平安貴族、浄土への憧れ

2014年5月18日
NO
65号
平安貴族、浄土への憧れ
世界文化遺産、平等院、宇治上神社を探る
東大阪文化財を学ぶ会
会長
南
光 弘
06-6777-2137
1.集合時間
2.集合場所
3.参 加 費
4.参加申込
午前9時
京阪宇治駅前広場
南携帯 090-8375-9655へ
1200円(拝観料、入館料、団体割引)
事前の参加、不参加を連絡いただきましたが、平等院への予約をする必要上、変更がある
場合、必ずご連絡下さい。参加人数の確定を事前にしたいと思っています。
5.案内解説
東大阪文化財を学ぶ会メンバー
6.昼
食
平等院周辺に何軒もの食堂があります。各自自由に昼食を取ってください。
弁当持参の方は、近くの公園などを利用してください。
7.行
程
全行程約5㎞程度
宇治橋三の間、平等院鳳凰堂・鳳翔館、橋姫神社、県神社(昼食)、宇治神社、宇治上神社、
源氏物語ミュージアム、橋寺、京阪宇治駅へ
平安建都1200年を迎えた1994年に世界遺産委員会において、「古都京都の文化財」として17か所
の文化遺産が登録された。京都市・大津市・宇治市の三市にまたがり、宇治市では平等院と宇治上神社が選定
された。いずれも平安文化を代表する文化遺産である。登録区域の面積は、平等院が2 ha、宇治上神社が0.
3 ha で、緩衝地帯面積は平等院と宇治上神社の一体化となっており計203.8 ha を測る。その範囲はま
さしく平安期「宇治」の核といえる。
平等院の中心建物である鳳凰堂は、特に10円玉のデザインとして現在の日本人にとって身近な存在である。
江戸時代の『都名所図会』に描かれた平等院は、鳳凰堂を中心に関係する建物が画面一杯に描かれ、右上には
藤原定家の和歌が詠まれている。宇治を代表する名所としてその存在は注目されるところであった。説明も詳
細になされている。
宇治上神社は世界遺産の登録によってその存在は広く注目されることとなったが、それ以前は地元宇治と建
築史の専門分野の限られた人々にだけ知られた存在であった。そのことは『図会』が出版された江戸時代にも
みてとれる。宇治上神社は近くの宇治神社とともに当時は「離宮ハ幡」と称され、離宮ハ幡として興聖寺・惠
心院とともに鳥瞰図によって描かれている。慶安元年(1648)に淀城主永井尚政によって創建された曹洞
宗興聖寺が面面一杯に描かれ、離宮ハ幡は画面左端にその存在がみられる程度で、注目すべき名所とはなって
いない。
≪宇治の地勢
延暦13年(794)10月、桓武天皇による平安京遷都後「宇治」は宇治川渡河点、いわゆる交通の要衝
地であるとともに風光明媚な景観を背景に、平安京からの交通の利便とも相挨って別業の地として都人の脚光
を浴びることとなる。宇治は、平安初期より貴族等の権門勢家によって数多くの別業が営まれていった。『扶
桑略記』の寛平元年(889)には河原左大臣源融の宇治別業がみられ、これが後に平等院へと繋がっていく。
源融は、時には光源氏のモデルの候補にも挙げられる人物で、京外に数多くの別業を有していた。宇治にあっ
た別業もその一つである。その後、源融の宇治別業は幾人かを経て長徳4年(998)10月に当時左大臣で
あった藤原道長が取得したと『花鳥余情』は伝える。道長の宇治院(宇治殿)である。以後、藤原道長、そし
て頼通につながる一門と宇治とが密接な関わりをもっていくこととなる。
ところで、「宇治」の地名の由来については、定かでないが、宇治神社の由緒書に次のようにある。『祭神、
菟道稚郎子命 (うじのわきのいらつこのみこと・父・応神天皇)と「みかえり兎」の逸話の後、又、「菟道」
という字を「うぢ」と読み、もとは「うち」内なる場所の意味を持ち、後に「宇治
うじ」という字になった
とも言われている。』この「内なる」は、奈良・五条の旧名が「宇智」であったように武・内宿禰、隼人との
関連が推察される。現在の地名に「菟道隼上がり」がある。
①
平等院~末法の到来と頼通との平等院の創建
末法、それは仏が亡くなってから2千年後、仏の教えがすたれて意味をなさなくなる1万年もの時代を指す。
-1-
日本では永承7年(1052)末法に入るとされたその年に関白藤原頼通は平等院を創建した。鳳凰堂という
呼称は江戸時代初期ごろから使われるようになったもので、鳳凰堂はその阿弥陀堂として、翌天喜元年に建立
された。
京都から宇治に向かうと、平等院は宇治川をはさんだ対岸に位置する。平等院は頼通の別業を寺院としたも
ので、はじめに本堂が建立された。本堂は宇治川沿いに立ち、そこから川に向かって透廊がのびて、先端には
釣殿を設けていたらしい。保元三年(1158)、平等院に御幸した後白河上皇は、宇治川を船で渡り、本堂
の釣殿で船をおりている(『兵範記』)。本堂では、密教の大日如来を中尊として真ん中に据え、その左右に釈
迦・薬師・不動明王・大威徳明王を安置していた。頼通の父道長か建立した法成寺で、金堂の中尊を大日如来
としたのと同じように、平等院でも大日如来を中心に据えた。
頼通が没する延久6年(1074)2月2日までに、法華堂・多宝塔・五大堂・不動堂と、頼通とその一門
によって数多くの堂塔が建立されていった。これら主要堂塔の位置関係については史料の上では『中右記』や
『勘仲記』の諸記録から推定が可能である。その他の建物としては、造営年代が不明だが、経蔵・北大門・西
門・鐘楼等がある。かつて存在した主要堂塔の中で興味深い建物に経蔵がある。『本朝文粋』によれば、三
蔵法師の袈裟が経蔵に納められたとされ、藤原氏歴代の宝物等がこの中に納められ、藤氏長者(藤原氏の代表
者)のみが蔵を開ける鍵をもっていた。鳳凰堂とともに平等院の核となっていた建物である。中世後半におい
ては現実の経蔵と重ね合わさるように、『源氏物語』の光源氏の死を描いたとされる幻の巻「雲隠」や源頼光
が丹波の大江山の鬼神酒呑童子を退治した首が収められたとか、夜な夜な藤原頼通が龍神となって宇治川から
あらわれ「宝蔵」を守護したとかの様々な伝説が生み出されていった。
②平等院鳳凰堂・鳳翔館
鳳凰堂は、天喜元年(1053)に落慶
供養された浄土三部経に基づく浄土世界を
この地上に具現化したもので、その構造は
浄土変相図にみられる宝楼閣形式の建物と
なっている。発掘調査の結果、その周囲に
は浄土庭園とも称される園池が巡り、洲浜
と呼ばれる平安期の庭園によくみられる玉
石を敷き詰めて緩やかな勾配で汀を表現
し、幽玄な世界観がそこにはかつてあった。
なぜ、州浜なのか。極楽は海の彼方にあると考えられていたのではないか。また、池の湧き水が神秘的な波を
つくりだしていたのである。平等院庭園の見事さは当時の様々な史料からうかがえる。
当時の最高水準を示す庭園の一つが平等院庭園であった。浄土式庭園は平安時代の末
期に数多く造られいる。それは当時の末法思想の広がりに由来している。末法思想と
は、釈迦が入滅して数千年経つと、仏法が滅んで極楽浄土へ行けなくなるという考え
で、この末法の世で極楽浄土に行ける方法はたった一つ。頭の中に極楽浄土をありあ
りと思い浮かべることという。末法思想に特に敏感であった貴族たちは、「目の前に極
楽浄土」を造ることを言い出した。阿弥陀如来の世界を顕現しようとしたのであった。
方位に基づく極楽浄土の具現化であり、寝殿造の宗教化ともいえる。この時代には、
多くの浄土式庭園の寺院が建立されたが、現存しているのはこの平等院鳳凰堂と、浄
瑠璃寺だけとなっている。
鳳凰堂は園池中の中島に東面して立ち、本尊の阿弥陀如来坐像を配する中堂を核に、 宝相華文様が池の波に
左右の両翼廊、背後に尾廊の計四棟の各々独立した建物により構成されている。中堂
は正面三間、側面二間の入母屋造で、周囲に一間通りの裳階を配し、大棟の両端には降棟のやや外側の位置に、
青銅製の鳳凰一対を向い合わせに配置する。翼廊と尾廊は切妻造で左右に延びる翼廊は屈曲部分に宝形造の楼
閣をのせ、先端部前方来側か直角に曲がり、切妻造を正面にみせている。屋根は総瓦葺である。
本尊の丈六阿弥陀如来坐像は、像高278.8㎝を測る。『定家朝臣記』によれば仏師定命(定朝)の作と
され、「仏の本様」として後世阿弥陀如来の手本となった仏像である。この本尊を中心に中堂内部は、絢爛な
二重の天蓋、宝相華文様や螺銅装飾、さらに雲中供養菩薩、扉や壁に九品来迎図や日相観図等荘厳な極楽世界
-2-
の空間が表現されている。
≪鳳凰堂中堂前石灯籠≫基台:平安時代
竿から上は鎌倉時代花岡岩製
総高202.0cm
鳳凰堂中堂の前に置かれた六角石灯龍で、火袋(ひぶくろ)部分は2石を立て、円筒形の竿と円形蓮華座
(れんげざ)の基台を持つが、これらは当初からの姿ではない。もとは基台の上に金銅の灯龍を載せたいわゆ
る置灯龍であったらしく、竿から上の部分は後に捕われたものである。かつて平等院型としてこの灯龍の写し
が造られた。今では鳳凰堂の中堂前になくてはならない一風景となっている。
≪鳳凰堂北翼廊・反橋・平橋≫
鳳凰堂に北から入堂する際に渡る二つの橋である。中に小島を挟んで平橋と反橋が架けられている。鳳凰堂
に北から渡る橋が二つあったことは寺に残る古図などにも記されており、このたびの庭園整備の中で復興され
て旧観を取り戻した。
≪鳳凰堂正面洲浜≫
平成2年(1990)から13年間かけて行なわれた史跡名勝「平等院庭園」整備事業による発掘調査によ
って、鳳凰堂のある中島や対岸の汀(みぎわ)から、平安時代浄土庭園の特徴である拳大の河原の玉石を敷き
詰めた洲浜が確認され、当初の姿に復元された。
≪鳳凰>
国宝平安時代銅鋳・鍛製鍍全身高(南)98.8cm(北)95.0cm
鳳凰堂の中堂の両隅の屋根の上には、中国で想像上の瑞鳥とされる金銅製の鳳凰一対が相対して置かれてい
る。くちばしと眼光は鋭く、両翼を左右に強く広げ、雄々しく胸を張った姿はいかにも猛々しい。頭・胴体・
翼・脚を別鋳とし銅板製の風切羽や尾羽を鋲留めとする。本尊阿弥陀如来坐像を制作した定朝が鳳凰の木型を
造ったとされる。
≪阿弥陀如来坐像・雲中供養菩薩像と天蓋≫ともに国宝
阿弥陀如来:像高278.8cm
cm
天蓋:円蓋径293.6cm
阿弥陀如来坐像
雲中供養菩薩:総高40.0~87.0cm
像高33.6~65.4
方蓋幅486.6cm
天喜元年(1053)に京都より運ばれた。いわゆる弥陀の定印(じょういん)を結び蓮
華座上に結跏趺坐(けっかふざ)する阿弥陀如来像で、顔の造りは限りなく円満そのものである。相好(そう
ごう)円満でゆったりとした体躯の阿弥陀如来像で、「非の打ち所がない」という言葉は、まさに平等院の阿
弥陀如来のためにある。漆箔(しっぱく)、檜材、寄木造で、わが国平安時代仏像の最高峰を示している。
阿弥陀如来坐像の背後には大光背が覆い、さらにその上には方蓋と円蓋とが荘厳(しょうごん)する。方蓋
は髹漆螺銅(きゅうしつらでん)、円蓋は宝相華文透彫りで装飾されている。四方の長押(なげし)の上には
雲中供養菩薩像52躯が楽器を奏でながら楽しそうに飛来している。
≪鳳凰堂中堂内部天井まわり組物≫国宝平安時代(天喜元年)木造彩色
周囲の柱の上部には二手先斗拱(にてさきときょう)で組入天井を支え、虹梁・長押(なげし)・垂木には
宝相華文の透彫り金具を取り付ける。外観は二層に見えるが、中堂の内部は一層で、桁行・梁間ともに3間の
方形堂である。堂内は柱による内外陣の区劃をつくらず、堂内中央よりの阿弥陀如来坐像が安置された欄干付
き須弥壇とほぼ同大の天蓋とによって独特な空間が生み出されている。
≪九品来迎図
上品中生図≫国宝
平安時代板絵著色
鳳凰堂の正面北よりの両開きの2面の扉に描かれた九品来迎図のうち
の上品中生図。文化年中(1804~18)に田中納言(とつげん)に
より写し取られた模写を見ると、喬木(きょうぼく)を配した近景と幾
重にも山並みが連なる遠景、その前後に浪立った水面が描かれる。右側
の扉板に遠景の山並みの問から観音・勢至菩薩を先達として、阿弥陀如
来と聖衆が手前の建物の中の臨終者のもとに来迎する様を描く。絵の上
方には、源兼行(?~1074?)の筆になる色紙に「観無量寿経」の
経文が書かれていた。この扉絵の原図は剥落が最も激しく、近世の参詣
者による落書に荒らされて図様は不分明である。
≪鳳翔館≫
平成13年(2001)3月1日に開館した宝物館で、平等院の象徴である鳳凰が未来に飛翔するように
「鳳翔館」と名付けられた。
-3-
鳳凰堂や阿弥陀如来といった稀有の文化財を奇跡的にも今日に守り伝えてきた平等院では、過去や現在はも
とより、未来にも責任を持とうする強い意志の表明である。設計は千葉大学教授栗生明氏によるもので、世界
遺産平等院鳳凰堂との調和を限りなく希求しているという。雲中供養菩薩像、梵鐘、金銅鳳凰などを常設展示
するとともに、年に数回の特別展示が行なわれる。jた、高精細で「国宝平等院」のすべてを紹介するデジタ
ルアーカイブやミュージアムショップも充実している。
③宇治橋
「日本最古」7世紀の建設
平安時代の史書「続日本紀」には同じ元興寺の道昭が666~79年頃に架けたの
が宇治橋の最初とある。しかし、橋東側の橋寺放生院に建つ石碑の断片「宇治橋断碑」
(寛政5年・1793 に文面を復刻復元、国の重要文化財)には大化の改新の翌年、64
6年、宇治川の急流に苦しむ民衆を肋けるため奈良・元興寺の僧、道登が橋を架けた
と書かれている。断碑の字は中国・六朝時代(3~6世紀)の書体。これが日本に伝
わった7世紀前半に書かれた可能性が高い。
この宇治橋が、何度も流され付け替えられている。「源氏物語宇治十帖」にも宇治橋
は登場する。2人の貴公子との三角関係に悩む姫君、浮舟は歌に詠んだ。「絶え間のみ
世にはあやうき宇治橋を朽ちせぬ物となお頼めとや(宇治橋のように途絶えがちで危
ういあなたを信じろとおっしゃるのですか)」洪水や戦乱で何度も失われ、頼りになら
ない橋という印象だったようだ。それでもその度、朝廷や幕府が橋を復旧した。江戸
幕府の老中、松平定信の自叙伝「宇下人言」には、橋の架け替えが危ぶまれたが、「古
くから歌にも詠まれ、由緒ある」のだからと、工事を進めた話が出てくる。
宇治橋よりも古いとされる橋はどうなったのか。「日本書紀」仁徳天皇14年(32
6年)の条に「冬十一月、猪甘の津に橋わたす」とある。現大阪市生野区の百済川(平
野川)に架けられ、文献に出てくる最古の橋だ。近世には「つるのはし」といい、地
名の鶴橋の元になったが今、残るのは石碑「つるのはし跡」だけ。山梨県大月市の猿
橋は600年頃に造り始めたというがこちらは伝説に過ぎない。橋そのものが現存し、史料が残るという条件
付きで「最古」の宇治橋だけのようだ。
④橋姫神社と橋姫伝説
橋が長く保たれるようにと、守り神の橋姫を祀ったのが橋姫神社。大きな古い橋には橋の下に、生け贄とし
て若い女性を埋めたという伝承もある。橋姫は、次第に守り神ではなくて、嫉妬深い女の神だという印象が定
着していく。有名なのが宇治橋の橋姫。浮気をした夫を恨んだ女が、丑三つ参りを続けて鬼になり、最後は陰
陽師の安倍晴明に退けられたというお話。この橋姫の呪いの姿が今も残っている。白装束の、髪の長い女が頭
に火のついたロウソクを付けて。橋姫伝説は中世あたりから文献に登場し、江戸時代以降、全国に広まる。橋
は現世と他界も結んでいる。だから鬼や妖怪が現れやすい場所でもあった。ただ、渡月橋(桂川)にも観月橋
(宇治川)にも、そのような伝説はない。宇治橋あたりの宇治川は流れが激しく、橋もすぐに流される。そこ
に人々が思いの激しさを表したのかもしれない。
⑤県神社
祭神は、大山祇命の第二女、天孫、天津彦彦火瓊々杵尊の御妃、木花開耶姫命又の名は神吾田。「あがた」
の名の通り、この地域の地主神といわれている。
有名な神事二つある。一つは、あがた祭り。6月5日から6日未明にかけて行なわれる「暗闇の奇祭」とし
て有名。県神社では五日の朝御饌の儀から神事が始まり、夕方の夕御饌の儀をへて祭のクライマックス、梵天
渡御へと盛り上がる。10時ごろ露店は終わり11時頃から梵天が法被装束に身を包んだ、地元の梵天講の若
者達に担がれて動き出す。本殿で灯りを消した真っ暗な中で神移しが行なわれ出発する。境内を練り歩き鳥居
をくぐって表に出た梵天は、旧大幣殿前でブン回しや差し上げなど勇壮に走り回る。再び境内に帰って還幸祭
を終えるのは夜中の1時ごろ。まさに暗闇の奇祭の名に相応しいものといえる。
もう一つは、大幣(たいへい)神事。あがた祭りの2日後に行なわれる神事。藤原氏が宇治の静謐を願って
斎行した道餐祭に始まる。大幣殿を出た大幣は幣差、神馬など多くのお供と共にあがた通りなどの町の角々で
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御祓いの儀式をしながら進み、帰着後大幣殿で3回転させて地面に叩きつけた大幣を、12人の幣差が県通り
を宇治橋まで引きずって走り、宇治橋の上から角々で祓われた疫病と共に川に流す。神馬の馬馳などと共に
「大幣さん」と町の人々から慕われる宇治の初夏の祭りといえる。
⑥宇治神社
由緒書には「 宇治橋の上流宇治川の右岸、この辺りは応神天皇の離宮(桐原日桁宮:きりはらひけたのみ
や)跡でもあり、皇子の菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)の宮居の跡と伝えられており、菟道稚
郎子命の死後にその神霊を祀ったのが、この神社の始まりです。
応神天皇が菟道稚郎子命を皇嗣と定められ、命の御兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと
後の仁徳天皇)を
太子の輔導にあてられた。これは、わが国の古代の慣例で、なるべく若い者に嗣がせた方が一代の活躍期間が
長く、国の繁栄を期待する可能性が強いとされていたからである。ところが、菟道稚郎子命は博士王仁(わ
に)から儒教の思想を受けておられ、長男相続説を守っておられたので、応神天皇崩御の310年に兄宮に皇
位に即かれるようにと勧められた。しかし、大鷦鷯尊は日本的な思想の方で、互いに皇位の譲り合いが続いた。
菟道稚郎子命は御父天皇崩御の後、312年に宮居を菟道に移され、皇位を早く定めて天下の煩いを除くため
に自害せられ、兄宮に譲られたである。」とある
本殿は国の重要文化財となっており、三間社流れ造り桧皮葺きの社殿で、鎌倉時代初期の建立。殿内中央に
は平安中期の菟道稚郎子命の木造神像がある。また、木造狛犬は、歴史資料館に委託されているが、鎌倉時代
前期の阿形、吽形の一対で、檜材の一木造、彫眼、内刳はない。矧ぎつけ、口の周辺に植毛痕がある。阿形は
上体を後方に反り、胴を立て気味の姿勢をとる。現存する木造狛犬最古の例という。
⑦宇治上神社
平等院対岸の山麓に宇治上神社は鎮座する。かつては宇治神社とあわせ離宮社と呼ばれていた。離宮柱の名
の由来は菟道稚郎子の離宮があったとする伝承に基づく。宇治川右岸部に現在鎮座する宇治上神社・宇治神社
が離宮柱に比定される。古くは『延喜式』に記載される式内社に想定され、離宮の名の由来は応神天皇の宇治
離宮に因むとされる。宇治神社は菟道稚郎子、宇治上神社は宇治稚郎子と応神・仁徳天皇を祭神とする。宇治
神社は本殿が鎌倉時代で重要文化財、祭神の菟道稚郎子の木造神像は平安時代で重要文化財に指定される。
『源氏物語』宇治十帖では八の宮が住まう山荘があったとされるところで、閑寂なその雰囲気を今にとどめて
いる。対して平等院のある宇治川左岸部は光源氏の息子夕霧の別荘であった。離宮社でも、平等院で重要なキ
ーマンであった忠実との関係性が史料上からうかがえる。史料での初見は長治元年(1104)で忠実が宇治
離宮に神馬を献じたとある。その後もしばしば、忠実はこの祭礼に関与した史料が散見される。12世紀前半
における、藤原摂関家との関係性がよみとれる。
宇治上神社の本殿は現在修復工事中だが、正面一間の流造の内殿三殿を並立させ、それを流造の覆屋で覆っ
た特殊な形式となっている。屋根は桧皮葺きで、建物正面は格子扉で仕切られている。建築装飾の蟇股の意匠
及び組物などの細部の特徴から平安後期の造営が想定されている。左殿が平安後期、ついで中殿、右殿と順に
建てられ、覆屋と拝殿は鎌倉時代に整備されたと考えられてきた。右殿(祭神仁徳天皇)と左殿(祭神菟道稚
郎子)の内側には童子像と随身像が描かれ、平安後期に想定されている。神道関係の壁画としては現存最古の
ものとして貴重な資料である。非公開。
拝殿は、切妻造の母屋の両妻に各一間の庇を付けた形式で、屋根はその部分が縋破風(すがるはふう)とな
っている。貴族の邸宅を彷彿とさせる住宅風の建築様式で、極めて貴重な資料である。屋根は桧皮葺きである。
本殿・拝殿ともに現存する神社建築では最古で、国宝に指定されている。
⑧源氏物語ミュージアム
ー源氏物語と宇治ー
「橋姫」で始まり「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」では、「京から宇治へ」「光源氏からその子・薫へ」と時
空が移ることを「橋」で暗示し、「華やかさと静けさ」「此岸(しがん)と彼岸」など宇治の持つ対照的な要素
も加えることで、物語が「春から秋」「昼から夜」の世界へと転じていくことを表しているという。
映像展示室では、ホリ・ヒロシ氏制作の人形を使った映画「浮舟」を観賞する。監督:篠田正浩、紫式部
(声):岩下志摩、浮舟(声):葉月梨緒菜と豪華メンバー。
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