東京大学漕艇部_昭和 20 年代概観 ◆空きっ腹の黄金時代 墨田区隅田公園18番地―――勿論破壊的な地番改正でなくなったが、ここに艇庫があり、隣接して、 関東大震災後に建てられた合宿所があった。幸いにもあの壮絶な東京大空襲からも焼けずに残り、墨堤 の北端に厳かに立っていた。公園の中の宿舎、と言うと、小綺麗なものが想像されようが、戦中・戦後 の陰惨な時代を経て、風雤にさらされたままの家の外側は朽ちかかっていた。 いや、角力のふんどしかつぎみたいなムクツケキ連中が、毎年毎年14~5人も野放図に寝起きして いるのだから、内部より崩壊を始めていた、と言った方が良い。部屋を区切る襖障子はとうになく、欄 間や押し入れの板は一部剥がされて、暖を取る為に燃やされてしまっていた。 しかし、戦後の、昭和20年代の東大漕艇部の、100年のうちでも特に燐と耀くような黄金時代は、 この崩れかけた合宿所のうちから、悪条件をものともせずに、生み出されたものであった。 昭和21年8月28日、戦後初の全日本選手権のエイトに優勝を皮切りに、24,25,27,30 年と実に10回中5回も日本一の栄冠に耀いたのである。紫紺の優勝旗に金色で刺繍される T の字の行 列の、なんとまばゆかったことか。 戦争直後の漕艇界の苦悶は、多くを語っても、夢まぼろしのごとくにしか伝わらないのではあるまい か。焼け残りの艇庫、用艇、オールを各校で分け合い、借り合って、練習しなければならなかった。当 然のことながら、往時のような満足な練習は出来ず、その上に、毎日を生きていくだけで精一杯という 時代、ロクなものも食わず空きっ腹を抱えてひたすら漕いだものである。栄養失調のせいもあり、やた らに病人が出た。 隅田川でも荒川放水路でも、力漕10本の連続に歯を食いしばっていると、岸から、 「腹っぺらしィ」 と大声でヤジがしきりに飛んだが、苦笑しながら聞き流す他はなかった。 当然のことながら、記録的に見れば、勝つことは勝ったが、低調であることはまぬがれ難い。その中 にあって、昭和27年の優勝タイム6分19秒0は鮮やかなものであった。 ◆”戦犯”日本の悲しみ 戦後のスポーツと言うことで、忘れられないことに、オリンピック参加があった。戦後初の、第14 回オリンピックは、ロンドンで開催された。昭和23年である。 ヨーロッパに戦火が起こって、昭和15年予定の第12回東京大会を日本が返上、あとを引き受けた ヘルシンキも挙行不可能で中止した。次の昭和19年の第13回ロンドン大会も中止。それだけにこの 第14回大会は、平和を取り戻した世界各国の待ちに待った競技会となったのである。 敗戦日本はもちろん参加を希望した。しかし、国際オリンピック委員会は無情にも、この申し出をは ねつけた。 「IOC の委員の多数は、日本およびドイツ軍人の侵した残忍な行為に対して憎悪と恐怖の念が深い。 委員の多くは、その子、その孫、友人が思い苦しみを味わい、餓死するのも見た。こういう忌まわしい 心の傷を癒すのは、ただ時の経過を待つほかはない」 ”戦犯”日本人は、この時世界の厳しい目と、赦さざる心を痛いほど感じさせられた。昭和22年9月 のこと。そしてオランダのクン夫人の陸上での大活躍や、米国のボート優勝を寂しい気持ちで眺めてい た。この時の優勝タイムは5分56秒7。この年の日本のインカレ優勝タイム(早大)が6分54秒6、 全日本の優勝タイム(一橋大)が7分11秒2。前途は遼遠かつ多難であった。 そしてそれから3年――― 既に翌年に迫っていたが、なおはっきりしなかった第15回のヘルシンキ五輪大会に、"日本の参加が 許された”のは、昭和26年5月6日である。オスロで決定された。その夜の合宿所は、爆竹花火が投 げ込まれたくらい興奮した、と書きたいところであるが、本当のところは平常通り、の記憶がある。選 手の1人が、 「これでやっと日本も国際社会に仲間入りが出来た、のか」 と重々しく述懐した言葉だけが印象深く心に沁みて残っている。 ◆さらば旧制高校 なぜ、この時代の東大漕艇部が強かったのか。疑問を解く鍵の1つに旧制高等学校の存在があった。 戦後の6・3・3世の学制改革により、昭和24年には3年生以外在学せず、旧制高等学校は歴史を 閉じた。その最後の火を燃やすがごとく、昭和21,22,23年と、戦後は3回にわたってインター ハイ競漕大会を、東大漕艇部主催のもと開いている。 参加したのは一高、二高、三高、八高、浦和の5つの高等学校のみであったが、この時のクルーがほ とんど東大でもボートを漕いでいる。おかげで漕歴6年とか7年とかの猛者がいた。旧制高校ボート部 体験者が、完全に姿を消したのは昭和28年から。あとは新制高校卒業の者だけとなる。 東大漕艇部の黄金時代が耀きを失い始めるのも、またその頃からである。全体に漕歴が短くなったこ とにも、その一因があろうが、それよりもアメリカナイズされた個人主義の風潮は、ボートを時代後れ の、地味な、辛いばかりのスポーツとした。そこに主要な因があろう。 特に朝鮮戦争後のひどいインフレは、地方出身の学生の生活に直接響いた。アルバイトに追われ、そ れに未曾有の就職難。かつての旧制高校出身者が持っていたボート音痴的な心組みなど、望むべくもな かった。 さらに、いささか強引な言い方ともなるが、日本のボート界が主戦場を隅田川から戸田コースへ移し たことも、かなり影響したのである。勿論やむを得ない事情があった。東大や一橋大と違って、戦災で 艇庫を失った各校にとっては、将来の活動の拠点をどこに置くべきか、出来る限り早く決定しなくては ならない問題であった。 漕艇協会が、そうした事情を踏まえて、戸田コースに全日本選手権競漕大会を持って行くと決めたの は、昭和23年6月という早いときである。 花の隅田川を離れる理由には、日一日と川が死のうとしていたから、という強力な説明もあった。確 かに岩淵水門下で新河岸川の工場排水が流れ込み、さらに下流の北区から荒川区尾久にかけて汚濁は酷 くなり、微生物は根絶され、酸素もゼロ、隅田川の死は始まっていた。 しかし、だからといって、早々と川からの遁走を企てることはなかったのである。ボートの青春とは 隅田川を離れてはいない。8月15日には川で燈籠流しが行われていた。艇庫の上の観覧席で、川面に 幾筋もの赤くゆれる線を描いて遠ざかる流灯を眺め、死者に黙祷し、今の平安、永遠の平和を祈った。 観覧関から眺める両国の川開きもあった。花火の戦後復活は昭和25年…と感傷的に書けばいくらでも 書ける。昭和20年代のクルーの青春は、移り変わる隅田川の四季と共にあった。温かい向島の庶民達 の人情と共にあった。そこには単なる勝ち負けを超えた輝ける何かがあったのである。 ◆対科レースの6分代 全日本選手権(24年からインカレも統合)は戸田コースに移ったが、東大漕艇部の様々な行事―― ―東商戦、学部レース、対京大戦、対科レースは、隅田川にそのまま20年代には残っていた。それだ けにボート音痴とまではいかなくても、川好きのボート好きが多く隅田川の上で育てられていった。 中には対科レースしか漕いだことがないという淡青会員もあろうが、その人達もまたその人なりに” 隅田川での青春”を満喫したに違いないのである。記録としては、必ずしも正確でないかも知れないが、 対科レース20年代の全勝敗だけは残しておきたい。 21年(一高時代)1000m 付近で接触、無勝負となる。 22年(一高時代)詳細不明 23年(一高時代)文旦勝ち 4L 翌年から教養学部の対科レースとなった。 24年 理端勝ち 2L 25年(A)理端勝ち 4L (B)理端勝ち 3L 26年(A)理端勝ち 4L (B)理端勝ち 1L 27年(A)文端勝ち 1L (B)文端勝ち3L 28年(A)文端勝ち 1L (B)理端勝ち 2/3L この時は C クルーもあり同着。 29年 詳細不明 30年 詳細不明 残念ながらタイムは 7 分とだけ記録してあって、正確には何秒なのか、不明というのが多い。要は 7 分台で走ったと言うことであろうが、中には 28 年の文端 A クルーの 6 分 57 秒と 6 分台の勝者がいる のでびっくりさせられる。 いずれにしても 40 年近い昔の話となった。しかし、時の勝者は栄光に輝いた日のことを、昨日のこ とであるかのように、息子や娘に語っていることであろう。そして、我らがしでかした偉大なことが、 どうして息子や娘達の興味を引かないのか、不思議に思っていることであろう。当たり前の話なんだが …。 ◆日本初の 4 哩 1/4 「トウショウセン」という耳慣れぬ呼び名のレースが始まったのは、昭和 24 年からで、”フジヤマの トビウオ”古橋が活躍、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞と、戦後意識が急速に遠ざかりつつあるときで ある。 第 1 回は 2 哩、第 2 回は 3600m と距離が段々に伸びて、第 3 回(26 年)は 6800m となった。戦後 意識はなくなったが飢餓感はまだ僅かに残っているとき。 「ケンブリッジ・オックスフォードの競漕にあやかって、4 哩 1/4 を漕がせよう」 「ウム。クルーの体力も付いてきたからな」 ぐらいの会話が東大、一橋大の OB の間で話し合われた結果の、日本初の長距離レースとなったもの らしい。漕がされる方は「どうせ一杯機嫌の勢いで決めたんじゃないか」と大いにぼやいたものであっ た。 しかしながらこのレースは、スタートが白髭橋の上流の白浜神社下、ゴールは永代橋の橋のたもと、 隅田川の名所旧跡を左右に長めながら一気に漕ぎ抜ける、まことに爽快、楽しいコースであった。ただ し、勝ったクルーにとっては。 水上バスで、いまもときどき古戦場を巡航してみるが、兵どもが夢の跡とはよく言ったもので、もは や川と川の近くの生活が無縁になっているのが侘びしい。墨田川の両岸は、高潮を防ぐ意味の高いコン クリートの壁が立ち、町とのたたずまいを遮っている。波のうねりの静まりようがない。かつて波はゆ るいスロープの岸を洗って穏やかになったものだが、今は直立の壁に体当たり。川はいつも荒れている。 ボートが逃げ出すわけであるが、隅田川はそのことを怒っているのかも知れない。 ◆連戦連勝の名艇 戦後の淡青会報は昭和 24 年度が第一号として発刊されている。僅か5ページ(以下は名簿となって いる)の様々な記事の仮名に新艇「白光」の進水式の報告がある。その全文を写してみる。 「本年春より計画せる新艇建造案が、諸先輩・学生委員の努力と、南原総長の好意により実現し、八月 下旬よりデルタ造船所にて着工。職工さんの夜を日に継いでのご尽力により見事に出来上がり、九月十 日南原総長より『白光』の命名あり、尾久にて進水式を行ふ。全長 51 フィート、幅 23.5 インチ。重量 29 貫。型は昭和 12 年建造『暁』を改良」 進水して 1 週間後の 9 月 17 日・18 日に行われた全日本選手権で、白光は 1 着でゴールイン、この優 勝を手始めに、以下連戦連勝。誠に武運めでたい名艇となった。20 年代の東大黄金時代は白光と共にあ った、と言えるかも知れない。 南原総長は白い光線の意味で命名したのであろうが、「阿弥陀経」の”赤色赤光、白石白光”がつい つい連想される。赤光も白光も極楽浄土の池に咲く蓮の花の色。白光艇は強情だが、漕ぎ手がふさわし い品格を備えさえすれば、素直に、一直線に白い光となって走った。われわれ凡俗の徒 9 人が、毎年代 わる代わる白光に乗って、極楽浄土に遊んだときではないかと、思えてならない。あの黄金時代は……。 ◆ライトブルー由来 OB となって艇庫の観覧関から、ずっと眺め渡せる広い川面を着るようにして、トップを疾走してく る東大艇を応援するときほど、楽しいものはなかった。きらりきらりとひるがえる淡青のオールの美し さも、ほかにない鮮やかさ。 この淡青がいつから生まれたかについて、千葉四郎先輩にうかがったことがある。昭和 28 年にケン ブリッジ大学が初来日、全日本選手権に参加したときのこと。同じ淡青の剣橋大の真似かと思ったら、 さにあらずとチビヤン先輩は大いに力んでいった。 「大正 8 年、帝大は早大と初めて対校レースをすることになった。早稲田のえび茶に対して、本学も 旗色を決めなければならん。何か良い色はないかと思案していたら、艇庫から白髭橋の上の空に、雤上 がりの雲の切れ目からすっきりした青空がのぞまれた。当時のクルーはいっせいに叫んだ。”そうだ、 あの淡青に決めよう”と」 千葉先輩は最後に付け加えた。 「この話、まさか創作ではあるまいよ」と。 ◆なにを学んだのか 墨田区隅田公園 18 番地―――あの崩壊しそうな合宿所で、昭和 20 年代の我々が学んだものは何であ ったのか。敗戦後の、あの混乱と虚脱と頽廃と飢餓の中で、ボートを漕いで何を得たのか。 答えて曰く、練習、また練習、その結果、不可能を可能にするのは練習以外にないと知った。曰く、 正しく、いさぎよく、礼節を持って勝負を争う精神を腹の底にもたされた。 また曰く、一つのことを徹底してやる粘りと、自分の精神的肉体的限界に挑戦する強さとを持った。 最後に曰く、生涯の友を得た。 その黄金の 20 年代もはるかになって、いまその隅田公園 18 番地には、さっぱりと、なんにもない小 さな広場となっている。 (執筆:半藤一利 昭和 28 年文学部卒)
© Copyright 2024 ExpyDoc