第4回講義メモ

15 年度「比較経済史」第4回講義 Resume
近代化の歴史的起点ー封建制の崩壊と近代資本主義の萌芽
2015/04/18
(はじめに)
前回の講義の中心は、17 世紀ヨーロッパの海洋小国オランダが彗星の如く世界経済に登場し覇権(ヘ
ゲモン)を確立したにも拘わらず、18 世紀に入るとそれまで後進国であったイギリス・フランスに追い越
され衰退していったのは何故か、とういものであった。それに対しては、オランダが中継加工貿易(トラ
フィーク)に終始し、外国の重商主義政策に対抗できる国内の産業基盤(特に工業)の建設を怠ったとい
う仮説を示しておいた。イギリス・フランスが絶対王政の政治力を背景に国内産業を保護しながら重商主
義政策を取り始めると、オランダは原料の輸入・工業製品の市場から閉め出され、国内産業は衰退して行
った。
Ⅰ.イギリスにおける封建制の崩壊と近代資本主義の萌芽
1、イギリス農村工業の基盤ー2つの地域類型
中世末から近代初頭のイギリスは、自然的・気候的に、2つの地域に区分して論じられる。南部・南東部
(ロンドン周辺、ノフォーク・オックスフォードシャーなど)は低いなだらかな斜面、肥沃な土壌、乾燥し
た気候、低地平野。ここでは、穀物と畜産を組み合わせた混合農業が発展し、中世時点では、北部・北西
部より発展し、人口も多く発展し、村落共同体を強固な基盤とした荘園制(マナー制)が発展した。これ
に対して北部・北西部(ヨークシャー・ランカシャーなど)は、地質は貧弱で痩せた丘陵で荒れ地が支配的
で、全体として低温でじめじめした気候の下にあり、人口も稀薄で貧しく発展の遅れた地域であった。
2、中世の都市と農村ー封建社会の基本構造(一つの最も単純化した“Model”)
一般に中世のヨーロッパは都市と農村との対立でもって特徴付けられる<都市の特権階級が農村の農民
を支配下におこうとする>。この場合都市が発展したのは、イギリスの場合、南部・南東部に多く、北部
・北西部には余りみられなかった。
★【農村】
都市が発展したのは、南東部であったが、村落共同体の支配する農村が成立していたのも、同じように南
東部であった。北西部ではこうした封建的基盤が脆弱で、領主層から放置されていたので農民の土地に対
する権利は、南東部に比較して強かった→「独立自営農民(ヨーマン)」の発生。⇒近年では再び「新興地
主(ジエントリー)」の役割が協調されている!
1)、中世封建制社会が成立する以前北欧のゲルマン民族は「ゲルマン共同体」と呼ばれる村落共同体を形
成して生活していたが、封建制が成立してくる過程で領主ないし国王がその共同体を上から支配すること
になった→土地に対する‘支配権’確保→荘園の成立。
2)、農民は外敵から守られ[形式上]土地を付与される代りに地代を支払った。→土地に対する‘保有権
’は確保した。
封建地代の形態には「賦役地代」・
「現物地代」・「貨幣地代」の 3 種類があった。
3)、村落共同体の特徴は① 30 家族位を単位に、土地を(1)共同地(2)宅地&庭畑地(3)30 位の耕区に別れた
共同耕地(4)その他は森林地・牧草地として共同の土地として利用された。
4)、中世の農業の特徴は 8 頭仕立ての有輪鋤を導入した「三圃制」にある。耕地を(1)夏穀物(2)冬穀物(3)
休閑地の三つに分けて輪作し土地の疲弊を防いだ。三圃制の維持と村落内の平等を維持するためには強制
耕作など様々な村落共同体諸規制があった。
★【都市】
1)、都市は、国王ないし領主より付与された特許状で自由な市民身分と自治を確保した
2)、都市はその地域での営業の独占を保証され、その見返りとして国王・領主に税金を払う義務があった。
また、営業の独占権は農村にまで及び農村工業は法律で禁止された。
3)、都市の内部で誰でも自由に営業出来たのではなく、「ギルド(村落共同体原理に基づく同職人組合)」
に加盟することが条件であった。
4)、ギルドに加盟するには親方試験を受け親方試作品(Masterpiece[傑作])と加盟料を収める必要があった。
5)、その為には親方の下で数年間徒弟として働き、無償の労働を提供し、技術を修得する必要があった。
6)、市場は基本的に国王、領主、都市の市民であったため市場は飽和状態になっていったので、親方にな
れない中間の小親方層を多数形成していったが、彼等は次第に農村に流出して行って独立の手工業者にな
った。
3、後進国イギリスの台頭ー 15 世紀におけるイギリス経済社会の転換→第 3 回講義の後半で触れた!
1)、 15 世紀のイギリス経済:都市の衰退と農村の台頭
①農奴制の廃止/②地代の引き下げ/③商品売買の自由の獲得→独立自営農民の成立/④物価下落、
⑤農業日雇い賃金の上昇「イギリス農業労働者の黄金時代」(ロジャーズ)
→こうして農民の間に広範に「民富」(comonweal)が形成される!それがやがて「資本の原始的蓄積」が
おこなわれる場合の原資となった。
2)、このような都市の衰退の背後で農村の繁栄が見られたが、特に封建制支配が弱く弛緩しつつあった北
西部では、農業生産力の高まりの中で農・工の分離(社会的分業の展開)がおこり、中世都市を支えてい
た遠隔地市場圏に対抗して農村を中心に「局地的市場圏 local market area」が成立。
4.「共同体」(平等の世界)から「市場」(競争の世界)へ
1)、「局地的市場圏(local market area)」の成立
14 ~ 15 世紀にかけて、イギリスでは「都市」ではなく「農村」を中心に、‘local’なレベルで広範な
社会的分業の展開(=農村工業の成立)が見られる。これらは自己完結的な市場経済[局地内での自給]で
あり、我が国の研究史では一般に「局地的市場圏」といっている。
2)、マニュファクチャ(=工場制手工業)の成立→産業資本(資本主義)の成立
16 世紀の半ばに至ると、元は独立手工業者であった織布工の中に賃金労働者を雇用する者が出現する。
これぞまぎれもなき、資本主義の経済学的範疇である産業資本の成立を告げるものである。
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Ⅱ.ヨーロッパ全体における封建制の崩壊と近代資本主義の萌芽(16・17 世紀のヨーロッパ経済)
14 世紀後半から 15 世紀末に至るまで、ヨーロッパ全体で物価は安定もしくは下落の傾向が見られたが、
16 世紀から 17 世紀にかけては、持続的な物価の上昇が見られた。
1,農業ー土地制度の変容
15 世紀の「封建制の危機」→領主・農民関係に変化
領主直営地の分割、賦役地代から現物地代・貨幣地代、農民の土地所有権( 下級所有権) の強化、領主の
上級所有権の弱化、領主裁判権( 経済外的強制) の上級領主への集中→ 16 世紀「農民的土地所有」の成
立
1)イギリス:16 世紀、自由土地保有農民‘20%’、慣習的土地保有農民‘60 ~ 70% ’(その内‘80%’は謄
本土地保有農民) 定期借地農民‘10%’[そのうち、 自由土地保有農及び謄本土地保有農民を一般に“
独立自営農民(ヨマンファーマー)”と呼んでいる]→さらにその上層が「新興地主(ジェントリー)」であ
る。
2)フランス:15 世紀後半から 16 世紀の後半にかけて地代の金納化と農民的土地所有の成立が見られる。
ここでも物価上昇、穀物価格の上昇を背景に農民層の両極分解が見られるが、イギリスのように資本・賃
労働関係の形成、資本主義的農業の成立に必ずしも綱がらなかった土地市場を通じて、富裕な農民層や都
市部の商人が土地を購入し、それを没落した農民に小作に出すという分益小作制が成立した。こうしてフ
ランスの場合 16 世紀初頭に見られた農民的土地所有は次第に「市民的土地所有 propriete bourgeoise」に
再編成されて行った{フランス革命で解放の対象になった点に注意!}。
3)ドイツ:16 世紀のドイツではエルベ川以西と以東では対象的な農業ー土地制度の成立がみられた。エル
ベ川以西では古典的な荘園制(賦役地代)が解体し、 地代荘園制の成立すると共に、領主裁判権の上級
領主( 領邦君主) への集中( 地代領主制の成立)が見られ 、領主と農民は単に地代を介在した関係になる。
このなかから次第に農民が土地の権利を自らの者とするものが現れ農民的土地所有の成立し、農民層の両
極分解が見られる。
これに対してエルベ川以東では、 オランダを中心とした国際貿易の発展とともに穀物生産の強化が起
り、地代の金納化の方向ではなく、賦役地代制への回帰ないし堅持が見られる。ここに農場領主制あるい
は再版農奴制( グーツヘルシャフト) の成立がみられ、ドイツの後進地域を形成する{余談であるが、こ
の関係は初期アメリカの「北部」と「南部」の関係に良く似ており、その後の経済発展との関係で注目す
べきである}。
4)イタリア・スペイン・ポルトガル:寡頭地主支配に変化無し!
2,工業ー都市ギルドの衰退と農村工業の発展
農民が禁制領域とされた農村で近隣目当ての独立手工業者(農業生産力の上昇を背景とした社会的分業)
となる。他方、都市の‘小親方’の都市流出→農村流入によって農村工業の広範な成立が顕著となる。こ
うした農村工業の中からこの時期、初期産業資本である「マニュファクチャ経営」が現れていることに着
目されたい。
⇒資本主義経営の成立!!!!!
3,商業ー新しいタイプの商人層の出現
こうした農村工業の発展は新しいタイプの商人=‘ペドラー’,‘ファクター’,‘インターローパー’等
の商人の活躍と結びついて、特権都市を衰退に追込み、イギリスの羊毛貿易を取りし切っていたマーチャ
ントアドベンチャラーズの基盤をも揺るがすよになる。
4.イギリス毛織物工業のセクター転換
1)15 世紀後半以降イギリスの毛織物工業製品は 80 %が「マーチャント・アドベンチャラーズ」を通うし
てネーデルランドのアントウェルペンに輸出された。
輸出されたイギリスの毛織物はほとんど未仕上げの「白地広幅織」の半製品
アントウェルペンを中心とする国際的分業:半製品( イギリス) →染色・仕上げ( アントウェルペン) →
最終消費地
2)16 世紀半以降イギリスの毛織物輸出( 白地広幅織) の衰退
原因: ① 1585 年、アントウェルペンの陥落 ②中部ヨーロッパの三十年戦争/③南ネーデルランドの毛
織物生産者のオランダ亡命・ライデン市において毛織物工業再開、オランダ毛織物工業の発展/④イギリ
スの為替政策が不利にさようしたのと、初期重商主義政策により、スペイン、オランダとの通商関係が悪
化
3)しかしその背後で、農村部を中心に幅広い工業が成育しつつあり、イギリス毛織織物工業も 16 世紀半
以降従来の「単一セクター型構成」から「複合構成セクター型構成」へと転換を遂げる
★輸出市場の多様化: 1555 年モスクワ会社、1581 年レバント会社等の貿易組合が設立され、新しい市場
を開拓
★製品の多様化: オランダ独立に伴いネーデルランドから毛織物工の亡命→広幅織一辺倒からベイ、セイ、
サージ等ウーステッド系の新毛織物へイギリス毛織物工業において従来の織物部門と共に染色・仕上げ部
門の成立
原料( 羊毛) 、織物、染色、仕上げ( 完成製品) 部門の確立
↓
イギリス重商主義的貿易体制の基盤/工業における自給化への歩み
《参考文献》
石坂昭雄・船山栄一・宮野啓二・諸田實著『新版西洋経済史』(有斐閣双書)
関口尚志・梅津順一『三訂版欧米経済史』(日本放送出版協会)
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