あなたの見ている方が、あなたの救い主です

あなたの見ている方が、あなたの救い主です
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マルコによる福音書9章2-9節 顕現節最終主日(主の変貌日) 2009/2/28 芳賀弥男牧師
日本でも教会を訪れる人は結構たくさんいます。クリスチャンになる人も思ったよりもたくさんいます。イエス・キ
リストについて聞いたり、学んだり、聖書を読む人もたくさんいます。しかし、イエスを信じることができず、やがて
教会を去ってしまう人も多いです。なぜ、このようなことが起こってしまうのでしょうか?
実際にイエスご自身がいた時代にも、このことは起こりました。イエスの話、イエスのなさった奇跡のうわさは、
あっという間にイスラエル地方全体、外国にまで広まっていきました。そして、多くの人がイエスの周りに集まり、
イエスの弟子となった人たちもたくさんいました。しかし、イエスが最後の一週間を迎える頃になるとどうでしょう
か? ほとんどの弟子たちはイエスから離れて行きました。そればかりか、イエスに憎しみを抱く人たちもいました。
イエスの12弟子たちも、イエスは真の神、この世の救い主、真の王だと信じたから従ってきました。今日の話は
イエスが公に救い主として活動を始めてから2年半以上が経過していた頃の出来事です。しかし、弟子たちの信
仰と神についての知恵は深まるどころか「この方は本当の救い主ではないかもしれない」という疑いがでてきまし
た。
イエスはローマ兵のように強そうではありません。自分たちを支配しているローマ兵たちを追い払うわけでもあ
りません。特にこの頃からイエスは弟子たちに「わたしは人々に憎まれ、苦しめられ、十字架にかけられて殺され
ます」と何度も言っているのです。(マタイ16章21節)
私たちはイエスがこのように言った意味とその結末を知っていますが、実際に苦楽を共にし、一生懸命イエス
に従ってきた弟子たちは本当にがっかりしたでしょう。「ふざけるな! 自分たちは仕事を捨ててまで、あなたに従っ
てきたのに、今更何を言うんだ! 自分たちの仕事、時間を返せ!」 弟子たちのイライラはつのるばかりだったで
しょう。
しかし、イエスは弟子たちの心を知っています。ですから、イエスはご自分が真の救い主であることを弟子たち
が決定的に分かるように、今日のことをなさいました。
9:2 それ1から六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼
らの目の前で御姿が変わった。 9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白
さであった。 9:4 また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。 9:5 すると、ペテロが
口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造りま
す。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」 9:6 実のところ、ペテロは言うべきこと
がわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。 9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をお
おい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えな
かった。 9:9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たこ
とをだれにも話してはならない、と特に命じられた。
たしかに、弟子たちや多くの人たちが、イエスについて学び続けても理解できない、信じられない、そして離れ
ていく気持ちも理解できます。なぜならば、救い主イエスの中には様々な点で「矛盾する二つのこと」が存在して
いるからです。
世の約束された救い主、神であるのに、ベツレヘムの飼い葉おけで生まれた
世の救い主、まことの神でありながら、田舎のナザレの貧しい大工の息子として育った
世の救い主でありながら、宗教指導者たちに憎まれ、人々に見捨てられた
世の救い主でありながら、人間の手によって捕えられ、処刑された
イエスは死んだのに、よみがえった
人々に見捨てられ、憎まれたのに、人々の希望となっている
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主はいつもそばにいてくださると言いながら、目に見えない
ここに、イエスを信じることの難しさ、従い続けることのむずかしさがあります。イエス・キリストは私たちが思い
描く、私たちが望む「神」「救い主」としてのイメージとかけ離れています。
しかし、今日の出来事はイエスを疑い始めた弟子たち、そして、イエスに信頼を置けない私たち、迷っている
私たちの問題の理由をはっきりと示しています。
イエスは山の上で神としての栄光を示されました。イエスの御顔、御姿は変わりました。そして、イエスの着て
いた衣は、この世にないような光、白い稲妻のような光で輝いていました。旧約聖書の出エジプト記のあの有名
なシナイ山で、モーセが「十の戒め」を授かった出来事を覚えていますか? モーセはシナイ山で40日間、神と共
に過ごしました。モーセが山を降りてくる時に、モーセは2枚の石の板をもって降りてきましたが、彼の顔も光り
輝いていました。モーセが神と共に過ごしていたからです。(出エジプト記30章20節)
この世の光とは異なる主の栄光について、聖書にたびたび記述されています。イスラエル民族が幕屋を作っ
た時も、ソロモンが主のために神殿を築いた時も「主の栄光」がその中に満ちました。(出エジプト40章34,35
節、Ⅰ列王記8章11節)
黙示録において、天国では、この主の栄光で満たされていると述べています。「都には神の栄光があった。そ
の輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」(黙示録21章11節) また「都には、これを照
らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。」(23節)とある
ように、この世にある光によってではなく、主の光が天国の隅々までを満たしています。主イエス自身が、光の
源、つまり発光体です。イエスは言いましたね。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を
歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8章12節) イエスはこの山の上で、その「主の光」一部を弟
子たちと私たちに見せてくださいました。
愛する兄弟姉妹の皆さん。イエスは今日の山の出来事から、弟子たちに次のように言っているかのようです。
「私はあなたの真の救い主、まことの神です。これから、何が起こっても、たとえ私が捕らえられ、死んだとして
も、今日の話を覚えておきなさい。私があなたの真の救い主です」と。
神の第一の戒めにある「あなたはわたしのほかに、他の神々があってはならない」という意味は、単に木や石
でできた偶像を拝むと言うことだけではなく、私たちが救い主として自分の思い描くイメージや、理想を持つこと
です。それは必ず失敗、失望に終わります。なぜならば、それは神ご自身ではないからです。多くの弟子たち、
今日でも多くの人が離れていった一番の理由が、イエス自身を見なかったことにあります。
何があっても、この救い主に信頼し、従うことをやめないでください。私たちよりも過酷な人生を歩んだ旧約時
代の二人、モーセとエリヤが今日の話に登場しました。紀元前1500年ごろの預言者モーセは言うことを聞かな
いイスラエル人たちを荒野で40年も導いてから死んで葬られた人物ですが、天の御国にちゃんと入ったことが
今日の御言葉でわかりました。紀元前700年ごろの預言者エリヤも、彼以外に預言者がいなくなり、偶像崇拝
者たちからの圧迫と迫害の中に生きた人で、生きたまま天にあげられた人でしたが、彼も主の約束どおり天国
にいることが今日の話から分かりました。彼らは神が聖書の中で約束した通り、天国で主と同じような栄光の体
をもって生きていたのです!
神は約束通り、彼らが天国に入ったことを示しました。神の約束は必ずそのようになるのです! 私たちはこれ
から受難節の期節に入り、イエスの受難について学びます。十字架に張り付けられたイエスを見ます。それは
犯罪者でもなく、宗教指導に失敗して憎まれた哀れな男でもありません。人間が期待する救い主、救いの方法
と、神が私たちに示す姿と恵みとには大きな差があります。あなたの理想通りではないかもしれませんが、聖書
にある方こそ、あなたの救い主であるのです。あなたの理想とイメージのイエスに従うのではなく、この方に信
頼し、すべてを委ねられますように。
その十字架のイエスの死において、主の光は放たれていませんが、私たちの救い、罪の赦し、永遠の命の希
望が輝いています。アーメン
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。そこで、イ
エスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」 すると、シモン・ペテ
ロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられま
す。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」」(ヨハネによる福音書6章66-69節)
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