創造的破壊系の企業家像―松永安左エ門のケース

創造的破壊系の企業家像―松永安左エ門のケース
今井賢一
日本資本主義と企業家精神
新たな経済基盤(インフラ)、とくに新技術に基づくネットワーク型インフラの構築は、
政治・経済・社会の構造を根本的に変革する大きな契機となる。
事実、19世紀末から20世紀初めにかけての蒸気から電力への転換、電力送配電のネ
ットワーク化は、広大な米大陸の市場を凍結し産業資本主義の原型を創りあげた。そして、
同じことはその後日本でも起きた。
また20世紀末以降、経済の駆動力は「モノ・動力」から「情報・通信」に移り、情報
ネットワークが新たなインフラとなって「ニューエコノミー」と呼ばれる、これまでと位
相の異なる経済社会を形成しつつある。
このような百年単位の変革は、到底、ひとつの技術、ひとりの企業家によって成し遂げ
られるものではない。関連する多くの技術、多様な企業家が、政治や市場と複雑にからみ
あって形成するダイナミックなプロセスである。しかし、そのことを十分に念頭において
もなお、全体を方向づけたアントレプレナー(企業家)、あるいは経済基盤の創造的破壊に
指導的な役割を果たした企業家というものが存在するはずである。
現に、米国の電力革命の指導者はエジソンとインサルといえるだろうし、日本の民営電
力体制をつくったのは、間違いなく松永安左エ門(1875~1971)であった。
松永は個性的な軌跡を歴史に残したが、とりわけ電力民営化という自己の信念に一徹ま
でに忠実な企業家であった。昨今の雰囲気でいえば、民営化といっても異端とは思われな
いだろうが、松永時代の、軍国主義を背景とした電力国営化の圧力、戦後の欧州各国にお
ける国営電力事業への移行という情勢のなかで、民営化の信念を堅持しつつ、70歳代半
ばにしてついに9電力への再編という大仕事を成し遂げたということは、アントレプレナ
ーシップの歴史に残る業績である。
松永はよく「電力の鬼」といわれるが、その業績は電力にとどまらない。いわば「民営
化の鬼」として、発展途上の日本経済に、資本主義精神を植え付けたのである。
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投機から実業へ
松永安左エ門の95年余の生涯で際立っているのは、自らの事業の節目(経営難や競争
での敗北など)ごとに、世間から引き下がって寓居での隠遁生活を送り、その間に読書や
茶道などに没頭して知的・肉体的エネルギーを蓄積し、次の活躍の場に打ってでたことで
ある。いうならば「ボーンアゲイン(生まれ変わり)」を生涯でたびたび行っている。
英語で「イノベーション(革新)」のことを「ボーンアゲイン」と言い換えることがある
が、松永は明治、対象、昭和と続く日本資本主義のイノベーションの波に合わせるかのよ
うに、自己革新(ボーンアゲイン)の節目(隠遁生活)をつくっている。これは、アント
レプレナーの歴史として注目すべきことである。まず、その初回の節目に至るまでの若き
松永の軌跡をたどってみたい。その帰結に、彼の事業家としての原点があるからである。
松永は長崎・壱岐の事業家・地主の家に生まれ、慶応義塾に入学した後、父の死去で帰
郷して一時家業を継ぐが、再び慶応に入って深く福沢諭吉に師事する。日本の自由経済の
基礎をつくった福沢との毎朝の(集団)散歩、そしてその婿養子、福沢桃介との交友は、
松永の思想・行動に実に大きな影響を与えた。
福沢桃介は「株の神様」といわれたほど投機的な商売に天賦の才があり、弟分の松永も
おのずとその商売ぶりを学ぶことになる。事業を始めた松永は、30歳前後でひとかどの
石炭商として知られるようになり、豪雨の際に石炭を大量に先回りして買い付けたり、株
を売買して大もうけする。
しかし、日露戦争後の株価暴落の際、強気一点張りで手じまいが遅れた松永は一文無し
となり、住まいを大阪から神戸に移し寓居生活に入る。これが一回目の隠遁である。そこ
で彼は、自分の才能は投機ではなく、まさに実業にあることを知ったに違いない。
産業資本家の時代
前に述べた松永安左エ門の初回の隠遁生活は八方塞がりの困難なものだったようだが、
その間に彼は、実に多様な書物をむさぼり読み、常に大学ノートを持ち歩いていたといわ
れる。それは一種の充電期間だったのである。
のちに出版された『著作集2』では、その時代がこう総括されている。
「青年時代の私は
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要するに功を急いだ。野心に燃えすぎた。・・・・・・アンビション(野心=筆者注)は必要だ
が、私の場合は方向が違っている(た)。ギャンブル、スペキュレイション(投機)を捨て
去るのでなければ、本当のプロゼ(ジェ)クト(自己に対する課題的な計画=松永注)、企
業での成功も到底できないと考えるようになった」
こう決断した松永は、それ以降は「一株の相場にも関係することなく」実物投資で事業
を成長させ、そこから利益を上げていく産業資本家の道を邁進していくことになる。
やがて、主に中部・関西系と九州系の企業を束ねて生まれた東邦電力の実力副社長とな
る前後で、天竜川水力など地域電力会社をいくつも吸収して広域での供給を行い、配電の
電圧を高め、水力発電と火力発電を巧みに組み合わせて総設備の稼働率も上げるという、
いまから見てもまことに合理的な戦略を次々に実現する。そのやり方は「科学的経営」と
して評価されるようになる。
こう書くと、松永は投機との決別とともに、お金のことはすべて忘れ、もっぱら物的生
産性の向上にのみ専念したように聞こえるかもしれないが、彼は設備効率や生産性の問題
をつねに電気事業の資金調達との関連で考えていたことが注目すべき点である。
この点は経営史家の橘川武郎・東京大教授がかねて詳論しており(『日本電力業の発展と
松永安左エ門』『松永安左エ門』)、筆者もここで改めて強調しておきたい。
橘川氏によれば、松永は誌上(東邦電力社内報、東洋経済新報など)で技術上及び営業
上の諸問題も、帰着するところは財政問題であり、資金調達である、と述べるとともに、
「安全で儲かる実質を具えて居れば米英のドル・ポンド資本は元より、中国が不安で儲か
らぬとしたら、華僑の遊金さえ導入するに難くない」という先見性さえ示していた。
松永はギャンブル的投機とは決別したが、事業として儲かる実質をそなえねば、真の民
営電力とはなりえぬことを力説し、実行したのである。
原点には現場主義
電力のような巨大なインフラ投資といえども、事業の収益性を上げなければ効果的な
(資本コストを下げる)資金調達はできないという松永安左エ門の考えは、後に電力国家
管理との熾烈な論争において、彼の思想の支柱となるのだが、その意義を明らかにするた
めにも、ここでやや視点を変えて、当時の外国の事情をみてみよう。
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米国の電力ネットワーク化を実現した企業家は誰かと問われて、発明家エジソンの名前
は浮かんでも、事業家の名前はなかなか出てこない。研究書によると、エジソンの秘書か
ら出発してその厚い信頼の下にコモンウェルス・エジソン社を当時の一大企業に発展させ
たインサルがその人だとされている。
たしかに、米国の電力普及の歴史を分析的に叙述した『電力のネットワーク』などに書
かれているインサルの仕事内容をみると、彼が技術と市場と経済の動向をみきわめ、それ
らを組み合わせて、エジソンの偉大な発明をいかにして巨大な市場ネットワークに仕上げ
ていったかがよくわかる。
しかし、インサルと松永の仕事の進め方を比べてみると、どこか本質的な点で違いがあ
るように思われる。
設備の利用効率(電気事業の用語でいう「負荷率」)を決定的に重視し、そのために利用
時間の異なる多様な需要者を集めたり、電気鉄道などに割引料金を提供して何よりも需要
の拡大をはかった点などは似ているが、インサルが自著に書いたとされるシステムの設計
図やグラフをみると、彼のやり方は今の言葉でいえば「アーキテクチャー」
(基本設計)を
まず考えるというものだった。
これに対して松永のやり方は、需要の動きをつかむために懐中時計などを持って人の動
きを調べる、配電効率をチェックするために、配電室にベッドを持ち込んで停電の様子を
調べるという現場主義での検討が出発点であり、それが彼の自信の源泉であった。
そのことは、資金調達の態度においても同様であり、インサルの場合には、集中化した
電力システムによって最有力な需要家を傘下に収めていれば、資金調達は通常ビジネスの
一つにすぎなかったであろう。しかし松永の場合には、若いころから外債の導入に苦労し、
担保の様式を工夫するなど、国家資金を使えば安くなるという国営論との闘いのなかで資
金調達戦略をつねに鍛えねばならなかったのである。
上手に負ける
電力国営論との闘いに入る前に、松永安左エ門が電気事業に参入してから市場での競争
を勝ち抜いていくプロセスを述べておかねばならない。
松永が電力経営者として活躍した時代(主に第一次大戦後)は、日本の工業生産の勃興
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期であり、電力需要が急増し発電・送電のコストも低下した時代であった。そのなかで松
永は、電鉄の乗客数の動きを独自に調べた経験などをベースに、料金を下げれば需要が増
大することを確信した。そして競争を仕掛け、合併も重ねて供給区域を九州などから関西、
中部へと拡大し「喉を噛み切るような競争」を勝ち抜いていった。
しかし、経済学の教えるところによれば、平均費用が逓減し続けるような状況で、自由
な競争が行われれば、その行き着く先(均衡)は、全部が共倒れになるか、一社だけが勝
ち残って独占者となり、独占価格の形成になってしまうかのいずれかである。
松永は、多分そこまでは意識せずに、自らの東邦電力勢による東京市場の制覇をめざし、
旧東京電力をつくってこの市場で主流だった東京電灯との決戦に挑み、熾烈な競争を展開
した。東京電灯の背後には池田成彬(のちに日銀総裁、蔵相・商工相)の三井銀行があり、
郷誠之助(元日本商工会議所会頭)、小林一三(元阪急電鉄社長)らも巻き込んでいく。そ
の結末は、大物たちの調停による東京電灯・旧東京電力の合併と、競争の終結だったので
ある。
松永はこの結末について「勝ったところで大したことにはならない。無理に勝つよりは
上手に負ける方がなんぼいいかもしれん」と総括している(『著作集2』)。
これをどう解釈するか。読み過ぎを承知でこう理解したい。
「勝ったところで大したこと
にはならない」というのは、勝てば最後は独占企業になるわけで、それは松永にとって福
沢諭吉に教え込まれ身にしみついた自由経済の思想に反することになり、大した意義がな
いからである。とはいえ敗走は許されない。
「上手に負ける」ほうがよいというのは、当時
の電気事業のように費用が逓減する産業では完全に勝つのでも負けるのでもない、均衡の
とり方の工夫があると考えていたということではなかろうか。
米国には公益事業委員会という制度があり、独立の行政機関として地域単位の事業者認
可により競争と規制を両立させている。松永は、当時からこれに近い制度を打開策の一つ
と考えたとも思われる。
ボーンアゲイン
前述した競争の決着とともに、日本は次第に戦時体制に突入していく。松永安左エ門は
早くから「電力国営反対論」を主張し、国営化、そして戦争にも強い反対の姿勢を示して
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いた。
しかし、軍部といわゆる革新官僚によって、電力国家管理政策は、唯一の経済上の革新
政策だというような風潮が大勢となり、39年に日本発送電(日発)が実質国営企業とし
て設立されるに至る。松永はこの日発には一切協力しないと明言し、また一部で囁かれた
という蔵相への就任打診なども一切振り切り、やがて埼玉の田舎に再び隠遁、茶事に没頭
していく。
当時松永はとっくに60歳を過ぎており、誰もが引退と思ったらしいが、やがて来る終
戦とともに、彼のライフワークであった電力の真の民営化(9社体制)を実現する仕事が
始まるのである。それが彼のさらなるボーンアゲイン(転生)にほかならない。
戦後の電力不足の中でその供給体制をどうするかは大問題で、連合国軍総司令部(GH
Q)の電力再編の原則(独占排除など)、先鋭的な電産組合の電力民主化案(国有)などが
入り乱れ、議論は紛糾した。そこで49年に第三次吉田茂内閣が発足した後、大物委員か
らなる「電気事業再編成審議会」が設けられ、松永が推されて会長についた。彼が意欲満々
で引き受けたのはいうまでもない。
しかし9社体制という松永案を押し通すことは、誰もが不可能と思うような社会環境だ
った。池田勇人通産相(のちに首相)の支持は得たものの、電産のスト、国会、大半のマ
スコミの批判のなか、松永案に基づく政府案はいったん葬られる。しかし池田やGHQの
ケネディ顧問らの援軍で松永案による電力再編の実施を求める政令(ポツダム政令)が出
され、彼の構想は最後の最後に承認された。
もっとも、ただ骨組みだけのことであれば、かりに高齢の松永が登場しなくても、他の
人物でも成し遂げえたかもしれない。だが、松永の真に凄いところ、鬼と呼ばれた怖さを
みせたのは、実はそれから後のことなのだ。
どういうことかといえば、彼は9電力体制という骨組みに血を通わせ、肉をつけて「真
の民営化」にいたる道筋をつけたのである。血を通わせるとは、各社のトップに適切な人
材を配置したことであり、肉をつけるとは財務基盤の強化によって資本市場においてみず
から資金調達をなしうる道を開いたことである。
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血を通し肉をつけ
「事業は人なり」という言葉は松永安左エ門の語録にも出てくる。彼にとって電力民営
化を難産の末実現させた後の仕事は、新民営電力会社を動かす首脳の人事であった。
もちろん、松永が直接の人事権をもったわけではないが、再編方針に沿って設立された
「公益事業委員会」の委員長代理として、白洲次郎(元貿易庁長官・東北電力会長)、麻生
多賀吉(元衆院議員、吉田茂の娘婿)という吉田茂首相の側近を巻き込んで統制派の影響
力を排除し、新生電気事業の革新を担いうる人材を登用した。のちに電力イノベーション
(革新)を牽引する太田垣士郎(元関西電力社長)、木川田一隆(元東京電力社長)らの活
躍の場を用意したわけだ。松永自身のボーンアゲイン(転生)とともに、電力事業再生に
向け血の通った民営体制が成立したのである。
もう一つ重要な点は財務健全化(資本効率向上・コスト最小化・利益最大化という理論
の実践)だ。この点、国家資金は低コストとはいえ、それを導入すれば、税金(国民負担)
頼みになってしまう。
「理屈をいえば税金で負担するか、料金で負担するかの違いで、国家
資金で安くするというのは、一種のゴマカシである」(『著作集4』)。
そこで松永は、電気料金を数次に分け約7割引き上げる戦略に打って出る。しかし当時
の物価情勢からすれば、これは暴挙ともいえるものだった。
「松永を殺せ」というプラカー
ドを掲げた群集が広場に集結したばかりか、財界やGHQでも反対の声が多かった。しか
し松永は、利益が出ず借金が返せない事業に資金は集まらない、資金がなければ電源開発
は望めない、電源開発が進まないと産業は興らない、産業が発展しないと国民生活の向上
もない、という単純明快な論理で懸命な説得努力を続け、ついに料金値上げ(2年で約6
割)を実現した。
彼の説得に迫力があったのは、大衆向けの抽象論だけでなく、戦後の日本経済・電気事
業の成長に明確なビジョンを持っていたからであろう。経済安定本部(元内閣府)の電力
需要年3%成長説に対して、年8%成長の構想をもち、最後には日本経済の復興計画協議
のため米国に向かう一万田尚登日銀総裁にもその構想を携えさせたという(水木楊『爽や
かなる熱情』2000年)。その後、現実の電力需要はしばらく年8%超の伸びを続け、松
永の先見性は見事に証明されたのである。
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洞察力の源泉
松永安左エ門は、その生涯の節目において時代の本質を洞察する鋭い力を示し、かつそ
れを現実の成果として実らせてきた。この洞察力の源泉はどこにあったのか。
彼の伝記などからうかがえる奔放な印象とは異なり、それは意外にも「研究」にあった
のではないか。そうはいっても普通の学者や研究者がやるような研究ではなく、時代を見
抜くための研究である。その素質は若い頃からあったようで、ライバルでもあった福沢桃
介にこういわせている。
「研究にかけては俺も人後に落ちぬつもりだが、松永の徹底した研
究ぶりには兜を脱ぐ」と(松島春海ら編『日本の企業家4』)。
そして、その傾向は、神奈川県・小田原への再転居を契機にした晩年のボーンアゲイン
(転生)において、さらに鮮明になる。すなわち、自ら設立に尽力した電力中央研究所・
産業計画会議における研究のリーダーシップである。それは、松永の最晩年に世に出され
た諸提言をみればよくわかる。これらは、評論的なきれいごとではなく、いずれも現実に
遂行されたもので、石炭から石油火力へのエネルギー転換、国鉄の民営化、新国際空港の
建設計画にいたる。
学者まかせの研究提言ではなく、自ら委員会で鋭い発言をし、虫眼鏡で資料を食い入る
ように見る「研究の鬼」であった(筆者は当時松永プロジェクトの仕事もしていたので、
その姿は鮮明に覚えている)。また学者から基礎的な情報を得ることにも極めて熱心だった。
石油火力への転換問題では、脇村義太郎・元東京大教授を顧問格としていたし、経済成長
力の判断のためには内田忠夫・元東京大教授のマクロ経済モデルづくりを支援していた。
それでは、そうしたツボを押さえる洞察力はどのように磨かれたのか。最近の企業家研
究において注目すべき論点に、市場競争の過程、とくに市場の激しい変動期において革新
的な知識が創造される点を強調する見解がある。松永的な洞察力も自己の生存をかけた激
烈な競争の過程において鍛えられたものであろう。
既存体制に不均衡があるときこそシュンペーターのいう「創造的破壊」が必要だ。しか
し破壊後には、新しい事業機会を見抜く創造的知識が必要になる。松永は、そうした「知」
を研ぎ澄まし創造的破壊を実践した希代の企業家であった。
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