ナンシー・アンドリアセン ~脳と心の謎に挑む~ - Biglobe

TV紹介 336
BS特集:07 年 1 月 21 日再放送
未来への提言
脳科学者
ナンシー・アンドリアセン
~脳と心の謎に挑む~
聞き手
サイエンスライター
吉成
真由美
文学博士アンドリアセンは、出産後感染症で死線を彷徨、回復後、医者に転進、人類救助に
貢献することを目指す。脳科学者となり、MRI によるブレーンマッピング法を確立。難病の認
知症アルツハイマー病と統合失調症の画像解析を進め、関連遺伝子の研究を組み合わせ、治療
法および予防法の確立を目指す。さらに心的外傷後ストレス障害に取り組む。脳の柔軟性を認
識。心は脳の活動を現したもの。21 世紀のキーワードは真実と愛と言う
多くの謎に包まれた人間の脳、その研究は
今、飛躍的な進歩を遂げています。先端技術
によって,生きている人間の脳の中を映し出す
ことが出来るようになりました。複雑な脳の仕組
みや、脳と心の結びつきが、次々と明らかにな
り始めたのです。アイオワ大学の脳科学者で、
精神科医のナンシー・アンドリアセン博士。脳
のスキャン映像を使った研究では、世界の最
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先端を走っています。心の病に苦しむ人々を
って、脳に異状が出来ている場所を特定出来
救いたいと、研究を続けています。中でも注目
れば、心の病の治療に希望が見出せると、ア
ンドリアセンさんは言います。
アンドリアセン「技術革新によって、脳の研究
は飛躍的に進歩しました。脳の中の化学物質
も測定出来ます。脳には驚くべき柔軟性があり、
自らより良く修正することが出来ます。このこと
を知れば、私たちの生活は、より豊かになって
行くでしょう」。
技術の進歩によって、アルツハイマー病などの
認知性や、強いストレスからくる心の病を、克
服することは可能なのか。最新の脳科学の世
界が開く、限りない可能性を見つめます。
アメリカ中西部の学園都市アイオワシテイ。
されているのが、ブレーンマッピングといわれる、
脳の地図を作り出す技術です。この地図によ
160年の歴史を誇るアイオワ大学は、脳の画像
を撮影出来る、CTスキャンや、MRIなどの医療
機器をアメリカで初めて導入した大学の一つ
です。こうした画像を使った脳の研究では、世
界的な業績を上げています。
今回アンドリアセンさんを訪ねるのは、脳科
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学の最前線で取材をしている、サイエンスラ
1.アンドレアセンさんをインタビュー
イターの、吉成真由美さん。1986年から、マサ
チューセッツ工科大学やハーバード大学で脳
吉成「脳の研究は、科学の新しいフロンティア
科学を研究してきました。吉成さんは、ノーベ
だと言われています。あなたは、脳という物を、
ル生理学医学賞を受賞した、夫の利根川進さ
どのように捕らえていらっしゃいますか」。
んとともに、ボストンで暮らしながら、脳科学の
アンドリアセン「人間の脳は、私たちの体の中
研究を続けています。子供たちの心のストレス
で最も興味深いところです。人間にとって1番
や、教育の観点からも、脳科学に注目し、著書
重要なのは心臓だと言う人もいますが、私は脳
も発表しています。
だと思います。脳は極めて複雑で、銀河の星
のように、一兆を超える数の神経細胞があり、
吉成さんは、アンドリアセンさんに、脳と心の
関係や、脳研究の未来について、聞きたいと
それらが互いに連携し、常に活動しています。
考えています。
その複雑さを理解することは、21世紀の科学
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の最も重要なフロンティアだと、私は信じてい
ます。人は20世紀は数学と物理学の世紀だっ
た。21世紀は生物学の世紀だと言います。生
物学の中でも、一番大切なのは、人間の脳を
理解することです。なぜなら、私たち人間の脳
には、驚くべき能力があるからです。人間は脳
を使って、非常に多くのことを行ってきました。
摩天楼を作り、飛行機や車を発明し、そして素
晴らしい芸術を生み出して来たのです」。
術によって、脳の中はどのくらい見えようにな
アンドリアセンさんは、アイオワ大学で、専門
ったのでしょうか」。
家18人が参加する研究チームを率いています
アンドリアセン「10年前には、生きている人間の
脳を、画像化できるなんて、誰も思っていませ
んでした。MRIの発明など、技術革新によって、
脳の研究は飛躍的に進歩しました。脳の中の
化学物質の測定も出来るようになりました。コン
ピューターの進歩と同じように、技術が急速に
発展していったんです。これまでは脳に関する
データを収集するのに、1センチの間隔でしか
調べることは出来ませんでした。しかし今では5
MRIなどの先端技術を駆使して、生きている
ミリ、あるいはもっと狭い間隔で、詳しく調べる
人間の脳の中を調べていきます。ブレーンマッ
ことが出来ます。さらに最新の技術によって、
ピングといわれる技術です。脳のそれぞれの
脳の中の化学物質の動き方や、量も測定出来
るようになりました。これは非常に重要で、ダイ
ナミックな研究分野です」。
2.ブレーンマッピングの実際
部分が、どんな働きをしているのか、詳細に探
り出し、いわば脳の地図を作り上げていきます。
世界に先駆けて行われたこの研究は、精神医
学界に大きな衝撃を与えました。2000年には、
全米科学栄誉賞を授与されました。
ブレーマッピングがどのように行われてい
るのか、見せてもらいました。
吉成「ブレーンマッピングのような、新らしい技
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アンドリアセン「ここがMRIを行う部屋です。患
の技術が確立されたことで、謎に包まれた脳の
者がここに来て、脳のスキャン映像を撮影しま
メカニズムが、急速に明らかになってきたので
す」。
す。
ここは、こうして得られた脳の画像を、解析
MRIは、磁気共鳴イメージングという技術です。
ドーナツ型の大きな磁石の中に、人体を横た
する部屋です。
えて、強い磁気を発生させることで、体内の様
子を観察することが出来ます。CTスキャンがX
線を用いるのに対して、MRIでは磁気を使うた
め、放射線被爆はありません。さらに、最新の
技術を組み合わせれば、脳の中の血液の流
れや、化学物質の増減など、脳の活動をつぶ
アンドリアセンさんの研究チームは、専用の
ソフトを開発し、画像を色付けして脳の中の変
化を、より見安くすることに成功しました。
必要に応じて、様々な断面を解析します。
さに観察することが出来ます。1990年代に、こ
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担っています。側頭葉の内側には、人間の記
憶に大きな関係を持つ、海馬と呼ばれる場所
や、アーモンドのような形をした、扁桃体などが
あります。これらの場所が、互いに連絡を取り
人間の脳は、大脳、小脳、脳幹から構成さ
れています。大脳は、前頭葉、頭頂葉、側頭
葉、後頭葉など、場所によって、異なる役割を
合って、複雑な脳の働きが生み出されます。
ブレーンマッピングを使えば、人がある行動
をしているとき、脳の中のどの場所が活性化し
ているかが良く分かります。
アンドリアセン「人が読書しているときには、視
覚野と呼ばれる場所が活性化していますね」。
これは読書をしている時の脳の画像です。後
頭葉に位置する視覚を司る視覚野が活性化し
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ている様子が良く分かります。
こちらは初めて見る人の、顔を記憶する時
の脳です。前頭葉など脳のいくつかの場所に
不愉快だったり、恐怖を感じたりすると、扁桃
体が活性化します。このようにブレーンマッピ
ングは、人間の心や感情までをも映し出すの
です。
血流が見られました。これらの場所が、いわゆ
る記憶回路を構成していると考えられます。さ
らに男性の場合は、その人物が男性か女性か
ということを見分けるため、直回(ちょっかい)と
3.認知症(アルツハイマー病や
統合失調症)の治療や予防に道を開く
いう本能を司る領域が活性化していることも分
ブレーンマッピングの技術は、医療の分野
かりました。美しい映像を見るなど、脳が心地
での応用が期待されています。特に世界に
良く感じているときと、不快に感じているときで
1800万人の患者がいると推定される、アルツ
は、全く違って見えます。心地よく感じていると
ハイマー病などの認知証の治療や予防に、道
きには、前頭葉が活性化しています。しかし、
を開く可能性が出てきたのです。アルツハイマ
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ー病は、記憶力や判断力が低下し、最後には
ないという経験はありますね。でも軽い認知障
感情までも失われていく、高齢者に多い病気
害がある人々は、7日の中5日は、鍵を置き忘
です。アルツハイマー病の患者の脳をスキャン
れるかもしれません。年を取れば、誰でも言葉
映像で見ると、記憶を司る海馬が、小さくなっ
や名前を思い出すのに苦労します。これは当
たり前のことですが、軽い認知障害がある人は、
新たにものを覚えるのが非常に困難です。ア
ルツハイマー病が進行すると、記憶の問題は、
より深刻です。アルツハイマー病の人々は、子
供時代や若い時については、非常に流暢に
話します。しかし、朝御飯に何を食べたか、1
週間前に何をしたのかは、覚えていません。つ
まり、記憶を記号化するというメカニズムの基礎
ていることが分かります。さらに、脳全体に隙間
的なレベルに問題が生じているのです」。
が増えて、健康な人に比べると、黒い部分が
吉成「新しいことを覚える能力ですね。側頭葉
目に付きます。これは脳が小さくなっていること
が大きく萎縮するからですか」。
を示しています。ブレーンマッピングのお陰で、
アンドリアセン「ええ、側頭葉の構造と機能が
アルツハイマー病の疑いがある患者の脳の中
失われます。その後、前頭葉にも、及びます。
を、詳しく見ることが出来るようになりました。薬
このような病気のメカニズムが、遺伝子レベル
を処方する時期を決められるなど、治療のため
で理解出来るようになれば、問題となる遺伝子
の有益な情報が得られるようになったのです。
を標的にした治療に繋げることが出来ます。あ
吉成「認知症で最も知られているアルツハイマ
る化学物質が多く出過ぎているのであれば、
ー病ですが、何が原因ですか。どのような症状
それを減らす方法を見つけることも出来るでし
が現れますか」。
ょう。私たち精神科医は、将来こうした治療を
アンドリアセン「私たちがアルツハイマー病と呼
行っていくことを目指しているのです」。
んでいるものは、複数の病気の総称だと考えら
4.脳研究と遺伝子研究の結合
アンドリアセンさんが、今もっとも力を注いで
いるのが、脳の分野の研究に、遺伝子の分野
れます。最初に記憶機能の障害が起こり、
徐々に認知機能の障害も増していきます。一
つ例を上げましょう。誰でも、鍵が見つけられ
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の研究を結びつけることです。認知症を始めと
他にも、発病因子ではないかと疑われている
する、様々な病気の患者から、採血を行いま
遺伝子が見つかっています。このように、遺伝
す。同じ大学の遺伝子研究者と協力して、患
子研究とブレーンマッピングを結び付けること
者の遺伝子情報を詳しく調べます。2003年に、
で、新たな謎を解明し、治療に役立てることが
人の遺伝子配列を解明する、ヒトゲノムプロジ
期待されています。
ェクトが完了しました。3万個から4万個あると考
吉成「脳科学の将来を考えると、ブレーンマッ
えられている、ヒトの遺伝子の地図が明らかに
ピングと遺伝子の研究が、手を取り合っていく
なったのです。これを受けて、遺伝子の研究は
必要がありますね」。
飛躍的な進歩を見せています。アンドリアセン
アンドリアセン「その通りです。様々な病気の謎
さんたちは、こうした技術を使って、脳の中の
を解明していくには、この2つのレベルの知識
化学物質をコントロールしている遺伝子を探し
が出合い、合流していかなければなりません。
出そうとしているのです。
遺伝子の研究者と、私たちのように、脳の画像
神経細胞が破壊された、アルツハイマー病
を研究する者が、一致協力して研究していか
の患者の脳には、大量のベータアミロイドとい
なければ、問題を解決出来ないでしょう。私た
う物質が分解されずに残っています。そうした
ちの目標の一つは、ブレーンマッピングが作り
状況を生み出す原因の一つとして、今遺伝子
出す脳の地図と、遺伝子の地図を統合するこ
学者が注目しているのが、19番染色体のアポ
とです。私たちは数年前から、遺伝子の研究と
リポたんぱくEです。このアプリポたんぱくEに
画像の研究を結び付けるために、研究テーマ
を絞り込み、この分野での最初の論文を発表
しています。今では、先端を行く研究者は全員、
遺伝子の研究と画像を使った研究を同時に行
っています。それによって最終的には、病気の
メカニズムが、明らかにされることでしょう」。
5.統合失調症
最新の脳科学は、これまで偏見を持たれが
関連する遺伝子を持つ人が、多くアルツハイ
ちだった、精神病のイメージをも大きく変え様
マー病にかかることが分かってきました。この
としています。人口の100人に1人が発症すると
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言われる、統合失調症。アルツハイマー病が、
いるという偏見に苦しんできました。しかしアン
老人を襲う認知性だとすれば、統合失調症は、
ドリアセンさんは、統合失調症は、脳の機能障
言わば若者を襲う認知症だとアンドリアセンさ
害であり、患者の脳の中で、連絡回路の異常
んは、考えています。
が起きているとみています 。
この日アンドリアセンさんは、統合失調症の
統合失調症患者の脳です。病気の進行に
患者を診察しました。本人と家族の許可を得て,
私どもも、同席させてもらいました。統合失調
症は、病気が進むと、周囲とのコミュニケーショ
ンが難しくなったり、人格が大きく変わったりす
ることがあります。幻覚や妄想を伴うこともある、
辛い病気です。
アンドリアセン「誰かにスパイされていると感じ
ますか」。
患者「はい。スパイされていたことがあります」。
つれて、中央に見える隙間が拡大していること
アンドリアセン「どんな時にスパイされていると
が分かります。患者の脳が委縮していることを
現しています。ブレーンマッピングで見て見ま
す。青く見えているのは、血流が減少している
感じましたか」。
患者「ガールフレンドと家にいる時に、友人が
ビデオカメラで覗いたんだ。スパイしていたん
部分です。脳のあちこちに広がっています。
だ。間違いない」。
吉成「あなたは、統合失調症がご専門ですが、
アンデルセンさんは、真剣に、また穏やかに患
何が病気の原因だとお考えですか」。
者の声に耳を傾けます。
アンドリアセン「統合失調匠の場合、普通は若
アンドリアセン「統合失調症の人々は、誤解さ
者がかかる一般的な発病年齢は、16歳から25
れることが多いのです。でも私たちが一緒に座
歳の間です。少し遅いこともありますが、概ねこ
って、30分ほど話をし、彼らの経験を聞いてあ
うした年齢です。私は20年前、MRIを使って、
げるだけでも、彼らにとっては別の世界が開け
脳を測る最初の研究を行いました。そして統合
るのです。自分が人として扱われたと思うから
失調症の人々は、脳全体が小さくなっているこ
です」。
とを発見したのです。
ある意味で、統合失調症と、アルツハイマー
これまで統合失調症の患者は、心を病んで
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病は密接な関係があります。若年性認知症に
ています。統合失調症の患者の脳の中では、
対して、老年性認知症だと言えます。統合失
グルタミン酸のバランスを悪くする遺伝子があ
調症は、脳の中の繋がりが悪く、物事が正しく
るのではないか。その遺伝子に、何らかの原
連結していません。ですから、幻聴が聞こえた
因でスイッチが入ると、グルタミン酸を過剰に
り、人々と正常な関係を結ぶことが難しく、妄
生産するか、または、その分解が追い付かな
想を抱いたりします。時には流暢に話すことが
い状況に陥るというものです。病状を特定し、
出来なくなることもあります。これも言葉と意味
病気のメカニズムを理解し、治療法と予防法を
とを正しく結び付けることが出来ないからです。
開発しなければなりません。私たちの最終的な
こうした病状のほとんどが、脳の回路の接触が
目標は、予防にあるのです」。
悪いことから起こると説明出来ます」。
こうした連絡異常は、なぜ起きるのでしょうか。
6.アンドリアセンさんの今までの半生
アンドレアセンさんが注目しているのは、脳の
アンドリアセンさんの自宅は、大学に程近い
中で情報を伝達しているグルタミン酸です。グ
場所に有ります。夫のテリーさんは、ベトナム
ルタミン酸は、量のバランスが崩れると、情報
帰還兵。すでに引退しています。アンドリアセ
の伝達が旨く行われず、妄想などに繋がる可
ンさんも二人の娘を育て上げ、今は、夫と2人
暮らしです。
医師として脳と心の研究を始める前に、アン
ドリアセンさんは、シェークスピアの研究など文
能性があります。どの遺伝子がグルタミン酸を
コントロールしているのかが分かれば、画期的
な治療が可能となり、病に苦しむ多くの患者に、
救いの手を差し伸べることが出来るのです。
学が専門でした。人間の心の不思議に、尽き
アンドリアセン「私たちは、こういう仮説を立て
ない興味を抱いていたアンドリアセンさんは、
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大学で英文学を学び、1963年、文学博士号を
取得。その後アイオワ大学に赴任しました。
生涯の転機
24歳のとき、出産後の感染症で、生死の境を
彷徨ったことから、大きく運命が変わりました。
戦争は泥沼化、アメリカ兵の死者は、6万人
近くに達しました。極限状態で戦った兵士の中
には、帰還しても、戦争体験が心の傷となり、
社会復帰出来ずに苦しむ人々が続出しました。
この深刻な事態を目の当たりにしたアンダリア
アンドリアセン「病院のベッドに横たわりながら、
センさんは、病気としてきちんと定義すべきだ、
私の命は救われた。100年前だったら、恐らく
と考えました。アメリカの精神医学界が定める、
死んでいただろうと、思いました。生きている間
精神病の診断基準です。アンドリアセンさんは
に、何か価値のあることをすべきだと、強く思い
ベトナム戦争当時、その編纂に参加しました。
ました。英文学の教授としても、価値あることが
元兵士の代表と協力し、戦争や事故で心に傷
出来るだろうが、医学の分野に行ったら、もっ
を受けた人の病気、という項目を診断基準に
と価値のあることが出来るのではないか。医学
に私のエネルギーを投入したら、ペニシリン発
見に匹敵するようなことが出来るかもしれない
と思いました。ですから、私の人生の使命は、
人類を救う手助けをすることです。私が医学に
進むと決めた時、周りからは、直ぐに専門は決
めるなと言われました。でも、私には脳を理解
したいという情熱がありました。脳は、人間にと
って最も大切なものだからです。
7.医師として心の問題にさらに踏み込む
PTSD心的外傷後ストレス障害
シェークスピアの研究という、文学の道から、
脳科学という、脳と心の謎を考える道に大きく
転進したアンドリアセンさん。医師として、人間
の心の問題にさらに踏み込んで行く切欠とな
ったのは、ベトナム戦争でした。
盛り込むことにしたのです。PTSD心的外傷後
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ストレス障害、世界で初めてアンドリアセンさん
が名付けました。
その後PTSDは、日本でも阪神大震災など、
未曽有の大災害の後遺症として、良く知られる
ようになりました。こうした心の傷に苦しむ人々
の存在に、注目が集まるようになったのです。
アンドリアセンさんは、PTSDの患者とも接し
ています。数年前、プロパンガスの爆発事故、
全身の7割に及ぶ、大やけどを負った女性で
らの信号を受けて、脳から副腎にストレスに対
す。いまだに悪夢を見るという女性に対して、
抗するよう、命令が出ます。命令を受けた副腎
アンドリアセンさんは、現在の症状を聞き出し
て行きます。
アンドリアセン「どんな時に事故を思い出しま
すか」。
「テレビや映画などで、爆発シーンがあると思
い出します」。
PTSDに苦しむ人々は、普通の人にとっては
何でもないことに反応してしまいます。突然息
苦しくなったり、不眠症に悩んだりもします。ア
は、コルチゾールというホルモンを分泌させま
ンドリアセンさんは、強いショックを受けると、人
間の脳の中で、どんな反応が起きるのか、ブレ
ーンマッピングを使って研究しています。
アンドリアセン「この画像を見れば、脳の中で、
何が起こったのか分かります。恐ろしい経験や、
恐怖という強い刺激によって、脳がどう変化し
たかが映し出されているのです」。
人間は、恐怖などの強いストレスを感じるとき
す。コルチゾールは本来生命を維持するのに
には、扁桃体が活性化しています。扁桃体か
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必要な重要なホルモンです。しかし多すぎると
助ける上で、役に立つことは他にもあります。
支援してくれる家族を持つことはとても重要で、
助けになります。状況に順応することも大事で
す。他人のために何かをすることも、大切です。
もしも人生の目的を定めて、生活をしていくこと
が出来れば、ストレスに対抗する助けになりま
す。ユーモアのセンスがあることも、ストレスに
打ち勝つ秘訣です」。
脳の中で記憶をつかさどる海馬を痛めてしま
います。
吉成「PTSD患者の脳の映像を見てみると、あ
る部分が極度に小さくなるなど、何か変化が起
きていますか」。
アンドリアセン「PTSDのメカニズムを明らかに
するのは難しいのですが、一生を背負うような
重大なストレスから起きる病気であることは確
21世紀、私たちが暮らす世界には、予想も
かです。もし、あなたを苦しめるストレスがあっ
しない強いストレスが溢れています。大きな事
たとします。このストレスは脳のどの部分に関
件や事故に限らず、私たちの日常にも、様々
係しているのでしょうか。記憶というものは、部
なストレスが潜み、うつ病などの心の病は、急
分的に保存されています。そうですね。保存と
速に増えています。こうしたストレスと向き合い、
いうよりは、海馬という場所で、新たに作られ、
どう克服して行くことが出来るのか。最新の脳
関連付けが行われ、連結しているのだと考えら
科学による、治療法の確立が期待されていま
れます。PTSD患者の脳の映像の研究では、
す。
海馬の縮小とPTSDの発症とに関係があるこ
アンドリアセンさんは、PTSDの研究を続ける
とが分かりました。ストレスを感じたときに、体に
中で、人間の脳が本来持っている驚くべき能
何が起きるのでしょうか。脳は副腎に、コルチ
力に気付きました。最新の著作、「創造する
ゾールを供給するように指令します。コルチゾ
脳」です。この中でアンドリアセンさんは、脳に
ールは、ストレスに対抗するのを助けるホルモ
ンですが、多すぎると脳に害を与えます。特に
海馬には良くありません。PTSDの研究をする
中で、どんな人が回復が早いかに興味を持ち
ました。私たちの脳と体は、生まれがらに与え
られたものです。体は鍛えることで良くすること
が出来ます。実は脳も使うことや教育によって、
良くすることが出来るのです。心の傷の回復を
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は限りなく変わることの出来る柔軟性があると、
ものだと言えるでしょう。その意味では、脳と心
指摘しています。脳は自ら回復し、良い状態
は同じものです。私たちはそれぞれを違った
へ変わっていく、柔軟性を秘めている。それは
方法で違ったレベルで見ているだけです。脳
脳の研究をから見えてきた、1つの希望です。
は生物的な現象で、心は脳の生物的活動によ
吉成「あなたは、脳科学の将来について、どん
って生み出された思考なのです。そう考えるこ
な期待をしていらっしゃいますか。その一方で、
とも出来ます。心が脳であるなら、自分というア
脳科学の未来に対する、警告があれば、お聞
イデンティティはどこにあるのか。魂はあるのか。
かせ下さい」。
それは宗教的な質問です。個人的には私は
精神と呼ぶべきものがあると信じています。そ
れは心の中に高尚なものを求める何かがある
8. 脳科学の未来について
アンドリアセン「それは大きな問題です。私は
のです。脳が死ぬとき、魂も死ぬのか。私には
脳の柔軟性について、まだお話していません
分かりません。最終的にはこれも宗教的な問
ね。脳には自ら変化し、環境に順応し、常に新
いかけです」 。
たな脳に作り替えていく力があります。こうした
最新の脳科学が明らかにしつつある脳と心
脳本来の力に、遺伝子研究と、ブレーンマッピ
の関係、しかしそれは奥深く、実に複雑なもの
ングが持つ力を加えることが出来るのは、大き
です。ブレーンマッピングや遺伝子の研究だ
な希望です。脳には驚くべき柔軟性があり、自
けでは窺い知れないことも沢山有ると、多くの
らより良く修正することが出来ます。このことを
科学者が感じています。その一方で、新しい
知れば、私たちの生活がより豊かになって行く
技術は、心の病を克服し、21世紀を生きる子
でしょう。脳と心の関係を考える上で、もう一つ
供たちの未来に、希望をもたらすことが出来る
重要なのは、様々な事柄を判断し、人生に責
と、アンドリアセンさんは考えています。人間の
任を負っているのは、何処かということです。私
脳が持つ柔軟性を信じているからです。
たちは遺伝子に支配さえた単なる生物で、運
対談の最後に、アンドレアセンさんに、21世紀
命は生まれた時にすでに決定されているので
を切り開くための、キーワードを書いてもらいま
しょうか。確かに私たちの脳は、与えられたも
した。アンドリアセンさんが書いたのは「真実と
のですが、私たちには自分の運命をコントロー
愛」。
ルすることは出来ないのでしょうか。私はこう思
います。私たちは、遺伝子によって決定されて
いるのではなく、常に環境を受け止め、変化し
ているのだと。健康でより幸せになる選択をす
ることも出来るし、一方で、悪い選択をすること
もあるんです」。
吉成「最後の質問です。脳と心は別々のもの
なのでしょうか」。
アンドレアセン「素晴らしい質問です。限界は
アンドリアセン「真実は、知識の探究から生ま
あるかもしれませんが、心は脳の活動を現した
れます。それは人間に出来るも最も重要なこと
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の一つで、科学の本質です。愛は私たちの人
生を豊かにします。自分と同じ隣人を愛する。
他人を助けるために自分という枠を超えて、外
の世界に手を差し伸べる。それが幸福の本質
です」。
人間の脳の謎を解明するための、先進技術、
ブレーンマッピング。脳の地図と遺伝子の地図
が結びつくことで生まれる新たな世界は、急速
に進化しています。しかしもし使い方を誤れば、
1部の人間が脳や遺伝子の情報を自由に操れ
るようになる、恐ろしい危険性も秘めています。
最先端の技術は、人類への恩恵でこそあれ、
呪いであってはならない。人間の幸福を願っ
て、アンドレアセンさんは、今日も脳と心の謎
に挑み続けます。
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