教頭通信 Vol.63 吉田松陰の生涯

つれづれなるまゝに・・・
「大和魂,ここにあり!」
~吉田松陰の生涯(3)~
教頭
深谷
浩一
安政5年( 1858年 ),松陰は幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し ,
討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画します。しかし,久坂玄瑞,高杉晋作とい
った最も信頼する弟子たちや桂小五郎といった藩の要職に就く友人達はこぞって反対し同調しな
かったため,計画は頓挫(とんざ)してしまいました。さらに,松陰は幕府が日本最大の障害に
なっていると批判し,倒幕まで口にする始末です。幕府に知られれば,即刻死罪に値する言動で
す。そのため,藩は松陰を捕らえ,再び野山獄に幽囚することにしました。
安政6年(1859年 ),とうとう幕府からの追っ手が松陰に及びます。その頃,幕府は ,「尊王
攘夷」を掲げ幕府の開国の方針に反対する連中を片っ端から捕まえて死罪にしていました。世に
言う「安政の大獄」ですが,松陰にもその疑いがかけられました。そして,野山獄から江戸に檻
送されて,評定所で取り調べを受けることになりました。
はじめは ,取り調べの中では特に松陰の倒幕計画などの証拠は出てきませんでした 。そのため ,
誰もが松陰は無罪放免になると考えたことでしょう。しかし,そこで松陰は何を思ったか,幕府
には知られていなかった「老中暗殺計画」などを自分から話し始めてしまったのです。黙ってい
ればすぐに釈放されたものを,余計なことを言ってしまったために,同年10月27日,斬首刑に処
されてしまいます。享年30歳。亡くなった時点ではまだ29歳でした。
以上,吉田松陰の一生を駆け足で見てきましたが,さて,いよいよ,松陰を授業で取り上げる
段になり,困ったことが出てきました。それは,松陰の生き方をとおして,生徒達に何を教える
べきかということでした。しかも ,「道徳」の授業ですから ,「吉田松陰という人はすばらしい」
と生徒が感動し,松陰の生き方から何かを学ぶような「仕掛け」を作らなければなりません。
松陰は,これまで見てきたように,思想を弾圧しようとしている幕府の役人を殺そうとし,そ
の上,その殺害を高杉晋作などの弟子たちに依頼しているのです。それなのに,生徒に対して,
「君たちも松陰を真似てがんばりなさい 。」などとは到底教えることはできませんし ,「暗殺計
画を立てたのは人間として間違っていたが,嘘をつかずに正直に話したので立派であった 。」な
どと教えようものなら,松陰自身が現れて ,「馬鹿者!老中を暗殺する以外に開国を止める方法
がないじゃないか 。私は自分の命など惜しくない 。ただ ,最後に老中に『 お前が間違っている! 』
と一喝してやりたかったのだ!それなのになぜ,私が嘘をつく必要があるのだ!」とお説教され
るのではないかとさえ思います。だから,松陰先生をどう取り扱うかで悩むことになったわけで
す。
その意味では,同じ「幕末の志士」でも ,「坂本龍馬」や「西郷隆盛」を取り扱う方が,まだ
扱いやすいと思われます。それは,思想や言動に非人道的なところが(実際はあるのかも知れま
せんが)見られないからです。しかし,人間臭さのない「偉人」として扱えば ,「道徳的」には
なるでしょうが,生身の人間としての魅力はいまひとつ感じられません。
さて,私が実際に松陰を授業でどう扱うことにしたのかについては,次回からお話しします。
(つづく)
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