何をどこまで教えるか?

何をどこまで教えるか?
高木-福岡論争
高木英至
高木-福岡論争(1)
- 1.【高木:1999/12/25, 00:09 「何をどこまで教える
か?」】
 各コース、ないし科目が何をどこまで教えようとするのか、その大まかなス
ケジュール、教える事項を提示すべきだ。
• グループとしてのカリキュラムの検討に必要
• 外部評価上の要請
 例として社会心理学で教えるべき事項を示す。
- 2.【福岡:27 Dec 1999 19:39 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 「学習しておくべき全体的リストを用意し,それらの知識をひととおり教える
べきだ」という高木の考えに反対だ。
 研究法をきちんと教えるべきであり、研究知見は for example でよい。その
方が「私(たち)の考える『教育の目標』に合致する」。
高木-福岡論争(2)
- 3.【高木:1999/12/27, 20:19 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 なぜ「私(たち)の考える『教育の目標』に合致する」のか、理解できない。社
会学専攻の学生が基礎事項を知らないという観測を私は持っている。
- 4.【福岡:27 Dec 1999 21:35 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 高木が「理解できない」とは、字面の意味がわからないではなく、賛成できな
いという意味だろう。賛成できないのは教育観の違いだ。
- 5.【高木:1999/12/27, 21:45 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 「理解できない」と書いたのは字面の意味が分からないという意味である。
- 6.【高木:1999/12/28, 05:42 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 5.を補足する。2.の「合致する」が理解できない。研究法だけ教えればよい
学問分野などない。
高木-福岡論争(3)
- 7.【福岡:29 Dec 1999 17:09 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 その学問分野で『分かったこと』、すなわち知見(findings)もきちんと教えな
ければならない、という高木の主張には同意する。
 「社会学入門」「社会学原論」「社会学特殊講義」を担当する他の社会学の
先生がたに、高木と一緒に要求することにしたい。
 私は次のように授業をしている(省略)。
- 8.【高木:1999/12/29, 21:18 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 概して社会学の先生方は勝手な授業をやり過ぎている。嫌なことでも教えな
ければならない。吉田民人は自分と似た学生は作らないという公平さがあっ
た。
- 9.【福岡:30 Dec 1999 12:31 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 「自分と似た学生」を私は作っている訳ではない。
- 10.【高木:1999/12/30, 13:21 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 卒論では学生が教官と似ていて問題ない。
 重要なのは一般の授業(社会調査法とか)で標準的なテキストに合わせるこ
と。
高木-福岡論争(4)
- 11.【福岡:30 Dec 1999 18:04 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 標準的なテキストに合わせることへの異議。社会認識のための tool を教え
れる以前に〈おもしろさ〉〈たのしさ〉、つまり〈やる気〉をおこさせなければなら
ない。そのために教師の側が自分の研究,調査という仕事を〈おもしろく〉
〈たのしく〉やっているという姿を見せなければならない。
- 12.【高木:1999/12/30, 19:25 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 福岡さんの議論は、教官が自分のやりやすい授業をすることを正当化する
のに使ってきた論拠である。
 つまらない内容でも<おもしろく><たのしく>授業して見せる必要がある。
 卒論のための授業と一般の授業は区分すべきだ。一般の授業で卒論向け
のような授業をするのは良くない。
- 13.【福岡:30 Dec 1999 21:34 「Re: 何をどこまで教え
るか?」】
 「つまらない内容」のものは〈おもしろく〉〈楽しく〉授業してみせてもつまらない。
学生たちが〈おもしろい〉と受け止めてくれる授業をやったほうがはるかにマ
シだ。
- 14. 【高木:1999/12/30, 22:38 「Re: 何をどこまで教える
か?」】
 福岡先生、眠いんじゃない?
高木-福岡論争(5)
- 15.【高木:1999/12/30/, 11:50「何どこ14メール・総集
編」】
- 16.【高木:1999/12/31, 20:17「何どこ再論(高木)】
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現在の改革論議は教育システム改革の好機である
「何どこ」はいかに社会的責任を全うするか、という問題だ。
社会学でも教える事項はちゃんと提示できる。例示。
バランスを考えた授業はつまらない箇所を必然的に含むけれど、全体がつ
まらない訳ではない。
 福岡の思いこみほどには、福岡の授業は面白い訳ではない。
 福岡の「概説的授業の失敗例」は、概説的だったから失敗したのではない。
Mannheim などというマイナーでマニアックなネタを使ったからだ。
- 17.【福岡:Fri, 07 Jan 2000 14:42 「何どこ再論(高木)」
への反論(福岡)】
 高木が授業の発想は「料理屋さん」である。学生においしい料理を提供しよ
うとしている。
 福岡の発想は「料理教室」である。学生がおいしい料理を作れるようにする
ことが重要だ。
 高木の主張の前提はアメリカのようにTA制度があることだ。教授の私は御
免蒙る。
 学生の出来で言えば、私には自信がある。
高木-福岡論争(6)
- 18.【高木:2000/01/07, 15:23「続・何どこ再論(高木)」】
 同じたとえを使うなら私も「料理教室」のつもりだ。
 一人では手が回らないからコースで教育をするはずだ。
 TAだけではなく、お偉い先生も概説的な授業はする。
- 19.【福岡:07 Jan 2000 22:51「『続・何どこ再論(高木)』
への応答(福岡)】
 忙しいのでドクターストップを申し入れる。
 と言いつつ、次のことは言いたい。いくら「立派な内容」の授業をやっても一
方的に講義するのであれば教育効果はとぼしい。
- 20.【高木:2000/01/08, 00:25「主張は何だったのか?
(高木)】
 何を言ったのかは明らかにしておいて欲しい。
 福岡の議論は次の3つで変遷している。
• 一般論として高木に反対だ。
• 高木の主張を認めよう。
• 一般論はともかく、自分は高木の言うようにはしたくない。
高木-福岡論争(7)
- 21.【福岡:10 Jan 2000 19:13「Re: 主張は何だったの
か?(高木)」】
 「より多くの知識を習得していること」と「自分の頭で考える力をやしなうこと」
が重要だ。この点では両者は共通している。
 高木は「より多くの知識を習得していること」に、福岡は「自分の頭で考える
力をやしなうこと」に力点がある。
 「より多くの知識を習得していること」でゴリ押しするなら自分は反対する。
- 22.【高木:2000/01/10, 21:29「あっ、なるほど(高木)】
 両者にさしたる相違がないことを確認できた。
 「より多くの知識を習得していること」よりも「自分の頭で考える力をやしなう
こと」ことの方が重要だと私も思う。
この論争をどう考えるか?
• そもそも私は次の主張をしただけである。
- 各コース、ないし科目が何をどこまで教えようとするのか、そ
の大まかなスケジュール、教える事項を提示すべきだ。
• にもかからわらず反論があったことが興味深い。
• 可能な反論はこの論争の中に出尽くしているように思
う。
 教師自身が楽しく授業をやらなければ教育効果は上がらない。
 スケジュールを決めた授業は考える力を低下させる。
 教育の過重負担になる。
• どう考えるか?