【補足】 -都における初期の布教に関する幾つかのその他の事項について- ○ [都の宣教の拠点について、ー「鉾町(四条烏丸周辺)」の状況]- ・姥柳町周辺(現在の四条烏丸当たり)を数か所わたって、点々としていた その場所は、いわゆる「鉾町」で、祇園祭りの町でり、現在でも「よそ者」は入りにくい町である その当時の古地図によれば、北の内裏を中心とした町並みから離れた場所にある独立した 街並みであることや、また鉾町が東の八坂神社と真直ぐに繋がっている関係にあることが わかる 当時も現在と同じように盛大に祇園祭が行われており(フロイス 1 第12章) 同神社 と「鉾町の」繫がりの深さを窺わせる このような町の形態から、恐らく、町は周囲が塀や門などで隔離されていたであろう (フロイス 1 第11章) また、、「20年間キリシタンに改修した者はコスメ修道士を除いては誰もいなかった。」 (フロイス 1 第10章)という記述は、このような特殊な町であることに起因していたのかも しれない。 (都における最初の布教拠点の略図) ①~⑤ (④は不明) ・1559年~1560年①~④を短期間で移動し、⑤南蛮寺に1560年6月頃落ち着き、 以後15年間布教の根拠地となる その後この地に南蛮寺が1576年8月建設される ←西洞院通←新町通 ←室町通 ←烏丸通 八幡山 六角通 ②掘立小屋 北観音山 蛸薬師通 鯉山 ⑤南蛮寺 南観音山 錦小路通 霞天神山 放下鉾 四条通 黒主山 浄妙山 橋弁慶山 山伏山 占出山 菊水鉾 ①布教開始 函谷鉾 ③掘立小屋 月鉾 ・布教の拠点であった鉾町は、当時勢力を増していた一向一揆に対抗するため、 法華一揆を組織したといわれている(京都祇園祭の変遷資料 京都府立図書館) 鉾町の閉鎖性と布教への冷たい仕打ちは、このことが影響している面もあるのではないか (当時の仏教勢力) ・法華宗の僧侶はどの宗派よりも放縦で誰にもまして悪しき生活をしている かれらは僧俗とわず、カトリック教会に入るのに最も頑迷で厄介である 常に我等が説くことに最も逆らい、他のいずれの宗派の人以上に我等を迫害した 彼らは我等の事を狐等と呼び、家事や騒動が起きるたびに我等の性にした ・真言宗の仏僧はデウスは「大日(如来)」と同じで、その相違は言葉の上だけと言った ・禅宗の人々は「ホンブン」と称して黙想によって考察するかの混沌はデウスと同じと言った ・他の宗派の仏僧達も、都から宣教師を追放したいと思いながら、信徒の信頼を失わないようにする ためほとんど同じような事を言った それは、自分達の宗派が廃絶し破滅することを意味するのみならず、彼らが何にもまして 自分達の生計及び生活の拠り所としている民衆の好意を失ってしまうことを恐れたから であった (祇園祭りについて) フロイス 1 第12章 ・現在と同じ形で盛大に行われていた (参考) ・9~10世紀に「祇園社」として疫病の原因となる怨霊を静めるための祭りとしてはじまる ・14世紀になると「山鉾」が登場する 段々と数が増加し応仁の乱(1467~1478)の前には 58基にもなった 現在は32基 応仁の乱後はしばらく中止 1500年再開 山鉾38基 (京都の初期の教会について) 京都教区ホームページ 南蛮寺のあった姥柳町、現在の四条烏丸周辺の数か所、移転していた。 ①京都入りしたヴィレラ神父は、一軒の屋根裏に2週間過ごした後、四条新町西入る(当時の 「革棚町」の「山田の後家の小屋」を借りて布教を開始した 約一か月住む (厳しい寒さ、貧しい食事、一枚の畳 投石に悩む) (将軍に会見) ②「異教徒「クンダノジュウチョウの家」 六角通室町西入る玉蔵町 1559年12月転居~翌1月 掘立小屋(芦の壁:冷たい風が入り放題:布団吊るし十字架を貼り付け 床の半分が土間) ③下京区四条烏丸 詳細不明 家主は酒屋を営む 1560年1月~4月 掘立小屋 (屋根はほとんどなく 壁は藁束が貼り付け 投石が激しい 神父病気 酒不買運動 転居 を促される) ④別の家に移る 一か月程滞在 詳細不明 ⑤「古い家屋付きの土地」(中京区蛸薬師通室町西入る姥柳町)を求めて転居 1560年6月頃 以後15年間 ここがいわゆる「南蛮寺跡」で都地区の布教の根拠地となった やがて家屋の老朽化 倒壊の危険 1575年右近をはじめ信徒の協力で新教会の建設:南蛮寺 1576年8月15日(聖母被昇天)に初ミサ 三階建ての聖堂 158年秀吉追放令で取り壊された *その後の京都の教会 ①下京教会 (だいうす町 下京区若宮通松原上がる菊屋町 現在の菅大臣天満宮近辺) 1602年イエズス会の僧院、1605年2000人を収容できる豪華な様式木造の大聖堂 アカデミア:天文学講義:後陽成天皇も聴講 ②上京教会 (上京区油小路通元請願寺西南角) 1600年下京教会の分教会としてイエズス の教会が建てられた(主任神父バレト→トレス→フェルナンデス) 付近は公家・武士階級の居住地 毎年100名を超える受洗者 近くに「だいつうじ」の記録 くい町である 1 第11章) たのかも 560年6月頃 建設:南蛮寺 で取り壊された してイエズス
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