世界No.1釣りエサメーカーに成長

インタビュー
マルキユー株式会社
「お魚さん、おかいこさん、ありがとう」
誠実・努力・愛情・感謝・希望の五訓を胸に
世界No.1釣りエサメーカーに成長
日本の海・川・湖で釣りを楽しむ人は、誰
もがきっとマルキユーの釣りエサのお世話に
なっていることだろう。開通が迫る圏央道桶
川加納インターチェンジにも近い埼玉県桶川
市東部工業団地に本社を構えるマルキユー株
式会社は、魚種・釣り方別に約400種類以上
の釣りエサを生産するグローバルニッチトッ
プ企業だ。
明治期、一大製糸業地として栄えた長野県
岡谷市にルーツを持つ同社が、100年を超え
る歴史の中でどのように歩み、現在の地位を
築き上げたのか。そして未来に向かってどの
ようなビジョンを描いているのか、代表取締
役社長・宮澤政信氏に伺った。
マルキユー株式会社
代表取締役社長
み や ざ わ
ま さ の ぶ
宮澤 政信
氏
1940年埼玉県生まれ。明治大学付属明治中学校
から同高校を経て、明治大学法学部卒業。高校時
代は野球部でキャッチャー・4番・主将を務める。
1958年の夏には王貞治氏を擁する強豪・早稲田実
業を自らの逆転サヨナラ打で破り、チームを甲子
園に導いた。明治大学でも野球部主将として活躍
し、1963年、大和証券株式会社に入社。都市対抗
野球東京都代表となる。1964年、小口油脂株式会
社(現マルキユー)に入社。1978年、代表取締役
常務。1983年、代表取締役専務を歴任し、2000年、
三代目社長として代表取締役社長に就任。釣り文
化の発展、環境保護にも熱心に取り組んでおり、
各界の釣り愛好家との親交も深い。 ※写真のユ
ニフォームは、球界きっての釣りマニア・元ダイ
エーホークスの城島健二捕手から贈られたもの。
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ぶぎんレポート No.189 2015 年 6 月号
製糸産業の副産物である
“さなぎ”の活用から始まった歴史
― インタビューに先だって工場内を見学さ
せていただきましたが、とても大規模で先進
的な製造ラインですね。北海道産のマッシュ
ポテトや食品安全基準にのっとった香料な
ど、人間が食べられるクオリティの原料を使
用されていると伺って、最近の魚はグルメな
のだなと感心いたしました。
そうですね、お魚さんだって当然おいしい
エサが好きですから(笑)
。でもやっぱり独
特の香ばしい匂いがあったでしょう? 実は
あれがマルキユーのエサの主原料である“お
かいこさんのさなぎ”
を乾燥させた匂いです。
当社は元々、長野県岡谷市にあった小口製
製糸業の衰退など、苦難も多い時代だったこ
肥という会社をルーツとしています。岡谷市
とを、当時学生だった私もよく覚えています。
は明治期から戦前にかけて、製糸の街として
大発展し「諏訪千本の煙突」と称された街で
した。
難局に立って、選んだのは
やはり“さなぎ一筋”の道
生糸の原料となる蚕の繭の中はさなぎがい
― 100年超の歴史の中には、さまざまな試
ますから、これが製糸業の副産物としてうま
練があったのですね。その後、油脂製造から
れます。このさなぎを、肥料や長野地方で盛
釣りエサメーカーへと業態変更するきっかけ
んだった鯉の養殖用エサとして販売したの
はどんなものだったのでしょう?
が、小口製肥の元々の商いでした。
大きな、そして直接的な転機は1960年代
小口製肥は最盛期には27もの支店・工場
半ばにやってきました。当社工場に隣接し、
を持っていましたが、その中で9番目に設立
さなぎの仕入れ先としても深いつながりの
されたのが
大宮支店。現社名
あった片倉工業さんが製糸業から撤退すると
の「マルキユー」は、第9支店を略したもの
決まったこと。さらには国鉄(現JR)による
なんですね。大宮支店は1938年(昭和13年)
土地の買収話や、火災による工場設備の焼失
に独立し、
小口油脂株式会社に改組しまし
といった事態に直面し、私の父であり初代社
た。これが当社の直接的な母体となります。
長だった宮澤政吉は、今後どんな事業に乗り
開業当時、大宮は製糸業に加え、鉄道の町
出すかという難しい選択を強いられました。
として発展途上にありました。この地で当社
当時出た案は3つで、鉄道に近いという地
は製肥・飼料製造に加えて、さなぎや大豆、
の利を生かした倉庫業、さなぎに代えて牛や
菜種を搾る油脂製造・卸業などを手掛け、好
豚の骨などを原料とした肥料やにかわ製造
評を博していました。
業、そしてさなぎを活かした釣りエサ製造業
しかし、その後の太平洋戦争や戦後の不況、
が検討されました。
小口製肥
現在マルキユーが製造する釣りエサは約400種類。製
り、最近ではあまりふれあう機会のない蚕の繭やさなぎに
造からパッキング、在庫管理、発送までの工程がほぼ自
目を丸くする子どももいるとか。
「採用した新入社員の中には、
動化された、衛生的で働きやすい環境が整っている。
小学校時代に工場を見学したことをきっかけに志望してく
工場は地元小学生たちの社会科見学コースにもなってお
れた者もいるんですよ」という微笑ましいエピソードも。
繭玉の中にいる蚕のさなぎが、釣りエ
サの主原料。マルキユーでは感謝を込
めて「おかいこさん」と呼ぶ。
良質な原料をブレンドするライン。
注 文 を 受 け て 在 庫 の 荷 出 し を オート
メーションで行う自動倉庫。150トン
の容量を誇る。
ぶぎんレポート No.189 2015 年 6 月号
LEADER’S INTERVIEW COLUMN
月に400種超の商品を製造する日本最大規模の釣りエサ工場
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この中から父は、さなぎを活かすことがで
そこで経営陣は、関東で釣り名人と呼ばれ
きる、釣りエサ製造業を選んだのです。一時
ていた人々に意見を仰ぎながら商品開発を進
の隆盛はないにしても、全国の製糸業者との
めていきました。後に二代目社長となる中村
パイプによってさなぎは仕入れられる。養鯉
和敏も、足しげく釣具店や釣り堀に通って人
用のエサという創業以来のノウハウもある。
脈を広げていきました。幸い、当時の釣りエ
そして戦後復興を経て急激な経済成長が見込
サメーカーは関西の企業が多く、関東の釣り
まれる日本では、今後レジャー産業が盛んに
人のニーズがなかなか反映されていなかった
なるだろうと予測したのです。
こともあり、皆さん大いに協力してくださっ
実際、当社が釣りエサ製造に乗り出したタ
たのです。
イミングで、釣り具業界は黄金期を迎えよう
こうして開発した最初の釣りエサが完成し
としていました。ナイロンの釣糸やグラス
たのは1967年のこと。丸乾さなぎ・さなぎ
ロッドなどの技術革新が進み、都市部にも手
粉・さなぎ油・マッシュポテトといった素朴
軽な釣り堀がたくさんでき、老若男女が楽し
な商品でしたが、素材の良さには自信を持っ
める大衆向けレジャーとして釣りブームが起
ていました。
こりつつあったのです。
販路もない状態からのスタートでしたが、
よう り
社員一丸となって営業に製造にと励み、なん
とか12店と販売代理店契約を結びました。
かくして市場に出た釣りエサ事業の、初年度
の売り上げ実績はわずか650万円。しかし、
釣り人・釣具店から業界の状勢やニーズを学び、
次年度にはもっといい商品が作れると確信して
いた経営陣は、夢に燃えていたそうです。
釣りエサ製造を始めた当時のこじんまりとした社屋。
釣り人の声に耳を傾けたエサ作りで
後発ながら大きな注目を集める
― その決断の正しさは、すぐに証明された
のでしょうか?
そうですね。課題は多かったものの、後で
振り返れば比較的順調だったといえるでしょ
う。というのも、とにかく当社は背水の陣で
したし、そもそも後発メーカーです。さなぎ
がコイのエサにいいという手応えはありまし
たが、今後はさらに他の魚が喜んで食いつく
エサを開発していかなくてはいけません。
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ぶぎんレポート No.189 2015 年 6 月号
マルキユー初の釣りエサ商品。当時から原料のよさにとこ
とんこだわっていた。
インタビュー
こうして遅ればせながら業界に参入した当
ます。まず行ったのは全国の業者が集まる釣
社が全国の釣り人に認知していただくきっか
り用品見本市への出展。新興ブランドだから
けとなったのが、翌年発売された「へら」と
こそ注目は大きく、多くの引き合いをいただ
いうへらぶな用エサのヒットでした。これは
くことができました。
マッシュポテトや麩、さなぎ粉などをブレン
つづいて取り組んだのが「
ドした配合エサで、水を加えて練り、団子状
と い う 消 費 者 向 け の 報 恩 イ ベ ン ト で す。
にして水に入れると、徐々に溶け出して魚を
1970年に大阪で行われた第1回大会には、
集める効果がありました。
なんと1,500名以上の釣りファンが参加し、
名だたる釣り名人に試釣してもらいながら
しかも子どもの姿が多かったことが、準備に
開発しただけに釣果は上々で、小口油脂のエ
駆け回った社員を大喜びさせてくれました。
サは釣れるという評判が全国に轟きました。
ふ
つりの祭典」
つりの祭典は、その後各地でリクエス
トをいただきながら15年間続きました。最
盛期には3大会で30,000名超が参加する釣
り業界屈指のビッグイベントとなり、釣りの
楽しさとよく釣れるマルキユーのエサを広め
る場となったのです。また、合わせて行った
水辺のクリーンナップ作戦なども、釣り人の
マナーや環境保護意識の向上に貢献できたと
左が発売当初の「へら」のパッケージ。赤袋・青袋の2種
があり、いつの間にか「赤へら」「青へら」の愛称で呼ばれ
るようになった。右は今でも根強い人気を誇る「赤へら」
の現行品。
報恩イベントを通じ
釣り文化の発展やマナー向上にも貢献
思っています。
― 商品PRが目的というよりは、総合的な
CSRの機会となった印象ですね。昭和40年
代からこうした取り組みをされている企業は
少なかったのではないでしょうか?
その通りです。正直、一社運営の大会とし
ては規模が大きくなりすぎて費用もかさみま
「赤へら」と「青へら」のヒットに勇気づ
したし、準備も本当に大変でした。それで
けられ、会社はより積極的なPR活動を始め
も、釣りを楽しむ人たちと直接ふれあい、あ
九 小口油肥ブースにて当時の宮澤政吉(左)と中村和敏(右)
○
九 釣りの祭典(初期の
多くの釣り師が集結し、にぎわった○
関西大会の様子)
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りがとう、楽しかったという声をいただき、
商品の評価や改善のアイデアを掴む素晴らし
い機会として、損得抜きで継続していったの
です。
私は24歳の時、釣りエサ事業2年目とい
うタイミングで入社したのですが、この頃の
社内の活気や、社長であった父、二代目とな
る中村さんらがいきいきと働く姿に強い感銘
を受けました。
海釣りでも一貫して、魚種・釣り場・釣り方に合わせたエ
サづくりを貫き、高い評価を得ている。
釣りエサだけでなく海釣りエサの開発も成功
釣り文化の発展と足並みを揃えて
成熟していった事業と社風
させ、業界トップの地位を確立することがで
きたのです。
1985年には小口油脂から「マルキュー株
その後も釣り業界には、当社の「大ごい」
式会社」に社名を変更(2007年に表記を「マ
発売をきっかけに火が着いた鯉ブーム、アニ
ルキユー」に変更)
。工場は増設に次ぐ増設、
メ釣りキチ三平のヒットによる子どもの釣り
設備の改善も進む中、次に課題となったのは
ブーム、バスフィッシングブームなど、幾多
社員の増強と育成でした。
のムーブメントがありました。
これについては、1987年に父の後を引き
当社も足並みを揃えるように業績を伸ば
継いだ中村前社長がとても熱心に取り組み、
し、釣りエサ進出10年目には当社製品を取
「五訓人間」という基本方針を立てました。
り扱う釣具店が1万店を超え、売上も10億
誠実・努力・愛情・感謝・希望。どれも平易で、
円を突破していました。途中、淡水魚向けの
それでいて心に響くメッセージでしょう?
LEADER’S INTERVIEW COLUMN
日本を飛び出し、世界を市場にマルキユーの多角的なビジネス展開
現在、マルキユーは桶川の
本社工場、大阪支店、九州営
業所に加え、全国主要都市に
39店の営業網を展開してい
る。また、かつての大宮本社
跡(さいたま新都心駅前)に
マルキユービルを保有し、テ
ナント業も行っている。
海外では丸九天津釣具有限
公 司( 中 国 )、MARUKYU
EUROPE LTD.( イ ギ リ ス )
に製造販売拠点を開設し、高
まる海外での釣りブームに対
応している。
■マルキユーの取引国:台湾・韓国・中国・香港・シンガポール・オランダ・ベルギー・
イタリア・ポルトガル・ドイツ・アメリカ・スペイン・イギリス・フランス・ブラジル・
インドネシア・マレーシア・ロシア・オーストラリア・ルーマニア・ブルガリア・
イスラエル・ベトナム・タイ・ウクライナ・南アフリカ など
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ぶぎんレポート No.189 2015 年 6 月号
インタビュー
員を大事にしてくれるよう、家族手当など福
利厚生面の充実も図ってきました。そのおか
げなのか、当社には3人、5人といった子だ
くさんな社員が何組もいるんですよ。少子高
齢化対策にも貢献しているのではと自負して
います(笑)
。
桶川移転を機に完成した先進のライン
今後はアジア・欧米市場の開拓へ
― お話に出た少子高齢化は、釣り業界にも
影響をもたらしていますか?
それはもちろんありますね。国内の自然環
二代目社長中村和敏氏が掲げた五訓額
境的にも、昔のように気軽に釣りを楽しめる
2000年に三代目に就任した私もまた、こ
場が減っていますし、子どもたちが好む娯楽
の想いを大切に受け継いでいます。お魚さん
はゲームなどに移っている。レジャー白書に
が喜ぶよいエサをつくるには、社員が夢と希
よると、近年日本の釣り人口は1,500万人か
望をもって働ける会社でなくてはいけません
ら800万人へと激減しているそうです。
から。
それでも私は悲観してはいません。釣りは
よい職場づくりについては、継続的に頑
自然とふれあい、命や環境の大切さを学び、
張っている。他にはなにが……と考え、家庭
家族・仲間とのコミュニケーションの場にも
を大事にしてもらえるよう、そして家庭が社
なる。そしてなによりとても楽しい、愛され
▼
広い国土を長
大な河が流れる
中国。釣り愛好
家はますます増
えている。
▼
ヨーロッパで
は 今、 大 型 の ナ
マズや鯉釣りが
静かなブームに。
さいたま新都心駅前に立つマルキユービル
かつて本社工場のあった場所は、現在、さいたま新都心とし
て発展している。創業の地への想いを込めて建てた「マルキ
ユービル」の好立地を活かし、不動産テナント業も行っている。
ぶぎんレポート No.189 2015 年 6 月号
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続けるレジャーだと確信しているからです。
それに日本市場が縮小したとしても、世界
に目を向ければ市場はいくらでもある。当社
が中国の天津に工場を造ったのは2003年の
ことですが、中国は今、爆発的な釣りブーム
が起きており、釣り人口は9,000万人といわ
れています。また、これまではバスやトラウ
トが主流だった欧米でも、プレイフィッシン
グの対象として鯉やナマズの人気が高まって
きました。
当社売上に占める輸出の割合もぐんぐん伸
マルキユーのホームページには、多くの釣り人がアクセス
して、自らの釣果や、マルキユーのエサでこんな風に釣っ
たというアイデアが毎日のように寄せられる。一企業のP
Rの場というより、フィッシングのポータルサイトのよう
な充実したコンテンツからも、釣り人とのコミュニケー
ションを大切にする同社の姿勢が伺える。
びており、昨年は26%が海外でのセールス
と、確かな手ごたえを感じています。
― 2010年には創業100周年を迎えたとの
ことで、将来に向かって、さらに視界良好と
いう感じですね。
そうですね。当社は釣りエサという商品の
製造を通じて、大自然とそこに生きる命を研
究し、魚釣りというレジャーを愛する人々と
強い絆を結んできました。釣りエサ業界に進
出したときから抱いている「つれるつりエサ
一筋」の気持ちを忘れなければ、きっと未来
も明るいだろうと信じています。
会社案内の挨拶に、私は「夢と希望を持っ
て、社業を通じ環境保全と釣り文化の創造を
図り、社会に貢献します」と書きました。こ
の言葉に込めたのは、単に利益を追求するだ
けでなく、関わる自然や文化を守り、発展さ
せることを考えよう。そして私たちの事業の
源である「おかいこさん」と「お魚さん」へ
の親しみと感謝を胸に、夢と希望をもって歩
もうという意志です。
父をはじめとする先達が
懸命に切り拓き、豊かなも
のへと育て上げてくれたこ
の事業に情熱を注ぎ、よい
仲間たちとともに、よい商
品をつくり続けていきたい
と思います。
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ぶぎんレポート No.189 2015 年 6 月号
マルキユー株式会社概要
創
業
1910年(明治43年)10月
資
本
金
9,600万円
売
上
高
59億9,100万円(2014年11月期)
従
業
員
136名(2014年11月期)
社
〒363-8509 埼玉県桶川市赤堀2-4
本
電 話
048-728-0909
ホームページ
http://www.marukyu.com/
取
本店営業部
引
店