こちら - 手束心理言語臨床研究所

呼び声と応答
Ⅰ
対象関係論の彼方
現存在と他者
現 存 在 は 方 向づ け ら れ てい る
現存 在と 他者
Ⅱ
目次
呼び声 と応 答
Ⅰ
一
手 束 邦 洋
"Sein
ハイデガーに現存在という用語がある。現存在は自らが存在であり、自己の存在を問うことを通して、存
在一般の意味について問うことができる唯一の存在者であるとされる。ハイデガーが『存在と時間』(
一
und Zeit"1927)を書くにあたって、現存在分析論から始めたように、人間は自己の存在を問うことを通し
1
呼び声と応答
て存在の意味を問うことができる。「現存在」のドイツ語原語は
で da
は話し手から少し離れた場所
dasein
「そこ」を指すこともあれば、話し手がいる場所「ここ」を指すこともある。
「その時」という時間的意味で
使うこともある。現存在とは「そこ」にある(いる)ということなのだろうか。それとも「ここ」にある(い
る)ということなのだろうか。あるいは「そこ」にあるということと「ここ」にあるということは同じ事態
の二つの異なった表現なのであろうか。
について
という語のこのような対照的な意味から問い直
dasein
da
すことによって、何か新しい視野が開けてくるかもしれない。ハイデガーは、
「言葉は存在の家である 二」と
言った。 da
という言葉には、どのような存在が住んでいるのであろうか。
ドイツ語の日常会話で、 ”Bist du da?” (“bist”
は ”sein”
の二人称単数形 と
) いう問いかけの文は「きみはそ
こにいるのか?」という意味である。暗がりで相手の所在を確かめる問いだと理解すれば良い。この場合、
は日本語で言うと「そこ」にあたる。
はこのように、話し手から少し離れた場所、相手がいる場所を
da
da
指している。この問いかけの言葉に対し、聞き手が、 ”Ja, ich bin da.”
( ”bin”
は ”sein”
の一人称単数形)と応
えれば「うん、僕はここにいるよ」という意味になる。この場合
は日本語で「ここ」にあたり、自分が
da
が他人の存在を想定している場合には da
は「そこ」という意味になり、
sein
いる場所を指している。存在
存在 sein
が自己の存在の場合には「ここ」という意味になる。 Dasein
は、自己と他者が話し手と聞き手の
関係にある時に、「そこ」にいるという意味では聞き手の存在を、「ここ」にいるという意味では話し手の存
在を示すことになる。
「ここ/そこ」にある話し手と聞き手の対話的構造において存在を問う、現存在とはそ
うした存在のあり方だということが連想される。
ハイデガーは「存在の語りかけを聴く」という表現をしばしばするが、「存在」とはさしあたり対話にお
ける自己と他者の存在だという理解が可能ではないだろうか。
2
呼び声と応答
言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思索する者たちと詩作す
る者たちが、この住まいの番人たちである。これらの者たちは、存在の開示性を、自分たちの発語によ
って、言葉へともたらし、言葉のうちで保存するわけであるから、そのかぎりにおいて、彼らの見張り
は、存在の開示性を実らせ達成することである。(中略)思索は、みずからを放棄して存在によって語
渡邊二郎訳『 ヒ「ューマニズム に
」ついて』
二
)
りかけられ要求されるままの状態にして、まさにその存在の真理を発語しようとするのである。
ハ(イデガー
ハイデガーは、現実の話し手と聞き手の間の対話を想定しているのではなく、あくまで存在の人間(現存
在)への語りかけについて語り、
「存在の住まいの番人」として思索する者、詩作する者をあげ、彼らが自己
を放棄して存在の語りかけに聴き従い存在の真理を発語しようとすると述べる。こうしたハイデガーの言は、
「存在」という語を「他者」に置き換えるだけで、「他者の声に聴き従い」「他者の真理を発語する」という
ように、対話における他者の存在を語るものとしてよく理解できるものとなる。思索者、詩人に加えて、対
話的心理療法家をあげてもよいであろう。
「存在の語りかけ」「存在の真理」とはどのようなことを言っているのか、ハイデガーが思索したのとは
少々異なった角度から、具体的な対話の状況の中での現存在の在り方についての考察をさらに続ける。
「そこ」とはどこなのか。話し手が「きみはそこにいるのか?」と問いかける時、聞き手は、話し手から
聞き手の方へと広がる話し手の自己身体近傍空間を塞ぐ境界にいる。話し手からすれば、聞き手の存在によ
って自己身体近傍空間が塞がれている、
「そこ」に「あなた/きみ」がいる。
「そこ」とは、
「私」が問いかけ
3
呼び声と応答
る相手である他者がいる場所である。
「ここ」とはどこなのか。「きみ」が「うん、僕はここにいるよ」と応える時、「きみ」は「私」からの問
いかけを受けて、自己の身体近傍空間が、
「私」の存在によって限界づけられ塞がれている境界の「きみ」側、
自己側に向かって「ここ」と言っている。自分が存在する「ここ」を指して「うん、僕はここにいるよ」と
答えている。他者の問いかけを聞き、答を返す自己の場所が「ここ」である。
「ここ」から「そこ」に向かって、自己から他者へと向かう存在の方向性がある。「私」はその方向の先
にいる「きみ」の存在へと向かい、「きみはそこにいるのか?」と問いかけているのである。そして「きみ」
から、「うん、僕はここにいるよ」という答が返って来るのである。
そもそもハイデガーは、現存在 Dasein
は自己の存在を通して存在一般の意味を問い、
「存在によって語り
かけられる」と言った。現存在は問いかけ応答するという対話的構造を持つ存在であることが初めから示唆
されているのだ。ただハイデガーにおいては、問いかける相手は具体的な他者ではなく、あくまで自己の存
在を通した存在一般であった。言葉を発するあれこれの他者は「そこ」にいないのである。にもかかわらず、
存在が声を発し、語りかけ、真理を明らかにする。言葉を発する他者という「存在者」はいなくなっている
が、その「存在」がある。現存在は存在者がいなくなった存在に問いかけ、存在の語りかけに聴き従うので
ある。
現存在は対話的存在であり、他者へと方向づけられており、場所性を持っているということはさしあたり
明らかなように思える。そして現存在は「ここ」から「そこ」へと方向づけられている。方向づけられてい
るというそのことが、存在は場所においてあるということを示している。
しかしハイデガーの存在への問いが暗示するように、他者がいる場所とは他者が不在となる場所、他者が
4
呼び声と応答
いなくなる場所、他者が没する場所でもあるということに注意しなければならない。
他者がいる場所とは他者がいなくなる場所でもあり、私は他者がいなくなる「そこ」、他者がいなくなっ
た「そこ」で存在者のいない存在の声を聴く。また、他者がいる場所とは私が不在となる場所、私がいなく
なる場所、私が没する場所でもある。私がいなくなる「そこ」、いなくなった「そこ」で、私は存在者のいな
他 者 が い る 場所
」という語は思索の鍵となる語だが、誤解への大きな誘引に
Dasein
い な くな る 場所
い存在となって存在し続け、他者が、その声を聴くのである。
二
ハイデガーは、前掲書の中で「現存在
もなっていると言う。
「現―存在」は私にとって「 me voilà(ここにいる私)」を意味するというよりは、むしろ、もしかし
たらあり得ないフランス語で言い述べてもよいとすれば、
「 être le-là
(そこというものであること)」を
意味します。そして「 être le-là(
そこというもの 」)こそは〈アレーテイア〉(真理)、つまり、隠れない
ありさま―開け、と等しいのです。
ハイデガーが現存在は「ここ」にいるということであるよりもむしろ「 le-là(
そこというものであること 」)
であり、それこそが存在の「隠れないありさま―開け」であるという時、
「 le-là(
そこというもの 」)とは何を
5
呼び声と応答
意味しているのであろうか。
は「そこ 」に定冠詞がついたハイデガーの造語である。現存在は他者が
le-là
là
いる「そこ」に方向づけられるものとしては「ここ」にいると考えることができるが、
「そこ」に他者がいな
くなり、その非存在が出現する時、現存在は非存在が「ある」ことに直面する。
「ここ」は失われ、現存在は
存在者のいなくなった「そこ」、非存在が「ある」「そこ」に出るのである。
ハイデガーは現存在を、開けた明るみである存在であるとしながらも、最晩年に至って、光が射し込む空
所という意味をそこに加え註釈するようになったという 三。森の中の木を切った跡にできた空き地などを想
定していると言う。現存在は存在の明るみ(空所)へと
「出で立つ」という。
Ek-sistenz
現存在が他者の存在へと方向づけられているということは、現存在の「投げ出されている 四」
(被投性)と
いう根源的な在り方に由来していると考えられる。しかし、より本質的には次の事実による。現存在は 投「げ
出されている こ」とを了解しながらも、自分がどこからやって来たのか、原初の事実としてあるはずの自己の
生誕について、その時何が起こったのかについて何も知らない。他者(母親)によって文字通りこの世に投
げ出されたということは、他者が語る事実であり証言である。他者の欲望によって、
「投げ出された」には違
いないとしても、自分を生み出した他者の欲望が何であったのかを知らないまま、「現に投げ出されている」
のである。
さらに現存在は、乳幼児の時期において、他者によって抱えられることによってしか、存在し続けること
ができなかった。絶対的な依存の時期を経てきたことについても自らは知らないまま、「投げ出されている」
存在)を体験しているがそ
→
存在として自己を了解している。
「現に投げ出されている」という現在的な了解の不可避性を介して、過去の
不明を受け入れている。
死についても似たようなことが言える。現存在は過去に自己の生誕(非存在
6
呼び声と応答
れについて何も知らないのと同様、未来において自己の死(存在
起こることについて何も知ることができない。
非存在)を体験するであろうが、その時
→
どこからやって来てどこへ行くのかわからないのに、「ここ/そこにある」ということだけは確かな現存
在の在りようは、いかにも矛盾に満ちている。しかし現に「投げ出されている」ということだけが確かなの
である。
現存在は他者がいる「そこ」に方向づけられているが、「そこ」は、他者がいなくなる場所でもある。他
者が「そこ」からいなくなる時、現存在も「ここ」を失うが、現存在は、他者がいない「そこ」に「出る」。
であると述べた。哲
Sein zum Tode
現存在は他者がいることがいなくなることだということを理解し、自己(私)がいることがいなくなること
だということを理解している。
ハイデガーは現存在は本来的に死へ向かう(死へと至っている)存在
学者の細川亮一は、 zumという前置詞を「向かう」という方向の意で取るのではなく、「時点、場所」の意
で取るべきで、ハイデガーのこの言は「死へ向かう」と訳すのではなく「死に至っている」と訳すべきだと
述べた 五。現存在は生の時間の終極としての死に向かうのではなく、他者や私がいなくなる死の場所におい
て現在を生きているのであり、
「そこ」に出ているというのである。生きるということの中に死の可能性が含
まれているが、それは生きるということが死の可能性に含まれていることによる。非存在から投げ出されて
いる現存在が、この受動性を能動性に変換するかのように、非存在、死へと自己を「決意して」投げ入れて
いる。ハイデガーはこれを「先駆的決意性」と呼んで、存在の根源的な時間性がここからあらわになると考
えた。現存在は他者へと方向づけられながらも、自己の終わり、非存在へと先駆している。
フロイトは、「快原理の彼岸 六」で生の欲動(エロス)と死の欲動(タナトス)について述べた。現存在の
7
呼び声と応答
他者への方向づけに相当するものがエロスであり、非存在への先駆性に相当するものがタナトスであると、
鏡の空間
考えておきたい。
三
私はきみの目を見ることができるが、自分の目を見ることはできない。また、きみの身体を見ることがで
きるが、自己の身体を見ることはできない。私はそうしようと思えば自分の視野の下のほうに前を向いた私
の両腕があり、両足があり、胴体があって、それぞれが動いているのを見ることができる。目蓋の裏側や鼻
先を見ることもできる。それらは前方に広がる自己身体の一部である。私は私のことを、前方を見たまま背
後を見ることができない〈崖〉の前面と喩えることができる。私は〈崖〉の全体を見ることは決してできな
い。
私はきみの身体の全体を見、その動きを空間の中で把握することができるが、私の身体の全体をそのよう
なものとしては見ることができない。私からはきみの存在は一つのまとまった現実的な存在と見えるのに対
し、私の存在は、きみからどう見えるかという想像の視点を入れることなしには、一つのまとまった存在と
して見ることができない。私は〈崖〉にすぎない。私は、きみの目にはそう見えていると私が想像するとこ
ろのまとまりであるとみなすことはできるが、自分の目にはそのような確かなまとまりや、統一感があるよ
うには見えない。私はきみに比べたら、統一性、連続性を欠いた自己身体の諸部分であり、漠然と拡がる体
感と、身体と外空間との接触面(身体表面)にひろがる触覚が伝えるものである。何よりも「私」が(一部
8
呼び声と応答
しか)いない、「私」が欠如している視空間である。
私は「ここ」にいるのだが、
「ここ」は「そこ」に対して〈崖〉であると感じられる。そうである以上、
「そ
こ」もまた「ここ」に対して〈崖〉であるのかもしれない。私ときみは一体どこにいるのであろうか。非対
称性、不平等性をそれぞれが感じることにおいて、対称であり、平等な場所。
私はきみに見られていることを知る。そしてきみが私についての(私には決して分からない)何らかの視
覚的印象を持つということを理解する。また、私はきみを見る私のまなざしの存在を感じる。しかし私のま
なざしは存在するが、それがいかなるものであるかについても想像の対象であるほかない。
それでも、きみの目の瞳に私の像が現実に映っているのを私は見ることができる。夏目漱石もそのような
場面を描いている。
『夢十夜 七』
第一夜)
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませ
んかと、にこりと笑って見せた。
(夏目漱石
漱石のこの夢の場面で、「女」に自分が見えているかどうかが心配になった「私」がそのことを「女」に
聞き、「女」はそれなら自分の目(「そこ」)を見るようにと言い、「私」は、自分の顔が「そこ」に映ってい
るのを見た。自分には見えない自分の顔を相手の黒い瞳の中に見て、
「女」に自分が見えていることを知るの
である。
「私」という主人公は、相手のまなざしの中に自分を認めることによって初めて「私」は「私」なの
だと感じ、安心するかのように見える。しかしそれは確かなことなのであろうか。
9
呼び声と応答
フランスの精神分析家ジャック ラ・カンは、
「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階 八」という
年のチューリッヒでの発表の中で、人間の子どもは生後六ヶ月頃から鏡に映っている自分の像に気づく
1949
ようになりやがて鏡に向かって戯れるようになる。子どもは鏡の中の自分の像の動きと鏡に映っている周囲
との関係、像と現実との関係を体験する。ラカンはこれを「鏡像段階」と名付けた。ラカンは鏡像を自分の
ものとして認め受け入れることが、「私 」
je(自我)の想像的母体であるとした。
私見では、生後六ヶ月頃の乳児は、鏡像を自分だと気づく以前に、周囲の他人が自分を見ているというこ
とに気づき、そのことに「確信」を持つようになっている。他人の視線を受け止め、そちらの方に進む動き
を見せる。この「確信」の醸成には、聴覚や身体感覚などの、視覚だけではない他の感覚や、とりわけ抱っ
こされることが関わっている。乳児は、誕生時からすぐに母親に抱っこされるとその場所が定位置であるか
のように落ち着きを得る。抱っこの環境は再発見された胎内であるということはウィニコット 九も言ってい
る。
母親の「~ちゃん」という呼び声がどうやら自分に向けられているらしいと察するのも、それが抱っこさ
れることやあやされることの身体感覚を伴うからである。胎内で聞いた音響でなく、抱いている母親の口か
ら直接に空中を伝わってくる音声が、母親の腕の中の自分にリズミックに伝わってくる。抱っこされている
ことの中で空気中の自己の存在を楽しみ始めている。抱っこの腕の中にいることを身体的に「再発見する」
ことがあって初めて他人のまなざしの中に自分がいることを見いだす。そのことが他人が自分を見ているこ
との確信となり、それを確認するかのように、他者と 目「が合う 体」験をし始める。相手の目を見ることで、
そこに自分を感じる、そのことを反復的に確かめるのである。このことは、乳児が母親や周囲の人間たちが
10
呼び声と応答
自分を見るその視線に方向づけられて匍匐することの前提ともなる。視線の交わり(目合ひ
が運動を方向づけるのである。
注一
maguwai )
こうした一連の視線の交わりの経験が、鏡を見てそこに自分が映っていることを見出すという、鏡像の体
験の前提となるのである。
鏡像段階以前の子どもは、自分の身体の諸部分を目にしても、それらを一つのまとまった全体としては認
識しない。ラカンの言葉で言えば、「寸断された身体の像 image morcelée du corps
」であるが、一人ではば
らばらになりそうな身体を他者に見られ、声をかけられ、抱っこされることによって、何とか自己を支える
のである。対象関係論に言う「部分対象」「全体対象」という概念を思わせるが、ここでは触れない。
しかし、鏡像、あるいは他者のまなざしに映っている自分は、鏡や他者のまなざしを見ている限りでの自
分である。それらを見ている自分がそこに「写っている」にすぎないことは、鏡をいくら見てもそれを見て
いる自分が見えるだけということと同じである。それは他人に見える自分の姿が「ある」ということ以上の
ことは教えない。他人はこう見ているだろうと想像することも、私が見ている限りでの他人の像から見られ
た自己の像であり、そこでは他人も自分も鏡像的に捉えられている。鏡の空間なのだ。
そこでは現存在は、相手の目に映っている自分の姿を見ることで自己の身体の統一性、まとまりを得よう
とする。喩えて言えば「歩き方を忘れてしまった」人間が思わず周囲の歩いている人々の動きを真似して歩
こうとするようなものである。一方では、戯れや誇示や見せかけが出現し、「あたかも~のよう」な、「偽り
注一
目合ひ maguwai
とは、目を目を合わせて愛情を通わせること、また男女の交わりを言い、古事記 に⒑よれば、イザナ
キとイザナミの「みとのまぐはひ」が日本列島を生み出したのである。
11
呼び声と応答
一〇
の自己」ウィニコット( 1960) が形成されることの可能性ともなる。それらは自己の〈崖〉の背後を、鏡
や相手の目に映った自分という像によって覆うことである。ハイデガーの言う、現存在の「日常的平均的在
空所
りかた」とも言えるだろう。〈崖〉の全体、「存在の隠れないありさま」は隠れたままである。
四
漱石の『夢十夜』の「女」は、
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
と言って男の目の前で死んでしまう。
女の目は閉じてもう開かない。「私」を見ていた目は永久に失われたのであり、女も私ももう相手を見る
ことができず、相手の目に映っている自分を見ることができない。鏡の空間は破砕し鏡像は失われたのであ
る。だからその限りでの「私」も失われたのだ。だが、百年待ってくれたら逢いに来ると女は言う。この言
葉がくりかえし「私」に語りかけ、要求し、従うことを促す。男は女に言われた通り、墓を作り、その傍で
ただただ待つ。女が立ち去った空所が目の前にある。いなくなったことによってかえって存在が充実してい
る。女はもはや「そこ」にいない。
「私」は女が非存在へと立ち去ったこの空所に「出ている」のであり、
「私」
は「そこ」にい続けている。
ハイデガーが現存在は「ここ」にいるということであるよりもむしろ「 le-là(
そこというもの 」)であり、
そこというもの 」)とはこのよ
le-là(
それこそが存在の「隠れないありさま―開け」であると言う。この時、
「
うな空所を指して言っているのではないだろうか。この le-làは、他者が立ち去った空所、他者の非存在が
「そこ」にある場所であり、この意味でなおかつ他者の場所であり、現存在は他者がそこへと立ち去った非
12
呼び声と応答
存在(死)へと共に至っており、「そこ」に「出ている」。この死へと「出ている」ということが現存在の在
り方として、その「隠れないありさま―開け」なのだと、ハイデガーは言っているのではないだろうか。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」という「女」の言葉が、死後
も存在し続けることができるのは、言語が、現存在の誕生以前からあり、死以後にもあることができるから
である。
「遺言」が可能なのは、言語のこのような特質に負う。言語は、太古の人間がそれを創り出し、以降
それによって人間が創り出されてきた象徴体系であり、人間は言語という〈他者〉の言葉の一部を自己のも
のとし、言葉を自己の存在の一時的住まいとして、そこに住み着くことを宿命づけられている。言語は、そ
れをつぶやく人間の口や書字する手を必要とするが、まなざしや声のように人間の身体に帰属するものでは
ない。
「夢十夜」の「女」は死に臨んで自己の声を言語に住み着かせたのであり、その見張りを「私」に依嘱
したのである。
この言葉によって、「そこ」は、鏡像的に互いに存在を確かめる場所ではなく、存在者がいない存在の場
所になったのである。
「女」は、この存在の場所の番を百年していてくれるなら、きっと逢いに来ると言って
いる。この言葉の現実的な荒唐無稽さは、そのことによってかえって事の本質を浮き彫りにしているように
思える。
「女」がそう言うことができたのは、
「女」が死ぬからであり、
「私」がその通り待つことができるの
も、「私」が「女」の非存在の場に「出ており」、先駆的に死に至っているからである。既に死に至っている
存在にとって百年も一年も変わりはない。日常的な時間の意味は既に廃棄されているのだ。そうして「百年」
の時が経った時に逢いに来たのは「女」ではなく、「胸元に伸びてきた真っ白い百合」であり、「上からぽた
りと落ちる露」であり、
「暁の星」という象徴的なものどもであった。そこには互いの視線の交錯はなく、鏡
像的空間の外部に出た存在の、他者から他者へと呼びかける沈黙の声があるばかりである。
13
呼び声と応答
『夢十夜』の、死を前にした「女」が誰であるのかという問いが生まれて来る。それは母親の?
嫂の?
妻の? 知られていない誰かの? それを確定することが重要なのではない。そのいずれでもあるし、いず
れでもないであろう。そのように、その時々の文脈によって移り行く像が交錯する場所に「女」がいる。で
は「私」とは誰なのか? 「女」がいなくなった「そこ」にい続け、
「女」の墓を作り、
「百年待つ」
「私」と
赤ん坊と乳房
対象 関係 論の彼 方
は誰であるのか?
Ⅱ
一
である。この場合に「対象」
object relation theory
現存在は他者へと方向づけられているということを、精神分析の文脈において明らかにしているのが、フ
ェアバーン、メラニー・クラインに始まる英国対象関係論
ということが何を意味し含蓄するのかについて考えておく必要があるだろう。
object
いくつかの英和辞典 一一によると英語の object
の原義は前に (ob
)投げ出された( ject
)ものであると言う。
ラテン語「オブイェクト/オブイェクトゥム object/objectum
(前に投げる/前に投げられたもの)に由来す
る。前に置かれたもの、流れをせきとめるもの、などの意味も派生するという。
14
呼び声と応答
これを本能衝動(リビドー)との関係で見るならば、対象とは本能衝動の前に投げ出されたものであり、
本能衝動がそれにぶつかってそこで衝動の満足がなされる、その目標物だということになる。フロイトは人
間における原初の対象は母親の乳房であると言った。乳房を赤ん坊の口をめがけて初めに与える(「前に置か
れたもの」とする)のは母親であるが、母親にとっては赤ん坊の口こそが対象であり、自分の「前に置いた
もの」である。赤ん坊は、母乳を吸いたいという本能衝動を、乳房が与えられることによって発現させ、口
腔を使って実際に吸うことでそれを満足させる。この段階では、乳房という対象との関わりは、赤ん坊側で
は、口唇を入口とする口腔を通じて行われる。この段階で対象を「発見」しているのは口腔(とおそらくは
視覚)だということになる。
フロイトは対象は再発見されたものであると言う。乳児は母乳を飲む時には、口腔を通じて母親の体内(母
乳)と再び接続し融合する。この状態は、出生以前に母親の胎内にいた時に、口腔を通じて羊水が体内に出
入りしていた状態が再発見されたものであるといえる。
一二
。対象
フェアバーンは、フロイトの見解はリビドーは衝動満足を求めるというものであったが、それに対して明
白に異なった立場を打ち出すものとして、リビドーは衝動満足をではなく対象を求めると明言した
を求めることは、本能衝動の発現という心理生理的作用の結果ではなく、(フェアバーンは明言していないが)
主体
の志向性の目標であるということになったかに見える。
subject
先の辞書によると subject
は object
の対概念であり。認識においては知の主観、実践においては行為の主
は依然
subject
体を意味する。ラテン語スブイェクトゥム subjectum
(下に投げられたもの)に由来する。もともと「根底
にあるもの」であり、属性に対しては基体、述語に対しては主語を意味する。
しかし、
「リビドーは対象を求める」というように、フェアバーンや対象関係論者にとって
15
呼び声と応答
としてリビドーであり本能衝動であった。それは心理生理的な実体であり理論構成としてのフロイト主義を
脱していない。ここからは主体と他者(他の主体)、現存在と他者(他の現存在)というような問題構成は出
現しにくいのである。この点を留保しつつ対象関係論の説くところを私の関心に即して述べていく。
リビドーの希求は対象にあるということになった時、その対象によって衝動満足を求めるのもリビドーで
あり、対象を定立する(「前に投げる」)のもリビドーだということになる。そしてリビドーは、衝動満足が
が
relation
得られる対象とリビドーの「よい」関係を希求し、衝動満足が妨げられる「悪い」関係を忌避するというこ
とになる。「よい」対象を求め「悪い」対象を忌避するところに、リビドーと対象との間に関係
発生しているのである。
フロイトが、三歳から五歳の時期の幼児と父親との関係に着目し、エディプス・コンプレックスによって
人間の神経症的構造を明らかにしたのに対し、フェアバーン、メラニー・クライン、ウィニコット、ビオン
といった対象関係論者と言われる人々は、それ以前の〇歳から二歳の時期の赤ん坊と母親の関係、赤ん坊と
乳房の関係に着目した。人格形成の初期段階に関心を集中し、パーソナリティ障害や精神病の構造を明らか
にしようとしたのである。
メラニー・クラインは最初の対象は乳房という「部分対象」であると明言した。メラニー・クラインは、
「部分対象」としての「よい乳房」と「悪い乳房」が、乳児の激しい求めと攻撃、羨望、罪悪感と思いやり
を経て、
「よい」と「悪い」の両面を持つ一つのまとまった「全体対象」である母親へと結実していく過程を、
児童の精神分析を通じて推論し、生後すぐに始まる「妄想分裂態勢」と生後数か月を経て始まる「抑鬱態勢」
という人間の不可避的な二つの態勢を浮き彫りにし、以後の対象関係論の展開にとって重要な貢献をした。
乳児が一つの全体対象としての「よい」母親を心の中にいかにして確立するかということは、対象関係論
16
呼び声と応答
者にとって重要な共通テーマである。たとえば、歯の生えだした赤ん坊が母親の乳房を噛むのは、口唇後期
の食人的攻撃衝動の結果でもあるが、そうした攻撃性を用いて、欲求不満に陥らせる「悪い」乳房をそのこ
とで破壊することである。乳児は、吸うことで「よい」乳房を摂取し噛むことで「悪い」乳房を破壊すると
も言える。攻撃の結果罪悪感を持つことができれば、破壊した乳房を心の中で修復し再建するという「創造
性」を通じて、罪悪感を償い、「よい」「悪い」の両面を持った全体対象としての母親を確立し、抑態態勢に
到達する。
対象関係論者にとって、精神分析の課題は、内在化された「悪い」部分対象が今の対象関係の中に生きて
いることを捉え直し、治療者がそれを抱え、クライエントがそれを抱えることができるようになることによ
って、その破壊的攻撃性を緩和し、抑鬱態勢を持ちこたえることができるようにするということになった。
精神分析は現代の「悪魔祓い」に相当するということを、フェアバーンは言った。
フロイトにとって精神分析の課題はエディプス・コンプレックスの解消であったのに対し、対象関係論者
の内実はリビドー、あるいはその反面である攻撃性であり、心理生
subject
の課題は、全体対象としてのよい母親の内的確立である。その主要な問題関心が、父親から母親に移ったの
である。
両者に共通することは、主体
理的実体とされる点である。
対象関係論者の指摘を待つまでもなく、赤ん坊と乳房の関係は、赤ん坊がこの世に生まれ落ちた瞬間から
始まる。乳房を対象 object
とする赤ん坊の主体 subject
はどのようなものであるのだろうか。メラニー・ク
ラインの諸論文は、母親の身体を想像的な舞台とした乳児の出生直後からの暗い闘いをこの上ない想像力を
もって描き出したが、そこでは赤ん坊が初めから対象から独立した存在として扱われている。しかし、乳児
17
呼び声と応答
はこの世に他者(父母)の欲望によって投げ出されるのであり、母親に抱き上げられ、抱えられ、母親に同
として、母親によって「投げ出される」のである。主体は母親の側にあって、乳
object
一化されることによって存在を始めるほかない存在である。
まず赤ん坊が対象
児は母親の方へと方向づけられ、存在を与えられるほかないものとして生誕する 手(束二〇一三 。)乳児は思
いがけなくも母親という他者によって抱き上げられ、その胸が居場所として提供され、乳房という対象が「前
「 あ る 」 と 「な い 」
一三
1971 )「前に置いている」と感じることができるのである。
に置かれる」。母親の配慮によって、乳児は乳房という対象を、自分自身の創造性によって創り出し(ウィニ
コット
二
とい
subject
生まれたばかりの乳児にとっては、この世界は奥行きもなく境界もない。自己に近いものも自己から遠い
ものもなく、内部もなく外部もない。しかし漠然とした根源の感覚、「下に投げ出されたもの」
う感覚があるのではないだろうか。
乳房が現れ、赤ん坊の口が当たり前のようにそれに吸い付き、乳を吸い、乳が口の中を通過し、嚥下を引
き起こし、消化管の中へと流れ込み貯留される。乳房が現れる「外」と、母乳が通過し貯留される「内」、
「外」
と「内」をつなぐ口、という原初的区別がそこに発生しているように思える。母親の乳房と乳児の口―消化
管はそのつど直接的につながる。母乳の摂取によって空腹が満たされ、満足感が生じる。
「ある」という存在の充実の感覚の淵源をこの原初の満足感に求めてもよいであろう。赤ん坊は文字通り
18
呼び声と応答
存在を与えられるのである。ドイツ語では「存在がある」ということを Es gibt sein.
(エスが存在を与える)
(「自我とエス」)という論文 一四で述べたように、
”Das Ich und das Es”1923
と言う。 Es
とは、フロイトが
自我
がそこから出現してくるような「カオス」であり非人称的な力である。乳を吸い、飲むという乳児
Ich
の働きが、自己の存在を与えるということでもあるし、母親が乳を与えるという Es
の働きが、赤ん坊
Es
の
の存在を与えるということでもある。存在がある=与えられるという点において、乳児の
と母親の
Es
Es
は融合していると言える。満足を与える「よい」乳房が「ある」ということが、赤ん坊に存在を与えるので
ある。「ある」は原初において「共にある」であるほかない。
しかし赤ん坊に満足を与えるそのような乳房ばかりがあるのではない。空腹なのに現れない乳房や、現れ
ても乳が出ない乳房や、満足を与えられないまま授乳を中断してしまう乳房もある。そうした場合、乳児の
摂取活動は働き出さないか、働き出しても中断され、満足には至らない。それらの乳房は乳児にとっては「な
い」乳房である。
「ない」乳房とは希求を拒絶する乳房が(その姿なしに)一つの雰囲気として「ある」ことである。「な
い」乳房は、乳児にとって乳房を吸う口の虚しい動きと、満たされない空腹の感覚につながっている。
「ない」
乳房は対象の喪失と欲求不満と一体である。対象の喪失は存在の喪失を意味し、欲求不満は癒されることの
ない不安を引き起こす。喪失が「あり」、不安が「ある」ように、拒絶する乳房が「ある」。それは、非存在
である。
が与えられること Es gibt nicht sein.
「ある」乳房と「ない」乳房は、対象関係論の言葉で言えば、「よい」乳房と「悪い」乳房である。前者
は存在の充溢の体験を与え、後者は非存在の空虚の体験を与える。それを一つのものの現前と不在を示すも
のと赤ん坊が捉えることはできない。拒絶する乳房は、姿を現さないまま拒絶という雰囲気として「ある」。
19
呼び声と応答
それは迫害的なものになりうる。
「ない」乳房は赤ん坊の存在を否定し食い滅ぼそうとする。乳児は激しく泣き手足をばたつかせる。「な
い」乳房が乳児を攻撃し責め苛むのである。状況に気づいた母親が赤ん坊を抱きかかえると、赤ん坊は苦痛
がそこからやって来るものであるかのように母親を攻撃する。自分を責め苛む「悪い」乳房を母親に投影し
母親は恐怖の対象となる。乳児は苦痛を母親の胸に投げ入れ、母親を攻撃し苦痛を母親の体内に押し込め排
一五
除しようとする。メラニー・クラインはこうした原始的な防衛機制を投影同一化
projective identification
。しかしここに赤ん坊を抱きかかえ攻撃を受け止める乳房が「ある」こと、恐怖が対象となって
と呼んだ
「前に置かれている」ということに注目しなければならない。そこには母親という主体があり、乳房という
対象を赤ん坊の「前に置いている」のである。
一六
ウィニコットは、
「親と幼児の関係に関する理論 」 (1960)
などで、
「ほどよい母親」 good enough mother
は乳児のそうした攻撃に報復することなく、共感を示し、乳児を脅かす「悪い」乳房が吸収されてなくなっ
たかのように「よい」乳房を与え、
「悪い」乳房が魔法のように「よい」乳房に変わることを体験させ、自ら
も満足する。「普通の献身的なお母さん」はこのようにして、「悪い」を「よい」に変える「抱っこという環
境」 holding environment
を乳児に与えていると述べた。それが繰り返されることによって、乳児は次第に
「悪い」を「よい」に、「ない」を「ある」に変える力、創造性が自分にあると考えるようになると言う。
母親が現れても、乳児の攻撃を抱え、
「ない」乳房を「ある」乳房に変換することに失敗するなら、
「ない」
乳房は依然として乳児を責め苛むことになるだろう。乳児は、 (自分が)ばらばらになる、(自分が)なく
「
一七
。この拒絶し迫害す
なってしまう (」松木)という破滅 annihilation
の恐怖(クライン 1946
)に直面する
る「ない」乳房は、どこかに投げ出され、追放されなければならない。
20
呼び声と応答
三
投げ出すこと
投 げ 棄 てる こ と
フロイトは、
「快原理の彼岸」
(
)の中で、まだ数語しか言葉を発することができない一歳半の子ども
1920
(フロイトの孫)が、母親がいない時に、糸巻きを寝台の向こうに投げこんで見えなくして ″fort″
「いない」
と言ったり、寝台の向こうから再び引っ張り出して目の前に引き寄せ
「いた」と言ったりする一人遊び
″da″
を繰り返し行っているところを観察した。この子どもは、糸巻きに象徴された母親を、
「ここ」へと引き寄せ
と叫びながら、このシニフィア
″da″
再来させ、
「見えない所」に消滅させることを繰り返し行ったのである。そのうちたいていは消滅させる行為
だけを繰り返すようになったという。
この子どもは、糸巻きを引き寄せることで母親を象徴的に再現させ、
注二
ン
の中に想像的に母親を住まわせ、ひとしきり向き合っては、次に ″fort″
と言って、今度は「いない」母
親、母親の欠如の印象を想像的にこのシニフィアンに住まわせ、手の届かぬ所に投げ出し、見えない所に投
げ棄てている。
「ある」ものを ″da″
というシニフィアンに、
「ない」ものを ″fort″
というシニフィアンに住まわ
せ、引き寄せては手の届かぬ所に投げ出すのであり、不快なものを遠ざけ、隔離することを再現し反復して
いるのである。
注二
シニフィアン signifiant
とは、ソシュール言語学における、言語記号の表裏二つの面、即ちシニフィエ signifié
(所
記:意味の面)とシニフィアン(能記:音の面)の後者を指す用語である。ラカンはこの概念を精神分析理論に導入し、
シニフィエとシニフィアンの一対一対応性を否定し、シニフィアンの優位性に基づく独自の精神分析的言語理論を創り
出した。
21
呼び声と応答
この子どもは一歳半であり既に数語を話すことができるので、乳児期前期の子どもの状況とは異なる。し
かし、このような、対象の再発見と対象の隔離(「見えない所」に投げ出す)を想像的に反復し、そこに発声
を伴わせるというような行為は、より原初的で未分化な形にせよ、これよりも早い段階から始まっていたの
ではないだろうか。だからこそ、一歳半のこの時期にこうしたことが可能になっているのだと思われる。
日本人の子どもの例をあげれば、やはり数語しか話せない一歳九か月の子ども(私の孫)が、
「あった」
「あ
れえ」という対になるシニフィアンで、対象の再認と廃棄を表現しているのを私も見聞した。目についたな
じみ深い物を次々に指さしながら「あった」と繰り返し、一方テーブルの上にある物を椅子に座ったまま次々
に下に投げ落としては「あれえ」と繰り返す。こちらは、文字通り廃棄するのであり、対象を戻って来れな
いよう、非存在にするのである。
フロイトの例は、「ある」乳房をシニフィアン da
に住まわせ、糸巻き―シニフィアン da
―像(「ある」乳
房)を渾然一体のものとして引き寄せて存在させる一方、幻滅したかのように「ない」乳房をシニフィアン
に住まわせ、糸巻き―シニフィアン fort
―像(「ない」乳房)を、渾然一体のものとして「見えない所」
fort
に投げ棄てるということを繰り返している。私の例は、糸巻きのような象徴を使用していないこと、母親が
その場にいたことがフロイトの例とは異なる。また、投げ棄てる「見えない所」が、フロイトの例では「ベ
ッドの向こう」であるが、私の例ではテーブルの下である。私の例は、フロイトの例が対象の再発見と隔離
いう主題をめぐっているのに対し、対象の再認と廃棄という、より原初的で未分化な有り様を示すものかも
しれない。テーブルの下は、子どもに与えられた場の外であり、カオスなのである。
フロイトは自分の観察を、不快な出来事を遊びの中で反復する、快原理では説明しにくい例としてあげて
いる。子どもは「ない」乳房の不吉な雰囲気を、もう一度「ない」ことにし、体験の受動性を遊びの能動性
22
呼び声と応答
に置き換える。しまいには投げ出す行為だけを反復する。フロイトはこれを「制圧衝動」や「復讐衝動」と
いう言葉で説明した。
不快なものを「見えない所」に投げ出すことを反復する行為は、「見えない所」の存在を逆に浮き彫りに
する。引き寄せる行為が、糸巻きに仮託された「ある」母親の像を目の前に象徴的に出現させるのとは反対
に、投げ棄てる行為は、
「ない」母親の像を、
「見えない所」
「下」、
「根源」の世界に消滅させている。投げ出
すという子どもの行為が、「見えない所」「下」、「根源」といった場所を創り出すのである。
糸巻きを引き寄せることで母親を象徴的に出現させる行為は、母親の不在の中で、母親のイメージを呼び
起こし名指すという行為につながるだろう。 da
(いた)という言葉は、既に母の名であると言える。それは
「ない」場所に「ある」を出現させる行為である。生まれたばかりの赤ん坊が、母親の側からの、抱き上げ
るという行為によって、存在が与えられるのに対し、ここでは、子どもが能動的に母親の像を創り出して「前
に」引き寄せる。しかし錯覚であったことに気づいて幻滅するかのように、次には fort
と言って、非存在を
言葉にして「投げ」、見えないようにしている。非存在をさらに「ない」ものとして、見えないところに投げ
出すことを反復しているのである。
こうして、見える所と見えない所、前方と下方、外側と内側などが分化し始めている。また、「引き寄せ
る」現在と、「投げ出す」現在、「さっき」と「今」とが分化し始めている。「引き寄せる」「投げ出す」とい
う対象に対する原初的な行為(あり方)によって、空間、時間の分化が始まっているのである。
「引き寄せる」
「投げ出す」という行為を通して対象は主体と分離したものとして、目の前に現れ、向こうに消える、その
ことを主体が能動的に再現しているのである。
フロイトの言う「抑圧」は、不快な体験を意識から遠ざけ、無意識界に隔離することを言うが、これは無
23
呼び声と応答
意識界に保持することでもあり、カオスへと廃棄することとは異なる。主体がその抑圧が生じたのと類似し
た事態に後年遭遇した時に、「抑圧されたもの」は回帰し意識化を迫る。「抑圧されたもの」はエディプス的
な願望のように、非存在ではなく存在なのだ。
一方、対象関係論で言う「内在化」とは、外にある「よい」対象や「悪い」対象を心の内に取り入れ、安
心感や満足を繰り返し感じたり、不快や不安に耐える働きである。フェアバーンは、心の中に内在化される
のは「悪い」対象であり、「よい対象」ではないと言った。「よい」対象は安心や満足を与えるので、内在化
される必要がないとしたのである。メラニー・クラインはこれを批判し、
「よい」対象も初めから内在化され
ると言った。フェアバーンも後に自己の見解を修正した。
「よい」対象は「ある」乳房であり、存在を与えて
くれ安心や満足をもたらす。
「悪い」対象は「ない」乳房であり、非存在を与えられ不安や不快を招き寄せる。
「内在化」も「抑圧」と同様、対象を心の内側に保持するということ、それを外に投影する(投影同一化)
ということを含意する。「内在化」によって、「内的対象」群としての心、精神という展望が生じて来る。
「内在化」とは、それまで外と内の区別なくあったものを内側(「見えない所」)にあるようにすることで
あるから、そのことによって内側に対する外側、内的な対象と現実の対象が分化するということでもある。
外と内の区別ができることが内在化の前提である。
対象を「見えない所」、内側、下方に投げ出し、あるいは廃棄するという主体の原初的な行為が、外側に
対する内側、前方に対する下方を分化させ、「内在化」や「抑圧」を可能にするのである。
母親は胎内から乳児を、下方へと投げ出す。次に抱き上げて目の前で向かい合う。乳児は、下方へという
重力の方向性を、抱き上げられるという浮揚感と共に知っているのであり、自己の生誕を反復するかのよう
に、存在を前に引き寄せる一方、非存在を下方へと投げ出し、投げ棄てるのだと想像される。
24
呼び声と応答
四
名を呼ぶこと
内や下に自己の原基となるものが存在し始める赤ん坊は、それと共に自己身体とそうでないもの、自己身
体の内的な方向性(前、下、上など)の感覚、身体の自己所属感を持ち始めるであろう。母親の身体との接
面において、自他の区別を皮膚感覚がし始めるだろう。乳房は自己の口腔―消化管と一体のものではなく、
外部からやって来るもの、母親に属するものとなるだろう。それは他者の乳房であるが故に、赤ん坊の前に
置かれるかもしれないし置かれないかもしれない。
「ある」乳房と「ない」乳房があるのではなく、乳房は「あ
る」こともあれば「ない」こともある。今「ない」のは、乳房はあるが他の場所「どこか」にあるのであり、
「今ここ」には不在であるということである。
こうして乳房の不在の空間が広がる。乳房が「ない」ということであるが、乳房は自己ではないので、乳
房がなくても自己はあるのであり、乳房から分離された自己(の口腔―消化管)があるということでもある。
外と内の区別、分離が始まり、外にあるものは、
「ある」こともあれば「ない」こともあることがわかるので
一八
。先のフロイトの孫の例は、その子どもが、この不在の空間にいることを
ある。今あってもなくなるかもしれないし、今なくても再び現れるかもしれない。この不在の空間でイメー
ジ 想(像されたもの が)生まれる
示している。糸巻きは母親の原初的なイメージであり、 da
はその名づけであり、こういう形で、その子は不
在の母親に、その再出現を願って呼びかけているのである。イメージとは不在の対象に対する意識内容であ
一九
り(サルトル 1940 )、先に述べた鏡像とは異なる。鏡像は映すものに映るものであり主体は映すものの方
にあるのに対し、イメージは自己の内に生まれ、名づけることによって不在の空間の中で対象を呼びかける。
名づけと 呼びかけ に関連 してこ こで乳 幼児 にとって のシニフ ィアン や言語 につい て一 瞥してお く必要が
25
呼び声と応答
ある。
新生児は、様々な音響、言葉のざわめきの中に生まれ出る。胎内の生物学的響きの世界から現世の物理的
音響の世界へと一挙に生まれ落ちる。人の声によって、語られ名づけられ名を呼ばれることが突然始まる。
大人たちのシニフィアンの戯れのただ中で赤ん坊は育つ。数ヶ月の内に未分化な喃語を発し初め、その音声
は次第に母国語の抑揚や音節の特徴と類似性を持つようになる。音声との戯れが生じ、シニフィアン断片が
発出される。
哺乳は、母乳が口腔、喉、消化管を通して内、下、見えない所に向かうことであるのに対して、発音は、
内からの呼気を喉頭によって自ら閉ざし、振動を与えて声を創り出し、乳房から自由になった口から、声が、
外、前、見える所に向うことである。発音することは、口腔が乳房や母乳から分離し、それらから自由にな
っていることによって可能となる。母の乳を吸い内にのみこむという行為が、自己の喉頭に力を加えて音と
なった空気を外に出すという行為に置き換わったかのようである。哺乳は空腹を満たし満足をもたらすが、
(
二〇
)は、『心とは何か』の中で次のように言っている。
BC322-384
発音は満足を吐露し、あるいは不満を表す。そこには母親がいたり不在であったりするだろう。古代ギリシ
ャの哲学者アリストテレス
吸い込まれた空気が、そのような部分のうちにある心によって、いわゆる気管を打撃するのが声なの
である。
発音が何かを外に出すということでは、便の排泄に似ている。排泄の向かう先は、下であり内部と外部の
境界域であり見えない所であり、カオスであるが、発音の向かう先は前であり、見える所であり、母親であ
26
呼び声と応答
る。排泄は、身にならないもの、存在すべきでないものの、カオスへの排除であり、それは摂取した母乳の
消化の証ともなり乳児と母親にとっては喜ばしいものである。フロイトは、大便は最初の母親への贈り物で
あると言った。これに対し、発音は存在が与えられることの充実の(口腔を通した)吐露であり、あるいは
与えられないことの苦痛の訴えであり、不満の表出でもある。
子どもは不在の空間でこそ、「今ここ」にはないものを想い浮かべ、イメージを描くことができる。それ
を名づけることができ、名を言って呼びかけるのである。イメージを想い描くことは名を呼ぶことと結びつ
いて、能動的、創造的な行為となる。名づけることは、母親のイメージを思い浮かべ、その視覚的成分と聴
覚的成分を分離し、聴覚的イメージの素材から、反復可能なシニフィアンを形成して視覚像と結びつけ、そ
の名をつぶやくことによって、イメージを自由に生み出すことである。シニフィアンの発出は、その産出性
と反復可能性により、それ自体が快体験でありうる。そこにシニフィエ―シニフィアンの結合の原形がある
のかもしれない。
呼びかけることは、呼びかけられるものが、それ以外のものから区別される一つの全体であり、変わらず
に存在し続けている何かであるということ、対象関係論の言葉で言えば、部分対象としての乳房ではなく「一
つの全体対象としての母親」が成り立っていることを前提とする。不在の空間においては、主体が「ここ」
にいるのに対し、そのものは「ここ」ではない「どこか」にいるのである。呼びかけることにおいて、名を
呼ぶことがその不在の空間を貫き、呼びかけられたものが再び「ここ」あるいは「そこ」に現れ、再発見さ
れることが願われているのである。声は他者が不在の前方に向かい、投げられる。
声を気管への「打撃」であるとするアリストテレスの言に倣えば、名を呼ぶことは、他者へと伸びていく
「心」によって他者の「心」を「打撃」しているのだと考えることもできる。しかしそのようにして名指し
27
呼び声と応答
呼びかけたからといって、それに応える者が現れるとは限らない。そこには賭けがある。
子どもはイメージの聴覚的成分の素材からシニフィアンを自発的、能動的に形成するとも言えるが、しか
し、そこには、既に母国語の記号性、シニフィアン―シニフィエの結合システムとしての言語 llangue
の痕
跡が埋め込まれていることも無視することはできない。子どもは既存の一般的シニフィアンを借りてそれを
自己のシニフィアンとし、固有のイメージを喚起しているのである。シニフィアンはその社会共同の蓄積物
であり、子どもの呼びかけに応じて「ママ」が現れるとは限らないにしても、
「ママ」という言葉は他者一般
に理解されるのである。
「ママ」という言葉が、それを口にする子どもの母親を意味するということは、その子どもが決めたこと
でも母親が決めたことでもなく、決して特定できない「誰か」が決めたことである。母の名を呼びかけるこ
とができることが、子どもが言葉を話し始めたことの一つの指標となる。
二一
」が物語るように、仰向け
言語は、赤ん坊が誕生する以前から存在していたし、死んだ後にも存在し続ける。言語が存在する空間、
大人たち(母親と父親など)のシニフィアンが交錯する空間は、「空を飛ぶ夢
に横たわっている赤ん坊、地を這う赤ん坊から見れば、高空である。赤ん坊が成長して立ち上がり歩くよう
になり、言葉を発するようになることは、この空の世界に参加することであり、
「空を飛ぶ」ことだとも言え
る。不在の空間の中で、母親の名を呼ぶことは、その最初の一歩であるかもしれない。呼びかけに答える者
が「そこ」にいて、母親が再出現し、語りかけられることによって、この一歩がさらに浮揚する。
母親に語りかけられることが「できる」ことは、父親からも語りかけられることが「できる」こと、さら
に誰からも語りかけられることが「できる」ようになることを意味する。子どもが生まれ育った特定の場所
で言語活動をすることができるようになることは、未知の他者との語らいの場へと自己を開くことが可能と
28
呼び声と応答
なることを意味する。
言語活動は特定できない「誰か」に所属しているのであり、事物の名、言葉の配置、発音の仕方など、言
語に関わる規則は子どもも親も所属している言語共同体によって、定められている。
以上のことは、父親の存在、父なるものについて考える時に、重要な示唆を与える。Xが私の父親である
ということは、Xが「俺はおまえの父親だ」と語り、私がその言明の真実性を信じることによって初めて成
り立つ。XがX自身を指してそう言うからそうなのだということは、子どもが事実Xを「父のような者」と
して認めることができることによる。父は初めから象徴的存在なのだ。母親という存在が乳房を与える者と
しての同一性に基づくのに対し、父親は、話す者、話すことによって象徴的に自己を示す者としての同一性
に基づく。父あるいは父なるものは言語を媒介し、言語によって介入し、支配する者として存在している。
不在を体験するようになった小さな子どもの視点からは「高空において」、父のシニフィアンは母に向き、
母のシニフィアンは父に向いている。父は母に方向づけられ、母は父に方向づけられている。子が自ずと方
(この項了
)
向づけられている母は、父のほうを向いている。子の欲望の対象は母であるのに、母の欲望の対象は父であ
ることに気づく時、母は一人の他者である。
(次号予定)
Ⅲ(仮題)我と汝
Ⅳ(仮題)呼び声と応答
文献
29
呼び声と応答
一
二
三
四
五
六
七
八
九
一〇
ハイデガー 熊野純彦訳二〇一三 存在と時間 岩波文庫
Heidegger,M. 1927 Sein und Zeit.
《 Humanismus
》 Brief an Jean Beaufret,Paris.ハイデガー 渡邊二郎訳一九九七
Heidegger,M. 1947 Über den
投げ入れること―人間の初期段階における同一化について「限
』岩
17
創刊
ヒ
」ついてーパリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 ちくま学芸文庫
「ューマニズム に
渡邊二郎一九九七 個別的訳注ハイデガー 『 ヒ
「ューマニズム に
」ついてーパリのジャン・ボーフレに宛てた書簡』
快
「原理の彼岸 『
」フロイト全集
ハイデガー入門 ちくま新書
p249ちくま学芸文庫
手束邦洋 二〇一三 投げ出されていること
号」限発行所
細川亮一 二〇〇一
夢十夜
新潮文庫二〇〇二
Freud,S.1920 Jenseits des Lustprinzips.フロイト 須藤訓任訳二〇〇六
波書店
夏目漱石一九〇八
東京
Lacan,J.1949.Le stade du miroir comme formateur de la fonction du Je. Écrits 1. Éditions du Seuil.Paris.ラカ
ン 宮本忠雄、竹内迪也、高橋徹、他訳一九七四〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階 『エクリⅠ』
弘文堂
Winnicott, D.W.1964 The child, the Family, and the Outside World. Penguin Books.ウィニコット 猪俣丈二訳一
九八五 子どもと家族とまわりの世界(上)赤ちゃんはなぜなくの 星和書店
Winnicott, D.W. 1960 Ego distortion in terms of true and false self. The Maturational Processes and the
Facilitating Environment. Karnac Books. London.ウィニコット 牛島定信訳一九七七 本当の,および偽りの自
己という観点からみた自我の歪曲
30
呼び声と応答
ジーニアス英和辞典:大修館書店
日本大百科全書:小学館 シップリー英語語源辞典 ジ:ョーゼフ・T・シップリー、
一一
井村恒郎訳一九七○「自我とエス」
『自我論』フロイド選集第四巻
Penguin Books.ウィニコット 橋本雅雄訳
一二
フロイト
Freud,S 1924 Das Ich und das Es.
日本教文社
Winnicott D.W. 1971 Creativity and its Origin. Playing and Reality
一九七九 創造性とその起源『遊ぶことと現実』岩崎学術出版社
Joseph T. Shipley梅田修 眞方忠道 穴吹章子訳二〇〇九:大修館書店
Fairbairn, W.R.D. 1952 Psychoanalytic studies of the personality.フェアバーン 山口泰司訳 一九九五 人格の精
神分析学 講談社学術文庫
一三
一四
一五
・ライン小此木啓吾、岩崎徹也編訳一九八五 分
Klein,M.1946 Notes on Some Schizoid Mechanism.メラニー ク
裂的機制についての覚書『メラニー・クライン著作集4妄想的分裂的世界』誠信書房
対象関係論を学ぶ
一六
松木邦裕一九九六
不在論
夢分析
岩波文庫
岩崎学術出版社
人文書院
Winnicott,D.W.1960 The theory of the parent-child relationship. The Maturational Processes and the
Facilitating Environment.Karnac Books. London.ウィニコット 牛島定信訳一九七七 親と幼児の関係に関わる
理論『情緒発達の精神分析理論』岩崎学術出版社
一七
松木邦裕二〇〇一
創元社
一八
新宮一成 二〇〇〇
一九
Sartre,J.P.1940 L'Imaginaireサルトル 平井啓之訳一九八三 想像力の問題 サルトル全集第一二巻
アリストテレス 桑木敏雄訳一九九九 心とは何か Perì Psychês講談社学術文庫 p116
二〇
二一
31
呼び声と応答
32