ヘイ・カンパニー からの手紙 - 島根県立大学短期大学部 松江キャンパス

私
は 今 か ら 十 一 年 前、 セ ン ト ラ ル
ワシントン大学の留学生として
アメリカのワシントン州エレンズバー
グ市にやってきました。そんなに時間
が経ったとは思えないほど、最初の日
四十度を超えることもあり
明することになります。
ルワシントン大学と姉妹校で……と説
決まって日本のどこの出身なのかと尋
話 し 相 手 は 私 が 日 本 人 だ と 知 る と、
ます。自然に囲まれていて、
季節に応じていろんなアウ
トドアが楽しめます。
向きが変わると牛の匂いがダウンタウ
うイメージそのもので、風
本当にアメリカの田舎とい
ます。最近は Kobe Beef
があちこちの
レストラン・メニューに見られるよう
を拠点にして位置関係を説明したりし
わってしまいます。今では大阪や神戸
会話のキャッチボールが一瞬にして終
ねます。鳥取だと答えると、鳥取を知っ
ンにも充満していました。
めて来た時のエレン
置するワシントン州の真ん中あたりに
「どうしてこんなに広いアメリカの
て い る ア メ リ カ 人 は ま ず い な い の で、
あるエレンズバーグ市は、人口の三分
ズ バ ー グ の 印 象 は、
すが、今ではエレンズバーグ市の住人
の一が学生という小さな町です。緯度
になってきているので、神戸といえば
初
となっています。他の地域に引っ越そ
中で、こんなちっぽけな何もないエレ
大体分かってくれます。
のことが昨日のように鮮明に思い出さ
う と 何 度 も 考 え ま し た が、 エ レ ン ズ
は北海道の北端とほぼ同じなので冬は
ンズバーグを選んだの?」とよく聞か
英語を身につけるのが目的だったので
バーグの魅力は私をしっかりつかんで
マイナス二十度くらいになることもあ
と 言 え ば、 や は り ア メ リ カ 文
Beef
放しません。
アメリカ合衆国西海岸の最北部に位
れます。島根女子短期大学がセントラ
Keiko Walsh
り ま す。 で も 夏 は 乾 燥 し て い て 暑 く、
れます。大学付属の語学学校に通って
ヘイ・カンパニー
からの手紙
(干し草)
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しょうか?
想像の通りです。量は多
化で気になるのは食生活ではないで
買おうと思うと、大きなパックだと二
す。ハンバーガーを作るのにひき肉を
やがて卒業の時期を迎えます。最初
硬貨)を見つけては喜んでいました。
に働いたのはコーヒー店でした。ご存
キロぐらい入っています。
じの通りワシントン州シアトルは大物
スターバックス発祥の地で、エレンズ
バーグでも至るところにエスプレッソ
のスタンドが見受けられます。日本に
時に出かけて五時半には仕事開始でし
屋さんに履歴書を提出しました。最初
と、スターバックスと地元のコーヒー
帰ったらエスプレッソのお店を開いて
それにしてもこちらの人は外食を頻
た。時給は州で定められている最低賃
に 連 絡 が 来 た 地 元 の コ ー ヒ ー 屋 さ ん、
学 生 の 頃、 留 学 生 は 大 学 内 で あ
繁にするだけでなく、そのメニューも
金 よ り 気 持 ち 上 の 五・一 五 ド ル。 私 は
D& M コ ー ヒ ー で 働 く こ と に し ま し
強するにはやはり現場に入るのが一番
こんなんでいいの?
というものを嬉
校舎の一階を授業の始まる八時までに
みようかという安易な考えを持ち、勉
しそうに食べています。渡米して間も
掃除しなければなりませんでした。静
れ ば ア ル バ イ ト が で き ま し た。
ない頃、テレビを眺めていると、コマー
かに一人でごみを拾ったり、掃除機を
最初に見つけた仕事は掃除係。毎朝五
大
お話ししましょう。
次に、私のこちらでの仕事の体験を
く、甘いものはとことん甘く、何でも
かんでも脂っこい。私は昔から量を食
べる方でしたが、その同じ量をこちら
の食事で続けたら、二カ月で十キロも
太ってしまいました。大学に入って食
事つきの寮生活、しかも食事はいつも
バイキング方式だったので、物珍しく
シャルで五歳くらいの男の子とおじい
かけたりするのはいろんな人と一緒に
ローストしているというこだわりのお
色々試した結果がそうでした。
ちゃんがほのぼのとピザを一緒に食べ
仕事をするよりは気楽でした。貧乏学
店だったので、たくさん学ぶことが出
をたべるのか?
そんなの食べていて
に、出身者だと自分でも錯覚するほど
来ました。また、地元出身ではないの
を 始 め ま し た が、 そ こ で 豆 も
心臓大丈夫?
きっとハンバーガーも
街中の人と知り合いになりました。
エ
た。
ているというのがありました。私は「ア
生をしていたので、ペニー(一セント
スプレッソの知識は皆無で仕事
メリカ人はおじいさんになってもピザ
食べるのね……」とちょっと心配した
まず入ってすぐにカートを拾うのです
パ ー に 行 け ば よ く 分 か り ま す。
メリカ人の食生活の様子はスー
人がほとんどです。個人的にとても情
ような仕事は大学生の仕事として見る
仕事を続けました。しかしバリスタの
ジャーも任されながらバリスタとして
努 力 の 甲 斐 あ っ て、 店 舗 の マ ネ ー
が、その大きさがすごい。日本のスー
熱を注いでやっていたのですが、お客
ことを今でも覚えています。
パーだと買い物かごの大きさと変わら
さんに大学生と間違われる度に、本当
ア
ないのですが、こちらのカートは多分
にこの仕事でいいのだろうかと考え出
ある忙しい朝のラッシュ時、一人の
していました。
それの五倍くらい。日本みたいに小分
けにして売っていなくて、何でも大き
な袋、大きなパッケージになっていま
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本に出張する度に何か欲しいものは
に し か 来 な い お 得 意 さ ん で す が、 日
お 得 意 さ ん が 入 っ て き ま し た。 た ま
す。夏の収穫期には出来上がった牧草
質の確認のために訪れることはありま
たちが輸入業者と一緒に収穫状況や品
い か?」 と い う の で す。「 職 務 は 分 か
に「人が辞めるんだけど、うちに来な
した。すると、そのお得意さんは唐突
”と 聞 き な が ら、
Morning! The usual?
私はコーヒーをすでに注ぎだしていま
日話す環境に飛び込んで、頭の中がぐ
べることがなかった私は、日本語を毎
との電話での会話以外は日本語をしゃ
での約四年間、月に一度か二度の家族
大学卒業からアンダーソン社入社ま
の買い付けに日本から続々とお客さん
らないけど興味あるなら履歴書を会社
ちゃぐちゃでした。最初のうちはお客
が訪れます。
まで持って行きなさい」と。ちょうど
さんに「英語で話したほうが楽ですか」
ないかと聞いてくれるんです。“ Good
仕事探しをしていた私はアドバイス通
とか「日系人ですか」と、よく言われ
業マネージャーのアシスタント
たものです。
り履歴書を提出し、面接を二回受けて、
新しい就職先が決まったのです。その
お得意さんは実はその会社の二代目
と し て 入 り、 最 初 は 事 務 作 業 ば
かりでしたが、そのマネージャーが退
営
し い 勤 務 先 は 牧 草 の 加 工・ 輸 出
職したあと、その後任をさせてもらっ
で、現在は会長なのでした。
会 社、 ア ン ダ ー ソ ン・ ヘ イ 社 で
新
これらの草は刈られたあと、ベール
ています。事務作業もたくさんあるの
社はエレンズバーグにあり、オレゴン
収穫期にお客さんが検品に来られた
す。主な取引先は日本。実はエレンズ
夏は、最高級の牧草を作る環境なので
れます。それをコンテナーに詰めて船
ときは、牧草を購買するバイヤーに運
ですが、夏の収穫期にはほぼ毎日農場
す。牧草って地味な産業ですが、エレ
州オーロラにはストロー 藁
( を
) プレ
スする工場もあります。社員は約二百
で輸出します。シアトルとタコマに港
転してもらって同乗することもあれ
バーグの寒い冬と、風が強く乾燥した
ンズバーグでは最大の産業です。日本
人。私が入社したときには日本人は二
があって、そこからだと東京が一番近
シーはイネ科の草で、元々競走馬用に
チモシーとアルファルファです。チモ
ますが、会社自らが種まきから手がけ
はほとんど生産農家に任せてい
モシーとアルファルファの栽培
く、出港から十日くらいで到着します。
この時期は一日中牧草と埃にまみれた
均 走 行 距 離 は 四 百 キ ロ に も な り ま す。
ないこともあります。検品時の一日平
ば、自分で運転して回らなければなら
す。
に行って顧客の買い付けに立会いま
向けの牧草輸出はワシントン州だけで
人だったのですが、今では私一人です。
私の勤める会社、アンダーソン社は
輸出されたのが始まりでした。今では
のち、夕方は接待なので、家で食事を
といって取り扱いやすいように梱包さ
なく、アメリカ西海岸の各州から行わ
町の南東部に位置しています。大きな
るフィールドもあります。取引先は日
することも少なくなります。
アンダーソン社が主に取り扱うのは
トラックが交通の多い街中を走らなく
酪農向け、肥育向けなどにも使われま
本の大手商社や問屋で、日本の農家と
れています。
てもよい、高速道路へのアクセスも便
す。 ア ル フ ァ ル フ ァ は マ メ 科 の 草 で、
直接の取引はありませんが、農家の人
チ
利な場所です。アメリカからの牧草輸
主に酪農牛向けに出荷されます。
営業といっても私が今までイメージ
出規模としては最大規模の会社で、本
20
ル、電話、会議が主な内容となります。
主な仕事内容です。事務の仕事はメー
存のお客様との関係を維持することが
ンでは取引先との歴史が長いため、既
していたものとは違って、アンダーソ
ジーンズでOKですが、日本に出張す
は カ ジ ュ ア ル な 服 装 な の で、 普 段 は
いに行ったりするぐらいです(仕事場
行ったり、出張前には出張用の服を買
で す が、 マ リ ナ ー ズ の 野 球 を 観 戦 に
トルまで出かけることはあまりないの
(旧姓=浦林/英文専攻一九九六年卒業)
思います。
しいことに挑戦したりしていきたいと
初心を失わず、色々な発見をしたり新
とても重要だと感じます。これからも
の信じる価値などを見失わないことが
気軽にアウトドアが楽しめ
日 本 へ の 出 張 は 年 に 一、二 回 で、 北 海
る環境なので、夏はキャンプ
る際はさすがにスーツ姿に変わりま
リカまで来られない農家に行って話を
す)。
聞いたり、実際に牧草がどのように使
や 川 下 り、 ハ イ キ ン グ な ど、
道、関東、関西、上越、東海などを二
われているのかを見たり、日本のマー
やりたいことがたくさんある
週間くらいかけて回ります。普段アメ
ケット情報を集めたりします。
業部は基本的に八時から五時
務 時 間 は 皆 そ れ ぞ れ で す が、 営
番忙しいので、そういう楽し
のですが、私の仕事は夏が一
勤
みも後回しになってしまいま
す。
婚して今年で七年目に
で、土日は休みです。私は時間給では
な い の で、 必 要 に 応 じ た 勤 務 時 間 で
す。夕方の五時頃になると日本の取引
マネージャーになってからは余計に仕
りで帰宅することはありません。営業
か予定が入っていない限り五時きっか
が入ってきます。そのため、よほど何
がとても大切なので、仕事と
いていましたが、今では家族
ち込む……という理想図を描
家庭も持たず、日夜仕事に打
キ ャ リ ア ウ ー マ ン に な っ て、
な り ま す。 自 分 は 将 来
事が忙しくなったので、毎日会社と家
家庭のバランスを保つのに悪
結
の往復だけで、時々スーパーに寄り道
戦苦闘の毎日です。
先が出勤時間となるので電話やメール
するだけという、私生活のない生活を
た私がこうしてアメリカに住
最初は国外に出たくなかっ
でも、土日の休みにはゆっくり過ご
んでいるのも、島根女子短期
送っています。
すようにしています。五月から十月ま
大学のプログラムとそれに参
で す。 こ う し て ア メ リ カ に
では土曜の朝にエレンズバーグのダウ
十一年も住みましたが、自分
加させてくれた両親のおかげ
あるので、そこへ新鮮な野菜や果物を
ンタウンでファーマーズマーケットが
買いに行くのが楽しみです。私はシア
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世界の
インスタント
ラーメン
大試食会
松下沙央里
ちは暑いプレハブ小屋の中で世界各国
二〇〇七年六月十六日、晴天。私た
ミョン」はインスタントラーメンのこ
く、韓国語でラーメンを表す言葉「ラー
にはもともとラーメンというものはな
い!」 こ
「 の パ ッ ケ ー ジ 凄 い! 」と 楽
しげに始まった試食会だったが、数を
「どれから食べようかー?」「これがい
キ ャ イ キ ャ イ、 ワ イ ワ イ 言 い な が ら、
で ひ た す ら 試 食 し つ づ け た の で あ る。
チゲ」という
食べる「ブデ
スタントラー
には鍋にイン
また、韓国
とである。
の様々なインスタントラーメンと闘っ
ていた。三つのコンロで計十八個のイ
こなすうちにだんだんと元気がなくな
料理があっ
ンスタントラーメンをつくり、十三人
り、皆の顔も強張っていくのが痛々し
て、それ用の
スープの付いていないインスタント
メンを加えて
い。
韓国産の辛いインスタントラーメン
ンという新境地を発見したインドネシ
そうなタイ産、さわやかな味のラーメ
じるという、舌の機能がおかしくなり
リカ産、酸っぱくて辛く時々甘味を感
に辿り着くのかさっぱり分らないアメ
与した。この会社は三養食品という会
が韓国の青年実業家に無償で技術を供
生した五年後の一九六三年、明星食品
る。日本でインスタントラーメンが誕
ラーメンが最も早く伝わった国であ
韓国は日本生まれのインスタント
ラーメンもある。
ア産。ほかにも中国産とフィリピン産
社だが、現在では農心というメーカー
から始まり、なにがどうなってこの味
のインスタントラーメンを一食ずつ試
が主流となっている。
韓国のイ
食した。
韓国
ラーメンの
ンスタント
韓国は一人あたりのインスタント
味の特徴は
たっぷり
唐辛子を
もインスタントラーメンが使われてい
使った辛さ
とされている。韓国では食堂や屋台で
て、そのために業務用のインスタント
で、その代
ラーメンの消費量が世界で最も多い国
ラーメンも作られているそうだ。韓国
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《ガムジャ
て味がわからなくなった」など。
ぽ い 辛 さ で、 韓 国 っ ぽ い 」「 舌 が 痺 れ
辛さが強い」「咳込む人多数」「キムチっ
と予測できていた。」「スープの味より
ている段階で、もうすでに辛いだろう
表が《辛ラーメン》。試食の感想も「作っ
ラの薄い感じ」など、おとなしい感想。
だ か と ん こ つ だ か の 味 っ ぽ い 」「 鶏 ガ
よ り は 塩 ラ ー メ ン み た い な 感 じ 」「 塩
ルクという
な香り」「ミ
は「甘そう
コムタン》
る。《 サ リ
だってあ
ミルク味
ンの売り込みに行った時のことであ
福がアメリカにインスタントラーメ
タ ン ト ラ ー メ ン の 生 み の 親、 安 藤 百
メリカと深いかかわりがある。インス
カップ麵の誕生(一九七一年)はア
いる。ブランド名は日清食品が《
Top
》、 東 洋 水 産 が《 Maruchan
》
Ramen
である。
開 始 し、 激 し い シ ェ ア 争 い を 続 け て
れインスタントラーメンの現地生産を
なっている。
なラーメンに
スープのよう
は「 コ ー ン
フ レ ー バ ー》
ミー・チキン・
とはいえ、日本のものとは味が全く異
の《 ク リ ー
マルチャン
たが、こいつ
麵》も辛かっ
な味わいが隠れていたように思う」「パ
「フルーティ
辛さがくる」
から粉っぽい
じゃない。「後
象は強烈だっ
ティ麵》の印
《ジャパゲ
焦げのある
よ う な、 お
焼きそばの
ンのアイデアが生まれ
そこからカップラーメ
フ ォ ー ク で 試 食 し た。
れ、湯を注ぎ、そして
ンを割ってカップに入
リカ人はチキンラーメ
ずがない。相手のアメ
チ ー ズ を 混 ぜ た よ う な 感 じ 」「 バ タ ー
イナップルの匂い」「レモンの匂い」「シ
た。「 み た ら
たのである。
る。ラーメン用のどんぶりなどあるは
ジ ミ の 煮 汁 の よ う な 香 り 」「 シ ジ ミ 汁
し団子のよ
はそれだけ
が辛くなった感じ」……
うな甘い匂い」「玉ねぎの焦げた匂い」 アメリカではインス
の《ジャガ
モが原料
に合うものが多い。特に《辛ラーメン》
ティに富んでいて、わりと日本人の舌
韓国のラーメンはとにかくバラエ
を使用していないこと
して扱われている。肉
理、あるいはスープと
洋系のエスニック料
タントラーメンとは東
イモラーメ
は日本でも人気があり、スーパーマー
から、健康食品、ダイ
といった感想が代表的。
ン》という
ケットなどでも売れていて多くの人に
ジャガイ
の も あ る。
エット食品として食べ
たようだ。
られていた時期もあっ
食べられている。
アメリカ
「肉じゃが
にラーメン入れた感じ」「コンソメスー
プ み た い な 味 が し た 」「《 辛 ラ ー メ ン 》
ントラーメンは日本の
アメリカのインスタ
ぷるもちもちしてピリ辛でおいしい」 ア メ リ カ で は 日 清 食 品 が 一 九 七 二
メーカーが作っている
程 じ ゃ な か っ た け ど 辛 い 」「 麵 が ぷ る
年、東洋水産が一九七七年に、それぞ
といった感想。
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人 の 口 に あ う の か?」「 醤 油 ラ ー メ ン
メ ン に 近 い 」「 醤 油 味 だ け ど ア メ リ カ
ンタル・フレーバー》だろう。「醤油ラー
る。味は辛くて酸っぱいものがほとん
ンスタントのラーメンが競争してい
屋台においても生麵のラーメンとイ
どで、韓国以上に辛いものが多い。ト
ならないマ
か不思議で
チキン・フレー
清《 テ リ ヤ キ・
うな感じの日
想は「レモング
ラーメン》の感
《トムヤム
+生姜味」……
ムヤムフレーバーなどタイの伝統料理
ルチャンの
バー》。「生卵み
ラスみたいな匂
口という感じ」
ライムが
どうしてこ
んな香りに
《 ラ イ ム・ チ リ・ シ ュ リ ン プ・
たいな匂い」「卵
い 」「 レ モ ン と
を取り入れた商品も多い。
フレーバー》。「新築(リフォー
かけごはんにみ
いうか和風ハー
生っぽいよ
ム 後 ) の 匂 い が し た 」「 鉛 筆 の
りんを加えたような匂い」「乳くさい」
ブの山椒の香
芯 の よ う な、 木 の よ う な 匂 い 」
「一口食べた後は美味しく感じるけど、
り」「レモンティーの匂い」「酸っぱさ
変化したの
「すっぱ辛い」など。
しだいに甘すぎると感じるようにな
日本を意識してはいるが、日本人に
日本のイ
て い る。 小 麦 粉 が 原 料 の 麵 も あ っ て、
る。タイの麵類はほとんどが米ででき
いうものもあって、スープ麵などを売
た、小舟で運河を行き交う水上屋台と
中心にたくさんの屋台が存在する。ま
タイは屋台文化の国であり、都市を
が 痛 く て 辛 さ が ず っ と 残 る 」「 私 の 舌
メンが酸っぱいのか理解できない」「口
ぱ さ と 辛 さ が 同 時 に 来 る 」「 な ぜ ラ ー
まの匂い」「酸っ
の 香 り 」「 ふ す
の 匂 い 」「 倉 庫
など、まだ普通。
の 中 に 辛 さ 有 り 」「 イ ラ イ ラ す る 味 」
ンの《ロー
は合わない変わった味のものが多いの
の感想はすご
《ヤムセップ》
る」などなど。
スト・チキ
がアメリカのインスタントラーメンで
マルチャ
ン・フレー
ある。
か っ た。「 シ ャ
ボン玉液の匂
ンスタント
はこれを食べ物と認識しなかったらし
タイ
バ ー》 は、
「カレーに
レモンとセ
ラーメンに
こちらは「バミー」と呼ばれ、「汁そば」
い」……
い 」「 古 い 辞 書
一番近かっ
「和えそば」「炒めそば」「揚げ焼きそば」
ロ リ を 入 れ た 感 じ 」「 生 姜 の 匂
だ か マ ー ガ リ ン だ か 乳 っ ぽ い 味 」「 粉
たのは日清
など種類は非常に豊富である。
い」「いい匂いの草の味」「ハー
ミ ル ク っ ぽ い 匂 い 」「 ち ょ っ と 一 口 な
の《オリエ
ブの香りがした」……
ら食べられるけど長く食べていると閉
24
が く る 」「 辛
とは別に辛さ
いな匂い。味
「古い油みた
プ》もすごい。
《ムーサッ
飯の匂いがし
炊き立てのご
ば。「調理中、
ゆる焼きそ
ン》は、いわ
《ミーゴレ
だったのか。特徴的な感想を拾ってみ
今回の試食会の全体的な感想はどう
たように思う。
での国で最も日本人の口に合わなかっ
インドネシアのラーメンは、これま
クリームの味は、一生忘れたくても忘
ラーメンの風味、最後に食べたアイス
謝、 感 謝。 あ の 例 え と イ ン ス タ ン ト
ムをごちそうしてくれた編集長に感
んなりしている私たちにアイスクリー
発してくれた皆と、試食会を終えてげ
て思いもつかないような比喩表現を連
インドネシアは人口の八〇%以上が
い。「 レ モ ン
ともすさまじ
の感想はなん
し れ な い 」「 同 じ よ う な 麵 や 見
ラーメンも不思議な味なのかも
らすれば日本のインスタント
れば不思議な味でも、外国人か
インドネシアではインドフードとい
入りやすく、種類も豊富である。
日本では韓国産やタイ産に次いで手に
酸っぱい系」
匂 い 」「 少 し
「旅館の畳の
《バソサピ》
か?」と疑問・興味を持ち、そ
は 考 え ず に、「 な ぜ こ う な る の
い、やっぱり日本が一番だ」と
界には訳のわからないものが多
こ の 体 験 か ら 得 た 教 訓 は、「 世
(まつした・さおり/文化資源学系一年)
たと思ったら
が 恋 し く な っ た 」「 外 国 に 行 け ば 一 番
くて味がわか
大変なのは言葉かと思っていたが、味
れることはできないであろう。
いに変わった」「焦げた玉ねぎの匂い」
よう。︱︱「日本にいながら日本の味
「ごま油そのものみたいな味」と、散々。
カレー粉の匂
く る …」「 一 食 食 べ ろ と 言 わ れ た ら 無
らなくなって
理」といった感じ。
も あ る の だ と 改 め て 思 っ た 」「 外 国 の
イスラム教であり、この人たちは豚の
とか木とか薬
た目でも味が全く違う、味に国
インスタントラーメンが日本人からす
肉 や 脂 な ど を 食 べ る こ と が で き な い。
草みたいな感
民性というか文化がにじみ出で
《ソトミー》
そのためインスタントラーメンのパッ
じ 」「 洗 剤 と
インドネシア
ケージにも、イスラム教の教えに従っ
かの化学製品の味が混じったレモン」
ちは日本にいながら、各国のイ
ている」
て適切な処理をしたという証明である
「レモンとミントと割りばしの味」「さ
「 HALAL
」マークが付いている。
日 本 で 暮 ら す イ ス ラ ム 教 徒 の た め、 わやかという表現を、不味さを表す言
ンスタントラーメンを通じて異
本当にその通りである。私た
葉として使うとは思わなかった」……
インドネシアからの輸入インスタント
う会社がインスタントラーメン市場の
「スナック菓
の国々のバックグラウンドなど
文 化 体 験 を す る こ と が で き た。
八~九割を占めていて、そのブランド
子の匂い」「異
ラ ー メ ン を 扱 っ て い る 店 は 結 構 あ る。
名「インドミー」はインスタントラー
を理解していこうとする姿勢が
最後に、この試食会に参加し
大事だと思う。
様な匂いがし
せいかまだ普通」
たけれど、ほかに強烈な物が多すぎた
メンの代名詞となっている。
インドネシアのインスタントラーメ
ン も 伝 統 料 理 を 模 し た も の が 多 い。
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木綿街道を歩く
──故郷の小さな文化に触れて──
る。田んぼと畑が点在し、旅伏山に見
るまで生活の中心になっていた町であ
私の生まれ故郷であり、中学を卒業す
出雲市(旧平田市)平田町。そこが
残る船川沿いの一角を「木綿街道」と
平田を現在に伝えようと、古い商家の
む人々が、そんな活気溢れるかつての
話である。近年、街並み保存に取り組
る。江戸時代から明治時代にかけての
矢野
都
下ろされるような形で町は存在してい
名付けた。
たぶし
る。私鉄の一畑電鉄が通るほかは、大
きな交通機関はない。
て い る 平 田 は 古 く か ら 舟 運 が 発 達 し、
いう。船川という川で宍道湖と結ばれ
も貢献した市場町のひとつであったと
だ。しかし、かつては松江藩の繁栄に
田の町割り(町をつくるために土地を
に建っている家が多いことである。平
まずひとつ目は、道路に対して斜め
は、いくつかの興味深い特徴がある。
木綿街道とその近辺に建つ建物に
斜めの家
物資の集散地となっていたのである。
替え)が実施され、それに伴って道路
仕切ること)は戦国時代に行われたそ
は 船 で 船 川 を 下 り、 宍 道 湖、 大 橋 川、
の付け替えが行われたのが原因と考え
うだが、のちに川たがい(河川の付け
中海を経由し、さらにそこから陸路を
られている。
綿。周辺農村から平田に集まった木綿
使って大阪などに運ばれたとされてい
なかでも重要な物資だったのが木
びり流れているような雰囲気が漂う町
現在は物静かな、どこか時間がのん
■家の一階部分をくりぬいた階段通路。下りると「掛出」がある。
26
とよく分かる。川沿いに建つ家だけが
が、少し通り過ぎたところで振り返る
前を通るだけでは分かりにくいのだ
ても穏やかで、何だか不思議な空間を
ら向き合っている。通りの雰囲気はと
なそっぽを向く家々にきちんと正面か
いるのだ。反対側に建つ家々は、そん
か想像し難い造りで興味深い。
在の住居建築のいろはからは、なかな
家の裏手に畑があるというのも、現
「おしのわ」とも呼ばれている。
今回、取材で大変お世話になった木
綿街道の会・会長の小村俊美さんのお
宅は、現在もこの図面にあるような商
家の造りを保っている。近年、内部の
でもひときわ長かった昔の商家の図面
ない。下の図は「うなぎの寝床」の中
にはこの言葉にぴったりの家が少なく
床」と呼んだりするが、木綿街道沿い
だけだが、左右の部屋を平らにつなぐ
部屋があることだ。そのため、一箇所
はなく中央を貫いていて、その両側に
点と言えば「うすにわ」が建物の端で
図面の家と様式がよく似ている。違う
れいな中庭、裏手にある大きな蔵など、
である。この家はすでに取り壊されて
ための開閉式の「橋」が架けられてい
改装をされたそうだが、長い土間、き
しまって存在しないが、玄関から裏手
た。反対側の部屋に行くのにわざわざ
狭く奥行きが深い建物を「うなぎの寝
の方まで七十メートルもあったよう
土間に降りて履き物を履かなくてもよ
いようにするための仕掛けだ。
「掛出」という存在
の よ う で( た だ し、
臼庭と呼ぶのは方言
いる。土間を一般に
搗く」と説明されて
臼を置いて米などを
して使われていた。だが、掛出の用途
頃、商家の裏の掛出は実際に船着場と
を物資輸送の船が盛んに行き来した
るが、これは「掛出」と言って、船川
いることだ。先の図面にも描かれてい
小さな船着場のようなものが点在して
あ る よ う だ )、 出 雲
と、「 掛 出 」 は「 外 の 方 へ 突 き 出 し て
『日本国語大辞典』(第二版)による
つ
島根県以外にもこの
はこれだけではない。
地方では「おしにわ」
かけだし
言葉を用いる地方は
辞苑』では「農家の表入口に近い土間。 三 つ 目 は、 家 の 裏、 つ ま り 川 側 に、
い る。 漢 字 で は「 臼 庭 」 と 書 き、『 広
の土間のことを「うすにわ」と呼んで
様に長い土間がある。当地の人々はこ
これらの家には、細長い家を貫く異
だ。
二つ目は、その家々の造り。間口が
長ーい「うすにわ」
つくっている。
軽くそっぽを向くような感じで建って
■(写真左上)小村邸のうすにわに架けられた開閉式の「橋」。( 左下)小村邸の
三段掛出。(上)三段掛出に下りていく階段。
が今も多く商いをしている。そのお店
をいくつかのぞいてみた。
西から木綿街道に入るとすぐ左手に
く る ま や
変わった名前のお店が見えてくる。そ
の名は來間屋生姜糖本舗。重厚な雰囲
気漂う看板に、金字で「來間屋生姜糖」
と書かれている。「生姜」に砂糖の「糖」。
若い世代の中には、この意外な組み合
わせに「え、何ソレ?」と思われる方
もいると思うが、名前の通り砂糖に生
うである。野菜や食器を洗ったり、洗
この用途目的のために存在していたよ
されている。平田にある掛出は確かに
や池に作った洗い場」という意味も記
る語であるが、島根県の方言として「川
作ること。また、そのもの」を意味す
わざわざこのような形で家を建てたの
ら、 使 用 す る 人 々 が 困 ら ぬ よ う に と、
当時はまだ掛出の需要があったことか
なって建てられたものだそうで、その
一部がくりぬかれた家はのちのちに
し て い た。 い わ ば 公 共 の 掛 出 で あ る。
の小路を通って掛出に行き、洗い物を
船川の水位の変化に対応できるように
し て そ の 塩 を 船 か ら 荷 揚 げ す る 際 に、
いるそうだが、立派なものである。そ
的は変わり、今では物置として使って
の形で残されている。もちろん使用目
われていた蔵が、今も外観はそのまま
んでいたそうだ。当時、塩蔵として使
る時間や火から降ろすタイミングな
姜のしぼり汁を混ぜて煮込む。煮詰め
わっていないそうだ。炭火で砂糖と生
そ三百年、その製造方法は基本的に変
文左衛門によって考案されて以来およ
である生姜糖は、一七一五年に來間屋
装されたばかりでとても綺麗だ。商品
お店の外観は昔風だが、中は最近改
姜を混ぜて固めた菓子である。
濯物を洗ったり。聞くところによると、
と三段にされたのではないかという話
ようにして通っているのだが、その先
だが、先の小村さんのお宅の掛出は三
現在残っている掛出はたいてい一段
ており(梅雨時の、豪雨の中の取材だっ
初の取材のときは三段すべてが水没し
よって五十㎝ ほども変わるらしい。最
で、その水位は潮の満干や天候などに
船川は宍道湖とつながっている関係
さ ん の 生 姜 糖 は、 出 西 生 姜 と い う 斐
いこだわりを持っておられる。來間屋
また、生姜糖を作る上で材料にも強
だそうである。
上がり、その環境に耐えるのも一苦労
夏場の作業場は四十度近くまで温度が
ど、 長 年 の 勘 が 物 を 言 う 部 分 も 多 い。
の民家の一階部分をくりぬいて掛出へ
段構造になっている。現在、三段の掛
た こ と も あ る が )、 一 カ 月 後、 改 め て
川町のごく限られた地域で栽培された
であった。
ではないだろうかという話だった。
だ。
下りていく階段がつくられている所が
出を見ることができるのはここだけだ
写真撮影に伺ったときも下の二段は水
ところで、木綿街道には「○○小路」
あ る。 岡 屋 小 路 が そ の 代 表 例 だ。 な
そうだ。大きさは一段目が二m ×二・二
没していた。
という細長い通路が家と家の間を縫う
ぜ、わざわざ民家をくりぬいてまで掛
目 が 一・八m × 一・一m で、 段 差 は 約
m 、 二 段 目 が 二m × 一・三 五m 、 三 段
小村家はかつては商家で、最初は染
生 姜 を 使 用 し て い る。 こ の 出 西 生 姜、
も甘すぎず、生姜の風味がほんのり漂
ることがないという。思っていたより
他の生姜と比べてその繊維がとても小
さく、香りと甘みも製造過程で失われ
木綿街道では、長い歴史を持つ商店
驚きの組み合わせの山陰名産
しゅっさい
出へと道をつないだのか。それは掛出
かつて岡屋小路の奥には長屋造りの
物屋、明治になってからは塩問屋を営
からだ。
借家があり、そこに住む人々は毎日こ
二十㎝ である。
が人々の生活に欠かせないものだった
三段構えの掛出
歯磨きをする人もいたというから驚き
■(写真上)岡屋小路。(中)酒持田本店の店内。左
側に立てかけてあるのが「商売繁盛雙六」。(下)「ヤ
マサン」のマーク入りの屋根瓦。
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れるそうだ。そのせいか、そのパッケー
ことなくずっと同じものを使っておら
ケージも、昔からのデザインを変える
生姜糖を詰めて売り出すためのパッ
りできそうな、そんなお菓子である。
う感じで、疲れたときなどにはすっき
頂いたものだそうだ。
る。かつて近所にあった駄菓子屋から
には、古い木製のケースが鎮座してい
店の電話番号は三桁だ。そしてその下
ある看板。そこに書かれている当時の
ヤマサン正宗のマークが描かれた風格
に か け ら れ て い る。 そ の す ぐ 脇 に は、
気分に浸ってしまう。生姜糖は平田の
たもので、それぞれのコマには当時の
飾 っ て あ る。「 昭 和 十 年 」 に つ く ら れ
「商売繁盛雙六」という古い雙六も
すごろく
ジを眺めていると、なんだかレトロな
特産品としてのみならず、昔ながらの
平田の商店が描かれている。中心の上
伝統的菓子として、これからも味はも
ちろん、姿形も変わらないでほしいも
りのコマには酒持田本店、右下の振り
ということなのだろう。
この二店は平田を代表する商店だった
リ ー ム の オ ブ ジ ェ。「 ど う し て お 醬 油
家 だ と か。 店 頭 に は な ぜ か ソ フ ト ク
ある。名前は持田醬油店。酒持田の分
れてる。ここはあくまでもお醬油屋さ
けてつくられたお醬油が多種類販売さ
クリームだけではない。手間ひまをか
酒持田本店の斜向かいには醬油屋が
それ、どんな味?
ん。その醸造蔵は販売店の向かいに位
■(写真上)來間屋生姜糖本舗の店舗外観。(右下)生姜
糖づくりに使うかまど。( 左下)生姜糖を流し込む型枠。
屋さんにソフトクリーム 」と驚くの
屋生姜糖本舗の名前がある。当時から
出しのコマには先ほどお邪魔した來間
のだと思う。
昭和の雰囲気をそのままに
來間屋生姜糖本舗を出ると、軒先に
ぶら下げられた大きな杉玉が目を引く
店が見えてくる。酒持田本店だ。
杉玉というのは、その酒蔵で新酒が
できた際に軒先に吊して、地域にその
だが、店の入り口付近の「しょうゆソ
けで、随分と醬油の香りに包まれる。
置している。その入り口付近に立つだ
りあえず納得。
「 え、 待 っ て 待 っ て 醬 油 と ソ フ
」 と 混 乱 し そ う な 方 は、
ソフトクリーム。しかし食べてみると、
見た目はほんのりとお醬油色がかった
する。冗談抜きで本当に美味しいのだ。
ともかく食べてみられることをお勧め
なく触れている〝小さな文化〟を大切
た。これからは普段の生活の中で何気
それらは失われるべきではないと思っ
ないと感じた。そして同時に、やはり
残している方々の努力には頭が上がら
づく文化と、それを継承し現代にまで
そんなにお醬油の味が出張っているわ
にしていきたいと思う。
感じに口の中に広がるのだ。なんだか
新しい和洋折衷という感じがする。
(やの・みやこ/国文専攻二年)
けではなく、むしろその香りが程よい
トクリーム
私は今回の取材を通して、地元に息
フトクリーム」という張り紙を見てと
!?
!!
ことを知らせる役割があるという。さ
らに上を見上げると、軒先の瓦と雨樋
に何やら文様のようなものが刻まれて
いることに気が付く。どうやらこれは、
こ ち ら の お 店 の 商 標「 ヤ マ サ ン 正 宗 」
のマークのようだった。瓦とマーク部
分を別々につくって、くっつけたもの
かと思ったが、実はそうではなくて特
注でつくられた瓦だそうだ。
店の中は昭和で時を止めたような雰
!?
もちろん、売られているのはソフト
のんびり雲|第 1 号| 2007
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囲気だ。時代を感じさせる大きな時計、
はっぴ
色褪せてはいるが立派な法被などが壁
■「しょうゆソフト」を食べる取材スタッフ。