第54回中学生作文コンクール 優秀賞 熊本県 熊本大学教育学部附属中学校 私の誕生と両親の決意 二学年 吉田 博貴 私 の 両 親 は 、友 人 の 両 親 よ り 年 を取っている。私が幼い頃には感じなかったが 、 近頃少し気になるようになった。母に 「僕を何歳の時に産んだの?」 と、質問してみた。 「 三 十 七 歳 で 産 ん だ の よ 。 初 産 だ っ た け れ ど す ご く 楽 で 助 か っ た わ 。」 と、明るく答えてくれた。しかし、その後、 「 あ な た も 大 き く な っ た か ら 、 話 し て お き た い こ と が あ る の よ 。」 と言われ、少し不安になった。 私を産むのに、長い間不妊治療をしたこと。そして、双子のきょうだいが い た が、 三 カ 月 目 く ら い に 消 え て し ま っ た こ と だ っ た。 私 は、 と て も 驚 い た。 ずっと〝一人っ子〟だと思っていたからだ。もし、きょうだいがいてくれたら と考えたら、複雑な気持ちになった。母は、とても悲しみ落ち込んだが、 「 お 母 さ ん に な る ん だ 。」 と、奮い立ったのだと話してくれた。私を産むために、こんな大変な経験を し てくれたことを知り、母の強さを感じた。 私 は 、中 学 生 に な り 、将 来 の 夢 が 変 わ っ た 。 医 師 に な り た い と 両 親 に 話 し た 。 「 な り た い も の に な る た め に は 、 今 の 努 力 が 大 切 だ よ 。」 と、父に言われた。そして、 「 こ れ を 見 な さ い 。」 と、差し出されたのは、ライフプランシートと書かれたものだった。私の誕生 か ら 始 ま り、 小 学 校 入 学、 卒 業 な ど の 節 目 が 書 か れ、 そ れ に 父 母 の 年 齢 が 入 っ て いた。 「 こ れ を 作 っ た 時 は ね 、 親 に な る 覚 悟 を し 、 家 族 の 未 来 を 考 え た ん だ よ 。」 と、嬉しそうに話してくれた。産まれてすぐの時に、将来のことまで考えて い て く れ る こ と に 、 感 激 し た 。 よ く 見 る と 、 父 母 の 欄 に は 、〝 死 亡 保 険 金 〟 と 書かれていて、驚いた。私の誕生を喜ぶのと同時に、自分たちの死を予想した ものだったからだ。 「 守 る べ き 家 族 が 増 え た か ら こ そ 、 万 が 一 に 備 え る 必 要 が あ る ん だ よ 。」 と、父が言い、さらに母が 「 私 た ち は、 年 を 取 っ て い る か ら、 あ な た の 成 長 と と も に、 自 分 た ち の 老 後 も (公財) 生命保険文化センター 第54回中学生作文コンクール 考 え な く て は い け な い の よ 。 あ な た に 迷 惑 を か け ら れ な い か ら ね 。」 と話し、目を細めている。 「産まれた時は、健康でさえいてくれたらと思ったけれど、医師になる夢を語って く れ る よ う に な り 、頼 も し く な っ た ね 。お 母 さ ん た ち も 元 気 で 頑 張 ら な く ち ゃ 。」 そう言った母を小さく感じてしまった。もうずい分前に母の身長を超え、力も 強くなった。私は、自分の力で未来の予想図に一つずつ目標を刻んでいかなく てはいけない。両親の期待と、産まれてこられなかったきょうだいの分も背負 い頑張りたいと思った。両親の願いは、私の健やかな成長と目標達成だ。私も 家 族 み ん な が 、〝 万 が 一 〟 の 備 え を 使 う こ と な く 、 健 康 で 過 ご す こ と が で き る ように願った。そして〝今の努力〟を惜しまないことを固く誓った。 (公財) 生命保険文化センター
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