笹ヶ瀬隕石ものがたり-その発見から落下年の確定まで- 小和田稔 (編集部注:本稿は、 「星ナビ」2014 年 3 月号に掲載された記事の原文です。 「星ナビ」 では一部割愛されている部分もあるので、ここに全文を掲載します。) はじめに 静岡県浜松市東区篠ヶ瀬(ささがせ)町の増福寺という寺には江戸時代に落下し、 「玉薬師如来(たまやくしにょらい)」という寺宝として伝えられてきた隕石があった。 この隕石は落下以来長らくあつく信仰されてきていて、これをたたえる和讃( 注 1 ) まで作られた。一方で、寺の火災がきっかけで一時期、村の青年たちが砲丸投げの遊 び道具としていたこともあったという数奇な過去を持っていた。 隕石として登録された昭和 25 年当時、落下の記録されたものとしては日本最古の 隕石とされ、大きな話題となった(現在では直方隕石、南野隕石に次いで 3 番目とな っている)。またその後、関係者によって「笹ヶ瀬隕石保存会」が結成され、落下 270 年祭、280 年祭もとり行われた。こうした中で、この寺に伝わる記録と江戸時代の他 の古文書で落下年が食い違い、大きなナゾとなっていた。このうち、寺に伝わり隕石 落下時の模様が詳しく書かれた「玉薬師如来出生記」という記録による元禄元年(1688) が最も有力とされ、これが落下年として登録されたのだった。 筆者が所属する天文同好会、浜松スペースハンタークラブでは 1981 年にこの隕石 に関する諸資料が散逸するのを防ぐために「笹ヶ瀬隕石資料集」を発刊した。そして これをきっかけに正しい落下年を知りたいと考え、多数の古文書を調査してきた。そ の中で、多くの新しい情報が提供され、論議が行われてきた。そしてこの程、新たに 有力な古文書が見つかり、長年のナゾが解けた。そこで、これまでの歴史を振り返っ てみた。 1 近江からスタートした隕石探し 今から 70 年以上前、日本天文研究会会長の神田茂氏は天文古 記録を調査する中で、「降る話」という本(*1)の中に、江戸時 代の尾張藩士、天野信景(あまのさだかげ)の随筆「塩尻」から の引用として次のような記事を見つけた。(下線は筆者による) 『甲申正月十二日の夜近江国笹ヶ瀬増福寺といふ僧坊の前へ鳴 動して隕たるものあり』 そこで、近江国すなわち滋賀県に住む住職で、反射鏡研磨の達 人として知られた木辺成磨(きべしげまろ)氏に連絡をとり、そ の寺の所在を調査したが見つからなかった。 ところが昭和 24 年(1949)になって、科学史研究家の大矢真 一氏から「塩尻」には以下のように書かれている事を知らされた。 『甲申正月十二日の夜遠江国笹ヶ瀬増福寺といふ僧坊の前へ鳴 動して隕たるものあり、夜明けて見れば金色の物也、始めは黄金 降りしなんと俗説多かりしが、石にて有しかば寺に納めて仏前に 置しとそ』 最初、近江(おうみ)と思われた地名は遠江(とおとうみ)すなわち静岡県だった ことが明らかになったので、今度は静岡県島田市に住み、アマチュア天体写真の草分 けとして知られた清水真一氏にこの寺の所在を調べてもらった。その結果、浜松市に 増福寺という寺があることが分かり、静岡天文研究会の柴田宸一氏(実家が同じ宗派 の寺だった)を通じて問い合わせをした。その結果、隕石と思われる石がこの寺に伝 えられていることが分かり、更には科学的な調査の承諾も得られた。 そして昭和 25 年(1950)、国立科学博物館の村山定男氏らが鑑定した結果、石質隕 石であることが確認された。こうして当時、日本最古となる笹ヶ瀬隕石が誕生したの だった。 2 落下年はナゾだらけ この寺には、隕石落下の史料が隕石と一緒に保管されていた。それらは元の文書か ら昭和 4 年ころに半紙 2 枚にわたり書き写されたものだった。(元の文書は戦災によ り失われた)そのうちの一つは「玉薬師如来出生記」と題されたもので、これによれ ば隕石の落下は元禄元年(1688)となる。今一つは「遠江統志」という文書からの数 行の抜き書きとして、隕石を土の中から掘り出した人物名まで記された記録だった。 この史料によれば落下年は元禄三年(1690)となる。つまり、「塩尻」の伝える元禄 十七年(1704)とあわせて三つもの異なる落下年が出てきたのだった。この中で、神 田氏は疑問を抱きながらも、 「玉薬師如来出生記」が寺に長らく伝わる文書で、落下し た時の様子が非常に詳しく記録されていることから、落下を元禄元年と判定したのだ った。 ところがその後、浜松市で見つかった「旅籠町平右衛門記録」 (はたごまちへいうえ もんきろく)と呼ばれる古文書に次のような記録があることが分かった。(*2)その 内容を現代語訳すると次のようになる。 ( 以下いくつかの古文書についての現代語訳を 示すが、いずれも筆者の個人的な解釈によるもので、異なる解釈もあることを付記し ておく) 『宝永元年、甲申の年の正月十二日、昼の十二時頃に、藩内にある笹ヶ瀬村の蔵福寺 の領地の中へ、天から玉がひとつ落ちたそうだ。この玉は四角形をしているとのこと で、大きさは天目茶碗( 注2 )くらいで、重さは 316 匁(1185g)くらいあるそうだ。 其の玉は当藩城主の本庄安芸守(ほんじょうあきのかみ)様が江戸城で将軍に会われ た際に江戸へ運ばれたそうだ』 この記録は「玉薬師如来出生記」にある落下日時、場所ともに一致し、隕石の大き さも矛盾しないことから笹ヶ瀬隕石の記述に間違いないことが分かる。しかし、落下 年は「塩尻」と同じく宝永元年(=元禄十七年)となっている。この記録のひとつの 注目点は、当時の浜松城主が将軍に隕石を見せるため江戸へ運ばせたことである。こ の内容の裏付けになりそうな記事も他の史料の中に見つかっている。(*3) 3 新たな記録が名古屋で見つかる このように隕石落下年について、増福寺の記録と他の記録とで異なることが大きな 疑問として投げかけられた。(*4) そんな中、1994 年に東亜天文学会の会誌「天界」に京都市の篠田皎(しのだあきら) 氏による新たな落下記録の発見が報告された。(*5) 尾張藩士、朝日重章(あさひしげあき)が書き残した「鸚鵡籠中記」 (おうむろうち ゅうき)という日記中、元禄十七年正月十二日には以下のように(現代語訳)書かれ ている。 『遠州浜松領の西安間村にある蔵福寺へ、今日昼ごろに北西の方角から地震のよう に音が鳴り出し、二度大きな音がして、三度目になって小さな黒雲がわき出し、その 中から丸い玉が出て、蔵福寺の畑へ落ちた。その場所の地形は二尺(60cm)ほどくぼ んだそうだ。その後、黒雲は雷鳴のように響きわたり、海の方へ飛んでいった。その 玉は蔵福寺が取り上げて、紙に包んで新しい台にのせて仏前に上げ、見張り番をつけ ておいたそうだ。玉の大きさはまわりが一尺(30cm)くらいあり、重い玉だそうだ。 色は黒っぽい黄色をしているとのこと。この鳴った音は嶋田宿(現静岡県島田市)ま で聞こえ、もっとも遠方では雷のように取りざたされたとのことだ。』(*6) 「鸚鵡籠中記」は朝日重章が、貞享元年(1684)から享保二年(1717)までの 34 年間にわたり、日常のあらゆる見聞をこと細かに書き留めている膨大な記録で、当時 の事件や世相を知ることのできる極めて重要な文書として認められている。上の記録 も著者がこの事件について並々ならぬ興味を持って、詳細で正確な情報を集めたこと を物語っている。その描写内容は昨年のロシアへの隕石落下の映像そのもののように 感じられる。 ここでも「玉薬師如来出生記」と落下年が異なるだけで、内容に矛盾は見つからな いことから、落下年を特定する上での第一級の史料と認められ、元禄十七年落下説が 有力視されることになった。 4 落下年は元禄十七年だった-地元から見つかった新たな記録― 浜松スペースハンタークラブではその後も村井陽一を中心として精力的な史料さが しが続けられた。その範囲は地元や近隣の愛知県をはじめ、福井県や兵庫県にも及ん だ。その結果、現浜松市北区引佐町の山林奉行だった宮田氏の残した記録「宮田日記」 (*7)に次のような記録が見つかった。(現代語訳) 『元禄十七年申の年、正月の十二日に玉が落ちた。中郡(な かごおり)の中の恒武村にある寺の中に、何だかよく分か らない石とも金属とも見分けがつかない、五貫目(18.75kg) くらいの玉のようなものが落ちたとのことだ』 この記録は当初、村の名前の違いや重量の大きな食い違 いから重視されなかった。しかしその後、この記録の信頼 性やこの一文の内容の解釈について沼津市の渡辺美和氏に よって詳細な論考が発表された(*8)。これに続いて筆者 による、日記全体にわたる記載内容と歴史的な事実との照 合 か ら、 充 分 信 頼 でき る 記 録だ と い う こ とが 確 認 され た (*9)。また、問題点の落下地については恒武村の現地から 見た方位が笹ヶ瀬村と一致し、五貫目という重量について も領地の外から伝わってきたうわさ話をそのままに記録し たと考えられるとの結論に達した。こうしたことから、この記事が笹ヶ瀬隕石落下を 記録したものであり、落下の年月日については間違いないものと判断された。 このようにして、独立した第三者による信頼性のある記録すべてが一致して元禄十 七年としていることから、この年を落下年と確定することとなった。この日付はグレ ゴリオ暦では 1704 年 2 月 16 日にあたる。またこの事件に関連しそうな同時期の記録 として、金沢市の「変異記」という古文書や「江戸城内での光り物の噂」が渡辺美和 氏によって「星ナビ」12 月号に紹介されている(*10)。 5 なお残る「玉薬師如来出生記」のナゾ 最後に残された一番のナゾは「玉薬師如来出生記」の元禄元年落下という記録だっ た。そこでまず、この記録の書き出しの部分を見てみよう。(現代語訳) 『元禄元戊辰の年、正月十二日、天は晴れ、風は静かで波は穏やか、四方を見渡して も一点の雲も無い。時まさに昼の正午前、北西の方角に、紫色の雲が現れ、空中が振 動して雷のような響きがして天地も崩 れるかと思われたが、それは何の音な のかよく分からない。その鳴り音がま だ止まないうちに、私は驚いて見ると、 寺の西南の方角、三十六七簡(約 65m) を隔てて、空中から何かが畑の中に落 ちた。たちまちどこからともなく、数 えきれないほどの鳥が来て飛びまわっ ている。そこへ行ってみると、大きな 新しい穴があいていて、掘ってみると およそ三尺(90cm)ばかりの深さの土中に玉があった。(後略) 正月大穀旦 常楽 山増福寺現住益順叟謹記』 この文面では、当時の増福寺住職だった益順という人物が隕石の落下を目撃した記 録と読み取ることができる。しかし、寺の過去帳によれば、益順の没年は延享五年 (1748)とある。つまり隕石の落下を元禄元年とすれば 60 年もさかのぼることにな り、宝永元年だとしても 44 年も以前のことになってしまう。果たして実際に見たの かどうかという疑いがわく。この記録の最後には、「正月大穀旦 常楽山増福寺現住 益順叟謹記」とあるのみで、これがいつ書かれたものか分からない。ただ、益順叟の 「叟」という字は「おきな(=老人)」という意味で、少なくとも落下してから相当の 年数を経たのち書かれたものと判断できる。この記録は隕石の落下の様子や落下地を ありありと描写している点では信頼できるものと考えられる。しかし、最初の部分の 「天は晴れ、風は静かで波は穏やか、四方を見渡しても一点の雲も無い(原文:天晴 風静浪平四方一点無雲)」や「紫色の雲が現れ(原文:引出紫雲)」といった表現は、 こうした寺宝や社宝の由緒を記す場合によく見られるいわば決まり文句のような文で ある。とりわけ「紫雲」という表現は脚色されたもののように思える。紫色は仏教で は最も位の高い色であることから、天から舞い降りた仏様を美化するものとして使わ れたのではないか。また、かなりの年数を経て書かれたものとすれば、宝永元年を元 禄元年にさかのぼって由緒とした可能性もあり得る。由緒はより古いほど有難みが増 すものであるし、元禄十七年は後に宝永元年へと変わったので、宝永を元禄と混同し たと言う言い訳も成り立ちそうだ。また、元禄時代は今でいうバブル景気の時代で、 庶民生活も活気に満ちていた。しかし、終わりころにはかげりも出て、元禄十五年の 赤穂浪士事件や同十六年の江戸大地震など大事件が続いた。そこで宝永に改めたもの の、宝永四年には今でいう南海トラフの三連動の巨大地震と富士山の大噴火があった。 こうした状況を考えると、有難い玉薬師如来の出生を宝永元年とするより元禄元年と した方が信仰の対象としての価値を高めると考えたかもしれない。またこの時期に社 寺の経営に関する幕府の統制があったことがこの文書を生んだ可能性があるとの説も 渡辺氏によって指摘されている。(*11) すなわち、この文書は日記などのようなリアルタイムで書かれた記録とは性格が異 なり、いわゆる由来書として解釈することで矛盾を解消できるだろうと思われる。し かし真相を解き明かす手がかりは見当たらずナゾのままである。ただ確実に言えるの は、同時期に記されたどの古文書にも元禄元年に隕石が落ちた、またはそれを思わせ るような記事が見つかっていないことだ。 なお、今一つの落下年を示す「遠江統志」という文書についてもその一部が増福寺 に抜粋されて残るのみで、元の文書の存在や性格が分からず、元禄三年という年代に ついてもなおナゾのままである。 終わりに このようにして「笹ヶ瀬隕石資料集」を発刊した 1981 年以来、三十年以上にわた って続けてきた調査の結果、隕石落下年が覆ることになった。このことはすでに国立 科学博物館で隕石研究にたずさわる米田成一氏にも伝えられ、同館の記載も変更され ている。更には国際隕石学会にも通知さ れ、現在落下年改訂のための発表準備を 進めている。 この隕石研究については東亜天文学会誌の「天界」誌上にて数々の資料調査に基づ いたオープンな議論がなされてきた。特に京都市の篠田皎氏(*5、*12)や元つくば 地質標本館の松江千佐世氏(*13)にはナゾ解きのカギとなる論考や多くの有力な資 料を提供していただいた。また、沼津市の渡辺美和氏にも本会の会誌「ほし」への投 稿を中心にして多くの情報を寄せていただいた。このほかにも 古文書解読をはじめとして、多くの方々のご協力をいただいて いる。こうしたバックアップのおかげで 2013 年東亜天文学会 より村井陽一と筆者との連名で「マゼラン賞」という栄誉ある 賞を頂くことになった。関係の皆様に対し、ここに厚く御礼を 申し上げる次第です。 (マゼラン賞記念品→) 注1 「和讃(わさん)」とはかな混じりの七五調のわかりや すい言葉で仏などを讃えて信者たちによってメロディーをつけ て唱えられる仏教歌謡の一種 注2 「天目茶碗(てんもくちゃわん)」とは茶道で良く使われる鉄のうわぐすりを 用いて焼かれた円錐形の陶磁器 参考文献 *1「降る話」李家正文著 1934 一誠社」 *2「浜松市史 史料編一 1957 浜松市」 *3「笹ヶ瀬隕石落下年の特定」小和田稔(天界第 1053、1054 号 2013 東亜天文学 会) *4「隕石落下史料に関する疑問点と落下年の推定」小和田稔(「笹ヶ瀬隕石資料集」 1981 浜松スペースハンタークラブ) *5「元禄御畳奉行が記録した笹ヶ瀬隕石」篠田皎(天界第 834 号 1994 東亜天文学 会) *6「摘録 鸚鵡籠中記」朝日重章著 *7「引佐町史料 塚本学編注 第十一集」引佐町古文書教室編 1995 岩波文庫 引佐町教育委員会 *8「「宮田日記」と大砲の弾」渡辺美和(「ほし」142 号 2011 1979 浜松スペースハンタ ークラブ) *9「「宮田日記に記録された笹ヶ瀬隕石」小和田稔(「ほし」145 号 2012 浜松スペ ースハンタークラブ) *10「覆った隕石落下の「いつ」」渡辺美和(「星ナビ」12 月号 2013 アストロアー ツ) *11「「玉薬師如来出生記」の「元禄元年」落下に関する考察」(「ほし」147 号 2013 浜松スペースハンタークラブ) *12「笹ヶ瀬隕石の落下年代に関する論考」篠田皎(天界第 949 号 2004 東亜天文 学会) *13「時は元禄・天からの届き物」松江千佐世(天界第 946 号 2004 東亜天文学会) ←「星ナビ」3 月号誌面 ↓
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