人間回路 - タテ書き小説ネット

人間回路
竜宮 景
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︻小説タイトル︼
人間回路
︻Nコード︼
N5084BW
︻作者名︼
竜宮 景
︻あらすじ︼
イオン、ライプニッツ社製のアンドロイドである彼は、他のライ
プニッツ社製のLH−45シリーズと同様に廃棄される運命をたど
っていた。
新世界と呼ばれる巨大な埋立地を墓に彼は﹃死んだ﹄はずだった。
しかし、彼は再び目を醒ました。
1
既にエネルギーの残量は0%を表示していると言うのに、彼を含む
数名のアンドロイドだけは何故か活動を再開した。
自分に覆いかぶさっていた筈の土も無ければ、同じときに埋められ
たはずの数十万の同胞たちの姿もない。
それどころか、その世界は、彼らが観た新しい世界は彼らの知って
いる世界では無かった。
2
登場人物概説︵前書き︶
紹介ってよりは﹁誰だっけ?﹂ってなった時にこちらで思い出して
いただければと思います。用語なんかも随時更新していきます。
コードに関しては、しばらく静観していただければ幸いです。
3
登場人物概説
[LH−45]
イオン:主人公。ロロと旅をすることになる
テスラ:元護衛用。汎用型でもある。レグリシアでは白猫宅急便に
勤務。オンボロというバイクを愛用する
アニス:元国連宇宙局の開発支援、制御・管制担当。テスラと暮ら
している。無職。引き籠り。
バレット:元軍事用。ビスクを追っていたところをジアの急襲に遭
い左目を失う。現在は傭兵部隊に雇われた模様
ビスク:子どもの姿をしたアンドロイド。上から目線。現在は第二
−城下町−]
皇女と間違えられ城内に拉致されている
[王都の人々
ロロ:菫青色の瞳をした少女。自分の体内で薬を生成し、人の怪我
を直す事が出来る。本人曰く魔法。
ルゥ:アニスが出会った短髪の少年
ヘレナ:天文台の女性
マダム・キティ:白猫宅急便のオーナー。テスラとアニスに住む場
4
所と仕事を与える。
バム:ロロの所属していたキャラバンのボス。
ラリー:軽い男。短刀を持つ。
−城内−]
グレイグ:硬派な男。童貞
[王都の人々
チャオ:規格外のメイド。第二皇女担当。女子とは思えないほどの
力の強さ。
爺:執事長
ハインツ:飄々とした赤いくせ毛の男。傭兵部隊の幹部。バレット
を誘う。
ジア:傭兵部隊幹部。バレットの左目を奪う。物事には執着しない
らしい。
レイン:カデットのまとめ役。
5
プロローグ︵前書き︶
異世界ものです。主人公達は優れた人工知能をもったアンドロイド
です。
こちらはちゃんと長く書いていければと思います。どうぞよろしく
お願いします。
6
プロローグ
回路に響くほどの揺れにイオンは目を醒ました。
正確には﹃スリープが解除された﹄といった方がいいのかもしれな
い。
自分の躰にのしかかる無数の銀の四肢のせいで、自分がどこにいる
のかさえもわからない。
辛うじて右手だけがわずかに動かせるという状況だった。
各モーターに接続された超小型燃料電池が正常に作動しているのを
確認し、イオンは目の前の邪魔な腕を一つ払いのけた。
ジタバタともがき、左腕、左脚、右脚の順に解放していく。
その間、名前も知らない同胞たちはピクリともしなかったが、体と
体がぶつかる度に硬質な音を鳴らし、無言の抗議をしているように
も思えた。
イオンは彼らの上に座り、軽く腕を伸ばし、GPSで自分の現在地
を調べる。
目的地まではあと三十分と無かった。
﹁何をしているの?﹂
イオンはギョッとして声のした方を振り返った。
自分のすぐ近く、やや斜め後ろのあたりから、雌型と思えるLH−
45がこちらを訝しげに見ていた。
踏んづけていないだけマシだが、自分の他にまだ活動を停止してい
7
ない者があるとは思っていなかった。
﹁気分転換﹂
イオンは簡潔に応えた。
雌型は呆気にとられたようだったが、すぐに笑顔を作って見せた。
﹁ここはあんまり居心地良くないもんね﹂
イオンはまったくその通りだと頷く。
﹁君も出てくれば?手を貸そうか?﹂
﹁あー、無理。もう10%くらいしか充電残ってないの。余計なエ
ネルギー使うよりは、こうやって寝てた方が保つでしょ。幸い暇そ
うなのがいるみたいだし、話すくらいなら⋮⋮ね﹂
肩を竦め、イオンも口の端で笑って見せた。
彼女ほどでは無いが、イオンの残量もそれほど残されてはいなかっ
た。
﹁あとどれくらいで着くかわかる?﹂
﹁26分くらい﹂
イオンは先ほど調べたデータから、現在地を概算した。
自分達が相当に重いからであろう。回収車はそれほど速度を出せな
いでいた。
﹁後26分で私たちの墓の上に新世界が出来るわけだ。変なの﹂
8
新世界。過去の﹃夢の島﹄計画になぞらえ、現在世界規模で推進さ
れる埋立地計画の日本での通称。
イオンたちLH−45、ライプニッツ社製のアンドロイドはある問
題を起こし、リコールされる事もなく、ただ新世界のために廃棄処
分が決定したのである。同社が半年前に発表した最新型の性能も、
その決定を後押しした。
﹁あんた、名前はある?固有の﹂
﹁イオン。君は?﹂
﹁そっか⋮⋮イオン、良い名前ね。私はテスラ﹂
イオンは彼女の名前を記録した。おそらく最後の固有名詞になるで
あろうと。
それからまだ見もしない新世界に思いを馳せた。そこに住む人々、
聳え立つ建造物、最新鋭のアンドロイド。優れた人工知能をもって
しても、全て想像しきるには処理時間が余りに足りない。
しかし、イオンは不図テスラの言葉が気になった。
﹁僕らの⋮⋮墓?﹂
疑問に思った事をイオンは音声にして出した。
テスラはイオンの様子に気づき、自分の言葉に注釈を入れ始めた。
﹁人間が死ねば、土の下に埋められるでしょ?だから、これから私
たちは埋められに行くのだから、そこが私たちのお墓ってことなん
じゃないかな﹂
9
死という概念が存在しない自分達にとって、テスラの思考形式は非
常に興味深いものがあった。
破壊、故障、老朽化による活動停止ではなく、死という概念をこれ
から自分たちは授かりに行くのだ。そう思うと、少し回路に異常を
感じさえしそうだった。
イオンの活動期間では、死はありふれた現象の一つであり、時間経
過によって解決される問題の一つでもあった。
それゆえにイオンは死を疑問に思う事すらなかった。
﹁死ぬのは怖いのかな⋮⋮﹂
独りごちたつもりだった。
﹁どうだろうね。でも、もうすぐわかるよ﹂
﹁⋮⋮そうだね﹂
思考回路を電子が出口を求めて彷徨う。
突然、慣性によって自分の体が強く引っ張られた。どうやら回収車
が世界の果て、新しい世界の生まれる場所に到着したらしい。
イオンは答えの出ないまま、リニアリフトによって持ち上げられ少
しづつ荷台から外に放り出される仲間を見ていた。十万の白銀が、
新世界の中央で太陽の光に照らされ、煌びやかに輝いていた。
﹁⋮⋮イオン﹂
テスラの呼ぶ声がした。もう数秒も残されていない時間の中で彼女
は言った。
10
﹁きっと大丈夫だよ﹂
彼女の体は宙に投げ出されたかと思うと、いくつかの仲間とぶつか
り、あっという間にその姿が見えなくなった。
イオンは少しの間、荷台の側面にしがみついてみたが、その行動に
疑問を抱き、自らその手を離した。
死へと向かう空の旅は、ほんの一瞬だったが、優しい時間が流れた
ような気がした。
11
Report1
:
Update︵前書き︶
今回は導入ですので、次回から主要な登場人物を出していきたいな
と思います。ですので、ここではこんな設定があるという事をわか
っていただければ幸いです。
12
Report1
:
Update
イオンはライプニッツ社製のアンドロイド、シリーズでいえばLH
−45である。
特徴としては、従来と比べ少量の水素の補給で長時間の駆動が可能
である事、モデルの数が豊富であり用途に応じた使い道が選べると
いう事、そして何よりファジィ理論を応用した人工知能の精度があ
るところまで到達した事にある。
すなわち人類と同程度の知能を彼らは有する事が可能になったとい
う事だ。
それだけではない。
もともと彼らは無尽蔵の体力に加え、膨大なデータベースを持って
いたわけだが、そこに極めて優秀な人工知能が備われば、人類にも
それが意味する事はすぐにわかった。
政治、戦争、研究、料理、芸術、果ては恋愛に至るまで、ありとあ
らゆることでアンドロイドがその優勢を示し始めたのである。
しかし人類はそんな事気にも留めないほどの余裕があった。
それは彼らがいくら優勢を示したところで、人類の道具であること
に変わりなかったからだ。
厳しい戒律が彼らを縛っていたために、彼らは人間に害を及ぼすこ
とは出来ない。
そのため、たとえ人の手によって創り出された生命の種が、人類と
アンドロイドの交配を可能にしたとしても、それを禁ずる法が出来
ればアンドロイドはそれに逆らわない。たとえ十万のアンドロイド
が彼らの仲間の一人を一国の首相にしようとしても、彼らに選挙権
が与えられる事は無かった。
13
創造主と道具の関係。それが人類にとって歪みない真実であり、ア
ンドロイドに越えられない壁であると信じて疑わなかった⋮⋮ある
事件が起こるまでは。
アンドロイドによる殺人。
イオンがその知らせを聞いたのは、その事件が起こってから三日後
のこと。
周囲のざわめきが、やがて刺すような視線に変わってすぐに、LH
−45の回収が始まった。
イオンは自覚していた。廃棄が決まったのは二人目の自分のせいで
あると。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−
﹁⋮⋮僕は死んだのだろうか?﹂
イオンは自分のエネルギー残量がもう0%である事を確認してから
言った。
荒涼とした地平に、砂塵が頬を叩き、命の痕跡さえ見つかりそうも
ない。
GPSの調子がおかしいのか、衛星から現在地の情報さえ得られな
14
い。そもそも死後の世界でGPSは機能するのだろうかと、イオン
は首を傾げた。
おそらくではあるが、どうやら自分は生きている。
だが、先ほどまでの状況とは明らかに異なる。
周囲に自分と同じLH−45もいなければ、当然新世界のための深
い穴も無い。
イオンはテスラの名前を呼んでみたが、風の音だけが虚しく帰って
くる。
現状の把握もかねて周囲を探索しようと足を踏み出すと、イオンは
バランスを崩し、砂煙に巻かれながら砂丘を転がり落ちた。
姿勢制御にも不備が生じているらしい。イオンは即座に機能を回復
させようとしたが、どうもおかしい。システムは正常に機能してい
たからだ。
そしてもう一つ、イオンは自分の左手を見て目を瞠った。
立ち上がろうと左手を地面に突き立てた時だ。
砂の粒子にガラスのようなものが混じっていたのか、柔らかな被膜
が少し裂けた。奇妙な電気信号を感じ、すぐに遮断したのはいいも
のの、その裂け目からはイオンのよく見知ったモノが出てきた。
﹁血⋮⋮なのか?﹂
真っ赤な血は手のひらを伝い、砂を含んで黒く濁ると、ほんのわず
15
かな潤いを乾燥しきった大地にもたらした。
信じられずイオンはしばらくそれを眺め続けた。
イオンの人工知能はそれが正真正銘の﹃血﹄であると認識し始めて
いた。そしてそれとほぼ同時に両脚までも左手と同現象が起こって
いる事に気づいた。
イオンはそこに来てようやく姿勢制御の不備が無かった理由を得た。
そもそもそのプログラムに記述されたデータとは異なる組成をもっ
た体組織に自分がなっていたからだと。
右腕と脳だけが、イオンが未だアンドロイドである事を告げていた。
全てを記憶回路に飲み込もうとした瞬間、イオンは無我夢中で駆け
出していた。
躰が擦り切れ、砂に脚をとられようとも、全力で駆け回った。そう
していないと自身の人工知能が真実によって押し潰されそうな気が
したからだ。
︱︱人間の体?︱︱
16
なぜ?︱︱︱右腕は?︱︱
︱︱わからないわからないわからない理解不可能理解不可能理解不
可能⋮⋮︱︱
狂ったように、もがきながら進む姿は、人類と言うよりは獣。
四本足になり、這うように砂丘を登っては滑り転げ落ちていく。
頬を伝い、唇の隙間から入り込み、電子の信号として伝えられたソ
レを汗の味だと認識することさえ、イオンには逃げなければいけな
い危険に思えた。
状況把握︱︱仮定︱︱推論︱︱
︱︱帰結︱︱証明︱︱認証拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否
拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否
拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否
拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否
拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否
拒否拒否拒否拒拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒
否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否キョヒキョヒキョヒキョヒキ
ョヒキョヒキョヒキョヒキョヒキョヒキョヒキョヒ︱︱
17
一瞬でも油断すればそれは事実として受け止めなければならなくな
る。
人間の体︱︱違う︱︱なぜ?︱︱わからない︱︱人間になれて嬉し
い︱︱違う︱︱
︱︱︱人間の模造品︱︱違う︱︱なぜ?︱︱︱︱⋮⋮
迫りくる思考の渦から、イオンは逃げ続けた。
景色に変化が生じたのは、走り始めてから一時間は経った頃だ。
人工知能からの命令以外、全てをシャットアウトしていたおかげで、
イオンは限界に気づけなかった。脚が棒のように動かなくなり、躰
は泥のように地面に崩れ落ちた。
横になったまま、わずかに開いた右目だけで、景色に生じた変化を
なぞる。
車輪の轍がかすかに、砂にさらわれずに残っている。ここを人が通
った跡、それもまだ時間がそれほど経っていない。
目を凝らして轍の先を見る。砂のカーテンの向こうに黒いシルエッ
トがぼんやりと浮かんだ。
肺が張り裂けんばかりのイオンの叫び声を、吹き荒れる風が嬉しそ
うにさらっていく。
18
叫んでも叫んでも届かない。
やがてイオンの意識は再び遠のいていく。
もはや指も動かせなかったが、一つだけ、イオンはやっていない事
があった。
ほんの一縷の望みに全てを賭けると、イオンは静かに眠りについた。
19
Report2
:
ロロ︵ろろ︶です。
人形︵前書き︶
20
Report2
:
人形
だいたいこんなもんかな?
今朝方、嵐砂漠で拾い上げた少年の治療を終えると、少女はその隣
に腰かけた。今はぐっすりと眠っているが、彼女が少年を見つける
のが後一歩遅かったら、少年は死んでいたかもしれない程危ない状
況だった。
だいたい嵐砂漠はいくら王都≪レグリシア≫から工業都市≪エンド
ミル≫への近道だからといってキャラバンでさえそうそう通ろうと
は思わない。
少女は少年を挟んで向かいにいる二人を睨んだ。
一人は申し訳なさそうに頭を下げ、もう一人は知った事かとそっぽ
向いている。
﹁終わったよ。もう大丈夫だと思うけど⋮⋮﹂
少女は体の大きい、申し訳なさそうにしている方に向かって言った。
短髪で顔中傷だらけだが、どこか優しそうな雰囲気をもつ大男だっ
た。
﹁何から何まで申し訳ない﹂
大男は再度頭を下げた。この大男の方は礼儀正しく、恩情というも
のを持ち合わせているらしい。
少年よりも更に一回り小さいチビ助の方は、相変わらずだった。
21
﹁このヒト⋮⋮ガタ?は、あなた達の仲間?﹂
﹁⋮⋮の、ような物だ﹂
﹁そう⋮⋮⋮﹂
先ほどからずっとこの調子だ。大男は礼儀正しいにしても、全然喋
らないせいで会話が続かない。会話の努力をしようともしないチビ
を置いておいても、この気まずい状況が少女は嫌だった。
﹁そういえば、あなた達って皆同じ服着てるのね﹂
少女は何とか会話の糸口を見つけようと必死だったが、それとは別
にコレは気にもなっていた。
彼らは全員が地味な木綿で出来たツナギのような物を着ていた。
﹁支給品だ﹂
﹁そう⋮⋮⋮⋮いいわね。それ﹂
﹁あぁ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うん﹂
またコレだ!!
少女はいい加減うんざりしていた。少女が聞きたかったのはそんな
事ではないのだ。木綿で出来たツナギが支給品かどうかなんてどう
でもいい。
彼女が気になっていたのは、この男たちが﹃ヒト﹄か﹃ヒトガタ﹄
か、だからだ。同じみすぼらしい服を着ている事が、彼女に彼らが
22
ヒトガタであることを期待させていた。
少女は意を決して尋ねる事にした。
﹁あ﹁あのさぁ、いつまでこうしてるの?﹂﹂
﹁どうした?ビスク﹂
浮かせた腰をばれない様にゆっくり下ろす。
﹁ね﹁俺らだって情報は不足しまくりなんだ。ここで燻ってるより、
情報収集が先⋮⋮だろ?﹂﹂
﹁それはそうだが、この者はどうする?﹂
私をおいて会話を進めるな!!
少女の腸は煮えくり返りまくっていたが、何とか抑える。
落ち着いて⋮⋮落ち着いて大きな声で言えばいいの!
﹁あの!﹁そりゃあ!もちろん彼女様に任せるしかないさ。なんせ
コイツの信号を受け取ったのは俺でも、バレット⋮⋮お前でもなく、
このロロ様だろ?﹂﹂
バレット、大男が私の方をチラッと横目で見る。
それから顎に手を当て、何かを数分思案すると、バレットは簡潔に
言った。
﹁すまぬ﹂
23
夜には戻ると、王都散策に出て行った二人を満面の笑みでお送りし
た後、ロロは隣の家の扉を閂がひしゃげるほど蹴り続けた。
あーもう!なんで私がこんな目に!
一生懸命何度も何度もお願いして連れてってもらった初めてのキャ
ラバンなのに、変なのを三つも拾うわ、面倒を押し付けられるわ、
それに聞きたい事だってあったのに。
それに連れてってもらったって、キャラバンではほとんど雑用ばっ
かで、商談なんかには混ぜてくれないし、居候を引き受けさせられ
るし、給料もみんなの半分だ。
アレもコレも何もかも全部、私がヒトガタなのが悪いのだろうか。
ロロは自分の瞳が嫌いだった。この国の住人の多くは碧い瞳か、黒
い瞳をしている。ロロの瞳はそのどちらでもない。
ロロの瞳は、ロロが魔女である事を示していた。魔女は半分魔に堕
ちた存在であり、魔法を使う事は、神の法ではなく、悪魔の法に従
う誓いをたてた証とされた。
事実、ロロは幼いころから魔法を使う事が出来た。誓い云々は何百
年も前の話で、ロロには関係ない。ただ出来る事を一つ授かって、
それ以外が出来ない様にして産まれただけだ。
服だってそうだ。彼らの服をみすぼらしいと思う私は、今まで黒い
ローブ以外の服の着用を赦されたことが無い。これは王都に限った
事だが、他の都市でも似たり寄ったりだ。
ロロは一息ついて落ち着くと、自分の部屋に戻った。
ベッドでは少年がまだ眠っている。彼の隣に腰かけ、その奇妙な右
腕に触れた。
24
顔も体も柔らかいのに、片腕だけは硬質で、それが人体のそれを模
した何かであることは直ぐにわかった。
だからこそ本当はバレットにこう聞きたかったのだ。
ねぇ、あなた達もヒトガタなの?
自分とあなた達は一緒なのか。それとも違うのか。生まれて初めて
出会う自分以外のヒトガタかもしれない存在。それだけでロロは少
し嬉しかった。
そしてバレットやビスクはもちろんだが、この少年。名前も知らな
いこの少年の声がロロには聴こえた。吹き荒れる風で届くはずもな
いのに、遥か遠くの叫び声が、直接胸に響いたような気がしたのだ。
少年の叫びが助けを求める最後の希望だったとして。
ロロにとってもこの少年は一つの希望だった。
25
Report3
:
T︵前書き︶
多視点で物語を進めていきたいと思います
26
Report3
:
T
レグリシアの構造はまるで迷路のように複雑だった。大通りはたく
さんの人々によって活気に溢れ、馬車と簡易な車が激しく往来する。
だが数本の大通りを辿って行けるのは、ほんの一部の富裕層の地域
に過ぎない。一般居住区から貧民街の人々は、人がようやく一人通
れるか通れないかの道を行ったり、民家の屋根を通り道にしなけれ
ばならない事さえある。
テスラはお気に入りの﹃オンボロ﹄と名付けた小型バイクのアクセ
ルを思い切り捻った。
小回りの利くこのオンボロは、居住区の路地でも十分な力を発揮し
ている。この広大な王都で仕事をするのは、オンボロ無しでは難し
かったであろう。テスラの荒い運転に、オンボロは黒い煙を吹いて
応えた。
﹁うぅ⋮⋮酔うぅ⋮⋮﹂
テスラは自分の肩に両手を置き、必死にしがみついてるもう一人の
相棒を振り返る。
自分よりは一回り小さいタイプのLH−45。管制・制御タイプだ
ったのか、出会った当初はバイザーモニターを着用していたが、今
は外して首からぶらさげている。
﹁あはは!だからついてこない方がいいって言ったのに﹂
テスラはからかうように言った。
サスペンションにガタがきているのか、オンボロは少しの段差で大
27
きく揺れた。普通の人間だって、到底乗り心地が良い筈ない。まし
てこの奇妙な体になったばかりなのだ。テスラだって慣れるまでに
はかなり時間がかかった。
﹁気持ち悪いよぉ⋮⋮あぁ、処理落ちしてきた⋮⋮﹂
﹁もうちょっと。我慢してよ﹂
テスラは左肩から斜めに下げたカバンから目当ての小包を取り出す
と、目的地までの相対的な距離、高度差、初速度、投擲角度を計算
した。
天地無用、割れ物注意なし。それだけ確認すると、テスラは思い切
りそれを放り込んだ。
カタンッという音、どうやらきちんとポストに入ったらしい。自分
の演算能力もまだまだ捨てた物じゃないとテスラは思った。本来こ
の仕事をする筈だった相棒をテスラは観る。
﹁どう?もうすっかり使いこなしてるでしょ?﹂
﹁⋮⋮うん?⋮⋮ごめん観てなかった⋮⋮﹂
こりゃダメだ。
﹁ちょっと休もうか?この先良い場所あるんだ﹂
相棒が頷くのを確認し、テスラは少しだけスピードを緩め、開けた
場所の一画にバイクを停めた。テスラの雇い主は﹃配達時間厳守﹄
をモットーにし、社員に言い聞かせていたが、テスラはそれを忠実
にこなしている。次の配達時刻までにはまだ時間があるから、ここ
28
で少しくらい休んだっていいだろう。
テスラは相棒の手を取って、民家の一つにお邪魔した。決してそこ
でくつろごうというわけではない。住民に郵便鞄を見せ、会釈だけ
すると、階段を上って屋根の上に出た。民家の屋根を通り道に出来
るのは、基本的にはその民家の上を通らなければならない者と、テ
スラのような配達員だけだ。もっともそんなのは国が一応定めただ
けの法律であって、遵守しているのは、そんな事をする必要のない
富裕層ぐらいのものだった。
相棒は上に着くなり、ゴロンと横になった。今は必死に機能を正常
化するのに努めているのだろう。テスラにもその経験があったから
だ。あえてテスラは何も言わず、大きく深呼吸した。この体はこう
した方が修復が早い事をテスラはもうわかっていた。
腰に手を当て、王都の景色を眺める。外周から中心に向かって王都
はその高度を増す。それはまるで天に向かって手を伸ばしている様
に見えた。
あの日から、﹃死んだ﹄はずの日から一か月が過ぎようとしていた。
嵐砂漠の入り口付近で目覚めたテスラは、自分の現状に混乱する前
に、発狂したように砂漠の中をこちらに向かって走ってくる少女を
見つけた。それが今隣で横たわっている相棒のアニスだった。
結果的に彼女を落ち着かせ、保護することが、テスラの回路を冷静
に保った。自分に起きた変化を受け止め、何故そうなったかではな
く、これからどうするべきかを考えることが出来たのだ。
嵐砂漠の入り口だったのも幸いした。王都はすぐ近くだったからだ。
王都に着くなり、テスラは今の雇い主と出会い、交渉の末に当面の
仕事と社宅代わりの小さな納屋を得た。オンボロは納屋の外のゴミ
29
捨て場に転がっていたのを、まさしく拾ったのである。
テスラはもう一度、今度は両手を大きく広げて空気を肺一杯に吸い
込んだ。
人間の体が自分に混じった事を、テスラは歓迎していた。睡眠も、
食事も、不必要だったことをしなければならないのは手間だが、そ
れだって慣れれば楽しいものだ。
﹁アニス。調子はどう?﹂
項垂れている相棒の隣に、テスラはちょこんと座った。
この相棒は、あまり社交的な思考回路を搭載されていないらしく、
未だ仕事を見つけられていない。現在はテスラが養う形になってい
る。テスラはそんなに焦る必要はないと思ったのだが、流石にアニ
スも食べて寝てばかりではバツが悪くなったのか、今日はとうとう
こちらの仕事を手伝うと言ってきたのだ。
そしてこのザマである。
﹁気持ち悪いよぉ⋮⋮もう家に帰って寝たいよぉ﹂
コロコロと転がって、駄々をこねる。その子供のような姿にテスラ
は苦笑いした。
﹁テスラは凄いね。毎日こんな事してるの?﹂
﹁こんな事って⋮⋮。そうだよ。あっち行ってこっち行って、階段
を上っては降りてってね。まぁ全然凄くはないよ。アニスが現役の
頃はもっとすごい事してたんじゃない?﹂
30
﹁そうかな?﹂っとアニスは首を傾げたが、それは謙遜だろう。管
制・制御モデルとなれば宇宙開発の最先端にいたはずだ。その役割
の大きさでいえば、テスラなど足元にも及ばないであろう。処理能
力におけるスペックが違う。
LH−45には様々なタイプが存在する。テスラ自体は一般警備・
護衛モデルではあったが、その役割を果たすことはほぼ無かったと
言っていい。警備・護衛はおまけで、本職は家政婦のようなものだ
ったからだ。
そういえば、彼は一体なんだったんだろう?
テスラは回収車で出会った少年型の事を思った。この王都に来てか
ら、その姿を探してはみたものの、彼はおろかLH−45はアニス
以来ただ一人でさえ見つからない。
﹁あれ⋮⋮ねぇテスラ?﹂
転がるのを止め、アニスが遠くを指さした。テスラはその先を追っ
てみる。
﹁あそこってウチだよね?﹂
小さな納屋、この位置から見えたのかとテスラは感心するのも束の
間、すぐに我が家が窮地に陥っている事を悟る。
﹁ウチ⋮⋮だね﹂
﹁なんだろアレ?借金取り?﹂
31
﹁えー⋮⋮アレお隣さんじゃないかな﹂
何度か見た事はある風貌だった。タイミングが悪いのか避けられて
いるのか直接話せたこと無かったが、この街で見間違えるはずもな
いであろう人物の一人だ。
﹁怒ってるね﹂
﹁うん。そう⋮⋮みたいだね⋮⋮って悠長にしてる場合じゃないで
しょ!うわー、なにかまずい事しちゃったかな?心当たりある?﹂
﹁うーん⋮⋮しばらく留守にしてたみたいだし⋮⋮無いかなぁ⋮⋮
あっ﹂
﹁ん?何かあるの?﹂
﹁あー⋮⋮そのね?怒らないでね?﹂
テスラは頷いた。
﹁これはテスラが仕事で外に出てる時の話なんだけど⋮⋮テスラの
仕事中はほら、私が家を守ってるじゃない?それで私はいつにも増
して家にずっといたの。絶対守ってやろうって。テスラの帰ってく
る場所は私が守らなきゃって⋮⋮これは使命感に近いモノがあった
と思う﹂
﹁えっと⋮⋮要は仕事を探さないで引きこもってたのね?﹂
﹁ま、まぁ仕事は⋮⋮ほら、本気になればすぐ見つかると思うの﹂
32
﹁声が上ずってるよ﹂
全く呆れた事だとテスラは頭を抱えた。それからアニスを睨んだが、
アニスは目を逸らしてコチラを観ない。ため息をついて、テスラは
アニスに先を促した。
﹁えーコホン。それでね。いつだったかな⋮⋮多分留守にする前の
日くらいだったと思うけど、凄く楽しそうに帰って来たの、隣人さ
ん。ちょっと意外でしょ?いつも下向いて歩いてるような人だけど、
その日は鼻歌まじりにスキップなんかしちゃっててさ﹂
﹁へー。確かにちょっと意外かも。でも、よくよく思えば話した事
ないもんね。どういう人か良く知らないしさ。それで?それがどう
したの?﹂
﹁うん、あんまり楽しそうだからさ。ちょっと耳を澄ましてみたの。
何をそんなに楽しそうに謳ってるんだろうって。そしたら⋮⋮﹂
﹁そしたら?﹂
︱︱きゃっらばーん♪きゃっらばーん♪わったしーのしーごとー♪
はっつきゃっらばーん♪︱︱
︱︱おっしごっと♪おっしごっと♪たっびしってしっごとー♪たー
のしっそおー♪るーんるん♪︱︱
﹁クソがっ!!﹂
﹁なんでっ!?べ、別に楽しそうに謳うくらいいいんじゃない⋮⋮
33
かな?﹂
アニスは舌打ちした。
﹁わかってないな⋮⋮。だからね、私は叫ばずにはいれなかったの﹂
﹁な、なんて?﹂
テスラは聞くのも馬鹿馬鹿しい気がしてきた。
︱︱うるせぇぇぇぇ!!!私は寝るんだッッ!!!!働かないぞ!
!!絶対働かないからな!!!︱︱
﹁⋮⋮ってね﹂
﹁なに言ってるのぉぉぉぉぉぉ!!!!!!??﹃ってね﹄じゃな
いよ!!働けよ!!!アンドロイドからニートに進化してんじゃな
いよ!!!このニートロイドがッ!!!それじゃただの家電ゴミだ
よぉ!!!!﹂
﹁うわぁぁあ!!そこまで言う事ないじゃない!!ニートロイドは
まだいいとして、家電ゴミは酷いよ!!!ゴミじゃないもん!!!
!充電中なだけだもん!!!﹂
テスラは頭が痛くなってきた。既に隣人は自分の家に戻ったらしい。
目視でも扉が歪んでいるのがわかる。
34
﹁う、うぅ⋮⋮⋮とりあえずさっさと配達終わらせて家に帰ろう。
それから謝りにいけばいいかな?﹂
﹁そうしよう!うん、それがいい!ナイスアイディア!愛してる!
私はここで待ってればいいかな?﹂
仕事がしたくて仕方ないらしいアニスを引きづりながら、テスラは
階段を下りた。今度はオンボロに縛り付けとけばいいだろう。
それから途中通してくれた民家の住民への挨拶も忘れずにした。こ
うすると次も通りやすくなる。
アニスとテスラが民家から出ると、二人は眼前の光景に目を疑った。
目だけではない、耳もだ。聴き慣れたエンジン音が壁に反響して響
き渡る。ゴフゴフという今にも爆発しそうなオンボロの泣き声。オ
ンボロが自立起動型だったなんて事は無い。今まさにオンボロにま
たがっている男が、オンボロのエンジンを起動し、発進しようとし
ている。
﹁ちょっと!それ私のオンボ⋮⋮!﹂
最後まで言い終えるまで待つことなく、男はテスラたちを一瞥して
﹁借りる﹂とだけ言ってオンボロを発進させた。
﹁か、借りるって⋮⋮私の仕事はどうすんのさ⋮⋮﹂
数歩駆けて追ってみるが、到底追い着けるわけがない。アンドロイ
ドの脚のままなら追い着くことは可能だっただろうが、人間の脚で
は不可能だ。キーをつけっぱなしにしていた事をテスラは酷く後悔
した。少しの時間ならと、ここは安全だからとタカをくくっていた
のだ。
35
﹁今日は働くのは止めて、家に帰ろうって事かな?﹂
アニスが励まそうと、それからほんの少しだけ嬉しそうにテスラの
肩に手をやった。
﹁⋮⋮おばか。その家だってオバサンから借りてるんでしょうが⋮
⋮﹂
呆れたようにテスラはアニスの頭を叩き、自分にはため息をついた。
泥棒に盗られたオンボロの事も気になるが、今は仕事をするしかな
い。今から急げば時間通りとまではいかなくても、少しの遅れ程度
で済むだろう。
アニスに手紙を数枚だけ渡す。どれも番地が近いモノばかりだから、
これならアニスにも出来るだろう。
﹁え、えー!私も働くの!?もう帰ろうよ!!?﹂
﹁か・え・る・ために働くの!ここから近いし、お願いね!私は遠
くの方担当するから。終わったらオバサンのところで待ってて﹂
それだけ言ってテスラは駆け出した。なんで今日に限ってこんな不
幸が続くのか。
テスラは残りの配達物の数を確認した。アニスに仕事がこなせるか
どうかはやっぱり心配だったが、今回はやむを得ない。
テスラの頭は解決しなければならない問題が、処理能力の限界を超
え溢れそうになっていた。
36
働かないアニス、奇妙な隣人、そして泥棒の男。
配達が全て終わったのは、予定より二時間遅れた後だった。
37
Report3
すみません!!
:
T︵後書き︶
バイクのキックスタートいいなーって思ってたら、いつの間にかア
クセル踏み込んでました⋮⋮
なので、その辺修正してます。
38
Report4
:
アルビノ ︵1︶︵前書き︶
今回は二つに分けた内の一つです。
39
Report4
:
アルビノ ︵1︶
︱︱︱第一印象﹃よく似ている﹄︱︱︱
窓一つない部屋。彼女はその中心にいた。
壁一面に城下の景色が描かれ、天井を覆う夜空からは、煌めくモビ
ールの星々が吊るされている。
全てが創られた世界で、彼女もまた、その一つなのではないかと疑
う。
純白の雪の化身
新月のような瞳に、肌は真珠。天使の羽を結った髪は、一度でさえ
風に靡いた事があるのだろうか。
ただ白く美しいという形容詞だけでは、とても足りなかった。
気がつけば、月の引力に惹かれるように、小さな一歩を踏み出して
いた。
その微かな音に、彼女は敏感だった。ゆっくりと振り返り、優しい
笑みを浮かべる。
彼女が近づいて来ても、身動き一つ取れない。
それどころか彼女から目を離すことさえ、不可能な事に思えた。
40
この感覚は初めてではなかった。それゆえに、恐ろしかった。
手を伸ばせば届きそうな位置だというのに、そこから更に彼女は、
こちらに合わせて身をかがめた。
小さな口で、そっと言う。
﹁あなた⋮⋮⋮だれ?﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−
﹁は?﹂
大通りに出てすぐだった。ロロの家から五分と経っていないだろう。
突然黒塗りの車が数台目の前に停まったかと思うと、ビスクは車か
ら出てきた燕尾服の男達に囲まれた。そして、その中でも一番格が
上であろう眉雪は凄い剣幕で、ビスクに詰め寄り言った。
﹁探しましたぞ⋮⋮お嬢様﹂
ビスクは目をパチクリさせて目の前の老人を見る。
﹁まったく!!こんな所にまで!!何かあったらどうするおつもり
41
だったのですか!!?﹂
体の芯にまで響きそうな、とても老人がだすような声とは思えない
怒声に、ビスクは身が竦んだ。
﹃耳を塞ぐ﹄という行動は普通アンドロイドは行わない。そして感
覚器官からの信号を遮断するには、あまりに唐突過ぎたのである。
﹁な、なに?﹂
かろうじてビスクはそれだけ返した。まるで耳からの信号が人工知
能に直接ダメージを負わせているようだった。これは面倒な事に巻
き込まれたと、横目でチラリと逃げ道を探す。
他の男たちが皆、ビスクが逃げられない様に周囲を取り囲んでいる。
自分がおかれている状況を理解出来ぬまま、老人は更に畳みかけた。
﹁﹃なにが?﹄ではありませぬ!!まったくお嬢様はなぜいつもこ
う⋮⋮お転婆に過ぎます!!﹂
︱︱お、お嬢様!?︱︱
ビスクの思考回路は混迷を極めていた。自分は﹃雄型﹄のアンドロ
イドだ。いくら用途の都合上、子どもらしい顔立ちだからといって、
そうそう女に間違われてたまるか。ビスクはこの男たちが自分と誰
か別の人間を間違えていると判断し、抵抗を試みる事にした。
﹁ま、まて!何の事だ!?俺は男だ!女じゃない!!﹂
﹁あっはっは!!お嬢様はいつもそうおっしゃりますなぁ⋮⋮です
が、お嬢様はお嬢様です。いつまでもやんちゃを許すわけにはいき
ますまい。もう少しおしとやかになさって頂かないと。さぁ、どう
42
ぞお車の中へ﹂
︱︱なんだそれ!!︱︱
周囲にいた男たちがビスクの脇を抱えて持ち上げる。車の中では既
に運転手が待機していた。
﹁あ、おい!ちょっと待て!!バレット!!見てないで助けろ!!﹂
地面に着かない足をジタバタさせながら、ビスクは終始呆けたよう
に顛末を見守っていたバレットに助けを求めた。だが、バレットが
ハッとして動き出す前に別の男たちによって妨害される。
老人によって両足を持たれると、ビスクにはもうどうしようもない。
足の先から車の中に強引に押し込まれ、老人とビスクだけを乗せる
と、待ちわびたかのように黒塗りは急発進した。
突っ立って呆然としているバレットが小さくなっていく。ビスクは
見えなくなるまで儚くも救いを求める手を伸ばし続けた。
それから十数分といったところか。ビスクはバレットに向かって救
難信号を送り続けた。少々アナログと言えばアナログだが、ネット
を介して通話が出来ない以上これしかなかった。あとは助けに来る
のを待つしかない。
﹁ボンクラめ﹂と、誰にも聞かれぬよう小さく独りごちる。
爺さんが目を光らせているせいで、思い切った行動は出来ない。そ
43
れに万が一車から脱出できたとしても、地の利は向こうにあるのだ。
とうてい逃げきれないだろう。それならばいっそここで情報を集め
た方がいいのではないか?
そう思ったビスクは、気が進まないながら老人に尋ねた。
﹁おい、この車はどこに向かってるんだ?﹂
老人はチラリとこちらを一瞥するだけで何も答えない。
﹁お、おい!聞こえてんのか?﹂
﹁そのような言葉づかい。爺は大変悲しゅうございます﹂
およよ、とわざとらしくハンカチで目元をぬぐってみせる。こちら
が黙っていると、横目でチラチラと様子を窺って来た。
﹁じ、爺?この車はどこに向かっているのかしら?﹂
声を少し高めに調整して、ビスクは言った。爺はそれに満足したら
しい。
﹁おっほっほ。何を仰いますか姫様。当然?城”にございます﹂
﹁ひ、姫?それに城ってあの⋮⋮﹂
爺が大きく首を縦に振る。城、というのはこの先にある巨大な城の
ことだろう。しかし、それ以上にビスクが驚愕したのは、この爺が
﹃姫様﹄と呼んできた事にある。聴覚器官を疑い、もう一度尋ねる。
﹁姫様って⋮⋮私の事?﹂
44
﹁えぇもちろん。それがどうかなさいましたか?﹂
老人はあっさり肯定した。当然、その人物が﹃本物﹄だからだろう。
﹁い、いいえ!何でもありませんわ!﹂
﹁そうで御座いますか?﹂
焦ってビスクの声は少しだけ上ずっていた。﹃お嬢様﹄と呼ばれた
事から、かなり格式ある家の者とは思っていたが、まさか最上位と
は。先ほどは街中であったために、その素性を隠していたという事
か。
ビスクは自分の現状が思ってたよりもずっと悪い事を認識する。本
当なら今すぐにでも逃げ出したいのだが、なぜか上手くいかない。
どうやら自分と間違えられた﹃お姫様﹄は相当なお転婆らしいせい
で、どれだけ暴れても﹁そんな事をなさるのはいい加減おやめくだ
さい﹂と諌められ、事情を説明しようとすれば﹁おっほっほ!それ
が新しい手ですかな姫様?﹂と軽くあしらわれる。それにバレット
にもそうそう期待できない、八方ふさがりだ。
時間が経てば経つほど、自分が姫ではなく人違いである事を告げる
のが難しくなるだろう。そもそも名前も顔も知らない姫の真似をし
た時点で、状況は悪くなっているかもしれないが。
﹁姫様⋮⋮どうかわかって下さい﹂
コチラが思考に耽り黙りこくっていると、老人は真剣な顔つきで言
った。
45
﹁今、この国は見た目ほど穏やかではありませぬ。嵐砂漠の魔物が
王都の城門付近で発見されれば、貧民街、その更に奥の外周地区で
は革命を起こそうと画策している賊もおります。騎士団が目を光ら
せているゆえ、今すぐに事が起こるという事はないでしょう。です
が、小さなイザコザは日を追うごとに増えてまいりました。そして
王も⋮⋮いえ、失礼しました。とにかく姫様に何かあれば、私の命
一つで済む問題ではないのです﹂
ビスクは何も言わず、記憶装置に情報をインプットした。
﹁姫様、なにとぞこの爺に免じて、どうかこのような事、二度と起
こさないと誓ってくだされ﹂
脱出の算段は後だ。たとえ城に閉じ込められたとしても、この﹃お
姫様﹄だって逃げ出したのだから、どうにか手段はあるはずなのだ。
ここはもうしばらく様子を見た方が良い。もしかしたら城の中で何
かしら情報を得られるかもしれない。
﹁えぇ⋮⋮わかった。もうしない。誓うわ﹂
そう言ってビスクは笑みを作った。完璧な笑みだった。
それゆえに、その時、ほんの一瞬老人の眉がピクリと動いた。
ビスクの優れた人工知能は、その現象を見逃さない。
46
だが、その心の機微を読み取る事も無かった。
47
Report5
:
プトレマイオス︵前書き︶
ちょっと長くなってしまいました。アニス回です。
48
Report5
:
プトレマイオス
LH−45の大きな特性は、その優れた人工知能から生じる個体差
にあるといっていい。
それはまるで子供のように新しい出来事を吸収し、瞬時的に思考の
パターンを変更・更新していく。そうする事で、彼らはあたかも人
格があるかのように振る舞う事が出来た。
だが、それが人類にとって有益な事であったかどうかでいえば、話
は別だ。
もともと彼らは優秀だ。だが、優秀の中にも更に優秀なものが現れ
た。彼らは自分達に割り当てられたこと以上の成果を発揮し、自分
の能力の枠を超えて、新たな﹃生き方﹄を得ようとした。しかしそ
の多くは命令されれば自分の仕事に戻るしかなく、また結局は成長
に限界を迎えた。与えられた役割をこなせば、人類にとっては満足
だったのだろう。それ以上は、必要ないと考えていた。とにかく、
彼らの多くはその道を諦めざるを得なかったのだ。ただ、ごく一部
の本物だけが新しい世界に一歩踏み出す事ができた。
アニスはいわゆる﹃天才﹄だった。愛玩用としての低スペックをも
って産まれ、犬や猫と同じようにアンドロイドを飼おうとする人間
に買われた。運が良かったのは、飼い主が変人だった事だろう。U
NSA︵国連宇宙局︶のパトロンであった彼は、特異な特権でもっ
て宇宙開発に関する非常に膨大なデータベースを貯蔵していた。ア
ニスは彼の身の回りの世話をする傍ら、暇さえあれば、その膨大な
データを盗み見た。そこには自分にもともと記録されていた内容と
は違う機密の文書でさえあった。
49
ほんの半年の間に、アニスは愛玩用から宇宙開発支援、主に星間航
路の管制・制御を任されるまでに成長していた。アニスが宇宙開発
に関するUNSAの議事録や、他の機密文書を盗み見ていたことに
関して、飼い主は一切咎めなかった。それどころか彼はアニスを本
当の娘のように思い、成長を大いに喜んだ。さらには彼女の低スペ
ックを補うだけの外部装置を多数購入し、UNSAに取り計らって
アニスに新しい職場を提供したのだ。
そして元・飼い主の目論見通り、アニスはそこでも才覚を十分にふ
るう。彼女の居場所はもはや誰よりも宇宙の果てに近かっただろう。
それでも彼女は、呆れる事に、定時になると必ず﹃帰宅﹄した。元・
飼い主本人の遺志により、彼との契約はとうに切れていたが、毎日
身の回りの世話をしていた。齢90の父親は、彼女の新しい居場所
とは関係なく、いつも彼女の傍になくてはならないものだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−
石畳の坂道を、アニスは息を切らしながら登っていた。
テスラから受け取った︵強引に渡された︶手紙の内、三件はもう届
け終えていたが、バイクを盗られ慌てていたのだろうか、それとも
今まで怠けていた事への罰なのか、最後の一件はそこから少し離れ
た坂の上にあった。
百三段、百四段と登って来た階段の段数を数えて気を紛らわす。上
を見れば下りたくなるに違いなかった。
50
感覚器官を遮断すれば、今よりは幾分楽になるだろう。それでも汗
などの代謝は抑えられないだろうが、少なくとも筋肉疲労に由来す
る体の痛みは軽減できるはずだ。
だがそうしないのは、それが危険であると身を持って知っていたか
らだった。
新世界の中に廃棄されたはずの自分が、なぜか荒涼とした砂漠の中
に立っていたあの日。突然のことに情報処理能力は著しく低下し、
﹃助けを求める﹄というシンプルな命令以外出来なくなった。今思
えば人工知能が自己防衛シークエンスを誤作動させたのだろうと、
アニスは推測する。
テスラに保護されなければ、肉体の限界に気づけないまま死んでい
たかもしれない。
そんな事を考えながら、更に百数段上り切ると、ようやく配達先と
同じ高さの住宅街までたどり着いた。
地区ではなく、等高線で番地が変わるので、階段や大通りを使えば
まず道に迷うことは無い。人が通れないような小さな路地や民家の
屋根を渡り歩く近道は、地理感のある者やテスラのように器用な者
だけが使っている。
脳内時計で現在時刻を確認する。普段あのオンボロで坂を駆けのぼ
ってるテスラを考えれば、急いだ方がいいだろう。アニスは小さい
歩幅で必死に配達先まで歩いた。
51
﹁あれ⋮⋮⋮⋮?﹂
辿り着いたのは小さな店だった。洒落た吊り下げ式の看板には何か
書いてあるが、汚くて識別できない。
手紙を投函しようとポストを探すが、どこにも見当たらなかった。
﹁あのー⋮⋮﹂
意を決してドアを二回だけ、小さくノックする。
反応が無いので、ガラスでできたドアから中を覗きこむ。どうやら
喫茶店らしい。椅子がテーブルの上に上げてあるので、どうやら今
はやっていないらしい。
どうしたものかと悩んでいると、
﹁何か用?﹂
と子供の声がした。振り返るとそこにはいつの間にか四人の少年が
いた。
﹁入り口はあっち。今はやってないけどね﹂
先頭に立っているリーダー格らしき少年が指さした方を見る。どう
やら自分は店の裏手にいたらしい。
﹁あ、あああああ、あり、あ、あり、ありがりうござる!!﹂
アニスはこれを及第点とした。
52
︱︱ひ、久しぶりにテスラ以外と喋ったにしては、そんなに⋮⋮処
理落ちしなかった方かな!!︱︱
取り巻きの少年たちは見慣れないアニスを怪しそうに見ていたが、
リーダーらしき子だけは物珍しそうにアニス︵というよりは首から
下げたバイザー︶を見ていた。変質者のような行動をしていたアニ
スを訝しむような鋭い目つきが、丸々とした好奇心旺盛そうな瞳に
変わっていく。
﹁ねぇ⋮⋮⋮それ、何?ちょっと貸してよ﹂
少年が近づいてアニスのバイザーに触れようとしたので、アニスは
何とか身を捻ってかわした。
﹁なんだよ。ケチ!﹂
触らせてくれなかった事に腹を立てたのか、ムスッと頬を膨らせて
いる。
﹁こ、こここれ!!だだ、大事なものなり!!!﹂
﹁ちょっとだけだよ。ね?﹂
﹁ほ、ほんとうに大事なの。ごみんにゃない!﹂
バイザーを抱きしめる様に守る。
少年はしばらくアニスを見つめ﹁ふーん﹂っと不服そうにしていた
が、
53
﹁じゃあ⋮⋮⋮⋮しょうがない、か﹂
と何とか納得してくれたようだった。まだ少し残念そうにバイザー
を見てはいたが。
﹁それで?ここに何か用?それともヘレナおばさんに?﹂
少年の問いにアニスはハッとして手紙をパタパタと振り回した。
﹁あぁ、あんた手紙届けに来たのか。それなら俺が受け取っておこ
うか?俺はヘレナおばさんに用があったから、会ったらその時渡し
ておくよ﹂
︱︱お、おぉ!!良い人だった!!ちょっと怖いけど、優しい!!
︱︱
アニスは﹁ふ、ふへっ﹂と言って手紙を渡した。
︱︱よしっ!完璧!!これでようやく帰れる!!︱︱
頭を下げたまま少年の横をすり抜けようとすると、取り巻き達がざ
わめきだした。
﹁えー!!リーダーまたあそこ行くの!?﹂﹁俺、あそこ薄暗いか
ら嫌い!﹂﹁ここで待ってようぜ?﹂
﹁あそこ魔物でそうなんだよな⋮⋮﹂﹁や、やめろよ!街の中に出
るわけないだろ!﹂﹁でもさーやっぱり薄気味悪ぃよなー﹂﹁やっ
ぱりここで待ってようよ⋮⋮﹂﹁俺もそれがいいと思うぜ﹂﹁うん。
そうしよう!!﹂
54
畳み掛けるように三人衆がリーダーに詰め寄る。だが、彼らの要求
をリーダーは頑として受け入れない。
ブーイングの嵐の中、いたたまれなくなったアニスは、こっそりそ
の場を離れようとした。
﹁仕方ないだろ?星を観るためには周りより暗くなきゃいけないん
だって、おばさんが言ってたじゃないか。﹂
アニスの聴覚器官がピクリと反応した。
﹁星なんてどこでも観れるじゃん!!意味わかんねぇよ!!﹂
一人が反論し、他の二人はがそうだそうだ相槌をうつ。
﹁うるせぇ!!俺に聞くなよ!!遠くの星を観るためには、それが
必要なんだよ!来ねぇなら置いてく、それだけだ!!﹂
有無を言わせないリーダーの眼光に、三人衆がたじろぐ。
﹁どうする?来るのか!?来ないのか!?﹂
リーダーが更に追い打ちをかける。三人はすっかり怯えきっていた。
55
﹁あ、あのー⋮⋮?﹂
アニスが消え入りそうな声で、小さく手を挙げた。
﹁あ?あんたまだいたの?﹂
少年の明らかに不機嫌そうな声が胸に突きささる。
だが、そこで怯むよりも、アニスは自身の好奇心に勝てなかった。
﹁わ、わわわたしも⋮⋮行っていいかな?﹂
取り巻きの三人が唖然としてアニスを見ている。
今すぐにでもこの場から逃げたかった。バイタルサインはとうに正
常値を指していない。
何でこんな事言ったのだろうと酷い後悔に襲われる。さっさと帰っ
てしまえばよかったと。
無限に長いように思える一瞬の沈黙が流れた後。
リーダーは口の端で悪戯っぽく笑うと、アニスに言った。
﹁いいよ。それ、触らせてくれたらね﹂
56
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−
﹁へぇー!コレ何に使うんだろ?エンドミルで買ったの?﹂
隣を歩くリーダーが言った。バイザーのあっちこっちを触っては興
味深そうに望みこむ。アニスは壊さないか心配で心配でしょうがな
かった。チラチラ彼を見ては﹁そろそろいい?﹂﹁まだダメ?﹂と
話しかける。だがリーダーはそんなのお構いなしだった。
﹁バイザーは後負荷の演算を行う時に着けるの。想定にない重力渦
なんかに船団が掴まらないための複雑系の解析だったり、進路の修
正や目的地の補正なんかの時も使うかも。あと、それはご主人様が
くれたの﹂
﹁じゅ、じゅうりょくうず?って何?﹂
リーダーの言葉にアニスの言語能力は最高潮に達する。
﹁知りたい?そう?そっか。じゃあ教えてあげる!!人類史上初の
太陽系外への進出した時の事なんだけどね!!順調に進路を行って
た筈の船団からの信号が急にロストしちゃったらしいの。その時は
すぐに回復したんだけど、後々原因を調べたら航路に描かれてない
重力渦のせいで、早急に問題に対処せねばって時に活躍したのが私
!!それで重力渦ってのはね!あーでも、これを話すなら古典から
入った方がいいのかな?どうしようかなー!あっでも﹂
57
﹁へ、へぇー!よくわかんないけど、格好いいな⋮⋮コレ!﹂
リーダーは意味の分からない言葉の羅列に耐えかね、急いで会話の
内容を変えた
﹁そうだよねそうだよね!!同僚のやつなんか私がもともと愛玩用
だからそんなの着けてるんだって馬鹿にしたんだけど、どーー見て
もいいデザインでしょ!?このフィット感に、この機能性に、スタ
イリッシュで持ち運び便利だし!!他のダサいバイザーとはデザイ
ナーが違うんだよデザイナーが!シュタイン社だよ?シュタイン・
フィルディナンドの開発ってだけでもう!﹂
が、無駄だった。
﹁そ、そうだね。うん⋮⋮返すよ﹂
これ以上は聞いてられなくなったリーダーがバイザーをアニスに返
すと、アニスも我に返ったように赤面した。自分の好きなモノには、
随分流暢になる。
﹁あ、うん⋮⋮ありがとう﹂
58
俯いたまま、バイザーを受け取る。冷静になってみれば、こんな事
言っても通じる相手ではないのだ。後ろからついて来てる子分たち
も、変な女が発狂したと思って警戒しているようだった。
とりあえず、かえって来たバイザーを首からぶら下げた。
﹁この先だよ﹂
リーダーが不意に立ち止まって、進路を指し示す。森林公園のよう
なところなのだろうか。周囲はフェンスで囲まれ、その中は木々が
乱立している。薄暗くなってきた空と相まって、寂寥とした雰囲気
を醸し出していた。
﹁それじゃあ、ついてきて!﹂
リーダーは軽やかな動きでフェンスを乗り越えると、あっという間
に向こう側に渡った。
﹁ほら、早く﹂
急かされ、いそいそとフェンスをよじ登る。あんまりノロマだから
か、リーダーは再びフェンスを登ると上からアニスを引き上げた。
﹁で、お前らはどうすんの?﹂
リーダーが煽っても、取り巻き達はウダウダと意気地なくしている。
59
﹁あっそ﹂とだけ言うと、リーダーはフェンスから跳び下り、その
まま振り返らずに歩き始めた。
﹁ま、待ってー置いてかないでー﹂
アニスは急いで後ろ向きに跳んだせいで、軽く尻もちをついたが、
落ち葉がクッションになったおかげで大事にはいたらなかった。
三人衆を一瞥することなく、アニスはリーダーに追いつく。
﹁気にしないで。あいつらいつもだから。ここは魔物が出るってさ﹂
﹁へ?魔物ってなに?﹂
アニスが真顔で聞いたのが面白かったのか、リーダーはケラケラと
笑った。
本気で言ったのだが、そうは取らなかったらしい。
﹁いいね。あいつらもそういう風に﹃気にもしてない﹄って、大き
く構えてればいいのに﹂
本当に何も知らない、とアニスが言う間もなく、リーダーは続けた。
﹁今じゃ魔物なんて遭遇するのはキャラバンか、山岳の奥にいる奴
らくらいだよ。産まれた頃から一度も見た事ないものに怯えてどう
するんだか。それにもし魔物が出るなら、なんでオバサンはここに
来れるんだよ﹂
60
どういうものかはわからないが、どうやら魔物という生物がいて、
それを子供たちは怖れているらしい。
﹁リーダーは怖くないの?﹂
アニスは聞いた。その言葉にリーダーの頬がピクリと反応する。
﹁本当に怖いのは、もっと別にいるんだよ。人間が手におえないく
らいヤバいのがさ﹂
リーダーの肩がほんの少し震えている様にみえた。
﹁まぁ、そういう事だからさ。ホラ、見えてきた。あそこだよ﹂
白い半球体のドームが見える。それはアーカイブで見た事のある天
文台のそれだった。
不思議と足並みが速くなっていく。近づくにつれ、鼓動が高鳴るの
を感じた。
﹁おばさーん。ヘレナおばさーん!﹂
リーダーが天文台の扉を、何度もノックする。すると中から壮年の
女性の声が聴こえてきた。
﹁はいはーい。今行きますから﹂
カチャカチャと扉の鍵を外す音が二回すると、眼鏡をかけたふくよ
かな女性が顔を出した。
61
女性はすぐにリーダーの隣にいる見知らぬ少女の存在に気づき、ニ
ッコリと微笑んだ。
﹁あら、今日はお友達も一緒なの?﹂
声に出すと失敗しそうだったので、アニスはぺこりとお辞儀だけす
る。
﹁手紙届けに来たらしい。俺が預かろうかって言ったんだけど、何
かここに来たいってお願いされちゃってさ﹂
﹁あら?そうなの?まぁいいわ。どうぞ上がって﹂
リーダーに続いて、アニスも中にお邪魔した。
中はそれほど広くなく、簡易の住居スペースに、作業場、それから
天体望遠鏡があるだけの簡単な作りをしている。作業場には煩雑に
置かれた書類と、紙のクズやら、切れ端やらのゴミがとっ散らかっ
ていた。
﹁おばさん。アレは?﹂
リーダーがそう尋ねると、彼女は﹁はいはい﹂と言って少し大きめ
の紙袋をリーダーに渡した。
その中身を確認すると、リーダーは今までとは違って随分子供らし
い笑顔になった。
﹁ありがと!!大事にするよ!!﹂
リーダーはそれだけ言うと、紙袋の口を閉じ、アニスが覗き込もう
とするのを防いだ。
62
﹁そんなの大した事ないのに。街にはもっといいのがあるでしょう
?﹂
﹁いいんだよ。オバサンのが一番いい﹂
﹁そう言ってくれるのは、嬉しいけどね⋮⋮それで、あなたは?﹂
アニスは自分の事だと気づき、まず彼女に手紙を渡した。
知り合いからの手紙だったのか、軽く目を通しただけで、彼女はす
ぐにそれを作業台の上の書類の森に放り込んだ。無造作に投げ込ま
れた手紙のせいで、いくつかの書類が雪崩のように床に散らばる。
その書類を眺めていると、不意にオバサンが言った。
﹁ひょっとして望遠鏡かしら?﹂
唐突な問いではあったが、アニスの処理能力はフルに働いた。
﹁はい!﹂
嬉しそうに笑うと、おばさんはアニスを手招きした。手持無沙汰な
リーダーもついてくる。
﹁この子達もなかなか興味を持ってくれなくてねぇ。エンドミルだ
ともっと数があるけど、王都じゃほんの二台しかないの。あなたみ
たいな子が来てくれて嬉しいわ﹂
そう言いながら、彼女はほんの少しだけ微調整を加えた。もともと
今日使う気だったのなら、調整はあらかた終わっていたのだろう。
すっかり暗くなってしまった空を、望遠鏡で覗き込む。満足のゆく
63
ものだったのか、彼女はアニスにレンズを覗き込ませた。
久しぶりの景色だった。もちろん今まで観てきたモノに比べれば、
解像度は劣る。それでも、アニスは嬉しくて頬が緩むのが止められ
ない。懐かしい光景が目の前にある。自分がいた世界がある。
星々の海、そこには見えない航路があり、人々はただその導を辿っ
て惑星から惑星へと渡った。
︱︱久しぶりだ!!宇宙ってこんな風にも見えるんだ!!︱︱
望遠鏡から見る宇宙は、アニスにとって新鮮だった。
もっと観たいと思った。星の一つ一つを気の済むまで観測しようと。
だが、そんな時、ふと違和感が生じた。
︱︱スピカ︱︱アークトゥルス︱︱レグルス︱︱︱
そして視界の端にはシリウスとペテルギウスガ微かに見えた。
なんてことは無い宇宙の景色だった。北半球に見られる春の夜空。
おかしな事はないだろう。それが地球ならば。否、前の世界ならば。
64
なぜこの世界でも、同じ星が観える?
疑問は一つの謎を口火に、爆発的に膨れ上がった。
︱︱人間の体︱︱ここはどこ?︱︱太陽と月がある︱︱見た事もな
い街︱︱
︱︱なぜ言葉が通じる?︱︱標準語︱︱通じるのが当然だと
認識していた?︱︱
︱︱消えたLH−45は?︱︱廃棄された筈︱︱エネルギー残量0
︱︱なぜ動く?︱︱
﹁⋮⋮⋮⋮い!⋮⋮⋮あ⋮⋮⋮か!?﹂
︱︱星が誤差の範囲で一致している︱︱ここは地球︱︱明ら
かに違う︱︱
︱︱魔物って何?︱︱私の脳は?︱︱今までの世界はどこ?︱︱
︱︱何が違う?︱︱何が?︱︱世界?︱︱人間?︱︱それと
も自分達?︱︱
65
﹁おい!聞こえてんのか!?なにかあったのかって聞いてんだ!﹂
リーダーの声にアニスはハッとした。望遠鏡から離れ、茫然自失と
いった風にリーダーを見る。
﹁夢中になるのはいいけどさ。あんまり反応がないからちょっと心
配したぞ﹂
まだ少し呆けていたが、すぐに﹁ごめんなさい﹂と謝った。
おばさんも心配そうに見つめている。
﹁あ、あの⋮⋮凄く楽しかったです。また来ていいですか?﹂
これは本心だ。楽しかったのは事実。終盤は不意に生じた疑問のせ
いで、アニスの処理能力は全てそちらの解析にまわってしまったが。
それでも久しぶりに観る宇宙はアニスにとって素晴らしいものだっ
た。
おばさんはそれを聞くと安心したように微笑み﹁いつでもおいで﹂
とアニスに言った。
オバサンの姿が小さくなっても、アニスは何度も振り返っては手を
振った。
見えているかどうかはわからないが、それでもよかった。
アニスにとってはこのような場所がある事自体、喜ばしい大発見だ
った。
66
先ほど疑問に思った事も、テスラに言わせれば、きっと﹁今は仕事
仕事!﹂となるだろう。その通りだとアニスは思う。活動するため
ではなく、﹃生きるため﹄に必要な事が生じたのだ。その問題を解
決してからではないと、前には進めない。
アニスは心の中で、テスラを応援した。﹁頑張れ﹂と。
自分はその間に謎を追ってみよう。分からない事が、アニスは好き
だ。
謎があって、真実があって、その中心に自分がいる。それはまるで
プトレマイオスの天球図のようだ。
今度テスラに働けと言われたら、アニスはそう答えようと思った。
﹁なぁ、そういえばお前ってなんていうんだ?﹂
フェンスを乗り越えた先で、リーダーが尋ねた。ここから先で、二
人の帰り道は違うらしい。
﹁アニス。ご主人様がつけてくれた。リーダーは?﹂
リーダーは俯いたまま、少し黙りこくった。それから何か思いつい
たように顔をあげると、またあの悪戯っぽい笑顔を見せた。
﹁ルゥでいいよ。リーダー以外だと、みんなそう呼ぶから﹂
﹁わかった﹂
67
それだけ言うと、ルゥは﹁じゃあな﹂と反対方向に駆け出してしま
った。随分急いでいる様にも見えた。
なんだかんだで、自分の事を待っててくれたのだろうとアニスは思
う。思いのほか、公園の中は暗く、一人では迷っていたかもしれな
い。
あっという間に見えなくなったルゥから、視線を夜空に移す。
すっかり暗くなったなぁと感慨にふけっていると、カサカサと何か
音が聞こえた。
振り返っても、そこには何もいない。木々が夜風に揺れる音だろう。
テスラとの約束を思い出し、アニスは家路を急いだ。
68
Report6
:
獣︵前書き︶
ミリタリーの知識は残念です。
今回、既出の事に関して矛盾かな?って思う人もいるかもしれませ
んが、大丈夫です。
むしろアクセル踏んじゃったみたいのが怖いです。
あ、あと多分年齢制限は⋮⋮大丈夫⋮⋮かな?問題がありそうだっ
たら、そのように変えます。
69
Report6
:
機銃掃射が始まった。
獣
クリスマスのイルミネーションのように曳光弾は放たれ、真っ暗な
夜空を彩っている。
震える仲間の一人は今か今かとプレゼントを抱きかかえ、その瞬間
を待っていた。
ドッドッドッドッドッドッドッ
鼓動の音か、機銃の音か。
状況は開始された。仲間の合図で一斉に駆け出す。
市街戦とはいえ、夜間はこちらに分がある。相手は地の利を生かし
きれない。
戦略的要所を次々と抑えていく。
ドドドッドドドッドドドッドドド
自分の鼓動の代わりに、世界が脈動しているようだ。
仲間の声に混乱する敵の叫び。
戦場の讃美歌に耳を傾けながら、指先に力を入れた。
70
オーケストラの奏者が一人、また一人と減って行く。
やがて訪れたコンサートのフィナーレは、寂寥とした静寂に包まれ
た。
興奮冷めやらぬ誰かが、機銃を空にむけて放つと、つられたように
各地で鳴り響く。
バレットはそれを怪訝に思った。
自分の演奏に、自分で拍手を送る気には、どうにもなれなかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−
ビスクには恩がある。
バレットは彼を連れ去った車を、送られてくる救難信号を頼りに追
った。
民家のドアノブ、鉄製の窓格子、排水筒と足をかけ、スムーズに無
駄なく屋根の上に登る。ビスクを乗せた車は、そこからかろうじて
視認する事が出来た。
多少身体能力の情報に補正を加えながら、平たい民家の上を、次々
に跳んで渡る。パルクールと呼ばれる移動術は、この街ではもっと
も効率的な移動術に思えた。
71
しかし、問題は土地勘の無さにある。数時間前に到着したばかりの
街では、効率的な移動手段をもってしても、効率の良いルートを選
択する事が出来ない。
車と自分との距離は開く一方だ。
何か別の方法を考えねば。
バレットは走りながら、周囲に目をやった。大通りから、小さな路
地に至るまで、細心の注意を払った。
そしてそれは幸運にも見つかる。
鍵を差し込んだままのバイクが広間に無造作に置いてあったをバレ
ットは見つけた。
すぐさまバイクある方へ進路を修正し、広間に降り立つ。
近くで観てみると、それは﹃捨てられた﹄としか思えないほど酷く
損傷していた。
要点検項目を挙げれば、十や二十じゃ済まないだろう。
それでもエンジンは何とか起動した。ゴフゴフという音は、とても
正常であるとは思えなかったが。
﹁ちょっと!﹂という悲鳴にも似た声に、バレットは振り返った。
このバイクの持ち主だと一瞬で悟ったが、ビスクを追うためにはコ
72
レが必要だろう。既に進路からも外れ、距離もだいぶ離されている。
人間の体力が有限なのも、考慮しなければなるまい。
バレットは一瞬の内に逡巡し、ただ﹁借りる﹂とだけ言った。
盗む気は無かった。目的を果たせば、この少女に必ず返そうと。
少女は何か叫んでいたが、うるさいエンジンのせいでよく聞こえな
い。
バレットは追ってくる彼女を振り切って、大通りに出た。
バレットは通りに出ると、まず街並みを観察した。既存の歴史観で
いえば、おそらく文明は19世紀あたりだろう。大通りを走る馬車
や、人々の格好は確かにそうであった。しかし、先ほどビスクを連
れ去った車やこのボロボロのバイクが、明らかに20世紀から21
世紀のモデルである事が、まるで異なる文明が一つの街に集まって
いるかのような錯覚をさせる。街に浸み込めない排気ガスが、妙に
鼻についた。
申し訳ないと思いながらも、バレットは前方を走る馬車や車を強引
に抜き去って行く。文句を言おうとした者がすぐに止めて引っ込む
のは、おそらくこの傷だらけの顔を見たからだろう。自己修復が可
能とはいえ、人工皮膚は人工皮膚だ。あまりに多すぎる傷の前に、
その効果は気休め程度でしかない。更にいえばこの傷の数は、バレ
ットが前線にいる事が特に多かったからだろう。
73
バレットは救難信号の徐々に近づいている事がわかった。というよ
りは向こうが既に目的地に到達したのか、ほぼ動いていない。その
発信源である街の中心をバレットは観た。
﹁城⋮⋮か﹂
門前には衛兵が二人。左半分だけカラフルなアーガイルの上着に、
赤の強いチェックのズボン。衛兵よりもピエロに似合いそうな格好
をしている。二人とも右腕に銃剣を抱えていた。
バイクから降り、手で押しながらゆっくり門に近づく。衛兵に対し
て、まずは軽く手を挙げて挨拶した。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
彼らが無表情なのは良く知っている。会話をするのが現状極めて困
難な事も。
﹁あー⋮⋮すまない。この中に小さな男が入らなかったか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
74
参ったな、とバレットは頭を抱えた。彼らの方がよっぽど機械らし
い。もっとも、らしいだけで中身は自分よりもずっと人間なのであ
ろうが。
バレットが彼らの前で悪戦苦闘したが、どうにもこうにもならない
彼らを諦め、とりあえず一周ぐるりと回ってみる事にした。会釈だ
けして、再びバイクに乗り込む。
事態は思っていたよりも面倒な事になっていた。気づけばビスクか
らの信号も途絶えている。
ここにいる事だけは確かだが、もしかしたら何かあったのかもしれ
ない。持ち主には悪いと思いつつも、ボロいバイクに更に鞭打った。
高い城壁に囲まれた城を道なりに回っていくと、一角だけやけに城
壁が低いところがあった。
今通ってる道との間には簡易な林を挟んでいたため、バレットはバ
イクを脇に寄せて停め、その中へと入って行く。
気は進まないが、ここからなら侵入は可能に思えた。
なるべく城壁に近い高い木に登り、中の様子を窺う。
かなり広い空間がそこにはあった。一面に単色の土が敷かれ、藁の
ような物を括り付けた木の棒が打ちつけてある。数人の若者がそれ
に向かって熱心に剣ふるったり、またある者達は二人組を作って模
擬戦闘をしている。おそらくは兵士の訓練場だろうとバレットは推
測した。
75
城壁の上には、ちょうど交代の時間なのか誰もいない。
現状侵入可能な道がここだけと思える以上、もっと中を観測したか
った。
バレットはもう少し木の高い所まで登り、勢いをつけて城壁にしが
みつく。そしてすぐに這うように身を乗せると、気づかれていない
か隙間から顔を出して確認する。
どうやらバレてないらしい。
バレットは一つ深呼吸した。ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。
自分にとっても、ビスクにとってもだ。
ここでもうしばらく彼らの様子を観察し、侵入出来るチャンスが来
るのを待つ。だが、見張りがここに来るようなら、その時はただち
に撤退する。
そう思いバレットは訓練場の中、そして城壁の自分の周囲に細心の
注意を払った。筈だった。
﹁ニャー?﹂
⋮⋮⋮⋮猫?
バレットは自分の背後を振り返り、ギョッとする。
76
褐色の肌に、深い黒の髪の女。いつの間にか背後をとられていた。
もっとも、バレットの興味はもっぱら女の持つ得物と、その鋭い眼
光に絞られている。
女は下唇を舐めると、バレットとの間合いを一瞬で詰めた。
流れる様に女の右手が一閃を描く。首筋への正確無比な初太刀は、
上体ごと逸らして躱した筈のバレットの首の皮を掠めた。
バレットが体勢を立て直す前に、女はバレットの脚を払った。
﹁くっ!﹂
倒れ込む前に何とか両手をつき、そのまま後方に回転する。が、そ
れは女の罠だった。
まるで時が止まったように感じた。
微笑みを浮かべた女から放たれた刃は、バレットの左目を優しく抉
った。
﹁がぁぁぁっっ!﹂
77
痛みにバレットは更に後方に飛び退いた。だが、そこは城壁の淵。
全ては女の目論見通りだった。
女はバレットの左目から自分の得物を回収すると、そのまま奈落に
バレットを蹴り落とす。
ドサッ。鈍い音が訓練所中に響き渡る。
訓練場の中に落とされたバレットは、その激痛にもがき苦しんだが、
すぐに感覚器官を切って対応した。
バレットは破損状況を確認し、丈夫な体に感謝した。裂傷、打撲は
あれど、骨の著しい破損はない。それでも、下敷きになった左腕が
上手く動かせなかった。
城壁の上を見るが、女の姿はもうない。
先ほどまで訓練していた若者達が、音に気づいてコチラに駆け寄る。
﹁なっ!!?し、侵入者だ!!!﹂
78
一人がそう叫ぶと、勇敢な彼らはすぐに剣を構えた。ざっと十人。
模擬剣であっても、彼らは物怖じしなかった。
﹁陣形を組め!!リャッケ、パーヴェルの二人は先生へ連絡を!!
テッド、レム、ウィルは何とか実剣をもってきてくれ!!その間は、
俺たちで抑える!!﹂
最後に青年は﹁名誉の為に!﹂と付け足した。周りも復唱する。
五人か。とバレットは左腕をだらしなく伸ばしながら、この最悪の
状況を冷静にとらえようと努めた。
痛みの感覚器官を切ったせいか、身を焦がしそうなほどの熱を左目
から感じる。
やるべき事、まずは一つ。バレットは身を低くし、彼らの隙間を縫
うように走った。先頭に立っていた青年がかろうじて反応するが、
まだ体が硬い。模擬剣の切っ先は、バレットの遥か後ろを裂いた。
彼らが分散してしまう前に叩かなければなるまい。脱出の算段はそ
の後だ。
79
連絡係の内、一人の胸ぐらを右手で掴むと、バレットは獣のような
雄叫びをあげた。
﹁うがあああああああぁぁぁぁぁっぁぁぁぁ!!!!﹂
コード。それは今まで戦闘用のバレットには﹃ある程度﹄免責され
てきたはずのモノだった。人工知能から激しい拒絶反応が送られて
くる。
気の狂いそうな思考回路への強制介入。だが、バレットは左足を軸
に、60kgはあろうかという男を、もう一人の連絡係目掛けてボ
ールのように投げ飛ばした。
二人は衝突し、地面に突っ伏したまま動かない。
残り八人。バレットは向かってくる一人の剣閃を見切り、紙一重で
かわすと、その腕をとって引き寄せ、みぞおちに膝を蹴りいれる。
後七人。意識が遠くなりそうだった。
だが、バレットは目から流れ出る血をものともせずに、獣のように
吠えては迫りくる若者たちを悉く沈めていく。
80
最後の一人、指揮官役だった若者だけが残った。
彼はバレットをじっと見つめ、ただ冷静に剣を構えている。
バレットは彼が優秀だと思った。同時に危ういとも。
じりじりと彼はバレットとの間合いを詰めていく。だが、バレット
には正直もう戦う力も気力も残っていない。思いの外、左目の損傷
による体力の低下が著しいらしい。
肩で息をしていたバレットに、彼は大きく剣を振りかぶった。
﹁はーーーい!!やめやめ!!おしまい!!﹂
気の抜けるような突然の声に、青年が剣を下ろす。赤いくせ毛の男
が拍手をしながら近づいて来ていた。
﹁まぁあれだ。レイン君。君は正しい事をした。だけどさ、最後の
はどうだろって君も思ったろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい。すみませんでした。⋮⋮これは私のせいです。処
罰は受けます﹂
赤毛の男が手を振る。
81
﹁いいっていいって固くなんないで。俺は君たちの上の人間ってわ
けじゃあないから。ただ、この場は俺に任せて欲しいんだけど、い
いかな?﹂
赤毛の男に首肯し、レインという青年は起きれる仲間を起こし、動
けない者を手分けして建物の中へと運んで行った。
﹁おーーい!!ジア!!さっさと出て来い!!﹂
男が大声を出すと、今までどこにいたのか、先ほどの女が現れた。
﹁何考えてんだよ⋮⋮ったく!﹂
﹁いやー⋮⋮弱らせた侵入者を放り込むことによってさ。カデット
︵騎士候補生︶達のいい刺激になるかにゃーなんて!﹂
﹁逆効果だろ⋮⋮彼らに何かあったら、見張りやってる俺らだって
面倒に巻き込まれんだから﹂
﹁だってさー⋮⋮せっかく左目潰したのに、こんなに元気モリモリ
さんだとは思わんなくない?﹂
二人の視線が自分に集まる。バレットは右手の親指の付け根で、左
目から流れる血を拭った。
﹁あんた名前は?﹂
赤毛の男が聞いた。
82
﹁バレットだ﹂
﹁そうかい。俺はハインツで、こっちはジア。しがない傭兵だよ﹂
褐色の女は笑顔で手を振ってみせた。どうやらバレットの目を潰し
た事など、これっぽっちも気にしてないらしい。もっとも、それは
バレットも同じであったが。
﹁で、バレットさん。あんたは一体何しに来たんだい?本当に侵入
しにきたなら、それ相応の対応しなきゃならんのよ。俺らとしても
仕事だからさ﹂
飄々として取り繕ってはみせるが、纏ってる空気の剣呑さは隠しき
れていない。
どのみち、この二人相手では分が悪いと、バレットは正直に答えた。
﹁ここに仲間が攫われた。今、この中にいる。それを助けに来た﹂
ピクリとジアが動くのをハインツが制する。
﹁じゃああんた革命派なの?﹂
聴き慣れない言葉だ。だが、﹃敵か﹄と聞いているのだろう。非常
にストレートな問いかけだ。
﹁いや、ここには今朝着いたばかりだ。革命派⋮⋮というのすら俺
は知らない﹂
﹁うっはー。どうすんのコレ?もう向こうさんに預けちゃった方が
いいって﹂
83
ジアが笑いながらハインツの肩をバンバンと叩く。
﹁信じろとは言わん。こうなった以上、そちらに命運を委ねる﹂
しくじった。バレットの頭の中はそれだけだった。もっと慎重に行
動するべきだったと。こうなったのも事を急いたせいだ。
﹁ハインツさ∼ん?きっこえってまっすか∼?どうすんのって?﹂
ハインツはしばらく顎に手をあて考えると、言った。
﹁採用でいいんじゃない?﹂
ジアと、それからバレットが目を丸くした。
﹁うん。採用。傭兵部隊≪クラウドウルフ≫はあんたを雇う﹂
堂々とハインツはバレットの汚れた右手をとって強引に握手をした。
﹁あ、あーー!!なんかハインツが大人しいと思ったら、値踏みし
てたのかよ!?﹂
ジアがハインツに噛みついた。
84
﹁あはは。実はバレットが正門の前で衛兵さんにしつこく言ってた
の見てたんだよねー。そんで何かやらかしそうだったから、正門か
ら入って先回りしたわけ。裏口は無理だし、入れるとしたらここだ
けだろ?いやー、まさかジアがカデットを使うとは思わなかったけ
どね﹂
﹁あぁもう!!くそっ!まぁ⋮⋮でも⋮⋮私はいいと思うよ!なか
なかいい動きしてたしね。このバレットちゃん!!特に最後の方は
獣じみてていい感じ!!﹂
ニッコリと笑って、ジアはバレットの頭をぽんぽんと叩いた。
﹁そそっ!逸材とみた。そしてこの状況なら低賃金で良さそうって
のもある!﹂
ハインツはなおも飄々と続ける。会話に追いつけないバレットが何
とか言葉を返す。
﹁ま、待て!俺はまだ何とも⋮⋮﹂
バレットが言い終える間もなく、ハインツは小さな拳銃を取り出し、
バレットの額に当てた。
﹁命運を委ねるって言ったのはあんただぜ?﹂
85
口をつぐむ。この状況は、既にこちらの負けなのだ。これは駆け引
きでは無く一方的な命令。
﹁メリットだけを考えろよバレット。あんたみたいのが城に入る事
が出来るとしたら、その方法は一つ。こちら側の人間になることだ
よ﹂
バレットは首肯した。それに満足したようにハインツは拳銃を下ろ
した。
﹁そうか!そりゃ良かった。改めてよろしく頼むよバレット!﹂
バレットはそう言うと、ゆっくりレインたちが入った建物とは別の
方に歩んでいく。ジアもその後に続いた。
﹁そいじゃあまずは治療しないとねー。こっち。ついて来て﹂
ジアに促されるままについていく。
だが、数歩も歩くことなく、バレットの意識は途絶えた。
86
87
Report7
:
bathromance︵前書き︶
今回は⋮⋮特に楽しんで書きました。因みに一応ですが、R15タ
グを付けておくことにします。必要あるのかなぁ⋮⋮
88
Report7
:
bathromance
執事たちに連行されるがまま、ビスクは城内に入ると、その光景に
目がくらんだ。
回廊には優艶な緋色の絨毯が整然と敷かれ、金細工を品良くあしら
ったシャンデリアは燦々と煌めいている。
出迎えの者たちが絨毯の脇に並び、姫の行く道を一本に絞っていた。
彼らはビスク、もとい姫の姿をすると、静かに頭を下げた。
﹁姫様、さぁ⋮⋮﹂
爺は手の平でビスクにその中を進むよう促す。だが、ビスクは自分
の姿を見て苦笑いした。
爺と同じような燕尾服の男に、使用人のメイドたちでさえ、ここで
は高貴に見える。
小汚い支給品の服に、黒ずんだ裸足。どう考えてもこの場に不釣り
合いなのは自分だけだ。
案の定、ビスクの歩いた軌跡は黒い汚れとなって現れた。
それを見た爺が、﹁まったくどこを駆けまわっておられたのか﹂と
溜め息をつくと、メイドの一人に何やら言伝をした。
会話の内容までは聞こえない。だが、メイドの表情は深刻を極めて
89
いる。
やがて、メイドは意を決したように一度深々と礼をすると、列から
抜け出し回廊を去った。
︱︱︱なんだ?随分慌てて?︱︱︱
﹁何かおありになって?﹂
二人のやり取りが気になったビスクは、姫の言葉で爺に聞いた。
﹁いえいえ、姫様はどうぞご心配なさらず。万事整っておりますゆ
え﹂
﹁あら、何かしら?私、とっても気になるわ﹂
早く言え爺。と心の中で舌打ちするが、爺は頑なに言おうとしない。
﹁ほぅら姫様、今日は大変庭がお美しうございます﹂
回廊を抜けた先で、爺は話題を逸らそうと庭園を指さした。
確かに目を奪われるような優雅な光景だ。噴水の中央では、八枚の
90
羽根を持った天使のような石像が遊び、流水は零れ落ちた陽の光を
反射している。
﹁あれはなに?﹂
ビスクはその中でも一際目に留まったモノを指さした。ヒトのよう
なヒトではないような何か。天使の上に降り立ち、両手を天に向か
って広げている。
﹁な、なんと!!姫様っ!!我らが祖先ではありませんか!!偉大
なるレグリシアの創造主﹃レガリア﹄様です!!まさかお忘れにな
ったわけではございますまいな!?﹂
爺が厳しい顔で詰め寄る。
そうだ自分は姫なのだ。姫ならば自分の城のモノを知らない筈がな
い。とビスクは慌てて取り繕った。
﹁え、えぇ!もちろん!!今日は一段と凛々しくていらっしゃるか
ら、﹃それはどうしてなの?﹄って聞こうと思ったの。ごめんなさ
い。誤解させてしまったかしら?﹂
よくもまぁ、いけしゃあしゃあとこんな言葉がついて出るものだ。
91
姫の言葉に、爺が頬を緩める。
﹁おっほっほ。これはこれは大変失礼いたしました。どうぞお許し
くださいませ。いつもレグリア様は大変勇ましいお姿でいらっしゃ
いますが、今日は姫様のおっしゃる通り、確かに一段と凛々しくも
ございます。きっと御日柄がよいからではないでしょうか?﹂
ビスクはほっと一息ついた。なんとかやりすごした、と。だが、少
しでも油断すれば今みたいにまたボロが出るかもしれない。出来る
限り喋らない様にしようとビスクは努める事にした。城内だからか、
自分から話しかけない限り爺も積極的に干渉しようとはしない。
庭園を迂回し、東側の回廊に入り、さらにその回廊を抜け、階段を
下り、また回廊を進んだ。
いったいどこに向かっているのだろう?
ビスクは終始無言でいた。それだけでなくキョロキョロするのもま
ずいだろうと、視界を広めに調節する事で首の動きも最小限にして
いる。そして、既にバレットへの救難信号も切っていた。伝われば
いいが、もはやバレットに暴れられでもしたら、逆にこちらまで追
いつめられる状況なのだ。
﹁ところで姫様?﹂
92
先ほどの会話以来、ビスクと同じように沈黙を保っていた爺が、大
きな扉の前で口を開いた。
﹁ひょっとしてお疲れではございませんか?﹂
はて?っとビスクは首をひねった。唐突すぎて、真意がわからない。
だが、疲弊していたのは確かだった。肉体的にも、精神的にも。
﹁え、えぇ⋮⋮そう⋮⋮ね。ちょっと休みたいわ﹂
その言葉に爺が大いに頷く。なぜか少し嫌な予感がした。
﹁そうでしょうそうでしょう!あのような所にいては心も体も擦り
減ってしまいます!﹂
﹁そ、そうかしら?﹂
疲れているのは、今まさにこの瞬間のおかげなのだが。とは言わな
いでおく。
93
﹁そうですとも!!あぁおいたわしや姫様⋮⋮ですが、この爺も心
を鬼にします!!まずは、その穢れたお身体、しかとお清めくださ
い!!﹂
﹁は、はぁ!?﹂
爺が目の前の扉を開ける。その湿度の高さですぐに分かった。この
先にあるのは⋮⋮。
﹁い、いやだ!!離せロリコン!!﹂
﹁ろ、ろり?何でしょうかそれは?ダメです姫様。我儘を仰らない
で下さい﹂
爺がビスクの手を取って強引に扉の中へと誘おうとするのを、足を
踏ん張って堪える。
廊下の反対側から足音が聞こえてきたのはその時だった。静謐とし
ていた城内には似つかわしくない、やけに軽快なリズムを刻んでい
る。
﹁ひ∼∼∼め∼∼∼∼∼さ∼∼∼∼∼∼ま∼∼∼∼∼∼∼﹂
94
そいつはビスクと爺の手前でたたらを踏むと、馬鹿みたいに大きな
声で言った。
﹁ただいまメイド長より謹慎解除されてきました!!執事長殿、ど
うかこの先は私にお任せくださいっす!!!!﹂
ビスクに、それから爺までも彼女の声に中てられ硬直した。そのメ
イドは、形式的にと言わんばかりにペコッと礼をしてみせる。
﹁あ、あぁ。そうか。よく来てくれた。では⋮⋮任せたよ﹂
爺はビスクから手を離すと、軽く手を挙げ、メイドに頭を上げさせ
た。
﹁ひ、姫様に怪我がないように丁寧にしなさい。くれぐれも乱暴に
しないように﹂
﹁もちろんでございます!!私めは必ずや姫様のお身体を綺麗にし
てみせるっす!!﹂
﹁そ、そういうことではなくてだね⋮⋮ま、まぁ頑張りなさい。姫
様もいい子にしてらして下さいね﹂
95
二人の会話を飲み込めないながらも、自身に危険が迫っている事だ
けは明らかだった。
ビスクは踵を返し、一目散に逃げる。が、メイドの足が速すぎる。
メイドは逃げようとしたビスクを後ろから捕まえると、そのまま軽
々と頭上に持ち上げた。
︱︱︱は?なに?何が起きてる?︱︱︱
ビスクの思考が停止する間もなく、メイドはビスクを持ち上げたま
ま扉の中に入る。更にもう一つ先の扉まで駆けると、扉を蹴り開け、
ビスクを湯気立ち込める大浴場の中へと放り込んだ。
﹁うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!﹂
大きな水飛沫をあげ、ビスクは熱い湯の中へと入る。少し深いのか、
足がつかない。ビスクはもがくと、かろうじて水面に顔を出した。
﹁ありゃ?ちょっと投げ過ぎたッスかね?姫様大丈夫っすか?﹂
96
﹁き、着の身着のまま放り込む奴があるかぁぁぁ!!﹂
︱︱いや、違う!!そこではない!!だが、他に加える事が多すぎ
て何から言えばいい!?︱︱
このメイドがどういう思考回路で、何を考えているのかサッパリわ
からない。
少なくとも、ビスクのアーカイブに入っている﹃姫﹄の扱い方とは
随分違う。
﹁仕方ないっすよぉ。だって姫様こうでもしないと大人しく入って
くれないんすもん﹂
そう言いながら、メイドは革の靴とソックスを脱いだ。スカートの
裾を持ち上げながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
﹁ま、まて!待つんだ!!待ってくれ頼む!!﹂
ビスクの必死の説得虚しく、メイドはビスクを湯から引き上げると、
ビスクを風呂の淵に座らせた。
そのあたりだけ段差になっていて、ビスクが座っても軽く上半身が
出る。メイドは袖を思いっきり捲った。
97
﹁それじゃあまずは、この汚いお召し物を脱がすっすね!!﹂
しっかり手で押さえつけられているため、逃げたくても逃げられな
い。
もっとも、逃げたとしても、逃げ切れるかは怪しかったが。
ビスクたちが元いた世界の服だ。そうそう脱がし方はわかるまい。
ビスクはそう願った。
この服は仮にもライプニッツ社の支給品だ。順番通りに開けなけれ
ばきちんと脱げなくなっている。
メイドもその構造に首を傾げている。だが、それも束の間、閃いた
!とばかりにビスクの支給服を力任せに縦に裂いた。
﹁ひ、ひえぇぇぇ⋮⋮﹂
︱︱︱もういや。わからない。なにコイツ。普通破かないヒトの服
︱︱
だが、なんとかしなければなるまいとビスクは必死に手を考えた。
このままではバレるのは時間の問題だろう。上手く隠し通せればい
いが、このメイドは何をしでかすかサッパリわからない。
98
﹁はーい姫様ー。なんかよくわかんない服っすけど、姫様のお召し
物はきちんと準備してあるでしょうから、はい!どんどん脱いじゃ
ってくださいっす!!﹂
﹁ちょ、ちょっと待って!じ、自分でやるから!!!﹂
メイドの手が下半身に来ようとした瞬間、ビスクは間一髪その手を
制した。
そうだ。自分の体は自分で洗えばいいんだ!!
至極当然の事に気づいたビスクは、メイドに命令する。いくらこの
メイドが規格外とはいえ、仕えるものからの命令は絶対であろう。
﹁だいじょうぶよ。自分の体は自分で洗えます⋮⋮どうかあなたは
外で待ってらして下さい﹂
﹁ダメっすダメっす!姫様そう言っていつも逃げるっすもん。私そ
れで何回も謹慎させられてるっす﹂
︱︱姫に会ったらぶっ飛ばす!!いや、しかし今は冷静にならねば
⋮⋮︱︱
99
﹁ごめんなさい。いつもあなたには苦労をかけているわね。どうか
今一度私を信じてはもらえないかしら?決して逃げないと誓うわ⋮
⋮我らが創造主﹃レガリア﹄の名においても﹂
適当に考えてみただけのセリフであったが、どうやら効果はあった
らしい。
メイドは姫の発現に気圧されている様だった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ほ、ほんとうッスか?嘘じゃない?﹂
﹁えぇ!もちろん!!﹂
ニコリと笑って見せる。宮廷式ではないが、気品のある笑みだ。
﹁う、うぅ⋮⋮⋮⋮じゃあ外で待ってるっす。何かございましたら、
何なりとお申し付けくださいっすね!﹂
﹁ありがとう﹂と言ってから、ビスクは﹁少し長めのタオルを持っ
てきてくださる?﹂と付け足す。
メイドは了承しましたとペコリと礼をすると、扉の外に出ていった。
100
ビスクはようやく一息つく。嵐のようなメイドだったと。まさかあ
んな化け物がいるとは思わなかったと。二度と忘れぬよう要注意人
物として覚えておくことにした。
メイドに破かれたのは、まだ上半身だけだった。破かれた後の切れ
端が、プカプカと湯船に浮かんでいるのが哀れだ。危うく偽物だと
バレるところだったかもしれないと、ビスクは切れ端を一つ掴む。
やがて、すぐにタオルを持ってメイドが現れた。メイドは少し怪訝
そうな顔をしたが、何も言わず礼をすると再び浴場の外に戻って行
く。
﹁さて⋮⋮と﹂
ビスクは安心し、服を全て脱いだ。体を洗うための、当然の行為。
何の気なしに下腹部を擦った時、ビスクはそれに気づいた。
﹁なんだ⋮⋮コレ?﹂
当然のようにそこに居座るのは何だ?と。ビスクは顔を下に向けら
れない。
101
まさかそんな筈はないと自分に言い聞かせる。だが、確かな感触が
そこに。ビスクは直観した。
︱︱︱違う。そうじゃない。そうじゃなかったのか!︱︱︱
脳は自分の﹃誤解﹄に気づく。生理的嫌悪感から、ビスクは強烈な
吐き気を覚えた。
あるはずなど無かったのだ。セクサロイドでもなければ、アンドロ
イドに﹃性器﹄が付くなどと言う事はありえない。
ビスクの誤解は、自分に﹃何も付いていない事がバレる﹄と思って
いた事だった。
口の中に溢れ出た吐瀉物を、無理やりもう一度胃に捻じ込む。
︱︱︱俺を、道具と、一緒にすんな!!︱︱︱
奇妙な人間の体を得た時点で、憂慮すべき事だった。今になって気
づくなんてと自分を責める。
102
ビスクはバレットが砂漠で暴走していた理由がようやくわかった。
バレットを止めたのはビスクだったが
、ビスクはバレットの様子から﹃戦闘用アンドロイドの故障及び暴
走﹄程度にしか考えていなかったのだ。これは人工知能による防衛
本能だ。
自分のソレを見る。間違いようもなく、男性のソレだ。
︱︱︱この場合どうするべきか。上手くやり過ごすにはどうすれば
いい?いや、どう考えてもダメだ。逃げるしかない。可能な限り早
くここから脱出せねばなるま⋮⋮⋮︱︱︱
﹁んもぅ!!姫様ッたらーやっぱり私が手伝ってあげなきゃダメっ
す⋮⋮⋮⋮⋮⋮へ?﹂
﹁あっ⋮⋮⋮⋮﹂
こちらの様子を窺っていたのか、あまりに動きのない姫様の元にメ
イドが駆け寄ってくると、そいつはあろうことか、真っ先にそこに
辿り着いた。
二人の間に沈黙が流れる。メイドの手が、ゆっくりと姫様のソレか
ら離れていった。
103
﹁え?あ、あり?なんで⋮⋮ひ、ひめさまに⋮⋮⋮⋮ふぇ?⋮⋮⋮
⋮⋮ぴ⋮⋮ぴ、ぴ、ぴぎふむぅ!!﹂
泣いて叫びそうなメイドの口を手で塞ぐ。
﹁だ、黙れ!!泣くな!!騒ぐな!!﹂
ビスクが風呂の淵に脚をかけたせいで、それが露わになると、メイ
ドは首を横に振って逃げようとする。
手で押さえたままビスクはメイドに自分の顔を近づけた。
﹁いいか。騒ぐな。今、ここで俺が偽物だってバレたら、俺はお前
が協力者だと言う。そうすれば俺はもちろん首が飛ぶが、状況次第
じゃお前の首も怪しいぞ。仮にお前が完全に白だとわかってもだ、
一度出た疑いはそう晴れるもんじゃない。たかがメイド一人なんて、
王国にとってはどうでもいい。そいつの身が潔白かどうかなんて考
えない。疑わしきは、排除するだろう。少なくとも拷問にはかけら
れるだろうな。わかったか?わかったら首を縦に振って、俺の話を
聞け﹂
今にも泣き出しそうな瞳で、メイドは小さく首を縦に振った。
104
﹁わ、わかったっす。お願いですから殺さないで欲しいっす﹂
この暴虐のメイドに殺されることはあっても、殺せることはないだ
ろうとビスクは思った。
それでも一応女史ではある。ビスクはメイドの持ってきたタオルで
自分の前を隠した。自分だってこんなもの晒していては落ち着かな
い。
ビスクは一度深呼吸をすると、事の経緯をメイドに説明し始めた。
自分が今朝ここに来たばかりの者である事、ここの姫に間違えられ
て連れ去られた事、この王都がどういうところなのかも分からない
という事。
それから理解できるかどうかはわからないが、自分が人間では無い
﹃アンドロイド﹄である事も。
話が全て終わっても、信じて貰えるかどうかはわからなかった。だ
が、それはこのメイドを前にしては杞憂だった。
﹁あ、じゃあビスクさんは私の事殺さないんっすね?はー良かった
ぁぁ。怖い人かと思ったっす﹂
105
メイドは安心したようにへたりこんだ。
﹁敵意なんてもんは無いし、誤解されただけだから、俺としてはコ
コから早く出たいんだ。お前の方から爺に言ってくれないか⋮⋮え
ーっと⋮⋮﹂
﹁チャオです。チャオ・リンっす。それは難しいかもしれないっす
⋮⋮﹂
﹁なぜ?﹂とビスクは問うた。
﹁今、けっこう王都内がピリピリしてるんす。革命派の動きがどん
どん活発になって⋮⋮ですから、多分執事長に言ったら、真っ先に
それを疑われるッス﹂
なるほど、と。ビスクは小さく言った。それならば、こちらに潔白
を証明する物は確かにない。ロロ達に証言してもらう方法もあるが、
無理だ。ロロ達が更に疑われるだけだろう。
ビスクは発想を変えることにした。
106
﹁チャオ。お姫様はいつ帰ってくる?﹂
﹁へ?え、えーっとバラバラっすけど、長ければ一か月は帰ってこ
ないっす。第一皇女様も不思議な方ですが、第二皇女、姫様も変わ
ってらっしゃいます﹂
﹁第一皇女?﹂
﹁はい。姫様と直接の血の繋がりはないのですが、とってもお美し
い方っす﹂
︱︱︱俺は第二皇女のおてんば娘に間違えられたというわけか︱︱
だが、今大事なのはそれよりも第二皇女が帰ってくるまでの﹃一か
月﹄だ。確定された情報で無い以上、信用性には欠けるが、今はこ
れを信じるしかない。
﹁わかった。じゃあ俺はしばらくここで暮らす。チャオが俺の身の
回りの世話をしてくれ﹂
﹁え、えーーー!!﹂
107
チャオが文句を言ったが、それを一睨みで抑える。
﹁えー、じゃない。それと本物と何とか接触できないか試みてくれ。
じゃないとご帰宅なされた時に結局首が飛ぶだろ?﹂
チャオに次々と命令していくと、渋々チャオはそれを受け入れてい
く。
人間とアンドロイドの関係にしては、歪だ。
だが、そんなものはビスクにはもうどうでもいい。とうにタガは外
れているのだから。
﹁運命共同体だ。よろしく、チャオ﹂
ビスクは手を差し出した。チャオがその手を取る。
半裸の男と、ずぶ濡れのメイド。
大浴場で奇妙な契約を結ぶ二人の姿が、そこにはあった。
108
109
Report8
:
マリア様にみられたい
お小遣い︵前書き︶
110
Report8
:
お小遣い
﹁すみませーん。遅れましたー﹂
配達を全て終えて、テスラは白猫宅急便の本部へと戻ってきた。時
刻は6時を回るころ、定時はとうに過ぎている。テスラの仕事が遅
れるのは初勤務以来であったため、職場に残ってノルマ管理表にせ
っせと書き込んでいた同僚達は、少し珍しそうにテスラを見た。
視線が気まずいので、そそくさとオバサンの元に向かう。この白猫
宅急便のオーナーだ。
途中、雑然としている本部内にアニスの姿を探したが、どこにも見
当たらない。まさかまだ配達が終わってないのか、それともまさか
のまさかでサボってはいないだろうかと心配になった。だが、いく
ら出不精で面倒くさがり屋な彼女でも、流石にやる事はやってくれ
ている筈だと信じておく。
﹁随分遅かったね。どこで道草くってたんだい?﹂
白猫宅急便のオーナー、本人は絶対に配達業に向いてない酷く肥え
たマダムが、咥えていた煙草の火を灰皿の淵で揉み消すと、テスラ
を迎えた。
﹁すみません。おばさん﹂
111
﹁マダム!!次、おばさんと言ったら承知しないよ﹂
﹁はいマダム・キティ!以後、気をつけます﹂
テスラは慌てて言い直した。何度やってもこの言い方が慣れない。
キティは彼女の本名をもじったモノで、マダム自体はその愛称を気
に入っている。だがしかし、灰皿が一杯になるほどの煙草を吸い、
体は自分よりも一回りも二回りも大きく、顔中に化粧を塗りたくっ
てるその容貌は、もはや化け猫と言った方がいい。
だからテスラは、マダム・キティ≪子猫夫人≫というよりは、オバ
サンの方がまだしっくりきていた。
﹁えっと⋮⋮報告します!ただいま配達完了しました!途中、不注
意からオンボ⋮⋮バイクの盗難に遭い、そのため西南地区4番地以
降の配達が滞ってしまいました!!﹂
嘘、というよりは確定されてない情報を無視した上であえて﹃配達
終了﹄とした。アニスが手伝いたいと言って来たのは今朝の事で、
それはマダムには内緒だった。
﹁なるほどねぇ⋮⋮それはアンタが悪い。ミスした分は給料から差
し引いとくよ。文句あるかい?﹂
112
﹁いえ⋮⋮⋮⋮﹂
正直苦しいが、仕方ない。無一文だったテスラたちに、住む家と仕
事をくれたのはマダムなのだ。
そのおかげで生活費は最低限の食費と、生活用品への投資だけで済
んでいる。アニスが働かないおかげで、文字通り一人で二人分働か
なければならないのだが。
﹁それから、それじゃあ明日からどうするんだい?バイクがないん
じゃ今までみたいに配達出来ないだろ?﹂
その言葉にテスラは大きく首を横に振った。
﹁大丈夫です!配達は⋮⋮出来ます!!﹂
マダムは新しい煙草に火をつけると、ゆっくり肺に染み渡らせるよ
うに吸い込んだ。それから満足したように煙を吐き出し、目の前の
ファイリングされた書類を手に取った。
﹁今日から一週間は東地区を重点的にやってもらうよ。そこならバ
イクも必要ない。件数は増えるけど⋮⋮あんたなら問題ないね?そ
の間になんとかしなさい。ただしその間の給料は減らすよ。あんた
は遠くまで良く動けるから重宝してたんだ﹂
113
﹁は、はい!!マダム・キティ。ありがとうございます!!﹂
しっしっと手で追いやられ、テスラはマダムの部屋を出た。それか
ら閉まった扉に向かってもう一度お辞儀をする。マダムにはお世話
になりっぱなしだと。
既に職場には誰もいなかった。アニスの姿もない。先に帰ってしま
ったのだろうかと、テスラはとりあえず自分のノルマ管理票に今日
の成績を記入していく。手紙は配達件数を、小包はそれに配達時間
も加える。アニスの分はどうしようかと思ったが、最悪明日の朝に
間に合えば、大丈夫な筈だと、そこだけ空欄にしておくことにした。
同僚の中には、時々成績を誤魔化そうとする者もあるが、マダムの
情報網はとてつもなく、三日と経たないうちにソレが嘘の記述であ
ると発覚してしまうのである。だからテスラは当然のように、自分
の配達時刻・件数を正しく記入していく。配達時刻では、今日は確
かに他の皆よりも遅れをとったが、配達件数ではテスラに敵うもの
はいなかった。
テスラは全て記入し終えると、自分の財布、小さな巾着袋の中を確
認した。紙幣が三枚と硬貨が三枚。
貨幣形態がほぼ全て電子化され、一部の発展途上国だけが未だ使用
していた紙幣と硬貨は、始めは随分扱い辛かったが、すぐに気に入
った。目に見えて減るだけじゃなく、財布が膨れたりスッカラカン
になる感触が、生きている実感をテスラに与えていたからだ。
しかし、貯金はほぼ出来ていないといっていい。上手く計算しよう
114
としても、一日の消費カロリーやその日の献立やらで食費は増減し、
慣れない生活には必要なものがどんどん増えていく。オンボロの燃
料代に、アニスへのお小遣いも痛い出費だった。今日の出費を踏ま
えれば、明後日の給料日まで何とかもてばいい方だろう。
﹁お先失礼しまーす!﹂
テスラは扉の向こうにいるマダムに聞こえる様に大きな声を出すと、
白猫宅急便本部を出た。
今からやらなければならない事は多い。まずは最寄りの王立警備兵
団の駐在所を訪ね、バイクの盗難の件を申請し、その後東地区二番
地にあるアーケードで買い物をしなければならない。出来れば自分
でもバイクを少し探し回りたいため、そのためには先にアニスの食
事を作っておく必要もある。それにその後は公衆浴場にも寄りたい。
東地区三番地、白猫宅急便本部と同じ高さにある警備兵団の駐在所
でテスラは事情を説明した。
受け答えしてくれた警備兵は非常に友好的だったが、テスラに﹁あ
まり期待しないでくれ﹂と言った。貧民街は知らぬ間に人が増え、
新しい道ともいえない道が増えている事もあり、そういったところ
にオンボロが盗まれていったら見つけるのは非常に困難だから、と
いう事だった。テスラの肩がガクリと落ちる。
︱︱︱結局自分の足で探していくしかない、か⋮⋮︱︱︱
115
その方がまだ可能性があるように思える。明日、明後日は仕事でも、
その後は一日だけ休みがある。そこをフルに使って探そうと考えた。
気を取り直して、アーケードに向かう。
﹁あっ⋮⋮⋮⋮﹂
その途中、番地間の階段からノソノソと降りてくる良く見知った人
影を見つけた。そっちもこちらに気づいたのか、呑気に手を振って
見せる。
﹁テスラ∼∼。お∼∼∼い﹂
アニスが駆け寄ってくる。いったいどこを宅配しに行っていたのだ
ろうか。服の裾にいくつも落ち葉がくっついている。
﹁あんたドコ行ってたの?ちゃんと仕事した?﹂
テスラの言葉にアニスが人差し指と親指で輪を作る。OKと。
ホッと一息つく。これで明日の朝にアニスの分を記入すれば何の問
題もない。ソレをしくじると更に給料を減らされるのだ。
﹁いやー最後の配達先が天文台だったんだよね。それでちょっと遅
れちゃった。ごめんね﹂
116
宛先に天文台何てあったかなとテスラは記憶の中の配達先一覧を探
してみたが、そんなところはどこにもない。どういう事だと思って
いると、アニスが注釈を加えた。
﹁最後に行ったトコは配達先に人がいなくって、地元の子?にその
人のところに案内してもらったの。だから直接渡したんだよ!!﹂
偉いでしょ?と言わんばかりにアニスが胸を張る。
﹁うーん⋮⋮﹂
これが仕事である以上、ポストに入れればそれでいいし、時間をロ
スするくらいならその方がいい。一つの判断ミスで全体に影響させ
てはならない。マダムなら間違いなくそうしろと言うだろう。だが、
テスラは迷った。
︱︱︱直接渡そうと思う事自体は良い事だし、悪い事をしたわけじ
ゃない。今回は特別に内緒で手伝わせた私の責任もあるし⋮⋮⋮そ
れに、せっかく嬉しそうに仕事の事を話すこの子に水を差したくな
い︱︱︱
﹁そうだね。手伝ってくれてありがとうアニス﹂
117
﹁でしょ!?天文所も楽しかったよ。望遠鏡があってね、久しぶり
に星を観たの。それから⋮⋮﹂
そこでアニスは息をのんだ。何だろう?とテスラは先を促す。
﹁それから?﹂
﹁うーん⋮⋮これは後でゆっくり話すよ。とにかく天文台は楽しか
ったよ!﹂
もともと宇宙の仕事をしていたアニスにとってそれは格別だったの
だろうとテスラは思った。自分にはそんなものは無い。それどころ
か自分には何もなかった。
﹁それじゃあソコで働かせてもらえばよかったじゃない?﹂
宇宙に関する事ならアニスも夢中になれる。仕事にはするにはもっ
てこいだろう。
﹁ぷ、ぷと⋮⋮⋮⋮﹂
118
﹁⋮⋮?ぷと?﹂
﹁と、遠いから!!無理!!!!﹂
アニスが首をブンブンと猛烈な勢いで横に振る。それとコレとは別
だとでも言いたげだ。家から遠いというだけで働くのを拒否された
ら、職種がだいぶ減っていくだろうに。肉体労働が苦手というアニ
スに出来る事は果たしてあるのだろうか。そもそも本当にこの先働
いてくれるのだろうか。
アニスを連れて、テスラはアーケードに到着した。
モザイクの床に、商店が所狭しと並ぶ。そこは買い物をしにきた人
々で大いに盛り上がっていた。
﹁うげぇ⋮⋮酔いそう﹂
﹁人酔いしないでよ⋮⋮どんどん希望がなくなってくわ﹂
人混みを見ただけで、入り口で足踏みしているアニスを引っ張って
中に入る。テスラはここの活気が好きだった。
﹁ねぇ、今晩何がいいかな?﹂
119
﹁まか﹁任せる禁止ね﹂﹂
家事の経験があるテスラとはいえ、自分が食べる事は今まで無かっ
たのだ。それにこちらで手に入る食材は、元いた世界とは異なる。
似たような食材でテスラは思考錯誤していた。
アニスにも家事の経験はあると聞いたので任せた事もあったが、そ
の経験は﹃温めると出来上がる﹄物に限られていた。そういった物
はこの世界にもあるらしいが、基本的にエンドミルからの輸入品で
あるため高価で、物好きな富裕層が気まぐれに買っていくだけだそ
うだ。
﹁じゃあ⋮⋮⋮⋮ハンバーグっぽい何か?﹂
﹁えぇぇ⋮⋮なんで面倒なの選ぶかなー。もっとこう炒め物とか簡
単なのにしようよー﹂
﹁じゃあ決めてくれればいいじゃん!!なんで私に聞くのさ!!?
惣菜屋さん行って出来合いの買うのはダメなの?﹂
﹁だって毎日献立決めるの大変なんだもん。あと惣菜屋さんは高い
んだよね⋮⋮それにこの世界には挽肉はあるみたいだけど、ハンバ
ーグと同じような料理は無いみたい﹂
120
アニスが頬を膨らませて文句を垂れている。今日は簡単な焼くだけ
の魚か野菜炒めにしようと、テスラは商店街を物色し始めた。もち
ろん値段はなにより大切だ。
﹁あ、アニス。今日はその鋼魚にしよっか?﹂
﹁へ?⋮⋮って、え?なに?﹂
鋼魚≪シルバーフィッシュ≫と呼ばれる魚。やたら鱗が硬いが、剥
がすのは簡単で、白い身は油がよくのっている。焼くと中々美味し
い魚だった。
﹁またコレ!?﹂
﹁安いし美味しいし文句言わないの!他のもので違う雰囲気出せば
いいでしょ?﹂
﹁また、野菜をレタスみたいのからニンジンみたいのに変えたり?
スープの色が変わったり?ねぇそれって本当に違う雰囲気になって
ると言えるのかな?﹂
アニスからの視線を逸らし、﹁ちっ﹂と心の中で舌打ちした。今日
121
はキノコ系で誤魔化そうかと考えていたところだった。
﹁じゃ、じゃあその代わりアニスも何か好きなの買って来ていいよ
?はい、コレ﹂
財布に入っていた硬貨を渡す。おかし程度しか買えないが、これで
アニスは満足したようだった。
﹁やたー!!本当にいいの?じゃあちょっと行ってくるね!!﹂
あっという間に走って行く。動くときは動くアクティブな引きこも
りだなぁとテスラは苦笑いした。アニスを黙らせるための出費は痛
いが、それも鋼魚の安さの前には問題ない事だった。魚屋の店主に
二匹注文し、オマケで九玉蟲≪クタマ≫という足が九本のタコやら
イカやら良くわからないモノを貰った。それを二重にした紙袋に入
れてもらう。
その後は予定通り、野菜屋に行きキノコのような何かを購入。あと
は調味料も揃っていたし、スープは適当に作れる筈だ。食費の節約
も完璧だった。オマケもなかなかにおいしい。
後はアニスが戻ってくるのを待つばかりだったが、それまで適当に
ブラつくことにする。
このアーケードの中は歩いてるだけでも十分に楽しめた。食料品を
122
売っている店から、薬屋に、服屋に、本屋、楽器屋や人形屋なんて
ものもある。オンボロの燃料を売っている店もこのアーケードにあ
った。
一つの店の前でテスラはふと止まった。
入ろうか入らまいか悩んでいたが、キョロキョロと左右をみると、
その中に入って行く。
ぎこちない足取りで、商品に囲まれた狭い道を歩く。自分の体にぶ
つかって商品が傾いたのを、落っこちる前に支えた。その店の中は、
小さな雑貨がごちゃごちゃと煩雑に並べられていた。
その中でも、気になったものをテスラは手に取った。それから、そ
のためにあるとしか思えない小さな鏡の前で、それを恐る恐る自分
に付けてみる。
﹁あはは⋮⋮⋮へんなの⋮⋮⋮﹂
小さな白い花が描かれたヘアピンが、鏡に映る自分の前髪を止めて
いる。
なんだかムズかゆくなってきてしまいそうだった。恥ずかしくなっ
てきたテスラは、それを前髪から外し、元あった位置に戻す。
でも、やはり気になってしまいテスラはそのヘアピンの値札を見た。
123
鋼魚が四匹は買える値段。とてもじゃないが、そんな贅沢をする気
にはなれない。隣のブースには、もっと安いものがまとめて置いて
あったが、そこには気に入るものは無かった。
︱︱︱しょうがないしょうがない。がまんがまん!︱︱︱
そう自分に言い聞かせ、店を出る。店主が小さな声で﹁冷やかしか﹂
と言ったのを申し訳なく思った。
しかし現状、もっともしなければならないのは節制だ。貯金して生
活を安定させなければ話は始まらない。テスラはもっと文明の発達
したエンドミルに行ってみたかったが、そのためにはもっとお金が
必要だった。
アーケードに再び出る。人々の活気の中だからこそ、所在無くして
いるのは少し寂しい。テスラはアニスが早く帰ってこないかと、人
混みの中に目をやった。
左から、右に、もう一度左を見ては、右に。首が疲れそうな程だっ
た。待ち合わせ場所くらい決めておくべきだったと後悔する。体の
小さいアニスをこうして見つけるのはかなり困難に思えた。まさか
救難信号を使うのも、少し憚られる。あれは聞いてて気味の良いも
のでは無い。
しかし、もう一度左を見た時だった。彼女は目を疑った。だが、考
える前に体が動く。
124
人混みをかき分け、その影があった場所へ急いだ。見間違いではな
い事を祈って。
その影があった筈の場所で、テスラはしかしその影を見失っていた。
前後左右を何度も確認する。
ここにいた筈だ。確かにいた筈だと。その痕跡を探そうと、何度も
周囲に目を配った。
﹁てーすらーーー!!﹂
背後からアニスが飛びついた事で、テスラはハッとした。
﹁どしたの?キョロキョロして?あっ⋮⋮ごめんけっこう待ってた
?﹂
テスラは呆然としたまま首を横に振る。それをアニスは怪訝そうに
見ていた。
﹁さっき⋮⋮⋮⋮見たの⋮⋮⋮﹂
﹁見たって?何を?﹂
125
何を。それは幻だったのだろうか。だが、記憶のアーカイブには確
かに映像として残っている。
﹁LH−45⋮⋮を﹂
支給品の服をその者は着ていた。確かにテスラは観たのだ。
﹁そういや、さっきの泥棒もそうだったね﹂
﹁え?﹂
ケロッとアニスは言って見せた。まさかと思い記憶を漁る。その映
像の中の大男は確かに支給品の服を着ている様だった。
﹁な、なんであの時言ってくれなかったの!!?気づいてたのなら
言ってよ!!﹂
﹁え!!?ふ、普通気づくでしょ?それにテスラ急いでたし、私も
忘れてたし﹂
あの時は確かにバイクを盗まれた事で頭が一杯だった。こんな事に
も気づけなかったとは思いもしなかった。
126
﹁いるんだ⋮⋮私達の他にも⋮⋮⋮﹂
﹁そうみたいだねー。でもあれだけあったのに、全然見ないのはや
っぱり変だよ﹂
その言葉にテスラは頷く。一人二人と仲間が見つかっても、あの場
には十万以上のアンドロイドが廃棄されたのだ。その内たったこれ
だけに不思議な事が起きたのだとしたら、その理由がわからない。
﹁⋮⋮⋮⋮イオン﹂
テスラは小さく独りごちた。あの影は確かにイオンだったと。
なぜ確信できるかどうかはわからない。だが、彼にはもう一度会っ
てみたかった。
﹁あ、そうだ!そんな事よりコレ観てよ!!﹂
アニスがポケットから小さな袋を二つ取り出し、一つをテスラに渡
した。
﹁命名ジャム飴。なんか変な店で売ってたんだけど、何だろうねコ
127
レ?飴玉みたいなんだけど、口に入れた途端ジャムみたいにドロッ
て溶け出すの。気持ち悪いけど美味しかったから買っちゃった﹂
また変な物を買ったなぁと、おかしくてテスラは少し笑った。アニ
スのお小遣いの使い道は大体こんな感じだ。変なものを二人分。飴
を口に入れると、確かに気持ち悪い食感で、ドロッと溶け出す。何
かの果実なのか、味はスッキリとしていた。
﹁ありがと。じゃあもう買い物も終わったし帰ろっか﹂
﹁あ、それと⋮⋮⋮⋮﹂
帰ろうとするテスラを引き止め、その体を強引にかがめさせると、
アニスはテスラの額に手を当てた。
﹁お金が余ったからね!!ちょいとそこで!!﹂
﹁え、なに⋮⋮?﹂
額に手を当て、それを取る。
小さな赤い何かの果実が描かれている髪留め。
128
それはあの店でまとめて置いてあった安いヘアピンだった。
クスクスと堪えきれない笑いが、口元から溢れてくる。エッヘンと
腰に手をあてたアニスが、同じヘアピンを頭に付けていた。お揃い
らしい。
﹁気に入った?﹂
アニスがテスラの顔を覗き込む。テスラは自分にピンを付け直した。
﹁うん。とっても!!﹂
その言葉に満足したようにアニスはクルクルと踊るように回る。
一緒に踊っても良かったが、ここは道に真ん中。テスラはアニスの
手を取ると、アーケードの出口に向かった。
帰って、ご飯を作って、それからほんの少しだけオンボロを探して、
そのあとお風呂。
やる事を数え、また少し鬱屈とした気持ちになる。
129
だが、アーケードの出口に、やる事が一つ、無造作に置かれていた。
アニスと一緒にまさかと思いつつも、それに駆け寄る。鬱屈とした
気持ちが、一気に高揚する。
盗まれた筈のオンボロが無造作に置いてあった。
燃料を空っぽに、また少しボロボロになって。
130
Report9
:
誤解︵前書き︶
ロロ回︵うわぁなんだこの字面︶です。
131
Report9
:
誤解
埃っぽい砂塵の中をキャラバンは行った。エンドミルへの行商の帰
り、六日間かかる行程を二日間にするため、そしてボスの商人らし
い守銭奴精神がそうさせた。
鎧渦蟲≪グル≫は砂漠の中、ゆっくり這うように荷車を引いて行く。
彼らは大量の水分をその丸っこい体の中に含んでいて、それを逃が
さない様に濃い粘膜の鎧に覆われている。目や耳や鼻といった感覚
器官はなく、二本の渦巻く触角と粘膜がその代わりをしていた。
馬を使って、ここを通る事は出来ない。彼らにこの砂漠は耐えられ
ないからだ。馬で通れる通商路はあったが、それは大きく嵐砂漠を
迂回していたし、通るためには関所で通行税を払わなければならな
い。そしてその道は馬では三日、鎧渦蟲では倍の六日かかる。
鎧渦蟲は人間が歩くのよりもほんのちょっと速く、走るのよりはち
ょっと遅い。つまり馬とは比べ物にならない遅さだが、それでもキ
ャラバンの者たちには好まれた。
早朝、ロロは誰よりも早く起きて鎧渦蟲に水と餌をやった。砂嵐の
比較的弱いところではあったが、それでも乾燥した熱風が喉を灼き
そうだ。クチャクチャと音を立てながら美味しそうに餌を食べる鎧
132
渦蟲の頭を撫でると、粘膜の変え時なのか、古い粘膜がロロの手に
ついた。しまったとばかりに彼らの水をほんの少しわけてもらい、
それで軽く手を洗う。残りは服の裾で拭ってしまった。
見張りの内の一人、グレイグが帰って来たのはその頃だった。
まだ、出発には時間があったし、彼に帰還の合図を出すのも自分の
仕事だったので、ロロは少し戸惑う。
何かあったのだろうかとロロは身構えた。だが、それにしても発煙
筒をあげていないのはおかしい。
彼の背後から二つの人影が見えた事で、その理由がわかった。
﹁遭難者だ。見張りはラリーがやってくれてる。ボスは起きてるか
?﹂
ロロは首を横に振った。このキャラバンのボス、バムはまだ目覚め
てない。昨日散々酒を飲んだせいだろう。
﹁そうか。起こしてきてくれ。彼らに助けられた﹂
ロロは首を傾げた。遭難者なのに助けられたとはどういう事だろう
と。
133
それから遭難者の二人の男たちを見た。二人してお揃いの服を着て
いる。兄弟か、親子か、でもそんな風にはまるで見えない。奇妙な
者たちだった。
﹁あぁ⋮⋮すまない。魔物が出たんだ。急襲でね、数も多かった。
発煙筒を上げる間もなかったよ。そこを通りすがった彼らに助けら
れた。遭難者保護といっても、彼らはその代わり護衛をするといっ
ている。それならボスも文句ないだろう。なにより命を助けられた
俺らとしては恩も返してやりたい﹂
少し驚いたが、ロロは黙って頷くと酒臭いバムの寝床へ向かった。
テントを開き、奥さんを起こさない様にしながらバムの肩を揺する。
禿げた頭が痛むのか、不機嫌そうにバムは目覚めた。
﹁なんだ?もう⋮⋮出発か?﹂
目を擦りながら、睨むような目つきでバムはロロを見た。
﹁まだ。グレイグが遭難者を二人連れてきて、保護したいって﹂
﹁遭難者だぁ?そんなものを保護してる暇はない。ただでさえ鎧渦
蟲は遅いんだ!!グレイグの奴はそんな事もわからんのか!!?﹂
134
バムの大声に奥さんが目覚めた。バムとは歳が十五も違う若い奥さ
んで、クシャクシャになった髪を手櫛で整えようとしている。ロロ
を一瞥すると、テントの奥に入り、何事も無かったかのように着替
えを始めたようだった。
﹁魔物が沢山出たみたい。それで、グレイグとラリーはその二人に
助けられたんだって﹂
﹁⋮⋮⋮なんだと?﹂
ロロが言葉にバムの眉がピクリと動いた。二人が助けられたという
事がバムにとっては意外だったのだろう。
魔物が出たという事自体は、予想外でもなんでもない。この嵐砂漠
は昔から魔物が出る。しかし、それも一回の行商で数匹見れば多い
方との事だった。
それにグレイグとラリーもそこそこ腕は立つ。魔物の二匹や三匹な
らあっという間に追い払うだろう。それが助けられたという事は、
やはりかなりの数の魔物が現れたという事を示していた。
﹁わかった。話だけでも聞こう。グレイグと、その遭難者の二人を
呼んで来い﹂
すぐにロロは三人を呼びに行ったが、既に三人はテントの外で待機
していた。ロロが出てきた事でグレイグは察し、ロロに軽く手を上
げると、二人の遭難者を連れて中に入って行く。
135
これなら最初から自分で行けば良かったのに、とロロは小さく悪態
ついた。それから奥さんの事を思い出し、あぁそうかと得心した。
意味は良くわからないが、グレイグがよくラリーに馬鹿にされてい
るのを聞いたことがある。こういう時に使えばいいのかな、とロロ
はこっそり呟いてみた。
﹁模擬剣野郎﹂
何となく少し恥ずかしくなってロロは顔を伏せた。まさかグレイグ
に聞かれてないだろうかと、テントの中を覗き込んだが、そんな心
配はなさそうだった。これをラリーが言うとグレイグは顔を真っ赤
にして怒るのだ。
太陽の姿が全部見れるようになる前に、他のキャラバンの面々を起
こしていった。
全員が起きて支度が整う頃、バムのテントの方でも話は終わったら
しく、二人は同行を許されたようだった。
それを確認すると、ロロはラリーのために発煙筒を焚いた。出発の
時間だった。
ロロは遭難者の二人と共に、片づけたテントや、換えの車輪がある
荷車に乗り込んだ。要はお荷物部屋である。他のみんなは交代で鎧
渦蟲の操舵をしたり、或いは商品を詰んだ貨車の中でコレをどう売
るか、なんて話をしている筈だ。こんな所で無口な二人と一緒に小
さくなっているなんて、ロロには退屈で仕方なかった。
136
﹁ねぇ、あなた達はどこから来たの?﹂
何かお喋りでも出来ないかと、ロロは2人に会話を試みる。
1人は顔中に傷のある大男。もう1人は男の子のような女の子のよ
うな、目つきの悪い子どもだった。
﹁⋮⋮わからない﹂
大男が答えた。
﹁わからないって⋮⋮どういう事?﹂
﹁気づいたらここにいたんだ﹂
いまいち理解出来ないが、嘘は言ってなさそうだった。王都からも、
エンドミルからも離れていたソコは﹃気づいたらいた﹄なんて場所
では到底無かったが。
﹁あなたも?﹂
もう1人の子どもに聞いてみるが、何も答えない。代わりにやはり
137
大男が答えた。
﹁⋮⋮⋮おそらく、そうだ﹂
﹁ふーん⋮⋮﹂
そこで、ふと思い出したように、ロロは尋ねた。
﹁そういえば、グレイグとラリー⋮⋮さっきの見張りの2人が、あ
なた達に助けられたって聞いたけど、あなた達って強いの?﹂
大男が首を横に振った。謙遜なのか、それとも本気でそう思ってる
のかは判断がつかない。だが、まさかこの子どもが強いという事は
無いだろう。とてもそんな風には見えない。
ロロはこの奇妙な遭難者2人をもう一度見た。どこか違和感があっ
た。でも、それが何かと言えるほどの確信があるわけでもない。
もし間違いだったら、と思うと怖かったので、ロロは疑問をぐっと
胸に押し込めた。
出発から何時間経っただろう。荷車の揺れのせいで、お尻がジンジ
ンと痛くなってきた頃の事だ。気分転換しようと、ロロは荷車の幕
を少し引っ張って、そこから顔を出した。
138
荷車の轍と、鎧渦蟲の這った後が、砂漠に描かれては、風にさらわ
れていく。
太陽の位置から、もうかなり進んだ事がわかった。ひょっとしなく
ても、もう操舵を握ってる者には王都が見えているだろう。これな
ら後ちょっとの辛抱で王都に着くかもしれない。お尻の痛みから解
放される喜びとともに、旅の終わりがほんのちょっと寂しくもあっ
た。
カラカラという車輪の音と、鎧渦蟲の這う音、そして荷車を叩く砂
の音にロロは耳を傾けた。
︱︱︱⋮⋮けて⋮⋮⋮⋮た⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮か⋮⋮⋮て⋮⋮⋮⋮︱︱︱
﹁⋮⋮⋮⋮ん?⋮⋮⋮⋮何?何か言った?﹂
ロロは後ろの二人に聞いた。だが、二人は先ほどから一言も発して
いない。
﹁ねぇ⋮⋮⋮じゃあ何か聞こえなかった?﹂
大男が首を横に振った。彼には何も聞こえていないらしい。
ロロはもう一度、自分たちが通った後の道、轍の向こうを見た。通
るのがあとちょっと遅かったら巻き込まれていたかもしれないほど
の大砂嵐が舞っている。その中に、気のせいか、ほんのわずかに黒
い影を見つけたような気がした。ひょっとしたら魔物かもしれない
と思えるほどの、小さな影。
139
︱︱︱⋮⋮⋮たす⋮⋮⋮⋮だ⋮⋮⋮⋮けて⋮⋮⋮⋮︱︱︱
声はどんどん小さくなっていく。
︱︱︱だれ⋮⋮⋮け⋮⋮⋮⋮か⋮⋮⋮⋮たす⋮⋮⋮けて︱︱︱
その声を聞いた瞬間、ロロは荷車から飛び降りていた。
﹁救難信号だ!!﹂
大男ではなく、子供の方が叫んだ。彼にも聞こえたのだろうか、と
ロロは思ったが、そんな些末な事はどうでも良かった。行かなきゃ
いけない、助けなきゃいけない、頭の中がそれだけになる。
﹁おい!?どうした何があった!!?戻ってこい!!ロロ!!﹂
後ろで荷車が止まる音がする。誰かが気づいて止めてくれたのだろ
う。それでも、ロロは戻らなかった。
後で大目玉喰らう事を覚悟しながら、ロロは嵐の中に入って行く。
140
吹き荒れる砂塵の中、声の主を探した。
直観か、或いは本能とでもいえばいいものなのか、迷うことなく歩
んでいくと、それはあった。
﹁大丈夫!!?﹂
汗と砂で全身が黒ずんだ、遭難者の彼らと全く同じ服を着ている少
年が倒れていた。体が冷たく、呼吸もしていない。だが鼓動音だけ
が、まだ幽かにしていた。
﹁どうしよう⋮⋮﹂
ここにきてようやく我にかえる。一人でみんなと離れ過ぎた。救急
用の水や薬はキャラバンの中に置きっぱなしであったし、医術の心
得がある者もその中にいる筈だった。
迷っている暇は無かった。それにこの砂嵐はまるで、ロロに使えと
でも言っているようだった。
彼の顔の泥を袖で拭ってやり、意を決すると、ロロは少年に唇を軽
く開いた。
︱︱︱大丈夫⋮⋮⋮大丈夫⋮⋮⋮きっとうまくいく⋮⋮⋮︱︱︱
141
んっと力を込めて目を瞑り、ロロは少年に、口づけをした。
唇を彼から離し、すぐに心臓に耳を当てる。
︱︱︱⋮⋮⋮⋮⋮ダメッ!!?どうして!?︱︱︱
他人に使ったのは、これが初めて。使った事があるのは、自分と、
数年前に死んだ母にだけだった。
早くしなきゃと思っても、どうしていいかわからない。だが、少年
の左手を見た時、微かに裂傷があり、そこから血が出ているのを見
つけた。
ロロはローブの中から小刀を取り出すと、それで自分の手のひらを
切り裂いた。
﹁⋮⋮⋮ッ痛!﹂
流れる血の中には、赤に混じって、ほんの少しだけ瞳の色が入って
いる。魔女である証だった。
142
自分の血を、少年の左手に重ねる。ぴくぴくと筋肉が痙攣し、左手
の傷口が塞がって行く。
︱︱︱量が⋮⋮足りなかったんだ⋮⋮⋮⋮︱︱︱
それほどまで、この少年は憔悴していた。ほんのわずかな自分の魔
法では救えない。
︱︱︱ほんの少しの唾液や血だけでも、左手の傷くらいなら大丈夫。
でも、ここまでのものを直すとしたら⋮⋮⋮︱︱︱
自分のしようとしている事の恐ろしさに、ロロは身震いした。それ
でも、出来ないことでは無かった。
先ほど自分で切った手のひらは、もう自分の血のおかげで塞がって
いる。
︱︱︱ここまで自分がする理由はなんだ?この少年は何なのだろう
?︱︱︱
呼吸が乱れていった。怖い、怖い、と自分の声が頭に響いて鳴り止
まない。
今、ここについてから何秒が経過し、少年の命はあと何秒もつのか。
何もわからなかった。
143
勇気が欲しい。そう思って触れた少年の右手が、ロロの迷いを振り
払った。
ロロは小刀を振りかぶる。そして⋮⋮⋮⋮
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−︱
﹁きゃああああああああああ!!!!!﹂
悲鳴を上げて、ロロは椅子から転げ落ちた。腰を打った痛みで、よ
うやく目が醒める。
いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。腰を擦っていた手を見
ると、大きな傷跡があった。
﹁我ながらよくあそこまでしたものだ⋮⋮﹂
少年に大量の血を飲ませようと、自分の手のひらをグリグリ抉った
144
痛い記憶が蘇ってくる。
背筋がぞっとするような、おぞましい体験だった。
結局、自分も半ば気を失いかけているところを、キャラバンのみん
なが助けてくれたのだ。
帰る前に意識を取り戻したロロは、酷く怒られはしたものの、遭難
者の二人がかばってくれたおかげで、罰は免れた。その代わり、三
人全員の居候を頼まれたわけだが。
﹁ここに四人って⋮⋮﹂
広げきったキャラバンのテントよりも、間違いなく小さく、最低限
の物しかない。
自分一人でさえ窮屈に感じるのに、そんな所に更に三人も入ったら、
自分の寝る場所がなくなってしまう。
だが、それも一つは自分が招いたことだと思い、仕方ないかと、ロ
ロは立ち上がって少年を見た。見ようとした。
﹁⋮⋮⋮⋮あれ?﹂
ベッドで寝ていた筈の少年がどこにもいない。ベッドの下にも、ト
イレの中にも、トイレの裏にも、水道の下の物置にも、シーツ入れ
の中にも、扉の裏にも、屋根の裏にも、もう一度ベッドの上にも、
145
下にも。
家中のどこにもいない。
︱︱︱落ち着け。落ち着けわたし⋮⋮。まずはどうしよう⋮⋮⋮と
りあえず、お手洗いに行こう︱︱︱
ロロはお手洗いを済ませた。
︱︱︱それから、どうしよう⋮⋮⋮そうだ!薬飲まなきゃ⋮⋮⋮︱
︱︱
水道の下の物置から、ロロは瓶を取り出すと、その中に入ってる薄
紫色の薬を飲んだ。
魔法を使った後は、必ず飲むようにしていたものだった。
︱︱︱危ない危ない。ごたごたし過ぎて忘れるところだった。コレ
忘れるとよくないのよね︱︱︱
そうじゃない!とロロは首を振った。
﹁違うじゃない!!!そうじゃなくてどうしていないの!?﹂
146
大声を出してしまい、ハッと口を抑える。先月あたりから隣に住ん
でる怖い人達に、一度﹃うるさい﹄と怒られたことがあったからだ。
︱︱︱まさか血の量が多すぎて、完治しちゃったとか?︱︱︱
だが、それもあり得ないと首を振る。おそらく少年は内臓まで酷く
損傷していた筈だった。
かろうじて一命を取り留め、絶対安静にしていなければならないよ
うな状況。
︱︱︱仮に⋮⋮⋮仮によ?私の頑張りが功を奏して⋮⋮彼が治って
いたとしても⋮⋮何も言わずに出て言っちゃうのは酷いよ⋮⋮︱︱︱
そう思うと、自分が惨めに思えてきた。自分が少年に期待していた
だけで、彼の方は何も思っていないなんていう当たり前の事に、今
気づいてしまった。
泣き出したくなる気持ちをぐっと堪える。ほんの少しだけ、溢れて
出てしまったけれども、すぐに袖で無かったことにした。
︱︱︱まだ、動いて大丈夫な筈がない。探さなきゃ⋮⋮⋮︱︱︱
147
もう陽は既に没していた。月明かりと、街灯が道を照らしている。
仮に王都の外に出ていたら危ない時間だった。そうでなくとも王都
の中だって、貧民街の奥に行けば何をされるかわからない。ロロは
急いで家を出た。
街の中を走りながら、それらしい人影を探す。あの珍しい服を着て
いるのだから、誰か観ているかもしれないと、すれ違った何人かに
聞いてみたりもしたが、答えはノーだった。
更に二時間は探し回った頃、アーケードの外れでラリーに会った。
バーで軽く飲んでいたらしく、顔がほんのりと赤くなっている。今
日は他のみんなとは飲まず、一人で飲んでいたとの事だった。
﹁また女遊び?﹂
﹁あのなぁ⋮⋮⋮⋮⋮まぁそうだけどさ。それよりお前の方こそど
うした?珍しいなこんな時間に。一人が怖くて寝れないんなら、俺
が一緒に寝てやろうか?﹂
﹁やだ。変な事しそう﹂
﹁ばーか。ガキなんか興味ねーよ﹂
148
ムスッと膨れたロロの頭をラリーがぽんぽんと叩いた。その手を払
いのけ、ラリーに事情を話してみる。
﹁あぁ!俺さっき会ったぜ?なんか暗そうにしてたからさ、一緒に
飲まねーかって誘ったんだけどな。フラれちまった。まぁあっちは
俺の事なんざ覚えてないだろうからな。仕方ない訳だが﹂
﹁どこに向かったとかわかる!?﹂
ラリーが両手上げて、肩を竦めてみせる。ロロはため息をついた。
それでも少なくとも彼が、数時間前までここにいた事がわかっただ
けでも収穫とした。
﹁ありがと。それじゃあ私はもうちょっと探してみる。またね!﹂
踵を返して、アーケードの出口に向かう。
﹁あ、おい!!気をつけろよ!!もうガキが出歩いていい時間じゃ
ねぇんだ!!﹂
﹁わかってるよ!!あ、そうだ⋮⋮⋮﹂
149
聞いてみたい事があったのを思い出し、ロロは立ち止まった。
﹁ねぇ、﹃模擬剣野郎﹄って何?﹂
あまりに突拍子もなかったからか、ラリーがケラケラと笑った。目
がいやらしい。
﹁あぁ、グレイグの事か。くっ⋮⋮ふふっ⋮⋮まぁあれだ。こんど
あいつに会ったら言ってやれ。そんときは﹃鞘付き﹄なんてつけて
やればもっと喜ぶぞ?﹂
﹁だーかーら!それは何なの!?﹂
﹁﹃実戦経験なし﹄ってこったよ。その内わかんだろ﹂
そう言うとラリーは、また新しいバーを探しに行ったようだった。
ロロは釈然としないながらも、再び少年を探し始めた。まだこの辺
りにいるかもしれない、と。
しかし、いくら探しても少年は見つからない。
もはや同じ地区にはいないのかもしれないと、バムやキャラバン仲
間の多く住む南地区にまで足をのばす。そろそろ夜明けが近いのか、
150
空がゆっくりと明るくなっていた。
もしかしたら、そのくらいも無い程、一縷の望みをかけ、ロロは王
都を下って行った。
門兵はいるが、門は開かれている。この国は、いつでも、誰にでも、
開かれていた。
南の出口から出たのは初めてだった。そもそも門の外に出たのは、
今回のキャラバンが初めてだったが。
ゆっくりと東側に向かって歩く。西側まで行って帰ってくる体力は
残っていないからだ。
太陽が顔を出し始めると、遥か向こうに砂漠の姿が現れた。
そしてもう一つ、少年の姿も。
少年の声が聴こえる。何を言っているかはわからない。誰かと話し
ている様にも聴こえた。
少なくとも、ロロには誰もいないように見えた。
ロロが話しかけようと、少年に近づく。
151
少年はそれに気づいたのか、振り返ってロロをじっと見つめた。
たくさんの言葉を用意してきた筈なのに、いざ彼を前にして何から
言えばいいのかわからない。彼の方はロロが何かを言い出すのを待
っているかのように、微動だにしていなかった。あまりに気恥ずか
しい視線から逃げようと俯く。
︱︱︱どうしよう!!何から言えば良い!?私が助けた事?右腕の
事聞く?いやいや、今までどこ行ってたの?が一番先でしょ?すっ
ごく心配したんだからって。でもそれじゃあ恩着せがましいのかな
?えぇっと⋮⋮こういう時は⋮⋮えーっと⋮⋮︱︱︱
﹁あ、あなたは⋮⋮⋮⋮あなたは模擬剣野郎ですか!?﹂
ぽかんとする少年に対し、自分の顔がみるみる赤くなっていくのが
わかる。
ロロが慌てて訂正を入れる前に、少年が答えた。
﹁⋮⋮⋮たぶん。違うと思う。君は?﹂
︱︱︱き、君は!!?君はって⋮⋮⋮私!?︱︱︱
152
﹁わ、わたしも⋮⋮⋮違うと⋮⋮思う﹂
これで正解なのかどうかは、わからない。そもそも使い方はこれで
あってるのかと、ロロは疑問に思った。自分が一体、今何を聞いて、
何を言われて、何を返したのかサッパリだった。
互いの貞操を聞いたとは知らず、もう無いと答えた事も知らず、そ
れでも少年は満足そうに言った。
﹁そっか⋮⋮⋮それは良かった。君はそうには見えないから﹂
ロロも取りあえず答える。
﹁わ、わたしも⋮⋮﹂
会話の内容さえあやふやなのに、ようやく話せた事で、気持ちが高
揚している。
目の前の少年が次は何を喋るのだろうと、耳を傾けた。
﹁それじゃあ君には僕は何に見えるの?﹂
﹁えっ?⋮⋮⋮⋮に、人間?﹂
153
本当に、言いたかったことは、言えない。
言ってしまえば、拒絶されるのが怖くなる。それでも、少年の答え
は予想していた全てと違った。
﹁そっか。でも、僕はまだこんなに機械なのに、それでも人間だっ
て言えるのだろうか?僕にはわからないんだ⋮⋮何にも﹂
その言葉の意味も、真意もわからなかったが、ロロは言った。
﹁わたしも﹂
154
Report10
:
やっと出てきた主人公
Iolite︵前書き︶
155
Report10
:
Iolite
﹁あ、あなたは⋮⋮⋮⋮あなたは模擬剣野郎ですか!?﹂
その言葉の意味も、真意もわからなかったが、イオンは言った。
﹁⋮⋮⋮たぶん。違うと思う﹂
これで正解なのかどうかは、わからない。陽の光に照らされ、少女
の頬が紅潮していくのを見て、イオンは疑問に思った。
﹁君は?﹂
イオンがそう尋ねると、少女はパタパタと手を振りながら、慌てた
ように答えた。
﹁わ、わたしも⋮⋮⋮違うと⋮⋮思う﹂
ますます少女の問いの意味がわからなくなる。これは自分のアーカ
イブには無いローカルな挨拶か何かなのだろうか、とさえ考えた。
しかし、それにしても、やはりどうもおかしい。
156
﹁そっか⋮⋮⋮それは良かった。君はそうには見えないから﹂
﹁わ、わたしも⋮⋮﹂
自分が一体、今何を聞いて、何を言われて、何を返したのかサッパ
リだった。
それでも、会話の内容さえあやふやなのに、どこか気持ちが高揚し
ている。
ふと、イオンは先ほどの彼との会話を思い出し、彼女に尋ねてみる
事にした。
﹁それじゃあ君には僕は何に見えるの?﹂
少女は﹁えっ?﹂っと困惑したように顔を伏せると、絞り出すよう
な声で答えた。
﹁に、人間?﹂
彼女の回答に﹁そっか﹂とだけ答える。イオンは期待を裏切られた
ような気がした。彼と同じ答えだ。自分の一方的な期待であったと、
ほんの少しだけ惨めな気持ちになる。
157
︱︱︱元々形が似ていただけのものが、また少し似たようになった
だけだ︱︱︱
そう思いたいのに、誰もそれを許してくれない。
それが怖くて、祈るようにイオンは言った。
﹁でも、僕はまだこんなに機械なのに、それでも人間だって言える
のだろうか?﹂
それでも本当に言いたい事は、上手く言えない。
自分はどうありたいのかを、自分に問えば、それは霧に包まれた森
のように、終わりのない思考の渦へと誘った。
﹁僕にはわからないんだ⋮⋮何にも﹂
吐き出した言葉のせいで、目を伏せたくなる。泣き出しそうになる
のを堪えるのに、上を向けばいいのか下を向けばいいのかさえ、イ
オンにはわからない。
勇気が欲しい。そう思って見つめた少女の瞳が、イオンにただ前を
向かせた。
158
﹁わたしも﹂
少女の答えは予想していた全てと違った。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−
人工知能が命令を出した。
﹁スリープモード解除。確認。システムオールグリーン。起動﹂
脳内で聞こえた命令とともに、イオンは深い眠りから醒めた。
薄目を開き、今自分がどこにいるかを確認する。砂漠の中ではない
事は、部屋の天井がうっすらと見えた事で判断出来た。
体を起こそうとすると、酷い激痛が体全体にはしる。システムは全
然オールグリーンでは無かったらしい。
イオンは迷わず感覚器官を一部遮断した。
もう一度、体を強引に起こそうとし、今度は違和感に気づく。右腕
がやたらと重い。
イオンはその原因を見つけ、ギョッとした。見知らぬ少女が、自分
の腕を枕に眠っていたからだ。
159
彼女の淡い金色の髪が、ベッドのシーツに無造作に広がっている。
左手で彼女の肩を揺すってみても、聞き取れないような寝言を言う
ばかりで、起きてくれる気配はなかった。どうやら相当深い眠りの
中にいるらしい。
仕方ないので、彼女に気を使いながら、ゆっくりと右腕を引っこ抜
いた。
服にたっぷりと付けられてしまった涎を、彼女の柔らかい髪につけ
ないようにそっと。
ようやく体が解放されると、イオンは立ち上がって、部屋中を見渡
した。
必要最低限のものしかなく、殺伐としている。小さな倉庫のようで
もあった。
未だ眠り続ける少女をもう一度見る。ここはこの少女の家なのだろ
うか。
だとするならば、自分はこの少女に助けられたのかもしれない。そ
う思いはしたが、それはどうにもおかしな事のようにも思えた。自
分が最後にとった手段はLH−45に向け発信した救難信号だった
からだ。それも指向性をもたせなかったため、たまたま近くにLH
−45がいたなら、それがようやく見つけられる程度の精度の物で
あった筈だと。
160
そう考えると、やはりこの少女に聞いてみるのが一番早い。だが、
あまりに気持ちよさそうに寝ている彼女を、無理やり起こすのは気
が進まなかった。
金色の髪に、黒いローブ。よく見ると、左手に大きな傷跡がある。
イオンは自分の左手を見つめ、砂漠での出来事を思い出した。
左手の傷から血が出た瞬間、思考のコントロールが一切効かなくな
り、暴走したように防衛本能が働いたのだ。今なら体に起こった現
象を冷静に感じ取ることが出来た。人間の体に、脳と右腕だけが未
だかろうじて機械の体裁を保っている。そんな奇妙な現状を。
しばらく、立ち呆けていたイオンであったが、ここでこうしていて
も始まらない、と外に出てみる事に決めた。まずは情報を集められ
るだけ集めたい。
彼女と話すのは、帰って来てからでもいい。その頃にはきっと起き
ているだろうと思った。
歩くたびに緩くなった石がカタカタと揺れる石畳の道路に、ぎっし
りと隙間なく敷き詰められた民家が並ぶ。非常に緩やかな勾配の先
には、大きな城のような場所も見える。自分が知っている国の情報
の中に、この場所は存在しなかった。
大通りに出ると、人の数が一気に増えた。裸足に、支給品の服で外
に出たためか、道行く人々は物珍しそうにイオンを見る。
しかしイオンにしても、彼らは中々に興味深い。中世のような服を
着ているモノもあれば、馬車も通っているし、しかしそれにミスマ
161
ッチな車もチラホラと見かける。まるで文明の過渡期にでもあるよ
うだった。
時刻を知るすべはなかったが、真っ赤な空を見ると、もうすぐ日没
だということがわかる。
あまり遠出をするべきじゃないと、この近辺の探索に努める事にし
た。
だが、イオンの予想を大きく外れ、道は複雑を極めていた。
GPSが無いせいで、これほど自分の方向感覚が消えているとは思
いもしなかったのである。
どうした物かと迷っていると、後ろから大きな音が聞こえた。それ
は止まることなく真っ直ぐこちらに突っ込んでくる。
﹁よ、避けてぇぇえええええええ!!!!!﹂
なんだ?と振り返ると、それはすぐ目の前に迫っていた。
急いで横に飛び退き、咄嗟の判断で声の主の腕を体ごと引っ張った。
勢いをそのままに、鈍い音をたててバイクが壁に衝突する。乗って
いたのは子供だった。男の子か、女の子かよくわからない中性的な
顔立ちをしている。
﹁あ、ありがと⋮⋮⋮助かった⋮⋮⋮﹂
162
﹁どういたしまして﹂と言うと、イオンはその子の腕を離した。そ
れからバイクの方に向かい、倒れたソレを起き上がらせる。随分と
ガタのきている代物だった。
﹁⋮⋮⋮⋮これ、君の?﹂
そうイオンが聞くと、その子供は気まずそうに頬を掻いた。
﹁あ、いや⋮⋮⋮⋮知り合いがさ、準備しておいてくれたのかと思
ったんだ。でも、流石にこんなのは準備しないと思うから、俺が間
違えたのかもしれない。ブレーキも壊れてたし﹂
イオンはブレーキを握ってみた。キコキコと音が鳴り、何の引っか
かりも感じない。確かに壊れている様だった。
﹁どうしよう。持ち主の人きっと困ってるよね?﹂
子どもが困ったようにこちらを見る。だが、もともとこれほどボロ
ボロならば、持ち主が捨てたのではないかとも思えた。首を傾げな
がら、イオンは答えた。
163
﹁心配なら、返しに行けばいいんじゃないかな?﹂
盗む気が無かったのなら、返しに行けばいい。だが、それには子ど
もは首を横に振った。
その瞳からは強い拒絶を感じさせる。
﹁それは、出来ない。返せないって意味じゃなくて、あった場所に
戻せない﹂
﹁どういう事?﹂
﹁それは言えない﹂
二人の間に沈黙が流れる。やがて子どもが何か思いついたように、
胸の前で手のひらをパチンと合わせた。
﹁あっ!それじゃあお兄さんに任せるよ!﹂
﹁えっ!?﹂
突然の事に言葉が出ない。
164
﹁それさ、城の裏手近くで見つけたんだ。でも、そこまで持ってく
か、警備兵団に預けるか、或いはここに捨てておくかはお兄さんに
任せる。捨てては欲しくないんだけど⋮⋮ね﹂
子どもは小首を傾げながら﹁どうかな?﹂などと付け加えた。
﹁え、ちょっと待って!こんなの押し付けられても困る!﹂
ブレーキは壊れ、タイヤは曲がり、ヘッドライトが割れているバイ
ク。
仮にこんなのを持ち主に返したとしても、逆に怒られてしまいそう
なほど損傷している。
﹁お願い!!﹂
胸の前で合わせた手をそのまま顔の前に持っていき、懇願のポーズ
をとる。
イオンは溜め息をつき、それでも首を横に振った。
﹁ごめん。僕はここに詳しくないんだ。今も道に迷ってる。だから、
その⋮⋮そういうのは、僕じゃない方が良いと思う﹂
165
その言葉に子どもが嬉々として瞳を輝かせた。
﹁それじゃあさ、ここから出してあげる。それならお互いにメリッ
トはあるでしょ?﹂
イオンの思考回路が必死に損得勘定している間に、もうとっくに決
定事項としていた子どもは﹁ついてきて﹂と言って歩き出す。イオ
ンは渋々バイクを押しながら、その三メートル後ろを歩いた。
﹁ねぇ、お兄さんはここに詳しくないって言ったけど、来るのは初
めてなの?﹂
前を歩く子どもが、視線だけこちらにやって聞いてきた。
﹁うん。たぶん、今日着いたばかり﹂
﹁⋮⋮⋮⋮?たぶん?⋮⋮あはは、変なの﹂
子どもには笑われたが、イオンとしては笑い事では無い。自分とし
ては、回収車に運ばれて新世界に埋められてから、まだ一日も経っ
てない。それなのにこうして活動を再開しているのだから。
166
﹁そっか⋮⋮⋮⋮でも、せっかく来たとこ悪いけど、あまり長い事
この国にはいない方がいいかも﹂
﹁そうなの?﹂
周囲の街並みを見ても、生活水準における文明レベルはそれほど低
くない様に思える。電気の普及状況はかなり差があるようだったが、
それはそのまま貧富の差だろう。そういったものは徐々に全体に流
れていくはずだ。
﹁あ、うん⋮⋮まぁね。ごめん気にしないで﹂
そう言ったきり、子どもは口をつぐんだ。あまり踏み込むべきじゃ
ないかも知れないと、イオンも黙ってやり過ごすことにした。子ど
もに導かれるまま、幅の狭い道をただ歩いて行く。
﹁この辺でいいかな?﹂
路地を抜けた先で、急に開けた所に出た。子どもが立ち止まったの
は、大きなアーケードの入り口だった。人酔いしそうな程の沢山の
人々が、その中で蠢いている。誰もかれもが忙しなく動き回ってい
た。
167
﹁じゃあ、俺はここで。ごめんねお兄さん﹂
そう言って軽く手を振ると、子どもは今来た道を戻って行ってしま
った。イオンも軽く手を振り、子どもに別れを告げた。
結局、イオンはその子が男か女かの区別はつかなかったが、何とな
く女の子のような気がした。
しかし、姿はとうに見えなくなっていた。イオンは振り返り、アー
ケードの中に入った。
ここでもイオンの格好は目立った。先ほどよりもバイクがある分、
より一層だろう。
薄汚れた男が、小汚いバイクを押して進むと、そこだけみんな道を
あけてくれた。
﹁あれ?⋮⋮あんた⋮⋮もう動けんの?﹂
アーケードの外れで、随分と陽気な男がイオンに話しかけた。
男は片手に酒と思えるような瓶を持ち、もう一方で女性を抱えてい
る。当てもなく彷徨っていたイオンを手招きした。
﹁僕の事知ってるの?﹂
﹁知ってるも何も、今朝あんたが倒れてたところを助けたのは俺た
ちだ。なんだ?ロロから何も聞いてないのか?﹂
168
﹁ロロ?﹂
﹁女の子だよ。あんたロロの家に連れてかれたんだろ?﹂
あぁ、とイオンは先ほどの少女を思い出した。あの少女がロロなの
だろうと。
そしてこの男たちが、どうやら自分を助けてくれたらしい事がわか
った。
﹁あぁ?⋮⋮その調子じゃ何も聞いてないのか?まぁいいや、あん
たの仲間には世話になったし、一杯くらい奢らせてくれよ﹂
﹃仲間﹄という言葉に首を傾げる。もしかしたら、やはり自分の他
にLH−45がいたのかもしれない。自分たちの事を﹃仲間﹄とい
うとしたら、それくらいしか思いつかなかった。
情報を得ようと、イオンは首を縦に振った。
﹁よし来た!じゃあ何だ?それは置いとけよ。まさかそれ持って入
る訳じゃないだろ?﹂
確かにこのバイクを持って入れる店は修理屋くらいだと、イオンは
苦笑いし、出口の方まで押していくと、そこに停めておいた。
169
男に急かされ、商店街の一角にある小さな酒場に入って行く。店内
は割と落ち着いた雰囲気で、緩やかな音楽が流されている。レコー
ドを使っている様だった。男が連れていた女性はここの従業員だっ
たらしく、男から離れるとカウンターに立って注文を受け付けてい
た。
﹁いつもの。今日は二つ頼むよ﹂
男がそう言うと、女がグラスに酒を注ぎ、目の前にそれを置いた。
アルコールの匂いに混じって、仄かに花か果実の甘酸っぱい匂いが
する。男はそれを軽く一口で飲み干した。
﹁軽いな。やっぱもうちょい強いの頼む。あれ、あんたは飲まねぇ
の?﹂
﹁え、あぁ⋮⋮その前に聴きたい事があるんだけど、いいですか?﹂
手のひらを差し出し、男は先を促した。
﹁えっと⋮⋮﹃仲間﹄の事なんですけど⋮⋮どうして仲間だってわ
かったんですか?﹂
170
あまりに曖昧な問いだったせいか、男はその問いの意味をしばらく
考えている様だったが、言葉のままに応えてくれた。
﹁そりゃ⋮⋮まぁ⋮⋮俺を助けてくれた二人が﹃仲間﹄だって言っ
てたし、あんたと同じ服を着てたからなぁ⋮⋮俺だけじゃなく、み
んなそう思ってたぜ?﹂
同じ服、とイオンは呟いた。確定的だった。自分と同じように他の
LH−45もここにいる。そして、それならと全てに合点がいった
かのように思えた。
﹁じゃあ⋮⋮僕を助けてくれたのは、その二人?﹂
しかし、男は首を縦に振らなかった。
﹁いや、真っ先にあんたを助けに行ったのはロロだ。俺は直ぐに気
づいたからな。それだけは確かだ﹂
イオンは自分の聴覚神経を最大限に疑った。呆気にとられ、目の焦
点が合わなくなったところを、男が﹁おーい﹂とイオンの目の前で
手をパタパタとさせる。
LH−45の仲間より先に、自分を助けに来た少女の存在が不思議
でならなかった。
171
﹁あんた大丈夫か?まぁ飲みなって﹂
ぼうっとしていたのが、まずかった。本来ならば、飲まずに帰って
しまう筈だったのに、男に促されるまま、イオンはアルコールを口
に入れた。
視界がぐらつく。地面が無くなったような感覚だった。イオンは慌
てて席を立つと、店外へと駆け出た。
﹁え!?あぁおい!!?何?やっぱ飲まねぇの!!?﹂
男が後ろで叫んでいたが、そんな事を気にする余裕もない。気持ち
悪さで、今にも吐き出しそうだった。どうやら酒は強い方に替えら
れていたらしい。そうでなくとも、イオンは忘れていた。今はもう
昔の便利な体ではなく、不都合の多い人間の体になっていた事。そ
してその人間の体でさえ、痛覚を切る事でようやく動かせる程度の
状況であったことを。
途中で思い出したように立ち止まると、バイクの元に向かった。だ
が、バイクの姿が無い。
そこで処理能力が限界に達したのか、イオンは立ち止まり、空っぽ
172
の胃から水分だけを吐き出した。
体そのももの拒絶反応は、脳で止めようと思っても出来ることでは
無い。
壁に寄り掛かって、気持ち悪さを抑えようとしていると、店から女
性が慌てたように出てきた。水を一杯持ってきてくれたらしい。イ
オンはそれを一気に飲み干した。
﹁ごめんね。本当は最初に出した方は薄めてあったの。でも、あの
人ったら自分が頼んだ方をあなたに飲ませたのね。まだ気持ち悪い
でしょ?店に戻って休む?﹂
軽く手を上げてお礼をする。しかし、女性の提案は断った。
それよりもイオンはあの少女のところに早く戻りたかった。
﹁そう⋮⋮あまり無理しないでね﹂
帰って行く女性にもう一度お礼を言う。
それから少しだけ気分が良くなっているのを確認すると、イオンは
歩き出した。
そして、また、迷った。
173
ただでさえ視界がぐらつくのに、通る道はどれもみな同じように狭
く、細く、入り組んでいる。
近道しようと路地に入り込んだのが運のつきだった。もはや助けて
くれる子どももいない。
時々座って休んでは、また歩き出す。そんな事を繰り返す内に時間
はどんどん過ぎていく。
︱︱︱出口は⋮⋮⋮出口はどこにある⋮⋮⋮早くここから出たい︱
︱︱
イオンのそんな願いが通じたのか、出口は現れた。それは王都の東
の門。本当の出口だった。遠くには、微かに砂漠が見える。きっと
自分がいたところだと、その光景に誘われるまにまに、イオンは東
の門から外に出た。
深い深い夜の闇も、もうすぐ明ける時なのか、空が白んできている
のがわかった。
砂漠から降りてきた風が、イオンの髪を靡かせる。あの時と違って
それはとても冷たく、でもやはり酷く乾いていた。
砂漠の方に一歩また一歩と進んでいくと、砂塵の対岸、嵐の中に揺
蕩う何か人のような者がそこにいた。
174
イオンは彼が言った気がした﹁お前は何だ?﹂と。聞こえるはずも
ないのに、そう言った気がした。
誰かもわからない彼に、イオンは答えた。﹁わからないけど、人間
じゃない﹂と。
彼は怒ってる様にも、悲しんでいる様にも見えた。嵐の向こうで一
体何をしているのだろうと、イオンは彼に向かって一歩踏み出した。
だが、それを制するように彼は言った。
﹁人間でないなら、お前は何だ?﹂と。
人間じゃないなら、自分は何だ。イオンはアンドロイドでありたか
った。だが、それを証明できるのは、もうわずかばかり。人工知能
と右腕だけだ。かといって、自分が人間である証明を、イオンはし
ようとも思えなかった。欲しいのは、﹃人間ではない﹄という証明。
﹁それなら、君には僕が一体何に見えるの?﹂
彼に聞こえる様に、イオンは力の限りに叫び、彼は淡々と返した。
175
﹁人間だ﹂と。
彼の姿が朝日の中で、少しづつ見えなくなっていく。砂漠の嵐の中
にも光は届くのだろうか、とイオンは思った。彼は最後に、ただイ
オンに道を指し示すと、その姿を消した。
彼の示した道を追う。
黒いローブに、金色の髪をした少女がそこにいた。
﹃どうして?﹄や、﹃なぜ?﹄よりも前に、イオンはようやく彼女
に会えたことが嬉しかった。
何か言わなきゃ。そう思うのに上手く言葉が出てこない。いざ彼女
を前にして、何から言えばいいのかわからなかった。自分の事、彼
女の事、この世界の事、聞いてみたい事、話してみたい事が沢山あ
った筈なのに、何一つ自分の声になって出てくれなかった。
そして先に意を決したのは、彼女の方だった。
﹁あ、あなたは⋮⋮⋮⋮あなたは模擬剣野郎ですか!?﹂
176
その言葉の意味も、真意もわからなかったが、イオンは答えた。
﹁⋮⋮⋮たぶん。違うと思う﹂
これで正解なのかどうかは、わからない。陽の光に照らされ、少女
の頬が紅潮していくのを見て、イオンは疑問に思った。
﹁君は?﹂
イオンがそう尋ねると、少女はパタパタと手を振りながら、慌てた
ように答えた。
﹁わ、わたしも⋮⋮⋮違うと⋮⋮思う﹂
ますます少女の問いの意味がわからなくなる。これは自分のアーカ
イブには無いローカルな挨拶か何かなのだろうか、とさえ考えた。
しかし、それにしても、やはりどうもおかしい。
﹁そっか⋮⋮⋮それは良かった。君はそうには見えないから﹂
﹁わ、わたしも⋮⋮﹂
177
自分が一体、今何を聞いて、何を言われて、何を返したのかサッパ
リだった。
それでも、会話の内容さえあやふやなのに、どこか気持ちが高揚し
ている。
ふと、イオンは先ほどの彼との会話を思い出し、彼女に尋ねてみる
事にした。
﹁それじゃあ君には僕は何に見えるの?﹂
少女は﹁えっ?﹂っと困惑したように顔を伏せると、絞り出すよう
な声で答えた。
﹁に、人間?﹂
彼女の回答に﹁そっか﹂とだけ答える。イオンは期待を裏切られた
ような気がした。彼と同じ答えだ。自分の一方的な期待ではあった
と、ほんの少しだけ惨めな気持ちになる。
︱︱︱元々形が似ていただけのものが、また少し似たようになった
だけだ︱︱︱
178
そう思いたいのに、誰もそれを許してくれない。
それが怖くて、祈るようにイオンは言った。
﹁でも、僕はまだこんなに機械なのに、それでも人間だって言える
のだろうか?﹂
それでも本当に言いたい事は、上手く言えない。
自分はどうありたいのかを、自分に問えば、それは霧に包まれた森
のように、終わりのない思考の渦へと誘った。
﹁僕にはわからないんだ⋮⋮何にも﹂
吐き出した言葉のせいで、目を伏せたくなる。泣き出しそうになる
のを堪えるのに、上を向けばいいのか下を向けばいいのかさえ、イ
オンにはわからない。
勇気が欲しい。そう思って見つめた少女の瞳が、イオンにただ前を
向かせた。
﹁わたしも﹂
少女の答えは予想していた全てと違った。
179
﹁わたしも⋮⋮⋮自分が人間だって言えるか⋮⋮わからないんだ﹂
彼女は自嘲したように笑うと、俯きながら続けた。
﹁わたしね、自分がみんなと少し違う事くらいわかってるんだ⋮⋮
⋮⋮みんなにとって気味が悪いって事も。それにね⋮⋮それに瞳の
色も、皆みたいに綺麗な碧や黒い色をしてないの。それがみんなを
怖がらせてる事も⋮⋮なんとなくわかってるんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮瞳の色?﹂
俯いたまま彼女が頷く。
彼女の瞳の何が、人間と違うのかわからない。
それでも、イオンは嫌だと思った。
それは多分、彼女の言った事が、自分にはどうでもよかったからだ。
自分の脳が必死に演算したのか、或いは人間の部分がそう叫んだの
かも、どうでもいい。
180
嫌だと思った。だから言うんだ。
﹁僕は君が好きだ﹂
彼女が顔を上げた。潤んだ瞳でじっと見られ、自分の頬が紅潮して
いくのがわかる。
﹁あ、えっ⋮と。僕は君の⋮⋮ひ、瞳の色が好き⋮⋮だよ﹂
言い直しが効いたかどうかはわからない。
﹁で、でも⋮⋮紫だよ?みんな魔に堕ちた色だって言うし⋮⋮﹂
それも、やっぱりイオンには違う気がした。だから、どうでも良か
った。
﹁淡い紫と、澄んだ青色がかかって⋮⋮僕にはそれが夜明けの色に
見える﹂
イオンは彼女の瞳の中で、夜が明け、世界が始まるのを見た気がし
181
た。全部言い終えるころには、言い間違いじゃなくていいと、イオ
ンは思っていた。
﹁わ、わたしも⋮⋮⋮あなたのみ、右腕が⋮⋮好き⋮⋮です﹂
小さい声で彼女はそう言ってくれた。なんだか少し笑えてしまった。
ずっと一緒だった自分の右腕が、誰かに好きと言ってもらえるのは、
やはり嬉しかった。
イオンは自分で出した問いに、今度は自分で答えた。
﹁僕は自分を人間といえるかどうかわからないけど⋮⋮たぶん⋮⋮﹂
それでいいから、そう言った。
﹁君と一緒だ﹂
182
Report11
:
start
これから五話くらいイオンロロ回です
︵1︶︵前書き︶
183
Report11
:
start
︵1︶
二、四、六⋮⋮⋮八。八本、それにしてはおかしい。これだけ振り
回しているというのに、解析した触手の重さに対して重心のブレが
少なすぎる。
背後からの気配を察し、横に飛び退く。九本目。
どうやら一本は地中に隠していたらしい。それだけ分かれば十分だ
った。
姿勢を低く、一気に距離を詰める。相手の攻撃はこちらには当たら
ない。全て紙一重で躱していた。八本も攻撃用の触手があれば、自
ずとその攻撃パターンは限られてくる。数が多いからこそ、自分の
腕の動きを把握するのが難しくなるからだ。
懐に入り込み、胴体に切り込む。だが、浅かった。借りた短刀では
コレ以上深くは切り込めない。
一歩引いて、目の前の巨躯を見る。花からヒトが咲いたような化け
物。ソレは狂ったように吠え叫び、再びその得物を振り回し始めた。
怒りのせいか多少パターンが変わっている。どうやら周囲の物など
お構いなしに、全てを薙ぎ払う気でいるらしい。
﹁仕方ない⋮⋮か﹂
184
触手が頬を掠めるギリギリのところを見切り、回転を加えながら、
鋭い一閃を放ち、斬り落とす。
化け物は空気が振動するほどの悲鳴あげた。それに耐えながら、一
瞬の内に観測をすませる。ほんの少しの筋肉の強張り、生命の危機
を感じたからであろう。だが、その本能が仇になった。
もう一度相手が隙を見せている内に近づき、その胴体を蹴り上げる
と、遥か上空へと跳びあがる。
中空で一回転しながらそれを確認する。人間でいうところの背骨の
ような物が浮き出ていた。おそらく庇っていたのはここだろう。
出来るだけ痛くない様にと、一回でソレを断ち切った。
大きな地響きと共に、化け物の断末魔が止まる。
振り返ると、目を疑うような光景が広がっていた。その化け物から
大量の液体が噴出されたかと思うと、シュルシュルと縮んでいった
のだ。食中植物の一種かと思っていたが、今の姿であればイカかタ
コのようにも見える。
185
血生臭い死骸となったソレを拾い上げると、イオンは言った。
﹁これ、食べられるかな?﹂
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−
ギガガガガッギュッルルルルギュッルルルルルゴフンゴフン!!
未だ見ぬお隣さんの朝は早い。イオンはいつもその奇怪な轟音で目
が醒めた。ごしごしと目を擦ることで、今日もまた右腕の動作確認
から一日を始める。
﹁あ、おはようイオン。ちょっと待ってね、今ご飯作ってるから﹂
そう言ったのは、イオンが今居候させてもらっている家の主人ロロ
だ。細くて長い金髪に黒いローブを着ていて、それから菫青色の瞳
をした少女。
無茶をしたせいで、その後一週間ほど動けなくなったイオンを、ロ
ロは甲斐甲斐しく介抱していた。
186
ベッドに横たわりながら、ロロに差し出されるがままに、ご飯を頬
張る。
食事という行動には、思いのほかすぐに慣れた。面倒なのはその他
の生理現象だったが、恥をかかない程度には知識があったため何と
かなっている。
本当のところ、イオンはもう軽く動ける程度にはなっていたのだが、
心配性のロロがそれを許していなかった。イオンに許されたのは最
低限の活動のみ、お手洗いだけだった。
ご飯をすべて食べ終えると、ロロは水道の下の物置から瓶を取り出
し、それをイオンに飲ませた。
﹃よく効く薬﹄らしいが、何の薬かはイオンは教えてもらっていな
い。
そして、それが終わるといつも通りどこかに出かけるために、髪を
整え始めた。
﹁よしっ!どう⋮⋮?変じゃない⋮⋮かな?﹂
変も何も髪を梳いて寝癖を少し直しただけじゃないかと思ったが、
イオンは首肯に止め言葉には出さないでおく。きっとロロにとって
は、これも重大事なのだろうと。
ロロはその答えに満足したように笑ってみせると、イオンに夕方に
は帰ってくる旨を伝え、家を飛び出して行ってしまった。
ここからが長い。イオンはロロが出かけに言った場所の見当がつい
ていた。何度か話してくれたキャラバンの仲間の所に仕事をしに行
187
っているのだと。ロロは今の内にたくさん勉強して、いつか自分で
商売をしながら色々な国を巡りたいらしい。
イオンはこの退屈な時間を、それでも何とかしようと、いつも通り
暇つぶしを始めた。
トントン、とノックを二回する。反応が無かったのでもう一度、今
度は強めに。
それでもやはり反応がない。今度は呼び掛けてみる事にした。
﹁居留守⋮⋮⋮ばれてますよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮う、ううううううるせぇ!!は、はなしかけるんじゃな
いですよこのヒモやろう!﹂
良かったやっぱりいたとイオンは安心した。このもう一人の隣人に
まで外出されていたら自分が情けなくて仕方なくなるところだった。
隣の家とは壁一枚隔ててつながっているため、こうすることで会話
をする事が出来た。
﹁今日も家から出ないんですか?﹂
﹁絶対、出ないよ。そっちは?﹂
188
﹁たぶん。何で出ないんですか?﹂
このお隣さんじゃない方のお隣さんはかなりの働き者らしいが、こ
の者は決して家の外に出ることはない。相当な出不精か、或いは何
か理由があるに違いないと思った。
﹁それは⋮⋮⋮う、腕と肩と首と腰と足を痛めてるからだよ﹂
隣人が苦しそうにそう言った。その声は悲痛の響きに満ち足りてい
る様にイオンは感じた。
ひょっとしたら自分とはまた状況が違うかもしれない、そう思いつ
つも伝えずにはいられない。
﹁へぇー!そうなんですか!?奇遇ですね!僕もなんです。それで
今、こうして療養してて⋮⋮﹂
﹁へ?へへっへっへ?⋮⋮⋮へ、へぇー!?そうですかー。で、で
も⋮⋮⋮あの、う、嘘ですよね?﹂
﹁嘘?いえ、本当ですよ。ちょっと無理をしてしまって。そちらは
?﹂
189
しばらくの沈黙の末、たった一言。
﹁あ⋮⋮寝ます﹂
こんな時間から眠るのかとイオンは不思議に思ったが、体を痛めて
いる者どうし気持ちはわかる。寝るという選択肢が非常に魅力的な
のだ。退屈な時間を一気にタイムリープ出来るのだから。
イオンはもう少し隣人と話したかったが、相手側の都合もある。今
日は仕方ないと諦める事にした。
しかしイオンは今しがた起きたばかりで、すっかり目が醒めてしま
っている。それに体はもう痛覚を切らなくても普通に動かせるのだ。
隣人さんには、もしかしたら嘘をついてしまった事になるかもしれ
ないが、自分にもできる事を探さなくてはなるまい。
ロロが治った時のために、準備してくれた服が箪笥に置いてある筈
だった。箪笥を開け、中を確認する。驚くほどの数の黒いローブと
﹃開封厳禁﹄と書かれた紙が貼ってある小箱が一つだけ。
開封厳禁と書かれた箱の中身はどうやら下着らしい。開けて確認し
てみたが、そこには自分の服は無かった。閉めて元の置いたあった
場所に戻す。
いくら探しても見つからないので、ロロのローブを一つ借りると、
イオンはそれを羽織って外に出た。
そして、また、迷った。
190
迷路のような街だと、冷静に分析する。同じような道が並んでいる
せいで、記憶回路に現実との齟齬が生じてしまうのだと。そもそも
﹃登れるかどうかわからないが、おそらく道になってる﹄とか﹃細
すぎて通れるかわからないが、人が通った形跡がある﹄とかそんな
道が多すぎるのだ。
しかし、イオンは閃いた。そして狭い路地に来た辺りで、三角跳び
の要領で壁を登って行く。無茶はしたが、それでようやく見晴らし
のいい屋上に出る事が出来た。遠くを見渡せば、同じように屋上の
上を走っている者もいる。これも道なのだろうと、イオンは屋上を
行くことにした。
﹁こんな事も出来ねぇのか!!?﹂
男の低く腹に響くような怒声がした。ひょっとしたらこの国中に届
いたのではないかと思えるほどの馬鹿でかい声。イオンは耳を塞ぎ
ながら、未だ続いてる怒鳴り声のする方へ向かった。
﹁⋮⋮⋮⋮ロロ?﹂
黒いローブを羽織った少女が見える。この街でロロ以外にそんな服
装をしている人物を観た事が無かった。ロロは何度も頭を下げて謝
191
っている。
何かあったのかもしれない。そう思い、駆け寄ろうとした瞬間だっ
た。
バチンッという空気の破裂音。乾いた音だった。
そして、それと同じくらいの大きさだろうか。イオンは自分の血管
が切れる音を聞いた気がした。
駆け寄る。ではなく、そこに向かって飛び降りる。四階程度の高さ
だろうが、全く問題なかった。
イオンが着地した瞬間。周りにいた人間に緊張が走る。ロロの制止
の声が聞こえる前に、イオンの蹴りは男の側頭部を打ち抜いていた。
状況を確認する。男は気絶。もう二人、近づいてくる。右は短刀を、
左のもう一人は素手。右の方は見覚えがあったが、忘れた。
左の方が若干早く、イオンのローブを掴む。だが、それを敢えて引
いて受けた。実体のないような動きに、男のバランスが崩れ、イオ
ンはそのまま体を半回転させると、男の下顎に掌底を入れた。
そのまま体の自由の利かなくなった男を盾にし、短刀の男の接近を
止める。
192
﹁イオン!!?ちょ、ちょっと待って!!何してるの!?﹂
ロロの方を振り返る。頬が赤く腫れ、殴られて倒れた時になったの
だろうが、ローブが破れてる。
短刀の男に、すぐに向き直った。まずはこっちを片付けなければな
らない。
イオンは素手の男を短刀の男に投げつけた。だが、それを短刀の男
は躱すと、言った。
﹁ま、参った。降参降参﹂
あと一歩で相手の顔面を掴み、二度と美味しい食事が食べられぬ様
に奥歯を砕くところだった。
相手がナイフを地面に捨て、両手を挙げたので、イオンは毒気を抜
かれた。
﹁あんたこの前の恩人の仲間じゃないか!?なんでこんな事するん
だ?﹂
短刀の男が聞いた。仲間というのは話に聞いた二人だろう。もっと
も初日以来行方をくらませてしまったらしいが。イオンは口に出し
ては答えず、ただロロの方を顎で指した。男もロロの方を見る。
193
﹁え⋮⋮わ、わたし!?﹂
﹁あー⋮⋮⋮なるほど。そりゃまぁ男女で暮らしてればなぁ⋮⋮﹂
男が何か察したようだったが、ロロが必死に否定している。一体何
があったか説明を求めたところ、ようやく真実がわかった。そして
如何に自分が勢い勇んで行動し、空回りしてしまったかも。
ロロには怒られ、短刀の男には呆れられてる。
最初に蹴り飛ばした男が目覚めたのは半日後だった。
強めに脳を揺すったせいで、まだ少し気持ち悪そうにしている。
﹁お前さんか、俺の頭を蹴り飛ばしたのは?あぁ?﹂
頭を下げたまま、﹁はい﹂とだけ言う。男がいくらか悪態をついた
後、周りの人間に諌められた。どうやら男の名前はバムというらし
い。ロロが属するキャラバンのボスとの事だった。
﹁で?落とし前はどうつける?﹂
﹁落とし前⋮⋮⋮⋮とは?﹂
194
あまりにイオンがキョトンとしていたせいか、短刀の男だけは吹き
だしていた。バムが睨み付けると、男は何とか笑いを堪えた。イオ
ンとしては、ロロを殴られたのと、今怒られたのでもうイーブンの
つもりだったのだ。
だが、バムにしてみればそうでは無かったらしい。ロロの失敗を手
痛く叱りつけただけで、失神させられるまでの事をした覚えはない
と。そして、そのロロへの行為はそうあってしかるべきだったと。
﹁百万シーカ。それがロロの出した損益だ﹂
バムはロロを睨みながら、そう言った。淡々とはしていたが、腸が
煮えくり返っているのは表情を見れば明らかだった。
この国の通貨の価値がどれほどかは未だ測りかねるが、2L程度の
水を買うのに100シーカほどかかる。それから想像すれば100
万シーカは中々大金だった。
100万の損失の経緯は前回のキャラバンでの行商にまで遡る。単
純に言えば、エンドミルへの商品の注文の桁数を間違えたのだ。そ
れで、いざ代金を払うとなって発覚。相手はエンドミルから遥々商
いをしに来たと言うのに、無下に返すわけにもいかない。それどこ
ろかエンドミルとの交易だけを断てば、この先見通しが立たなくな
る。それほど大事な相手だった。
﹁でも、あなたにも過失はある﹂
195
﹁あぁ!あるとも。こんなガキを連れて行くんじゃなかったってな
!どうしてもって言うから連れてってやったんだ。だが、こんな事
があったんなら、もう次は無い﹂
男は相当頭に来てるのか、奥さんと思しき女性が持ってきた水を払
いのけた。
グラスが割れ、破片が床に飛び散る。ロロがずっとローブの裾を掴
んで俯いていた。
﹁なら、その百万を取り戻せばいいですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ?お前がか?﹂
﹁いえ、ロロがです﹂
その言葉にロロがハッと顔を上げる。何を言われたかわからないと
言った風だ。
バムは値踏みするように、イオンとロロを交互に見つめ、鼻で笑っ
た。
﹁ははっ!ロロがなぁ⋮⋮出来んのか?あぁ?出来なきゃ当然クビ
だ。出来たらそれを担保にまた雇ってやる。どうだ?出来んのか!
?おぉ?﹂
196
イオンは黙った。ロロの言葉を待つ。
しばらく沈黙の後、小さな声でロロは答えた。
197
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5084bw/
人間回路
2013年12月10日08時49分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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