血リンパ成分を指標とした迅速なカキ類種判別法の開発 東京大学大学院農学生命科学研究科 伊藤直樹 背景と目的 水産増養殖技術の開発に伴い養殖対象とする種は格段に増加するようになってきた。 従来はマガキのみを養殖生産していたカキ類養殖においても同様の傾向が見られ、現在 ではマガキと異なる性質(食味、旬、生産地)をもつイワガキ、シカメ(クマモトオイ スター)も養殖生産が行われるようになっている。今後、性質の違いに基づいたマガキ との差別化と新たな市場価値の創出に成功すれば、イワガキやシカメの養殖生産は増加 することが見込まれる。現在、イワガキやシカメ養殖では、対象種以外のカキ類を採苗 する恐れのある天然採苗よりも人工生産した種苗を使用することが多く、イワガキやシ カメの生産量増加に人工種苗生産技術の発達が重要である。 さて、シカメやイワガキなどの対象種を間違いなく種苗生産するには、母貝を正確に 種判別することが極めて重要である。ところが、カキ類を外部形態に基づいて種判別す ることは熟練を要するため、近年は一部組織を採取しての PCR による鑑定法が導入され ている。しかし、解析にかかるコストや遺伝子解析技術の習得は課題であり、また、ミ トコンドリア配列を用いた手法では種間交雑種が判定できず、ゲノム領域では PCR だけ で判定する手法が確立されていないなどの技術的課題を抱えている。 近年、カキ類の生体防御関連の研究より、血リンパ内の生理活性物質の性質はカキの 種類により様々に異なることが分かってきた(Hardy et al., 1977、菅野, 1984、 Olafsen, 1986、中村,1994)。そこで申請者は、血リンパは非侵襲的かつ容易に採取できる試料 であり、また、血リンパ内の遺伝的表現型を観察するため交雑種の判定も可能であるこ とも鑑み、血リンパ中の赤血球凝集能を利用した迅速かつ簡便な種判別法の開発を試み た。 材料と方法 ・カキ類 マガキ Crassostrea gigas は京都府舞鶴および熊本県八代の天然個体を採取し利用し た。シカメ C. sikamea は熊本県八代、及び鏡より採取した天然個体と、熊本県水産研 究センター(天草)にて人工種苗生産した個体を用いた。イワガキ C. nippona は京都 府舞鶴より採取した天然個体、スミノエガキ C. ariakensis は熊本県八代より採取し た天然個体を使用した。 ・カキ類の種判別 実験に供したカキ類は実験に使用する前に、殻の形態の目視観察と 28S rRNA 遺伝子 の塩基配列を解読することで種を確認した。また、殻の形態からシカメとマガキの判別 が困難であった場合については、COI 領域を用いた multiplex PCR 法 (Banks et al. 1993) も用いて種判定を試みた。 ・赤血球凝集活性 カキ類の血リンパは閉殻筋より針付きシリンジにて採取し、遠心分離(500g、5 分間、 4℃)により血球を沈殿させて除去し、得られた上清画分(血リンパ上清)のウマ赤血 球(Equine Red Blood Cell: ERBC)及びヒツジ赤血球(Sheep Red Blood Cell: SRBC) に対する凝集活性を測定した。 手法として、まず、市販の ERBC および SRBC 懸濁液を Tris Buffered Saline(TBS: 50 mM Tris-HCl, 0.15 M NaCl, pH 8.0)で 3 回洗浄して保存液を除去、その後、2 % 濃度(v/v)になるよう TBS を加えて懸濁液を調整した。次に、血リンパ上清サンプル 25 µL と ERBC または SRBC 懸濁液 25 µL、さらに測定用緩衝液 25 µL を U 字底マイクロプ レートに添加して混和、1時間室温で静置した後に、赤血球凝集を肉眼で判断して測定 した。なお、Ca2+存在下の凝集力価測定用緩衝液は TBS-Ca (50 mM Tris-HCl, 0.15 M NaCl, 20 mM CaCl2, pH 8.0)、非存在下用緩衝液には TBS-EDTA (50 mM Tris-HCl, 0.15 M NaCl, 20 mM EDTA, pH 8.0)をそれぞれ用いた。凝集力価は赤血球を明らかに凝集した最大希 釈倍率の対数(log2)で計測した。 なお、本研究では結果を解析するにあたり『Ca2+存在下よりも Ca2+非存在下での凝集 力価が 6 以上低下』 、もしくは『Ca2+存在下での 4 以上の凝集価があったものが Ca2+非存 在下で 1 以下に低下』して凝集活性が明らかに Ca2+の影響を受けた場合は Ca2+依存性あ り、それ以外の場合は Ca2+依存性と判断した(図)。 サンプル希釈倍率 27 20 211 Ca2+あり 27倍希釈サンプルまで赤血球凝集あり Ca2+存在下での凝集力価は『7』 20 21 Ca2+なし 21倍希釈サンプルまで赤血球凝集あり Ca2+非存在下での凝集力価は『1』 Ca2+存在下と非存在下での凝集力価の差は『6』のため、 この個体におけるSRBC凝集活性は『Ca2+依存』と判定 図:マガキ血リンパによるヒツジ赤血球(SRBC)凝集力価想定の一例 また、本実験で得られた結果は、中村(1994)による宮城県松島産マガキと山形県鶴 岡産イワガキの ERBC および SRBC 凝集活性結果とも比較し考察を行った。 結果と考察 本研究を計画するにあたり参考とした菅野(1984)および中村(1994)の先行研究 では、マガキ血リンパは ERBC 凝集には Ca2+が必須であるが、SRBC 凝集は Ca2+の存在を 必要としない結果が得られている。本研究で解析を行ったマガキ 26 個体のうち 17 個体 は、この先行研究と全く同じ性質を示したが、京都・舞鶴産の 9 個体は SRBC 凝集に Ca2+ を必須とするという異なる性質を示した。 イワガキについては、4 個体中 3 個体が Ca2+の存在下でのみ ERBC および SRBC を凝集 するという中村(1994)と同じ結果を示したが、SRBC を凝集する際に Ca2+が不要という 異なるパターンを示す個体が1個体みられた。 シカメは 53 個体を解析したところ、起こり得る4通りのパターン全てが出現した。 また、その内訳は ERBC と SRBC 双方の凝集に Ca2+を要求するパターンが 16 個体、逆に 要求しないパターンが 28 個体と明瞭な傾向は認められず、八代および鏡と産地別に分 けた場合でも明確な傾向は全く見られなかった。ただし、人工種苗生産した天草産8個 体では、ERBC と SRBC 双方の凝集に Ca2+を要求しないパターンだけであった。 一方、スミノエガキは実験に供した全7個体で統一した傾向を示し、Ca2+の存在下で のみ ERBC を凝集、SRBC は Ca2+の有無にかかわらず凝集しなかった。以上の結果は、表 1と表2にまとめた。 表 1. カキ類血リンパの ERBC 及び SRBC に対する凝集力価。 力価は赤血球を明らかに凝集した最大希釈倍率の対数(Log2)で表示。上段は各採集群における力価の中間 値、下段は力価の範囲。 種 マガキ シカメ イワガキ 場所 採取日 個数 ERBC凝集活性 SRBC凝集活性 Ca2+あり Ca2+なし Ca2+あり Ca2+なし 熊本・八代 2007年5月 9 14 (11-17) 1 (0-3) 8 (4-8) 6 (4-11) 京都・舞鶴 2014年3月 17 10 (5-11) 1 (0-4) 8 (6-11) 2 (0-11) 熊本・八代 2007年5月 19 12 (10-17) 1 (0-7) 6 (3-9) 0.5 (0-9) 熊本・天草 2011年6月 8 9 (5-10) 8.5 (5-9) 5 (2-7) 6 (2-7) 熊本・鏡 2013年7月 26 11 (6-14) 8 (0-13) 8 (3-10) 4 (1-10) 京都・舞鶴 2014年3月 4 6 (6-8) 1 (0-3) 3 (2-8) 0 (0-6) 2013年7月 7 9 (5-11) 6 (4-9) 0 (0-0) 0 (0-0) スミノエガキ 熊本・鏡 表 2. カキ類血リンパの ERBC 及び SRBC 凝集に及ぼす Ca2+の影響。 各赤血球を凝集する際の Ca2+依存性の有無によって、各採集群ごとに分類した。 種 場所 マガキ 宮城・松島* シカメ イワガキ 個数 ERBC凝集活性 SRBC凝集活性 5 Ca2+依存 Ca2+ 非依存 Ca2+ 非依存 熊本・八代 2007年5月 9 Ca2+依存 京都・舞鶴 2014年3月 8 Ca2+依存 Ca2+ 非依存 9 Ca2+依存 Ca2+依存 13 Ca2+依存 Ca2+依存 4 Ca2+依存 Ca2+ 非依存 2 Ca2+ 非依存 Ca2+ 非依存 Ca2+ 非依存 Ca2+ 非依存 熊本・八代 2007年5月 熊本・天草 2011年6月 8 熊本・鏡 2013年7月 3 Ca2+依存 Ca2+依存 1 Ca2+依存 Ca2+ 非依存 4 Ca2+ 非依存 Ca2+依存 18 Ca2+ 山形・鶴岡* 京都・舞鶴 スミノエガキ 採取日 熊本・鏡 2014年3月 2013年7月 非依存 Ca2+ 非依存 5 Ca2+依存 Ca2+依存 3 Ca2+依存 Ca2+依存 1 Ca2+依存 Ca2+ 非依存 7 Ca2+ 非依存 凝集活性無し *中村(1994)よ り 引用 以上の結果より、スミノエガキに関しては実験に供した他の3種と明確に異なる赤 血球凝集パターンを示したため、血リンパの採取による非侵襲的手法で区別することは 可能と考えられる。イワガキでも先行研究結果と合わせ9個体中8個体で統一されたパ ターンが得られたが、このパターンはマガキやシカメでも観察されたことから判定はで きないと判断した。また、シカメやマガキに関しては統一されたパターンがみられない ことから、残念ながら本研究では当初の目的である日本産カキ類4種の判定法を確立す ることはできないと結論する。 その一方、赤血球凝集活性における Ca2+依存性の有無が、同一種内で異なったとい う現象は他生物から報告されておらず、本研究でみられたマガキとシカメにおける結果 は過去に例を見ず興味深い。一つの可能性として、マガキやシカメという『種』はそも そも多様な生理的特性を含む集団であることが示唆される。つまり、有明海や日本海の ようなマガキ養殖が少ない海域では多様な生理特性を持つマガキ集団が天然に生息し ているのに対し、先行研究で使用したマガキの産地である宮城県松島では、長期間にわ たる集約的な養殖のために生理特性の多様性が低下し、この結果が本研究結果に反映し たのかもしれない。シカメに関しても、天然個体からは様々なパターンが得られたもの の、天草産の人工種苗では画一的な結果が得られておりこの仮説を支持するように思え た。 もう一つの可能性としては、マガキやシカメでは血リンパの赤血球凝集活性パター ンが何らかの生理状態を反映していることが考えられ、その場合、本研究で用いた手法 がカキ類養殖における健康指標などとして使用できるかもしれない。 本研究で対象とした赤血球凝集活性パターンが、カキ類地域個体群の生理特性の指 標となるにしろ、生理状態・健康指標になるにしろ、カキ類養殖に応用可能な技術開発 へとつながる可能性はある。そこで、今後は、分子生物学的手法を導入することを目的 とし、赤血球凝集因子の同定を進めていく必要がある。 謝辞 本研究は、東北大学大学院農学研究科・高橋計介准教授、熊本県庁・中根基行博士、お よび東北大学大学院農学研究科・西谷豪助教より協力をえた。ここに感謝する。 参考文献 中村昭文(1994) 平成 6 年度東北大学大学院農学研究科修士論文 Hardy SW (1977) Experientia 33, 767-769 Olafsen JA (1986) Immunity in invertebrates, 94-111 菅野信弘(1984)昭和 59 年度東北大学大学院農学研究科修士論文 Banks et al.(1994) Marine Biology 121, 127-135 研究成果の発表 伊藤直樹・中根基行・西谷豪・高橋計介(2014)日本産カキ類4種における血リンパレ クチンの赤血球凝集活性 平成 26 年度日本水産学会秋季大会 ポスター発表
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