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芥川龍之介「支那游記」研究(下)
小澤, 保博
琉球大学教育学部紀要(78): 1-26
2011-02
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/22293
芥川龍之介 「
支那併記 」研究 (
下)
小揮保博 *
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Ak
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o
Ⅱ「
江南源記 」
集英社 」二)に「
支那辞記」に就いて
「
上海物語 」(「
の以下の発言がある。「
ただこの旅行記 をいま読
1
みなお してみると、意外 に感銘が薄い。た しか
市内観光で過 ご した芥川龍之介は、やがて上海
に上海の茶館や芝居 を語 る彼の筆は、 さすがに
ほう
ふつ
当時の上海 の雰囲気 を紡棟 とさせてはいるが、
を拠点に して周辺の視察旅行 に出かける。 引率
それ はあ くまで も雰囲気 に とどまる。 中国の女
者 は同文書院卒業で支那語 に堪能な大阪毎 日新
の耳の美 しさを愛でて、『西府記』の一節 を思い
聞記者 の村 田孜郎 (
烏江)である。こ うして 「
江
浮かべ、さらに李 笠 翁が女の美 を語 ったなかに
上海到着後一 ケ月近 くを里見病院での療養 と
め
せ い し上 うき
り りゆ うお う
南併記 」の旅が始まった。 当時の支那 を見聞、
も、耳については述べていない。とい うあた り、
視察 した多 くの 日本人に就いて、魯迅 は以下の
彼 の中国文学の素養 が うかがわれ るが、それが
見解 を示 している 「日本の学者や文学者 は大抵
彼 の観 察 に とくに深 さを与 えた跡 も見 られ な
し
上
う
いり
ん
い」、 さらに章柄麟 との会見記 (「
上海済記」十
固定 した考えをもって支那に来 る。支那に来 る
とその固定 した考 え と衝突す る処の事実 と遭ふ
一)に就いては 「この程度の会見記な ら、何 も芥
事 を恐れ ます。そ して回避 します。だか ら来て
上
川 を煩わせ るまで もない、とい う気がす る」(「
も来なかった と同 じ事です」(「
増 田渉宛書簡 」昭
二)
。 この著者 の視線 な ども彼の尊敬す
海物語 」
。これ は人間精神 の本質
和七年一月十六 日)(牲 1)
る魯迅の警告に沿 う筆致である。蒋介石による
に迫 る鋭 い指摘であるが、支那視察旅行 に限っ
大都市上海 での共産党員の繊滅 に就いては、容
た事ではな くて一般的な人間の精神構造である。
赦 な く記述す るも左翼系の作家達の憧憶 と約束
人間精神 は、外界 を在 りのままに受 け入れて正
の地である延安で繰 り広げ られた粛清、洗脳 の
確 に認識 、判断す る程 に偉大ではない。 自己の
階級闘争 に就いては、何 も記述 していない。丸
信奉す る信条で外界 を視覚 し認識す るのであっ
山昇 「
上海物語」
(
は
し
▲
う
モ
んしがき)には、 日本で育った
とう
て、 自らの信念 にそ ぐわない現実は視界に映 じ
中国人作家陶晶孫 の一文が紹介 され てい る 「日
て も精神 に認織 として止まる事はない。 これは
本は、や らずぶ った くりだよ。 くれたのは 日本
普遍的な一般的な人間精神の在 り様で、人間は
精神だけさ。米英人は、ギブアン ドテイクだ。
」、
元来 自己に都合 良 く他者 の存在 を把握す るもの
人民中国で生存 を許 されず台湾に亡命す るも国
であって、 自分が認識 した他者は真実の姿では
民党の支配 を受 ける事に耐 えられず に 日本で辛
うじて生存 を保 ってい るこの中国人作家の過酷
ない。
な現実に、視線が向いていないのである。
この魯迅の発言に沿って言及す る と、丸 山昇
*国語教育教室
-1
-
芥川龍之介 「
支那併記 」 研究 (
下)
に出入 りした思い出)
「
上海済記」(
十七)で芥川龍 之介 が指摘 した支
いく
く
わ
い
か
み
みを
か
く
那の女の耳の美 しさ「
幾 回 掻 耳 」(「
西府記 」)と
りつお う じっ しゆき上く
笠翁 「
十種 曲」に女 の耳の美 しさが無 い とい う
学生 と独逸女性 との関係 を記述 した淫書 「
赤い
芥川龍之介の指摘 は、全体的 に街 学的である と
帽子の女 」が、芥川龍之介の幻の名作 として脚光
松本清張 「
芥川龍之介の死 (
六)」も指摘 し、批判
を浴びた事があった。 その根拠 は、芥川龍之介
一時期 、第一次大戦後の伯林 を舞台に 日本人
的である。「
江南瀞記」(
前置 き)に拠れ ば、中国視
の淫書 を収集す る性癖 と具体的には、中国視察
察旅行 の熱が冷 め切 った半年後 に 「
大阪毎 日新
旅行で 旧独逸植 民地である青島周辺 を通過 した
大正十一年一月一 日一 二月十三 日」)掲載
聞」(「
事が、根拠 になっていた。私見では「
赤い帽子の
になった理 由をすれ違 った二人の支那人が発 し
女」は、文章が流麗 で大家の手腕 を思わせ るが、
ア イ ヨオ
た「
暖嚇 !」(
前置 き)とい う言葉 に誘発 された と
支那視察後の芥川龍之介の体力では到底書 きき
書いている。 田端 の 自宅 に帰宅す る途 中ですれ
れぬ内容 と品格 を持 った幻の淫書である。
違 った二人の若 い男の偶然発 した一語 の間投詞
で半年前の支那生活が、鮮 明に想起 されたのは、
2
二人の若者が特 にその一人 の美貌 が芥川龍之介
ひとり
の注意 を喚起 したか らで あ る 「
殊 にそ の一人 が
伴者 は、上海 の東亜同文書院卒業で上海到着時
上海 を拠点 に して支那視察の旅 が始まる。 同
あまぐわいた ら
薄青 い背広 に、雨外套 をひ っ か けた の には、
けっし上く
よ
う りざね が ほ
え
血 色 の好い瓜実顔や 、細 い銀 の柄 の杖 と共 に、
に芥川龍之介 を埠頭 に出迎 えた大阪毎 日新聞記
しろう
者村 田孜郎 (
烏江)である。欧米諸国の租界都市
議論た る趣 を感 じてゐた」(
前置 き)
。こ うして芥
上海での一 ケ月の療養生活の後、初めての生の
川龍之介 の連想 は、留学 中の支那留学生 と日本
支那社会 との遭遇 である。最初の 目的地は、杭
りゅ うとうぐわい し
人女性 との交渉 を記録 した大衆小説 「
留東外史 」
州(
西湖)である。そ して、個人 として接点 を持
(
吉 田精一脚注 「日本留学の生活 を描 いた 中国の通俗
った支那人は、列車内の車掌である。芥川龍之
ちや うぜ ん
わ うほ さつ
小説 」)の二人の人物 、 帳 全 と王甫察 に及ぶので
介 は、長期 の支那生活 で何 も感 じな くなった村
ある。 日本滞在 中の支那入学生 と 日本人女子学
田孜郎に比べて神経 の使い方が、繊細である。
に
っ
ぽ
ん
日本 の車掌に比べ ると、何だか敏活 な感 じ
生 との情話 を芥川龍之介 は、漢籍 の知識 として
し
上
う
り
上
う
渉 猟 していた訣 である。「
金瓶梅 を始 め痴婆子
侍、紅杏侍 、牡丹奇縁、燈芯奇僧侍 、歓喜奇観
が しない。 が、勿論 さう考- るのは、我我の
-き
け
ん たた
僻見の崇 りである。(
-)
な どの淫書 (
中略)上海の本屋 でああ云ふ淫書が
この最初の支那人に対す る一瞥は、 さらに再
樺 山出てゐるらしいが も し上記の外 の ものがあ
度繰 り返 され る。杭州駅の税 関の役人 もまた同
った ら送って くれ給 -」(「
西村 貞吉宛書簡 」
大正
じく覇気 の無い、無気力を絵 に描 いた よ うに力
七年十一月二十 日)
0
な く応対す るのである。-旅行者のこの鋭 い観
さらに 自身 も支那土産 として この種 の淫書 を
察は、今 日では貴重 なそれである。政治、経済
多量に購入 して来ている。芥川龍 之介 は、上海
を他 国に疎開 された無秩序、混沌の支那の現状
で購入 した この種 の書物 を最後 の歴 史小説 「
古
を余す事無 く我我 に伝 えているか らである。覇
千屋 」の 口述筆記 の協力者 である東京 日日新 聞
気 を喪失 した数億 の人民に民族 、国家の 自覚を
記者 沖本 常吉 に譲 ってい る。「
本所 両 国」に引用
促 し、漢民族再生の為 には何 が必要か、芥川龍
の漢詩 を確認す る為 に漢籍類 を探索 中、偶然 出
之介 は後年 になって端的に述べてい る 「
今 日の
てきた漢籍 の豆本 を感謝 の意 を込 めて贈呈 した
支那の最大の悲劇 は無数の国家的羅蔓主義者即
訣である。
「
ただ引用す る漢詩 を確認 す るために、
ち『若 き支那』の為 に鉄の如 き訓練 を興- るに足
蔵書 を探す のに手間 どり、意外 に も上海 で買っ
る一人のムツ ソリニ もゐない ことであるこ
」(「
保
た とい う豆本の春本 を持 ち出 して来 て 『これ は
儒 の言葉」支那)
。 これ な どは、後年の中国国民
君にや る。』といわれて も時文であって私 には読
めない。(
後 で佐藤 さんにそれ は貰 ってや って よ
党の敗北 と共産党の勝利 、 さらには生活の安定
たが
で韓 の緩 んだ全共産党員 に対す る焼烈なる再教
かった といわれた。)」(「
芥川龍 之介以前」澄江堂
育、人民 中国の文化大革命 を予言 しているよ う
-2-
琉球 大学教育学部紀要
て戸惑いを見せ るのは、一人芥川龍之介だけで
である。
役人はさも悲 しさうに、一一 シャツを畳み
はない。広州駅か ら西湖湖畔の新新旅館 にた ど
ろう
せい
り着 くまでの行程で、人力車の上か ら偶然 「
陳西
ま
ぽ
ろし ぽたん
りぐう
の李腐」(
≡)とい う表札 を一瞥 して 「幻 の牡丹
ぎ
ょ
く
さ
ん
を眺めなが ら、玉 蓋 を傾 けてゐる」(
三)李 白に
直 した り、ボンボンのこぼれたのを拾った り、
鞄 の 中 の整 理 に着 手 して くれ た 。(中略 )
トオ シ エ
「
多謝」と支那語の御礼 を云った。が、彼 はや
ほ
か
は り悲 しさうに、又外の鞄 を整理 しなが ら、
そ
そ
私には眼 さ-注がなかった。(
三)
思いを寄せ るのである。支那の現地で 日本人が、
千年の間馴染んできた李姓の表札 を見て胸躍 ら
せ るのは、海外旅行初心者の誰 もが経験す る事
杭州駅で二人は、予約 した新新旅館 の宿引き
を待 ち続 ける。二人 を自分の指定の宿に案内 し
である。車上の芥川龍之介は、千年の時間を越
こう
かん
えて一人李 白と対話す る。巷間流布 してい る
た
い
は
く
し
ゆ
う
太 白集 の内で どの刊本 を是 とす るか、ゴオティ
よ うとして、支那人達の 口論が喧 しい。支那語
で罵声 を浴びせ る村 田孜郎 を横 目に見なが ら芥
すず め
第7
8集
をか
さい れ ん
川龍之介は、「雀 が丘のナポ レオンのや うに、悠
-いげい
然 と彼等 を埠映 してゐた。
」(
三)
エ翻訳 「
た蓮の曲」を どう思 うか、 さらには胡適
はくわし
推進の 白話詩 に就いての見解 を聞きたい とい う
たむろ
こ うした駅 に 屯 す る支那人の阿鼻叫喚は、人
感想である。(
註2)しか し、こ うした現地での夢想
民中国が消 し去 りたい過去の汚点ではあるが、
は瞬時に直面す る現実の前に崩れ るのである。
幕末維新期に 日本 を訪れた欧米人 もまた嘗ての
日本で、杭州駅で芥川龍之介が経験 した同趣 旨
菌轟か嘉鵜 先生の 「
支那漫遊記」を読んでゐ
かうし
う
た ら、氏は杭州の領事 にでもなって、悠悠 と
の体験 を しているのである。二人は新新旅館 の
余生を送 る事が出来れば、大幸だ とか何 とか
出迎 えの人力車 に揺 られ て長 時 間、闇の 中を
せいこ
西湖 に向かって身 を委ね るのである。車窓か ら
アラビア
一瞥す る生活の断片は、
芥川龍之介に 「
亜刺比亜
云ふ事だった。しか し私は領事 どころか、
漸江
とくぐ
ん
ど
ろ
いけ
の督軍に任命 されて も、こんな泥池 を見てゐ
せつか う
や
わ
ア ラ ビア ン
ナ イ
る よ り は 、 日本 の 東 京 に 住 ん で ゐ た
ト
い。 ・・・・・・(
七)
夜話 」(「
m bi
A
a
n Ni
g
ht
sアラビアの伝説集」)の秘密
の世界 を想起 させ、 「
スマ トラの忘れ な草」(「ス
マ トラの伝説に、においをかげば記憶をうしなうとい
直面す る支那の現実を前に して机上の理想の
はく
き上い
支那は、瞬時に崩れて しま う。しか し、白居易や
う草がある」)が もた らす秘密 の生活 を想像す る。
蘇韻の詩宗で育まれた西湖 を現実に見た時は、
何故 に芥川龍之介 は、杭州 に出向いたか、 目
芥川龍之介は率直に感動 を記述 している。先に
せ い こ
的は西湖である 「
西湖 は薄 白い往来の左 に、暗
引用 した魯迅の書簡 に拠 るな らば、芥川龍之介
い水面を広げたな り、ひっそ りと静ま り返って
は 自己の詩想 を拠 り所 に 自ら自己陶酔の喜びに
ゐ る。
」(
四)
浸った事になる。西湖がいかに俗化 してい よ う
か け い だ うくわ う
西湖の 自然は、嘉慶道光の諸詩人のや うに、
せんさ
い
繊細な感 じに富み過 ぎてゐる。大まかな 自然
ぶんじ
んぽく
かく
に飽 き飽 き した、支那の文人墨客には、或は
そこ よ
其処が好いのかも知れない。(
七)
と唐詩選で育んだ夢想が、破壊 されて も現実の
西湖の接近は、彼芥川龍之介 に とっては喜びで
あった筈である。それは、宿泊先の旅館で傍若
無人に振舞 う米国人 を記述 している事で対比的
「
支那群記」の中での最大の失望の地は、西湖
に際立っている。
である。そ して 自身の落胆の意味を芥川龍之介
は、明瞭に記述 している。積年憧憶 の地に降 り
薄明るい水面が現れて来た。西湖 !私は実
いか
際 この瞬間、如何 にも西湖 らしい心 もちにな
立ち、 自身の憧憶の実態が何であるかを如実に
四)
った。 (
認識 しているのである。一般的な西湖憧憶の源
谷崎潤一郎は生前二度の支那渡航 を成 したが、
泉が、芭蕉 「
奥の細道 」である事 は明確 である。
ふそう
どう
て
い
「
松 島は扶桑第-の好風に して、お よそ洞庭 ・西
果た し得ぬ洋行 の代償行為であって、別 に支那
湖 を恥 ぢず。」(
松島)とある。
ば上侮-一戸を構-て もいい くらゐに思ってゐ
の風物 に心惹かれた訣ではない、「
気に入った ら
最近まで 日本人の対外経験 は、限定 されてい
た私は、大いに失望 して帰った。西洋 を知 るに
たので書斎での理想、空理空論 を現地で確認 し
は矢張 り西洋-行かなければ駄 目、支那 を知 る
-3-
芥川龍之介 「
支那酵記 」研 究 (
下)
には北京-行かなければ駄 目である。」(「
上海見
西湖一周の見学を成す。 さなが らベネチアを訪
聞録 」大正十五年五月)
。戦前の 日本人に取って
れた欧州各国の貴族が、南国の情緒を堪能する
は、支那渡航は洋行 に代わ りえる唯一の地であ
の と同 じである。 しか しなが ら現実の西湖は、
った。谷崎潤一郎、芥川龍之介に とっても支那
「
唐詩選 」の詩的情緒が 日本人に与えた叙情性 と
渡航 は、時間的、肉体的、経済的に生活 し得 る
唯一の土地であった訣である。千年 の長きに亘
り支那は、孔孟の聖人の国であ り、その風物は
は無縁な世界 「
まあ、大体の感 じを云ふ と、湖水
お ほみ づ
た ん ぽ
と
な
なぞ と称- るよ りも、大水の田圃に近い位であ
「
唐詩選 」で親 しんで来た世界である。 日本の文
介の率直な感想である。詩的散策 とは本来 こう
る。」(
六)とい うのが、西湖に就いての芥川龍之
人達の支那渡航 は、脳裏 に刻 まれた理想の支那
い うもので、奈良、京都が現在 も日本人を引き
を逐一破壊 して歩む行為で もあった.新新旅館
付 けて魅 了す るのは、歴史、文学の育んだ保養
に宿泊の夜、芥川龍之介は攻塊の棚の下で村 田
メ
イク
イ
こかく
孜郎 とひ と時を過 ごす 「
攻塊、微雨、孤客の心、
の地を自分で確かめる、 自己の心象に植 えつけ
一此処までは詩になるか も知れない。
」(
五)、し
る。私的経験でも「
つ らつきい とらうたげにて眉
か し、傍若無人の数人の米国人の振 る舞い、ス
のわた りうちけぶ り」(「
源氏物語 」
若紫)とい う
られた詩想の実態 を確認す る為に古都 を散策す
まゆ
ラングを連発す る教養のない一人が立小便 をす
眼差 しを関西出身の若い女子学生の風貌に見出
るのを 目撃 して、支那の現状 を認識す る。谷崎
して感動 した思い出がある。吉野散策の折に花
潤一郎 「
天苦賊の夢」のよ うな ロマ ンチ ックな作
吹雪を連想 させ る淡雪を頬 に受けて古典世界の
品創作は無理であると、嘆息す る。「
天苦織の夢」
び ろ う ど
(「
大阪毎 日新聞」
大正八年十一月∼十二月)は、
現実を体験 した記憶 もある。 この 日早朝、芥川
がぽう
龍之介は同伴の村 田孜郎 と船頭の引率で画肋 と
谷崎潤一郎第-回の支那旅行の成果である。 こ
は名ばか りの小船に同乗 して西湖遊覧の旅に出
の時に現地の支那人 との接点が無 くて、傍観者
るのである。今 日地図で確認す ると芥川龍之介
し
んし
ん
宿泊の新新旅館は、環湖北路沿い、 日本人が多
として各地を無責任、気侭 に他者 との接点を持
たず に遭遥 した ことが夢想的な作品を産んだ と
く宿泊す る杭州飯店 に隣接 している事が窺 える。
言える。
なか ぞ ら
ぱう
ばう
把だ と煙った水の上には、雲 の裂 けた中空
つま り、芥川龍之介は昨夜、杭州駅下車後に杭
州市外を横断 して西湖 を半周 して駅か ら見て対
か ら、幅の狭い月光が流れてゐる。その水 を
岸の湖岸 に到着 した訣である。「
おい、君、新新
旅館 はまだ遠 いのかね ?」(四)と途中で芥川龍
勢 こ横 ぎったのは、巌 か鞠 烹 莞㌣ないo
堤 の-箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛 り
之介が溜息を洩 らし、 さらには車上退屈を紛 ら
上ってゐる。(
四)
わす為に独逸文法のお さらいを した と言 うのも
西湖の一瞥で これだけの感慨 を芥川龍之介に
領かれ る距離ではある。「
それが名詞か ら始まっ
たど
て、強変化動詞にだ りついた時」(
四)、西湖の気
覚えさせ るのは、千年の時を関 して 日本人に与
「
唐詩選 」に部外漢である米国人に とっては西湖
配 を感 じた と記述 してい る。湖岸 か ら前方 に
こざん
はく
孤山を遠望 しなが ら酉湖 を漕いで行 くと「
昔白
は、部びた薄汚れた遠浅の陳腐な田舎の湖であ
楽天の築いた、自提」(
六)を遠望す る事になった。
る。「
私は陶然たる絹
自堤には、二の橋が架かっていて芥川龍之介か
え続 けた酉湖の詩的情緒の賜物である。 しか し
ら くてん
み
君 と諸 島のないサロン
は くてい
と
-引き返 した。水戸の浪士にも十倍 した、棲夷
ら見て近景に畝嵐
遠方に端第嵩である.「
断橋
五)とい うのは、西
的精神 に燃 え立ちなが ら。」(
は西湖十景の中、残雪の名所になってゐるか ら、
湖の詩的意味を解 しない米国人に対す る怒 りで
六)とい うふ うに芥川龍
前人の詩 も少 くない。」(
ある。
之介は、解説 している。酉湖十景は、「
吉田精一
脚注 (
蘇 堤春 暁 ・柳 浪 間食 ・花港観魚 ・曲院風荷 ・双
3
峯挿雲 ・霊 峯西照 ・三帝 印月 ・平湖秋 月 ・南犀晩鐘 ・
ざ
ん
せってい
断橋残雪)」 とある。 「
現に橋畔の残雪亭 (「
乾隆帝
新新旅館 に一泊 した翌朝 (
五月三 日)、芥川龍
之介は村 田孜郎 と湖畔に停泊 中の画肋 に乗って
(
清朝六代の高宗)が南巡のお りかかれた御碑のある
-4-
琉球大学教育学部紀要
第 78集
事。」) には、靖の聖祖 の詩碑 (「
聖祖 は清朝 四代 の
がく
わう
べう
た後 に芥川龍之介 は、 「
岳王廟」を訪れ るが、画
康 照帝 の こ と。その詩碑 は湖 中の島であ る三帝 にある。
肋 での航跡 を確認す る為 に執筆時に「
西湖十景」
芥 川 は乾 隆帝 の御 碑 と と りちが えて い る。」)が建っ
てゐる」(
六)
。芥川龍之介 は、西湖湖畔の詩碑、
の支那絵画 を参考 に している事がわかる。 この
き
上
く
い
ん ふうか
場面は、清朝博南 田「
曲院 の風荷」(
西湖十景)を
乾隆帝の御碑 を実見 してい る。清朝六代の高宗
参考 に して多少の感 興 を覚 えた らしくて 「
但し
乾隆帝 を清朝 四代康照帝、清の聖祖 と取 り違 え
西湖 はつま らん と云って も、全部つま らん次第
た訣 である。清朝 四代皇帝、聖祖 と呼称 され る
康照帝の詩碑 が、西湖 の三薄 とい う孤島の地に
川龍之介の西湖全般 に対す る過度の思い込み、
ぢや ないがね。
」(
七)と感想 を洩 らしている。芥
ある。芥川龍之介は三淳 に立寄ってい るので、
と言 うよ り日本人一般 に対す る西湖-の愛着の
「
晴の聖祖」(
康照帝)を康照帝ではな くて、乾隆
第一は、言 うまで もな く芭蕉 「
奥の細道 」に よ り
帝 と単純 に誤 ったわけである。
普遍化 され た。 山 田勝美 「
中国名詩鑑 賞辞典 」
画筋 は、 白堤 に架 か る最初 の橋 である錦帯橋
(「
角川書店」昭和五十三年七月)の蘇拭 「
湖上 に
を潜 り抜 けて西湖十景の一つである平湖秋月の
飲 し、初 め晴れ後 に雨降 る」(「
水光 激灘 晴方
よ
くうt
}
う
と
に好 し/ 山色 空漠 雨 も亦奇 な り/西湖 を把
れ ん えん
情景 を横切 り孤 山に上陸す る。
ひん
よ
はれ ま さ
っ て 西 子 に比 せ ん とす れ ば/ 韻凝
議謀
す
あいよ
総べて相宜 し」
)の解説 に拠れば 「
そもそ も、こと
ふそう
ふ りにたれ ど、松 島は扶桑第-の好風 に して、
どう
てい
きさ
がた
お よそ洞庭 ・
西湖 を恥 ぢず。
」(
松島)「
象潟は憾む
不思議 にも晶の好い三層楼があった。水 に
せきし
臨んだ門も好 けれ ば、左右 に並んだ石獅 も美
す ま い
しい 。 これ は何 物 の 住居 か と思 っ た ら、
あん ぐ う
あと
ぷんら
ん
乾隆帝 の行宮の虻だ と云ふ、評判 の高い文潤
かく
闇だった。(
六)
けん りゆうてい
が ごとし。寂 しさに悲 しみ を加-て、地勢魂 を
せいし
悩ます に似た り。/象潟や雨に西施がねぶの花 」
「
四庫全書」を保管 した文潤 閣を一見 したな ら
ば、漢籍類 に造詣のある芥川龍之介 には何 ほ ど
(
象潟)の二箇所の記述 は、前掲蘇輪 の詩 を踏
かの感興があった と思 えるが、残念 なが ら立ち
まえてい るそ うである。
入 り禁止で周辺 を遭遥 したに止まったのは今 日
惇南 田「
曲院の風荷」、西湖十景の一つの場面
か ら見 る と残念 で ある。村 上哲見 「
蘇州杭州物
を画肪 で過 ぎ、やがて芥川龍之介 と村 田孜郎 の
がく
わう
べう そう
がく
がくおう
のは
か
二人 は有名 な 「
岳王廟」(
宋岳邸王之墓)の前 に出
語 」(「
集英社 」昭和六十二年九月)に拠れ ば、「
四
ち
上
く
め
い
庫全書 」は清 の乾隆帝 の勅 命 で最初 四部制作 さ
る。この采 の岳飛墓前での芥川龍之介の写真 は、
ぷ ん えん
れ て北京 の紫禁城 (
文淵 閣)、円明園 (
文源 閣)、
ぷんそ
ぷんし
んかく
奉天 (
文遡閣)、承徳 (
文津閣)の四箇所 の清朝縁
同伴 の村 田孜郎撮影 と思われ るが、有名 な もの
で広 く流布 してい る。
がくひ
し
んく
わ
い
ち
やう
し
ゆ
んら
岳飛の墓前には鉄柵 の中に、秦 槍 張 俊 等
かつかう あん
めんばく
の鉄像がある。像 の恰好 を按ず ると、面縛 さ
の地に書庫 を作 って保管 したが、後 に同 じ乾隆
し
上
う
ち
上
く
帝 は 詔 勅 で さらに三箇所 に書庫 を作 って保管
ぶ ん わ いか く
ぷ ん そ うか く
れた所 に違ひない。(
八)
を命 じた。揚州 (
文匪閣)、鎮江 (
文幕閣)、杭州
ぶんら
ん
かく
孤山(
文潤閣)の三箇所で、前二箇所 は太平天国
面縛 され た秦袷夫妻像 も有名でよく知 られ て
の乱で全焼 し、杭州孤 山の文潤閣のみ補修 を経
いる。 これ な ども隣国なが ら、 日本の風土 との
てか ろ うじて 「
四庫全書」を保管 していた訣であ
相違 を明瞭な らしめる象徴は無いであろ う。 上
る。 これ は今 日では、漸江省 図書館 になってい
坂冬子 「
我 は苦難 の道 を行 く江 兆銘 の真 実 (
下
るそ うである。芥川龍之介一行 は、 ここを素通
こざんじ こうかじ
ゆき上く
え
ん
りして孤 山寺 (
広化寺)を一瞥 して愈 曲園の別荘、
巻)」(「
講談社 」
平成十一年十月)には、戦時下に
南京 にあった江兆銘政権の主席の面縛 の脆像 の
ゆ ろ う
愈楼 を見物 している。そ こで芥川龍之介 は、別
ゆ き よく えん
ほう
ぎ
ょ
く
り
ん
荘 の所 有者愈 曲園の為 に清 末 の武 将 彰玉麟 が
写真 を掲載 してい る。 これ な ども日中両国の国
民感情の相違 を明瞭に示す ものである。 日本敗
せ きこく
描 いた 「
梅花の図」の石刻 を実見す る。 この石刻
あ
け
ぽ
の
ち上
う
の谷崎潤一
の拓本 を芥川龍之介は、本郷 曙
戦 と同時に南京国民政府 の重鎮は、尽 く重慶の
郎の書斎で 目撃 していて懐古の情 を覚 える。
亜戦争開戦内閣の閣僚は、戦後全員被告 として
かやおきのり
旧敵国に拘留 され るも賀屋興宣蔵相、岸信介国
町
蒋介石 の国民政府 によ り処刑 されてい る。大東
七)を見学 し
「
森方ミ
7
1
ミ
の墓 」 磁 違女史の墓」(
-5-
芥川龍之介 「
支那辞記 」研究 (
下)
務相 は戦後政界 に復帰 してい る。
がく
ふん
岳飛 を祭 った 「
岳墳 」とそ この脆か されている
の平和 と民生の醸成 に貢献 した南采 の宰相秦槍
秦槍夫妻 の事跡 に就 いては以下、前掲村上哲見
日本で も同 じである として芥川龍之介は以下の
「
蘇州杭州物語 」の記載事項 を参照 させ ていただ
意見を述べ る。
である。こ うした図式化 して分か り易い構図は、
ゐ
く。漢民族 の国家采 は、建 国以来異民族である
い なほす け
た と-ば井伊直弼の銅像が立つには、死後
のぎ
何十年 かを要 したが、乃木大将が神様 になる
ほと
んど
には、 殆 一週間 も要 さなかったや うな もの
姦策族 か らの圧迫 に苦 しんで来た. 契丹族 であ
り
上
う
る達 は、自らが支配 していた同 じ騎馬民族東北
である。(
八)
の女真族 の金 の圧迫 を受 け、采 の都 開封は北方
きそう
騎馬民族 の金 に征服 され て采 の天子 である徽宗
き
んし
ゆ
う
皇帝、欽 宗皇帝の父子は異民族 に泣致 され て北
なんけい
方に去 る。残 された欽宗皇帝の弟、康王は南京応
し
上
う
き
ゆう
天府 (
河南省 商 丘B)で采 の皇統 を受 け継 ぎ南宋
ここで芥川龍之介 が、乃木将軍を例 に出 した
のは 「
将軍」で英雄否定の立場か ら将軍乃木 を描
いて公権力 による伏字の憂 き 目に遭 った経験以
外 に、支那民衆の立場 にお もねったか らで もあ
初代の高宗 となる。東北の騎馬民族女真族 の金
そ
は 、 華 北 の漢 民 族 の統 治 の 為 に低 値 政 権 楚
ら
よ
う
ほう
し
よ
う せいり
ゆうよ
(
張 邦 昌 )、斉 (劉 務)を作 り、南宋征服の為 に
し
ょ
う
こう ニンポ臨安 、越州、明州 (
杭州 、紹 興、寧波)を制圧す
る。井伊直弼 は、幕府武力の劣勢である事 を認
識 して米国 との不平条約 に道 を開き、平和 と独
立 を辛 うじて保つ も尊皇壌夷の水戸脱藩浪士に
切 り殺 され る。乃木将軍指揮 の第三軍は、 日露
るも南采 の高宗は明州 (
寧波)か ら温州 (
福建省)
戦争最大の人的被害 を出 しなが ら戦後 は、国民
に逃れて南采 は、現存 し続 ける。
的人気 で他 の第一軍、第二軍の指揮官の武功を
采 の都 は金の 占領地開封 であるが、南采 の高
圧倒 して しまった。一世紀以上の長 き間異民族
宗は温州か ら越州 (
紹興)に帰還 し、最終的に杭
り
んあん
州(
臨安)を都 に した (
北方領 土回復 を求 め る強
け
んこう
硬派 は健康 〔
南京〕臨時首都 を主張 した)。南采
金 に譲歩 して民生の安定を図 り、生活 向上に貢
び
ょ
う
し
上がく
ふん
献 した南采 の宰相秦袷 は、広大な廟 所 「
岳墳」の
片隅で面縛 され脆いて民衆の罵声 と切実 を浴び
まう
かん
ている。「
何でも此処 に詣でるものは、彼等の姦
の高宗の支持 を得 た秦櫓 は、金 との和平交渉 に
を憎む為 に、一一 これ らの鉄像-、小便 をひっ
ゆ
かけて行 くさ うである」(
八)。岳飛が、救国の英
尽力 し以後支那全土 を騎馬民族モ ンゴルの元が
制圧す るまでの百数十年 の間の平和 を保 ち江南
の生活水準の向上 に貢献 した。 この時 に異民族
ちよ
う
し
ゆ
ん かんせいち
ゆう
の金 に抗戦す る武将の中で、 張 俊 、韓世 忠 、
雄 になる為 に堅実な政治家秦槍 は、敵役 を演 じ
岳飛 の三人の中で前二者 は妥協 して平穏 な世で
つ素朴な感情 に就 いて芥川龍之介は単純な武人
続 けねばな らない。 日中両国に共通の民衆の持
優雅 な生活 を送 って天寿 を全 うす るも岳飛のみ
岳飛 を黙殺 し、秦槍 の置かれた困難な対場 を付
は、金 との妥協 を拒否 して宰相秦槍 に よ り獄 で
度成 さしめる事無 く、乃木将軍 と井伊直弼 に置
殺 され る事 になる。 こ うした歴史的事実を踏 ま
き換 えて話題 を類型化 して見せたのである。 こ
け
い
せいし
やくさ
ん
さ
い
き
や
く
だ
ん
こで芥川龍之介は、清の景星 杓 「
山斎客評 」の中
かんぞく
か ら- 挿 話 を紹 介 して い るが 、粁賊 秦 袷 が、
き
んげ
んみん さ
んてう けみ
のち
「
金元明の三朝 を閲 した後」(
八)罪 を許 され る
えて芥川龍之介 は、次の よ うな感想 を述べてい
る
。
一体民衆 と云ふ ものは、単純 な もの しか理
く
わんう
がくひ
解 しない。支那で も関羽 とか岳飛 とか、衆望
民話 、古評 である。 「
岳墳」
廟所 を探索 して、岳
を集 めてゐる英雄 は、皆単純 な人 間である。
飛廟 の前で記念写真 に納ま り秦槍夫妻 の拝脆す
或は単純な人間でないに して も、単純化 され
る像 に多少 の同情 を寄せた芥川龍之介 の感慨、
易い人間である。(
八)
「
江南瀞記」(
八)の記述 は簡単で今 日か ら見ると
こ うして南采 の正 当性 を一貫 して主張 し、異
物足 りない側 面がある(
註3)0
民族金 に対す る徹底抗戦 を叫んで獄 中で死んだ
「
支那湛記 」(「
改造社」大正十四年十一月)を芥
岳飛 は、漢民族救国の英雄 に祭 り上 げ られた。
川龍之介 の仕事で最 も優れた ものであると評価
この民族英雄の敵役 は、武力で圧倒 す る金 に対
して、読了直後に上海 に渡 って生涯支那世界に
し政治的な譲歩 を して民生の安定 を図 り、国民
のめ り込む事 に成 った村松松風 も「
支那辞記」の
ー6-
琉球大学教育学部紀要
第 78集
街学的な側面について指摘 している。「
中国の民
那全土は、異民族統治の時代 を迎 えるのである。
情や国情 に対す る洞察が無い とか、思想的なも
漢民族の持つ宿命 に就いての芥川龍之介の識見
のが無い とか言ふのは無理で、大体、彼 は趣味
が、 「
支那湛記」の随所 にあって もよい と思 う。
岳
家であって思想家ではない。」、これ な ども「
騎馬民族国家元 もやがては、漢民族の隆盛 によ
しゆげ
んし
ょ
う
り朱元嘩 により打倒 され る。 こうした史実を踏
墳 」に詣 でて秦槍夫妻 の拝鞄の胸像 を 目撃 した
後 に画肪 に戻 り、孤 山に引き返 して湖畔で昼食
まえて人民中国になって も周恩来は、漢民族の
弱体を見て再び 日本人が漢民族の制圧 に及んで
を摂 る芥川龍之介の横顔 か らも納得できる理解
である。
せ きけつ そ ん
も必ず失敗 し、故国に立ち戻 る事になると断言
こすゑ
石褐村の柳の 梢 には、晩春の 日影が当って
げん
せうじ
ゐる。院小二はその根がたに座った億 、 さつ
している。漢民族 と辺境騎馬民族 との数千年 の
抗争の歴史を踏まえての発言である。
げ んせ う ご
きか ら魚釣 りに余念がない。院小五は鶏 を洗
「
岳王廟」見学後の二人は、画肋で孤 山の東岸
ほ うちや う
はん くわん
いれずみ
けん せ う しち
ろうぐわいろう
のある飯 館 (
「
料理 店」)楼外楼 で食事 を摂 る。「
水
って しまふ と、包 丁 をとりに家の中-はいつ
ぴん
ざ く ろ
さ
-ラ
た。「
撃 には石棺の花 を挿 し、胸 には青 き豹 を
耕伝 」に就いての空想 は、この時食事中のつかの
いまだ
刺 し」た、 あの愛 す べ き院小 七 は 、 未 に
ふるぬのこ
そ こ
古布子 を洗ってゐる。其処-のそのそ歩み寄
ちたせいごよう
ったのは、-智多星呉用で も何で もない。(
九)
間のそれである。芥川龍之介に拠れば、一年前
孤 山に戻って行楽の支那人 を見なが ら昼食 を
紀行文に報告 しているそ うである。
たけばや し む さ う あん
に新婚旅行 で この地 を訪れ た武 林夢想庵 夫妻
読売新聞」掲載の
は「
楼外楼 」で食事 を した事 を「
しや うが に
こひ
一年後 に同地を訪れ 「
生妻煮 の鯉」を食 しなが
摂 る芥川龍之介は、少年時代の愛読書である「
水
か
は
川
西湖 を遠望 しなが らの束の間の幻想 は、現実の
ら芥川龍之介 は、嘆息 して見せ る。相棒は、少
ゆ
ん
ろう
おし し
年時代 「
押 春浪の冒険小説 」 を 愛読 して 日露戦
支那人の登場で破 られ る。芥川龍之介の支那視
争参加 の経歴 を有す る九州耕丸出 しの無骨な田
新伝」の作 中人物 に連想が行 くのである。しか し、
べん
察旅行 は、今 日か ら眺望す る と蒋介石の国民革
舎者村 田孜郎である。 この辺の機微 について軽
命 軍による北伐 四年前であ り、辛 うじて古い支
快 に書 き進 める筆致は、芥川龍之介天性 の もの
と
こ
であ り、ある種の才能である。「
私は現在床の上
那の形骸が痕跡 を留めていた時であった。 しか
し、芥川龍之介 に多少で も政治的、思想的な配
慮があれば岳王廟か らの帰路にあって新櫓の脆
に、八度六分の熱 を出 してゐる。頭 も勿論ふ ら
のど
十)、肉
ふ らすれば、喉 も痛んで仕方が無い。」(
像 を 目撃 して、支那世界に介入す る事の危険に
体的に坤吟す る中での執筆でも軽妙な味わいの
就 いての感慨があって もよかった。千年以前の
雰囲気で読者 を軽い笑いの世界に誘い込む筆致
南采の置かれた過酷な政治状況 に思いを致 しな
は、芥川龍之介本来の もので 「
羅生門」の題詞 に
が ら同 じ宋代の英雄浪漫 「
水溶伝 」に発想が、飛
掲げた 「
君看双眼色/不語似無愁」の五言対句が、
躍す るのは安易である。
彼 の文学営為活動 に規制 を加 えた と言 えるか も
異民族金 との政治交渉で江南地方 に空前の繁
知れない。昼食後に二人は、孤山の岸辺か ら西
栄 をもた らした南宋 の宰相秦槍、千年 に及ぶ異
湖の さらなる湖上の島、 「
三薄の印月」 (「西湖 中
民族的か らの迫害に、当事者漢民族 の実態の考
の島。晴の聖祖の詩碑がある。」)に向かって画筋で
とうば かう
しう し
乗 り出す。湖上の小島には、「
東披が杭州の守だ
さん たん
察に思いが及んでいないのである。騎馬民族で
いん げつ
あ り、異民族である金 は、武力で北采 を制圧す
った時、み をつ くし(
「
舟の水路を知らせる杭」)の
るも南采の経済的な繁栄 を止 める事は出来なか
為 に建 てた と云ふ 、石塔 が三つ残っ てゐ る。」
った。芥川龍之介の支那紀行 の二十年後 に 日本
(
九)
。小島に上陸後 に二人は、池に架 け られた
ち
ん
橋の一つに設け られた亭 (
唐音)
、あずまや に落
も漢民族 の政治的弱体であることを理 由に騎馬
ち着いて一服す る。視線 の彼方には、九百年以
ぽ
んじ
前 に蘇 軟 の作 った石 塔 、「
焚 字 を封 ん だ完岩 」
民族金 と同 じく、漢民族制圧 の武力侵攻の愚 を
冒すのである。江南地方の豊かな繁栄 を搾取 し
て、武力で漢民族 を制圧 し続 けた金 もやがて よ
(
十)が見える。
そこ
我我は其処の事の中に、この石塔を眺めなが
り強大な騎馬民族元によ り、共々制圧 されて支
-7-
芥川龍之介 「
支那併記 」研 究 (
下)
轡玲瑞。万株松樹青山上。十里沙陸明月中。
」を
ら、支那の巻煙草を二本吸った。それか ら、ロシア
露西亜 の ソ ヴイエ ツ ト政府 の話 は したが、
そとうば
蘇東坂の話は しなかったや うである。(
十)(註 4)
証 5)。つま り、芥川龍之介はこの
引用 している (
時村 田孜郎 を相手に愛唱の 白楽天、蘇東壕の詩
歌を諸ん じて見せて村 田孜郎は、支那語でその
この一文は何であろ うか、明 らかに芥川龍之
そとうば
介の文飾、修辞学の一つである。「
蘇東城の話は
音調 を披露 して海苔を傾 けあった可能性がある。
それが本文 中に記載 された紀行数年後の記述事
そとうば
項 であ る 「
蘇東坂 の話 は しなかっ たや うであ
」とい うのは反語で、蘇
しなかったや うである。
東被の話 を したのである。社会主義関係の英語
十)とい う屈折 した表現になった可能性が
る。」(
だ
ん
けう
ある。これに就いては、先に芥川龍之介は「
断橋、
文献 を多量に読み付随 して労農 ロシア、 ソヴイ
エツ ト政権の人民大量粛清に就いて情報をいち
早 く掴むのは帰国後の最初の軽井沢滞在 中であ
る。 この時、支那文献に通 じている芥川龍之介
損 、蓄峯畝 - そ聖等の美 を談ずる事は、締
九)と言い徳 富蘇峰
先生に一任 して も好 い。」(
と東亜同文書院卒業で支那語 に堪能 な村 田孜郎
「
支那満湛記」のよ うな支那絶賛の記述ではなく、
の話題 は、徹頭徹尾蘇輪 と白居易の話題であっ
自己の 「
支那源記」
全体 を現状の支那の真実か ら
た筈である。初 めて西湖 を一瞥 した時に、芥川
帝離 しないように工夫 している。 白楽天、蘇東
龍之介は既存の知識 を駆使 して感動 を持って記
ばう
ばう
述 した。「
荘把 と煙った水の上には、雲の裂けた
坂の詩想で培 った観念的な世界を朽 ちかけた現
実によ り侵食 され る事を怖れ、現実の支那を黙
な かぞ ら
殺 して 自分の脳裏で醸成 された詩想に酔 う愚を
中空か ら、幅の狭い月光が流れてゐる。その水
か胃道に違ひない.」
を瓢 こ横 ぎったのは、巌
冒さない為である。
よ た う か くわゑ ん
とう
そ の夜唐家花園 のパル コンに、西村 と藤
いす
ばかばか
椅子を並べてゐた時、私は莫 ち莫ち しい程熱
わるぐ
ち
長江湛記」
心に現代の支那の悪 口を云った。 (「
(
四)、西湖の知識 の第-は、 白居易造営の 白堤
であ り、第二はその後二百年後に蘇拭 によ り作
られた蘇堤である。後で芥川龍之介は、自居易
-)
造営の 白堤を確認 して次のよ うの一文 を添えて
はくらく
て
ん
はく
てい
いる。「これは昔 白楽天の築いた、白堤なるもの
もっとせ きばんで り
ゑ
気の置 けない友人 を相手に詩想に育まれ、脳
づ
裏に積年刻 まれた 日本人の理想の地の現実の荒
に相違ない。尤 石版刷の画図を見 ると、柳や何
か
ぢ
ゆう
し
う
き
かが描いてあるが、重修 した時に伐 られたのか、
さてい
六)とい うよ うに 自
今は唯寂 しい沙堤である。」(
廃、退廃振 りとその余 りの帝離に芥川龍之介は、
己の知識 と行動 を紀行文執筆時に絵図で確認作
飾 と文学的な修辞で彩 られ結果になったのは、
業を している。 白楽天 と蘇観 の詩業 によ り培 わ
その必然性があった と言 うべきである。
苦 しんでいる訣である。 「
支那済記」全体が、粉
れた印象が、西湖の既存知識である事 を明 らか
4
に している。蘇観 は、西湖の望湖楼上で酒 を飲
ぽうころう
みなが ら七言絶句 を五首作 っているが、「
望湖楼
す い し上
ら
い
ほう
た
ふ ほし
ゆく
た
ふ
西湖散策の最後は、雷峯塔 と保倣塔の二つの
ごぜ つ
の酔書、五絶の二」(「
湖上に飲 し、初 め晴れ後に
雨ふ る」)は先に引用 している。「
の酔書、
こ
く
う
ん すみ ひるがえ 望湖楼
いま
黒雲をど
墨を 翻 して 未 だ山を
五絶の- 」(「
らず/ 白雨 珠 を跳 らせて 乱れて船 に入 る/
た
ち
ま
ぼう
地 を巻 くの 風 来 って 忽 ち吹 き散 ず/ 望
ころうか
湖楼下 水 天の如 し」)とい う七言絶句が有名
8
#'
塔の見学である。二人は、画舷に乗 り故山の麓
つ
さ
んたん いん
げ
か ら岸 を離れ、三津の印月 (「
西湖中の島。清の聖
祖の詩碑がある。」)に行 く。吉田精一脚注は、西湖
中の島の名前の如 くに脚注で説明 しているが、
これは西湖の島の岸辺の固有名詞であると芥川
龍之介は記述 している。「
三淳の印月は孤山か ら
ちや うど
見 ると、丁度 向 う岸 に近い島のほとりにある。
禁 ゑo 「
望湖楼 」(「
西湖
門外の
か ん のほ
きん ろ う とり、絹
昭慶寺の前にあった。看経楼 ともいわれ、宋初
島の名は何 と云ふのだか、これは西湖全図にも
いけだ
し
る
九)
。西湖の
池 田氏の案内記にも記 してない。」(
に建 て られ、西湖 が一望 の もとになが め られ
白居易 に就いては、池 田桃川 「
江南の名勝史
小島か ら二人は、画肋で湖畔にた どり着 くとそ
ぴゆ う
ら
いほう
た
ふ
こには、雷峯塔 (「
西湖の南犀山麓にある塔。呉王謬
跡 」か らの孫引きで 「
半酔閑行湖岸東。馬鞭敢鐙
が建てた。」)が、聾えていた。 これは芥川龍之介
中国名詩鑑賞辞典」にある。
た。」と山田勝美 「
い け だ た うせ ん
-8-
琉球大学教育学部紀要
第7
8
集
りすう
図、李崇 「
西湖図巻 」の模写を見なが らの記述の
あ かれ ん ぐわ
の筆 によれば、「
唯 この塔 は赤煉瓦の壁-、一面
っ
た
か
づら
ざふき
い
た
だき
に蔦 轟 をか らませ たばか りか、雑木 なぞ も 頂
可能性 がある。西湖 に対 して反感 を隠 さない芥
ほう
せきざ
ん
ほし
ゆく
た
ふ
川龍之介 も宝石 山に奪 える保倣 塔 を遠望 し、白
こざん
堤の尽 きた所の孤 山を眺めた時は、多少の賞賛
なぴ
には磨 かせてゐる」(
十)とある。 この雷峯塔 は、
芥川龍之介がその全貌 を眺望 して三年後 に崩壊
し、現在 は再建 されていない よ うである。雷峯
けい
せいつう
げん
塔 自蛇伝説の一つである「
警世通言 」(「白娘子永
を寄せている。
か う云ふ景色 は何 と云って も、美 しい事だ
いな
ひし
けは否み難 い。殊 に今 は点点 と菱の葉 を浮べ
おも
て
ま
ん
ち
や
く
に
ぷ
た水の 面 も、底の浅いのを晴 着すべ く、鈍い
ぎ
んいろ
銀色に輝 いてゐる。(
十一)
鎮雷峯塔」)(
註6) で知 られ る。この中国 白話小説
集 の-篇 侶 韻芋、永 く雷峯塔 に遠 め らう」は、
白話小説 の-篇 としてではな くて、芥川龍之介
画肪 によ り二人は、遠景 として横たわる孤 山
の場合 は これ を下敷 きに した上 田秋成 「
雨月物
じ
やせい いん
語 」(「
蛇性 の淫」
)(註 7)の愛読 による知識 である。
芥川龍之介は、 「
退 省庵 」(「
清の巡撫使彰玉麟の釣
に向か って再び湖 上 を移動 して行 く。 目的 は
ほう
かく
てい
毒
瑞 篇(
註8, の縁の地である放鶴事である.林和
をしてたのしんだところ。西湖の南岸。」)を一瞥 して
靖は、本名 は林道 (「
北采の詩人。字は君復。処士と
雷峯塔 の見学に向か うが、その筆致は暗示で満
ちている。雷峯塔 を 目撃す る前に芥川龍之介は、
号すO銭塘の人Q真采より和靖と誌名された。」) で
さう
きよ
かく
巣居閣 (
「
放鶴革の右にある。」)は、その書斎である。
二度 に亘 り現実の蛇の存在 を 目撃す るが、概 し
林和靖 は、梅 を植 え鶴 を飼 って孤山で隠棲 生活
てその気持 ちを愉快 な ものでは無い と繰 り返 し
を送 った。 下僕は客人が来 ると鶴 を放 って、湖
てい る。朽 ち果て る直前の雷峯塔 の実見は、心
上で風流 を楽 しむ林和靖 を迎 えにや った とい う
楽 しい期待 を抱かせ るものでなかった。
ぢ
い
ひとり ぴく
桟橋 には支那人の爺 さんが一人、魚藍 を前
ぐ
わぽう せんどう
に坐 りなが ら、画肋 の船頭 と話 してゐ る。そ
故事が伝 わる。 これ を記念 して孤山の北側 に放
たい しや うあん
りん ぼ
鶴事が作 られた とい う。林和靖は、「
林和靖詩集 」
(
二巻)収録 の三百余首の漢詩で知 られ るが、い
の魚藍 を覗いて見た ら、蛇が- ばいはいって
たい しや い ろ
ゐた。(
中略)ちょい と上の枝の股 には、代賭色
あぷ ら ぎ
はんし
ん
まき
に 脂 切った蛇が一匹、半身 は柳 に巻っいたな
ずれの作品 も破棄すべ きものを好事家が収集 し
り、半身は空 中にのた くってゐ る。(
十)
外ではな く、優雅 な隠棲生活 を平穏 に送 る事 を
つ ま り、中国 白話小説 「白娘子永鎮雷峯塔」の
可能 に した潤沢な経済生活 を羨んでいる。
た ものだそ うである。宋代のこの詩人の事績 は、
日本 にも遍 く知 られていた訣で芥川龍之介 も例
わた し
舞台である雷峯塔 の 目撃直前 に現実の蛇 を生の
お t
)や
姿で実見す るとい う舞台設定である。そ してそ
かゆ
の気持 ちを「
私 は背 中が痔いや うな気が した。勿
私 に しても箱根 あた り-、母屋が一軒に物
とう
置が一軒一書斎 、寝室、女中部屋等、すっか
ひとり
り揃ったのを建てて貰った上、書生一人、女
論 さ う云ふ心 もちは、愉快 な もので も何で もな
中一人、下男二人使って好 ければ、林処士の
い。」(
十)とい うよ うに吐露 してい る。
真似 な どはむづか しくもない。水辺の梅花 に
げ な ん ふ た り
わけ
西湖 の南岸 の雷峯塔 に向かい合 い、対になっ
鶴 を舞 はせ るの も、鶴 さ-承知すれば訣無 し
て保倣塔 が奪 えてい る。崩壊 して跡形 もな くな
である。(
十一)
った雷峯塔 に比 して こち らは、現在 も再建 なが
千年昔の伝説の隠棲生活 に毒づいたのには、
らも存在 してい る。保倣塔 については、芥川龍
芥川龍之介の方 に其れな りの事情があったか ら
之介 の実見の記憶 は、唆味な ものであった よ う
である。養子の身で筆一本で多 くの扶養家族 を
だ。帰宅後の絵図で、それ を確認 して図式的な
養 う事 を宿命付 け られた、 自己の人生の前途 を
説明を してい るか らである。「
西湖全図によると
ほ うせ き ざん
き や しや
思い計 ったか らである。我孫子住まいの志賀直
ほ しゆくたふ
哉 を訪 問 して、創作の行 き詰ま りを訴 えた芥川
宝石 山には、華奪な保倣 塔 の姿 も見える。 この
ほそ ぼ そ
よ うす
ら うなふ
塔 が細細 と突 き立った容子 は、老袖 の如 き雷峯
龍之介 に親 の財産で優雅 な田舎暮 らしを楽 しむ
塔 に比す ると、正 に古人の云った通 り、美人の
志賀直哉 は、創作活動の休止 を助言 してい る。
如 きものがあるか も知れ ない。
」(
十一)
。 この一
「さ ういふ結構な御身分ではないか ら」(「
沓掛 に
文 は帰国後 に田端の 自宅で末代の最古の西湖全
て一芥 川 君のこと-」
)とい うのが、その時の芥
-9-
芥川龍之介 「
支那済記 」 研究 (
下)
北寺 (
「
一名、報講寺。呉の孫権がたてたという九
そ
んけ
ん
層の塔がある。」) は、三国時代 の呉の創設者孫堅
川龍 之介 の返事であった。
西湖 の孤島か ら再び画舷 に乗 り対岸 に渡 ろ う
せい
れいけう
としてす ると支那 の女学生が、大勢西冷橋 に向
の呉夫人の寄進 に よ り始まる とい う。呉夫人の
かって歩 いて行 くのに遭遇す る。 孤 山のあ る西
長男諒嘉 の後 を継 いで呉王 となった弟 の譲握の
湖の孤 島か ら対岸 に向か う彼 女達 は、黒 と白の
りうじ
よ
制服 を着用 して柳架の舞 う中を歩 んで行 く。
時代であ る。芥川龍之介が九層 の北寺か ら眺望
ず い こ うと う
した瑞光塔 も孫権 が、創設 した普済禅 院 (
瑞光
服の晩春風景の清麗 な寸描 で ある。
りうじ
よ
か あひだ
岸 には柳架の飛び交ふ 間 に、白い着物-黒
通 玄寺 と称 した、現在 は報恩寺 と呼ばれ ている
のスカア トをはいた、支那 の女学生 が二三十
と説明 され ている。 吉 田精一脚注の報講寺の方
寺)の跡 であ ると言 う。北寺に就 いては、当初は
せ いれ い け う
人、ぞ ろぞろ西冷橋の方-歩いてゐ る。(
十一)
が古いので こち らの脚注が誤 ってい る とい う事
こ うした絵画的 な場面の寸描 には、愛唱す る
であろ うか。
どうt
,ん か う か く よ き あい
北寺 を後 に した二人 は、再び鹿馬 に乗 り蘇州
け
んめう
市内を散策 して回 る。最初 に訪れたのは 「
玄妙
漢詩 の印象が介在 してい る。「
洞門高閣鯨拝謁た
たうりいんい
ん
りうじ
よと
り。桃李陰陰 として柳架飛ぶ 」(「
奥 が深 く見 える
あ いぜ ん
ぐわん
観 」(「
蘇州城内の最繁華地にある道教の寺。」)であ
宮門 と高閣 とが、日将に暮れ なん として、寵然 と
かす
すで
して霞んで見 え、桃李の花 は巳に落 ちて、緑葉
をぐら
わた
が陰陰 として小暗 く、架 のや うな柳 の花 は風 に
る。 この寺の境 内で芥川龍之介 は、武芸 を演 じ
翻って飛び、春 も最早や暮れ よ うとす る。」)
。こ
世界 に思い を寄せ る。 この時の感慨 は、 日本人
くわ く き ふ じ
る二人の男 の見世物 を見物 して一時 「
水新伝」の
むく
れ は王維 「郭 給仕 に酬 ゆ 」の 冒頭 箇 所 を 「
唐詩
の外国文化受容 と拒絶 の基本的原型 の思考 を示
選」か ら引用 したが、晩春 の風景の推移 を寸描す
(「
現在の雲林寺。西湖の北方にある。呉王謬が建てた
してい る。
につほん
ば きん
いったい
一体水音
許伝 と云ふ小説 は、 日本 に も馬琴の
は
つけんでん
八犬伝 (「
『
南総里見八犬伝』
。江戸時代の読本。滝
し
んたう
「
岳高定高画作。
沢馬琴作。」)を始 め、神稲水済伝 (
とい う。」)訪 問で終 る。村 田孜郎先導 の短期杭州
一八二八年から明治にかけて発表。」
)とか本朝水
視察旅行 は上海帰着 で終 り、芥川龍 之介 は、数
建部綾足作。一七七三年発表。」)とか、い
子
許伝 (「
日間の上海 での保養 の後 に今度 は一週 間の蘇州
ろい ろ類作が現れ てゐる. が、水手
許伝 らしい
方面の旅 に出る。 同伴者 は、今度 は上海里見病
心 もちは、そのいづれ に も写 されてゐない。
院入院 中に芥川龍 之介 を囲んで連座 を楽 しんだ
上そき
俳人 島津 四十起 である。
(
十四)
るのに力添 え してい る可能性 はあ る。 上海 を基
点 としての杭州 の数 日間の短期滞在 は、霊隠寺
ほん て う
支那 の 「
水耕伝 」が輸入 された時に、支那原型
の基本 的な要素の 日本化が無意識 に成 され てい
5
る。 この辺 の 「
水瀞伝 」に就 いての見解 は、同時
芥川龍 之介が俳 人 島津 四十起の先導 で蘇州 を
新小説 」大正十一年一月)
期執筆 「
神 々の微笑 」(「
視察 したのは、記録 に拠れ ば大正十年五月八 日
で よ り鮮 明に論理 的、思想 的な対話形式で語 っ
であ る。上海の宿舎 で寝過 ご した為 に夕方蘇州
ている。「
神 々の微笑 」の主題 に就いては、遠藤
し ま だ たい ど う
駅 に到着 、出迎 えの島 田太堂 (
「
島田数雄。「
上海 日
周作が以下の如 くに要約 してい る。 「
いかなる外
報」
主筆。」)は、三度迎 えの為 に蘇州駅 に出向いた。
国の宗教 も思想 もそ こ-移植すれ ばその根 が腐
翌 日、芥川龍之介 は島津 四十起の案 内で駿馬 に
り、外形 だ けはた しかに昔のままだが、実は似
乗 って北寺の塔 に登 り蘇州 市 内を一望す る経験
而非な るものに変 わって しま う日本の精神 的風
をす る。 この九層 の塔 の上か ら市 内の反対側 、
」
(
「
『
神 々の微笑』の意
土を指摘 しているこ とだ。
蘇州駅 の近 くの瑞光寺の古塔 を遠 望 して、眼下
味」日本近代文学大系月報)
。芥川龍之介が、「
神々
に沈んだ蘇州の街並み を見下 ろす。 九層 の北寺
の微笑」の主題 を何処か ら得たか、今 日では見当
るたく
はつ いてい る。ハイネ 「
流請 の神 々」の主題 をア
の面前 で蛙馬 に乗 った芥川龍 之介 の写真 は、広
く知 られ ているが、撮影者 は無論 島津 四十起 で
ナ トー ル ・フ ラ ン ス 作品 を介在 に、あるいは
あろ う。
ハー ンの著述 によ り発想 を得 たのである。支那
-1
0-
琉 球 大学教 育学部紀要
第7
8
集
の「
水併伝」の原型の一体何が、 日本渡来時に喪
その後の国民党 と共産党の抗争をさらには、後
失 したか。芥川龍之介は端的に一種の超道徳思
者による支那全土の統一を不気味な程に予言 し
想であると断言 している。
たし
かぶし
よう
確 武 松 の言葉だった と思ふが、豪傑の士
はう
く
わ
の愛す るものは、放火殺人だ と云ふのがある。
ている。国民党の蒋介石は国民党内の内部抗争
で繰 り返 して下野 している、国民党政権が民主
主義政権であった事の証である。 これに反 して
が、 これは厳密 に云-ば、放火殺人を愛すべ
中国共産党の毛沢東は、遵義での中共政治局拡
くんば、豪傑たるべ Lと云ふのである。いや、
て
いねい
も う一層丁寧に云-ば、既 に豪傑の士たる以
くく
上、区区たる放火殺人の如 きは、問題 にな ら
大会議で政権の権力 を手に して後再び政権 中枢
か ら離れ る事はなかった。
かう
べ めぐ
英雄 頭 を回 らせば、即ち神仙 (「出典未詳 」)
ぬ と云ふのである。(
十四)
隣国支那に関す る情報、渡航の 日本人は数多
さんごくしえんぎ
いた し「
三国志」
(
「
三国志演義」
)「
水瀞伝」を愛読
と云ふ言葉がある。神仙は勿論悪人でもなけ
ひがん
れば、同時に又善人でもない。善悪の彼岸に
たなび
棚引いた、霞ばか り食ふ人間である。(
十四)
した 日本人 も数知れなかった。戦前の 日本人の
これな どは、人民中国建国後に自国民を粛清
支那に関する情報が、今 日の 日本 に比 して貧弱
と人民裁判の階級闘争で平時において七千万人
であった とは思えない。 しか し、 「
水音
許伝 」を介
殺害 し、政権 を維持 した毛沢東の出現を予言 し
しての芥川龍之介の理解 に及ぶ者は存在 しなか
ている。数 ヶ月の病身を押 しての視察旅行であ
った。広範囲の 日本人が、一面的な支那蔑視の
りなが ら芥川龍之介は、 自家薬龍 中 物 とした
じ
か や くろ うちゆうのもの
感情 を脱 して支那人の本質に就いての理解 を共
「
水耕伝」の知識により支那の現実をそ
「
三国志」
有す る事が出来た ら戦前の 日本人の対支那政策
の誤 りはなかった。 「
水粁伝」の世界が 日本に輸
の未来を含んで圧倒的な正確 さで予言 している。
かう
べ めぐ
「
英雄 頭 を回 らせば、即ち神仙」に就いて、最
入 された瞬間 「
水済伝」の 日本化が成 されて しま
初私は芥川龍之介愛唱漢詩の一節 「
変 らざる者
い、 日本人は「
水軒伝」が内包 していた支那世界
よりして之を観れば」(註 8) (「
英雄興亡のはかな さ
の本質 を見失 ったのである。戦中 「
南京国民政
を歎 じた蘇輪の名文 『前赤壁賦』に 『自共変者而観之
府」の中枢 にいた要人、周仏海、陳公博、胡欄成
則天地合不能以一瞬、自其不変者而観之則物与我皆無
等 ら皆、 日本長期滞在 を有 して支那人の本質 を
尽也』とある。本所両国)を変形 させた言い回 し
見失 った連中である。 日本の陸軍士官学校で学
か と推測 した。念の為にネ ッ ト検索 してみた ら、
こう
て
いけ
ん
これは蘇輪の弟子である黄庭堅の「
絶句」である
び勝者 となった蒋介石 もその一人であったか も
知れない。中国共産党の内部でも芥川龍之介の
として紹介 してある。「
半竿春水-蓑煙/抱月懐
言 う超道徳思想 において遅れ を取った支那人は、
中枕斗眠/説輿時人休間我/英雄回首即神仙 」
は
ん
かん
りふ
(
「
半竿の春水-蓑 の煙/月 を懐 中に抱 きて斗
悉 く党内粛清の波の中で消えて行 った。
いち
に
ん
天下は一人の天下にあ らず と云ふが、 さう
こ
んく
ん
云ふ事を云ふ連 中は、唯昏君 (「りっばでない君
いち
に
ん
主。」
)一人の天下にあ らず と云ふのに過 ぎな
はら
い。実は皆月
土の中では、昏君一人の天下の代
せ つ よ
じ じん
に枕 して眠 る/説輿す時人我に間ふを休せ よ/
英雄頭 を回 らせば、即ち神仙」
)(証 9)
蘇州市内の繁華街、玄妙観 を盤馬でめぐって
みた時の感想 を芥川龍之介は、率直に記述 して
りに彼等即ち豪傑一人の天下に しよ うと云ふ
いる。上海 に比べて全てが沈滞 して、若い女達
のである。(
十四)
の振 る舞いも何か俺 しさがあ り活気が感 じられ
村松梢風 「
中国の民情や国情に対す る洞察が
無い とか、思想的なものが無い とか言ふのは無
ない。
わ
たし
く
わ
ん
の
ん まう
私 は昔 ピエル ・ロティが、浅草の観 音 に詣
理で、大体、彼は趣味家であって思想家ではな
でた時 も、こんな気が したのに違ひない と思
」と言 うのが、「
支那併記」に対す る批判であ
い。
った。(
十四)
る。 しか し、半生を支那世界に投入 した村松梢
蘇州の繁華街 を肌で感 じての芥川龍之介の体
風は支那の末梢的な現象 を書 き続 けただけで本
験は、その後の支那の動乱 とそれに巻き込まれ
質 を掴 めなかった。芥川龍之介の この洞察は、
て国家 と民族の滅亡寸前まで走 り続けた 日本の
ー11-
芥川 龍之介 「
支那瀞記 」研 究 (
下)
運命 を暗示 してい るよ うであ る。 後年 、竹 山道
を保ち人心を感化するものとして尊重した。」)、吉田
雄 は 日本 軍 占領 下の北京 の公 園で同年輩 の 中国
甚 しいか
精 一脚 注 は 「
礼楽 」には脚 注 を付す も 「
人が、周 囲の視線 を意 に介す る事 な く子供 の世
な、礼楽 の衰-た るや 。
」全体 に対す る説 明は、
話 に没頭 してい る姿 に不信 の念 を抱 いたが、敗
れ いが く
る自己を見出す事 になる。 そ して 自分 のそ の姿
無 い。 これ は 「
礼楽」に付帯 して東京生 まれ の芥
あや
川龍之介 が無意識 に発 した言葉 の文 であるC つ
ぷんび上う
孔子廟をい う.」) 読
ま りは、江南第- の文 廟 (「
だじやれ
論語」に残 され た
問 を意識 した駄酒 落 で あ る。 「
を怪討 な視線 で見守 る一人 の進駐 軍兵 士の視線
孔子の言辞 の言い回 しを我流 に言い直 したので
を感 じるが、米軍将校 の視線 は数年 前 に北京 の
ある。例 えば、「
子 日、甚臭吾衰也。久夫吾不復
は
な
は
子 日は く、 甚 だ しいかな、吾が
夢 見周公 。」 (「
また
し
ゆう
こう
衰-た るや。久 しいかな、吾復夢 に 周 公 を見 ざ
じ
ゆ
つじ
」)といった孔子 の嘆 きの言辞 (「
論語 」述而
るや。
戦後彼 は衰退 、混乱 の 日本 にあって鎌 倉の海 で
周 囲の全 てを没却 して子供 の世話 に没却 してい
公園で 中国人親子 に注いだ 自分の怪許 な表情 と
重な る。
蘇州 市 内観光 の一 日(「
大正十年 五月九 日」)、
夕方芥川龍之介 は島津 四十起 の先 導 で孔子廟 を
第七)を文意 を変形 させ た訣 である。
てんbんづ
名 高 い天文図 (
「
十二支に配 した星座の図」)や
きざ
支那全 図の石 に刻 まれたの も此処 にあ るが、
うす あ か
ひ め ん
た
だ
よ
あた りに 漂 った薄 明 りでは、碑面 もはっ き り
禦 るo荒廃 した孔子廟 に近づ くにつれ て、鈍
万古の気持 ちにな った と言 ってい る。
さ
いこ
ん
此処 は明治七年 に再建 され た とは云ふ もの
そう
はんちゆ うえん
はじ
かう
なん
ぶん
の、宗の名 臣汚 仲 滝 が創 めた、江南第- の文
ぺう
廟 であ る。(
十五)
とは見 る事 が出来 ない。(
十五)
汚仲滝 は、 日本 では水道橋駅前水 戸徳川 家 の
「
地理図碑 (
全 国地
宋代 三大石刻 (「
天文 図碑 」
′
いこつ
「
平江図碑 (
蘇州 の市街 図)」)は、蘇州 の孔子
図)」
庭 園や 岡 山池 田藩 の庭 園 「
後 楽 園」の命名者 と し
廟 大成殿 に会 ったが、現在 は蘇州博物館 に保存
て知 られ てい る。 「
天 下 の楽 しみ に後れ て楽 し
されてい るそ うで ある。
む。
」(
「
古文真 宝 」
「
文章規範 」
)等 の流布本 で広 く
6
日本 人 に知 られ てい る苑仲掩創設 の孔子廟 の荒
廃 が、胸 を打つ のは公園 と して整備 され て広 く
蘇州到着 二 日後 (「
大正十年五月十 日」
)に二人
市民に親 しまれ てい る東京 、岡 山の二つ の 「
後楽
は、蘇州 郊外天平 山 白雲寺 と霊巌 山霊巌 寺 を訪
こそ
かんざんじ
れ る。 途 中で蘇州郊外 (
姑蘇城外)の寒 山寺 も訪
こ うが い てん ぺ い ざん は く う ん じ
園」と比較 したか らであ る。芥川龍 之介 は、今 関
とし
まろ
」(「
議論
寿麿 「
体言尭是人家 国。我亦書生好感 時 。
れ い がん ざんれ い がん じ
ねてい る。 そ して翌 日は、蘇州 を離れ て鎮江に
向か う。 霊巌 (
岩)山霊厳寺 は、蘇州市内か ら十
したって しょうがないよ。結局人の国 じゃないか。私
も勉強 している身の うえだ。この世の中に感慨をいだ
五 キ ロで二人 は、昨 日同様 に駿馬 に乗 って蘇州
くのもむ りはなかろう」)の漢詩 を想 起 したの は、
市内を出発す る。 天 平、霊巌 の二の山は市 内か
支那視 察旅行 に出 る直前 に今 関寿麿 「
東 洋画論
らほぼ等距離 にあ る登撃可能 な高 さの峯である
改造 」大正
集成」(
上下)を典拠 に して 「
秋 山図 」(「
事が、芥川龍 之介 の筆 で理解 され る。
あいにく
生憎 空 は曇 っ て ゐ た が 、 も し晴 れ て ゐた
れいがん てん
とす れ ば 、彼 等 の 窓 の 向 うに は、霊 厳 、天
ぺい せいがん
ゑが
平 の青 山が 、描 い たや うに見 えた事 で あ ら
十年一月)を執筆 した記憶 が、蘇 ったか らで あ る。
花仲滝 が造 った 「
江南第- の文廟 」の荒廃 に胸 を
痛 め、同時 に隆盛 を極 めた孔子廟 大成殿 の荒涼
十六)
う。 ・・・ ・・・(
た る状況 に蒼荘 万古 の懐 旧の思 い を抱 いて胸 中
は、複雑 に屈折 してい る。 孔子廟 大成殿 に行 く
天平 山 白雲寺 を見学途 中で芥川龍之介 は、山
ために幾 ば くかの見料 を支払 わな くて はな らな
の途 中の事で過激 な排 日の落書 きを 目撃 して こ
い。僅 かな見料 を受 け取 り、芥川龍 之介等 を案
ほのじ
ろ
内す る貧 しい母娘 の先導 で毒 だみ の花 の灰 白い
れ を手帳 に控 えてい る。 同伴 の島津 四十起 は、
意 に介せず に俳句 の創 作 に苦吟 の様子 である。
そ う うん は
も
っ
と
「(尤 も島津氏 は平然 と、層雲派 の俳句 を題 して
夕湿 りの敷石 を踏 んで境 内に入 って行 き、「
甚し
れいがく
」(
十五)と嘆息す る。
いかな、礼楽の衰- たるや 。
れいがく
礼儀 と音楽。中国で、古くから社会の秩序
「
礼楽 」(「
ゐた。)」。これ な どは、旅行者 の新鮮 な視線 で支
那 の現状 を認識す る者 と定住者 と して支那 の現
-1
2-
琉球大学教育学部紀要
第78集
実 に向い あ う者 との対比 が、鮮や かで あ る。排
越 しでひ と時 を過 ご したのは 「
西施洞 」の近 くだ
日、侮 蔑 の罵声 の文言 に囲 まれ て俳 句 に没頭す
った訣 で あ る。
はんれ い
る精神 で なけれ ば、支那 での 日常生活 を過 ごせ
「
把 轟 (「
越王勾践につかえた謀臣。楚の人。」)の幽
ない とい う事 で あ る。 支那で長期 生活 す る 日本
閉 され た石 室 」 も支那 の事跡 に対す る関心 は、
人 には、 ある種 の類型 が ある。今 日で言 えば、
二千五 百年 以前 の事 なので一般 日本人 には無縁
米 国欧州 で長期 生活 を送 る 日本人 に類型 が見 ら
で あ り、芥川龍 之介 も例外 ではない。蒋轟 が広
れ るの と同 じで あ る。 後年 自己の生活 革命 の為
く 日本 人 に知 られ てい るのは、南北朝動乱期 に
に何 処 か に逃 亡 しな けれ ば と芥川龍 之介 は書 い
」(「
歯 車 」五)。 この晩年 の文言 には、
なかっ た。
鎌倉幕府 打倒 を 目指 して失敗 、隠岐 に配流 され
ごだいご
る失意 の後醍醐天 皇 を励 ます為 に在所 の桜 の木
こじまたかのり
に児 島高徳 が、志 を述べ た詩 で有名 で あ る。「
天、
こう
せん
はんれ い
勾践 を空 し うす るこ となかれ 、時 に苑姦 な きに
数 ヶ月 の支那生活 に耐 え られ なか った典型 的 日
)は、戦前 の国定教科書記
Lもあ らず」(「
太平記 」
本人 、書斎人芥川龍 之介 の 自噺 が あ る。 芥川 は
載事項 で誰 で も知 ってい る話 であ る。
「
マ ドリッ ド-、リオ- 、サマル カ ン ド- 、
たが 、
あ ざわ ら
わけ
ゆ
一 僕 はか う云ふ僕 の夢 を切実 はない訣 には行 か
せ い し
「
上海辞 記」の案 内者 で ある村 田孜郎 の支那社会
だん きん だい
くわんあきゆ う し
第一西施 の弾琴 台 とか、名 高い館 娃 宮地 と
ろく
か云ふ の は、裸 の岩 が散在 した、草 も禄 にな
む
村
で の生活振 りを賞賛 していた。
らた
田君 が突然 立 ち上 りなが ら 「
八月十五 、
げつ くわ うめい
せ いひ て う
ぷかは
月 光 明 」 と、西皮調 の武家披 の唄 を うたひ始
も
っと
めたのには一驚 した.尤 もこの位器 用 でなけ
き
みほど
-うり つう
げう
れ ば、君程複雑 な支那生活 の表裏 に通 暁す る
い 山頂 で あ る。(
十八)
ほうし
ん
呉王夫差 を伝説 、伝承 の時代 に 「
棒心」(
両手 を
胸 にあて る)とい う姿態 、眉 を肇 めるその姿 の優
雅 で華麗 な事 で呉国 を滅 亡 させ た西施 の極 限の
事 は 出来 な い か も知 れ な い。(「
上海 瀞 記 」十
美貌 は、跡 形 もなか った とい う事で ある。 霊厳
六)
山の 中腹 にあ る 「
西施洞」では、避暑 中の西施 は
たいこ
眼 下の太湖 を眺望 して遥 か故郷 を偲 んだ伝承 が
天 平 山登琴 の後 に三つ 目の 目的地 で あ る霊厳
山登 山 を成す。 霊厳 山は言 うまで もな く紀 元前
あ るそ うだ。数 千年 以前 の支那 の伝承 を十分 に
の呉越 抗争 の舞台 で あ り、- 日本人 と しての芥
踏 ま えて芥川龍 之介 は、以下の如 くに述懐す る
川龍 之介 の場合 も例外 ではない。
のであ る。
は
る
か たいこ
それ に天気 で も好 かったな ら、進 に太湖 の
せ い し だ ん きん
霊巌 山は伝説 に もせ よ、西施 弾琴 の岩 もあ
は んれ い
い しむ ろ
すゐ くわ う
れ ば、苑轟 の幽 閉 され た石 室 もあ る。 西施や
水 光 か何 か 、 見晴 らす 事 が 出来た の だ が 、
あいにくけふ
もこ
う
んえん
生憎今 日は どち らを見て も唯模糊 た る雲煙 が、
ごゑ つ
苑轟 は幼少 の時 に、呉越 軍談 を愛読 した以来 、
いまだ
ひ い き
ぜ
ひ
未 に私 の魚層役者 だ か ら、是非 さ う云ふ 古
立 ち迷 っ てゐ るばか りである。(
十八)
蹟 を見て置 きたい。(
十七)
呉 国 を滅 亡 させ た西施 の美 しさは、二千数 百
霊巌 山は呉王夫差 が美女西施 の為 に建 てた離
年 を閲 した今 とな って はす でにその片鱗 も失 わ
宮 、祐 経 営のあった跡 で あ る.西施 は、援 兵晶 が
よ こうひでん
とうじ
)に記録 が あ るの に反 して、歴
「
唐 書」(「
后妃伝 」
れ て しま った。裸 の岩 だ らけの 山頂 で芥川龍 之
史文献 「
史記 」には記載 が無 いそ うで あ る。 西施
介 は、途方 に暮れ てい る。 しか し、呉国滅 亡の
りたいはく
千年 後 に西施 の事跡 を 目撃 した李太 白に は 「
官
弾琴 の岩 (「
西施は西暦前五世紀後半、中国春秋時代
『
唐詩選』七、『
李白越中懐
女如花満春殿 」(註 lo) (「
の美女。越王勾践が呉王夫差をたおすための道具とさ
古』の一節。宮中につかえる女たちはまるで花のよう
れた。その西施の琴をひいたとい う岩。」)も伝承 で あ
にこの館姓にみちみちている。」)とい う七言絶句 が
る。 西施 の伝 承 で今 日まで人 口に胎 衆 され た故
あ る。 霊厳 山霊厳 寺 で西施 の事跡 を 目前 に して
ひそ
なら
事 は、 「
西施 の聾 み に倣 う」(「
饗み に効 う」
)で あ
で詩想 を育んだ芥川龍 之介 は、惨惰 た
「
唐詩選 」
る。 霊巌 山の頂 上 にあ る霊厳 寺か ら下 山途 中に
る境 地 で あ る。 これ に反 して、 「
層雲派 」(「
明治
そ う うん は
西施 が夏 の暑 さを避 け、避 暑 に使 った洞窟 「
西
四十四年、荻原井泉水が 『
層雲』 という雑誌を出し、
観音洞 」
)が あ るそ うであ る。この 日の夕
施 洞 」(「
それによった無季題 ・新傾向の俳句の一派。」)の俳 人
と
んち
ゃく
島津 四十起 は、 「
私 に頓 着 な く、悠悠 と手帳 を
方 、二人 が雨 に降 り込 め られ て冷気 の 中で喧嘩
-1
3-
芥川龍之介 「
支那済記 」研究 (
下)
けふ
拡げなが ら、今 日得た俳句 を書 きつ けてゐ る。
」
ぅである。 さらに 庵 森簸芥 の寒 山寺」(「
楓橋夜
(
十八)と対照的である。霊巌 山霊巌寺 に登撃 し、
泊 」)とある寒 山寺が、禅僧寒 山 と拾得の縁の寺
下山途 中で雨に降込め られ て霊厳 山の中腹 で同
として 日本人に馴染みがあるか らである。
こ
き
う
邸
である。 翌 日は、鎮江に向かって蘇州 を離れ て
虎 も荒廃 を極 めて ゐたつ
け。 あす こは
ごわうかふり上
こ
んにち
ちり
づか
呉王閣闇の墓だ さ うだが、今 日では全然塵塚
いるのであるか ら、霊巌 寺登肇後 に蘇州市内近
の山だね。(
十九)
伴の島津 四十起 と脱み合 ったのは夕方 四時過 ぎ
めいさつうんがんじ
虎邸 は、現在は六朝時代 の名 刺 雲岩寺 とその
郊の虎丘、寒 山寺 を見学 した とは思 えない。天
平山、霊厳 山登肇前 に途 中で二 ヶ所 を短時間見
「
支那済記 」の記述が多様 な方法 を駆使 し、表現
塔の位置す るところだそ うである。 開聞の時代
ごししよ はくひ
に呉は、敵国楚の亡命者伍子背 と伯密の二人を
せい
迎 える。 「
孫子」(
十三篇)は、斉か らの亡命者で
そんぷ
ある孫武 が伍子背 に提 出 した兵法書である。呉
上の工夫が見 られ るのは、芥川龍 之介 の才知 の
の開聞は、越王句践 を攻撃 して戦病死す る。太
表れである。これ は 「
何何併記 と証す るもの程 、
子夫差が父の開聞を埋葬 した地が、虎邦 である。
凡庸 を極 め た読 み 物 は 少 な い 。」(「
紀行文論
開聞の墓の入 り口に剣池 と言 う池があ り、その
(
仮)」
大正十年以後)とい う本人の 自覚 の上に成
前 に千人石 とい う一枚岩があるそ うだ。剣池は、
され た表現上 の工夫で あ る。 ちなみ に 「
江南済
剣 を愛 した開聞の為 に三千の剣 を倍葬 した事か
物 したのであろ う。寒 山寺 と虎丘 に就 いての記
述は、問答体 (
「
「
主人」
「
客」
」)で成 され てい る。
記」(
二十)で取 られ た 「
主人 」と「
客」の問答体 の
ら、千人岩 は墓の築造 に関係 した者千人を盗掘
新
表現方法は、弟子 の堀辰雄 「
雪の上の足跡 」(「
防止の為 に岩 の上で抹殺 した事が名 の由来だそ
け
ん
うである。しか し、芥川龍之介は虎邸 と同 じく剣
ち
池に対 して も失望 を隠 さない。
けんち
殊 に剣池 なぞ と来た 日には、池 と云ふ より
潮」
昭和二十一年三月)に受 け継 がれ ている。
蘇州城外寒 山寺は、 日本人 に極 めて馴染みの
深い場所 である。 しか し、寒 山寺が俗化 してい
たう
てい
て 日本人の期待 を裏切 る事 に就いて、「
到底月落
も水たま りだね。(
十九)
こそ
かんざんじ
「
姑蘇城外 の寒 山寺は ?」
「
まあ、幾分で も取
ち烏暗 く(
張継の有名な詩 「
楓橋夜泊」の一節。 「
月落
な
ぜ
鐘声到 客船 。
)どころの騒 ぎぢや ない。」(
十九)と
り柄 のあるのは、その取 り柄 のない所だね。何故
に つ ぽん
な じみ
かんざんじ
と云-ば寒 山寺は、一番 日本人には馴染の深い
芥川龍之介は、率直に失望 を隠そ うとしていな
寺だ。
」(
十九)
。これ に就 いては、
芥川龍之介は、
烏噂霜満天 、江楓 漁火 対愁 眠
姑 蘇城 外寒 山寺
夜半
」
ちようけ い
ふ うきや う や は く
か うそ
じゆんぶ て い とくぜ ん
い。 張 継 「
楓 橋 夜 泊 」が、古 くか ら 日本人 に好
明治時代 にな って 「
江蘇 の巡撫程徳全 」(「
清 末の
まれ愛唱 されてきた事に就 いては、幾つかの理
蘇州巡撫使。宣統三年〔
一九十一〕寒 山寺の大修理 をお
由がある。 この辺 の事情 に就 いては、芥川龍 之
こな った。 巡撫 は明 ・清 の地方行 政長官。 省 を治 め
介は以下のよ うに述べてい る。
た。」)が、 日本人観光客 を呼び込む為に、あるい
な
ぜ
かん ざ ん じ
につ ぼ ん
は来訪す る 日本人の期待に応 える為に重建 した
何故 と云- ば寒 山寺 は 、一番 日本 人 には
な じみ
か うな ん
寒 山寺は、来訪の 日本人 を悉 く失望 させ る とし
馴染 の深 い寺だ。誰で も江南-遊んだ ものは、
かな ら寸■
た う しせ ん
た。
必 寒 山寺-見物 に出か ける。唐詩選 を知 ら
らね。(
十九)(註 11)
し
ゆろう
こ
と
ご
と
く
べにから
本堂 と云はず、鐘楼 と云はず、 悉 紅殻 を
たう
てい
塗 り立てた、
俗悪恐 るべき建物だか ら、到底月
この張継 の-篇 の詩が、古来 日本人 に愛唱 さ
落 ち烏噂 くどころの騒 ぎぢや ない。(
十九)
ちや うけい
ない連 中で も、張 継 の詩 だけは知ってゐるか
れたのには旅愁 の詩体が何 よ りも好 まれたか ら
千年以上に亙 り日本人の旅愁 の感性 を育んで
である。旅 の途 中で船 中にま どろむ と蘇州城外
来た寒 山寺が、近代 に支那人の感覚によ り原色
の寒 山寺の鐘 を夜半に聞 くとい う設定が、 日本
の色彩で再建 されて存在す る事-の素朴な違和
人の旅愁 に訴 えるか らである。 日本 で広範囲に
感 である。 しか し、 これに就 いては程徳全の行
読まれた漢詩の選集 「
三体詩 」
「
唐詩選 」で前者 は
為 を笑 う事 は出来ない。 日本人 も欧州人の期待
鎌倉時代 に後者 は、江戸時代 に広 く読 まれたそ
に応 えるべ く、古典的な富士 山や芸者 の国を意
うだが 「
楓橋夜泊」は、両方 に収録 され ているそ
識的に演出 してい る とい うのが、芥川龍之介の
-1
4-
琉 球 大学 教育学部紀 要
第7
8
集
ぐわ
考 えである。
ん とすo 画 とすれ ば或 は室 (「
ふるく霊 」
)
o
実景 を見 るは悪 しか らず。舟 あ り。 徐 に橋
く
わ
ん
さ
う
ち
ゅ
う
下 よ り来 る。載す る物 を見れ ば 棺 な り。槍 中
いちらう
あう
の一老姐 (「
一人の老婆」)、線香 に火 を とも しっ
そしう
りう
ゑん
「(
前文省略)蘇州 には名 高い庭 がある。留園
せ いゑ ん
だ とか、西園だ とか。- 」(
二十)
留園、西園は解説 に拠れ ば、元来 同 じ庭 園で
た
む
あったが、時代 を閲 して現在 の よ うになった と
つ、棺前 に手向けん とす るを見 る。(
二十)
され てい る。留園は規模 が、巨大であ る らしく
「
江南併記」(
二十)に手帳か ら転載 された蘇州
しらか ペ
や は た
て芥川龍之介 は、「白壁 の八幡知 らず 」(「
千葉県市
の情景文が、三箇所転載 されている。芥川龍之
川市の法漸寺の南に薮があり、そこに入れば再び出る
介流 「自然 と人生 」 であるが漢文書下 しの美文
ことができぬとかいわれたことに由来 し、入ると出口
は、彼 を最後 とす るだろ う。西条八十作詞 「
蘇州
がわからずまようこと。」)である と言 ってい る。蘇
江南瀞記 」
夜 曲」(証 12)は、あるいは芥川龍之介 「
州郊外 の寒 山寺や虎邸 の途 中にあ るので芥川龍
(
二十)の三箇所の美文か ら発想 されてい るか も
之介 は駿馬で気楽 に立寄った と思われ る。
い
さ
さ
か
屋敷全体 の広いのには、 柳 妙 な心 もちに
知れ ない。芥川龍 之介 は、支那視察旅行 の一年
しらか ペ
中央文学」大正九年一月)を発
前に「
尾生の信 」(「
や は た
なった。つ ま り白壁 の八幡知 らず だね、 どち
らうか
ら-行って も同 じや うに、廊下や座敷 が続 い
表 してい る。この既発表の作品を骨組みに、「
昼」
てゐた。(
二十)
を漢文直訳体 の三部構成 で叙述 して見せ たので
「
夕方 」
「
夜 」の時間の流れで眺望 した蘇州 の川辺
ある。芥川龍 之介 は、 この三つの叙述 を控 えの
留 園 散 策 の 経 験 を この よ うに綴 っ た 後 、
き
んぺいばい こうろうむ
いっけん
「
金瓶梅や紅楼夢 を読むには、現在一見の価値 が
手帳か ら引き写 した とい う触れ込みであるが、
」とい う感想 が続 く。 「
金瓶梅 」(「
明
あ るや うだ。
手帳記載 の備 忘録 を参考 に苦吟の創作である事
せい もんけい
はんきんれん
代の長編小説。作者未詳。富豪西門慶に毒婦津金蓮を
新小説 」
を窺 え させ る。 「
鏡 花全集 目録 開 口」(「
配 し、その家庭の淫乱を描く。」)「
紅楼夢 」(「
清朝の小
そう
せ
つ
き
ん
かほう
ざ
よ
く
説。曹雪芹の作とったえられる。貴族の子貫宝 玉を
大正十 四年五月)の よ うな この種 の漢詩 文 の雰
中心に十二人の美人 との情事をえがく。」)とい う二
が最後である。
囲気 を持つ 、書 き下 し文 は近代作家では中島敦
要 である とい う芥川龍之介 の見解 は、二つの作
蘇州 の紹介で芥川龍之介が、書 き残 してい
ん
し
ゆさ
ん
き
やくさ
るのは 「客 桟」(「
旅館 」)と「
酒 楼」(「
居 酒 屋 」)の
品舞 台 として蘇州 の庭 園が何 らかの役割 を果た
江南湛記 」二十一)
0
二箇所 に就 いてである (「
した とい う事であろ うか。
「
客桟 」では支那少女の提供 を受 けるが、芥川
プヤオ
いらない」)で
龍 之介 の返答 は無論 「
不要 !」(「
作 の支那小説 を理解す る為 には留園の探索が必
蘇州 の町並み を歩みなが ら芥川龍 之介 は、七
年 前 に吉 田弥生 を相手の喪失感 を埋 める為 に松
ある。同伴 の島津 四十起は、「
勿論相 当の酒豪
江 の堀端 の住 まいに時 を過 ご した事 を回顧 した
四年 八月)には、傷心の回復 を促す為 の代償行為
である。が、私 は 殆 飲 めない。
」
「
桶 の中を覗
ざうふ
いて見 る と、紫 がかった臓肺 のや うな物 が、
こ
んと
ん
」(
二十一)
0 「
客
幾つ も揮沌 と投 げ こんである。
の意 味 あいがあった。 同 じ水 の街蘇州 を散策 し
桟 」では、一夜 を共 にす る支那少女の提供 が
なが ら、傷心 を河辺 の借家で癒 した過去の感覚
あ り、 「
酒 楼」では、酒 の肴 には豚 の生の内臓
ほ とんど
のか も知れ ない。「
松江印象記 」(
「
松 陽新報」大正
が蘇 った可能性 があ る。 しか し、今度 は愛 の対
を刺身代 わ りに食す る習慣 である。少女の提
象 を喪失 した悔恨 の情 ではな く、人妻 との抜 き
供 と生の臓物 を共 に芥川龍之介は、拒絶 して
差 しな らぬ問題 を抱 えての逃避行動 としてのそ
い る。 -旅行者 である芥川龍之介 が、支那 の
れ である。徳 富産花 「自然 と人生 」を愛読 した少
生活 に馴染 めなかった事 な どは、極論すれ ば
年 時代 に戻 り、蘇州紀行 の美文 を三つ掲 げてい
この 「
客桟」と「
酒 楼」での二つの提供 を生理的
る。
に受 け入れ られ なかった事、それが支那生活
しゆん う ひ
ひ
に馴染 めなかった原 因 と言 える。言い換 えれ
ラ
オチ
ユ
ば、少女 の提供 は別 に して土地名産 「
老酒」を
一 春雨罪 罪 (「しきりにふるさま」)、両岸 の粉
たい しよくあざやか
が
壁 、 苔 色 鮮 なるもの少 か らず。水上苦浮ぶ
りう
でう
ほと
んど
事三四。橋畔の柳条 (「
柳の枝」)、 殆 水 に及 ぼ
噂みかつ豚 の塩漬 けの臓物 を食す るを楽 しみ
-1
5-
芥川龍之介 「
支那併記 」研究 (
下)
とす る島津四十起に とって支那生活は、苦痛
のである。この辺の感覚でも平均的な 日本人が、
ではな く享楽すべき土地である。先 に「
上海辞
外地で 日常生活 を送 る事の困難がある。深夜の
記 」で芥川 龍 之介 の先 導役 を果 た した村 田
しろう
孜郎は、東亜同文書院卒で支那社会 に溶 け込
せいひてう
み、宴席で支那語の「
西皮調 (
「
安徽省より出た劇
強行軍、 さらには貧弱な食事で揚子江か ら運河
の曲調。
調べ高くこころよい。京劇のもとになった。
ぷかは
「
未 詳 」)の唄 を うたひ
伴奏は胡弓。」)の武家披 (
している間の周辺の景色は、徹頭徹尾平凡な殺
の客になった芥川龍之介は、汽船の中で疲れ と
緊張か らしば しま どろむ事になる。汽船の航行
始 めた」(
「
上海湛 記」十六)
程 に土地 に馴染 ん
風景なそれである。運行 している運河は、 しか
く
っさく
し晴の腸帝の掘削の結果 としてのそれである。
でいた。
汽船の床 に横にな りなが ら歴史的な重みを受け
止め旅愁に浸る努力 を続ける。つま り、先人の
紀行文 としての 「
支那瀞記」は、成功 を収めた。
一に当時において も並外れた支那古典 に精通 し
徳富蘇峰 「
支那漫遊記」のよ うな回顧的、憧憶的
た芥川龍之介の学識 による。村松梢風、伊藤桂
な運河航行記を紀行文 として残すべ く船 中で努
一が賞賛 した如 くに大阪毎 日新聞が芥川龍之介
力す る。支那の現実、偉大な運河の実態 を避け
を支那視察旅行 に起用 した事は、成功である。
て浪漫的な記述で現実の支那の姿を覆 うべ く努
徳富蘇峰のよ うに古典世界に依拠 しなが ら聖人
力 を持続 させ る。歴史的な支那の遺構 に対 して
の国の 自然を賞賛す るのではな く、芥川龍之介
尊敬、畏怖 を抱 くべ く腐心す る「
私」とこの種の
には 「
北京 日記抄」で胡適が認 めた よ うに欧州文
一方的な思い入れ、憧憶 を客観的に否定す る「
案
学に就いての専門知識 を有 してお り、支那古典
内記」との対話 とい う設定で芥川龍之介は、階の
世界を育んだ現地に対す る冷静な判断がある。
腸帝の遺 した歴史的遺物に対す る畏敬の気持ち
しか し、支那語 を解す る事な くさらに地酒 を噂
を逐次破壊 して行 く。
む事な く、土地の名産である豚の蔵物 を生で食
歴史的叙情に耽 るべ く努力を傾 ける「
私」、「
支
するには、芥川龍之介の食欲 は 日本人的である。
全体 を蘇峰 「
支那漫遊記」の如 く老大国
那湛記 」
つま りは、水が合わない とい う言葉で一言で片
支那に対す る尊敬、畏怖の筆で記述すべ く努力
付け られ るよ うに東京人である彼 には、支那の
を傾 ける「
私」(「
芥川龍之介」
)の思いは以下のよ
衣食住は肌が合わなかったのである。
うなものである。「
ああ、腸帝はこの 堤 に、万株
やう
りう
いっ
て
い
の楊柳 を植ゑ させた上、十里に一事を造 らせた
い・
づこ
と云ふ。堤は昔の堤である。が、腸帝は今何処に
や うだ い
7
ばん しゆ
あるか ?」
「
水 は今 も昔のや うに、悠悠 と南北に
芥川龍之介は、島津四十起先導で蘇州を離れ
チ ンキヤン
つつみ
や うし う
ずゐて う
(「
大正十年五月十 日」)鎮 江 か ら揚州 に向か う。
たちまち ぐわかい
通 じてゐる。が、晴朝は夢のや うに、 忽 瓦解 し
ずゐ
いたのは早朝である。駅前の茶館 (
「
料理屋 」)で
く
わし
う
「
江蘇
即席 の朝飯 を済ませ た後 に鎮江か ら瓜州 (
て しまったではないか ?」
「
た とひ階は亡びても、
れい き
わが
雲の如 き麗姫 と共に、この運河に舟を浮べた、我
ふう
りうてんし
風流天使 (「
私の愛するあの風流な天子。腸帝をした
省の南のほうの町」)経 由、汽船で揚州 に向か う。
しんでいった。」) の栄華は、た と-ば壮大な虹の
汽船が航行す るのは、晴の腸帝が開通 させ た と
や うに、歴史の空 を横切ってゐる。
」
(
二十二)
蘇州の停車場か ら深夜列車で鏡江 に向かい、着
ちゃくわん
い う例の大運河である。鎮江の停車場 に到着直
船中での 「
私」のこれ らの歴史的浪漫は、「
案内
後、茶店で急 ご しらえの朝食 を食 した経験 を以
記」の歴史的、客観的記述で悉 く否定 され る構造
下の如 くに記録 した。
である。悠久の支那の歴史に寄せ る「
私」の歴史
すだれ ぷ
又実際食って見た感 じも簾 魅 のや うな、
ゆ
浪漫の幻想 は、「
案内記」の客観的な記述で否定
ば
され る。 「
私」
「
案内記」の対話で芥川龍之介は、
湯葉のや うな、要す るに二度 と食ふ気の しな
す こぷる
しろもの
い、 頗 怪 しげな代物である。(
二十二)
自己の支那歴史に対す る浪漫的な気分は、事実
一体 どんな中華料理の一品を提供 されたのか、
の前に希薄にな らざるを得ない事を披露す る。
同伴の島津四十起が特に指名 して持 ってこさせ
自分には、徳富蘇峰の 「
支那漫遊記」は、書けな
めいろうき
い し書 く気持 ちが無い と言っている。 「
迷楼記」
た所 を見 ると彼が常時食 していた食べ慣れた も
-1
6-
琉球大学教育学部紀要 第7
8
集
か
いかき
(「
唐初の小説とったえられる。」)「
開河記 」(「
迷楼記」
。
や うだい
せいざ
んいん
青 山隠
名月夜/
玉人何処教吹斎』の一節。」) の一節 「
いんみづこう
こう
隠水超超 」(「
青い山々は木がこんもりしていて、水は
ともに爆帝のことを描いた伝奇的歴史小説。」)「
腸帝
えんし
艶史 」(「
羅漢中の作 とったえられる小説。」)等 か ら
満々とみなぎっている。」)〔註 14〕 である。千数百年
得 られ た知識 は、歴史的 には出鱈 目である。後
以前の唐 が全盛 の頃の揚州 の風景の印象 を捜 し
世 の歴 史浪漫 を厳然た る事実で否定 してい るの
た訣 である。
川 は幅 も狭 けれ ば、水の色 も妙に黒ずんで
大正十年五月十一 日」)後、
である。揚州到着 (「
よ
えんむし
二人 は塩務 署 (「
中華民国当時〔
後漢の武帝の時より〕
塩はかつての日本のたばこと同様に官営であり、その
ゐ る。 まあ正直 に云って しま-ば、 これ を川
ど
ぷ
まさ
し
と称す るのは、清 と称す るの勝れ るのに若 か
塩務
取扱をする役所をい う。」)(註 13) に勤務す る 「
ない。(
二十三)
た か す た きち
官 の高洲太吉」を訪 問 し、両人共々 自宅 に一泊 さ
こじまかぢらう
せ て貰 う事 になる。 上海 紡績 の小 島梶郎氏 (「
上
け、同一民族 同一言語 で生活 してきた 日本人 の
は、上海滞在 時の芥川龍 之介 を、
海源記 」十九)
独 自な感覚が見 られ る。 中華社会は王朝交替 だ
この辺 の感覚 に も有史以来 日本列島に住み続
島津 四十起共々 自宅 に招待 して、夕食 を御馳走
けで な く民族 そ の ものが入れ替 わ って い る。
した人物 である。小 島梶郎 と島津 四十起 の二人
木 々 と水 に満 ちた揚州 の水路の遊覧が、千数 百
は、異 国生活 での望郷 の念か ら庭 に咲 く貧弱 な
年以前 に喪失 した光景である事 に気付いていな
桜 を愛 で、い とお しむで 日本 を離れ て間のない
いのである。揚州 の川辺 を経巡 りなが ら、芥川
芥川龍 之介 を許 しが らせ た。
龍 之介 は淀 んだ水 の悪臭 に閉 口 してい る。 長期
- め ぐ
の支那生活者 た る他 の二人は、平然 としてい る。
老人のや うな、若 いや うな、背広 の御役人
や う しうゆ ゐ い っ
にっ
ぽん
がはいって来た。 これ が揚州唯一 の 日本人、
ここに も現地生活 に溶 け込んだ 日本人 と-旅行
た か す た きち
塩務官の高洲太吉氏である。(
二十三)
者 の顕著 な違いが見 られ る。
りよくや うそん
かくさい
高洲太吉が、勤務す る揚州 の塩務署 は、無人
しか し、水路が広 くな り緑 楊村 (「
庫西湖 〔
揚州
で人 の気配が感 じられ ない。現在 の役所勤 めの
郊外の湖〕畔の村。よいお茶がとれる。」)になる と雰
閑散 とした状況 を見て、芥川龍之介 は実作者 と
囲気 は一変す る。水量が多 くなるにつれ周 囲に
して素朴 な感 嘆 を古代 の支那 の文人達 の生活 に
竹林 が見 えて、住 民の顔 も穏や かである。広い
いっ
そう
水路 を女達 を乗せ た も う一腰画肋が、痕跡 を残
お うや う し う
寄せ る。「
欧陽修 」(「
采の政治家 ・学者。唐宋八大家
の一人。」)「
蘇東 披 」(「
蘇拭。東坂は号。詩人 ・文章
官 と して錬腕 を振 るった。 これ程 の閑職 であれ
して旋回す る。「
見送れ ば彼等の舟の跡 には、両
あし
あ
ひ
だ
み
づ
ぴ
かり
岸 の塵 の静 な 間 に、薄 白い水 光 が残ってゐる。
にじふしけ う め い け つ の よ ぎ上くじんいづれの ところにかすゐせ うをしふ
『二十 四橋 明月夜。 玉 人 何 処 教 吹 斎 』一 私
ば、行政官 も兼務 出来 る とい う感想 である。海
は突然杜牧 の詩 が、必 Lも誇張ぢや ない事 を感
軍機 関学校教官 として長 時間の拘束 を受 けなが
二十 四)芥川龍 之介 は、杜牧 「
寄揚州韓
じた。」(
ら執筆 に猛進 した過去の肉体的な苦痛 が蘇 った
緯判 官 」(「
揚 州 の韓 縛判官 に寄すJの七言絶句
のであ る。揚州 の街全体 も活気 を喪失 して閑散
えう
てん
腰に銭十万貫 〔
一
た るものである。「
腰纏十万貫 (「
か ら第-句 を先 に引用 し、次いで第三句、第 四
にじふしけうめいげつのよ
句 を 引 用 した の で あ る。 「二十四橋 明月夜 。
貫は千文。一文はむかしの貨幣の最小単位〕をつけ
篭C
A、
筒と
遠に
野貰鼠
て。」)、鶴 に騎 して揚州 に遊 んで も」は、神 田由
にあかるい月のかがやいた夜である。衝の音が聞えて
家。」)等 は詩作 に励み、酒 を楽 しみ政治家、行政
らつ わ ん
と ぽく
ようしゆう
かならず
かん しゃくはんが ん
よ
(「
この鹿西湖のおおくの橋
ぞ くげ ん
くる。きれいな人が吹いているのであろう。一体どこ
美子脚注 に拠れ ば俗諺 だそ うである。
芥川龍 之介 、島津 四十起の二人 は、高洲太吉
でこのような夜は衛を吹いたらと教えるように薪を
の案 内で 自宅前の河川 に浮 んだ画肪 で揚州巡 り
二十四橋 」は先 の
吹いているのだろうか。」)(註 15)「
の市 内観光 を行 う。揚州市内の観 光 を小船 に乗
松枝茂夫解説 に拠れ ば、一説 に橋の名前で この
し
上
う
橋 の上 で二十 四人 の美女 が 衛 を吹いた事 か ら
だいこう
けう
命名 され た。す る と二十 四橋 (「
大虹橋 」)とい う
って遊覧す るにあた り芥川龍 之介 が、脳裏 に浮
とぽく
かべ たのは晩唐 の詩人杜牧 の詩 (
「
杜牧 〔8 0 3はんせん
52〕
は晩唐の詩人。字は牧之。号は焚川。その詩『寄
事 にな る。
「
今 の橋 ?今 の橋 が芙定嵐
韓判官』の『
青山隠隠水辺遁/
秋墨江南草未凋/
二十四橋
-1
7-
この岸 が 貰
芥川龍之介 「
支那済記 」研究 (
下)
りう
てい
柳堤 さ。
」(
二十 四)
の憂愁 が見 られ る。同伴の島津 四十起 も「
江南済
芥川龍之介 は、画肪 に乗 って遊覧す る内に何
記」にその横顔 を見せ て消えて しまい実態、経歴
時 しか気分が蕩蕩 たるもの成 った とい う。水路
は詳 らかではない。一夜揚州 の 自宅 に二人 を宿
の航行 とさらには、杜牧 の七絶の効用 である。
泊 させ た高洲太吉は無論、彼 を芥川龍之介 に紹
す る と「
二十四橋 」は、揚州 の町には川 が多 く橋
介 した小島梶郎 も無名 の実業家である。鄭孝背
が二十四あった
とい う最初 の解釈 の方が、 この
よ
場合 は良いよ うである。周辺 に不快 を覚 え、肉
に基づ き漢人であ りなが ら宣統帝縛儀 と運命 を
体的な不安を抱 えてつかの間心浮 き立つ気分 に
じ
よし くわゑ ん
なる。 「
私 は徐氏の花園 (「
鎮江の徐宝山 〔
滑末の将
景 に不安 、不条理 を垣 間見せ る中で芥川龍之介
も又その後 は、芥川龍之介 に語 った 自己の主義
共 に して 自身過酷 な運命 を生 きる事 になる。 背
軍でこの地方の権力者〕の花園。」)の方-、ぶ らぶ ら
「
支那湛記」の筆致 は、軽妙、軽快な運びで読者
柳 の 下 を歩 き な が ら、 うろ覚 え の ミユ ツセ
を「
軽み」の文学世界 に誘 っていると言 える。
い ち わん
さ うけつ め い
(
「
Al
reddeMus
f
s
et〔18 10- 57〕
.フランスのロ
高洲氏 は共時私 の前-、-椀の草決明 (「
は
マン派の詩人 ・小説家。華麗な情熱と憂愁 ・孤独をう
十四)とい う芥川龍 之介 の咳 きは、 ミユ ツセ 「
五
ぶ草の実をいう。せんじて薬用として用いる。」)を
かしゆう
「
い
勧 めたか らである。 (
中略)「
つま り何首烏(
しまづ
もの一種。
薬用にもちいる。」)の類ですか ?」島津
く
ちひ
げ
し
づ
く
氏は一 口飲んでか ら、口髭 についてゐる滴 を
ぬぐ
いんや く
拭った。 「
何首烏は君、淫薬 さ。(「
性欲をおこさ
月ノ
夜 」とい う詩 に同 じよ うな言い回 しがあるの
せるとい う薬。」)草決 明はあんな物 ぢや ない。」
だろ う (
註16)0
(
二十五)
たった。詩では 『
五月の夜』など。」)なぞ を暗諭 し
た。」(
二十 四)、 これ は仏蘭西文学 に造詣の深 い
吉田精一脚注なので 「
柳 、墓、水、恋 、草、」(
二
芥川龍 之介 と島津 四十起 の二人 は、蘇州 の駅
揚州 での この三人のや り取 りか ら、年少 の芥
を深夜十二時に出て (
「
五月十一 日」)早朝に鎮江
く
わしう
に到着 、その 日の内に鎮江か ら瓜州経 由で汽船
川龍之介 を囲む人間関係 が 自ず と窺 える。高洲
にて揚州着、到着 してその足で塩務署 に揚州唯
勤務の小島梶郎、 さらには 「
江南群記」の引率者
太吉は無論 、彼 を紹介 した上海在住の紡績会社
一の 日本人、塩務官高洲太吉 を訪 問 してい る訣
である島津 四十起 も年配で五十前後である。世
である。揚州 の水路巡 りは、蘇州駅 を深夜 に出
代の違 う、社会的 には重鎮 として一定の役割 を
発 したその 日の出来事である。 かな りの強行軍
果た している男達 を相手に客分 として地位 を得
であ りなが ら、揚州 に就 いて愛着 を持 ち、識見
ているのは、芥川龍 之介の世俗的成功の名声に
を持 って一瞥の街 を記述 してい る。漢籍全般 に
拠 る。 あるいは、文学者の地位 が最近までは、
就いて藩著を傾 け、 さりげない筆致 に独 自の見
世人 を屈服 させ るに足 るある種権威 を持 ってい
識 を見せ ている。
た と言える。
あ
が
のち
し
よ
く
かう
しか し画舷 か ら上った後 も、 葛 岡 (「
欧 陽修
芥川龍 之介 と島津 四十起の二人は、揚州 の高
洲太吉の 自宅に一泊 し翌 日(「
五月十二 日」)一度
のたてたもの。現在法浄寺の一部。よい水をだすの
お うや う し う
汽船で鎮江に戻 りその 日の内に南京に列車で向
で有名。」)、
一少 くとも欧陽修 が建 てた と云ふ、
は
な
は
だかんが
平 山堂のあるあた りは、 甚 閑雅 な所で した。
ていそかん
(
中略)鄭蘇戟 (
「
鄭孝背の号。」)先生 の ヴェ ラ
そと
はく
し
よう
ンダの外 にも、や は り此 白松 と云ふ のが植 ゑ
か う。鎮江の波止場 に到着 した後 に二人はつか
き
んざんじ
の間の時間を縫 って金 山寺 (
「
鏡江の郊外。揚子江
の中の島にある。」)に詣で る。南京行 きに列車が出
る一時間程度 の時間を使 って人力車で山の上に
てあった事を思ひ出 しま した。(
二十五)
お うや う し う
お うあ んせ き
欧陽修 は、彼 と対立 した王安石共 々唐宋八大
姦策鼠
家の一人である.蘇巌 (「
奪 える金 山寺 を一瞥す る。前方の高地 にた どり
)を見出 したの
着 くまで に貧相 な街 並 み を通 り抜 けて行 く。
は欧陽修 であるが、見聞記 の中に支那全般 に対
家々の玄関には、魔除 けの呪文の文字が眼を引
す る識見が散在す る。 自身 も人妻 との抜 き差 し
く。
な らぬ不倫 問題 を抱 えての逃避行 であ り、肉体
的な不安 を隠 して軽快な筆致 の内に芥川龍之介
ひたうし
此処 には家家の軒 に貼った、小 さい緋唐紙
の切れ端 に、僅 芙 養 護:GG」(「
妾大公は妾牙.太
-1
8-
琉 球 大学 教 育学部 紀 要
第7
8集
公望のなまえで有名。中国古代帝国の周の建国に功
南源記」(
二十七)には、今 日の 日本人か ら見て大
労のあった政治家。病気よけの文句とされる。」)
う
んぬん
云云の文字が並んでゐる。(
二十六)
変興味深い記述が見 られ る。それは、南京市内
の城壁 に囲まれた生活空間の荒廃ぶ りである。
数千年前の英雄 の名前に頼 って安心立命 を得
秦涯の夜」後半部分、大正八年
「
南京奇望街 」(「
よ うとす る支那の現状 を冷静に把握 している。
三月号)は、谷崎潤一郎の一年前の支那旅行に依
鎮江は、二千年以前には呉の国の玄関であった
拠 した作品であるが、 ここにも南京市内の荒廃
が、今や天津条約 によ り開港 させ られた半植 民
ぶ りと夜 になると伎女達が、支那の兵隊か らの
地 と化 した支那の象徴であるとい う認識である。
暴力 を避 ける為に姿を消す 旨報告 されている。
神頼み をす る支那の民衆に対・
して芥川龍之介は、
雑信一束」)に も長抄の女子師範
「
支那併記 」(「
「
妻大公在此 」の題詞 に理解 を及 ぼす のに 日本
学校 の寄宿舎 を見学 しよ うとして舎監に阻止 さ
ことわ
た め と もお んや ど
の 「
為朝御宿 」(「
為朝は源為朝 〔1139- 70〕
。
せん
勝手に決めて、このような貼紙を出す宿。」)を引合い
れ る場面がある。 「
それはお 断 り申します。先
だ
っ
て
ち
んにう
達 もここの寄宿舎- は兵卒が五六人聞入 し、
ごう
かん
ひ
雑信
強姦事件 を惹 き起 こ した後ですか ら !」(「
に出 している。神仏 を頼 りに生命 、財産を守 ろ
一束」七)、これに就いて関 口安義 「
特派員芥川龍
保元 ・平治の乱に活躍した武将。その為朝が宿ったと
うとす る支那の民衆 を一方的に笑 ってはいない。
之介」に 日本軍人の行為 の よ うに記述 してい る
日常生活で何気 な く神仏 に加護 を求める気持 ち
が、そ うではな くて支那軍閥の兵士による行為
も外国人 に改まって記述 された場合 、人民中国
である。芥川龍之介 に女子師範学校寄宿舎-の
ここん
ぷ
っ
ち
ょ
う
づ
ら
参観 を拒否 したのは、 「
古今 に稀 なる仏頂面 を
の次世代の者 は屈辱 を覚 えるか も知れ ない。戦
武運長久」)や千
場で倒れた 日本軍人の 日章旗 (「
雑信一束」七)であるが、この
した年少の教師」(「
人針 の腹巻、それ に縫い付 け られた五銭硬貨 も
時に隣接 の男子師範学校 (
第-師範)の附属小学
戦利 品 として 自国に持 ち帰った米国人に取って
校主事 (
校長)は毛沢東である。月刊誌 「
新青年 」
よう
かい
の責任者 として、陳独秀の推薦で第二の妻楊関
は切実、迷信 さらには未開人の付属品である。
「
江南辞記」(
二十六)を執筆す る芥川龍之介は、
釜 と結婚 して半年の毛沢東は、教員宿舎で生活
す ぎや ま
名古屋楯 山女学校での講演会の為 に菊池寛、小
していた。 毛沢東は、芥川龍之介 よ り一歳年少
島政二郎同伴で旅先に居て十分に構想 を練 る時
であるが、 この時二人は限 りな く接近 していた
ち上
う
さ て
んし
ん
訣である。「
長抄の天心第一女子師範学校並に附
間的な余裕がない、 とい う触れ込みで金 山寺に
就 いて細部の記述 を省略す る。金 山寺描写に必
」(「
雑信一束」
七)、「
附属高
属高等小学校 を参観 。
要な備忘録 として現場で記録 した ノー トを生の
等小学校 」ををどう見るべ きか、これが第-師範
ままで書 き写す として、断片の地名 、人名の記
の附属小学校 と同一であるな らば、芥川龍之介
載で稿 を終わる。無論、 これは創作上の芥川龍
は附属小学校主事 (
校長)
職 にあった一歳年少の
之介の手の込んだ創作技法の一種である。実際
毛沢東の先導で小学校 を参観 した筈である。 二
○妾
の金 山寺に就いての覚え書は断片である。「
人は互いの存在 を十二分に認識する事な く奇跡
大公在此間無禁忌。貧民 くつ。川。鐘。材木。
的な遭遇 を していた事になる。
こ
んにち
今 日の支那 の最大 の悲劇 は無数 の国家 的
ロワン
浪蔓主義者即ち「
若 き支那」の為に鉄の如 き訓
ひとり
練 を輿- るに足 る一人のムツ ソリニ もゐない
泥坊。無煙炭。舟 (
石炭、桐)
。江天禅寺。
」とい
う簡素な一文である。
8
「
保儒の言葉」
支那)
ことである。(
金 山寺登撃後 に再び人力車で鎮江停車場に戻
この蔵言 を予言的に読み解 くな らば毛沢東 に
った二人は、駅で別れている。島津 四十起は上
よる蒋介石の退場、 さらには人民中国の全共産
海 に戻 った と思われ る。芥川龍之介 は単身、谷
党員 に対す る「
鉄 の如 き訓練」、毛沢東による文
秦椎の夜 」
)の愛読によ
崎潤一郎 「
南京奇望街 」(「
化大革命 の発令を予言 している。政権獲得後に
り自身 「
南京の基督 」を作 り上げた、書籍 におい
行われた人民裁判、粛清 を予言 していた と取れ
て馴染みの地である南京 に向か うのである。「
江
る。国家建設の後 に相互監視体制の もとに永遠
ー1
9-
芥川龍之介 「
支那蒋記 」研究 (
下)
に繰 り返 され る人民裁判 で 自国民七千万人 を平
受す る大正デモ クラシイの 日本 を作 ったのは、
時において死 に追いや った暴力装置 、中国共産
試験制度 とは関係 な く自力で国家権力 を掌握 し
党の誕生 と躍動 を予言 してい る。蒋介石の国民
た明治の元勲達であった。常に冷笑、噸笑の対
革命軍の北伐 は、芥川龍 之介 の支那視察の五年
象 に した彼等の業績 に対 して浅薄、皮相 な見方
後である。芥川龍之介は新 中国誕生以前の混沌、
をす る芥川龍之介作品全般 に対 しては、批判の
無秩序 の国家人民の空気全体が淀 んだ、停滞 の
声は現在 も絶 えない。 昭和の悲劇 は、国家の中
支那 を垣間見た訣である。
枢 を担 った元勲達 に代わ り、陸軍大学、海軍大
「
すべて支那の都会には町の真 申に空地のあ
学 さらには帝国大学卒業の革新官僚が、 日本の
るのは珍 らしくもないけれ ども、南京 には殊 に
秦唯の夜 」
)とい うのが、芥川龍之介 の
多い。」(「
命運 を担 った事で もた らされた。彼 が遺 した言
葉「
何か僕 の将来 に封す る唯ぼんや りした不安
南京滞在 の三年前の谷崎潤一郎の見解 であるが。
である。」(「
或 旧友-送 る手記 」
)には、天皇 を戴
三年後の芥川龍之介 の 目撃 した情景 も似た よ う
く革新官僚 による支配 、 日本版共産主義社会招
なものである。
来に対す る危倶の念があった と思われ る。
南京滞在 中は、 日本人経営のホテル に宿泊す
案 内者 の支那人 に尋ねて見 る と、南京城 内
あ れ ち
るも有名 な秦唯の孔子廟 は、見学 しなかった。
の五分の三は、畠や荒地 になってゐる と云ふ。
どぷ か わ
(「
江南辞記 」二十七)
秦推は、平凡な溝川 であるとい う認識が次 に続
芥川龍之介の南京滞在期 間は、数 日である。
く。南京 に対する落胆の胸中の裏面には、芥川龍
しか し、都市機能 を失 った南京が十七年後 に民
之介の脳裏 に有名 な杜牧の七絶 「
泊秦推」(註 17)
族統一に成功 した蒋介石 の国民政府 の首都 に成
があるか らである。
こきゆ う
かせい
食事 中隣室に胡 弓の音 あ り。歌声又次いで
った ぐらいで繁栄 を もた らし、南京虐殺事件 の
こ うて い くわ
大量の民間人殺人 に繋がった とは考 えに くい。
誤謬、伝 聞、風説 か らな る出鱈 目本 であるよ う
起 る。昔は一曲の後庭花 (「
陳の後主が賓客とあ
し
う
さ
つ
い贈答 した詩に曲をつけたもの。」)、詩人 を愁殺
いうしたこん
せ しめたれ ど、東方の遊子多恨な らず。(
二十
に南京虐殺事件 の多 くは国民軍に組 み込まれ た
八)
「
I
RI
SCHANG"
THERAPEOFNAm
G'
'
」が、
支那料理店での食事 は、味覚のみ を満足せ し
軍閥の兵士達による不祥事であろ う。
めるもであって杜牧 「
泊秦推」の情緒は、兄いだ
人力車で南京市内を見学 中に芥川龍之介 は、
昔の科挙の試験場跡 を 目撃 し素朴 な感想 を書 き
し難い事 を述べてい る。夜の街 中を人力車で移
記 してい る。芥川龍 之介 自身 は、秀 才の栄光 を
動す る妓女 を見るも全ては期待外れである。 こ
全身 で浴びて当時 としては学歴 、職歴共に申 し
の芥川 龍 之介 の胸 中にあ るの は 「
秦准画肪録 」
しん わ い ぐわ ば うろ く
た うくわせ ん で ん き
分がないが、難 関第一高等学校第-部文化 (乙
(「
未詳 」)の印象であ り、 「
桃花扇伝奇」(「
清の康照
類)は、無試験で合格。さらに東京帝国大学英吉
帝時代の戯曲。香君はその女主人公で美人。」)の印泉
利文学科 は、希望者 が少 ないので無論無試験合
である。
ひそか
格である。
こう
ゐん
貢院 (
「
昔の文官試験の試験場」)の続 いてゐ る
しん わ い ぐわば うろ く
私 に疑ふ、「
秦准画肪録」中の美人、幾人か
それ
た うくわせ ん で ん き
懸 け値 のなきものある。 も し夫 「
桃花扇伝奇 」
かう
く
ん
ぎか
の香君 に至っては、独 り秦涯の妓家 と云はず、
こ すう
往来- 出た。貢院は坪数約 三万、戸数 二万六
とほう
百 とか云ふ、途方 もない規模 を備 -た、昔の
四百余州 (
中国全土は四百余州にわけられていた
- んれ き
文官試験場である。(
二十七)
一千年 間支那皇帝政治 を側 面か ら支 えた巨大
ところから中国全土をいう。
)を遍歴す るも、恐 ら
いち
にん
くは一人 もあ らざるべ し。 ・--・(
二十八)
な人的消耗 の痕跡 を見て、芥川龍之介 は嘆息 し
最新の芥川龍之介全集神 田由美子脚注に拠れ
てい る訣 である。支那社会 を半植 民地の惨憤 た
ば、 「
秦准画紡録 」(「
秦准の芸者評判記。捧花生
る今 日の状況に陥れた元凶が、 この科挙制度 で
著。嘉慶二二年刊。上、下二冊。付録 に 『画肪
ある とい う認識 を、芥川龍之介 は持 っていた筈
)とある。 「
桃花扇伝奇」
余談、三十六春小春 』」
である。彼 自身が、恩恵 を蒙 り表現 の 自由を享
に就 いては、現在 は 「
国訳漢文大成 」(「
桃花扇」
)
-2
0-
琉球大学教育学部紀要
第7
8
集
し
んぢ
やう
ぅ.」) と」(
十 九)にあ る 碇 笛 の 美 女 真 嬢 の 墓
で知 られ てい る。 南京 を案 内す るの は、大阪毎
日新 聞記者 「
五味君 」(「
未詳。」)であ るが最新 の全
(
註2 0)」 とい う自身 の一文 を踏 まえてい る。 芥
集 で も説 明はない。 体調 不 良の芥川龍 之介 は翌
けふ
日 (「
五月十三 日」)に も市 内観 光 を成す。「
今 日は
川龍 之介 「
支那酵記 」には、「
蘇小小」
「
真嬢 」
「
莫
みん
等 三 人 の代表 的 な美 人 の事跡 を訪 れ る もそ
愁」
か うりよう
私 が御 案 内 しませ う。明の孝 陵 (「
南京の郊外にあ
ばくしう
る明の太祖 〔
明の初代の皇帝〕の基。」)か ら莫 愁湖
の感慨 は失望 であ る。 漢籍 で培 った英雄 、美女
の幻想類 を支那 の現実 で悉 く消 し去 ってい った
(「
南京の三山門外にある湖。」)の方- 。」(
二十八)と
のが 「
支那辞記」の世 界 で あ る。 下町で育 ち、東
い うのが、五味君 の発言 で あ る。 こ うして、芥
し
よう
ざ
ん り
よう
川 龍 之介 は五 味君 の案 内で 「
鐘 山 の 陵 」(「
孝陵
京 山の手 で生活す る芥川龍 之介 に とって現 実 の
は鐘山にある。」)に至 る。 荒果 て荒涼 た る明の太
し
よう
ざ
ん し
よう
はく
祖 の陵 に這 い登 り、「
鐘 山 の松 柏 を仰 ぎ見ては、
り
く
てう
六朝 (「
晴の統一以前の中国の王朝名。建業 〔
南京〕に
き
んぷんなん
都 した。 この歌、催馬楽にある。」)の金粉何 とか云
活環境 の一部 であった。老 酒 を噂み 、毎 日酪酢
支那 の気候 、食事 、女等違和感 を覚 え させ る生
ラオチュウ
の内に快適 に睡眠 を取 り、混沌 の支那世界 を愉
快 に歩 き続 け る肉体 的 な頑 強 さと楽天的な気 分
に芥川龍 之介 は、恵 まれ ていなかった。
けいげつ
私 は 中尉 と桂 月先 生 の噂 を した り、我我 の
ほか
ひとり
かう
他 に も う一人呼 ばれ た年 の若 い御客様 と、江
なん
し
ばらく
南 の風 光 を論 じた り、少 時 は病体 も忘れ てゐ
」(
二十八)訣 で
ふ前人 の詩 を思ひ 出 さ うとした。
あ る。吉 田精 一脚 注 は後 半、「この歌 、催馬 楽 に
あ る。」と したが、明の太祖 の御 陵の上 で催馬 楽
を想 いだす のは場違 いで ある。 これ は、 当然荒
た。(
二十 九)
廃 した陵墓 に寄せ る意 味のそれ に相応 しい六朝
南京 の料 亭 で芥川龍 之介 と歓談 し、時 を過 ご
した 日本人 も支那 生活 に溶 け込 んで生活 を享受
時代 の漢詩 を想 定 しな くてはな らない。
半死 半生で御 陵 を登 りつ めた芥川龍 之介 は、
していた一人 であ る. しか し、 この人 の存在 は
足元 を悠 然 と歩 む大阪毎 日新 聞南京駐在員 の五
名 の記載 がな く今 となっては、歴史 の彼方 に消
味 記 者 と 自分 を比叡 山で事 前謀 議 を凝 らす 平
え去 って しまい跡 形 もない。
ま さか ど
すみ とも
なぞ ら
将 門 と藤原純友 に 擬 えて眼下を眺望す る。御 陵
登撃 で疲 労困億 の体 で宿 舎 に帰 るも立上 が る事
(
註 1)戦前まで 日本人の海外渡航は、中国程度に限
も叶 わ ない。蘇州 を三 日前 に深夜発 って以来文
「
支那」
「
イ ン ド」
)を唯一の他国
られていた。唐天竺 (
字 通 りの強行 軍 で あ る。 一 ケ月の病気療養 後 の
と認識 していた時代、支那は日本人にとって漢籍に
慣 れ ない海外 単独紀行 で、最 良の案 内人の先導
より培われた理想の国であった。半植民地 と化 した
を受 けて も、疲 労 は計 り知れ ない。 事 実、芥川
現実の支那を体験する事は、長年書籍で思い描いた
の著者 で
龍 之介 は夕食 を同席 した 「
家庭軍事談 」
内的な理想の支那を破壊する行為である。魯迅の言
あ る多賀 中尉 (日露戦争 時の階級)の病 後 の体 で
は、惨惰たる支那の現実に直面 した一般的な日本人
無理 した ら、海 外 では死 に至 る とい うさ り気 な
の戸惑い、内面の分裂に思いを致す事のない、一方
い一言 で翌 日上海 に引 き返 してい る。
ばくしうこ
せいこ
莫愁湖- は廻 らず に帰っ て来 た。 西湖 では
的な断罪である。
正論」
竹山道雄 「
人間は世界を幻のように見る」(「
齢 を帯 ひ 、嘩 芝 は轡
吾 弔っ たのだか ら、
六朝時代、莫愁
や は り三美妓 の一人 た る莫愁 (「
昭和五十七年十月)は、普遍的な人間精神の内面に
迫っている。人間は、幻の如くに変化を遂げる現実
湖の付近に住んでいたとい う伝説的美女。詩が得意。
を正確に認識 し得る程に偉大ではない。人間精神が
同名の女性が諸地方に伝えられるがこの莫愁が最
認識する世界現象は、他者により吹き込まれた「
第
ゆ
も有名。」)(
註18) も弔ひ に行 きたかっ たが、か
二現実」の認織で識別する世界である。従って世界
う云ふ始末 ぢややむ を得 ない。(
二十 九)
の表象は、すべからく「
ある傾向的集合表象」を持つ。
杭
「
蘇f
J
ミ
7
j
ミ(
註19,の墓 を見たO蘇小小 は鼓韻 (「
めいぎ
州の古名。」)の名 妓 で あ る。
」(
七)とい う記述 「
寒
こきう
こ
う
り
ょ
山寺 と虎邸 (「
呉王開聞を葬った丘。財宝をも一緒に
共産主義者は、現実社会 と無関係な空想裡の栄光を
埋 め、その財宝の気が虎 となってあ らわれた とい
史における淘汰の-事例に過ぎない。キリス ト者 も
夢見て、現実破壊の欲望を理想達成の為の犠牲 と考
える。組織内の犯罪は犯罪ではなく、人間精神発展
-21
-
芥川龍之介 「
支那併記 」 研究 (
下)
抜 け出 し直面す る現実 を正確 に認識 す る程 に人 間
/可憐 の霜 轟窮鼠 こ慮 る」
)「
清平調詞三」
(
塔 滝榛 東
つね
ふた
両つなが ら相歓ぶ/長 に得た り君王の笑み を帯びて
精神 は、偉大ではない。以上の認識 に立てば、魯迅
看 るを/解釈 す春 風 無 限の恨 み/抜毒筆先端竿 に慮
また同然 であ り、学閥、派閥、党派の範境か ら一人
いち
の言動は、- 日本人の私か ら見れば支那 に渡航 した
る」)
芥川龍之介は、李 白と胡適 との架空対談 を空想 し
日本人に対す る偏見である。
「
第二現実」で精神 を鍛 え られた者 は、すべか ら
た。同 じ手法で重慶 の国民党政権 下で駐米大使 とな
くあ らゆる精神 の動揺か らも開放 され る。党の規律
った胡適 と特命 大使 となった芥川龍之介 との ワシ
に従 う、その瞬間に苦悩 か らは開放 され 肉体は精密
ン トンでの打開交渉 を空想 したい誘惑を覚 える。戦
な機械 となって機能 し、外界 は党の命 じた色彩で彩
後共産 中国か ら米 国 に亡命 した胡適 を頼 った任兆
られ、さらには学歴 、容貌 、肉体の持つ負 の側 面か
銘 政権 の重 臣 と芥川龍 之介 の文学上の弟子 である
らも開放 され る。戦前の天皇 を戴 く共産主義国家 日
犬養健 は、偶然 ワシン トンで再会 して旧交を温めて
本 も、さらには戦後のス ター リンに迎合 した真正共
いるか らである。
がくひ
(
註 3) 「
岳飛 の墓前 には鉄柵 の中に、纂 竃
産主義 も米軍に よ り制圧 された。魯迅の死後十年後
(
「
南采の
、
に全支那 は、共産革命 に よ り全国民 が 「
第二現実 」
宰相。金 に攻 め られ るや、和平 を となえ、主戦派の
による世界を、歴史 を認識す る国にな り彼 のよ うな
岳飛 を殺 した。 このた め来朝 の寿命 はだいぶ のび
自由な発想 を持つ人間は一人 もいな くなった。 定見
を持つ こ と無 く、生の現実 を直接 目撃 しさらには、
南采 の政治家。 は じめは主戦論 を と
た。」)窟督 (「
ら
なえたが、のち主義 を変 え、秦槍 とくんだ。」)等の
臨機応 変 にそれ らの外界 を認 識 し得 る人 間な ど果
鉄像がある。」 (
八)芥川龍之介の岳飛廟訪問の時か
た して存在す るのか。外界か ら、教祖 か ら、教義 、
ら二十年後 に 日本 自体が、南采 を圧迫す る異民族金
信条 を精神 に叩き込 まれ て人間は、自信 を持 って世
の立場 に置かれ る事になる。漢民族の窮状 を見かね
界 に対 して認識 の翼 を広 げ得 る。戦 中陸軍幼年学校
た重慶 の国民政府要人江兆銘 は、重慶を脱 出 して 日
を志望 し、権力志 向を示 し挫折 した者 が、戦後 は真
本陸軍 との妥協の未 に南京国民政府 を樹立す る。江
正共産主義者 に転 向す るな ど、日本社会 では愚劣 な
兆銘書簡 「
君為其易
少数者 である。 しか し、魯迅 が期待 した支那国民は
行 け、我 は苦難の道 を行 く」)は、従来の国民党の国
教祖 の扇動 に よ り全 国民一挙 一動 を相 互 に監視 し
是「
一面抵抗一面交渉」を実践す るものであったが、
我任其難 」(「
君は安易 な道 を
西安事件 で連共抗 日路線 に転 向 した国民党委員長
あ う密告社会 を作 り上げた。支那国民の覚醒の為 に
たゆ
倦 まず弛まず執筆 し続 けた彼 の著述 は、結果的には
蒋介石の路線 とは、相容れぬ ものであった。 日本敗
無意味であった と言 える。人民 中国成 立後 にまで魯
迅が生存 していた と仮定 した ら、果 た して彼 は天寿
戦 後 に南 京 国民 政 府 跡 地 に設 置 され た江 兆銘 の
きぞう
随像 ほ ど 日中両国間の国民感情 の落差 を示す もの
を全 うす ることが出来たか ど うか。郭抹若 のよ うな
はない。
異民族金 との政治 的 な妥協 で一世紀 に亘 り南采
小回 りのきくよ うな生き方 は、魯迅 には出来なかっ
たであろ う。
りたいはく
(
註 2)「
昔の健 の李太 白(
李 白。字 は太 白。(
中略)彼 が
ま
ぽろし
牡丹 を愛 して作 った 「
晴平調」三首がある。)が、幻
ぽたん
の漢民族 に繁栄、平和 をもた らした秦櫓 は今 も随像
となって漢民族の噸笑 、罵声を浴びている。弱体南
末 を先導 して岳飛 が、徹底抗戦 を繰 り返 した らこの
ぎよくさん
の牡丹 を眺めなが ら、玉 蓋 (
玉石でつ くった さかず
時点で南采 は滅び、漢民族は異民族金による支配に
き。)を傾 けてゐ るか も知れ ない。
」芥川龍 之介 が、
なっていた可能性 は大 きい。漢民族の辛苦は計 り知
せい-いち上う し
この時想起 したのは李 白 「
清 平 調 詞 」 三首の事 で
れ なかった、少な くとも南采 の経済的な安定、民生
牡丹の美 しさを楊 貴妃に例 えた三首の連作である。
の向上はあ りえなかった。南采 を政治的に圧迫 した
「
清平調子 -」(「
雲 には衣裳 を想 い花 には秦 を想 う
異 民族金 も最終的 には騎馬 民族元 によ り制圧 され
/春 風 崖 を払 って姦 重義 や か な り/真 し見 る に轟
ぎょくさん とう
支那全土は、長期 に亘 る本格的な異民族支配に陥 る。
よ うだい げ っ か
玉 山 頭 にて非ず ん ば/会ずや壌 台月 下 に向て逢 わ
南京国民政府主席江兆銘は、南京政府 の地に随像
ん」
)「
清 平調 子 二 」(r
一枝 の韻鮭窟 筈 を凝 らす/
蜜論憲
施
となって横 たわ り、南京政府 中枢 に位置 していた重
げて断腸/揺簡す漢宮誰か似 た るを得ん
臣を悉 く戦犯 として処罰 した重慶国民政府 は、異民
-2
21
琉球大学教育学部紀要
族 な らぬ北方の共産政権 に よ り祖 国 を追われ る結
第78集
きて紬
果になった。芥川龍之介は、岳飛廟 の荒廃 を悲 しむ
./寓崖の暴 露青苗の上、/十里のあ違
絹 の箪o/齢 漸 く移 る鼠 こ盲 る影、/襲築過
ぎん と還す品 こ満つ る風./巌 業だ還 さず笠歌の
末 代 の 詩 人 の 一 句 を 引用 し 侶 至境王室萎萎 」
ち上うもう
ふ
ここう
(
趨孟頓 〔
宋末の人、字は子昂〕の詩 「
岳郡王墓」の
散ず るを、/釜翻 摘 きて鋭鵜 く
綻ゐな りo」(蘭 で
あ
ぶみ たた たづな
せいこ とう
がん
鐙 を敵き手綱をかい くり、軍 轟 うて西湖の東岸 を
中に 〔
郡王墓上草妻妻〕とい う句がある。)、岳飛廟
かんか う
ばん しゆ
の荒廃 を報告 しなが ら同調 は していない。む しろ敵
聞行すれば、筈
役 になった南采の宰相秦槍 に同情的である。 「
秦槍
いか
あ くいんねん
ぴんばふ くじ
は如何なる悪因縁か、見事にこの貧乏鼓 を引いた。」
里の竃執 こは夕月が光を投げてゐる。 露には鍾完の
淡 き影が うつ り、江風の浪 頭 を打つ ことが急であ
(
八)この種の英雄否定は、芥川龍之介同世代の共通
る.さて陰 り策れば業だ盤誠が散ぜず、叢韓がか ら
認識で三島由紀夫は、「
芥川の『将軍』その他 、ほ と
りと開 かれ て 中に は燭火 がひ かひか と輝 い て ゐ
ん どあ らゆる作品に見 られ る英雄否定、美談否定は、
る。」)
苗
の上には南棟の松が並び立ち、十
か うふ う
なみが しら
あか り
思想 といふ よ り趣味の問題で、当時の浅薄な時代思
(
註 6)菖騒擾 白蛇伝説の中の代表的な-篇.村上哲
潮 の反映である。」(「
南京の基督」解説)と批判 して
集英社」昭和六十二年 九月)に
見「
蘇州杭州物語 」(「
いる。しか し、客観的に見れば抗戦一本槍の素朴な
英雄 を榔輪 して、政治調整 に心を砕いて民衆に経済
拠 る解説 を参考に して記す と。
り
んあん
臨安城 内に住んでいた若者が、操般韓へ行 った帰
的な繁栄 をもた らした秦槍に同情的である。ここに
り孤 山を散策 中に西湖 の 白蛇 と青魚の化身 に執 り
芥川龍 之介の歴 史に対す る複 眼的 な眺望 を見 るこ
っかれ る.杭州の酉湖 に面す る西門、嵩
とは可能だ。
公園)まで同行 し、湧金門の 白夫人の 自宅で饗宴 を
こ ざん
釜
的(
湖浜
文化大革命の混乱時中国共産党の周恩来は、日本
受 ける。罪 によ り蘇州の承天寺か ら蘇州の北、長江
人が再び支那全土に兵力 を展開 し、日本人低値の政
の岸の鎮定に流刑 になるも自夫人は付き纏 う.鎮江
めい さつ
ほ
つかい
の名刺金 山寺の名僧法海禅 師 によ り白夫人 は正体
権 によ り全支那が制圧 されて も広大な国土、膨大な
人民を永久に統治できない、長い時間の営みで再度
を暴かれ、西湖南岸の浄慈寺にいた法海禅師によ り
日本人は、支那全土か ら駆逐 され ることになると発
雷峰寺に閉 じ込め られた。その跡 に築かれたのが、
言 して当時中学生だった私 を驚かせ た こ とがあっ
雷峰塔である。この締評は歌劇、ア
閥 「
白蛇伝」とな
た。 しか し、異民族満州族の三百年 に亘 る全支那の
って 日本で も公演 された。
制圧 を脱 して新政権 を作った政治家に とっては、当
(
註 7)雷峰塔 白蛇伝説 を翻案 したのが、上田秋成 「
雨
然の発言である。さらには何度 も異民族支配 を受 け
て きた支那の歴史に鑑みれば、周恩来発言は驚 くに
月物語 」(「
蛇性の淫 」
)である。「
蛇性の淫 」
は、紀州道
じ
上うじ
成寺 に伝 わ る安珍晴姫伝説 を参考に して女の執念
あた らない。
を描いた訣であるが、細部 に至るまで典拠 「自蛇伝
(
註 4)西湖の岸辺で蘇東披構築の記念物 を見なが ら、
説」を使 っている。謡 曲道成寺は、歌舞伎舞踊 ・沖
東亜 同文書院卒業の支那生活 に馴染 んだ村 田孜郎
縄舞踊等に影響大であるので、秋成は道成寺伝説 を
相手に話題の素材 は、徹頭徹尾支那の文人達の業績
踏 まえなが らも作 品細部 は典拠 に寄 り掛 かってい
全般だった筈である。帰国後に 「
西湖図巻」を見なが
る。 「
お く様 は杭州人であるあなたが生まれつ きす
ら数 日間の見聞を再構成 した痕跡がある。芥川龍之
てきなのにほれ こみ 」 (「白蛇伝 」
) とい う細部は、
介 は、書斎で 「
西湖竿算」
(
「
蘇堤春暁」
「
霊峰西照」
「
断
生か され ていて 白蛇 に魅入 られたのは彼 の美貌故
かほよき た
はけ
である。 「
はたそ この秀麗 に 肝 たると見えた り、
」
橋残雪 」
「
平湖秋月」
「
花港観魚 」
「
柳 浪聞鴬」
「
双峯挿
雲」
「
三淳印月」
「
南平晩鐘 」
「
麹院風荷 」
)を確認 して、
(「
や は りあなたの美貌のためにみだ らなことを し
た もの と思われ る。」)
話題 を支那古典 か ら話題 を執筆時読者 の関心が大
二 〇八年)
に劉備 と孫権の連合
(
註 8) 中国後漢末期(
きかった ソヴイエ ツ ト革命政権の去就 に変 えたの
軍が、曹操の軍を破 り天下三分の計が確定 した古戦
である。
(
註 5)これは 白楽天 「
長島」の前半部の引用である。
場 を北采の蘇拭が、訪れて作った前後二編の賦。「
前
「
績国訳漢文大成 」(「白楽天詩集二」
)か ら全体 を引
赤壁賦 」
(
一〇八二年七月)と 「後赤壁賦」(一〇八二
年一〇月)
0
用す る.「
箪辞ひて衛拝す湖岸の東 、/鳥露箸 を誌
-2
3-
芥川龍之介 「
支那併記 」 研究 (
下)
(
註 9)山田勝美 「
中国名詩鑑賞辞典」の解説 に拠れ ば、
真違峯は杜甫の詩風 を学び、蘇戟 と並び称せ られた。
めいげつ
かん
倭)にて事 を書す」の第三句 「
清風 ・明月
所を引用 してみ る。
昼」
)
「
第-部 」(「
黄庭 堅 増は (
長 官 の こ と)篇崖 (
作者 黄庭 堅 の書
せいふ う
昼 」)第二部 (「
夕方 」)の二箇
る。参考 までに第一部 (「
け うめい
人の管す
せ きらん
かすゐ
一橋名 を知 らず 、石潤 に依 りつつ河水を見 る。 日光、
る無 し」(「
いわんや、 この清風 、 この明月は、だれ
微風 、笈 L
A'梶韻 の嵩 に似 た り. 両岸 皆筋違 (「白
の もので もな く、存分に味わって さ しつか えのない
壁 」)、水上の影措 けるが如 し。橋下を過 ぐるの舟、
もの」)は、同時代 の蘇東披 「
寡壷 鼠 (「
惟 だ江上の清
まづ寡量 りの船首見 え、次 に竹 を編み し諒露 見ゆ。
風 と山間の明月 とは、耳之 を得 て声 と為 し、目之に
櫓声の岬唖 (「
ぎい こぎいことい う櫓の音 。」)耳にあ
遇ひて色 と成す。之を取れ ども禁ず る無 く、之 を用
けつ
ふ るも喝 っきず ・・・・・ ・」と同一の発想 に基づ
枝 O」)流れ策 るあ り.首 懲 笈 L
責 と共に深か らん と
いてい る、と解説 してい る。ちなみ に四文字熟語 の
す。
ろせ い
れ ど、巌
張 した言葉である。
一 基鼻.鮎
(
註 10)「
江南併記」(
十八)で芥川龍 之介 が引用 して
呉 を破って帰 る/義士
る。首鼠
家 に還 って
花 の如 く春殿 に満 つ/只今
策臥
両岸粉壁の影 、巌巌 として水にあ
り。時に窓底の人語、燈光の赤 きに伴ふ を聞 く。或
せ きけ う
たまたま
こきう ろう
偶 橋上を過 ぐるの人、胡 弓を弄す
し
や
こ
ば、「
越
頗鴇の飛ぶ有 るのみ」。 山田勝美解説 しに拠れ
上う
こう
尽 く錆表/官女
(
「
び っこのろば」)に姦す。 窟常に完敗
最箔の船、皆蓮 (「こもまたはまこも」
)を巌へ るを見
いるのは、李 白庵 ち
帯磁 舌」の有名 な第三句である。
句践
既 に橋下を出づ。崖光二披 (「
桂 の花が一
「
第二部 」(「
夕方 」
)
「
換骨奪胎」は、黄庭聖が詩作 の技法の一つ として主
「
越王
い あ
庵だ
は又石橋 あ り
。
る事三両声。仰 ぎ見れ ばその人既 にあ らず。唯鵜韻
纂櫛 寛 として
中」は、越王句践の都 した会稽 (
漸江省 紹 興県)で、
の高きを見 るのみ、
作者 が この地 に遊 んで、往 時 を懐 古 して歌 った。
え
つおう
こう
せん ごおうふさ
かいけ
い
越王句践 は呉王夫差 に破れ て、いわゆる会稽の恥 を
媒裟嘗 嘗 月に垂 るる事、巌
なめたが、臥薪嘗胆 二十年 、ついに夫差 を破 って会
あ りや否や。
(「
未詳 」)を態 は しむ.知 らず、歯
たが許 されず、ついに 自殺 し、句践 は晴れて凱旋 し
最臥
(
「
月落 ち
烏噂 いて霜
晶 の辺 、
抱かれてき くは/夢の舟歌
花散 る春 を/惜 しむか
すす り泣 く」
「
花 を浮 かべて
いた姦姦筈の ことで、呉越興亡の哀史で有名 な旧跡。
'
蘭
「
君がみ胸 に
歌/水 の蘇州 の
」が あ る。 「
蘇台」は
産蘇省真韻 (
今の蘇州)に、春秋時代 の兵聖臭墓が築
(
註 1 1) 儀
管
を引用 してみ る。
た。李 白には越王句践を懐古 した 「
越 中懐古」の対で、
古
的 苑
のL
# 崖 の如 きもの
比較 の為 に、西条八十作詞 「
蘇州夜曲」の三速の詞
稽 の恥 を等いだ。夫差は岳姦筈 に退いて和平を請 う
呉王夫差 を懐 古 した 「
拙
う歯
蘭 業態 の記 」
天に
くえは
や なぎが
流れ る水 の/明 日のゆ
知 らね ども/今 宵 うつ した
えて呉れ るな
鳥の
二人の姿/消
いつ まで も」
「
髪 に飾 ろ うか
口ず
たお り
満つ/迂符 の轟巌
やはん
け しよ うか/君 が 手折 し
態う
鼠 こ対す/岳森城 外 の寒 山寺
桃 の花 /涙 ぐむ よ うな
し上うせい
/夜 半の 鐘 声
客船 に到 る」
)「
烏噂 」は山名である、
。
おぼろの月に/
鐘がな ります
寒 山寺」
「
夜半」は鐘 の銘 である とい う説 もある。烏晴 山が
「
江南併記」(
二十)に手帳か らとして収録 された
あるとすれば、それ はこの詩 が有名 になってか らつ
三速の蘇州河畔の情景 に示唆 されて 「
蘇州夜 曲」が生
け られた ものである。「
江村」は普通は 「
江楓」となっ
まれた とい うのは、私個人の思い付 きである。ちな
てい るが、清の学者最適 は 「
江村」が正 しい と考証 し
み に西条八十の卒業論文は 「
シング論」で同人誌 「
詩
てい る。(
山田勝美 「
中国名詩鑑 賞辞典 」)0
人」の仲間である富
岳 箇 充は、芥川龍之介 の親友で
ホー リーチェンツアイ
ラ
イ
あった。個人的には、具林作詞 「
何 日君 再 来 」や黄
イエラ
イシャン
テイエ ンヤ ァコオニュイ
清石作詞 「
夜爽 香 」それ に田湊作詞 「天 涯 歌 女 」
清 の考証学者 愈棚 に就 い て は、 「
孤 山寺 、今 の
欝 昌等 を瞥見 してか ら、その先 にある議題 へ行った.
ゆきょく
え
ん
愈楼 は愈 曲園 (「
愈堪」
)の別荘 であるo」(「
江南辞記 」
は中国人愛唱歌であるが、長年私は 「
蘇州夜 曲」を同
六)と紹介 している。
一範噂の唱歌 として認識 していた。
(
註 12)蘇州河畔 の水の流れ を 「
昼」
「
夕方 」
「
夜」の三
(
註 13)漢 の武帝の頃、塩 ・酒 ・鉄の専売制 をめぐ
部構成 の時間の流れで叙述 して見せ た内、本文引用
っての議論 をま とめた政治討論集 「
塩鉄論」がある。
の漢文書 き下 し文は、最終の 「
夜」の部分の記述であ
旬奴制圧 の為 に財政政策 の一環 として 「
塩 ・酒 ・鉄
-2
4-
琉球大学教育学部紀要 第7
8
集
の専売制」が、行われたそ うである。高洲太吉は今
詠い華やかな色彩があるとの事である。芥川龍之介
日その経歴は、詳 らかでないが揚州の塩務署に塩官
が、心浮 き立つ気分で想起 した ミュッセの詩 とい う
として専門性 を買われて 日本人であ りなが ら勤務
のは、この第-詩集 のことではないかと思 う。
していた訣である。塩務署が公的機 関であることは、
出入 りの際に番兵が敬礼 したことか ら推察できる。
ご ち そ う
笥き韻謬 』と。」(中
(
註 17)「
古人云ふ。『凝り
窟晋 策
略)「
昔は一曲の議違汲 詩人を韻姦せ しめたれ ど、
のち
「うどんの御馳走になった後、我我 は揚州一見の為
」(
二十八)、ここで言 う話題
東方の窟 ≠勤 怠な らず.
に、高洲氏 と塩務署の門を出た。す ると番兵が二三
J
つ
つ
二十三)
。
人、一度に我我-捧げ銃 を した。」(
になっている「
古人」
「
詩人」は杜牧であ り、「
後庭花」
は彼の七絶の第四句である。杜牧 「
泊秦推 」(「
煙は寒
しゆか
月は砂 を寵む/夜 秦准に泊 して 酒家
(
註 14) 杜牧 「
揚州の韻 髄 鞘管に暮す」の七言絶句
水 を鹿め
を松枝茂夫編 「
中国名詞選 (
下)」(「
岩波文庫 」
)か ら
みず ちょう
ちょう
あきつ
引用す る.借 g
t
u
Lは縫縫た り 水は 逼 迫 た り、秋尽
よ
きて 産篇 箪呆 嵩む。 竺 摘 蘭
萌芽 の夜 、
ぎよくじ
ん い
ず
と
こ
ろ
」(「
青い山々
玉 人 何れの 処 にか韻 儀 を鼓 うるo
に近 し/論う
品 ま知 らず
亡国の恨み/産を隔ててあ
ほ歌ふ後庭花 」
)
。山田勝美 「
中国名詩鑑賞辞典 」の
解説に拠れば、「
商女」は、酒 を勧め歌舞音曲をす る
妓女、つま りは芸者である。商は、商売の意ではな
月が照 らす夜、あのきれいな姦たちは どこで霜 を教
く唱 (うた う)意である。 「
後庭花 」(「
王樹後庭花 」
)
こう
とい う歌曲であ り、南朝の最後の天子である陳の後
し
ゆ
主 (
王朝末期の天子)が作った曲。歌曲はきわめて
えているだろ うな。」)
哀怨で、この風流天子は 日夜 こうした歌曲を奏 して
はほの ぐらく、水ははろぼろ。秋 も未になって、江
南では草 も木 も落葉 したことだろ う。二十四橋 を明
(
二十四橋)揚州の町には川が多 く、橋が二十四あ
歌舞 ・
宴会にふけ り、ついに晴に滅ぼされて しまっ
った。一説には橋の名。古代、二十四人の美女が こ
た と言 う。第三句、第四句は 「(ここは晴に滅ぼ され
の橋の上で 衝を吹いた と伝 えられ る。(
玉人)別解、
た陳の古都だが)妓女たちは、そんな事な ど知 らぬ
韓縛 を指す。風流才子のことを玉人 とい う。結句は
よ
「
玉人何れの処荷か衛を吹か しむ」と訓んで、わが風
げに/亡国の音楽『王樹後庭花』の曲を歌っているの
が、対岸か ら聞 こえて くる(
哀れなことよ)」とい う
流才子の韓君は今 ごろ どこで歌姫た ちの吹 く衛 を
意味になる。
聴いているだろ うか と解す る。杜牧 「
揚州の韓緯判
(
註 18)莫愁に就いては、神 田由美子脚注 「
六朝時
官に寄す」の七言絶句の要旨は、「
揚州節度使の幕府
代の伝説的美女。梁の武帝の 揃 軍の水の歌』(『楽
の事務官、韓縛に寄せた詩。揚州時代の同僚で飲み
府詩集』巻八十五)に歌われている。
」とある。梁の
うた ぎ
仲間にそれ とな く昔な じみの歌妓 の消息 をたずね
武帝の漢詩素材 として記録が残 り彼女の詩 は実在
る。」
しない、文字 どお り伝説の美女 とい うことか。 「
河
(
註 15)「
徐氏の花園」に向かって心楽 しく五月の風
中の水の歌 (
前半部)」(「
河中の水は東に向かって流
に吹かれて歩 く自分の姿を芥川龍之介は、ミユツセ
る/洛陽に女児 あ り 名 は莫愁/莫愁は十三に して
「
五月の夜」の詩 になぞ らえた。 「
柳 、墓、水、恋、
能 くあ
露ねを点 る/十四に して藁を壷る 篇歯の窟 /
草」の 口中の咳 きを うろ覚 えの ミエッセに置 き換 え
十五に して嫁ぎて壷蒙の霧 と為 る什 六に して児 を
て見たのである。背後に不安を隠 しての軽快な足取
生む 字は阿侯 (
後文省略)」
。吉田精一脚注は、詩
りを表現するのであれば、「
江南併記」(
二十四)に挿
人 として紹介す るも具体的な詩 は存在 しない よ う
あ こう
入 され るべきは、読替 「
尋胡隠君」の五言絶句の方が
そご
的確である。芥川龍之介 「
江南併記」執筆上の敵齢、
かん
せい
修辞学上の陥葬である。 山田勝美 「
中国名詩鑑賞辞
こいんく
ん
みづ
わた
またみづ
わた
はな
典」
(
「
胡隠君を尋ねて」
)「
水を渡 り 又水 を渡 る/花
み
ま
はな み
し
ゆ
んぷう こうじ
よう みち おぽ
を看 て 遼 た花 を看 る/春 風 江 上 の路/覚 えず
きみ
いえ
である。
(
註 19)蘇 ′
J
、
小に就いては、神 田由美子脚注 「
南朝
の頃の杭州の名妓。彼女の出現以来美 しい妓女一般
を蘇小小 と呼ぶ よ うになる程、評判が高かった。」
とある。谷崎潤一郎 「
西湖の月」(「
青磁色の女」)は、
いた
君が家に到 る」の方が紀行文挿入詩歌 としては、適
この蘇小小 に擬 えた薄命 の美女に纏わ る異国締評
切であった。
であるが、 「
私は其の話 を聞いて、図 らず も彼女 と
(
註 16) 文学史的記述に拠れば、処女詩集 「
スペイ
同 じく此の湖の畔でみまかった六朝の名妓蘇小 々
ンとイタ リアの物語」(
一八三〇)
には異国の風物 を
の事を想ひ出 した。」(「
西湖の月」
)
。谷崎潤一郎は、
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5-
芥川龍之介 「
支那併記 」研究 (
下)
む ざむ ざ始れた.世間の尤物 は皆なが もちがせず、
さ
い
忽 ち消え易いものである。
の花 も江南の雪も」)
「
西湖 の月」の終結部 に 自身 が西湖畔散策 の時に西
ほ
く
塞北
冷橋 の蘇小小 の墓 の傍 らの記念碑 か ら写 した碑文
を記載す。 「
金粉六朝香車何在/才華一代青塚猶存 」
(
菓赫題)
。芥川龍之介は 「
江南辞記」執筆 に「
西湖 の
改造」大正八年六月)を参考に してい るので、
月」(「
r
,
q覇 の釜紡荷 とか云ふ前人 の詩 を思ひ 出 さ うと
した。」(
二十八)とあるのは、谷崎潤一郎が 「
西湖の
月」に記載 した蘇小′
J
、
の碑文の事である訣 である。
じ
っし
ゆき上く
「十 種 曲 」(「
笠翁 の作 った風琴誤 ・慎 響交 ・奈何
天 ・憐香伴 ・比 目魚 ・意 中縁 ・玉掻頭 ・塵 中楼 ・巧
り
つ
)の作者 「
笠
団円 ・
鳳求鳳の十種の代表戯 曲をい う。」
をう
翁 」(「
李漁 〔16 11- 79〕
。中国明末清初の劇作
家。笠翁はその号。〔
偶集〕は彼 の随筆集 。」)とい う
江南併記」
十七)は、明 らかに「
西湖の月」
記述事項 (「
か ら示唆 されてい る。
松枝茂夫編 「
中国名詩選」(
下)は、古楽府 「
玉台新
詠 」(「
蘇小小の歌」
)を紹介 している。「
我乗油壁車、
郎乗青駿馬。何処結 同心、西陵松柏下。」(「
我れは油
あ しげ
壁 の車に乗 り、郎 は青 駄 馬 に乗 る。何れ の処 にか
同心を結ぽん、西陵の払う
柘 の下に。」)この蘇小小楽
蘇
府 に示唆 されて作 られたのが、李賀 「
蘇小小墓 」(「
小小 の墓 」)である。 「
幽蘭露/如晴 眼/無物結 同心/
煙花不堪薮/草如薗/松如蓋/風為裳/水為現/油壁車
ゆ うらん
/夕相待/冷翠燭/労光彩/西陵下/風吹雨 」(「
幽蘭の
な
えん か
露、噴 ける眼の如 し。物の同心を結ぶ無 く、煙花は
盛 るに堪 えず。草は官 の如 く、松 は蓋 の如 し。風
を裳 と為 し、水 を嵐 と為すo蒜昌
壷の車、夕 ごとに相
あお
わず ら
待つo冷やかなる翠き燭、光彩 を 労 わす.嵩 り虚 の
下、風
雨を吹 く。」)
しんぢや う
(
註 20)「
江南の美人真嬢 〔
秦の麗姫 とったえられ る
が事実は呉の名妓であろ う。伝説上の美人。〕の墓 」
(
十九)
。真嬢 は、唐代の蘇州の名妓で、その薄命 を
伝 え聞いた蘇州知事 であった 白居易 は墓誌銘 を書
箕闇 の
いた.「
続国訳漢文大成、白楽天詩集 二」 (「
墓、墓は虎丘寺に在 り」)を以下引用す る。 「
真娘の
めん
ぼ と う
墓、虎丘の道。/真娘鏡中の面を織 らず、/唯真娘墓頭
くだ
れん
を
の草を見 るのみ。/霜は桃李 を捲 き風 は蓮 を折 る、/
しふ て い し ゆ ろ う こ
真娘死す る時猶少年。/脂膚黄手牢固な らず、/世間
い うぷつ りうれん
せ うけつ
の尤物留達 し難 し。/留達 し難 く、消欲 し易 し、/塞
ほ
く
北
の花 、江南の雪」(「
其娘の墓 は虎丘の道 に在 る。
余は真娘の顔 を見 る機会 を得ず、唯其墓の草を見 る
のみである。霜は桃や掌 を諺 き風は蓮 を折 る習で、
まだ年 が少 いのに華著で筈
箱
な美 しい真娘の身 も
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