ハイデガー 『形而上学の根本諸概念』 と哲学的人間学

ハイデガー『形而上学の根本諸概念』と哲学的人間学
城田 純平
名古屋大学大学院文学研究科博士前期課程(哲学専門)
愛知教育大学 平成23年度卒
1はじめに
卒業論文において私は、Matthias
Philosounsch
Wunsch
の論文、Heidegger
− ein Vertreter der
Anthropologie?1の議論を批判的に検討した。このWunschの論文では、
『形而上学の根本諸概念』2(以下『根本諸概念』と略記する)というテクストにおいて
ハイデガーが哲学的人間学の立場に立って議論をしている、ということが主張されている。
これを卒業論文で検討してみた結果、基本的にWunschの主張は妥当なものであることが
明らかになった。本稿では、Wunschの議論のポイントとなる部分をまとめた上で、そこ
からハイデガーと哲学的人間学との関係についてどのようなことが言えるかを考えてみた
い。
さて、Wunschの議論は次のような順序で展開されている。まず論文の冒頭で、ハイデ
ガーと哲学的人間学の関係は対立的なものであることが述べられる。 しかし、それにもか
かわらずWnschは、『根本諸概念』という一つのテクストにおいてハイデガーが哲学的人
間学の立場に立って議論をしている、と主張するのである3.彼は第1章で、このような
主張の妥当性を問うこと自体は「適当かつ当然(547)」であることを示している。そして
第Ⅱ章では、自身の主張を裏付けるための道具として次のものを挙げている。すなわち、
Joachim
Fischerが彼の著作Philosophische
的人間学の「アイデンティティーの核」の指標(die
Philosophischen
Anthropologie.4において提示している哲学
Merkmale
des “Identitatskerns”
Anthropologie)、これを利用するというのである。しかしFischerの「ア
イデンティティーの核」の指標は「目下批判的に討議されているため(545)」、Wunschは
第Ⅲ章でその正当性について検討している。そして第IV章と第V章で、『根本諸概念』が
Fischerの「アイデンティティーの核」の指標のほとんどを満たしていることが確認され
る。このようにしてWunschは、『根本諸概念』におけるハイデガーの立場が哲学的人間
学に非常に近いものであるということを示しているのである。
本稿では、以上のようなWunschの議論のうち、特に第H章、第IV章、第V章で述べら
れていることをみていく。論述の流れとしては、哲学的人間学の「アイデンティティーの
核」の指標とはどのようなものであるかを確認し、その指標のほとんどが『根本諸概念』
にあてはまることをWunschがどのように論証しているかをみていく、ということになる。
そして、最後に彼の議論から分かることを私なりにまとめてみたいと思う。それでは実際
にWunschの議論をみていこう。
13
der
2哲学的人間学の「アイデンティティーの核」の指標について
上で述べたように、Wunschは自身の主張を裏付けるための道具として、Joachim
Fischerが彼の著作の中で提示している哲学的人間学の「アイデンティティーの核」の指
標を用いている。この指標とはいったいどのようなものであろうか。これを確認するにあ
たって、哲学的人間学の「アイデンティティーの核」ということでまず何か言われている
のかを押さえておきたい。WunschはFischerの著作を参照しつつ次のように述べている。
これらの[哲学的人間学のグループに属する]著作家たち(とりわけ上に挙げた人物
のうち前から3人[マックス・シェーラー、ヘルムート・プレスナー、アーノルト・
ゲーレン])のために個別の研究がなされたり、あるいは彼らの関係が視野にいれられ
る場合に、特に彼らの間の差異が強調されたりすることは、研究において一般的に行
われている。それに対して、系統的な観点におけるFischerの中心的なテーゼの内容
は次のようなものである。哲学的人間学は、しばしば研究の中で言われるほどに多様
ではないというだけでなく、積極的にある「アイデンティティーの核」を所有してさ
えいるのである。それゆえにこそ、ある統一のある哲学的人間学の理論的もくろみが
語られるのである5(547−548)。
つまり哲学的人間学の「アイデンティティーの核」とは、哲学的人間学のグループに属す
る哲学者たちの考えに共通する部分のことである。よって哲学的人間学の「アイデンティ
ティーの核」の指標とは、彼らの考えに共通する部分の特徴のことだと理解して良いだろ
う。Wunschはこの指標が『根本諸概念』にあてはまることを論証することで、『根本諸概
念』におけるハイデガーの立場が哲学的人間学的であることを示そうとしているのである。
では、哲学的人間学の「アイデンティティーの核」の指標とは、具体的にどのようなもの
なのだろうか。 Fischerの著作においてはこの指標として七つのものが挙げられており、
Wunschはこれを次のように要約している。
(1)哲学的な考察は、自分自身の考察や思考を反省するという次元では始まらない。
そしてFischerが述べているように、哲学的考察は「主観の極「Sub」ektpol)」
で始まるのではなく、向かい合っている「何かあるもの」(‘etwas'
gegeniiber)、
つまり対象(Objekt)に集中している6(548)。
(2)対象の極で始まる考察は、より詳しく見ると、人間の高さ(Hohe
des Menschen)
ではほとんどはじまらず、人間より下位の次元(subhumane Ebene)で下か
らはじまるのである。「カテゴリーの形成は、『何かあるもの(Etwas)』と『誰
かある人(Jemand)』との間の固有の領域に、すなわち『生命的なもの(das
‘lebendigeEtwas')』に焦点を合わせている7(549)。」
(3)その際「生命のある何か」は孤立して目に入ってくるのではなく、その環境
14
(Umgebung)との相互関係(Korrelation)の中で目に入ってくるのである。
このような相関関係(Korrelativitat)は、単に物質的なものの間の因果関係と
して解されることもなければ、所与のものに対する精神の志向性の関係として
も解されないのだが、この相関関係においては、生命のあるものと環境は互い
に対して秩序づけられ、互いの方向へいくよう指示され、互いにつなぎあわさ
れている8(549)。
(4)それは次のことに起因する。生命あるものと環境との間の相互関係は、内側の、
あるいは主観のパースペクティブから近づくことができるだけでなく、ある「側
面におかれた視点(seitlich
者という位置(Position
versetzten Blick)」においても、あるいは「第三
des Dritten)」からも近づくことができる。上述のこ
とはこのことに起因するのである9(549)。
(5)このような側面の観察点から、生物と環境との間のさまざまな関係の類型
(Korrelationstypen)が、下から上まですっかりと探求される。下から上ま
でというのはつまり、人間より下位の生命ある諸々のものと、それらの環境と
の関係に始まって、人間の領域にまで至るということである。これらの関係の
諸類型のあいだの諸関連(Beziehungen)は、目的論的な連関(teleologische
Beziehungen)としてではなく現象的な連関(Emergenzrelationen)として
理解される。諸連関は独特な段階、あるいは階層のモデルをつくっている10
(549)。
(6)人間の領域はつぎのことによって特徴づけられる。人間の領域においては、生
命的なものの生命循環(Lebenskreislauf)が一定の注視の中で開かれており
(aufgebrochen ist)、またこのような開かれ(Aufgebrochenheit)の中で生命
循環は、生命によって担われている(durch
das Leben getragen bleibt)とい
う仕方でそのつど、間接的に橋渡しされている。人間の傑出した立場とはすな
わち、「自然における(in
der Natur)立場」である口(549)。
(7)上の箇所で説明した思考の運動は、「人間についての様々な経験的な学問(生物
学、心理学、社会学、文化学)の再考慮のもとでの『精神(Geist)』の哲学的
な確認」として自分自身を理解している。またこの再考慮でもつて、経験的な
学問の内容的な成果との結びつきが確かに受け入れられるが、しかし同時に真
正に哲学的カテゴリーをつくる可能性も主張されるのであり、この哲学的なカ
さて、これらの指標が『根本諸概念』にあてはまるということを、Wunschはどのように
して論証しているのだろうか。次にこれをみていきたい。
15
3『形而上学の根本諸概念』と哲学的人間学の「アイデンティティーの核」の指標
Wunschによれば、上に示された七つの指標のうち、第五の指標以外の六つのものは『根
本諸概念』あてはまるのだという。以下、第一の指標についての議論から順にWunschの
述べているところをみていきたい。(ただし本稿では、紙面の都合上全ての議論をみること
はできないので、第二の指標、第四の指標、第六の指標の一部、第七の指標についての議
論は割愛させていただく。)さて、まず第一の指標についてであるが、Wunschは次のよう
に言っている。
比較しつつ考察することを通して、ハイデガーはその講義において世界概念を明らか
にしようとするのだが、その比較しつつ考察することは、3つのすでに挙げたテーゼ
に関係している。3つのテーゼとは、「石は無世界的である」、「動物は世界貧困的であ
る」、「人間は世界形成的である」(GM
263)というものである。ハイデガーは、動物
の世界貧困性というテーゼと共に考察を開始する(GM
273
ff.)。動物はーすなわちも
っと漠然と言えば生き物はーこの方法上では、それに即して研究が始まるところの、
その対象(Gegenstand)である。とりわけ重要なのは次のことである。ハイデガーの
関心はその際に明らかに、「生命を[...]人間の方から解釈すること(GM
282)」にある
のではなく、むしろ生命を「生命自身の方からその本質的内実の中で確保すること
(GM 283)」にあり、このことがとりわけ重要なのである。このような措置は、第1
の指標に特有な、「向かい合っている何かあるもの、すなわち対象「Objekt)への」
集中を確保する(553)。
生命を「生命自身の方からその本質的内実の中で確保する」というハイデガーの言葉では、
認識論的な主観一客観一図式、あるいは主観中心主義的な考え方を廃し、いねば「事象そ
のもの」として生命を把握する、ということが述べられており、これは第一の指標で言わ
れていることと同様である。 したがって第一の指標は『根本諸概念』にあてはまるのであ
る。
*
次に第三の指標についての議論をみてみたい。
Wunschはこう述べている。
生きているもの、すなわち有機体は、孤立して視界にもたらされるのではなく、その
環境との相互関係において視界にもたらされるということ、このことを第三の指標は
意味している。ヤーコブ・ヨハン・フォン・ユクスキュルは、生物学において次のよ
うな解釈を確立した。その解釈とは、有機体と、その有機体自身に対する環境との相
関性は構成的である、というものである。シェーラー、プレスナー、そして後にゲー
レンは、この解釈を、それぞれに独特な仕方で自身の哲学的人間学の構想に統合して
いる。そして、ハイデガーによる有機体の哲学的な本質規定においてもまた、その解
釈は中心的な役割を果たしているのである13(553)。
16
では、ハイデガーはユクスキュルの影響を受けつつ、具体的にどのように議論を展開して
いるのだろうか。
ハイデガー自身が表現していることであるが、動物は次のようなものにとりまかれて
いるのである。すなわち、「有能存在(Fahigsein)に襲い掛かり(angehen)、始動−
させる(an・1assen)もの」、これに動物はとりまかれているのだ(GM
369)。ハイデ
ガーは、このような動物の有能存在を始動させるもののことを「抑制を除去するもの
(Enthemmen)」(GM
ebd.)と名づけており、そして「抑制除去圏(Enthemmungs-
ring)」について次のように語っている。動物は自分自身とともに、抑制除去圏を引き
受けているのであり、また抑制除去圏は動物の「最も内的な機構」に属するものであ
って(GM
370 f.)、さらに抑制除去圏は「可能的な被刺激可能性(Reizbarkeit)とい
う完全に規定された輪(Umringung)」を確定している(GM
374)。このようにハイ
デガーは抑制除去圏について語っているのである(553)。
この「抑制を除去するもの」、あるいは「抑制除去圏」とは、まさに動物の環境のことであ
り、『根本諸概念』においては動物がその環境との相関関係のもとでとらえられていること
は確かである。こうしてWunschは、第三の指標は『根本諸概念』に適合すると結論する
のである。 ところでハイデガーは、この「抑制除去圏」という環境の中にいるために、動
物からは存在者を存在者として把握する可能性が奪われている、と考えている14。このこ
とは第六の指標についての議論でポイントとなるだろう。
*
次に第五の指標についてみてみよう。
Wunschはこの指標だけは『根本諸概念』にあて
はまらないと考えている。それというのも、「ハイデガーは、生き物と環境との様々な相互
関係の類型、これらの類型の間の関係を、段階的なモデルや階層的なモデルを利用して構
想することを拒絶しているからである(554)。」そして、「このようなモデルの批判の中で、
ハイデガーははっきりとシェーラーを引き合いに出している(558)」のである。彼が引用
しているハイデガーの文章は次のものである。
つい最近マックス・シェーラーは、ある人間学との関連において、物質的な存在者、
生、精神のこのような段階的序列(Stufenfolge)を、統一的に、ある確信に基づいて取
り扱うことを試みた。その確信によれば人間は、自分自身の内に、存在者のあらゆる
段階を、すなわち物質的な存在、植物や動物の存在、そして特に精神的な存在をあわ
せもつ存在(Wesen)である。私はこのテーゼを、シェーラー的な立場の根本誤謬とみ
なす(GM
283)。
Wunschはこれに次のような説明を加えている。
17
ハイデガーがここで特に不快に感じているものは、物質的、生命的、そして精神的な
存在の諸段階を統一的に取り扱うという考えである。それというのも、ハイデガーの
見るところでは、このような諸要素は、シェーラーのもとでは例外なく直前的存在者
の模範に従って構想されているからである。 したがって、人間についての十分な概念
は、人間の重なり合った階層化(Aufeinanderschichtung)という方法に基づいて獲得さ
れうる、という信念は、ハイデガーにとっては、根本的で存在論的な誤った判断に基
づくのである(558)。
こうして第五の指標は『形而上学の根本諸概念』にあてはまらないとWunschは結論して
いる。
*
続いて第六の指標についてみてみたい。
Wunschはこの指標について次のように述べて
いる。
第六の指標は「人間の生命循環の開かれ」と名づけられうる。より厳密に規定しつつ
次のように付け加えられうるのであるが、開かれは、その際超自然的な現象として理
解されうるのではなく、むしろ生命によって支えられた開かれとして、つまり自然に
おける開かれとして理解されうるのである(559)。
したがって第六の指標は、「自然における、人間の生命循環の開かれ」、とまとめることが
できるだろう。ただし本稿ではこの指標のうち、「自然における」という部分についての議
論は省略し、「人間の生命循環の開かれ」という部分についての議論のみをみていきたい。
Wunschは「人間の生命循環の開かれ」について次のように言っている。
開かれは、ハイデガーにとっては次のことによって決定的に生じるのである。確かに、
すでに動物はある意味では存在者に対して開かれているのであるが(GM
361 f・、377)。
しかし人間にとってのみ、存在者は存在者として明らかなのである(GM
.)。こ
397
のことによって、ハイデガーにとって開かれが生じるのだ。ハイデガーによれば、「こ
のような全く基本的な『として』は、動物に対しては拒まれているものなのである(GM
416)。」として一構造(Als・Struktur)によって特徴づけられた存在者の開示性は、
ハイデガーにとっては、[人間の]世界の一つの性格なのである(554)。
このように、人間においては「生命循環の開かれ」が生じる一方、動物にはそれが生じな
いのである。したがってWunschは、第六の指標で言われている「人間の生命循環の開か
れ」ということについても『根本諸概念』にあてはまると結論している。なお、動物にお
いて「生命循環の開かれ」が生じないのは、第三の指標についての議論でみたとおり、動
物が「抑制除去圏」の中にいるためである。
18
f
*
ここまで第一の指標、第三の指標、第五の指標、第六の指標の一部についての議論をみ
てきた。その結果、第五の指標以外のものは『根本諸概念』にあてはまることが分かった。
Wunschは残りの指標についても『根本諸概念』に適合すると考えており、よって七つの
指標のうち第五の指標を除く全てのものについて、それが『根本諸概念』にあてはまるこ
とが示されたわけである。したがって、Wunschによれば、『形而上学の根本諸概念』にお
けるハイデガーの立場は哲学的人間学に非常に近いものだといえるのである。
4まとめ
以上、Wunschの論文のポイントとなる部分についてみてきた。ここまでのWunschの
議論が妥当なものであるとすると、ハイデガーと哲学的人間学との関係についてどのよう
なことがいえるだろうか。最後にこれを簡単にまとめてみたい。第一の指標についての議
論では、ハイデガーにおいても哲学的人間学においても認識論的な主観一客観一図式、あ
るいは主観中心主義的な考え方からの脱却が目指されていることが示された15。また、(七
つの指標からも分かるように)哲学的人間学は、人間を他の事物から独立して存在するも
のとみなすことなく、むしろ人間を動物、環境、経験的な学問との関わりからとらえよう
としているのであるが、七つの指標のうちのほとんどのものが『根本諸概念』にあてはま
ったことから、ハイデガーもまたこの哲学的人間学の方向性を(少なくとも『根本諸概念』
においては)共有しているのだといえる。したがって、主観中心主義、あるいは人間中心
主義からの脱却を目指しているという点で、ハイデガーと哲学的人間学との間には確かに
親和性が存在するのである。ところで、第六の指標において「人間の生命循環の開かれ」
ということが言われていたが、そこから分かるように、哲学的人間学においてはまだある
意味で人間が特権化されてとらえられている16。他方のハイデガーにおいても、第三の指
標と第六の指標についての議論を思い出してみると、存在者の開示性が備わっているか否
かという点でやはり人間と動物とは峻別されていたのであった。 したがって、ハイデガー
も哲学的人間学も人間中心主義から脱しようとはしているものの、人間を動物から区別し
てある意味特権化しようとしているという点で、両者ともまだ人間中心主義的な考えをし
ているともいえる。いま、ここまでのことをまとめてみると次のようになる。すなわちハ
イデガーと哲学的人間学は、主観中心主義あるいは人間中心主義からの脱却を目指してい
るものの、人間を動物から区別して特権化するという人間中心主義的な考えをまだもって
いる、というこの点で方向性を共有しているのである。以上本稿では、Matthias
Wunsch
の議論を要約し、それを手がかりとしてハイデガー『形而上学の根本諸概念』と哲学的人
間学との関係について考えてきた。ここでの考察は、あくまで『根本諸概念』という一つ
のテクストを対象としたものであったが、今回明らかになったことをふまえ、さらに『存
在と時間』をはじめとするハイデガーの他のテクストと哲学的人間学との関係についても
考えていくことができればと思う。
19
注
訳文は全て引用者によるものである。ただしハイデガーから引用する際には、川原栄峰、
セヴェリン・ミュラー訳『ハイデガー全集第29/30巻 形而上学の根本諸概念一世界・有
限性・孤独』(創文社、1998年)を適宜参照した。また、訳文中の[ ]は引用者による補
足である。なお、それぞれの引用の最後に付した数字は、数字のみが記されている場合に
は、M-Wunsch、Heidegger
−ein Vertreter der Philosophischen Anthropologie?のページ
数を示しており、GMの表示に続いて数字が記されている場合には、M.Heidegger、Die
Grundbegriffe der Metaphysik.のページ数を示している。
I M.wunsch、Heidegger
− ein Vertreter
der Philosophischen
Anthropologie?
seine Vorlesung Die Grundbegriffe
Philosophie、58(2010)4、543
− 560.
der Metaphysik、
in:Deutsche
2 M.Heidegger、Die
der Metaphysik.
Welt-Endlichkeit
Grundbegriffe
Uber
Zeitschrift fii「
− Einsamkeit、
in: ders・、 Gesamtausgabe、Bd
29/30、 hg- v. F-W. v. Hermann.
Frankfurt/M.
この講義の概要をWunschは次のようにまとめている。「ハイデガーは1929/30年の冬学
期に週4時間、『形而上学の根本諸概念。世界一有限性一孤独』というフライブルク大学で
1983.なお、
の講義を行った。この講義は、ハイデガーが形而上学の問題への展望を展開している『準
備的な考察』(GM1−87)に続いて、二部から成り立っている。第一部は哲学をすること
のある根本的な気分、すなわち深い退屈(die
tiefe Langeweile)を呼び覚ますことにささ
げられているのだが、形而上学的に問うことはこの深い退屈から始められるべきなのであ
る(GM
89−249)。第一部は、第二部つまりこの講義の主要部分のための準備的な機能を
有しているのだが、この主要部分ではある特定の哲学的な問い、すなわち『世界とは何か?
(Was ist Welt?)』という問いが中心に移されるのである(GM
251 − 532)
Wunschによれば、「この講義は1983年になってはじめて公表されたのだが、それゆえに
(545)。」また
ハイデガーと同時代に生きた哲学者たちのほとんどがそれについて知らなかった(545)」
のである。ちなみにWunschの論文では、主にこの講義の第二部が議論の対象となってい
る。
3しかしWunshは、次の二つの疑問については「ここで適切に論じることはできない
(544)」と述べており、彼の論文でこれらに対する答えが示されることはない。これにつ
いて考えることは今後の私の課題でもある。「(a)ハイデガーが『存在と時間』の後に哲
学的人間学に取り組んだということの動機はどこに存するのか。『存在と時間』が公表され
た後にようやく登場した構想であり、しかしながらその要求に従えば[ハイデガーの思考
様式と]同じように根本的かつ競合的な構想、これに対して、彼は固有の思考構想を示し
たかったのであろうか。あるいは彼は『存在と時間』の欠陥に気づき、新しい思考構想に
接近することでその欠陥を改めることを望んだのであろうか(544)。」「(b)『形而上学の
根本諸概念』において哲学的人間学に近づいたハイデガーの立場は、彼の仕事の全体にど
のように位置づけられるのか。『人間学的間奏(dasanthropologische
は、ハイデガーの思考の他の局面といかなる関係にあるのか(544-545)。」
4 J. Fischer、 Philosophische
Anthropologie.
Freiburg 2008.
5 Wunschが参照したのは次のものである。
Eine Denkrichtung
Zwischenspiel)』
des 20. Jahrhunderts.
J.Fischer、Philosophische
Aijtjiropplogie、 a・
a. 0.、488、505、519
u. 6. なお以下の注6から注12においては、この書籍の中のWunsch
が参照した部分のページ数を示す。
6 Ebd.、520・
7 Ebd・、521・
8 Ebd.、522・
9 Ebd・、522・
10 Ebd.、522
20
f.
11 Ebd・、523
f・
12 Ebd.、525
f.
13 木田元はこれに関連して、「ハイデガーがユクスキュルの業績を知ったのがシェーラー
を介してであろうことも、疑いない」と述べている。木田元『ハイデガー『存在と時間』
の構築』、岩波現代新書、2000年、51頁。
14ハイデガーは、このような可能性が「抑制除去圏」の中にいる動物から奪われている
ことを、動物の「とらわれ(Benommenheit)」と表現している。この「とらわれ」につい
てハイデガーは次のように述べている。「したがって、動物のとらわれが意味しているのは、
全ての、何かを何かとして把握することの本質的な剥奪(Genommenheit)であり、それ
ゆえ、このような剥奪においてまさしく…に夢中になっている(Hingenommenheit)と
いうことなのである。 したがって動物のとらわれは次のような存在様式を示す。その存在
様式に応じて、動物からは、他のものとの自己の関係において可能性が剥奪されている。
つまりその存在様式に応じて、すでに述べたように、一般にこれこれとしての、直前的な
ものとしての、存在者としての、他のものに対して、ふるまったり関わったりすることが
奪われているのである。まさしく、動物が自己を関係づけているものを何かとして把握す
る可能性が、動物から剥奪されているがゆえに、動物は他のものによってこれほどまでに
無条件に心をとらわれてしまう(GM
360)。」
15奥谷浩一はこれに関連して次のように述べている。「シェーラーは、主観と客観、主体
と客体、思考と対象をいねば二分法的に、両方ともを客体化してとらえたうえで考察する
という伝統的哲学における機械的な接近方法を改めて、一言でいえば現象学的に、つまり
時に主観が客観と重ね合わせられたり、その逆であったり、主客が未分化のままに現れた
れする(ママ)事態を含めて、現象が自らに立ち現われてくるがままに考察することを方
法的に要求する。この点で、シェーラーとハイデガーとは一致」するのである。奥谷浩一
「シェーラーの哲学的人間学とハイデガーとの対決(1)」、『札幌学院大学人文学会紀要』
第86号、2009年、189頁。
16奥谷浩一は、「『哲学的人間学』の人間観には(中略)やはり西欧の人間観に伝統的に存
在してきた人間中心主義の思想というバックボーンがある」、と述べている。奥谷浩一『哲
学的人間学の系譜。シェーラー、プレスナー、ゲーレンの人間学』、梓出版社、2004年、
294頁。
21