いわし 遠野義景 タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ いわし ︻Nコード︼ N0511W ︻作者名︼ 遠野義景 ︻あらすじ︼ 幼馴染みと猫が出てくる恋愛小説。 1 この道を何度通っただろうか。 考えてみても詮もない事だとはわかっているけれど、考えてしま うのは仕方ないと一応の弁解をしておこう。 もちろん、そんな意味のない思慮に更けるにはそれなりの理由が ある。 猫。 そう、猫だ。 記憶の片隅で欠伸をしながらのびをしている白い仔猫だ。 *** 僕と彼女は幼馴染で小さな頃からいつも二人だった。何をするに でも一緒で、まるで本当の兄弟の様でもあった︱︱と、当時を知る 人間は言っている。尤も、当の本人たちにはそんな自覚があるはず も無く、それがその頃の僕たちにとっての普通であり、世界の理で もあった。とにかく仲が良かったのだ。ただ一つだけ噛み合わなか ったところがあるとするならば、それは彼女が大の読書家で僕がま ったく本を読まない種類の人間だったことだ。彼女は一日のかなり の時間を読書に充て、残りの時間を僕との時間に充てていた。 彼女は会うたびに言った。 ﹁やっぱり村上春樹には何か神懸り的なものが憑いているに違いな い﹂ 僕はそれを聞く度に﹁ほお﹂とか﹁へえ﹂とか、はたまた訳もわ かっていないのに﹁うん﹂だとか答えていた。 彼女は世界で二番目に村上春樹が好きだといった。僕はその﹃村 上春樹﹄がどんな人か知らないので﹁ふうん﹂だの﹁ほへー﹂だの と答えていた。そして訊いた。﹁一番は?﹂ 2 ﹁うーん。内緒﹂えへへーと笑って彼女は答えた。﹁それはきっと いつかわかるよ﹂ 僕はその答えが解っていたような気もする。ただ、どちらにせよ、 僕も彼女も、恥じらいを知っていた所為もあってかそれ以上その話 題は続かなかった。単に自然消滅しただけなのか、あるいは持ち越 されたのか、どちらにせよ気がつけば子供向けのアニメや、お笑い 芸人のネタについての座談会になっていた。 僕が彼女を﹃女の子﹄として意識し始めたのは小学校の高学年︱ ︱五年生か六年生だったはず︱︱の頃だったと思う。 相変わらず僕たちはずっと一緒だったが、僕は彼女のささやかに 膨らみ始めた胸や、隣を歩いていると時折ほのかに香る正体不明の 好い香りや、風に髪が流されて覗く白いうなじ、その他諸々に一々 どきどきし、どぎまぎしていた。そしてそれらを出来るだけ見ない ように心がけたが、それはあくまで心がけただけで現実にはばれな い程度に凝視していた。 そんな彼女が猫を拾ったのはちょうど彼女の両親が不慮の事故で 一気に天帝の下へ、あるいはまだ見ぬ光り輝く世界へ召されたその 二週間後だった。あの事故以来僕に対してさえ無口になっていた彼 女は、その猫が電信柱の影にダンボールに捨てられている、いかに もな感じの捨て猫をみて一言﹁同じだね﹂と呟いた。僕はその事を 今でもありありと思い出すことが出来る。初めて見たロックコンサ ートと同じ位、あるいはそれ以上にはっきりとした﹃記憶﹄の焼き 鏝を脳髄に捺してくれた。それほどまでに彼女は、美しく、そして 繊細で儚げで︱︱陳腐すぎる表現ではあるけれど︱︱触れてしまえ ば、それだけでバラバラと崩れてしまいそうな精緻で静謐なガラス 細工のようだった。 両親が居なくなった彼女は僕の家に居候していた。そのことに別 段何も違和感がなかった事を今でも覚えている。僕と彼女の部屋は 3 互いにベランダを突き合せた、一メートルの空間の先にあり、頻繁 にそこから出入りしていたからだ。また、昔から彼女のことをもう ひとりの子供として可愛がっていた家の両親が彼女の居候を断るは ずがなかった。むしろ喜んで﹁今日から家の子よ﹂だなんて言って いた。 そして彼女は訊いた。﹁この猫飼っていい?﹂右側に少し顔を傾 けた拍子に黒く繊細な前髪がはらりと揺れた。 ﹁いいと思うよ﹂僕は答えた。すると彼女は、ありがとう、と言っ て段ボール箱から猫を抱き上げた。 猫は白い猫だった。ただ、結構な時間外に放置されていたためか、 本来パールホワイトと言うべき美しき毛並みは泥や排気などの所為 で汚れて、まるで一度も地上に上がったことのないマンホールのネ ズミのような色になっていた。 猫は彼女の腕の中でいちど﹁うにゃー﹂と鳴いた。それを見た彼 女が笑った。実に久しぶりの、僕の記憶が確かならそれは、あの日、 事故の一報が入る直前から数えてだいたい二週間と十二時間ぶりの 彼女の笑顔だった。しかし笑ったと言うだけならば、今までにもな んどかあった。しかしそれはども﹃彼女の笑顔﹄でななかった。心 から笑っていなくて、まるで下手な芝居のような笑顔。それはどれ も、他人からの無責任な﹁大変だったね﹂だの﹁大丈夫?﹂だのと 言った無責任極まりない励ましの言葉に対する返答に充てられてい た。 ﹁ねえ、何て名前が好いと思う?﹂彼女は訊いた。 ﹁そうだな⋮⋮﹃いわし﹄なんてどう?﹂ ﹁いわし?﹂彼女は少し考え込んだ。﹁あ、村上春樹!﹂ ﹁ご名答﹂ ちょうどその頃僕は彼女に感化されて村上春樹の青春三部作を読 み終えたところだった。 ﹁じゃあ羊を探しに行かないとね﹂彼女は言った。 ﹁それは勘弁﹂そう応えた後で僕は、やれやれだ。と言った。彼女 4 は村上春樹についてなら一晩でも二晩でも語り明かすことが出来て しまう。それに羊を探しに行ってしまえば僕は全てを失う。 まあでも、そんなことよりも彼女が笑顔を見せたのがたまらなく 嬉しかった。 中二の夏の曇った日のことだった。 *** 気がつくと雨が降っていた。しかし生憎傘は持っていない。目的 地に着くまでは濡れることになる。まあいいだろう。雨といっても 殆ど霧雨︱︱というか最早霧だ。髪の先が少し濡れる程度だろうし。 雨が降るとどうしても先ほどのように詮無いことを考えてしまう。 きっと空が憂鬱だからだ。晴れた日には間違ってもそんな事を考え たりはしない。 それに、僕の記憶を探ってみればどうも雨というものに一つたり とも良い想い出がないのも多分原因だ。どれをとっても鬱屈とした 洞窟で膝を抱えて上目遣いで正面を眺めている河童の憂鬱みたいな 思い出しかない。彼女の両親が死んだのも雨の日だし、猫が死んだ のも雨の日。 きっと、雨は彼女の涙なんだろう。そうでなくては不幸と雨の関 係についての採算がとれない。いや、彼女だけじゃない。きっと雨 というものには世界中の悲しみが凝縮されてしまっているのかもし れない。だから雨が降れば物憂げな気持ちになってしまうし、どう しようもないほど自虐的になる事もあるし、どうにでもなれと思う ほど無気力になる事もある。少なくとも雨が降ったからと言ってテ ンションが上がったことなど殆どない。あって中学のころ、部活が 休みなった時くらいだ。 しかし今はそれも関係ない。 僕は高校で文化部に入ったから。 今し方、僕のすぐ隣を駆けていったサラリーマンに訊いてみたい。 5 ﹁どうしてそんなに生き急ぐのか﹂と。もちろん本人に自覚はない だろう。あってやっているならそうとうのMッ気があるに違いない。 まあ、そもそも日本人なんて本質的にはマゾヒストばかりだろうけ ど。 鬱蒼と雑草が雑木が繁茂する森の中の如く心を身体を引きずりな がら坂の下の丁字路を右折した。そして暫くすると見えてくる電柱 がある。説明するまでもなく、あの日猫を拾った場所だ。今はそこ コンクリート に何もない。だた無慈悲なほどに何もメッセージ性のないくすんだ 灰色の地面があるだけでほかに何もない。そこは溝の蓋なのだから。 僕は空を仰いだ。 電線に遮られた向こうでは重々しいほど、アンニュイな空が広が っていて、僕は溜息を一つ吐いてから歩き出した。 *** ひとひら、ふたひら、はらはらり。 桜の花びらが舞い散り始めた頃、それでも僕らは一緒だった。 みっつ、よっつ、はらはらり。 それが当たり前だった。 いつつ、むっつ、ひらひらり。 まるで神様に約束されているかのように。 *** ﹁ねえ、かずりん﹂彼女は僕の事をそう呼んだ。﹁今日の帰りね︱ ︱付き合って欲しい所があるんだ﹂ 彼女から僕に何かお願いしてくるのは珍しいことだった。しかし それは大抵が悪いことか良いことかの二元論であったから、僕は少 しだけ迷ってから結局好奇心に負けて﹁わかった﹂と肯いた。 バスを乗り継ぎ、一時間半ほど掛けて到着した場所は、海が眼下 6 に広がる道路沿いの崖だった。僕はその風景をどこかで見たことが あるような気がした。 ﹁︱︱ここに来るのは二回目なんだ﹂僕の五歩先に立って俯き加減 で彼女は言った。﹁かずりんもなんだよ?︱︱でも覚えてないか﹂ ﹁うん。なんとなく来たことがあるような気はするけど、でも︱︱。 だめだ。思い出せない﹂それは何かとても大事なことのような気が する。 ﹁そう、だよね。だってかずりんには直接関係ない場所なんだから﹂ そう言うと彼女は振り返っていった。﹁ここはね、私のお父さんと お母さんが死んだ場所なの︱︱﹂ ﹁︱︱︱︱﹂僕は言葉が紡げなかった。何て声を掛ければ良いのか。 それすら思い浮かばなかった。ただ、あっけに取られた表情で彼女 の吸い込まれそうなほどに澄んだ鳶色の瞳を見つめているだけだっ た。 ﹁ごめんね。こんなことにつき合わせちゃって。ほら、今日が命日 だから︱︱﹂そういうと彼女は再び背を向けカバンの中から白い風 呂敷のようなもので覆われた箱を取り出した。 ﹁遺言があったんだって﹂風呂敷もどきを解きながら彼女は言った。 ﹁うちの両親てさ、妙に心配性だったでしょう。だから、いつ死ん でも良いようにって毎年遺言状を書き直していたそうよ﹂ あははは、と彼女は笑った。僕はそこが笑うべきところか否なの か判断に窮してまともなリアクションが出来ずにいた。そうこうし ている内に彼女は風呂敷を解き、中から桐の直方体の桐で出来た箱 が現れた。桐箱の蓋を開けながら﹁これ遺灰なの﹂と彼女が言う。 ﹁遺言にね。もし自分たちが死んだ時、家族の誰かが残っているな ら、決心がついたときで良いから自分たちが死んだ場所に遺灰をば ら撒いてくれって︱︱書いてあったの﹂骨壷の紐を解きそれを静か に地面に落とした。 ﹁手伝ってくれる?﹂彼女は振り返って言った。 ﹁もちろん﹂僕は言った。﹁どうすれば良い?﹂ 7 ﹁半分。半分飛ばしてくれればいい﹂ 僕はさらさらとした、何の重みのない命だった物体を握り締め彼 女の隣に立った。 せぇーの。で二人同時に遺灰を握り締めていた手を開くと、まる でそのときを待っていたかの如き一陣の風が全ての灰を空のかなた に連れ去っていった。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂僕はその風景に何かしらの感慨を得たがそれを言語と して表すのは不可能だった。本来感情などといったものは言葉に出 来ないものなのかもしれない。 ﹁風はね︱︱﹂夕日に染められた彼女の顔は一段と美しかった。﹁ 全ての生き物の魂を運んでしまうの。そしてどこか遠くの地でまた 新たな命として新たな生き物に宿るの﹂ それっきり言葉はなかった。僕は彼女と一緒に来た道を戻り。そ して同じバスを乗り継いでいつもの家路に着いた。日はすっかり暮 れていた。 家に帰ると真っ先にいわしが出迎えてくれた。しかしそれはあく まで彼女を、であって僕を、もしくは僕達をではなかった。どうい う訳かいわしは僕には懐いてくれなかった。 ﹁にゃー﹂といわしが鳴くと、彼女も﹁うにゃー﹂と言い、顎撫で 攻撃。ごろごろと喉を鳴らし目を細めた猫は本当に幸せそうだ。い つか彼女が猫になりたい、なんて言っていたのを思い出した。 ﹁にゃー﹂といわし。 ﹁ふにゃー﹂と彼女。 ﹁いいかげんにしろ﹂ すぱん。と小気味言い音。 ﹁うー、そんな、叩かなくても良いじゃない。それもスリッパで、 ごきぶりじゃないんだから﹂ねえー、なんて言いながらいわしを抱 き上げる。 ﹁うにゃー﹂わけが解っているのか解っていないのか、しかし絶妙 のタイミングでいわしは相槌を打った。 8 はあ、と溜息を吐いて僕は二階の自分の部屋に向かった。 そう言えば今日はどっちも会社の慰安旅行でいないんだっけ。そ の事を思い出してから連鎖的に重要な事実も思い出した。 ﹁って、メシねえじゃん﹂ 部屋の中にカバンだけ放り込んで再び一階に戻ってキッチンに向 かう。廊下側の扉を開けるとちょうどエプロンをつけようとしてい た彼女とその足元でごろごろしていたいわしが同時に僕を凝視した。 ﹁今日は私が作るからかずりんはそこで大人しくテレビでも見てま ってて﹂彼女はリビングのソファとその向こうにある液晶薄型45 インチプラズマテレビ︵一ヶ月前に懸賞で当たった︶を指差してい った。 僕はおとなしく引き下がることにした。 この家で料理が作れるのは母さんと彼女だけだ。そして父さんと 僕は大の料理音痴で、大抵の食材なら炭素に変える自信はある。そ んな自信があったところでどうしようもないと言うことは重々承知 している。 テレビを点けてWOWOWのもう何度も視た昔のヒット映画をい ちいち話の筋を思い出しながらソファに寝転んで見ていると﹁でき たよー﹂と彼女の呼ぶ声がした。テレビを消して立ち上がる。それ からダイニングに向かった。 ﹁お、中華じゃん﹂ ダイニングの中なかには葫や韮、それにスパイス類の食欲をそそ る香りが充満していた。 ﹁たまにはこういうのもいいでしょ? 家の晩御飯の中華率は極端 に低いから﹂ ﹁そういわれればそんな気がする﹂というか、なんでそんな細かい 事をチェックしてんだ。いや、僕が無頓着すぎたのか? ﹁と、ゆーわけで。熱いうちにとっとと食べちゃってください。冷 めた中華なんて犯罪的にまずいから﹂ ﹁その意見には賛成﹂ 9 いただきまーす。と言って小皿に麻婆豆腐を取り分けて、蓮華で 掬って一口。 ﹁うまい﹂ ﹁でしょ? 陰に隠れてこっそり練習してたから、中華には自信が あるんだ﹂ ﹁それってもしかして、王将のバイトのことか?﹂ ﹁げ、何で知ってるの?﹂ ﹁何でもなにも、みんな知ってるよ﹂ うそー、とあからさまな落胆を見せる彼女。 ﹁どうせ、今年の結婚記念日かなんかに﹃サプライズなプレゼント !﹄とか言って温泉旅行でもプレゼントする気だったんだろ?﹂ ﹁うー、なんでそんなに解るのさ﹂ 図星だったようだ。つーか実子よりも親孝行な居候ってどうなん だ? ん? ああ、この場合糾弾されるべきは僕か。 ﹁伊達に一緒に暮してないからな。お前がどんなこと考えてるかな んて鏡稜子並みにお見通しだよ﹂ ﹁鏡稜子は未来を見るんです﹂ ﹁へー、佐藤友哉も読むんだ。でも確か部屋になかったよな?﹂ ﹁う、それは︱︱﹂ ﹁そう言えばこの前僕の部屋から本が一冊︱︱﹂ ﹁ごめんなさい。掃除がてらに持っていきました。だっておもしろ そうだったんだもん﹂ あっさりと白状した。まあ、僕としてはどっちでもいいんだけど。 ちょっとからかってみたくなっただけだ。 ﹁なんか、かずりん最近ちょっと意地悪だよ﹂ふーんだ。と頬を心 持膨らまして彼女は言った。 ﹁そうかな?﹂ 自分では全く自覚がないけど彼女がそういうのならそうかもしれ ない。 それにしても︱︱。 10 ﹁⋮⋮? なに? 私の顔に何かついてる?﹂ ﹁口のところにご飯粒がついてる﹂ ﹁︱︱︱︱!?﹂慌てて口の周りに手を当てる。もちろんだが、そ んなものはない。﹁もうー﹂と再び膨れっ面の彼女。 ﹁ははは、ごめんごめん﹂ ﹁もぉー、さっきのは訂正、最近かなり意地悪になってきた﹂そう 言いながら彼女は笑っている。僕はひとまずほっとした。あんなこ とがあった後だから︱︱幾ら決心がついたとは言え︱︱少しくらい は落ち込んでいるものだとばかり思っていたから。だから、この彼 女の笑顔に僕は心底安心した。 ﹁うにゃ﹂と足元で泣き声がした。椅子を少し引くと両足の間から いわしがよじ登ってきた。 ﹁うわ﹂と言いながら僕はいわしを抱き上げた。そして指をかまれ た。 僕の手からいわしをひったくると彼女は、﹁こらー、いわし。ダ メじゃない。いくら私の料理が美味しそうだからって、中華料理に は猫の身体に悪いものが沢山入ってるんだから﹂とまるで赤ちゃん に諭すように言った。 へー、そうだったんだ。 彼女に諭されたいわしはそれ以降は、椅子の上に上がってくるこ とはなく彼女の足元でごろごろとなにやら楽しそうにのた打ち回っ ていた。 二人同時にごちそうさまをして、食器を片付けるのを僕も手伝う。 それくらいは僕できるからだ。 流しに二人立って食器洗い。なかなか絵になる光景ではないだろ うか。なんて考えながら、一枚二枚と皿を洗って乾燥棚に成り下が った食器洗い乾燥機の亡骸に置いてゆく。つい先日ご逝去なされた のだった。 ガチャン。という、まるで世界がひび割れたような音と﹁きゃ﹂ と言う短い悲鳴で僕は思考と言う名の宇宙遊泳から強制的に現実世 11 界に引き戻された。 ﹁あちゃー﹂と言いながら割れたコップを見下ろす彼女。﹁またや っちゃった⋮⋮﹂ 彼女は料理を作るのはうまいがその後始末が破滅的なほどに下手 なのだった。洗い物で彼女が何かを壊す確立はほぼ一〇〇パーセン トないし九九・九九パーセントと言っても過言ではない。妙な所で おっちょこちょいなのだ。 ﹁すぐ片付けるから﹂と彼女はその場にしゃがみ込んで、手で拾え る分の欠片を拾おうとした。﹁きゃ﹂と再び短い悲鳴。 ﹁ちょい、みしてみ﹂ ﹁大丈夫。大したことないって﹂ ﹁お前の大したことないは、政治家の公約くらい信用できない﹂ ﹁うー、そんなことないよ﹂ ﹁いいからみせろ﹂と強引に彼女の手を取って傷を確かめる。﹁ほ ら、いわんこっちゃない﹂ 切り口一センチくらいの結構、ご立派な切り傷だった。 マキロン ﹁少し待ってろ﹂そう言って俺はリビングにある棚へと向かった。 確か非番眼の引き出しに絆創膏と消毒薬があったはずだ。 絆創膏と消毒薬を持ってキッチンに戻ると大人しく彼女が待って いた。 ﹁ちょっとしみるぞ﹂そう言って消毒薬を吹きかける。 ﹁っ︱︱︱︱﹂と彼女。目を瞑って痛みに耐えている。昔から痛い のには相当弱い。 それからティッシュで一度消毒薬をふき取ってから傷口に絆創膏 を張ってやる。 ﹁ほい、これで完了っと﹂ ﹁ありがと﹂ ﹁どういたしまして。それじゃ、後は向こうでテレビでもみて待っ てて。僕が残り終わらせとくから﹂ ﹁うん。ごめんね。なんか、迷惑かけちゃったみたいで﹂ 12 ﹁そういうことは言わないの。家族というものは助け合いが基本。 ってね﹂ 取り敢えず、割れたコップを拾い集めて、それから掃除機をかけ て手で拾えなかった小さな欠片を除去してから再び洗い物に取り掛 かる。なにやら背中に視線を感じるが、気にしないでおこう。きっ といわしに違いない︵そう思い込むんだ︶。 一通り洗い終わって、ふう、と一息。そこでテレビの音が聞こえ ないことに気がついた。 もう部屋に戻ったかな。 ﹁さて、僕も︱︱っ!?﹂ 突然目の前が真っ暗になった。 それが誰かによって視界を遮られている、と気がついたのは数秒 遅れてのことだ︵ついでに足元にも何かがまとわり付いている︶。 背後からは鼻腔を擽る花の︱︱椿かな?︱︱人工的な香り。そう、 うちのシャンプーの香り。なるほど。そういうことか。 ﹁だーれだ﹂﹁うにゃ﹂ いわしも共犯かよ。 ﹁へへービックリした?﹂と振り返ると彼女は嬉しそうに笑ってい った。 ﹁陣内智則が藤原紀香と婚約したのと同じくらいに﹂ ﹁素直に﹃ビックリしました。ごめんなさい﹄。って言えばいいの に﹂ ﹁ご存知の通り僕は無駄に負けず嫌いだからね。さっきのが最大の 譲歩だ﹂というか、あのニュースには心底ビックリしたけど。 ﹁お風呂空いたよ﹂ ﹁あいよ﹂ 風呂から上がってリビングに行くとソファの上でいわしと彼女が じゃれあっている所だった。彼女の上でいわしがごろごろ転がって、 その下で﹁くすぐったいよー﹂とか言いながら彼女もごろごろして 13 いる。 どっちも猫みたいだ。 ﹁相変わらず仲いいなあ﹂ ﹁あ、かずりん。︱︱きゃ﹂いわしが彼女の顔を踏んだ。やったな ー、とか言いながら腹の辺りをこそばして反撃。 ﹁その懐き度を少しくらい僕に分けてもらいたいくらいだ﹂ ﹁そんな事言ってるから懐いてくれないのよぉ。ねー﹂ うにゃ? といわしは首をかしげた。 ﹁そんなもんかなあ﹂ ﹁そんなもんだよ﹂ 猫って気難しい動物なんだな。 ボーイズラブ ﹁いわしは世界で三番目に大好きだな﹂と彼女はいわしの首を撫で ながら言った。 ふにゃー、ごろごろ。 ﹁村上春樹の次?﹂ ﹁うん。森博嗣の一つ前﹂ ﹁へえ? 以外﹂ ﹁どうして?﹂彼女は首をかしげた。 ﹁ミステリも読むんだな。てっきり純文学と御耽美な︱︱ぐあっ!﹂ ﹁あー、こら。ダメでしょいわし。かずりんにそんなことしたら﹂ 見事なボディーブローがキマッていた。つーか明らかに自分でや ったろうが。 ﹁で、何の話だっけ?﹂ ﹁ひ、人の趣味は様々って話﹂わき腹を押さえながら僕は言った。 ﹁そうそう。他にも舞城とか流水とかも読むよ?﹂ ﹁うそ! 流水持ってんの?﹂ ﹁あれ、知らなかったっけ?﹂ ﹁ああ、聞いてない。僕はてっきり純文学とご︱︱ゲフン﹂ 同じ轍を二度踏む所だった。 彼女の顔に張り付いた笑顔が恐ろしすぎる。 14 ﹁かずりんは青春新本格ミステリまっしぐらだもんね﹂ ﹁まあな。最近のオススメは辻村深月だ﹂ ﹁へえ。ねえねえ、かずりん。唐突に、なんだけど︱︱﹂ ﹁なんだよ﹂ ﹁好きな人って居る?﹂ ﹁本当に唐突だな︱︱﹂ 好きな人︱︱か。 居るっつーか目の前にいるんだけど⋮⋮。 ﹁ノーコメント﹂恥ずかしいので敵前逃亡。 ﹁あ、ずるい﹂と彼女。﹁男らしくないぞー﹂ ﹁どうせ僕は女々しい男ですよ﹂と開き直ってこの場を凌ごうとし た。それが上策だと思ったからだ。 でも︱︱。 ﹁私は︱︱﹂彼女は夕方と同じ眼をして言った。﹁いるよ﹂ 僕はある種の予感を感じて、なんとも形容できない胸騒ぎを感じ た。 ﹁ずっと、ずぅ︱︱っと、昔から知っている男の子で、私は勝手に 相思相愛だと思ってる﹂ なんだそりゃ。と突っ込もうと思ったがどう考えてもそんな空気 じゃなかったので心の中だけでとどめておいた。代わりにいわしが ﹁にゃあ﹂と鳴いた。 いわしの頭を撫でながら彼女は続ける。﹁でも、近すぎる所為な のか、単に私に勇気がないだけなのか。その人に気持ちを伝えるこ とに背徳感のようなものを感じてるの。そう、まるで実の兄弟に恋 をしている、そんな感じ﹂ いわしが再び﹁にゃあ﹂と鳴いた。 ﹁なーんてね﹂と彼女は悪戯が成功した子供のような笑顔でいった。 ﹁今のは忘れて?﹂ ﹁さあね﹂ ﹁うーんと、じゃあ﹂と彼女はペン立てから銀色のプッシュ式のボ 15 ールペンを一本取って、サングラスを掛ける振りをした。 ﹁これを良く見て﹂ ﹁﹃メン・イン・ブラック﹄かよ!﹂ ﹁あーん、もう。じゃあ、キスして?﹂ ﹁なんの﹃じゃあ﹄なんだよ。つーか、脈路がないにもほどがある ぞ。そんな首を傾げて言っても﹂可愛いのは認めるけど。 ﹁人が行動するのに脈路も伏線も必要? 物語じゃないんだよ? 人生は、あえて言うならアドリブ劇。観客の許す範囲なら何でもや っていいことになってるの﹂ ﹁観客って?﹂ ﹁神様﹂ おお、松本人志︵ジーザス!︶。 ﹁そう言えばかずりんの神様はまっちゃんだっけ﹂呆れたように彼 女が言った。 ﹁ああ、一番尊敬している人間だ﹂ ちなみに二番目は京極夏彦。 ﹁あーあ。なんかシリアスな空気じゃなくなっちゃったな﹂。特に まっちゃんあたりからと、いわしと一緒にノビをしながら彼女は言 った。﹁こんなのじゃダメだな。私﹂ ﹁なにがダメなの?﹂ ﹁うーんと、どうしても﹃すべてがFになる﹄の真賀田四季の動機 が納得いかないところ﹂ ﹁なにいってんだか﹂ ふと時計をみると午後十一時を指していた。そんなに話し込んだ 覚えはないけど、夕食が遅かった所為だろう。 ﹁じゃあ、そろそろ寝るか﹂ ﹁えー、もうちょっとだけ﹂ ﹁お前、朝弱いだろうが﹂ ﹁大丈夫、かずりんが情熱的な接吻で失神するほど起こしてくれる から﹂ 16 ﹁変な妄想はやめろ!﹂ つーか失神したら起きれないだろ。 *** 人はとても嘘つきだ。 いつも自分を騙しながらのうのうと生き永らえている。 真実に気付きながらも気付かない振りをして、他人の心を無意識 に、そして故意的に踏み躙っては穢している。 そんな人間居ない方がマシだ。 *** 時々思い出すのはやっぱり、いわしが最後まで僕に懐いてくれな かったことだ。基本的に彼は、彼女ばかりに懐いて僕に対しては、 毛を逆立て爪を立て牙を向けた。 ここ数年で一番心残りなのは何を隠そう、そのことなのだ。僕の 中では、線を一本書き忘れてはずした漢字の問題や、足し算引き算 のイージーミスで落とした定積分の問題なんかよりも猫一匹が命尽 きる最後の瞬間まで僕に反発したことこそが最大の後悔であるのだ。 ︱︱まったく。 雨が降ると余計な事を考えすぎる。 それに気がつけば雨脚も強まっているじゃないか。これは急がな いとずぶ濡れのネズミになってしまう。 少しだけ歩を速めてそれから走り出そうとしたとき、遠くの方で はあるけれど、赤い傘が咲いているのが見えた。 *** いつものように過ごした朝も普遍的過ぎる単調な学校の時間も終 17 え、僕達は再びの帰路に立った。彼女とどうでもいい事を話しなが らのいつもの帰り道だった。 そう、何もかもが普遍的だった。 だからこそ。 その変化は起こってしまったのだ。僕はそう思う。きっとトンネ ル効果を起すよりよっぽど高い確率で、起きてしまう事柄なんだと。 いつものように二人声をそろえて﹁ただいまー﹂とドアを開けた。 しかしそこにはあるはずの日常がなかった。 ﹁あれ、いわしは?﹂と彼女が言った。 ﹁散歩じゃないの。ほら、最近太り気味だったから、あいつもきっ とそういうのは気になるんだろう﹂ 家の玄関のドアの下の部分には四角く切り取られた猫専用出入り 口なるものが設置されている。しかも手作りだ。父さんの日曜大工 の手慰み程度に作られたもので、これが出来てからいわしはよく、 昼夜問わず抜け出してはきっちりご飯の時間に返ってきた。だから 僕は言った。﹁腹が減ればそのうち返って来るだろうさ﹂ ﹁そう、だよね﹂と彼女は少し不満げに、しかし頷いた。 ︱︱そのときに既に予感を感じていたのかもしれない。 ﹁今日の晩御飯は何にしよっか?﹂彼女が聞いた。 僕はソファに座ってテレビのチャンネルを変えながら﹁なんでも﹂ と答えた。 ﹁もー、それが困るんだって﹂ ﹁んー、じゃあ僕の大好物尽くし﹂ ﹁ラーメンと餃子?﹂ ﹁炒飯も﹂ 僕は安っぽい中華が大好きだ。 ﹁じゃあ間を取って回鍋肉﹂彼女は言った。 ﹁八宝菜﹂と僕。 ﹁天津飯﹂と彼女。 ﹁じゃあ、秋刀魚の塩焼き﹂ 18 ﹁あ、それいいかも。安売りの広告挟んであったし﹂ そういうと彼女はテレビを消した。 ﹁あ、なにすんだよ﹂ ﹁お買い物よ。お買い物。一緒に行くの﹂ ﹁どうしてさ?﹂ ﹁うーん、なんとなく﹂ はあ、と溜息を吐いて僕は立ち上がった。それから一度身体を伸 ばした。腰と背骨の辺りがペキだかバギだかと乾いた音で鳴った。 彼女の理由としての﹃なんとなく﹄は取り敢えず従いなさい的なニ ュアンスを含んでいる。 戸締りを確認してから僕達は歩き出した。 ﹁なんか久しぶり﹂と彼女は言った。 ﹁なにが?﹂と僕は聞いた。 ﹁こうして二人でお買い物に行くのが﹂ ﹁そうだっけ?﹂ ﹁そうだよ﹂彼女は少し拗ねたような口調で言った。﹁最近あんま り構ってくれないし﹂ ﹁なんのことやら。僕がお前に構ってやらないといけない義理はな いはずだけど?﹂わざと冷たい事を言ってみる。 ﹁あ、ひっどーい。私なんか散々かずりんを構ってあげてるのに﹂ ﹁逆だろ。逆。僕がお前を構ってやってんだよ﹂ ﹁ぶー、かずりんなんか性格悪くなってない?﹂ ﹁そんなことないけど?﹂ただ、お前をからかうのが楽しいだけだ よ。﹁そういうお前こそ、なんか昔と比べるとキャラ変わってると 思うけど?﹂ ﹁どの辺が?﹂ ﹁うーん。よく喋る﹂ 確か昔の彼女はこんなに良く喋る女の子じゃなかったはずだ。少 なくとも、﹃国境の南、太陽の西﹄をいつも読んでいるような女の 子︵自分でもたまにこの規定がわからないときがある︶だったはず 19 だ。 ﹁でもそれって、いい方向じゃない?﹂ ﹁ある意味ではね﹂僕は言った。﹁まあでも、おしゃべりは嫌いじ ゃないから僕はそのある意味に大いに感謝だ﹂ ﹁うー、そういう訳わかんないことばっかり言ってるからいわしに 嫌われるんだよ?﹂子供を諭すような口調だ。﹁いわしはきっと小 難しいことばっかり考えてる人間がきらいなんだよ。うん、絶対そ う﹂ 勝手に自己完結してるし。﹁お前がそれを言うなよ。四六時中﹃ 蛍﹄に出てきた太字の格言みたいなのの意味を考えてるくせに﹂ ﹁﹃死は生の対極ではなくその一部として存在している﹄でしょ? だって私この言葉大好きなんだもん﹂ ﹁そっちのほうが訳わかんないと思うんだけどな。だって明らかに 死は生の対極だろ? だってそうじゃないと、互いの概念が成り立 たないじゃないか﹂ ﹁だからこそ、一部なの。だって、﹃生﹄と言う概念があるからそ の対極としての概念﹃死﹄が生まれるの。この二つの概念は対極の 意味合いを持ちながら常に、表裏一体。片方が欠ければもう片方が 成り立たない。二つで一つ。だからこそ死は生の一部で、生もまた 死の一部なんだよ︱︱と。これがこの前思いついた結論の一つ。ど う?﹂ ﹁なかなかいいんじゃないか? 少々一般論臭いけど﹂ ﹁最後の一言はようけいです。そんなんだから彼女が出来ないんだ よ﹂ ﹁そんな面倒なことばっかり考えてるから彼氏が出来ないんだよ﹂ ふーんだふーんだ。と互いにあさっての方向をみる。それから数 秒。同時に笑い出す。よく考えてみれば僕達ってまともな喧嘩した ことないよな。 ﹁そういえば、私もかずりんも彼氏とか彼女出来たことないよね﹂ 彼女は言った。﹁告白されたことはある?﹂ 20 ﹁まあ、あるっちゃああるけど⋮⋮﹂ 二ヶ月ほど前に一年生の部活の後輩に告白されたがあっさりと振 ってしまった。思いの外、罪悪感はなかった。 ﹁そういうお前はどうなんだよ﹂ ﹁あるよ﹂ ﹁へえ﹂ まあ、当然といえば当然か。彼女の美しさ、かわいらしさは校内 でも五本の指に入ると下馬評で噂されるほどの洗練されたものだ。 実際、彼女の肌は透き通るように白く、陶磁器のようであり、さら さらと風に流れるロングヘアーは、その一本一本が決めの細かい絹 のように繊細でかつ、力強い印象があった。そしてなにより、彼女 の一番の美点は眼だと僕は思っている。彼女の眼は、大きすぎず小 さすぎず︵あくまで僕の好みで、だ︶のサイズでくっきりとした二 重、黒目勝ちで常に何か訴えかけているような眼差しは、少し潤ん でいて、独特の色気があり鳶色の瞳がそれをより強調している。 広告どおりに安売りをしていた秋刀魚を二尾入りのをニパック購 入して、ついでに大根と切らしていたポン酢も買ってデパートを出 た。実にあっさりとした買い物だ。彼女らしくていい。 ﹁そういえばさ﹂空を仰ぎながら彼女は言った。﹁私のこと名前で 呼ばないよね﹂ 僕空を仰いだ。雲が黄金色に光っている。﹁そういえば、そうだ な﹂ ﹁どうして?﹂彼女は僕の前で振り返って立ち止まった。二つの潤 みを含んだ鳶色の宝石が僕の心の裡を見透かしているようだった。 ﹁どうして、だろう﹂僕はまたしても誤魔化した。またしても? ﹁ねえ、じゃあ、今から私のこと名前で呼んで?﹂ ﹁え? あ、いや、その⋮⋮﹂なんつーか、恥ずかしい。﹁家に帰 ってからじゃダメか?﹂ ﹁だーめ。絶対だめ。今すぐ、ここで。もう、﹃僕は死にましぇー 21 ん﹄的な感じで。︱︱あ、でもでも、トラックの前に飛び出したり したらダメだからね﹂ ﹁解ってるよ。僕だってあと最低でも五十五年は生きたいから﹂ ﹁ごじゅうごねん?﹂ ﹁大体それくらいだろ? 平均寿命﹂ 七十ニか三だったはずだ。 ﹁じゃあ、私はあと五十四年と三百六十五日と二十三時間五十九秒 九九⋮⋮。は生きたいな﹂ ﹁なんだよ。それ﹂ ﹁﹃アンドリューNDR114﹄は見たことあるでしょ?﹂ ﹁ああ、なるほど。でもあれなら僕の方が先に死ぬことになるけど ?﹂ ﹁ダメダメ。私の最後はかずりんが見取ってその僅か一秒後にかず りんも私の後を追いかけるの。ほら、かずりんて足速いから一秒位 のタイムラグなんてすぐに追いついちゃうもん。それで、死後の世 界で二人で暮らすの。なかなか素敵な老後だと思わない?﹂ ﹁つーか、それ死後な。というかだ、僕とお前が夫婦である前提じ ゃないとそれは成り立たないぞ﹂ ﹁うーん。それじゃ、結婚してください﹂ ﹁えい﹂ すぱん。 ﹁うー、どうして叩くのよ﹂頭を抑えながら彼女はこちらを睨みつ ける。 ﹁そういうことは軽々しく言うもんじゃありません。言葉の価値っ てのは使えば使うほど︱︱﹂ ﹁⋮⋮軽々しくじゃないもん﹂少し拗ねた口調。そして可聴範囲ギ リギリの声、でも確かにそういったように聞こえた。 ︱︱無意識に人の心を踏み躙る人間なんて居ない方がましだ。 22 ﹁えっと、それはその⋮⋮﹂どう対処して良いのか全くわからない。 ただ、眼前には肩を震わせ俯いている一人の少女が居た。そして僕 は彼女を愛し、彼女は僕を愛していた。ただそれだけだった。 ﹁もう一度言うよ。私の名前を呼んで、お願い⋮⋮!﹂ 悲痛な心からの叫び。それを聞いた僕はなおも無言でその場に立 ち尽くしていた。ああ、何て人間は、いや、僕は無力なんだ。その 時、僕はそう思った。 震えそうになる膝を無理やりに押さえつけて僕はゆっくりと口を 開いた。 ﹁⋮⋮ゆえ﹂喉が震えてはっきりと発音できない。 ﹁もっと大きな声で!﹂ ﹁⋮⋮由枝!﹂僕は由枝を抱きしめた。人が居なくて良かったと心 底思った。こんな所を見られたら一週間は近所を歩けない。 ﹁また余計な事考えてるでしょ﹂由枝はいった。 ﹁ああ、意外と胸が大きいなとか﹂ ﹁⋮⋮ばか﹂言って彼女は僕の胸に顔を埋めて泣いた。声無き慟哭。 それが意味するものに僕は気付くことが出来なかった。そしてかの ︱︱由枝がこんな強行に出た︵結果は大成功だが︶理由に。 それからの残り五分ほどの帰り道は二人手を握って歩いた。もち ろん、指と指を絡めさせるあの握り方だ。 いわしが帰ってきたのはそれから二日後のことだった。どろどろ に体中汚れて初めて出会った日の事を僕は思い出していた。由枝は どろどろになったいわしを抱き上げると風呂場に連れて行き、シャ ワーを思い切り浴びせた。いわしは気持ちよさげに眼を細めている。 時折、うにゃーと鳴いて滴り落ちる雫を舐めた。 それから二日ほど、いわしは隠居を決め込んだ老犬の如く家の中 から出て行こうとしなかった。まるで何かを惜しむかのように、お 気に入りのクッションの上で一日中ごろごろして、由枝や母さんに おなかを撫でられていた。まるで犬のようだった。 23 ︱︱そしていわしは居なくなった。 いわしが突然どこかに行って暫く帰ってこないことは今まで何度 もあったけど︵つい先日も、だ︶、でも、今回ばかりはそうでない と、なぜかそう感じていた。それは由枝も同じだったようで、寂し そうに、いわしのお気に入りだったクッションをだきながら彼の名 前を呟き続けていた。 彼は由枝の孤独の象徴であり、また再生の標識でもあった。由枝 は同時に二つのものを見失い、一匹の猫を失ったのだ。 ﹁ねえ、かずりん﹂由枝はどこか遠く、あるいはすぐ近くの見えな い何かを見詰めながら言った。﹁いわしは元気かな?﹂ ﹁ああ、元気だろ﹂ ﹁本当に?﹂ ﹁本当に﹂僕は答えた。﹁あいつは今もどこかで欠伸でもしながら マタタビの国にある猫じゃらしの森でごろごろしてるさ﹂ ﹁うん。そうだよね﹂由枝はそういうとクッションを床に置き、座 ったまま首だけ回してこちらを振り返った。﹁かずりん﹂ ﹁なに?﹂ ﹁キスして?﹂ ﹁もちろん﹂ 変な返事だな、と我ながら思った。 *** 傘の少女は言った。とても小さな声で、口も動かさずに。もしか したら本当は何も喋っていないのかもしれない。でも確かに僕は聞 こえた。﹁人殺し﹂ ﹁なんだって?﹂ ﹁あなたは人を殺しました﹂ 24 何て物騒な事を。まるで少女の風体と言葉の内容が合ってない。 下手な吹き替えの洋画を見ているようだ。 ﹁君は誰なんだ?﹂僕は訊いた。 少女は首を横に振ってから僕の眼を見詰めて﹁それは貴方が決め ること﹂と言った。 てんで訳がわからない。 だいたいどうして僕はこんな見ず知らずの少女に人殺し呼ばわり されないといけないのか⋮⋮? ﹁親友が死んだ時、自分は自殺をしなければいけませんと言ったの は︱︱ちょっと違いますが︱︱中原中也でしたね。では人殺しは、 大切な人を殺した人殺しはどうしろと言うのでしょう。そこまで中 原中也は教えてくれませんでした﹂少女はそこで一度空を仰いだ。 ﹁人殺しは、一生、生きなければなりません。自分が人殺しだと言 うことを周囲にひけらかしながら、へらへらと笑いながら生きなけ ればなりません。誰も赦してはくれません。人殺しは最後の最後ま で苦しんで死ななければならないのです﹂ 少女が言っている事を僕は全く理解できなかった。 ﹁君は誰なんだ?﹂だから訊いた。何かを尋ねずにはいられなかっ たのだ。そうしなければ、この体が、心ごとバラバラになってしま いそうな気がしたから︱︱。 ﹁私は誰でもありません。強いて言うなら貴方の心に巣食う人の顔 をしたハエの仲間だと思っていただければ結構です﹂ ﹁君は僕に大切な人を殺せと?﹂ ﹁いえ、貴方はすでに殺しています。ですから私はこうして貴方の 目の前でこのように戯言を垂れ流し続けているのです﹂ ﹁僕が誰を殺したって?﹂ ﹁貴方は気がついていないのですね。当然です。まだ死んでいない のですから﹂ ﹁は︱︱?﹂ 本当に訳がわからない。 25 僕が殺したのにまだ生きている? ﹁貴方はその事を今思い出している途中なのではありませんか? ですから先ほどあのような場所に立ち尽くしていたのではないので すか?﹂ ︱︱嗚呼。 成る程。 そういうことか。 *** 素敵なまでに予想を裏切って、いわしはいなくなってから一ヶ月 ほどしてひょっこりと帰ってきた。発見したのは僕だった。庭木の 陰でごろごろしている所をたまたま朝、リビングの窓から発見した のだった。 ﹁おーい、由枝ぇー﹂と洗面所のところでうつらうつらしているた 由枝を呼んだ。程なくして﹁ほーひはほー﹂と歯ブラシを咥えた由 枝が姿を現した。 ﹁いわしが帰ってきてるぞ﹂ ﹁ひはひ⋮⋮?﹂うほっ!? と泡を飛ばしながら由枝は叫んで洗 面所に一旦もどってまたやって来た。もう歯ブラシは咥えていない。 ﹁どこっ!?﹂由枝は訊いた。 ﹁ほら、そこにいる﹂僕は庭木の根元を指差した。モンシロチョウ を仰向けに寝転びながら追いかけていた。﹁さっきカーテンを開け たらいたんだ﹂ ﹁⋮⋮うん﹂由枝は涙混じりの鼻声で返事をした。どっちかといえ ば僕が何かを言ったからとりあえず答えたって程度の返事だった。 それほどに由枝はいわしを寵愛しているのだ。少しばかり嫉妬した 事は由枝には秘密だ。猫に嫉妬だなんて僕のプライドが許さない︵ そんなに立派なもんじゃないけど︶。 ﹁ねえ、かずりん﹂ 26 ﹁どうした?﹂ ﹁私の頬にキスして﹂ ﹁普通抓ってだろ?﹂ こんな時にでもジョーク言えるなんてさすがだ。 ﹁だって痛いんだもん﹂痛いのはきらい、と由枝は答えて窓を開け、 サンダルを履きテラスに下りた。﹁いわしー﹂由枝が呼ぶといわし は、ビクッ、と動きを止めて由枝の方を振り向き、うにゃ? とな いた。 間違いない。あの惚けた素振りはいわしそのものだ。他の猫には あんな惚けたリアクションはできないはずだ。 ﹁マタタビの国はもう飽きたのかなあ⋮⋮﹂庭で電線にとまったス ズメを狙うために姿勢を低くしているいわしを見ながら由枝は言っ た。 届くわけないのに、と思いながら﹁もしかしたら性に合わなかっ たんじゃないかな?﹂と僕は答えた。﹁あそこは色んな決まりごと があるんだよ﹂ ﹁例えば?﹂ ﹁例えば︱︱﹂僕は少し考えてから、﹁ご飯のこととか﹂と答えた。 ﹁ごはん?﹂ ﹁そう、マタタビの国ではネズミ以外の肉は食べられないんだ。そ れ以外の肉を口にした猫は三味線にされてしまうんだ﹂ ﹁酷い﹂由枝は言った。﹁じゃあ、他には?﹂ ﹁毛の色によって僧侶と貴族と平民に差別化されてしまう﹂ ﹁なんか昔のフランスみたい﹂微笑みながら言った。﹁じゃあいわ しは?﹂ ﹁残念ながら平民。でも商人くらいにはなれるかな? マタタビの 国では三毛猫が王室なんだ。その下に灰色の猫︱︱つまり聖職者だ ね。そしてその次︱︱貴族が尻尾のピンと立った赤毛の猫。それに 黒猫。それ以外はみんな平民﹂ 27 ﹁黒猫は貴族なの?﹂ ﹁うん。でも王政には反対の。彼らはみんなパレ=ロワイヤルに毎 日通うような。ほら、猫って集会するだろ? あれはマタタビの国 について話し合ってるんだ﹂ ﹁へえ﹂ ﹁いわしはきっとマタタビの国でも有力な平民なんだよ。だから一 ヶ月も家を空けて、マタタビの国に滞在していたし、商人にもなれ るんだ。もしかしたら国民議会のようなものを設立していて、球戯 場の誓いまで済ましてしまっているかもしれない﹂ ﹁じゃあもうすぐ革命ね﹂ 由枝はとても楽しそうに僕の与太話を聞いている。いわしは相変 わらず届くはずのない獲物に爪を立てている。 ﹁革命が始まったらまたいわしはいなくなるのかなぁ⋮⋮﹂しんみ りとした声で由枝は言った。 ﹁そうだね。当分帰ってこられないかもしれない。下手をすればそ のまま猫たちの代表に選ばれてしまうかもしれないし、そうなれば もう一生いわしと会えないかもしれない﹂ ﹁そっかぁ⋮⋮﹂寂しそうに呟いた。﹁ねえ、かずりんはどっちの 方が良い?﹂ ﹁なにが?﹂と僕はぼけてみた。 ﹁いわしとこれからも一緒にいるのか、それとも生き別れるのか﹂ ﹁それを決める権利は僕にはないよ。だって彼は由枝のいわしだも ん。どうしてか僕のことはいつだって敵視しているからね。あいつ﹂ ﹁あははは、確かにそうだね。でもなんでだろう? 適当な事を言 った記憶はあるけど本気でその理由を考えて事はなかいかも﹂そう いうと由枝は少し考え込んだ。 僕はその間中ずっと庭を見詰めていた。いわしが右に左にと走り 回っては姿勢を低くしている。とても滑稽な感じのする光景だ。 ﹁嫉妬だね﹂由枝は言った。 ﹁嫉妬? いわしが僕に?﹂ 28 ﹁そう。私とかずりんがラブラブしてるから﹂ ﹁そういう単語を使うとなんだか、僕と由枝の関係が安っぽいもの のように感じるんだけど⋮⋮﹂ ﹁えー、そうかなぁ? いいじゃん、ラブラブしてる。実際そうだ し﹂そう言って由枝は僕の顔を覗き込んだ。しかも上目遣いで。自 慢じゃないが僕は由枝のこの顔に弱い。まるで小型犬のように庇護 欲をそそるというのかなんと言うのか、思わず抱きしめたくなるよ うな、そんな表情だ。 そんな表情に騙されて︵本人には自覚なんてないんだろうけど。 なんだってこいつは天然だからな︶これまで様々な用途不明のグッ ズを買わされて来た︵貢ぐとはまた別だ︶。 ﹁私ね、思うんだ。この世の中で自分が好きなものに順位をつける のは、途方もなく愚かな事だって﹂ ﹁その考えは矛盾しているような気がするけど⋮⋮﹂ ﹁うん。だって一番はかずりんで二番目は村上春樹で三番目がいわ し。こればっかりは動かしようはない絶対厳守の世界の法則﹂言っ てから少し恥ずかしくなったのか、由枝は少し頬を染め、顔を背け た。 どうしようもないくらいに愛らしい。それが僕の感想だ。 *** 気がつくと由枝は大学生で僕はしがないフリーターだった。 僕らは市内にアパートを借りて二人で暮していた。同棲と言うヤ ツだ。もちろんいわしも一緒で、二人と一匹で暮していた。 昼間、僕はバイトで彼女は授業があるから、いわしは一匹︱︱い や、一人だけで残されていた。ときどき、自力で窓を開けて出て行 ったりもしていた。 ﹁結婚しよ﹂そう切り出したのは由枝だった。僕はちょうどそのと き、出版社の新人賞に送りつける原稿を書いていて、彼女はベッド 29 の上で編み物をしてる時だった︵マフラーだそうだ︶。ら、と打つ つもりが﹃rq﹄と言う意味不明な文字の羅列になってしまった。 ﹁私が卒業して、かずりんがデビューしたら結婚しよ?﹂彼女は首 を左側に傾げた。右側は単に甘える時だけだけど、左側は本気の掛 け値なしの本音を言う時にそうなる。僕は息を飲んで彼女の鳶色の 潤んだ瞳を見つめた。 ﹁だめ︱︱かな⋮⋮?﹂ ﹁いや、そんなことないけど。でも⋮⋮﹂ハードル高いなあ。それ。 由枝の方はマジメに授業に出てマジメに勉強してテストを受けてま ともに卒論を書けばそれで良いけど、僕の場合は才能やら運勢やら が複雑に絡み合った非常に難解な条件だ。 ﹁大丈夫。かずりんなら絶対に、大丈夫だから。私が言うんだもの 間違いないわ﹂まるで僕の心を読んだかのようなタイミングでの言 葉だった。僕は少なからず彼女に辟易した。﹁かずりんには才能が ある。絶対に。あとは運だけだよ﹂ ﹁それが一番難しいような気がするけどな﹂ ﹁大丈夫だって。私には確信があるの、あなたなら絶対にやれるっ て﹂少し大人びた口調。童顔の由枝には少しアンバランスだった。 *** 気がつくと傘の少女はいなくなっていた。急いで辺りを見渡して みたが、どこにも赤い傘の少女はいなかった。それどころか人がい ない。よかった、と思う。もし、傘の少女が僕だけに見えていた幻 ならば、僕は何もないところで一人で喋っていたことになる。それ では丸きり変人だ。精神異常者と思われても文句は言えまい。 それにしても、僕が人を殺した? 幻にしたって少し悪質すぎは しないか、あるいは荒唐無稽すぎる。 僕は再び歩き出した。雨はまだ降っている。嗚呼、さっき傘を借 りればよかった。どうせ幻の少女が持っていた傘だ。なくなっても 30 困りはしないだろう。雨脚は強まるばかりで僕はこの天気に少しば かりの悪意を感じる。 なぜだろう? なにが﹃なぜだろう?﹄なのか解らないが、無意識にそう呟いて いた。 *** 揺樹数奈は僕の従妹だ。一つ下の、それも仲の良い。毎年夏休み の三日目から家にやってきて、お盆過ぎまで滞在して帰っていく。 彼女の事を一言で言い表せば﹃足の遅い台風﹄だ。ちょうど台風が 多い季節という事でそう名付けたが、別に嵐でもいい。まあ、なん でもいいのだ。 ﹁お兄ちゃんと由枝ちゃんて付き合ってるの?﹂ 何気なく数奈が訊いた言葉。 そのことに対して僕らは顔を見合わせて黙り込んでしまった。 由枝の膝の上ではいわしがごろごろしていた。 点きっ放しで誰も見ていないテレビの笑い声がやけに大きく聞こ えた。 そのまま答えられずにいると数奈は﹁なるほどぉー﹂と一人合点 をして、﹁二人とも仲良いね﹂と言った。 何のことか、と思って数奈に訊こうとしたときに、右手に暖かな 圧力を感じた。はっとして由枝を見たが彼女は気付いていないよう だった。どうしようかと少し迷ってから小声で、由枝、と呼んだ︵ 尤もこの距離だから数奈には丸聞こえだろうけど︶。 ﹁なに? かずりん﹂ くすくすと数奈は笑ってる。 ﹁手﹂僕は短く言った。恥ずかしくてそれ以上はいえなかった。 ﹁え? あっ⋮⋮﹂ あうー、と言いながらも手を離さない。って、おい! 31 ﹁ごちー﹂と言いながら手を合わせる数奈。﹁いいなー﹂ ﹁なにが﹂僕は訊いた。 ﹁幼馴染どうしで恋人同士なんて⋮⋮。ちょっとベタだけどマンガ とか小説っぽくて憧れるなぁ﹂ ﹁近所にすんでるヤスヒロ君は?﹂ ヤスヒロとは数奈の家の近所︵確かお隣さんだったはず︶に住ん でいる、数奈の幼馴染のことだ。僕の記憶が正しければ逆三角形の 輪郭で眉は細くもキリッとしていて、薄い唇も同じくキlリッと引 き締っていて、何より目に力がある。まあ、なんか訳のわからない 御託を並べたが、一言で言い表せばジャニーズ系といったところか。 ﹁だめだめ。ヤス君は野球が恋人だから、人間になんて興味がない の﹂呆れたように数奈は言った。﹁あんなに鈍いのは反則だよぉ⋮ ⋮﹂ ﹁それなりにアプローチはしてるんだ﹂由枝は言った。 ﹁まあ、ね。でもまったく﹂はあ、という溜息とともにガックリと うな垂れた。﹁でもお兄ちゃんと由枝ちゃんが付き合えたんだから、 あたしに不可能なはずはない﹂急に身体を起こしてぎゅっ、と握り こぶしを作って仰角四十五度くらいでどこか遠くを見つめながら言 った。 ﹁あのな、どういう意味だ?﹂ ﹁だって、ヤス君とお兄ちゃんとを比べたら絶対にお兄ちゃんのほ うが鈍いもん﹂ねー、と由枝を見て言った。 ﹁え? う、うん。そうだよ﹂戸惑いながらに答えた。 否定はしないのか。つーか僕ってそんなに鈍かったのか? ﹁あたしの記憶では由枝ちゃんは昔っからずっと、ずぅ︱︱っと、 お兄ちゃんのことが好きだったんだから﹂また、ねーと言った。 ﹁うん﹂今度は力強く頷いた。﹁そうだよ。かずりんの鈍さこそ犯 罪級﹂ きっぱり言われてしまった。つーかさっきから貶されてばっかだ な。いや、この場合はプラス思考で行こう。﹃僕は純真無垢なんだ﹄ 32 。よし。 ﹁で、どこまで行ったの?﹂数奈は言った。﹁一つ屋根の下に住ん でるんだし、間違いの一つや二つはあるでしょ?﹂物凄く嬉しそう、 いや、楽しそうに僕らに好奇の目を向けた。 ﹁オッサンかお前は﹂ というか、家の親父だ。どういう訳か家の親父︱︱いや、母さん もか︱︱はどうしてか、その﹃間違い﹄とやらを後押ししてくれる。 まったく、青少年育成の観点から見れば有害なことこの上ない。 ﹁えー、じゃあまだなの?﹂がっかりした調子で数奈は言った。 ﹁ああ、残念ながら﹂これは僕の本音でもある。由枝のヤツその辺 は固いんだわな。﹁せいぜい、キスまでだ﹂ 僕は溜息を吐いた。全く、なにを言ってるんだ。 ﹁はいはい、もう止めだ。やめ﹂大げさな身振りで言った。 ﹁あー、逃げた。お兄ちゃんの卑怯者ぉ︱﹂ ﹁うるさい。これは戦略的撤退だ﹂ 数奈に付き合っているのか? と訊かれた時に答えられなかった のは、別に恥ずかしかったから、なんている理由ではない。解らな かったのだ。僕と由枝は昔からずっと一緒で、本当の兄妹︵姉弟?︶ のように育ってきた。昔の僕たちと今の僕たちを比べてそこにある 相違点を僕は発見することが出来なかった。せいぜい、キスをした くらい。それに抱きしめあったり、とまあそんなところだ。それ以 外は特に昔から変わっていない。まあ、その少しだけ変わったとこ ろが大きな違いなのかもしれないけど、でもとにかく僕はそれを除 けば僕らの関係は昔のままだと思っている。 ﹁ねえかずりん﹂ 夏休みの宿題をする、と言って臨時にあてがわれた自分の部屋に 数奈が戻った後、僕らは二人で相変わらずリビングのソファに座っ ていた。いわしはどこかへ出かけたようだ。 ﹁私たちって付き合ってるよね﹂ 33 ﹁ああ、それは間違いないと思う﹂ 一ヶ月前の祭りの夜。確かに僕は由枝に告白されて、僕はそれを 受け止めた。なにをどうした所で変わらない過去であり、現在を示 す指標でもある。 ﹁さっき数奈が訊いたじゃない﹂ ﹁ああ﹂ ﹁そのとき、私答えようと思ったんだけど、どうしても答えられな かった。なんでだろ? 私はかずりんの恋人でとっても嬉しくて、 胸を張りたいくらいなのに。なんでなんだろう⋮⋮?﹂ ﹁僕も同じこと考えてた﹂悩みまで共有するとはさすが僕たちだ︱ ︱なんてプラス思考を今回は出来なかった。﹁でもさ、そう急いで 結論を出さなくても良いと思う。だって、僕達はこれからもずっと 一緒だから﹂ 窓の下の方で、かりかり、という音が聞こえて僕らは同時にそち らを向いた。いわしが﹁中に入れてくれ﹂と窓を引っ掻いていた。 眼が合うと﹁うにゃあご﹂と少しご機嫌斜めな感じで鳴いた。心な しか牙を向いていたような気もする。由枝が駆け寄って窓を開ける と、とても軽やかな身のこなしでテラスからリビングに飛び上って、 由枝の足元でごろごろした。でも僕が顎を撫でようとした瞬間に噛 みやがった。 ﹁シャー!﹂ いわしは女性だけに懐くエロメタル猫だと気がついたのは、夏が 終わりを迎え始める盆暮れの夕方のことだった。 *** はらはらと舞う雪は地面を無垢なる白に染め上げる。汚れた世界 を塗り潰す白い絵具。そんな事を誰が言っていたことなのだろう。 一人ぼっちの街灯が照らす真下のベンチで僕は深々と降り積もる 34 雪を眺め、森閑とした世界に身を浸していた。 時計を見る。まだ早い。 こんなに静かだとなにを待っているのかさえ忘れてしまいそうに なる。でも、だめだ。それだけは忘れてはならないことだから。 ﹁寒いな﹂ 言葉は発せられた直後に白くなって世界に融けていく。そのうち 僕までもが実体を失って白い靄になって世界に溶け込んでしまいそ うになる。 まるで︱︱無声映画だと思った。 もう一度時計を見た。 もう、時間は過ぎている。 由枝にしては珍しい。 雪は降り積もり、 時間は流れ去る。 心は凍り、 言葉は融ける。 携帯電話が鳴る。 それに僕は出た。 ﹁もしもし︱︱﹂ ﹃由枝ちゃんが大変なの!﹄ なにが大変なのか。聞こえてきた声は確かに母さんのものだった。 酷く慌てている。﹁どうしたの?﹂僕は訊いた。 ﹃由枝ちゃんが、いわしと、車に!﹄ ﹁今どこ?﹂ ﹃え? あ、うん。え、っと。そう、総合病院﹄ 僕は携帯を切って走り出した。 *** このガラスで出来た自動ドア一枚が異界と現実世界を隔てる最後 35 の境界線だ。僕はここに来るたびそう思う。この中では頻繁に人が 死に、そして人が生まれる。今となっては殆どの﹃生﹄がここで取 り上げられ、殆どの﹃死﹄がここで処理される。僕は思う。ここが 輪廻の入り口ではないか、と。そして出口はラブホテルのベッドか 寝室のベッドだ。 すっかりここで勤める看護士さんとは顔見知りになっていて、﹁ こんにちは﹂と挨拶をすると、﹁こんにちは﹂と返って来る。 ﹁久しぶりですね﹂そう言ったのはここに勤めてまだ一年だという 看護士で名前は水野さんと言った。彼女と僕は三つ違いで、彼女が 年上だった。年上にも関わらず、年下の僕に敬語を使って喋る律儀 な人だった。 ﹁ええ、ここ半年色々ありましたから﹂ ﹁あっ、この前映画見ましたよ﹂ ﹁ありがとうございます。ああでも、脚本書いたのは僕じゃないで すから﹂ 僕はあくまで原作者だ。 ﹁そうでしたね。でも、原作の方も読みました。流石です。私と三 つしか違わないなんて信じられません﹂そう言って彼女はにこやか に微笑んだ。﹁そうだ。今日は取って置きがありますよ?﹂ ﹁取って置き?﹂ ﹁はい。︱︱それじゃ、私はこれで﹂そう言って水野さんはどこか へ行ってしまった。僕は何のことだろうか? と首を捻りながら半 年振りになる通いなれた通路を歩いた。流石にあれだけ通いつめて いると眼を瞑っていても目的地にたどり着ける。 ﹃雛倉由枝﹄ 手書きのマジックで書かれた文字。 僕は病室のドアをノックしてから中に入った。 36 ﹁あ、かずりんだ﹂由枝はベッドから半身起して窓の外を眺めてい た目をこちらに向けた。﹁久しぶりだね﹂ ﹁あ︱︱︱︱﹂ 僕は何もいえなかった。 由枝は不思議そうに首を傾げる。﹁どうしたの?﹂ ﹁いや、なんでもない。って、なんでもないこともない。なあ由枝。 いつからだ?﹂ ﹁うーんと、半年前。ちょうどかずりんが来なくなってからすぐに ね。流石にあれから二年もたってるなんて正直ショックだったな﹂ 再び視線を窓の外に向けた。﹁でも、なんか嬉しい。こうしてまた かずりんと会えたから﹂ あの日。 あの雪の日。 由枝は道路に飛び出したいわしを助けようと自分も飛び出し、結 果トラックに撥ねられ意識不明の重体に陥った。そしていわしは︱ ︱。 ﹁でも、目が覚めて一番ショックだったのは二年も経ってたことじ ゃなくて、いわしを助けられなかったことかな﹂ 彼女の努力も空しく、トラックは避けたものの、対向車線から走 ってきた乗用車に撥ねられて死んだ。 視界が歪んだ。 ﹁かずりん。こっちきて?﹂ ﹁⋮⋮ああ﹂ 僕はゆっくりと彼女の元へ向かう。 ﹁⋮⋮はい﹂と言って由枝は両手を広げた。僕はそれがなにを意味 するものなのか、しっかり覚えていた。記憶の隅にある夏の日に二 人で決めたこと。由枝の今のポーズは﹃抱きしめて?﹄のポーズ。 僕は由枝を抱きしめる。 ﹁ねえかずりん﹂耳元で由枝が囁いた。﹁結婚しよっか?﹂ あまりにも唐突なその一言に僕は数瞬戸惑ってから﹁うん﹂と答 37 えた。それから抱き合った体勢のままでこの二年間の事を話した。 僕が進学をせずにフリーターになったこと、それからだめもとで応 募した新人賞で見事に佳作を受賞して小説家としてデビューしたこ と、そしてつい半年前に僕の書いた短編小説を原作とした映画が作 られ放映されたこと。他にも沢山話した。気がつけば日が暮れ始め ていて、病室の中が暖かなオレンジ色に染められていた。 僕は抱きしめたまま言った。 ﹁ごめん﹂ 何がごめんなのかはわからない。 ただ無性に謝りたくなったのだ。謂れのない、どうしようもない 罪悪感。そんな理不尽な感情が僕の心を次第に支配し始めていた。 そして頭のどこか片隅で傘の少女の事を思い出していた。 ﹁先を越されちゃったな﹂ 僕達はもう抱き合ってはいなかった。ベッドのそばに置かれた丸 椅子に座り、窓の外を眺める彼女を見ていた。 ﹁なにが?﹂ ﹁私ね。将来は小説家になりたかったの﹂ ﹁そんなの聞いてない﹂ ﹁だって言ってないもん。当然だよ﹂ 僕は由枝の言った﹃小説家になりたかったの﹄と。つまり過去形 であることに引っ掛かった。 ﹁本当のこと言うとね。私、結構前から小説かいてたんだよ。でも それを投稿する勇気が無くて、自分でどこか納得行かないところが あって、そうこうしている内に、こんなことになっちゃって⋮⋮。 はあ、もうダメかな?﹂ ﹁そんなことない﹂言って僕は立ち上がった。﹁そんなことない。 今からでも始められる。由枝は目覚めることが出来たんだ。めくら やなぎのハエに食われることなく目覚めたんだ。だからなんだって 出来るさ﹂ ﹁うん。ありがと。実はね⋮⋮﹂由枝は眼を輝かせこちらを向いた。 38 ﹁眠っている間ずっと夢を見てたんだ﹂ ﹁夢?﹂ ﹁マタタビの国で私がいてかずりんがいていわしがいて、それに数 奈もいた。そこで私とかずりんは夫婦なの。その夢は何回も繰り返 し見たんだけど、周りの人間関係とかが変わっても私とかずりんは 絶対に夫婦だったの﹂ ﹁絶対?﹂ ﹁絶対。それでね。いわしが国王様なの。不思議でしょう、いわし がだよ? それで、数奈がマタタビの国ではかずりんの妹なの﹂ 由枝はそれから夢の話を滔々と語った。 まるでそれが本当に起こった出来事のように、 楽しそうに、 笑顔で。 僕はその光景に少しばかり胸が痛んだ。どうしてだろう? ﹁その物語をさ、小説にしてみたらどう?﹂僕は言った。 ﹁あ、それいいかも﹂と由枝は言った。﹁もし、私がデビューした ら、かずりんなんてすぐに追い抜いてみせる﹂ ﹁へえ? 出来るかな?﹂僕はおどけて言った。 ﹁もちろん。だって私はかずりんのお嫁さんになるんだから当然よ﹂ ﹁どういう理屈だそれ﹂ ﹁うーん。愛は無敵﹂ ﹁意味わかんねえよ﹂ 僕は笑った。由枝も笑った。 やっぱり、胸が痛んだ。何故だろうか、と少し考えてその理由に 気がついた。いま、目の前にいる由枝は、確かに僕が知っている雛 倉由枝だけれど、もっと別なところでは全く知らない別人の雛倉由 枝なのだ。 昔の由枝ならあんな風に諦めを口にしなかった。 そうか。と僕は思った。 これが人殺しの意味なのか。 それならば僕は一生背負い続けなければならない。 39 それが唯一の償いならば。 窓から、風が吹き込んだ。 きっと︱︱。 ︱︱いわしの魂だったのかもしれない。 彼も彼なりに彼女を祝福しているのだろう。 彼女は振り向いた。 その顔にはとても穏やかな笑顔が浮かんでいて、僕も微笑を浮か べた。 ﹁おかえり﹂ ﹁ただいま﹂ 40 ︵後書き︶ 昔自分のブログに載せたものの転載です。書いたのは恐らく6年ほ ど前でしょうか。ちょうどその頃は村上春樹なんかに感化されてた 時期だったので、それっぽい感じを目指して書いていた記憶があっ たりなかったり︵笑︶ 41 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n0511w/ いわし 2012年9月6日08時01分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 42
© Copyright 2024 ExpyDoc