青 山 熊 治 1886(M19) ~ 1932(S7) 明治19年5月22日、生野町口銀谷の青山芳治氏(現青山 表具店)の5男として生まれ、本名は熊次であった。生野小学 校を卒業後上阪して明治屋に奉公したり、 喜多村弁護士の書生 をしながら苦学し、やがて上京、日本鉱業会に給仕として勤め る傍ら独学で勉強をした。明治36年、同郷の先輩である白瀧 幾之助の紹介で洋画家の高木背水の家に住み込み本格的に絵 の勉強をするようになり、 明治37年東京美術学校西洋科撰科 に入学、その前後に岡田三郎助、北蓮蔵、山本芳翠等の知遇を 得る。明治39年、徴兵検査のため郷里に帰り、生野鉱山で働く坑夫を画材として「老坑夫」 を製作、明治40年の東京勧業博覧会に出品、2等賞となる。同年7月美校卒業制作のため 北海道に渡り「アイヌ」を製作、途中肋膜を患い帰郷したが腹膜炎を併発、東大病院で手術 を受け、止むなく美校は中退、郷里に帰って養生した。明治42年に上阪し、挿し絵を描き ながら未完の「アイヌ」を完成し、翌43年の第13回白馬会に出品、白馬賞を受賞した。 又この年の第4回文展に「九十九里」を出品して3等賞、翌44年の第5回文展には「金仏」 (当金庫所蔵)を出品して2等賞(当時の官展では最高賞)となった。大正3年大連経由シ ベリア鉄道でモスクワに入ったが折悪しく第1次世界大戦が始まったためヨーロッパ入り が出来ず、ペトログラード(レーニングラード)のエルミタージュ美術館に通って模写した り、シチューキン美術館やモロゾフコレクションなどを見て廻った。翌大正4年スカンジナ ビヤ経由でヨーロッパ入りを計画、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーを経て海路イ ギリスに入り戦火を避けながらフランス、イタリー、スペイン等ヨーロッパ各地を放浪し、 大戦終結後はパリに滞在して研鑽に務め、一時期ルノアールに傾倒、師事したりした。大正 11年長い外国生活に終止符を打ち帰国、大正15年の第7回帝展には外遊中を含む長い沈 黙を破って「高原」 (現兵庫県近代美術館所蔵)を出品、特選となり帝国美術院賞を受賞し た。以後毎年帝展に大作を出品し、昭和3年、5年、6年と帝展審査員に挙げられ、帝展の 青山時代到来が噂され、帝展洋画壇の鬼才と謳われた。昭和4年には片多徳郎らと第一美術 協会を創立し、第1回展に「老婦人像」 (当金庫所蔵)を発表し、翌5年には若い頃色々と 世話になった九州帝大の西川虎吉教授の依頼により九大工学部の新館壁面の壁画制作に着 手、昭和6年の帝展には「静物」 (当金庫所蔵)を出品、翌7年の帝展には「投網」 (当金庫 所蔵)を出品した。同年12月11日九大壁画もほぼ完成したので長兄進太郎氏の病気を見 舞うため帰郷したが、午後8時狭心症の発作により46才の若さで急逝した。 氏の作風は外遊以前は身近な労働者などを画材として重厚な作品を造り上げたが、外遊以 後はルノアール、セザンヌ、シャバンヌ等の影響を強く受け、色調も明るくなり日本人には 珍しい大作を精力的に描いた。
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