9A[再]・アイヌについて 2010.06.29. 青山・文化人類学 9A[再]・アイヌについて 2010/06/29 - [2] 千島樺太交換条約の背後で起こったこと 地図の塗り替えで「ひと」の暮らしはどうなるのか? 1875年 千島列島を領有・樺太を放棄 cf. 千島アイヌ……近世には北千島・中部千島・南千島の3集団か らなり、カムチャツカ半島の住民との交易が15~16世紀頃には始 まっており、また千島産のラッコ皮や鷲羽などが日本にもたらさ れていた。近世後期、中部千島以北はロシア、南千島は日本側の 勢力下にあったが、1875年樺太・千島交換条約によりすべて日本 の統治下におかれた。ロシア化されていたシュムシュ(占守)島 やポロムシル(幌筵)島の北・中部千島アイヌ97人は、1884年 シコタン(色丹)島に移住させられたが、環境が合わず5年の内 に半数が死亡、さらに第二次大戦時のソヴィエト侵攻により色丹 島から根室に強制引き揚げを余儀なくされた。 cf. 樺太アイヌ……樺太のアイヌは3年後に日露いずれかの国籍を 選ぶことになっていたが、1875年10月、日本は樺太アイヌ841 人を北海道に強制移住させた 9A[再]・アイヌについて 2010/06/29 - [3] 大日本帝国における「アイヌ」 幕末以降、大和民族からの視点では、「劣等民族」とし て位置づけられ、教化・同化の対象であった レジュメ9B-資料1 旧土人保護法(1899年) レジュメ9B-資料2 国定教科書におけるイメージ 原住民展示(1912年拓殖博覧会展示) 9A[再]・アイヌについて 2010/06/29 - [4] 拓殖博覧会展示の北海道アイヌの住居 右の女性は金田一京助の著作で有名な鍋沢コポアヌ媼 9A[再]・アイヌについて 2010/06/29 - [5] 拓殖博覧会展示の樺太アイヌの住居 左から木村チカマ、坪沢テル、影山チウカランケ、坪沢六助の各氏 9A[再]・アイヌについて cf. 原住民展示(1) 1889年パリ博で「展示」された植民地住民と観客 2010/06/29 - [6] 9A[再]・アイヌについて 2010/06/29 - [7] cf. 原住民展示(2) 1904年セントルイス博で「フィリピン村」に「展示」されたイロンゴット
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