日本の亜刺比亜人 - 中東協力センター

日本の亜刺比亜人
−1
9
3
0年代の日本とアラビア半島−
近畿大学
国際人文科学研究所
教授
保
坂
修
司
湾岸の時代
ロンドンにサーキーという中東専門の書店があり,イギリスにいったときはかなら
ず寄るようにしている。何年かまえ,たまたまそのサーキーで面白いアラビア語の本
を見つけた。著者はハーリド・バッサーム Kha¯lid al‐Bassa¯m,バーレーンのジャーナリ
ストだそうだ。タイトルは『湾岸の時代よ Ya¯ Zama¯n al‐Khalı¯j』という。サーキー自
身の出版で,平積みになっていたから,それなりに売れていたのだろう。内容は,石
油発見以前の湾岸諸国の状況を同時代の資料を使って描いたもので,古い写真もたく
さんあり,けっこう楽しい。
しかし,何といっても個人的に一番興味を惹かれたのは,1
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3
7年に大阪でオマーン
9
3
7年といえば,日本で出版さ
人のアラビア語詩集が出版されたとの記述であった!。1
れたアラビア語の本としてはもっとも古い時期に属す。日本とアラブ世界の交流史か
らみても,非常に貴重な本のはずだが,そん
な本が出版されたのは聞いたこともなかっ
た。また,オンラインでしか調べていないの
で漏れがある可能性も高いが,その本を収蔵
している図書館も見つからなかった。
袖振り合うも多生の縁。数多あるアラビア
語書籍のなかでこんな記述にぶつかるのも何
かの運命かと,いろいろ周辺情報を漁ってみ
たのだが,残念ながら,ミッシングリングは
埋まらない。資料に当たるだけでなく,こう
した分野に関心のありそうな人たちにも直接
間接尋ねてみたのだが,知っている人はいな
かった"。というわけで煮詰まっていたとこ
ろに,たまたま中東協力センターから原稿の
依頼がきたので,せっかくの機会,
このオマー
ン人の詩集について少し紹介して,逆にこれ
を読んでくれたかたがたから情報をもらえな
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いか,などと虫のいいことを考えたわけだ。とはいえ,現物の詩集も見ていない段階
では,まともな研究などできるわけはない。手掛かりはインターネット上のわずかの
情報とハーリド・バッサームの本,それにそこに挿入された詩集の表紙と序文の一部,
それだけだ。
アブッスーフィー
まずはその表紙の部分から見てみよう。表紙には次のようにある。
al‐Shi‘r al‐‘Uma¯nı¯ al‐Maskatı¯ fı¯ al‐Qarn al‐Ra¯bi‘ ‘Ashar li al‐Hijra al‐Nabawı¯ya
Dı¯wa¯n Abu¯ al‐Su
¯ fı¯
・
al‐Shaykh al‐Wari‘ al‐Muhtaram
Sa‘ı¯d b.Muslim al‐‘Uma¯nı¯ al‐Maskatı¯
・
Ahad
Kutta¯b li Huku
¯ ma al‐Sa‘ı¯dı¯ya al‐‘Uma¯nı¯ya,bi Maskat
・
・
ヒジュラ暦1
4世紀オマーン・マスカットの詩
アブッスーフィー詩集
親愛なる敬虔なシャイフ,サイード・ブン・ムスリム・ウマーニー・マスカティー
マスカットのオマーン・サイード朝政府の文官の1人
詩集の著者はマスカットの役人であったアブッスーフィー・サイード・ブン・ムス
リムという人物である。だが,実際に出版したのは彼ではない。ハーリド・バッサー
ムによれば,アール・サイード・アズディーという人物になっており,実際,原書の
序文にもその名前が登場する。
バッサームによると,アズディーは1
9
3
7年,インドに向かってマスカットを出発,
その後インドから中国を経て,日本に到着,日本の気候が気に入って大阪に長逗留す
○で囲んだ人物がアブッスーフィー,その前に座っているのが
alfaiha.
net/alsofi/
スルターン・タイムール http://www.
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ることになり,そこで祖国の詩人の詩集を思い立ったという!。
アズディーについてはよくわからない。アール・サイードという名前からみると,
オマーン王族のメンバーだろうか。
一方,アブッスーフィーはオマーンではそれなりに知られた詩人らしい。大阪で出
版されたのと類似の名の詩集(Dı¯wa¯n Abı¯ al‐Su
¯ fı¯)がオマーン遺産文化省から何度か
・
出版されているし,インターネットで検索すると,それなりに情報が集まってくる。
それらによれば,アブッスーフィーはフェイサル,タイムール,サイードという3代
のスルターンに仕えたとされ,とくにタイムールには重用されていたという"。
オマーンにある程度関心があるかたであれば,このあたりで何となく気づくのでは
ないか。ここでいうタイムールとは,オマーンのスルターン位を棄てたのち,神戸で
日本女性と結婚した,あのタイムールである。日本と詩集の関係が少しだけ近づいた
気がする。
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タイムールの日本滞在
1
9
1
3年,父フェイサルの死後,オマーン(正確にいうとマスカットとオマーン)の
スルターン位を襲ったタイムールだったが,政治の実権を英国に抑えられることに厭
いてか,1
9
3
1年末にインドに隠居し,みずからスルターン位を放擲してしまった。そ
の後,タイムールはインドを拠点に世界各国を旅してまわるのだが,1
9
3
5年にはじめ
て日本を訪問した。そして,翌年6月には神戸のダンスホールで見染めた日本人女性,
大山清子と結婚,しばらく神戸に居住し,1
9
3
7年には娘,ブサイナをもうけている。
しかし,数年後,妻の清子が病死したため,タイムールは日本を離れ,再度インドに
腰を落ちつけ,1
9
6
5年ムンバイで客死した。このあたりの経緯は下村満子『アラビア
の王様と王妃たち』に詳しいので,詳細は同書にゆずる。
ただ,下村の書では,タイムールの離日の年が明示されていない。彼女によると,
タイムールは妻,清子の墓を建立したあと帰国,さらに清子の墓には「昭和1
5年」の
日づけがある由。おそらくこれが離日の年であろう。またタイムールは日本にずっと
滞在していたわけではなかったので,
1
9
3
5年から1
9
4
0年までの約6年間,
日本とインド
のあいだを断続的に行き来していたと考えられる。
さて,問題は上述のアブッスーフィーとアズディーの2人である。前者については,
タイムール退位後,息子のサイードにも仕えているので,タイムールといっしょに日
本に滞在していたとは考えづらい。アズディーも,ハーリド・バッサームによれば,
訪日が1
9
3
7年とあるので,タイムールに同行していたわけではないだろう。
アズディーが単独で訪日した可能性もあるが,1
9
3
7年1
2月2
3日には実はタイムール
の後継者,サイードが神戸の父を訪ねて来朝しており,あるいはこれと関係があるか
もしれない。ただ,
『アブッスーフィー詩集』自体,1
9
3
7年の出版であり,アズディー
が同年1
2月2
3日にサイードとともに来日したのでは,出版までの日にちが短すぎる。
そのまえにきていたと考えたほうが自然である。
ちなみに,その当時,タイムールがオマーンのスルターンであったことはほとんど
知られておらず,このサイード訪日のときにメディアが一斉に報じてはじめて一般に
知られるようになった。たとえば,タイムールと大山清子の結婚のときには,タイムー
ルは「アラビアオマーンの豪族千万長者」などと呼ばれているが!,サイード来日時に
は「アラビア国王が神戸に愛の巣」というふうに書かれている"。
閑話休題。バッサームの本のなかでは,このサイードの訪日について触れられてい
ないので,アズディーがはたしていつ日本にきたか正確にはわからない。またアズデ
ィーとタイムールの関係もわからない。バッサームの引用した部分には,タイムール
のことは触れられていないのである。
一方,アズディーとアブッスーフィーの関係についても,バッサームの記述は曖昧
だ。バッサームによると,アズディーは,アブッスーフィーと連絡をとり,本人にみ
ずからの詩を集めるよう要請したというが,両者がともに日本にいたのか,あるいは
アブッスーフィーがオマーンにいたのかは明示されていない。ただ,バッサームによ
れば,アズディーがアブッスーフィーの本を入手したのは,大阪の印刷業者を知って
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からだそうだ。
イエメン人の印刷業者
実は『アブッスーフィー詩集』原著の表紙にはもうひとつ非常に興味深い情報が掲
載されている。表紙の下部に書誌情報が書かれているのだが,そこに印刷所(あるい
は出版社)の名前として「イスラーム・アラブ印刷所 Da¯r al‐Tiba
¯ ‘a al‐Isla¯mı¯ya al‐
・
‘Arabı¯ya」とある。その下に,その印刷所のオーナーであるマンスール・ブン・スレイ
マーン・マルイー(あるいはムルイーか?)Mansu
¯ r b.
Sulayma¯n Mar‘ı¯ の名,
つづけて
・
「大阪,日本」
,さらに発行年として「ヒジュラ暦1
3
5
6年,
西暦1
9
3
7年」と書かれている。
実は原著序文のなかでは,この印刷業者の名がフルネームで記されている。それに
よると,マルイー,あるいはムルイーのあとにカシーリー・ハドラミー al‐Kathı¯rı¯ al‐
Hadramı
¯ とあるのだ。ここから印刷業者はイエメンのハドラマウト地方出身者である
・
ことがわかる。さらにカシーリーの部分は,ハドラマウトのなかのカシーリー国家 al‐
Saltana
al‐Kathı¯rı¯ya 出身者,あるいはその支配家系のメンバーであることを示してい
・
るのかもしれない。ハドラマウト地方は1
9世紀にイギリスのアデン保護領の一部とな
っていたが,1
9
3
7年にアデンは保護領から植民地に「格上げ」されている。この当時,
ハドラマウト出身者が日本で定住していたことは知られていないのだが!,マンスー
ルの動向はこうした本国での動きと関係があるのだろうか。
実は,この「イエメン人」については日本側にもそれらしい記録が残っている。戦
前の内務省警保局がまとめた『外事警察概況』という資料がある"。このなかに「内地
居住外国人国籍別人員表」
「内地居住外国人職業別人員表」というのがあって,それに
よると,昭和1
0年(1
9
3
5年)から昭和1
1年(1
9
3
6年)にかけて,大阪に「亜刺比亜人」
1名が住んでいて,しかも彼が印刷業を営んでいたことになっている。断定はできな
いものの,大阪,亜刺比亜人,印刷業者という点から,これがマンスール・ブン・ス
レイマーンである可能性は高い。しかし,不思議なことに昭和1
2年(1
9
3
7年)以降に
は大阪から亜刺比亜人が消えてしまうのだ。アブッスーフィーの本が大阪で出版され
たのが1
9
3
7年なので,明らかに矛盾する。
大阪の亜刺比亜人の印刷業者がマンスール・
ブン・スレイマーンであると断定できない理由はここにある。
なお,印刷業者といってもはたしてアラビア語の本を専門的に印刷していたかどう
かは怪しい。原著の表紙や序文をみるかぎり,いわゆる活版印刷ではなく,石版刷り
のような感じがする。少なくとも日本国内でこうした本に需要があるとは思えず,ア
ラブ世界で販売することを念頭に置いたものであろう。実際,序文には1冊1.
5キルシ
ュという値段がついている。当時の貨幣価値で1キルシュがどれぐらいなのかまった
くわからないが,ハーリド・バッサームの引用した序文のなかでは,日本できわめて
安価にアラビア語の本が印刷されたと述べられており,本の価格がかなり安いことが
うかがわれる。
一方,本そのものをみても面白い点がある。たとえば,人名・地名のところにある
al‐Maskatı¯,
Maskat の部分。
正則アラビア語(フスハー)では本来 al‐Masqatı
¯,
Masqat・
・
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にならねばならないのが,なぜかスペルが異なっている。実は,これは湾岸方言であ
り,序文を書いたアズディーの出自をよく表している。同様に,日本のことを al‐Mamlaka al‐Ja¯ba¯nı¯ya(日本王国)と表記している。
アラビア語では日本のことを al‐Ya¯ba¯n
と書く。al‐Ja¯ba¯n ではない。ところが,アラビア語の J に相当する文字を湾岸方言で
は Y で発音するのだ。実際,そのころの湾岸のアラビア語文書(とくに書簡など)で
は al‐Ja¯ba¯n と表記されることが少なくない(ただし発音は「ヤーバーン」である)
。
こ
れも湾岸方言の顕著な特徴である(なお表紙の印刷所名のあとにつけられた「大阪,
日本」の部分では,Ya¯ba¯n と表記されている)
。また書名の部分の Dı¯wa¯n Abu¯ al‐Su
¯ fı¯
・
も文法的におかしい。
正しくは Dı¯wa¯n Abı¯ al‐Su
¯ fı¯ とならなければいけないのだ(後年
・
に出版されたものではそうなっている)。これについてはなぜそういう表記をしている
のかよくわからない。単なる間違いであろうか。
外事警察概況からみた関西のアラブ・イスラーム
『外事警察概況』でもうひとつ,不思議なことはタイムールの存在である。いや,正
確にいえば,「不在」である。「内地居住外国人国籍別人員表」のなかにはオマーン人
という項目はない。したがって,常識的にいえば,タイムールは「亜刺比亜人」に分
類されるはずだが,少なくとも昭和10年から1
1年の「内地居住外国人国籍別人員表」
には「亜刺比亜人」は大阪に居住する1人(つまりマンスール・ブン・スレイマーン
と思しき印刷業者)しか記載されていない。昭和1
2年以降,兵庫県に3人から5人の
「亜刺比亜人」が居住していることがわかるが,
これがはたしてタイムールかどうかは
不明である。
昭和1
0年 昭和1
1年 昭和1
2年 昭和1
3年 昭和1
4年 昭和1
5年 昭和1
6年 昭和1
7年
1
9
3
5
1
9
3
6
1
9
3
7
1
9
3
8
1
9
3
9
1
9
4
0
1
9
4
1
1
9
4
2
東京
大阪
1
4
3
3
5
5
4
3
9
9
4
1
神奈川
1
兵庫
計
1
1
2
3
2
3
在留亜刺比亜人数!
昭和1
2年に記載された「亜刺比亜人」は3人だが,職業別にみると,会社員1名と
その家族2人であることがわかる。しかも,娘ブサイナはともかく,妻の清子が「亜
刺比亜人」に分類されるとは考えづらく,この「亜刺比亜人」は別人と考えたほうが
いいかもしれない。ちなみに,この3人は男性2人と女性1人となっている。タイムー
ルには「従僕バッシャア君」"がついていたことが知られており,従僕を家族あつかい
にするなら,
あるいは男性2名とはタイムールとバッシャァ(おそらくバッシャール)
で,女性はブサイナという可能性もあろう。
また昭和1
3年(1
9
3
8年)版では日本国内の回教徒数を2
2
9人としており,
そのうち1
0
4
9
1
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0
0
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人が兵庫県に居住していることになっている。さらにこの回教徒のなかにはわずか1
名だが「オマーン人」が含まれている。この「オマーン人」がどこに居住し,何をし
ていたかはまったく書かれておらず,タイムールかどうか特定することは難しい。こ
こでいう回教徒には「アラビア人」5人もリストされており,場合によってはこちら
に入れられていることも考えられるだろう。
なお,
「内地居住外国人国籍別人員表」によると,昭和1
4年(1
9
3
9年)に「イエーメ
ン人」2名が東京に住んでいたことがわかる。
「国籍別人員表」に「イエーメン人」が
出てくるのはこの年以降なので,このうちのどちらかがマンスール・ブン・スレイ
マーンである可能性もあろう。2人は無職であり,翌年からイエーメン人はいなくな
っているので,1
9
4
0年3月の日本イエーメン協会設立のために一時的に居住していた
とも考えられる。
「居住」ではなく,一時的な滞在というあつかいかもしれぬと思って,
「来往外国人
国籍別調査表」というのを調べてみると,「亜刺比亜人」は昭和1
0年には8人が入国,
同1
1年には1
2人,同1
3年には2人,入国していることになっている。あるいはこのな
かにタイムールおよびその従者たちが含まれているのであろうか。
ただ,この『外事警察概況』
,日本の新聞にも記事が出ているタイムールのような大
物についてすらまったく触れておらず,数字が矛盾していたり,項目が一定していな
かったりで,全面的に信用するのは困難である。当時の新聞や雑誌報道にきちんと目
を通したわけではないので,何ともいえないが,こうした周辺情報と突き合わせなが
ら,調べてみる必要があるだろう。なお,余談であるが,昭和1
3年(1
9
3
8年)には,
「亜刺比亜人」1名が「素行不良」で論旨退去処分にあっている。
一体全体何をしたの
だろうか。
1
9
3
0年代の日本とアラビア半島
日本とアラビア半島やイスラームの関係というと石油やテロ以外思いつかないかた
も多いだろうが,実は1
8
8
8年,吉田正春のバーレーン訪問以来,連綿とつづいており,
なかでも1
9
3
0年代はきわめて重要な意味をもっているのだ。オマーンの元スルターン,
タイムールが神戸に居住していたことは前述のとおり。そして1
9
3
5年には神戸で,
1
9
3
8
年には東京でそれぞれモスクが建設されている。
1
9
3
0年代はアラビア半島で石油が発見された時期でもある。したがって,石油を媒
介にした日本と湾岸諸国の関係がはじまるのもこの時期なのだ。1
9
3
4年にはバーレー
ンからの最初の石油が横浜港に荷揚げされている。
1
9
3
9年には日本の外務省の使節がサウジアラビアを訪問,初代国王アブドゥルア
ジーズに謁見し,石油利権交渉を行った。利権交渉自体は極秘事項であったが,当時
の英国の公文書には,交渉中に提示された利権料の数字などが具体的に記されており,
交渉そのものが英国にダダ漏れだったことがわかる!。むろん交渉は失敗だった。
一方,日本から湾岸への石油以外のアプローチも2
0世紀はじめから堅調に拡大して
おり,たとえば,クウェートの貿易報告を読むと,1
9
1
0年代後半から日本の船舶が頻
9
2
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0
0
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繁にクウェートを訪問しており,1
9
3
0年代にはクウェートを訪問する船舶数では日本
は英国についで第2位を占めるようになっていた。当時のクウェートは英国の保護国
であったから,外国のなかでは実質第1位といえる。
当時の日本から湾岸への輸出品は機械類や日用雑貨類が大半で,ご多聞にもれず,
安かろう悪かろうの品ばかりで,物によっては輸入禁止になったりしたものもあった。
バーレーンでは,いつのころだか正確にはわからないが,「尻軽女 a lady of light morals」を表すのに「日本人 Japanese」という語が使われたなどという記録もある!。
この時期,日本の湾岸進出は佳境にあったが,その一方で,1
9
3
1年の満州事変,1
9
3
7
年の日中戦争と,国際社会から孤立する道を歩みはじめた日本に対する警戒感も高ま
る。湾岸諸国のほとんどは英国の強い影響下にあり,日本の湾岸における活動はその
英国を不安にさせるのに充分であった。
たとえば,1
9
3
0年代後半にはバーレーンへの日本の船舶の寄航をめぐって,英国は
非常に神経質な行動をとっている。1
9
3
7年,トロール船,シンキョウマルの寄航のと
きには,何とかそれを妨害しようとしている。翌年には日本海軍の給油艦「佐多」が,
米石油会社から購入した石油を積みにバーレーンにやってきたのだが,このときもい
ろいろ嫌がらせをしている。佐多の艦長は,英国の思惑を知ってか知らずか,暢気に
バーレーン人に日本のパンフレットなどを配って,逆に英国側を苛立たせている"。
なお当時のバーレーンでは反日感情が強く,日中戦争でもみな中国を応援していた
という。これはもともと1
9
1
7年に起きた日本人によるバーレーン人暴行事件に端を発
するといわれているが,2
0年も前の事件がはたしてそんなに影響を与えるものであろ
うか#。あるいは,日本の養殖真珠によって,湾岸の地場産業である天然真珠採取が衰
退していったせいかもしれない。バーレーン政府は1
9
3
0年,天然真珠経済を守るため
に,養殖真珠流通法という法律を制定し,バーレーンにおける養殖真珠の輸入,通過,
販売,所持,製造を厳禁している$。
第二次世界大戦がはじまって以降,日本船の湾岸への寄航は中断する。1
9
4
1年1
2月
8日,バーレーン政府は日本に関する布告を発出,喫茶店やクラブ等公共の場で日本
からのラジオ・ニュースを聞くことを禁止した。同盟国側に敵対する情報や枢軸国側
に利する情報を流したりすると,6ヵ月以下の懲役,あるいは2,
0
0
0ルピー以下の罰金
が科せられたという%。日本と湾岸の関係は長い休眠状態に入る。なぜ,イエメン人の
印刷業者が大阪にいたのか,なぜオマーン人の詩集がそこで出版されたのか。この暗
闇の時代に,両地域の,濃密な,人的,文化的関係は忘れ去られてしまったのである。
参考文献
Kha¯lid al‐Bassa¯m2
0
0
2.Ya¯ Zama¯n al‐Khalı¯j.London:Da¯r al‐Sa¯qı¯.
Charles Belgrave1
9
7
2.Personal Column.Beirut:Librairie du Liban(2nd Impression)
.
Ra¯shid al‐Zaya¯nı¯ 1
9
9
8.al‐Ghaws・ wa al‐Tawwa
¯ sh.al‐Mana¯ma:al‐Ayya¯m.
・
下村満子 1
9
7
4『アラビアの王様と王妃たち』朝日新聞社
杉田英明 1
9
9
5『日本人の中東発見
逆遠近法のなかの比較文化史』東京大学出版会
9
3
中東協力センターニュース
2
0
0
7・8/9
福田義昭 2
0
0
4「神戸モスクに思う」JCAS Internet News,No.
1
7
内務省警保局編 1
9
8
0『外事警察概況』竜渓書舎,全8巻
(注)
!
Bassa¯m.1
1
7
‐
1
2
3.
"
日本におけるイスラーム・中東の問題を研究している東京大学の杉田英明氏,早
稲田大学の店田廣文氏,また1
9
4
0年代に大阪外国語学校(大阪外国語大学)亜刺比
亜語部でアラビア語を教えていた経験もある元アラビア石油の林昂氏などにうかが
ったが,いずれも知らないとのことであった。
#
Bassa¯m.1
1
7.
$
http://alfaiha.
net/alsofi/(2
0
0
7年7月2
8日付)
.
%
大阪毎日新聞 1
9
3
6年9月1
8日(下村 1
9
7
4,1
9
7頁から引用)
。
&
読売新聞 1
9
3
7年1
2月2
4日。
'
ハドラミーの歴史を研究している東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究
所の新井和弘氏に,この日本にいたハドラミーに尋ねてみたが,やはり知らないと
のことであった。
(
このイエメン人に関する資料の存在は,神戸のイスラームに関心をもつ,大阪外
国語大学の福田義昭氏から教えられた。
) 『外事警察概況』より筆者作成。
*
大阪毎日新聞 1
9
3
6年9月1
8日(下村 1
9
7
4,1
9
7頁から引用)
。
+
5/2/5
3
9。余談だが,この文書には,カワムラ(別名ムトウ)
インド政庁文書:R/1
なる日本人に関する1
9
3
9年付の覚書が含まれている。同覚書によれば,カワムラは
中国人に偽装してサウジアラビア入国許可を得ようとしているという。1
9
1
0年代に
中国各地でムスリムの反乱や反英闘争を指揮していたとあるから,おそらく黒龍会
メンバーでイスラームに改宗した川村狂堂のことであろう。彼は,もっとも初期の
日本人「ムジャーヒディーン」といえるかもしれない。
,
Belgrave.1
9
7
2.1
0
1.
-
5/2/5
5
3。
インド政庁文書:R/1
.
5/2/5
5
3。
インド政庁文書:R/1
/
4
4
8
0。
英外務省文書:3
7
1/1
0
al‐Za¯yanı¯.1
2
9.
9
4
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