谷崎作品関連人物関係図

愛子
平戸藩主
﹁甲子夜話﹂を著す
松浦静山
中山忠能
醍醐忠順
鷹司政熙女景子
家女房藤木壽子
家女房鳥居小路信子
家女房堀内信子
家女房伊丹吉子等に、
多くの子あり
峯
一条実良
昭憲皇太后
家女房泉亭靜枝子
家女房泉亭萬喜子
亀井玆常
昭和天皇
良子女王
博義王
伏見博明
華頂宮博忠王
旧皇族の離婚第一号
華頂博信
伏見博英
松平定安四女
浪子
斉
失踪
恭子女王
長武
輝信
年子
康春
渡辺 明
根津清太郎
重子
森川文平女
澤子
松平康民
八百子
旧姓池辺
後に復姓
松子
谷崎潤一郎
周雄
浅野長之男
輝信
富士子
鷹の三男
老いらくの恋
鈴鹿俊子
中川与之助
国子
葵の女
たをり
恵美子
清治
千萬子
博義王には喘息の持病があり、
治療のため医者が薬を注射したところ、
一時間後に急死
一条朝子
一条実輝女
邦英王
大田
義象
おえい
三作
おみつ
仲子
谷崎精二
おしん
江澤藤右衛門
谷崎終平
河田末子
林 伊勢
小泉得三
平次郎
谷崎久兵衛
花
関
谷崎倉五郎
琴子
鷹
線子
綾子
義雄
立憲政友会
和子
河原林安左衛門
隆愛
糸子
みか子
丹波山国農兵隊親兵組
龍
Wikipedia 日本語版、Reichsarchiv ∼世界帝王事典∼(http://reichsarchiv.jp/)、
小谷野敦作成「谷崎潤一郎詳細年譜」(http://homepage2.nifty.com/akoyano/tanizaki.html)、
高久嶺之介著『河原林安左衛門日記』( 一 ) ― 丹波山国農兵隊親兵組の日記 ―(http://jairo.nii.ac.jp/0027/00013539)
、
細江 光著『谷崎潤一郎深層のレトリック』 和泉書院、市木公太編『川田順年譜』叢園社、
山本夏彦著『無想庵物語』 文春文庫、大沼宜規編著『小中村清矩日記』 汲古書院、
佐佐木信綱著『ある老歌人の思ひ出』 朝日新聞社をもとに木龍美代子が作成。
太罫で囲んである人名は、昭和 22 年の昭和天皇会見メンバー。
川田 順
尾崎紅葉著﹃金色夜叉﹄
鴫澤宮のモデルと川田順が主張
巌谷小波は、
川田甕江の書生だった
周雄
幼名は和助でなく和三郎か。二代目久右衛門の幼名が和助。
早くに死別
山脇氏
八重
川田甕江
芝の風呂屋
本多かね
さんさく
太物問屋
輝耕
東伏見宮依仁親王・同妃周子に可愛がられ、
事実上宮家の継承者であったが、
旧皇室典範で養子が認められていなかったため、
東伏見宮を相続できなかった。
青蓮院が属する天台宗の主要寺院が住職の世襲を認めていないのに対し、
青蓮院門主の地位を子息に譲ることを強く望んで天台宗教団と鋭く対立し、
一時は教団離脱をほのめかして教団に圧力をかけ、
ついに世襲を認めさせた事件も起こしている。
邦英王↓東伏見邦英↓東伏見慈洽
保子
松平斉民
徳川家斉十四男
筆子
蜂須賀正韶
恭子
浅野長之
慶久
経子
博恭王
華頂宮から伏見宮に復籍
母 河野千代子
森鷗外の家柄は
亀井家のご典医
新村 信
新村 出
邦芳王
病弱のため、異母兄
博恭王が伏見宮家を相続
母
久邇宮邦彦王
俔子
醍醐忠順女
島津忠義女
好子
賀陽宮邦憲王
母
泉亭靜枝子・萬喜子の父は、
下賀茂神社社家の家系で京都府出身の士族泉亭俊益
久邇宮朝彦親王
伏見宮貞愛親王
新村猛雄
今出川公久女
一条美賀子
吉井 勇
徳子
津山松平家
︵秀康の長男忠直の子孫︶
大河内輝声
徳川慶喜
良子
一条実輝
朝子
小山内薫の弟子
土方与志
梅子
通陽
中根 幸
鍋島斉正女
水俣氏
悦子
加根子
細川護久
正室
側室
三条実万女、細川韶邦正室
後に毫摂寺善慶室?
千代
慶喜の婚約者だったが、
天然痘により辞退
利子女王
蜂須賀年子著﹃大名華族﹄
の冒頭に﹁照子姫﹂として登場
格太郎
伏見宮邦家親王
忠告
忠敬
一条忠香
四条隆謌
信子
彌太郎
峰子
牧野伸顕
相政
昭和天皇
川村純義に預けられ、
沼津御用邸で養育される。
昭和天皇侍従長
︵昭和二十二年当時は侍従。侍従長は大金益次郎︶
白洲次郎
正子
泰子
廉治
川田順の姉綾子︵﹃金色夜叉﹄のモデル︶の友人
三島通庸
大久保利通
捨松
燁子
柳原白蓮
入江為守
信子
銀子
義光
花子
常子
樺山愛輔
近藤廉平
幸蔵
沢子
大山 巌
吉井友実
川村純義
柳原前光
愛子
谷崎潤一郎著『夢の浮橋』
中山忠能の屋敷に預けられ、
忠能女慶子が養育掛になる。
小中村清矩女おしんが乳人に。
大正天皇
明治天皇
昭憲皇太后
国学者
小中村清矩
小中村家の出自は
石清水八幡宮の神職
谷崎作品関連人物関係図
忠愛
正親町公董
忠光
板倉勝任
慶子
孝明天皇
大正天皇嫡母
備中松山藩藩儒
後、文学博士
昭和8年発覚
不良華族事件
(ダンスホール事件)
家督相続が原因となり、東京府麹町にある自身の邸宅にて子の忠敬が、
甥の格太郎に射殺され死亡するというスキャンダルが発生。
忠敬の嫡男・忠重はまだ幼少であったため、
忠順が再度当主となったが、翌年忠順も亡くなった。
徳富蘆花著『不如帰』
(明治三十一年∼三十二年)