こちら

呼び声と応答
目次
一.現存在と他者
二.対象関係論の彼方
三.我と汝
一
現存在は方向づけられている
現存在と他者
四.呼び声と応答
㈠
手束邦洋
ハイデガーに現存在という用語がある。現存在は自らが存在であり、自己の存在を
" Se i n un d Ze i t " 1 9 2 7 ) を 書 く に あ た っ て 、
一
問うことを通して、存在一般の意味について問うことができる唯一の存在者であると
さ れ る 。 ハ イ デ ガ ー が 『 存 在 と 時 間 』(
da s e i nで
は話し手から少し離れ
da
現存在分析論から始めたように、人間は自己の存在を問うことを通して存在の意味を
問 う こ と が で き る 。「 現 存 在 」 の ド イ ツ 語 原 語 は
た場所「そこ」を指すこともあれば、話し手がいる場所「ここ」を指すこともある。
「その時」という時間的意味で使うこともある。現存在とは「そこ」にある(いる)
と い う こ と な の だ ろ う か 。そ れ と も「 こ こ 」に あ る( い る )と い う こ と な の だ ろ う か 。
について
da s e i n
という副詞のこのような対照的な
da
あるいは「そこ」にあるということと「ここ」にあるということは同じ事態の二つの
異なった表現なのであろうか。
の二人称単数形
” s e i n”
)と い う 問 い
daと い う 言 葉 に は 、 ど の よ う な 存 在
意味から問い直すことによって、何か新しい視野が開けてくるかもしれない。ハイデ
」と言った。
二
” Bi s t du d a ? ” ( “b i s は
t”
ガ ー は 、「 言 葉 は 存 在 の 家 で あ る
が住んでいるのであろうか。
ドイツ語の日常会話で、
daは 日 本 語 で 言 う と 「 そ こ 」 に あ た る 。
かけの文は「きみはそこにいるのか?」という意味である。暗がりで相手の所在を確
かめる問いだと理解すれば良い。この場合、
” J a , i c h b i n da(
.”
は
” b i n”
は 日 本 語 で「 こ
da
の 一 人 称 単 数 形 )と
” s e i n”
は こ の よ う に 、 話 し 手 か ら 少 し 離 れ た 場 所 、相 手 が い る 場 所 を 指 し て い る 。 こ の 問
da
い か け の 言 葉 に 対 し 、聞 き 手 が 、
応 え れ ば「 う ん 、僕 は こ こ に い る よ 」と い う 意 味 に な る 。こ の 場 合
が他人の存在を想定している
sein
が 自 己 の 存 在 の 場 合 に は「 こ こ 」
sein
は 、 自 己 と 他 者 が 話 し 手 と 聞 き 手 の 関 係 に あ る 時 に 、「 そ
Da s e i n
は「 そ こ 」と い う 意 味 に な り 、存 在
da
こ 」 に あ た り 、自 分 が い る 場 所 を 指 し て い る 。 存 在
場合には
という意味になる。
1
そ こ 」に あ る 話 し 手 と 聞 き 手 の 対 話 的 構 造 に お い て 存 在
─
こ 」に い る と い う 意 味 で は 聞 き 手 の 存 在 を 、
「 こ こ 」に い る と い う 意 味 で は 話 し 手 の 存
在を示すことになる。
「ここ
を問う、現存在とはそうした存在のあり方だということが連想される。
ハ イ デ ガ ー は 「 存 在 の 語 り か け を 聴 く 」 と い う 表 現 を し ば し ば す る が 、「 存 在 」 と
はさしあたり対話における自己と他者の存在だという理解が可能ではないだろうか。
言葉は、存在の家である。言葉による住まいのうちに、人間は住むのである。思
索する者たちと詩作する者たちが、この住まいの番人たちである。これらの者た
ちは、存在の開示性を、自分たちの発語によって、言葉へともたらし、言葉のう
ちで保存するわけであるから、そのかぎりにおいて、彼らの見張りは、存在の開
示性を実らせ達成することである。
( 中 略 )思 索 は 、み ず か ら を 放 棄 し て 存 在 に よ
)
って語りかけられ要求されるままの状態にして、まさにその存在の真理を発語し
渡邊二郎訳『 ヒ
「 ューマニズム に
」 ついて』
ようとするのである。
ハ( イ デ ガ ー
ハイデガーは、現実の話し手と聞き手の間の対話を想定しているのではなく、あく
ま で 存 在 の 人 間( 現 存 在 ) へ の 語 り か け に つ い て 語 り 、
「 存 在 の 住 ま い の 番 人 」と し て
思索する者、詩作する者をあげ、彼らが自己を放棄して存在の語りかけに聴き従い存
在 の 真 理 を 発 語 し よ う と す る と 述 べ る 。こ う し た ハ イ デ ガ ー の 言 は 、
「 存 在 」と い う 語
を 「 他 者 」 に 置 き 換 え る だ け で 、「 他 者 の 声 に 聴 き 従 い 」「 他 者 の 真 理 を 発 語 す る 」 と
いうように、対話における他者の存在を語るものとしてよく理解できるものとなる。
思索者、詩人に加えて、対話的心理療法家をあげてもよいであろう。
「 存 在 の 語 り か け 」「 存 在 の 真 理 」 と は ど の よ う な こ と を 言 っ て い る の か 、 ハ イ デ
ガーが思索したのとは少々異なった角度から、具体的な対話の状況の中での現存在の
在り方についての考察をさらに続ける。
「そこ」とはどこなのか。話し手が「きみはそこにいるのか?」と問いかける時、
聞き手は、話し手から聞き手の方へと広がる話し手の自己身体近傍空間を塞ぐ境界に
いる。話し手からすれば、聞き手の存在によって自己身体近傍空間が塞がれている、
「 そ こ 」 に 「 き み 」 が い る 。「 そ こ 」 と は 、「 私 」 が 問 い か け る 相 手 で あ る 他 者 が い る
場所である。
「 こ こ 」 と は ど こ な の か 。「 き み 」 が 「 う ん 、 僕 は こ こ に い る よ 」 と 応 え る 時 、「 き
み 」 は 「 私 」 か ら の 問 い か け を 受 け て 、 自 己 の 身 体 近 傍 空 間 が 、「 私 」 の 存 在 に よ っ て
限界づけられ塞がれている境界の「きみ」側、自己側に向かって「ここ」と言ってい
る。問いかけた「私」に向かいつつも、自分が存在する「ここ」を指して「うん、僕
はここにいるよ」と答えている。他者の問いかけを聞き、答を返す自己の場所が「こ
こ」である。
「ここ」から「そこ」に向かって、自己から他者へと向かう存在の方向性がある。
「 私 」 は そ の 方 向 の 先 に い る 「 き み 」 の 存 在 へ と 向 か い 、「 き み は そ こ に い る の か ? 」
2
Da s e i nは 自 己 の 存 在 を 通 し て 存 在 一 般 の 意 味 を 問
と 問 い か け て い る の で あ る 。そ し て「 き み 」か ら 、
「 う ん 、僕 は こ こ に い る よ 」と い う
答が返って来るのである。
そもそもハイデガーは、現存在
い、
「 存 在 に よ っ て 語 り か け ら れ 」る と 言 っ た 。現 存 在 は 問 い か け 応 答 す る と い う 対 話
的構造を持つ存在であることが初めから示唆されているのだ。ただハイデガーにおい
ては、問いかける相手は具体的な他者ではなく、あくまで自己の存在を通した存在一
般であった。言葉を発する他者は「そこ」にいないのである。にもかかわらず、存在
が声を発し、語りかけ、真理を明らかにする。言葉を発する他者という「存在者」は
いなくなっているが、その「存在」がある。現存在は存在者がいなくなった存在に問
いかけ、存在の語りかけに聴き従うのである。
現存在は対話的存在であり、他者へと方向づけられており、場所性を持っていると
いうことはさしあたり明らかなように思える。そして現存在は「ここ」から「そこ」
へと方向づけられている。方向づけられているというそのことが、存在は場所におい
てあるということを示している。
しかしハイデガーの存在への問いが暗示するように、他者がいる場所とは他者が不
在となる場所、他者がいなくなる場所、他者が没する場所でもあるということに注意
しなければならない。
他 者 が い る 場 所 と は 他 者 が い な く な る 場 所 で も あ り 、私 は 他 者 が い な く な る「 そ こ 」、
他者がいなくなった「そこ」で存在者のいない存在の声を聴くのである。さらに、他
者がいる場所とは私が不在となる場所、私がいなくなる場所、私が没する場所でもあ
る 。 私 が い な く な る 「 そ こ 」、 い な く な っ た 「 そ こ 」 で 、 私 は 存 在 者 の い な い 存 在 と な
他者がいる場所
Da s e i」
n という語は思索の鍵となる語だが、
いなくなる場所
って存在し続け、他者が、その声を聴くのである。
㈡
ハイデガーは、前掲書の中で「現存在
me vo i là( こ こ に い る 私 )」 を 意 味 す る と い う よ り
誤解への大きな誘引にもなっていると言う。
「現―存在」は私にとって「
être le-(
l à そ こ と い う も の で あ る こ と )」 を 意 味 し ま す 。 そ し て 「
ê t r e l e - làそ(
は、むしろ、もしかしたらあり得ないフランス語で言い述べてもよいとすれば、
「
l e - l àそ( こ と
( 真 理 )、 つ ま り 、 隠 れ な い あ り さ ま ― 開
こ と い う も の 」) こ そ は 〈 ア レ ー テ イ ア 〉
け、と等しいのです。
ハ イ デ ガ ー が 現 存 在 は「 こ こ 」に い る と い う こ と で あ る よ り も む し ろ「
い う も の で あ る こ と 」) で あ り 、 そ れ こ そ が 存 在 の 「 隠 れ な い あ り さ ま ― 開 け 」 で あ る
l e - l àそ( こ と い う も の 」) と は 何 を 意 味 し て い る の で あ ろ う か 。 l e - l は
à 「そ
l」
à に定冠 詞が ついた ハイ デガー の造語 である 。現存 在は 他者 がいる「そこ」に方
という時、
「
こ
3
向づけられるものとしては「ここ」にいると考えることができるが、他者がいなくな
っ た「 そ こ 」に 他 者 の 非 存 在 が 出 現 す る 時 、現 存 在 は 非 存 在 と い う 存 在 に 直 面 し 、
「そ
こ」に対する「ここ」は失われる。現存在は「そこ」に方向づけられるのでなく、存
在者のいなくなった「そこ」に出ているのである。
。森
三
ハイデガーは現存在を、開けた明るみである存在であるとしながらも、最晩年に至
って、光が射し込む空所という意味をそこに加え註釈するようになったという
「出で立つ」という。
E k- s i s t e nz
の中の木を切った跡にできた空き地などを想定していると言う。現存在は存在の明る
み(空所)へと
」( 被 投 性 ) と い う 根 源 的 な 在 り 方 に 由 来 し て い る と 考 え ら れ る 。 し か し 、 よ
四
現存在が他者の存在へと方向づけられているということは、現存在の「投げ出され
ている
り本質的には次の事実による。現存在は 投
「 げ出されている と
」 いう在り方を了解しな
がらも、自分がどこからやって来たのか、原初の事実としてあるはずの自己の生誕に
ついて、その時何が起こったのかについて何も知らない。他者(母親)によって文字
通りこの世に投げ出されたということは、他者が語る事実であり証言である。他者の
欲望によって、
「 投 げ 出 さ れ た 」に は 違 い な い と し て も 、自 分 を 生 み 出 し た 他 者 の 欲 望
が 何 で あ っ た の か を 知 ら な い ま ま 、そ の こ と を 含 め て「 現 に 投 げ 出 さ れ て い る 」の だ 。
さらに現存在は、乳幼児の時期において、他者によって抱えられることによってし
か、存在し続けることができなかった。絶対的な依存の時期を経てきたことについて
も 自 ら は 知 ら な い ま ま 、「 投 げ 出 さ れ て い る 」 存 在 と し て 自 己 を 了 解 し て い る 。「 現 に
存在)
→
投げ出されている」という現在的な了解の不可避性を介して、過去の不明を受け入れ
ている。
死 に つ い て も 似 た よ う な こ と が 言 え る 。現 存 在 は 過 去 に 自 己 の 生 誕( 非 存 在
を体験しているがそれについて何も知らないのと同様、未来において自己の死(存在
非存在)を体験するであろうが、その時起こることについて何も知ることができな
→
い。
ど こ か ら や っ て 来 て ど こ へ 行 く の か わ か ら な い の に 、「 こ こ / そ こ に あ る 」 と い う
ことだけは確かな現存在の在りようは、いかにも矛盾に満ちている。しかし現に「投
げ出されている」ということだけが確かなのである。
現 存 在 は 他 者 が い る 「 そ こ 」 に 方 向 づ け ら れ て い る が 、「 そ こ 」 は 、 他 者 が い な く
なる場所でもある。他者が「そこ」からいなくなる時、現存在も「ここ」を失うが、
現 存 在 は 、 他 者 が い な い 「 そ こ 」 に 「 出 る 」。 現 存 在 は 他 者 が い る こ と が い な く な る こ
とだということ、自己(私)がいることがいなくなることだということ、端的には現
存 在 の 死 を 受 け 入 れ て お り 、自 己 の 終 わ り を 含 ん で 存 在 し て い る 。
「 い る こ と 」は 「 い
なくなること」を意味しているのである。
である
Se i n z um To de
z u mを 「 向 か う 」 と い う 方 向 の 意 で 取 る の で は な く 、
ハイデ ガーは 現存 在は 死へ向 かう( 死へと 至って いる )存在
とした。哲学者の細川亮一は、
。現存在は生の時間の終極とし
五
「時点、場所」の意で取るべきで、ハイデガーのこの言は「死へ向かう」と訳すべき
ではなく「死に至っている」と訳すべきだと述べた
4
ての死に向かうのではなく、現在を生きるということの中の際立った可能性として、
すでに「死に至っている」と解するべきだと述べた。非存在から投げ出されている現
存在が、受動性を能動性に変換するかのように、非存在へと自己を「決意して」投げ
入れるのである。ハイデガーはこれを「先駆的決意性」と呼び、ここから存在の根源
的な時間性があらわになると考えた。
」で生 の欲動(エ ロス)と死 の欲動(タ ナ トス)につ
六
現存在は他者の場所に方向づけられながらも、現存在の終わりに至っており、死に
至っている。
フ ロ イ ト は 、「 快 原 理 の 彼 岸
いて述べた。現存在の他者への方向づけに相当するものがエロスであり、非存在への
鏡の空間
先駆性に相当するものがタナトスであると、考えておきたい。
㈢
私はきみの目を見ることができるが、自分の目を見ることはできない。また、きみ
の身体を見ることができるが、自己の身体を見ることはできない。私はそうしようと
思えば視界の下のほうに前を向いた私の両腕があり、両足があり、胴体があって、そ
れぞれが動いているのを見ることができる。目蓋の裏側や鼻先を見ることもできる。
それらは前方に広がる自己身体の一部である。私は私のことを、前方を見たまま背後
を見ることができない〈崖〉の前面と喩えることができる。私は〈崖〉の全体を見る
ことは決してできない。
私はきみの身体の全体を見、その動きを空間の中で把握することができるが、私の
身体の全体をそのようなものとしては見ることができない。私からはきみの存在は一
つのまとまった現実的な存在であるのに対し、私の存在は、きみからどう見えるかと
いう想像の視点を入れることなしには、一つのまとまった存在として知覚することが
できない。私は〈崖〉にすぎない。私は、きみの目にはそう見えていると私が想像す
るところのまとまりであるとみなすことはできるが、自分の目にはそのような確かな
まとまりや、統一感があるようには見えない。私はきみに比べたら、統一性、連続性
を 欠 い た 自 己 身 体 の 諸 部 分 で あ り 、漠 然 と 拡 が る 体 感 と 、身 体 と 外 空 間 と の 接 触 面( 身
体 表 面 )に ひ ろ が る 触 覚 が 伝 え る も の で あ り 、何 よ り も「 私 」が( 一 部 し か )い な い 、
「私」が欠如している視空間である。
私 は 「 こ こ 」 に い る の だ が 、「 こ こ 」 は 「 そ こ 」 に 対 し て 〈 崖 〉 で あ る と 感 じ ら れ
る 。 そ う で あ る 以 上 、「 そ こ 」 も ま た 「 こ こ 」 に 対 し て 〈 崖 〉 で あ る の か も し れ な い 。
私ときみは一体どこにいるのであろうか。非対称性、不平等性をそれぞれが感じるこ
とにおいて、対称であり、平等な場所。
私はきみに見られていることを知る。そしてきみが私についての(私には決して分
からない)何らかの視覚的印象を持つということを理解する。また、そのことで私は
きみを見る私のまなざしの存在を感じる。しかし私のまなざしは存在するが、それが
いかなるものであるかについても想像の対象であるほかない。
5
それでも、きみの目の瞳に私の像が現実に映っているのを私は見ることができる。
夏目漱石もそのような場面を描いている。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、
『夢十夜
』
七
第一夜)
写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。
(夏目漱石
漱 石 の こ の 夢 の 場 面 で 、「 女 」 に 自 分 が 見 え て い る か ど う か が 心 配 に な っ た 「 私 」
が そ の こ と を「 女 」に 聞 き 、
「 女 」は そ れ な ら 自 分 の 目(「 そ こ 」)を 見 る よ う に と 言 い 、
「私」は、自分の顔が「そこ」に映っているのを見たのである。自分には見えない自
分 の 顔 を 相 手 の 黒 い 瞳 の 中 に 見 て 、「 女 」に 自 分 が 見 え て い る こ と を 知 る の で あ る 。「 私 」
と い う 主 人 公 は 、相 手 の ま な ざ し の 中 に 自 分 を 認 め る こ と に よ っ て 初 め て「 私 」は「 私 」
な の だ と 感 じ 、安 心 す る か の よ う に 見 え る 。し か し そ れ は 確 か な こ と な の で あ ろ う か 。
」と い う
八
1 9 4年
9 の チ ュ ー リ ッ ヒ で の 発 表 の 中 で 、人 間 の 子 ど も は 生 後
フランスの精神分析家ジャック ラ
・ カ ン は 、「〈 わ た し 〉 の 機 能 を 形 成 す る も の と し
ての鏡像段階
六ヶ月頃から鏡に映っている自分の像に気づくようになりやがて鏡に向かって戯れる
ようになる。子どもは鏡の中の自分の像の動きと鏡に映っている周囲との関係、像と
(
mo」
i 自 我 )の 想 像 的 母 体 で あ る と し 、
現実との関係を体験する。ラカンはこれを「鏡像段階」と名付けた。ラカンは鏡像を
自分のものとして認め受け入れることが、
「私
自我を想像的なものとした。
私見では、生後六ヶ月頃の乳児は、鏡像を自分だと気づく以前に、周囲の他人が自
分を見ているということに気づき、そのことに「確信」を持つようになっている。他
人の視線を受け止め、そちらの方に進む動きを見せる。この「確信」の醸成には、聴
覚や身体感覚などの、視覚だけではない他の感覚や、とりわけ抱っこされることが関
わっている。乳児は、誕生時からすぐに母親に抱っこされるとその場所が定位置であ
も言っている。
九
るかのように落ち着きを得る。抱っこの環境は再発見された胎内であるということは
ウィニコット
母親の「~ちゃん」という呼び声がどうやら自分に差し向けられているらしいと察
するのも、それが抱っこされることやあやされることの身体感覚を伴うからだと思わ
れる。胎内で聞いた音響でなく、抱いている母親の口から直接に空中を伝わってくる
音声が、母親の腕の中の自分にリズミックに伝わってくる。抱っこされていることの
中で空気中の自己の存在を楽しみ始めている。抱っこの腕の中にいることを身体的に
「 再 発 見 す る 」こ と が あ っ て 初 め て 他 人 の ま な ざ し の 中 に 自 分 が い る こ と を 見 い だ す 。
そのことが他人が自分を見ていることの確信となり、それを確認するかのように、他
者と 目
「 が合う 体
」 験をし始める。相手の目を見れば、そこに自分を感じる、そのこと
を反復的に確かめるのである。このことは、乳児が母親や周囲の人間に関心を持ち、
自 分 を 見 る そ の 視 線 に 方 向 づ け ら れ て 匍 匐 す る こ と の 前 提 と も な る 。視 線 の 交 わ り( 目
6
注一
合 ひ ma g uwa i ) が 運 動 を 方 向 づ け る の で あ る 。
こうした一連の視線の交わりの経験が、自分が映っている鏡を見てそこに自分が映
っていることを見出すという、鏡像の体験の前提となるのである。
i ma ge
鏡像段階以前の子どもは、自分の身体の諸部分を目にしても、それらを一つのまと
ま っ た 全 体 と し て は 認 識 し な い 。ラ カ ン の 言 葉 で 言 え ば 、
「寸断された身体の像
」であるが、一人ではばらばらになりそうな身体を他者に見られ、
mo r c e l ée du c o r ps
声をかけられ、抱っこされることによって、何とか自己を支えているのである。対象
関 係 論 に 言 う 「 部 分 対 象 」「 全 体 対 象 」 と い う 概 念 を 思 わ せ る が 、 こ こ で は 触 れ な い 。
しかし、鏡像、あるいは他者のまなざしに映っている自分は、鏡や他者のまなざし
を見ている限りでの自分である。それらを見ている自分がそこに「写っている」にす
ぎないことは、鏡をいくら見てもそれを見ている自分が見えるだけということと同じ
である。それは他人に見える自分の姿が「ある」ということ以上のことは教えない。
他人は私をこう見ているだろうと想像することも、私が見ている限りでの他人の像か
ら見られた自己の像であり、そこでは他人も自分も想像的に捉えられている。鏡の空
間なのだ。
そこでは自分からは見えない自分の姿を抱えたまま、現存在は互いに方向づけられ
ている。相手の目に映っているであろう自分の想像的な姿によって自己の統一性、ま
」 ウ( ィ ニ コ ッ ト (
一〇
1 9 6 0が) 見
とまりが得られようとする。それは互いの〈崖〉の背後を幻想によって覆うことであ
る 。 そ の た め に 見 せ か け や 、 惑 わ し や 、「 偽 り の 自 己
いだされ演じられる。想像された他者によって媒介される想像的な働きは、互いの目
の 色 を う か が う こ と 、見 交 わ す こ と に よ っ て 可 能 と な り 、そ の 維 持 が 目 的 と な る の で 、
ê t r e l e - l「
à そこ」
他者や私が「そこ」にいなくなること、死滅することは、可能性が先駆されない。こ
の鏡の空間の破砕の可能性は否認されているが、だからといって、
呼び声
と い う 存 在 、「 存 在 の 隠 れ な い あ り さ ま 」 が 開 か れ な い の で は な い の で あ る 。
㈣
漱 石 の『 夢 十 夜 』の「 女 」は 、
「 百 年 、私 の 墓 の 傍 そ ば に 坐 っ て 待 っ て い て 下 さ い 。
きっと逢いに来ますから」と言って男の目の前で死んでしまう。
女 の 目 は 閉 じ て も う 開 か な い 。「 私 」 を 見 て い た 目 は 永 久 に 失 わ れ た の で あ り 、 女
も私ももう相手を見ることができず、相手の目に映っている自分を見ることができな
い。鏡の空間は破砕し鏡像は失われたのである。だからその限りでの「私」も失われ
た の だ 。だ が 、百 年 待 っ て く れ た ら 逢 い に 来 る と 女 は 言 う 。こ の 言 葉 が く り か え し「 私 」
に語りかけ、要求し、従うことを促す。男は女に言われた通り、墓を作り、その傍で
ただただ待つ。女が立ち去った空所が目の前にある。いなくなったことによってかえ
注一
⒑
目合ひ
m a g u w aと
i は、目を目を合わせて愛情を通わせること、また男女の交わりを言い、
に よ れ ば 、イ ザ ナ キ と イ ザ ナ ミ の「 み と の ま ぐ は ひ 」が 日 本 列 島 を 生 み 出 し た の で あ る 。
古事記
7
っ て 存 在 が 充 実 し て い る 。女 は も は や「 そ こ 」に い な い 。
「 私 」は 女 が 非 存 在 へ と 立 ち
l e - l àそ( こ と
去 っ た こ の 空 所 に 「 出 て い る 」 の で あ り 、「 私 」 は 「 そ こ 」 に い 続 け て い る 。
ハ イ デ ガ ー が 現 存 在 は「 こ こ 」に い る と い う こ と で あ る よ り も む し ろ「
l e - l àは 、 他 者 が 立 ち 去 っ た 空 所 、 他 者 の 非 存 在 が 「 そ こ 」 に あ る 場 所
l e - l àそ( こ と い う も の 」) と は こ の よ う な 空 所 を 指 し て 言 っ て い る の で は な い だ
い う も の 」) で あ り 、 そ れ こ そ が 存 在 の 「 隠 れ な い あ り さ ま ― 開 け 」 で あ る と 言 う 。 こ
の時、
「
ろうか。この
であり、この意味でなおかつ他者の場所であり、現存在は他者がそこへと立ち去った
非 存 在 ( 死 ) へ と 共 に 至 っ て お り 、「 そ こ 」 に 「 出 て い る 」。 こ の 死 へ と 「 出 て い る 」
ということが現存在の在り方として、その「隠れないありさま―開け」なのだと、ハ
イデガーは言っているのではないだろうか。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」という
「 女 」の 言 葉 が 、
「 女 」の 死 後 も 存 在 し 続 け る こ と が で き る の は 、言 語 が 、現 存 在 の 誕
生 以 前 か ら あ り 、死 以 後 に も あ る こ と が で き る か ら で あ る 。
「 遺 言 」が 可 能 な の は 、言
語のこのような特質に負う。言語は、太古の人間がそれを創り出し、以降それによっ
て人間が創り出されてきた象徴体系であり、人間は言語という〈他者〉の言葉の一部
を自己のものとし、言葉を自己の存在の一時的住まいとして、そこに住み着くように
することを宿命づけられている。言語は声や書字する手を必要とするが、まなざしや
声 の よ う に 人 間 の 身 体 に 帰 属 す る も の で は な く 、死 や 生 を 超 え て い る 。「 夢 十 夜 」の「 女 」
は死に臨んで自己の声を言語に住み着かせたのであり、その見張りを「私」に依嘱し
たのである。
こ の 言 葉 に よ っ て 、「 そ こ 」 は 、 鏡 像 的 に 互 い に 存 在 を 確 か め る 場 所 で は な く 、 存
在者がいない存在の場所になったのである。
「 女 」の 言 葉 は 、こ の 存 在 の 場 所 の 番 を 百
年していてくれるなら、きっと逢いに来ると言っているように見える。この言葉の現
実的な荒唐無稽さは、そのことによってかえって本質を浮き彫りにしているように思
え る 。「 百 年 」 待 っ て い な さ い と 「 女 」 が 言 う こ と が で き た の は 、「 女 」 が 死 ぬ か ら で
あ り 、そ の 通 り 待 つ「 私 」も 先 駆 的 に 死 に 至 っ て い る か ら で あ る 。
「 百 年 」の 時 が 経 っ
た 時 に 逢 い に 来 た の は「 女 」で は な く 、
「 胸 元 に 伸 び て き た 真 っ 白 い 百 合 」で あ り 、
「上
か ら ぽ た り と 落 ち る 露 」で あ り 、
「 暁 の 星 」と い う 象 徴 的 な も の ど も で あ っ た 。そ こ に
は互いの視線の交錯はなく、鏡像的空間の外部に出た存在の、他者から他者へと呼び
かける沈黙の声である。
嫂の?
妻の?
知られていない誰かの?
そ
であるなら、そもそも『夢十夜』の、死を前にした「女」が誰であるのかという問
いが生まれて来る。それは母親の?
れを確定することが重要なのではない。そのいずれでもあるし、いずれでもないであ
「女」が
ろう。そのように、その時々の文脈によって移り行く像が交錯する場所に「女」がい
る。ではその個々の「女」を鏡像とするのではない「私」とは誰なのか?
い な く な っ た 「 そ こ 」 に い 続 け 、「 女 」 の 墓 を 作 り 、「 百 年 」 待 つ 「 私 」 と は 誰 で あ る
のか?
8
H e i d e g g e r, M . 1 9 2 7 S e i n u n d Z e i ハ
t. イ デ ガ ー 熊 野 純 彦 訳 二 〇 一 三
文献
一
存在と時間
B rie f an Jean Beau fret, Paris.
岩波文庫
ヒ
「 ューマニズム に
」 ついてーパリのジャン・ボーフレに
H u m a n i s m u》
s
H e i d e g g e r, M . 1 9 4 7 Ü b e r d e《
n
ちくま学芸文庫
1』
7 岩波書店
É crits 1.
投げ入れること―人間の初期段階における同
個別的訳注ハイデガー 『 ヒ
「 ューマニズム に
」 ついてーパリのジャン・
p 2 4 9ち く ま 学 芸 文 庫
二〇一三 投げ出されていること
創刊号」限発行所
ハイデガー入門 ちくま新書
新潮文庫二〇〇二
快
」 フロイト全集
「 原理の彼岸 『
Jen seits des Lu stprinz ips
夢十夜
』弘文堂
Ⅰ
東京
Wi n n i c o t t , D . W. 1 9 6 0 E g o d i s t o r t i o n i n t e r m s o f t r u e a n d f a l s e s e l f . T h e M a t u r a t i o n a l
和書店
ニ コ ッ ト 猪 俣 丈 二 訳 一 九 八 五 子 ど も と 家 族 と ま わ り の 世 界( 上 )赤 ち ゃ ん は な ぜ な く の 星
Wi n n i c o t t , D . W. 1 9 6 4 T h e c h i l d , t h e F a m i l y, a n d t h e O u t s i d e Wo r l d . P e n g u i n B o o k s .ウ ィ
機能を形成するものとしての鏡像段階 『エクリ
É d i t i o n s d u S e u i l . P a r i s .ラ カ ン 宮 本 忠 雄 、 竹 内 迪 也 、 高 橋 徹 、 他 訳 一 九 七 四 〈 わ た し 〉 の
Lacan,J. 1949. Le st ade du miro ir comme fo rmateur de la fonction du Je.
夏目漱石一九〇八
フロイト 須藤訓任訳二〇〇六
Freud, S. 1920
細川亮一 二〇〇一
一化について「限
手束邦洋
ボーフレに宛てた書簡』
渡邊二郎一九九七
宛てた書簡
ハイデガー 渡邊二郎訳一九九七
二
三
四
五
六
七
八
九
一〇
本当の,および偽りの自己という観点からみた自我の歪曲
Proce sses and the Facilitat in g Environment. Karnac Book s. Lon don. ウ ィ ニ コ ッ ト 牛 島
定信訳一九七七
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