2015/06/20 15 年度「比較経済史」第 22 回講義 1930 年代・ 「世界的大不況」への対応:イギリス、フランス、ドイツおよびソ連の場合 市場経済の維持か放棄か-ブロック経済、プルムの実験、ナチス経済、ソ連の計画経済 (はじめに) 1929 年 10 月 24 日、ウオール街(アメリカ)の株価大暴落に端を発する「大恐慌」によって、国家が経済活 動には関与しないとした「19 世紀型資本主義」の破綻が明らかになった。人・物・金という生産資源が、 市場に委ねておいたら低レベルで均衡し、ミスマッチを起こす。即ち、工業生産は伸びず、農業は不振で、 失業者も多数生まれる。資本主義陣営では、これを放置しておくと革命が勃発しかねないという危機感が 生まれた。こうした事態に最初に試みられたのがアメリカにおける“ニューデール”政策である。これは 国家が財政・金融政策を通じて経済に介入し、公共事業や所得再分配政策などによって国民の雇用や福祉 を守ろうとするものである。 こうした資本主義の新たな段階を「国家独占資本主義」(マル経)、「現代資本主義」(近経)などという 場合もあるが、ここでは「自由経済」との関係で「管理経済」として解説する。資本主義を類型的に把握 する上で参考になるだろう。松田智雄編『西洋経済史』(青林書院新社)「管理経済とその諸類型」による と、一方の極に「アメリカ型管理経済」、他方の極に「ドイツ型管理経済」を置き、その中間に「フラン ス型管理経済」を置いている。また、「管理経済」の本質を探ることで、社会主義経済の実体も明らかに なろうとしている。 1930 年代の世界的大不況の中、イギリス、フランス、ドイツはそれぞれブロック化し、それぞれのや り方で国家が経済に介入した。ソ連は 1917 年のロシア革命後既に国家が経済に関与していたが、1930 年 代の不況においてはスターリン主導の下相次ぐ「5ヶ年計画」によって乗り切った。 アメリカ、イギリスは市場機能を回復させるための経済介入であったが、ドイツ、日本(後述)、それ に市場機能を停止して国家が直接介入した。ドイツや日本は資本主義国でありながら、前者に対して“国 家社会主義(用語解説参照)”という表現が使用されることもある。 1.イギリスの対応:ブロック経済(スターリング・ブロック) [年表]1931:金本位制停止・ウエストミンスター憲章により英連邦成立/32:輸入税法により自由貿易破棄・ オタワ会議/ アメリカ・ドイツの国内景気回復策は、赤字財政による大規模な公共投資によるという、積極的な経 済政策であり、フランス、スエーデンなども同様な政策を取った。しかし、30年代こうした政策を取ら なかった唯一の国がイギリスであった。しかも、不況からの回復はイギリスが最も早く、長続きした。こ うした要因の1つに「低金利政策」があげられている。しかし、低金利政策が、投資の増大・銀行貸出の 増大→設備投資の増大→景気回復というコースを取ったのではなくて、低金利が「住宅ブーム」と30年 代に登場した新しい産業=電気、自動車、化学など「耐久消費財」の消費と結びついたことにある。 さらに、1932 年カナダのオタワで開催されたイギリス帝国会議では“帝国内の貿易には関税を軽減 し、これによって域内貿易を拡大し、帝国の結束を強化”することが決められた。他方、帝国外の国から の輸入に対しては関税率を強化するという協定がなされ、帝国内の自由貿易というよりは「封鎖的帝国ブ ロック」の形成であった。 1),ブロック経済→‘スターリング・ブロック’ 基本的には大英帝国内を特恵関税制度によって自由貿易(外国市場の排除)をもくろんだものであるが、 帝国外の国でもその通貨をスターリング(ポンド)にリンクさせる意志があればブロックへの参加は拒まな い。尚、カナダはブロックに参加していない。 2),帝国ブロックの眼界 帝国ブロックはイギリスの工業力を中心に帝国諸国を農業国とする垂直的分業によってなりたってい た。しかし帝国諸国はイギリスへの輸出によって得たポンドを負債の償却やイギリス所有の証券投資への 払い戻しに当てたので、イギリスの輸出とは結びつかなかった。 3),ブロック化への波及 こうしたイギリスの帝国ブロック化に対抗して、アメリカは 1930 年‘ホーリー・スムート関税法’な どによって保護主義化の傾向を強め、ドイツも‘広域経済ブロック’、フランスも‘金ブロックを形成’ し、こうして 30 年代の世界経済はブロック化=保護主義化していった。 2.フランスの対応: 「ブルムの実験」(「フランス版ニューディール政策」)・金(フラン)ブロック経済 [内政] 1934 年コンコルド広場で右翼の暴動→以後ファシストが進出する(「火の十字軍」など右翼団体の活動活発化) 、 35 年ラベル内閣成立、35 年フランス人民戦争結成、36 年 5 ~ 6 月の総選挙で人民戦線派勝利→社会党党 首レオン・ブルムを首相に指名 *ブルム政府の経済政策 労働時間の短縮と賃上げを実施し、「大衆購買力の回復→需要喚起→生産復興→恐慌脱出」という、需要 喚起政策を取った。 ブルム内閣の一連の政策は「フランス版ニューディール政策」といわれているが、36 年兌換停止、金輸 出禁止、取引所閉鎖、通貨の切り下げに追い込まれ、物価は再び上昇し、生産は回復せず、37 年 2 月に は一連の改革を停止せざるを得なくなり、「ブルムの実験」は終わった。 「フランス版ニューディール政策」といわれながら、公共事業が行われなかったのは財政的な裏付けがな かったことと、社会主義政権でありながら所有権の問題に全く手がつけられなかったことは限界の一つで あった。1940 年ドイツ軍の侵略似合い降伏。以降は新ナチスのペタン内閣による統制経済が始まる。 3.ドイツの対応:ナチス経済(国家社会主義=全体主義的独占資本主義)[マルク・ブロック] [年表]1918:ベルリン大蜂起(→革命)/ 19:ワイマール憲法制定/ 21:ナチス党結成/ 23 年:ヒトラーよる ミュンヘン一揆/ 28:総選挙で社会民主党勝利(ミューラーの大連立政府成立)/ 31:恐慌発生(フーバーモラトリアム)・ナ チス政権発足/ 33:ヒトラー独裁政権成立/ 37:日独異三国防共協定/ 38:オーストリアア併合/ 39:英仏対独 宣戦→第二次世界大戦開始/ 45:ドイツ降伏 -1- ドイツは 31 年金本位制を止め管理通貨制へ移行した。アメリカのようにインフレ誘導政策は取れず、企 業の経済性の再建のため「デフレ政策」を取った。国家が経済に介入したという点ではアメリカと同様で ある。また、租税証券(実体は国債)を売り出しその金で雇用創出を目論んだが、景気回復と雇用創出に 本格的に取り組んだのは 33 年に発足したヒットラーの「ナチス政権」下においてである。 1),ナチズムとは? ファシズムの一種で、ドイツの政治運動の中で、1920 年にヒトラーが、自らの党を国家社会主義ドイ ツ労働者党(ナチ党またはナチス党)と名づけたことに由来する。33 ~ 45 年に、ヒトラーが樹立した全体 主義国家「第三帝国」において、ナチズムの運動は頂点に達した。第 1 次世界大戦後のドイツ ナチズム の直接の起源は、第 1 次世界大戦でドイツが敗北したことにあった。ベルサイユ条約はドイツのみに戦争 責任をおわせ、ドイツは植民地をとりあげられ、巨額の賠償金を課された。 そのためドイツ国民は深刻な政治的・経済的破局になげこまれ、1923 年に頂点に達した 1 兆倍という 史上最悪のインフレは、中間層の人々を完全にうちのめした。貧困にあえぎ絶望的となった中間層の多く は、戦後の数年間に誕生した急進的政治集団の宣伝にとりこまれていった。さらに、経済的安定の方策が とられてから数年しかたたない 1929 年には、世界的規模の経済恐慌がはじまり、ドイツを救いようのな い不景気にしずみこませた。この間、民主制ワイマール共和国は、左翼からも右翼からもはげしく攻撃さ れた。この絶望的状態からぬけだすには、共和国はあまりに無力であることが、だれの目にも明らかにな っていった。そして 33 年には、選挙人の大多数が、力のある 2 つの政党、共産党とナチ党のどちらかを 支持した。 2),ナチス政権の経済政策 失業をなくすために、ヒトラーは、ドイツ産業を復興しなければならなかった。彼が採用した解決策は、 「新秩序」とよばれるもので、基本とする前提は、次のとおりだった。①ドイツ産業の能力をフルに発揮 させ高収益をもたらすには、国際貿易・工業・金融におけるドイツの指導力を回復するしかなく、原料の 供給源については、かつて他国にうばわれたものはとりかえし、その他のものについては、支配の確立が 必要である。②そのためにじゅうぶんな量の商業用船舶、近代的な鉄道・航空・自動車運送システムの建 設が必要であり、最大限の効率を達成するため、産業の再編成が必要である、というものだった。これら の前提から、2 つの結論が必然的にみちびきだされた。 (1)計画の完全遂行のためには、ベルサイユ条約によっておしつけられた経済上・政治上の制限をとりの ぞくことが必要であり、それは最終的には、戦争をひきおこさずにはおかないということである。したが って、経済は、戦争経済として再編されねばならず、戦略物資の原料の自給自足と、国内生産だけでは不 足しかつ外国からの輸入も安定しない原料については、合成代用品の生産を発展させなければならない。 また、じゅうぶんな量の食糧供給を確保するには、農業発展を管理統制しなければならない、ということ だった。 (2)労働組合とその関連組織の再編、そして企業の再編が必要であるということである。まず労働組合と 協同組合の廃止、組合財産の没収、労働者と雇用主との集団交渉の排除、ストライキとロックアウトの禁 止、国家が管理するドイツ労働戦線(DAF)への労働者全員の強制加盟がきめられた。そして賃金は、経済 省によって決定され、経済相が任命する労働管理官とよばれる政府の官吏が、賃金・労働時間・労働条件 についての全問題をあつかった。 また、経済省は、既存のカルテルを大きく拡大し、全産業をカルテル化した。同様に銀行も一元化され 統合された。私有財産権は維持され、すでに国有化された企業は、「再私有化」、すなわち私的所有にもど されたが、すべての経営者が、国家のきびしい統制に服した。結局のところ、「新秩序」とは、4 つの銀 行と少数の巨大合同企業によって、経済的に支配される体制であった。そこには、軍事鉄鋼企業の大帝国 をなしたクルップ一族と、染料・合成ゴム・合成石油その他の製品を生産し、400 もの企業群を子会社と して支配下においた悪名高きファルベン化学工業がふくまれていた。これらの企業のいくつかは、何百万 人もの強制収容者と占領地住民を奴隷労働として利用した。さらに、これらの企業カルテルは、ヒトラー 政府が、何百万人ものユダヤ人、ポーランド人、ロシア人その他の人々を、組織的・科学的に絶滅するの に使用する用具をも供給した。 *当初ナチ政権は中産階級の利益を擁護する政策を取っていた。初期のナチス政権は、道路、港湾、公共 施設の建設など、ニューデール張りの公共投資→民間資本の「呼水政策」を行ない、雇用創出・失業救済 政策(フェダー経済官次官の構想)を取り、中産階級の利害に即した「地域開発」、環境問題に配慮した「田園 都市」の建設等の政策を実施した。しかし、1934 年 6 月:レーム事件がきっかけで独占資本と国家主導 による統制経済に移行。さらに、1936 年後半~以降急速な秘密裏による再軍備の段階から、公然たる再 軍備宣言、徴兵制復活などにより、軍事色を強めて行った。(日本の場合と似ている) 1933 年~「4カ年計画」:「ラインハルト計画」を柱/雇用創出計画と農業政策が骨格。赤字公債・赤字財 政による公共事業の創設と雇用の創出、地域開発の促進、中産階級の利害擁護 3),計画経済(統制経済)の導入 (1)1934 年 4 月~「新計画 Der neue Plan」(指令統制経済): シャハト蔵相によって発表/①外交貿易全体の双務主義化②輸入の量的規制と国民経済に必要な輸入の輸 入促進③部分的な平価切下げによる地域市場別に異なる制度による輸出促進④北米と西欧から東欧と南 欧、南米への市場の転換→市場の転換で外貨危機を克服。経済の統制強化と生産性の高い軍事産業の優先 (2)1936 年~「新4カ年計画」(計画経済): H.ゲイーリングが中心に計画、I.G.ファルベンを中心になって経済を統制①賃金統制②労働力配置統制 ③強制カルテル④原料統制⑤投資コントロール⑥資本市場統制⑦価格統制⑧為替割当てなどあらゆる経済 面で管理・規制された。 4.ソ連の対応:「統制経済」と「5ヶ年計画経済」の繰り返し→時間が足りなくて割愛! [年表]1917:ロシア革命/ 22:ソ連成立・土地法制定(用語解説参照)/ 27:コルフォ-ズ・ソフォーズの建設/ 28:土地所有禁止.第1次 5 ヶ年計画開始/ 29:スターリン独裁始まる/ 33:農業の集団化ほぼ達成・第 2 次 5 ヶ年計画開始/ 36:スターリン憲法発布/38:第3次5カ年計画開始 1,社会主義経済の登場:1917 年 10 月「ロシア革命」 1)、戦時共産主義(1918-21) -2- 土地の国有化、銀行、交通機関、工業、商業の国有化、国家による外国貿易の独占、内外に対し国債の放 棄 (1)農業部門 土地は共同体(ミール)に戻し、農民に均等配分→平均 2 ~ 3 ヘクタール 但し、土地のみが平等に分配されたのであり、農機具・家畜については不平等が残った。また、家族の食 料と翌年の種子以外は全て供出(「穀物割当徴発制度」)。1921 年の大凶作(戦前平均の 43%)により都 市の労働者が反乱。新政策への移行の契機となる。 (2)工業部門 最高経営会議が各部局 (グラフク)に資源を配分し生産計画を立てた→貨幣が使用されなかったこともあって、 資源の配分が巧く行かず生産は大幅に減退した。 2)、ネップ(新政策)の登場(1921-27) 国民経済の主要部分は国家か管理するが、農・工・商部門で私的企業活動を認め、一定程度の資本主義の 復活を許す。[一歩前進二歩後退] (1)農業部門 食料徴発制度の廃止→現物税→金納 私有地を拡大し農業労働者を雇い入れた富農(クラーク)が出現する。 (2)工業部門 政府の管轄下にあった従業員 15 名以下の小企業(37,000)の多くが、私的企業家に賃貸されるか、売却さ れた。 (3)商業部門 全て民営化 *こうして、農業部門では有力な富農層が出現し、商業・工業部門では「ネップマン」といわれるブルジ ョア階級が出現した。経済政策としては成功であったが、大衆の不満が高まり、やがて「計画経済」への 時代に移行する。 3)、「5カ年計画」(1927-42/戦後も継続された) 「5カ年計画」の目標は、重工業の建設を中心に国民経済全体を改善し、国防力の充実と経済の自立を図 ること(国民経済の建設)、農業を小規模の個人経営から大規模の集団経営に改めること、資本主義的な 要素を一層することに置かれた。 マクロの数字で見ると、この「5カ年計画」によって、ソ連は農業・工業ともアメリカに次ぎ世界第2の 地位を確保した。 第1次5カ年計画:1928-32 年 第2次5カ年計画:1933-37 年 第3次5カ年計画:1938-42 年 (1)農業部門 当時の全人口の 4/5 が農民であった。国家は農民を、「集団農場」(コルフォーズ)へ移行させようとしたが、貧 農はすんなりとそれに従ったものの、中富農層はこれに抵抗した。 命令を無視した者はシベリア送りとなった。結局 32 年の「第1次5カ年計画」が終了するまでに、全耕 地の 2/3 は集団農場に移行した。 もう一つの農場のタイプに大規模な「国営農場」(ソフォーズ)があったが、非効率なため 30 年代の後半から 衰退した。 *農業の集団化は、工業ほどはかばかしい成功は見なかった。特に畜産は悲惨で、「第1次5カ年計画」 の間に半減した。穀物も、35%の増大が予定されていたが、全く増大しなかった。綿花や麻羊毛などは増 加したが、工業部門に十分な原料を供給するには至らなかった。。 注目すべきは、集団化の結果、農業の機械化が進行し、農民の数が減ったことである。これが後の工業化 の労働力を供給した。 (2)工業部門 工業部門では「5カ年計画」は大きな成果を生んだ。1929-37 年の工業生産は 3.8 倍に増加しており、年 々の増加率は 17%であった。これは 20 世紀初頭のアメリカの平均 9%、第1次世界大戦以前の日本の 11% と比較しても如何に大変な数字か理解できるであろう。 重工業に比べると軽工業の実績は悪かった。 *「計画経済」時代のソ連工業は外資に依存せず飛躍的な発展を遂げたが、反面国民の生活は極度に切り つめられた。 理由は①投資が重工業に過度に傾斜集中したこと、②集団農場下で農業生産が停滞的であったこと、③交 易条件が悪かったことなどが上げられる。 -3-
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