大谷スミ - さくら市

~70歳から手まりづくりを研究した~
大谷スミ(おおたに
すみ)
○さくら市ミュージアムでは毎年2~3月にたく
さ ん の き れ い な 手 ま り が か ざ ら れ ま す 。そ れ ら は 、
挾間田(はさまだ)に住み、手まりづくりを研究
した大谷スミさんのお弟子(でし)さんたちの作
品だそうです。
大谷スミ
大谷スミの
スミの一生
西暦(年号)
1892 年(明治 25)
南高根沢村(今の芳賀町の一部)
に生まれる。
1906 年(明治 39)
県立宇都宮高等女学校に入学す
る。
1910 年(明治 43)
上高根沢向戸(むかいど)さい
ほう女学校に入学する。
1912 年(明治 45)
挾間田の大谷忠と結婚する。
1945 年(昭和 20)
田畑を開放し、はたおり工場を
開く。
1963 年(昭和 38)
実母フデより手まりづくりを習
う。
1976 年(昭和 51)
手まりづくりが、氏家町(当時)
の無形文化財(むけいぶんかざ
い)に指定される。
1977 年(昭和 52)
NHKで手まりづくりが放送さ
れる。
1984 年(昭和 59)
なくなる。
(「 う の は な 手 ま り の 会 」
による作品展)
大谷スミ
大谷 スミは
スミ は 、 勉強が
勉強 が 好 きな女性
きな 女性で
女性 で 、 さいほうも上手
さいほうも 上手だった
上手 だった。
だった 。
1964年
1964 年 ( 昭和39
昭和 39)
39 ) に 東京オリンピック
東京 オリンピックが
オリンピック が 開 かれることになった。
かれることになった 。 外国
からたくさんの人
からたくさんの 人 が 来 るので、
るので 、 スミはその
スミ はその人
はその 人 たちに何
たちに 何 か 日本のおみやげをあげ
日本 のおみやげをあげ
たいと思
たいと 思 った。
った 。
そこで、
そこで 、 スミは
スミ は 母親から
母親 から手
から 手 まりづくりを習
まりづくりを 習 った。
った 。 その時
その 時 、 スミはすでに
スミ はすでに70
はすでに 70
歳 であったが、
であったが 、 手 まりづくりにはげんだ。
まりづくりにはげんだ 。 スミは
スミ は 手 まりづくりのぎじゅつを高
まりづくりのぎじゅつを 高
めるとともに、
めるとともに 、 手 まりの新
まりの 新 しいがら(
しいがら ( デザイン)
デザイン ) なども生
なども 生 み 出 した。
した 。 スミから
スミ から
手 まりづくりを習
まりづくりを 習 いたいという人
いたいという 人 も 増 えていった。
えていった 。 いつしか「
いつしか 「 まりのおばあち
ゃん」
ゃん 」 とよばれ、
とよばれ 、 学校でも
学校 でも見学
でも 見学に
見学 に 行 くほどになった。
くほどになった 。
そして、
そして 、 手 まりづくりは、
まりづくりは 、 1976年
1976 年 ( 昭和51
昭和 51)
51 ) に 、 氏家町(
氏家町 ( 当時)
当時 ) の 無
形文化財(
形文化財 ( むけいぶんかざい※
むけいぶんかざい ※ 1 ) に 指定された
指定 された。
された 。
このように、
このように 、 スミは
スミ は 70歳
70 歳 から新
から 新 しいことに取
しいことに 取 り 組 み 、 そのぎじゅつや伝
そのぎじゅつや 伝 と
う 文化を
文化 を 高 めた。
めた 。 今 も 、 そのぎじゅつは、
そのぎじゅつは 、 スミの
スミ の 弟子たちによって
弟子 たちによって受
たちによって 受 けつがれ
ている。
ている 。
※ 1 無形文化財 : げいじゅつ 的 にすばらしいとみと
められたものを 「 文化財 」 とよぶ 。 無形 ( むけい )
とは 、 形 がないものと 意味 で 、 音楽 や 芸 じゅつ 品 を
作 るためのぎじゅつのことなど。
るためのぎじゅつのことなど 。
( 右 ) 氏家町無形文化財指定書