Title Author(s) Citation Issue Date URL Rights 芥川龍之介「支那游記」研究(下) 小澤, 保博 琉球大学教育学部紀要(78): 1-26 2011-02 http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/22293 芥川龍之介 「 支那併記 」研究 ( 下) 小揮保博 * ASt u d yo fNo t eo nR. Ak u t a g a wa ' sShi nay ak i Oz a waY a s u h i r o Ⅱ「 江南源記 」 集英社 」二)に「 支那辞記」に就いて 「 上海物語 」(「 の以下の発言がある。「 ただこの旅行記 をいま読 1 みなお してみると、意外 に感銘が薄い。た しか 市内観光で過 ご した芥川龍之介は、やがて上海 に上海の茶館や芝居 を語 る彼の筆は、 さすがに ほう ふつ 当時の上海 の雰囲気 を紡棟 とさせてはいるが、 を拠点に して周辺の視察旅行 に出かける。 引率 それ はあ くまで も雰囲気 に とどまる。 中国の女 者 は同文書院卒業で支那語 に堪能な大阪毎 日新 の耳の美 しさを愛でて、『西府記』の一節 を思い 聞記者 の村 田孜郎 ( 烏江)である。こ うして 「 江 浮かべ、さらに李 笠 翁が女の美 を語 ったなかに 上海到着後一 ケ月近 くを里見病院での療養 と め せ い し上 うき り りゆ うお う 南併記 」の旅が始まった。 当時の支那 を見聞、 も、耳については述べていない。とい うあた り、 視察 した多 くの 日本人に就いて、魯迅 は以下の 彼 の中国文学の素養 が うかがわれ るが、それが 見解 を示 している 「日本の学者や文学者 は大抵 彼 の観 察 に とくに深 さを与 えた跡 も見 られ な し 上 う いり ん い」、 さらに章柄麟 との会見記 (「 上海済記」十 固定 した考えをもって支那に来 る。支那に来 る とその固定 した考 え と衝突す る処の事実 と遭ふ 一)に就いては 「この程度の会見記な ら、何 も芥 事 を恐れ ます。そ して回避 します。だか ら来て 上 川 を煩わせ るまで もない、とい う気がす る」(「 も来なかった と同 じ事です」(「 増 田渉宛書簡 」昭 二) 。 この著者 の視線 な ども彼の尊敬す 海物語 」 。これ は人間精神 の本質 和七年一月十六 日)(牲 1) る魯迅の警告に沿 う筆致である。蒋介石による に迫 る鋭 い指摘であるが、支那視察旅行 に限っ 大都市上海 での共産党員の繊滅 に就いては、容 た事ではな くて一般的な人間の精神構造である。 赦 な く記述す るも左翼系の作家達の憧憶 と約束 人間精神 は、外界 を在 りのままに受 け入れて正 の地である延安で繰 り広げ られた粛清、洗脳 の 確 に認識 、判断す る程 に偉大ではない。 自己の 階級闘争 に就いては、何 も記述 していない。丸 信奉す る信条で外界 を視覚 し認識す るのであっ 山昇 「 上海物語」 ( は し ▲ う モ んしがき)には、 日本で育った とう て、 自らの信念 にそ ぐわない現実は視界に映 じ 中国人作家陶晶孫 の一文が紹介 され てい る 「日 て も精神 に認織 として止まる事はない。 これは 本は、や らずぶ った くりだよ。 くれたのは 日本 普遍的な一般的な人間精神の在 り様で、人間は 精神だけさ。米英人は、ギブアン ドテイクだ。 」、 元来 自己に都合 良 く他者 の存在 を把握す るもの 人民中国で生存 を許 されず台湾に亡命す るも国 であって、 自分が認識 した他者は真実の姿では 民党の支配 を受 ける事に耐 えられず に 日本で辛 うじて生存 を保 ってい るこの中国人作家の過酷 ない。 な現実に、視線が向いていないのである。 この魯迅の発言に沿って言及す る と、丸 山昇 *国語教育教室 -1 - 芥川龍之介 「 支那併記 」 研究 ( 下) に出入 りした思い出) 「 上海済記」( 十七)で芥川龍 之介 が指摘 した支 いく く わ い か み みを か く 那の女の耳の美 しさ「 幾 回 掻 耳 」(「 西府記 」)と りつお う じっ しゆき上く 笠翁 「 十種 曲」に女 の耳の美 しさが無 い とい う 学生 と独逸女性 との関係 を記述 した淫書 「 赤い 芥川龍之介の指摘 は、全体的 に街 学的である と 帽子の女 」が、芥川龍之介の幻の名作 として脚光 松本清張 「 芥川龍之介の死 ( 六)」も指摘 し、批判 を浴びた事があった。 その根拠 は、芥川龍之介 一時期 、第一次大戦後の伯林 を舞台に 日本人 的である。「 江南瀞記」( 前置 き)に拠れ ば、中国視 の淫書 を収集す る性癖 と具体的には、中国視察 察旅行 の熱が冷 め切 った半年後 に 「 大阪毎 日新 旅行で 旧独逸植 民地である青島周辺 を通過 した 大正十一年一月一 日一 二月十三 日」)掲載 聞」(「 事が、根拠 になっていた。私見では「 赤い帽子の になった理 由をすれ違 った二人の支那人が発 し 女」は、文章が流麗 で大家の手腕 を思わせ るが、 ア イ ヨオ た「 暖嚇 !」( 前置 き)とい う言葉 に誘発 された と 支那視察後の芥川龍之介の体力では到底書 きき 書いている。 田端 の 自宅 に帰宅す る途 中ですれ れぬ内容 と品格 を持 った幻の淫書である。 違 った二人の若 い男の偶然発 した一語 の間投詞 で半年前の支那生活が、鮮 明に想起 されたのは、 2 二人の若者が特 にその一人 の美貌 が芥川龍之介 ひとり の注意 を喚起 したか らで あ る 「 殊 にそ の一人 が 伴者 は、上海 の東亜同文書院卒業で上海到着時 上海 を拠点 に して支那視察の旅 が始まる。 同 あまぐわいた ら 薄青 い背広 に、雨外套 をひ っ か けた の には、 けっし上く よ う りざね が ほ え 血 色 の好い瓜実顔や 、細 い銀 の柄 の杖 と共 に、 に芥川龍之介 を埠頭 に出迎 えた大阪毎 日新聞記 しろう 者村 田孜郎 ( 烏江)である。欧米諸国の租界都市 議論た る趣 を感 じてゐた」( 前置 き) 。こ うして芥 上海での一 ケ月の療養生活の後、初めての生の 川龍之介 の連想 は、留学 中の支那留学生 と日本 支那社会 との遭遇 である。最初の 目的地は、杭 りゅ うとうぐわい し 人女性 との交渉 を記録 した大衆小説 「 留東外史 」 州( 西湖)である。そ して、個人 として接点 を持 ( 吉 田精一脚注 「日本留学の生活 を描 いた 中国の通俗 った支那人は、列車内の車掌である。芥川龍之 ちや うぜ ん わ うほ さつ 小説 」)の二人の人物 、 帳 全 と王甫察 に及ぶので 介 は、長期 の支那生活 で何 も感 じな くなった村 ある。 日本滞在 中の支那入学生 と 日本人女子学 田孜郎に比べて神経 の使い方が、繊細である。 に っ ぽ ん 日本 の車掌に比べ ると、何だか敏活 な感 じ 生 との情話 を芥川龍之介 は、漢籍 の知識 として し 上 う り 上 う 渉 猟 していた訣 である。「 金瓶梅 を始 め痴婆子 侍、紅杏侍 、牡丹奇縁、燈芯奇僧侍 、歓喜奇観 が しない。 が、勿論 さう考- るのは、我我の -き け ん たた 僻見の崇 りである。( -) な どの淫書 ( 中略)上海の本屋 でああ云ふ淫書が この最初の支那人に対す る一瞥は、 さらに再 樺 山出てゐるらしいが も し上記の外 の ものがあ 度繰 り返 され る。杭州駅の税 関の役人 もまた同 った ら送って くれ給 -」(「 西村 貞吉宛書簡 」 大正 じく覇気 の無い、無気力を絵 に描 いた よ うに力 七年十一月二十 日) 0 な く応対す るのである。-旅行者のこの鋭 い観 さらに 自身 も支那土産 として この種 の淫書 を 察は、今 日では貴重 なそれである。政治、経済 多量に購入 して来ている。芥川龍 之介 は、上海 を他 国に疎開 された無秩序、混沌の支那の現状 で購入 した この種 の書物 を最後 の歴 史小説 「 古 を余す事無 く我我 に伝 えているか らである。覇 千屋 」の 口述筆記 の協力者 である東京 日日新 聞 気 を喪失 した数億 の人民に民族 、国家の 自覚を 記者 沖本 常吉 に譲 ってい る。「 本所 両 国」に引用 促 し、漢民族再生の為 には何 が必要か、芥川龍 の漢詩 を確認す る為 に漢籍類 を探索 中、偶然 出 之介 は後年 になって端的に述べてい る 「 今 日の てきた漢籍 の豆本 を感謝 の意 を込 めて贈呈 した 支那の最大の悲劇 は無数の国家的羅蔓主義者即 訣である。 「 ただ引用す る漢詩 を確認 す るために、 ち『若 き支那』の為 に鉄の如 き訓練 を興- るに足 蔵書 を探す のに手間 どり、意外 に も上海 で買っ る一人のムツ ソリニ もゐない ことであるこ 」(「 保 た とい う豆本の春本 を持 ち出 して来 て 『これ は 儒 の言葉」支那) 。 これ な どは、後年の中国国民 君にや る。』といわれて も時文であって私 には読 めない。( 後 で佐藤 さんにそれ は貰 ってや って よ 党の敗北 と共産党の勝利 、 さらには生活の安定 たが で韓 の緩 んだ全共産党員 に対す る焼烈なる再教 かった といわれた。)」(「 芥川龍 之介以前」澄江堂 育、人民 中国の文化大革命 を予言 しているよ う -2- 琉球 大学教育学部紀要 て戸惑いを見せ るのは、一人芥川龍之介だけで である。 役人はさも悲 しさうに、一一 シャツを畳み はない。広州駅か ら西湖湖畔の新新旅館 にた ど ろう せい り着 くまでの行程で、人力車の上か ら偶然 「 陳西 ま ぽ ろし ぽたん りぐう の李腐」( ≡)とい う表札 を一瞥 して 「幻 の牡丹 ぎ ょ く さ ん を眺めなが ら、玉 蓋 を傾 けてゐる」( 三)李 白に 直 した り、ボンボンのこぼれたのを拾った り、 鞄 の 中 の整 理 に着 手 して くれ た 。(中略 ) トオ シ エ 「 多謝」と支那語の御礼 を云った。が、彼 はや ほ か は り悲 しさうに、又外の鞄 を整理 しなが ら、 そ そ 私には眼 さ-注がなかった。( 三) 思いを寄せ るのである。支那の現地で 日本人が、 千年の間馴染んできた李姓の表札 を見て胸躍 ら せ るのは、海外旅行初心者の誰 もが経験す る事 杭州駅で二人は、予約 した新新旅館 の宿引き を待 ち続 ける。二人 を自分の指定の宿に案内 し である。車上の芥川龍之介は、千年の時間を越 こう かん えて一人李 白と対話す る。巷間流布 してい る た い は く し ゆ う 太 白集 の内で どの刊本 を是 とす るか、ゴオティ よ うとして、支那人達の 口論が喧 しい。支那語 で罵声 を浴びせ る村 田孜郎 を横 目に見なが ら芥 すず め 第7 8集 をか さい れ ん 川龍之介は、「雀 が丘のナポ レオンのや うに、悠 -いげい 然 と彼等 を埠映 してゐた。 」( 三) エ翻訳 「 た蓮の曲」を どう思 うか、 さらには胡適 はくわし 推進の 白話詩 に就いての見解 を聞きたい とい う たむろ こ うした駅 に 屯 す る支那人の阿鼻叫喚は、人 感想である。( 註2)しか し、こ うした現地での夢想 民中国が消 し去 りたい過去の汚点ではあるが、 は瞬時に直面す る現実の前に崩れ るのである。 幕末維新期に 日本 を訪れた欧米人 もまた嘗ての 日本で、杭州駅で芥川龍之介が経験 した同趣 旨 菌轟か嘉鵜 先生の 「 支那漫遊記」を読んでゐ かうし う た ら、氏は杭州の領事 にでもなって、悠悠 と の体験 を しているのである。二人は新新旅館 の 余生を送 る事が出来れば、大幸だ とか何 とか 出迎 えの人力車 に揺 られ て長 時 間、闇の 中を せいこ 西湖 に向かって身 を委ね るのである。車窓か ら アラビア 一瞥す る生活の断片は、 芥川龍之介に 「 亜刺比亜 云ふ事だった。しか し私は領事 どころか、 漸江 とくぐ ん ど ろ いけ の督軍に任命 されて も、こんな泥池 を見てゐ せつか う や わ ア ラ ビア ン ナ イ る よ り は 、 日本 の 東 京 に 住 ん で ゐ た ト い。 ・・・・・・( 七) 夜話 」(「 m bi A a n Ni g ht sアラビアの伝説集」)の秘密 の世界 を想起 させ、 「 スマ トラの忘れ な草」(「ス マ トラの伝説に、においをかげば記憶をうしなうとい 直面す る支那の現実を前に して机上の理想の はく き上い 支那は、瞬時に崩れて しま う。しか し、白居易や う草がある」)が もた らす秘密 の生活 を想像す る。 蘇韻の詩宗で育まれた西湖 を現実に見た時は、 何故 に芥川龍之介 は、杭州 に出向いたか、 目 芥川龍之介は率直に感動 を記述 している。先に せ い こ 的は西湖である 「 西湖 は薄 白い往来の左 に、暗 引用 した魯迅の書簡 に拠 るな らば、芥川龍之介 い水面を広げたな り、ひっそ りと静ま り返って は 自己の詩想 を拠 り所 に 自ら自己陶酔の喜びに ゐ る。 」( 四) 浸った事になる。西湖がいかに俗化 してい よ う か け い だ うくわ う 西湖の 自然は、嘉慶道光の諸詩人のや うに、 せんさ い 繊細な感 じに富み過 ぎてゐる。大まかな 自然 ぶんじ んぽく かく に飽 き飽 き した、支那の文人墨客には、或は そこ よ 其処が好いのかも知れない。( 七) と唐詩選で育んだ夢想が、破壊 されて も現実の 西湖の接近は、彼芥川龍之介 に とっては喜びで あった筈である。それは、宿泊先の旅館で傍若 無人に振舞 う米国人 を記述 している事で対比的 「 支那群記」の中での最大の失望の地は、西湖 に際立っている。 である。そ して 自身の落胆の意味を芥川龍之介 は、明瞭に記述 している。積年憧憶 の地に降 り 薄明るい水面が現れて来た。西湖 !私は実 いか 際 この瞬間、如何 にも西湖 らしい心 もちにな 立ち、 自身の憧憶の実態が何であるかを如実に 四) った。 ( 認識 しているのである。一般的な西湖憧憶の源 谷崎潤一郎は生前二度の支那渡航 を成 したが、 泉が、芭蕉 「 奥の細道 」である事 は明確 である。 ふそう どう て い 「 松 島は扶桑第-の好風に して、お よそ洞庭 ・西 果た し得ぬ洋行 の代償行為であって、別 に支那 湖 を恥 ぢず。」( 松島)とある。 ば上侮-一戸を構-て もいい くらゐに思ってゐ の風物 に心惹かれた訣ではない、「 気に入った ら 最近まで 日本人の対外経験 は、限定 されてい た私は、大いに失望 して帰った。西洋 を知 るに たので書斎での理想、空理空論 を現地で確認 し は矢張 り西洋-行かなければ駄 目、支那 を知 る -3- 芥川龍之介 「 支那酵記 」研 究 ( 下) には北京-行かなければ駄 目である。」(「 上海見 西湖一周の見学を成す。 さなが らベネチアを訪 聞録 」大正十五年五月) 。戦前の 日本人に取って れた欧州各国の貴族が、南国の情緒を堪能する は、支那渡航は洋行 に代わ りえる唯一の地であ の と同 じである。 しか しなが ら現実の西湖は、 った。谷崎潤一郎、芥川龍之介に とっても支那 「 唐詩選 」の詩的情緒が 日本人に与えた叙情性 と 渡航 は、時間的、肉体的、経済的に生活 し得 る 唯一の土地であった訣である。千年 の長きに亘 り支那は、孔孟の聖人の国であ り、その風物は は無縁な世界 「 まあ、大体の感 じを云ふ と、湖水 お ほみ づ た ん ぽ と な なぞ と称- るよ りも、大水の田圃に近い位であ 「 唐詩選 」で親 しんで来た世界である。 日本の文 介の率直な感想である。詩的散策 とは本来 こう る。」( 六)とい うのが、西湖に就いての芥川龍之 人達の支那渡航 は、脳裏 に刻 まれた理想の支那 い うもので、奈良、京都が現在 も日本人を引き を逐一破壊 して歩む行為で もあった.新新旅館 付 けて魅 了す るのは、歴史、文学の育んだ保養 に宿泊の夜、芥川龍之介は攻塊の棚の下で村 田 メ イク イ こかく 孜郎 とひ と時を過 ごす 「 攻塊、微雨、孤客の心、 の地を自分で確かめる、 自己の心象に植 えつけ 一此処までは詩になるか も知れない。 」( 五)、し る。私的経験でも「 つ らつきい とらうたげにて眉 か し、傍若無人の数人の米国人の振 る舞い、ス のわた りうちけぶ り」(「 源氏物語 」 若紫)とい う られた詩想の実態 を確認す る為に古都 を散策す まゆ ラングを連発す る教養のない一人が立小便 をす 眼差 しを関西出身の若い女子学生の風貌に見出 るのを 目撃 して、支那の現状 を認識す る。谷崎 して感動 した思い出がある。吉野散策の折に花 潤一郎 「 天苦賊の夢」のよ うな ロマ ンチ ックな作 吹雪を連想 させ る淡雪を頬 に受けて古典世界の 品創作は無理であると、嘆息す る。「 天苦織の夢」 び ろ う ど (「 大阪毎 日新聞」 大正八年十一月∼十二月)は、 現実を体験 した記憶 もある。 この 日早朝、芥川 がぽう 龍之介は同伴の村 田孜郎 と船頭の引率で画肋 と 谷崎潤一郎第-回の支那旅行の成果である。 こ は名ばか りの小船に同乗 して西湖遊覧の旅に出 の時に現地の支那人 との接点が無 くて、傍観者 るのである。今 日地図で確認す ると芥川龍之介 し んし ん 宿泊の新新旅館は、環湖北路沿い、 日本人が多 として各地を無責任、気侭 に他者 との接点を持 たず に遭遥 した ことが夢想的な作品を産んだ と く宿泊す る杭州飯店 に隣接 している事が窺 える。 言える。 なか ぞ ら ぱう ばう 把だ と煙った水の上には、雲 の裂 けた中空 つま り、芥川龍之介は昨夜、杭州駅下車後に杭 州市外を横断 して西湖 を半周 して駅か ら見て対 か ら、幅の狭い月光が流れてゐる。その水 を 岸の湖岸 に到着 した訣である。「 おい、君、新新 旅館 はまだ遠 いのかね ?」(四)と途中で芥川龍 勢 こ横 ぎったのは、巌 か鞠 烹 莞㌣ないo 堤 の-箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛 り 之介が溜息を洩 らし、 さらには車上退屈を紛 ら 上ってゐる。( 四) わす為に独逸文法のお さらいを した と言 うのも 西湖の一瞥で これだけの感慨 を芥川龍之介に 領かれ る距離ではある。「 それが名詞か ら始まっ たど て、強変化動詞にだ りついた時」( 四)、西湖の気 覚えさせ るのは、千年の時を関 して 日本人に与 「 唐詩選 」に部外漢である米国人に とっては西湖 配 を感 じた と記述 してい る。湖岸 か ら前方 に こざん はく 孤山を遠望 しなが ら酉湖 を漕いで行 くと「 昔白 は、部びた薄汚れた遠浅の陳腐な田舎の湖であ 楽天の築いた、自提」( 六)を遠望す る事になった。 る。「 私は陶然たる絹 自堤には、二の橋が架かっていて芥川龍之介か え続 けた酉湖の詩的情緒の賜物である。 しか し ら くてん み 君 と諸 島のないサロン は くてい と -引き返 した。水戸の浪士にも十倍 した、棲夷 ら見て近景に畝嵐 遠方に端第嵩である.「 断橋 五)とい うのは、西 的精神 に燃 え立ちなが ら。」( は西湖十景の中、残雪の名所になってゐるか ら、 湖の詩的意味を解 しない米国人に対す る怒 りで 六)とい うふ うに芥川龍 前人の詩 も少 くない。」( ある。 之介は、解説 している。酉湖十景は、「 吉田精一 脚注 ( 蘇 堤春 暁 ・柳 浪 間食 ・花港観魚 ・曲院風荷 ・双 3 峯挿雲 ・霊 峯西照 ・三帝 印月 ・平湖秋 月 ・南犀晩鐘 ・ ざ ん せってい 断橋残雪)」 とある。 「 現に橋畔の残雪亭 (「 乾隆帝 新新旅館 に一泊 した翌朝 ( 五月三 日)、芥川龍 之介は村 田孜郎 と湖畔に停泊 中の画肋 に乗って ( 清朝六代の高宗)が南巡のお りかかれた御碑のある -4- 琉球大学教育学部紀要 第 78集 事。」) には、靖の聖祖 の詩碑 (「 聖祖 は清朝 四代 の がく わう べう た後 に芥川龍之介 は、 「 岳王廟」を訪れ るが、画 康 照帝 の こ と。その詩碑 は湖 中の島であ る三帝 にある。 肋 での航跡 を確認す る為 に執筆時に「 西湖十景」 芥 川 は乾 隆帝 の御 碑 と と りちが えて い る。」)が建っ てゐる」( 六) 。芥川龍之介 は、西湖湖畔の詩碑、 の支那絵画 を参考 に している事がわかる。 この き 上 く い ん ふうか 場面は、清朝博南 田「 曲院 の風荷」( 西湖十景)を 乾隆帝の御碑 を実見 してい る。清朝六代の高宗 参考 に して多少の感 興 を覚 えた らしくて 「 但し 乾隆帝 を清朝 四代康照帝、清の聖祖 と取 り違 え 西湖 はつま らん と云って も、全部つま らん次第 た訣 である。清朝 四代皇帝、聖祖 と呼称 され る 康照帝の詩碑 が、西湖 の三薄 とい う孤島の地に 川龍之介の西湖全般 に対す る過度の思い込み、 ぢや ないがね。 」( 七)と感想 を洩 らしている。芥 ある。芥川龍之介は三淳 に立寄ってい るので、 と言 うよ り日本人一般 に対す る西湖-の愛着の 「 晴の聖祖」( 康照帝)を康照帝ではな くて、乾隆 第一は、言 うまで もな く芭蕉 「 奥の細道 」に よ り 帝 と単純 に誤 ったわけである。 普遍化 され た。 山 田勝美 「 中国名詩鑑 賞辞典 」 画筋 は、 白堤 に架 か る最初 の橋 である錦帯橋 (「 角川書店」昭和五十三年七月)の蘇拭 「 湖上 に を潜 り抜 けて西湖十景の一つである平湖秋月の 飲 し、初 め晴れ後 に雨降 る」(「 水光 激灘 晴方 よ くうt } う と に好 し/ 山色 空漠 雨 も亦奇 な り/西湖 を把 れ ん えん 情景 を横切 り孤 山に上陸す る。 ひん よ はれ ま さ っ て 西 子 に比 せ ん とす れ ば/ 韻凝 議謀 す あいよ 総べて相宜 し」 )の解説 に拠れば 「 そもそ も、こと ふそう ふ りにたれ ど、松 島は扶桑第-の好風 に して、 どう てい きさ がた お よそ洞庭 ・ 西湖 を恥 ぢず。 」( 松島)「 象潟は憾む 不思議 にも晶の好い三層楼があった。水 に せきし 臨んだ門も好 けれ ば、左右 に並んだ石獅 も美 す ま い しい 。 これ は何 物 の 住居 か と思 っ た ら、 あん ぐ う あと ぷんら ん 乾隆帝 の行宮の虻だ と云ふ、評判 の高い文潤 かく 闇だった。( 六) けん りゆうてい が ごとし。寂 しさに悲 しみ を加-て、地勢魂 を せいし 悩ます に似た り。/象潟や雨に西施がねぶの花 」 「 四庫全書」を保管 した文潤 閣を一見 したな ら ば、漢籍類 に造詣のある芥川龍之介 には何 ほ ど ( 象潟)の二箇所の記述 は、前掲蘇輪 の詩 を踏 かの感興があった と思 えるが、残念 なが ら立ち まえてい るそ うである。 入 り禁止で周辺 を遭遥 したに止まったのは今 日 惇南 田「 曲院の風荷」、西湖十景の一つの場面 か ら見 る と残念 で ある。村 上哲見 「 蘇州杭州物 を画肪 で過 ぎ、やがて芥川龍之介 と村 田孜郎 の がく わう べう そう がく がくおう のは か 二人 は有名 な 「 岳王廟」( 宋岳邸王之墓)の前 に出 語 」(「 集英社 」昭和六十二年九月)に拠れ ば、「 四 ち 上 く め い 庫全書 」は清 の乾隆帝 の勅 命 で最初 四部制作 さ る。この采 の岳飛墓前での芥川龍之介の写真 は、 ぷ ん えん れ て北京 の紫禁城 ( 文淵 閣)、円明園 ( 文源 閣)、 ぷんそ ぷんし んかく 奉天 ( 文遡閣)、承徳 ( 文津閣)の四箇所 の清朝縁 同伴 の村 田孜郎撮影 と思われ るが、有名 な もの で広 く流布 してい る。 がくひ し んく わ い ち やう し ゆ んら 岳飛の墓前には鉄柵 の中に、秦 槍 張 俊 等 かつかう あん めんばく の鉄像がある。像 の恰好 を按ず ると、面縛 さ の地に書庫 を作 って保管 したが、後 に同 じ乾隆 し 上 う ち 上 く 帝 は 詔 勅 で さらに三箇所 に書庫 を作 って保管 ぶ ん わ いか く ぷ ん そ うか く れた所 に違ひない。( 八) を命 じた。揚州 ( 文匪閣)、鎮江 ( 文幕閣)、杭州 ぶんら ん かく 孤山( 文潤閣)の三箇所で、前二箇所 は太平天国 面縛 され た秦袷夫妻像 も有名でよく知 られ て の乱で全焼 し、杭州孤 山の文潤閣のみ補修 を経 いる。 これ な ども隣国なが ら、 日本の風土 との てか ろ うじて 「 四庫全書」を保管 していた訣であ 相違 を明瞭な らしめる象徴は無いであろ う。 上 る。 これ は今 日では、漸江省 図書館 になってい 坂冬子 「 我 は苦難 の道 を行 く江 兆銘 の真 実 ( 下 るそ うである。芥川龍之介一行 は、 ここを素通 こざんじ こうかじ ゆき上く え ん りして孤 山寺 ( 広化寺)を一瞥 して愈 曲園の別荘、 巻)」(「 講談社 」 平成十一年十月)には、戦時下に 南京 にあった江兆銘政権の主席の面縛 の脆像 の ゆ ろ う 愈楼 を見物 している。そ こで芥川龍之介 は、別 ゆ き よく えん ほう ぎ ょ く り ん 荘 の所 有者愈 曲園の為 に清 末 の武 将 彰玉麟 が 写真 を掲載 してい る。 これ な ども日中両国の国 民感情の相違 を明瞭に示す ものである。 日本敗 せ きこく 描 いた 「 梅花の図」の石刻 を実見す る。 この石刻 あ け ぽ の ち上 う の谷崎潤一 の拓本 を芥川龍之介は、本郷 曙 戦 と同時に南京国民政府 の重鎮は、尽 く重慶の 郎の書斎で 目撃 していて懐古の情 を覚 える。 亜戦争開戦内閣の閣僚は、戦後全員被告 として かやおきのり 旧敵国に拘留 され るも賀屋興宣蔵相、岸信介国 町 蒋介石 の国民政府 によ り処刑 されてい る。大東 七)を見学 し 「 森方ミ 7 1 ミ の墓 」 磁 違女史の墓」( -5- 芥川龍之介 「 支那辞記 」研究 ( 下) 務相 は戦後政界 に復帰 してい る。 がく ふん 岳飛 を祭 った 「 岳墳 」とそ この脆か されている の平和 と民生の醸成 に貢献 した南采 の宰相秦槍 秦槍夫妻 の事跡 に就 いては以下、前掲村上哲見 日本で も同 じである として芥川龍之介は以下の 「 蘇州杭州物語 」の記載事項 を参照 させ ていただ 意見を述べ る。 である。こ うした図式化 して分か り易い構図は、 ゐ く。漢民族 の国家采 は、建 国以来異民族である い なほす け た と-ば井伊直弼の銅像が立つには、死後 のぎ 何十年 かを要 したが、乃木大将が神様 になる ほと んど には、 殆 一週間 も要 さなかったや うな もの 姦策族 か らの圧迫 に苦 しんで来た. 契丹族 であ り 上 う る達 は、自らが支配 していた同 じ騎馬民族東北 である。( 八) の女真族 の金 の圧迫 を受 け、采 の都 開封は北方 きそう 騎馬民族 の金 に征服 され て采 の天子 である徽宗 き んし ゆ う 皇帝、欽 宗皇帝の父子は異民族 に泣致 され て北 なんけい 方に去 る。残 された欽宗皇帝の弟、康王は南京応 し 上 う き ゆう 天府 ( 河南省 商 丘B)で采 の皇統 を受 け継 ぎ南宋 ここで芥川龍之介 が、乃木将軍を例 に出 した のは 「 将軍」で英雄否定の立場か ら将軍乃木 を描 いて公権力 による伏字の憂 き 目に遭 った経験以 外 に、支那民衆の立場 にお もねったか らで もあ 初代の高宗 となる。東北の騎馬民族女真族 の金 そ は 、 華 北 の漢 民 族 の統 治 の 為 に低 値 政 権 楚 ら よ う ほう し よ う せいり ゆうよ ( 張 邦 昌 )、斉 (劉 務)を作 り、南宋征服の為 に し ょ う こう ニンポ臨安 、越州、明州 ( 杭州 、紹 興、寧波)を制圧す る。井伊直弼 は、幕府武力の劣勢である事 を認 識 して米国 との不平条約 に道 を開き、平和 と独 立 を辛 うじて保つ も尊皇壌夷の水戸脱藩浪士に 切 り殺 され る。乃木将軍指揮 の第三軍は、 日露 るも南采 の高宗は明州 ( 寧波)か ら温州 ( 福建省) 戦争最大の人的被害 を出 しなが ら戦後 は、国民 に逃れて南采 は、現存 し続 ける。 的人気 で他 の第一軍、第二軍の指揮官の武功を 采 の都 は金の 占領地開封 であるが、南采 の高 圧倒 して しまった。一世紀以上の長 き間異民族 宗は温州か ら越州 ( 紹興)に帰還 し、最終的に杭 り んあん 州( 臨安)を都 に した ( 北方領 土回復 を求 め る強 け んこう 硬派 は健康 〔 南京〕臨時首都 を主張 した)。南采 金 に譲歩 して民生の安定を図 り、生活 向上に貢 び ょ う し 上がく ふん 献 した南采 の宰相秦袷 は、広大な廟 所 「 岳墳」の 片隅で面縛 され脆いて民衆の罵声 と切実 を浴び まう かん ている。「 何でも此処 に詣でるものは、彼等の姦 の高宗の支持 を得 た秦櫓 は、金 との和平交渉 に を憎む為 に、一一 これ らの鉄像-、小便 をひっ ゆ かけて行 くさ うである」( 八)。岳飛が、救国の英 尽力 し以後支那全土 を騎馬民族モ ンゴルの元が 制圧す るまでの百数十年 の間の平和 を保 ち江南 の生活水準の向上 に貢献 した。 この時 に異民族 ちよ う し ゆ ん かんせいち ゆう の金 に抗戦す る武将の中で、 張 俊 、韓世 忠 、 雄 になる為 に堅実な政治家秦槍 は、敵役 を演 じ 岳飛 の三人の中で前二者 は妥協 して平穏 な世で つ素朴な感情 に就 いて芥川龍之介は単純な武人 続 けねばな らない。 日中両国に共通の民衆の持 優雅 な生活 を送 って天寿 を全 うす るも岳飛のみ 岳飛 を黙殺 し、秦槍 の置かれた困難な対場 を付 は、金 との妥協 を拒否 して宰相秦槍 に よ り獄 で 度成 さしめる事無 く、乃木将軍 と井伊直弼 に置 殺 され る事 になる。 こ うした歴史的事実を踏 ま き換 えて話題 を類型化 して見せたのである。 こ け い せいし やくさ ん さ い き や く だ ん こで芥川龍之介は、清の景星 杓 「 山斎客評 」の中 かんぞく か ら- 挿 話 を紹 介 して い るが 、粁賊 秦 袷 が、 き んげ んみん さ んてう けみ のち 「 金元明の三朝 を閲 した後」( 八)罪 を許 され る えて芥川龍之介 は、次の よ うな感想 を述べてい る 。 一体民衆 と云ふ ものは、単純 な もの しか理 く わんう がくひ 解 しない。支那で も関羽 とか岳飛 とか、衆望 民話 、古評 である。 「 岳墳」 廟所 を探索 して、岳 を集 めてゐる英雄 は、皆単純 な人 間である。 飛廟 の前で記念写真 に納ま り秦槍夫妻 の拝脆す 或は単純な人間でないに して も、単純化 され る像 に多少 の同情 を寄せた芥川龍之介 の感慨、 易い人間である。( 八) 「 江南瀞記」( 八)の記述 は簡単で今 日か ら見ると こ うして南采 の正 当性 を一貫 して主張 し、異 物足 りない側 面がある( 註3)0 民族金 に対す る徹底抗戦 を叫んで獄 中で死んだ 「 支那湛記 」(「 改造社」大正十四年十一月)を芥 岳飛 は、漢民族救国の英雄 に祭 り上 げ られた。 川龍之介 の仕事で最 も優れた ものであると評価 この民族英雄の敵役 は、武力で圧倒 す る金 に対 して、読了直後に上海 に渡 って生涯支那世界に し政治的な譲歩 を して民生の安定 を図 り、国民 のめ り込む事 に成 った村松松風 も「 支那辞記」の ー6- 琉球大学教育学部紀要 第 78集 街学的な側面について指摘 している。「 中国の民 那全土は、異民族統治の時代 を迎 えるのである。 情や国情 に対す る洞察が無い とか、思想的なも 漢民族の持つ宿命 に就いての芥川龍之介の識見 のが無い とか言ふのは無理で、大体、彼 は趣味 が、 「 支那湛記」の随所 にあって もよい と思 う。 岳 家であって思想家ではない。」、これ な ども「 騎馬民族国家元 もやがては、漢民族の隆盛 によ しゆげ んし ょ う り朱元嘩 により打倒 され る。 こうした史実を踏 墳 」に詣 でて秦槍夫妻 の拝鞄の胸像 を 目撃 した 後 に画肪 に戻 り、孤 山に引き返 して湖畔で昼食 まえて人民中国になって も周恩来は、漢民族の 弱体を見て再び 日本人が漢民族の制圧 に及んで を摂 る芥川龍之介の横顔 か らも納得できる理解 である。 せ きけつ そ ん も必ず失敗 し、故国に立ち戻 る事になると断言 こすゑ 石褐村の柳の 梢 には、晩春の 日影が当って げん せうじ ゐる。院小二はその根がたに座った億 、 さつ している。漢民族 と辺境騎馬民族 との数千年 の 抗争の歴史を踏まえての発言である。 げ んせ う ご きか ら魚釣 りに余念がない。院小五は鶏 を洗 「 岳王廟」見学後の二人は、画肋で孤 山の東岸 ほ うちや う はん くわん いれずみ けん せ う しち ろうぐわいろう のある飯 館 ( 「 料理 店」)楼外楼 で食事 を摂 る。「 水 って しまふ と、包 丁 をとりに家の中-はいつ ぴん ざ く ろ さ -ラ た。「 撃 には石棺の花 を挿 し、胸 には青 き豹 を 耕伝 」に就いての空想 は、この時食事中のつかの いまだ 刺 し」た、 あの愛 す べ き院小 七 は 、 未 に ふるぬのこ そ こ 古布子 を洗ってゐる。其処-のそのそ歩み寄 ちたせいごよう ったのは、-智多星呉用で も何で もない。( 九) 間のそれである。芥川龍之介に拠れば、一年前 孤 山に戻って行楽の支那人 を見なが ら昼食 を 紀行文に報告 しているそ うである。 たけばや し む さ う あん に新婚旅行 で この地 を訪れ た武 林夢想庵 夫妻 読売新聞」掲載の は「 楼外楼 」で食事 を した事 を「 しや うが に こひ 一年後 に同地を訪れ 「 生妻煮 の鯉」を食 しなが 摂 る芥川龍之介は、少年時代の愛読書である「 水 か は 川 西湖 を遠望 しなが らの束の間の幻想 は、現実の ら芥川龍之介 は、嘆息 して見せ る。相棒は、少 ゆ ん ろう おし し 年時代 「 押 春浪の冒険小説 」 を 愛読 して 日露戦 支那人の登場で破 られ る。芥川龍之介の支那視 争参加 の経歴 を有す る九州耕丸出 しの無骨な田 新伝」の作 中人物 に連想が行 くのである。しか し、 べん 察旅行 は、今 日か ら眺望す る と蒋介石の国民革 舎者村 田孜郎である。 この辺の機微 について軽 命 軍による北伐 四年前であ り、辛 うじて古い支 快 に書 き進 める筆致は、芥川龍之介天性 の もの と こ であ り、ある種の才能である。「 私は現在床の上 那の形骸が痕跡 を留めていた時であった。 しか し、芥川龍之介 に多少で も政治的、思想的な配 慮があれば岳王廟か らの帰路にあって新櫓の脆 に、八度六分の熱 を出 してゐる。頭 も勿論ふ ら のど 十)、肉 ふ らすれば、喉 も痛んで仕方が無い。」( 像 を 目撃 して、支那世界に介入す る事の危険に 体的に坤吟す る中での執筆でも軽妙な味わいの 就 いての感慨があって もよかった。千年以前の 雰囲気で読者 を軽い笑いの世界に誘い込む筆致 南采の置かれた過酷な政治状況 に思いを致 しな は、芥川龍之介本来の もので 「 羅生門」の題詞 に が ら同 じ宋代の英雄浪漫 「 水溶伝 」に発想が、飛 掲げた 「 君看双眼色/不語似無愁」の五言対句が、 躍す るのは安易である。 彼 の文学営為活動 に規制 を加 えた と言 えるか も 異民族金 との政治交渉で江南地方 に空前の繁 知れない。昼食後に二人は、孤山の岸辺か ら西 栄 をもた らした南宋 の宰相秦槍、千年 に及ぶ異 湖の さらなる湖上の島、 「 三薄の印月」 (「西湖 中 民族的か らの迫害に、当事者漢民族 の実態の考 の島。晴の聖祖の詩碑がある。」)に向かって画筋で とうば かう しう し 乗 り出す。湖上の小島には、「 東披が杭州の守だ さん たん 察に思いが及んでいないのである。騎馬民族で いん げつ あ り、異民族である金 は、武力で北采 を制圧す った時、み をつ くし( 「 舟の水路を知らせる杭」)の るも南采の経済的な繁栄 を止 める事は出来なか 為 に建 てた と云ふ 、石塔 が三つ残っ てゐ る。」 った。芥川龍之介の支那紀行 の二十年後 に 日本 ( 九) 。小島に上陸後 に二人は、池に架 け られた ち ん 橋の一つに設け られた亭 ( 唐音) 、あずまや に落 も漢民族 の政治的弱体であることを理 由に騎馬 ち着いて一服す る。視線 の彼方には、九百年以 ぽ んじ 前 に蘇 軟 の作 った石 塔 、「 焚 字 を封 ん だ完岩 」 民族金 と同 じく、漢民族制圧 の武力侵攻の愚 を 冒すのである。江南地方の豊かな繁栄 を搾取 し て、武力で漢民族 を制圧 し続 けた金 もやがて よ ( 十)が見える。 そこ 我我は其処の事の中に、この石塔を眺めなが り強大な騎馬民族元によ り、共々制圧 されて支 -7- 芥川龍之介 「 支那併記 」研 究 ( 下) 轡玲瑞。万株松樹青山上。十里沙陸明月中。 」を ら、支那の巻煙草を二本吸った。それか ら、ロシア 露西亜 の ソ ヴイエ ツ ト政府 の話 は したが、 そとうば 蘇東坂の話は しなかったや うである。( 十)(註 4) 証 5)。つま り、芥川龍之介はこの 引用 している ( 時村 田孜郎 を相手に愛唱の 白楽天、蘇東壕の詩 歌を諸ん じて見せて村 田孜郎は、支那語でその この一文は何であろ うか、明 らかに芥川龍之 そとうば 介の文飾、修辞学の一つである。「 蘇東城の話は 音調 を披露 して海苔を傾 けあった可能性がある。 それが本文 中に記載 された紀行数年後の記述事 そとうば 項 であ る 「 蘇東坂 の話 は しなかっ たや うであ 」とい うのは反語で、蘇 しなかったや うである。 東被の話 を したのである。社会主義関係の英語 十)とい う屈折 した表現になった可能性が る。」( だ ん けう ある。これに就いては、先に芥川龍之介は「 断橋、 文献 を多量に読み付随 して労農 ロシア、 ソヴイ エツ ト政権の人民大量粛清に就いて情報をいち 早 く掴むのは帰国後の最初の軽井沢滞在 中であ る。 この時、支那文献に通 じている芥川龍之介 損 、蓄峯畝 - そ聖等の美 を談ずる事は、締 九)と言い徳 富蘇峰 先生に一任 して も好 い。」( と東亜同文書院卒業で支那語 に堪能 な村 田孜郎 「 支那満湛記」のよ うな支那絶賛の記述ではなく、 の話題 は、徹頭徹尾蘇輪 と白居易の話題であっ 自己の 「 支那源記」 全体 を現状の支那の真実か ら た筈である。初 めて西湖 を一瞥 した時に、芥川 帝離 しないように工夫 している。 白楽天、蘇東 龍之介は既存の知識 を駆使 して感動 を持って記 ばう ばう 述 した。「 荘把 と煙った水の上には、雲の裂けた 坂の詩想で培 った観念的な世界を朽 ちかけた現 実によ り侵食 され る事を怖れ、現実の支那を黙 な かぞ ら 殺 して 自分の脳裏で醸成 された詩想に酔 う愚を 中空か ら、幅の狭い月光が流れてゐる。その水 か胃道に違ひない.」 を瓢 こ横 ぎったのは、巌 冒さない為である。 よ た う か くわゑ ん とう そ の夜唐家花園 のパル コンに、西村 と藤 いす ばかばか 椅子を並べてゐた時、私は莫 ち莫ち しい程熱 わるぐ ち 長江湛記」 心に現代の支那の悪 口を云った。 (「 ( 四)、西湖の知識 の第-は、 白居易造営の 白堤 であ り、第二はその後二百年後に蘇拭 によ り作 られた蘇堤である。後で芥川龍之介は、自居易 -) 造営の 白堤を確認 して次のよ うの一文 を添えて はくらく て ん はく てい いる。「これは昔 白楽天の築いた、白堤なるもの もっとせ きばんで り ゑ 気の置 けない友人 を相手に詩想に育まれ、脳 づ 裏に積年刻 まれた 日本人の理想の地の現実の荒 に相違ない。尤 石版刷の画図を見 ると、柳や何 か ぢ ゆう し う き かが描いてあるが、重修 した時に伐 られたのか、 さてい 六)とい うよ うに 自 今は唯寂 しい沙堤である。」( 廃、退廃振 りとその余 りの帝離に芥川龍之介は、 己の知識 と行動 を紀行文執筆時に絵図で確認作 飾 と文学的な修辞で彩 られ結果になったのは、 業を している。 白楽天 と蘇観 の詩業 によ り培 わ その必然性があった と言 うべきである。 苦 しんでいる訣である。 「 支那済記」全体が、粉 れた印象が、西湖の既存知識である事 を明 らか 4 に している。蘇観 は、西湖の望湖楼上で酒 を飲 ぽうころう みなが ら七言絶句 を五首作 っているが、「 望湖楼 す い し上 ら い ほう た ふ ほし ゆく た ふ 西湖散策の最後は、雷峯塔 と保倣塔の二つの ごぜ つ の酔書、五絶の二」(「 湖上に飲 し、初 め晴れ後に 雨ふ る」)は先に引用 している。「 の酔書、 こ く う ん すみ ひるがえ 望湖楼 いま 黒雲をど 墨を 翻 して 未 だ山を 五絶の- 」(「 らず/ 白雨 珠 を跳 らせて 乱れて船 に入 る/ た ち ま ぼう 地 を巻 くの 風 来 って 忽 ち吹 き散 ず/ 望 ころうか 湖楼下 水 天の如 し」)とい う七言絶句が有名 8 #' 塔の見学である。二人は、画舷に乗 り故山の麓 つ さ んたん いん げ か ら岸 を離れ、三津の印月 (「 西湖中の島。清の聖 祖の詩碑がある。」)に行 く。吉田精一脚注は、西湖 中の島の名前の如 くに脚注で説明 しているが、 これは西湖の島の岸辺の固有名詞であると芥川 龍之介は記述 している。「 三淳の印月は孤山か ら ちや うど 見 ると、丁度 向 う岸 に近い島のほとりにある。 禁 ゑo 「 望湖楼 」(「 西湖 門外の か ん のほ きん ろ う とり、絹 昭慶寺の前にあった。看経楼 ともいわれ、宋初 島の名は何 と云ふのだか、これは西湖全図にも いけだ し る 九) 。西湖の 池 田氏の案内記にも記 してない。」( に建 て られ、西湖 が一望 の もとになが め られ 白居易 に就いては、池 田桃川 「 江南の名勝史 小島か ら二人は、画肋で湖畔にた どり着 くとそ ぴゆ う ら いほう た ふ こには、雷峯塔 (「 西湖の南犀山麓にある塔。呉王謬 跡 」か らの孫引きで 「 半酔閑行湖岸東。馬鞭敢鐙 が建てた。」)が、聾えていた。 これは芥川龍之介 中国名詩鑑賞辞典」にある。 た。」と山田勝美 「 い け だ た うせ ん -8- 琉球大学教育学部紀要 第7 8 集 りすう 図、李崇 「 西湖図巻 」の模写を見なが らの記述の あ かれ ん ぐわ の筆 によれば、「 唯 この塔 は赤煉瓦の壁-、一面 っ た か づら ざふき い た だき に蔦 轟 をか らませ たばか りか、雑木 なぞ も 頂 可能性 がある。西湖 に対 して反感 を隠 さない芥 ほう せきざ ん ほし ゆく た ふ 川龍之介 も宝石 山に奪 える保倣 塔 を遠望 し、白 こざん 堤の尽 きた所の孤 山を眺めた時は、多少の賞賛 なぴ には磨 かせてゐる」( 十)とある。 この雷峯塔 は、 芥川龍之介がその全貌 を眺望 して三年後 に崩壊 し、現在 は再建 されていない よ うである。雷峯 けい せいつう げん 塔 自蛇伝説の一つである「 警世通言 」(「白娘子永 を寄せている。 か う云ふ景色 は何 と云って も、美 しい事だ いな ひし けは否み難 い。殊 に今 は点点 と菱の葉 を浮べ おも て ま ん ち や く に ぷ た水の 面 も、底の浅いのを晴 着すべ く、鈍い ぎ んいろ 銀色に輝 いてゐる。( 十一) 鎮雷峯塔」)( 註6) で知 られ る。この中国 白話小説 集 の-篇 侶 韻芋、永 く雷峯塔 に遠 め らう」は、 白話小説 の-篇 としてではな くて、芥川龍之介 画肪 によ り二人は、遠景 として横たわる孤 山 の場合 は これ を下敷 きに した上 田秋成 「 雨月物 じ やせい いん 語 」(「 蛇性 の淫」 )(註 7)の愛読 による知識 である。 芥川龍之介は、 「 退 省庵 」(「 清の巡撫使彰玉麟の釣 に向か って再び湖 上 を移動 して行 く。 目的 は ほう かく てい 毒 瑞 篇( 註8, の縁の地である放鶴事である.林和 をしてたのしんだところ。西湖の南岸。」)を一瞥 して 靖は、本名 は林道 (「 北采の詩人。字は君復。処士と 雷峯塔 の見学に向か うが、その筆致は暗示で満 ちている。雷峯塔 を 目撃す る前に芥川龍之介は、 号すO銭塘の人Q真采より和靖と誌名された。」) で さう きよ かく 巣居閣 ( 「 放鶴革の右にある。」)は、その書斎である。 二度 に亘 り現実の蛇の存在 を 目撃す るが、概 し 林和靖 は、梅 を植 え鶴 を飼 って孤山で隠棲 生活 てその気持 ちを愉快 な ものでは無い と繰 り返 し を送 った。 下僕は客人が来 ると鶴 を放 って、湖 てい る。朽 ち果て る直前の雷峯塔 の実見は、心 上で風流 を楽 しむ林和靖 を迎 えにや った とい う 楽 しい期待 を抱かせ るものでなかった。 ぢ い ひとり ぴく 桟橋 には支那人の爺 さんが一人、魚藍 を前 ぐ わぽう せんどう に坐 りなが ら、画肋 の船頭 と話 してゐ る。そ 故事が伝 わる。 これ を記念 して孤山の北側 に放 たい しや うあん りん ぼ 鶴事が作 られた とい う。林和靖は、「 林和靖詩集 」 ( 二巻)収録 の三百余首の漢詩で知 られ るが、い の魚藍 を覗いて見た ら、蛇が- ばいはいって たい しや い ろ ゐた。( 中略)ちょい と上の枝の股 には、代賭色 あぷ ら ぎ はんし ん まき に 脂 切った蛇が一匹、半身 は柳 に巻っいたな ずれの作品 も破棄すべ きものを好事家が収集 し り、半身は空 中にのた くってゐ る。( 十) 外ではな く、優雅 な隠棲生活 を平穏 に送 る事 を つ ま り、中国 白話小説 「白娘子永鎮雷峯塔」の 可能 に した潤沢な経済生活 を羨んでいる。 た ものだそ うである。宋代のこの詩人の事績 は、 日本 にも遍 く知 られていた訣で芥川龍之介 も例 わた し 舞台である雷峯塔 の 目撃直前 に現実の蛇 を生の お t )や 姿で実見す るとい う舞台設定である。そ してそ かゆ の気持 ちを「 私 は背 中が痔いや うな気が した。勿 私 に しても箱根 あた り-、母屋が一軒に物 とう 置が一軒一書斎 、寝室、女中部屋等、すっか ひとり り揃ったのを建てて貰った上、書生一人、女 論 さ う云ふ心 もちは、愉快 な もので も何で もな 中一人、下男二人使って好 ければ、林処士の い。」( 十)とい うよ うに吐露 してい る。 真似 な どはむづか しくもない。水辺の梅花 に げ な ん ふ た り わけ 西湖 の南岸 の雷峯塔 に向かい合 い、対になっ 鶴 を舞 はせ るの も、鶴 さ-承知すれば訣無 し て保倣塔 が奪 えてい る。崩壊 して跡形 もな くな である。( 十一) った雷峯塔 に比 して こち らは、現在 も再建 なが 千年昔の伝説の隠棲生活 に毒づいたのには、 らも存在 してい る。保倣塔 については、芥川龍 芥川龍之介の方 に其れな りの事情があったか ら 之介 の実見の記憶 は、唆味な ものであった よ う である。養子の身で筆一本で多 くの扶養家族 を だ。帰宅後の絵図で、それ を確認 して図式的な 養 う事 を宿命付 け られた、 自己の人生の前途 を 説明を してい るか らである。「 西湖全図によると ほ うせ き ざん き や しや 思い計 ったか らである。我孫子住まいの志賀直 ほ しゆくたふ 哉 を訪 問 して、創作の行 き詰ま りを訴 えた芥川 宝石 山には、華奪な保倣 塔 の姿 も見える。 この ほそ ぼ そ よ うす ら うなふ 塔 が細細 と突 き立った容子 は、老袖 の如 き雷峯 龍之介 に親 の財産で優雅 な田舎暮 らしを楽 しむ 塔 に比す ると、正 に古人の云った通 り、美人の 志賀直哉 は、創作活動の休止 を助言 してい る。 如 きものがあるか も知れ ない。 」( 十一) 。 この一 「さ ういふ結構な御身分ではないか ら」(「 沓掛 に 文 は帰国後 に田端の 自宅で末代の最古の西湖全 て一芥 川 君のこと-」 )とい うのが、その時の芥 -9- 芥川龍之介 「 支那済記 」 研究 ( 下) 北寺 ( 「 一名、報講寺。呉の孫権がたてたという九 そ んけ ん 層の塔がある。」) は、三国時代 の呉の創設者孫堅 川龍 之介 の返事であった。 西湖 の孤島か ら再び画舷 に乗 り対岸 に渡 ろ う せい れいけう としてす ると支那 の女学生が、大勢西冷橋 に向 の呉夫人の寄進 に よ り始まる とい う。呉夫人の かって歩 いて行 くのに遭遇す る。 孤 山のあ る西 長男諒嘉 の後 を継 いで呉王 となった弟 の譲握の 湖の孤 島か ら対岸 に向か う彼 女達 は、黒 と白の りうじ よ 制服 を着用 して柳架の舞 う中を歩 んで行 く。 時代であ る。芥川龍之介が九層 の北寺か ら眺望 ず い こ うと う した瑞光塔 も孫権 が、創設 した普済禅 院 ( 瑞光 服の晩春風景の清麗 な寸描 で ある。 りうじ よ か あひだ 岸 には柳架の飛び交ふ 間 に、白い着物-黒 通 玄寺 と称 した、現在 は報恩寺 と呼ばれ ている のスカア トをはいた、支那 の女学生 が二三十 と説明 され ている。 吉 田精一脚注の報講寺の方 寺)の跡 であ ると言 う。北寺に就 いては、当初は せ いれ い け う 人、ぞ ろぞろ西冷橋の方-歩いてゐ る。( 十一) が古いので こち らの脚注が誤 ってい る とい う事 こ うした絵画的 な場面の寸描 には、愛唱す る であろ うか。 どうt ,ん か う か く よ き あい 北寺 を後 に した二人 は、再び鹿馬 に乗 り蘇州 け んめう 市内を散策 して回 る。最初 に訪れたのは 「 玄妙 漢詩 の印象が介在 してい る。「 洞門高閣鯨拝謁た たうりいんい ん りうじ よと り。桃李陰陰 として柳架飛ぶ 」(「 奥 が深 く見 える あ いぜ ん ぐわん 観 」(「 蘇州城内の最繁華地にある道教の寺。」)であ 宮門 と高閣 とが、日将に暮れ なん として、寵然 と かす すで して霞んで見 え、桃李の花 は巳に落 ちて、緑葉 をぐら わた が陰陰 として小暗 く、架 のや うな柳 の花 は風 に る。 この寺の境 内で芥川龍之介 は、武芸 を演 じ 翻って飛び、春 も最早や暮れ よ うとす る。」) 。こ 世界 に思い を寄せ る。 この時の感慨 は、 日本人 くわ く き ふ じ る二人の男 の見世物 を見物 して一時 「 水新伝」の むく れ は王維 「郭 給仕 に酬 ゆ 」の 冒頭 箇 所 を 「 唐詩 の外国文化受容 と拒絶 の基本的原型 の思考 を示 選」か ら引用 したが、晩春 の風景の推移 を寸描す (「 現在の雲林寺。西湖の北方にある。呉王謬が建てた してい る。 につほん ば きん いったい 一体水音 許伝 と云ふ小説 は、 日本 に も馬琴の は つけんでん 八犬伝 (「 『 南総里見八犬伝』 。江戸時代の読本。滝 し んたう 「 岳高定高画作。 沢馬琴作。」)を始 め、神稲水済伝 ( とい う。」)訪 問で終 る。村 田孜郎先導 の短期杭州 一八二八年から明治にかけて発表。」 )とか本朝水 視察旅行 は上海帰着 で終 り、芥川龍 之介 は、数 建部綾足作。一七七三年発表。」)とか、い 子 許伝 (「 日間の上海 での保養 の後 に今度 は一週 間の蘇州 ろい ろ類作が現れ てゐる. が、水手 許伝 らしい 方面の旅 に出る。 同伴者 は、今度 は上海里見病 心 もちは、そのいづれ に も写 されてゐない。 院入院 中に芥川龍 之介 を囲んで連座 を楽 しんだ 上そき 俳人 島津 四十起 である。 ( 十四) るのに力添 え してい る可能性 はあ る。 上海 を基 点 としての杭州 の数 日間の短期滞在 は、霊隠寺 ほん て う 支那 の 「 水耕伝 」が輸入 された時に、支那原型 の基本 的な要素の 日本化が無意識 に成 され てい 5 る。 この辺 の 「 水瀞伝 」に就 いての見解 は、同時 芥川龍 之介が俳 人 島津 四十起の先導 で蘇州 を 新小説 」大正十一年一月) 期執筆 「 神 々の微笑 」(「 視察 したのは、記録 に拠れ ば大正十年五月八 日 で よ り鮮 明に論理 的、思想 的な対話形式で語 っ であ る。上海の宿舎 で寝過 ご した為 に夕方蘇州 ている。「 神 々の微笑 」の主題 に就いては、遠藤 し ま だ たい ど う 駅 に到着 、出迎 えの島 田太堂 ( 「 島田数雄。「 上海 日 周作が以下の如 くに要約 してい る。 「 いかなる外 報」 主筆。」)は、三度迎 えの為 に蘇州駅 に出向いた。 国の宗教 も思想 もそ こ-移植すれ ばその根 が腐 翌 日、芥川龍之介 は島津 四十起の案 内で駿馬 に り、外形 だ けはた しかに昔のままだが、実は似 乗 って北寺の塔 に登 り蘇州 市 内を一望す る経験 而非な るものに変 わって しま う日本の精神 的風 をす る。 この九層 の塔 の上か ら市 内の反対側 、 」 ( 「 『 神 々の微笑』の意 土を指摘 しているこ とだ。 蘇州駅 の近 くの瑞光寺の古塔 を遠 望 して、眼下 味」日本近代文学大系月報) 。芥川龍之介が、「 神々 に沈んだ蘇州の街並み を見下 ろす。 九層 の北寺 の微笑」の主題 を何処か ら得たか、今 日では見当 るたく はつ いてい る。ハイネ 「 流請 の神 々」の主題 をア の面前 で蛙馬 に乗 った芥川龍 之介 の写真 は、広 く知 られ ているが、撮影者 は無論 島津 四十起 で ナ トー ル ・フ ラ ン ス 作品 を介在 に、あるいは あろ う。 ハー ンの著述 によ り発想 を得 たのである。支那 -1 0- 琉 球 大学教 育学部紀要 第7 8 集 の「 水併伝」の原型の一体何が、 日本渡来時に喪 その後の国民党 と共産党の抗争をさらには、後 失 したか。芥川龍之介は端的に一種の超道徳思 者による支那全土の統一を不気味な程に予言 し 想であると断言 している。 たし かぶし よう 確 武 松 の言葉だった と思ふが、豪傑の士 はう く わ の愛す るものは、放火殺人だ と云ふのがある。 ている。国民党の蒋介石は国民党内の内部抗争 で繰 り返 して下野 している、国民党政権が民主 主義政権であった事の証である。 これに反 して が、 これは厳密 に云-ば、放火殺人を愛すべ 中国共産党の毛沢東は、遵義での中共政治局拡 くんば、豪傑たるべ Lと云ふのである。いや、 て いねい も う一層丁寧に云-ば、既 に豪傑の士たる以 くく 上、区区たる放火殺人の如 きは、問題 にな ら 大会議で政権の権力 を手に して後再び政権 中枢 か ら離れ る事はなかった。 かう べ めぐ 英雄 頭 を回 らせば、即ち神仙 (「出典未詳 」) ぬ と云ふのである。( 十四) 隣国支那に関す る情報、渡航の 日本人は数多 さんごくしえんぎ いた し「 三国志」 ( 「 三国志演義」 )「 水瀞伝」を愛読 と云ふ言葉がある。神仙は勿論悪人でもなけ ひがん れば、同時に又善人でもない。善悪の彼岸に たなび 棚引いた、霞ばか り食ふ人間である。( 十四) した 日本人 も数知れなかった。戦前の 日本人の これな どは、人民中国建国後に自国民を粛清 支那に関する情報が、今 日の 日本 に比 して貧弱 と人民裁判の階級闘争で平時において七千万人 であった とは思えない。 しか し、 「 水音 許伝 」を介 殺害 し、政権 を維持 した毛沢東の出現を予言 し しての芥川龍之介の理解 に及ぶ者は存在 しなか ている。数 ヶ月の病身を押 しての視察旅行であ った。広範囲の 日本人が、一面的な支那蔑視の りなが ら芥川龍之介は、 自家薬龍 中 物 とした じ か や くろ うちゆうのもの 感情 を脱 して支那人の本質に就いての理解 を共 「 水耕伝」の知識により支那の現実をそ 「 三国志」 有す る事が出来た ら戦前の 日本人の対支那政策 の誤 りはなかった。 「 水粁伝」の世界が 日本に輸 の未来を含んで圧倒的な正確 さで予言 している。 かう べ めぐ 「 英雄 頭 を回 らせば、即ち神仙」に就いて、最 入 された瞬間 「 水済伝」の 日本化が成 されて しま 初私は芥川龍之介愛唱漢詩の一節 「 変 らざる者 い、 日本人は「 水軒伝」が内包 していた支那世界 よりして之を観れば」(註 8) (「 英雄興亡のはかな さ の本質 を見失 ったのである。戦中 「 南京国民政 を歎 じた蘇輪の名文 『前赤壁賦』に 『自共変者而観之 府」の中枢 にいた要人、周仏海、陳公博、胡欄成 則天地合不能以一瞬、自其不変者而観之則物与我皆無 等 ら皆、 日本長期滞在 を有 して支那人の本質 を 尽也』とある。本所両国)を変形 させた言い回 し 見失 った連中である。 日本の陸軍士官学校で学 か と推測 した。念の為にネ ッ ト検索 してみた ら、 こう て いけ ん これは蘇輪の弟子である黄庭堅の「 絶句」である び勝者 となった蒋介石 もその一人であったか も 知れない。中国共産党の内部でも芥川龍之介の として紹介 してある。「 半竿春水-蓑煙/抱月懐 言 う超道徳思想 において遅れ を取った支那人は、 中枕斗眠/説輿時人休間我/英雄回首即神仙 」 は ん かん りふ ( 「 半竿の春水-蓑 の煙/月 を懐 中に抱 きて斗 悉 く党内粛清の波の中で消えて行 った。 いち に ん 天下は一人の天下にあ らず と云ふが、 さう こ んく ん 云ふ事を云ふ連 中は、唯昏君 (「りっばでない君 いち に ん 主。」 )一人の天下にあ らず と云ふのに過 ぎな はら い。実は皆月 土の中では、昏君一人の天下の代 せ つ よ じ じん に枕 して眠 る/説輿す時人我に間ふを休せ よ/ 英雄頭 を回 らせば、即ち神仙」 )(証 9) 蘇州市内の繁華街、玄妙観 を盤馬でめぐって みた時の感想 を芥川龍之介は、率直に記述 して りに彼等即ち豪傑一人の天下に しよ うと云ふ いる。上海 に比べて全てが沈滞 して、若い女達 のである。( 十四) の振 る舞いも何か俺 しさがあ り活気が感 じられ 村松梢風 「 中国の民情や国情に対す る洞察が 無い とか、思想的なものが無い とか言ふのは無 ない。 わ たし く わ ん の ん まう 私 は昔 ピエル ・ロティが、浅草の観 音 に詣 理で、大体、彼は趣味家であって思想家ではな でた時 も、こんな気が したのに違ひない と思 」と言 うのが、「 支那併記」に対す る批判であ い。 った。( 十四) る。 しか し、半生を支那世界に投入 した村松梢 蘇州の繁華街 を肌で感 じての芥川龍之介の体 風は支那の末梢的な現象 を書 き続 けただけで本 験は、その後の支那の動乱 とそれに巻き込まれ 質 を掴 めなかった。芥川龍之介の この洞察は、 て国家 と民族の滅亡寸前まで走 り続けた 日本の ー11- 芥川 龍之介 「 支那瀞記 」研 究 ( 下) 運命 を暗示 してい るよ うであ る。 後年 、竹 山道 を保ち人心を感化するものとして尊重した。」)、吉田 雄 は 日本 軍 占領 下の北京 の公 園で同年輩 の 中国 甚 しいか 精 一脚 注 は 「 礼楽 」には脚 注 を付す も 「 人が、周 囲の視線 を意 に介す る事 な く子供 の世 な、礼楽 の衰-た るや 。 」全体 に対す る説 明は、 話 に没頭 してい る姿 に不信 の念 を抱 いたが、敗 れ いが く る自己を見出す事 になる。 そ して 自分 のそ の姿 無 い。 これ は 「 礼楽」に付帯 して東京生 まれ の芥 あや 川龍之介 が無意識 に発 した言葉 の文 であるC つ ぷんび上う 孔子廟をい う.」) 読 ま りは、江南第- の文 廟 (「 だじやれ 論語」に残 され た 問 を意識 した駄酒 落 で あ る。 「 を怪討 な視線 で見守 る一人 の進駐 軍兵 士の視線 孔子の言辞 の言い回 しを我流 に言い直 したので を感 じるが、米軍将校 の視線 は数年 前 に北京 の ある。例 えば、「 子 日、甚臭吾衰也。久夫吾不復 は な は 子 日は く、 甚 だ しいかな、吾が 夢 見周公 。」 (「 また し ゆう こう 衰-た るや。久 しいかな、吾復夢 に 周 公 を見 ざ じ ゆ つじ 」)といった孔子 の嘆 きの言辞 (「 論語 」述而 るや。 戦後彼 は衰退 、混乱 の 日本 にあって鎌 倉の海 で 周 囲の全 てを没却 して子供 の世話 に没却 してい 公園で 中国人親子 に注いだ 自分の怪許 な表情 と 重な る。 蘇州 市 内観光 の一 日(「 大正十年 五月九 日」)、 夕方芥川龍之介 は島津 四十起 の先 導 で孔子廟 を 第七)を文意 を変形 させ た訣 である。 てんbんづ 名 高 い天文図 ( 「 十二支に配 した星座の図」)や きざ 支那全 図の石 に刻 まれたの も此処 にあ るが、 うす あ か ひ め ん た だ よ あた りに 漂 った薄 明 りでは、碑面 もはっ き り 禦 るo荒廃 した孔子廟 に近づ くにつれ て、鈍 万古の気持 ちにな った と言 ってい る。 さ いこ ん 此処 は明治七年 に再建 され た とは云ふ もの そう はんちゆ うえん はじ かう なん ぶん の、宗の名 臣汚 仲 滝 が創 めた、江南第- の文 ぺう 廟 であ る。( 十五) とは見 る事 が出来 ない。( 十五) 汚仲滝 は、 日本 では水道橋駅前水 戸徳川 家 の 「 地理図碑 ( 全 国地 宋代 三大石刻 (「 天文 図碑 」 ′ いこつ 「 平江図碑 ( 蘇州 の市街 図)」)は、蘇州 の孔子 図)」 庭 園や 岡 山池 田藩 の庭 園 「 後 楽 園」の命名者 と し 廟 大成殿 に会 ったが、現在 は蘇州博物館 に保存 て知 られ てい る。 「 天 下 の楽 しみ に後れ て楽 し されてい るそ うで ある。 む。 」( 「 古文真 宝 」 「 文章規範 」 )等 の流布本 で広 く 6 日本 人 に知 られ てい る苑仲掩創設 の孔子廟 の荒 廃 が、胸 を打つ のは公園 と して整備 され て広 く 蘇州到着 二 日後 (「 大正十年五月十 日」 )に二人 市民に親 しまれ てい る東京 、岡 山の二つ の 「 後楽 は、蘇州 郊外天平 山 白雲寺 と霊巌 山霊巌 寺 を訪 こそ かんざんじ れ る。 途 中で蘇州郊外 ( 姑蘇城外)の寒 山寺 も訪 こ うが い てん ぺ い ざん は く う ん じ 園」と比較 したか らであ る。芥川龍 之介 は、今 関 とし まろ 」(「 議論 寿麿 「 体言尭是人家 国。我亦書生好感 時 。 れ い がん ざんれ い がん じ ねてい る。 そ して翌 日は、蘇州 を離れ て鎮江に 向か う。 霊巌 ( 岩)山霊厳寺 は、蘇州市内か ら十 したって しょうがないよ。結局人の国 じゃないか。私 も勉強 している身の うえだ。この世の中に感慨をいだ 五 キ ロで二人 は、昨 日同様 に駿馬 に乗 って蘇州 くのもむ りはなかろう」)の漢詩 を想 起 したの は、 市内を出発す る。 天 平、霊巌 の二の山は市 内か 支那視 察旅行 に出 る直前 に今 関寿麿 「 東 洋画論 らほぼ等距離 にあ る登撃可能 な高 さの峯である 改造 」大正 集成」( 上下)を典拠 に して 「 秋 山図 」(「 事が、芥川龍 之介 の筆 で理解 され る。 あいにく 生憎 空 は曇 っ て ゐ た が 、 も し晴 れ て ゐた れいがん てん とす れ ば 、彼 等 の 窓 の 向 うに は、霊 厳 、天 ぺい せいがん ゑが 平 の青 山が 、描 い たや うに見 えた事 で あ ら 十年一月)を執筆 した記憶 が、蘇 ったか らで あ る。 花仲滝 が造 った 「 江南第- の文廟 」の荒廃 に胸 を 痛 め、同時 に隆盛 を極 めた孔子廟 大成殿 の荒涼 十六) う。 ・・・ ・・・( た る状況 に蒼荘 万古 の懐 旧の思 い を抱 いて胸 中 は、複雑 に屈折 してい る。 孔子廟 大成殿 に行 く 天平 山 白雲寺 を見学途 中で芥川龍之介 は、山 ために幾 ば くかの見料 を支払 わな くて はな らな の途 中の事で過激 な排 日の落書 きを 目撃 して こ い。僅 かな見料 を受 け取 り、芥川龍 之介等 を案 ほのじ ろ 内す る貧 しい母娘 の先導 で毒 だみ の花 の灰 白い れ を手帳 に控 えてい る。 同伴 の島津 四十起 は、 意 に介せず に俳句 の創 作 に苦吟 の様子 である。 そ う うん は も っ と 「(尤 も島津氏 は平然 と、層雲派 の俳句 を題 して 夕湿 りの敷石 を踏 んで境 内に入 って行 き、「 甚し れいがく 」( 十五)と嘆息す る。 いかな、礼楽の衰- たるや 。 れいがく 礼儀 と音楽。中国で、古くから社会の秩序 「 礼楽 」(「 ゐた。)」。これ な どは、旅行者 の新鮮 な視線 で支 那 の現状 を認識す る者 と定住者 と して支那 の現 -1 2- 琉球大学教育学部紀要 第78集 実 に向い あ う者 との対比 が、鮮や かで あ る。排 越 しでひ と時 を過 ご したのは 「 西施洞 」の近 くだ 日、侮 蔑 の罵声 の文言 に囲 まれ て俳 句 に没頭す った訣 で あ る。 はんれ い る精神 で なけれ ば、支那 での 日常生活 を過 ごせ 「 把 轟 (「 越王勾践につかえた謀臣。楚の人。」)の幽 ない とい う事 で あ る。 支那で長期 生活 す る 日本 閉 され た石 室 」 も支那 の事跡 に対す る関心 は、 人 には、 ある種 の類型 が ある。今 日で言 えば、 二千五 百年 以前 の事 なので一般 日本人 には無縁 米 国欧州 で長期 生活 を送 る 日本人 に類型 が見 ら で あ り、芥川龍 之介 も例外 ではない。蒋轟 が広 れ るの と同 じで あ る。 後年 自己の生活 革命 の為 く 日本 人 に知 られ てい るのは、南北朝動乱期 に に何 処 か に逃 亡 しな けれ ば と芥川龍 之介 は書 い 」(「 歯 車 」五)。 この晩年 の文言 には、 なかっ た。 鎌倉幕府 打倒 を 目指 して失敗 、隠岐 に配流 され ごだいご る失意 の後醍醐天 皇 を励 ます為 に在所 の桜 の木 こじまたかのり に児 島高徳 が、志 を述べ た詩 で有名 で あ る。「 天、 こう せん はんれ い 勾践 を空 し うす るこ となかれ 、時 に苑姦 な きに 数 ヶ月 の支那生活 に耐 え られ なか った典型 的 日 )は、戦前 の国定教科書記 Lもあ らず」(「 太平記 」 本人 、書斎人芥川龍 之介 の 自噺 が あ る。 芥川 は 載事項 で誰 で も知 ってい る話 であ る。 「 マ ドリッ ド-、リオ- 、サマル カ ン ド- 、 たが 、 あ ざわ ら わけ ゆ 一 僕 はか う云ふ僕 の夢 を切実 はない訣 には行 か せ い し 「 上海辞 記」の案 内者 で ある村 田孜郎 の支那社会 だん きん だい くわんあきゆ う し 第一西施 の弾琴 台 とか、名 高い館 娃 宮地 と ろく か云ふ の は、裸 の岩 が散在 した、草 も禄 にな む 村 で の生活振 りを賞賛 していた。 らた 田君 が突然 立 ち上 りなが ら 「 八月十五 、 げつ くわ うめい せ いひ て う ぷかは 月 光 明 」 と、西皮調 の武家披 の唄 を うたひ始 も っと めたのには一驚 した.尤 もこの位器 用 でなけ き みほど -うり つう げう れ ば、君程複雑 な支那生活 の表裏 に通 暁す る い 山頂 で あ る。( 十八) ほうし ん 呉王夫差 を伝説 、伝承 の時代 に 「 棒心」( 両手 を 胸 にあて る)とい う姿態 、眉 を肇 めるその姿 の優 雅 で華麗 な事 で呉国 を滅 亡 させ た西施 の極 限の 事 は 出来 な い か も知 れ な い。(「 上海 瀞 記 」十 美貌 は、跡 形 もなか った とい う事で ある。 霊厳 六) 山の 中腹 にあ る 「 西施洞」では、避暑 中の西施 は たいこ 眼 下の太湖 を眺望 して遥 か故郷 を偲 んだ伝承 が 天 平 山登琴 の後 に三つ 目の 目的地 で あ る霊厳 山登 山 を成す。 霊厳 山は言 うまで もな く紀 元前 あ るそ うだ。数 千年 以前 の支那 の伝承 を十分 に の呉越 抗争 の舞台 で あ り、- 日本人 と しての芥 踏 ま えて芥川龍 之介 は、以下の如 くに述懐す る 川龍 之介 の場合 も例外 ではない。 のであ る。 は る か たいこ それ に天気 で も好 かったな ら、進 に太湖 の せ い し だ ん きん 霊巌 山は伝説 に もせ よ、西施 弾琴 の岩 もあ は んれ い い しむ ろ すゐ くわ う れ ば、苑轟 の幽 閉 され た石 室 もあ る。 西施や 水 光 か何 か 、 見晴 らす 事 が 出来た の だ が 、 あいにくけふ もこ う んえん 生憎今 日は どち らを見て も唯模糊 た る雲煙 が、 ごゑ つ 苑轟 は幼少 の時 に、呉越 軍談 を愛読 した以来 、 いまだ ひ い き ぜ ひ 未 に私 の魚層役者 だ か ら、是非 さ う云ふ 古 立 ち迷 っ てゐ るばか りである。( 十八) 蹟 を見て置 きたい。( 十七) 呉 国 を滅 亡 させ た西施 の美 しさは、二千数 百 霊巌 山は呉王夫差 が美女西施 の為 に建 てた離 年 を閲 した今 とな って はす でにその片鱗 も失 わ 宮 、祐 経 営のあった跡 で あ る.西施 は、援 兵晶 が よ こうひでん とうじ )に記録 が あ るの に反 して、歴 「 唐 書」(「 后妃伝 」 れ て しま った。裸 の岩 だ らけの 山頂 で芥川龍 之 史文献 「 史記 」には記載 が無 いそ うで あ る。 西施 介 は、途方 に暮れ てい る。 しか し、呉国滅 亡の りたいはく 千年 後 に西施 の事跡 を 目撃 した李太 白に は 「 官 弾琴 の岩 (「 西施は西暦前五世紀後半、中国春秋時代 『 唐詩選』七、『 李白越中懐 女如花満春殿 」(註 lo) (「 の美女。越王勾践が呉王夫差をたおすための道具とさ 古』の一節。宮中につかえる女たちはまるで花のよう れた。その西施の琴をひいたとい う岩。」)も伝承 で あ にこの館姓にみちみちている。」)とい う七言絶句 が る。 西施 の伝 承 で今 日まで人 口に胎 衆 され た故 あ る。 霊厳 山霊厳 寺 で西施 の事跡 を 目前 に して ひそ なら 事 は、 「 西施 の聾 み に倣 う」(「 饗み に効 う」 )で あ で詩想 を育んだ芥川龍 之介 は、惨惰 た 「 唐詩選 」 る。 霊巌 山の頂 上 にあ る霊厳 寺か ら下 山途 中に る境 地 で あ る。 これ に反 して、 「 層雲派 」(「 明治 そ う うん は 西施 が夏 の暑 さを避 け、避 暑 に使 った洞窟 「 西 四十四年、荻原井泉水が 『 層雲』 という雑誌を出し、 観音洞 」 )が あ るそ うであ る。この 日の夕 施 洞 」(「 それによった無季題 ・新傾向の俳句の一派。」)の俳 人 と んち ゃく 島津 四十起 は、 「 私 に頓 着 な く、悠悠 と手帳 を 方 、二人 が雨 に降 り込 め られ て冷気 の 中で喧嘩 -1 3- 芥川龍之介 「 支那済記 」研究 ( 下) けふ 拡げなが ら、今 日得た俳句 を書 きつ けてゐ る。 」 ぅである。 さらに 庵 森簸芥 の寒 山寺」(「 楓橋夜 ( 十八)と対照的である。霊巌 山霊巌寺 に登撃 し、 泊 」)とある寒 山寺が、禅僧寒 山 と拾得の縁の寺 下山途 中で雨に降込め られ て霊厳 山の中腹 で同 として 日本人に馴染みがあるか らである。 こ き う 邸 である。 翌 日は、鎮江に向かって蘇州 を離れ て 虎 も荒廃 を極 めて ゐたつ け。 あす こは ごわうかふり上 こ んにち ちり づか 呉王閣闇の墓だ さ うだが、今 日では全然塵塚 いるのであるか ら、霊巌 寺登肇後 に蘇州市内近 の山だね。( 十九) 伴の島津 四十起 と脱み合 ったのは夕方 四時過 ぎ めいさつうんがんじ 虎邸 は、現在は六朝時代 の名 刺 雲岩寺 とその 郊の虎丘、寒 山寺 を見学 した とは思 えない。天 平山、霊厳 山登肇前 に途 中で二 ヶ所 を短時間見 「 支那済記 」の記述が多様 な方法 を駆使 し、表現 塔の位置す るところだそ うである。 開聞の時代 ごししよ はくひ に呉は、敵国楚の亡命者伍子背 と伯密の二人を せい 迎 える。 「 孫子」( 十三篇)は、斉か らの亡命者で そんぷ ある孫武 が伍子背 に提 出 した兵法書である。呉 上の工夫が見 られ るのは、芥川龍 之介 の才知 の の開聞は、越王句践 を攻撃 して戦病死す る。太 表れである。これ は 「 何何併記 と証す るもの程 、 子夫差が父の開聞を埋葬 した地が、虎邦 である。 凡庸 を極 め た読 み 物 は 少 な い 。」(「 紀行文論 開聞の墓の入 り口に剣池 と言 う池があ り、その ( 仮)」 大正十年以後)とい う本人の 自覚 の上に成 前 に千人石 とい う一枚岩があるそ うだ。剣池は、 され た表現上 の工夫で あ る。 ちなみ に 「 江南済 剣 を愛 した開聞の為 に三千の剣 を倍葬 した事か 物 したのであろ う。寒 山寺 と虎丘 に就 いての記 述は、問答体 ( 「 「 主人」 「 客」 」)で成 され てい る。 記」( 二十)で取 られ た 「 主人 」と「 客」の問答体 の ら、千人岩 は墓の築造 に関係 した者千人を盗掘 新 表現方法は、弟子 の堀辰雄 「 雪の上の足跡 」(「 防止の為 に岩 の上で抹殺 した事が名 の由来だそ け ん うである。しか し、芥川龍之介は虎邸 と同 じく剣 ち 池に対 して も失望 を隠 さない。 けんち 殊 に剣池 なぞ と来た 日には、池 と云ふ より 潮」 昭和二十一年三月)に受 け継 がれ ている。 蘇州城外寒 山寺は、 日本人 に極 めて馴染みの 深い場所 である。 しか し、寒 山寺が俗化 してい たう てい て 日本人の期待 を裏切 る事 に就いて、「 到底月落 も水たま りだね。( 十九) こそ かんざんじ 「 姑蘇城外 の寒 山寺は ?」 「 まあ、幾分で も取 ち烏暗 く( 張継の有名な詩 「 楓橋夜泊」の一節。 「 月落 な ぜ 鐘声到 客船 。 )どころの騒 ぎぢや ない。」( 十九)と り柄 のあるのは、その取 り柄 のない所だね。何故 に つ ぽん な じみ かんざんじ と云-ば寒 山寺は、一番 日本人には馴染の深い 芥川龍之介は、率直に失望 を隠そ うとしていな 寺だ。 」( 十九) 。これ に就 いては、 芥川龍之介は、 烏噂霜満天 、江楓 漁火 対愁 眠 姑 蘇城 外寒 山寺 夜半 」 ちようけ い ふ うきや う や は く か うそ じゆんぶ て い とくぜ ん い。 張 継 「 楓 橋 夜 泊 」が、古 くか ら 日本人 に好 明治時代 にな って 「 江蘇 の巡撫程徳全 」(「 清 末の まれ愛唱 されてきた事に就 いては、幾つかの理 蘇州巡撫使。宣統三年〔 一九十一〕寒 山寺の大修理 をお 由がある。 この辺 の事情 に就 いては、芥川龍 之 こな った。 巡撫 は明 ・清 の地方行 政長官。 省 を治 め 介は以下のよ うに述べてい る。 た。」)が、 日本人観光客 を呼び込む為に、あるい な ぜ かん ざ ん じ につ ぼ ん は来訪す る 日本人の期待に応 える為に重建 した 何故 と云- ば寒 山寺 は 、一番 日本 人 には な じみ か うな ん 寒 山寺は、来訪の 日本人 を悉 く失望 させ る とし 馴染 の深 い寺だ。誰で も江南-遊んだ ものは、 かな ら寸■ た う しせ ん た。 必 寒 山寺-見物 に出か ける。唐詩選 を知 ら らね。( 十九)(註 11) し ゆろう こ と ご と く べにから 本堂 と云はず、鐘楼 と云はず、 悉 紅殻 を たう てい 塗 り立てた、 俗悪恐 るべき建物だか ら、到底月 この張継 の-篇 の詩が、古来 日本人 に愛唱 さ 落 ち烏噂 くどころの騒 ぎぢや ない。( 十九) ちや うけい ない連 中で も、張 継 の詩 だけは知ってゐるか れたのには旅愁 の詩体が何 よ りも好 まれたか ら 千年以上に亙 り日本人の旅愁 の感性 を育んで である。旅 の途 中で船 中にま どろむ と蘇州城外 来た寒 山寺が、近代 に支那人の感覚によ り原色 の寒 山寺の鐘 を夜半に聞 くとい う設定が、 日本 の色彩で再建 されて存在す る事-の素朴な違和 人の旅愁 に訴 えるか らである。 日本 で広範囲に 感 である。 しか し、 これに就 いては程徳全の行 読まれた漢詩の選集 「 三体詩 」 「 唐詩選 」で前者 は 為 を笑 う事 は出来ない。 日本人 も欧州人の期待 鎌倉時代 に後者 は、江戸時代 に広 く読 まれたそ に応 えるべ く、古典的な富士 山や芸者 の国を意 うだが 「 楓橋夜泊」は、両方 に収録 され ているそ 識的に演出 してい る とい うのが、芥川龍之介の -1 4- 琉 球 大学 教育学部紀 要 第7 8 集 ぐわ 考 えである。 ん とすo 画 とすれ ば或 は室 (「 ふるく霊 」 ) o 実景 を見 るは悪 しか らず。舟 あ り。 徐 に橋 く わ ん さ う ち ゅ う 下 よ り来 る。載す る物 を見れ ば 棺 な り。槍 中 いちらう あう の一老姐 (「 一人の老婆」)、線香 に火 を とも しっ そしう りう ゑん 「( 前文省略)蘇州 には名 高い庭 がある。留園 せ いゑ ん だ とか、西園だ とか。- 」( 二十) 留園、西園は解説 に拠れ ば、元来 同 じ庭 園で た む あったが、時代 を閲 して現在 の よ うになった と つ、棺前 に手向けん とす るを見 る。( 二十) され てい る。留園は規模 が、巨大であ る らしく 「 江南併記」( 二十)に手帳か ら転載 された蘇州 しらか ペ や は た て芥川龍之介 は、「白壁 の八幡知 らず 」(「 千葉県市 の情景文が、三箇所転載 されている。芥川龍之 川市の法漸寺の南に薮があり、そこに入れば再び出る 介流 「自然 と人生 」 であるが漢文書下 しの美文 ことができぬとかいわれたことに由来 し、入ると出口 は、彼 を最後 とす るだろ う。西条八十作詞 「 蘇州 がわからずまようこと。」)である と言 ってい る。蘇 江南瀞記 」 夜 曲」(証 12)は、あるいは芥川龍之介 「 州郊外 の寒 山寺や虎邸 の途 中にあ るので芥川龍 ( 二十)の三箇所の美文か ら発想 されてい るか も 之介 は駿馬で気楽 に立寄った と思われ る。 い さ さ か 屋敷全体 の広いのには、 柳 妙 な心 もちに 知れ ない。芥川龍 之介 は、支那視察旅行 の一年 しらか ペ 中央文学」大正九年一月)を発 前に「 尾生の信 」(「 や は た なった。つ ま り白壁 の八幡知 らず だね、 どち らうか ら-行って も同 じや うに、廊下や座敷 が続 い 表 してい る。この既発表の作品を骨組みに、「 昼」 てゐた。( 二十) を漢文直訳体 の三部構成 で叙述 して見せ たので 「 夕方 」 「 夜 」の時間の流れで眺望 した蘇州 の川辺 ある。芥川龍 之介 は、 この三つの叙述 を控 えの 留 園 散 策 の 経 験 を この よ うに綴 っ た 後 、 き んぺいばい こうろうむ いっけん 「 金瓶梅や紅楼夢 を読むには、現在一見の価値 が 手帳か ら引き写 した とい う触れ込みであるが、 」とい う感想 が続 く。 「 金瓶梅 」(「 明 あ るや うだ。 手帳記載 の備 忘録 を参考 に苦吟の創作である事 せい もんけい はんきんれん 代の長編小説。作者未詳。富豪西門慶に毒婦津金蓮を 新小説 」 を窺 え させ る。 「 鏡 花全集 目録 開 口」(「 配 し、その家庭の淫乱を描く。」)「 紅楼夢 」(「 清朝の小 そう せ つ き ん かほう ざ よ く 説。曹雪芹の作とったえられる。貴族の子貫宝 玉を 大正十 四年五月)の よ うな この種 の漢詩 文 の雰 中心に十二人の美人 との情事をえがく。」)とい う二 が最後である。 囲気 を持つ 、書 き下 し文 は近代作家では中島敦 要 である とい う芥川龍之介 の見解 は、二つの作 蘇州 の紹介で芥川龍之介が、書 き残 してい ん し ゆさ ん き やくさ るのは 「客 桟」(「 旅館 」)と「 酒 楼」(「 居 酒 屋 」)の 品舞 台 として蘇州 の庭 園が何 らかの役割 を果た 江南湛記 」二十一) 0 二箇所 に就 いてである (「 した とい う事であろ うか。 「 客桟 」では支那少女の提供 を受 けるが、芥川 プヤオ いらない」)で 龍 之介 の返答 は無論 「 不要 !」(「 作 の支那小説 を理解す る為 には留園の探索が必 蘇州 の町並み を歩みなが ら芥川龍 之介 は、七 年 前 に吉 田弥生 を相手の喪失感 を埋 める為 に松 ある。同伴 の島津 四十起は、「 勿論相 当の酒豪 江 の堀端 の住 まいに時 を過 ご した事 を回顧 した 四年 八月)には、傷心の回復 を促す為 の代償行為 である。が、私 は 殆 飲 めない。 」 「 桶 の中を覗 ざうふ いて見 る と、紫 がかった臓肺 のや うな物 が、 こ んと ん 」( 二十一) 0 「 客 幾つ も揮沌 と投 げ こんである。 の意 味 あいがあった。 同 じ水 の街蘇州 を散策 し 桟 」では、一夜 を共 にす る支那少女の提供 が なが ら、傷心 を河辺 の借家で癒 した過去の感覚 あ り、 「 酒 楼」では、酒 の肴 には豚 の生の内臓 ほ とんど のか も知れ ない。「 松江印象記 」( 「 松 陽新報」大正 が蘇 った可能性 があ る。 しか し、今度 は愛 の対 を刺身代 わ りに食す る習慣 である。少女の提 象 を喪失 した悔恨 の情 ではな く、人妻 との抜 き 供 と生の臓物 を共 に芥川龍之介は、拒絶 して 差 しな らぬ問題 を抱 えての逃避行動 としてのそ い る。 -旅行者 である芥川龍之介 が、支那 の れ である。徳 富産花 「自然 と人生 」を愛読 した少 生活 に馴染 めなかった事 な どは、極論すれ ば 年 時代 に戻 り、蘇州紀行 の美文 を三つ掲 げてい この 「 客桟」と「 酒 楼」での二つの提供 を生理的 る。 に受 け入れ られ なかった事、それが支那生活 しゆん う ひ ひ に馴染 めなかった原 因 と言 える。言い換 えれ ラ オチ ユ ば、少女 の提供 は別 に して土地名産 「 老酒」を 一 春雨罪 罪 (「しきりにふるさま」)、両岸 の粉 たい しよくあざやか が 壁 、 苔 色 鮮 なるもの少 か らず。水上苦浮ぶ りう でう ほと んど 事三四。橋畔の柳条 (「 柳の枝」)、 殆 水 に及 ぼ 噂みかつ豚 の塩漬 けの臓物 を食す るを楽 しみ -1 5- 芥川龍之介 「 支那併記 」研究 ( 下) とす る島津四十起に とって支那生活は、苦痛 のである。この辺の感覚でも平均的な 日本人が、 ではな く享楽すべき土地である。先 に「 上海辞 外地で 日常生活 を送 る事の困難がある。深夜の 記 」で芥川 龍 之介 の先 導役 を果 た した村 田 しろう 孜郎は、東亜同文書院卒で支那社会 に溶 け込 せいひてう み、宴席で支那語の「 西皮調 ( 「 安徽省より出た劇 強行軍、 さらには貧弱な食事で揚子江か ら運河 の曲調。 調べ高くこころよい。京劇のもとになった。 ぷかは 「 未 詳 」)の唄 を うたひ 伴奏は胡弓。」)の武家披 ( している間の周辺の景色は、徹頭徹尾平凡な殺 の客になった芥川龍之介は、汽船の中で疲れ と 緊張か らしば しま どろむ事になる。汽船の航行 始 めた」( 「 上海湛 記」十六) 程 に土地 に馴染 ん 風景なそれである。運行 している運河は、 しか く っさく し晴の腸帝の掘削の結果 としてのそれである。 でいた。 汽船の床 に横にな りなが ら歴史的な重みを受け 止め旅愁に浸る努力 を続ける。つま り、先人の 紀行文 としての 「 支那瀞記」は、成功 を収めた。 一に当時において も並外れた支那古典 に精通 し 徳富蘇峰 「 支那漫遊記」のよ うな回顧的、憧憶的 た芥川龍之介の学識 による。村松梢風、伊藤桂 な運河航行記を紀行文 として残すべ く船 中で努 一が賞賛 した如 くに大阪毎 日新聞が芥川龍之介 力す る。支那の現実、偉大な運河の実態 を避け を支那視察旅行 に起用 した事は、成功である。 て浪漫的な記述で現実の支那の姿を覆 うべ く努 徳富蘇峰のよ うに古典世界に依拠 しなが ら聖人 力 を持続 させ る。歴史的な支那の遺構 に対 して の国の 自然を賞賛す るのではな く、芥川龍之介 尊敬、畏怖 を抱 くべ く腐心す る「 私」とこの種の には 「 北京 日記抄」で胡適が認 めた よ うに欧州文 一方的な思い入れ、憧憶 を客観的に否定す る「 案 学に就いての専門知識 を有 してお り、支那古典 内記」との対話 とい う設定で芥川龍之介は、階の 世界を育んだ現地に対す る冷静な判断がある。 腸帝の遺 した歴史的遺物に対す る畏敬の気持ち しか し、支那語 を解す る事な くさらに地酒 を噂 を逐次破壊 して行 く。 む事な く、土地の名産である豚の蔵物 を生で食 歴史的叙情に耽 るべ く努力を傾 ける「 私」、「 支 するには、芥川龍之介の食欲 は 日本人的である。 全体 を蘇峰 「 支那漫遊記」の如 く老大国 那湛記 」 つま りは、水が合わない とい う言葉で一言で片 支那に対す る尊敬、畏怖の筆で記述すべ く努力 付け られ るよ うに東京人である彼 には、支那の を傾 ける「 私」(「 芥川龍之介」 )の思いは以下のよ 衣食住は肌が合わなかったのである。 うなものである。「 ああ、腸帝はこの 堤 に、万株 やう りう いっ て い の楊柳 を植ゑ させた上、十里に一事を造 らせた い・ づこ と云ふ。堤は昔の堤である。が、腸帝は今何処に や うだ い 7 ばん しゆ あるか ?」 「 水 は今 も昔のや うに、悠悠 と南北に 芥川龍之介は、島津四十起先導で蘇州を離れ チ ンキヤン つつみ や うし う ずゐて う (「 大正十年五月十 日」)鎮 江 か ら揚州 に向か う。 たちまち ぐわかい 通 じてゐる。が、晴朝は夢のや うに、 忽 瓦解 し ずゐ いたのは早朝である。駅前の茶館 ( 「 料理屋 」)で く わし う 「 江蘇 即席 の朝飯 を済ませ た後 に鎮江か ら瓜州 ( て しまったではないか ?」 「 た とひ階は亡びても、 れい き わが 雲の如 き麗姫 と共に、この運河に舟を浮べた、我 ふう りうてんし 風流天使 (「 私の愛するあの風流な天子。腸帝をした 省の南のほうの町」)経 由、汽船で揚州 に向か う。 しんでいった。」) の栄華は、た と-ば壮大な虹の 汽船が航行す るのは、晴の腸帝が開通 させ た と や うに、歴史の空 を横切ってゐる。 」 ( 二十二) 蘇州の停車場か ら深夜列車で鏡江 に向かい、着 ちゃくわん い う例の大運河である。鎮江の停車場 に到着直 船中での 「 私」のこれ らの歴史的浪漫は、「 案内 後、茶店で急 ご しらえの朝食 を食 した経験 を以 記」の歴史的、客観的記述で悉 く否定 され る構造 下の如 くに記録 した。 である。悠久の支那の歴史に寄せ る「 私」の歴史 すだれ ぷ 又実際食って見た感 じも簾 魅 のや うな、 ゆ 浪漫の幻想 は、「 案内記」の客観的な記述で否定 ば され る。 「 私」 「 案内記」の対話で芥川龍之介は、 湯葉のや うな、要す るに二度 と食ふ気の しな す こぷる しろもの い、 頗 怪 しげな代物である。( 二十二) 自己の支那歴史に対す る浪漫的な気分は、事実 一体 どんな中華料理の一品を提供 されたのか、 の前に希薄にな らざるを得ない事を披露す る。 同伴の島津四十起が特に指名 して持 ってこさせ 自分には、徳富蘇峰の 「 支那漫遊記」は、書けな めいろうき い し書 く気持 ちが無い と言っている。 「 迷楼記」 た所 を見 ると彼が常時食 していた食べ慣れた も -1 6- 琉球大学教育学部紀要 第7 8 集 か いかき (「 唐初の小説とったえられる。」)「 開河記 」(「 迷楼記」 。 や うだい せいざ んいん 青 山隠 名月夜/ 玉人何処教吹斎』の一節。」) の一節 「 いんみづこう こう 隠水超超 」(「 青い山々は木がこんもりしていて、水は ともに爆帝のことを描いた伝奇的歴史小説。」)「 腸帝 えんし 艶史 」(「 羅漢中の作 とったえられる小説。」)等 か ら 満々とみなぎっている。」)〔註 14〕 である。千数百年 得 られ た知識 は、歴史的 には出鱈 目である。後 以前の唐 が全盛 の頃の揚州 の風景の印象 を捜 し 世 の歴 史浪漫 を厳然た る事実で否定 してい るの た訣 である。 川 は幅 も狭 けれ ば、水の色 も妙に黒ずんで 大正十年五月十一 日」)後、 である。揚州到着 (「 よ えんむし 二人 は塩務 署 (「 中華民国当時〔 後漢の武帝の時より〕 塩はかつての日本のたばこと同様に官営であり、その ゐ る。 まあ正直 に云って しま-ば、 これ を川 ど ぷ まさ し と称す るのは、清 と称す るの勝れ るのに若 か 塩務 取扱をする役所をい う。」)(註 13) に勤務す る 「 ない。( 二十三) た か す た きち 官 の高洲太吉」を訪 問 し、両人共々 自宅 に一泊 さ こじまかぢらう せ て貰 う事 になる。 上海 紡績 の小 島梶郎氏 (「 上 け、同一民族 同一言語 で生活 してきた 日本人 の は、上海滞在 時の芥川龍 之介 を、 海源記 」十九) 独 自な感覚が見 られ る。 中華社会は王朝交替 だ この辺 の感覚 に も有史以来 日本列島に住み続 島津 四十起共々 自宅 に招待 して、夕食 を御馳走 けで な く民族 そ の ものが入れ替 わ って い る。 した人物 である。小 島梶郎 と島津 四十起 の二人 木 々 と水 に満 ちた揚州 の水路の遊覧が、千数 百 は、異 国生活 での望郷 の念か ら庭 に咲 く貧弱 な 年以前 に喪失 した光景である事 に気付いていな 桜 を愛 で、い とお しむで 日本 を離れ て間のない いのである。揚州 の川辺 を経巡 りなが ら、芥川 芥川龍 之介 を許 しが らせ た。 龍 之介 は淀 んだ水 の悪臭 に閉 口 してい る。 長期 - め ぐ の支那生活者 た る他 の二人は、平然 としてい る。 老人のや うな、若 いや うな、背広 の御役人 や う しうゆ ゐ い っ にっ ぽん がはいって来た。 これ が揚州唯一 の 日本人、 ここに も現地生活 に溶 け込んだ 日本人 と-旅行 た か す た きち 塩務官の高洲太吉氏である。( 二十三) 者 の顕著 な違いが見 られ る。 りよくや うそん かくさい 高洲太吉が、勤務す る揚州 の塩務署 は、無人 しか し、水路が広 くな り緑 楊村 (「 庫西湖 〔 揚州 で人 の気配が感 じられ ない。現在 の役所勤 めの 郊外の湖〕畔の村。よいお茶がとれる。」)になる と雰 閑散 とした状況 を見て、芥川龍之介 は実作者 と 囲気 は一変す る。水量が多 くなるにつれ周 囲に して素朴 な感 嘆 を古代 の支那 の文人達 の生活 に 竹林 が見 えて、住 民の顔 も穏や かである。広い いっ そう 水路 を女達 を乗せ た も う一腰画肋が、痕跡 を残 お うや う し う 寄せ る。「 欧陽修 」(「 采の政治家 ・学者。唐宋八大家 の一人。」)「 蘇東 披 」(「 蘇拭。東坂は号。詩人 ・文章 官 と して錬腕 を振 るった。 これ程 の閑職 であれ して旋回す る。「 見送れ ば彼等の舟の跡 には、両 あし あ ひ だ み づ ぴ かり 岸 の塵 の静 な 間 に、薄 白い水 光 が残ってゐる。 にじふしけ う め い け つ の よ ぎ上くじんいづれの ところにかすゐせ うをしふ 『二十 四橋 明月夜。 玉 人 何 処 教 吹 斎 』一 私 ば、行政官 も兼務 出来 る とい う感想 である。海 は突然杜牧 の詩 が、必 Lも誇張ぢや ない事 を感 軍機 関学校教官 として長 時間の拘束 を受 けなが 二十 四)芥川龍 之介 は、杜牧 「 寄揚州韓 じた。」( ら執筆 に猛進 した過去の肉体的な苦痛 が蘇 った 緯判 官 」(「 揚 州 の韓 縛判官 に寄すJの七言絶句 のであ る。揚州 の街全体 も活気 を喪失 して閑散 えう てん 腰に銭十万貫 〔 一 た るものである。「 腰纏十万貫 (「 か ら第-句 を先 に引用 し、次いで第三句、第 四 にじふしけうめいげつのよ 句 を 引 用 した の で あ る。 「二十四橋 明月夜 。 貫は千文。一文はむかしの貨幣の最小単位〕をつけ 篭C A、 筒と 遠に 野貰鼠 て。」)、鶴 に騎 して揚州 に遊 んで も」は、神 田由 にあかるい月のかがやいた夜である。衝の音が聞えて 家。」)等 は詩作 に励み、酒 を楽 しみ政治家、行政 らつ わ ん と ぽく ようしゆう かならず かん しゃくはんが ん よ (「 この鹿西湖のおおくの橋 ぞ くげ ん くる。きれいな人が吹いているのであろう。一体どこ 美子脚注 に拠れ ば俗諺 だそ うである。 芥川龍 之介 、島津 四十起の二人 は、高洲太吉 でこのような夜は衛を吹いたらと教えるように薪を の案 内で 自宅前の河川 に浮 んだ画肪 で揚州巡 り 二十四橋 」は先 の 吹いているのだろうか。」)(註 15)「 の市 内観光 を行 う。揚州市内の観 光 を小船 に乗 松枝茂夫解説 に拠れ ば、一説 に橋の名前で この し 上 う 橋 の上 で二十 四人 の美女 が 衛 を吹いた事 か ら だいこう けう 命名 され た。す る と二十 四橋 (「 大虹橋 」)とい う って遊覧す るにあた り芥川龍 之介 が、脳裏 に浮 とぽく かべ たのは晩唐 の詩人杜牧 の詩 ( 「 杜牧 〔8 0 3はんせん 52〕 は晩唐の詩人。字は牧之。号は焚川。その詩『寄 事 にな る。 「 今 の橋 ?今 の橋 が芙定嵐 韓判官』の『 青山隠隠水辺遁/ 秋墨江南草未凋/ 二十四橋 -1 7- この岸 が 貰 芥川龍之介 「 支那済記 」研究 ( 下) りう てい 柳堤 さ。 」( 二十 四) の憂愁 が見 られ る。同伴の島津 四十起 も「 江南済 芥川龍之介 は、画肪 に乗 って遊覧す る内に何 記」にその横顔 を見せ て消えて しまい実態、経歴 時 しか気分が蕩蕩 たるもの成 った とい う。水路 は詳 らかではない。一夜揚州 の 自宅 に二人 を宿 の航行 とさらには、杜牧 の七絶の効用 である。 泊 させ た高洲太吉は無論、彼 を芥川龍之介 に紹 す る と「 二十四橋 」は、揚州 の町には川 が多 く橋 介 した小島梶郎 も無名 の実業家である。鄭孝背 が二十四あった とい う最初 の解釈 の方が、 この よ 場合 は良いよ うである。周辺 に不快 を覚 え、肉 に基づ き漢人であ りなが ら宣統帝縛儀 と運命 を 体的な不安を抱 えてつかの間心浮 き立つ気分 に じ よし くわゑ ん なる。 「 私 は徐氏の花園 (「 鎮江の徐宝山 〔 滑末の将 景 に不安 、不条理 を垣 間見せ る中で芥川龍之介 も又その後 は、芥川龍之介 に語 った 自己の主義 共 に して 自身過酷 な運命 を生 きる事 になる。 背 軍でこの地方の権力者〕の花園。」)の方-、ぶ らぶ ら 「 支那湛記」の筆致 は、軽妙、軽快な運びで読者 柳 の 下 を歩 き な が ら、 うろ覚 え の ミユ ツセ を「 軽み」の文学世界 に誘 っていると言 える。 い ち わん さ うけつ め い ( 「 Al reddeMus f s et〔18 10- 57〕 .フランスのロ 高洲氏 は共時私 の前-、-椀の草決明 (「 は マン派の詩人 ・小説家。華麗な情熱と憂愁 ・孤独をう 十四)とい う芥川龍 之介 の咳 きは、 ミユ ツセ 「 五 ぶ草の実をいう。せんじて薬用として用いる。」)を かしゆう 「 い 勧 めたか らである。 ( 中略)「 つま り何首烏( しまづ もの一種。 薬用にもちいる。」)の類ですか ?」島津 く ちひ げ し づ く 氏は一 口飲んでか ら、口髭 についてゐる滴 を ぬぐ いんや く 拭った。 「 何首烏は君、淫薬 さ。(「 性欲をおこさ 月ノ 夜 」とい う詩 に同 じよ うな言い回 しがあるの せるとい う薬。」)草決 明はあんな物 ぢや ない。」 だろ う ( 註16)0 ( 二十五) たった。詩では 『 五月の夜』など。」)なぞ を暗諭 し た。」( 二十 四)、 これ は仏蘭西文学 に造詣の深 い 吉田精一脚注なので 「 柳 、墓、水、恋 、草、」( 二 芥川龍 之介 と島津 四十起 の二人 は、蘇州 の駅 揚州 での この三人のや り取 りか ら、年少 の芥 を深夜十二時に出て ( 「 五月十一 日」)早朝に鎮江 く わしう に到着 、その 日の内に鎮江か ら瓜州経 由で汽船 川龍之介 を囲む人間関係 が 自ず と窺 える。高洲 にて揚州着、到着 してその足で塩務署 に揚州唯 勤務の小島梶郎、 さらには 「 江南群記」の引率者 太吉は無論 、彼 を紹介 した上海在住の紡績会社 一の 日本人、塩務官高洲太吉 を訪 問 してい る訣 である島津 四十起 も年配で五十前後である。世 である。揚州 の水路巡 りは、蘇州駅 を深夜 に出 代の違 う、社会的 には重鎮 として一定の役割 を 発 したその 日の出来事である。 かな りの強行軍 果た している男達 を相手に客分 として地位 を得 であ りなが ら、揚州 に就 いて愛着 を持 ち、識見 ているのは、芥川龍 之介の世俗的成功の名声に を持 って一瞥の街 を記述 してい る。漢籍全般 に 拠 る。 あるいは、文学者の地位 が最近までは、 就いて藩著を傾 け、 さりげない筆致 に独 自の見 世人 を屈服 させ るに足 るある種権威 を持 ってい 識 を見せ ている。 た と言える。 あ が のち し よ く かう しか し画舷 か ら上った後 も、 葛 岡 (「 欧 陽修 芥川龍 之介 と島津 四十起の二人は、揚州 の高 洲太吉の 自宅に一泊 し翌 日(「 五月十二 日」)一度 のたてたもの。現在法浄寺の一部。よい水をだすの お うや う し う 汽船で鎮江に戻 りその 日の内に南京に列車で向 で有名。」)、 一少 くとも欧陽修 が建 てた と云ふ、 は な は だかんが 平 山堂のあるあた りは、 甚 閑雅 な所で した。 ていそかん ( 中略)鄭蘇戟 ( 「 鄭孝背の号。」)先生 の ヴェ ラ そと はく し よう ンダの外 にも、や は り此 白松 と云ふ のが植 ゑ か う。鎮江の波止場 に到着 した後 に二人はつか き んざんじ の間の時間を縫 って金 山寺 ( 「 鏡江の郊外。揚子江 の中の島にある。」)に詣で る。南京行 きに列車が出 る一時間程度 の時間を使 って人力車で山の上に てあった事を思ひ出 しま した。( 二十五) お うや う し う お うあ んせ き 欧陽修 は、彼 と対立 した王安石共 々唐宋八大 姦策鼠 家の一人である.蘇巌 (「 奪 える金 山寺 を一瞥す る。前方の高地 にた どり )を見出 したの 着 くまで に貧相 な街 並 み を通 り抜 けて行 く。 は欧陽修 であるが、見聞記 の中に支那全般 に対 家々の玄関には、魔除 けの呪文の文字が眼を引 す る識見が散在す る。 自身 も人妻 との抜 き差 し く。 な らぬ不倫 問題 を抱 えての逃避行 であ り、肉体 的な不安 を隠 して軽快な筆致 の内に芥川龍之介 ひたうし 此処 には家家の軒 に貼った、小 さい緋唐紙 の切れ端 に、僅 芙 養 護:GG」(「 妾大公は妾牙.太 -1 8- 琉 球 大学 教 育学部 紀 要 第7 8集 公望のなまえで有名。中国古代帝国の周の建国に功 南源記」( 二十七)には、今 日の 日本人か ら見て大 労のあった政治家。病気よけの文句とされる。」) う んぬん 云云の文字が並んでゐる。( 二十六) 変興味深い記述が見 られ る。それは、南京市内 の城壁 に囲まれた生活空間の荒廃ぶ りである。 数千年前の英雄 の名前に頼 って安心立命 を得 秦涯の夜」後半部分、大正八年 「 南京奇望街 」(「 よ うとす る支那の現状 を冷静に把握 している。 三月号)は、谷崎潤一郎の一年前の支那旅行に依 鎮江は、二千年以前には呉の国の玄関であった 拠 した作品であるが、 ここにも南京市内の荒廃 が、今や天津条約 によ り開港 させ られた半植 民 ぶ りと夜 になると伎女達が、支那の兵隊か らの 地 と化 した支那の象徴であるとい う認識である。 暴力 を避 ける為に姿を消す 旨報告 されている。 神頼み をす る支那の民衆に対・ して芥川龍之介は、 雑信一束」)に も長抄の女子師範 「 支那併記 」(「 「 妻大公在此 」の題詞 に理解 を及 ぼす のに 日本 学校 の寄宿舎 を見学 しよ うとして舎監に阻止 さ ことわ た め と もお んや ど の 「 為朝御宿 」(「 為朝は源為朝 〔1139- 70〕 。 せん 勝手に決めて、このような貼紙を出す宿。」)を引合い れ る場面がある。 「 それはお 断 り申します。先 だ っ て ち んにう 達 もここの寄宿舎- は兵卒が五六人聞入 し、 ごう かん ひ 雑信 強姦事件 を惹 き起 こ した後ですか ら !」(「 に出 している。神仏 を頼 りに生命 、財産を守 ろ 一束」七)、これに就いて関 口安義 「 特派員芥川龍 保元 ・平治の乱に活躍した武将。その為朝が宿ったと うとす る支那の民衆 を一方的に笑 ってはいない。 之介」に 日本軍人の行為 の よ うに記述 してい る 日常生活で何気 な く神仏 に加護 を求める気持 ち が、そ うではな くて支那軍閥の兵士による行為 も外国人 に改まって記述 された場合 、人民中国 である。芥川龍之介 に女子師範学校寄宿舎-の ここん ぷ っ ち ょ う づ ら 参観 を拒否 したのは、 「 古今 に稀 なる仏頂面 を の次世代の者 は屈辱 を覚 えるか も知れ ない。戦 武運長久」)や千 場で倒れた 日本軍人の 日章旗 (「 雑信一束」七)であるが、この した年少の教師」(「 人針 の腹巻、それ に縫い付 け られた五銭硬貨 も 時に隣接 の男子師範学校 ( 第-師範)の附属小学 戦利 品 として 自国に持 ち帰った米国人に取って 校主事 ( 校長)は毛沢東である。月刊誌 「 新青年 」 よう かい の責任者 として、陳独秀の推薦で第二の妻楊関 は切実、迷信 さらには未開人の付属品である。 「 江南辞記」( 二十六)を執筆す る芥川龍之介は、 釜 と結婚 して半年の毛沢東は、教員宿舎で生活 す ぎや ま 名古屋楯 山女学校での講演会の為 に菊池寛、小 していた。 毛沢東は、芥川龍之介 よ り一歳年少 島政二郎同伴で旅先に居て十分に構想 を練 る時 であるが、 この時二人は限 りな く接近 していた ち上 う さ て んし ん 訣である。「 長抄の天心第一女子師範学校並に附 間的な余裕がない、 とい う触れ込みで金 山寺に 就 いて細部の記述 を省略す る。金 山寺描写に必 」(「 雑信一束」 七)、「 附属高 属高等小学校 を参観 。 要な備忘録 として現場で記録 した ノー トを生の 等小学校 」ををどう見るべ きか、これが第-師範 ままで書 き写す として、断片の地名 、人名の記 の附属小学校 と同一であるな らば、芥川龍之介 載で稿 を終わる。無論、 これは創作上の芥川龍 は附属小学校主事 ( 校長) 職 にあった一歳年少の 之介の手の込んだ創作技法の一種である。実際 毛沢東の先導で小学校 を参観 した筈である。 二 ○妾 の金 山寺に就いての覚え書は断片である。「 人は互いの存在 を十二分に認識する事な く奇跡 大公在此間無禁忌。貧民 くつ。川。鐘。材木。 的な遭遇 を していた事になる。 こ んにち 今 日の支那 の最大 の悲劇 は無数 の国家 的 ロワン 浪蔓主義者即ち「 若 き支那」の為に鉄の如 き訓 ひとり 練 を輿- るに足 る一人のムツ ソリニ もゐない 泥坊。無煙炭。舟 ( 石炭、桐) 。江天禅寺。 」とい う簡素な一文である。 8 「 保儒の言葉」 支那) ことである。( 金 山寺登撃後 に再び人力車で鎮江停車場に戻 この蔵言 を予言的に読み解 くな らば毛沢東 に った二人は、駅で別れている。島津 四十起は上 よる蒋介石の退場、 さらには人民中国の全共産 海 に戻 った と思われ る。芥川龍之介 は単身、谷 党員 に対す る「 鉄 の如 き訓練」、毛沢東による文 秦椎の夜 」 )の愛読によ 崎潤一郎 「 南京奇望街 」(「 化大革命 の発令を予言 している。政権獲得後に り自身 「 南京の基督 」を作 り上げた、書籍 におい 行われた人民裁判、粛清 を予言 していた と取れ て馴染みの地である南京 に向か うのである。「 江 る。国家建設の後 に相互監視体制の もとに永遠 ー1 9- 芥川龍之介 「 支那蒋記 」研究 ( 下) に繰 り返 され る人民裁判 で 自国民七千万人 を平 受す る大正デモ クラシイの 日本 を作 ったのは、 時において死 に追いや った暴力装置 、中国共産 試験制度 とは関係 な く自力で国家権力 を掌握 し 党の誕生 と躍動 を予言 してい る。蒋介石の国民 た明治の元勲達であった。常に冷笑、噸笑の対 革命軍の北伐 は、芥川龍 之介 の支那視察の五年 象 に した彼等の業績 に対 して浅薄、皮相 な見方 後である。芥川龍之介は新 中国誕生以前の混沌、 をす る芥川龍之介作品全般 に対 しては、批判の 無秩序 の国家人民の空気全体が淀 んだ、停滞 の 声は現在 も絶 えない。 昭和の悲劇 は、国家の中 支那 を垣間見た訣である。 枢 を担 った元勲達 に代わ り、陸軍大学、海軍大 「 すべて支那の都会には町の真 申に空地のあ 学 さらには帝国大学卒業の革新官僚が、 日本の るのは珍 らしくもないけれ ども、南京 には殊 に 秦唯の夜 」 )とい うのが、芥川龍之介 の 多い。」(「 命運 を担 った事で もた らされた。彼 が遺 した言 葉「 何か僕 の将来 に封す る唯ぼんや りした不安 南京滞在 の三年前の谷崎潤一郎の見解 であるが。 である。」(「 或 旧友-送 る手記 」 )には、天皇 を戴 三年後の芥川龍之介 の 目撃 した情景 も似た よ う く革新官僚 による支配 、 日本版共産主義社会招 なものである。 来に対す る危倶の念があった と思われ る。 南京滞在 中は、 日本人経営のホテル に宿泊す 案 内者 の支那人 に尋ねて見 る と、南京城 内 あ れ ち るも有名 な秦唯の孔子廟 は、見学 しなかった。 の五分の三は、畠や荒地 になってゐる と云ふ。 どぷ か わ (「 江南辞記 」二十七) 秦推は、平凡な溝川 であるとい う認識が次 に続 芥川龍之介の南京滞在期 間は、数 日である。 く。南京 に対する落胆の胸中の裏面には、芥川龍 しか し、都市機能 を失 った南京が十七年後 に民 之介の脳裏 に有名 な杜牧の七絶 「 泊秦推」(註 17) 族統一に成功 した蒋介石 の国民政府 の首都 に成 があるか らである。 こきゆ う かせい 食事 中隣室に胡 弓の音 あ り。歌声又次いで った ぐらいで繁栄 を もた らし、南京虐殺事件 の こ うて い くわ 大量の民間人殺人 に繋がった とは考 えに くい。 誤謬、伝 聞、風説 か らな る出鱈 目本 であるよ う 起 る。昔は一曲の後庭花 (「 陳の後主が賓客とあ し う さ つ い贈答 した詩に曲をつけたもの。」)、詩人 を愁殺 いうしたこん せ しめたれ ど、東方の遊子多恨な らず。( 二十 に南京虐殺事件 の多 くは国民軍に組 み込まれ た 八) 「 I RI SCHANG" THERAPEOFNAm G' ' 」が、 支那料理店での食事 は、味覚のみ を満足せ し 軍閥の兵士達による不祥事であろ う。 めるもであって杜牧 「 泊秦推」の情緒は、兄いだ 人力車で南京市内を見学 中に芥川龍之介 は、 昔の科挙の試験場跡 を 目撃 し素朴 な感想 を書 き し難い事 を述べてい る。夜の街 中を人力車で移 記 してい る。芥川龍 之介 自身 は、秀 才の栄光 を 動す る妓女 を見るも全ては期待外れである。 こ 全身 で浴びて当時 としては学歴 、職歴共に申 し の芥川 龍 之介 の胸 中にあ るの は 「 秦准画肪録 」 しん わ い ぐわ ば うろ く た うくわせ ん で ん き 分がないが、難 関第一高等学校第-部文化 (乙 (「 未詳 」)の印象であ り、 「 桃花扇伝奇」(「 清の康照 類)は、無試験で合格。さらに東京帝国大学英吉 帝時代の戯曲。香君はその女主人公で美人。」)の印泉 利文学科 は、希望者 が少 ないので無論無試験合 である。 ひそか 格である。 こう ゐん 貢院 ( 「 昔の文官試験の試験場」)の続 いてゐ る しん わ い ぐわば うろ く 私 に疑ふ、「 秦准画肪録」中の美人、幾人か それ た うくわせ ん で ん き 懸 け値 のなきものある。 も し夫 「 桃花扇伝奇 」 かう く ん ぎか の香君 に至っては、独 り秦涯の妓家 と云はず、 こ すう 往来- 出た。貢院は坪数約 三万、戸数 二万六 とほう 百 とか云ふ、途方 もない規模 を備 -た、昔の 四百余州 ( 中国全土は四百余州にわけられていた - んれ き 文官試験場である。( 二十七) 一千年 間支那皇帝政治 を側 面か ら支 えた巨大 ところから中国全土をいう。 )を遍歴す るも、恐 ら いち にん くは一人 もあ らざるべ し。 ・--・( 二十八) な人的消耗 の痕跡 を見て、芥川龍之介 は嘆息 し 最新の芥川龍之介全集神 田由美子脚注に拠れ てい る訣 である。支那社会 を半植 民地の惨憤 た ば、 「 秦准画紡録 」(「 秦准の芸者評判記。捧花生 る今 日の状況に陥れた元凶が、 この科挙制度 で 著。嘉慶二二年刊。上、下二冊。付録 に 『画肪 ある とい う認識 を、芥川龍之介 は持 っていた筈 )とある。 「 桃花扇伝奇」 余談、三十六春小春 』」 である。彼 自身が、恩恵 を蒙 り表現 の 自由を享 に就 いては、現在 は 「 国訳漢文大成 」(「 桃花扇」 ) -2 0- 琉球大学教育学部紀要 第7 8 集 し んぢ やう ぅ.」) と」( 十 九)にあ る 碇 笛 の 美 女 真 嬢 の 墓 で知 られ てい る。 南京 を案 内す るの は、大阪毎 日新 聞記者 「 五味君 」(「 未詳。」)であ るが最新 の全 ( 註2 0)」 とい う自身 の一文 を踏 まえてい る。 芥 集 で も説 明はない。 体調 不 良の芥川龍 之介 は翌 けふ 日 (「 五月十三 日」)に も市 内観 光 を成す。「 今 日は 川龍 之介 「 支那酵記 」には、「 蘇小小」 「 真嬢 」 「 莫 みん 等 三 人 の代表 的 な美 人 の事跡 を訪 れ る もそ 愁」 か うりよう 私 が御 案 内 しませ う。明の孝 陵 (「 南京の郊外にあ ばくしう る明の太祖 〔 明の初代の皇帝〕の基。」)か ら莫 愁湖 の感慨 は失望 であ る。 漢籍 で培 った英雄 、美女 の幻想類 を支那 の現実 で悉 く消 し去 ってい った (「 南京の三山門外にある湖。」)の方- 。」( 二十八)と のが 「 支那辞記」の世 界 で あ る。 下町で育 ち、東 い うのが、五味君 の発言 で あ る。 こ うして、芥 し よう ざ ん り よう 川 龍 之介 は五 味君 の案 内で 「 鐘 山 の 陵 」(「 孝陵 京 山の手 で生活す る芥川龍 之介 に とって現 実 の は鐘山にある。」)に至 る。 荒果 て荒涼 た る明の太 し よう ざ ん し よう はく 祖 の陵 に這 い登 り、「 鐘 山 の松 柏 を仰 ぎ見ては、 り く てう 六朝 (「 晴の統一以前の中国の王朝名。建業 〔 南京〕に き んぷんなん 都 した。 この歌、催馬楽にある。」)の金粉何 とか云 活環境 の一部 であった。老 酒 を噂み 、毎 日酪酢 支那 の気候 、食事 、女等違和感 を覚 え させ る生 ラオチュウ の内に快適 に睡眠 を取 り、混沌 の支那世界 を愉 快 に歩 き続 け る肉体 的 な頑 強 さと楽天的な気 分 に芥川龍 之介 は、恵 まれ ていなかった。 けいげつ 私 は 中尉 と桂 月先 生 の噂 を した り、我我 の ほか ひとり かう 他 に も う一人呼 ばれ た年 の若 い御客様 と、江 なん し ばらく 南 の風 光 を論 じた り、少 時 は病体 も忘れ てゐ 」( 二十八)訣 で ふ前人 の詩 を思ひ 出 さ うとした。 あ る。吉 田精 一脚 注 は後 半、「この歌 、催馬 楽 に あ る。」と したが、明の太祖 の御 陵の上 で催馬 楽 を想 いだす のは場違 いで ある。 これ は、 当然荒 た。( 二十 九) 廃 した陵墓 に寄せ る意 味のそれ に相応 しい六朝 南京 の料 亭 で芥川龍 之介 と歓談 し、時 を過 ご した 日本人 も支那 生活 に溶 け込 んで生活 を享受 時代 の漢詩 を想 定 しな くてはな らない。 半死 半生で御 陵 を登 りつ めた芥川龍 之介 は、 していた一人 であ る. しか し、 この人 の存在 は 足元 を悠 然 と歩 む大阪毎 日新 聞南京駐在員 の五 名 の記載 がな く今 となっては、歴史 の彼方 に消 味 記 者 と 自分 を比叡 山で事 前謀 議 を凝 らす 平 え去 って しまい跡 形 もない。 ま さか ど すみ とも なぞ ら 将 門 と藤原純友 に 擬 えて眼下を眺望す る。御 陵 登撃 で疲 労困億 の体 で宿 舎 に帰 るも立上 が る事 ( 註 1)戦前まで 日本人の海外渡航は、中国程度に限 も叶 わ ない。蘇州 を三 日前 に深夜発 って以来文 「 支那」 「 イ ン ド」 )を唯一の他国 られていた。唐天竺 ( 字 通 りの強行 軍 で あ る。 一 ケ月の病気療養 後 の と認識 していた時代、支那は日本人にとって漢籍に 慣 れ ない海外 単独紀行 で、最 良の案 内人の先導 より培われた理想の国であった。半植民地 と化 した を受 けて も、疲 労 は計 り知れ ない。 事 実、芥川 現実の支那を体験する事は、長年書籍で思い描いた の著者 で 龍 之介 は夕食 を同席 した 「 家庭軍事談 」 内的な理想の支那を破壊する行為である。魯迅の言 あ る多賀 中尉 (日露戦争 時の階級)の病 後 の体 で は、惨惰たる支那の現実に直面 した一般的な日本人 無理 した ら、海 外 では死 に至 る とい うさ り気 な の戸惑い、内面の分裂に思いを致す事のない、一方 い一言 で翌 日上海 に引 き返 してい る。 ばくしうこ せいこ 莫愁湖- は廻 らず に帰っ て来 た。 西湖 では 的な断罪である。 正論」 竹山道雄 「 人間は世界を幻のように見る」(「 齢 を帯 ひ 、嘩 芝 は轡 吾 弔っ たのだか ら、 六朝時代、莫愁 や は り三美妓 の一人 た る莫愁 (「 昭和五十七年十月)は、普遍的な人間精神の内面に 迫っている。人間は、幻の如くに変化を遂げる現実 湖の付近に住んでいたとい う伝説的美女。詩が得意。 を正確に認識 し得る程に偉大ではない。人間精神が 同名の女性が諸地方に伝えられるがこの莫愁が最 認識する世界現象は、他者により吹き込まれた「 第 ゆ も有名。」)( 註18) も弔ひ に行 きたかっ たが、か 二現実」の認織で識別する世界である。従って世界 う云ふ始末 ぢややむ を得 ない。( 二十 九) の表象は、すべからく「 ある傾向的集合表象」を持つ。 杭 「 蘇f J ミ 7 j ミ( 註19,の墓 を見たO蘇小小 は鼓韻 (「 めいぎ 州の古名。」)の名 妓 で あ る。 」( 七)とい う記述 「 寒 こきう こ う り ょ 山寺 と虎邸 (「 呉王開聞を葬った丘。財宝をも一緒に 共産主義者は、現実社会 と無関係な空想裡の栄光を 埋 め、その財宝の気が虎 となってあ らわれた とい 史における淘汰の-事例に過ぎない。キリス ト者 も 夢見て、現実破壊の欲望を理想達成の為の犠牲 と考 える。組織内の犯罪は犯罪ではなく、人間精神発展 -21 - 芥川龍之介 「 支那併記 」 研究 ( 下) 抜 け出 し直面す る現実 を正確 に認識 す る程 に人 間 /可憐 の霜 轟窮鼠 こ慮 る」 )「 清平調詞三」 ( 塔 滝榛 東 つね ふた 両つなが ら相歓ぶ/長 に得た り君王の笑み を帯びて 精神 は、偉大ではない。以上の認識 に立てば、魯迅 看 るを/解釈 す春 風 無 限の恨 み/抜毒筆先端竿 に慮 また同然 であ り、学閥、派閥、党派の範境か ら一人 いち の言動は、- 日本人の私か ら見れば支那 に渡航 した る」) 芥川龍之介は、李 白と胡適 との架空対談 を空想 し 日本人に対す る偏見である。 「 第二現実」で精神 を鍛 え られた者 は、すべか ら た。同 じ手法で重慶 の国民党政権 下で駐米大使 とな くあ らゆる精神 の動揺か らも開放 され る。党の規律 った胡適 と特命 大使 となった芥川龍之介 との ワシ に従 う、その瞬間に苦悩 か らは開放 され 肉体は精密 ン トンでの打開交渉 を空想 したい誘惑を覚 える。戦 な機械 となって機能 し、外界 は党の命 じた色彩で彩 後共産 中国か ら米 国 に亡命 した胡適 を頼 った任兆 られ、さらには学歴 、容貌 、肉体の持つ負 の側 面か 銘 政権 の重 臣 と芥川龍 之介 の文学上の弟子 である らも開放 され る。戦前の天皇 を戴 く共産主義国家 日 犬養健 は、偶然 ワシン トンで再会 して旧交を温めて 本 も、さらには戦後のス ター リンに迎合 した真正共 いるか らである。 がくひ ( 註 3) 「 岳飛 の墓前 には鉄柵 の中に、纂 竃 産主義 も米軍に よ り制圧 された。魯迅の死後十年後 ( 「 南采の 、 に全支那 は、共産革命 に よ り全国民 が 「 第二現実 」 宰相。金 に攻 め られ るや、和平 を となえ、主戦派の による世界を、歴史 を認識す る国にな り彼 のよ うな 岳飛 を殺 した。 このた め来朝 の寿命 はだいぶ のび 自由な発想 を持つ人間は一人 もいな くなった。 定見 を持つ こ と無 く、生の現実 を直接 目撃 しさらには、 南采 の政治家。 は じめは主戦論 を と た。」)窟督 (「 ら なえたが、のち主義 を変 え、秦槍 とくんだ。」)等の 臨機応 変 にそれ らの外界 を認 識 し得 る人 間な ど果 鉄像がある。」 ( 八)芥川龍之介の岳飛廟訪問の時か た して存在す るのか。外界か ら、教祖 か ら、教義 、 ら二十年後 に 日本 自体が、南采 を圧迫す る異民族金 信条 を精神 に叩き込 まれ て人間は、自信 を持 って世 の立場 に置かれ る事になる。漢民族の窮状 を見かね 界 に対 して認識 の翼 を広 げ得 る。戦 中陸軍幼年学校 た重慶 の国民政府要人江兆銘 は、重慶を脱 出 して 日 を志望 し、権力志 向を示 し挫折 した者 が、戦後 は真 本陸軍 との妥協の未 に南京国民政府 を樹立す る。江 正共産主義者 に転 向す るな ど、日本社会 では愚劣 な 兆銘書簡 「 君為其易 少数者 である。 しか し、魯迅 が期待 した支那国民は 行 け、我 は苦難の道 を行 く」)は、従来の国民党の国 教祖 の扇動 に よ り全 国民一挙 一動 を相 互 に監視 し 是「 一面抵抗一面交渉」を実践す るものであったが、 我任其難 」(「 君は安易 な道 を 西安事件 で連共抗 日路線 に転 向 した国民党委員長 あ う密告社会 を作 り上げた。支那国民の覚醒の為 に たゆ 倦 まず弛まず執筆 し続 けた彼 の著述 は、結果的には 蒋介石の路線 とは、相容れぬ ものであった。 日本敗 無意味であった と言 える。人民 中国成 立後 にまで魯 迅が生存 していた と仮定 した ら、果 た して彼 は天寿 戦 後 に南 京 国民 政 府 跡 地 に設 置 され た江 兆銘 の きぞう 随像 ほ ど 日中両国間の国民感情 の落差 を示す もの を全 うす ることが出来たか ど うか。郭抹若 のよ うな はない。 異民族金 との政治 的 な妥協 で一世紀 に亘 り南采 小回 りのきくよ うな生き方 は、魯迅 には出来なかっ たであろ う。 りたいはく ( 註 2)「 昔の健 の李太 白( 李 白。字 は太 白。( 中略)彼 が ま ぽろし 牡丹 を愛 して作 った 「 晴平調」三首がある。)が、幻 ぽたん の漢民族 に繁栄、平和 をもた らした秦櫓 は今 も随像 となって漢民族の噸笑 、罵声を浴びている。弱体南 末 を先導 して岳飛 が、徹底抗戦 を繰 り返 した らこの ぎよくさん の牡丹 を眺めなが ら、玉 蓋 ( 玉石でつ くった さかず 時点で南采 は滅び、漢民族は異民族金による支配に き。)を傾 けてゐ るか も知れ ない。 」芥川龍 之介 が、 なっていた可能性 は大 きい。漢民族の辛苦は計 り知 せい-いち上う し この時想起 したのは李 白 「 清 平 調 詞 」 三首の事 で れ なかった、少な くとも南采 の経済的な安定、民生 牡丹の美 しさを楊 貴妃に例 えた三首の連作である。 の向上はあ りえなかった。南采 を政治的に圧迫 した 「 清平調子 -」(「 雲 には衣裳 を想 い花 には秦 を想 う 異 民族金 も最終的 には騎馬 民族元 によ り制圧 され /春 風 崖 を払 って姦 重義 や か な り/真 し見 る に轟 ぎょくさん とう 支那全土は、長期 に亘 る本格的な異民族支配に陥 る。 よ うだい げ っ か 玉 山 頭 にて非ず ん ば/会ずや壌 台月 下 に向て逢 わ 南京国民政府主席江兆銘は、南京政府 の地に随像 ん」 )「 清 平調 子 二 」(r 一枝 の韻鮭窟 筈 を凝 らす/ 蜜論憲 施 となって横 たわ り、南京政府 中枢 に位置 していた重 げて断腸/揺簡す漢宮誰か似 た るを得ん 臣を悉 く戦犯 として処罰 した重慶国民政府 は、異民 -2 21 琉球大学教育学部紀要 族 な らぬ北方の共産政権 に よ り祖 国 を追われ る結 第78集 きて紬 果になった。芥川龍之介は、岳飛廟 の荒廃 を悲 しむ ./寓崖の暴 露青苗の上、/十里のあ違 絹 の箪o/齢 漸 く移 る鼠 こ盲 る影、/襲築過 ぎん と還す品 こ満つ る風./巌 業だ還 さず笠歌の 末 代 の 詩 人 の 一 句 を 引用 し 侶 至境王室萎萎 」 ち上うもう ふ ここう ( 趨孟頓 〔 宋末の人、字は子昂〕の詩 「 岳郡王墓」の 散ず るを、/釜翻 摘 きて鋭鵜 く 綻ゐな りo」(蘭 で あ ぶみ たた たづな せいこ とう がん 鐙 を敵き手綱をかい くり、軍 轟 うて西湖の東岸 を 中に 〔 郡王墓上草妻妻〕とい う句がある。)、岳飛廟 かんか う ばん しゆ の荒廃 を報告 しなが ら同調 は していない。む しろ敵 聞行すれば、筈 役 になった南采の宰相秦槍 に同情的である。 「 秦槍 いか あ くいんねん ぴんばふ くじ は如何なる悪因縁か、見事にこの貧乏鼓 を引いた。」 里の竃執 こは夕月が光を投げてゐる。 露には鍾完の 淡 き影が うつ り、江風の浪 頭 を打つ ことが急であ ( 八)この種の英雄否定は、芥川龍之介同世代の共通 る.さて陰 り策れば業だ盤誠が散ぜず、叢韓がか ら 認識で三島由紀夫は、「 芥川の『将軍』その他 、ほ と りと開 かれ て 中に は燭火 がひ かひか と輝 い て ゐ ん どあ らゆる作品に見 られ る英雄否定、美談否定は、 る。」) 苗 の上には南棟の松が並び立ち、十 か うふ う なみが しら あか り 思想 といふ よ り趣味の問題で、当時の浅薄な時代思 ( 註 6)菖騒擾 白蛇伝説の中の代表的な-篇.村上哲 潮 の反映である。」(「 南京の基督」解説)と批判 して 集英社」昭和六十二年 九月)に 見「 蘇州杭州物語 」(「 いる。しか し、客観的に見れば抗戦一本槍の素朴な 英雄 を榔輪 して、政治調整 に心を砕いて民衆に経済 拠 る解説 を参考に して記す と。 り んあん 臨安城 内に住んでいた若者が、操般韓へ行 った帰 的な繁栄 をもた らした秦槍に同情的である。ここに り孤 山を散策 中に西湖 の 白蛇 と青魚の化身 に執 り 芥川龍 之介の歴 史に対す る複 眼的 な眺望 を見 るこ っかれ る.杭州の酉湖 に面す る西門、嵩 とは可能だ。 公園)まで同行 し、湧金門の 白夫人の 自宅で饗宴 を こ ざん 釜 的( 湖浜 文化大革命の混乱時中国共産党の周恩来は、日本 受 ける。罪 によ り蘇州の承天寺か ら蘇州の北、長江 人が再び支那全土に兵力 を展開 し、日本人低値の政 の岸の鎮定に流刑 になるも自夫人は付き纏 う.鎮江 めい さつ ほ つかい の名刺金 山寺の名僧法海禅 師 によ り白夫人 は正体 権 によ り全支那が制圧 されて も広大な国土、膨大な 人民を永久に統治できない、長い時間の営みで再度 を暴かれ、西湖南岸の浄慈寺にいた法海禅師によ り 日本人は、支那全土か ら駆逐 され ることになると発 雷峰寺に閉 じ込め られた。その跡 に築かれたのが、 言 して当時中学生だった私 を驚かせ た こ とがあっ 雷峰塔である。この締評は歌劇、ア 閥 「 白蛇伝」とな た。 しか し、異民族満州族の三百年 に亘 る全支那の って 日本で も公演 された。 制圧 を脱 して新政権 を作った政治家に とっては、当 ( 註 7)雷峰塔 白蛇伝説 を翻案 したのが、上田秋成 「 雨 然の発言である。さらには何度 も異民族支配 を受 け て きた支那の歴史に鑑みれば、周恩来発言は驚 くに 月物語 」(「 蛇性の淫 」 )である。「 蛇性の淫 」 は、紀州道 じ 上うじ 成寺 に伝 わ る安珍晴姫伝説 を参考に して女の執念 あた らない。 を描いた訣であるが、細部 に至るまで典拠 「自蛇伝 ( 註 4)西湖の岸辺で蘇東披構築の記念物 を見なが ら、 説」を使 っている。謡 曲道成寺は、歌舞伎舞踊 ・沖 東亜 同文書院卒業の支那生活 に馴染 んだ村 田孜郎 縄舞踊等に影響大であるので、秋成は道成寺伝説 を 相手に話題の素材 は、徹頭徹尾支那の文人達の業績 踏 まえなが らも作 品細部 は典拠 に寄 り掛 かってい 全般だった筈である。帰国後に 「 西湖図巻」を見なが る。 「 お く様 は杭州人であるあなたが生まれつ きす ら数 日間の見聞を再構成 した痕跡がある。芥川龍之 てきなのにほれ こみ 」 (「白蛇伝 」 ) とい う細部は、 介 は、書斎で 「 西湖竿算」 ( 「 蘇堤春暁」 「 霊峰西照」 「 断 生か され ていて 白蛇 に魅入 られたのは彼 の美貌故 かほよき た はけ である。 「 はたそ この秀麗 に 肝 たると見えた り、 」 橋残雪 」 「 平湖秋月」 「 花港観魚 」 「 柳 浪聞鴬」 「 双峯挿 雲」 「 三淳印月」 「 南平晩鐘 」 「 麹院風荷 」 )を確認 して、 (「 や は りあなたの美貌のためにみだ らなことを し た もの と思われ る。」) 話題 を支那古典 か ら話題 を執筆時読者 の関心が大 二 〇八年) に劉備 と孫権の連合 ( 註 8) 中国後漢末期( きかった ソヴイエ ツ ト革命政権の去就 に変 えたの 軍が、曹操の軍を破 り天下三分の計が確定 した古戦 である。 ( 註 5)これは 白楽天 「 長島」の前半部の引用である。 場 を北采の蘇拭が、訪れて作った前後二編の賦。「 前 「 績国訳漢文大成 」(「白楽天詩集二」 )か ら全体 を引 赤壁賦 」 ( 一〇八二年七月)と 「後赤壁賦」(一〇八二 年一〇月) 0 用す る.「 箪辞ひて衛拝す湖岸の東 、/鳥露箸 を誌 -2 3- 芥川龍之介 「 支那併記 」 研究 ( 下) ( 註 9)山田勝美 「 中国名詩鑑賞辞典」の解説 に拠れ ば、 真違峯は杜甫の詩風 を学び、蘇戟 と並び称せ られた。 めいげつ かん 倭)にて事 を書す」の第三句 「 清風 ・明月 所を引用 してみ る。 昼」 ) 「 第-部 」(「 黄庭 堅 増は ( 長 官 の こ と)篇崖 ( 作者 黄庭 堅 の書 せいふ う 昼 」)第二部 (「 夕方 」)の二箇 る。参考 までに第一部 (「 け うめい 人の管す せ きらん かすゐ 一橋名 を知 らず 、石潤 に依 りつつ河水を見 る。 日光、 る無 し」(「 いわんや、 この清風 、 この明月は、だれ 微風 、笈 L A'梶韻 の嵩 に似 た り. 両岸 皆筋違 (「白 の もので もな く、存分に味わって さ しつか えのない 壁 」)、水上の影措 けるが如 し。橋下を過 ぐるの舟、 もの」)は、同時代 の蘇東披 「 寡壷 鼠 (「 惟 だ江上の清 まづ寡量 りの船首見 え、次 に竹 を編み し諒露 見ゆ。 風 と山間の明月 とは、耳之 を得 て声 と為 し、目之に 櫓声の岬唖 (「 ぎい こぎいことい う櫓の音 。」)耳にあ 遇ひて色 と成す。之を取れ ども禁ず る無 く、之 を用 けつ ふ るも喝 っきず ・・・・・ ・」と同一の発想 に基づ 枝 O」)流れ策 るあ り.首 懲 笈 L 責 と共に深か らん と いてい る、と解説 してい る。ちなみ に四文字熟語 の す。 ろせ い れ ど、巌 張 した言葉である。 一 基鼻.鮎 ( 註 10)「 江南併記」( 十八)で芥川龍 之介 が引用 して 呉 を破って帰 る/義士 る。首鼠 家 に還 って 花 の如 く春殿 に満 つ/只今 策臥 両岸粉壁の影 、巌巌 として水にあ り。時に窓底の人語、燈光の赤 きに伴ふ を聞 く。或 せ きけ う たまたま こきう ろう 偶 橋上を過 ぐるの人、胡 弓を弄す し や こ ば、「 越 頗鴇の飛ぶ有 るのみ」。 山田勝美解説 しに拠れ 上う こう 尽 く錆表/官女 ( 「 び っこのろば」)に姦す。 窟常に完敗 最箔の船、皆蓮 (「こもまたはまこも」 )を巌へ るを見 いるのは、李 白庵 ち 帯磁 舌」の有名 な第三句である。 句践 既 に橋下を出づ。崖光二披 (「 桂 の花が一 「 第二部 」(「 夕方 」 ) 「 換骨奪胎」は、黄庭聖が詩作 の技法の一つ として主 「 越王 い あ 庵だ は又石橋 あ り 。 る事三両声。仰 ぎ見れ ばその人既 にあ らず。唯鵜韻 纂櫛 寛 として 中」は、越王句践の都 した会稽 ( 漸江省 紹 興県)で、 の高きを見 るのみ、 作者 が この地 に遊 んで、往 時 を懐 古 して歌 った。 え つおう こう せん ごおうふさ かいけ い 越王句践 は呉王夫差 に破れ て、いわゆる会稽の恥 を 媒裟嘗 嘗 月に垂 るる事、巌 なめたが、臥薪嘗胆 二十年 、ついに夫差 を破 って会 あ りや否や。 (「 未詳 」)を態 は しむ.知 らず、歯 たが許 されず、ついに 自殺 し、句践 は晴れて凱旋 し 最臥 ( 「 月落 ち 烏噂 いて霜 晶 の辺 、 抱かれてき くは/夢の舟歌 花散 る春 を/惜 しむか すす り泣 く」 「 花 を浮 かべて いた姦姦筈の ことで、呉越興亡の哀史で有名 な旧跡。 ' 蘭 「 君がみ胸 に 歌/水 の蘇州 の 」が あ る。 「 蘇台」は 産蘇省真韻 ( 今の蘇州)に、春秋時代 の兵聖臭墓が築 ( 註 1 1) 儀 管 を引用 してみ る。 た。李 白には越王句践を懐古 した 「 越 中懐古」の対で、 古 的 苑 のL # 崖 の如 きもの 比較 の為 に、西条八十作詞 「 蘇州夜曲」の三速の詞 稽 の恥 を等いだ。夫差は岳姦筈 に退いて和平を請 う 呉王夫差 を懐 古 した 「 拙 う歯 蘭 業態 の記 」 天に くえは や なぎが 流れ る水 の/明 日のゆ 知 らね ども/今 宵 うつ した えて呉れ るな 鳥の 二人の姿/消 いつ まで も」 「 髪 に飾 ろ うか 口ず たお り 満つ/迂符 の轟巌 やはん け しよ うか/君 が 手折 し 態う 鼠 こ対す/岳森城 外 の寒 山寺 桃 の花 /涙 ぐむ よ うな し上うせい /夜 半の 鐘 声 客船 に到 る」 )「 烏噂 」は山名である、 。 おぼろの月に/ 鐘がな ります 寒 山寺」 「 夜半」は鐘 の銘 である とい う説 もある。烏晴 山が 「 江南併記」( 二十)に手帳か らとして収録 された あるとすれば、それ はこの詩 が有名 になってか らつ 三速の蘇州河畔の情景 に示唆 されて 「 蘇州夜 曲」が生 け られた ものである。「 江村」は普通は 「 江楓」となっ まれた とい うのは、私個人の思い付 きである。ちな てい るが、清の学者最適 は 「 江村」が正 しい と考証 し み に西条八十の卒業論文は 「 シング論」で同人誌 「 詩 てい る。( 山田勝美 「 中国名詩鑑 賞辞典 」)0 人」の仲間である富 岳 箇 充は、芥川龍之介 の親友で ホー リーチェンツアイ ラ イ あった。個人的には、具林作詞 「 何 日君 再 来 」や黄 イエラ イシャン テイエ ンヤ ァコオニュイ 清石作詞 「 夜爽 香 」それ に田湊作詞 「天 涯 歌 女 」 清 の考証学者 愈棚 に就 い て は、 「 孤 山寺 、今 の 欝 昌等 を瞥見 してか ら、その先 にある議題 へ行った. ゆきょく え ん 愈楼 は愈 曲園 (「 愈堪」 )の別荘 であるo」(「 江南辞記 」 は中国人愛唱歌であるが、長年私は 「 蘇州夜 曲」を同 六)と紹介 している。 一範噂の唱歌 として認識 していた。 ( 註 12)蘇州河畔 の水の流れ を 「 昼」 「 夕方 」 「 夜」の三 ( 註 13)漢 の武帝の頃、塩 ・酒 ・鉄の専売制 をめぐ 部構成 の時間の流れで叙述 して見せ た内、本文引用 っての議論 をま とめた政治討論集 「 塩鉄論」がある。 の漢文書 き下 し文は、最終の 「 夜」の部分の記述であ 旬奴制圧 の為 に財政政策 の一環 として 「 塩 ・酒 ・鉄 -2 4- 琉球大学教育学部紀要 第7 8 集 の専売制」が、行われたそ うである。高洲太吉は今 詠い華やかな色彩があるとの事である。芥川龍之介 日その経歴は、詳 らかでないが揚州の塩務署に塩官 が、心浮 き立つ気分で想起 した ミュッセの詩 とい う として専門性 を買われて 日本人であ りなが ら勤務 のは、この第-詩集 のことではないかと思 う。 していた訣である。塩務署が公的機 関であることは、 出入 りの際に番兵が敬礼 したことか ら推察できる。 ご ち そ う 笥き韻謬 』と。」(中 ( 註 17)「 古人云ふ。『凝り 窟晋 策 略)「 昔は一曲の議違汲 詩人を韻姦せ しめたれ ど、 のち 「うどんの御馳走になった後、我我 は揚州一見の為 」( 二十八)、ここで言 う話題 東方の窟 ≠勤 怠な らず. に、高洲氏 と塩務署の門を出た。す ると番兵が二三 J つ つ 二十三) 。 人、一度に我我-捧げ銃 を した。」( になっている「 古人」 「 詩人」は杜牧であ り、「 後庭花」 は彼の七絶の第四句である。杜牧 「 泊秦推 」(「 煙は寒 しゆか 月は砂 を寵む/夜 秦准に泊 して 酒家 ( 註 14) 杜牧 「 揚州の韻 髄 鞘管に暮す」の七言絶句 水 を鹿め を松枝茂夫編 「 中国名詞選 ( 下)」(「 岩波文庫 」 )か ら みず ちょう ちょう あきつ 引用す る.借 g t u Lは縫縫た り 水は 逼 迫 た り、秋尽 よ きて 産篇 箪呆 嵩む。 竺 摘 蘭 萌芽 の夜 、 ぎよくじ ん い ず と こ ろ 」(「 青い山々 玉 人 何れの 処 にか韻 儀 を鼓 うるo に近 し/論う 品 ま知 らず 亡国の恨み/産を隔ててあ ほ歌ふ後庭花 」 ) 。山田勝美 「 中国名詩鑑賞辞典 」の 解説に拠れば、「 商女」は、酒 を勧め歌舞音曲をす る 妓女、つま りは芸者である。商は、商売の意ではな 月が照 らす夜、あのきれいな姦たちは どこで霜 を教 く唱 (うた う)意である。 「 後庭花 」(「 王樹後庭花 」 ) こう とい う歌曲であ り、南朝の最後の天子である陳の後 し ゆ 主 ( 王朝末期の天子)が作った曲。歌曲はきわめて えているだろ うな。」) 哀怨で、この風流天子は 日夜 こうした歌曲を奏 して はほの ぐらく、水ははろぼろ。秋 も未になって、江 南では草 も木 も落葉 したことだろ う。二十四橋 を明 ( 二十四橋)揚州の町には川が多 く、橋が二十四あ 歌舞 ・ 宴会にふけ り、ついに晴に滅ぼされて しまっ った。一説には橋の名。古代、二十四人の美女が こ た と言 う。第三句、第四句は 「(ここは晴に滅ぼ され の橋の上で 衝を吹いた と伝 えられ る。( 玉人)別解、 た陳の古都だが)妓女たちは、そんな事な ど知 らぬ 韓縛 を指す。風流才子のことを玉人 とい う。結句は よ 「 玉人何れの処荷か衛を吹か しむ」と訓んで、わが風 げに/亡国の音楽『王樹後庭花』の曲を歌っているの が、対岸か ら聞 こえて くる( 哀れなことよ)」とい う 流才子の韓君は今 ごろ どこで歌姫た ちの吹 く衛 を 意味になる。 聴いているだろ うか と解す る。杜牧 「 揚州の韓緯判 ( 註 18)莫愁に就いては、神 田由美子脚注 「 六朝時 官に寄す」の七言絶句の要旨は、「 揚州節度使の幕府 代の伝説的美女。梁の武帝の 揃 軍の水の歌』(『楽 の事務官、韓縛に寄せた詩。揚州時代の同僚で飲み 府詩集』巻八十五)に歌われている。 」とある。梁の うた ぎ 仲間にそれ とな く昔な じみの歌妓 の消息 をたずね 武帝の漢詩素材 として記録が残 り彼女の詩 は実在 る。」 しない、文字 どお り伝説の美女 とい うことか。 「 河 ( 註 15)「 徐氏の花園」に向かって心楽 しく五月の風 中の水の歌 ( 前半部)」(「 河中の水は東に向かって流 に吹かれて歩 く自分の姿を芥川龍之介は、ミユツセ る/洛陽に女児 あ り 名 は莫愁/莫愁は十三に して 「 五月の夜」の詩 になぞ らえた。 「 柳 、墓、水、恋、 能 くあ 露ねを点 る/十四に して藁を壷る 篇歯の窟 / 草」の 口中の咳 きを うろ覚 えの ミエッセに置 き換 え 十五に して嫁ぎて壷蒙の霧 と為 る什 六に して児 を て見たのである。背後に不安を隠 しての軽快な足取 生む 字は阿侯 ( 後文省略)」 。吉田精一脚注は、詩 りを表現するのであれば、「 江南併記」( 二十四)に挿 人 として紹介す るも具体的な詩 は存在 しない よ う あ こう 入 され るべきは、読替 「 尋胡隠君」の五言絶句の方が そご 的確である。芥川龍之介 「 江南併記」執筆上の敵齢、 かん せい 修辞学上の陥葬である。 山田勝美 「 中国名詩鑑賞辞 こいんく ん みづ わた またみづ わた はな 典」 ( 「 胡隠君を尋ねて」 )「 水を渡 り 又水 を渡 る/花 み ま はな み し ゆ んぷう こうじ よう みち おぽ を看 て 遼 た花 を看 る/春 風 江 上 の路/覚 えず きみ いえ である。 ( 註 19)蘇 ′ J 、 小に就いては、神 田由美子脚注 「 南朝 の頃の杭州の名妓。彼女の出現以来美 しい妓女一般 を蘇小小 と呼ぶ よ うになる程、評判が高かった。」 とある。谷崎潤一郎 「 西湖の月」(「 青磁色の女」)は、 いた 君が家に到 る」の方が紀行文挿入詩歌 としては、適 この蘇小小 に擬 えた薄命 の美女に纏わ る異国締評 切であった。 であるが、 「 私は其の話 を聞いて、図 らず も彼女 と ( 註 16) 文学史的記述に拠れば、処女詩集 「 スペイ 同 じく此の湖の畔でみまかった六朝の名妓蘇小 々 ンとイタ リアの物語」( 一八三〇) には異国の風物 を の事を想ひ出 した。」(「 西湖の月」 ) 。谷崎潤一郎は、 -2 5- 芥川龍之介 「 支那併記 」研究 ( 下) む ざむ ざ始れた.世間の尤物 は皆なが もちがせず、 さ い 忽 ち消え易いものである。 の花 も江南の雪も」) 「 西湖 の月」の終結部 に 自身 が西湖畔散策 の時に西 ほ く 塞北 冷橋 の蘇小小 の墓 の傍 らの記念碑 か ら写 した碑文 を記載す。 「 金粉六朝香車何在/才華一代青塚猶存 」 ( 菓赫題) 。芥川龍之介は 「 江南辞記」執筆 に「 西湖 の 改造」大正八年六月)を参考に してい るので、 月」(「 r , q覇 の釜紡荷 とか云ふ前人 の詩 を思ひ 出 さ うと した。」( 二十八)とあるのは、谷崎潤一郎が 「 西湖の 月」に記載 した蘇小′ J 、 の碑文の事である訣 である。 じ っし ゆき上く 「十 種 曲 」(「 笠翁 の作 った風琴誤 ・慎 響交 ・奈何 天 ・憐香伴 ・比 目魚 ・意 中縁 ・玉掻頭 ・塵 中楼 ・巧 り つ )の作者 「 笠 団円 ・ 鳳求鳳の十種の代表戯 曲をい う。」 をう 翁 」(「 李漁 〔16 11- 79〕 。中国明末清初の劇作 家。笠翁はその号。〔 偶集〕は彼 の随筆集 。」)とい う 江南併記」 十七)は、明 らかに「 西湖の月」 記述事項 (「 か ら示唆 されてい る。 松枝茂夫編 「 中国名詩選」( 下)は、古楽府 「 玉台新 詠 」(「 蘇小小の歌」 )を紹介 している。「 我乗油壁車、 郎乗青駿馬。何処結 同心、西陵松柏下。」(「 我れは油 あ しげ 壁 の車に乗 り、郎 は青 駄 馬 に乗 る。何れ の処 にか 同心を結ぽん、西陵の払う 柘 の下に。」)この蘇小小楽 蘇 府 に示唆 されて作 られたのが、李賀 「 蘇小小墓 」(「 小小 の墓 」)である。 「 幽蘭露/如晴 眼/無物結 同心/ 煙花不堪薮/草如薗/松如蓋/風為裳/水為現/油壁車 ゆ うらん /夕相待/冷翠燭/労光彩/西陵下/風吹雨 」(「 幽蘭の な えん か 露、噴 ける眼の如 し。物の同心を結ぶ無 く、煙花は 盛 るに堪 えず。草は官 の如 く、松 は蓋 の如 し。風 を裳 と為 し、水 を嵐 と為すo蒜昌 壷の車、夕 ごとに相 あお わず ら 待つo冷やかなる翠き燭、光彩 を 労 わす.嵩 り虚 の 下、風 雨を吹 く。」) しんぢや う ( 註 20)「 江南の美人真嬢 〔 秦の麗姫 とったえられ る が事実は呉の名妓であろ う。伝説上の美人。〕の墓 」 ( 十九) 。真嬢 は、唐代の蘇州の名妓で、その薄命 を 伝 え聞いた蘇州知事 であった 白居易 は墓誌銘 を書 箕闇 の いた.「 続国訳漢文大成、白楽天詩集 二」 (「 墓、墓は虎丘寺に在 り」)を以下引用す る。 「 真娘の めん ぼ と う 墓、虎丘の道。/真娘鏡中の面を織 らず、/唯真娘墓頭 くだ れん を の草を見 るのみ。/霜は桃李 を捲 き風 は蓮 を折 る、/ しふ て い し ゆ ろ う こ 真娘死す る時猶少年。/脂膚黄手牢固な らず、/世間 い うぷつ りうれん せ うけつ の尤物留達 し難 し。/留達 し難 く、消欲 し易 し、/塞 ほ く 北 の花 、江南の雪」(「 其娘の墓 は虎丘の道 に在 る。 余は真娘の顔 を見 る機会 を得ず、唯其墓の草を見 る のみである。霜は桃や掌 を諺 き風は蓮 を折 る習で、 まだ年 が少 いのに華著で筈 箱 な美 しい真娘の身 も -2 6-
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