Title Author(s) Citation Issue Date URL 琉球本「人中畫」の成立 : 倂せてそれが留める原刊本の 姿について 木津, 子 中國文學報 (2011), 81: 36-57 2011-10 http://dx.doi.org/10.14989/215719 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University 第八十一冊 木 i 芋 降、琉球に移住した中園人の子孫(閑人三十六姓)が母瞳 となって携われ、彼ら移民たちの居住地名を取って﹁久米 久」 事空 二 日 ヨ が豆 ロ 口 事草 書到 Jヘ の 告 急 iを 字撃 でか 合に 大 L の出 は琉 らの呼稀として用いたものである。この久米村通事の活動 ばれていたものを、後に嘉き字に改め、漢文脈における白 稽は、一冗来は今で謂う所の﹁唐人街﹂を表す﹁唐皆﹂と呼 二系統の版本が存在することが知られ、 そのうち、﹁乾隆 軒本(繁本)と泉州向志堂本・植桂棲刊本(簡本)の繁簡 ら、康照以前には成立していたと考えられる。現在、噺花 小説集である。﹁玄﹂字を鉄筆にしない版本があることか ③ は、那覇や一帽州での外交や勉息子、さらに北京での朝貢業務 ﹃人中書こは、明末清初に成立したと考えられる短編の ﹁人中童旦﹄について 述べたいと思う。 り通事書の一つである ﹃人中書一﹄の成立について、私見を ねばならない重要な特質である。この特質を踏まえ、やは RUJ 事賓は、琉球の通事室日を考察する上で、必ず押さえておか 事室日で使用する﹁官話盟系﹂の性格に反映していたという を基盤にした一定の閉じた集圏内で行われ、それが昔該通 られること、 さらに編纂作業は、恐らく家ごとの事問惇承 ﹁賓用﹂であり、 テキストの細部にまで史賓の裏付けが見 米も 村 通ぞ 庚子(一七八 O) 新鋳﹂と記される泉州向志堂本は、 ﹁唐楽﹂とも呼ばれる。﹁唐柴﹂という呼 球事 の書 など多種多様で、彼らが編纂する官話的学習の矯の各種﹁通 人(くにんだ)﹂ l J l J : L 耳 克 中園文学報 琉球本﹃人中書己の成立 京都大向学 拍子 ││併せてそれが留める原刊本の姿について││ め 清代琉球久米村(現那覇市久米)の官話通事は、明代以 じ 原す 則 日 本 36 は の趨伯陶氏の記した解題によると、中国園内には所戒は見 舶等四種﹂(江蘇古籍出版祉、一九九三)所牧排印本に校訂者 植桂楼刊本は、第二節に後述する﹁中園話本大系﹂﹁珍珠 の内閣丈庫に二本が所古概されるなど、所識は比較的多い。 伯向氏の許語を以下に引用する。 が簡濯に生き生きと描寓される佳作揃いである。前述の趨 らも、勧善懲悪、五倫這徳、因果鷹報などの中華的人生訓 各篇は典型的な才子佳人小説の筋立てを取り、短編なが (趨氏の骨回該指摘は、第二節所引の解題を参照されたい 系版本は、現在所裁が知られるのは、現中華主目局資料室戴 年早くに公刊されたことになる。しかし、輔花軒本の繁本 あるとのことで、それによるならば、尚志堂本よりも三五 るのみと言う。そこには﹁乾隆乙丑(一七四五)新鋳﹂と 心亦苦。在諸多話本(包括擬話本)集中,︽人中書志首 筆向佳、将五種不同類型的故事納於一書,可見編者用 生、或市井俗輩、或官宜子弟均有描寓。構恩師巧,丈 或少有所渉及,人物則或才子、或才女、或商人、或儒 縦観︽人中童旦︾, 五篇故事於酒、色、財、気皆或多 )0 られず、大連固書館戴﹃海内奇談﹄にその照紗本が見られ 書とされる一本のみである。 ﹃二刻拍案驚奇﹄の﹁女秀才﹂を加えた四篇から成る。植 ﹁終有報﹂﹁寒徹骨﹂﹁狭路逢﹂の一一一篇、尚志堂本はそれに ﹁狭路逢﹂﹁終有報﹂﹁寒徹骨﹂の五篇、植桂棲刊本が、 たが、注目すべきは、久米村通事が﹃人中書一﹄を謹むに首 にこの話本小説は、琉球では清末に到るまで長く惇承され ぶ上で恰好の数材と見なされたのも故無しとしない。確か なるほど、琉球の久米村通事にとって、中華の櫨節を向学 (﹃人中主﹂部分五一良) 桂棲刊本と尚志堂刊本は同じテキストである。輔花軒本 たっては、中園刊本の白話丈瞳を徹底的に官話丈瞳に翻謹 属中乗偏上之品。 (繁本)と泉州向志堂本(簡本)は、話のプロットは共通 した官話本テキストを用いたということである。通事に それぞれの構成は、瞬花軒本が、﹁風流配﹂﹁自作肇﹂ するものの絞遮の繁簡に大きな差が有り、超伯陶氏の指摘 とって、話本小説の﹁白話﹂のままでは﹁官話﹂習得材料 A山 の通り簡本は繁本のダイジェスト版のような瞳裁である 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) - 37ー 6 但 ; f 王 長 5 4 3 2 品 情 小 聴 主 f 産 犬 J ミ主 指 票 占 輿 黄 説 之 筆 敬 迂 遁 費 兄 1 語 勝 近 助 教 地 斯 え τ 軍 念 求 老 師 寒 生 門 主要君 脈 寒 就 成 門 E 人 吉 生 事 而 才、来 4 川情喜 女 【 2 好 喜 量 i 強 宵 手 顧 佐 平 、個 。詰 P J E f た 久 U 2 毒 人 種。些 之 2 頁 厚 薄 櫨 薄 厚 1 手 、 i 結 出 f h f興 費 井 チ 来 帖 = 目 同 ι 不 甚 不 足 充 中 氏 裡目 番 三 口 企 問 忌 f 早 時 無 特 利、 他 ⑥ 一丈ごとに匝切って配列した。 (京都大島了文且宇部議)、右が噺花軒本である。封照の便を考 慮し、 比較すると明らかなように、繁本の 1 ﹁考期﹂を琉球本 は﹁考的日子﹂にするなど、 口頭で語ってそのまま意味が 通じるように書き換えを行っている。また繁本2﹁清人淳 厚、不甚論利﹂については、﹁銀子借人家﹂という語を補 琉球完本『人中重 j I 白作肇」 6 5 4 2 3 1 詰 車説 責主 主再 舵 語 語 生 説高 問 { 也 言 。銀 子 借空 個口 i 脊 誠 我 念 我 、 治 小 f 、 人 家 、 人 指 引 チ 栄 到 庭的 案 窪 説、心 i 雨 也他了 人 矯 f か豆起 歓 王 不説 f E 草草往 Y 有 空主皇来 話 ぺ 里科l:l:¥ 、 家来 化 1 潟 了、 成 体 料 、 一 貼 的 是 知 体去個 方 有 事 里 是 程 薄 1 考 試 3個 門 求 他 オ 黄 喜 支 利 話 通 H 百 号 事 的 生 不 7 敬 品 宇 、 覇 量 求 要 - 38ー 、的 帖 } 成 4 要 我 川 チ 来 斧 件 惜 也 倣 入 保結輿黄 不 論厚 申 第八十一冊 這 中園文学報 としてふさわしくないと思われたのであろう。文脈や小説 としての慣値意識(勧善懲悪や五倫道徳など)はそのまま に、言語形態だけをそっくり﹁官話﹂に置き換えたのは極 めて興味深い。 以下に奉げるのが、(貫際の官話丈瞳への翻語賓例である。 取り上げるのは、﹁自作輩﹂ の一節である。左が琉球寓本 r 脇花軒本(繁本) 人中童 j I 自作寧j されている 0 6の﹁斯文一脈﹂は、原丈の、 口頭ではまず 完山李氏﹃中園小説絵模本﹄(英租三十八年序・一七六二)と、 朴在淵氏の近年の研究によると、 ﹁人中書一﹄は、朝鮮の とは別物であると理解していたかを示す好例である。 使わない﹁斯丈一脈﹂を﹁謹書的人﹂という同義語に置き ヰア徳田⋮﹁小説経費者﹂(一七六二 1六三頃成書か)に書目の うことによって、丈脈が耳で聞いてより分かりゃすく工夫 換えることで簡潔な表現を目指したものだし、同じく 6 記載があり、同時に朝鮮語にて翻課された可能性が有ると 極めてフランクな日常語にしたてている。また、 5では 至っては、もとの白話の常套語的躍儀表現を一切排除し、 園語民子習者に歓迎されるのも怪しむには足らない。残念な な主張、それによる大圏固は、一蹟範な誼者、特に境外の中 いう。作品のスピード感有る物語展開と、各巻がもっ明快 ⑦ ﹁患正兄賜教罷了﹂を﹁想体信座様就是了﹂に改めるに ﹁但只是些須薄曜、不足充紙筆之敬、要求老帥念門生赤貧、 どのことですが、どうか私が赤貧であることをご考慮くださり、 鷲見されていないとのことであるが、朝鮮・琉球の雨地に 日﹄内に﹁寒徹骨﹂の名が見える以外、現在までに現物は ﹁訓誼﹂││﹂(中村春作等編 き換えているのが見て取れよう。琉球通事達が、いかに高 の合意を軍刀直入に表現するなど、積極的な口語表現に置 を立て替えてくださいませ)と、丈脈を考慮した上で、設言 組みと言語は中国製のまま、その枠組みに長崎濁自の丈脈 一O年)で論じたように、長崎での話本小説の停播は、枠 ﹃績・﹁訓讃﹂論││束アジア漢文世界の形成﹄、勉誠出版、二 O 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) 39 ﹃伽藍李乗岐原戒朝丈主目 特別なご寛恕をお願い申し上げます)を、椀曲な敬語表現を おいて、かたや朝鮮語に、 かたや官話丈瞳へと翻課されつ がら、朝鮮語版﹃人中書一﹄ 極力廃して、﹁一動的薄曜、不堪奉敬、要求老先生念我家 つ停承された事賓は極めて興味深い。拙論﹁通事の ﹁ { 呂 用情寛恕﹂(この些かの薄趨では先生の紙筆の山意にも足りぬほ 裡苦、替我出個保結﹂(少々の薄穫は差し上げるのも悌られま 話﹂受容ーーもう一 ⑧ すので、どうか先生には私の困窮をご考慮の上、私の矯に保諮金 は を流し込む形で換骨奪胎を遂げていた。琉球においては白 の 度に白話丈瞳に習熟し、なおかっそれが﹁官話﹂(口頭語) コ ぐ 中園文学報 第八十一冊 話の官話丈瞳への翻語、さらに朝鮮における朝鮮語への翻 C 一東京大皐総合国書館職﹁人中書一﹄四巻(武藤長平 地域へ惇播し、各地で様々に受容される事象には、近世の ﹁終有報﹂に﹁長平之印﹂、﹁寒徹骨﹂に﹁武 ﹁風流配﹂﹁狭路逢﹂﹁終有報﹂﹁寒徹骨﹂ 氏奮戴本) 漢文圏(官話圏)が示す、重要な丈化史的役割が潜んでい 藤 ﹂ 語などと総合的に考え合わせると、話本小説が東アジア諸 ると預測される。それらの問題については、今後改めて考 に他の三加と板型を異にする。 o他は印記無し。﹁狭路逢﹂のみ、明らか 察を加えていきたいが、 いまはこの﹃人中書一﹄官話翻語に C ﹁風流配﹂﹁自作撃﹂﹁狭路逢﹂﹁柊有報﹂﹁寒 麿じて C東大本・ A天理本にも言及する。京大本は﹁狭路 ととする。 一不す書誌的問題については、本稿後半で再度取り上げるこ と同一の筆寓者による﹃白姓﹄を封入するが、そのことが 保存状態も良好である。また、京大本は、同朕に同じ板型 逢﹂のみを放くが、圏設による聾黙と語注や音注をもち、 B 一京都大胆宇丈血宇部園書館職﹁人中書一﹂四巻(敦厚堂 の印記有り) ﹁風流配﹂﹁自作肇﹂﹁終有報﹂﹁寒徹骨﹂(付 ﹁白姓﹂ 一巻) 40 D 一八重山博物館戴﹃人中主﹂ 風 流 配 巻 東 大 本 の ﹁自作肇﹂のみ。 が ついて検討していくこととしたい。 琉球本﹃人中童旦﹄が残す原本の姿 管見の限り、現在所戴が確認される琉球本﹁人中重﹂は 以下の通りである。 手 本稿では、 Bの京大本を用いて考察を加えるが、必要に 筆 寓 の 徹骨﹂ A 一天理大風字国書館蔵﹃人中書一﹂五巻 似書 る Q i i型 さて、中園版話本小説﹃人中書一﹄に大きく分けて繁本と ジェスト版であろうと論ずる。諸本を校勘した上での超氏 それと同時に、この超氏解題には、もう一賄、極めて興 のこの判断は、十分に説得力がある。 現在、(1)輔花軒本(繁本)と (2) 泉州向志堂本(簡 味深い指摘が見られる。それは、概ねプロットは共通する 筒本の二系統の版本が見られることは前述のとおりである。 本)の版本二種が、それぞれ以下に記すとおりに排印また はずの繁本と簡本だが、唯一 出入が見られるというものである。些一か長丈にわたるが、 ﹁寒徹骨﹂の末尾に、大きな は影印出版されており、参照に便利である。 (1) 瞬花軒本(繁本)一現中華童日局資料室戒。路工編 枚の板を掘り起こしたのであろう。今日見られる最後 が損壊或いは失われるという朕況があって、新たに一 く、この繍本を印刷するときに、載板の最後の一一一枚 篇の刻工の格調とは明らかに異なっている。間違いな の最後の一葉分の字盟が乱雑で、筆跡にも力無く、全 徹骨﹄は、繁本では、全編の末尾に置かれており、そ 容も完全には一致しない貼である。考詮の結果、﹃寒 の主人公名で代別するもの)よりも丈字数が少なく、内 ﹃柳春蔭﹂(引用者注一﹃寒徹骨﹄の主人公名、篇名を諸篇 注目すべきは、瞬本﹁寒徹骨﹄の末尾の一段が向本 下にその指摘を引用する。 び﹃中園話本大系﹄﹁珍珠舶等四種﹂(江蘇士円籍出版祉、 九三)に、排印出版。 (2) 泉州向志堂本(筒本)一内閣丈庫(固立公丈書 館)載。乾隆四五年刊本。いま﹁古本小説集成﹄(上海古籍 一九九O)、﹃古本小説叢刊 第三六輯﹂ 4 (中華書 一九九一)に影印出版。 ﹁中園話本大系﹂﹁珍珠舶等四種﹂(江蘇古籍出版社、 九一一一)に記された超伯陶氏の解題によれば、﹁繁本﹂が ﹁筒本﹂よりもすぐれている理由として、所牧の話本が二 本多く掲出されること以外に、修辞の上からも前者が後者 より優れており、簡本は、恐らく繁本を短縮させたダイ 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) 4 1 ﹃明清平話小説選﹄第一集(士円典文挙出版社、 一九五八)、及 九 九 出 版 枇 局 ダイジェスト版ではあるが、瞬本の首該段よりもずっ 第八十一冊 の一板が、文字は版木全瞳にきっちりと満たされて、 と本来の面白に近いことは、この簡本を繁本(備本) 中園文学報 最終行の最後の一宇のみ空格で蔑されているという瞳 の本丈と比較すれば明らかである。 は、功労を灰燈に蹄してしまう結果となっている。 切登場しておらず、重刻時のこのいい加減な仕事ぶり さらに﹁孟白書﹂という呼稽もそれまでの本丈には 言葉に何の脈絡も必然性もない内容にしてしまった。 げたために、締め括りの﹁故に寒徹骨と日う﹂という 板分の文字数で牧まるように、適嘗に結末をでっち上 ではなく、原刊本に基づいてダイジェストを行ってい 現行﹁簡本﹂での首該部分は、このでたらめな重刻本 でたらめな重刻となっている。 着せず、登場人物名も全編の瞳例に合致しないという、 理に版木一枚分に収めるように担遺したため、話が落 ことによる補刻が行われているが、失われた結末を無 -現行﹁繁本﹂﹃寒徹骨﹂は、最末尾の版木が損失した 以上の越氏の指摘の要貼を示すと、以下の二貼となる。 ⑪ 裁は、明らかに原刻のままでは有り得ない。(失われ た最後の一、二板を)新たに彫り起こしたときに、 板もしくは竿板分を鈴分に彫る勢を惜しみ、こまかく 方、植桂棲刊本などの簡本﹃人中書一﹄は、簡略版を作 るので、結末の丈脈は本来の面目を保っている。 較量した上で、能分を削り丈字を匪縮し、ちょうど一 るに際して輔花軒本の原刻本を底本としていたので、 して、誼者の参考に供したい:::(引用者注一いま省略、 蔭﹂の末尾の雨者で差異の生じている一段を抜き書き きに記した。 を下に記す。封比に便利なように、各丈を匝切って箇係書 この指摘を確認するために、繁本と簡本の雨者の封照表 その部分において差異が生じている。いま向本﹁柳春 ドに別途封照表で表示する):::。この一段は、確かに 42 出世した柳春蔭がその恩に感じ、劉の子に皐聞を授けて奉 に、終始時相交わらぬ忠義を以て事えた柳家の老使用人である。 酬に見える﹁劉恩﹂という人物は、好飴曲折を経る主人公 繁本には、簡本の凶凶同酬に相官する部分が無い。筒本 存在するならば筒本も昔然襲用するはずの袋署の記銀であ 春蔭が﹁翰林から侍郎に昇った﹂とする記述は、原繁本に して大きな扶陥と言わざるを得ない。反封に、繁本州で柳 人にまでしたというこのくだりを快くのは、小説の結末と 川自家奔別了商尚書,寛回貴州,将父母棺槻移葬。 叫此時朝廷旨音叫,久到貴州,柳府産業司皆清理交還。 山自家奔別商尚書,凶貴州民呂葬。 。尚志堂本(筒本) i 寒徹骨」 表 - 筒本・繁本封照表 田川副閏 凶劉思先前到家。己陪階特先老爺並夫人奥至親骸骨倶己収数。一 凶春蔭一到家,涌城官員皆来迎賓。 間春蔭重新掛孝開弔。 川勝父母安葬事畢,分付劉思掌管産業,遂唯一京覆命。 川後在紹興住家,直待商向童日謝世,服過三年喪。 州扶持孟小姐兄弟登了科甲,方輿孟夫人同貴州。 剛生了二子,倶繕書香,自家官至向童日 制扶持劉思一子中翠人。 川諺云,不是一番寒徹骨,包得梅花撲鼻香。詩日, .. 43 同凶刷出 凶貴州有司皆来祭実唱好不光耀。 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) 叫比白貧賎能守而成句故日寒徹骨。 酬ハ日間 附後生二子,倶成偉器。其功名額大, 劃到引劇刈。 居喪。孝服涌後,輿孟夫人男卜宅司附ハ孟向書家相都,撫育 川川町告終養‘回紹興侍奉商向車目夫妻。二人終天之後,哀働 創仕富二年間, 川間差事己畢,回朝覆命。倒刻州制闘出劇州国側到伺郎,│倒不 同凶刷出 。脇花軒本(繁本) i 寒徹骨」 いう人物呼栴を草卒に登場させる不注意を見せる。そして は、それまでの本文には一度も用いられない﹁孟尚書﹂と 繁本のでっち上げと考えざるを得ない。また、繁本川凶で るが、それが筒本に全く存在しないからには、 やはり現行 奉して、繁本の本来の面目を訪御とさせる。琉球本川の 牒官,浸有一個不来迎賓,十分栄華﹂と一つ一つ官街を列 賓﹂と総括された内容を、琉球本では﹁撫院、按院、知府、 中の下線部分に注目すると、簡本凶で﹁満城官員皆来迎 はより詳細なものとなっていることは明らかであろう。表 第八十一冊 物語の締めくくりたる川も、繁本の﹁皆貧賎能守而成,故 ﹁都停在丁房裡頭﹂、附﹁料理奮時産業﹂、川の﹁轄陸丈華 中園文学報 日寒徹骨﹂という結語では、超氏が述べる通り、物語杢瞳 一方、この嘗該部分を、琉球寓本﹃人中童﹄ で見てみる ﹁寒徹骨﹂に元々有った描寓の内、簡本がダイジェストに 琉球人が濁自に付加したとは考えがたい。恐らくは原刊本 殿大島子士﹂は簡本には存在しない絞遮であるが、これらを と、プロットは簡本(向志堂本)と一致し、なおかつより 際して削除したものを、琉球本はそのまま(官話文樫に置 4 4 を受け止める締め括りの言葉には程遠い。 詳細な紋速を見せて、現行の輔花軒本とは大きく異なるこ 料的にも大きな憤値を有していると言えるであろう。 繁本﹁寒徹骨﹂巻末の元来の面目を惇えるものとして、資 官話に置換されているものの、現在では失われてしまった r ﹂のように、琉球寓本﹁実 徹骨﹂は、文瞳こそ白話から 後は﹁寒徹骨﹂の言葉の由来を述べた大圏固で終結する。 ﹁二個﹂とされる遣いは有するものの)きちんと言及され、最 ⑬ 本で脱落した劉恩とその子の顛末も、(子の教が琉球本では き換えて)踏襲した形跡を示すのであろう。もちろん、繁 寓本﹁寒徹骨﹂のプロットが簡本ときれいに一致し、叙述 表 1の﹁簡本・繁本封照表﹂と表 2を比較すると、琉球 簡本と比較する形で封照させてみる(表 2)0 るのである。以下に、琉球寓本﹃寒徹骨﹂ の首該部分を、 まり原刊本﹃人中書一﹄に近いテキストであったと考えられ 軒本ではなく、末尾が鉄損する以前の繁本系テキスト、 とが見て取れる。 つまり、琉球寓本が基づいた底本は晴花 コ て 間此時朝廷旨意,久到貴州,柳府産業,皆清理交還。 川自家拝別商白書,回貴州管葬。 山這時候,朝廷己円意,早到貴州・柳家産業,都交還他。 川自家拝別了商向童日,回去貴州埋葬。 不 田 万 三 番 寒 且 徹 ノ ピ 口 得 梅 花 撲 香 鼻 詩 叫倣寒徹骨。 川俗語説.不是一番寒徹骨,志得梅花撲鼻香,故此這題目, 側劉思二個見下,也扶持他中了翠人。 対哨閥対朝封。 川川子間夫人生了爾個児子,都讃書,自家倣官,直到尚書,縛除 起搬回貴州,料理奮時産業。 州孟小姐兄弟成人,又扶持他登了科甲,柳春蔭綾替孟夫人 例後来在紹興住家,直等到商向室田棄世,戴孝三年。 思復命。 川把父母埋丞事明白了,把産業主出行交付劉恩掌管,綾上京謝 間柳春蔭重新戴孝開弔。 賓,十州栄華。 矧刷 1岡司剖制↓個別刻州問 胡閲 1 川間柳春蔭一到家,嗣岡1 担願。 同劉思先前到家,暗と把老爺替太と全一全親骸骨,部停惟﹃院 o 凶劉思先前到家,己暗暗将先老爺並夫人奥至親骸骨倶己枚数。 凶春蔭一到家,満城百周倒剃迎賓。 諺 45 間春蔭重新掛孝開弔。 H 同賂父母安葬事畢,八刀付劉恩掌世一日産業,遂進京極ム叩 川後在紹興住家,直待商尚書謝世,服週三年喪。 附扶持孟小姐兄弟登了科甲,方輿孟夫人回貴州。 川間生了二子,倶纏圭日香,自家官至向書, Z三 同扶持劉恩一子中翠人。 ( 1 1 ) 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) 。琉球完本『人中重Ji 寒徹骨」第四回末尾 表 2 琉球完本・簡本針照表 。尚志堂本(簡本) i 寒徹骨 j 中園文学報 第八十一冊 頭注(墨) 一故毎日或早或晩、必到書房中来看頑 遍 0(l繁本に同じ) 賓は、 C の東大本﹁人中書一﹂﹁寒徹骨﹂には、本文に校 合の跡らしき書き込みが数多く見出される。最末尾につい 頭注(朱)行間(朱)二箇所一故毎日必到書一局来 (uu 簡本に同じ) ては、琉球寓本山﹁柳春蔭重新戴孝開弔,把父母埋葬﹂に 封し、頭注朱書にて﹁本板﹂と明示して﹁春蔭重新掛孝開 もので、頭注朱書の﹁春蔭重新掛孝開弔,将父母安葬事 畢﹂は、尚志堂附の冒頭二文字を追い込んで一丈に解した 春蔭重復掛孝開弔,将父母安葬租坐﹂と記す。末尾の﹁事 欄外(黒) 一本板云O心下向有許多不服,仙旧仙旧到 来看,見上面 (H筒本) 傍注(朱) 一心下許多不服,逐到場中,討出落巻 他的落巻来看,見上頭塗抹的批語﹂ (B) 第三回﹁心裡還有好多不服,他情情到場裡,討出 畢﹂は、確かに尚志堂筒本との校合を一不す。それでは、墨 場中,討出他的落巻来,看見上面塗抹的批語。(日 弔,将父母安葬事畢﹂、 さらにその左には、墨書にて﹁柳 書﹁柳春蔭重復掛孝聞弔,持父母安葬租些﹂は、何を一不す 繁本に同じ) (C) 同﹁原来老師還不知道,孟随一子士死去年把了﹂ のであろうか。或いはこれが、琉球寓本の基づいた、原繁 本とも呼ぴうるテキストの一部なのではなかろうか。 傍注(黒) 一原来老師向不聞知,孟年兄己作古年 徐失。 (H繁本に同じ) 東大本﹁寒徹骨﹂には、以下の通り、他に多くの頭注ま たは傍注にての校合が見える。その内、ここと同様に、 傍注(朱) 一原来老師向不知,孟年兄作古年鈴了。 この三項を現行の繁本・簡本と照らし合わせると、これ (l 簡本に同じ) 箇所に封して二種の異本を校合する部分として次の三例を 見てみよう。 (A) 第二回﹁毎日早晩要到書房裡頭,看過一遍﹂ 46 ら二種の異文が紛れもなく現行の繁本・簡本に該嘗するこ とが明らかとなる(各候末括弧内にそれを記しておいた)。と するならば、上に引いた、最末尾の川に見える墨書の﹁柳 (D) 第一回﹁要得一個好地方去護憤謹書﹂ 頭注(朱) 一本板/必須揮一個好地方,護憤讃圭目 (簡本) (E) 第二回﹁四書裡頭名賓也有不相合的﹂ 頭注(墨) 一本板/四書中名賓亦有不相合者(繁 春蔭重復掛孝開弔,将父母安葬租些﹂という頭注も、それ が簡本のテキストではない以上、現行繁本では失われた原 本・簡本同じ) りも突出して多くの校合の跡が残される。間早に繁本または この東大本﹃人中書一﹂、特に﹁寒徹骨﹂には、他の巻よ 刊繁本の姿を留めるものである蓋然性は非常に高くなる。 つまり、この﹁柳春蔭重復掛孝開弔,将父母安葬租坐﹂こ そは、己に侠書となった原刊繁本の、数少ない供丈となる のである。 では、 (D) は筒本を指し、 (E) は雨者が同文であるので であるし、次の二例は、 一種のみを校合する例だが、そこ ょうである。前述の再末尾川で﹁本板﹂とされたのは簡本 繁本なのかについては、どうやら一貫した方針はなかった う﹃人中重﹄ テキストにより、琉球の通事は何を向学ぼうと 話の再度の書き込みを必要としたのか、その書き込みを件 となる。校合を施された箇所は、どういう観貼において白 樫に置き換えられたものなので、校合白樫が無意味な作業 というのであれば、そもそも琉球本全編が白話から官話文 簡本などの中園白話文と琉球本官話丈瞳との異同を記そう 判断できず、また先の (B) の﹁本板﹂は、繁本であった。 したのか。この間に封する答えは現時貼では未詳とせざる なお、東大本が﹁本板﹂とするのが果たして簡本なのか 或いは、﹁中園板﹂という意味で﹁本板﹂の語を用いたの を得ないが、第三部で論じるとおり、通事にとって通事書 とは、賓用に足る知識と教養を皐ぶための大きな擦り所で かもしれない。 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) - 47ー あった。この校合を記す注記白瞳も、何らかの新たな事ぴ い)、その嫡男察棺と察培の娘婿らを中心にした若き久米 の一人であった察培(但し察培は一度も封話に参加していな 第八十一冊 の場面が出現したこと(例えば、若干文一一一日的な表現も皐ばねば 村の通事や撃徒であったが、察揖は首時まだ十五歳、賓際 中園文学報 ならない局面が生じた、等)を一不すものであるのは間違いな の難民との封話や筆録に大きく貢献したのは、娘婿の鄭通 らぬ矯どういう人物であったかは未詳ながら、恐らくは鄭 し、長大な命日話記録を残す鄭世道という皐生も、家譜が残 事や院崇基らであったと思われる。﹃白姓﹄ の冒頭に登場 いと考えられる。 ⑬ ﹃人中書一﹂ の 成 立 ﹃白姓﹄成立に関わった集閤 O つまり賓際のテキスト成立には、これら鄭一族の通 通事や鄭天保、鄭鳳翼らと同族の若者であったのは間違い 旬、 ν J ごミ ﹃白姓﹂中にこのように重要な足跡を残す鄭氏を、家譜 事たちが大きな影響力を有していたと考え得るのである。 文中には登場しないが、﹃白姓﹄林敗陸序文に、﹃白姓﹂ の系固に基づいて分家の現肢を辿ると以下のような三家が ﹃白姓﹄の現場に参集したのは、首時の唐楽の最有力者 (3) 池宮城家鄭氏日鄭園植(察培の五女婿) (鄭文鳳、察培の三女婿)の家系 (2) 登川家鄭氏(及びその支流) H登 場 人 物 の 鄭 通 事 (輿座家の支流に員柴山家日鄭鴻勃・鄭作霧。後述) (1) 輿座家鄭氏 H登場人物の鄭天保の家系 の草稿を一噛州に携えて林門下にあったとされる青年も、 が、﹁白姓﹄中の濃密な姻戚聞係を考慮するならば、 である。鄭鳳翼の名は現存の久米村家譜中には見出せない 浮かび上がる。 は ﹁琉球園青年俊士姓鄭誇鳳翼者﹂とやはり鄭姓の若き附晶子徒 中心とする密接な姻戚関係を有していた。 ⑬ 久米村人が登場し、その主たる人物たちが皆察氏・鄭氏を 曾て拙論で述べたとおり、 ﹁白姓﹄ の本文には、九人の ¥ー/ り同じ鄭氏一門に列なる人物であったことは疑いを容れな や - 48ー ( v 、 。 これら鄭氏を中心とする一群は、昔時恐らくは家撃を基 礎とした一つの﹁皐門﹂集圏を形成していたのではないか と思われる。 それをいま﹁皐門(家皐)﹂と呼ぶには二つの理由が有 A 一﹃白姓﹄﹃人中書一﹄系 -巳然盟否定副詞に﹁浸有﹂、未然盟に﹁還浸有﹂を用 ぃ、﹁不曾﹂﹁未曾﹂は用いない。 ﹁可+叩﹂による是非疑問丈を使用する。 -連同・封象を表す介詞や連詞の﹁替﹂を多用する。 B 一﹃官話問答便語﹄﹃皐官話﹂系 一つは、現存する琉球通事書に見られる言語特徴面で 白 の内部差異が語るものであり、もう一つは、現存する ﹃ おり、﹁撃官話﹄﹁官話問答便語﹂は一帽州滞在中の用途に特 山東人と蘇州人を相手に交わした曾話がその基礎となって の地域的違いが反映しているのかもしれない。﹁白姓﹂は、 ちろんそれは時間的な遣いであるかもしれないし、何らか ような言語特徴の相違が生まれたのはなぜであろうか。も ﹁白姓﹄と ﹁血宇官話﹂﹃官話問答便語﹄との聞に、この 封象は表さない。 介調﹁替﹂は、受盆者を導く用法のみを有し、連同 ﹁可+叩﹂疑問丈は存在しない。 命日﹂を用い、否定副詞﹁浸有﹂の機能は未護達である。 -基本的に、己然睦否定副詞に﹁不曾﹂未然盟に﹁未 ず 〉 姓﹄諸本の惇承状況である。以下、それぞれについて詳し く見て行くこととしたい。 課本間に見える内部差異 なくとも二つの言語系統があることがわかっている。 は、﹁白姓﹂に代表される官話で、否定副詞は﹁浸有﹂、他 伊﹂み Ja ﹁可十W ﹂ の疑問丈や、連動・封象義の介詞﹁替﹂ - (現代中凶訴の﹁眼﹂﹁和﹂に相蛍)を頻用するなどの特徴を 有している。もう一つの系統は、 ﹁皐官話﹄﹃官話問答便 語﹂の系統であり、 それらの否定副調は﹁不曾﹂﹁未曾﹂ ⑬ で、連同・封象義の﹁替﹂などは用いられない。 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) 49 る ( 琉球通事が皐んだ官話には、否定副詞の用法からは、少 ¥ー/ 中園文学報 第八十一冊 化したテキストである。自ずから用いる言語は異なってい ﹃{呂話回 たと理解することも可能である。しかし、ここで注意した いのは、これらのテキスト、少なくとも﹃白姓﹄と 問答便宜間﹂がほぼ同時期に皐ばれていて、どうやらその皐 習主瞳は相互に異なる、濁立した集圏であったと推測され ⑪ ることである。 する。 1. 天理大亭園書館戴﹃白姓官話﹂(封面﹃白姓﹄、序文と 末尾の呈文を放く) 2.京都大島ア丈向学部(中哲文)裁﹃白姓﹄(﹃人中毒﹄金五 加之一。﹁敦厚堂﹂の印記有り) 3.京都大皐丈島ナ部(日本史)裁﹃白姓﹄(封而に﹁池宮 城親雲上﹂の署名有り) 4. 石垣市八重山博物館戴﹃白姓問答﹄ 後の時代には、これら数種類の課本は久米村にて康く皐 ばれ寓本も作られた。しかしながら、課本そのものが成立 が、書名を﹃百姓話﹄とすることからわかるとおり、﹃白 である。 7の閥西大挙戒本は、長津規矩也氏奮戴書である が、﹃人中童﹄内の一本として同じ朕内に牧められること 序文も含めて完全なテキストであるが、注意すべきはそれ これらの内、 2の京大丈島子部(中哲文)載の ﹃白姓﹂は、 裁書) 7. 闘西大皐園書留長津丈庫戴﹃百姓話﹂(長津規矩也奮 6.沖縄牒立博物館職﹃白姓﹂ 5. 石垣市八重山博物館戴﹃白姓﹂(同治士会一年手抄) いま、 ﹃白姓﹄には管見の限り七種類のテキストが存在 5 0 した首初の一時期、これらは家族や姻戚関係など、比較的 閉じた集圏内で皐ばれたのではなかったか。﹃白姓﹄ 丈が、家庭内の事情など極めて個人的内容を厭わずに記す の 本 のも、使用範園が親戚内に限られていてこそ可能となるの ﹃白姓﹄諸本と墜門 ではなかろうか。 ' ノ 二つめの理由は、現存する ﹃白姓﹂諸本の惇承賦況であ ( る 姓﹄成立の由来を理解しない後世の人物により抄寓された 一部列奉することとする。 と置き換えられていることが確認された。下にその賓例を 輔)﹁(向)未﹂←(琉)﹁(還)浸有﹂ (﹃風流配﹂第今回) -b(琉) 一路上,遇着的朋友見他後生茂有要老婆,踊 花街去玩要。 -a(瞬) 一路上,遇着的朋友見他少年剥劃,都誘他到 (1)( ものであるのは間違いない。 一方、八重山博物館の4﹃白姓問答﹂は、 やはり序文を 具え、筆寓の字も美しく詳細な頭注をもち、相麿の来歴を もつテキストと推測されるのだが、この八重山博物留には ﹃白姓﹂以外にやはり﹃人中書一﹂の﹁自作肇﹂ 一巻が惇承 ⑬ し現存している。﹁官話問答便語﹄﹁皐官話﹂は、現在知ら 他去妓子家玩。 (輔)不期心愈急,丈思愈枯,到此時制刑完章, 一-5 1一 一 れる限り八重山への惇承は確認されていない。 さて、京大本﹃白姓﹄がこのような﹁人中童﹄と同軟に 牧められる事賓は何を意味するであろうか。それを解く鍵 2 b (琉)不想心越急越倣不出来司到此時草稿還浸有完司 3a(噺)其人未見,其才(貫佑悌老太師、回中之秀。 (﹃風流配﹂第会凶) 話本小説﹁人中書一﹄の中国刊本は、否定副詞はすべて 3b(琉)人我浸有看見,他的才賓替老太帥女児都是一 (﹃風流配﹂第四回) 4 a (輔)商兄幽怨未伸,不敢先父母而言親。 白話から官話への翻謹に際し、それらの否定副詞をすべて ﹁浸有﹂に嬰換している。この事賓は、夙に佐藤晴彦氏に 両日 (﹃寒徹骨﹂第二凶) 4 b (琉)体的寛仇浪有披,不敢忘父母説親事。 梓 ﹁不曾﹂﹁未曾﹂系統を用いているのだが、琉球の通事は、 の一つは、雨者が共通して持つ言語的特徴にある。 2 a より指摘されているが、今回、再度用例を調査したところ、 僅か二例を除き、すべて﹁不曾﹂﹁未曾﹂から﹁浸有﹂ 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) ノ¥ 中園文学報 第八十一冊 日a(輔)商春蔭低着頭看書,就像桐骨聴見的一般 瞬)﹁(向)未曾﹂←(琉)﹁(還)浸有﹂ o (﹃寒徹骨﹂第二凶) 5 a (輔)肢是他令愛剥嫁司這還好。 (﹃寒徹骨﹄第二同) (3)( lb( 琉)商春蔭低頭看書,就像浸有聴見的一般。 輔)﹁不曾﹂←(琉)﹁浸有﹂ 5b( 琉)師是他女見還浸有嫁,一一一逗還好。 (2)( ロa(噺)故此ヰア姑娘今年一十七歳,制剥骨許血ハ人家 o 0 6 a (瞬)司馬兄固有貴志,桐骨終場,所以見屈 ub(琉)故此す姑娘今年才十七歳,還浸有配給人。 (﹃風流配﹄第三同) (﹃風流配﹄第三同) 這里。 噺)轄路来,想日疋週剥動日夜仮。 UHa( (﹃風流配﹂第四凶) 日b ( 琉)探花休浸有去査訪,我到替体訪,有些消息在 在此。 日a(輔)探花難剥骨訪,我向学生到替探花訪得有些泊息 (﹃風流配﹂第二回) 6b( 琉)司馬兄因那天有病了,浸有議過三場,所以不 (﹃風流配﹄第一同) 7 a (輔)晩生今日也是無心中看見,弔骨問的。 0 7b( 琉)我今日也是無心看見的,浸有問点 l 貰的。 8 a (輔)司馬公也刑骨来 琉)司馬公也調布来。 8b( H b (琉)走路来,想是還浸有吃晩仮。 (﹃自作肇﹂第二回) 9 a (瞬)張老兄看見二人驚詩,方知員不曾要。 琉)張老頭子看見他丙ホ l人慌張,才暁得員員調布 9b( 象・連同﹂を一不す用法を見せる。 また、介詞﹁替﹂ の用法も、 ﹁白姓﹂と同じく﹁封 o 那旦暁得就扶自体女児韻脚一様。 呂翰林在手家定了親,回到家朝司馬玄賀喜説。 (風流配第ム凶) (﹃風流配﹄第三同) 要 。 日a(輔)老父下難不曾来,司馬相公却是来的 mb(琉)老父市難波有来,司馬相公是来的。 (﹃風流配﹄第三同) 52 中 命日接他来一看,間他比比才的学。 (風流配第三阿) や白話混じりの頭注を備えた良質の寓本である。筆跡も明 も巻末呈丈も完備した ﹃白姓問答﹄は、難謹字への直音住 ﹁人中主旦﹄ のうち﹁自作肇﹂が停わっていて、ここでも らかに古い手に属す。先にも述べたとおり八重山博物館に (風流配第三同) このように、否定副調と ﹁ 悲 百 ﹂ の用法において ﹁人中 書一﹂と ﹃白姓﹂は同一の特徴を有し、﹃事官話﹂﹃官話問答 便語﹄ の盟系とは一一線を書一すのである。 ﹃白姓﹄と ﹃人中書一﹂の惇承が重なり合う。 ﹂れら貴重な諸本が、どのようにして八重山へ惇承した (筆頭)六世正儀﹄八世正恕(八重山初代通事職の一人)の のであろうか。その手がかりが、八重山士族﹁上官姓系圃 先にも述べたとおり、京都大皐丈島 部 T (中哲文)戒﹃白 家譜に見える。それによると、彼は乾隆三十九年久米村に 留亭し、鄭作霧伊良皆通事親雲上の門下にて官話の習得に 姓﹄は、﹃人中童﹄と同じ峡に牧められ、書寓の筆跡や童日 型なども完全に一致する。この ﹃人中童旦﹂全四冊と た正恕は、師の鄭作霧から﹁秘惇圭日四部﹂を授けられてい 日夜努力したとある。時圃に際してその勤勉さを稀えられ ﹁敦厚堂﹂とは、異柴里家鄭氏九世良弼(乾隆五十四年生) 大丈阻宇部(中折口文)﹃白姓﹄ の所有者であった鄭良弼(敦厚 堂)の租父に嘗たる。鄭作霧が正恕に輿えた﹁印刷停書四 氏の同門支流の一つである(奥座家五世士論の第五弟士紳を 筆頭とする家系)。また、同じく日本史菰本は、表紙に﹁池 部﹂が何であったかは明らかにされないが、その中に﹁白 いであろう。﹁四書五経﹂など通常の漢籍であれば﹁秘惇 姓﹄と ﹃人中主﹂が含まれていた可能性は決して低くはな 宮城親雲上﹂の書き込みが見え、まさに前速の察培第五女 婿鄭園植の池宮城家鄭氏奮識に係ることがわかる。 また、八重山博物館戴の二種類の ﹁白姓﹂のうち、序文 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) - 53ー は る。この鄭作霧なる人物は、は異築里家鄭氏の七世で、京 一冊には、すべて﹁敦厚堂﹂という印記があるのだが、 白 の室名で、﹁白姓﹄ の登場人物鄭天保の家系たる輿座家鄭 女 生 中園文学報 第八十一冊 雨明 書﹂と銘打つ必要はない。 -(難民) 弟一逗裡還有替通事貼的主円今日帯去不帯去。 (鄭通事)賄完了底? (難民) このように、現存する﹃白姓﹄諸本の状況は、その成立 と惇承が﹁人中童旦﹄と密接な関わりを有していたことを示 (鄭通事)浸有貼(一五,把那貼了的給我帯去,還泣有酷 り る若き随一子徒が深く関わっていたことは、﹃人中書一﹄翻語を 氏ら難民のもとに官話皐習に通った、鄭氏一族を中心とす が﹃白姓﹂のみであること、しかもその成立には、連日白 官話課本諸本のテキストで、同じ言語瞳系で執筆されるの いまそれを直接惇える資料は存在しない。しかし、現存の 見怪。看有不着所在,自家更正。 差錯庭狼多,不是弟不童心,弟因見識有限,不要 (難民)好説。煩努兄蓋,替令姐夫説一聾,弟所貼的, 夫還有話托小弟説,有勢先生,易日面謝不蓋。 的書,鼠然貼完,小弟帯去還他。好不遇的。家姐 (夜明棺)昨日見家姐夫,也替我説過。先生這裡替他貼 がかりとなる。いや寧ろ、彼ら鄭氏一族にしかこのような 翻語は不可能ではなかったか。 慎)が引き取りに来るやり取りである。もちろんこの書物 もしくは貼検を依頼し、それを最年少の義理の弟察揖(克 ともに、鄭通事が難民に何らかの書物に貼を打つこと、 手がけた集圏がどのような皐門系統にあったかを考える手 貼完了。察先生順便帯去,寄還給他好感。 2 (難民)前日令姐夫鄭通事留有凡本書在一逗裡貼。如今 他轄寄給弟。費兄的精神,再来拝謝。 放在一一一一辺裡,等貼完了,小自男察克慎不時常来,交給 還浸有賭完。 唆している。否定副詞などの言語面で、この雨者が同じ特 徴を共有することも、その推測を補強する。 わ ﹁人中童旦﹄の白話丈瞳を官話に翻翠拝した集圏については、 オ 云 ﹁白姓﹄には次のような難民と皐徒らとの舎話が記録さ れる。 5 4 四 が何を指すか、本丈中には一切明らかにはされない。ただ、 その書物は複数冊に及び(﹁留有凡本書在一逗裡黙﹂)、必ずし 一、二 O O四年)、﹁﹁白姓﹄の成立と惇承官話謀本に刻ま れた若き久米村通事たち││﹂(﹁東方息子﹂一一五、二 O O八 年)を参照のこと。 ②現中華書局資料室載。路工編﹁明清平話小説選﹄第一集 (古典文挙出版祉、一九五八)、及ぴ﹁中園話本大系﹄﹁珍珠 も簡単には片付かない作業であったこと(﹁弟所知的,差錯 庭狼多,不日疋弟不蓋心,弟因見識有限・不要見怪﹂)は、この命日 舶等四種﹂(江蘇古籍出版壮、一九九三)に、排印出版され る 。 話 か ら う か が え よ う 。 先 に 論 じ た よ う な ﹃ 白 姓 ﹄ と ﹃人中 ③内閣文庫(岡立公文書館)戒。乾隆四五年刊本。いま﹃古 本小説集成﹄(上海古籍出版壮、一九九O)、﹃古本小説叢刊 書一﹄との密接な闘わりを考えると、この貼検(もしくは加 貼 ) を 依 頼 さ れ た 書 物 は 、 或 い は ﹁人中書一﹄全五巻ではな 第三六輯﹄ 4 (中華書局、一九九一)に影印出版。 ④筒本では、植桂棲刊本が﹁唐季龍停奇﹂﹁李天阜市一惇奇﹂﹁柳 春蔭惇奇﹂、尚志堂本が﹁唐季龍﹂﹁李天浩﹂﹁柳春蔭﹂とす べる京大本も、封出には主人公の名を併記し、本論文第四部 るなど、共に主人公の名を取って標題に愛えている。後に遮 第三章で紹介する宣救師ベツテルハイムと通事達の往復書簡 の中にも、通事がこれら﹃人中重﹄の篇名を主人公の名で呼 ぶ記事が見られる。 ⑤拙論﹁ベッテルハイムと中国語﹂(﹃同志耐女子大向学総合文 所がある。 化研究所紀要﹄一九、二 O O二年)にその一端に言及した箇 峡に収められる。 ⑥﹁狭路逢﹂を除く四篇と、﹁白姓﹂を合わせて全五をが一 ⑦朴在淵﹁閲於完山李氏︽中園小説給模本︾﹂(﹃問中園古代 5 5 かったか。この推測が正しいかどうか、現時黙で結論を下 すには到らない。しかしながら、乾隆初のこの時代、久米 村には最初の漢丈組立職が置かれ(乾隆七年)、園の歴史書 である ﹃球陽﹂の編纂が始まっていた(乾隆十年)。官話及 び漢文への高い能力を期待する事問的機運の中、家墜を基 礎として官話習得にしのぎを削った久米村の若者達の手に よって、これらの通事書が成立するのも、 い わ ば 嘗 然 の 時 代の流れであったのかも知れない。 拙論﹁琉球編纂のハ呂話謀本に見る﹁未曾﹂﹁不曾﹂﹁浅有﹂ 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) ーーその謀本間差異が意味すること││﹂(﹃中園語胤己二五 ①註 中園文学報 第八十一冊 小説園際研討合同論文集﹄開明出版枇、一九九三、四九三 1五 二二、同氏編﹃中園小説絵模本附一韓岡所見中園通俗小説 原文は以下の通り。 山既得喝目的是,曲川本︽寒徹骨︾結尾一段文字反較向本︽柳 春蔭︾震少,内容也不蓋相同。経考,﹃袋徹骨位於脇本全書之 ⑪ 末,其最後一葉字跡草率筆劃車弱,血ハ全主目刻工風格明額不同, )oまた、同氏﹁関子手 書日﹄(江原大皐校出版部、ム九九三 ハ子之空,則原刻必不止此。重雄板時潟省一、中十塊板之勢,経 而重新雌板一塊。今天所見最後一葉,字己刻涌,末行僅有一 疑疋 H 値本該本刷印時,其裁板中最後一、二塊或損壊遺失情況, 徳照的︽小説経覧者︾﹂(﹃第二居中園士円代小説園際研討合同論 文集﹄、二 O O二、四九二!四九六)。 五O七頁に、﹁還有人中毒的一篇グ寒徹骨 μ見子伽藍李乗肢 ⑧朴在淵氏の前掲論文、﹁関於完山李氏︽中園小説給模本︾﹂ 原裁判文書日,同見過去︽人中重︾也可能翻成朝文﹂という。 ﹃故日実 徹骨﹄之結語五所従来,而﹃孟向主目﹄之稽亦不見前 過計算,削足遁履,将文字医縮,離漏一板即草草結束,致使 説 話 世 界 中 世 文 撃 と 隣 接 諸 皐 1﹄竹林合、二 O 一O年。金 離板時草卒従事,功筋一筆。植桂棲刊本等簡本︽人中書一︾, 文(孟官秤春坊皐士,室田中以孟向学士戎孟老爺相稽),可見重 F ⑨金文京﹁漢文文化圏の提唱﹂、小峯和明編﹃漢文文化圏の 氏の着眼黙は、﹁漢文訓讃﹂により、中岡周縁諸地域に多様 縮寝中所擦氏本首是鴫花軒刊本的原印本,故有了差異。今将 此段難亦経縮(局,但必田比輪本此段更接近原貌,讃者可奥正文 .(省略)::: 向本︽柳春蔭︾結尾有差異的一段照録知下,以資讃者排識一 な書面文化が熟成されたことにある。明清の中園周縁地域に は、その﹁漢文圏﹂に準ずる形で﹁官話悶﹂とも呼びうる言 にともなう、各地域の多様性は、まさにその多様な言語表現 語文化圏が形成されていたと筆者は考える。話本小説の惇承 比較。 て同じ繁本の﹁故毎日戎早或晩必到書房中米看誠一遍﹂を朱 ⑬この部分については、京大本﹁寒徹骨﹂も、﹁板見﹂とし ⑫東大本はこの部分に﹁会﹂を傍記する。 の一つの端的な表れであろう。 作肇﹂を比較したところ、東大本の一部(﹁風流配﹂)と、近 主目頭注にて書き入れる。 ⑬﹁自作肇﹂のみを扶く東大本の筆跡と八重山博物館城﹁白 い千で筆官局されていることが明らかとなった。板型もほぼ同 的米源和改官珂年代﹂﹃中山大島ナ皐報(枇舎科間半版)﹄(二 0 0 ⑪李焼'李汀丹﹁従版本、語一一一日特黙考察︽人中書一︾琉球窮本 じである。或いは、本来﹁人中童旦﹄全五巻は八重山に#賦され ていたものが、何らかの理由で﹁自作肇﹂のみを八重山に残 七六)も、文中の語葉等から﹁人中書一﹂が﹃白姓﹄に近い し、他は但倒立して東渡したものであるかもしれない。この貼 については、今後さらに考察を進める必要がある。 56 四月初四日奉総理司等官命令、出明倫堂面考所民了之官音併 朝廷侍令久米府総理司長史等官、考較正恕所開晶子官音通否。於 平以等。鼠蒙授賜先生秘惇室田四部、乃裏朝廷請国籍[籍 ⑬注①所掲の拙論﹁﹃白姓﹄の成立と惇承││官話課本に刻 時代に成立した可能性を指摘する。 oまた、中園難民側で舎話 に殺場するのは、山東人白世帯長と蘇州人罪張順、また病のた 雑案。乃総理司轄裏朝廷、正恕所間半以首蓬誇用、の恩准回 まれた若き久米村通事たち││﹂ 籍、侍蒙賜憲論実。 0 0三)にて詳述したので、参照されたい。 惇播﹂、﹃東と西の文化交流﹄、関西大事東西向学術研究所、二 拙論(﹁官話の漂着││乾隆年間八重山における﹁官話﹂の ]C これら、八重山の官話通事と鄭氏一族との関連については、 ﹃上官姓世系家譜小宗(筆頭六世正儀)﹄八世正恕の惇 め牧容施設にて逝去する朱三ハ呂の三人の名が確認できる。 ⑬注①所掲の拙論﹁琉球編纂の官話謀本に見る﹁未曾﹂﹁不 こと。 曾﹂﹁浸有﹂ーーその謀本間差異が意味すること﹂を参照の ⑪注⑬の拙論、及び拙論﹁赤木文庫刊紙﹃官話問答便誼巴校注 )0 (稿)﹂(﹁沖縄文化研究﹄二一一、法政大皐沖縄文化研究所、 二O O四年 を紋く武藤長平氏蓄蔵の東大本と、惇承上何らかの閥係を有 ⑬前節でも述べたとおり、﹃人中書﹄のうち﹁白作輩﹂のみ たい。 するかも知れないが、それについては今後検討を加えていき 二、二五 l三九頁、一九七 ⑬佐藤晴彦﹁琉球官話謀本研究序説││宗本︽人中書一︾のこ 八 )o同﹁琉球官話課本研究序説││完本︽人中主︾のこと とば (1)﹂(﹃人文研究﹄三 O ば(2)﹂﹃人文研究﹄一一一一ア四、四七 1六八百円、一九八O)0 立地船、六月二十三日石垣港開船 Oi---於 二 十 五 日 棄 明 朝 ⑫同(乾隆)三十九年甲午、奉憲令、潟向学習官古事、駕夏 廷乃遵奉上司憲令、奉請久米府唐楽鄭氏伊良皆通事親雲上 誇作霧公、 H夜攻撃官音併雑案、至翌年三月間、己講究四整 琉球本﹃人中重﹂の成立(木津) - 57ー
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