『今昔物語集』天竺部の方法 ー震旦部との同 一 性に つ い てー

﹃今昔物語集﹂天竺部の方法
1震旦部との同一性についてi
田
尚
もちろん、これらのほかに、数話だけに出典として用いられてい
のである。
うした資料が介在しているものとみられる。また、出典研究の不十
るものもある。出典名を特定できないけれど、巻六の冒頭には、そ
分な巻十に関する調査がすすめば、将来、この種の出典がいくつか
﹃賢愚経﹄﹃大唐西域記﹄の四書で、他はい
﹁三宝感応要略録﹂
つ原話を採集した天竺部と、,限られた少数の文献を有効に活用すべ
経典類を中心に、広く諸書に目くばりをし、あれこれから少しず
・と﹃冥勲記﹄との比重が大きいのである。
いはずである。それほど、震旦部においては、
姿をあらわすかもしれない。ただ、その数は、けっしておおくはな
は、いちじるしく様相を異にしている。
﹃経律異相﹄
く駆便した震旦部と。両者は、それぞれのよってたつべき資料的な
条件を同じうしていたとはかぎらないかち、原話採集の方法までつ
﹁出典﹂として﹃今昔物語
るをえない。
い。しかしそれにしても、この落差は、いかにもおおきいといわざ
かかわっているにすぎない。この種の、
﹃墨壷記﹄
ねに同じでなければならないというわけにはいかないかもしれな
﹁三宝感応要略録﹄
震旦部にあっては、右三書はいたく尊重され、ときには、誤謬さ
第二は、﹁出典﹂の摂取の方法の違いである。
一震旦部との同一性について一
この芳書に﹃孝子伝﹄を加えた三枝で、あらかたまかなわれている
これに対して、一方の震旦部は、
十を越える。
集﹄にかかわりをもっているものが五話に満たない文献の数は、二
ずれも、一話から数年について、﹁出典﹂として﹃今昔物語集﹄と
苑密林﹂
種の文献にもとづいて構成されているという。これらのうち、十話
,以上にわたって﹁出典﹂としての位晶々たもちえているのは、﹃法
日本古典文学大系本﹃今昔物語集﹄によれば、天竺部は、三十余
いる。
たとえば第一に、原話採集の範囲、ないし対象が両者では違って
﹃今昔物語集﹄.の、天竺部と震旦部との﹁出典﹂をめぐる状況
宮
の両書を主軸どして構成されている。巻六、巻七、山九の三巻は、
﹃今昔物語集﹄天竺部の方法
(79)
1
えもそのまま継承されるほどに,、その記文は、かなりこまかいとこ
語集﹂編者のあずかり知らないところなのであって、じっさいには︵
のものにかぎられ、大部分は、単なる類話だとしておく方が無難だ
る﹃三宝感応要略録﹂や﹃翌旦記﹂などに相当するような資料が天
いささか想像をたくましうしすぎる気味はあるが、震旦部におけ
ないか。
両部の原話への対しかたに、いわれているほどの違いはないのでは
と考えられるほどに、細部の記述はおろか、はなしそのものの性格
に、導入に際しては、これも震旦部のばあいと同じように、原話に
竺部でも用いられており、それらから大量.に原話を導入するととも
ところが天竺部では、そうした﹁出典﹂の忠実な継承の例は一部
ろまで忠実に受けとめられている。
ある。私見によれば、震旦部のばあいとほぼ同程度の類似相を示す
たが、偶然とは考えにくいほど通じあっていることにもおうてい
これはひとつには、震旦興亡本朝仏法部との出典へのかかわりか
おもわれる。
忠実であることを原則としていたのではないか、とさえわたしには
をさえ変質させてしまう、おおはばな改変がほゼこされているので
ものは十余話、おおく見積っても、三十話程度をかぞえるにすぎな
さて、天竺部と震旦部とにおける原話採集のありかたと、その摂
い。
取の方法とにみられるこうしたへだたりのさし示すものは、いった
依存度が高い。しかも、出典への依存は素材の面のみにとどまって
すでに指摘されているように、震旦部も本朝仏法部も、出典への,
る。
この段差は、はだして、天竺部と震旦部とが資料上の条件の違い
いなになのであろうか。
を克服しながら、形式的にも統一された作品を構成しようとしたこ
文のかなりこまかいところにまで、そればおよんでいる。また、そ
いない。若午の主体的な改変層ともないながらではあるけれど、記
いまいうように、天竺部と震旦部とは、それぞれのよってたつべ
てもいる。
れらは、比較的かぎられた資料から、まとめて大量の原話を導入し
とのあらわれなのであろうか。
そうした
しかし、むろん、そのことだけから右の推測をするわけではな
るのは、あまりにも図式的で、素朴にすぎるであろうか。
こうした震旦部や本朝仏法部のありかたに、天竺部を重ねあわせ
き資料的な条件を同じうしていたとはかぎらないから、
い。
事情によるものがなにほどかふくまれている可能性は否定しきれな
けれども、結論的にいえば、こうした段差をもたらした最大の要
い。天竺部の各話の、﹁出典﹂とのかかわりあいを点検するとき、
因は、出典研究の側、それもことに天竺部の側にあるのであり、出
いわれている﹁出典﹂では説明のつけられない局面がしばしばみら
れ、未知の資料の介在を想定せざるをえないこと、そしてそのばあ
典でありえないものを﹁出典﹂だとしているところに求められるの
天竺部と震旦部との間にみられるく段差Vは、おそらく﹃今昔物
ではないか、とわたしにはおもわれる。
(80)
い、記文の断片的な部分についてではあるけれど、想定される未知
の説が、しりぞけられなければならないことはあきらかである。,一
﹃賢愚経﹂等を﹁出典﹂だとした日本古典文学大系本﹃今昔物語集↑
るといってよいであろう。少なくとも﹂この十五話に関するかぎり、
かぎられた少数の資料から、まとめて原話を導入しているかどう
の資料と﹃今昔物語集﹂とが重なりあうこと、などによっているづ
今昔物語集
例をあげよう。
諸ノ比丘ト共二梨
今昔、天竺二仏
与諸比丘。向毘舎
在世時。
又賢愚経云。昔仏
法苑罵声
かはさておき、右の二点、すなわち、天竺部の成立に未知の資料が
①如是我聞。一時仏
.賢愚経
が忠実であろうとしていたらしいこととは、いくつかの事例からう
関与している乙とと、そうした未知の資料をふくむ出典に、天竺部
②爾時世尊。与諸訳
在摩蝸国竹園之中。
かがうことができそうである。以下、﹃法苑珠林﹂にかかわりのあ.
.るばあいを例にとり、具体的に述べていきたい。
フ。
(81)
越河ノ側ヲ行キ給
N
離。到梨越河。
ノーテ
梨越河所。、
魚魚魚
丘。向毘舎離②到
。網人
蛮人。
其二・集
③是時河辺有五百牧
リ 。二
狩谷液斎が大勢をなしたという﹁今昔物語出典致﹂以来、﹁層層
魚者。作三種網。
④五百捕魚人。其捕
身有百頭。
見人捕魚網得一魚。
得捕ノ
タル河
珠林﹂・は、長い間、 ﹃今昔物語集﹂にも'つともおおくの原話を送り
こんだところの、中心的な出典だとされてきた。
百人挽。申者三百
大小不同。小者二
しかし、研究の詳密化がすすむにつれて、しだいに、﹃法苑珠林﹂
られる出典の状況と、それはあまりにもかけはなれていたからであ
出典説には疑義が表明さればじめた。震旦部や本朝仏法部などにみ
挽。丸儲如来。去
﹂人挽。三者五百人
古典的な﹃法苑珠林﹄出典説に、無批判には従いえないことがあ
多方比丘。亦皆共
河不遠。而坐止息。
る。
きらかとなるなかで、高橋俊夫氏縁類似度を再検討し、﹃今昔物語
愚人。
⑤網得一大魚。時捕
坐。
集﹄天竺部において、﹁法苑珠林﹄によっているとみなすべきもの
︵注1︶
を十五話にル様りてんだ。﹁法苑珠林﹄出典説の、おおはばな修正
たしかにふ高橋氏の指摘する十五話は、震旦部等の出典のばあい
がおこなわれたわけである。
一震旦部との同一性について一
と類似度がほぼ同じく、その意味で、出典たるの条件はそなえてい
﹁今昔物語集﹂天竺部の方法
・ヲヲ其
2
⑥五百 入 挽 。 不 能 使
出。
馳騒・牛馬・賭羊
ように違えている。
りち必要が生じた場面︵⑦︶で、はじめて登場させているといった
のに対して、﹁法苑珠林﹄では、怪魚が網にかかって彼らの力を借
﹃法句喩経﹂や﹃増一阿含経﹂を引
﹁法苑旱害﹂の原経の引用のしかたは、
・犬等ノ百畜生ノ
これは一般論であるが、
頭ヲ具セリ。
五百人シテ引クニ
百人有テ牛ヲ飼フ、
其ノ時.二河辺二五
るのみで、要約し、記文は見るかげもなく変えてしまっているばあ
となく、そのまま取りこんでいる例もある。反面、原注の意を体す
いた一部のもののばあいにみられるように、ほとんど手を加えるこ
かならずしも一定していない。
是時河辺有五百人。
有五百人馬不出水。
其ノ魚、水ヲ不出
而早暁牛。即借挽
.ズ。
有千人。歪力挽出。
⑦野卑 牧 牛 之 衆 。 合
﹃賢愚
いもある。これは経典によるあつかいの違いがあったことによるも.
﹁大智度論﹂
のではない、
﹃増一阿含経﹂
ク。然レバ千人、
各牛ヲ放テ此ヲ引
経﹂など、一方ではほとんどそのまま忠実に引用されているかとお
なっている。そして、その類話である﹃今昔物語集﹂二34は、
﹃法
経の一部を割愛し、記述の順序を変え、さらには記文の改変をおこ
さて、右の例においても、みてきたように、﹃法理珠林﹄は、原
ってよい。
文の改変などの手を加えて引用するという方法がとられているとい
ように心がけながらも、一部の記文の割愛、記述の順序の変更、記
苑珠林﹂では、原則として原経のおもかげをなるべくそこなわない
ども、﹃今昔物語集﹄にかかわりのあるものについてみるかぎり、﹃法
しかし、個々のはなしによって、そのあつかいに違いはあるけれ
同じ経典でも、
カヲ合セテ引クニ,、
もえば、他方では、おおはばに改変されていたりもする。
.得タリ。
魚、水ヲ出ル事ヲ
之。
見而空節。
得一大魚。
⑧身有 百 頭 。 若 干 種
類。 父 母 風 疹 虎 狼
猪狗 援 猴 狐 狸 。 如
斯之属。
これは、 ﹁今昔物語集﹄二34と、それに対応する﹃賢愚経﹂、お
よび﹃法理墾道﹂ の寒冒頭部である。
﹃法苑里林﹂は﹁賢愚経堂﹂としているのだけれど、一見してあ
苑珠林﹂の原経の改変のあとを、ほとんどそのまま継承しているの
きらかなように、それをそのまま引用してはいない。仏の当時の住
国︵①︶や漁人たちの状況︵④︶については、これを割愛している
である。
すなわち、漁人たちの状況に関する部分︵④︶を﹃法相里林﹂と
し、捕獲された怪魚︵⑧︶についても、筆を省いている。また、牧
牛人の提示のしかたも、﹃賢愚経﹄があらかじめ示している︵③︶
(82)
、
や、彼らが牛を放って網引きに参加したようすなども、﹁法苑珠林﹄・
同じように欠いているほかて牧牛人たちの登場のさせかた︵③・⑦︶
とはいえ、これとて、
ようか。。
本であった可能性を想定うる条件は、いちおう備わっているといえ
ヘ
へ
﹃法苑珠林﹂から抄出された
た事例は、天竺部に、出典に対して忠実であろうとした姿勢のあっ
であったのか間接的なものであったのか。いずれにしても、こうし
﹃今昔物語集﹂にあたえた﹃法苑珠林﹄の影響は、直接的なもの
苑珠林﹂とはまったく別な作品であってもよいのである。
ろの、'たとえば震旦部における﹃三宝感応要略録﹄のような、 ﹃法
必要はない。﹁法三珠林﹄からも、しかるべき部分を抄出したとこ
ヘ
部分を有するものであるならば、なにも﹃法苑即智﹄の抄本である
一定の条件とは、︿抄出Vである。
条件さえ満たしていれば、抄本でなくてもよい。
りとて、抄本でなければならないということにはならない。一定の
あり、それが資料として用いられているとは考えにくいけれど、さ
ものではない。﹃法苑珠林﹄の完本が﹃今昔物語集﹂編者の座右に
件をより備えているのは、完本よりも抄本だという意味以上に出る
ているとするならば、という仮定のもとで、それがなりたちうる条
﹃今昔物語集﹂が直接﹁法楽珠林﹂によっ
と重なりあっている。ただ、怪魚のさまは、右に示した範囲では
﹃法苑註記﹄の他の部分には
﹁黒蜜珠林﹄よりも﹁賢愚経﹂の方が﹁今昔物語集﹄に近いが、し
かしこれとて、
三聖牛馬猪羊犬等。衆獣之常常不備有。
とあり、これも﹁法言珠林﹄の改変のあとをうけていることが知ら
れるのである。
﹃法苑珠林﹂は、﹃賢愚経﹂にもとづいて一定の改変をした。そ
の改変のあとがそっくりうけつがれている以上、﹃今昔物語集﹂二
﹃法苑密林﹂百巻が﹃今昔物語集﹄編者の
ェ﹃法苑里林﹄の影響下にあるものであることは明白である。
このこ匙は、しかし、
しない。私見によれば、こうした現象のみとめられるのは、高橋
手もとにあって、素材源ともて活用されたことをかならずしも意味
氏の指摘する十五話の範囲にかぎられている。したがって、これは
﹃法苑珠林﹄が百巻であることをおもえば、
﹃法耳珠林﹄出典説をとなえる高橋氏の立場を、一面補強するもの
ではある。けれども、
十余話は、両者の直接関係をみとめるにはいかにも少なすぎよう。
たことを示しているにほかなるまい。
\
・,出典がなにであったにせよ、それに忠実であろうとした姿勢が天
へ
もし犀﹁昔物語集﹄が﹃法苑珠林﹂に直接しているとすれば、そ
ヘ
めうるであろう。
ヘ
竺部にあったことは、また例えば、つぎのような事例からもたbか
ヘ
れは完本にではなく、抄本に、とみるべきであろう。抄本であるな
二・︹諜観護無四悪傍
らば、﹃法苑珠林﹄の影響下にあるものが十余話しかないことにも
説明がつく。
-震旦部との同一性について一
﹃法苑珠林﹄の側にも、﹁今昔物語集﹂に原話を送りてんだのが抄
﹁法苑珠林﹄に抄本が種々あったことは、すでに知られている。
﹃今昔物語集﹄天竺部の方法
(83)
34
言︹蟻溝一
﹂撫灘叢誌リト到
のの盗賊におそわれて無一物になってしまい、そのうえ、妻子春族
も去っていったため、貧窮の極におちいり、乞食をするのやむなき
、
にいたったという。そのあたりを原文で示すと、つぎのとおりであ
財物、盗賊ノ為二被奪レヌ。庫蔵空ク成り、春族散リ失セ、妻子
る。
奔テ・去ヌ。親族昏絶ヌ、昔シ睨シ人モ今白詩ノ如シ。慧ム所皆
失テ寄り栖瓦方元シ。衣裳乏クシテ曲節。然レバ巷二行テ食ヲ乞
テ世ヲ過ス。
これらはいずれも、﹁法苑珠林﹂の強い影響下にあるとみられる
日本古典文学大系本﹁今昔物語集﹂によれば、この.ニー2も﹃法苑
珠林﹂を﹁出典﹂とするものだとされている。けっして行文が一致
はなしのなかに求められる、﹃法苑三三﹄と﹃今昔物語集﹄とで相違
集﹄独自の判断による補足、あるいは改変と考えられそうである。
いかどうかはおおいに疑問なのであるが、それはともかく、大筋は
しているわけではなく、したがって、﹁廃苑珠林﹂を出典としてよ
亀
(84)
する部分である。極書のみをつきあわせるかぎりでは、﹁今昔物語
て﹃今昔物語集﹂の恣意的な改変でないことが知られるのである。
一
おおはばに割愛している。当該部分に関していえば、④と③とのあ
﹃法苑宝林﹄は、再話においても、原経である﹃壷鐙因縁経﹄を
屍鬼。
父島余財一旦喪失食庫空虚畜産送馬。当子爾時採光春画。白豆厭
④一l
i⑧一⋮1⋮一i=
賎捨勝心去。血筋逃口親里断絶。親署正反如怨離。貧窮之人勝起
,ぎのとおりである。
部に相当する部分はみあたらない。﹃法苑珠林﹂の当該部分は、つ
ところが、,﹁法苑珠林﹂には、右に示した部分の、ことにi線
ほぼ重なりあっている。
が、﹃温田珠林﹄の蓄蔵をもってくることによって、それがけっし
出典に忠実であろうとするあまりに、﹃今昔物語集﹂の天竺部で
は、はなしの主題とはややかけはなれた、いわば枝葉の部分にま
で目くばりをし、原茸にさかのぼって記文をおぎなったのであろう
﹃法苑珠林﹂ない
か。右の例は、そうした事情を示唆しているのであろうか。
おそ叙く、そうではあるまい。つぎの例は、
し、それに準ずる資料をベースにして、その原経の記文を補幽した
とする解釈のなりたちにくいことを、端的に示している。
は、そのなかに、
﹁今昔物語集﹂ニー2の1線部分に相当する記文
が求められるのである。いささか長文にわたるが、﹁法苑温言﹂の
いだに、およそ一千字におよぶ割愛部分がある。そして、もんだい
ことのできるゆえをもって、灯指と名づけられた人物のはなしであ
ニー2﹁王舎城灯指比丘語﹂は、指から光を発して十里を照らす
る。母指は、異能を歓喜した王から﹁多ノ財﹂をあたえられたも
」
3
如雑毒食。無有三者。如空塚間。無人趣向。如悪厩溺。
男依投者。如苗被年鑑。掲棄民収。如毒蛇室。人皆遠離。
詐自端確。若復歓逸。言其品等。状以狂人。若復憂惨。
小自覚放。言其愚凝。無昏乱忌。若自摂検。言其陸島。
意承望。罵言寒賎。若不屈意。言是酔人猶故自我。若
若順番所説。復言詐取他意。引引随順。復言自前若雪
旧詔曲。無数親附。復読幻惑。若不親附。復言開誕。
無言。人斎蔵情。若正直説。復云掛獲。若求人意。復
復旧詐偽。替旧強有所知。若広言説。人里多重。禽獣
若不温田。復唱誹諸。言此論人。常無好語。堅塁教授。
復嫌軽躁。若無論緩。陰言重直。音響讃歎。人謂詔誉。
旧説露語。離断為非。若造善業。他以為鄙。所為機捷。㌻
我亦如是。転向之処。動作識嫌コ所可談説。発言生壁。、
臭薇盈集。如魁瞼者。人所悪賎。如常客賎。人所猜疑。
割愛しだ部分と、そのなかに求められる﹁今昔物語集﹂ニー2との重
旧知貧窮。比興地獄。貧窮筍生。.追酒無別。先慣虚語。
見其貧窮。,恐従乞索。逆生面怒。墨黒捨棄。況於余人。
塵逃失・親里断絶・素避雷臥馨、嵐懇讐
複部分とを示すと、つぎのとおりである。
ノ
卒罹窮困。失所依慧。栖寄無蓋。憂心火熾。遷幸憔燃。
華色既衰。尊容転彰。身体起藏。飢渇消削。眼目押陥。
諸節骨立。薄皮纒繰。筋脈露量。頭髪蓬乱。手足鋭細。
其色鳥白。挙体量裂。又無衣裳。至糞機中。拾綴鹿弊。
連三相著。縮蔵人根。赤露四体。遣瀬昏乱。復無闇薦。
諸親旧等。見返不識ゐ歴巷乞食。濡者言置。至知友辺。
三従乞食。守門之人。遮而不聴。伺便平入。復選排辱。
舎主既出。遣戸鞭打ゆ悪尉曲躬。再拝謝罪。直門軽蔑。
三二意趣以懸代品耐著之甚。若復黙然。復言頑口曳。
言其道毒。南無歓心。若聞点語。有所不尽。為其判釈。
都不慮顧。設得入舎。軽賎之故。既不与語。又引敷座。
与少飲食。立時孟器。不使充飽。時彼国内。取引生子剃
得不廉恥。若無所索。言今錐量販野望大得。若干引経書。
不識道理。若子戯論。言不信罪福。若有所索。言其筍‘
三法皆三会。往到掌中悪馬残食。以軽賎故。不喚令坐。
駆其走使。青旗所須。適適余残。与奴重器。便自思惟。
三二詐作聰明。若言語撲素。復嫌疎鈍。若公論事実。
怪哉怪哉。薫習云何。貧賎伶傍。忽至如此。私自念言。
如我今日。精.神昏迷。愚智失識。不知今者。為講本形。
借厳飾。若齢弊衣当言檸劣寒埣。若湯飲食。寿言飢
復旧虚説ρ謄躍屏正論。陰言議俵。若盛新衣。他言仮
餓讐餐。雲霞飲食。言腹豊実飢詐作清廉。若男経論。
更受 身 耶 。 辛 苦 茶 毒 。 控 所 無 偶 。 讐 如 林 樹 無 花 衆 蜂 遠
慶鹿三盛。田頭刈尽無人摺拾。今日貧困。説往富楽。
可使放牛。若自活昔事業。言誇業自由。若活語黙。言門
言顕爵所知。彰我闇短。若鷺説経論。言愚擬無識。
離。 被 桜 之 草 葉 自 製 捲 。 枯 澗 之 池 鴻 薦 不 平 。 被 焼 三 蔵
但謂虚蝉。誰肯信之。世人訳者。無知我者。二面貧窮。
-震旦部との同一性について一
所口無路。近信暖野為火蓋焚。人不喜楽。如枯樹無駄。
﹃今昔物語集﹂天竺部の方法
(85)
⑧
くことからはじまる。それをおぎなヶために、第二、第三の資料の
て多大な時間や労力を必要とする。その作業量に見合う内容につい
資浅薄。諸貧窮者。行来進止言説傭仰。尽是食過。
il
検索がなされ、墨入すべき部分が決定される。検索には、ときとし
I
富貴之人。作諸非法都無過様。挙措云為。斯皆得所。
鬼。
てならともかく、さして重要でもないことがらについてまで、たと
貧窮網入。如起
﹃法連珠林﹄が﹃灯指因縁経﹂の右の部分を割愛したのは、それ
じっさいもんだいとして、ありうるであろうか。なによりも、幽﹁又
え原尊名が明示してあったとしても、遡行したなどということが、
ののように、わたしにはおもわれる。﹁法妙境林﹄とは多少違った
これらはむしろ、原経の復活ではなく、残存現象だと解すべきも
類の記文であるのかどうか疑わしい。
たとえ第一資料に欠けていたとしても、不備、不足と感じさせる種
無衣裳﹂や﹁歴巷乞食﹂、あるいは前節で例示したような記文は、
が物語の展開に必要ないと判断したからであろう。﹃法苑鼠舞﹂に
﹃灯指因縁尽﹄を取りこむにあたり、数
は、規模はこれほどおおきくはないけれど、この種の割愛の例はし冒
﹃法玉珠林﹂は、
ばしばみられる。
さて、
か所にわたって比較的まとまった割愛をおこない。およそ半分の分
しているのならもんだいはない。ここでも、﹃今昔物語集﹂は﹃法
へ
(86)
量に縮小した。その割愛部分が、﹃今昔物語集﹂でもそっくり欠落
ヘ
に際しての消し残りが、﹃今昔物語集﹂にまで尾を引いているのだ
立場で﹃灯篭因縁経﹄を取りこんだ文献があり、その文献の簡略化
ヘ
苑珠林﹂の影響下にあるということになるであろう。だが、﹁今昔
と解する方が、復活させ、斑入されたのだと解するよりもしぜんな
ようにおもわれるのである。
ヘ
ている。それも、一千字におよぶ割愛部分のなかに点在する二句だ
物語集﹂は﹃法苑珠林﹂からはみ出し、それの割愛した部分を備え
けど重なりあっているのである。
衣裳元クシテ裸也。然レバ巷二行テ食ヲ乞テ世ヲ過ス。
それがなにであるかを具体的にいうことはできないけれど、未知
いるかとみられる例を、いまひとつあげておきたい。二6﹁老母、
の資料が介在しており、そしてそれに﹃今昔物語集﹂がしたがって
﹃法苑珠林﹂にもとづいた﹃今昔物語集﹂が、恣意的
に椙回する部分、すなわち﹁又無衣裳﹂﹁歴巷乞食﹂が原経に求め
に添加したものだとは考えられない。これらの記文には、しかるべ
て、腐った米汁を迦葉尊者に施したことにより、やがて耳利天に生
糞聚の中に病み臥していた老母が、自分にできる唯一の功徳とし
依聖賢教化生天報恩語﹂のばあいである。
まれることができたと.いうこのはなし毛、日本古典文学大系本﹃今
﹁又無衣裳﹂﹁歴巷乞
たしてありうるであろうか。補入は、第一資料の不備、不足に気づ
食﹂が﹃灯指因縁経﹂から墨入されたものだなどということが、は
ない。けれども、じっさいもんだいとして、
その文献が﹃灯指因縁経﹂ではなかったとはい、いきれるわけでは
き文献的な裏づけがあったに違いない。
られる以上、
4
昔物語集﹂によれば、
三仏者。悉可青果満願。爾時母人厭於世苦。聞天堂二審為快楽。
此女従伺来
威徳難可当
一時倶出現
大光明照曜
﹃法苑珠林﹂にもとづいたものだとされてい.
高言七大日
得来昇軒天
②釈提恒因。即偶言
震動吾宮殿
る。
苑珠林﹄巻五六所収の類話に、全体として一は近いといえるだろう。
本修何福徳
たしかに二6は、行文が一致しているというわけではないが、﹃法
珠林﹄の方が数段﹁今昔物語集﹂に近い。
少なくとも、三三である﹃仏説摩当盤葉度貧母経﹂よりは、﹃法苑
只言天女。答帝釈偶言
古凹田充備
糞窟不浄中
﹃法三珠林﹄だけでは説明のつけ
本在閻浮提
けれども﹃今昔物語集﹂には、
られないつぎのような記文がみられる。
釈迦文仏尊
瀟老兼疾病
名二歳迦葉
三千大千土
説法帰心歓
・ヤ願フ。仏身ヲや願フ、菩薩ヲや願フト。
次有大弟子
①転輪聖王ノ身ヲや願フ、帝釈ヲや願フ。四天王ヲや願フ、人身ヲ
哀話従母乞
願欲生天上
施少獲業因
③其ノ時二仏、阿三二告テ宣バク、﹁此ノ老母ノ施スル所、微妙也
貢其臭気汁
②其因縁ヲ問給フ。女、天ζ二生ズル故二、具二士ス。
一心供福地
来生汽艇天
ヂ常二諸7人ヲ勧メテ布施ヲ可令行シ﹂ト説給ヒケリ。
右心糞窟中
ト云ヘドモ、・心ヲ至セルニ依テ得ル所ノ福、甚ダ多シ。然レバ汝
﹃法三珠林﹂が原経を引用するに際して、手を加えていることは
其苦厄興至心故。致無量福。福応之報。黒影桓因天上自恣。而捨
諸豪尊来下立福。獲屈指量。是以如来説檀第一。閻浮提人爵擬可
③仏告阿難。 此貧母人。 一切世間無能及者。 恵錐微少福報甚多。以
衿。其如簾比有少少耳。汝当広宣如来真言。、仏説是時。天竜鬼
のは記文の割愛で、この例は、規模の大小をとりまぜると群を抜い
ている。二6においても、右の①∼③に相当する部分が﹃霊苑珠
神。四輩弟子比丘僧。興説大福而至言襯。願及衆生。随其志願。
さきにふれたとおりである。種々の加工のうちで、もっとも顕著な
﹃仏説摩詞泉郷度貧母経﹂を採用するに際
﹁今昔物語集﹄は備えているのである。
文を、そっくりそのままの表現でというわけにはいかないけれど、
要するに、﹃法苑珠林﹄が割愛した﹃仏説摩詞迦葉度堂島経﹄の記
皆得果報。仏説経己。一切衆会莫不欣楽。稽首墨黒。
林﹂にみられないのは、
﹁﹁仏説摩詞譲葉度貧母経﹂には、これらに相当する部分は、つぎ
して割愛したからにほかならない。
のようなかたちで記されている。
一震旦部との同一性について一
含。阿那含。.阿羅漢。辟支仏。若復欲得阿褥多羅三貌三菩提阿惟
①世間豪富。転輪聖王。及四天王釈梵諸天。若復欲得須陀酒。斯陀
﹃今昔物語集﹂天竺部の方法
( 87 )“
つねに﹃今昔物語集﹂研究の先導的な役割りをはたしてきた。今日
の﹃今昔物語集﹄研究で、直接にも間接にも、これら一連の研究の
恩恵に浴していないものは、おそらくないといってよいであろう。
,日本古典文学大系本.﹁今昔物語集﹄のいうように、 ﹃法苑廿日﹄
これを、いったいどのように解釈すればよいのであろうか。
のみによっているのであるならば、このような現象が生ずるはずは
語集﹄・の成立に関与した資料のすべてが現存しているという保証が
能性についての配慮の欠落という、重大な欠陥があった。﹃今昔物
ただ、これら一連の出典研究には、未知の資料の介在していた可
その研究史上の功績には、はかり知れないものがある。
﹃仏説摩詞華湿度親思経﹂ないし、それに準ずる資料をあわせ参照
ない。さしあたり考えられるのは、﹃法身珠江﹄をベースとして、
しかし、このばあいv﹁仏説名詞迦適度聖母経﹄から補入したと,
したばあいであろう。
かるべきであった。行文のほとんど重なりあわないものにまで﹁出
ない以上、未知の資料の介在の可能性については、配慮があってし
てさえ、それはなされるべきであった。
典﹂の座があだえられているのは論外として、一、致するものに対し
みなすべき個所ほどに、他の部分、すなわち、﹃四韻珠林﹂にもと
ていないことがもんだいとなる。﹃法黒々林﹂が﹃仏説摩詞迦葉度
(88)
づいているとみるべき部分の行文が、﹃今昔物語集﹄と重なりあっ
貧母経﹄よりも﹃今昔物語集﹄に近いのは、あくまでも比較のうえ
らあきらかである。
ち﹁仏説九色鹿経﹂の記文が、﹃今昔物語集﹄に求められることか
によるものでないことは、ごれまた、それが割愛した原経、すなわ
は﹃法苑珠林﹂によるものだとされている。しかし、﹃法苑珠林﹄
助人語﹂のばあい。日本古典文学大系本﹃今昔物語集﹂では、これ
いまひとつ、例をあげておこう。五18﹁身色九色鹿、住山出河辺
せるものでもある。
文まで取りこんだ﹃今昔物語集﹂の、出典への忠誠ぶりをうかがわ
引きはがし、未知の資料の介在を推定させると同時に、そうした記
﹃今昔物語集﹂がそれに忠実であったろうこと
は、一方において、
ところで、未知の資料の介在を推定せざるをえないような局面
されるほどに近似しているわけではない。したがって、右の﹁補
乞食﹂は、従来﹁出典﹂だとされていたものから﹃今昔物語集﹄を
をうかがわせる。さきの例でいえば、ニー2の﹁足無衣裳﹂や﹁歴巷
のことなのであって、もともと両者の本文は、直接関係をうんぬん
になるのであって、﹃法苑珠林﹂を主軸としてとらえようとするこ
入﹂部分は、そうしたなかに、さらに異分子がまぎれこんだかたち
とに、そもそも無理がある、というべきであろう。
いささか短絡的ではあるが、けっきょくのところ、ここでも、﹃法
苑珠林﹂でも﹃仏説摩詞迦葉度貧母経﹄でもない、第三の資料が
﹃今昔物語集﹂に直接しているのだと解さざるをえないように、わ
たしにはおもわれるのである。
本古典文学大系本﹃今昔物語集﹂へと展開されてきた出典研究は、
﹁今昔物語出典致﹄から﹃書証今昔物語集﹂へ、そしてさらに日
5
ル講
鰍麺ポ毒忌
レ礁辮識語ヘヨ
であるから、ここでも、﹃法三珠林﹂よりは﹁仏説九色黒磯﹂の方
く、一方、割愛した個所には、原経と通じあう記文が求められるの
が﹃今昔物語集﹂に近いということになるであろう。少なくとも、
﹁今昔物語集﹂五18は、
﹃法苑造林﹂よりも﹃仏説九色鹿経﹂に
﹁法苑珠林﹂にこだわらなければならない理由はみあたちない。
唱近い。とはいえ、、﹃仏説九色鹿茸﹂を出典するものだともいいきれ
ない。それはたとえば、右の例でいえば、㈲に一線をほどこした
部分のように、そこからはみ出した記文がみられ、しかも、.﹁今昔
物語集﹂と同趣の記文が﹁宇治拾遺物語﹂にも求められるからであ
る。
て、すでに殺さんとし給。今は逃べきかたなし。いかがすべきと
く
鳥告て云、国の大王、おほくの狩人を具して、この山をとりまき
鳥、二二告テ云ク、国ノ大王、鹿ノ色ヲ用シ給フニ依テ、
﹃宇治拾遺物語﹄・は、㈲の部分では﹃今昔物語集﹄にきわめて近
いうて、泣くくさりぬ。
い。けれども、つねにこのような高い類似度を示しているわけでは■
ない。じじつ、ωに相当する記文は、
-震旦部との同一性について一
﹁宇治拾遺物語﹄にはみられ
一線部は、,﹃法苑珠林﹂に相当する記文がなく、したがって、
﹁今昔物語集﹂天竺部の方法
﹁仏説九色鹿経﹂や﹁宇治拾遺
﹁宇治拾遺的資料をベースとはしつつ、珠林本意の原拠たる九色鹿
︵注2︶
経をまま参照・摂取して、.一話に纒め上げたもの﹂と判断した。
れているわけである。そこで、このもんだいをとりあげた高橋氏は
物語﹂に通じる記文と、逆にそれぞれからはみ、出す記文とで構成さ
つまり﹁今昔物語集﹂五18は、
かかわる違いもみられる。
の夢を見た後の后の健康、あるいは、男の処刑の有無など、内容に
ない。そのほか、冒頭部での、男が水におぼれたとき分状況や馬鹿
だということになりそうにみえる。けれども、﹃法苑珠林﹂が割愛
﹁今昔物語集﹄が﹃法苑珠林﹂のみによっていても、ありうる記文
にあり、その一方を﹁法馬珠林﹂は割愛している。したがって、
質のものとは考えにくい。㈲は、ほぼ同趣の記述が原経では二か所
記文は、あえて原経にさかのぼってまで補導しなければならない性
ら混入したものだとしなければならない。しかし、ω・②のような
﹁今昔物語集﹂が﹃法耳珠林﹂によっているとするならば、心経か
ビ去ヌ。鹿驚テ見ルニ
ゲ給フト云トモ、命ヲ存シ可給キ阿比ズト告テ、鳴テ飛
多ノ軍ヲ引具シテ此ノ谷ヲ立チ囲マシメ給ヘリ。今戸
今・鳥、木ヨリ下テ寄テ、鹿ノ耳を喰テ引ク時二考査キヌ。層
珠・鳥下啄耳。鹿方驚覚四向顧望
喫驚起四顧望
経・鳥便下関居其頭上啄其上。知識書起。王兵要図数重。鹿
島p
しなかった個所には、それに相当する記文が,﹁今昔物語集﹂にな
(89)
ω〔
ω〔
(3)
/
〆
しかし、氏自身も﹁このような手の込んだ取材操作を行なってい
るのは、私の見るところ他にあまり例のない特異なものとなってい
﹁宇治拾遺物語﹂的な資料をベースに
在を想定することがもっとも無理のない解釈であろうというにすぎ
ず、いまひとつ、きめ手に欠けていることは否定できない。.
けれども、一歩ゆずって、かりにこれらが既知の資料を複合した
ものであったとしても、﹃今昔物語集﹄天竺部が資料に忠実であっ
る﹂と指糾しているように、
して、 ﹃仏説九色鹿経﹂を補畏したものとみることには、いささか
注-・今昔物語集天竺部出典の再検討一
纂されていたもののようである。
天竺部もまた、震旦部の方法と、基本的には同じ方法によって編
たろうという推定は、依然として残る。
い、すなわち、﹃仏説九色鹿骨﹄をベースとして、﹃宇治拾遺物語﹂
無理があるようにおもわれる。可能性としては、むしろ逆のばあ
的な資料で一部の記文をおぎなったばあいの方がありそうにおもわ
ていたとしても、補入されたとみなければならない記文は残るわけ
れるけれど、むろん、それとて無理であろう。いずれをベースにし
︵国学院大学大学院紀要・第5輯︶
(90)
その二、法苑珠林一
注2・同県
、
であるが、それらには、あえて、他をもって補なわなければならな
けっきょくのところ、ここでも、﹃今昔物語集﹂の背後にあるの
い必然性があったとは考えにくいからである。
は、 ﹃仏説九色鹿経﹂と﹁宇治三三物語﹂当該話とに通じる記文を
さまりがよいように、わたしにはおもわれる。
あわせもったところの、中間的な資料だと考えるのが、もっともお
︵二6︶、﹁身色九色鹿住山出河辺
︵五18︶は、以上のようなしだいで、いずれも第三の資料
る資料によって判断すれば、という条件のもとで、未知の資料の介
の資料である。しかも、以上の推論は、あくまでも、現在知りう
もっとも、その第三の資料は、現在確認することのできない未知
によったと解するのが相当なように、わたしにはおもわれる。
助人語﹂
﹁老母、依三葉教化生天報恩語﹂
右にとりあげた三話、すなわち、﹁王舎城灯指比丘語﹂︵ニー2︶、
6