を肩代わ りする事を申し出た (18,19) が、それはまさに主イエ スが、私達の罪の負債を十字架で肩代わりして下 さった (Ⅱコリント5:21) ことに他ならない。 オネシモという言葉は、 本来 有益 という意味をもっ ているが、彼の罪があがなわれた時はじめて、その 名前が意味を持つような人生が始まったのである (11)。 !"( 4 April ● 月日 ダイナミズムの中心点 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを 終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだ はずです。(へブル 4:10) ダイナミックな働きの中心は、躍動するような力や充 実感ではなく、実は神の安息にある (へブル 4:10) 。 キリストの働きを担う者は、これを知らなければなら ない。 「みわざは創世の初めから、もう終わっている」、 「そして神は休まれた」 (へブル 4:3,4) と言われて いるが、 実は、 宇宙の運動の法則は創世の初めか らすでに確立しており、全宇宙はその法則に従っ て、静かに、しかも力強く働いているのである。同 様に、主イエスが十字架上で「完了した」 (ヨハネ 19:30) と言われた時、一つの法則が確立した。そ の法則とは人を生かす 「いのちの法則」 である。 誰でも、この法則にしたがうならば、力強い人生が 保証され、神の安息の中にいるときに、ダイナミック な働きが可能となるのである。 !") 4 April ● 月日 エリヤよ何をしているのか 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ご した。すると、彼への主のことばがあった。主は「エ リヤよ。ここで何をしているのか。」…。 (Ⅰ列王 19:9) 主 はエリヤに2回も同じ質 問をされ(Ⅰ列 王 19:9,13)、2回ともエリヤは、自己憐憫からくる同じ 答をしている (19:10,14) 。それは、カルメル山にお ける勇士の姿からは、とても考えられないものであっ た。ただ、 このようなエリヤに非常に親しみを覚える のは、私だけだろうか?超人のように見えるエリヤは、 実は普通の人間で、 ただ神の恵みによってのみ超 人であり得た (ヤコブ 5:17) からである。 神は失意の中にある者を理解、包容されるが、そ こに留まることを願われない。また台風、地震、火 といった劇的な場に留まることも御心ではなく (Ⅰ列 王 19:11-12) 、結果を主に委ねて、淡々と日々の 任務を果たしていく生活の中に、主が共におられる (19:15-19)。 !# 4 April ● 月日 死んでも生きる わたしを信じる者は、死んでも生きる。 (ヨハネ11:25) このみ言葉は、主の再臨の日にすべての信者に実 現するのであるが、我々が生きている現在の世界 でも、主はある人々を、 あのラザロのように死の彼方 から呼び戻されることがある。使徒パウロも、そのよ うな経験をしたように思われる (Ⅱコリント12:2-4、使 徒 14:19,20)。 ディ ・モールツ夫人は、28分間を天国で過ごし、再 び地上に戻られたという、 いわゆる臨死体験を持っ ている。彼女は、 自分の病いのこと、 その結果確か に死んだこと、 そして死から復活し、癒されたことなど を、ごく自然に、 しかもさりげなく語っている。実に感 動的である。それは「死」 にこだわることから解放さ れた者だから…と感じた。私もそのようでありたい。 「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」 (ピリピ 1:21)。 !#! 4 April ● 月日 聖霊を受けよ 彼らに息を吹きかけて言われた「聖霊を受けなさ い」。(ヨハネ20:22) 主が復活されたことを通して、新しい人が誕生した。 主は新しい人の先祖であり、聖書はこれを「第二 のアダム」と呼んでいる (Iコリント15:45-49) 。そこ から新しい民族、すなわち教会が発展していくので ある。 神が、第一のアダムを土から造って息を吹きかけ られたとき、 「生き物」 となった(創世 2:7) と言われ ているように、イエス様は新しい人類の代表者で ある弟子達にも息を吹きかけられた。そこで教会 は聖霊によって生きるものとなったのである (ヨハネ 20:22)。 教会は生きている。それを知ることのできる共通の 御霊感覚はその証である (エペソ4:3) 。 !#" 4 April ● 月日 地境をひろげよ 私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいます ように。(Ⅰ 歴代 4:10) ヤベツの祈りのように、教会の働きが広げられるた めに三つの重要な事がある。それらは、 ・使徒、預言者、伝道者、牧師、教師という五つの 機能が整えられること (エペソ4:11)。 ・教会に仕える長老、 執事職が祝福されること。 (Ⅰテモテ3:1-13)。 ・教会員一人一が、御霊の調和の中で霊の賜物 をもって奉仕することができること (ローマ12:3)であ る。 今は御霊の時代、 信徒の時代である。 まず私達の地境が広げられ、その結果として教会 の働きが広げられるように求めたい。 !## 4 April ● 月日 主を知る それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。 (ルカ 24:31) 復活された後の主の特徴の一つは、弟子達の目 が開かれなかったため、主であると気付かなかった ことである。 マリヤも気付かなかったし (ヨハネ20:14) 、いつもあ れほど近くにいた弟子達ですら (ヨハネ21:4) そうで あった。また、 エマオへ行く途上にあった二人の弟 子もやはり同じであった(ルカ24:31) 。彼らがイエ スだと気付いたとたんに、主は見えなくなったが、た とえ見えなくても 「心は燃えていたではないか」 と話 し合った。 私たちは、 この目で確かめたいと思うが、たとえ見て も、見なくても、本当は大きな問題ではない。なぜ なら、主を知ることは、 ただ、 ただ啓示によるからであ る (Ⅰペテロ1:8,9)。 !#$ 4 April ● 月日 突然訪れる日 その日、その時がいつであるかは、だれも知りませ ん。(マタイ24:36) エレミヤ書に記されている預言の中では、イスラエ ル捕囚期間は「七十年」 とはっきりしていた(エレミ ヤ 25:11,12,29:10)が、それがいつ起こるかは知ら されていなかった。 聖書は、世の終わりを預言しているが、 その時期は やはり知らされていない。ただ、その予表があると 言われている。 多くの人は まさか と思うはずである。あたかも地 震が突然起こるように、世の終わりもやはり突然訪 れるのである (Ⅱペテロ3:10、 マタイ24:37∼39) 。 このような時代をどう生きるかが、私たちに問われて いる。あなたは今日、聖書に密着した生活ができ ているか? !#% 4 April ● 月日 起きて食べよ 彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、 ひとりの御使いが彼にさわって、 「起きて、食べなさ い。」と言った。(Ⅰ 列王 19:5) 失意の中で恐れていたエリヤに、神は御使いを通 して、もっとも日常的な、ありふれたこと…食べること …を命じた。「焼け石で焼いたパン菓子一つと、 水のはいった壷」 (Ⅰ列王 19:6) を用意し、 「起きて 食べなさい」 と ・・ そして、 激しい大風、 地震、 火がエリヤの前を通り過 ぎるが、その中には主がおられなかった (12) 。しか しながら、 その後に、 かすかな細い声が耳元に届く。 それが主であった。これが神様の方法である。エ リヤの期待とは明らかに違ったが、とても自然な形 で現れた。 御霊はこのようにあなたを促される。主はこう言わ れる。「わたしのところに来なさい。わたしがあ なたがたを休ませてあげよう。」 (マタイ11:28) 。 !#& 4 April ● 月日 香油のかおりでいっぱいに マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百 グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛 でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっ ぱいになった。(ヨハネ12:3) 主が愛されたベタニヤの兄姉マルタ、マリヤ、ラザ ロの家庭は特に裕福ではなかったが、マリヤは高 価なナルドの香油を主イエスの頭に惜しみなく注い だ。人は、 これを 行き過ぎ 、浪費 であると考える (ヨハネ12:5、マルコ14:4,5) 。しかしながら、主イ エスはマリヤの行為をほめられた (マルコ14:9) 。 福音はこのような結果を生み、実に、このようなこと のために存在するのである (ローマ8:28、 Ⅰペテロ 1:8)。 今日、私たちを捕らえているのは主だろうか。純 粋な香油はマリヤの主に対する心そのものである。 すべての働きの基礎がここにある。注がれるべき 第一のお方、 主をほめたたえよう。 !#' 4 April ● 月日 まことのぶどうの木 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は 農夫です。(ヨハネ15:1) 主は、天の父とご自分、さらに教会との関係を、農 夫とぶどうの木、その枝にたとえられた。このみ言 葉は、 クリスチャンにとって聞き慣れた話である。今 日も神は、 私はまことのぶどうの木 と語り、十字架 に架けられたキリストと私達が一つに結合されてい ることを示しておられる (ローマ6:3-5) 。そしてキリス トの復活と栄光にあずかる者として、無限の可能 性にも導いておられる。 まことのぶどうの木が、私達に語る約束は、確かな ことばである。これに信頼して、従うとき、祈りの力 が解放され、神の豊かな祝福を経験する (ヨハネ 15:7)。 今日も、時と場所を越えて変わらない まことのぶどう の木 の偉大な力に目を注ぎ続けたい。 !#( 4 April ● 月日 祝福の原点 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふ たりは一体となるのである。(創世記 2:24) 家庭 の原点は夫婦である (創世記 2:24) 。リバ イバルのことを祈り始める時、主は 家庭 や、夫婦 の関係を取り扱われるように思う。 リバイバルは、圧倒的な力で訪れるが、どこか遠い ところから飛んで来るものではなく、私たちの内から、 すなわち 家庭 から来る。あなたの家庭が、愛の 家、 祈りの家 (イザヤ 56:7) となるようにと願う。 どんなことが起こったとしても、 「最後は夫婦二人で 祈るしかない…」。これは、 ある伝道者が言った言 葉であるが、 スタートの最小単位は夫婦である。そ れが家族の祝福の源であり、地域の祝福、教会 の祝福となって広がって行く。 それが実現するとき、天が大きく開かれるのである。 その時を待ち望みつつ、 祈る。 !#) 5 May たいせつなのは、 植える者でも水を注ぐ者でもありません。 成長させてくださる神なのです。 ─Ⅰコリント3:7 ─ 5 May ● 月日 教会成長への希望 彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟 子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ば れるようになった。(使徒 11:26) 米国カリフォルニアのカルバリーチャペルは驚異的 に成長しているが、大きな感動と関心を持っている。 それは、この教会の特徴が奇跡的な業の現れに あるのではなく、み言葉によって教会員を養うところ にあること、礼拝メッセージは聖書講解が基調に なっていることを見たためである。 教会には温かさがあり、 愛と賛美に溢れ、 敬虔であ りながら、カジュアルな雰囲気が満ちている。この 教会を現代のアンテオケ教会(使徒 11:26) と呼ん でいいだろう。聖書に記されているアンテオケ教会 は過去のものではなく、しかも単なる理想教会でも ない。 我々も、 アンテオケ教会を目指そうではないか。 !$" 5 May ● 月日 主よ、 今こそ御国を そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスに こう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために 国を再興してくださるのですか」。(使徒 1:6) 御国を来たらせ給え と祈るのは、リバイバルを期 待しているからであり、より具体的には教会に神の 国の力が鮮明に現れるように願うからである。リバ イバルという言葉には、爆発的なものを感じさせる 響きがあるが、 これによって教会成長が実現するわ けではない。教会の成長は奇跡によってもたらさ れるのではなく、み言葉によって養われ、 しかも御霊 に導かれる信徒が増やされることによって実現する はずである。 一見地味に見える聖書通読は、大きな力になるは ずである。教会ぐるみで聖書を通読することによっ て、 み言葉の真理が生活に (エペソ4:20-25) 生か されて、 奉仕に生きる (エペソ4:12) はずである。 !$# 5 May ● 月日 五旬節の日 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 (使徒 2:1) ペンテコステ とは、50日という意味で、旧約聖書 では過越祭の安息日の翌日から数えて 50日目に 祝われる収穫感謝祭のことを意味している (レビ 23:15,16、出エジプト23:16)。 過越祭の安息日の夕暮、イスラエル民族の救いの 象徴となった小羊がほふられた(出エジプト12:3- 14)。安息日の翌日の日曜日、収穫の初穂の束が 神の御前に献げられ、 それから50日、 収穫を終えた 時がペンテコステとして祝われたのである。 新約の時代になって、神はこの日に照準を合わせ て、収穫の御霊を教会に注がれた。つまりこの日 から50日前の安息日に主は十字架にかかって死 なれ、葬られ、 そして翌日の日曜日に初穂として死か ら復活されたのである。 ペンテコステは十字架の必然の結果なのである (使徒 2:33)。 !$$ 5 May ● 月日 すでに神は すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前か らキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者に しようとされました。(エペソ1:4) エペソ人への手紙の中にはパウロの二つの祈り (1:16-23、3:14-21)がある。ここから、教会の姿 (1:23) と十字架の恵み(1:20-22、2:5-6) 、さらに 聖霊の力について教えられる。 十 字 架のプロセス (1:20-23)を通して教 会が (1:23、1:3)誕生した。その教会がキリストの愛に 満ちるためには、教会の一部である聖徒が信仰に 励まされる (1:19、3:17)必要がある。 十字架の奥 義に目を開いて (1:17-18) 信仰を生み出し、 強めて くれるのは聖霊である (1:9、3:16,20) 。私たちが 何かをする前にすでに神の選びがあり (1:4) 、愛が あり (1:5、 2:4、3:19)、聖霊の働きがあるのである。 神はいつも 「すでに」働いている。 !$% 5 May ● 月日 完成を完成する 神は七日目について、ある個所で、 「そして、神は、 すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言 われました。(ヘブル 4:4) ヘブル人への手紙の鍵言の一つは「完成」であ る。すなわち、救いの法則は天地創造の法則と 同じようにすでに完成しており (4:3,4) 、その事実に 個人の信仰を当てはめ、安息して成長せよと言う のである (4:2,10,11)。それがキリストの深みにいた る秘訣である。 その完 成された手 順、すなわち救いは、キリス トの十字架によって完成している (1:3、2:10、7:27、 9:12,26、 10:10,14) のである。キリストはこの完成者 であり、しかも今なお大祭司として生きておられる方 (4:14、7:24) である。 このキリストと結びついて歩む生活が、 「完成」の道 程である。 (7:25、 4:14-16、10:19-22、12:2) !$& 5 May ● 月日 母なる神 女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子 をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れて も、このわたしはあなたを忘れない。 (イザヤ 49:15) 神は父として表現される (エペソ3:15) ことが一般 的であるが、母なる神を意味することもあるように思 う。 エル・シャダイ…全能の神…と言う言葉の中の 全 能 には十分という意味がある。神がアブラハムに 「完全であれ」と勧められたとき、 私は全能の神 である ということを意味していた。すなわちすべて のことにおいて十分であり、供給者であることを保 証したのである。しかもそれを確かなものとして約束 された(創世記 17:1)。神が全能であるという表 現には、 母なる響きと味わいがある (イザヤ 49:15) 。 これを味わいたい。 !$' 5 May ● 月日 お竹さん 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、 わたしの弟子になることはできません。 (ルカ 14:27) ある集会で、宣教師のことを お竹さん と通訳した 方がおられたが、あまりにも適切な表現で感心した。 宣教師は根から切り離され、枝が切り払われ、最 後に節をくり貫かれて水路となる竹と同じであるとい うのである。 宣教師は、まず便利で文化的な生活環境から切 り離され、しかも複雑な人間関係から自由にされ、 全く異質な文化の中で内面の葛藤を経験しなが ら、どのようなものも受け入れることが出来るように訓 練され、不必要なプライドや熱心さは粉々に打ち 砕かれ…そして初めて神の恵みを伝える器として 用いられるという。 お竹さん が、良き宣教師の愛 称になってほしいものである。 実は、 この愛称はすべてのクリスチャンが受けるべき であろう。神の恵みを流す良きパイプは成長の結 果できる者 (ルカ14:26,27,33) だから…。 !$( 5 May ● 月日 信仰の道 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 (ヨハネ4:6) クリスチャンの信仰は決して主観的なものではない。 客観的なものであり、一つの基準に照らし合わせら れる行為にある。その基準とは、キリストが十字架 を通して完成された「道」 (へブル 10:20) そのもの である。 「信仰の創始者、完成者であるイエスから目を離 さないでいなさい」 (へブル 12:2) と勧められてい るが、 これは「道」 であるキリストと結びついて生活し なさいとの意味である。キリストは死と葬りと復活の 道を通って天に昇られ、 すべてを完成した者である から、 私達も死と葬りと復活を通って天に至っている (エペソ2:6) のである。これを確認しよう。 あなたは、神の臨在の前にある。その領域こそが 信仰の道なのである。(へブル 10:19-22) !$) 5 May ● 月日 新しい酒と新しい皮袋 人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなこ とはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、 ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってし まいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、 両方とも保ちます。(マタイ9:17) 人々は、聖霊に満たされた弟子達を新しい酒(甘 い酒) に酔っているとあざけり笑った (使徒 2:13) が、 その言葉は真理を説明するために適切なもので あった。 主イエスは、新しい酒は新しい皮袋にと言われた (マタイ9:17)が、これは発酵中の新しい酒は膨 張するので、 柔軟な新しい皮袋でなければならない ことを言ったのである。古びた皮袋は伸びきってし まって、 新しい酒に順応できないからである。 飢え渇くところに御霊は常に新鮮であり、新鮮な器 は御霊を生かすのである (ヨハネ7:37,38) 。各自 の皮袋を点検しよう。 !% 5 May ● 月日 『間』 と安息 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分 がその力量にふさわしく働く力により、また、備えら れたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わ され、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てら れるのです。(エペソ4:16) しばしば、日本文化の一つの特徴は 『間』 であると 言われ、多くの人は『間』 という空間でお互いに理 解し合うとも言われる。例えば、 「以心伝心」 という 言葉はその典型的な表現である。 御霊による一致は、教会の交わりの特徴であるが、 これは、このような『間』の中に生まれると言う表現 も可能と思われる。クリスチャンそれぞれが、神様 の中に安息して(へブル 4:10) 、沈黙する空間を 大切にしなければならない。まず、神との親しい交 わりの空間を実現して、人との間の 『間』 を生み出 し、 その結果としてダイナミックな働きが可能となる。 !%! 5 May ● 月日 宣教活動の3要素 あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕 を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強 固にせよ 。(イザヤ 54:2) 多くの教会の活動を支えているものは、セルと呼ば れるような、小さな組織単位や地域ごとに区分した 小グループや、会衆 (青年会、婦人会、壮年会) と呼ばれる年令や性別によって構成するグループ、 そしてこの 2つを統合する祭典としての礼拝である。 私たちの教会もこの理念に沿ってその働きが組織 化されてきた。中でも教会学校を会衆の一つに 位置づけているのは、あまり例をみないものと思って いる。教会学校は教育のための 学校 ではない と考えるからである。 この三つの分野を有機的につなぐための祈りの ネットワーク。これが課題である。 !%" 5 May ● 月日 拡大宣教 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜び をもってみことばを受け入れ、私たちと主とになら う者になりました。(Ⅰ テサロニケ1:6) テサロニケの教会は使徒パウロが特別に愛した 教会の一つである (Ⅰテサロニケ2:7-8) 。激しい 迫害下であるにもかかわらず、短期間に非常に純 粋な教会が誕生したことは (使徒 17:1-10) 、宣教 者パウロにとってどんなに大きな励ましであったこと か。聖書はそれを伝えてくれる (Ⅰテサロニケ1:6-8、 2:13、Ⅱテサ 3:1)。 宣教は本来、 見返りを求めない愛によって進められ る。しかし当然ながら、多くの人々との新鮮な出会 いをもたらし、その結果として宣教するものは感動と 喜びを経験する。これが教会を生みだし、教会を 助けていく動機である。 宣教の拡大は、 教会の若さを保つ秘訣である。 !%# 5 May ● 月日 母の存在 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことば をまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人 として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。 (Ⅱ テモテ 2:15) 母なる国 、 母なる大地 、 母なる海 などと呼ば れることが多いが、母の存在に意味づけは不要で、 愛するものであり、存在そのものの重要性にあると 思われる。 ゴルゴタの丘の十字架のそばに母マリヤがいた。 あの存在はイエスにとってどれほど大きな力になった ことであろうか (ヨハネ 19:25) 。また、 テモテが純粋 な信仰を持つようになったのも、母の存在が大きく 影響したと言われている (Ⅱテモテ1:5) 。 愛する者が、そこに存在しており、しかも祈っている 姿が、 強さをもたらす。 母を思う心から、神を思う心が育まれる。命の源 であるからである。 !%$ 5 May ● 月日 健康な教会の条件 私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔 にかなう教え。(Ⅰ テモテ 6:3) 健康な教会には、み言葉に土台を置いた健全な 教えがなければならない (Ⅰテモテ6:3、Ⅱテモテ4:3、 テトス2:1-15)。もしみ言葉を教えなければ、みんな 自分勝手に振る舞うようになってしまい、不健康に なるからである。 教会の健康には、秩序が必要である (Ⅰテモテ3:1- 13、テトス1:5-9)。これは組織と言ってもよい。ここ には、長老や執事について記されているが、単に 特定の人のことだけを言っているのではなく、そのよ うな働きについて教えていることに注意すべきであ る。すなわち健康な教会にはリーダーが不可欠 なのである。健康な教会は、その条件をみ言葉に よって知ったクリスチャンによって建て上げられる。 健康な教会となるよう祈ろう。 !%% 5 May ● 月日 日本列島のための7千人 バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わ たしのために残してある。(ローマ 11:4) 北海道の札幌の街に立って祈っていると、日本列 島をはるか沖縄まで見渡す様な不思議な感覚に なる。 多くの宣教師がこの街を好むことを聞いていたが、 ここを訪れて、何かがあるような気がした。北大を 育てたあのクラーク博士のスピリットが今も息づい ているのであろうか。 ここにアジアから世界を視野に入れてリバイバルを 祈り励んでいる聖徒達がいる。神は、沖縄から北 海道に至る多くの地に、御自身の「7千人」を選ん でおられる。 あなたには、今日、その 7千人の一人になっている 確信があるか? !%& 5 May ● 月日 神の祝福 リベカは…主のみこころを求めに行った。 (創世記 25:22) リベカは胎内の双子のことで主の御心を求め(創 世記 25:22,23) 、 神様の声を聞いた。彼女がその 後ヤコブを愛して特別扱いしたのは、人間的には 不公平なように見えるが、神のみこころを知った結 果であった。 一方、 エバは長子が生まれた時、 大きな期待をもっ てその子にカイン(勝ち取ったという意味) と名付け た。そして、次に生まれた男児にはアベル(空しい という意味) と名付けた。彼女は、次男にはさほど 大きな期待を寄せなかったのであろうか(創世記 4:1-5)。 ヤコブは母の期待通りの人となり、カインはその逆 の人生をたどった。何故であろうか?親の期待を 子供にかけるのではなく、神の用意しておられる祝 福こそ子供の将来を保証する鍵なのである。 !%' 5 May ● 月日 最善のささげもの マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百 グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛 でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっ ぱいになった。(ヨハネ12:3) 香油を注いだこのマリヤは、単なる思いつきの行 為を行なったのではないと思われる。心の準備が あって決心したであろう。そのために、彼女には、 動揺もなく、恐れもない。高価なものを惜しげもなく イエス様の頭に注ぎかけた様子がわかる。そこに は少しの打算もない。これは愛の行為である。 最善のものをささげた…その時のこの香りは、母が 自分の子に注ぐ愛である。母によって、打算では 無い愛が実践され、家庭に広がる。なんと美しい 香りであろうか。 このすばらしい福音の香りを感謝しよう。 !%( 5 May ● 月日 預言の重要性 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わた しはあなたがたのうちに新しい霊を与える。 わた しは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉 の心を与える。(エゼキエル 11:19) エゼキエルは、いくつかの重要な預言を示したが、 いくつか心に止めておきたい事がある。 たとえば、サタンの生い立ち (28章) 、彼の終末時 の動き (38,39章) 、反キリストの主要な舞台となる (Ⅱテサロニケ2:4)第 三 神 殿の設 計 図(40-42 章)。これらは、クリスチャンにとってとっての重要な 基礎知識のひとつである。 今日の聖霊の時代も預言している (11:19) 。これ も重要である。全ての人を生かす聖霊(47:9) の源はキリスト者に実現している現実である。こ の源にそれぞれの心を絶えず全開にしよう (エペソ 5:19)。 !%) 5 May ● 月日 教会は… 教会はキリストのからだであり、いっさいのものを いっさいのものによって満たす方の満ちておられる ところです。(エペ 1:23) 「教会」 をテーマにすると、 1. 神は教会を喜ばれる 2. 教会は天使達を喜ばせる 3. サタンは教会を恐れる 4. 教会こそこの世の証人 5. 教会は聖霊のチャンネル というコピーができる。 これからの教会を考え、祈る時に、大切なヒントを与 えてくれるように思う。 これから、 教会の時代が来る。 !& 5 May ● 月日 神の愛と母の愛 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。 神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造さ れた。(創世記 1:27) 親はどうして子どもを愛するのだろうか?それは自分 自身の分身だからである。 神は大きな愛の故に御自身の分身として、自分を 映し出すものとして人を造られた。ご自分の分身 であるが故に、 人を愛してやまないのである。 ひとり子を犠牲にされるほどの愛を持って、 これを救 われた。母の愛はそのような神の愛の反映である。 この宇宙に、愛のあることを感謝しよう。それを感じ させてくれる母のために感謝しよう。 !&! 5 May ● 月日 神殿の材料 彼らは、戦いで得た分捕り物を、主の宮を修理する ために聖別してささげた。(Ⅰ歴代誌 26:27) ソロモンが建てた神殿の材料は、戦いにおける戦 利品であり、イスラエルがモーセと共にエジプトを出 る時にも、彼らから奪ったものを持っていた(出エジ プト12:35,36)。彼らが、 礼拝のための幕屋を作っ た時の材料も同様であり、 さらに、 イスラエルの民の 自発的なささげ物であった(出エジプト35:21-23) 。 彼らは、喜んで、自発的に、 「会見の天幕の仕事 のため、また、そのすべての作業のため…主へ の奉納物を持って来た。すべて心から進んでさ さげる男女は、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、す べての金の飾り物を持って来た」。(出エジプト 35:22) 霊の教会を建て上げる時の材料も同じである。サ タンからの戦利品、すなわち各自に与えられている 賜物と、聖徒と呼ばれている自発的奉仕者である。 (エペソ4:12Ⅰペテロ2:5 エペ 2:20-22) !&" 5 May ● 月日 幕屋、 神殿、 教会 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたし があなたに示すのと全く同じように作らなければな らない。(出エジプト25:9) 幕屋の設計図は神御自身が、詳細にイスラエルの 民に示された (出エジプト25:9、25:40、27:8) 。彼 らはそれに従って建設した。 教会の設計図も同様である (エペソ2:19-22) 。 教会はキリストの上に建てられ、 「あなたがたは使 徒と預言者という土台の上に建てられており …」、 「御霊によって神の御住まいとなり」、その 結果、旧約の時代には「雲は会見の天幕をお おい、主の栄光が幕屋に満ちた。」 (出エジプト 40:34) のである。 新約時代の教会は、キリストのからだであり、キリス トが満ち満ちている所である (エペソ1:1-23、コロサ イ2:10)。 !&# 5 May ● 月日 母の愛 主よ。ダビデの子よ。 私をあわれんでください。 娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです 。 (マタイ15:22) 「母の日」に母の愛を考えよう。そして感謝の気持 ちを新たにしよう。 母の愛には、いつも大きな犠牲が伴っている。母 の愛は、 そのものが喜びであり、 報酬である。どのよ うなことが起こっても、 その愛故に、 あきらめたりするこ とは無いのである (マタイ15:22-28) 。 神の愛も、どのようなことがあっても、変わることは無 い。そのために、 しばしば、本当にそこまで愛する? と叫びたくなるような行動をみることがある (ホセア 3:1、 ルカ15:20)。 そのような神の愛が、 御霊によって注がれている (ローマ5:5)。 !&$ 5 May ● 月日 力と愛と慎みの霊 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょう の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。 (Ⅱ テモテ 1:7) 力と愛と慎み という相反するようなこの言葉は、 時 として戸惑いを覚えるが、母親の生活を見ていると 理解できるような気がする。この力とは、瞬間的な パンチ力のようなものではなく、持続的な力(Ⅱテモ テ1:3) を意味するからである。 「車に例えれば、力はエンジン、愛はハンドル、つつ しみはブレーキだ…」 と言われるが、つまり、 これらを 巧みに操縦することができればよい。それが御霊 の役目である。 子どもたちに対する愛の表現には知恵が必要であ る。力の入れ加減や、そのサジ加減は簡単では ない。いつも生活の中における様々な葛藤やうめ きがありえるが、信じて動かず、とりなしている必要 がある。その時大切なのは、臆病の霊ではなく、 力 と愛と慎みの霊なのだ。 !&% 5 May ● 月日 霊の視点 いかに幸いなことでしょう。 心に広い道を見てい る人は。(詩篇 84:5、共同訳) ペンテコステの日に起こった事によると、圧倒的な力 によって聖霊は上から臨んだといわれているが、聖 霊は、その人の内より溢れるとも表現されている (ヨ ハネ7:38)。 十字架は人の心に臨在への道を開く。すなわち、 主は死、葬り、復活、昇天と、階段のように場を変え て、神に至り栄光を受けられ、その結果として臨在 がある。。 信仰はキリストの中にある認識と聖霊の実感であ る (ローマ8:2) が、この確信に立って行動するとき、 聖霊が働いて奇跡が起こる (マルコ16:20) 。 いつも十字架の道、すなわち主の臨在を見ている 人は幸いである。 !&& 5 May ● 月日 ヨナのしるし 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預 言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられま せん。(マタイ12:39,40) 預言者ヨナは、 「主に祈って言った。ああ、主よ。 私がまだ国にいたときに、このことを申し上げた ではありませんか。…私は、あなたが情け深く あわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊 かであり、わざわいを思い直されることを知って いた」 (ヨナ 4:1-2) と言っており、 神が全ての人々を 愛しておられる方であることを、 彼はよく知っていたこ とが分かる。 彼は広い視野をもった器であり、 だだっ子 のよう な態度は、神との親しみを表しているとも言えるであ ろう。神との深い親しみは、広い視野を与えるので ある。 ヨナが魚の腹から生還したことがニネベの人々にし るしとなったように、キリストの復活が宣教の原動力 なのである。 !&' 5 May ● 月日 喜びは… いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。 喜びなさい 。(ピリピ 4:4) 主イエスは人としてこの地上を歩まれ、当時の社会 でさげすまされている多くの人の中に、ご自身を表 された。悲しみや苦しみ、弱さのために嘆き悲しん でいる人々の中に主イエスが来られ、そこを喜びに あふれる所としてくださった。 ところが、自分の弱さを見せることのなかったパリサ イ人や律法学者に対しては違っていた。彼らは自 分を義とし、 表面的な喜びを追い求めたために、 主 を十字架に追いやってしまった。 「あなたはこのことを信じますか」 (ヨハネ11:26) と、 今日も語っておられる言葉に耳を傾けよう (エペソ 1:18,19)。 そして高らかに私たちの主を喜ぼう (ピリピ 4:4) 。 !&( 5 May ● 月日 教会により、 キリストにより 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、 世々にわたって、とこしえまでありますように。アー メン。(エペソ3:21) このみ言葉には、まず教会が書かれ、その次にキリ ストと書かれている。これには意味がある。教会 は、神を信じている者がたまたま集まった人の集団 ではない。「神は、ただみこころのままに、私たち をイエス・キリストによってご自分の子にしようと、 愛をもってあらかじめ定めておられた」 (エペソ 1:5) と言われ、摂理によって集められた人の集りで ある (使徒 13:48 、 Ⅰペテロ2:9) 。 クリスチャンの使命は 教会を共に建て上げること である (エペソ1:18,23、2:21-22、 Ⅰペテロ2:5) 。そ のために信徒が聖なる祭司となって、それぞれの 個性が生かされ、生きる意味が明確にされる (Ⅰペ テロ1:5、 ローマ12:4,5)。 教会のビジョンを共有し、責任を分かち合い、喜び を共にするものでありたい。 !&) 5 May ● 月日 ペンテコステ…外から あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙 であり・・石の板にではなく、人の心の板に…。 (Ⅱ コリント3:3) 今日、ユダヤ教徒たちはペンテコステを、シャブオッ トとして祝うが、これは聖霊降臨を記念するので はなく、この日に十戒がモーセを通してイスラエル民 族に与えられたことを意味している。イスラエルの 民がエジプトから出てシナイ山のふもとに到着した のがペンテコステであった(出エジプト19:1)が、こ の日は彼らにとって記念すべき 律法の日 と考えて いるからである。 実は、聖霊が来られた重要な目的の一つは真理 のためで、その真理とはキリストであり (ヨハネ15:26、 16:14-16)、キリストとは十字架である (ヨハネ16:8‐ 11)。 この時、単なる文字であった神の言を律法から、 い のちとして人々の心に受肉させ (ヨハネ1:14) 、新し いライフスタイルを与えたのである。 !' 5 May ● 月日 ペンテコステ…上から すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような 響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 (使徒 2:2) ペンテコステの体験は、上から臨む (使徒 2:2) と同 時に、 内から溢れる (ヨハネ7:38) ものでもあった。 これは、十字架のみわざを完成された主の栄光 が、 人のものとして臨むことであり、 天的領域を体験 させるものである。言い換えると、神は、主イエスの 経験を人のものとしてくださり、新生している者のう ちにすでに内住しておられる御霊(ローマ 8:15,16) が溢れるという現象を伴って証ししてくださる (使徒 2:1-4)。これが聖霊のバプテスマである (使徒 1:5) 。 この時与えられる異言は、様々な文化的背景のあ る人々に、共通の言語感覚を与え、その違いを超 えて一致を可能にする力がある (Ⅰコリント12:13 エ ペソ4:3)。言語に混乱があった (創世記 11:1-9) ところを、 聖霊は回復されたのである。 !'! 5 May ● 月日 主がともにおられる エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その 子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだっ た。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。 この者がそれだ」。(Ⅰサムエル 16:12) ダビデはサムエルを通して油注ぎを受けた(Ⅰサム 16:12)。それで十分であった。その日以後、彼に 新しい油注ぎは不用であった。ゴリアテとの戦い の時も、改めて油注ぎをすることは必要ではなかっ た。彼は「主がともにおられること」を信じ、彼 の使いなれた石投げを手に、立ち上がった(Ⅰサム 17:37、17:45) だけである。 実は、 あなたにはすでに油が注がれている。主がと もにおられる…そのことを信じるかどうかが問われて いる。あなたには万軍の主がおられる。 「イエス・キリストは、 きのうもきょうも、いつまでも、 同じです。」 (ヘブル 13:8) 。 !'" 6 June 御霊の実は、 愛、 喜び、 平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、 柔和、 自制です。 ─ ガラテヤ 5:27-28 ─ 6 June ● 月日 ペンテコステ すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような 響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 (使徒 2:2) ペンテコステのリバイバルは突然に起こったが、偶 然に起こったのではない。神はそのことを計画して おられ(使徒 2:16-18) 、十字架によってその条件 が整えられた (2:32,33)。 そして、教会は心を合わ せ、 祈りに専念していた (1:14) のである。 リバイバルの接点は神の主権と十字架の保証、そ れに教会の祈りである。リバイバルは持続し、初 代教会は発展した。その条件は一致にあった (2:42,46)。 ヨハネス・ファシウス師は、 御霊の奇 跡的な働きは、御霊の賜物によるのではなく愛の 一致から生まれる と言われた。 祈りは愛を確かめるために神の御前に心を開く不 断の姿勢である。天からのリバイバルを待ち望もう。 !'$ 6 June ● 月日 父なる神 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべて の人のために、また王とすべての高い地位にある 人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげ られるようにしなさい。(Ⅰ テモテ 2:1) 御国を来たらせ給え と祈る時、歴史の支配者で ある神がその摂理の御手をもって、世界を、この国 を、教会を、家庭を、仕事を、私を導き祝福して下 さい、 との思いが込められている (Ⅰテモテ2:1) 。 大局的な視野に立ったそのような祈りこそ、壮年男 子の使命である (Ⅰテモテ2:1,8) 。それはまた、安 定した生活の秘訣でもある (Ⅰテモテ2:2) 。 神は唯一であり全能なるお方、 そして誰も近づくこと の出来ない方でありながら (Ⅰテモテ6:15,16) 、 キリス トを通して身近な方となった(Ⅰテモテ2:5,6)のであ る。 !'% 6 June ● 月日 すると突然 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 すると突然…。(使徒 2:1,2) 最初のペンテコステはこのようにして起こった。新し い時代の幕明けであった。 以前開催された世界宣教会議(GCOWE) の中 心課題は AD2000年までに、1,000の人口に一つ の教会をというものであったが、 これを日本に当ては めると12万の教会になる。一見して不可能に見え ることを可能にするために、天からの超自然的な介 入を待つことは大切である。 今、 多くの国にそれが起こりつつある。インド北部に ある釈迦の生誕地で、長年宣教師の墓場と言わ れてきたウッタープラデシュ州がある。ここでも新し いことが起っているという。 日本にも、 「突然」 そのことが起こることを期待したい。 !'& 6 June ● 月日 恵みを学ぶ 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満 ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわら ず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったの です。(Ⅱ コリント 8:2) 私達は、 多くのプログラムを作って、 そこに御霊が働 いてくださることを期待するが、 そのことが、 御霊の働 きを閉じ込めることになってしまうことがある。本来 は、御霊のプログラムに私達が従うべきなのに…で ある。 ある方が 愛されていることを学べ と言われ、 祈る のではなく、ただ受けることを期待せよ とも語られた。 「初めの愛」 (黙 2:4)に帰るとは愛する努力では なく、 愛されているという理解にとどまることである。 「あふれ出て、惜しみなく施す富」 (Ⅱコリント8:2) はその結果である。ただ受けることを幼子に学ぼう。 主よ、 今、 幼子の信仰を与え給え。 !'' 6 June ● 月日 愛されていること 神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。 私 たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平 安があなたがたの上にありますように。 (ローマ 1:7) 成長する、与える、生み出す という言葉が、私た ちの教会のモットーとして与えられた宣教理念であ る。これは、 み言葉にかける という姿勢から来て いるが、ふと気が付くと、いつのまにか肩ひじを張っ て、時には肩をいからせてこのスローガンを振りかざ している姿を見て愕然とする。 与えることに自己満足してしまう…。本当は与えるこ と以上に,与えられることを知らなければならないの に…それを忘れている自分に気づく。 愛されていることを学ぼう。 !'( 6 June ● 月日 目を上げて さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて 畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっ ています。(ヨハネ4:35) 最近、私たちに語られている預言の一つは、収穫 が多い ということである。聖書は、収穫はすでに 備えられていると語っている。収穫のためにではな く、 働き人のために祈れ と主イエスは言われたが、 これは必要を持っている人が多いこと (マタイ9:36を意味している。 38) サマリヤのスカルの町で必 要を持った一 人の 女 性(ヨハネ4:13) 、ピリピにおけるルデヤ( 使 16:14,15) は、 このことを物語っている。救いの証し を持って、 そのような人たちに出会うことが伝道であ る。 目を上げて すでに収穫のただ中にあることに 目が開かれる必要がある。 福音がどんなに深遠で、かつ実際的な内容であ るかに目が開かれなければならない(エペソ1:17- 23)。 !') 6 June ● 月日 私には乏しいことがない 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 (詩篇 23:1) この詩篇は私たちの一日の歩みを表しているように 感じる。すなわち、 「主はその愛する者には、眠っ ている間に」 (詩篇 127:2)備えて下さり、新しい日 が始まる。そして、私を豊かな、緑の牧場に連れて 行き、水のほとりに伴われる。そこで、私は、主との 親しい交わりの日を過ごすのである。 キリストにあって主の臨在を楽しみ、主をあがめ、祈 り、み言葉を黙想すると、主が備えて下さった霊 的祝福が満ちてくる。その恵みを受け取り (イザヤ 30:15,18)、私のたましいは生き返る。 神より平安と知恵が溢れ出し、愛による勝利が私 を包む。主はそこにおられる。主は先廻りして待っ ておられる。 いつくしみと恵みとは追ってくる。 !( 6 June ● 月日 約束 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべて の営みには時がある。(伝道 3:1) 神はモーセに、足の裏で踏む所をことごとく与える (申命記 11:24) と語られた。その約束は、ヨシュ アに受け継がれ (ヨシュア1:3) 、戦いの後に成就し た (ヨシュア11:23)。 すべてのことに時がある (伝道者 3:1) 。神の約束 の実現は人間の尺度では測りきれない。神への 信頼がなければ待つことができない。だからこそ一 瞬一瞬を委ねることに価値があり、そこに聖霊が働 かれるチャンネルが開かれる。 ロンドンで始められたマーチフォージーザスがまた 開催されるという。世界中の聖徒が十字架の勝 利の約束を信じて町に出て行く時となることを期待 する (コロサイ1:6)。 !(! 6 June ● 月日 光と影の国 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラ エルと名づけた。(創世記 33:20) 最近イスラエルでは遺跡の発掘が盛んだと聞く。 それが進むと、聖書の史実が明らかにされるはず であると思うと、嬉しい気持ちと共に、 ロマンがかきた てられる。 しかしながら,聖書に記述されている民族の歴史 はロマンにはほど遠く, 流浪と迫害でうめられている。 やっと手にした国を失いたくない、 トーラ (モーセ五 書)を中心にした国造りに励みたい…そのような切 迫感がみなぎっている。古い歴史の国イスラエル。 重い歴史を背負った民族… イスラエルはロマンと現実の厳しさ、つまり光と影が 交錯する不思議な国である。 !(" 6 June ● 月日 二つの選民 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをの ろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。(創世記 12:3) イスラエルは、神の恵みを世界に伝える器として選 ばれた。アブラハム以来、ユダヤ人はそのことを自 覚して今日に至っている (創世記 12:3、出エジプト 19:5-6)。 彼らは聖書の基となり、救い主を生みだし,彼らの 失敗も世界の富となった(ローマ 11:12) 。彼らは 選びのゆえに苦難と迫害を受けるが、最後は救い をもって報いを受ける (ローマ11:25-26) と言われて いる。 教会とイスラエルは神によって生まれた(ローマ 11:17)。その選びはキリストの花嫁となるためであ る。新天地において 2つの選民は共に神の栄光 と祝福の中で調和するであろう。 マラナ・タ。 主よ来たりませ。(Ⅰコリント16:22) !(# 6 June ● 月日 ペンテコステと教会 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてく ださるとおりに、他国のことばで話しだした。 (使徒 2:4) 聖霊が下るとき、力を受ける。この力は新しい言葉 を通して与えられた(使徒 2:1-4) 。霊的なことが、 言葉を通して表されることは、考えてみれば不思議 なことである。「ことばは人」 (ヨハネ1:14) とあるが, それは人格の中心、表現であるためである。その 中心を御霊が支配されたのである。 異言は御霊が主導権を持っておられることの証し であり、全人格が御霊の主導権に浸されるゆえに、 聖霊のバプテスマ (浸し) とよばれるのである。 聖霊が支配される、 その中に生き、 聖霊に満たされ た教会となって、地の果てまで主の証人となるため にペンテコステがある。 !($ 6 June ● 月日 王なる祭司 あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖な る国民、神の所有とされた民です。(Ⅰペテロ 2:9) 1970年代に世界中に広がったカリスマ運動は今 世紀における代表的な聖霊のみわざのひとつであ る。これを通して、私達の教会も大きな恵みを受け、 教会の からだ意識 は、この頃に確立し、教勢は 2倍、3倍となった。上記のみ言葉はこの流れの 特徴を示している。 万人祭司 は、宗教改革の中心教理でありなが ら、一部のグループや、イデオロギーとしてとどまって いたように思われるが、400年余後になって実体と なったのである。 私達は今、歴史的なこの流れの中にある。 みん なで造る礼拝 、 みんなが祭司 …そのような教会 を実現しよう。 !(% 6 June ● 月日 殉教者の遺言 その手紙の中には理解しにくいところもあります。 無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所 のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解 し、自分自身に滅びを招いています。 (Ⅱ ペテロ3:16) ペテロ第2の手紙は、 パウロによるテモテ第2の手紙 と並んで殉教直前に書かれた使徒絶筆である。 この二つの手紙の共通点は、み言葉の権威が強 調されていることであり (1:19-21、3:5-7) 、当時すで にペテロがパウロの手紙を 聖書 として、その権威 を評価していたことは非常に興味深い(3:16) 。こ れらの手紙は簡素であるが、鋭くポイントを突き、新 しい教えではなく、すでに知っている真理を新鮮に せよと勧めている (1:12、 3:1) これは教会が常に必要としていることである。特に 歴史の中で変換点を迎える私達の教会にとって 重要である。 !(& 6 June ● 月日 勝利の原動力 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つ からです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝っ た勝利です。(Ⅰヨハネ 5:4) 「初めに帰る」、 「原点にとどまる」 という言葉が、 ヨハ ネ第一の手紙の鍵の言葉である (1:1、 2:7、2:24)。 使徒ヨハネは、 彼の晩年にこの手紙を書いたが、 そ の時教会は安定し、成熟したクリスチャンが多くい た。その彼らに、実に初歩的な教えを説いたので ある。信仰の基本に忠実であることが、当時教会 に忍び込みつつあった異端に対する最も有効な 対抗策であった。 この原則は、今でも変わらない。勝利の原則は、 基本に忠実な歩みを確実にすることである。この 信仰こそが世に勝つ原動力なのである。 (5:4) !(' 6 June ● 月日 教会と聖霊 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神 によって生まれたのです。生んでくださった方を愛 する者はだれでも、その方によって生まれた者をも 愛します。(Ⅰヨハネ5:1) 血は水よりも濃いという言葉がある。家族や親戚 のつながりが強いことを言った言葉であるが、クリス チャンのお互いの関係は愛することにより、とても強 いと思われるが、 決して義務的なものではない。 これは、家族のつながりを持った者に与えられてい る本能と言ってもよい(Ⅰヨハネ5:1) 。クリスチャン が神の家族であるのは、神の御霊による。神の家 族であるクリスチャンは神の 軍隊 と言ってもよく、 一人一人はその兵士であり、聖霊のバプテスマは そのための武装とも言えよう。 教会に命と、 力が燃え上がるように、 御霊を待ち望も う。 !(( 6 June ● 月日 結び目 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分 がその力量にふさわしく働く力により、また、備えら れたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わ され、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てら れるのです。 (エペソ4:16) 教会の使命は、 「ある人を使徒、ある人を預言者、 ある人を伝道者、ある人を牧師また教師」 (エペ ソ4:11) と言われているような5つの領域にわたって おり、 聖徒達を奉仕に整えるという目的がある (エペ ソ4:11-12)。 キリスト、からだ、各部分の三点を結ぶ役割が、結 び目となるリーダーに与えられている (エペソ4:16) 。 その信仰に立つ人が必要である。 備えられた結び目である、リーダーのために感謝し よう。 !() 6 June ● 月日 父になろう あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなた を多くの国民の父とするからである。(創世記 17:5) アブラハムは父の模範と言ってよい。それは、神の 真実に対する揺るぎない信仰を持っていたという 事実の故である。 彼は御声に従って、見知らぬ地への冒険にチャレ ンジした(創世記 12:4)。彼は子供の誕生のため に、不可能に思えることを25年間も信じ続け、つい にイサクを得た (ローマ4:18) 。しかも、 そのイサクを 犠牲にすることを決心した。 彼の行動は、盲信でも盲従でもなく神との信頼 関係から生まれた当然の結果であった(ヘブル 11:17-19)。信仰こそ、父としての第一の資質であ る。 父たちよ、 父になろう。 !) 6 June ● 月日 神の都 町の周囲は一万八千キュビトあり、その日からこの 町の名は、 『主はここにおられる。』 と呼ばれる。 (エゼキエル 48:35) エゼキエル書は神の都に関する記述で終わるが、 黙示録もまた同様である (21,22章) 。両者には 違った出来事のことが書かれてあるが、神の都に ついて記述され、神がその中心におられることを共 通として記述されている。「アドナイ ・シャマ:主はこ こにおられる…」 という町の名がそのことを示している (48:35)。 主の住まいはどこにあるのか? この地上における教会こそ神の都である。教会は 神の住居であり (エゼキエル 2:21,22章) 、賛美は その神の臨在を明らかにするのである (詩篇 22:3) 。 !)! 6 June ● 月日 神の声 この終わりの時には、御子によって、私たちに語ら れました。(ヘブル 1:2) 神は御子によってのみ語られ(ヘブル 1:2、ヨハネ 1:18)。クリスチャンは絶えずその声を聞いている。 いのち、平安、…と言われる神の声を、 いわゆるクリ スチャン感覚 (ローマ8:6,15,16) によって聞くのであ る。それが啓示の世界である (Ⅰコリント2:10) 。 御子の中心は十字架であり、したがって十字架 理解は(ローマ1:17、ガラテヤ 2:20)神の声そのも のと言ってよい。それが, み言葉なのである (詩篇 103:20、 Ⅱコリント3:6)。 神の声は、日々の歩みにおいては御霊の働きに 触れる基本であり、良心との調和にある (ローマ 8:13,14、 ヤコブ 3:17)。 神の声を確かめよう。 !)" 6 June ● 月日 主の勝利の矢 彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の 矢。 アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェク でアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」。 (Ⅱ 列王記 13:17) 死に瀕したエリシャの病床に、 北イスラエルの王ヨア シュがやってきた。その時、エリシャはヨアシュに弓 矢を持たせ、 敵の方角に矢を射た。その際に、 「主 の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。」と叫 んだ。そして、 「地面に向かって打て!」 と言ったが、 彼は 3度しか打たず、 エリシャは、 「あなたは5回、6 回打つべきだった。」 と怒った。 ここには、ヨアシュ王が神のみこころに沿っていな かったにも関わらず、契約(13:23) のゆえに、御顔 をそむけられない神の真実といつくしみが表されて おり、 さらに神に求める際には、簡単にあきらめず、5 回、 6回打つべきことを教えている。 私たちの戦いは、天にいるもろもろの悪霊に対する ものだからである (エペソ6:12) 。 !)# 6 June ● 月日 思いをこえて豊かに 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というの は、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるか らである。」と言われたのです。ですから、私は、キ リストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜ん で私の弱さを誇りましょう。(Ⅱ コリント12:9) 神の恵みは人の思いを越えたところにある。限界 の向こう側で待っている (Ⅱコリント12:9) 。また想 像を超えた形で働かれるのである。 極度の貧しさの中にも (Ⅱコリント8:1,2)信じられな いような平安の内に (ピリピ 4:7)働く。恵みはまた、 与えるスピリットであり、主イエスの心そのものである (Ⅱコリント8:9)。 この恵みこそ人の思いを越えたものであることを考え よう (エペソ3:20)。 !)$ 6 June ● 月日 父の悲哀と潜在力 夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけ ない。 父たちよ。 子どもをいらだたせてはいけま せん。(コロサイ3:19,21) ここでは、包容力 が父にもとめられていると理解で きる。しかしながら悲しいかな、今日の多くの父達 には余裕が感じられず、打ちひしがれていように見 える。 その能力が神によってすでに与えられていることを知 らない人が多いのは、なんと残念なことか。そして、 父の父である神とのホットラインを確保している父は なんと幸いなことか。 「ひざをかがめて、父と呼ばれるあらゆるものの 源なる父に祈る。」 (エペ 3:15[口語訳] ) と、イエ ス様は祈られた。 父のために祈ろう。 そして、 父達よ、 祈ろうではないか! !)% 6 June ● 月日 み言葉の領域 父はみこころのままに、真理のことばをもって私た ちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物 の初穂にするためなのです。(ヤコブ1:18) 罪は死を生み (ヤコブ 1:14) 、み言葉はいのちを生 む(1:18)。そのいのちの領域は光(1:17)であり、 すべての霊の祝福が満ちるところ(エペソ1:3) 、人 知をこえた平安の境地(ピリピ 4:7) である。この祝 福の領域は、 第4次元の空間とでも表現できるもの であり、 み言葉そのものなのである。 そこで、 クリスチャンの戦い… み言葉の本能 と 肉 の本能 との戦い…が行われる。 み言葉を慕い(Ⅰペテロ2:2) 、み言葉を蓄えること (詩篇 119:11) が、 戦いの武器である。 !)& 6 June ● 月日 やみの中に光 私の敵。 私のことで喜ぶな。 私は倒れても起き上 がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であ るからだ。(ミカ 7:8) このようなミカの告白は、多くのクリスチャンの現実 を表している。恐れの中に信仰があり、弱さの中 に強さが見え、 絶望の中に安息がある。 やみの中ではじめて光の存在がわかる。すなわち、 恵みは罪の中でこそ明確にされるのである。 パウロ書簡でパウロは声を大きくして証しをしており (Ⅱコリント12:9) 、ダビデもそのように語っている (詩 篇 27:6)。 それが、我々のものにならなければならない(ピリピ 4:7)。 !)' 6 June ● 月日 神の声を聞く この終わりの時には、御子によって、私たちに語ら れました。(へブル 1:2) 神は御子を通して語っておられると言われているの だから、 私達は神の声を聞くことができるはずだ。 まず、 御子のみわざを見る ことによって聞くことが 可能である。荒野におけるイスラエルの民は、エジ プトにおける様々な奇跡、紅海が分かれる奇跡の ほか、雲の柱、火の柱、マナが降る日常的な奇跡 …などの神のみわざを見て神の声を聞いた。残 念なことは、その事実を自分のものとして神に信頼 し、安息することができなかった(ヘブル 4:2) ことで あるが… 今日の私達は、十字架のみわざを通して神の声を 聞くことができる (ヘブル 2:9,10 ) 。パウロは、十字 架がもっとよく見えるように (エペソ1:17,18) 、 神の声 をもっと聞くことができるように、 と祈っている。 !)( 6 June ● 月日 親の責任 愛は寛容であり、愛は親切です。また…すべてを がまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを 耐え忍びます。(Ⅰコリント13:4,7) 子どもの教育は親の責任であるが、最終的には父 親の役割が重要である。親に要求される大切な ことは、 「見守る」ことだ。そのためには忍耐が必 要である。自分の願いや希望を神様に預ける気 持ちがなければならない。どのような環境にあって も子どもを信じ、神様の摂理を信じる信仰が必要 である。(Ⅰコリント13:7) その信仰の出発点は、天の父である神の前にひざ まずき (エペソ3:14-16) 、悪霊につかれた子どもの 親が叫んだ (マルコ9:24) ように、 「信じます。不信 仰な私をお助け下さい」 と叫ぶことである。 心を砕かれることが、なければならない。このような 信仰を持てる親が教会でも、 社会でも用いられる。 !)) 6 June ● 月日 祝福はここに ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。… この方は恵みとまことに満ちておられた。 …私た ちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵 みの上にさらに恵みを受けたのである。 (ヨハネ1:14-16) はるか遠くにあった途方もない祝福が、神の子イエ スによってこの世界にもたらされ、十字架を通して 私たちの生活の中で現実のものとなった(ヨハネ 1:14-17)。 私たちは、内住の御霊によって、すでにある という ことを知っている (ローマ8:15-16) 。祝福はここに ある。これが福音の真髄であり、恵みと呼ばれて いる。宣教においても、私たちはすでにその中にあ ると主は言われた (ヨハネ4:35-38) 。 主が常に私たちに志を与え、環境を開かれる。そ の結果私たちに見えるかたちで、主の真実と恵み が証される。 " 6 June ● 月日 散らされた人々 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散 らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケ までも進んで行った。(使徒 11:19) ステパノの殉教をきっかけに、エルサレム教会に激 しい迫害がおこった(使徒 8:1) 。その結果、各地 に散らされた使徒達によって福音が伝えられ、宣 教が拡大した (使徒8:4)。世界宣教の基地となっ たアンテオケ教会は、これらの 散らされた人々 に よって誕生したのである。(使徒 11:19-21) 。 私たちの教会が誕生したのも中国から政治的な 理由で追放された宣教師によってであった。また、 アルゼンチンのリバイバルは同国がフォークランド 諸島をめぐって英国と戦い、敗北を喫したのがキッ カケと言われている。政治的に見える事柄の中にも、 聖霊の働きがある。(使徒 1:8、 ローマ8:14、 ゼカリ ヤ 4:6)。 " ! 6 June ● 月日 御霊に導かれる人々 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもで す。(ローマ 8:14) 神の子である特権を味わうためには、日々御霊 に導かれることを実感できる必要がある (ローマ 8:14)。御霊はすべてのクリスチャンの中に内住さ れ、神への親しみと神の子である自覚を通して、ご 自身の存在を証しされる (ローマ8:15-16)。またそ の方はいのちと平安の思いをもって、私たちを導か れる (ローマ8:6)。 不安と不自然さを感じる時、その行動と衝動を御 霊に委ね、主を待ち望まなければならない(ローマ 8:13)。これが、 クリスチャンとして基本的なことであ る。 御霊に導かれる神の子としての特権を味わおう。 " " 6 June ● 月日 霊の人を求む まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と 御霊によって生まれなければ、神の国にはいること ができません。(ヨハネ3:5) すべてのクリスチャンは神の国に生まれた者である (ヨハネ3:5)。神の国とは、霊の次元のことで、私 達は霊において神を知り、自分が神の子どもであ ることを知っている (ローマ8:15,16) 。しかしながら、 それを霊の次元で受け止めないで、人間の次元 で考え、 行動してしまうこと、 それが問題になる。 人間の感情や常識、経験、先入観に従って行動 することから、すべての思いを御霊に委ねる人、つま りどんな時にも、 「御霊様、あなたはどう思われます か?」と、御霊の思いに委ねることを習慣としている 人…神様は、そのような霊の人を求めている (Ⅰコリ ント2:15)。 " # 7 July 主は私の羊飼い。私は、 乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、 いこいの水のほとりに伴われます。 ─ 詩篇 23:1-2 ─ 7 July ● 月日 教会と私 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人 を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師 として、お立てになったのです。それは、聖徒たち を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建 て上げるためであり…。(エペソ4:11,12) 教 会ではすべての信 徒が奉 仕する。これは 英語でミニストリー(Ministry) と言われ、神に代 わって人々に愛をもってサービスすること (Ⅰペテロ 4:10、 11) を意味している。時には霊の賜物とも言 われている (ローマ12:6-8、 Ⅰコリント12:4-11) 。こ のミニストリーの基本は 5つある。そのリストはⅠコリン ト12:28、エペソ2:20-22、 Ⅰペテロ2:4-9などに示さ れている。これらの中で使徒、預言者はキリストに ついての原則的真理を表し、伝道者、牧師、教師 はキリストの応用的側面を示しており、健全なみ言 葉観、 あるいは教会観が大切である。 すべての人がミニストリーする教会を求めよう。み 言葉を幅広く学びつつ忠実な教会生活の姿がそ こにある。 " & 7 July ● 月日 臨在を生きる わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあな たを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、 この手であなたをおおっておこう。 (出エジプト 33:22) モーセは岩の裂け目から主の臨在の姿を見た (出 エジプト18-23)。岩の裂け目とは新約のヘブル 書で強調されている キリストにある ことを表してい る。 キリストは今、臨在の保証者(大祭司) として天に おられる (ヘブル 2:17、 4:14-16、 6:20、 7:24,25、 8:6、 9:24、 10:21)。 キリストはそこに 至る道 を、十 字 架を通して完 成された(ヘブル 2:10、 6:19,20、 9:11,12、 10:19,20)。クリスチャンはキ リストにあって、その臨在の中で生活するよう招 かれている。 臨在が御霊によって霊の領域から感覚の領域に まで溢れることを期待する。 " ' 7 July ● 月日 神は、 はじめに天と地を 初めに、神が天と地を創造した。(創世記 1:1) 聖書を書いたヘブル人は、神を全人類の神とし て信じ、彼らの日々の祈りはユダヤ人の神に対す るものではなく創造主なる神への呼びかけであっ た。彼らが安息日を尊ぶのは、 それが人間の幸福 を保証する普遍的法則である事を知っているから で、創造主なる神をたたえるためであり、選民として の世界への証でもあった (出エジプト20:8-11) 。 ユダヤ人の信仰は人類に対して普遍性を持った ものであったが、その法則がイエスキリストを通して 全世界に及ぶようになったのである (ヨハネ1:17) 。 イエス・キリストによって表現されたその内容は、旧 約聖書に隠されている。 これを探しだそう。 " ( 7 July ● 月日 恵みとまこと 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイ エス・キリストによって実現したからである。 (ヨハネ1:17) 恵みとまこと は新約を代表することばであるが、旧 約にも記されておりユダヤ人の信仰を端的に表す ものである。彼らは、 自らの努力ではどうしようもない ことをよく知っている。また、彼らは「恵み」がユダヤ 人だけでなく多くの人のためにあり、 千代に及ぶこと を信じている(出エジプト34:7) 。 ただ残念なことは、 この 恵みとまこと がイエス・キリス トによってすでに実現していることを知らないことであ るが、 それは、多くのクリスチャンにも言えることなので ある。 恵みとまこと はキリストによって、 現実になっている。 " ) 7 July ● 月日 天使のもてなし 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって 立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために 天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をし た。(創世記 18:2) アブラハムの家を訪れたこの三人は天使であっ た。そのうちの一人は、いわゆる普通の天使では なかったように見える (創世記 18:2-33) 。ギデオ ンに現れた天使もやはり普通ではなかった(士記 6:11-24)。また、サムソンの父マノアに現れた天使 は名を 「不思議」だと答えた (士記 13:17,18) 。 この天使のことを、旧約時代に天使の姿で現れた 主イエスであろうと考えるのは自然である。ヨハネ 8:56-58にある主の宣言はそのことを証明していると 思う。 ところで、普通の人として現れた天使をアブラハム は旅人としてねんごろにもてなし、その報いを得た。 もてなし はレビ 19:34に基づいた聖書的な精神 であり、新約では、生活の保証が もてなし への報 いであると言われている (ヘブル 13:1-8) 。 "! 7 July ● 月日 人生、 その目のつけどころ からだの明かりは目です。それで、もしあなたの目 が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が 悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。 (マタイ6:22,23) このみ言葉は有名な山上の垂訓の一句である。 この目は 心の窓 の象徴として解釈されやすい が、 もともと 「目が良いとか悪い」 とかは、ヘブル的な 慣用句で、気前が良いとか悪いとかの意味である。 これを理解すると、19-24節に 「自分の宝を天にたく わえよ」と言われている言葉へのつながりが理解で きる。 良い人生(全身が明るい)か、あるいは悪い人生 (全身が暗い) かは、金銭に対する考え方で決まる というのである。 大阪の言葉で言えば、 気前がイイ か ケチ かに よって人生が決まる…とも言える。 "!! 7 July ● 月日 召命 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主 イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めてい るすべての人々とともに、聖徒として召され、キリス ト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。 (Ⅰコリント1:2) 召命には三段階ある。第一は信じることへの召し (ヨハネ1:37-51) 、次に、一般的な奉仕に対する 召し (ルカ5:10,11) 、 そして特定の奉仕への召し (ヨ ハネ21:15-17) である。 使徒の働きに書かれている最初の執事達は、第 三の召しに該当する (使徒 6:1-6) 。この特定の奉 仕は、 自分から望んでなれるものではなく、主が考え て、そのように導いたものであり、いわば、主からの 強制 とも言えるものである。ただ、主は人格を無 視することは決して無く、 この召命に従う者には恵み と力が約束されている (Ⅰコリント15:10) 。 これは牧者達への召命のことばである。このような 特定の奉仕に召された人達のことを覚え、主に感 謝しよう。 "!" 7 July ● 月日 異端の霊 この人たちは、自分には理解もできないことをそし り、わきまえのない動物のように、本能によって知 るような事がらの中で滅びるのです。(ユダ10) ユダの手紙は異端の霊の本質に触れている。彼 らは夢見る者(8) 、すなわち理想主義者であり、自 然の本能のみで霊的な事柄を追求しようとする (10,19)。また、御霊を持たず(19) 、理性の範 囲を越えてしまう (6)のである。しかしながら、理性 の範囲は、御霊の秩序そのものであり、愛の調和 点であることを大胆に信じる必要がある。 健全なクリスチャン信仰は、人間性の常識と調和 しつつ、 しかも超自然の次元を生きる者なのである。 「まことに、 まことに、 あなたに告げます。人は、新 しく生まれなければ、神の国を見ることはできま せん。」 (ヨハネ3:3) この言葉を忘れてはならない。 "!# 7 July ● 月日 偶像礼拝 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。(Ⅰヨハネ5:21) この言葉は、 Ⅰヨハネの最後の言葉である。 「私達はキリストの内にいるのです」 (5:20) という メッセージがこの手紙の中心テーマと思われるの で、戸惑いを感じる方がいるかもしれない。しかし ながら、 この手紙の内容を見事に締めく くったものと 考えられる。 クリスチャンにとっては、キリストのみ で十分である はずで、 それ以外に心を移すことは偶像礼拝と言え るからである。これは、罪の本質であるむさぼりを 切り離せないところから起こり (コロサイ3:5-9) 、イス ラエルが陥った危険である (Ⅰコリント10:1-14) 。 キリストにあるなら古き人の処分の方法を知っている (コロサイ3:9,10)はずである。したがって、 偶像 を警戒する というのは、一言でまとめるにふさわし い。 "!$ 7 July ● 月日 黙示録のキリスト像 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れ かかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、 私たちをかくまってくれ。(黙示 6:16) 黙示録のキリストには、恐ろしいまでの威厳をもった キリスト (1:12-20)の姿がある。それは教会を裁か れる姿(2:1-3:22) である。しかしながら、 それとは全 く対照的な、弱々しい小羊も描かれている。黙示 録にはこの呼び方が 52回使われている。また、原 語では 小さな小羊 と表現される特別な言葉が 29回使われ、この言葉は黙示録以外ではヨハネ 21:15にのみ使われている。 実は、この小 羊が世をさばくお方である (5:4- 18:20)。小羊の怒りは恐ろしい(6:16)と言われてい る。救いも、裁きも、十字架の血によっている (5:9) ことを知る必要がある。 厳しい神と、やさしい小羊。なんという対照!そこに、 真理が隠されている。 "!% 7 July ● 月日 恵みの大河のなかに わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る ようになる。(ヨハネ7:38) ある所で、何日も水に渇いて苦しんでいた漂流船 の乗組員が船影を認めて必死に叫んだ。「おー い、水を飲ませてくれ!」…と。その時、大声が帰っ てきた「船のまわりにバケツを投げて見ろ」。彼は、 言われた通り、バケツを入れて汲み上げ、 その水を なめてみて驚いた。それは真水だったのだ。実は、 漂流しながらアマゾンの河口に入っていたことを知 らなかったのである。 あなたは、すでに恵みの河口にいる事を知っている だろうか。それとも、 まだ「水を飲ませて」 と叫んでい るのであろうか? 汲めば、 飲める水が、 あなたの周りにあるのだ。 "!& 7 July ● 月日 四人の人、 第四の人 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわ を解かれて歩いている四人の者が見える。しかも 彼らは何の害も受けていない。 第四の者の姿は 神々の子のようだ」。(ダニエル 3:25) ダニエル書の 1、2章にはベルテシャツァル、 シャデラ ク、メシャク、アベデ・ネゴという四人の人のヘブル の青年達の物語が描かれておあり、3章では、三 人の人達と共に第四の人が現れる (3:25) 。 ここに書かれているエピソードを通して、驚くべき神 の奇跡を知ることができる。それは、この四人が命 を賭けて神に信頼した結果で(1:12、2:18、3:17- 18)、神への信仰が「私たちはあなたの神々に仕 えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしませ ん」 (3:18) という告白になっている。 さて、第四の人とは誰だろう。それはキリストの旧 約時代の姿に他ならない (ヨハネ8:56,58) 。 "!' 7 July ● 月日 His Story キリストは、万物をご自身に従わせることのできる 御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の 栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。 (ピリピ 3:21) ダニエル書にはダニエルをはじめ、 多くの登場人物 の個人的な歴史が書かれているが、実はその歴 史は 神の歴史 であり、 これは英語で His Storyと 書かれる。 つまり、ネブカデネザル(ダニエル 4:32-33) 、ダリヨ ス、 クロス (8:20) 、 アレクサンダー (8:21-22) 、 アウグ スト (ルカ2:1)…彼らは全て主の手の中に置かれ、 神が動かしている盤上の駒にすぎなかったのであ る。 人権とか自由が声高に叫ばれている人間中心の 時代にあって、クリスチャンは歴史を通して神の主 権によって導かれている。そのような世界観に生き ている。 "!( 7 July ● 月日 見る しかし、もし、私があなたのところから取り去られる とき、あなたが私を見ることができれば、そのこと があなたにかなえられよう。(Ⅱ 列 2:10) エリシャは「あなたの霊の、二つの分け前を」 と願っ た時、 エリヤは「それは難しい。しかしもし見ることが できれば、そのことがかなえられる。」 と言った。する と、 「一台の火の戦車と火の馬とが現われ…」エリ シャはそれを 見た のである。そして、彼がマントを 使って水を打つと両側に分かれた。彼の信仰の 結果がここに現れた。 使徒パウロは信じる者の可能性がどんなに大きい か聖徒達が見ることができる様にと祈っている (エ ペソ1:18-19)。 あなたの周りに、自分の信仰の結果、自己評価の 反映としての具体例があるだろうか?そこに、 あなた の夢を託すビジョンがあるだろうか?そこから、あな たの人生に対するビジョンを引きだそう。あなたも、 エリシャの様に 見る ことができるように…願ってい る。 "!) 7 July ● 月日 霊に燃え、 主に仕える イスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、 先祖の咎を告白した。(ネヘミヤ 9:2) 目標を持ち、使命に生きる者にとって、 どんな困難も チャレンジとなり、 充足感となる。 エズラの神殿建設、ネヘミヤの城壁建設に関わっ た民がそうだった。彼らは神殿を建設するという明 確な目標を持ち、神の霊によって奮い立たされ (エ ズラ1:5) 、み言葉に励まされ (5:2) 、戦い (ネヘミヤ 4:17)、祈り (ネヘミヤ 4:9) 、 完成した。 その結果、彼らのうちに霊的革命も達成された (エ ズラ10:1 ネヘミヤ 9:1-3) ことは、 特筆すべきことであ る。霊的な解決は、具体的な戦いを通して得られ るのである。 今あなたに必要なことは、霊的なことだけを求める だけでなく、 ビジョンを明確にして、具体的に心を熱 くすることである。 "" 7 July ● 月日 天のお父様 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴 隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊 を受けたのです。 私たちは御霊によって、 「アバ、 父。」と呼びます。(ローマ 8:15) 主イエスの偉大な生涯の秘密は、神を父として信 頼されたことにある。 同じように、天の父を信頼する幼子を神は求めて おられ、 そのような子にご自身を現わされる。「天地 の主であられる父よ。…これらのことを、賢い者 や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わし てくださいました」 (マタイ11:25) 。 クリスチャンには、神を天の父と呼ぶ霊が常に与え られている (ローマ8:15)。実は、すでに父を知っ ているのだ。その事実を受け入れ、その通りに信 頼してみよう。きっと父を身近に感じるはずだ。 今日、 本気で「天のお父様」 と呼んでみよう。 ""! 7 July ● 月日 ほんとうに神の子どもです この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じ た人々には、神の子どもとされる特権をお与えに なった。(ヨハネ1:12) あの有名なベン・ハーは、奴隷からローマ総督の 養子になった。それは、 彼の生涯にとっての輝かし い転機になった。その時から彼は、二つのルーツ に生きる者となった。ユダヤ人として生まれたルー ツ、そしてローマ高官の子としての身分である。そ れを得た時、彼は奴隷という傷ついた歴史を持ち ながらも、 その部分は完全に覆い隠された。 あなたも、キリストを通して神の子となった時、二つ のルーツを生きることになった。罪と律法の束縛に 生まれながら、そこから解放された、いわゆる 生れ ながらの私 。そして、 神の身分と特権に生きる、新 しい私 である。 あなたは今、 「わたしはわたし」 と叫びながら、 「ほん とうに神の子どもです」 という確信に立つ。 """ 7 July ● 月日 生ける水 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出る ようになる。(ヨハネ7:38) 暑い国が舞台となっている聖書に、氷、雪に関する 記述が 26回ある。 例えば、 「神の息によって氷が張り、広い水が凍りつく」 (ヨブ 37:10)。「あなたは雪の倉にはいったこ とがあるか。雹の倉を見たことがあるか」 (ヨブ 38:22)。「氷はだれの胎から生まれ出たか。空 の白い霜はだれが生んだか。 水は姿を変え て石のようになり、深い淵の面は凍る」 (ヨブ 38:29-30)。「主は羊毛のように雪を降らせ、灰 のように霜をまかれる。主は氷をパンくずのよう に投げつける。だれがその寒さに耐ええようか」 (詩 147:16-17)。 このようなみ言葉に耳を澄ませば、私達の内に湧き 出てくる 「生ける水」の音が聞こえる。 ""# 7 July ● 月日 私の霊によって 私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の 賜物を、再び燃え立たせてください。(Ⅱ テモテ 1:6) 御霊の種火は絶えず燃えているので、どんなに時 が変わっても、雰囲気が悪くなっても、御霊は変わ らない。 その源は、 どこにあるのだろうか? 第一は「キリストにある認識」の中にある (ローマ8:2、 8:10)。すなわち、キリストにある ゆえに 御霊にあ る という認識である。 第二は「異言の領域」にある。異言は言葉よりも 領域と考えてよい(Ⅰコリント14:2、14:15) 。この領 域にゆだねることが御霊に満たされることである (エ ペソ5:18-19)。したがって、知性でも、霊でも賛美 することができるのである (Ⅰコリント14:15) 。 このような認識で、どんな時でも源に戻ることができ る。 ""$ 7 July ● 月日 アーモンドを見ている 次のような主のことばが私にあった。「エレミヤ。 あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。 「アーモンドの枝を見ています」。(エレミヤ 1:11) エレミヤが神から召された時は、 すでに北イスラエル は滅び、南ユダも滅亡の危機にあり、いわゆる 冬 の時代 で、 何も期待できない時であった。 召された時、神から 「何を見ているのか。 」 と問いか けられ、 「アーモンドの枝」 と応えた。アーモンドとい うヘブル語には 目覚めている とか 見張っている という意味がある。主は、 たとえ枯れ木のようであっ ても、 それを見張っている。 私たちの町、地域、国も同じような可能性を秘めて いる (エレミヤ 18:7-10)。イエスが、 「わたしの愛 の中にとどまりなさい。」 (ヨハネ15:9) と言われる のは、そこから豊かな命が流れるようにするという意 味である。 力の限り見張ってあなたの心を守れ ""% 7 July ● 月日 わたしはまことのぶどうの木 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は 農夫です。(ヨハネ15:1) 「まこと」 という言葉はヨハネの福音書の中の鍵の ことばのひとつである。主は「まことの光」 (1:9) 、 「まことのパン」 (6:33) 、 「まことの門」 (10:7) と 言われ、そしてこの「まことのぶどうの木」なのであ る。 主イエスの行為は、 永遠の父である まこと の農夫 に結びつけ、人生の安息に導く。主がいつも問題 にしているのは、 朽ちない永遠の事である。 あなたは、 「わたしはまことのぶどうの木」 と言われ る方と結ばれて、初めて生きた交わりをもち、あなた の まこと の故郷である、天の存在がリアルになっ ているか。そこからいつも変わらない恵み、父の愛 が流れてくる。 主にある臨在を受け止めよう。主の喜びを体験し よう。それが まこと である。 ""& 7 July ● 月日 恵みによって生きる 私はキリストと共に十字架につけられました。もは や私が生きているのではなく、キリストが私のうち に生きておられるのです。(ガラテヤ 2:20)。 恵みによって救われたクリスチャンが、律法の古い 教えのとりこになっていくことに危機感をもって、パウ ロはガラテヤ人へ手紙を書いた。律法はあるひと つの状況に、 ひとつの事柄でしか関わることが出来 ないが、恵みは多様で柔軟、自由で変化に富んで いる。律法は次から次へと生ずる危機につまずくが、 恵みはあらゆる事柄を充足させる。 私たちが、 信仰によって… という場合に、恵みの 神を信じているのか、神を信じている自分を信じて いるのか…考える必要がある。 パウロは自分を、キリストと共に十字架につけ、生き ているのは神の御子を信じる信仰によっている (ガ ラテヤ 2:20) と叫んだ。神の恵みは、人が自分で 生み出すことの出来ない領域であり、キリストが勝 ち取ってくださったものである。 ""' 7 July ● 月日 健康ですか 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ている ようにすべての点でも幸いを得、また健康であるよ うに祈ります。(Ⅲ ヨハネ2:2) 世界保健機構(WHO)は、健康について「単に 体に病気がないとか弱くないというだけではなく、肉 体的にも精神的にも社会的にも完全に調和のとれ た良い状態である」と定義していることが知られて いる。ところが、ここにもうひとつの側面を加える必 要があるのではないかという議論が起こり、結論が 出た。それは、 「霊」 (Spirit) であり、新しい定義は 次のように定められた。 Health is dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 聖書は創世記から黙示録に至るまで神と人は霊 的存在であると語っている。キリストを信じる者は、 神の「聖霊」によって生まれ、 「聖霊」に満たされ、 「聖霊」 に導かれる。 その状態こそが、 真の意味の健康である。 ""( 7 July ● 月日 あなたは、 神の子キリストか 私は、生ける神によって、あなたに命じます。あな たは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言 いなさい。(マタイ26:63) 十字架を目前にして、主イエスは、 ご自分が油注が れたメシヤであると公言されたが、もっと別の機会 に、…そう、例えば人々をいやし、2匹の魚と5つの パンで 5,000人を養い、盲人の目を開き、足の不自 由な人の足を立たせ、ラザロを墓の中から呼び寄 せて、神の偉大な奇跡のみ業を見せたあの時こそ、 メシヤを宣言するのにふさわしかったのではないだ ろうかという疑問が起こる。 しかし、現実には、 ご自分のことを 「キリスト」だと言っ てはならないと何度も忠告し、ついに、このカヤパの 庭で、 ご自身がメシヤであると認められたのである。 降誕の時に天使は この方こそ、ご自分の民をその 罪から救ってくださる方 と語られ、不思議なわざや 奇跡を行うことは言われなかった。むしろ、 この方は、 死に向かわれることを言ったのである。 "") 7 July ● 月日 いのちの水の川 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がる あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるように なる。(エゼキエル 47:9) 主の尊い犠牲の血によって代価は払われ、すべて あがな の条件が整えられて贖いは完成した。その結果と して聖霊が来られ、天国は開かれている (エペソ 1:14) ので、 栄えに満ちた喜びが私たちのものとなっ た。 私たちに与えられた命は、栄光から栄光へ導く永 遠のものである。すでに完成したことを無駄にして、 主をもう一度十字架につけるようなことがあってはな らない。逆戻りして、十字架を無価値にしてはいけ ない! 神によって生まれたあなたは、生ける神の宮(Ⅰコリ ント3:16) であり、そのいのちは泉(ヨハネ4:14) とな り、生けるいのちの水の川となる (7:38) 。それによっ てできる川では、すべてのものが生きる (エゼキエル 47:9) のである。 "# 7 July ● 月日 神の愛に根ざす 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住ま わせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立 つ者としてくださるように。(新共同訳 エペソ3:17)。 歴史的に偉大な指導者たちはみな、世間の悪評 に囲まれながら、謙虚な態度で生きる人であった。 それは彼らが深く根を地に下ろしていたからで、高 く育つ木には、 深い根があるためである。 深い根を持っていないと、他の人の言葉に動かさ れる。もし、 世間の評判を気にしすぎると、 自分を見 失うことになる。その時、いかに自分が表面的であ るか分かる。 神の愛に深く根ざした人は、人からの称賛に執着 することなく、自己充足できる。充ち足りた心から主 を信じ、 委ねて待つならば、 主の働きを見る。 キリストにある者は皆、王なる祭司である (Ⅰペテロ 2:9)。聖霊によって、父の愛が私たちの心に注が れている (ローマ5:5)。それを受け止めよう。 "#! 7 July ● 月日 いつものように… 彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の 神の前に祈り、感謝していた。(ダニエル 6:10) 少年時代に捕われの身となったダニエルは、異国 の王に影響を与え、生涯その使命を全うした。彼 は、いつものように(ダニエル 6:10) …たびたび天 を仰ぎ、 祈りをささげた。 主は、場所や時間に制限を受けないで行われる、 霊とまことの礼拝を預言したが(ヨハネ4:23) 、ダニ エルは、囚われの身でありながら、この異国の地で その礼拝をささげていた。特別なこととしてではなく、 ごく普通に行われる礼拝と祈りが大切なのである。 十字架を前にしたイエスは、いつもの場所 に行 かれた。そこで弟子たちに語られた。すなわち、 「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 (ルカ 22:40) であった。 ごく日常的な祈りが、無味乾燥な御題目のような言 葉にならないように…。 "#" 7 July ● 月日 ヤコブの神 彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。 彼は その力で神と争った。(ホセア 12:3) ヤコブは人間的な賢さに長けており、人を押しのけ る強さを持っていた。彼は、母の胎の中で、兄エ サウを押しのけた。ヤコブの強さは、御使いに勝 つほどであり、妻を得るために長年耐え忍ぶほどの ものであった。 そのヤコブが泣いた時がある。御使いと闘って勝 ちを得た後である。「彼は御使いと格闘して勝っ たが、泣いて…」 (ホセア 12:4) 。最強の相手に 勝ってみて、はじめて味わう虚しさ。孤独と恐れが 彼を襲った。そのとき、 不思議な力が流れた… ヤコブと神が結びついて、生きるものとなった。もも のつがいを打たれて足を引きずるヤコブは、自分の 力を頼めず、主を待ち望み、安息し、神の力を表す 者となった。 この主は、万軍の主 (ホセア12:5) であり、ヤコブの 急所をついたお方である。 "## 7 July ● 月日 弦楽器にあわせて 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、 私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器 に合わせて。(ハバクク3:19) ハバククは「私が…しているのに、 なぜして・・・ してく ださらないのですか…」と、何度も神に叫んだ。そ の時の沈黙の中から、シグヨノテ (悲しみの歌) (ハバクク3:1)が生まれた。大切なものを失った 悲しみの中で、すべての源なる主に抱かれて喜び が生まれたのである。その時ハバクク (抱きしめる) という名前の意味が現実のものになった。 神の御手がその人の上にある時、 外なるものと共に 内なるもの、内臓とくちびる、骨と足元は震え、たまし いが砕かれていく。その時、 自分を主張することから、 「静かに待ちます」 (ハバクク3:16) に変えられる。 この祈りを指揮者の手に委ね、 弦楽器の調べに合 わせてささげた。この祈りが歌となり、響き渡る時、 全地はその御前に静まり、地は主の栄光を知ること で満ちる。 "#$ 7 July ● 月日 あふれる神の愛 わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいら れようか。そこには、右も左もわきまえない十二万 以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。 (ヨナ 4:11) ヨナは、ナザレから歩いて 1時間程の町、ガテ・ヘ フェルの生まれで、北イスラエル王国で活躍した (Ⅱ 列王 14:25)。彼は当時、名の通った預言者で あり、国民的英雄であったと思われる。そのヨナに、 神は、敵国アッシリアに行って神の祝福のことばを 伝えよ、 と言った。当然ヨナは「どう考えても、 それは 不条理 です」 と叫んで、反抗した。そのことは常 識的であった。私たちの目に正しいことのように見 えても、神の考えは異なることがある。ヨナ書には、 ニネベの民に対する愛と同時にヨナに対する細や かな愛が表されている。あふれる神の愛が、そっと 開かれた宝物のように見える。 神は、 「何度まで赦すべきですか」 (マタイ18:21) と言ったペテロに対する答えとして、十字架を示さ れた。それを「見いだす者には、それはいのちと なり、 その全身を健やかにする。」 (箴言4:22) 。 "#% 7 July ● 月日 ヒソプ ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢 の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。 (出エジプト12:22) ヒソプは聖書に出てくる植物で、聖書辞典には「し そ科の植物で、葉をちぎるときに芳しい香りを放つ。 傷つけられると香る草。 」 と書かれている。 これが、 エジプトで行われた最初の過越の日、家の 鴨居と2本の門柱に羊の血をつけるのに用いられ あがな た。この羊の血はキリストの十字架による贖いの 血のひな形である。 災いが過ぎ越すとの約束は、血の塗られた門の 家の中に居た者に対するもの、家族に対するもの であった。「主イエスを信じなさい。そうすれば あなたもあなたの家族も救われます。」 (使徒 16:31) 「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてくださ い。そうすれば、私はきよくなりましょう。」 (詩篇 51:7)。 "#& 8 August わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。 それはわざわいではなくて、 平安を与える計画であり、 あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 ─ エレミヤ 29:11 ─ 8 August ● 月日 心の貧しい者 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のも のだからです。(マタイ5:3) 心の貧しい という表現は、 「わたしは、高く聖な る所に住み、心砕かれて、へりくだった人ととも に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた 人の心を生かすためである。」というイザヤ 57:15 の言葉と、 「わたしが目を留める者は、へりくだっ て心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」 (イザヤ 66:2) の 心砕かれた者 からきている。 天の御国は、 その人のものと言われているが、本当 は そのようなものとする という表現の方が正しい。 それによって、 心の貧しい者は幸いです。神の国 はそのようなものだからです という意味になる。 そして次に続く8つの幸い…「悲しむ者、柔和な者、 義に飢え渇いている者、あわれみ深い者、心の きよい者、平和をつくる者、義のために迫害され ている者は幸いです」 (マタイ5:4-10)は、神の国 の条件と内容を表している。 "#( 8 August ● 月日 バプテスマのヨハネ 打ち破る者は、彼らの先頭に立って上って行き、彼 らは門を打ち破って進んで行き、そこを出て行く。 彼らの王は彼らの前を進み、主が彼らの真先に進ま れる。(ミカ 2:13) 主は、 「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、 天の御国は厳しく攻められています。そして、激 しく攻める者たちがそれを奪い取っています(マ タイ11:12)」 と言われたが、 その時、 「ヤコブよ。わ たしはあなたをことごとく必ず集める。わたしは イスラエルの残りの者を必ず集める。わたしは 彼らを、おりの中の羊のように、牧場の中の群れ のように一つに集める。こうして人々のざわめき が起ころう。」という、ミカ書 2章 12節のことばを想 起されたに違いない。 一晩中おりに閉じこめられていた羊の群れが、 朝に なって、その出口にひしめき合いながら殺到して自 由の世界に出ようとする光景…それが、今日の姿 である。バプテスマのヨハネによって開かれた出口、 それを通し、自由を求めて神の国に殺到する群衆 …抑圧されていたところを解放され、殺到する群 衆の姿がそこにある。 "#) 8 August ● 月日 集会の権威 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたが たが地上でつなぐなら、それは天においてもつなが れており、あなたがたが地上で解くなら、それは天 においても解かれているのです。(マタイ18:18) このみ言葉は、 「もし、あなたがたのうちふたりが、 どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、 天におられるわたしの父は、それをかなえてくだ さいます」という19節の言葉を使って祈る時の励 ましのように解釈される。しかしながら、 「ふたりで も三人でも、わたしの名において集まる所には、 わたしもその中にいるからです」 (18:20) とあるよ うに、明らかに主を信じて集まる教会のことを言って いる。 すなわち、教会における話し合いと決断は、 そのまま 天の決定になる、権威が与えられている。教会と いう、 からだ組織体に対して言われた言葉として受 け止めよう。例えば、 「そこで使徒たちと長老たち、 また、全教会もともに、彼らの中から人を選んで、 パウロやバルナバといっしょにアンテオケへ送る ことを決議した」 (使徒 15:22) という議論と決断 である。 "$ 8 August ● 月日 将来と希望 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈 るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もし、あな たがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わ たしを見つけるだろう。(エレミヤ 29:12,13) エレミヤを通して、神が語られたことばは真理で あったが、ハナヌヤが語ったことばは偽りであった。 彼は占い師、夢見る者であった(29:8) 。彼は 2 年のうちに捕囚は終わると預言し (28:2-3) たが、 エ レミヤはそれを70年と預言した(29:10) 。その預 言と励ましは、 「バビロンに家を建てて住み、畑を 作ってその実を食べよ。家族を作り、民を増や せ。その町の繁栄を祈れ」 (29:5-7) であり、 今、 ここ (バビロン) で祈れ と言われたのである。 私たちは、しばしば今の自分に満足せず、現状を 変えてほしいと願う。しかしながら、神があなたを召 し出そうとしておられる場所は、実は、今あなたが 立っている所である。イエス・キリストの十字架は、 遠い将来の夢のためではなく、今ここでそれを見出 す者のためにある。 "$! 8 August ● 月日 恵みの御座 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵み をいただいて、おりにかなった助けを受けるため に、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 (ヘブル 4:16) 旧約の時代には、大祭司が動物を殺して血を流 さなければ至聖所へ入ることはできなかった(ヘブ ル 9:7)。犠牲となる動物をささげた時に、神に近 づくことがゆるされたのである。 新約の時代には、動物ではなくイエス・キリストの血 が十字架で流され、 これによって、キリストを救い主 と信じる者は、神に近づくことができるのである。そ こが恵みの御座である。 しかも、主はよみがえられ、 ご自身の血を携えて天に 上って行かれた(ヘブル 9:12,24) 。それによって、 さばきの座が恵みの御座となったのである。 「大胆に恵みの御座に…」近づくと、私たちを喜び に満たしてくれるのである。 "$" 8 August ● 月日 黙示録の祈り 「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエ スよ、来てください。(黙示 22:20) 祈りは投資である。黙示録はそれを教えている。 祈りは即答されるとは限らない。祈りはまるで投資 のようなものに見える。積み上げられ、 蓄えられた祈 りが重要である。「…御使いが出て来て、金の 香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたく さんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りと ともに…」 (黙示 8:3) と言われている。 祈りは、決して無駄にならない。「また、別の種は いばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっ しょに生え出て」 (ルカ8:7) とあるように、祈りは清 濁混合の中にあって、決して優等生のものではな いのである。 教会の究極の祈りは マラナ・タ(主よ来たりませ) (Ⅰコリント16:22)である。この祈りに生きる教会は 時代に影響を与えずにはおかない。とにかく祈ろう ! そして、 祈りを蓄えよう。 "$# 8 August ● 月日 再臨に必要なハイテク そのとき、 『そら、キリストがここにいる』 とか、 『そこ にいる』とか言う者があっても、信じてはいけませ ん。(マタイ24:23) 衛星放送によって全世界に生中継が可能になっ た時、 キリストの再臨の時には、だれがどんな事をし ても…知らされる、 という聖書の言葉が確かに実現 できることが分かった。 主の再臨の重要な前兆は反キリストの出現で(Ⅱ テサロニケ2:3-4) 、彼は恐らく傑出した政治家とし て国際舞台に登場するであろう。そこで、彼の評 価を高める際立った一つの出来事が起こる (黙 13:1-3)。また、彼の右腕となる偽預言者の行動 (13:11-17) 、などのニュースが、全世界に生放送 されるはずである。 この時、個人情報はコンピューター化されると考え られる (13:16-18)。黙示録は 2000年前に書か れたが、 その時すでに、今日のハイテク社会を予告 しているかのようである。なんと壮大なことか! "$$ 8 August ● 月日 再臨のキリスト信仰 七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。 神の激しい怒りはここに窮まるのである。 (黙示 15:1) 私たちの身代わりとなり、十字架において神の怒り を受けてくださったキリストは、 「ほふり場に引かれ て行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙って いる雌羊のように、彼は口を開かない。」 (イザヤ 53:7)。彼は人にも神にも捨てられ、すべてを父な る神に委ねられた。 私たちの信仰、 永遠のいのちは、 さまざまな試練、 火 を通して精錬される。それは金にもまさって尊いも のである。信仰とはキリストそのお方そのものである。 決して、 私たちの中のある一部分のことではない。 「時が近づいているからである。…正しい者は いよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖 なるものとされなさい」 (黙示 22:11) 。 悔い改めを通して信仰から信仰へと導かれ、再臨 の主を待ち望もう。 "$% 8 August ● 月日 マラナ・タ (主よ来て下さい) これらのことをあかしする方がこう言われる。「し かり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、 来てください。(黙示 22:20) 主の再臨によって、 被造物全体がうめき、 産みの苦 しみをしてきた(ローマ8:22)時代は終わる。その 時、朽ちるものと朽ちないものとの間に横たわってい たギャップは完全に除かれる。 「朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬもの が死なないものを着るとき、聖書に書いてある言 葉が成就するのである。 」 (Ⅰコリント15:54) と言われ ている通り、朽ちない霊は朽ちないからだを着て永 遠に生きる。 いま与えられている地上における人生はすばらし い。しかし、 それを束縛していた制限が完全に除か れた人生のすばらしさは想像を絶する。クリスチャ ンはこの目標をしっかり持っているべきである。それ が無ければ、この世の人の生き方と何ら変わらない。 それが信仰のゴールである。 "$& 8 August ● 月日 聖書の中の特別な数字 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの 金の燭台について、その秘められた意味を言えば、 七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台 は七つの教会である。(黙示 1:20) 7 は神を表す完全数で黙示録に52回出て来る。 神は天地創造の 7日目に休まれたが、人は 6日目に 造られた。ここから、6 は人間の数字と言われてい る。神に似せて造られたが、神では無いことを意味 していると言えよう。 12 、 40 も神の数字である。12部族、12使徒、 主の 40日の試練、 イスラエルの荒野の 40年… ところで反キリストの数字は、 「その数字は人間をさ しているからである。その数字は六百六十六で ある。 」 (黙示 13:18) と言われている。彼は人間な のである。 この数字は、 6が 3つ並んでおり、超自然的な面も表 している。そこから 「三位一体」へも思いを巡らせる ことができるからである。 "$' 8 August ● 月日 アモスの時代 ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。 アー メンである方、忠実で、真実な証人、神に造られた ものの根源である方がこう言われる。「わたしは、 あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもな く、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、 熱いかであってほしい。(黙示 3:14,15) 預言者アモスは BC750年頃に活躍した人で、当 時イスラエルの南北両王国は、繁栄と平和の絶頂 にあったが、霊的、道徳的には退廃の極みにあっ た。社会正義は地に墜ちており、今日の世界に似 ている。 時代はまさにラオデキヤ教会(黙 3:14-20) のようで、 健全な霊性を保つことが困難である。この様な状 況から、主の再臨が近いことがわかる。だからこそ、 主に心を向けよう (Ⅱコリント3:16,17( )黙示 3:20) これを習慣とすれば、時代の悪に流されることはな い。かえって生ける水が (ヨハネ7:38) 、 そして正義が (アモス5:24) 川のように流れるであろう。 "$( 8 August ● 月日 予言者と預言者 預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与え るために、人に向かって話します。(Ⅰコリント14:3) 予言者 とは未来についての予知能力を持った 者で、 一般的な言い方である。しかしながら聖書は、 神のメッセージを預かって伝えるものを、 預言者 と して、発音は同じであるが区別している。もちろんこ の預言者も予言という能力を発揮しているが、単に 予知することが目的ではないからだ。 人は未知のものを知りたいという強い欲求を持って いる。そこに目をつけて、予言を売りものにするのは ニセ預言者である。現代は、主が予告された様に (マタイ24:11) 、 多くの偽者がはびこっている。 予言 を求めるのではなく、 「愛を追い求めなさい。 また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求 めなさい。 」 (Ⅰコリント14:1) と言われている。 そう、預言 を求めよう。 "$) 8 August ● 月日 リバイバルの2つのタイプ フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ …。わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。 わたしは、だれも閉じることのできない門を、あな たの前に開いておいた。(黙示 3:7-8) 黙示録 3章には 2つのタイプの教会が説明されて いる。フィラデルフィア (3:7-13) とラオデキヤ(3:14である。 20) フィラデルフィアはリバイバルの教会であり、 時代の波 に乗って発展した教会である。今日その様なタイプ の教会をアフリカ、 南米、 ソ連、 東欧などで見ることが できる。いわゆる現代社会が生みだした結果と言っ てもよい。また、 もう一つはラオデキヤ教会で自己満 足に押し流されている教会である。 このような中、自発的に主を見いだし、 リバイバルを 造っていく可能性がそこにある (3:20) 。 価値あるリバイバルである。リバイバルを造ろう ! "% 8 August ● 月日 洞察力と預言 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中 でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなので す。(Ⅱ コリント2:15) 洞察力はリーダーシップの三つの要素のひとつで ある。これは、 霊の人 の特徴と同じである。「御 霊を受けている人は、すべてのことをわきまえま す」 (Ⅰコリント2:15) とあるが、わきまえる 人こそ、霊の 人である。 集団の傾向や人間関係の状況を深く理解して、 そ れを土台にみ言葉を選別して会衆に語りかける… それが預言の大切な要素である。それは、誰にで もある素質であり、 「あなたがたは、みながかわる がわる預言できるのであって、すべての人が学ぶ ことができ、すべての人が勧めを受けることがで きるのです」 (Ⅰコリント14:31,32) と言われている。 洞察力、預言の賜物が教会に求められている。そ れがリーダーシップになる。 "%! 8 August ● 月日 信仰、 恵み あなたがたは、信仰により、神の御力によって守ら れており、終わりのときに現わされるように用意さ れている救いをいただくのです。(Ⅰ ペテロ1:5) 私達は、神の力によって守られている。「罪過の中 に死んでいたこの私たちをキリストとともに生か し、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによ るのです」 (エペソ2:5) とあるように、その信仰は神 の恵みであり、救い そのものである。 神の真実は選ばれた者を恵みによって守り、全うさ れるので、固い約束の上にある。「あなたがたを召 された方は真実ですから、きっとそのことをしてく ださいます。 」 (Ⅰテサロニケ5:24) という。 たとえ、 どのような状況に至っても、 あるいは信仰が無 くなったかのように見えたとしても…神の真実の御 手からの出ることは無い。 "%" 8 August ● 月日 悪人と善人 なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力 を増すのか(ヨブ 21:7)。それゆえ、悪者は、さばき の中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに 立てない。(詩篇1:5,6) 悪人は神を無視する人であり、善人は神を真剣に 求める人である。そのどちらにも、報いがあると言わ れており、当然善人が祝福を受けるはずである。し かしながら、 「…この足がたわみそうで、私の歩み は、すべるばかりだった。それは、…悪者が栄え …彼らのからだは、 あぶらぎっている」 (詩篇 73:1ということが起こる。 4) 人生は、 「肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈 り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠 のいのちを刈り取る。 」 (ガラテヤ 6:8) という原則に 沿って動いている。 ただ、神が共にいますという絶対保証を確認して、 「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせ なのです」 (詩篇 73:28) と叫ぼう。 "%# 8 August ● 月日 種まく人 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟 る人のことで、その人はほんとうに実を結び、ある ものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍 の実を結びます。(マタイ13:23) オランダの画家ゴッホの作品に「種まく人」がある。 そこに描かれている人、光、風、水…にいのちを感じ る。種は土を通して栄養をもらい、世話されながら 成長する。 聖書は、み言葉を種に、 それを聞く人の心を土にた とえて、 「心に植えつけられたみ言葉を、すなおに 受け入れなさい。 」 (ヤコブ 1:21) と言っている。地 に植えられ、成長し、花を咲かせ、実を結ぶために は、 心が耕され、 砕かれなければならない。 私たちの心には、怒り がある。それを他人、 社会、 そしてついに自分にぶつける。その元は自分自身 の罪と欲である。イエス ・キリストが一粒の種となって 死んでくださった。このお方を受け入れるなら、 種が 成長し、 豊かな実を結ぶ。 "%$ 8 August ● 月日 舵を取る人 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知 恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさ い。 私たちはその人たちをこの仕事に当たらせる ことにします。(使徒 6:3) 教会を船にたとえると、それを運行するための重要 な役割は船長や操舵手にある。船長は行先を示 す役割であり、操舵手には船が航路を守るために 舵を操作し、船が安全に航行するために、見張る 責任がある。これは教会のリーダーのことである。 リーダーには、管理の賜物が必要で、原語(ギリ シャ語)では操舵手の意味である。これが教会の 長老・執事会や役員会に相当する。初代教会に おいて長老たちが重要な問題を討議した後、 聖 霊と私たちは次のように…決めました 。と宣言した (使徒 15:28) 。教会の役員たちはこのように聖霊 の導きに敏感であるべきである。 「あなたがたの中から御霊と知恵に満ちた評判 の良い人たちを選びなさい…この仕事に当たら せることにします」 (使徒 6:3) 。 "%% 8 August ● 月日 ヨブ記からの暑中見舞い 神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏ま れる。神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、 南の天の室を造られた。(ヨブ 9:8-9) 暑さで弱っている時、 ヨブ記を読むがいい。 ヨブ記全体が、 暑い夏の夜空に星を見る様子を示 している。壮大な情景を表しながら、 「水は海から 消え去り、川は干上がり、かれる。 」 (14:11) と、空 から見えるような真理を語っている。 このようなみ言葉に接すると、人生について深く考え させられ、日常の小さな出来事から解放される思い になる。 ヨブ記には、神御自身の深みから吹き上がってくる 涼風が漂っている。聖霊の風は決して激しい風だ けではなく、 心地よくやさしい涼風もあるのだ。 暑い夏、帆を大きく張ってこの聖霊の風をいっぱい に受け、 あなたの船を進めよう。 "%& 8 August ● 月日 信仰の形 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなた を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはあり ません。ただ、おことばをいただかせてください。 そうすれば、私のしもべは直りますから。 (マタイ8:8) この百人隊長の言葉は大胆で、 堂々として、 また、 カ ナンの女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬 でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきま す。 」 (マタイ15:27) と言い、あきらめない 信仰を表 している。 また、 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何 一つとれませんでした。でもおことばどおり、網を おろしてみましょう。 」 (ルカ5:5)は、相手に対する 義理から従う行動ではあるものの、これも一つの形 である。さらに、ひきつけのある息子を癒してほしい と願う父親(マルコ9:17-24)の場合は、それしか方 法が無いと思うような絶望的な態度であった。 信仰の行動に公式は無い。ただ共通していること は、 み言葉にかけて行動することである。 "%' 8 August ● 月日 忘れない 主のよくしてくださったことを何一つ忘れるな。 (詩篇 103:2) 不信仰の原因は先入観からくる 「頑固」である。こ れは、 まわりの事を思いやることが出来ないほど鈍感 になっていることも意味している。 わずか 5つのパンで 5,000の人が食べた奇跡を目 の前にしながら、その後すぐに「そこで弟子たちは、 パンを持っていないということで、互いに議論し 始めた。 」 (マルコ8:16) という。残念な事に、鮮明 な恵みを、 新鮮に思い返さなかったのである。 過去の体験の上に自らの信仰を打ち建てなければ ならない。いつも、恵みの記憶に心を開くことが重 要である。 忘れることは信仰の大敵である。現在の困難にの み目を向け、 過去の恵みを見ないように仕向けること がサタンの特徴である。神から受けた恵みを忘れ てはいけない。 "%( 8 August ● 月日 キリストの信仰 七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。 神の激しい怒りはここに窮まるのである。 (黙示 15:1) 黙示録に書かれている七つの災害の中で、 神に汚 れたことを言い続け、自分の行いを悔い改めない姿 は、 我々の罪深さそのものである。 自分の罪深さを考えると同時に、身代わりとなり、十 字架において神の怒りを受けてくださったキリストの ことを考えよう。 「ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈 る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開 かない。 」 (イザヤ 53:7) 。キリストは人にも、神にも捨 てられた。このキリストが、 私たちの内に生きておられ る。 私たちに提供された信仰は、さまざまな試練、火を 通して精錬される金にもまさって尊い。十字架を通 られたキリストの信仰によるものだからである。信仰 は私たちの一部分ではなく、 キリストそのものなのであ る。 "%) 8 August ● 月日 継承モデル それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上 げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 彼は エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、 「エ リヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、 彼が再び水を打つと、水が両側に分かれたので、エ リシャは渡った。(Ⅱ列王 2:13∼14) エリシャはエリヤにどこまでもついて行き、別れ際に、 「あなたに何をして上げようか、求めなさい」 と言 われて、 「あなたの霊の、二つの分け前が私のも のになりますように。 」 (2:9) と願った。するとエリヤ は、 「あなたはむずかしい注文をする。しかし、 もし、 私があなたのところから取り去られるとき、あなた が私を見ることができれば、そのことがあなたに かなえられよう。 」 (2:10) と言った。しばらくする内に、 火の車、火の馬がエリヤを天に引き上げるのをエリ シャは見た。 新約時代に生きるすべてのクリスチャンは、主イエス が天に引き上げられ、栄光の御座についておられる ゆえに、 その意味を悟ることができれば、聖霊のバプ テスマを受ける。「今あなたがたが見聞きしている この聖霊をお注ぎになったのです」 (使徒 2:33) "& 8 August ● 月日 買い戻す また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分 の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永 遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル 9:12) あがな 罪の世界から贖うとは、 「買い戻す」 という意味であ る。つまり、 そのためには、見合った代価が必要とな るということである。私たちの罪が赦されるためには、 神の御子イエスの命という、 とてつもなく大きな代価 が必要であった。 イスラエルの民が、エジプトを出て行く時、災いを逃 れるために、神の命令に従って、門の かもい に小 羊の血が塗られた(出エジプト12:22) 。その家の 中にいるすべての者は救われた。その時は、小羊 の血であったが、あなたのためには、イエスの十字 架が必要であった。 「やぎと子牛との血によってではなく、 ご自分の血 によって、ただ一度、 まことの聖所にはいり、永遠 の贖いを成し遂げられたのです。 」 (ヘブル 9:12) ゆえに、主イエスは十字架上で「完了した。 」 と叫ば れたのである。 "&! 8 August ● 月日 うわさ信仰から体験信仰へ 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、 今、この目であなたを見ました。(ヨブ 42:5) うわさで満足することなく、自ら体験すること。ヨブの 試練の大目的がここにあった。 ヨブの試練は、サタンと主との会話、 「主はサタン に仰せられた。 『では、彼のすべての持ち物をお まえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばし てはならない。』そこで、サタンは主の前から出て 行った。 」 (1:12) 、 「主はサタンに仰せられた。 『で は、彼をおまえの手に任せる。』 」 (2:6)から始まっ た、 サタンと神との戦いであった。 ヨブの信仰は、慰めに現れる他の 4人と同じように、 非常に観念的なものであった。たが、この試練を 通して、彼は真実を神に語るようになり、現実的なも のに変わっていく。しかしながら、彼の友はいつまで も神についての美辞麗句を並べ、観念に酔い、ヨ ブの試練の原因を知っているかの様に振る舞った。 それは霊的傲慢であり、 彼らの罪はここにある。 "&" 8 August ● 月日 どうすればいいのか? 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。 ですから、…みことばを、すなおに受け入れなさい。 …また、みことばを実行する人になりなさい。自分 を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 (ヤコブ 1:20-22) 御霊の働きを実感したければ、どうすればいいの か?悪を捨て、 み言葉を実行する時、 信仰が生きた ものとなり、 御霊の働きを実感できる。そして、恐れ から解放されることを体験する。「愛には恐れがあ りません。全き愛は恐れを締め出します。 」 (Ⅰヨハ ネ4:18) と約束されているからである。 また、優しくなり、悲しませない時にも、御霊の働きを 経験する。「神の聖霊を悲しませてはいけません。 …お互いに親切にし、心の優しい人となり…互 いに赦し合いなさい。 」 (エペソ4:30-32) 「きょう、 もし御声を聞くならば、 あなたがたの心を かたくなにしてはならない。 」 (ヘブル 4:7) "&# 8 August ● 月日 主の日 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの 音のような大きな声を聞いた。(黙示 1:10) 聖書の中では、主の日 は、 さばきの日、 怒りの日 (ゼ パニヤ 1:15、 Ⅱペテロ3:10) だが、 キリストの復活の日、 日曜日の礼拝をも意味する。 黙示録を書いたヨハネは、ある主の日(新共同 訳) に、 聖霊に導かれ、 天国を見ることになった。多 くの使徒はすでにこの世を去っていたが、彼は最後 まで生き残り、パトモスという流刑地で、主を見上げ、 主との交わりと賛美を楽しみ、7つの教会をとりなし、 主の日 を喜んで迎えていた。彼の白髪は輝いて いたに違いない。常に喜びに満たされ、 御父のみも とに召されるそのときまで、御国の尽きない新しさを味 わっていた。 あなたも、 主の日 を待ち望むなら、ヨハネのように、 御霊に感じて新しい歌を歌うことができる。 "&$ 8 August ● 月日 食い尽くした年を償う方 いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、 わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い 尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。 (ヨエル 2:25) あなたの歩みに中で、いなごの襲来のような経験は あるだろうか?「大草原の小さな家」での出来事で はなく、毎日の生活の中で突然起こることで、 もし日 常の中に働いている主の約束を信じることが出来な ければ、あっと言う間に荒地になってしまうことがある …その事である。 主は、 「御霊に導かれて荒野に上って行かれ」 (マ タイ4:1) 、 「あなたが神の子なら、この石がパンに なるように、 命じなさい。 」と悪魔に言われ、 イエスは 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から 出る一つ一つのことばによる」 (マタイ4:3-4) と書 いてある。と言われた。この 書いてある… という 言葉が重要である。 御霊に導かれる人は、真理のみ言葉を土台に、責 められる根拠を無効にする。 "&% 8 August ● 月日 ひとつの祈り 神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。「あな たに何を与えようか」…。ソロモンは神に言った。 …今、知恵と知識を私に下さい。…「あなたが富を も、財宝をも、誉れをも求めず…自分のために知恵 と知識を求めた」。(Ⅱ 歴代 1:7-11) ソロモンは神様から何が欲しいか尋ねられた時、 知恵 を求めた。すると神様は、彼が求めなかっ た祝福をも併せて与えて下さった。「そのうえ、私 はあなたの前の、また後の王たちにもないほど の富と財宝と誉れとをあなたに与えよう」 (Ⅱ歴 代 1:12)。これが、 神の国の法則である。 パウロもやはり、 「兄弟たちよ。私は、自分はすで に捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一 事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘 れ、ひたむきに前のものに向かって進み…」 (ピリ ピ 3:13) と告白し、 キリストのみを追求した。 分別のある成長したクリスチャンは、 あれもこれも ではなく、 一つの事を祈る。 "&& 8 August ● 月日 御霊にある自由 主の御霊のあるところには自由があります。 (Ⅱ コリント3:17) 御霊のあるところとはどこか・・・?そこに自由があると いう。それは、 間違いなく 十字架 である。 旧約時代には、主の臨在は契約の箱のふたの上 で、ケルビム (天使) が向き合うその空間にあったと 書かれている。その箱の中には十戒の板が収めら れていた。すなわち、 それは神の聖さとみ言葉であ あがな り、 贖いのふたは、 恵みを表している。 もし私たちが、罪の赦しを経験するキリストの十字 架にあるなら、神と自由に交わることができ、御霊は 恵みを啓示される。それは、キリストの血が流され たと言う事実に依存しており、キリストの死によって、 確かなものとなったのである。 「私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私 のうちに生きておられるのです。」 (ガラテヤ 2:20) 。 "&' 8 August ● 月日 きみは愛されるため生まれた わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わ たしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。 (ヨハネ14:21 新共同訳) こんな恵みの歌で人生が始められたら、 何と幸いだ ろう。それが現実になった。あなたは、神様に愛 されるためにこの世に生まれたのだ。この歌は、単 なる願いや希望ではなく、キリストにあって現実にな る。十字架と聖霊によって保証された、確かなも のなのである。 イ ・ ミンソプは、 このように歌う 「きみは愛されるため生まれた きみの生涯は愛で満ちている… きみの存在が私にはどれほど大きな喜びでしょう」 どんなに厳しい現実が目の前に迫っても、神様の約 束に触れるなら、優しい交わりがそこにあり、愛される ために頑張らなくてよい。素直に信じ、正直であれ ば十分であることがわかる。肩の力を抜いて、 聖霊 に満たされ、 心静め、 恵みの歌に耳を傾けよう。 "&( 9 September あなたがたの思い煩いを、 いっさい神にゆだねなさい。 神があなたがたのことを心配してくださるからです。 ─Ⅰペテロ 5:7 ─ 9 September ● 月日 将来と平安 あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師た ちにごまかされるな。 あなたがたが夢を見させて いる…彼らはわたしの名を使って偽りをあなたが たに預言している…。(エレミヤ 29:8,9) エレミヤを通して、神が語られたことばは真理で あったが、ハナヌヤが語ったことばは偽りであった。 彼は占い師、 夢見る者であった。 ハナヌヤは、捕囚は 2年ほど我慢すれば終わると 預言し、エレミヤは 70年と預言した(29:10) 。そし て、 この間に家を建て、畑を作ってその実を食べ、 そ の町の繁栄を祈れ(5-7) と言われた。そこで平安、 将来、 希望が与えられると言ったのである。 将来や平安は、今自分がいる所とは別のところに 求めたいと思い、今の自分ではなく別の誰かになり たいと願うことが多い。神があなたを召し出し、将 来と平安を与えようとするところは、実は、今あなた の立っている場所であるかもしれない。 "' 9 September ● 月日 今、 歩み出す あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川 を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとし ている地に行け。(ヨシュア 1:2) 神は新しいチャレンジに向けてヨシュアとイスラエル の民に「立って…」と仰せられた。立つために必 要な最大の要素は、積極的な自己評価である。 それは正しい良心から生まれる。テモテに、 「この 命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信 仰とから出て来る愛を、目標としています。」 (Ⅰテ モテ1:5) と言われた通りである。 中国の有名な牧師ウオッチマン・ニーはその著書 の中でエペソ書からクリスチャン生活について、ま ず天に座す事(エペソ2:6) 、歩くこと (4:1) 、そして 立ち向かうこと (6:13) を説明している。 あなたに主が願っておられるチャレンジは、 今日、 歩みだす ことである。 "'! 9 September ● 月日 ヨシュアの決断 それからわたしは、モーセとアロンを遣わし、エジ プトに災害を下し…その後、あなたがたを連れ出し た。わたしが、あなたがたの先祖たちをエジプトか ら連れ出し…。(ヨシュア 24:5,6) モーセは、エジプトから民を連れ出す決断をしたが、 あなたにもその決断が必要である。本当にあなた が願っている国が自分の国となるためには、決断 が必要なのである。 この世界には三種類の人しかいない。第一は、 生 まれながらエジプトに住む人で、いわゆる神を知ら ない人(Ⅰコリント2:14)。第二は荒野に住む肉に 属する人、すなわち良心や律法に支配される人。 そして第三は、約束の国カナンに住む人、すなわち 御霊に属する人 (Ⅰコリント3:1) である。 あなたが、第三の人に所属しているなら、モーセと 同じ決心ができる。それが期待されている。 "'" 9 September ● 月日 完了した イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、 「完了し た。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡し になった。(ヨハネ19:30) 神が、御霊によってご自分のみこころを行うための 土台作りは、キリストの十字架で完了した。キリスト は、それを宣言し、過去・現在・未来…すべてを貫 き、全世界に響き渡る恵みの真理がここに立てら れた。 それは、すべての人のあらゆる罪を赦すための法 則であり、 すべての人に適用できるもので、 生まれつ きの罪の性質から解放するためのものである。キ リストは、父なる神に「わたしは成し遂げて、地上 であなたの栄光を現わしました。」 (ヨハネ17:4) と 言われた。 その目は、死を越え、陰府を貫き、復活とその後の 昇天、御座での父との交わり、栄光の御霊を見て おられたのである (使徒 2:33) 。 "'# 9 September ● 月日 ギデオンの300人 こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞ れ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止 めた。(士師 7:8) 神はただ単に集まった烏合の衆を用いることはなく、 聖霊に満たされた少数の民を用いられる。ギデオ ンのもとに最後に残った 10,000人の兵士達の中 で、 さらに精選された者は、 わずか 300人であった。 「そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は 三百人であった。残りの民はみな、ひざをつい て水を飲んだ」 (士師 7:6) 。これは、たとえ渇きの ためであっても敵に備える心構えを失わなかった、 という意味である。 御霊に満たされた人の資質は、 「神が私たちに 与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、 力と愛と慎みとの霊です」 (Ⅱテモテ1:7) にある。 自己制御できる人がその人である。 "'$ 9 September ● 月日 サムエルよ… ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私が この子を主に願ったから。」と言って、その名をサム エルと呼んだ。(Ⅰサムエル 1:20) サムエル記に出てくる主な人物は、サウルとダビデ であるが、彼らに油を注ぎ、神のみこころを伝え、彼 らを支えた重要な人物はサムエルであった。 サムエルは、母ハンナの祈りによって誕生した。彼 は、 神の主の宮で育った。彼の主に対する態度は、 お話しください。しもべは聞いております。 であっ た。それが、彼の生活であり、祈りであった。彼は、 主が勝利をもたらしてくれた時には祭壇を築き、感 謝をささげ、まことに、主と共に歩み、主に用いられ た。 しかしながら、彼は自分の息子を正しく育てること ができずに苦しみ、うめきながらイスラエルのために 祈った。このような中で、 神は恵みの器ダビデを立 てたのである。 祈りの人を通して、主の宮の扉が開かれ、恵みとま ことがあかしされた。ああ、 「サムエルよ…!」。 "'% 9 September ● 月日 大いなるものは愛 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望 と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 (Ⅰコリント 13:13) 時に、何も信じることができなくなり、霊的な希望を 失い、 ビジョンを持つことが出来ないことがある。失 望の中で焦る気持ちに襲われることがある。 そのような時、神を愛している自分を見つめると、愛 されていることが分かる。神様と命の関係で結 ばれており、どんなに切ろうとしても、切れないことを 知ってホッとする。「私たちをキリストの愛から引 き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみで すか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険 ですか、剣ですか…」 (ローマ8:35-39) を確認でき る。 愛は信仰の究極の形であり、感じることのできる日 常の姿である。希望と信仰は未来を目指している が、愛はそこにあっていつまでも変わらない。愛は 神を確かめるために最も実際的なものである。だ からこそ、 最も偉大と言われているのだ。 "'& 9 September ● 月日 偉大なる無駄 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口か ら出るすべてのもので生きる、ということを、あな たにわからせるためであった。(申命記 8:3) エジプトからカナンまでの、たった 12日間の旅程を、 イスラエルの民は 40年も放浪した。これに、どのよ うな意味があったのだろう。停滞と後退、不信仰 と葛藤ばかりで、なんと非生産的な年月であったろ うか。 その時彼らには分からなかったが、神は明確な目 的を持っておられた。それは彼らが全ての点で神 の御心を確かめていく信仰を確立するためであっ た (申命 8:3)。 しばしば個人でも、教会でも、このような一見無駄 に見える停滞を経験する。しかし、神の御心は明 確である。神が与えようとされる賜物は、偶然でも 成り行きでもなく、ただ神によって与えられたことを証 明するためである。そのために私達は信じ、祈り、 待ち望まなければならない。すべての必要が神か ら直接与えられることを期待しよう。 "'' 9 September ● 月日 キリストの受肉 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私 たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来ら れたひとり子としての栄光である。この方は恵み とまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14) キリストは受肉された。その意味はヤコブの夢「は しごが地に向けて立てられている。その頂は天 に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上 り下りしている」 (創世記 28:12) に表されている。 主は天に至る階段を造るために来られたのである。 キリストは、人となられ、罪人と同じように、死と葬り、 復活というプロセスを通って天に帰られ、人を救う 道を完成された。したがって、キリストと同化してい る人は、 死と葬りによって、 罪から切り離される。 「古い人がキリストとともに十字架につけられた のは、罪のからだが滅びて…罪の奴隷でなく… キリストとともに生きることにもなる」 (ローマ 6:6- 8)。これがクリスチャン生活である。 "'( 9 September ● 月日 神の指 神の前から手の先が送られて、この文字が書かれ たのです。その書かれた文字はこうです。「メネ、 メネ、テケル、ウ・パルシン」。(ダニエル 5:24,25) このみ言葉は、おごり高ぶるバビロン王の目の前に、 突然神の指が現れて、突きつけられたもので、 「神 があなたの治世を数えて終わらせられたというこ とです。…あなたの国が分割され、メディヤとペ ルシヤとに与えられるということです。」 (ダニエル 5:26-28) と解説され、バビロン帝国は、 この言葉の 通りに、 一夜にして亡びた。 今日でも、世界で起こっている出来事は、同じであ る。神の指のひと触れによって歴史は変わり、状 況は変わる。ルカは、 「しかし、わたしが、神の指 によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の 国はあなたがたに来ているのです」 (ルカ11:20) と書いている。 神の指を期待しよう。 この国が変わり、 人々が救われるように・・・。 "') 9 September ● 月日 わが霊による こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あ なたがたの心のうちに住んでいてくださいますよ うに。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあ なたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長 さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を 持つように。(エペソ3:17,18) 教会には聖霊がある。そして信仰があり、 「愛に 根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが…」 (エペソ3:17) と書かれてある通り、お互いに愛し 合うことのできるためのキリストの愛がある。 教会は、これらを貫いて働いている神の力が支え ている。「私たちのうちに働く力によって、私たち の願うところ、思うところのすべてを越えて豊か に施すことのできる方に、教会により、またキリス ト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、 とこし えまでありますように。アーメン」 (エペソ3:20,21) 。 神を信じることとは、このような力を持っている教会 を信じる事である。 "( 9 September ● 月日 勝利の秘訣 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士 が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、 その背の高さは六キュビト半…。(Ⅰサムエル 17:4) イスラエル軍の前に、ペリシテから一人の代表戦士 が出て来た。その名はゴリヤテ、身長 3メートル近 くの巨人で、青銅のよろい、青銅の投げ槍で武装 していた。彼は、自信満々でイスラエルに果たし合 いを申し出、負けた方が奴隷として仕えることを要 求する。 イスラエルの民は、彼の姿やことばを聞いて意気消 沈、恐れて手も足も出なかった。そこへ、少年ダビ デが現れたのである。彼は、自分の経験から、神 はこれまでと同じように助けてくれると信じた。 この経験…神と共に歩む経験…が、勝利の秘訣 である。「勇敢でありなさい。わたしはすでに世 に勝ったのです」 (ヨハネ16:33) 。 "(! 9 September ● 月日 いのちの道を知らせて あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。 あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽 しみがとこしえにあります。(詩篇 16:11) ダビデが語ったこの言葉を、 ペテロはペンテコステの 日に語ったメッセージの中で引用した。 御霊によるクリスチャン生活は、キリストを私たちの 人生のナンバーワンにすることではない。主は、そ れを望んでおられない。もし、主がナンバーワンで あるなら、ナンバーツーは誰になるのか?2番目は 存在しない。リストも順位もいらないのである。 主が、 すべてである。あなたは、 御霊から離れて、 ど こへ行くのか。生きることはキリストである。 すでに死んでくださり、よみがえり、完成して、座して おられ、私たちもそこにある。その喜びを、 ダビデは、 いのちの道 と表現したのである。 "(" 9 September ● 月日 主は私の羊飼い 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 (詩篇 23:1) ダビデの生涯を貫いている鍵の言葉は、 「主」で あった。彼は事あるごとに主に尋ね求め、 「どこに 行くべきでしょうか…」 と言い続けた。ここに人生の 祝福の秘訣がある。「主は羊飼い」と言われてい るが、 彼は、 どのような羊飼いであったのか。 まず、彼は、迷ってしまった羊がどこにいるか見つけ るまで、探し出してくださる方であり、決して羊を置 き去りにすることなく、 羊のためにいのちを犠牲にする (ヨハネ10:11-15)方であった。そして、彼は羊の 声を知っている (ヨハネ10:4) 。 教会は、主の声を聞いて、集まって来た者が恵み を分かち合う場所である。あなたが、主の羊として、 自分を正しく認め、 自分を過大評価することなく、卑 屈になることもないことを願っている。お互いが「愛」 という結びの帯で結ばれることを期待する。 "(# 9 September ● 月日 彼らとともに 知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のも のだ。(ヨブ 12:13) ヨブの友達がこのみ言葉のように、 ここに留まってい れば、彼は、どれほど慰められたであろうか?しかし 彼らは、なんとか答えを見つけて、 ヨブに教えたかっ た。それが空回りしたのである。 苦しむ者に対して、信仰者や神学者であるよりも前 に、弱い人間でありたいと思う。神様の道を伝える ために、最も大切なのは、 このことである。苦しむ者 は、問題の答えを教えてくれる人ではなくて、 自分の 問題を聞いてくれて、 それを受け止め、一緒に涙を 流してくれる人を必要としている。 問題を受け止めるということは、それを感謝すること である。聞き流すことでは、心を傾けている姿を伝 えることができない。つらい、苦しい思いを、感謝で きるか…それが問われるのである。 "($ 9 September ● 月日 あなたが必要です 向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろば がつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに 気がつくでしょう。 それをほどいて、わたしのとこ ろに連れて来なさい。(マタイ21:2-3) 主イエスは、 ご自分の働きをするために、人を必要と される。働きを進めるために、 あなたが必要である。 すべてのものを従わせ、何でもご自分の思いのまま に進めることが可能であるお方が、 人を使って、 「行 きなさい、そしてこう言いなさい」 と言われるのである。 主がへりくだって、ご自身の御業のために使って下 さる。何と驚くべきことであろうか。 主は、 自分の必要を訴え、 その人からの献身を受け ることを望まれ、 「わたしの必要を満たしてほしい」 と 言われるのである。 あなたにはそれに応えるかどうかが問われている。 "(% 9 September ● 月日 日暮れには… 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるま で憤ったままでいてはいけません。 (エペソ 4:26) 日暮れまで憤ったままでいてはいけない、怒りを翌日 に持ち越してはいけないのは、それによって、 「悪魔 に機会を与えないようにしなさい」 (エペソ4:27) という意味である。心にスキを作らないためには、 愛することに目を向ける必要がある。「愛は、すべ てを信じ、すべてを期待し、すべてを耐える」 (コリ ント13:7)。愛に満たされていることが大切である。 日が暮れる前に古き人を脱ぎ捨て、日の出とともに 新しい人を着る。そして御霊による愛に満たされ、 祝福のことばを語り、 恵みを数え、 親切で、 愛されて いる子どもとして、 父なる神に従うのだ。 後ろのものを忘れ、前のものに向かって進み、あな たの中の愛を育てる。ただ、 この一事に励もう (ピリ ピ 3:13)。 "(& 9 September ● 月日 二つの呼びかけ 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のた ましいはあなたを慕いあえぎます。(詩篇 42:1) このみ言葉には呼びかけがある。「神よ」という言 葉である。これは、全てのクリスチャンがいつも祈り の中で叫ぶ言葉であり、 祈りの本質を表している。 そして、 この後に、 「わがたましいよ。なぜ、おまえ は絶望しているのか」 (詩篇 42:5) という語りかけ がある。 わがたましいよ!と、自分が自分に呼びか けるのである。 このことから、クリスチャンにとっての二つの世界が 鮮明になる。一つは「神」と言う超自然の世界で あり、もうひとつは「わたし」 という現実の世界である。 この二つの世界を選択する権利が与えられている。 神はそれを人に委ねられたのである。 「わがたましいよ」という叫びは、自由の証である (ガラテヤ 5:13)。 "(' 9 September ● 月日 ワーシップとサービス イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あな たの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いて ある」。(マタイ4:10) 英語では礼拝のことを、WorshipとService の二つ で表現する。まず、 ワーシップは、価値のあるものを 表す名詞で、ギリシャ語では「ひれ伏して足に口づ けする」の意味がある。 サービス (仕える) は「あなたがたのからだを、神に 受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささ げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝 です」 (ローマ12:1)にあるもので、献身を表してい る。 旧約時代の祭司は祭壇において犠牲を通して礼 拝の務めをしたが、新約の時代に求められる犠牲 は、 あなた自身である。献身を通して礼拝する。そ の結果が、 ワーシップになる。 サービス (仕えること) はワーシップの土台である。 "(( 9 September ● 月日 感謝して励む エルサレム、それは、よくまとめられた町として建て られている。(詩篇 122:3) エルサレムは、 み言葉にあるような評価を受け、多く の人に愛されていた。 最近、 私達の教会についての印象を、 外で聞くこと があった。その言葉は概して良いものであるが、お 世辞かもしれないとは思っても、 嬉しいことである。 み言葉にかけ、十字架に生きる との理念を掲げ て歩んできたが、いつも成長途上であることを覚え て、謙遜さを持ち続けなければいけない。ただ、私 たちの教会に与えられている働きには、さらなる開 拓精神が課題と思っている。それによって、教会 の魅力が増すに違いない。 いつも聖霊の新しい動きに対してチャレンジ精神を 持ち続けよう。霊の祭典が礼拝である。 感謝しつつ…。 "() 9 September ● 月日 内なる人と、 外なる人 その忍耐を完全に働かせなさい。・・・ただし、少し も疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹 かれて揺れ動く、海の大波のようです…。 (ヤコブ 1:4∼8) クリスチャンは絶えず二つの勢力の中にある。 欲 望 と み言葉 である。これは、外なる人と内なる 人と表現することもできる。 内なる人は、み言葉に結びついた霊的な自覚と言 える。「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、 心に植えつけられたみ言葉を、すなおに受け入 れなさい。み言葉は、 あなたがたのたましいを救 うことができます」 (ヤコブ 1:21) 。外なる人の傾 向を捨てて、み言葉に素直になるなら、み言葉が 生きる。そして、次のステップは行動することである。 (ヤコブ 1:22) 教会には行動が問われているが、まず内なる人が すでにみ言葉を信じていることを確認する必要があ る。なぜならば、クリスチャンはみ言葉で生きるから である。 ") 9 September ● 月日 神様から贈り物 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は 上から来る…。(ヤコブ 1:17) 神様が用意してくださっている 良い贈り物 は、ま ず第一に、新生 の中に見つけることができる。 「だ れでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく 造られた者です」 (Ⅱコリント5:17) とあり、神様の贈 り物であることが示されている。 第二に、あなたがキリストにある立場を選ぶとき、 「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に 植えつけられたみことばを、すなおに受け入れな さい。みことばは、あなたがたのたましいを救う ことができます」 (ヤコブ 1:21) とあるので、ここでも 神様の贈り物を見出すことができる。さらに「みこ とばを実行する人になりなさい。」 (ヤコブ 1:22) の通りに、 み言葉によって積極的に自己評価してい く時にも、 それが可能になる。 全てのクリスチャンにはみ言葉につながれた命の 本能があると言ってよい。これを信仰の本能と表 現し、 み言葉を告白し、 行動する者となろう。 ")! 9 September ● 月日 神の作品 私たちは神の作品であって、良い行いをするため にキリスト・イエスにあって造られたのです。 (エペソ2:10) 私たちは 神の作品 と言われている。ということは、 神はアーティストである。神は、創造のわざを休ん だ時に人を造ったと書かれてある。つまり、人は神 が安息された時に作られた作品である。 神は、 そのような人を、 どうして見捨てることができよう、 罪に汚され、律法に縛られ、サタンに支配され、痛 み、傷ついているご自分の作品を、 その愛と義のゆ えに、イエスキリストを犠牲として、買い戻したのであ る。 神は人を創り主の手に返し、回復し、輝きを取り戻 すために、神の作品のギャラリーである教会に集 めた。創り主の手に帰ろう。 急がず、 慌てず、 天にある場所に座って、 神の安息 に入ろう。 ")" 9 September ● 月日 キリストに捕らえられ 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされて いるのでもありません。ただ捕らえようとして、追 求しているのです。そして、それを得るようにとキ リスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。 (ピリピ 3:12) ピリピ教会のスタートは、 ご存じのように、 パウロが見 た幻によるマケドニアの叫びであった。パウロとシラ スは、聖霊に導かれて行ったが、彼らを待ち受けて いたものは、祝福ではなく、 あざけり、罵声、 むちと投 獄であった。魂の収穫もわずかであり、商人ルデ ヤとその家族のみであった。しかしながら、彼らは 牢屋の中でも喜び歌ったのである。その結果、獄 舎の看守とその家族が救われ(使徒 16:33) 、ピリ ピ教会の土台となった。 それから数年後、パウロは投獄されているローマか らピリピの教会に手紙を書いた。それは喜びの手 紙であった。彼の喜びは、 私を捕らえているのは 牢屋でもなく、 過去の出来事でもない。キリストであ る と表現されている。 ")# 9 September ● 月日 新しい人を着る 新しい人を着たのです。 新しい人は、造り主のか たちに似せられてますます新しくされ、真の知識に 至るのです。(コロサイ3:10) コロサイ人への手紙のひとつのテーマは 新しい人 を着た という言葉に表されている。 もちろん、 「新しい人」 とはキリストであって、 古い人を あがな 脱ぎ捨て、救われ、贖われ、勝ち取られ、御霊を内 に宿した人のことを意味している。 主を 私の救い主 と告白する人はこの新しい人に なっている。パウロは、この 着る という言葉で話 を進め、 「愛されている者として…身につけなさ い」 (コロサイ3:12) 、 「愛を着けなさい」 (3:14) と書いている。 新しい人を着ている事実を前提にして、衣服を選 びなさいと語っているように見える。上にあるものを 求め、 キリストが用意している衣服を着よう。 ")$ 9 September ● 月日 新しい歌を歌おう ハレルヤ。 主に新しい歌を歌え。 聖徒の集まりで 主への賛美を。(詩篇 149:1) 新しい歌にはそれを越える力がある。クリスチャン は新しい歌を歌う民である。人は本来変ることを 望まない保守的なものであるが、この言葉には、新 鮮な気持ちで歌えということだけでなく、 はじめて歌う という意味がある。新しい歌は、 主の十字架によっ て与えられた歌で、 主なる神への応答である。 キリストにより、すべての妨げは取り除かれ、聖なる 民とされ、新しい歌を歌う民となったのである。「幸 いなことよ。…まことにその人は主のおしえを喜 びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は 水路のそばに植わった木のようだ」 (詩篇 1:1-2) という新しい歌を聞き… 新しい歌を歌おう。 ")% 9 September ● 月日 使徒行伝 はつづく パウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たず ねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げ られることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリ ストのことを教えた。(使徒 28:30-31) 第Ⅰ列王紀 5:4-5には、 「主は、周囲の者から守っ て、私に安息を与えてくださり…私は、私の神、 主の名のために宮を建てようと思っています。」 と ある。神様の働きは、旧約の時代から変わってい ないことが分かる。 すなわち、神は、人を召して安息に導き、神の宮の 建設に当たらせる。キリストの十字架により、聖霊 によって平安と満たしを受けた弟子たちは、教会を 建て上げていったのである。 ある人は、使徒の働き のことを、聖霊行伝と呼び、 聖霊による働きの記録であることを強調しているが、 召された者の働きである 使徒行伝 という言葉も、 ふさわしい言葉と思う。教会はそのような記録を続 けている場である。 ")& 9 September ● 月日 キリストのからだ あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひ とりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:27) ここで、パウロは人のからだを用いて真理を解き明 かす。足が手に向かって、耳が目に向かって… 争ったりすれば、ひとつの体ではない。多様な器 官がそれぞれに機能を持っており、 それが、 ひとつの 目的を現わすために召されていると言うのである。 キリストにある教会は、ひとつの体となるように、御霊 によるバプテスマを受けた。すべての器官がキリス トにある愛と恵みを受け、調和させ、整え、互いにい たわりあう恵みを受けている。私が喜ぶとき、から だ全体が喜ぶ。悲しむとき、 からだ全体が悲しむ。 教会のかしらなるキリストによって導かれる愛の領 域において、 その事実を確認しよう。 一番すぐれているのは愛である。愛を追い求めよう。 ")' 9 September ● 月日 前に向かって 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考 えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のも のに向かって進み…。(ピリピ 3:13-14) 野球には、俊足を生かした盗塁というのがある。 塁を飛び出すときには、大変な勇気が必要だが、 次の塁ではなく、その先のホームを目指して走る… という。 パウロは私たちにキリストの栄冠を得るために、 目標 を目指して一心に走れと励ます。「うしろのもの を忘れ、ひたむきに前を向いて走れ」 といい、そし て「上にあるものを求めなさい。そこにはキリス トが、神の右に座を占めておられます」 (コロサイ 3:1) と言われる。 上におられる方を常に考えよう。そうすれば、不変 で不動。永遠の故郷(ホーム)は、あなたのため に用意されていることがわかる。 あなたを励まされる神と共に、 前進しよう。 ")( 9 September ● 月日 ご自分を無にして キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を 捨てられないとは考えず。(ピリピ 2:6) どのような奇跡が起きても大切なことは、主イエスの 十字架である。イエスがご自分を無にして、仕える 者の姿を取られたことを深く知らなければならない。 神の御前にへりくだり、 自分自身が貧しい者であるこ とに気づくこと、それが変革の第1歩である。神は へりくだっている者に働かれ、 祝福を注がれる。 この言葉を イエスは…十字架を抱え込まれた 。 と訳された方がおられたが、あなたも教会も、その 喜びのゆえに 十字架を抱きとめる と言えるように 願う。 あなたが持っているものでは何も出来ないかもしれ ないが、神にはできる。それに信頼して、天の窓が 開かれ、 あふれる祝福が流れ出すのを見よう。 ")) 10 October 信仰は聞く ことから始まり、 聞く ことは、 キリストについてのみことばによるのです。 ─ ローマ 10:17 ─ 10 October ● 月日 自由のあるところ 「主の御霊のあるところには自由があります」。 (Ⅱ コリント3:17) 御霊のあるところとはどこか?もちろん、旧約時代に あがな は、主の臨在は契約の箱の贖いのふた (贖罪所、 贖いの座) と呼ばれる場所で、ケルビムが向かい 合っている空間にあった。しかしながら、新約の世 界に生きる者にとっては、十字架 である。 もしあなたが 十字架 にとどまるならば、あなたと神 の間にある覆いが取り除かれて、神と自由に交わる ことができる。また、そこで、神の聖さが私たちの罪 を示し、 神の恵みを啓示され、 聖霊が働く。 もしあなたが 十字架 にとどまるならば、神の愛を自 由に受ける。「私たちに与えられた聖霊によって、 神の愛が私たちの心に注がれているからです」 (ローマ5:5) と言われている通りである。 # " 10 October ● 月日 さあ来て、 朝の食事をしなさい イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事を しなさい。」弟子たちは主であることを知っていた ので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋 ねる者はいなかった。(ヨハネ21:12) 「食べるものはありますか?」と聞かれた弟子たちは、 単純に 「はい、ありません」 と応えた。彼らは、夜通 しの漁にも関わらず、何もなく、疲れ果てて、お互い の交わりの気持ちも、会話も失っていたに違いない。 もちろん主は、パンと魚のことをたずねたのであるが、 同時に彼らの霊の糧も心配しておられたのである。 彼らは、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。 その上に魚がのせてあり、パンもあった。主は備え て、 待っておられた。 食事をしながら、 復活の主と出会い、 力を得た。主 は、朝の目覚めとともに私たちを迎えてくださる。鳥 の鳴き声、包丁のきざむ音、 目覚まし時計…は、主 の招きである。新しい時のはじまりを迎えよう。 # # 10 October ● 月日 3つの領域 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、 力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にい るもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12) 最近の伝道には、3つの領域が考えられている、そ れは、ローワーゾーン(下層領域) 、ミドルゾーン (中間層領域) 、アッパーゾーン(上層領域) と呼 ばれるものである。 アッパーゾーンは、超越的な唯一神の領域、ロー ワーゾーンは唯物主義、合理主義の領域であ る。その中間に、聖霊の働きを含めて様々な霊の 働きが関わる、 ミドルゾーンがあり、 ここにおける働きを 「力の伝道(Power Ministry) 」 と呼んでいる。 現代は理性を絶対とする合理主義が支配してお り、その影響は神学にも及んでいる。しかしながら、 多くの宣教師たちは、悪霊の現実に直面しており、 それが霊の戦いの場になっている (エペソ6:12) 。 そこでは、さまざまな霊的な現象が起こり (マルコ 16:17、 18),それが、 ミドルゾーンにおける神様の働 きとなっている。 # $ 10 October ● 月日 真理の帯 神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと 立ちなさい。 腰には真理の帯を締め、胸には正義 の胸当てを着け、…救いのかぶとをかぶり、また御 霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい …。(エペソ 6:13-17) ここに言われている武装は、当時のローマ兵のそ れを例にしている。最初の装備は真理の帯である (6:14)。帯は厚い皮でできた幅広のベルトで、こ れをまずしっかりと締める。真理をきつく締めなけれ ば、 信仰生活は始まらない。 霊の戦いはまさに真理の獲得にある。なぜなら人 は本来、真理を生きるために造られたからである (Ⅱ コリント13:8)。その真理とは十字架を生きることで あり、古い人から切り離された私が新しい人を着て いる自覚をもって生活することである (エペソ4:20- 24)。 サタンはこの真理を隠すか、ぼやかすかしてクリス チャンを中途半端にしようと情熱を注ぐ。真理に 生きているかどうかを確かめよう。真理の帯を固く 締めよう。 # % 10 October ● 月日 御霊の酒 酒に酔ってはいけません。 そこには放蕩があるか らです。 御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の 歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌 い、また賛美しなさい。(エペソ5:18-19) 酔酒には退廃の匂いがある。だからクリスチャンと 酔酒は似合わない。喫煙もおなじだ。 世の人は酒に刺激や癒しを求めるが、クリスチャン のそれは御霊の酒に求めればよい。この世の酒 は自制心を失わせるが、御霊の酒は覚めて楽しみ 豊かな情緒に浸らせる。 御霊の流れは教会を貫き、クリスチャンの心を貫き、 潤いの川となって神に向かって溢れている (Ⅰコリン ト14:2)。この流れに身も心も委ねることが、 御霊 に満たされる(エペソ5:18) ことである。 聖霊のバプテスマによって開かれている霊のチャン ネルを通して、御霊に満たされよう。賛美を解放し よう。 # & 10 October ● 月日 もはや私ではない 私はキリストとともに十字架につけられました。も はや私が生きているのではなく、キリストが私のう ちに生きておられるのです。いま私がこの世にあっ て生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお 捨てになった神の御子を信じる信仰によっている のです。(ガラテヤ 2:20) 比叡山の千日回峰行を成し遂げた或る高僧が、「 何か悟りを得ましたか」と聞かれて、 「ボーッとして何 だかわからんかった。仏を見たなどというのは錯覚 だろう。 」と答えたそうだ。内容はともかく、その正直 さにはすがすがしいものがあった。 聖書には、 「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着た」 (コロサイ3:9-10) とあるが、本当にそのような生活 が現実になるところに福音のすばらしさ、クリスチャ ン生活の真髄がある。 私はキリストと共に十字架で死んだが、 キリストと共 に生きている という言葉は、特別なものでなく、福 音を知った人々にとって現実である。烈しい修行 によるのでなく、キリストを信じることによって、実現す るのである。 # ' 10 October ● 月日 文字ではなく 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を 下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕 える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。 (Ⅱコリント3:6) 聖書の言葉は、律法と同じように、私たちをキリスト に導く養育係に過ぎない(ガラテヤ 3:24)が、み言 葉を信じることを通して、それが、信仰の対象となっ てしまうことがある。 聖書信仰 は正しい表現では あるものの、その盲点は、み言葉に表されている神 を信じ、聖霊の働きを信じていないことである。み 言葉は必ずキリストの臨在に、御霊の実感に導く はずである。 海に突き出た長い桟橋があったとしよう。それをど んどん歩き続けその先端に立って、海に浸りたい時、 どうすればよいか?もちろん、そこから飛び込めばよ いのだ。 み言葉は、御霊の海に突き出た桟橋だ。そこで 足踏みするだけでは、観念の遊びになる。み言葉 から御霊に移らなければ御霊の現実に触れること はできない。 # ( 10 October ● 月日 主の戦い あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れ てはならない。 気落ちしてはならない。この戦い はあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。 (Ⅱ歴代 20:15) イスラエルの民がエジプトを脱出した際には、執拗 に後を追うエジプトとの戦いを強いられた。民を導 くモーセは厳しい状況の中に置かれた。エジプト 軍は押し迫ってくる。イスラエルの民は恐れのため に、どうして私たちを連れ出したりしたのかと訴える、 眼前は海… 行き詰まったモーセが叫んだのは、恐れるな 。主 の救いを見よ。あなたがたは永久にエジプト人を 見ることはない。 主があなたがたのために戦われ る であった。モーセ自身も恐れと不安、苛立ちの 中にあったに違いないが、叫んだのである。神へ の祈りの叫びであったのかもしれない。 私の内に住みついて、エジプトのように追いかけ、 付きまとう罪、 情欲、 古き人との戦いに、 キリストによっ て、 勝利し、 安息に生きるのである。 # ) 10 October ● 月日 消えない火 すると主の使いが彼に、現れた。 柴の中の火の炎 の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴 は焼け尽きなかった。(出エジプト3:2) 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみ まできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない 火で焼き尽くされます。(マタイ3:12) 消えない火 は神の臨在である。モーセは、その 光景を見て、神の召命を受けた。あなたは 消え ない火を見て、 それに触れたか?と聞かれるなら、 ど のように答えるか? もちろん ハイと応えるべきである。なぜなら、 あなた は確かに見て、今も見ているはずだからである。十 字架につけられたキリストが、あなたの前におり、聖 霊はあなたの内に宿ってくださっているから…。 消えない火、燃える柴、十字架につけられたキリスト、 これが臨在である。 あなたの立っているところは聖なる地である。 #! 10 October ● 月日 信仰の時 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために 羊の群れを飼っています。 獅子や、熊が来て、群 れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、 それを殺し、その口から羊を救い出します。それが 私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺 しています」。(Ⅰ サムエル 17:34,35) ゴリヤテに立ち向かったダビデの信仰は、 自信に満 ちている言葉で表現されているが、これは、いわゆ る盲信ではない。現実に獅子や熊を打ち倒す実 績に裏打ちされた確信であった。 彼は、羊の群れを飼うという平凡な日常生活を 送っていたが、その中で育てられた信仰は、神が 選ばれた時に、神様が与えられた賜物として発揮 されたのである。特別な時のために、特別な準備 をすることはできない。平凡に見える生活の中で 培われるのである。 あなたの前に、 ゴリヤテが現われても、驚いてはなら ない。目を見張るような答えが来ることを期待しよう。 それは、 主の戦いである…。 #!! 10 October ● 月日 御霊にある自由 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには 自由があります。(Ⅱコリント3:17) モーセの時代においては、 誰もが直接神と交わるこ とができた訳では無かった。特別に選ばれた人 や、決められた儀式が必要であり、非常に不自由 であった。しかしながら、時が満ちて (ガラテヤ 4:4) 、 神の奥義が示され、十字架につけられたキリストを 通して、誰もが父なる神を交わることが出来るように なった (ガラテヤ 3:1)。 御霊によって、十字架のキリストは現実となり、信じ る者の力 (Ⅰコリント1:18) となった。私たちの内にキ リストが形造られていくプロセスは、罪について、義 について、さばきについて (ヨハネ16:8-11)知ること である。 十字架はこのことを明確にしている。まず、罪が赦 され、神の義が示される。そこでは、サタンと死の 力は無力であり、さばきの時は希望になる。そして、 御霊にある自由は、私たちの安息の場、神との交 わり、 悔い改め、 いやし、 解放、 変革、 成長である。 #!" 10 October ● 月日 悲しむ者は幸い 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるから…。 (マタイ5:4) このみ言葉で使われている「悲しむ」という原語は、 悲しさをあらわすことばの中でも最も強いことばであ る。抑えても、抑えても涙が出てきて、悲しみで一 杯になる。そのような経験である。 誰しも、悲しみは経験したくないであろうが、人生に 悲しみは現実に起こる。悲しみを正しく知る人は、 人への愛着を増すと言えよう。ただ喜びしか知ら ない人は、深い人生を表すことが出来ない。悲し みは、新しい神様の領域を受け止めることが出来 るためのレッスンと言えよう。そこでは、十字架を仰 ぎ、 イエスの悲しみや涙を受け止め、 自分の罪の深 さを知るのである。神様が私の人生に働いておら れ、 導いておられることを味わうことができる。 そのとき、はじめて確信に満ちた、安全で確かな 錨(ヘブル 6:19)のような喜びを知ることができる。 「その喜びをあなたから奪い去る者はありませ ん」 (ヨハネ16:22)。 #!# 10 October ● 月日 神の国 時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を 信じなさい。(マルコ1:15) 福音書で何度も強調されている福音とは 神の 国 のことである (例えば、マタイ9:35、マルコ1:15、 ルカ9:2)。これは、神の支配を意味しており、いわ ゆる天国のことだけを言っているのはない。 この国は、本来人間に与えられたものであったが、 罪によって悪魔の支配下に置かれてしまったもの である。主イエスはその支配権をサタンから人間 に回復させるために来られた。「この世を支配す る者が来るからです。彼はわたしに対して何も することはできません。」 (ヨハネ14:30) と約束さ れている。 主がこの地上で行った様々の奇跡と教えはそのこ とのデモンストレーションであったと言えるが、その回 復を実現するためにはどうしても十字架の代価が 必要であった。 神の国の権威は教会に与えられている。 #!$ 10 October ● 月日 信仰を増して下さい 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してく ださい。」しかし主は言われた。「もしあなたがた に、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木 に、 『根こそぎ海の中に植われ』 と言えば、言いつけ どおりになるのです。(ルカ 17:5,6) 弟子が信仰を増やしてほしいと言った時に、主は からし種ほどの信仰があったなら… と言われたが、 信仰は努力などによって増やすものではなく、ある 条件が満たされると、 供給されるものである。 マタイの福音書には、イエスが 信じる者には、どん なことでもできるのです と言われると、その子の父は 叫んで 「信じます。不信仰な私をお助けください」 (マルコ9:23-24) と言った。これはみ言葉を信じ ることを表し、 「この種のものは、祈りと断食によら なければ…」 (マタイ17:21) は、祈りもその条件とな ることを意味している。 いづれにしても、 信仰は、 種が植えられ、 それが成長 するように大きくなるのである。 #!% 10 October ● 月日 イエス・キリストの系図 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト の系図。 アブラハムにイサクが生まれ、・・・・ヤコ ブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ば れるイエスはこのマリヤからお生まれになった。 (マタイ1:1-16) ご存じのように、新約聖書は名前の羅列で始まり、 はじめて聖書を読む人を戸惑わせる。しかしながら、 イエス・キリストの系図は非常に重要である。これは、 キリストの生涯は歴史的な真実で、その歴史性が 重要であることを意味している。 特に、新約はそのことの証であり、聖霊はこの中で 働かれるのであるが、これを神秘化したり、理想化 したり、キリストの歴史性を否定したり、あるいは科 学的な分析を表に出して人間の宗教心にアピー ルするのは異端のやり方である (Ⅰヨハネ4:1-6) 。 それは、人間の知恵が神となる巧妙な偶像礼拝 にほかならない。 福音書を通して、歴史的人物、我らの救い主イエ ス・キリストとの新たな出会いを体験しよう。 #!& 10 October ● 月日 こうして教会は… こうして神のことばは、ますます広まって行き、エル サレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、 多くの祭司たちが次々に信仰に入った。(使徒 6:7) 教会の成長は宣教の拡大にあり、教会が成長す るのは、ペンテコステのような霊的な奇跡が起こる 時、と考えるかもしれないが、使徒の働きには、ごく 現実的で、 実際的なことが書かれてある。 まず、 第一は組織と賜物を整備した時である。 「彼 らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノを…選 び…祈って、手を彼らの上に置いた」 (使徒 6:5- 6)。第二は、試練を経た後である。「彼らはサウ ロを殺そうとねらっていた。…こうして教会は、 聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数 がふえて行った。」 (9:29-31)。そしてさらに、有能 な指導者を得た時である。「彼はりっぱな人物 で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうし て、大ぜいの人が主に導かれた」 (11:24-26) 。 組み合わされ、 結び合わされて成長するのである。 #!' 10 October ● 月日 共観福音書 私たちの間ですでに確信されている出来事につい ては、初めからの目撃者で、みことばに仕える者と なった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多く の人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試み ておりますので、私も、すべてのことを初めから綿 密に調べておりますから、あなたのために、順序を 立てて書いて差し上げるのがよいと思います。 尊 敬するテオピロ殿。(ルカ 1:1-3) マタイ、マルコ、ルカによる聖書の記事は 共通の題 材が多く、共観福音書 と呼ばれている。 同じ内容の事実を伝えていながら、 マタイは旧約の 預言の成就としてのイエスをユダヤ人に紹介し、マ ルコは現世的実際的なローマ人に対して、短い言 葉で具体的表現を用いて説明し、ルカは医者とし ての特徴を持った視点で、哲学的なギリシャ人を 対象に、 かなり客観的に描写している。 聖書は、受ける者が様々であることを想定して書か れており、誰でも受け取れるかたちで福音を伝えて いる。まことに、 細やかな心遣いと言えよう。 #!( 10 October ● 月日 天の御国とことば 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。 人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大 喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買い ます。(マタイ13:44) マタイの福音書は 天国の書 とも呼ばれているが、 13章にはそのたとえが、 いくつか記されている。 まず、天国は神のことばそのもの(3-23)であること を、 種まきの話 として語られ、さらに「彼の敵が 来て麦の中に毒麦を蒔いて行き…毒麦も現れ」 (25,26) と言われている。人はこのみ言葉の基 準で選別される。 それは、たとえ平凡に見えても、 「天の御国は、から し種のようなものです。…どんな種よりも小さ いのですが、生長すると、どの野菜よりも大きく なり…」 (31-32)条件次第で偉大な力になるので ある。 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から 出る一つ一つのことばによる」 (マタイ4:4) と書い てある。 #!) 10 October ● 月日 自己をどう生かすか 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のよ うに、土台を据えました。そして、ほかの人がその 上に家を建てています。しかし、どのように建てる かについてはそれぞれが注意しなければなりませ ん。(Ⅰコリント3:10) パウロは、自己中心に生きている人に対して、 「さて、 兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御 霊に属する人に対するようには話すことができ ないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対 するように話しました。」 (3:1) と言われたが、御霊 に信頼して生きる人には「御霊を受けている人は、 すべてのことをわきまえます…」 (2:15) とも語って いる。 霊のクリスチャンは使命感を持ち、充実感に溢れ、 永遠に残る信仰の報酬を受ける。「もしだれかの 建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は 損害を受けますが…自分自身は、火の中をくぐる ようにして助かります」 (3:14,15) 。 これは、 クリスチャンに対するチャレンジである。 #" 10 October ● 月日 宣教大命令 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべての ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わた しは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに います。(マタイ28:20) 銀行家として大家族を支えていたルイス・パラウ師 が伝道者に転向したきっかけは、敬虔なクリスチャ ンであったお母さんの一言だったという。ルイスが、 「私にはまだ召命がありません。 」 と言った時、お母 さんは「何の召命ですか!主は 2000年前にすべて の信徒にすでに召命を与えておられるではありませ んか。」 と言われたそうである。 実は、全ての教会はこの召命 (大宣教命令と言わ れている)を受けている。この命令には、確かな保 証が与えられており、全能の主が共に働いて下さ るのである。 主の召命に応えよう。 #"! 10 October ● 月日 出て行って、 語り… そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝 えた。 主は彼らとともに働き、みことばに伴うしる しをもって、みことばを確かなものとされた。 (マルコ16:20) 主を信じきって静かにみ言葉を語られる人には大 きな力が働く。主の約束である、 宣教命令 に忠 実従っているからである。そこでは、人を驚かすよう な奇跡や、何かのハプニングが起こることが約束さ れている訳ではない。たとえセンセーショナルなこと は何一つ無くても、静かに御霊が働き、人々の心を 捉えるのである。 十字架はまず自発的なものであり、そして次に他人 のために自分の権利を犠牲にすることにある。そ の結果として、 主の意志に自分の意志を委ねること になる。そこから命が流れて、 まわりの人々を生かし ていく者でありたい。 主に従う働きは、み言葉を生活する結果であること を確認したい。 #"" 10 October ● 月日 み言葉の確かさ そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝 えた。 主は彼らとともに働き、みことばに伴うしる しをもって、みことばを確かなものとされた。 (マルコ16:20) 主は、み言葉が確かなものであることを示すために、 クリスチャンが常に、み言葉の次元で生きるようにと 切実に祈られた。「真理によって彼らを聖め別っ てください。あなたのみことばは真理です。あ なたがわたしを世に遣わされたように、わたしも 彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、 わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理に よって聖め別たれるためです」 (ヨハネ17:17-19) み言葉は命であり、クリスチャンが生きる領域を意 味している。それはキリストの領域、十字架の領域 と言ってよい。そこに、 「このキリストのうちに、知 恵と知識との宝がすべて隠されているのです」 (コロサイ2:3) #"# 10 October ● 月日 古い人の処理 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、す なわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口 から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 (コロサイ3:8) 多くのクリスチャンは古い人を十字架で処理するこ とを心得ていると思う。聖書が語る生まれつきの 人の特質である、いわゆる 肉 を十字架につける べきことは知っている。しかし、その結果である、行 いについての処理についてはどうであろうか。 「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主 のかたちに似せられてますます新しくされ、真の 知識に至るのです」 (コロサイ3:10) と言われてい るが、なかなかそれを実感することはできなくて苦し む人が多い。 例えば「つい非難したくなる」感情が無くならない 時は、いつのまにかそれを正当化してしまうことにな る。これは、悪魔にとって、攻撃の足場となり、聖霊 の働きを弱くする。聖霊に用いられるためには、こ のようなものを、きっぱりと捨てる実行力と勇気がな ければならない。怒りの原因を神に委ねよう。 #"$ 10 October ● 月日 一日だけの苦労 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて 与えられます。 だから、あすのための心配は無用 です。あすのことはあすが心配します。 労苦はそ の日その日に、十分あります。(マタイ6:33,34) 不信仰のゆえに、昨日のことと、明日のこと を区 別できなくて混乱する。きのうの怒りを持ち越し、あ すの心配を先取りしてしまう。全てを主に委ね、 「今 日」 という日を大切に生活することは、 簡単ではない。 いま自分が置かれている場所で、 主を信じること、 主 を愛することを告白してみよう。あなたの前を覆っ ている霧のために、ずっと向こうまで見えないことを 感謝してみよう。見えないことは、実は父の配慮な のである。もし全部を見えたら…恐ろしさのあまり、 前進することはできないかもしれない。そこで、 「信じ ます」 と告白してみよう。 「そうすれば、人のすべての考えに勝る神の平安 が、心と思いをキリストにあって守ってくれる」 (ピ リピ 4:7)。 #"% 10 October ● 月日 依存する信仰 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まこと に、まことに、あなたがたに告げます。子は、父が しておられることを見て行なう以外には、自分から は何事も行なうことができません。父がなさること は何でも、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19) 信仰は自立的であるべきと思われるが、 ヨハネの福 音書には、実に逆のことが書かれている。それは、 依存関係にある信仰の力である。 主は、自分からは何もすることができない と言われ たが、 これは、力が無かったからではなく、 自分の方 からは何もしないということである。これが力の秘密 であった。 同じようなことを、主は「わたしはぶどうの木で、あ なたがたは枝です。…わたしを離れては、あな たがたは何もすることができないからです」 (ヨ ハネ15:5) と言われたが、確かに御心に依存して いる信仰である。主の御心とは、み言葉に従うこと (15:7) 、互いに愛し合うこと (15:12)であり、力の 秘密は御心に依存することなのである。 #"& 10 October ● 月日 わたしはある 神はモーセに仰せられた。「わたしは、 『わたしは ある』という者である。」また仰せられた。「あなた はイスラエル人にこう告げなければならない。『わ たしはあるという方が、私をあなたがたのところに 遣わされた』 と。(出エジプト3:14) モーセに現われた神は自分の名前を明らかにされ た。ヤハウェである。このヘブル語の意味は「ある」 で、動詞形では「生きる」、 「いのちを持つ」 となる。 存在といのちは切っても切り離せないゆえに、 絶えず 「わたしはあなたと永遠に共に存在する」と励ます 神の姿が明らかになる。 あがな 主イエスは十字架において贖いのわざを完成され た。すばらしい救いといのちは、 すでにあなたのもの である。 常に存在される神は「イエス・キリストはきのう もきょうも、いつまでも同じです」 (へブル 10:8) 、 「世の終わりまで、あなたがたと共に…」 (マタイ 28:20) と言われる。 それが、 神の約束である。 #"' 10 October ● 月日 七つの例祭 あなたがたが聖なる会合として召集する【主】の例 祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六 日間は仕事をしてもよい。しかし七日目は全き休み の安息、聖なる会合の日である。(レビ 23:2,3) 春に4つの祭りと秋に3つの祭りがある。それらは 新約におけるキリストの救い、福音の道程を予表し ている。まず、過越の祭り は、 キリストの十字架の 死を表し、 種なしパンの祭り は過越の祭りと一緒 に行われて、人手によらない神の小羊を表し、 初 穂の祭り はキリストの復活を示している。さらに、 七週の祭り はペンテコステのことである。 その後、四か月後に収穫期があり、落穂を集めて はならなかった。それは貧しい者、異邦人への恵 みであり、現在の時代を表している。さらに ラッパ の祭り は教会の携挙、贖罪の祭り は大患難時 代、 仮庵の祭り は千年王国を表していると言わ れている。レビ記は神の絵本のようである。 #"( 10 October ● 月日 何をしているのかわからない そのとき、イエスはこう言われた。…彼らは、何を しているのか自分でわからないのです。 (ルカ 23:34) これは、キリストが十字架で語られたことばのひとつ であるが、 人の罪性を端的に表している。 荒野を旅するイスラエルの民には、このような姿が 何度も出てくる。彼らは、 約束の地、 カナンを前にし て、偵察隊を送ったが、 その不信仰のゆえに、踏み 出すことを恐れた。ただ、 私たちは罪を犯したの だから、 とにかく上って行ってみよう 。と、翌朝早く カナンへ向かった。そこには、神の臨在は無く、導 きも無かった。そのために、民は敵に打たれたので ある。 どこまでいっても自己中心、自分の判断、自分の視 点でしか見ることができない、何をしているのかわか らない 状態のままである。 わたしは生きている と 語られる主なる神を求める信仰、その信仰がなくて は神に喜ばれることはできない。 #") 10 October ● 月日 ぶどう酒がありません ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって 「ぶどう酒がありません」と言った。(ヨハネ2:3) イスラエルでは収穫のシーズンに結婚式が多く行 なわれた。主イエスが行なわれた最初のしるしと なったカナの婚礼(ヨハネ2:1-11) では、肝心のぶ どう酒が底をついてしまった。この時、イエスは「ぶ どう酒がありません。 」との母マリヤのことばを退けな がらも、 水をぶどう酒に変えられた。 さらに 「きよめのしきたり」 (マルコ7:3-7) にしたがっ て水を満たすことにより、律法によっては到達でき ないきよめを成し遂げてくださった。また、 「良いわ ざに熱心なご自分の民を、きよめるため」 (テトス 2:14) のしるしとしてくださったのである。 ぶどう酒がありません、 という私たちに、良いぶどう酒 (喜び)を与えてくださる主。そのために裂かれた からだと流された血を感謝し、さらに神の栄光を望 み、神にある希望 (それこそ 良いぶどう酒 ) を体験 させていただこう (ヨハネ1:16) 。 ## 10 October ● 月日 強く、 雄々しくあれ 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えると その先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継 がせなければならないからだ。(ヨシュア 1:6-9) モーセの後継者としてヨシュアが選ばれた。結果 的に、彼はモーセが成し遂げなかった神のみわざ を実現することになったが、彼には恐れがあったに 違いない。偉大なモーセに比べて、いかに自分が 小さな存在であるかということを自覚し、しかも約束 の地にはまだ足を踏み入れていないことを考えて 戸惑いながら神の前に出ていた。彼は、モーセの ように強い人間ではなかった。弱かった。だから 神は「強くあれ」と言われたのである。リーダーに 必要なことは、 強いことではない。 神は、いつも 主のしもべ に語りかけたと言われて いる。忠実に主の声に従う しもべ を必要としてい るのであり、主役はいつまでも主ご自身である。い つも、神の約束に立ち、約束の地を自分の足の裏 で踏むように言われている。 先頭を進まれる神が導き手である。 ##! 10 October あなたはどこにいるのか 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。 ● 月日 「あなたは、どこにいるのか」。(創世記 3:9) 主は、罪のために神から隠れているアダムとエバに 対して、どこにいるのか?と声をかけられた。 もちろん、本当にどこにいるかわからなくて言った言 葉ではない。主は、アダムとエバを探しておられ、 応答を期待しておられたのである。よい羊飼いと 同じように、 失われたものを探しておられる。 アダムとエバは、自分が裸であることに気づいて (3:10) 、恥ずかしいと言ったが、罪を犯したため に、そのままでは神の前に出られなかったのである。 そのために、 「神である主は、アダムとその妻の ために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」 (3:21)。 どこにいるのか と、あなたを探しておられるキリスト は、 あなたのことを心配しているのだ (Ⅰペテロ5:7) 。 ##" 11 November それゆえ、 主はあなたがたに恵もうと待っておられ、 あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。 主は正義の神であるからだ。 ─ イザヤ 30:18 ─ 11 November ● 月日 あなたを去らせません するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が 明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあな たを去らせません。 私を祝福してくださらなけれ ば」。(創世記 32:26) 創世記のこの個所には、ヤコブが夜明けまで その ひと(神) と格闘したと書かれてある。もちろん、神 は彼の生来の性格も何もかもご存知であったが、 そのひと は、この闘いに勝てないことを言ったかの ように「去らせよ」 と言われ、ヤコブのもものつがいを 外して、彼を動けなくした。これは、ヤコブ自身が自 分の弱さがどこにあるか見つめて、主に触れられた 自分を分かるようにされたという意味であり、神はい つもこのような経験に導いてくださるのである。 ヤコブの もものつがい は、 彼が生まれながらにして 持っている力の源である。彼は何に対しても計算 高く考え、細心の注意を払いながら自分の願望を 実現する者であった。そのヤコブを、 神は格闘して、 彼に教えたのである。彼は、 「あなたを去らせませ ん」 と叫んで、大胆に神の祝福を求めて、それを得 た。 ##$ 11 November ● 月日 ヨベルの年と十字架 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべて の住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨ ベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所 有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなけ ればならない。(レビ 25:10) 旧約時代には、50年毎に ヨベルの年 が定めら れていた。これは 解放の年 とも呼ばれ、その時 抱えている負債は免除され(25:28,31) 、奴隷は 解放され(25:39-41,54) 、畑地も野生に帰るべき (25:11) ものとされていていた。 預言者イザヤは、 「神である主の霊が…傷つい た者をいやすために、わたしを遣わされた。捕 われ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」 (イ ザヤ 61:1) 、 と言われた。これは、キリストの預言で あり、主はご自身で、この預言が実現したと言われ た。「主はわたしを遣わされた。捕われ人には 赦免を、盲人には目の開かれることを告げるため に…」 (ルカ4:18)。 この時、一年きりのヨベルではないものがもたらされ、 解放の時代は今も続いている。恵みの時代に私 たちは生きている。 ##% 11 November ● 月日 私たちのヨベル この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年であ る。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたも のを刈り入れてもならない。(レビ 25:11) ヨベルは、回復の年 と呼ばれる。これは、私たち が持っている潜在力を解放すると言ってもよい。そ の力は、 霊の賜物のことである (ローマ12:3-8) 。そ の解放が行われる場所は教会である。私たちに 与えられた賜物は 教会 のために与えられている からである (エペソ4:7-12)。 賜物には、5つのことが説明されている (エペソ 4:11)。使徒的、預言的、伝道的、そして牧師的 や教師的がそれである。それぞれの賜物が、教会 の中で解放されるとき、ある方向性を持って動い ていくのである。教会の成長はここにある (エペソ 4:13)。決してプログラムで成長するのではない。 このための条件は献身である (ローマ12:1) 。献 身は神に対してだけでなく、お互いの都合に自分 を提供することを含んでいる (ローマ12:10) 。これ が健全な教会の姿なのだ。 ##& 11 November ● 月日 神の義 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰 による、なだめの供え物として、公にお示しにな りました。それは、ご自身の義を現わすためです。 (ローマ 3:25) キリストが十字架で流された血によって、 それを信じ る者は義と認められる。これは、 もともと神御自身が 義であるために、それを人間に具体的に示すため には、血 という犠牲が必要であったことによってい る。旧約の時代には、礼拝の度に動物の血が流 された。罪を赦すためには、 どうしても犠牲が必要 であったのである。 神が義であることを完全に表わす方法は、主イエス が十字架で血を流す以外に無かった。神は、新 約のこの時までの長い間、忍耐をもって見逃してこ られたのである。 あがな 罪を赦すための贖いは十字架で完成した。信じ る者に与えられる義は、 キリストにおいて完全に満た された神の義そのものなのである。 ##' 11 November ● 月日 御名をあがめさせ給え ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、 槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、 おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の 【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。 (Ⅰサムエル 17:45) 私に答えてください。 【主】 よ。私に答えてください。 この民が、あなたこそ、 【主】 よ、神であり、あなたが 彼らの心を翻してくださることを知るようにしてく ださい。(Ⅰ列王 18:37) 巨人ゴリヤテに挑んだダビデ(Ⅰサムエル 17:45) 、 バアルの預言者 850人に挑んだエリヤ(Ⅰ列王 18:37) に共通していることは、主の御名があがめら れ、 人々の信仰を回復し、 励ます事にあった。 偶像礼拝が何の違和感もなく受け入れられている この国に、 「すべての口が、 『イエスキリストは主 である。』 と告白して、父なる神がほめたたえられ る」 (ピリピ 2:11) ように、 祈らずにおられない。 ##( 11 November ● 月日 アベルとそのささげ物 アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のも のを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベ ルとそのささげ物とに目を留められた。(創世記4:4) アベルは「羊の初子の中から、それも最良のものを、 それも自分自身で、持って来た。」とあるが、カイン は「地の作物の中から主へのささげ物を持ってき た。」 と簡単に書かれている。アベルは、自分自身 で、進んで、心から、信仰をもって献げたことが言外 にある。これに対して、 「主は、 アベルとそのささげ物 とに目を留められた。」と書かれている。この表現で、 アベルとささげ物の間にある接続詞「と」の持つ意 味は大きい。 アベルは、未来に起こる出来事…主イエスの十字 あがな 架の贖いを見ることが出来たのではないかと思わ れる。つまり、アダムとエバを通して神が示した、動 物の血が流されることや、献げることの重要性を 知っていたのである。献げ物は、血を流す動物で あがな なければいけなかった。それによってのみ、罪が贖 われたのである。 キリストは、 あなたのために血を流されたのである。 ##) 11 November ● 月日 神学校 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語った すべての預言者たちも、今の時について宣べまし た。(使徒 3:24) その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人た ちをお遣わしになりました。(使徒 13:20) サムエルは、預言者学校を創設し、預言者職 の階級を創設した。神学校のルーツはここにあ る。彼の前に、モーセも預言者と言われた(申命 18:18)が、組織化されたものは無かった。サムエ ルを通して、神はイスラエルの民を道徳的、宗教的 な教育をするために、学校を作った。国家の内 面的な成長のために必要なものであり、イスラエル をより高度な知的水準に引きあげたのである。 神学校 (聖書学校) における生活では、み言葉の 学びと祈りに集中できる。そして、多くの神学校は 共同生活をするようになっているが、そこにおける人 間関係を通しての訓練にも大きな意味がある。リ バイバルのために働き人が備えられるように祈ろう。 #$ 11 November ● 月日 恵みの信仰 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるため です。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも 満ちあふれました。(ローマ 5:20) キリストを通して与えられる「恵み」は、他のどのよう な宗教にも見られない特別なものである。それは、 キリストの十字架によって表される罪の赦しであり、 無条件に与えられる。たとえ、 どのような状況にあろ うと、また、 どのような罪を犯しても、赦しは、無条件 で与えられる。これが恵みの真理である。 アガペーと言われる神の愛によって与えられる赦し があるために、 「罪の中にとどまるべき」 (ローマ 6:1) でしょうかと叫ばずにおられないのである。これ が、 「恵み」の法則となる。 天の父は、 どのような時にも手をひろげて、あなたを 待っている。すべてを赦すために…。 #$! 11 November ● 月日 霊の戦いの武器 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人 を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師 として、お立てになったのです。それは、聖徒たち を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建 て上げるためであり…。(エペソ4:11,12) 預言は教会の主要な機能の一つであり、熱心に 追い求めるように勧められている。霊的な戦いに 必要なものの一つは、 この預言の賜物である。 さらに、 「悪魔の策略に対して立ち向かうことが できるために、神のすべての武具を身に着けな さい…」 (エペソ6:11) と書かれている霊の戦いの 武器は信仰であるが、サタンに対して最も攻撃的 に用いられるものは賛美であり (エペソ5:19)であり、 預言(Ⅰコリント14:3,4) と、とりなしの祈りも (エペソ 6:18)重要である。 「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも 御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず 目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐 の限りを尽くし、 また祈りなさい」 (エペソ6:18) 。 #$" 11 November ● 月日 クリスチャンであること 御使いは答えて言った。 「聖霊があなたの上に臨み、 いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、 生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 (ルカ 1:35) ルカの福音書では、最も理想的な人はどのようなも のかが描かれているが、 その基本は「新生」 である。 あがな 神は、人間を贖うようにされたが、その目的は罪人 を理想的な人に回復するためである。新しく生ま れることによって、 神の子とされるのである。 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに 住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にでは なく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊 を持たない人は、 キリストのものではありません」 (ローマ 8:9) と言われている通り、御霊を持たない 者はクリスチャンではない。 これがクリスチャンとしての条件である。 #$# 11 November ● 月日 そこに網をおろしなさい 話が終わると、シモンに、 「深みに漕ぎ出して、網を おろして魚をとりなさい。」と言われた。 するとシ モンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働 きましたが、何一つとれませんでした。でもおこと ばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのと おりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそ うになった。(ルカ 5:4-6) 漁師たちは毎日の仕事に自信を持って取り組んで いたと思われるが、夜通し試みたものの不漁で失 望落胆している時に、この言葉がかけられた。常 識的にはあり得ない事であった。しかしながら、主 が言葉をかけられ、彼らがそれに従った時、網が破 れそうになる程の大漁を得た。 常識的なことを超えるためには、主の声を聞く必要 がある。そして、それに従う勇気と大胆さが必要で ある。彼らは、主の偉大さを身近に体験したと思 われるが、あなたも同じことを経験したければ、毎日 の生活の中で、小さなことにチャレンジする必要が ある。その積み上げの結果として、彼らと同じこと が起こる。 このみ言葉に賭けてみよう。 #$$ 11 November ● 月日 天よりの声 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその 人々を包み、そして、雲の中から、 「これは、わたし の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを 聞きなさい。」という声がした。(マタイ17:5) このみ言葉にあるように、ペテロが聞いたこの天よ りの声は終生忘れることができないほどの経験で あったと思われるが、彼はこの時の経験を語りな がら、 「私たちは、さらに確かな預言のみ言葉を 持っています。夜明けとなって、明けの明星が あなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照 らすともしびとして、それに目を留めているとよい のです」 (Ⅰペテロ1:19) 、と言っている。奇跡的な 経験で無くて、 確かな神のみ言葉のことを指摘して いるのである。 神の言葉が啓示の光として照らされる時、天よりの 御声となる。その御声は聖書と共に絶えず私達の 身近にある。御声を聞くためには、時には明星が 心の中に上るまで待ち望む必要がある。み言葉 の声を聞こう。 #$% 11 November ● 月日 神の時 主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一 日のようです。(Ⅱペテロ3:8) 神の時は、あたかも一日のようであったり、1,000年 のようであったりするが、綿密な計画に基づいた明 確なスケジュールの中に刻まれている。神の計画 はそれに従ってこの世にもたらされた。 「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御 子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また 律法の下にある者となさいました」 (ガラテヤ4:4) のであり、主イエスの十字架に至る課程はすべて、 神の時 であった。 したがって、主の再臨も定められた時に、 「終わり のラッパとともに、 たちまち、一瞬のうちに・・・」 (Ⅰ コリント15:52)来る。 全ての人は神が支配し給う時の中に生かされてい る。 神の時 を認めよう。 #$& 11 November ● 月日 み言葉と神の国 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた 偉大な大祭司である神の子イエスがおられるので すから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではあり ませんか。(ヘブル 4:14) 「天にはキリスト」、 「地にはみ言葉」 この二つの間に 「御霊」がある。この三つがひとつになって、神の 国を実感することができる。 主は、み言葉を通して天と地を往復されると考えて よい。したがって、我々もみ言葉を通して、 イエス・キ リストを通して、 主の臨在に触れることができる。 日々み言葉を通して、臨在の中にある。このことは、 み言葉を生きる者にとって、 真実なことである。それ を新鮮にするためには、み言葉によって、自分の考 える事、 口にする事を選択しなければならない。 「御国を来たらせ給え」 という言葉が、実感となるよ うに…。 #$' 11 November ● 月日 平安 (平和) の子 さあ、行きなさい。 いいですか。 わたしがあなた がたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すような ものです。財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに 行きなさい。だれにも、道であいさつしてはいけま せん。どんな家にはいっても、まず、 『この家に平 (ルカ 10:3∼7) 安があるように。』 と言いなさい。 キリストに遣わされた弟子が、 町や村へ入って最初 にすることは、平安の子を探すこと、泊まる家を探す ことであった。遣わすお方キリスト、 遣わされる弟子、 彼らを受入れる平安の子(家庭) 、 この 3者が合わ さる時、 主の働きが前進する。 キリストが語られた働き手とは、弟子と平安の子 (家庭) とを指している。主はそれぞれに召しと賜 物を与え、福音によってひとつにし、共に働くのであ る。 平安は福音の非常に大切な要素で、平安の子 が求められている。 #$( 11 November ● 月日 なんと美しいことよ 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、な んと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い 知らせを伝え、救いを告げ知らせ、 「あなたの神が 王となる。」とシオンに言う者の足は。 (イザヤ 52:7) 良い知らせを伝える者の足がなぜ美しいのだろう か。その鍵は「山々の上に」 にある。 山々の上とは地上から高く離れた場所で、霊的に は天にキリストと共にある (エペソ2:6) という意味で ある。私たちはそこで安息し、天の神のことばを近 く聞きその恵みを楽しむことができる。その交わりの 中から神様の御心を受け取りそこから遣わされる。 アブラハムは「わたしが示す地へ行きなさい。」 (創 世記 12:1) という天の声を受け取り、神に従い、そ れを地上に反映させた。モーセはその顔が神の 栄光で輝き (出エジプト34:35) 、栄光から栄光へ (Ⅱコリント3:18、 詩篇 34:5)進んだ。 神と共に歩く人の足は美しいのだ。 #$) 11 November ● 月日 コンタクトポイント ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存 じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピ リポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の 下にいるのを見たのです」。(ヨハネ1:48) クリスチャンにとって、自然から超自然の次元に魂 が移されていくポイント (接触点)が重要である。こ れを、コンタクトポイントと言う。 それは第一に、魂に対して積極的評価で臨むこと。 第二は、聖霊の働きに委ねること。そして、三番目 には、 勝利者としての立場を宣言することである。 イエスは、常にそのように人々に接していた。冷た い心の持ち主だったナタナエルが上記のように変 えられたのは、 このポイントをつかれたからであった。 ナタナエルは、この時「御国をきたらせ給え」 という 祈りが実感になったのである。 #% 11 November ● 月日 サタンはすでに敗北している そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞い た。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神 のキリストの権威が現われた。 私たちの兄弟たち の告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えて いる者が投げ落とされたからである。 (黙示 12:10-11) 教会は、すでにサタンの支配に勝利しているので、 「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げま す。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは 天においてもつながれており、あなたが地上で 解くなら、 それは天においても解かれています。」 (マタイ16:19) と言われた。常にこの視点で 物事を見なければならない。 そのうえで、 「すべての祈りと願いを用いて、どん なときにも御霊によって祈りなさい。そのために は絶えず目をさましていて、すべての聖徒のため に、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」 (エペ ソ6:18) という祈りが大切である。 このような行為の積み重ねによって、サタンがすで に敗北していることを明らかにしていくのである。 #%! 11 November ● 月日 すでに勝利、 だから勝利 しかし、神は、 さらに豊かな恵みを与えてくださいます。 ですから、 こう言われています。 「神は、 高ぶる者を退け、 へりくだる者に恵みをお授けになる。 」ですから、 神に 従いなさい。そして、 悪魔に立ち向かいなさい。そうす れば、 悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 (ヤコブ 4:6∼7) サタンに立ち向かう方法のコツは、自分がキリストに あって勝利者である立場を彼に宣言することであ る。 もちろん、その前提には、神に従うこと、即ちイエスを 神の子として信じる必要があるが、御子を信じるも のは神の子であり (ヨハネ1:12) 、勝利者なのであ る。「だれでも神から生まれた者は、罪のうちを 歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちに とどまっているからです。その人は神から生まれ たので、罪のうちを歩むことができない。」 (Ⅰヨハ ネ3:9) と約束されているので、 安心してよい。 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てま す。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」 (マ タイ16:18)サタンは決して教会に勝つことはできな い。 #%" 11 November ● 月日 安息のための歌 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あ なたの御名にほめ歌を歌うことは。朝に、 あなたの恵 みを、 夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは…。 (詩篇 92:1-2) 安息日の原点は感謝にあり、その秘訣は、み言 葉の中にある。安息は、すでに(already)、いつも (always)、 すべて (all)にある。 あがな み言葉は、キリストによる贖いのみわざ、すなわちキ リストの十字架を証しており、イエスを信じる者はす べて、すでに完了された天への大路を通っている。 それによって、過去、現在、将来におよぶすべての 罪(sin)の赦しと、毎日犯す罪(sins)からの解放、 新しいいのち、 聖霊の満たし、 油注ぎがある。 私たちは、主の家に植えられ、神の大庭で栄え、年 齢も立場も越えて実を結び、みずみずしく生い茂る よう召されている。安息のための歌を共に歌おう。 #%# 11 November ● 月日 主を待ち望む者 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼 をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いて (イザヤ 40:31) も疲れない。 主を待ち望むことに二つの局面がある。一つは祈 りによって、主との深い交わりの時を過ごすことであ り、危機に於いては、これが最も必要である。もう 一つは信仰によって主に心を向けることであり (Ⅱコ リント3:16-17) 、絶えず臨在の中に自分を確認す ることである。これは日常的待ち望みと言ってよい。 もし信仰よりも問題が大きく見えて、圧倒されている ならば、今ある力を増し加えるよりは、新しい力と取り 替えられる必要があろう。実は、原語にはそのよう な意味が含まれている。 主を待ち望み、新しい力と取り替えられることを期待 しよう。 #%$ 11 November ● 月日 御霊に関する五つの命令 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、 決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 (ガラテヤ 5:16) 御霊に関する命令の言葉を拾い上げてみよう。ま ず第一に、御霊と共に 歩む 事である (ガラテヤ 5:16)。そして、 もちろん、 御霊に 満たされる(エペ ソ5:18)があり、御霊を 悲しませるな という言葉も ある (エペソ4:30)。御霊は、怒ることは無いが、悲 しまれるのである。 御霊を けがすな (ルカ12:10) とも言われている。 これは、御霊の好みや性質を表している。このよう なお方と、いつも共にいる事が重要で、御霊を 消 すな(Ⅰテサロニケ5:19) という言葉が続く。 つねに御霊に信頼し、 行動することが命令されてい る。 #%% 11 November ● 月日 「見る」 と 「見つめる」 初めからあったもの、 私たちが聞いたもの、 目で見たも の、 じっと見、 また手でさわったもの、 すなわち、 いのちの (Ⅰヨハネ1:1) ことばについて…。 いのちのことば(福音)は、 二度聞くことば と言わ れることがある。それは、福音が二つのものに依存 するからである。すなわち、語ろうとする声と、聞こう とする耳が必要であることを意味している。 ところで、 「目で見る」ということばは視覚的な意味 を表しているが、 「じっと見つめる」という言葉には、 「その物の存在が持つ意味と重要さを把握する 行為」を表しており、確かに原語のギリシャ語には そのような意味が隠されている。 ただ、見るだけでなく、見つめる人は幸いな存在で ある。福音を聞くところから、さらに進んで、見つめ るように期待したい。 (ピリピ 2:16) 主よ、 私を見つめる者としてください。 #%& 11 November ● 月日 ただ、 この一事に 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あ なたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる (ピリピ 3:17) 人たちに、 目を留めてください。 兄弟たちよ。私は、 自分はすでに捕えたなどと考えて はいません。ただ、 この一事に励んでいます。 (ピリピ 3:13) パウロはピリピの教会に宛ててこの手紙を書いた が、この冒頭に、 私に見ならう者になってください … と書いた。とても大胆な言葉のように思えるが、 続く言葉を見ると、自分に足りないところがあること を表現し、そのために、 すでに得たとは思っていな い 、どうにかして、死者の中からの復活に達した い という真実な願いを表現している。 聖書に忠実であることや教会の一致と飢え渇きに 目を留める事が重要なテーマとして語られている。 聖書が語る原点に目を留めて、 この一事に励む事。 それが力になる。 渇きのあるところが潤される。 #%' 11 November ● 月日 愛の行動 ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、 娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そ うと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の 神、主によって奮い立った。(Ⅰ サムエル 30:6) サウル王による王国の末期、ツィケラグに帰ったダ ビデを待っていたのは、 「ダビデとその部下が、三 日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人が ネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らは ツィケラグを攻撃して、 これを火で焼き払い、そこ にいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこに し、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去っ た」 (Ⅰサムエル 30:1-2) という、アマレクの略奪に よって荒れ果てた町の姿であった。 しかし、 ダビデは主によって奮い立った。しかも、彼 らを追撃してきた軍から脱落した者をペソル川で 見つけ、 「彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も 飲ませた。 」 という。この時のダビデの態度に学ぼう。 愛が、 困難な状況を救う。 #%( 11 November ● 月日 聖霊が疑問の解答 御使いは答えて言った。 「聖霊があなたの上に臨み、 いと高き方の力があなたをおおいます。 それゆえ、 生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 (ルカ 1:35) マリヤが言った疑問、 どうしてそのようなことになりえま しょうに対する答えは、 「聖霊があなたの上に臨ま れます」 (ルカ1:34-35) であった。 「真夜中にその人のところに行き、 『君。パン を三つ貸してくれ。』 (ルカ11:5) という訴えに対 する答えにも、 「天の父が、求める人たちに、どう して聖霊を下さらないことがありましょう」 (ルカ 11:13) と言われた。 さらに、 イエスは言われた。「いつとか、どんなとき とかいうことは、あなたがたは知らなくてもよい のです。…聖霊があなたがたの上に臨まれると き、 あなたがたは力を受けます」 (使徒 1:7-8) 。 すべての信徒が用いることのできる鍵は、聖霊であ る。 #%) 11 November ● 月日 夢を解放する わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 あな たがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い 男は幻を見る。(ヨエル 2:28) 年寄りが見るといわれている夢。それは、神の夢で ある。この夢を実現するために、御子キリストは、呪 いを身に受けて十字架を通られた。そして、 この夢 を伝えるために、 聖霊が教会に与えられた。 十字架に架かられる直前に、イエスは、 「父よ彼ら をひとつにしてください」 (ヨハネ17:21-24) と祈っ た。これは教会の姿である。十字架は教会を生 み、成長させ、神の御前に栄光の教会を立たせる。 父なる神の夢である。 キリストと聖霊が、 それぞれの使命を果たしておられ る。このモデルを見よう。私たちを切り出し、生け る石としていのちを与えられ、他の石と組み合わさ れて、父なる神の夢の実現に用いられることを期待 する。ハレルヤ! #& 11 November ● 月日 恵みのゆえに あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われ たのです。それは、自分自身から出たことではなく、 神からの賜物です。(エペソ2:8) 神は、 「神は、ただみこころのままに、私たちをイ エス・キリストによってご自分の子にしようと、愛 をもってあらかじめ定めておられたのです」 (エペ ソ1:5) と言われる。御自身の御子を地上に送り、 恵みを実現された。人間の行いとは無関係に、 そ れを定められた。 主イエスが「人は新しく生まれなければならない」 (ヨハネ3:3) と、ニコデモに言われたが、彼は、そ れは難しい と応え、一生懸命努力しようとしたに違 いない。しかしながら、主イエスはただ、 「仰ぎ見れ ば救われる。」 (民数 21:8、ヨハネ3:15) という道を 示された。これが恵みである。 ただ受け取る信仰、赦される信仰、求める信仰に よって、 あふれるいのちを待ち望む。 #&! 11 November ● 月日 み言葉が実現した 今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いた とおり実現しました。(ルカ 4:21) 「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた 者をいやすために、わたしを遣わされた。捕わ れ人には解放を、囚人には釈放を告げ」 (イザヤ 61:1)を読まれたイエスは、 今日このみことばが実 現した と言われた。その時に、神の国の支配が 始まった。つまり、律法学者やパリサイ人の行いに よる教えではなく、主のみ言葉の権威によって、神 が与えた「恵み」があふれた (ルカ4:22) のである。 今日主はどこにおられるのか。もちろん、 「あなたが たの中におられるキリスト、栄光の望み」 (コロサ イ1:27)である。キリストのからだなる兄姉を通して ご、 自身を現してくださるのである。 神の国がキリストのからだなる教会を通して、 広げら れますように。 #&" 11 November ● 月日 人をとる漁師に イエスは彼らに言われた。「わたしについて来な さい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよ う」。(マタイ4:19) イエスがペテロとアンデレに出会った時に、わたし について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師 にしてあげよう 。と言われた。その時、彼らはその 言葉か、あるいは、それを語られたイエスという人に か…どちらかに惹かれた。すぐに網を捨てて行っ たのは、 考えてみれば、 不思議なことである。 あなたにも、そのような時があったであろうか?神様 の招きと励ましの声が聞こえることであろう。 「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神 の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私 たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊で はなく、力と愛と慎みとの霊です」 (Ⅱテモテ1:6- 7) すべてのクリスチャンは収穫の働き手に召されてい る。 #&# 12 December この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。 ─ ヨハネ 1:4 ─ 12 December ● 月日 クリスマス・アドベント ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひ とりの男の子が、私たちに与えられる。 主権はそ の肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ 9:6) アドベント (待降節)が始まると、毎週ローソクに一 本ずつ火をともし、 それが四本目になった時にクリス マス礼拝を迎える。クリスマスを待ち望むのである。 クリスマスは、遠い昔に起こったイエスキリストの誕 生を思って過去を振り返るが、それと同時に新し い年の事を考え、時を超えて広がる宣教の可能 性や、色づいた収穫の畑をイメージしたい(ヨハネ 4:35) ものである。 主の再臨の足音を聞いて、天と地にあるすべての 聖徒たちが栄光のからだをもって、空中で主と会う 時をイメージして (Ⅰテサロニケ4:16,17) 、壮大なクリ スマス (イザヤ 9:6,7) を待ち望もう。 #&& 12 December ● 月日 ベツレヘムから君のいる町へ そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられ る幼子を見、ひれ伏して拝んだ。(マタイ2:11) 世界で最初のクリスマスは、ひとつの家庭から始ま り (ルカ2:16) 、そこへ羊飼いや博士たちが導かれ、 全世界へ広がった(コロサイ1:6) 。馬小屋からス タートしたが、 イエス様がおられたので、 そこが教会と なり、 救いのみわざが広がっていった (ルカ10:5-9) 。 私たちの教会でも、 家庭集会、 地域礼拝、 地域ミッ ションなどと呼ぶ小さな集会から、市民会館におけ る1,000人を超す大集会につながった。ベツレヘ ムで始まった福音の火は、 「君のいる町へ」広がっ たのである。 堺福音教会には市内に200箇所を越えるブランチ があると言えば、誰もが驚く事であろうが、 「家の教 会」つまりクリスチャンホームと言えば、 納得していた だけるであろう。 イエス様を家庭にお迎えし、礼拝(マタイ2:11) しよ う。 #&' 12 December ● 月日 ことばは肉体となった ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私 たちはこの方の栄光を見た。 父のみもとから来ら れたひとり子としての栄光である。この方は恵み とまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14) 三位一体の一人でおられる御子は、父なる神を表 現された(ヘブル 1:3)永遠の神のことばである (ヨ ハネ1:1-5) 。この方以外に神を知る道はない (ヨハ ネ1:18、 14:6) 。 神のことばは人となり、私たちの次元において、神を 見、 神に触れ、 神を知るようにして下さった。人となっ たこの方は、十字架の道で神と人が出会える場所 を備え、十字架の体験を通して神とのコミュニケー ションを可能にされたのである (ガラテヤ 2:20) 。神 は、いつもキリストを通して私たちに語りかけておられ、 クリスチャンはその声を聞いており、応答するのであ る。 クリスマスはクリスチャンにとって、時間を越えた現実 の出来事である。 #&( 12 December ● 月日 あなたのおことばどおりに マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしため です。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身にな りますように。」こうして御使いは彼女から去って 行った。(ルカ 1:38) マリヤに言われた神の言葉と、 その不思議は特別な ものを感じさせるが、一方で私たちにも共感できるも のがあるように思われる。 あなたのおことばどおりに… という言葉は、み言葉 を受け入れ、救いを信じるすべての人の内で叫び たくなることではないだろうか。親密に、しかも個人 的に語りかけて下さる神の声を聞くと、たとえそれが 厳しい事であっても、不可能に見える事であっても、 マリヤと同じような個人的な経験となる。 この経験が信じるすべての人に広がって、 「わがた ましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる 神を喜びたたえます」 (ルカ1:46,47) というマリヤの 賛美が、 私たちの賛美となるように祈る。 #&) 12 December ● 月日 天の御国の鍵 わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。 (マタイ16:19) 「あなたは、生ける神の御子キリストです」 (マタイ 16:16) というのはペテロの告白であったが、その時、 イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を 建てます」 (マタイ16:18) と宣言された。そして、 さら に 天の御国の鍵 を与えると言われたのである。 鍵を持っているということは、 家族のような身分が与え られているという意味で、彼は、いつも安息と平和の 場所にいるという意味と考えてよい。 天であなたと御父が結ばれているのは、主イエスの あがな 血によって勝利者となり、贖われ、子とされている契 約に基づいている。あなたと教会には、ハデスの門 も打ち勝てない天の御国の恵みが与えられている (エペソ1:23) 。 「神と共に生き、共に喜び、共に感謝する」 という繋 がりを、 主ご自身が願い望まれた。 #' 12 December ● 月日 クリスマスのしるし あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておら れるみどりごを見つけます。これが、あなたがたの ためのしるしです。(ルカ 2:12) クリスマスの時の、飼葉おけや星は、羊飼いたちや 天文学者であった東方の博士たちにとって、 それぞ れ非常に身近なものであった。救い主を示す しる し は実に、 ごく普通のものであった。 人にはそれぞれの環境において、神が示しておられ る しるし がある。普通では見逃すような身近なそ のしるしがきっかけとなって、救い主となる方を見いだ すことになる。あなたにとって、 この しるし は何であっ たか? クリスマスのこの時期に、羊飼いたちや博士たちに 思いを馳せると、 主との出会いを新鮮にできる。 主をほめたたえ、 救われた恵みを賛美しよう。 #'! 12 December ● 月日 その翼には癒しがある しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の 太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがた は外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。 (マラキ4:2) 救い主がこられた目的は神の国(支配) を人類にも たらすことであった。 信仰によって救い主に出逢うとき新生するので、神 の国を体験する (ヨハネ3:3) 。 神の国 は、人の 住む世界とは異なる、神の領域を示すだけでなく、 神の力をデモンストレーションするものでもある。し たがって、主イエスが明らかにした神の国では癒し が起こり (ルカ7:22) 、悪霊が追い出された(ルカ 11:20) 。 弟子達の祈りや証しでも、同じように神の力が表さ れた (使徒 4:30、 ローマ15:19) 。 今、教会にも同様のことが求められている。神の国 の力がより鮮明に示されるように期待する。 #'" 12 December ● 月日 セレブレーション あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、 イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む 者のように心楽しむ。(イザヤ 30:29) セレブレーションとは祭を祝うことである。クリスマスも、 やはりお祝いする時で、 その日を楽しみにして迎える。 日本人は祭が好きだと言われるが、ユダヤ人も同じ で、 さまざまな祭りが行われている。 ある祭のクライマックスにおいて、主イエスは 「だれで も渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさ い」 (ヨハネ7:37) と言われた。華やかな宴の後は 時として、 さみしく空しい思いになる。イエスは、 それを 見越したかのように、満ち足りた時間は、祭りの中で はなく、 キリストが与える水を飲む事で得ることができる と言われたのである。 「この水を飲む者はまた渇く、 しかしわたしの水は 決して渇くことがない」 (ヨハネ4:13,14) 。 #'# 12 December ● 月日 クリスマスと宣教 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。 今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知ら せに来たのです。…御使いたちが彼らを離れて天 に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。 「さ あ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてく ださったこの出来事を見て来よう」。(ルカ2:10-15) クリスマスに起こった事は、私たちの宣教を教えてい る。まず「言葉が肉体となられ」 (ヨハネ1:14) 、宣 教の原点が明確にされた。そして、次に天使がク リスマスのよきおとずれを、羊飼いに伝え (ルカ2:9∼ 15)救い主に出会うようにされた。彼らはそれを賛 美し (ルカ2:20) ながら、 他の人に知らせた。 一方、 東の博士達には、 彼らにふさわしい方法で伝 えられた。すなわち、星の動きを通して、やはり救い 主と出会うチャンスを提供された (マタイ2:1-11) 。 宣教は、 それぞれの人に最も適切な方法で知らせる ことが必要で、 クリスマスはそれを明確に示している。 #'$ 12 December ● 月日 栄光、 恵み、 まこと ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私 たちはこの方の栄光を見た。(ヨハネ1:14) 栄光はクリスマスによって、見ることが出来るように なった。キリストは「あなたがわたしに下さった栄 光を、彼らに与えました。…父よ。お願いします。 …わたしに下さった栄光を、彼らが見るようにな るため…」 (ヨハネ17:22-24) と言われ。それを実 現された。それが恵みであり、まことである。これら は神の属性である愛と聖を表している。 恵みが明確になったがゆえに、律法の世界との違 いが明らかになった(ガラテヤ 4:3-6) 。主は信じる 者に、恵みが支配する生き方を可能にされた (ロー マ8:3-4) のである。 クリスマスは律法の世界から、恵みの世界への分 岐点になっている。このクリスマスの恵みをかみしめ よう。 #'% 12 December ● 月日 恵みに恵みを 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれです か。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢え ですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。… しか し、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、 これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利 者となるのです。(ローマ 8:35-37) 神の恵みは、試練と患難を越えて満ち溢れる。そ の時圧倒的な勝利者と言われる (ヨハネ16:33) 。 神の御霊の領域、恵みの泉の領域は、さまざまな ものが混じり合った混沌の向こうにあるように見える。 そこから恵みを引き出すチャンネルは、み言葉によっ て物事を評価する習慣以外にない。 神が、 「光あれ」 と言って世界を造られた時、混沌 を貫いて秩序がもたらされた(創世記 1:3) 。言葉 によってこの世界は造られ、恵みの領域がもたらさ れた。 どんなに惨めに思えても、 信仰によって勝利者である ことを確認しよう (Ⅰコリント15:57) 。 #'& 12 December ● 月日 最高の贈り物 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりと して滅びることなく、永遠のいのちを持つためであ る。(ヨハネ3:16) 愛を知らないならば、 恐れがあり (Ⅰヨハネ4:18) 、 怒り がある。それを解消するのは愛だけである。これを 現実のものとするために、神のひとり子、 イエスキリスト が与えられた。それがクリスマス。神は最高の贈り 物を人間に与えられた。これ以上の愛はない。 イエスキリストは聖霊によって処女マリヤに宿り、生ま れて下さった。この聖霊がキリストを与えられた父 の愛を伝え、 実感させてくださる。 地の上に平和が、父なる神の愛によって、御心にか なう人々にあるように…父の心を子に向けさせ、子 の心を父に向けさせる (マラキ4:6) 。 出会いのクリスマス。そのために祈ろう。 #'' 12 December ● 月日 喜びと犠牲 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者 にはしたくなかったので、内密に去らせようと決め た。 …恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい …。(マタイ1:19-20) クリスマスは御子の誕生であるがゆえに、多くの人に 大きな喜びをもたらしたが、大きな痛みと犠牲があっ たことを忘れてはいけない。マリヤの犠牲 (ルカ1:38、 2:35) 、 ヨセフの苦悩 (マタイ1:19) 、 そしてベツレヘム では多くの幼児が犠牲になった (マタイ2:16-18) 。 このような喜びの時に、何故苦しみが伴わねばなら ないのかと思われるかもしれないが。確かなことは、 たとえ犠牲があっても、特別な恵みと助けがあったこ とである。 天使は、 「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力 があなたをおおいます」 (ルカ1:35) と約束された。 もし、痛みを経験するような時があっても、いと高き 方の力が私たちをおおって下さるように 祈ろう。 #'( 12 December ● 月日 恐れるな すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光 が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使 いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、 私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせ に来たのです。(ルカ 2:9-10) クリスマスには、天使が 恐れるな と叫び、救い主の 誕生のメッセージがもたらされた。 恐れ は慢性 的にすべての人の心を支配している。これは、アダ ムとエバが罪を犯して神と断絶した時から起こった (創世記 3:8-10)ためである。神は、人の心から、 この 恐れ を除くために救い主を送られた(Ⅰヨハネ 1:7) 。 どのような恐れも神との交わりが現実となる時、癒さ れる。恐れを超えるためには、神の愛が必要なの である。これはパウロの実感であり (ローマ8:35-39) 、 厳しい試練の中にあったダビデの体験であった。 恐れるな このことばを心に深く響かせよう。 #') 12 December ● 月日 震われないもの こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を 受けているのですから、感謝しようではありません か。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神 に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。 (ヘブル 12:28) 私たちの住んでいる世界には、思わず、まさか こん なことが起こるとは…と叫ぶことが、しばしばある。 ま さかこんな地震が… 、まさかこんな銀行がつぶれ るなんて… 、まさかテロが… 。 このような事件が起こると、 天罰 と言う人がかなら ず現れる。それほど大変なことではあるが、 決して納 得できる解答は得られない。ただ、この世に絶対と いうものがないことだけは確かである。 このような時に大切な事は、 「揺り動かされない御 国」 (ヘブル 12:28) と、 「神の国とその義を」 (マタ イ6:33) 、 を真剣に求めることである。 #( 12 December ● 月日 クリスマスの光 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝 たなかった。(ヨハネ1:5) 打ち勝つ という言葉の原語(ギリシャ語)はカタラ ンバノーと言うが、これには、 捉える、打ち勝つ、理 解する の意味があり、 このみ言葉は、 「これを悟らな かった」 と訳されることもある。 著者ヨハネは、たぶん原語の二重の意味を、光と 暗やみの関係にあてはめたのであろう。彼は、 どの ように小さな光でも、 闇はこれを消す事が出来ないこ とを明確に示したのである。この事実に背を向ける ことはできない。 多くの人はクリスマスを知っているが、クリスマスの光 は知らない。それは人の心の奥底にともる真理の 光に目をとめる事をしないからである。 真理を愛する者は必ず、クリスマスの光を見るので ある (ヨハネ3:21) 。 #(! 12 December ● 月日 その方の星 ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこに おいでになりますか。私たちは、東のほうでその方 の星を見たので、拝みにまいりました 。(マタイ2:2) 博士たちの国に不思議な輝きをもった星が出現し た。彼らはこれを神からのメッセージだと信じ、行動 を起こした。彼らは「マギ」 と呼ばれ、占星術の学 者であったと言われているが、 その仕事や過去が何 であろうと、 「その方の星を見た」 (マタイ2:2) と信 仰告白をした。 そのために、 彼らの生活は一変したに違いない。あ の方の星 を信じることから、 イエスに出会ったために、 これまでの生活とは異なる歩みをすることになったの である。彼らは、 「別の道から自分の国へ帰って 行った」 (マタイ2:12) 。 信仰告白によって得られる恵みは確かなものでは あるが、主との出会いは、 これまでの生活とは異なる、 罪の生活との決別を意味する。 #(" 12 December ● 月日 クリスマスの恵み きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主 がお生まれになりました。この方こそ主キリストで す。(ルカ 2:11) ベツレヘムで「定めの時がきたので」 (ガラテヤ 4:4) 、 マリヤとヨセフに赤子が与えられた。彼らは、 そ の赤ちゃんを飼い葉おけの中に寝かせた。家畜の 匂いが漂う汚れた場所で救い主は誕生した。 彼は、神殿や王宮ではなく、誰でも訪れる事ので きる場所で生まれ、罪人を招くために来た(マルコ 2:17) 。彼は、決して痛んだ葦を折ることもなく、 くす ぶる燈心を消すこともない (イザヤ 42:3) 方として来ら れた。 イエス ・キリストの十字架に向かう歩みがここから始 あがな まった。彼は罪のための贖いとなり、死とよみがえり を通して、用意された恵みが時・場所・状況に限定 されずに、すべて信じる人々が経験出来るものとし た。 あなたがたのための救い主が、 今日生まれた。 #(# 12 December ● 月日 羊飼いのクリスマス さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をし ながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使い が彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らした …。(ルカ 2:8-9) 羊飼いたちに 「喜びの知らせ」 が告げられたが、 それ に対する彼らの応答は、私たちの宣教の原理であ る。 まず、知らされたのは、 「布にくるまって飼葉おけに 寝ておられるみどりごを見つけます」 (12)であっ た。それで彼らは、 「急いで行って、…飼葉おけに 寝ておられるみどりごとを捜し当てた。 」 (16) 。彼 らは、探すという行動を起こして、救い主に出会い、 単調であった生活が賛美の生活に変わった。 そして、彼らは「この幼子について告げられたこと を知らせた。それを聞いた人たちはみな、羊飼い の話したことに驚いた」 (17,18) 。 クリスマスが、 救い主との出会いになるように祈る。 #($ 12 December ● 月日 愛のあいさつ 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめ でとう、恵まれた方。主があなたとともにおられま す。」 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどっ て、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 (ルカ 1:28,29) マリヤに御使いガブリエルが訪れ、思いも及ばない 驚きのメッセージが届けられた。そのために、彼女 は戸惑った。彼女がその言葉を受け入れた時、 「御使いは彼女から去って行った」 (ルカ1:38) と 書かれている。そばに居て見守り、助け、励ましてく れたのではなく、 御使いは去って行った。 その時、彼女はエリサベツのことを思い出した。マ リヤは立ち上がり、ユダにあるザカリヤの家へ急い だ。マリヤとエリサベツが愛と祝福のあいさつを交 わした時、 「エリサベツは聖霊に満たされた」 (ルカ 1:41) 。 そして、あの有名な歌が生まれた。御霊は二人の 自然な生活の営みと交わりを通して、喜びを満たさ れた。 #(% 12 December ● 月日 インマヌエル 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産 む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 (訳すと、 神は私たちとともにおられる、という意味である)。 (マタイ1:23) 神が共におられる 、それがこのクリスマスに神が用 意された贈物である。なんと幸いないことであろう。 父なる神は、御子イエスを小さな赤ん坊の姿で、ベ ツレヘムの家畜小屋で生まれるように用意された。 それはすべての人に、救いが届くためであり、神が 共におられることを伝えるためであった。 神は、罪のために断絶していた天と地の領域を取 り戻し、恵みと希望を見出だすことができるようにさ れた。あなたは、この共におられる主と豊かな人生 を送っておられるだろうか。 どのような環境であろうと、マリヤが賛美したように、 「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが 救い主なる神を喜びたたえます」 (ルカ1:46) と言 おうではないか。 #(& 12 December ● 月日 時が来れば… その人は、水路のそばに植わった木のようだ。 時 が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、 何をしても栄える。(詩 1:3) 時が来ると実がなることを信じて歩む者に、神は間 違いのない道を示しておられる。そのために、すで に代価が払われ(ガラテヤ 3:13,14)ており、それを 保証するために御霊が内住 (ガラテヤ 3:14、エペソ 1:13,14) していると言われている。 それを確認するためには、み言葉 の領域にとどま ることである (Ⅱコリント3:6) 。そうすれば、いつでも祝 福のシャワーを受ける (エペソ1:3) 。 ただ、 それは感 覚的に分かるのではなく、み言葉によってのみ確認 できることである。 信仰によって、 今が祝福の時と宣言しよう。 #(' 12 December ● 月日 変わることがない イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、 同じです。(ヘブル 13:8) キリスト者としての最善の生活は、ヘブル人への手 紙 13章に示されている。 まず、 「いつも同じ」 (8) と表現されている、 時を超越 した方に結ばれる 天的な生活 、 「兄弟愛をいつ も持っていなさい」 (1) と言われる 愛の生活 、さ らに「金銭を愛する生活をしてはいけません」 (5) 、 「…その信仰にならいなさい」 と言われる、 聖い生 活と信仰の生活 が必要である。 さらに、 「ですから、私たちはキリストを通して、賛美 のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの 果実を、神に絶えずささげようではありませんか」 (15) と言われている 礼拝の生活 が、クリスチャン にとって大切である。 意味のある人生を送るために、いつも変わらない主 を礼拝しよう。 #(( 12 December ● 月日 東方の博士 東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう 言った。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった 方はどこにおいでになりますか」。(マタイ2:1-2) 東方の博士たちは不思議な星に導かれてエルサ レムにやってきた。彼らの見た星は、アブラハムが あなたの子孫は星のようになる と言われて空を見 上げた時と同じような輝きであったのだろうか。 夜空に輝く星の光は、長い時間を経てやっと地球 に届く。つまり、 あの輝きは過去を表していると考える と、天地創造の時から、神様の思いは変わっていな いことを示しているのではないかと思わされる。博士 たちが見た星は、 そのようなものであった。 東方の博士たちは、星そのものではなく、星が指し 示すお方を礼拝した。そこは、天からの答えと恵み が満ちているからである。 #() 12 December ● 月日 はじめにことばがあった 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあっ た。ことばは神であった。この方は、初めに神とと もにおられた。(ヨハネ1:1-2) ヨハネがクリスマスを描写したこのみ言葉は、創世 記の天地創造と重なって、 心に留まる。実に、 ことば は、 神とともにあった。 ことばは、 人の心を表すもので、 ロゴスと言われる。こ のことばなるお方は、 「神のあり方を捨てることが できないとは考えないで」 (ピリピ 2:6) 、ご自分を無 にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ た。それは、罪の中に死んでいる者たちを新しく生ま れさせ、 生かすためであった。 キリストは、完全なる人としての性質をもって地上に 来られた。それがクリスマスである。 よき訪れを知らせる時、 クリスマスおめでとう。 #) 12 December ● 月日 X’ mas イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主 を拝み、主にだけ仕えなさい。』 と書いてある」。 (ルカ 4:8) クリスマスが、 しばしば X masと表記されるのは、ギリ シャ語のXρ ι στ οσ (キリスト) の最初の文字を使うか らである。またマスは、 もともとラテン語ではミサと言わ れ、礼拝のことである。つまり、クリスマスは、キリスト 礼拝 と訳すことができる。 羊飼いは、世界で最初のキリスト礼拝者となった。 その結果、彼らは賛美したと書かれている。また、 東方の博士たちも、礼拝するために旅を続け、イエ スに出会い、彼らもまた賛美する者となったに違いな い。 クリスマスの本来の意味である、 キリスト礼拝が実現 する時、人は希望に満ちた神の声を聞き、賛美に 満たされるのである。 永遠のいのちを与えて下さる主を賛美しよう。 #)! 12 December ● 月日 しあわせ者 主によって語られたことは必ず実現すると信じきっ た人。(ルカ 1:45) 主が語られることを、すでに成し遂げられたものとし て見てそれを宣言できる人とは、 どのような方だろう。 宣教師として召された方、教会のリーダーとして活 躍している方、 それとも普通の家庭の平凡な主婦… 仕事や立場ではなく、たとえ、病気のためにベットに 伏せている方であっても、 マリヤと同じように、 「これか ら後、 どの時代の人々も、私をしあわせ者というで しょう。 」 (ルカ1:48) と言える。 神が、 私のための計画を持っており、 私を生かして、 それを実現して下さる。私には力も、自信も無いが、 私を導いて下さる方がそれをして下さる。 それゆえ、 私はただ、 いま生かされている場所で安息 していよう。神が「よくやった」 と言ってくださることを 信じて…それが私の幸せです。 #)" 12 December ● 月日 わたしのところに イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われ た。「子どもたちを、わたしのところに来させなさ い。 止めてはいけません。 神の国は、このような 者たちのものです。(マルコ10:14) イエスは、子どもたちをそのままに…と言われた。大人 は、自分が育ってきた過程で築いてきた常識的な 価値観で子どもを見るが、イエスは純粋な子どもをそ のまま受け入れるように言われた。 親にとって子どもは宝物であり、 しばしば手放すことの できないものとなることがある。神がアブラハムにイサ クを献げるように (創世記 22:2)言われたのは、アブ ラハムの信仰を見るためであった。彼は、神は人を 死者の中からよみがえらせる方と信じ、その結果 信 仰の父 と呼ばれるようになった。 ありのまま受け入れる事、 その中であなたの信仰を表 す事を、 主は望んでおられる。そして、わたしのところ に来なさい と呼んでおられる。 #)# 12 December ● 月日 神の祝福 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべての ことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わた しは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに います。(マタイ28:20) インマヌエル (ともにおられる) なるお方は、世の終わり まであなたと共にいるという約束をしておられる。そ のお方が、あなたの人生のすべてを祝福しておられ、 誰かがあなたの事を忘れ、 無視しようとも、 あなたのこ とを何時も心配し (Ⅰペテロ5:7) 、声をかけてくださる。 あなたは祝福されている。そして、 それは永遠に変わ ることがない。 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを 喜ぶ。 ( 」マルコ1:11) と言われる天の父の声が、 あな たにもかけられている。あなたは愛されている。あな たの歩むべき道はそこにある。 感謝を、 栄光の主にささげよう。 #)$ 12 December ● 月日 神とともに歩んだ エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、 彼はいなくなった。(創世記 5:24) 「歩む」 を意味するヘブル語は、神と腕を組みながら 行き来し、 散歩をし、 神と語り合い、 より親しくなっていく 様を表す。 エノクの生涯は 365年(創世記 5:23) と言われてい るが、主は彼の人生そのものであった。しかしながら、 彼もまた私たちと同じように難しい問題や重荷を背 負っていたに違いない。ただ、 彼は神と手をつないで、 腕を組んで歩んだ。 その結果、 神の喜び、 神の視線、 神の心を共有でき たので、 「彼は神に喜ばれていることがあかしされ …」 (ヘブル11:5) 大胆に神を信じたのである。 自分で歩いてきたのではなくて、主の御手につなが れて歩んで来た。感謝と賛美ができるというのはそう いうことなのだ。 #)% 12 December ● 月日 積極的に待つ 私は主を待つ。 ヤコブの家から御顔を隠しておら れる方を。私はこの方に、望みをかける。 (イザヤ 8:17) 待つことは、霊的な生活にとって欠くことのできないも のである。キリストの弟子として待つのは、空虚な体 あがな 験ではない。すでにキリストの十字架の贖いによっ て完成された保証があるので、 確信と希望に満ちた ことなのだ。 クリスマス前のアドベントにはキリストの誕生を待つ。 イースターが過ぎると聖霊が来られるのを待つ。そし てペンテコステが過ぎて、主が栄光の内に再び来ら れるのを待つ。 私たちには常に待つという事が大切であるが、 むなし く待つのではなく、神の足跡をすでに見たという確信 にあって待っている。神を待つことは、積極的に、注 意を怠らず、 喜びに溢れる心で待つことである。 私たちが待っているのは、 何かの事件ではなく、 キリス トご自身である。 #)& #)' 編集後記 本書は、聖書の引用箇所を飛ばして読めば、数分で読むことがで きるように編集されている。 ぜひ、 これを食卓の一角に置いていただきたいと願っている。そして、 食事の前、あるいは後で読み、短い祈りをささげてくださるように勧める。 家族全員一緒に食事をすることは、なかなか難しいこともあろうが、各 自が簡単に肉体の糧と共に霊の糧を頂くことができると思う。それが 本書の願いである。 記事には、新しく造られた言葉や難しい表現もあり、 よく似た内容の 記事が複数回出てくることもある。時には、時間を使って聖書の引用 箇所を見ながらのデボーションは、 新しい発見につながると思う。 堺福音教会は、 いま “虹の教会” を目指している。ノアを通して神の 祝福を現し、その契約を明らかにするために、神は “雲の中に輝く虹を 置いた” 。その契約に安息することを願っている。神の契約と、それに 導く聖霊の働きは風によって表現されている。!))(年 )月から""回に わたって、月刊誌「恵みの雨」に連載された「風の翼」は、本書の記 事の一部になっているが、 そのことを表している。 本書の著者は、故我喜屋光雄先生、我喜屋明先生、福留正明 先生の#名である。教会という一つの体の中で生まれたものなので、 敢えて記事の担当者は書き留めなかった。ご理解いただきたい。 (奥野武俊) #)( そよ風の吹くころ " !!年! 月!日発行 著 者:我喜屋光雄、 我喜屋明、 福留正明 編 集:奥野武俊 発行者:我喜屋明 発行所:堺福音教会 堺市南区若松台#丁#$!$ 印 刷:プレイズ出版 #))
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