現生人類単一起源説と 言語の系統について 弘前大学人文学部教授 山本秀樹 概要 近年の遺伝学的研究によって「現生人類単一起源説」は 定説となったが、これまでのところ、言語学に対するイン パクトはあまり見られない。しかし、これが言語学、特に 言語系統論にもたらす意味は、けっして小さくない。「現 生人類単一起源説」を前提にすれば、従来考えられてき たよりもはるかに遠い言語の類縁関係の存在、果ては、 しばしば荒唐無稽と思われてきた「人類言語単一起源 説」の可能性も考えられ、言語学の世界で伝統的に同系、 非同系と言われてきたものは、実はすべて程度差にすぎ なかったという可能性も浮上してくる。 人類の起源 • 人類がアフリカの類人猿と分岐した 時期=約600万年前 • 約180万年前に出アフリカ cf. 現代人に直接つながる現生人類(ホモ・サピ エンス)の出アフリカは約6万年前 多地域進化説と単一起源説 • 多地域(並行)進化説 100万年以上前にアフリカを出た人類から、各地 で並行的に進化 ― 主として形態人類学的見 地による1980年代後半まで有力であった説 • 現生人類(アフリカ)単一起源説 現代のすべての人類が約20万年前に生存した たった1人のアフリカ女性(ミトコンドリア・イヴ)に 遡る ― 1980年代後半の遺伝学的研究(ミトコ ンドリアDNAの分析)により有力となった説 ミトコンドリアDNAとY染色体 • ミトコンドリアDNA ― 母系。約20万年前にま で遡り得る。もしミトコンドリア・イブが言語を持って いれば、言語単一起源の可能性が高い。 • Y染色体 ― 父系。ミトコンドリアDNAよりも種 類が少ないため、遠い類縁関係を探るには有利。 しかし、せいぜい8万年前までしか遡れないため、 言語単一起源説には直接関係しない。 現生人類単一起源説が 言語学に対して持ち得る意味 • 人類言語単一起源の可能性 世界祖語の存在、言語の系統関係はすべて 程度差、従来考えられてきたよりもはるかに 遠い言語の系統関係の存在 *「人類言語単一起源説」成立の鍵 ミトコンドリア・イヴが言語を持っていたか否か 現生人類単一起源説に対する 言語学者たちの反応 • 多くの言語学者が無関心 *現生人類単一起源説に関する知識が稀薄 *言語単一起源につながり得る認識がない *比較言語学による系統証明の限界が関係 基礎語彙における規則的音韻対応を中心とした伝 統的な系統証明の手法では、6千年前からせいぜい 1万年前までが限界。多くの言語学者は、それ以前 の系統関係には踏み込まない。(ノストラ大語族説、 大量比較法など、しばしば憶測的として批判の的) 新しい手法による言語の 遠い類縁関係の研究 最近の松本克己氏による研究[松本(2007,2010)] • 言語普遍性にまでは至らず、基礎語彙以上に歴史 的な変化を被りにくく、言語の骨格にかかわる「遺伝 子型」とも言い得るような安定性の高い言語特徴を 選び出して、従来よりはるかに遠い類縁関係を探究 • 考察範囲を世界全域にまで広げて、広域の言語類 型地理論的な視点から系統を考察 人類の言語獲得時期 • ネアンデルタールの音声言語を調音する 能力に関する議論 声道の形状から見て、せいぜい幼児語レベルの単純な言 語しか話せなかった(Philip Liebermanによる1970年前後 の研究) • 1990年前後から反証的研究が続々と出現 舌骨の形態、発達度 (Arensburg et al. 1989)、舌下神経管 の太さ(Kay et al. 1998)、脊椎神経の発達度 (MacLarnon and Hewitt 1999)、母音空間の見直し (Boë et al. 2002) 等 言語単一起源説は成立するか? • 現生人類が大脳で言語を操作する能力について、 言語単一起源説に関係し得る2つの研究 *古人類学者による研究 [Klein and Edgar (2002)] 約5万年前に急速な社会文化的進歩:大脳に起こった変異 による言語の獲得と関係? → もし言語の獲得が5万年前 であったとすれば、現生人類の出アフリカ後 *FOXP2(言語遺伝子?)の研究 [Lai et al. (2001), Enard et al. (2002) ] FOXP2が現代のような形になった時期=20万年前以降(10 万年前から1万年前の可能性が高い) → ミトコンドリア・イ ヴの生存時期と一致するか? むすび 今日、遺伝学的研究の進展によって現生人類の単一起源は、 ほぼ確実となった。しかし、それによって直ちに言語単一起源 説が成立するかというと、以前に比べ、その可能性が高くなっ てきたとは言えるが、現段階では一つの仮説にとどまり、結論 を保留せざるを得ないかもしれない。ただし、近年、現生人類 がアフリカを出て種々の人種に分かれていったのが、せいぜ いここ6万年程度に過ぎないと考えられてきていることに照ら せば、少なくとも世界の大多数の言語が同系である可能性は きわめて高いと言えよう。また、言語学者たちも、言語単一起 源説を単なる荒唐無稽な説と一笑に付すことなく、その可能 性は常に念頭に置いておく必要があるだろう。
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