自由論題 環境と政治 報告3 千葉 芳広(北海道医療大学) アメリカ統治下のマニラにおける都市空間と衛生(1905~14 年) Urban Space and Public Health in American Colonial Manila, 1905-14 本報告は、1905 年から 1914 年までのマニラ公衆衛生を取りあげる。これまで、近代東 南アジアの都市形成史では衛生の契機が十分に考察されてこなかった。ここでは、社会イ ンフラ整備に衛生がどのようにして関係したのかに焦点を当てる。ただし上下水道につい ては、別の機会に論じることにしたい。 背景では、1880 年代から 1900 年代前半に大規模にコレラが流行して、その対策を通じ てフィリピン公衆衛生政策が形成されていた。1902~04 年のコレラ流行時の暴力的公衆衛 生政策が、 フィリピン人の抵抗を通じて 1905 年以降になるとより穏健なものへと転換した。 それは同時に、衛生行政組織の改編に伴ってフィリピンの衛生行政は衛生局(Bureau of Health)に集約され、そのトップに立つ衛生局長ハイサー(Victor G. Heiser)が 1914 年まで 強大な権限を持つ過程でもあった。1904 年までにフィリピン衛生委員会は、居住環境、個 人・家庭の社会慣習、同社会慣習と経済の問題、および教育を通じた社会慣習の改善の 4 つの視点を政策的に課題としていた。こうしてハイサーは、都市空間への介入と教育を通 じたフィリピン人の社会慣習の改良に関与していく。 1905 年以降、フィリピンにおける個人や家庭に向け衛生教育は、ハイサーをはじめとす るアメリカ人医官のもとで人種主義的発想に基づき展開した。同時に都市空間では、スラ ムの改善、すなわち住居の郊外化および「衛生村落」の形成が政策的に遂行された。河川 での洗濯・入浴、市場での取引や建造物も規制の対象となった。また警察と連携する衛生 検査官による戸別検査が、フィリピン人を監視下に置いた。それは、フィリピン人の身体 を強化することによる労働効率性の向上という経済開発上の視点を含むだけでなく、自己 規律の欠如を指摘して、帝国支配を正当化するものでもあった。しかし、都市社会の現実 を十分に捉えきれなかった分だけ、衛生政策は現地社会を持続的・効果的に変えることは できなかった。
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