ワカコイ ∼恋の和歌 - タテ書き小説ネット

ワカコイ ∼恋の和歌∼
coach
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︻小説タイトル︼
ワカコイ ∼恋の和歌∼
︻Nコード︼
N3385BM
︻作者名︼
coach
︻あらすじ︼
恋の和歌のご紹介。﹁和歌なんて分からん! ワカだけにな!﹂
とむやみに威張っている紳士にこそ、知って欲しい、美しい和歌の
世界。﹁和歌ってアレでしょ、五・七・五でうまいこと言うヤツで
しょ﹂と微妙に、というか、かなり誤解している淑女にこそ感じて
もらいたい、おしゃれな和歌の世界。古語の知識やなんやは全く必
要ありません。いざ、三十一文字が織りなす美しくおしゃれな和歌
ワールドへ! ※なお本作品は和歌の現代語訳を紹介するものでは
1
なく、和歌のイメージを紹介するものです。あらかじめご了承くだ
さい。
2
第1首 恋の始まり︵前書き︶
ほととぎす なくやさつきの あやめぐさ あやめもしらぬ こい
もするかな
3
第1首 恋の始まり
ほととぎすが鳴いている。
その声には、人恋しくさせるような切ない響きがある。
時はさつき。
降り込める雨の向こうに、きみを想う。
きみは今何をしているの。
さつき
刀のかたちをしたあやめぐさで邪気を払うことができても、この
想いを払うことはできない。
もう何も分からないよ。
ぼくはきみに恋をしているのかな。
さつき
︻ちょこっと古語解説︼
○五月⋮⋮今の六月くらい。ちなみに、五月晴れとは、梅雨時のた
まの晴れ間のことを指す。今の五月、梅雨前の真っ青に晴れ渡った
状態を指すわけではない。
○あやめ⋮⋮物事の道理、筋道。簡単に言うと、みんなが納得でき
ること。そこから、﹁あやめもしらぬ﹂とは、﹁みんなが納得でき
ることも分からない。もう何にも分からないよ!﹂くらいの意。
4
第1首 恋の始まり︵後書き︶
時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな︵古今和歌
集︶
5
第2首 ひとめ惚れ︵前書き︶
かすがのの ゆきまをわけて おいいでくる くさのはつかに み
えしきみはも
6
第2首 ひとめ惚れ
神社の新春のお祭り。
前の日に雪が降って、一面が真っ白。
ぼくはお参りをしてから、木立の中を歩いていた。
白い雪を踏みながら歩くと、なんだろう、雪を割るようにしてほ
の見えるもの。
若草だ。
嬉しくなってしゃがみ込んだぼくは、さくとかすかな音を聞いた。
顔を上げたぼくのそばを、着物のきみが通り過ぎる。
ほんの一瞬目が合って、そのとき確かに心に生まれた想い。
認めます、一目惚れでした。 ︻ちょこっと古語解説︼
○春日野⋮⋮奈良市やその付近の名称。
○はつかに⋮⋮﹁わづかに﹂ということ。
○はも⋮⋮読む時は、﹁わも﹂で。﹁∼だなあ﹂の意。この和歌が
詠まれた平安時代には、古めかしい言い方になっていた。
7
第2首 ひとめ惚れ︵後書き︶
春日野の雪間を分けて生い出でくる草のはつかに見えし君はも︵古
今和歌集︶
8
第3首 恋心秘めて︵前書き︶
よしのがわ いわきりとおし ゆくみずの おとにはたてじ こい
はしぬとも
9
第3首 恋心秘めて
白い波頭が見える。
まるで岩を切り崩すような勢いで、川の水が流れている。
きみに寄せるぼくの気持ちは同じくらい激しいけれど、決して外
には表さない。
言いふらすような軽い気持ちじゃないから。
じっとこらえて、秘めたまま。
たとえ、この恋心に苦しんで、死んでしまったとしても。
︻ちょこっと古語解説︼
○吉野川⋮⋮奈良県中央部を流れる川。
○音には立てじ⋮⋮﹁音に立つ﹂とは、﹁うわさになる﹂の意。﹁
じ﹂は、﹁∼しないようにしよう﹂という意味なので、﹁音には立
てじ﹂で、﹁うわさにならないようにしよう﹂くらいの訳になる。
10
第3首 恋心秘めて︵後書き︶
吉野川岩切り通し行く水の音には立てじ恋いは死ぬとも
11
第4首 告白のとき︵前書き︶
ひとしれず おもえばくるし くれないの すえつむはなの いろ
にいでなむ
12
第4首 告白のとき
きみに知られずにずっと想いを寄せて来た。
ずっとずっと、ずっと。
秘めたこの気持ちが苦しくて、もうこれ以上隠せそうにない。
その唇に差す鮮やかな紅が、末摘花を思わせる。
花の色が黄から赤へと変わるとともに、深まってきたぼくの想い。
好きなんだ。
今こそきみにこの気持ちを告げよう。
︻ちょこっと古語解説︼
○末摘花⋮⋮ベニバナの異名。花は染料や口紅となる。山形県の県
花。
○色に出でなむ⋮⋮﹁色﹂には﹁外に表れる気配・様子﹂という意
があり、﹁なむ﹂は﹁必ず∼しよう﹂という意味から、﹁外に表し
てしまおう﹂くらいの訳になる。
13
第4首 告白のとき︵後書き︶
人知れず思えば苦し紅の末摘花の色に出でなむ
14
第5首 夢に見る人︵前書き︶
おもいつつ ぬればやひとの みえつらむ ゆめとしりせば さめ
ざらましを
15
第5首 夢に見る人
あなたのことを思う。 もうどのくらい会っていないんだろう。
寂しいよ。
思いながら寝たからかな、あなたが夢の中に出てきた。
いつも通りの笑顔のあなたに、寄りそうわたし。
夢の中で二人。
ふと夢から覚めて一人。
もしも夢だって知っていたら、ずっと夢の中、目覚めようとなん
てしなかったのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○ばや⋮⋮ここでは、﹁∼だからだろうか﹂の意。
○人⋮⋮﹁恋しいあの人﹂の意。和歌の中で﹁人﹂と出てきたら、
そのように考えてOK。
16
第5首 夢に見る人︵後書き︶
思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
17
第6首 燃える想い︵前書き︶
ゆうされば ほたるよりけに もゆれども ひかりみねばや ひと
のつれなき
18
第6首 燃える想い
月の隠れた暗い暗い夏の夕べ、雨上がり、風がやみ。
ぽつんぽつんと現れた金色の光に、あなたは見惚れたまま。
わたしの方を全然見てくれない。
ちょっとでも見てくれれば分かるのに、あなたのことを思って、
蛍なんかよりいっそう、わたしの心が燃えていることが。
見ないから、わたしに無関心でいられるんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○夕されば⋮⋮﹁夕方になると﹂の意。
○けに⋮⋮﹁いっそう﹂の意。
○見ねばや⋮⋮﹁ばや﹂は第5首のものとおんなじで、﹁∼だから
だろうか﹂の意。﹁見ね﹂の方は、ちょっとお勉強的になりますが、
﹁見る﹂という動詞の未然形﹁見﹂に、﹁ず﹂という打消しの助動
詞の已然形である﹁ね﹂がくっついている形で、﹁見ない﹂という
意味になります。全部で、﹁見ないからだろうか﹂くらいの訳。
○人⋮⋮﹁恋しいあの人﹂の意。第5首に同じ。
19
第6首 燃える想い︵後書き︶
夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばや人のつれなき
20
第7首 恋心上の空︵前書き︶
さつきやま こずえをたかみ ほととぎす なくねそらなる こい
もするかな
21
第7首 恋心上の空
うっそう
さつきの山は鬱蒼として、緑なす葉にしとしと雨が。
木の梢が高いところにあるので、とまったほととぎすの声も空ま
で響くよう。
その空にわたしの心もふわりと浮いて、全然、地に足がつかない。
これは恋をしているからかな。
︻ちょこっと古語解説︼
○さつき⋮⋮第1首に同じ。陰暦︵昔のカレンダー︶の五月。今だ
と六月くらい。梅雨の季節である。ちなみに、﹁さつき晴れ﹂とは
梅雨の晴れ間のことで、今の五月の晴れのことではない。
22
第7首 恋心上の空︵後書き︶
五月山木末を高み時鳥鳴く音空なる恋もするかな
23
第8首 出会う前に︵前書き︶
こえぬまは よしののやまの さくらばな ひとづてにのみ きき
わたるかな
24
第8首 出会う前に
県境を越えて、そちらに行くまでの間が待ち遠しい。
桜の花のような方だと人づてにお聞きしています。
いざお会いするまでは、その噂をたよりに、あなたのことを思い
続けましょう。
︻ちょこっと古語解説︼
○吉野の山⋮⋮吉野山。奈良県にある山。桜の名所。
○人⋮⋮ここでは第5首、6首と違って、﹁他人﹂の意の人。
○わたる⋮⋮元々は﹁移動する﹂の意だが、ここでは別の動詞にく
っついて、﹁∼し続ける﹂という意味になっている。﹁聞きわたる﹂
で﹁聞き続ける﹂となる。
25
第8首 出会う前に︵後書き︶
超えぬ間は吉野の山の桜花人づてにのみ聞きわたるかな
26
第9首 雨を見る日︵前書き︶
おきもせず ねもせでよるを あかしては はるのものとて なが
めくらしつ
27
第9首 雨を見る日
きみを想う夜。
はっきりと起きることも、かと言って寝ることもできず、いつし
か夜は明けた。
気がつくと、春の朝にしとしとと雨が降る。
な
それを眺めて、もの思いにふけりながら、その日一日を過ごして
しまったよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○で⋮⋮﹁∼しないで﹂の意。
がめ
○ながめ⋮⋮この語には二つの意味が掛けられている。一つは、長
雨。もう一つは、眺め。﹁長雨﹂は、その通り、長く続く雨。﹁眺
め﹂の方は、﹁眺める﹂とともに、﹁もの思いにふける﹂という意
もある。
28
第9首 雨を見る日︵後書き︶
起きもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ
29
第10首 恋を拒んで︵前書き︶
みるめなき わがみをうらと しらねばや かれなであまの あし
たゆくくる
30
第10首 恋を拒んで
あなたはまるで無駄のことをしている漁師のよう。
海藻さえ生えない海岸に足がだるくなるまで通っている。
みるめ
そんなに通ってきても、わたしはあなたに会うつもりなんかない
のよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○みるめ⋮⋮二つの語を掛けている。一つは、海松布で、海藻の一
種。現在は食用としてはちょっと馴染みが無い感じ。もう一つは、
見る目で、見るが﹁会う﹂という意味であることから、﹁会う機会﹂
くらいの意味になる。
○ばや⋮⋮第5首、6首に同じ。﹁∼だからだろうか﹂の意。
○かれ⋮⋮﹁離れる﹂の意。
○あま⋮⋮﹁漁師﹂の意。女性に限られない。
○足たゆく⋮⋮足をだるそうにして
31
第10首 恋を拒んで︵後書き︶
見るめなき我が身をうらと知らねばやかれなであまの足たゆくくる
32
第11首 叶わない朝︵前書き︶
ありあけの つれなくみえし わかれより あかつきばかり うき
ものはなし
33
第11首 叶わない朝
思いを告げたけれど、断られてしまったあの日。
夜はもう明け方で、家に帰るぼくは、空に残る月を見た。
手のとどかない所にいる月のその冷淡さ。 あの日以来、明け方にふと目を覚ますと、叶わなかった恋を思い
出す。
日が昇る前の時間帯がすっかり嫌いになってしまったよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○有明⋮⋮月が空に残ったまま、夜が明けること。その月のことを
﹁有明の月﹂という。
○つれなく⋮⋮﹁無関係だ、冷淡だ﹂の意。現代語でも﹁つれない﹂
と言う。第6首に同じ。
○暁⋮⋮﹁夜明け、明け方﹂の意。女の家に泊まった男が暁に帰る
ことを、﹁暁の別れ﹂という。
○うき⋮⋮﹁つらい、憂鬱だ﹂の意。
34
第11首 叶わない朝︵後書き︶
有明のつれなく見えし別れより暁ばかりうきものはなし
35
第12首 衣を着る時︵前書き︶
しののめの ほがらほがらと あけゆけば おのがきぬぎぬ なる
ぞかなしき
36
第12首 衣を着る時
東の空がしらじらと明けてゆく。
あなたの寝顔を見つめるわたしは昨夜のまま。
もうすぐ二人それぞれに服を着ないといけない。
それが別れのとき。
悲しいよ、もっと一緒にいたいのにな。
︻ちょこっと古語解説︼
○しののめ⋮⋮明け方。
きぬぎぬ
○ほがらほがらと⋮⋮夜明けに空がしだいに明るくなる様子。しら
じらと。
○きぬぎぬ⋮⋮衣衣で、衣服のことを表すのだが、単なる衣服では
きぬぎぬ
なくて、夜を共にした男女が翌朝別れるときに身につける衣服のこ
とを指す。この別れのことも、衣衣という。後朝とも書く。
37
第12首 衣を着る時︵後書き︶
しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞ悲しき
38
第13首 恋を隠そう︵前書き︶
きみがなも わがなもたてじ なにわなる みつともいうな あい
きともいわじ
39
第13首 恋を隠そう
きみがぼくを好きだとか、ぼくがきみを好きだとか、そんなこと
なにわ
みつ
を言いふらすつもりはないよ。
難波に、港の御津があるだろう。
そのみつじゃないけど、ぼくを見つ、つまり、ぼくに会ったなん
てことは言わないでくれ。
ぼくもきみに会ったなんてことは言わないから。
︻ちょこっと古語解説︼
○君が名も我が名も立てじ⋮⋮﹁名を立つ﹂で、﹁付き合っている
という噂が立つ﹂の意。﹁じ﹂は、打消意志を表す助動詞で、﹁∼
するつもりはない﹂という意味。第3首に同じ。全体で、﹁あなた
の噂もわたしの噂も立てるつもりはない﹂くらいの訳。
○難波⋮⋮現在の大阪市にあった港。
40
第13首 恋を隠そう︵後書き︶
君が名も我が名も立てじ難波なる見つともいうな逢いきともいわじ
41
第14章 再会後の恋︵前書き︶
いそのかみ ふるのなかみち なかなかに みずはこいしと おも
わましやは
42
第14章 再会後の恋
神社にお参りに行った帰り道のことだった。
長く続く道の先にきみの姿を見た。
もう二度と会うことはないと思っていたのに。
もしも再会しなかったら、今頃、きみのことを恋しいと思っただ
ろうか。
いや、再会してしまったからこそ、かえってきみのことが恋しい
んだ。
いそのかみ
ふる
︻ちょこっと古語解説︼
○石上、布留⋮⋮奈良県天理市の地名。石上神宮という有名な神社
がある。
○なかなかに⋮⋮﹁かえって﹂の意
○見ずは⋮⋮﹁ずは﹂で、﹁もし∼しないなら﹂の意。﹁見﹂は、
﹁見る﹂で、﹁会う﹂の意だから、﹁見ずは﹂で﹁もし会わないな
わ
ら﹂くらいの訳になる。
○ましやは⋮⋮﹁まし﹂は﹁反実仮想﹂という用法の助動詞で、﹁
もしも∼だったら︱だろう﹂という意を表します。﹁やは﹂は、﹁
反語﹂という用法で、﹁⋮だろうか、いや⋮ではない﹂という、何
かを尋ねるふりして否定してしまう自己完結的な用法。二つ合わせ
て、﹁もしも∼だったら⋮だろうか、いや⋮ではない﹂くらいの訳
になります。
43
第14章 再会後の恋︵後書き︶
石上布留の中道なかなかに見ずは恋しと思わましやは
44
第15首 冷めた恋心︵前書き︶
さむしろに ころもかたしき こよいもや われをまつらむ うじ
のはしひめ
45
第15首 冷めた恋心
狭いベッドの上、衣を脱ぐきみの姿が目に浮かぶ。
どうしても会いに行く気になれない。
きみに対する気持ちがいつからそうなってしまったのか。
それでも、きみは、今夜もぼくを待っているのだろうか。
可憐な姫のようなきみは。
さむしろ
︻ちょこっと古語解説︼
かた し
○狭莚⋮⋮狭い莚。莚とは、敷き物の総称。
○衣片敷き⋮⋮衣を片方だけ敷いて。男女が共寝するときは、双方
の衣を、敷いたり掛けたりする。片方だけ敷くとは、つまり、自分
の分だけ敷くということ。
ん
○や⋮⋮疑問を表す語。﹁∼か﹂の意。
○らむ⋮⋮﹁∼しているだろう﹂の意。
46
第15首 冷めた恋心︵後書き︶
狭莚に衣片敷き今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫
47
第16首 一夜を待つ︵前書き︶
いまこんと いいしばかりに ながつきの ありあけのつきを ま
ちいでつるかな
48
第16首 一夜を待つ
すぐに来るよ、というあなたの言葉。
それを頼みにして待つ秋の夜長。
何を話そうかな、なんてうきうきとして。
けっして夜が長いなんて思わなかった。
でも、あなたは来なくて。
気がつくと、ほら、有明の月が出ちゃったみたい。
︻ちょこっと古語解説︼
○ん⋮⋮﹁∼しよう﹂の意。
○長月⋮⋮陰暦︵昔のカレンダー︶の九月。今の十月くらい。秋分
を過ぎて、夜が﹁長﹂くなる月。
○有明の月⋮⋮明け方まで残る月。第11首参照。
○つる⋮⋮﹁∼した、∼してしまった﹂の意。お勉強的なことを言
うと、完了の助動詞﹁つ﹂の連体形。
49
第16首 一夜を待つ︵後書き︶
今来んといいしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
50
第17首 催促の連絡︵前書き︶
つきよよし よよしとひとに つげやらば こちょうににたり ま
たずしもあらず
51
第17首 催促の連絡
月が綺麗だよ、いい夜だよ。
そんな風にあの人に言ってやったの。
来てよって言っているようなものかな。
期待してないわけでもないんだけどね。
︻ちょこっと古語解説︼
こ
○人⋮⋮﹁恋しいあの人﹂の意。第5首、6首に同じ。
○来ちょう⋮⋮﹁来﹂は﹁来い﹂という命令形。﹁ちょう﹂は、元
々の表記は﹁てふ﹂で、﹁∼という﹂の意。全部で、﹁来いという﹂
くらいの訳。
○待たずしもあらず⋮⋮﹁しもあらず﹂とは、﹁∼でないわけでも
ない﹂くらいの意なので、﹁待たないわけでもない﹂くらいの訳に
なる。
52
第17首 催促の連絡︵後書き︶
月夜良し夜良しと人に告げやらば来ちょうに似たり待たずしもあら
ず
53
第18首 婉曲な拒絶︵前書き︶
わたつみと あれにしとこを いまさらに はらわばそでや あわ
とうきなん
54
第18首 婉曲な拒絶
わたしのベッドはまるで荒れた海のよう。
ずっとあなたが来てくれないので泣いていたの。
今さら会いたいだなんて言ったってさ。
あなたを迎えるためにベッドの塵を払おうとしても無理なんだ。
あ
塵を払うわたしの袖はこの涙の海に泡となって浮いてしまうから。
わたつみ
︻ちょこっと古語解説︼
とこ
○渡津海⋮⋮海のこと。
○あれにし床⋮⋮あれには、﹁荒れ﹂と、﹁離れ﹂の二つの意味が
掛かっている。あなたが﹁離れ﹂てしまったので、涙のため海のよ
うに﹁荒れ﹂てしまったベッド、というくらいの意味。
○払わば⋮⋮ここでは、恋人の訪れを待って、ベッドメイキングを
すること。
○なん⋮⋮﹁必ず∼だろう﹂の意。第4首の﹁なん﹂は、﹁必ず∼
しよう﹂という意味でした。
55
第18首 婉曲な拒絶︵後書き︶
渡津海とあれにし床を今さらに払わば袖や泡と浮きなん
56
第19首 昔日の想い︵前書き︶
つきやあらぬ はるやむかしの はるならぬ わがみひとつは も
とのみにして
57
第19首 昔日の想い
月の光がさやか、梅の香がかすか。
あのとき、きみと感じたものと同じものであるはずなのに。
何かが違う。
ぼくだけがあのときのまま、めぐり来る春が違うなんてことがあ
るだろうか。
いや、そんなことはない、なにもかも昔のまま。
それなのになぜだろう、なにもかもがこんなにも違って見えるの
は。
︻ちょこっと古語解説︼
○月やあらぬ⋮⋮﹁月や昔の月ならぬ﹂の略。﹁や﹂は反語。反語
とは、﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂という、疑問の形を借りた
否定。﹁ぬ﹂は、﹁︱ではない﹂という打消の意であるので、全部
で﹁月は昔の月ではないのか、いや、昔のままだ﹂というくらいの
訳。
58
第19首 昔日の想い︵後書き︶
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして
59
第20首 心離れる頃︵前書き︶
あいにあいて ものおもうころの わがそでに やどるつきさえ ぬるるかおなる
60
第20首 心離れる頃
何度もあなたと夜を過ごしたね。
そのたびに体を重ねたけれど、あなたの心が離れていくのを止め
られない。
もの思いに沈むころ。
服の袖がわたしの涙で濡れて、そこに月光が映っている。
あ
見上げた月の顔が泣いているように見えるのはどうしてかな。 ︻ちょこっと古語解説︼
○あいにあいて⋮⋮何度も逢って。﹁逢う﹂は、単に会うというこ
そで
とだけではなく、夜を共にすることまで含む。
○袖⋮⋮着物の袖のことだが、和歌で袖が出てきたら、涙をイメー
ジさせるものととらえておくのがよい。涙を拭うわけですね、袖で。
○さえ⋮⋮﹁∼までも﹂の意。現代語の﹁さえ﹂とは別物。
61
第20首 心離れる頃︵後書き︶
あいにあいて物思う頃の我が袖に宿る月さえ濡るる顔なる
62
第21首 心にある花︵前書き︶
いろみえで うつろうものは よのなかの ひとのこころの はな
にぞありける
63
第21首 心にある花
あなたに一つ問題を出すね。
色が無いのに色あせてしまうもの、なーんだ。
花の色がうつるのは目に見えるよね。
これは目に見えないの。
目には見えずにうつるもの。
それはね⋮⋮。
この世にいる人の心の花だよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○で⋮⋮﹁∼ないで﹂の意。﹁見えで﹂で、﹁見えないで﹂くらい
の訳。
○移ろう⋮⋮色があせること。
○人⋮⋮ここでは、一般に人という意味。
○ける⋮⋮元々の形は﹁けり﹂である。和歌の中で使われると、﹁
∼だなあ﹂という詠嘆の意を表す。
64
第21首 心にある花︵後書き︶
色見えで移ろうものは世の中の人の心の花にぞありける
65
第22首 忘れ草の種︵前書き︶
わすれぐさ なにをかたねと おもいしは つれなきひとの ここ
ろなりけり
66
第22首 忘れ草の種
夏の日に忘れ草が大輪の花を開いている。
まるで心配ごとなんて無いみたいに目いっぱい。
いったいこの草は何から生まれたんだろう、なんて考えてみた。
冷淡な人の心から生まれたんじゃないかって、そんなことを思っ
たよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○忘れ草⋮⋮ユリ科のカンゾウ類の総称。初夏に花をつける。若葉
は食用となり、それを食べると、嫌なことを忘れられるという。
○つれなき⋮⋮﹁冷淡な﹂の意。現代語でも﹁つれない﹂という。
第6首、11首に同じ。
○けり⋮⋮和歌の中で使われると、﹁∼だなあ﹂という詠嘆の意を
表す。第21首に同じ。
67
第22首 忘れ草の種︵後書き︶
忘れ草何をか種と思いしはつれなき人の心なりけり
68
第23首 諦めの境地︵前書き︶
ながれては いもせのやまの なかにおつる よしののかわの よ
しやよのなか
69
第23首 諦めの境地
流れ流れて妹背山の中に落ちる吉野川。
その川の流れはまるで、恋に傷ついて泣く恋人たちの気持ちのよ
うに激しい。
もうどうにでもなれ、仕方ない、男女の仲というものは。 ︻ちょこっと古語解説︼
○妹背山⋮⋮和歌山県伊都郡かつらぎ町にある山。﹁妹﹂とは妻あ
るいは恋人の女性を表し、﹁背﹂とは夫あるいは恋人の男性を表す。
○吉野の川⋮⋮吉野川。奈良県中央部を流れる川。和歌山県に入っ
て﹁紀の川﹂となる。
○よしや⋮⋮﹁もうどうにでもなれーい﹂という投げやりな気持ち。
○世の中⋮⋮世の中には三つの意味がある。①世間、②政治の世界、
③男女の仲。ここでは③の意。
70
第23首 諦めの境地︵後書き︶
流れては妹背の山の中に落つる吉野の川のよしや世の中
71
第24首 秋の夜長に︵前書き︶
あしびきの やまどりのおの しだりおの ながながしよを ひと
りかもねん
72
第24首 秋の夜長に
夜空の下に、山の姿が黒々としている。
その山に向かって飛んで行く鳥の尾がやけに長い。
きみは来ずに、今夜もひとり。
この長い夜をまたぼくひとりで寝るのだろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
○あしびきの⋮⋮足を引くように山の裾野が広がっている様。山と
セットで使われる語。
○山鳥⋮⋮キジ科の鳥。昼は雌雄一緒にいるが、夜は別々に別れる
という。
○しだり尾⋮⋮垂れ下がった尾
○か⋮⋮疑問の意を表す。
○ん⋮⋮﹁∼だろう﹂の意。
73
第24首 秋の夜長に︵後書き︶
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝ん
74
第25首 恋心深まる︵前書き︶
つくばねの みねよりおつる みなのがわ こいぞつもりて ふち
となりぬる
75
第25首 恋心深まる
山の頂上から生まれた細い流れ。
それが次第に太くなり、ついに激しくたぎり落ちる。
ぼくがきみへ寄せる想いも同じだ。
初めはほのかなものにすぎなかった気持ちが、積もり積もって大
きくなった。
なんたいさん
にょたいさん
まるで川の淵のように想いはたまり、川の淵のように気持ちが深
まったんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○筑波⋮⋮茨城県の筑波山。山頂が男体山と女体山に分かれている。
○淵⋮⋮流れがよどんで深くなっているところ。
76
第25首 恋心深まる︵後書き︶
筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる
77
第26首 乱れ乱れて︵前書き︶
みちのくの しのぶもじずり たれゆえに みだれそめにし われ
ならなくに
78
第26首 乱れ乱れて
みちのくにあるしのぶずりのその美しい乱れ模様。
その模様のようにぼくの気持ちも乱れている。
誰のせいだろう。
ぼく自身のせいじゃない。
他ならぬきみのせいで、これほど心乱れているんだ。
みちのく
︻ちょこっと古語解説︼
しのぶ
○陸奥⋮⋮東北地方。特にその東半分。
す
ごろも
しのぶくさ
○しのぶもじずり⋮⋮現在の福島県信夫地方から産出された乱れ模
様の摺り衣。摺り衣は、忍草の茎や葉の汁を摺りつけて染めた衣の
こと。
○われならなくに⋮⋮﹁∼なくに﹂は、﹁∼ではないのに﹂という
意味。この和歌が詠まれた頃には、古い言い方になっていた。﹁わ
れならなくに﹂で、﹁わたし︵のせい︶ではないのに﹂くらいの訳。
79
第26首 乱れ乱れて︵後書き︶
陸奥のしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに
80
第27首 夢への招待︵前書き︶
すみのえの きしによるなみ よるさえや ゆめのかよいじ ひと
めよくらん
81
第27首 夢への招待
闇の中に響く波の音。
波が寄せる岸辺に生い茂る松。
あなたを待つわたしの元に立ち寄る人はいない。
夜見る夢の中でも会いに来てくれないなんて。
お昼ならまだしも、いったい誰の目を気にしているの。
︻ちょこっと古語解説︼
○住の江⋮⋮大阪市住吉区の一帯の海岸で、松の名所。
○よるさえや⋮⋮よるは、波が﹁寄る﹂と﹁夜﹂を同時に表してい
る。﹁さえ﹂は、﹁∼までも﹂の意。﹁昼間だけではなく夜までも﹂
という気持ちを込めている。﹁や﹂は疑問。
○夢の通い路⋮⋮好きな人が夢に現れると、現代だと、自分が会い
たいと思うから夢に見た、と解釈するのが一般的である。これは古
代も変わらない︵第5首参照︶。しかし、古代にはもう一つの解釈
があって、それが、﹁相手が自分のことを想って夢の中に現れてく
れた﹂というものである。このとき、恋人が夢の中で自分に会いに
来てくれる道のことを、夢の通い路という。
○人め⋮⋮人目のこと。他人の見る目。
○よく⋮⋮﹁避ける﹂の意
82
第27首 夢への招待︵後書き︶
住の江の岸による波よるさえや夢の通い路人めよくらん
83
第28首 恋への絶望︵前書き︶
なにわがた みじかきあしの ふしのまも あわでこのよを すぐ
してよとや
84
第28首 恋への絶望
芦が生い茂る中にわたしはたたずんでいます。
それは美しくも寂しげで、想いは遥かあなたのもとへと。
芦の節と節のそのあいだ。
そのくらいの短い間でいいんです。
ほんの少しもあなたに会わないままでこの世を終えてしまえと、
あなたはそう言うのでしょうか。
なにわがた
︻ちょこっと古語解説︼
あ
○難波潟⋮⋮現在の大阪湾の一部。芦が生い茂っていた。なお、あ
しは﹁悪し︵悪い︶﹂につながるので、縁起が悪いということで、
﹁よし﹂という別名もある。
うちけし
○ふしの間も⋮⋮芦の節と節の間。転じて、ほんの少しの時間のこ
と。
○で⋮⋮﹁∼ないで﹂の意。文法用語で、﹁打消接続﹂という。
85
第28首 恋への絶望︵後書き︶
難波潟みじかき芦のふしの間も逢わでこの世を過ぐしてよとや
86
第29首 もれた秘密︵前書き︶
わびぬれば いまはたおなじ なにわなる みをつくしても あわ
んとぞおもう
87
第29首 もれた秘密
ぼくたちの関係は人の知るところとなった。
ぼくは航路標識を失った船のよう。
どこに向かえばいいのか、どうしていいのか分からない。
こうなったら今はもう同じことか。
この身がどうなってもかまやしない。
ただきみにもう一度会えるなら。
︻ちょこっと古語解説︼
みおつくし
○わび⋮⋮元の形は﹁わぶ﹂で、﹁つらい﹂の意。
なにわ
○はた⋮⋮﹁また﹂の意
○難波⋮⋮現在の大阪市やその周辺の古称。
○みをつくし⋮⋮この語は、﹁身を尽くし﹂と﹁澪標﹂の二つの意
味を表している。﹁身を尽くし﹂の方は、この身がどうなってもい
いので、くらいの意である。﹁澪標﹂って、なに? という話にな
るが、これは、船の航行の目印に立てられた杭のこと。
○ん⋮⋮﹁∼しよう﹂という意志を表す。
88
第29首 もれた秘密︵後書き︶
わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢わんとぞ思う
89
第30首 連れ出そう︵前書き︶
なにしおわば おうさかやまの さねかずら ひとにしられで く
るよしもがな
90
第30首 連れ出そう
さ寝なんていう色っぽい名を持つならさあ、さねかずらくん。
きみのつるで、あの人をするするとたぐりよせたい。
ひっそりと、誰にも知られず会うために。
︻ちょこっと古語解説︼
○名にしおわば⋮⋮﹁名におう﹂は、﹁その名を持つ﹂という意味
で、﹁ば﹂は﹁∼なら﹂の意を持つので、﹁名にしおわば﹂で﹁そ
おうさかやま
の名を持つならば﹂くらいの訳。
○逢坂山⋮⋮京都府と滋賀県の国境にある山。﹁逢う﹂という語を
中に含み、逢う、すなわち一夜を共に過ごす、ことを連想させる。
ビナンカズラ
○さねかずら⋮⋮モクレン科のつる草。茎を煮て整髪料を作ってい
く
たため、美男葛の別名を持つ。﹁さね﹂という語を中に含み、さ寝、
すなわち共寝、を連想させる。
○人⋮⋮ここでは、﹁他人﹂の意。
○で⋮⋮﹁∼ないで﹂の意。
○くる⋮⋮二つの意味を持つ。一つは﹁来る﹂で、もう一つは﹁操
る﹂だ。繰るとは、たぐりよせる、という意味。
○よし⋮⋮方法、手段の意。
○もがな⋮⋮﹁∼であればなあ﹂という願望の意。
91
第30首 連れ出そう︵後書き︶
名にしおわば逢坂山のさねかずら人にしられでくるよしもがな
92
第31首 いつか見た︵前書き︶
みかのはら わきてながるる いずみがわ いつみきとてか こい
しかるらん
93
第31首 いつか見た
広々とした野を割って大河が流れている。
その川のようにこんこんと湧き出て来るあの人への想い。
どうしてだろう。 一度も会ったことがないのにこんなに恋しいのは。
︻ちょこっと古語解説︼
○みかの原⋮⋮京都府相楽郡加茂町を流れる木津川の北側の一帯。
○わき⋮⋮﹁分き﹂と﹁湧き﹂の二つの意味が掛かっている。﹁分
き﹂は、﹁分ける﹂の意で、﹁湧き﹂は、﹁湧く﹂の意。
○泉川⋮⋮現在の木津川。
○いつ見きとてか⋮⋮﹁見き﹂は、﹁見る﹂+﹁き﹂で、﹁き﹂は
過去の意を表す。﹁とて﹂は、﹁といって﹂の意。﹁か﹂は疑問。
全体で、﹁いつ会ったことがあるといってか﹂くらいの訳。
94
第31首 いつか見た︵後書き︶
みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらん
95
第32首 誓いの効果︵前書き︶
わすらるる みをばおもわず ちかいてし ひとのいのちの おし
くもあるかな
96
第32首 誓いの効果
あなたがわたしのことを忘れてしまっても、それはいいの。
わたし自身のことはね。
でも、わたしのことを永遠に愛するってあなたは神様の前で誓っ
たよね。
神聖な誓いはそれを破る人に死をもたらすもの。
あなたは死ぬの。
死んでしまうのかと思えば、あなたのことを惜しむ気持ちがわい
てくるみたい。
︻ちょこっと古語解説︼
○人⋮⋮﹁恋しいあの人﹂の意。和歌で﹁人﹂と出てきたら、﹁他
人﹂の意の場合もあるが、たいていは、﹁大好きなカレ、カノジョ﹂
の意で解しておくのがよい。
○惜し⋮⋮失うに忍びない気持ちを表す。
97
第32首 誓いの効果︵後書き︶
忘らるる身をば思わず誓いてし人の命の惜しくもあるかな
98
第33首 想い溢れて︵前書き︶
あさじうの おののしのはら しのぶれど あまりてなどか ひと
のこいしき
99
第33首 想い溢れて
浅茅の生えている篠原にそよ風が吹く。
さわさわとした葉の音が想いをあふれさせるんだ。
う
しのび続けてきたけれど、どうしてだろうか。
ちがや
きみのことがこんなに恋しいのは。
あさじ う
︻ちょこっと古語解説︼
○浅茅生⋮⋮﹁浅茅﹂は丈の短い茅。﹁生﹂は草や木が生えている
しのはら
ところ。
○篠原⋮⋮細い竹の生えている野原。
○しのぶ⋮⋮我慢する、の意。
○あまりて⋮⋮あまり、は﹁あまる﹂で多すぎてあふれること。
○などか⋮⋮どうして、の意。
100
第33首 想い溢れて︵後書き︶
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき
101
第34首 表情の変化︵前書き︶
しのぶれど いろにいでにけり わがこいは ものやおもうと ひ
とのとうまで
102
第34首 表情の変化
恋なんだろう、と言われたよ。
きみのこと一度も話していないのに。
心のうちにしのんできたきみへの思い。
それがいつのまにか顔色に表れてしまったみたいなんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○しのぶれど⋮⋮﹁しのぶれ﹂は﹁しのぶ﹂の変化で、﹁我慢する﹂
の意。第33首に同じ。﹁ど﹂は、﹁∼だけれど﹂を表す。全体で、
﹁我慢したけれど﹂くらいの訳。
○色⋮⋮顔つきや表情などのこと。
○ものや思う⋮⋮﹁もの思う﹂は恋のもの思いをするということ。
﹁や﹂は疑問。
103
第34首 表情の変化︵後書き︶
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思うと人の問うまで
104
第35首 恋の噂立つ︵前書き︶
こいすちょう わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ お
もいそめしか
105
第35首 恋の噂立つ
恋をしているというぼくの噂が早くも立ってしまったみたいだ。
どうしてだろう。
人に知られないように注意していたのに。
それにまだきみのことを思いはじめたばかりなのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○ちょう⋮⋮﹁という﹂の意。
○名⋮⋮世間の噂・評判。
○まだき⋮⋮﹁早くも﹂の意。
○立ちにけり⋮⋮けりは、気づき、を表す助動詞。﹁立ちにけり﹂
で、気がついたら立ってしまっていた、くらいの訳。
○しか⋮⋮もともとの形は﹁き﹂で、お勉強的なことを言うと、そ
の﹁き﹂の已然形。﹁き﹂は過去を表す助動詞。
106
第35首 恋の噂立つ︵後書き︶
恋すちょうわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思いそめしか
107
第36首 変心を恨む︵前書き︶
ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつやま なみ
こさじとは
108
第36首 変心を恨む
約束したじゃないか。
たがいに涙を拭いた袖をしぼって。
波が山を越さないように、二人の心が変わらないということを。
それなのに、きみはぼくを裏切った。
裏切ったんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○契りきな⋮⋮契りは、元の形が﹁契る﹂で、約束するの意。﹁き﹂
は過去を表す。﹁な﹂は感動を表す語。
○かたみに⋮⋮たがいに、の意。
○袖をしぼりつつ⋮⋮和歌で、袖が出てきたら、涙を思い浮かべる
のがよい。涙を袖で拭うわけです。拭った涙でびしょびしょになっ
た袖をしぼるというわけ。
○末の松山⋮⋮宮城県多賀城市あたりの地名。
109
第36首 変心を恨む︵後書き︶
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
110
第37首 その後の心︵前書き︶
あいみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おも
わざりけり
111
第37首 その後の心
ずっとずっと夢見ていた、きみと結ばれる夜のことを。
やっとその時が来て、ぼくは天にも昇るようで、でも翌朝別れた
あとのぼくはもの思いにふけるばかり。
きみのことが恋しくてたまらないんだ。
この気持ちに比べれば、以前きみを恋い慕っていた気持ちなんて、
何ほどのものでもなかったんだなあ、と思うよ。
あ
︻ちょこっと古語解説︼
○逢い見ての⋮⋮﹁逢い︵逢う︶﹂﹁見︵見る︶﹂は、単に相手に
会うということだけではなく、一夜を共にすることまで含む。
○ものを思わざりけり⋮⋮﹁ものを思わ︵ものを思う︶﹂は、恋の
もの思いをする意。﹁ざり﹂は元の形が﹁ず﹂で、﹁∼ではない﹂
という意味。﹁けり﹂は、今初めて気がついた感動を表す語。なの
で全部で、﹁恋のもの思いではなかったんだなあ﹂というくらいの
訳。
112
第37首 その後の心︵後書き︶
逢い見てののちの心にくらぶれば昔はものを思わざりけり
113
第38首 会えるから︵前書き︶
おうことの たえてしなくは なかなかに ひとをもみをも うら
みざらまし
114
第38首 会えるから
きみに会えるから、その期待にいっそう苦しむんだ。
もしも会うことが絶対にないのなら、あきらめもつくのに。
絶対に会えないのなら、かえってさあ。
きみの冷たさもぼくの不甲斐なさも、恨むことなんてないんだよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○なくは⋮⋮﹁もし無かったら﹂の意。
○なかなかに⋮⋮かえって、の意。
○人をも身をも⋮⋮人は﹁恋しいあの人﹂を指し、身は﹁自分自身﹂
を指す。﹁あの人のこともこの身のことも﹂くらいの訳。
115
第38首 会えるから︵後書き︶
逢うことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし
116
第39首 死に至る恋︵前書き︶
あわれとも いうべきひとは おもおえで みのいたずらに なり
ぬべきかな
117
第39首 死に至る恋
きみの態度は冷たくなって、ついには顔も合わせてくれなくなっ
た。
悲しいよ。
でも、ぼくのこの悲しみをきみは分かってはくれないだろう。
だから、ぼくのことをかわいそうだとも、思ってくれはしないね。
このまま、きみに恋い焦がれながら、死んでしまいそうだよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○いうべき人は⋮⋮べきは、﹁べし﹂で当然の意を表し、﹁∼する
はず﹂くらいの訳。﹁人﹂は、﹁恋しいあの人﹂の意。よって、﹁
言ってくれるはずの恋しいあの人は﹂くらいの訳になる。
○思おえで⋮⋮思おえ、は﹁思おゆ﹂で﹁思い浮かぶ﹂の意。﹁で﹂
は、﹁∼ないで﹂という意味。全体で、﹁思い浮かばないで﹂くら
いの訳。
○いたづらになり⋮⋮﹁いたづらになる﹂は、死ぬ、ことを意味す
る。
118
第39首 死に至る恋︵後書き︶
あわれともいうべき人は思おえで身のいたづらになりぬべきかな
119
第40首 行く先不明︵前書き︶
ゆらのとを わたるふなびと かじをたえ ゆくえもしらぬ こい
のみちかな
120
第40首 行く先不明
この恋がどうなるか、ぼくには分からない。
ぼくはまるで激流に翻弄される小舟の船頭のよう。
かじを失くしてしまって、もう流れに身を任せるしかない。
この気持ちがこの先どこへ向かうのか、もう分からないよ。
ゆら
︻ちょこっと古語解説︼
ふなびと
○由良のと⋮⋮京都府宮津市の由良川の河口。激流。
○舟人⋮⋮船頭のこと。
○かじ⋮⋮舟を操る道具。一番イメージしやすいのは、ボートのオ
ールだろう。
○たえ⋮⋮元の形は、﹁たゆ︵絶ゆ︶﹂で、﹁なくなる﹂の意。
121
第40首 行く先不明︵後書き︶
由良のとを渡る舟人かじをたえ行くえも知らぬ恋の道かな
122
第41首 心くだけて︵前書き︶
かぜをいたみ いわうつなみの おのれのみ くだけてものを お
もうころかな
123
第41首 心くだけて
風が激しく吹いている。
その風に吹かれて起こされた波が岩を打ち、砕け散る。
それはまるでぼくの今の気持ちのようだ。
きみの冷たい仕打ちにぼくの心はくだけ、ぼくだけが思い悩んで
いる。
︻ちょこっと古語解説︼
○風をいたみ⋮⋮﹁名+を+形容詞の語幹+み﹂で、﹁名が∼なの
で﹂の意。例えば、﹁山を高み﹂で、﹁山が高いので﹂となる。﹁
いた﹂というのは、元の形は﹁いたし﹂で﹁程度がはなはだしい﹂
意を表す。全体で、風が激しいので、くらいの訳となる。
124
第41首 心くだけて︵後書き︶
風をいたみ岩うつ波のおのれのみくだけてものを思うころかな
125
第42首 恋の夜と昼︵前書き︶
みかきもり えじのたくひの よるはもえ ひるはきえつつ もの
をこそおもえ
126
第42首 恋の夜と昼
王宮の門を守る兵士が焚く火。
その火は夜は燃え、昼は消えている。
きみに寄せるぼくの思いも同じだ。
夜は燃えるようになるが昼は消え、もの思いにふけるばかりだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○みかきもり⋮⋮宮中の諸門を警護する兵士。
○ものをこそ思え⋮⋮﹁ものを思う﹂は、恋のもの思いをする意。
﹁思え﹂という形は、﹁こそ﹂という語の効果によって、その形に
なっているだけで、命令の形ではない。なので、全体の意味は、﹁
ものを思う﹂という表現と変わらない。
127
第42首 恋の夜と昼︵後書き︶
みかきもり衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつものをこそ思え
128
第43首 心情の変化︵前書き︶
きみがため おしからざりし いのちさえ ながくもがなと おも
いけるかな
129
第43首 心情の変化
想いを遂げる以前は、惜しくなかったこの命。
その命まで、きみのせいで、長く続いてほしいと思うようになっ
てしまった。 想いを遂げた今。
少しでも長く一緒にいたいんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○惜しからざりし⋮⋮﹁ざり﹂は、﹁∼ではない﹂の意。﹁し﹂は、
﹁∼だった﹂という意味。全体で、﹁惜しくはなかった﹂くらいの
訳。
○もがな⋮⋮願望を表す語。﹁∼であればなあ﹂の意。
○思いけるかな⋮⋮﹁ける﹂は、﹁けり﹂で、気づきを表す語。﹁
かな﹂は、詠嘆を表す。全体で、﹁気がつくとそう思っていたのだ
った、ああ﹂という感じ。
130
第43首 心情の変化︵後書き︶
君がため惜しからざりし命さえ長くもがなと思いけるかな
131
第44首 告げる想い︵前書き︶
かくとだに えやはいぶきの さしもぐさ さしもしらじな もゆ
るおもいを
132
第44首 告げる想い
きみのことがこんなに好きなんだ。
せめてそれだけでも伝えたいけれど、伝えることはできない。
きみは知らないだろう。
さしも草がじりじりと燃えているように、ぼくの心もまた、きみ
を想って燃えていることを。
︻ちょこっと古語解説︼
○かくとだに⋮⋮﹁かく﹂は、﹁このように﹂の意。﹁だに﹂は、
﹁せめて∼だけでも﹂という意味。全体で、﹁このようであるとい
うことだけでも﹂くらいの訳。
○さしも草⋮⋮よもぎの異名で、灸に用いるもぐさの材料となる。
○さしも知らじな⋮⋮﹁さ﹂は、﹁そのように﹂の意。﹁し﹂﹁も﹂
は強調の語で、﹁さ﹂を強めている。﹁じ﹂は、﹁∼ないだろう﹂
という意味。﹁な﹂は、詠嘆の語。全体で、﹁そのようであるとは
知らないだろう﹂くらいの訳。
133
第44首 告げる想い︵後書き︶
かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思いを
134
第45首 朝を恨んで︵前書き︶
あけぬれば くるるものとは しりながら なおうらめしき あさ
ぼらけかな
135
第45首 朝を恨んで
夜が明けても、そのうちに日は暮れる。
そうすればまたきみに会える。
それは分かっているんだ。
季節は冬で、日が暮れるのも早い。
それでもやっぱり、うらめしいんだな。
きみと別れなければならないこの夜明けが。
︻ちょこっと古語解説︼
○ぬれ⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す。
○ながら⋮⋮逆接を表し、﹁∼だけれど﹂の意。
○なお⋮⋮そうは言ってもやはり、の意。
○朝ぼらけ⋮⋮夜明け方、あたりがほんのりと明るくなってくる頃。
136
第45首 朝を恨んで︵後書き︶
明けぬれば暮るるものとは知りながらなおうらめしき朝ぼらけかな
137
第46首 一人寝の夜︵前書き︶
なげきつつ ひとりぬるよの あくるまは いかにひさしき もの
とかはしる
138
第46首 一人寝の夜
あなたが来てくれない。
そのことを何度も嘆いて、一人で寝なければいけない夜。
その夜が明けるのがどんなに長いものであるか、あなたに分かる
でしょうか。
いいえ、絶対に分からないに違いありません。
︻ちょこっと古語解説︼
○つつ⋮⋮ここでは、﹁何度も∼する﹂という反復の意。﹁∼しな
がら﹂ではない。
○いかに⋮⋮﹁どのくらい﹂の意。
○かは⋮⋮反語を表す語。反語とは、﹁∼だろうか、いや∼ではな
い﹂という、疑問の形を借りた否定のこと。
139
第46首 一人寝の夜︵後書き︶
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
140
第47首 はらむ別れ︵前書き︶
わすれじの ゆくすえまでは かたければ きょうをかぎりの い
のちともがな
141
第47首 はらむ別れ
﹁きみを愛しているこの気持ち、絶対に忘れないよ﹂
その言葉がこの先ずっと続くことを、信じることは難しい。
人の気持ちは変わるもの。
いっそ、その言葉をもらった今日という日を最後に、死んでしま
えたらいいのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○じ⋮⋮﹁∼しようとしない﹂の意。
○行く末⋮⋮将来。
○かたければ⋮⋮﹁かたけれ﹂は、﹁かたし﹂の変化で、﹁難しい﹂
という意。﹁ば﹂は、﹁∼なので﹂という原因・理由を表す。
○もがな⋮⋮﹁∼であればなあ﹂という願望を表す。
142
第47首 はらむ別れ︵後書き︶
忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな
143
第48首 生の思い出︵前書き︶
あらざらん このよのほかの おもいでに いまひとたびの あう
こともがな
144
第48首 生の思い出
わたしは死ぬでしょう。
もう長くはありません。
あの世への思い出に、もう一度だけ、あなたにお会いすることが
できたらいいのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○あらざらん⋮⋮﹁あら﹂は﹁あり﹂で、﹁生きている﹂の意。﹁
ざら﹂は﹁ず﹂で、﹁∼ない﹂という意味。﹁ん﹂は、推量で﹁∼
だろう﹂を表す。全体で、﹁生きていないだろう﹂くらいの訳。
○今ひとたび⋮⋮もう一度。
○逢う⋮⋮古語では、ただ会うだけではなく、夜を共にすることま
で含む。
○もがな⋮⋮﹁∼であればなあ﹂という願望。
145
第48首 生の思い出︵後書き︶
あらざらんこの世のほかの思い出に今ひとたびの逢うこともがな
146
第49首 忘れない人︵前書き︶
ありまやま いなのささはら かぜふけば いでそよひとを わす
れやはする
147
第49首 忘れない人
山に近い笹原に風が吹いて、笹の葉がそよそよと鳴る。
思い切って言いますが、それと同じことなんです。
あなたから連絡があれば、わたしの心は高鳴るもの。
どうしてあなたのことを忘れることなんてあるでしょうか。
︻ちょこっと古語解説︼
いな
○有馬山⋮⋮現在の神戸市北区有馬町あたりの山。
○猪名の笹原⋮⋮今の伊丹市から尼崎市あたりの平野。
○いで⋮⋮人を何かに誘うときや、自分が何かをしようとするとき
に発する語。
○そよ⋮⋮笹の葉が﹁そよそよ﹂と鳴る音を表すとともに、﹁その
ことなんですよ﹂という意味も表す。
○人⋮⋮﹁大好きなあなた﹂の意。和歌の中で、﹁人﹂と来たら、
そのように解釈して大体OK。
○忘れ⋮⋮恋人を捨てる、という意味。和歌の中で、﹁忘る﹂と来
たら、そう解釈できることが多い。
○やは⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂という﹁反語﹂という
用法。
148
第49首 忘れない人︵後書き︶
有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
149
第50首 月沈むまで︵前書き︶
やすらはで ねなましものを さよふけて かたぶくまでの つき
をみしかな
150
第50首 月沈むまで
ためらわないで、寝ていたのに。
あなたが来ないって分かってたら。
バカだな。
夜がふけて、西にかたむくまでの月を見ちゃった。
︻ちょこっと古語解説︼
○やすらわで⋮⋮﹁やすらわ﹂は、元の形が﹁やすらう﹂で、﹁た
めらう﹂の意。﹁で﹂は、﹁∼ないで﹂の意であるので、全体で、
﹁ためらわないで﹂くらいの訳。
○寝なましものを⋮⋮﹁な﹂は、元の形が﹁ぬ﹂で、完了を表す。
﹁まし﹂は、﹁仮の話だが∼していたのに﹂の意。﹁ものを﹂は、
逆接を表す。
151
第50首 月沈むまで︵後書き︶
やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな
152
ちょこっと和歌技法1 序詞1
﹁ワカコイ﹂50首達成を勝手に記念して、和歌の技法を一つ、
ご紹介します。
和歌にはいろいろな技法、つまりテクニックが使われています。
それらのテクニックは、詠み手の想いをより正確に伝えるもので
あったり、より豊かに伝えるものであったり、想いとは全然関係な
いものであったりします。
いずれにせよ、テクニックが理解できると、和歌の内容をよりよ
じょことば
く捕まえることができます。
今回、ご紹介するのは、序詞というテクニックです。
序詞というのは、どういうテクニックか、実際の和歌を例にしな
がら、ご説明します。
ほととぎす
さつき
例にする和歌は、﹁ワカコイ﹂第1首の和歌。
時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな
現代語訳は、以下の通りになります。
﹁時鳥が鳴く五月に咲くあやめ草、その﹃あやめ﹄ではないが﹃あ
やめも知らない﹄、つまり道理も分からない恋をしているのだなあ﹂
⋮⋮ん? なんだこれ? という感じになりませんか? 訳の真
ん中あたりの意味がよく分からないと思います。なんでわけ分から
ない感じになっているかというと、序詞が使われているからなんで
すね。
さて、では、序詞とはなんぞやと。
この﹁時鳥︱︱﹂の和歌で最も伝えたいことは、﹁あやめも知ら
ぬ恋もするかな﹂という部分です。﹁あやめ﹂というのは、﹁物事
の筋道、道理﹂くらいの意味です。﹁筋道、道理﹂というのもなか
なか難しい言葉ですが、簡単に言うと、﹁みんなが納得できること﹂
という意味です。例えば、1+1=2、みたいな。すると、﹁あや
153
めも知らぬ﹂というのは、﹁みんなが納得できることも分からない。
もう何にも分からない﹂という意味になって、﹁あやめも知らぬ恋
もする﹂とは、﹁きみのことが恋しくて、もう何にも分からなくな
っちまったゼ﹂てな、感じになります。
この和歌で最も言いたいことはそこなんですけれど、和歌の冒頭
からいきなりそんなことを言ったら品が無い。今はスピード社会な
ので、何でもストレートに言った方がいいのかもしれませんが、古
代の人はそれじゃ面白みが無いと思ったんですね。そこで、本当に
伝えたいことの前に、一見関係ないように思えることを詠みます。
﹁時鳥鳴くや︱︱﹂という出だしで、相手に、﹁え? 鳥の話?﹂
と思わせておいて、実は恋する気持ちを伝える、という、その転換
が面白いわけですね。
この一見関係ないように思える部分、上の和歌では、﹁時鳥鳴く
や五月のあやめ草﹂が、序詞に当たります。
とはいえ、一見関係ないように思えることでも、ちゃんと関係が
無ければいけません。全然無関係なことを詠んでいては、﹁なんで
詠んだの、それ!﹂ということにになっちゃいますからね。
では、この和歌の﹁時鳥鳴くや五月のあやめ草﹂の部分は、﹁あ
やめも知らぬ恋もするかな﹂という部分とどういう風に関係がある
のか。両方ともに、﹁あやめ﹂という言葉が共通していますね。二
つのあやめは意味的には関係ありません。﹁あやめ草﹂は、そうい
う植物のことですし、﹁あやめも知らぬ﹂の方の﹁あやめ﹂はさき
ほど言ったとおり、物事の筋道のことです。しかーし、音は同じで
すね。どっちも、﹁あやめ﹂です。⋮⋮終了。
いや、音が同じだから何なの! と思うでしょう。確かにその通
りです。音が同じだから何なのっていう話なんですが、その同じ音
の語を重ねるところに面白さがあるわけですよ。
この和歌で最も言いたいことは、繰り返しになりますが、﹁あや
めも知らぬ恋もするかな﹂という部分です。その冒頭にある﹁あや
め﹂という音を持つ別の意味の語を、前に持ってくる。すると、﹁
154
あやめ﹂﹁あやめ﹂という音の繰り返しという面白い現象が起こっ
て、﹁あ、なるほど、﹃時鳥鳴くや五月のあやめ草﹄っていう部分
は、﹃あやめも知らぬ恋もするかな﹄という部分を言いたいために
持って来られた部分なんだ﹂と聞き手に思ってもらえるわけですね。
このように、和歌の中で、気持ちを伝える前に置かれる一見関係
ないように思われる部分のことを、序詞と言います。
序詞にもタイプがあり、今回ご紹介したのは、﹁同音反復﹂によ
る序詞というものです。あと2タイプあるのですが、それはまた別
の機会にご紹介したいと思います。
引き続き恋の和歌の世界をご堪能ください。
155
第51首 想いを断つ︵前書き︶
いまはただ おもいたえなん とばかりを ひとづてならで いう
よしもがな
156
第51首 想いを断つ
今となってはもうきみのことをあきらめようと思う。
互いの立場が違いすぎたんだ。
ただそのことを人づてでなく、直接会って伝えたい。
きみに会うことは禁じられて、せめて別れの気持ちを伝える方法
さえあったら。
︻ちょこっと古語解説︼
○今はただ⋮⋮今となってはもう。
○なん⋮⋮﹁な﹂は、﹁ぬ﹂の変化で、﹁必ず∼する﹂の意。﹁ん﹂
は、﹁∼しよう﹂の意。全体で、﹁必ず∼しよう﹂という意味にな
る。
○で⋮⋮﹁∼ではなく﹂の意。
○よし⋮⋮方法、手段。
○もがな⋮⋮﹁∼であればいいのに﹂という願望を表す。
157
第51首 想いを断つ︵後書き︶
今はただ思い絶えなんとばかりを人づてならで言うよしもがな
158
第52首 名を惜しむ︵前書き︶
うらみわび ほさぬそでだに あるものを こいにくちなん なこ
そおしけれ
159
第52首 名を惜しむ
あなたのことを恨みに恨んで、もう恨む気力もなくなりました。
そのたびに流す涙をぬぐっていたせいで、わたしの袖は乾きもし
ません。
袖がダメになってしまうのでさえ惜しいのに、それにもまして惜
しく思うものがあります。
それはわたしの名誉。
うまくいかないこの恋が人の知るところとなって、わたしの名誉
が汚されるのが惜しくてなりません。
︻ちょこっと古語解説︼
○わび⋮⋮﹁∼に疲れて﹂の意。
○だに⋮⋮﹁∼でさえ﹂の意。
○なん⋮⋮﹁な﹂は、﹁必ず∼﹂の意。﹁ん﹂は、﹁∼だろう﹂と
いう推量を表す。全体で、﹁必ず∼だろう﹂くらいの意味。
160
第52首 名を惜しむ︵後書き︶
恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなん名こそ惜しけれ
161
第53首 想い返さず︵前書き︶
おとにきく たかしのはまの あだなみは かけじやそでの ぬれ
もこそすれ
162
第53首 想い返さず
浮気なあなたの噂、聞いています。
だから、あなたの気持ちにはこたえません。
いたずらな波のようなあなたのために、この袖を涙で濡らしたく
ありませんもの。
︻ちょこっと古語解説︼
○音に聞く⋮⋮﹁噂に聞く﹂の意。
○高師の浜⋮⋮大阪府高石市あたりの海。現在は埋め立てが進んで
いる。
○あだ波⋮⋮いたずらに立ち騒ぐ波。
○かけじや⋮⋮﹁じ﹂は、﹁∼しないようにしよう﹂の意。﹁や﹂
は、﹁ああ﹂という詠嘆の吐息を表す。﹁かけ﹂には、波を﹁かけ
る﹂と、思いを﹁かける﹂の二重の意味がある。
163
第53首 想い返さず︵後書き︶
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
164
第54首 祈り届かず︵前書き︶
うかりける ひとをはつせの やまおろしよ はげしかれとは い
のらぬものを
165
第54首 祈り届かず
神に願った。
ぼくをつらい気持ちにする彼女がなびいてくれますようにと。
ところが彼女はいっそう冷たくなった。
まるで山から吹きおろす風のように。
そんなこと祈りはしなかったのにさ、どういうことだよ、神様。
︻ちょこっと古語解説︼
○人⋮⋮和歌で使われるときは、﹁恋しいあの人﹂と取ってよい。
○初瀬⋮⋮奈良県桜井市初瀬のこと。長谷寺という有名なお寺があ
り、観音信仰が盛んだった。観音様に祈るとご利益がある。
○山おろし⋮⋮山から吹きおろす冷たく激しい風。
○ものを⋮⋮﹁∼けれども﹂の意。
166
第54首 祈り届かず︵後書き︶
憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを
167
第55首 再会の誓い︵前書き︶
せをはやみ いわにせかるる たきがわの われてもすえに あわ
んとぞおもう
168
第55首 再会の誓い
川の流れが早く、その流れが岩にせき止められて分かれてしまっ
た。
まるで、ぼくたちが別れてしまったかのように。
でも、分かれた流れはまた一つになる。
それと同じように、ぼくたちはもう一度、必ず会おう。
︻ちょこっと古語解説︼
○瀬をはやみ⋮⋮﹁瀬﹂は、﹁川の流れの浅いところ﹂の意。﹁﹃
名詞﹄を﹃形容詞の語幹﹄み﹂で、﹁﹃名詞﹄が∼なので﹂の意と
なり、全体で、﹁川の流れが速いので﹂くらいの訳となる。
○せかるる⋮⋮﹁せか﹂は、﹁せく﹂の変化で、﹁せきとめる﹂の
意。﹁るる﹂は、﹁る﹂の変化で、﹁∼される﹂という意味。全体
で、﹁せきとめられる﹂くらいの訳。
○あわ⋮⋮﹁あわ﹂は、﹁あう﹂の変化。この﹁あう﹂には、分か
れた水が合流することと、男女が逢うことの二つの意味が掛けられ
ている。
169
第55首 再会の誓い︵後書き︶
瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあわんとぞ思う
170
第56首 床上で想う︵前書き︶
ながからん こころもしらず くろかみの みだれてけさは もの
をこそおもえ
171
第56首 床上で想う
あなたが帰り、わたしはベッドの上でひとり。
長い黒髪を乱れさせたままで、もの思いにふける。
ずっと変わらないよと言った昨夜のあなた。
その気持ちがどこまで本気なのか分からないから。
︻ちょこっと古語解説︼
○長からん心⋮⋮﹁長から﹂は、﹁長し﹂の変化。﹁ん﹂は、文法
用語で﹁婉曲﹂といって、現代語ではうまく訳すことができない。
全体で、﹁長い心﹂となるが、これは、﹁長く変わらない心﹂くら
いの意味になる。
○ものをこそ思え⋮⋮﹁思え﹂は、﹁こそ﹂という語の効果によっ
て、﹁思う﹂が変化させられたものであり、思いなさい、という命
令形ではない。全体の意味は、﹁ものを思う﹂と変わらない。恋の
もの思いをすること。
172
第56首 床上で想う︵後書き︶
長からん心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思え
173
第57首 心体の違い︵前書き︶
おもいわび さてもいのちは あるものを うきにたえぬは なみ
だなりけり
174
第57首 心体の違い
きみに冷たくされて、思い悩む。
そうして悩んでも体はどうにもならないようだ。
命はある。
その代わりに心が狂おしい。
辛さに耐え切れずに、ほら、涙が浮かぶ。
︻ちょこっと古語解説︼
○思いわび⋮⋮﹁思いわぶ﹂は、好きな人に冷たくされて悩む気持
ちを表す。
○さても⋮⋮そうであっても。
う
○ものを⋮⋮﹁∼なのに﹂という逆接を表す。
○憂き⋮⋮憂鬱な状態のこと。
○たえぬ⋮⋮﹁たえ﹂は、耐えるの意。﹁ぬ﹂は、﹁ず﹂の変化で、
﹁∼ない﹂という打消の意味。全体で、﹁耐えない﹂くらいの訳。
175
第57首 心体の違い︵後書き︶
思いわびさても命はあるものを憂きにたえぬは涙なりけり
176
第58首 もの思う夜︵前書き︶
よもすがら ものおもうころは あけやらで ねやのひまさえ つ
れなかりけり
177
第58首 もの思う夜
一晩中あの人のことを想う。
そうしていると夜は長くて、なかなか明けない。
早く明けてくれればいいのに。
寝室の戸が少し開いていて、それ以上開かないことにイライラ。
あの人だけじゃなくて、寝室の戸にまで冷たくされているみたい。
︻ちょこっと古語解説︼
○夜もすがら⋮⋮一晩中。
○もの思う⋮⋮冷淡な恋人のせいでもの思いをすること。
ねや
○で⋮⋮﹁∼ないで﹂の意。
○閨のひま⋮⋮閨は寝室、ひまは隙間。寝室の戸の隙間のこと。
○さえ⋮⋮﹁∼まで﹂の意。現代語の﹁さえ﹂とは別。
178
第58首 もの思う夜︵後書き︶
夜もすがらもの思うころは明けやらで閨のひまさえつれなかりけり
179
第59首 責任無き月︵前書き︶
なげけとて つきやはものを おもわする かこちがおなる わが
なみだかな
180
第59首 責任無き月
白々とした光に照らされて、空を見上げると、月が大きい。
なんとはなし、うまくいっていない彼女とのことが思われる。
ふと浮かんだ涙。
月のせいにしたいけれど、﹁恋を想って泣け﹂と月が命じたわけ
ではないのだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○とて⋮⋮﹁と言って﹂﹁と思って﹂の意。
○月⋮⋮現在のお月見習慣からは想像がしにくいが、古代は、月を
見ることは不吉なことであるという考え方もあった︵もちろん、お
わ
月見自体も楽しまれていたが︶。
○やは⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂という、反語の意。
○かこち⋮⋮﹁かこつ﹂で、﹁他のせいにする﹂の意。
181
第59首 責任無き月︵後書き︶
嘆けとて月やはものを思わするかこち顔なるわが涙かな
182
第60首 一度だけの︵前書き︶
なにわえの あしのかりねの ひとよゆえ みをつくしてや こい
わたるべき
183
第60首 一度だけの
芦の根のひとふしのように短い、一夜だけの恋。
旅先の宿で抱かれ、それは一度だけのことで、二度目はありませ
ん。
だからこそ、澪標のようにこの身を尽くし、あの人を想い続ける
ことになるのでしょうか。
なにわえ
︻ちょこっと古語解説︼
ひとよ
○難波江⋮⋮今の大阪市中心部あたり。当時、水深の浅い海や、低
湿地が広がっていた。
○かりねのひとよ⋮⋮﹁刈り根の一節﹂と﹁仮寝の一夜﹂の二つの
意味が掛けられている。﹁刈根﹂とは﹁刈り取った根﹂の意。﹁仮
みおつくし
寝﹂とは、﹁旅先での仮の宿り﹂のこと。
○みをつくし⋮⋮﹁澪標﹂と﹁身を尽くし﹂の二つの意味が掛けら
れている。澪標とは、船の航行の目印に立てられた杭のこと。
○わたる⋮⋮元は﹁移動する﹂の意だが、﹁∼わたる﹂で﹁∼し続
ける﹂となる。
184
第60首 一度だけの︵後書き︶
難波江の芦のかりねのひとよゆえみをつくしてや恋いわたるべき
185
第61首 命絶えても︵前書き︶
たまのおよ たえなばたえね ながらえば しのぶることの よわ
りもぞする
186
第61首 命絶えても
わたしの命。
なくなってしまうなら、なくなってしまえばいい。
たま
生きながらえることによって、秘め隠そうとする気持ちが弱って
しまうことが怖い。
この恋は誰にも知られてはいけないのに。
たま
︻ちょこっと古語解説︼
○玉の緒⋮⋮本来は﹁玉を貫いた緒﹂のことだが、﹁魂を身体につ
なぐ緒﹂の意に転じ、命を表す。
○絶えなば絶えね⋮⋮﹁な﹂と﹁ね﹂は、ともに﹁ぬ﹂の変化で、
﹁完了﹂を表す。﹁ね﹂は命令形。﹁ば﹂は、﹁∼ならば﹂という
仮定を表すので、全体で、﹁絶えるなら絶えてしまえ﹂くらいの訳。
○ながらえば⋮⋮﹁ながらう﹂は、﹁生きながらえる﹂の意。﹁ば﹂
は﹁∼ならば﹂を表す。全体で﹁生きながらえたら﹂くらいの訳。
○忍ぶる⋮⋮﹁忍ぶ﹂の変化。﹁我慢する﹂の意。
○よわりもぞする⋮⋮﹁もぞ﹂は﹁∼したら困る﹂という心配の気
持ちを表す。全体で、﹁弱ったら困る﹂くらいの訳。
187
第61首 命絶えても︵後書き︶
玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることのよわりもぞする
188
第62首 血染めの袖︵前書き︶
みせばやな おじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろ
はかわらず
189
第62首 血染めの袖
わたしの袖をあなたに見せてあげたい。
海水に濡れに濡れた漁師のそれのように、涙に濡れている。
それだけならまだいい。
いくら濡れたって漁師の袖なら色まで変わることはないでしょう
けど、ほら、わたしの袖は真っ赤に色が変わってしまった。
あなたを想って泣く、血の涙で。
︻ちょこっと古語解説︼
○ばや⋮⋮﹁∼したい﹂の意。
○雄島⋮⋮宮城県の松島群島の一つ。
○あま⋮⋮漁師のこと。男女どちらのこともいう。
○だに⋮⋮﹁∼でさえ﹂の意。
190
第62首 血染めの袖︵後書き︶
見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかわらず
191
第63首 泣き泣きて︵前書き︶
わがそでは しおひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね か
わくまもなし
192
第63首 泣き泣きて
あなたは知らないでしょう。
引き潮のときにも海中に隠れて見えない沖の石。
その石が海水に濡れ続けるようにわたしの袖も涙に濡れて、乾く
間もないことを。 ︻ちょこっと古語解説︼
○袖⋮⋮和歌で﹁袖﹂と来たら、涙を連想すること。涙を袖でぬぐ
うわけ。
○潮干⋮⋮引き潮の状態を表す。
○人こそ知らね⋮⋮和歌で﹁人﹂と来たら、﹁大好きなカレ・カノ
ジョ﹂を表すことがほとんど。ただし、この和歌では一般人とも取
れる。﹁ね﹂は﹁ず﹂が変化した形。﹁ず﹂は﹁∼ない﹂という打
消の意なので、全体で﹁あなたは︹人は︺知らない﹂くらいの訳と
なる。
193
第63首 泣き泣きて︵後書き︶
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし
194
第64首 人を待って︵前書き︶
こぬひとを まつほのうらの ゆうなぎに やくやもしおの みも
こがれつつ
195
第64首 人を待って
来ない人を待つ、松林の茂るこの岬で。
夕なぎのころ、藻塩が焼けるようにじりじりとした気持ちで。
︻ちょこっと古語解説︼
○来ぬ人をまつほの浦⋮⋮﹁まつほ﹂の部分に、﹁待つ﹂と﹁松帆﹂
が掛けられている。﹁待つ﹂は、上につながり、﹁来ぬ人を待つ﹂
すなわち﹁来ない人を待つ﹂の意となり、﹁松帆﹂は下につながり、
﹁松帆の浦﹂となる。松帆の浦は、淡路島の最北端の海のこと。
○夕なぎ⋮⋮夕方風がやんで、波が静まった状態。
○藻塩⋮⋮海藻から採る塩。
196
第64首 人を待って︵後書き︶
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
197
第65首 会いに来て︵前書き︶
みるめかる あまのゆきかう みなとじに なこそのせきも われ
はすえぬを
198
第65首 会いに来て
みるめを採る漁師が河口まで往き来する道にわたしは、来ないで、
という意を込めた関所を据えたりしていません。
見る目はありますから、会いに来てくださいね。
︻ちょこっと古語解説︼
な
○みるめ⋮⋮海藻の一種。漢字で書くと、海松布。同音の語句であ
る﹁見る目﹂すなわち﹁会う機会﹂を掛ける。
みなと
○あま⋮⋮漁師のこと。男女どちらも指す。
○湊⋮⋮河口のこと。
こそ
○なこその関⋮⋮東北地方にあったとされる関。福島県いわき市勿
来町関田字関山において、﹁勿来の関﹂として観光地化されている
が、本当にそこにあったのかどうか、そもそも存在したかどうかす
ら定かではない。﹁な来そ﹂︵来ないで︶の意を掛ける。
199
第65首 会いに来て︵後書き︶
みるめかる海人の行きかう湊路になこその関も我はすえぬを
200
第66首 言ってない︵前書き︶
なこそとは たれかはいいし いわねども こころにすうる せき
とこそみれ
201
第66首 言ってない
来ないでください、なんて誰が言ったのかな。
誰も言っていないのに、早とちり。
勘違いで自分の心に関を作って、わたしに会いに来ないなんて。
︻ちょこっと古語解説︼
く
○なこそ⋮⋮﹁な∼そ﹂で、﹁∼しないでください﹂という柔らか
な禁止を表す。﹁こ﹂は﹁来﹂の変化。全体で、﹁来ないでくださ
わ
い﹂の意。
○かは⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂という疑問の形を借り
た否定を表す。このような否定のしかたを、反語、という。
○云わねども⋮⋮﹁ね﹂は、﹁ず﹂の変化。﹁ず﹂は﹁∼ではない﹂
という否定を表す。﹁ども﹂は﹁∼だけれども﹂という逆接を表す。
○関とこそみれ⋮⋮﹁みれ﹂は、﹁見る﹂で、こそという語の効果
によって、﹁みれ﹂という形になっている。﹁こそ﹂は、訳に影響
を及ぼさないので、全体の訳としては、﹁関であると見ている﹂く
らいになる。
202
第66首 言ってない︵後書き︶
なこそとは誰かはいいし云わねども心に据うる関とこそみれ
203
いわまによどむ
みずぐきを
第67首 涙の手紙を︵前書き︶
おもいがわ
はぬれけり
かきながすにも
そで
204
第67首 涙の手紙を
うまくいっていないあなたとの仲。
それを思って泣くわたしの涙は川を作るほど。
その川によどむこの気持ちを水草のような字で書くと、手紙をし
たためている間にも、どうしようもなく袖が濡れるのです。
︻ちょこっと古語解説︼
○思い川⋮⋮福岡県中部、太宰府天満宮の付近を流れる御笠川のこ
と。
○いわ⋮⋮﹁岩間﹂の﹁岩﹂と、﹁言わ﹂を掛けている。
○水茎⋮⋮﹁水草﹂と﹁筆跡﹂の二つの意味があり、その二つを掛
けている。
○袖⋮⋮和歌で袖が出てきたら、涙を連想すること。袖で涙を拭う
わけです。
205
第67首 涙の手紙を︵後書き︶
思い川いわまによどむ水茎をかきながすにも袖は濡れけり︵新勅撰
和歌集︶
206
第68首 こころ届け︵前書き︶
そでのうえの なみだぞいまは つらからぬ ひとにしらるる は
じめとおもえば
207
第68首 こころ届け
片想いを打ち明けようとして、打ち明けられず、そのたびに涙を
流して来た。
つらくて、つらい涙。
でも、もうこの涙はつらくない。
想いを告げながら流す涙は、あなたにわたしの気持ちを知っても
らえる始めになると思うから。
︻ちょこっと古語解説︼
○袖⋮⋮和歌で﹁袖﹂と言えば、涙! 今日から涙したときは、ハ
ンカチやティッシュじゃなくて、袖で拭ってください!
○人⋮⋮和歌で﹁人﹂と言えば、﹁大好きなあの人﹂の意を表すこ
とが多い。
208
第68首 こころ届け︵後書き︶
袖のうえの涙ぞ今はつらからぬ人に知らるる始めと思えば︵新勅撰
和歌集︶
209
第69首 自らを恨む︵前書き︶
うらみじな なにわのみつに たつけぶり こころからたく あま
のもしおび
210
第69首 自らを恨む
きみのことを恨んでいるわけじゃないんだ。
だって、きみのせいじゃないんだから。
まるで藻塩火のようにぶすぶすと燃えるきみへの気持ち。
うちけし
この気持ちに苦しめられたとしても、それはそういう気持ちを持
ったぼく自身が悪いのだから。
︻ちょこっと古語解説︼
○じ⋮⋮﹁∼しないようにしよう﹂という打消意志を表す。
○難波⋮⋮現在の大阪市およびその付近。
○御津⋮⋮津は﹁わたしば﹂を表す。津のつく地名を思い起こして
みよう、そのほとんどが川や湖の渡し場や海の港のハズ。御は敬称、
難波の津が皇室の港だったことから敬称をつける。
○海人⋮⋮漁師のこと。男女どちらも表す。
○藻塩火⋮⋮塩を取るために海藻を焼く火のこと。恋人への燃える
ような思いをイメージさせる。
211
第69首 自らを恨む︵後書き︶
恨みじな難波の御津に立つけぶり心からたく海人の藻塩火︵新勅撰
和歌集︶
212
第70首 物思いの種︵前書き︶
ひとしれぬ うきみにしげき おもいぐさ おもえばきみぞ たね
はまきける
213
第70首 物思いの種
人知れず辛いぼくの身は、もの思いであふれている。
どうしてこうもの思いが多いのか、人にもの思わせる思い草がぼ
くの周りに生い茂っているのか。
うちけし
考えてみたところ、その種をまいたのはきみだったことに気がつ
いたよ。
︻ちょこっと古語解説︼
う
○ぬ⋮⋮元の形は、ず。﹁∼ない﹂という打消の意。
○憂き⋮⋮元の形は、憂し。つらい、の意。
○思い草⋮⋮一説にナンバンギセルのこととか。頭を垂れるように
して咲く姿が、何かを思い悩んでいるように見える。
214
第70首 物思いの種︵後書き︶
人知れぬ憂き身にしげき思い草おもえば君ぞ種はまきける︵新勅撰
和歌集︶
215
第71首 涙は同じく︵前書き︶
うれしきも つらきもおなじ なみだにて あうよもそでは なお
ぞかわかぬ
216
第71首 涙は同じく
会えなくて辛くて、その辛さに涙を流してきたけど、涙って嬉し
い時にも流れるんだね。
ようやくあなたに会えたこの夜も、嬉しさでやっぱり、わたしの
袖は乾かないの。
あ
︻ちょこっと古語解説︼
○逢う⋮⋮単に二人の人が出会うというだけではなく、二人の男女
が夜を共にすることまで含む。
○袖⋮⋮和歌の中で﹁袖﹂が出てきたら、泣いているのかなー、と
思ってください。この和歌の中では、はっきり﹁涙﹂という語が出
ていますが、無い時も﹁袖﹂が出てきたら﹁涙﹂をイメージしてく
ださい。
○なお⋮⋮やはり。
217
第71首 涙は同じく︵後書き︶
うれしきもつらきも同じ涙にて逢う夜も袖はなおぞかわかぬ︵新勅
撰和歌集︶
218
第72首 別れの鳴声︵前書き︶
おのがねに つらきわかれは ありとだに おもいもしらで とり
やなくらん
219
第72首 別れの鳴声
鶏が朝を告げていた。
もう帰らなければいけない、と起き上がる彼を見るわたしの胸が
しめつけられる。
朝。
恋人との別れのとき。
そんなつらい時を告げるものだなんてことさえ知らないで、鶏は
ただ鳴いているのだろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
○おのが⋮⋮自分の。
○ね⋮⋮音、なき声、響き。
うちけし
○だに⋮⋮﹁∼さえ﹂の意。
○で⋮⋮打消接続を表し、﹁∼ないで﹂の意。﹁しらで﹂は、﹁知
ん
らないで﹂くらいの訳となる。
○らむ⋮⋮現在推量を表し、﹁∼しているだろう﹂の意。
220
第72首 別れの鳴声︵後書き︶
おのがねにつらき別れはありとだに思いもしらで鳥や鳴くらむ︵新
勅撰和歌集︶
221
第73首 一言の別れ︵前書き︶
わすれじの ただひとことを かたみにて ゆくもとまるも ぬる
るそでかな
222
第73首 一言の別れ
忘れないよ。
その一言だけを残して、あなたは去っていく。
次に会えるのはいつのことになるだろう。
うちけし
去っていくあなたも、とどまるわたしも、ただ涙の中。
︻ちょこっと古語解説︼
○じ⋮⋮﹁∼しないよ﹂という、打消意志を表す。﹁忘れじ﹂で、
かたみ
﹁忘れないよ﹂くらいの訳。
○形見⋮⋮亡くなった人や遠く離れた人を思い出す手がかりとなる
もの。
○袖⋮⋮和歌の中で﹁袖﹂と出てきたら、﹁涙﹂をイメージしまし
ょう。
223
第73首 一言の別れ︵後書き︶
忘れじのただひとことを形見にてゆくもとまるもぬるる袖かな︵新
勅撰和歌集︶
224
第74首 思い出して︵前書き︶
くもとなり あめとなりても みにそわば むなしきそらを かた
みとやみん
225
第74首 思い出して
突拍子もないことだけど、わたしが朝には雲、夕べに通り雨にな
って、そういう風にしてあなたの身に寄り添うことができたとした
らの話。
もしもそんなことができたら、わたしがあなたと離れたあとも、
何にもない空を見るだけで、あなたはわたしのことを思い出してく
れるのかなあ。
︻ちょこっと古語解説︼
○雲となり雨となりても⋮⋮古代中国の故事を踏まえる。楚の国の
王が、ある日、夢に神女と交わった。神女は去るとき、﹁朝には雲、
暮には通り雨となって、王のもとへ来ます﹂と言ったが、果たして
その通りだったという。ちなみに、この故事から、男女の交わりを
﹁雲雨﹂というようになった。
○形見⋮⋮死んだ人、遠くに去った人を思い出すよすがとなるもの。
○や⋮⋮疑問文を作る語。
○ん⋮⋮﹁∼だろう﹂という推量を表す。
226
第74首 思い出して︵後書き︶
雲となり雨となりても身にそわばむなしき空を形見とや見む︵新勅
撰和歌集︶
227
第75首 晩秋の風に︵前書き︶
ふくからに みにぞしみける きみはさは われをやあきの こが
らしのかぜ
228
第75首 晩秋の風に
吹くとすぐにわたしの身を震わせる風。
それはただその風が秋の冷たい木枯らしだからというだけじゃな
くて、この頃のあなたの態度がつれないから。
そう、あなたはわたしに飽きてしまったのね。
︻ちょこっと古語解説︼
○吹くからに⋮⋮﹁からに﹂は、﹁∼するとすぐに︹同時に︺﹂を
わ
意味するので、全体で、﹁吹くとすぐに﹂くらいの訳。
○さは⋮⋮それでは。
○あき⋮⋮﹁秋﹂と﹁飽き﹂が掛けられている。﹁﹃秋﹄の木枯ら
しのような冷たい態度を取るのは、わたしに﹃飽き﹄たからなのね﹂
くらいの含みを持たせている。
229
第75首 晩秋の風に︵後書き︶
吹くからに身にぞしみける君はさは我をやあきのこがらしの風︵新
勅撰和歌集︶
230
第76首 面影はまだ︵前書き︶
ちぎりしに かわるうらみも わすられて そのおもかげは なお
とまるかな
231
第76首 面影はまだ
﹁ずっと一緒だよ﹂
そう約束してくれたきみの心変わりを、ぼくはどれほど恨んだか
知れない。
本当に辛かった。
でも、不思議だね。
今ではもうその時の恨みも辛さもすっかりと忘れてしまって、き
みと過ごした素晴らしい日々だけを思い出すんだ。
目を閉じると、まぶたの裏にまだ、きみの笑顔が鮮やかに映り出
す。
︻ちょこっと古語解説︼
○契りし⋮⋮﹁契る﹂は、約束する、の意。﹁し﹂は、過去を表す。
全体で、約束した、くらいの訳。
232
第76首 面影はまだ︵後書き︶
契りしにかわる恨みもわすられてその面影はなおとまるかな︵新勅
撰和歌集︶
233
第77首 知りたい心︵前書き︶
しのぶやま しのびてかよう みちもがな ひとのこころの おく
もみるべく
234
第77首 知りたい心
きみのもとへ、人目をしのんで通うことができる道があったらな
あ、と思う。
その道をたどってさらに奥へと、きみの心の本当のところまで見
てみたいんだ。
きみがぼくのことをどう思っているのか、それを知りたいんだよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○しのぶ山⋮⋮福島県福島市にある山。この和歌では、﹁しのび﹂
てかよう、と言いたいがために、詠まれている。
○かよう⋮⋮男が女の家へ通うこと。
○もがな⋮⋮﹁∼があればなあ﹂の意。
○人⋮⋮和歌で﹁人﹂とあったら、﹁大好きなあなた﹂くらいにと
らえておこう。
235
第77首 知りたい心︵後書き︶
しのぶ山しのびてかよう道もがな人のこころのおくも見るべく︵新
勅撰和歌集︶
236
第78首 夢見て一人︵前書き︶
おもいねの われのみかよう ゆめじにも あいみてかえる あか
つきぞなき
237
第78首 夢見て一人
きみのことを思いながら眠りにつく夜。
夢路が開けて、それは君のもとへとつながっているようだ。
夢はそこで破れ、ぼくが放り出されたのは、まだ浅からぬ闇の中。
夢の中でさえ、きみと朝まで一緒にいることができないなんて。
︻ちょこっと古語解説︼
○思い寝⋮⋮恋人のことを思って寝ること。
○夢路⋮⋮夢の中で、恋人に会いに行く道。
○見⋮⋮﹁見る﹂とは、単に目にする、ということではなく、ここ
では、男女が一夜を共にするということ。
○暁⋮⋮夜明け前。
238
第78首 夢見て一人︵後書き︶
思い寝のわれのみかよう夢路にもあい見てかえる暁ぞなき︵新勅撰
和歌集︶
239
第79首 夢中のまま︵前書き︶
いかにせん いまひとたびの あうことを ゆめにだにみて ねざ
めずもがな
240
第79首 夢中のまま
どうしよう、ああ。
もう一度だけ、あの人に会いたい。
現実で会うことができないなら、せめて夢の中ででも。
もしも夢で会えたらそのまま、永遠に寝ざめなければいいのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○いかにせん⋮⋮﹁いかに﹂は、﹁どのように﹂の意。﹁せ﹂は、
するを意味する﹁す﹂を表し、﹁ん﹂は、意志を表す。全体で、ど
のようにしよう、くらいの訳。
○逢う⋮⋮単に会うことではなくて、会って一夜を共にすることま
で含む。
○だに⋮⋮﹁せめて∼だけでも﹂の意。
○もがな⋮⋮﹁∼であればなあ﹂の意。
241
第79首 夢中のまま︵後書き︶
いかにせん今ひとたびの逢うことを夢にだに見てねざめずもがな︵
新勅撰和歌集︶
242
第80首 現実を夢に︵前書き︶
つらきをも うきをもゆめに なしはてて あうよばかりを うつ
つともがな
243
第80首 現実を夢に
この頃の彼女の態度に情が無くて、そのせいで心が晴れない。
あれほど想い合っていたのになあ。
今の全てを夢にしてしまって、一緒に過ごしたあの夜だけを現実
にできたらいいのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○つらき⋮⋮相手の態度が薄情であること。元の形は、つらし。
○憂き⋮⋮心が晴れ晴れとしないこと。元の形は、憂し。
○逢う⋮⋮単に会うだけではなく、会って一夜を共にすることまで
含む。
○うつつ⋮⋮現実のこと。
○もがな⋮⋮﹁∼であればなあ﹂という願望の意。
244
第80首 現実を夢に︵後書き︶
つらきをも憂きをも夢になしはてて逢う夜ばかりをうつつともがな
︵新勅撰和歌集︶
245
第81首 春夢の約束︵前書き︶
あわれあわれ はかなかりける ちぎりかな ただうたたねの は
るのよのゆめ
246
第81首 春夢の約束
うたたねに幸せな夢を見て、目覚めたのは春の夜。
一人寝に似つかわしくない華やいだ闇の中。
ああ、とついたため息の軽さ。
あの人の約束のたよりなさ。
︻ちょこっと古語解説︼
○あわれ⋮⋮何かに感じ入ったときにつくため息の音。かわいそう、
という意味ではない。
○はかなかり⋮⋮元の形は、はかなし。頼りない、むなしいの意。
○契り⋮⋮単なる約束の意もあるが、この歌では、男女の間の恋の
約束のことを意味する。
○うたたね⋮⋮思わず、うとうとすること。
247
第81首 春夢の約束︵後書き︶
あわれあわれはかなかりける契りかな唯うたたねの春の夜の夢︵新
勅撰和歌集︶
248
第82首 約束を命に︵前書き︶
かたいとの あわずはさてや たえなまし ちぎりぞひとの なが
きたまのお
249
第82首 約束を命に
より合わせていない糸は、すぐに切れてしまいます。
あなたに会えなかったら、同じようなはかなさで、わたしの命も
絶えてしまうことでしょう。
あなたの愛の誓いこそが、わたしの命をつなぎとめているのです
から。
︻ちょこっと古語解説︼
○片糸⋮⋮より合わせていない糸。
○ずは⋮⋮﹁もし∼でなかったら﹂の意。
○さて⋮⋮そのままで。
○まし⋮⋮﹁もし∼なら﹂という仮定を受けて、﹁︱だろう﹂とす
る仮定の帰結を表す。
○契り⋮⋮約束。ここでは、男女間の愛の約束のこと。
○玉の緒⋮⋮美しい宝玉を貫き通す紐。人の魂と肉体をつなぎとめ
るための紐という意味もあり、ここではその意。
250
第82首 約束を命に︵後書き︶
片糸のあわずはさてや絶えなまし契りぞ人のながき玉の緒︵新勅撰
和歌集︶
251
第83首 消える想い︵前書き︶
しられじな ゆうべのくもを それとだに いわでおもいの した
にきえなば
252
第83首 消える想い
夕暮れどき、雲が紅く染まっている。
それは、まるで、わたしの心のよう。
あなたを思って華やかに色づいている。
でも、この気持ちを知られることはないだろう。
うちけし
口に出さず、消えるにまかせてしまうなら。
︻ちょこっと古語解説︼
○じ⋮⋮﹁∼ないだろう﹂という、打消推量をあらわす。
○だに⋮⋮﹁∼さえ﹂の意。
○いわで⋮⋮﹁で﹂は、﹁∼ないで﹂という、打消接続を表すので、
全体で、﹁言わないで﹂くらいの訳。
○なば⋮⋮﹁∼してしまったら﹂の意。
253
第83首 消える想い︵後書き︶
しられじな夕べの雲をそれとだにいわで思いの下に消えなば︵続後
撰和歌集︶
254
第84首 黒髪で涙を︵前書き︶
おさうべき そではむかしに くちはてぬ わがくろかみよ なみ
だもらすな
255
第84首 黒髪で涙を
成らないあなたとの恋に、ふと流れる涙。
その涙を抑えるために使うはずの袖は、昔むかしに朽ち果ててし
まいました。
どれだけの涙を流したことでしょう。
そうして、これからどれほどの涙を流すことになるのでしょう。
今はもう、袖の代わりにこの髪で、目元を抑えるしかありません。
ああ、わたしの黒髪よ、どうか涙を漏らさないようにね。
︻ちょこっと古語解説︼
○おさう⋮⋮押さえる。
○べき⋮⋮元の形は、べし。﹁べし﹂は色々な意味があるが、ここ
では﹁当然﹂の意。訳は、﹁∼するはずだ﹂くらい。
○ぬ⋮⋮﹁∼してしまった﹂という完了の意を表す。
256
第84首 黒髪で涙を︵後書き︶
おさうべき袖は昔に朽ちはてぬ我が黒髪よ涙もらすな︵続後撰和歌
集︶
257
第85首 遠い場所で︵前書き︶
かくこいば たえずしぬべし よそにみし ひとこそおのが いの
ちなりけり
258
第85首 遠い場所で
胸が苦しい。
こんな風に恋い慕っていたら、きっと死んでしまうに違いない。
結ばれずに終わってしまった人。
こ
もう遠くから見るしかないあの人が、わたしの命だったなんて。
︻ちょこっと古語解説︼
○かく⋮⋮このように。
○恋いば⋮⋮恋をするの意の﹁恋う﹂の未然形に、接続助詞﹁ば﹂
がついた形。未然形+ば、で仮定を表すので、﹁恋い慕っていたら﹂
くらいの訳。
○たえず⋮⋮たえられず。
○べし⋮⋮﹁当然﹂の意味で、﹁∼のはずだ﹂くらいの訳。
○よそに見し人⋮⋮ここではない場所で会った人。
259
第85首 遠い場所で︵後書き︶
かく恋いばたえず死ぬべしよそに見し人こそおのが命なりけり︵続
後撰和歌集︶
260
第86首 逢瀬を祈る︵前書き︶
あうまでの こいぞいのりに なりにける としつきながき もの
おもえとて
261
第86首 逢瀬を祈る
何度も思いを告げたけれど、彼女は首を縦に振らない。
だからと言って、はっきり拒絶するわけでもない。
延々と恋心を伝え続けた結果、ぼくのこの思いはもう祈りのよう
なものになってしまった。
彼女と結ばれますように。
この祈りがかなうのかどうか。
長い間かなわぬ恋に苦しめばいいと、言わんばかりの彼女の態度
を変えることができるのかどうか。
︻ちょこっと古語解説︼
○逢う⋮⋮単に会うということではなく、男女が会って一夜を共に
すること。
○とて⋮⋮﹁と言って﹂﹁と思って﹂の意。
262
第86首 逢瀬を祈る︵後書き︶
逢うまでの恋ぞ祈りになりにける年月ながき物思えとて︵続後撰和
歌集︶
263
第87首 深く秘めた︵前書き︶
いかでかは とりのなくらむ ひとしれず おもうこころは まだ
よぶかきに
264
第87首 深く秘めた
にわとりの声が、けたたましく朝を告げる。
おかしいな、まだ夜深い時刻のはずなのに。
あなたを思う気持ちは、まだ秘められたまま伝えられず、この思
いが伝わらないうちに、夜が明けてしまうなんて。
わ
︻ちょこっと古語解説︼
○いかでかは⋮⋮﹁どうして﹂の意。
ん
○鳥⋮⋮ここでは、にわとり、のこと。
○らむ⋮⋮﹁∼しているだろう﹂という、現在の推量を表す語。
○人⋮⋮和歌の中で出てきたら、﹁好きなあの人﹂の意で取る。
265
第87首 深く秘めた︵後書き︶
いかでかは鳥の鳴くらむ人しれず思う心はまだ夜ぶかきに︵続後撰
和歌集︶
266
第88首 袖に宿る月︵前書き︶
あかつきの なみだばかりを かたみにて わかるるそでに した
うつきかげ
267
第88首 袖に宿る月
夜が明ける。
彼女との別れの時だ。
離れたくなくて、思わず流してしまった涙。
昨夜を思い出すよすがとして、他にあげられる物もない。
思いを振り切るように、彼女の家を出る。
見上げると、有明の月。
ぼくが歩くと、きらりと袖がきらめいた。
月光が、涙を拭ったぼくの袖を慕っているかのようだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○あかつき⋮⋮夜明け前。
○袖⋮⋮和歌で﹁袖﹂ときたら、涙を連想すること。涙を袖で拭う
のである。
○月かげ⋮⋮月の光のこと。
268
第88首 袖に宿る月︵後書き︶
あかつきの涙ばかりを形見にてわかるる袖にしたう月かげ︵続後撰
和歌集︶
269
第89首 今なお想う︵前書き︶
こいしさは つらさにかえて やみにしを なんののこりて かく
はかなしき
270
第89首 今なお想う
大好きだったあなた。
そのあなたに、ひどいことを言われたこと、裏切られたこと、一
方的な別れを切り出されたこと。
いろんなことがあった。
色々なことをされて、あなたへの恋心は全て辛さへと変わり、そ
うして、この恋は終わったはずなのに。
今でもまだ、あなたのことを想う。
どうしてだろう。
どんな気持ちが残っていて、あなたのことが気になるんだろう。
︻ちょこっと古語解説︼
○やみ⋮⋮元の形は﹁やむ﹂で、﹁途中で終わる﹂意。
○かく⋮⋮このように。
271
第89首 今なお想う︵後書き︶
恋しさはつらさにかえてやみにしを何の残りてかくは悲しき︵続後
撰和歌集︶
272
第90首 破局後の生︵前書き︶
われながら しらでぞすぎし わすられて なおおなじよに あら
んものとは
273
第90首 破局後の生
雑踏の中にあの人の顔を見つけて、心臓が止まる思いだった。
昔の恋人。
あの人と別れて、捨てられて、どのくらい経つんだろう。
離れたら死んでしまうに違いないと、そんな風に思っていたあの
恋の終わりから、時は移り、その移り変わりの間、わたしは知らな
いで過ごしてきてしまったんだ。
いまなお、わたしが、あの人と同じ世界に生きていたということ
を。
うちけし
︻ちょこっと古語解説︼
○で⋮⋮打消接続を表す接続助詞で、﹁∼しないで﹂の意。
274
第90首 破局後の生︵後書き︶
我ながら知らでぞ過ぎし忘られてなおおなじ世にあらんものとは︵
続後撰和歌集︶
275
第91首 月を恨んで︵前書き︶
こぬひとに よそへてまちし ゆうべより つきちょうものは う
らみそめてき
276
第91首 月を恨んで
なかなか来てくれないあの人を、なかなか現れない月にたとえて
みた。
来ないあの人、現れない月。
あの人を待ちながら、月を待つ。
あの人も来ないし、月も出ない。
もしか、あの人が来ないのは、月が現れないから。
月が現れれば、あの人も来てくれる。
それなのに、月は出ず。
その頃からだ。
わたしが月を恨み始めるようになってしまったのは、
︻語句解説︼
ちょう
よそえ⋮⋮元の形は﹁よそう﹂で、﹁たとえる﹂の意。
てふ⋮⋮﹁という﹂の意。
277
第91首 月を恨んで︵後書き︶
来ぬ人によそえてまちし夕べより月てふものは恨みそめてき︵続後
撰和歌集︶
278
第92首 完全な忘却︵前書き︶
よしさらば わするとならば ひたぶるに あいみきとだに おも
いいづなよ
279
第92首 完全な忘却
もういい、仕方ないわ。
わたしのことを忘れたなんてね。
でも、そんなことを言うのなら、もう完全に忘れてよ。
あの夜のことでさえ思い出さないでね。
︻ちょこっと古語解説︼
○よし⋮⋮まあいい、仕方ない。
○さらば⋮⋮そうであるならば、の意。ちなみに、別れの挨拶とし
ての﹁さらば﹂もこの意が発展したものという説があり、﹁そうい
うことであるなら、今はもうお別れの時、では﹂という意味が込め
られているという。
○ひたぶるに⋮⋮元の形は﹁ひたぶるなり﹂で、﹁ひたすらだ、い
ちずである﹂の意。
○逢い見⋮⋮﹁逢う﹂も﹁見る﹂も、男女が関係を結ぶことを表し
ている。
○だに⋮⋮﹁∼さえ﹂の意。
280
第92首 完全な忘却︵後書き︶
よしさらば忘るとならばひたぶるに逢い見きとだに思い出づなよ︵
続後撰和歌集︶
281
第93首 新しい気持︵前書き︶
きみにより おもいならいぬ よのなかの ひとはこれをや こい
というらん
282
第93首 新しい気持
世界の中心に君がいる。
君が微笑めばそれだけで僕は嬉しくなって、君が悲しい顔をすれ
ば僕は先んじて涙を流す。
何事も君なしではうまくない。
こんな気持ちは初めてだ。
君のおかげで、気がついたことが一つ。
世間の人はこの気持ちを恋と呼んでいるのかなってね。
︻ちょこっと古語解説︼
○思いならい⋮⋮元の形は﹁思いならう﹂で、﹁習い覚える﹂の意。
ん
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞で、﹁∼した﹂の意。
○らむ⋮⋮現在推量を表す助動詞で、﹁∼しているだろう﹂の意。
283
第93首 新しい気持︵後書き︶
きみにより思いならいぬ世の中の人はこれをや恋というらむ︵続古
今和歌集︶
284
第94首 僕色になれ︵前書き︶
いろならば いづれかいかに うつるらん みせばやみばや おも
うこころを
285
第94首 僕色になれ
もしもこの気持ちが色であるとしたら。
そんな仮定をしてみたんだ。
どこを染めるのだろう、どれくらい濃く染めるのだろう、なんて
ね。
鮮やかなこの気持ちを、君に見せたいな。
自分でも見てみたい。
︻ちょこっと古語解説︼
○うつる⋮⋮染まる、の意。
○ばや⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼したい﹂の意。
○見⋮⋮元の形は﹁見る﹂で、この和歌では、そのまま﹁見る﹂の
意。しかし、多く、﹁男女が関係を結ぶ﹂意で﹁見る﹂が用いられ
るので、注意。
286
第94首 僕色になれ︵後書き︶
色ならばいづれかいかにうつるらむ見せばや見ばやおもう心を︵続
古今和歌集︶
287
第95首 紅葉の想い︵前書き︶
かんなびの いわせのもりの はつしぐれ しのびしいろは あき
かぜぞふく
288
第95首 紅葉の想い
まるで神が降りて来そうな清らかな森の中。
秋風が今年初めての時雨を招き、雨滴に洗われた木の葉が赤く染
まる。
そんな風に、時に従うようにして、わたしの気持ちも自然と表に
現れてしまった。
ずっと忍んでいた思いが口をついて。
かん
︻ちょこっと古語解説︼
いかるがちょういなばくるませ
○神なび⋮⋮神が天から降りて来てよりつく場所。
○磐瀬の森⋮⋮諸説あり。一説に、奈良県生駒郡斑鳩町稲葉車瀬に
ある森とか。
○時雨⋮⋮晩秋から初冬にかけて降ったりやんだりする冷たい雨。
289
第95首 紅葉の想い︵後書き︶
神なびの磐瀬の森の初時雨しのびし色は秋風ぞ吹く︵続古今和歌集︶
290
第96首 想いに生き︵前書き︶
つれなきを なおさりともと なぐさむる わがこころこそ いの
ちなりけれ
291
第96首 想いに生き
あの人の態度がよそよそしくて冷たい。
それでももしかしたら、となお期待する気持ちがある。
そうやって自分で自分を慰めている。
その思いだけを頼りにして生きているんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○つれなき⋮⋮元の形は﹁つれなし﹂で、﹁冷淡である﹂の意。
○猶⋮⋮やはり、の意。
○さりとも⋮⋮﹁さり﹂は﹁そのようである﹂の意。﹁とも﹂は﹁
たとえ∼であったとしても﹂の意。全体で、﹁たとえそのようであ
ったとしても﹂くらいの訳。
292
第96首 想いに生き︵後書き︶
つれなきを猶さりともとなぐさむる我が心こそ命なりけれ︵続古今
和歌集︶
293
第97首 雨に試す心︵前書き︶
かきくもれ たのむるよいの むらさめに さわらぬひとの ここ
ろをもみん
294
第97首 雨に試す心
曇って雨でも降らないかな。
綺麗な夕焼け空を見ながら思う。
あの人が行くよと約束した今夜。
その約束がどのくらいのものか試してみたいんだ。
わたしへの気持ちが確かなら、にわか雨くらい、何の障害にもな
らないはずでしょ。
︻ちょこっと古語解説︼
○たのむる⋮⋮元の形は﹁たのむ﹂で、期待させる、の意。ここで
むらさめ
は、やって来ることを期待させる、ということ。
わ
○村雨⋮⋮にわか雨。
ん
○さはら⋮⋮元の形は﹁さわる﹂で、妨げられる、の意。
○む⋮⋮意志を表す助動詞で、﹁∼しよう﹂の意。
295
第97首 雨に試す心︵後書き︶
かきくもれたのむる宵の村雨にさはらぬ人の心をも見む︵続古今和
歌集︶
296
第98首 空しい想い︵前書き︶
なぐさめし つきにもはては ねをぞなく こいやむなしき そら
にみつらん
297
第98首 空しい想い
彼女のことを思うとき、月を見る。
そのたび、月がぼくをなぐさめてくれていた。
でも、今ではもう、この気持ちをどうすることもできなくて、泣
き出してしまうほどだ。
彼女に寄せた思いは、報われないままどこにも行くことができず、
虚空を満たしているだけなのだろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
○音をぞ泣く⋮⋮﹁音を泣く﹂で、声を出して泣く、の意。﹁ぞ﹂
は強調。
ん
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○らむ⋮⋮現在推量を表す助動詞で、﹁∼しているだろう﹂の意。
298
第98首 空しい想い︵後書き︶
なぐさめし月にも果ては音をぞ泣く恋やむなしき空にみつらむ︵続
古今和歌集︶
299
たもとにわけし
つきかげは
第99首 あの時の光︵前書き︶
きぬぎぬの
りはつらん
たがなみだにか
やど
300
第99首 あの時の光
月光が、重ね合わせたぼくときみの服を、照らしていた。
その袖を離せば光は消えて、ぼくは去り、きみは残る。
あの時見た月の光は、今頃誰の涙に宿り、消え果てているのだろ
うか。
︻ちょこっと古語解説︼
○きぬぎぬ⋮⋮衣衣と書く。恋人同士は互いの衣を重ねかけて寝て、
翌朝、それぞれの衣を着て別れる。その別れのことを﹁きぬぎぬの
たもと
別れ﹂という。きぬぎぬは、後朝とも書く。
○袂⋮⋮袖のこと。
○月かげ⋮⋮月の光のこと。﹁かげ﹂には光の意味があるので注意。
○たが⋮⋮﹁た﹂は﹁誰﹂の意であり、﹁が﹂は﹁の﹂の意。合わ
ん
せて﹁たが﹂で、﹁誰の﹂の意。
○らむ⋮⋮現在推量の助動詞。﹁今頃∼しているだろう﹂の意。
301
第99首 あの時の光︵後書き︶
きぬぎぬの袂にわけし月かげはたが涙にかやどりはつらむ︵続古今
和歌集︶
302
これやかぎりの
つきならん
第100首 最後の月光︵前書き︶
しのぶべき
のわかれは
さだめなきよの
そで
303
第100首 最後の月光
夜明け方まで残る月が、二人を照らしている。
これまで忍ぶ恋を続けて来たぼくたちが、最後に見る月かもしれ
ない。
袖を離して別れる時、ついそんなことを考えてしまうんだ。
さだまらないぼくたちの恋以上に、この世自体に定めがないのだ
から。
︻ちょこっと古語解説︼
○しのぶ⋮⋮﹁耐え忍ぶ﹂の意。
○や⋮⋮疑問を表す助詞。﹁∼か﹂の意を添える。
○かぎり⋮⋮﹁最後﹂の意。
○ならむ⋮⋮断定の助動詞﹁なり﹂+推量の助動詞﹁む﹂で、﹁∼
だろう﹂の意。
○さだめなき⋮⋮元の形は﹁さだめなし﹂で、﹁移り変わりやすい、
無常である﹂の意。
○袖の別れ⋮⋮袖を重ね合わせて寝具として一晩一緒に過ごした男
女が、翌朝、それぞれの服を着て別れること。
304
第100首 最後の月光︵後書き︶
しのぶべきこれやかぎりの月ならむさだめなき世の袖の別れは︵続
古今和歌集︶
305
第101首 あなたの夢︵前書き︶
はかなくて みえつるゆめの おもかげを いかにねしよと また
やしのばん
306
第101首 あなたの夢
夢の中で、ようやくあの人に会えた。
現実の確かさには及ぶべくもないけれど、嬉しくて。
昨日、どうやって寝たんだろうか、なんて考える。 月光のせい? 替えた枕のせい? 夕餉に食べたもののせい?
また会いたいな。
昨夜の夢の面影を、次の夢で会えるまで、思い慕うことになるの
かなあ。
︻ちょこっと古語解説︼
○はかなく⋮⋮元の形は﹁はかなし﹂で、﹁頼りない・むなしい﹂
の意。
○いかに⋮⋮どのように。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す。
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
ん
○しのば⋮⋮元の形は﹁しのぶ﹂で、﹁思い慕う﹂の意。
○む⋮⋮推量を表す助動詞で、﹁∼だろう﹂の意。
307
第101首 あなたの夢︵後書き︶
はかなくて見えつる夢の面影をいかに寝し夜とまたやしのばむ︵続
古今和歌集︶
308
第102首 知る前の昔︵前書き︶
きみをまだ みずしらざりし いにしえの こいしきをさえ なげ
きつるかな
309
第102首 知る前の昔
あなたと出会って恋に落ちたの。
楽しくて嬉しくて喜びにあふれる日々。
でも、この頃では、ため息ばかり。
恋が素晴らしいことばかりじゃないことを知ったわ。
まだあなたと出会っていなかった昔。
今では、その頃のことが恋しい。
何も知らなかったときの方がかえって今よりも幸せだったかも。
そう思うと、それさえもため息の原因。
︻ちょこっと古語解説︼
え
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○いにしへ⋮⋮昔、のこと。
○つる⋮⋮元の形は﹁つ﹂で、完了を表す助動詞。
310
第102首 知る前の昔︵後書き︶
君をまだ見ず知らざりしいにしへの恋しきをさへ歎きつるかな︵続
古今和歌集︶
311
第103首 別離後の身︵前書き︶
いさしらず なるみのうらに ひくしおの はやくぞひとは とお
ざかりにし
312
第103首 別離後の身
さあ、ぼくのこの身は一体どうなってしまうのだろう。
なるみの浦の汐が引いていく。
そんな風に、まるで当たり前のように、早くもあの人は遠ざかっ
てしまった。
︻ちょこっと古語解説︼
○いさ⋮⋮﹁知らず﹂と呼応して、﹁さあ、どうだか分からない﹂
の意。
○なるみの浦⋮⋮今の愛知県名古屋市緑区あたりにあった入り江。
﹁なるみ﹂の部分に、﹁成る身﹂が掛けられていて、﹁いさしらず
成る身﹂となり、﹁どうなるか分からないこの身﹂という意を表現
しお
している。
○汐⋮⋮満ち干する海水。
○ぞ⋮⋮強調を表す助詞。訳には出ない。
○人⋮⋮和歌では、﹁大好きなあの人﹂ととる。
○に⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
313
第103首 別離後の身︵後書き︶
いさしらずなるみの浦にひく汐の早くぞ人は遠ざかりにし︵続古今
和歌集︶
314
第104首 涙の責任は︵前書き︶
おもいかね なおよにもらば いかがせん さのみなみだの とが
になしても
315
第104首 涙の責任は
あなたへの思いがあふれて、それは時に涙となってあらわれる。
それを見とがめられて、この恋心が世の中にもれてしまったらど
うしよう。
世にもれたのは、わたしがもらした涙のせい。
でも、わたしが泣いたことのせいばかりにしていてもしようがな
い。
どうしてわたしが泣いているのか、その理由こそ問題なのだから。
い
︻ちょこっと古語解説︼
思ひかね⋮⋮﹁かね﹂の元の形は﹁かぬ﹂で、﹁∼することに耐え
られない﹂の意。全体で、﹁思うことに耐えられない﹂くらいの訳
となり、ここでは、﹁あなたをただ思い続けることが苦しくて耐え
お
られない﹂という意味か。
なほ⋮⋮そのまま、の意。
もらば⋮⋮﹁もら﹂の元の形は、﹁もる﹂で、﹁︵秘密などが︶他
に知られる、ばれる﹂の意。﹁ば﹂は、仮定を表す助詞で、﹁∼し
たら﹂の意。全体で、﹁他に知られたら﹂くらいの訳。
とが⋮⋮過失、の意。
316
第104首 涙の責任は︵後書き︶
思ひかねなほ世にもらばいかがせむさのみ涙のとがになしても︵続
拾遺和歌集︶
317
第105首 恋は続いて︵前書き︶
おもうにも よらぬいのちの つれなさは なおながらえて こい
やわたらん
318
第105首 恋は続いて
彼女のことをいくら思って苦しんでもそれで死んでしまうわけじ
ゃない。
この命の無情。
このまま生きながらえて、彼女のことを恋し続け、これからも苦
しむことになるのだろうか
︻ちょこっと古語解説︼
○よらぬ⋮⋮﹁よら﹂の元の形は﹁よる﹂で﹁︵心が︶寄る、傾く﹂
の意。﹁ぬ﹂の元の形は﹁ず﹂で﹁∼ない﹂という打消しの意。全
体で、﹁︵心が︶傾いてくれない﹂くらいの訳。
○つれなさ⋮⋮ある状態にうまく連動してくれない様子を表す。無
関係だ、の意。ここでは、死にそうなくらい彼女のことを思ってい
え
るのに、実際には死なないことを、﹁命のつれなさ﹂と表現してい
る。
○ながらへ⋮⋮元の形は、﹁ながらふ﹂で、﹁生きながらえる﹂の
意。
ん
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○わたらむ⋮⋮﹁わたら﹂は元の形が﹁わたる﹂で、何かが続く意。
﹁む﹂は推量を表す助動詞。全体で、﹁続くのだろうか﹂くらいの
訳。
319
第105首 恋は続いて︵後書き︶
思ふにもよらぬ命のつれなさは猶ながらへて恋ひやわたらむ︵続拾
遺和歌集︶
320
第106首 恋心の行方︵前書き︶
こいしなん ゆくえをだにも おもいいでよ ゆうべのくもは そ
れとなくとも
321
第106首 恋心の行方
君を思って、その思いが過ぎて、僕はまもなく死ぬだろう。
そのときには、せめて思い出してほしい、この恋心の行く先を。
僕の思いは、まっすぐに君の元へと飛ぶだろう。
夕空にそれらしい雲なんか見えないかもしれない。
それでもなお、僕の思いは君のそばにある。
ん
︻ちょこっと古語解説︼
え
○む⋮⋮推量を表す助動詞で、﹁∼だろう﹂の意。
○ゆくへ⋮⋮行き先、のこと。
○だに⋮⋮﹁せめて∼だけでも﹂と最小限の限度を表す。
○夕べ⋮⋮夕暮れどき、のこと。
322
第106首 恋心の行方︵後書き︶
恋ひ死なむゆくへをだにも思ひ出でよ夕べの雲はそれとなくとも︵
続拾遺和歌集︶
323
第107首 忍ぶこころ︵前書き︶
つれなさを いかにしのびて すぐしけん くれまつほども たえ
ぬこころに
324
第107首 忍ぶこころ
あの人の薄情さは本当にやりきれない。
いったいこれまでどう忍んで過ごして来たのだろう。
弱いわたしの心は、日暮れを待つ間でさえ耐えられそうにないの
に。
︻ちょこっと古語解説︼
○つれなさ⋮⋮一方に他方がうまく連動してくれない様子を表す。
ここでは、こちらが相手を思っているのに、相手がこちらを思って
くれないことを表現している。
○いかに⋮⋮どうやって、の意。
○忍び⋮⋮元の形は﹁忍ぶ﹂で、﹁耐え忍ぶ﹂意。
ん
○すぐし⋮⋮元の形は﹁すぐす﹂で、﹁過ごす、年月を送る﹂の意。
○けむ⋮⋮過去の推量を表す助動詞で、﹁∼だっただろう﹂くらい
の訳。
○暮まつ⋮⋮恋人の訪れを待つということ。
325
第107首 忍ぶこころ︵後書き︶
つれなさをいかに忍びてすぐしけむ暮まつほどもたへぬ心に︵続拾
遺和歌集︶
326
第108首 夢へ醒める︵前書き︶
つかのまの やみのうつつも まだしらぬ ゆめよりゆめに まよ
いぬるかな
327
第108首 夢へ醒める
ほんの少しの間、夜の闇の中、あの人と会う。
大好きなあの人と寄り添って愛し合う。
そんな夢を抱きながら目覚めた現実は、なお、夢のようなはかな
さ。
︻ちょこっと古語解説︼
○つかのま⋮⋮ほんの短い時間、のこと。
○闇のうつつ⋮⋮闇の中で愛し合うこと。古今和歌集に、﹁むば玉
の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり﹂という和
歌があり、この和歌の中の表現である﹁闇のうつつ﹂を踏まえてい
る。
○ぬる⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で完了を表す助動詞。﹁∼た、∼てしま
った﹂くらいの訳。
328
第108首 夢へ醒める︵後書き︶
つかのまの闇のうつつもまだ知らぬ夢より夢にまよひぬるかな︵続
拾遺和歌集︶
329
第109首 現実の儚さ︵前書き︶
むばたまの やみのうつつは さだかなる ゆめにいくらも まさ
らざりけり
330
第109首 現実の儚さ
闇の中、あの人と会った。
そうして夜を過ごして、朝を迎えたわたし。
昨夜のことは本当にあったことなのかな。
いつか見た夢よりちっとも勝ってないみたい。
︻ちょこっと古語解説︼
○むば玉の⋮⋮暗黒に関する語を導くための言葉。この語自体は訳
さない。この語があると次に、暗黒に関係がある語︱︱黒、髪、夜
など︱︱が出てくることが分かる。
○うつつ⋮⋮現実のこと。
○さだかなる⋮⋮元の形は﹁さだかなり﹂で、﹁はっきりしている﹂
の意。
○ざり⋮⋮元の形は、﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。﹁∼ない﹂の
意。
○けり⋮⋮﹁∼だなあ﹂と、詠嘆を表す助動詞。
331
第109首 現実の儚さ︵後書き︶
むば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり︵古
今和歌集︶
332
第110首 あの人の香︵前書き︶
あかざりし そでかとにおう うめがかに おもいなぐさむ あか
つきのそら
333
第110首 あの人の香
心が満ち足りないままに別れたあの人。
まだ明けない夜の下でわたしはひとり。
不意に訪れた梅花の匂いは、彼の袖の香のよう。
まるでまだあの人がいるように思われて、少し心が慰められた。
︻ちょこっと古語解説︼
○あかざりし⋮⋮﹁あか﹂は元の形は﹁あく﹂で、満足する、の意。
﹁ざり﹂は元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。﹁し﹂は元の形
は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。全体で、﹁満足しなかった﹂くら
いの訳。
か
○か⋮⋮疑問を表す助詞。
○梅が香⋮⋮梅の香。﹁が﹂は、ここでは﹁の﹂の意味で使われて
あかつき
いる。
○暁⋮⋮夜明け前。
334
第110首 あの人の香︵後書き︶
あかざりし袖かと匂ふ梅が香に思ひなぐさむ暁の空︵続拾遺和歌集︶
335
第111首 変わる言葉︵前書き︶
ことのはも わがみしぐれの そでのうえに たれをしのぶの も
りのこがらし
336
第111首 変わる言葉
森に時雨が降り、木の葉の色が変わる。
そんな風にして、あの人の愛の言葉も変わってしまった。
この身の袖に落ちたのは、雨ではなく涙。
木枯らしの吹く中で、このうえ、誰を恋い偲んでいるというのだ
ろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
しぐれ
○ことの葉⋮⋮言葉。ここでは、恋人の愛の言葉のこと。
○時雨⋮⋮晩秋から初冬に降る雨のこと。
○袖⋮⋮和歌では、涙を象徴する。袖で涙を拭うのである。
○しのぶの森⋮⋮﹁しのぶ﹂には、今の福島県北部の昔の地名であ
る﹁信夫﹂と、﹁恋い偲ぶ﹂意の﹁偲ぶ﹂の、二つの意味が重ねら
れている。
337
第111首 変わる言葉︵後書き︶
ことの葉もわが身時雨の袖の上にたれをしのぶの森の木枯らし︵続
拾遺和歌集︶
338
第112首 慰めの無い︵前書き︶
あわれとも たれかはこいを なぐさめん みよりほかには しる
ひともなし
339
第112首 慰めの無い
彼女のことを思うと、気が狂いそうになる。
それを可哀想だと、誰が慰めてくれるだろう。
そんな人は誰もいない。
わが身よりほかにこの恋を知る者はいないのだから。
わ
︻ちょこっと古語解説︼
わ
○あはれ⋮⋮気の毒だ、の意。
○かは⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂の意。疑問の形を取り
ん
ながら否定を表す﹁反語﹂という用法。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
○身⋮⋮我が身。自分自身のこと。
340
第112首 慰めの無い︵後書き︶
あはれともたれかは恋をなぐさめむ身よりほかには知る人もなし︵
新後撰和歌集︶
341
第113首 渡らない川︵前書き︶
よそにのみ なおいつまでか おもいがわ わたらぬなかの ちぎ
りたのまん
342
第113首 渡らない川
離れた所から、あの人のことを思う。
いつまでこんなことばかりしているんだろう。
わたしの作る涙の川を、あの人は渡って来てはくれない。
それなのに、これからもあの人の約束を頼りにするんだろうな。
︻ちょこっと古語解説︼
い
○よそ⋮⋮離れた場所のこと。
○思ひ川⋮⋮福岡県中部、太宰府天満宮の付近を流れる御笠川のこ
と。恋に悩んで流した涙が川を作るほどであると、恋に苦しむ様子
を例えた表現。
○ぬ⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。﹁∼ない﹂くらい
の訳。
○ちぎり⋮⋮約束を表し、特に男女の間の恋の約束のことを言う。
ん
○たのま⋮⋮元の形は﹁たのむ﹂で、﹁頼りにする﹂の意。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
343
第113首 渡らない川︵後書き︶
よそにのみ猶いつまでか思ひ川わたらぬ中のちぎりたのまむ︵新後
撰和歌集︶
344
第114首 帰り道の涙︵前書き︶
わけわびぬ そでのわかれの しののめに なみだおちそう みち
しばのつゆ
345
第114首 帰り道の涙
草を分けてつらい思いをして、ここまで来た。
でも、この別れの方がもっと辛い。
袖を解いて衣をまとい、明け方の道を帰る。
わたしの涙が落ちて、芝草の露に混じる。
︻ちょこっと古語解説︼
○わび⋮⋮﹁わび﹂は元の形が﹁わぶ﹂で、何かをするのがつらい
こと。
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞。﹁∼た、∼てしまった﹂くらいの訳。
○袖の別れ⋮⋮夜を共にした男女が、朝方別れること。脱いだ衣服
の袖を重ねて寝具とし共寝した男女が、袖を解いてそれぞれの衣服
を着て別れるわけ。
みちしば
○しののめ⋮⋮明け方。
○道芝⋮⋮道ばたに生えている芝草、のこと。
346
第114首 帰り道の涙︵後書き︶
分けわびぬ袖の別れのしののめに涙おちそふ道芝の露︵新後撰和歌
集︶
347
第115首 夢にできず︵前書き︶
わすれねよ ゆめぞといいし かねごとを などそのままに たの
まざりけん
348
第115首 夢にできず
忘れてしまいましょう、このことは夢として⋮⋮。
あの夜二人で言い交わした約束の言葉。
どうしてあの言葉通りにしなかったのだろう。
夢として忘れていさえすれば、今これほど苦しむことはなかった
のに。
︻ちょこっと古語解説︼
○ねよ⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞、その命令形。﹁
∼てしまえ﹂くらいの訳。
○かねごと⋮⋮前もって言っておく言葉。約束のこと。
○など⋮⋮どうして。
○たのま⋮⋮元の形は﹁たのむ﹂で、﹁頼りにする﹂
ん
○ざり⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。
○けむ⋮⋮過去の推量を表す助動詞。﹁∼ただろう﹂くらいの訳。
349
第115首 夢にできず︵後書き︶
忘れねよ夢ぞと言ひしかねごとをなどそのままにたのまざりけむ︵
新後撰和歌集︶
350
第116首 約束の果て︵前書き︶
こいこいて そなたになびく けぶりあらば いいしちぎりの は
てとながめよ
351
第116首 約束の果て
あなたが恋しくて恋しくて、それなのにあなたは冷たい。
わたしのことを好きだって言ってくれたのに。
空を見て、もしも、そっちに向かう煙があったら覚悟してね。
その煙はあなたに裏切られたわたしが火葬にされたもの。
約束を果たしてくれたなかったあなたを責めに行くから。
︻ちょこっと古語解説︼
けぶり
○そなた⋮⋮そちら、の意。
ちぎ
○煙⋮⋮ここでは、火葬の煙のこと。
○契り⋮⋮約束。ここでは、男女の間の恋の約束のこと。
352
第116首 約束の果て︵後書き︶
恋ひ恋ひてそなたになびく煙あらばいひし契りのはてとながめよ︵
新後撰和歌集︶
353
第117首 思い頼りに︵前書き︶
おもいねの こころのうちを しるべにて むかしのままに みる
ゆめもがな
354
第117首 思い頼りに
あの人と会えない日々が続く。
次はいつ会えるのだろうか。
せめて夢でだけでもと思い、想いながら眠りにつく。
会いたいという気持ちを頼りにして、夢の中へ。
昔はよくあの人の夢を見たんだ。
そのときのような夢を、また見ることができたらなあ。 い
︻ちょこっと古語解説︼
○思ひ寝⋮⋮恋人を思いながら寝ること。
○しるべ⋮⋮道の案内をすること。また、道案内をしてくれる人や
もの。
○もがな⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼があればなあ﹂くらいの訳。
355
第117首 思い頼りに︵後書き︶
思ひ寝の心のうちをしるべにて昔のままにみる夢もがな︵新後撰和
歌集︶
356
第118首 人知れぬ涙︵前書き︶
はるさめの さわへふるごと おともなく ひとにしられで ぬる
るそでかな
357
第118首 人知れぬ涙
春の空から雨が沢へと降る。
その音の静けさ。
空にならって、わたしもひそやかに泣く。
その声は、誰に聞こえることもない。
わ
︻ちょこっと古語解説︼
○さは⋮⋮谷川、のこと。あるいは、湿地、のこと。
○ごと⋮⋮﹁∼のように﹂の意。
○人⋮⋮この和歌では﹁他人﹂の意だが、和歌で﹁人﹂とあったら、
まず﹁恋しいあの人﹂の意でとらえるのがよい。
○で⋮⋮﹁∼ないで﹂の意。
○袖⋮⋮和歌で袖が出てきたら、涙を表現するものとしてとらえて
おく。袖は涙を拭うためにあります。
358
第118首 人知れぬ涙︵後書き︶
春雨のさはへふるごと音もなく人に知られで濡るる袖かな︵玉葉集︶
359
第119首 日暮れの心︵前書き︶
ゆうぐれは かならずひとを こいなれて ひもかたぶけば すで
にかなしき
360
第119首 日暮れの心
夕暮れになると、あの人が来てくれることを期待する。
すっかりその状態に慣れちゃった。
今日は来てくれるかな、きっと、多分、でも、もしかしたら⋮⋮。
日も傾いてくると、もうそれだけで、切なくなってしまうの。
︻ちょこっと古語解説︼
○人⋮⋮和歌で﹁人﹂と出てきたら、﹁他人﹂の意もあるが、まず
は﹁恋しいあの人﹂の意でとらえてみること。
○ば⋮⋮﹁∼すると﹂くらいの訳。﹁∼したら﹂という仮定の意味
ではないので、注意。
361
第119首 日暮れの心︵後書き︶
夕暮はかならず人を恋ひなれて日もかたぶけばすでに悲しき︵玉葉
集︶
362
第120首 山雨の下で︵前書き︶
あしひきの やまのしづくに いもまつと わがたちぬれぬ やま
のしづくに
363
第120首 山雨の下で
裾野が広がった山の中、雨に濡れながら君を待つ。
君に会いたい一心で、樹下にたたずんでいると、身も心も濡れて
しまったよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○あしひきの⋮⋮﹁山﹂に関連する語を導き出すための言葉。この
言葉自体に訳はつかず、この言葉があるとその次に、﹁山﹂に関す
る語︱︱﹁山﹂の他には例えば﹁峰﹂など︱︱が使われることが分
かる。
いも
○しづく⋮⋮水滴。
○妹⋮⋮妻や恋人など、親しい女性に呼びかけるために男性が使う
語。
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞。﹁∼た、∼てしまった﹂くらいの訳。
364
第120首 山雨の下で︵後書き︶
あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れぬ山のしづくに︵玉
葉集︶
365
第121首 空から来て︵前書き︶
つれづれと そらぞみらるる おもうひと あまくだりこん もの
ならなくに
366
第121首 空から来て
何ということもなしに空を見てしまう。
あの人が降りて来てくれるんじゃないか。
そんなことを思わせる空。
あるわけがないと思っても、つい期待して見続けてしまう。
︻ちょこっと古語解説︼
○つれづれと⋮⋮﹁しみじみとものさびしく﹂くらいの訳。
○ぞ⋮⋮強調を表す助詞で、訳には表れない。
○るる⋮⋮元の形は﹁る﹂で自発を表す助動詞。﹁自然と∼される﹂
ん
くらいの訳。
○む⋮⋮婉曲を表す助動詞。訳には表れない。
○ならなくに⋮⋮﹁∼ではないのに﹂くらいの訳。
367
第121首 空から来て︵後書き︶
つれづれと空ぞ見らるる思ふ人あまくだりこむものならなくに︵玉
葉集︶
368
第122首 筆に宿る心︵前書き︶
ものおもえば はかなきふでの すさびにも こころににたる こ
とぞかかるる
369
第122首 筆に宿る心
ちょっとした書きものをしていてハッとした。
まるで今のわたしの気持ちを書いたみたい。
あの人のことを思っていると、文章にまで思いが表れてしまうの
かな。
︻ちょこっと古語解説︼
○ば⋮⋮﹁∼すると﹂くらいの訳。﹁∼ならば﹂という仮定の意味
ではないので注意。
○はかなき⋮⋮元の形は﹁はかなし﹂で、﹁ちょっとした・取るに
足らない﹂くらいの訳。
○筆のすさび⋮⋮気の向くままに書くこと。気の向くままに書いた
もの。
○たる⋮⋮元の形は﹁たり﹂で、存続を表す助動詞。﹁∼ている﹂
くらいの訳。
○ぞ⋮⋮強調を表す助詞で、訳には表れない。
○るる⋮⋮元の形は﹁る﹂で、自発を表す助動詞。﹁自然と∼てし
まう﹂くらいの訳。
370
第122首 筆に宿る心︵後書き︶
物思へばはかなき筆のすさびにも心に似たることぞ書かるる︵玉葉
集︶
371
第123首 涙を通して︵前書き︶
こいしさは ながめのすえに かたちして なみだにうかぶ とお
やまのまつ
372
第123首 涙を通して
彼女のことを思いながら、恋しい気持ちでいる。
そんな気持ちでずっと遠くを眺めていると浮かび上がるかたちが
ある。
山、そして、その頂上に生える一本の松だ。
涙にかすむぼくの目に、それでもはっきりと見える。
一本きりで風に吹かれるその孤独な姿は、まるでぼくのようだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○ながめ⋮⋮単なる﹁眺望﹂という意味もあるが、﹁物思いにふけ
ること﹂という意味もある。
○末⋮⋮結果、のこと。
○遠山⋮⋮遠方に見える山。
373
第123首 涙を通して︵後書き︶
恋しさはながめの末にかたちして涙にうかぶ遠山の松︵玉葉集︶
374
第124首 通わない心︵前書き︶
ききみるも さすがにちかき おなじよに かようこころの など
かはるけき
375
第124首 通わない心
あの人の声を聞く、あの人の姿を見る。
それはこんなに近くですることができる。
なんといっても同じ世の中に住んでいるんだから。
それなのにあの人の心とわたしの心は遠く離れている。
どうして通い合わないんだろう。
︻ちょこっと古語解説︼
○さすがに⋮⋮﹁やはり、それだけのことはある﹂くらいの訳。
○などか⋮⋮﹁どうして∼か﹂という疑問の意を表す。
○はるけき⋮⋮元の形は﹁はるけし﹂で、時間・空間・心理的に離
れていることを表す。
376
第124首 通わない心︵後書き︶
聞きみるもさすがに近きおなじ世にかよふ心のなどかはるけき︵玉
葉集︶
377
第125首 言いたい事︵前書き︶
せめてさらば いまひとたびの ちぎりありて いわばやつもる こいもうらみも
378
第125首 言いたい事
どうせあの人とわたしは結ばれることはない。
それならせめて、もう一度だけ会って言ってやりたい。
つもりにつもったあの人への気持ちを、思うさま打ち明けるの。
恋しかった気持ちも、恋しさに余った恨みの気持ちも。
︻ちょこっと古語解説︼
ちぎ
○さらば⋮⋮﹁もしそうならば﹂くらいの訳。
○契り⋮⋮約束。ここでは、男女の間の恋の約束のことで、男女が
会う約束のこと。
○ばや⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼たい﹂くらいの訳。
379
第125首 言いたい事︵後書き︶
せめてさらば今一度の契りありて言はばやつもる恋も恨みも︵玉葉
集︶
380
第126首 君かぼくか︵前書き︶
ききもせず われもきかれじ いまはただ ひとりびとりが よに
なくもがな
381
第126首 君かぼくか
君からの便りがもらえずに、苦しく過ごした日々。
その日々も終わり、ようやく君のことを聞かなくなった。
もうぼくのことも君の耳に届いて欲しくはない。
今はただ、君かぼく、どちらかがこの世からいなくなればいいの
にと、そう思う。
うちけし
︻ちょこっと古語解説︼
○じ⋮⋮打消意志を表す助動詞で、﹁∼しないようにしよう﹂くら
いの訳。
○ひとりびとり⋮⋮どちらか一人、の意。
○もがな⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼であればなあ﹂くらいの訳。
382
第126首 君かぼくか︵後書き︶
聞きもせず我も聞かれじ今はただひとりびとりが世になくもがな︵
玉葉集︶
383
第127首 自省の心を︵前書き︶
よそにのみ ひとをつらしと なにかおもう こころよわれを う
きものとしれ
384
第127首 自省の心を
自分ではないあの人のことばかり、薄情だと思ってしまう。
そんなわたしだって、あの人のことばかり言えやしないのに。
わたしのこのわがままな心にちゃんと分かって欲しい。
わたし自身がめんどうな存在なんだってこと。
︻ちょこっと古語解説︼
○よそ⋮⋮﹁別の人・他人﹂の意
○人⋮⋮和歌の中で﹁人﹂と出てきたら、﹁恋しいあの人﹂の意で
とらえるのがよい。
う
○つらし⋮⋮薄情である、の意。
○憂き⋮⋮わずらわしい、の意。
385
第127首 自省の心を︵後書き︶
よそにのみ人をつらしと何か思ふ心よ我を憂きものと知れ︵玉葉集︶
386
第128首 思い通りに︵前書き︶
あうたびに これやかぎりと おぼえしを げにありはてぬ なか
となりぬる
387
第128首 思い通りに
あの人と会って夜を共にするたび考えていた。
もしかしたら今夜が最後なのかなって。
そんなことを思っていたら、本当にそうなってしまった。
途中で終わってしまう仲に。
あう
︻ちょこっと古語解説︼
○逢ふ⋮⋮単に会うだけではなく、男女が夜を共に過ごすことまで
指す。
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○おぼえし⋮⋮﹁おぼえ﹂は、元の形は﹁おぼゆ﹂で、﹁思われる﹂
という意味。﹁し﹂は、元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。全
体で、﹁思われた﹂くらいの訳。
○げに⋮⋮本当に。
うちけし
○ありはてぬ⋮⋮﹁ありはて﹂は、元の形は﹁ありはつ﹂で、﹁最
後まで持続する﹂意。﹁ぬ﹂は、元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助
動詞。全体で、﹁最後まで持続しない﹂という意。
○中⋮⋮仲、のこと。
○ぬる⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞。﹁∼た、∼てし
まった﹂くらいの訳。
388
第128首 思い通りに︵後書き︶
逢ふたびにこれや限りとおぼえしをげにありはてぬ中となりぬる︵
玉葉集︶
389
第129首 雲の思い出︵前書き︶
いまさらに そのよもよおす くものいろよ わすれてただに す
ぎしゆうべを
390
第129首 雲の思い出
何ということもなく過ごしていた夕暮れ時。
ふと見上げると、美しくはかない色に染まる雲。
昔、彼女と付き合っていたころのことを、今、思い出してしまっ
た。
よ
︻ちょこっと古語解説︼
○世⋮⋮﹁世の中・世間﹂という意味もあるが、ここでは、男女の
お
仲、のこと。恋の和歌ではこの意味も覚えておきたい。
○もよほす⋮⋮﹁引き起こす・誘い出す﹂の意。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。﹁∼た﹂くらいの
ゆう
訳。
○夕べ⋮⋮﹁夕暮れどき・夕方﹂のこと。
391
第129首 雲の思い出︵後書き︶
今更にその世もよほす雲の色よわすれてただに過ぎし夕べを︵玉葉
集︶
392
第130首 不可避の道︵前書き︶
うみやまの はてもこいじと おもうには あわれこころを いづ
ちやらまし
393
第130首 不可避の道
海を越え、山を越え、世界の果てまで行き着いたとしよう。
それでも、なおそこには恋の道が敷かれているのだ。
ああ、いったいどうしたらよいのだろう。
どこまで行っても恋に悩むこの心を晴らすことはできないのか。
わ
︻ちょこっと古語解説︼
○あはれ⋮⋮ああ、という感動のため息の音を表したもの。
○いづち⋮⋮どの方向。
○やら⋮⋮元の形は﹁やる﹂で、﹁気を晴らす﹂意。
○まし⋮⋮﹁ためらいの意志﹂を表す助動詞で、﹁∼すればよいだ
ろう﹂くらいの訳。
394
第130首 不可避の道︵後書き︶
海山のはても恋路と思ふにはあはれ心をいづちやらまし︵続千載和
歌集︶
395
第131首 未来より今︵前書き︶
ゆくすえの ふかきちぎりも よしやただ かかるわかれの いま
なくもがな
396
第131首 未来より今
これから先、深い宿縁によって、わたしたちが結ばれるかどうか。
それはとりあえずおいておきましょう。
今別れなければいけないことに変わりはないのですから。
今後のことより、今、この別れがなければと、ただそれだけを思
うのです。
え
︻ちょこっと古語解説︼
ちぎ
○ゆくすゑ⋮⋮将来、のこと。
○契り⋮⋮ここでは、前世からの宿縁、の意。この世でのあり方は
前世でのあり方によって決められているという考え方を元にした語。
○よしや⋮⋮仕方がない、と仮に許可する意。
○かかる⋮⋮このような。
○もがな⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼であればなあ・∼があればな
あ﹂くらいの訳。
397
第131首 未来より今︵後書き︶
ゆくすゑのふかき契りもよしやただかかる別れの今なくもがな︵続
千載和歌集︶
398
第132首 旅の空から︵前書き︶
わかれても いくありあけを しのぶらん ちぎりていでし ふる
さとのつき
399
第132首 旅の空から
離れずにいられたときでさえ、あの人と見た有明の月が慕わしか
った。
別れたら何度その月を恋しく思うか知れない。
きっと帰って来る、と約束して故郷を出た。
あの人も有明の月を見て、わたしを思い出してくれるだろうか。
ありあけ
︻ちょこっと古語解説︼
○有明⋮⋮夜が明けてもまだ空に残っている月。
ん
○しのぶ⋮⋮思い慕う、意。
○らむ⋮⋮本来は、現在推量の助動詞で、﹁今頃∼しているだろう﹂
くらいの訳だが、ここでは、単なる推量の意で、﹁これから∼だろ
ちぎ
う﹂くらいの訳。
○契り⋮⋮元の形は﹁契る﹂で、約束する、の意。
ふるさと
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○古郷⋮⋮生まれ故郷、のこと。
400
第132首 旅の空から︵後書き︶
わかれても幾有明をしのぶらむ契りて出でし古郷の月︵続千載和歌
集︶
401
第133首 現実よりも︵前書き︶
ありしよを こうるうつつは かいなきに ゆめになさばや また
もみゆやと
402
第133首 現実よりも
あの人と過ごした夜を恋しく思う。
そんなことをしてもしょうがないことは分かっている。
いっそあの日々を夢に出来たらなあ。
夢だったら、また夢で会えるかもしれないのに。
︻ちょこっと古語解説︼
○ありし⋮⋮昔の。
○よ⋮⋮﹁世﹂と﹁夜﹂の二つの意味を掛けている。﹁世﹂は、男
女の仲のこと。
い
○うつつ⋮⋮現実、のこと。
○かひなき⋮⋮元の形は、﹁かひなし﹂で、どうにもならない、の
意。
○ばや⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼たい﹂くらいの訳。
○や⋮⋮疑問の意。﹁∼か﹂くらいの訳。
403
第133首 現実よりも︵後書き︶
ありしよを恋ふるうつつはかひなきに夢になさばや又も見ゆやと︵
続千載和歌集︶
404
第134首 暮を待つ間︵前書き︶
くれをだに なおまちわびし ありあけの ふかきわかれに なり
にけるかな
405
第134首 暮を待つ間
あの人には、また夜に会える。
しかし、その夕暮れを待つことさえ耐えがたい。
有明の月の輝き。
その下でなされた別れは、とても辛いものになってしまった。
︻ちょこっと古語解説︼
○だに⋮⋮﹁∼さえ﹂の意。
○待ちわび⋮⋮元の形は﹁待ちわぶ﹂で、﹁待ちくたびれる﹂の意。
ありあけ
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○有明⋮⋮まだ月が残っているうちに夜が明ける、その夜明けのこ
と。
○に⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞。
406
第134首 暮を待つ間︵後書き︶
暮をだになほ待ちわびし有明のふかきわかれになりにけるかな︵続
千載和歌集︶
407
第135首 変貌する月︵前書き︶
つきもなお みしおもかげは かわりけり なきふるしてし そで
のなみだに
408
第135首 変貌する月
涙に濡らされた袖に、月の姿が映る。
その姿は、あの頃とは違うように見える。
あの人の気持ちと同じように、月も姿を変えたのだろうか。
いや、あまりに泣き濡らされて古びてしまったこの袖のせいだろ
う。
︻ちょこっと古語解説︼
おもかげ
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○面影⋮⋮顔つき、のこと。
○ふるし⋮⋮元の形は﹁ふるす﹂で、﹁古くする﹂意。
○袖⋮⋮和歌で﹁袖﹂と出てきたら、﹁涙﹂をイメージする。
409
第135首 変貌する月︵後書き︶
月もなほ見し面影はかはりけり泣きふるしてし袖の涙に︵続千載和
歌集︶
410
第136首 月を記念に︵前書き︶
つきをだに みしよのかげと おもいいでよ ちぎりのすえは あ
らずなるとも
411
第136首 月を記念に
せめてあのときの月のことだけでも覚えていてほしい。
思い出してほしい、ぼくたちが過ごした夜の面影として。
一緒になろう、と交わした誓い。
その約束が、叶えられないことがあったとしても。
︻ちょこっと古語解説︼
○だに⋮⋮﹁せめて∼だけでも﹂と、最小限の限度を表す助詞。
○見しよ⋮⋮﹁見﹂は、元の形は﹁見る﹂で、ここでは、単に視界
に入れる意ではなく、男女が共に夜を過ごす・結婚する、意である。
﹁し﹂は、過去を表す助動詞。﹁よ﹂は﹁夜﹂のこと。全体で、﹁
わたしとあなたが過ごした夜﹂くらいの訳。
ちぎ
○かげ⋮⋮面影。心に思い浮かべる顔や姿のこと。
○契り⋮⋮約束のことで、ここでは、男女の間の恋の約束のこと。
うちけし
○あらず⋮⋮﹁あら﹂は元の形は﹁あり﹂で、何かが存在すること。
﹁ず﹂は打消を表す助動詞。全体で、﹁存在しない﹂くらいの訳。
○とも⋮⋮逆接仮定を表す助詞で、﹁たとえ∼としても﹂くらいの
訳。
412
第136首 月を記念に︵後書き︶
月をだに見しよのかげと思ひ出でよ契りの末はあらずなるとも︵続
千載和歌集︶
413
第137首 すり減る心︵前書き︶
いかにみし このまのつきの なごりより こころづくしの おも
いそうらん
414
第137首 すり減る心
どれくらい、あの人のことを見たというのか。
木の間から月が漏れ来るような、そんな短い間のことに過ぎない。
それなのに、心はすり減らされる。
この苦しい気持ちは、この身から離れないだろう。
︻ちょこっと古語解説︼
なごり
○いかに⋮⋮どれほど、の意。
○名残⋮⋮物事が終わってもあとに残っている気分や気配、など。
○心づくし⋮⋮あれこれと気を揉むこと。現代語のように、心配り、
う
の意ではないので注意。
ん
○そふ⋮⋮寄り添う、ということ。
○らむ⋮⋮現在の推量を表す助動詞。﹁∼しているだろう﹂くらい
の訳。
415
第137首 すり減る心︵後書き︶
いかに見し木の間の月の名残より心づくしの思ひそふらむ︵続千載
和歌集︶
416
第138首 夢に会う人︵前書き︶
みずもあらで さめにしゆめの わかれより あやなくとまる ひ
とのおもかげ
417
第138首 夢に会う人
見ていないわけではないけれど、ほんのちらりと見えただけ。
そんな風にして、夢から覚めた。
それ以来、夢で見たあの人の面影がとどまってしまう。
分別のないことだと分かってはいるのだけれど。
うちけし
︻ちょこっと古語解説︼
○で⋮⋮打消接続を表す助詞で、﹁∼ないで﹂くらいの訳。
○あやなく⋮⋮元の形は﹁あやなし﹂で、理由が分からない、の意。
おもかげ
○とまる⋮⋮消えずに残る、こと。
○面影⋮⋮顔つき・面ざし、のこと。
418
第138首 夢に会う人︵後書き︶
見ずもあらで覚めにし夢の別れよりあやなくとまる人の面影︵続千
載和歌集︶
419
第139首 知られぬ恋︵前書き︶
なつののの しげみにさける ひめゆりの しらえぬこいは くる
しきものを
420
第139首 知られぬ恋
夏の野の繁みにひっそりと花をつける姫百合。
誰に知られることもないその姿。
わたしのこの恋心もあの人には知られまい。
ひそやかに咲き、ひそやかに散る。
︻ちょこっと古語解説︼
○る⋮⋮元の形は﹁り﹂で、存続を表す助動詞。﹁∼ている﹂くら
ひめ ゆり
いの訳。
○姫百合の⋮⋮﹁姫百合のように﹂の意。ここの﹁の﹂は、﹁∼の
ように﹂を表す、比喩の用法。
うちけし
○知らえぬ⋮⋮知られない、くらいの訳。﹁え﹂は、元の形は﹁ゆ﹂
で受身を表す助動詞。﹁ぬ﹂は、元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助
動詞。
○ものを⋮⋮感動を表す助詞で、﹁∼のになあ﹂くらいの訳。
421
第139首 知られぬ恋︵後書き︶
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを︵続後拾
遺和歌集︶
422
第140首 再会の祈り︵前書き︶
こいしなば またもこのよに めぐりきて ふたたびきみを よそ
にだにみん
423
第140首 再会の祈り
この恋に苦しんでついに死んでしまったらの話。
また君のいるこの世の中に生まれてきたい。
君に親しく会えなくてもいい。
もう一度、遠くから眺めるだけでもいいから。
︻ちょこっと古語解説︼
○よそ⋮⋮離れたところ、の意。
○だに⋮⋮﹁せめて∼だけでも﹂と最小限の限度を表す。
○見⋮⋮元の形は﹁見る﹂で、ここでは、単に見るの意味だが、﹁
ん
男女が交際する・結婚する﹂の意味もある。
○む⋮⋮意志を表す助動詞。﹁∼しよう﹂くらいの訳。
424
第140首 再会の祈り︵後書き︶
恋ひ死なばまたも此の世にめぐりきて二たび君をよそにだに見む︵
続後拾遺和歌集︶
425
第141首 夕空に耐え︵前書き︶
あすもまた おなじゆうべの そらやみん うきにたえたる ここ
ろながさは
426
第141首 夕空に耐え
あの人と会えないまま、夕暮れの空をにらむ。
明日もまた同じ空を見ることになるのだろうか。
思うに任せないこの状態に耐えるぼくの心。
その辛抱強さには、自分で呆れてしまう。
ゆう
︻ちょこっと古語解説︼
○夕べ⋮⋮夕方、のこと。
ん
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
う
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
○憂き⋮⋮元の形は﹁憂し﹂で、自分の思い通りにならず心が晴れ
ない状態を表す。
○たる⋮⋮存続を表す助動詞。﹁∼ている﹂くらいの訳。
○心ながさ⋮⋮気が長いこと。
427
第141首 夕空に耐え︵後書き︶
明日もまた同じ夕べの空や見む憂きにたへたる心ながさは︵続後拾
遺和歌集︶
428
第142首 悩ましい月︵前書き︶
まちいでても いかにながめん わするなと いいしばかりの あ
りあけのそら
429
第142首 悩ましい月
有明の月を見てぼくのことを思い出してほしい︱︱。
あの人がそんなことを言ったばかりに夜を明かしてしまった。
一人きり、月を待つ。
いざ有明の月を眺めたら、どんな気持ちになることだろう。
︻ちょこっと古語解説︼
○いかに⋮⋮どのように、の意。
○ながめ⋮⋮元の形は﹁ながむ﹂で、ここでは﹁眺める﹂の意だが、
ん
﹁物思いにふける﹂という意味もある。
ありあけ
○む⋮⋮推量の助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
○有明⋮⋮まだ月が空に残っているうちに夜が明ける、その頃の夜
明けのことをいう。
430
第142首 悩ましい月︵後書き︶
待ち出でてもいかにながめむ忘るなといひしばかりの有明の空︵続
後拾遺和歌集︶
431
第143首 思い出す涙︵前書き︶
しいてなお したうににたる なみだかな われもわすれんと お
もうゆうべを
432
第143首 思い出す涙
抑えようとしているのに、どうしても出てしまう。
あの頃を懐かしむような涙。
あの人はぼくのことを忘れたろう。
だから、ぼくもあの人のことを忘れてしまおう。
う
そう思うのに、あの人と過ごした夕暮れ時を思い出してしまうの
だ。
い
︻ちょこっと古語解説︼
う
○しひ⋮⋮元の形は﹁しふ﹂で、﹁無理に押しつける・しいる﹂の
意。
ん
○したふ⋮⋮﹁恋しく思う・慕う﹂の意。
○む⋮⋮意志を表す助動詞で、﹁∼しよう﹂の意。
○夕べ⋮⋮夕方のこと。
433
第143首 思い出す涙︵後書き︶
しひて猶したふに似たる涙かな我も忘れむとおもふ夕べを︵続後拾
遺和歌集︶
434
第144首 月を見ても︵前書き︶
つきはただ むかうばかりの ながめかな こころのうちの あら
ぬおもいに
435
第144首 月を見ても
夜の空に月が輝いている。
美しいその姿を、楽しめない。
ただ目を向けて眺めているというだけ。
せっかく月を見ているというのに、どうしても別のことを考えて
しまう。
それはあの人のこと。
今頃何をしているんだろう。
︻ちょこっと古語解説︼
○ながめ⋮⋮ここでは単に﹁眺めること﹂の意だが、﹁物思いにふ
けること﹂の意もおさえておきたい。
○かな⋮⋮詠嘆を表す助詞。﹁∼だなあ﹂くらいの訳。
○あらぬ⋮⋮﹁ほかの・別の﹂の意。
436
第144首 月を見ても︵後書き︶
月はただ向かふばかりのながめかな心のうちのあらぬ思ひに︵風雅
和歌集︶
437
第145首 乱れ髪の心︵前書き︶
ゆめかなお みだれそめぬる あさねがみ またかきやらん すえ
もしらねば
438
第145首 乱れ髪の心
昨夜あの人と会ったことは夢なのだろうか。
二人過ごした時間のはかなさを思うと心乱れてしまう。
その心を映したように乱れるわたしの髪。
この髪をまたあの人がなでてくれる将来があるのか分からない。
︻ちょこっと古語解説︼
お
○か⋮⋮疑問を表す助詞。
○なほ⋮⋮やはり、の意。
○みだれそめ⋮⋮元の形は﹁みだれそむ﹂で、﹁乱れはじめる﹂の
意。
○ぬる⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞。﹁∼た・∼てし
まった﹂くらいの訳。
ん
○かきやら⋮⋮元の形は﹁かきやる﹂で、﹁髪をすく﹂こと。
○む⋮⋮婉曲を表す助動詞で、訳には表れない。
○末⋮⋮将来、のこと。
○ね⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。
○ば⋮⋮ここでは、﹁∼なので﹂と原因・理由を表す助詞。
439
第145首 乱れ髪の心︵後書き︶
夢かなほみだれそめぬる朝寝髪またかきやらむ末もしらねば︵風雅
和歌集︶
440
第146首 人の寝る頃︵前書き︶
つつむなかは まれのあうよも ふけはてぬ ひとのしづまる ほ
どをまつまに
441
第146首 人の寝る頃
人目をはばからなければいけない、わたしとあなたの仲。
頻繁に会うことはできない。
こうして久しぶりに会えた夜も、すっかりふけてしまった。
人が寝静まるのを待つ間に。
︻ちょこっと古語解説︼
う
○つつむ⋮⋮人目をはばかる、の意。
○逢ふ⋮⋮単に会うだけではなく、男女が夜を共にすることを含む。
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞。﹁∼た・∼てしまった﹂くらいの訳。
○人⋮⋮ここでは﹁他人﹂の意だが、﹁人﹂で、﹁恋しいあの人﹂
の意になることもある。
○しづまる⋮⋮寝静まる、こと。
442
第146首 人の寝る頃︵後書き︶
つつむ中はまれの逢ふ夜もふけはてぬ人のしづまる程をまつまに︵
風雅和歌集︶
443
第147首 留まるもの︵前書き︶
ひとはゆき きりはまがきに たちとまり さもなかぞらに なが
めつるかな
444
第147首 留まるもの
秋の日の夜明け。
あの人は立ち去って、ひとり残されたわたし。
全くの上の空、ぼんやりと庭を見る。
留まってくれるのは垣根に漂う霧くらいだなあ、なんて。
︻ちょこっと古語解説︼
○人⋮⋮﹁恋しいあの人﹂の意。
○まがき⋮⋮竹や柴などで、目を粗く編んで作った垣。
なかぞら
○さも⋮⋮まったく、の意。
○中空に⋮⋮元の形は﹁中空なり﹂で、上の空である状態をいう。
○ながめ⋮⋮元の形は﹁ながむ﹂で、物思いにふけること。
○つる⋮⋮元の形は﹁つ﹂で、完了を表す助動詞。﹁∼た・∼てし
まった﹂くらいの訳。
445
第147首 留まるもの︵後書き︶
人はゆき霧はまがきに立ちとまりさも中空にながめつるかな︵風雅
和歌集︶
446
第148首 彼我の違い︵前書き︶
われもいいき つらくはいのち あらじとは うきひとのみや い
つわりはする
447
第148首 彼我の違い
わたしは言った。
あなたに冷たくされると生きてはいけない、と。
それはわたしの嘘。
あなたを引きとめたかったの。
あなたも嘘をついたけれど、それは自分を守るための嘘。
わたしのものとは質が違うのよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○き⋮⋮過去を表す助動詞。
う
○じ⋮⋮打消推量を表す助動詞。﹁∼ないだろう﹂くらいの訳。
○憂き人⋮⋮こちらが恋い慕っているのに、つれなく当たる人。
わ
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○いつはり⋮⋮うそ。
448
第148首 彼我の違い︵後書き︶
我も言いきつらくは命あらじとは憂き人のみやいつはりはする︵風
雅和歌集︶
449
第149首 万象の悲し︵前書き︶
そらのいろ くさきをみるも みなかなし いのちにかくる もの
をおもえば
450
第149首 万象の悲し
空の色を見ても、草や木を見ても、物悲しい。
それはわたしの気持ちが沈んでいるからだろう。
あの人への思いに、この身も沈みそう。
この恋は、命に届く。
︻ちょこっと古語解説︼
○かなし⋮⋮ここでは、﹁悲しい﹂の意味だが、﹁愛しい﹂という
意味でも使われる。
え
○かくる⋮⋮元の形は﹁かく﹂で、ここでは、関わる、ほどの意。
○物を思へ⋮⋮元の形は、﹁物を思ふ﹂で、物思いをすること。
○ば⋮⋮﹁原因・理由﹂を表す助詞。﹁∼なので﹂くらいの訳。
451
第149首 万象の悲し︵後書き︶
空の色草木をみるもみなかなし命にかくる物を思へば︵風雅和歌集︶
452
第150首 恋心と夕雲︵前書き︶
こいあまる ながめをひとは しりもせじ われとそめなす くも
のゆうぐれ
453
第150首 恋心と夕雲
恋しさに溢れるようになったわたしのこの気持ち。
雲が夕暮れに赤く染まっている。
あの人は知りもしないだろう。
わたしの気持ちがしみ出して、あの雲を染めるのに一役買ってい
ることを。
︻ちょこっと古語解説︼
○ながめ⋮⋮物思いのこと。
うちけし
○人⋮⋮恋しいあの人、の意。
○じ⋮⋮打消推量を表す助動詞。﹁∼ないだろう﹂くらいの訳。
○そめなす⋮⋮﹁そめ﹂は、元の形は﹁そむ﹂で、﹁染める﹂の意。
﹁なす﹂は、動詞に付いて﹁ことさらに∼する﹂という意味を添え
る。
454
第150首 恋心と夕雲︵後書き︶
恋ひあまるながめを人はしりもせじ我とそめなす雲の夕ぐれ︵風雅
和歌集︶
455
第151首 迷ってなお︵前書き︶
まよいそめし ちぎりおもうが つらきしも ひとにあわれの よ
よにかえるよ
456
第151首 迷ってなお
恋に迷い始めた。
その原因である前世からの宿縁を思うのがつらい。
つらいのだけれど、恋はやめられない。
世々を経て繰り返されてきた人への愛情の念に帰ってしまう。
︻ちょこっと古語解説︼
○そめ⋮⋮元の形は﹁そむ﹂で、﹁∼し始める﹂の意を添える。
ちぎり
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○契⋮⋮前世からの因縁のこと。この世の出来事は、前世でしたこ
とが原因になっているという考え方の、その原因のことを﹁契﹂と
いう。
○つらき⋮⋮元の形は﹁つらし﹂で、つらい、ということ。
よよ
○しも⋮⋮逆接の意味を添える助詞。﹁∼にもかかわらず﹂
○世々⋮⋮多くの世代、の意。
457
第151首 迷ってなお︵後書き︶
まよひそめし契おもふがつらきしも人にあはれの世々にかへるよ︵
風雅和歌集︶
458
第152首 恨みとなる︵前書き︶
たがちぎり たがうらみにか かわるらん みはあらぬよの ふか
きゆうぐれ
459
第152首 恨みとなる
もうすぐわたしは死ぬだろう。
そのとき、誰と交わした約束を思い出すだろう。
その約束を破られた恨みの念に、この身は変わるだろう。
わたしの目の前で、夕暮れが、暗く広がっている。
た
︻ちょこっと古語解説︼
○誰⋮⋮現代語と同じ意味だが、読みが﹁だれ﹂ではなく、﹁た﹂
なので、注意。
ん
○が⋮⋮ここでは、﹁の﹂の意味。
○らむ⋮⋮本来は現在の推量を表し、﹁今頃∼しているだろう﹂く
らいの訳となるが、ここでは単なる推量︵未来の推量︶を表し、﹁
これから∼するだろう﹂くらいの訳。
460
第152首 恨みとなる︵後書き︶
誰が契り誰が恨みにかかはるらむ身はあらぬ世のふかき夕暮︵風雅
和歌集︶
461
第153首 恋しさ消え︵前書き︶
たのみありて まちしよまでの こいしさよ それもむかしの い
まのゆうぐれ
462
第153首 恋しさ消え
夕暮れに思い出す。
あの人が恋しかったときのことを。
きっと来てくれるって信じて、頼りにして、待っていた。
それなのに来てくれないことが幾夜も重なって⋮⋮。
あの晩も、約束したのに来てくれなかった。
それが最後、あの晩以来、誰かを頼ることもなくなったわ。
人を恋しく思う気持ちも今は昔。
日の沈むのを眺めながら、わたしはひとり。
︻ちょこっと古語解説︼
○たのみ⋮⋮頼ること。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
463
第153首 恋しさ消え︵後書き︶
たのみありて待ちし夜までの恋しさよそれも昔のいまの夕暮︵風雅
和歌集︶
464
第154首 初恋の青色︵前書き︶
いつしかと はつやまあいの いろにいでて おもいそめつる ほ
どをみせばや
465
第154首 初恋の青色
はやく早く見せてあげたい。
あの人に寄せるわたしの気持ち。
山藍の初草の色のように、はっきりしている。
わたしの初めての恋。
︻ちょこっと古語解説︼
○いつしか⋮⋮願望を表す語と呼応して、﹁早く∼︵したい︶﹂の
やまあい
意となる。
○初山藍⋮⋮山藍の初草のこと。山藍は、トウダイグサ科の多年草。
山中の林内に生え、葉を藍染めの原料にした。
○の⋮⋮比喩を表す用法で、﹁∼のように﹂の意。
○つる⋮⋮元の形は﹁つ﹂で、完了を表す助動詞。﹁∼した・∼し
てしまった﹂くらいの訳。
○ばや⋮⋮願望を表す助詞。﹁∼したい﹂くらいの訳。
466
第154首 初恋の青色︵後書き︶
いつしかと初山藍の色に出でて思ひそめつる程をみせばや︵新千載
和歌集︶
467
第155首 永遠に巡る︵前書き︶
きみゆえや はじめもはても かぎりなき うきよをめぐる みと
もなりなん
468
第155首 永遠に巡る
あなたのせいで、きっとわたしは生まれ変わる。
何度も何度も、この辛く苦しい世の中に。
始まりも終わりもない世界に落ちて、永遠に恋の苦しみを味わう
のだ。
え
︻ちょこっと古語解説︼
○ゆゑ⋮⋮﹁原因・理由﹂を表し、﹁∼によって・∼のために﹂く
らいの訳。
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○うき世⋮⋮つらいこの世の中。
○めぐる⋮⋮﹁回る﹂ことだが、ここでは、幾度もこの世に生まれ
ん
かわる、意を表す。
○なむ⋮⋮﹁な﹂は、元の形は﹁ぬ﹂で、確述を表す助動詞。﹁確
述﹂とは、これから起こることが﹁確﹂実であると﹁述﹂べる用法。
﹁必ず∼﹂くらいの訳。﹁む﹂は、推量を表す助動詞で、﹁∼だろ
う﹂くらいの訳。合わせて、﹁必ず∼だろう﹂くらいの訳となる。
469
第155首 永遠に巡る︵後書き︶
君ゆゑやはじめもはても限りなきうき世をめぐる身ともなりなむ︵
新千載和歌集︶
470
第156首 恋しくて夢︵前書き︶
こいしさに おもいみだれて ねぬるよの ふかきゆめじを うつ
つともがな
471
第156首 恋しくて夢
彼女が恋しくて乱れた思いのまま眠りについた。
開かれた夢の中で、彼女に出会う。
二人抱きしめあって夜を越え、目覚めると、かたわらにその姿は
無い。
夢を現実にすることができたらと、そう思わずにはいられない。
︻ちょこっと古語解説︼
○ぬる⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞。﹁∼た・∼てし
ゆめ じ
まった﹂くらいの訳。
○夢路⋮⋮夢の中で行き通う道のこと。あるいは、夢それ自体のこ
と。ここでは、後者。
○うつつ⋮⋮現実、のこと。
○もがな⋮⋮願望を表す助詞で、﹁∼であればなあ﹂くらいの訳。
472
第156首 恋しくて夢︵後書き︶
恋しさに思ひみだれて寝ぬる夜のふかき夢路をうつつともがな︵新
千載和歌集︶
473
第157首 ありありと︵前書き︶
おきもせず ねもせであかす とこのうえに ゆめともなしの ひ
とのおもかげ
474
第157首 ありありと
はっきりと起きるわけでもなく、かといって深く眠っているわけ
でもない。
そんな風に夜を明かすと、床の上に、まぼろしが立つ。
それは恋しいあの人の姿。
夢であるとも思われないほどはっきりと、この目に映る。
うちけし
︻ちょこっと古語解説︼
とこ
○で⋮⋮打消接続を表す助詞で、﹁∼しないで﹂くらいの訳。
○床⋮⋮寝床、のこと。
○とも⋮⋮∼ということも。
おもかげ
○人⋮⋮﹁恋しいあの人﹂の意。
○面影⋮⋮﹁まぼろし・幻影﹂の意。
475
第157首 ありありと︵後書き︶
起きもせず寝もせで明かす床の上に夢ともなしの人の面影︵新千載
和歌集︶
476
第158首 濡れる黒髪︵前書き︶
わがなみだ かかれとてしも くろかみの ながくやひとに みだ
れそめにし
477
第158首 濡れる黒髪
わたしの涙が、長く伸ばした黒髪にかかる。
その黒髪は、まるであの人に寄せる思いのように、乱れ始めてい
る。
こんな風になれと思って、あの人を好きになったわけじゃないの
に。
︻ちょこっと古語解説︼
○かかれ⋮⋮﹁かかる﹂と﹁かかり﹂のそれぞれの命令形。﹁かか
る﹂は、水がかかるの意であり、﹁かかり﹂は、このようであるの
かけことば
意。﹁かかれ﹂には、この二つの意味が重ねられている。このよう
に、一つの語に二つの意味を重ねる用法のことを、掛詞という。
○とて⋮⋮と思って。
○しも⋮⋮強調を表す助詞。訳にはあらわれない。
○人⋮⋮﹁大好きなあの人﹂のこと。
○そめ⋮⋮元の形は﹁そむ﹂で、動詞の下につき、﹁∼始める﹂の
意を添える。
○にし⋮⋮﹁に﹂は元の形は﹁ぬ﹂で完了を表す助動詞、﹁し﹂は
元の形は﹁き﹂で過去を表す助動詞。過去のあるときにある動作が
完了したことを表し、﹁∼てしまった﹂くらいの訳。
478
第158首 濡れる黒髪︵後書き︶
我が涙かかれとてしも黒髪のながくや人にみだれそめにし︵新千載
和歌集︶
479
まののかやはら
とおけども
第159首 面影たより︵前書き︶
みちのくの
というものを
おもかげにして
みゆ
480
第159首 面影たより
あなたはわたしから遠く隔たったところにいる。
陸奥にある真野の萱原くらい遠くに。
だから目には見えないけれど、心は遥か。
あなたの姿がありありとまぶたの裏に映る。
みちのく
︻ちょこっと古語解説︼
○陸奥⋮⋮今の青森・岩手・宮城・福島の四県。東北地方全体を指
まの
かやはら
すこともある。
○真野の萱原⋮⋮福島県南相馬市鹿島地区の、真野川沿いの地をい
おもかげ
う。
○面影⋮⋮﹁まぼろし・幻影﹂の意。
481
第159首 面影たより︵後書き︶
陸奥の真野の萱原遠けども面影にして見ゆといふものを︵新千載和
歌集︶
482
第160首 理想の住処︵前書き︶
いもがあたり つぎてもみむに やまとなる おおしまのねに い
えおらましを
483
第160首 理想の住処
君のいるあたりをずっと見ていたいのに。
大和の大島の頂に僕の家があったらなあ。
いも
︻ちょこっと古語解説︼
○妹⋮⋮男性が親しい女性を呼ぶときの語。妻や恋人のこと。
やまと
○が⋮⋮ここでは、﹁の﹂の意味。
ね
○大和⋮⋮今の奈良県。
○嶺⋮⋮山の頂、みね。
○なる⋮⋮元の形は﹁なり﹂で、存在を表す助動詞。﹁∼にある﹂
くらいの訳。
○まし⋮⋮悔恨や希望を表す助動詞。﹁∼であればよいのに・∼で
あったならよかったのに﹂くらいの訳。
484
第160首 理想の住処︵後書き︶
妹があたり継ぎても見むに大和なる大島の嶺に家居らましを︵新千
載和歌集︶
485
第161首 思い出は恋︵前書き︶
こいしなん のちのよまでの おもいでは しのぶこころの かよ
うばかりか
486
第161首 思い出は恋
ぼくはもうこの恋のつらさに死ぬだろう。
それなのに、来世までの思い出に、思い当たるものがない。
あなたとともに人に知られないように秘め隠してきたこの恋。
持って行ける思い出といえば、その恋心くらいのものだろうか。
ん
︻ちょこっと古語解説︼
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
○後の世⋮⋮来世のこと。
う
○しのぶ⋮⋮﹁包み隠す﹂の意。
○かよふ⋮⋮通じる。︵恋心が︶あなたに通じる、ということ。
487
第161首 思い出は恋︵後書き︶
恋ひ死なむ後の世までの思ひ出はしのぶ心のかよふばかりか︵新拾
遺和歌集︶
488
第162首 衣返しても︵前書き︶
きえわぶる しものころもを かえしても みるよまれなる ゆめ
のかよいじ
489
第162首 衣返しても
あの人を思って落とした涙が冬の寒さに霜になる。
その霜の衣を裏返しに着て寝て、あの人との逢瀬を祈る。
そうまでしても、夢の中で会える夜は稀なのだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○わぶる⋮⋮元の形は﹁わぶ﹂で、動詞について、﹁∼しづらくな
る・∼しきれない﹂の意を添える。
○衣を返し⋮⋮衣服を裏返しに着て寝ることで、そうすると、恋し
い
い人を夢に見ることができると信じられていた。
○夢の通ひ路⋮⋮夢の中で行き通う道。夢に見ること。
490
第162首 衣返しても︵後書き︶
消えわぶる霜の衣を返しても見る夜まれなる夢の通ひ路︵新拾遺和
歌集︶
491
第163首 一人寝の涙︵前書き︶
ながきよに ころもかたしき ふしわびぬ まどろむほどの なみ
だならねば
492
第163首 一人寝の涙
自分の衣の片袖だけを脱いで寝具とする長い夜。
冷たい寝床に身を丸めて寝ようとする。
あふれる涙が頬を伝って落ちる。
とても眠れる具合じゃない。
︻ちょこっと古語解説︼
○衣かたしき⋮⋮﹁衣かたしく﹂とは着物の片袖だけを敷いて、ひ
とり寝をすること。男女が共寝をするときは、互いの衣の袖を敷き
交わして寝たところから。
○ふし⋮⋮元の形は﹁ふす﹂で、寝ること。
○わび⋮⋮元の形は﹁わぶ﹂で、動詞につく場合は、﹁∼しきれな
い﹂の意を添える。
うちけし
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞で、﹁∼した・∼してしまった﹂くらい
の訳
○まどろむ⋮⋮うとうとと眠ること。
○ねば⋮⋮﹁ね﹂は、元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。﹁ば﹂
は、﹁原因・理由﹂を表す助詞。全体で、﹁∼ないので﹂くらいの
訳。
493
第163首 一人寝の涙︵後書き︶
ながき夜に衣かたしきふしわびぬまどろむ程の涙ならねば︵新拾遺
和歌集︶
494
第164首 波の向こう︵前書き︶
あうことは なみじはるかに こぐふねの ほのみしひとに こい
やわたらん
495
第164首 波の向こう
会うこともないあの人は
波の遥かの船のよう
ほの見ただけのあの人に
恋をし続けるのかしら
う
︻ちょこっと古語解説︼
○逢ふ⋮⋮単に会うことだけではなく、男女が夜を共にする意も含
む。
○なみぢ⋮⋮なみの部分に、﹁無み﹂と﹁波﹂の二つの語が重ねら
れている。﹁無み﹂とは﹁無いので﹂という意味で、﹁波﹂は﹁波
ぢ︵=船の通う道筋︶﹂とつながっていく。
○ほのみ⋮⋮元の形は﹁ほのみる﹂で、﹁ほのかに見る・ちらりと
見る﹂の意。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○わたら⋮⋮もともとは﹁移動する﹂の意だが、動詞に続いて、﹁
∼し続ける﹂の意を添える。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
496
第164首 波の向こう︵後書き︶
逢ふことはなみぢはるかに漕ぐ船のほのみし人に恋ひやわたらむ︵
新拾遺和歌集︶
497
第165首 旅先の一夜︵前書き︶
つゆしげき のがみのさとの かりまくら しおれていずる そで
のわかれじ
498
第165首 旅先の一夜
露に濡れた野上の里で仮の宿り。
一夜の慰めが百年の恋へと変わる。
別れに打ちひしがれつつ宿を立つ。
重たい袖は露のせいか涙のせいか。
︻ちょこっと古語解説︼
○しげき⋮⋮多い、こと。
なかせんどう
ゆうじょ
○野上⋮⋮岐阜県不破郡関ヶ原町の地名。もと中山道の宿駅。遊女
︵招かれて、歌舞・音曲を演じるなどして、客を楽しませることを
かりまくら
職業とする女︶の里として知られていた。
お
○仮枕⋮⋮旅先で宿泊すること。
○しをれ⋮⋮元の形は﹁しをる﹂で、﹁悲しみにうちひしがれる﹂
の意。
499
第165首 旅先の一夜︵後書き︶
露しげき野上の里の仮枕しをれていづる袖のわかれ路︵新拾遺和歌
集︶
500
第166首 結ばれぬ夢︵前書き︶
おもいつつ いかにねしよを かぎりにて またもむすばぬ ゆめ
じなるらん
501
第166首 結ばれぬ夢
あの人のことを思いながら寝ると、あの人の夢を見た。
でも、それはそのとき限りのこと。
あのとき、どんな風にして寝たのだろう。
思い出さないと、今夜も夢で会えないんだ。
︻ちょこっと古語解説︼
○いかに⋮⋮どのように、の意。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
うちけし
○むすば⋮⋮元の形は﹁むすぶ﹂で、ここでは、夢を見る、こと。
ゆめ じ
○ぬ⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。
ん
○夢路⋮⋮夢の中で行き通う道。夢の中、のこと。
○らむ⋮⋮推量を表す助動詞で、﹁∼だろう﹂くらいの訳。
502
第166首 結ばれぬ夢︵後書き︶
思ひつついかに寝し夜を限りにてまたもむすばぬ夢路なるらむ︵新
拾遺和歌集︶
503
第167首 思い出の鐘︵前書き︶
まちしよに またたちかえる ゆうべかな いりあいのかねに も
のわすれせで
504
第167首 思い出の鐘
あの人と結ばれる夜のことをずっと待っていた。
そのときの夕暮れに、つい立ち返ってしまう。
すっかり忘れたと思っていたのに⋮⋮。
入相の鐘の音を聞くと思い出すときがあるの。
︻ちょこっと古語解説︼
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○よ⋮⋮﹁夜﹂であり﹁世﹂である。﹁夜﹂は、男女が会う時間帯
いりあい
であり、﹁世﹂は、男女の仲のこと。
○入相の鐘⋮⋮夕暮れにつく寺の鐘。また、その音。
○で⋮⋮打消接続を表す助詞。﹁∼ないで﹂くらいの訳。
505
第167首 思い出の鐘︵後書き︶
待ちしよにまた立ちかへる夕べかな入相の鐘に物わすれせで︵新拾
遺和歌集︶
506
第168首 嫌えない月︵前書き︶
ひとをこそ うらみはつとも おもかげの わすれぬつきを えや
はいとわん
507
第168首 嫌えない月
あの人のことを恨み通しても月までは嫌えない。
あの人のことを思い出させてくれるから。
恨みながら恋しく、慕いながらも憎い。
︻ちょこっと古語解説︼
○人⋮⋮﹁大好きなあの﹃人﹄﹂の意。恋人や片思いの相手を指す。
○こそ⋮⋮強調を表す助詞。訳には表れない。
○果つ⋮⋮動詞の下について、﹁すっかり∼し終える﹂意を添える。
おもかげ
○とも⋮⋮﹁たとえ∼したとしても﹂の意を表す助詞。
うちけし
○面影⋮⋮﹁顔つき・おもざし﹂のこと。
○ぬ⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。
わ
○え⋮⋮反語を伴って、﹁とても∼できない﹂の意を表す。
○やは⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂と、疑問の形を借りて
わ
う
打消の意を表す、反語という用法を持つ表現。
ん
○いとは⋮⋮元の形は、﹁いとふ﹂で、いやがる、こと。
○む⋮⋮意志を表す助動詞。﹁∼しよう﹂くらいの訳。
508
第168首 嫌えない月︵後書き︶
人をこそ恨み果つとも面影のわすれぬ月をえやはいとはむ︵新拾遺
和歌集︶
509
第169首 恋心負けず︵前書き︶
うらみても なおしたうかな こいしさの つらさにまくる なら
いなければ
510
第169首 恋心負けず
あの人のことを恨んでも、それでもなお恋い慕ってしまう。
思い続けることは、苦しいこと。
それでも、恋しさが、その苦しさに負けることなどない定め。
お
︻ちょこっと古語解説︼
い
○なほ⋮⋮それでもやはり。
○ならひ⋮⋮決まり、定め、のこと。
○なければ⋮⋮﹁なけれ﹂+﹁ば﹂。﹁なけれ﹂は、元の形は﹁な
し﹂で、﹁無い﹂の意。﹁ば﹂は、原因・理由を表し、﹁∼なので﹂
くらいの訳。全体で、﹁無いので﹂となる。
511
第169首 恋心負けず︵後書き︶
恨みてもなほ慕ふかな恋しさのつらさに負くるならひなければ︵新
拾遺和歌集︶
512
第170首 まずいいえ︵前書き︶
もがみがわ いなとこたえて いなぶねの しばしばかりは ここ
ろをもみん
513
第170首 まずいいえ
結婚の申し込みをしてきた彼。
最上川を走るいな舟じゃないけれど、ちょっと急すぎるかな。
受けてあげてもいいんだけど、まずは、いな、と答えよう。
それでもわたしのことを諦めないか、気持ちを試してあげるの。
︻ちょこっと古語解説︼
○最上川⋮⋮山形県南部の山地に発して、中央部を北に流れ、酒田
市で日本海に注ぐ川。急流として知られる。
○いな⋮⋮いいえ。
○いな舟⋮⋮刈り取った稲を積んで運ぶ小舟。
ん
○しばし⋮⋮しばらく。
○む⋮⋮意志を表す助動詞。﹁∼しよう﹂くらいの訳。
514
第170首 まずいいえ︵後書き︶
最上川いなとこたへていな舟のしばしばかりは心をも見む︵新後拾
遺和歌集︶
515
第171首 水の思い出︵前書き︶
おもいいでよ のなかのみずの くさがくれ もとすむほどの か
げはみずとも
516
第171首 水の思い出
思い出してください、わたしのことを。
はりま
いなみの
昔一緒に汲んだ野中の清水が草に隠れ、かつての澄んだ面影がな
くなってしまったとしても。
︻ちょこっと古語解説︼
○野中の水⋮⋮野の中に湧く清水。特に,播磨国印南野にあったと
いう清水のこと。播磨国印南野は、現在の兵庫県南部の加古川・明
石川二流域にまたがる野。溜め池が多いことで有名。﹁野中の水﹂
は古今集のある和歌を踏まえた表現で、﹁むかし親しかった人﹂の
象徴。
517
第171首 水の思い出︵後書き︶
思ひ出でよ野中の水の草がくれもとすむ程のかげは見ずとも︵新後
拾遺和歌集︶
518
第172首 染む葉と心︵前書き︶
しられじな しのぶのやまの はつしぐれ こころのおくに そむ
るもみじば
519
第172首 染む葉と心
しのぶ山に今年初めての時雨が降る。
木々の葉はすっかりと色を改めた。
耐え忍んだ恋心の色も彼女のために染まっている。
しかし、紅葉とは違って、こちらは知られないのだろうな。
︻ちょこっと古語解説︼
うちけし
○知られじな⋮⋮﹁れ﹂は元の形は﹁る﹂で受身を表す助動詞。﹁
じ﹂は打消推量を表す助動詞。﹁な﹂は詠嘆を表す助詞。全体で、
﹁知られないだろうなあ﹂くらいの訳。
○しのぶ⋮⋮今の福島県北部をさした旧郡名。
○初しぐれ⋮⋮晩秋に降るその年初めての時雨。
○そむる⋮⋮元の形は﹁そむ﹂で、﹁染まる﹂の意。
520
第172首 染む葉と心︵後書き︶
知られじなしのぶの山の初しぐれ心のおくにそむる紅葉ば︵新続古
今和歌集︶
521
第173首 滝の涙落ち︵前書き︶
せきあえぬ そでよりおちて うきことの かずにもあまる たき
のしらたま
522
第173首 滝の涙落ち
袖からあふれるほどのぼくの涙。
まるで滝の飛沫のようで、止めることができない。
泣いている回数は、君のひどい振る舞いより多いはず。
君につらくされるたび、一度きりじゃない、何度も泣いてしまう
のだから。
︻ちょこっと古語解説︼
え
○せき⋮⋮元の形は﹁せく﹂で、﹁せき止める﹂こと。
○あへぬ⋮⋮元の形は、﹁あへず﹂で、﹁∼しようとして∼しきれ
う
ない﹂の意。
しらたま
○憂き⋮⋮元の形は﹁憂し﹂で、つらい。
○滝の白玉⋮⋮滝の飛沫のことだが、古今和歌集のある和歌の表現
を元にしており、ここでは、涙を表す。
523
第173首 滝の涙落ち︵後書き︶
せきあへぬ袖よりおちて憂きことの数にもあまる滝の白玉︵新続古
今和歌集︶
524
第174首 恋心消えず︵前書き︶
こいしなん のちもこころの かわらずは このよならでも もの
やおもわん
525
第174首 恋心消えず
この恋に苦しんで死んだあとの話。
もしあの人を思う気持ちが変わらなかったらどうなるんだろう。
この世ではない世でも、物思いに苦しむのだろうか。
ん
︻ちょこっと古語解説︼
○む⋮⋮婉曲の助動詞。訳には表れない。
○ずは⋮⋮﹁もし∼ないなら﹂の意。
うちけし
○ならで⋮⋮﹁なり﹂は、断定を表す助動詞で、﹁∼である﹂くら
いの訳。﹁で﹂は、打消接続を表す助詞で、﹁∼ないで﹂くらいの
訳。合わせて、﹁∼ではなくて﹂くらいの訳。
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
526
第174首 恋心消えず︵後書き︶
恋ひ死なむ後も心のかはらずはこの世ならでも物やおもはむ︵新続
古今和歌集︶
527
第175首 勇気の理由︵前書き︶
われはただ こんよのやみも さもあらばあれ きみだにおなじ みちにまよわば
528
第175首 勇気の理由
ぼくとしては、もう来世の闇なんか、どうでも構わない。
何も怖いものなんてないのだから。
君がいれば怖くない。
どんな道に迷っても、ただ君さえ同じ道に迷ってくれるなら。
︻ちょこっと古語解説︼
○来ん世⋮⋮来世のこと。
○さもあらばあれ⋮⋮どうなろうともかまわない、の意。
○だに⋮⋮﹁∼さえ﹂の意。
○ば⋮⋮﹁∼ならば﹂という仮定の意。﹁ば﹂は、他に、﹁∼する
ので﹂︵原因・理由︶と、﹁∼すると﹂︵偶然条件︶の意がある。
529
第175首 勇気の理由︵後書き︶
我はただ来ん世の闇もさもあらばあれ君だに同じ道に迷はば︵新続
古今和歌集︶
530
第176首 夢の支配者︵前書き︶
おもいねに わがこころから みるゆめも あうよはひとの なさ
けなりけり
531
第176首 夢の支配者
あの人を思いながら寝ても、あの人の夢を見ない。
こちらが思うだけでは足りないのだ。
彼女の方でもぼくのことを思ってくれないといけない。
夢で会えるかどうかさえ、彼女の気持ち次第。
い
︻ちょこっと古語解説︼
う
○思ひ寝⋮⋮恋人のことを思い続けながら寝ること。
○逢ふ⋮⋮単に会うことだけではなく、会って夜を共にすることま
で含む。
○人⋮⋮単なる他人の意ではなく、恋する相手のことを指す。
○なさけ⋮⋮情愛。
532
第176首 夢の支配者︵後書き︶
思ひ寝に我が心からみる夢も逢ふ夜は人のなさけなりけり︵新続古
今和歌集︶
533
第177首 命延ばして︵前書き︶
わすれじの ちぎりばかりを むすびてや あわんひまでの のべ
のゆうづゆ
534
第177首 命延ばして
忘れないよ、また会おう⋮⋮。
結んだ約束だけを胸にした旅路の空の下。
夕暮れに広がる野の草の上に、露が結ばれる。
その露のようにはかない我が身だ。
約束を果たすまでの命があれば、と祈らずにはいられない。
うちけし
︻ちょこっと古語解説︼
う
○じ⋮⋮打消意志を表す助動詞で、﹁∼しないようにしよう﹂﹁∼
ちぎ
しまい﹂くらいの訳。
わ
○契り⋮⋮約束。
ん
○逢は⋮⋮元の形は、﹁逢ふ﹂で、男女が思いを遂げること。
○む⋮⋮婉曲を表す助動詞。婉曲とは、断定を避ける表現のことで、
ここでは、﹁逢ふ日﹂が来るかどうか分からないので、﹁逢はむ日﹂
としている。
○野べ⋮⋮野のあたり。野原。
535
第177首 命延ばして︵後書き︶
忘れじの契りばかりをむすびてや逢はむ日までの野べの夕露︵新続
古今和歌集︶
536
第178首 一夜のため︵前書き︶
いのちやわ あだのおおのの くさまくら はかなきゆめも おし
からぬみを
537
第178首 一夜のため
命なんてはかないものではないか。
阿田の大野に宿を取った際に出会った人。
あの人との夢のような一夜のため、この身を捧げても惜しくはな
い。
︻ちょこっと古語解説︼
○あだの大野⋮⋮阿田の大野。今の奈良県五条市のあたり。あだに、
地名の﹁阿田﹂と﹁あだなり︵=はかない︶﹂の﹁あだ﹂が重ねら
かけことば
れている。このように一つの言葉に、二つの意味を重ね合わせる技
くさまくら
法を、掛詞という。
○草枕⋮⋮旅寝のこと。
538
第178首 一夜のため︵後書き︶
命やはあだの大野の草枕はかなき夢も惜しからぬ身を︵新続古今和
歌集︶
539
第179首 袖の涙は露︵前書き︶
またむすぶ ちぎりもしらで きえかえる のがみのつゆの しの
のめのそら
540
第179首 袖の涙は露
もう一度会えるかどうか分からない。
消えそうな心持ちのまま宿を離れる。
空はもうすぐ明け方を迎える。
濡れた袖は、野上の露か、わたしの涙か。
ちぎ
︻ちょこっと古語解説︼
うちけし
○契り⋮⋮男女の間の恋の約束のこと。
なかせんどう
○で⋮⋮打消接続を表す助詞。﹁∼ないで﹂ほどの訳。
ゆうじょ
○野上⋮⋮岐阜県不破郡関ヶ原町の地名。もと中山道の宿駅。遊女
︵招かれて、歌舞・音曲を演じるなどして、客を楽しませることを
職業とする女︶の里として知られていた。
○しののめ⋮⋮明け方、のこと。
541
第179首 袖の涙は露︵後書き︶
又むすぶ契りも知らで消えかへる野上の露のしののめの空︵新続古
今和歌集︶
542
第180首 来る世の闇︵前書き︶
ゆめにだに あいみぬなかを のちのよの やみのうつつに また
やしたわん
543
第180首 来る世の闇
夢でさえ一緒になれない仲。
来世ではまた、闇のような現実の中、あの人を恋い慕い続けるこ
とになるのだろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
うちけし
○だに⋮⋮﹁∼でさえ﹂の意。
○ぬ⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。﹁∼ない﹂くらい
の訳。
○闇のうつつ⋮⋮古歌を踏まえた表現だが、ここでは、暗闇のよう
なこの現実、ということ。
ん
○や⋮⋮疑問を表す助詞。﹁∼か﹂くらいの訳。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
544
第180首 来る世の闇︵後書き︶
夢にだにあひみぬ中を後の世の闇のうつつにまたやしたはむ︵新続
古今和歌集︶
545
第181首 片想いの心︵前書き︶
はかなしや つらきはさらに つらからで おもわぬひとを なお
おもうみは
546
第181首 片想いの心
あの人の薄情な態度をつらいとは全く思わない。
ただ、空しいだけだ。
こちらを思ってくれない人を、それでもやはり思ってしまう我が
身が。
︻ちょこっと古語解説︼
○はかなし⋮⋮﹁頼りない・空しい﹂の意。
○つらき⋮⋮元の形は﹁つらし﹂で、﹁薄情だ・冷淡だ﹂の意。
○さらに⋮⋮打消の語句を伴って﹁全然∼︵ない︶﹂という全部否
定の意を表す。
○で⋮⋮打消接続を表す助詞。﹁∼ないで﹂くらいの訳。
お
○ぬ⋮⋮元の形は﹁ず﹂で、打消を表す助動詞。
○なほ⋮⋮それでもやはり。
547
第181首 片想いの心︵後書き︶
はかなしやつらきはさらにつらからで思はぬ人をなほ思ふ身は︵新
続古今和歌集︶
548
第182首 霜夜に一人︵前書き︶
なげきつつ ひとりやさねん あしべゆく かものはがいも しも
さゆるよに
549
第182首 霜夜に一人
あの人から色よい返事が得られない。
そのままに夕暮れを迎える。
嘆きながら一人で寝ることになるのだろうか。
葦辺を泳ぐ鴨の翼に寒々と霜が降りる、こんな夜に。
︻ちょこっと古語解説︼
○や⋮⋮疑問を表す助詞。
○さね⋮⋮元の形は﹁さぬ﹂で、寝る、こと。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
○葦辺⋮⋮葦が生えている水辺。
○はがひ⋮⋮鳥の左右の翼が重なり合う部分。転じて、鳥の翼。
○さゆる⋮⋮元の形は﹁さゆ﹂で、冷え込む、こと。
550
第182首 霜夜に一人︵後書き︶
嘆きつつ独りやさねむ葦辺ゆく鴨のはがひも霜さゆる夜に︵新葉和
歌集︶
551
第183首 思いの現実︵前書き︶
ほのかにも みしはゆめかと たどられて さめぬおもいや うつ
つなるらん
552
第183首 思いの現実
ほんの少しの間だったけれど、確かに交わした思い。
それはただの夢だったのか、と途方に暮れる。
夢から覚め、それでもなお冷めない思いがある。
この思いこそ、現実なのだろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
○見し⋮⋮﹁見﹂は、元の形は﹁見る﹂で、ここでは、単に視界に
入れることではなく、男女が結ばれることを指す。﹁し﹂は、元の
形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○たどら⋮⋮元の形は﹁たどる﹂で、途方に暮れる、意。
○うつつ⋮⋮現実、のこと。
ん
○なる⋮⋮断定を表す助動詞。
○らむ⋮⋮本来は、現在の推量を表す助動詞で、﹁今頃∼している
だろう﹂と、現在、目前に無いものについて思いを馳せる用法であ
るが、ここでは単なる推量の意味。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
553
第183首 思いの現実︵後書き︶
ほのかにも見しは夢かとたどられてさめぬ思ひやうつつなるらむ︵
新葉和歌集︶
554
第184首 訪れは秋風︵前書き︶
このくれも とわれんことは よもぎうの うらばのかぜの あき
のはげしさ
555
第184首 訪れは秋風
この夕暮に訪れがあるなんて、まさか。
ないだろうけれど、期待はほのか。
蓬の葉を揺らし、秋風が吹きつける。
あの人の気持ちにも飽きがきているのだろうか。
わ
ん
︻ちょこっと古語解説︼
○とはれむ⋮⋮﹁とは﹂は、元の形は﹁とふ﹂で訪問する、意。﹁
れ﹂は元の形は﹁る﹂で受身を表す助動詞。﹁む﹂は婉曲を表す助
動詞で、訳には表れない。全体で、﹁訪問される﹂くらいの訳。な
う
お、﹁む﹂については、打消と誤解しないように注意したい。
○よもぎふ⋮⋮よもぎなどの雑草が生い茂っているところ。草深い
荒れた所。この﹁よもぎふ﹂の﹁よも﹂に、﹁まさか﹂の意味が重
うら ば
ねられている。
○末葉⋮⋮﹁うらは﹂﹁うれは﹂とも。草木の茎や枝の先端にある
葉。
556
第184首 訪れは秋風︵後書き︶
この暮もとはれむ事はよもぎふの末葉の風の秋のはげしさ︵新葉和
歌集︶
557
第185首 変る波と心︵前書き︶
ありそうみの うらふくかぜも よわれかし いいしままなる な
みのおとかわ
558
第185首 変る波と心
波音静かなあのときに、彼女に思いを打ち明けた。
ところが今は波が立ち、ぼくの気持ちを映したよう。
どうか風よ、弱まってくれよ。
ふし き
ひみ
彼女に思いが通じた頃の、あの時のさまに戻って欲しい。
︻ちょこっと古語解説︼
○ありそ海⋮⋮今の富山県高岡市伏木から氷見市に至る近海一帯。
○うら⋮⋮海辺のこと。
○かし⋮⋮強く念を押す意を表す助詞で、﹁∼してくれよ﹂くらい
わ
の訳。
○かは⋮⋮反語を表す語句。反語とは、﹁∼だろうか、いや∼では
ない﹂と疑問の形を借りて、否定する表現のこと。
559
第185首 変る波と心︵後書き︶
ありそ海のうら吹く風もよわれかし言ひしままなる波の音かは︵新
葉和歌集︶
560
第186首 雲への願い︵前書き︶
ゆうづきし おおいなせそくも わがせこが いたたせりけん い
つかしがもと︵額田王︶
561
第186首 雲への願い
夕べの月に雲がかかっている。
雲よ、どうか月を覆い隠さないで。
光が届かなくなってしまう。
わたしの大切な人がたたずんでいたあの樫の木のもとに。
︻ちょこっと古語解説︼
○し⋮⋮強調を表す助詞で、色んな語につく。訳には表れない。
○なせそ⋮⋮﹁な∼そ﹂で、﹁∼ないでください﹂という柔らかい
禁止を表す。﹁せ﹂は、元の形は﹁す﹂で、﹁する﹂の意。全体で
せこ
﹁しないでください﹂くらいの訳。
ん
○背子⋮⋮﹁主人、あの人﹂の意。女性が、親しい男性を呼ぶ言葉。
○けむ⋮⋮﹁∼していただろう﹂と過去の推量を表す助動詞。
562
第186首 雲への願い︵後書き︶
夕月し覆ひなせそ雲わが背子がい立たせりけむ厳樫が本︵万葉集/
1−9︶
563
第187首 禁野の誘い︵前書き︶
あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや きみ
がそでふる︵額田王︶
564
第187首 禁野の誘い
赤く美しく輝く紫草の野、それは皇室が領有する禁断の土地。
そのようなところで、あなたは袖を振ってわたしを誘う。
今は人妻であるわたしを。
きっと野守が見てしまうに違いないのに。
︻ちょこっと古語解説︼
まくらことば
○茜さす⋮⋮赤い色がさして美しく照り輝くことから、﹁日﹂﹁昼﹂
むらさき
の
﹁紫﹂﹁君︵=美しいあなた、ということ︶﹂などを導く、枕詞。
○紫野⋮⋮紫を栽培している園。紫は、草の名で、根から赤紫色の
しめ の
染料をとる。
きん や
○標野⋮⋮上代、皇室・貴人が領有し、一般の立ち入りを禁止した
野。狩り場などに用いた。﹁禁野﹂とも。
○野守⋮⋮立ち入りが禁止されている野の番人。
○見ずや⋮⋮この﹁や﹂は、﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂を表
す反語の用法。全体で、﹁見ないだろうか、いや見ないことはない﹂
くらいの訳。
○袖振る⋮⋮袖を振って合図をすることだが、それにとどまらず、
人の魂を招き寄せる仕草であることから、こちらに来て自分のもの
になりなさい、という意で、求愛の行動でもある。
565
第187首 禁野の誘い︵後書き︶
茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る︵万葉集1−20︶
566
第188首 恋心枯れず︵前書き︶
むらさきの におえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに わ
れこいめやも︵大海人皇子︶
567
第188首 恋心枯れず
一面に広がる紫草。
その中に立つあなたは輝くように美しい。
今はもう人妻となってしまったけれど、それを憎いとは思えない。
もしも憎んでいたら、これほどあなたに心引かれるだろうか。
︻ちょこっと古語解説︼
え
え
う
○紫の⋮⋮この﹁の﹂は、﹁∼のように﹂を表す比喩の用法。
○匂へる⋮⋮﹁匂へ﹂の元の形は、﹁匂ふ﹂で、﹁美しく照り輝く﹂
意。何かが香っているわけではないので、注意。﹁る﹂は元の形は
﹁り﹂で、存続を表す助動詞。﹁∼している﹂くらいの訳。全体で、
いも
﹁美しく輝いている﹂くらいの訳になる。
○妹⋮⋮男性が、親しい女性に呼びかけるときの語。
○ば⋮⋮仮定を表す助詞。﹁もし∼ならば﹂くらいの訳。
○めやも⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではないなあ﹂くらいの訳。
568
第188首 恋心枯れず︵後書き︶
紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆえに我恋ひめやも︵万葉集1−2
1︶
569
第189首 旅先を思う︵前書き︶
きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかえかいかん まち
にかまたん︵磐姫皇后︶
570
第189首 旅先を思う
あの人が旅に出てから、随分長い日が経ちました。
今頃どうしているのでしょう、旅先でいい人できたのかしら。
いっそ、山道を探して、迎えに行ってしまいましょうか。
それとも、このままもう少しだけ、待っていた方がよいでしょう
か。
︻ちょこっと古語解説︼
○が⋮⋮ここでは、﹁の﹂の意味で使っている。
○行き⋮⋮旅行、のこと。
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞。﹁∼た・∼てしまった﹂くらいの訳。
ん
○か⋮⋮疑問を表す助詞。
○む⋮⋮意志を表す助動詞。﹁∼しよう﹂くらいの訳。
571
第189首 旅先を思う︵後書き︶
君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待た
む︵万葉集2−85︶
572
第190首 君を待つ間︵前書き︶
ありつつも きみをばまたん うちなびく わがくろかみが しも
のおくまで︵磐姫皇后︶
573
第190首 君を待つ間
このままここに居続けて、あなたのことをお待ちします。
いつまでも、いつまでも、ずっと。
あなたのいる方向から吹く風に、わたしの黒髪がうちなびく。
この黒髪が霜のようにすっかり白くなるまで、あなたを待ってい
ます。
︻ちょこっと古語解説︼
○をば⋮⋮動作・作用の対象を表す助詞である﹁を﹂を強調した言
ん
い方で、訳自体は、﹁を﹂と変わらない。
○む⋮⋮意志を表す助動詞。﹁∼しよう﹂くらいの訳。
○霜⋮⋮白髪のたとえ。
574
第190首 君を待つ間︵後書き︶
ありつつも君をば待たむうちなびく我が黒髪が霜の置くまで︵万葉
集2−87︶
575
第191首 止まない心︵前書き︶
あきのたの ほのえにきらう あさかすみ いずえのかたに わが
こいやまん︵磐姫皇后︶
576
第191首 止まない心
秋の田に稲穂が豊かに実っている。
穂の上には、明け方の霧がかかる。
この霞は、やがてどこかへと消えてしまうだろう。
でも、わたしの恋心が消えて止むことはない。
き
う
︻ちょこっと古語解説︼
○霧らふ⋮⋮霧・霞などが辺り一面に立ち込める。
○朝霞⋮⋮朝に立つ霞。霞とは、空中に微細な水滴が漂い、空や遠
いずえ
景がぼんやりとする現象。
ん
○何処⋮⋮どのあたり。どちら。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
577
第191首 止まない心︵後書き︶
秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何処の方にわが恋ひ止まむ︵万葉集2
−88︶
578
第192首 名を惜しむ︵前書き︶
たまくしげ おおうをやすみ あけてゆかば きみがなはあれど わがなしおしも︵鏡王女︶
579
第192首 名を惜しむ
二人の仲を隠すのはわけないことかもしれません。
それでも、夜が明けてからあなたが帰ったとしたらどうでしょう。
あなたはいいかもしれない。
でも、わたしの名に傷がつくのですよ。
くし
︻ちょこっと古語解説︼
まくらことば
○玉くしげ⋮⋮櫛などの化粧道具を入れる美しい箱。ふたをして覆
うものであることから、﹁覆ふ﹂を導く枕詞となる。枕詞とは、言
いたい語の前置きに当たる語で、それ自体は訳されない。
○安み⋮⋮﹁形容詞の語幹﹂+﹁み﹂という形で、﹁形容詞なので﹂
という表現になる。簡単なのでくらいの訳。
○ば⋮⋮仮定を表す助詞。﹁∼なら﹂くらいの訳。
○が⋮⋮ここでは、﹁の﹂の意味で使われている。
○し⋮⋮強調を表す助詞。訳には表れない。
580
第192首 名を惜しむ︵後書き︶
玉くしげ覆ふを安みあけて行かば君が名はあれどわが名し惜しも︵
万葉集2−93︶
581
第193首 恋心素直に︵前書き︶
たまくしげ みもろのやまの さなかずら さねずはついに あり
かつましじ︵藤原鎌足︶
582
第193首 恋心素直に
みもろの山のさなかずら。
そのさなかずらのつるを、あなたのところまで。
あなたに巻きつけて、たぐりよせたい。
そうして、あなたを手に入れて、一緒に寝ずにはいられない。
︻ちょこっと古語解説︼
まくらことば
○玉くしげ⋮⋮櫛などの化粧道具を入れる美しい箱。箱には、中身
があることから、﹁み﹂を導く枕詞となる。枕詞とは、ある語を導
くための前置きとして使われる言葉で、訳にはあらわれない。
○みもろの山⋮⋮三輪山のことか。三輪山は、今の奈良県桜井市三
輪にある山。
○さなかずら⋮⋮つる性の木。さね︵=男女が共寝をすること︶を
導く
へん か
○かつましじ⋮⋮﹁∼ないだろう﹂﹁∼できそうにない﹂の意。
︻ちょこっと背景解説︼
○この歌は、第192首への返歌。返歌とは、人から贈られた歌に
対する、お﹁返﹂しの﹁歌﹂のこと。
583
第193首 恋心素直に︵後書き︶
玉くしげみもろの山のさなかずらさ寝ずは遂にありかつましじ︵万
葉集2−94︶
584
第194首 大雪の自慢︵前書き︶
わがさとに おおゆきふれり おおはらの ふりにしさとに ふら
まくはのち︵天武天皇︶
585
第194首 大雪の自慢
わたしの里に大雪が降りました。
一面見事な雪景色ですよ。
あなたの古びた里である大原はどうでしょう。
残念ながら、もう少し後になるでしょうね。
︻ちょこっと古語解説︼
たかいち
あすか
○り⋮⋮完了を表す助動詞。﹁∼た﹂くらいの訳。
ふ
ふ
○大原⋮⋮今の奈良県高市郡明日香村の地。
○古り⋮⋮元の形は、﹁古る﹂で、﹁古びる﹂の意。
○にし⋮⋮﹁に﹂は、元の形は﹁ぬ﹂で完了を表す助動詞、﹁し﹂
は、元の形は﹁き﹂で過去を表す助動詞。全体で、﹁∼た﹂くらい
の訳。﹁∼た﹂の訳に関しては、過去でも完了でも、この﹁にし﹂
のように過去のある時の完了でも同じ訳になってしまうが、過去と
完了を語の上で区別しない現代語の都合上やむをえない。
○まく⋮⋮﹁∼だろうこと﹂くらい訳。
586
第194首 大雪の自慢︵後書き︶
わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後︵万葉集2−
103︶
587
第195首 大雪の理由︵前書き︶
わがおかの おかみにいいて ふらしめし ゆきのくだけし そこ
にちりけん︵五百重娘︶
588
第195首 大雪の理由
竜神にお願いしたのです。
わたしの住む岡に雪を降らせてくださいと。
そちらでも雪が降ったとのこと。
きっと、こちらの雪のかけらが、そちらで散ったのでしょう。
︻ちょこっと古語解説︼
○おかみ⋮⋮雨や雪など、水をつかさどると信じられていた神。竜
神。
○降らしめし⋮⋮﹁しめ﹂は元の形は﹁しむ﹂で、﹁∼させる﹂と
いう使役の助動詞。﹁し﹂は元の形は﹁き﹂で過去を表す助動詞。
くだ
全体で、﹁降らせた﹂くらいの訳。
ん
○雪の摧けし⋮⋮雪がくだけたもの。
へん か
○けむ⋮⋮過去の推量を表す助動詞。﹁∼しただろう﹂くらいの訳。
︻ちょこっと背景解説︼
○この和歌は、第195首への返歌。返歌とは、人から贈られた和
歌に対する﹁返﹂事の﹁歌﹂。
589
第195首 大雪の理由︵後書き︶
わが岡のおかみに言ひて降らしめし雪の摧けし其処に散りけむ︵万
葉集2−104︶
590
第196首 君を待つ雨︵前書き︶
あしひきの やまのしずくに いもまつと われたちぬれぬ やま
のしずくに︵大津皇子︶
591
第196首 君を待つ雨
まくらことば
山の中であなたを待っていると、折からの雨。
木々の間から水の雫がぽつり、ぽつり。
それでもずっとあなたを待っていた。
わたしはすっかりと濡れてしまったよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○あしひきの⋮⋮﹁山﹂に関連する言葉を導く枕詞。枕詞とは、そ
れ自体は意味を持たず、ある特定の語を導入するために置かれる飾
いも
りの言葉のこと。
○妹⋮⋮男性が親しい女性を呼ぶときの言葉。妹に限られず、妻や
恋人も指す。
○ぬ⋮⋮完了を表す助動詞。﹁∼た﹂くらいの訳。
592
第196首 君を待つ雨︵後書き︶
あしひきの山のしずくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしずくに︵万
葉集2−107︶
593
第197首 雨への嫉妬︵前書き︶
あをまつと きみがぬれけん あしひきの やまのしずくに なら
ましものを︵石川郎女︶
594
第197首 雨への嫉妬
わたしを待って濡れてくださったとのこと。
あなたを濡らした雫が羨ましい。
あなたに触れることができるのだから。
その雫がわたしだったらよかったのに。
あ
︻ちょこっと古語解説︼
ん
○吾⋮⋮わたし。
まくらことば
○けむ⋮⋮過去の推量を表す助動詞。﹁∼ただろう﹂くらいの訳。
○あしひきの⋮⋮﹁山﹂に関連する言葉を導く枕詞。枕詞とは、そ
れ自体は意味を持たず、ある特定の語を導入するために置かれる飾
りの言葉のこと。
○ましものを⋮⋮﹁∼だったらよかったのに﹂の意。
595
第197首 雨への嫉妬︵後書き︶
吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくに成らましものを︵
万葉集2−108︶
596
つもりがうらに
のらむとは
第198首 占いに対す︵前書き︶
おおぶねの
ふたりねし
︵大津皇子︶
まさしにしりて
わが
597
第198首 占いに対す
津守の占いで告げられる。
二人の許されない仲が。
でも、そんなことは知っていたよ。
知っていてなおわたしたちは一夜を共にしたのだ。
おおぶね
まくらことば
︻ちょこっと古語解説︼
○大船の⋮⋮枕詞。大船がとまるところから﹁津︵=港︶﹂にかか
る。枕詞とは、ある語を言いたいがために、その前に置かれる、そ
うら
れ自体は意味の無い言葉のこと。
の
ん
○占⋮⋮占い。
○告らむ⋮⋮﹁告ら﹂は、元の形は﹁告る﹂で、﹁告げる﹂意。﹁
む﹂は推量を表す助動詞。全体で、﹁告げるだろう﹂ほどの訳。
○まさしに⋮⋮見込み通りであることを表す。
おおつの みこ
いしかわのいらつめ
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。﹁∼た﹂くらいの
訳。
︻ちょこっと背景解説︼
くさかべの みこ
この和歌の詠み手である大津皇子は、石川郎女という女性に求愛
していた。その石川郎女は、草壁皇子という、大津皇子の兄からも
つもりのむらじとおる
求愛されており、三角関係だった。大津皇子と草壁皇子は、次期王
位を争うライバル同士。そんな中で、津守連通という人が、二人の
仲を明らかにする。それに対して、詠んだ歌。
598
第198首 占いに対す︵後書き︶
大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我が二人寝し︵万葉集
2−109︶
599
おちかたのべに
かるかやの
第199首 忘れない人︵前書き︶
おおなごを
わすれめや
︵草壁皇子︶
つかのあいだも
わが
600
第199首 忘れない人
彼女のことが片時も、この心から離れない。
遠くの野で草を刈っている者がいる。
それよりもなお遠くにいる彼女。
いしかわのいらつめ
草のひとたばほどのほんの少しも、彼女のことを忘れられない。
おお なご
︻ちょこっと古語解説︼
おちかた
○大名児⋮⋮人名。第197首の石川郎女のこと。
のべ
○彼方⋮⋮遠くの方。
○野辺⋮⋮野の辺り。野原。
○めや⋮⋮反語を表す語句。反語とは、疑問の形を借りた否定であ
り、﹁∼だろうか、いや∼ではない﹂と訳される。
601
第199首 忘れない人︵後書き︶
大名児を彼方野辺に刈る草の束の間もわが忘れめや︵万葉集2−1
10︶
602
第200首 祈りのそで︵前書き︶
いわみのや たかつのやまの このまより わがふるそでを いも
みつらんか
︵柿本朝臣人麻呂︶
603
第200首 祈りのそで
石見にある高角山。
その木々の間を通して、わたしは袖を振る。
また必ず会えるようにと願いを込めながら振られた袖。
それをあの人はきっと見ていてくれるだろうか。
いわ み
︻ちょこっと古語解説︼
○石見⋮⋮今の島根県西部。
たかつのやま
○や⋮⋮語調を整える役割を果たす語。訳にはあらわれない。
○高角山⋮⋮島根県江津市の島ノ星山。
いも
○より⋮⋮∼を通して。
○妹⋮⋮男性が親しい女性︵恋人・妻など︶のことを呼ぶときの呼
び名。現代の妹に限られないので注意。
○つ⋮⋮確述を表す助動詞。確述とは、何かが﹁確﹂実に起こるこ
とを﹁述﹂べる意。﹁必ず∼﹂くらいの訳。
○らむ⋮⋮現在の推量を表す助動詞。﹁∼しているだろう﹂くらい
の訳。
○か⋮⋮疑問を表す語。
604
第200首 祈りのそで︵後書き︶
石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか︵万葉集2
−132︶
605
第201首 別れのおと︵前書き︶
ささのはは みやまもさやに さやげども われはいもおもう わ
かれきぬれば
︵柿本人麻呂︶
606
第201首 別れのおと
風が吹いて、笹が、葉ずれの音を立てる。
さわさわ、さわさわ、と美しい山を震わせている
わたしの心も震えているのは、彼女のことを考えているから。
別れて来て、次にいつ会えるか分からない妻のことを。
ささ
︻ちょこっと古語解説︼
○小竹⋮⋮竹類のうち、小形で茎の細いもの。
○み山⋮⋮山の美称。
○さやに⋮⋮さやさやと。
○さやげ⋮⋮元の形は﹁さやぐ﹂で、︵草木の葉などが︶さやさや
いも
と音を立てること。
○妹⋮⋮男性から見た親しい女性のこと。妹だけではなく、妻や恋
人も含む。
○ぬれ⋮⋮元の形は﹁ぬ﹂で、完了を表す助動詞。﹁∼た﹂くらい
の訳。
○ば⋮⋮原因・理由を表す語。﹁∼なので﹂くらいの訳。
607
第201首 別れのおと︵後書き︶
小竹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば︵万葉
集2−133︶
608
第202首 無理な願い︵前書き︶
なおもいそと きみはいうとも あはんとき いつとしりてか わ
がこいざらん
︵依羅娘子︶
609
第202首 無理な願い
思いつめないでくれとあなたは言うかもしれません。
でも、次にお会いできる時はいつなのでしょう。
いついつだと知れば、これほど恋い慕わないかもしれません。
いつか分からないからこそ、こうして物思いにふけってしまうの
です。
い
︻ちょこっと古語解説︼
う
○な思ひそ⋮⋮﹁な∼そ﹂で柔らかな禁止を表す。﹁∼しないでく
ださい﹂くらいの訳。﹁思ひ﹂は、元の形は﹁思ふ﹂で、心配する
の意。古語の﹁思ふ﹂は、現代語と違って意味が広く、他に愛する
なども含む。
わん
う
○とも⋮⋮﹁たとえ∼するとしても﹂の意。
○逢はむ時⋮⋮﹁逢ふ﹂は、単に会うだけではなく、一夜を共にす
ることを含む。﹁む﹂は、婉曲を表す助動詞。訳には表れない。全
ん
こ い
体で、﹁会う時﹂くらいの訳。﹁会わない時﹂と訳さないように注
こ い
意。
ん
○恋ひざらむ⋮⋮﹁恋ひ﹂の元の形は﹁恋ふ﹂で、恋しく思うこと。
﹁ざら﹂の元の形は、﹁ず﹂で打消を表す助動詞。﹁む﹂は、推量
を表す助動詞。全体で、﹁恋しく思わないだろう﹂くらいの訳。
610
第202首 無理な願い︵後書き︶
な思ひそと君はいふとも逢はむ時いつと知りてか我が恋ひざらむ︵
万葉集2−140︶
611
第203首 心知られて︵前書き︶
つくまのに おうるむらさき きぬにしめ いまだきずして いろ
にいでにけり
︵笠女郎︶
612
第203首 心知られて
託馬野に生えている紫草。
その草で染めた赤紫の美しい衣。
あなたの気持ちがこもったその衣を着る前に知られてしまいまし
た。
この恋のことを。
つくまの
︻ちょこっと古語解説︼
むらさき
○託馬野⋮⋮現在の滋賀県坂田郡米原町筑摩あたり。
い
○紫草⋮⋮むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。
○色に出にけり⋮⋮色は表面のこと。﹁色に出づ﹂とは、表面に現
れたというところから、人に知られたということ。﹁にけり﹂は、
﹁∼してしまったのだなあ﹂と、何かが完了したことに気づいたこ
とを表す。
613
第203首 心知られて︵後書き︶
託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出にけり︵万葉集
3−395︶
614
第204首 岩本菅の心︵前書き︶
おくやまの いわもとすげを ねふかめて むすびしこころ わす
れかねつも
︵笠女郎︶
615
第204首 岩本菅の心
奥山にある岩の根元に生える菅。
その根は深いと聞いています。
わたしとあなたが結んだ心も同じように深いもの。
そのときの気持ちを忘れることはできません。
︻ちょこっと古語解説︼
いわもとすげ
○奥山⋮⋮人里から離れた奥深い山。
○岩本菅⋮⋮岩の根元に生えている菅。菅はカヤツリグサ科の植物
の総称。
○根深め⋮⋮元の形は﹁根深む﹂で、根を深く下ろす。
○し⋮⋮元の形は﹁き﹂で、過去を表す助動詞。
○かねつも⋮⋮﹁かね﹂は元の形は﹁かぬ﹂で、﹁∼するのが難し
い﹂の意。﹁つ﹂は完了を表す助動詞。﹁も﹂は詠嘆を表す語。﹁
∼するのが難しいのだなあ﹂くらいの訳。
616
第204首 岩本菅の心︵後書き︶
奥山の岩本菅を根深めて結びし心忘れかねつも︵万葉集3−397︶
617
第205首 宝石の君を︵前書き︶
あさにけに みまくほりする そのたまを いかにせばかも てゆ
かれずあらん
︵大伴宿禰家持︶
618
第205首 宝石の君を
毎朝毎日ずっと見ていたい。
宝石のように美しい君を。
もしも宝石ならこの手から離さないことは簡単だ。
でも君はどうしたら手元に置いておけるのかな。
け
︻ちょこっと古語解説︼
○日⋮⋮日々。
たま
○まく⋮⋮﹁∼しようとすること﹂の意。
○玉⋮⋮宝石。ちなみに、﹁玉のような赤ちゃん﹂とは、﹁ボール
のようにコロコロとした赤ちゃん﹂という意味ではなく、﹁宝石の
ように美しい赤ちゃん﹂という意味である。
○いかにせばかも⋮⋮どのようにすればいいのだろうなあ。
○ゆ⋮⋮﹁∼から﹂の意。
○む⋮⋮推量を表す助動詞。﹁∼だろう﹂くらいの訳。
619
第205首 宝石の君を︵後書き︶
朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ
︵万葉集3−403︶
620
第206首 心揺らす風︵前書き︶
きみまつと わがこいおれば わがやどの すだれうごかし あき
のかぜふく︵額田王︶
621
第206首 心揺らす風
秋の一夜に恋しいあなたを待ちわびている。
今夜は来てくれるかもしれない、いいえ、きっと来てくれる。
ふと簾が揺れたのに、心も揺れて、振り返ったわたしは目を伏せ
る。
う
あなたの訪れだと思わせた秋風の憎らしさ。
い
︻ちょこっと古語解説︼
○恋ひ⋮⋮元の形は﹁恋ふ﹂で、﹁恋しく思う﹂の意。
○ば⋮⋮﹁∼すると﹂ほどの訳。﹁∼したら﹂という仮定の意味で
やど
はないので、注意が必要。
○屋戸⋮⋮家のこと。
622
第206首 心揺らす風︵後書き︶
君待つと我が恋ひ居れば我が屋戸の簾動かし秋の風吹く︵万葉集4
−488︶
623
第207首 風の無い身︵前書き︶
かぜをだに こうるはともし かぜをだに こむとしまたば なに
かなげかん
︵鏡王女︶
624
第207首 風の無い身
訪れたものの正体が風であっても羨ましい。
風を恨むことができるのも恋人が訪れる可能性があるからこそ。
それさえもない我が身。
風だけだとしても、恋人を待てるのならば何を嘆くことがありま
しょうか。
︻ちょこっと古語解説︼
とも
○だに⋮⋮﹁∼でさえ﹂の意。
○羨し⋮⋮うらやましい。
○何か嘆かむ⋮⋮﹁か﹂は反語。反語とは、﹁∼だろうか、いや∼
ではない﹂と、疑問の形を借りた否定。﹁む﹂は推量。﹁何を嘆く
ことがあろうか、何も嘆くことなどないだろう﹂くらいの訳。
625
第207首 風の無い身︵後書き︶
風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ︵万葉集
4−489︶
626
第208首 一年に一度︵前書き︶
さほがわの こいしふみわたり ぬばたまの くろまのくよは と
しにもあらぬか︵坂上郎女︶
627
第208首 一年に一度
佐保川の小石を踏み渡ってあなたが来る。
ヒオウギの実のように黒い馬に乗って。
そんな夜が一年に一度はあってくれたらいいのに。
あなたに会いたくてたまらない。
さほ
︻ちょこっと古語解説︼
○佐保川⋮⋮今の奈良市の春日山に源を発し、佐保の南側を流れ、
まくらことば
初瀬川と合流して大和川に注ぐ川。
○ぬばたまの⋮⋮﹁黒﹂を導く枕詞。枕詞とは、ある語を導くため
の言葉であり、その語自身には積極的な意味はない。一説によると、
﹁ぬばたま﹂とは、ヒオウギという草の実のことであって、その実
が黒いことから、黒いもの︵黒・髪・夜など︶を導く役割を果たす
ようになった、という。
○年にもあらぬか⋮⋮一年に一度もないのだろうか、ほどの意。
628
第208首 一年に一度︵後書き︶
佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬の来夜は年にもあらぬか︵万
葉集4−525︶
629
第209首 恋のさざ波︵前書き︶
ちどりなく さほのかわせの さざれなみ やむときもなし あが
こうらくは
︵坂上郎女︶
630
第209首 恋のさざ波
水辺で千鳥が鳴いている。
この佐保川を隔てて、あなたがいる。
そっちの方にさざ波が寄せるのが見えるかな。
波がやまないのは、わたしがあなたを恋い慕っているからよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○千鳥⋮⋮鳥の名。川・海・湖沼の水辺に群れをなしてすむ。
○佐保の川瀬⋮⋮佐保川の川瀬。佐保川は、今の奈良市の春日山に
源を発し、佐保の南側を流れ、初瀬川と合流して大和川に注ぐ川。
川瀬は、川の流れが浅く速くなっているところ。
○さざれ波⋮⋮さざ波のこと。さざ波はしきりに立ち、そのさざ波
がやむ時がないというイメージから、﹁やむ時もなし﹂につながる
う
ことがあり、この歌はその例。
○恋ふらく⋮⋮恋しく思うこと。
631
第209首 恋のさざ波︵後書き︶
千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは︵万葉
集4−526︶
632
第210首 真実の恋を︵前書き︶
くろかみに はくはつまじり おゆるまで かかるこいには いま
だあわなくに
︵坂上郎女︶
633
第210首 真実の恋を
黒髪に白髪が交じる年になりました。
この年までいろいろな人と知り合って、それなりに恋をしてきま
した。
人を好きになるって素敵なこと、でも、それだけのこと。
そんなわたしの思い違いを正すかのようにあなたがあらわれたの。
人に惹かれるということの本当の意味が分かる恋。
このように年老いるまで、こんな恋にはあったことがありません。
︻ちょこっと古語解説︼
○あはなくに⋮⋮﹁なくに﹂は、﹁∼ないことだなあ﹂と打消に詠
嘆の意を込める表現。全体で、﹁あわないことだなあ﹂くらいの訳。
634
第210首 真実の恋を︵後書き︶
黒髪に白髪交じり老ゆるまでかかる恋にはいまだあはなくに︵万葉
集4−563︶
635
第211首 実らない恋︵前書き︶
やますげの みならぬことを われによそり いわれしきみは た
れとぬらん
︵坂上郎女︶
636
第211首 実らない恋
山菅の実がならないように実らない恋をしている。
そんな風にあなたは、わたしとの仲を取りざたされていましたね。
わたしたち二人の噂も、もうずっと昔のこと。
あなたは今頃、誰と寝ているのでしょうか。
やますげ
︻ちょこっと古語解説︼
○山菅⋮⋮山野に自生している菅。実がならないことから、実らな
い恋のたとえに使われる。
○寄そり⋮⋮元の形は﹁寄そる﹂で、﹁異性との噂を立てられる﹂
ん
こと。
○らむ⋮⋮現在の推量を表す語で、﹁今頃∼しているだろう﹂ほど
の訳。
637
第211首 実らない恋︵後書き︶
山菅の実成らぬことを我に寄そり言はれし君は誰と寝らむ︵万葉集
4−564︶
638
第212首 苦しみ比べ︵前書き︶
ますらおも かくこいけるを たわやめの こうるこころに たぐ
いあらめやも
︵大伴坂上大嬢︶
639
第212首 苦しみ比べ
あなたがわたしにくださった歌。
わたしのことをどれほど思ってくださっているのか分かりました。
あなたのような立派な男性でさえそのように恋に苦しんでいるの
ですね。
でも、わたしのようなか弱い女があなたを思う苦しさに比べれば
まだまだですよ。
︻ちょこっと古語解説︼
○ますらを⋮⋮心身ともに人並みすぐれた強い男子。
○かく⋮⋮このように。
○たわやめ⋮⋮しなやかで優しい女性。
○めやも⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ではないなあ﹂ほどの意。
640
第212首 苦しみ比べ︵後書き︶
ますらをもかく恋ひけるをたわやめの恋ふる心にたぐひあらめやも
︵万葉集4−582︶
641
第213首 恋心つのり︵前書き︶
しらとりの とばやままつの まちつつそ わがこいわたる この
つきごろを
︵笠郎女︶
642
第213首 恋心つのり
白い鳥が飛ぶ、飛羽山の、緑の松のもと。
あなたの訪れを待って、恋しさをつのらせ続けています。
そうして、もう数カ月。
今日もまたあなたをお待ちしています。
︻ちょこっと古語解説︼
とば
○白鳥の⋮⋮羽毛の白い鳥のこと。
○飛羽山⋮⋮現在の奈良県奈良市にある三笠霊園のあたりにある小
峰。
○渡る⋮⋮元々は﹁移動する﹂という意味だが、動詞の後に付ける
とし
と﹁∼し続ける﹂という意味を動詞に添える。
○月ごろ⋮⋮何カ月もの間。ちなみに、﹁年ごろ﹂で﹁何年もの間﹂
、﹁日ごろ﹂で﹁何日もの間﹂という意味になる。
643
第213首 恋心つのり︵後書き︶
白鳥の飛羽山松の待ちつつそ吾が恋ひ渡るこの月ごろを︵万葉集4
−588︶
644
第214首 恋に駆られ︵前書き︶
きみにこい いたもすべなみ ならやまの こまつがしたに たち
なげくかも
︵笠郎女︶
645
第214首 恋に駆られ
あなたのことが恋しい。
この気持ちがあふれてどうすることもできません。
恋しさを抱いてふらふらとあなたのお住まいが見える奈良山へと。
わけもなく松の木陰に立ってはあなたのお帰りを待ってためいき
をつくばかりです。
︻ちょこっと古語解説︼
○いたも⋮⋮全くの意。
○すべなみ⋮⋮﹁すべな﹂が﹁すべなし﹂で、﹁どうしようもない﹂
という意であり、﹁み﹂は﹁∼なので﹂の意であるので、全体で﹁
どうしようもないので﹂くらいの訳。
○奈良山⋮⋮今の奈良市の北方の丘陵。
まつ
○小松が⋮﹁小松﹂は﹁松﹂のことであり、﹁が﹂は﹁の﹂を表す
ので、全体で﹁松の﹂くらいの意。木の中でなぜ特に松なのか、あ
なたを﹁待つ﹂という意を込めているからである。
○かも⋮⋮詠嘆を表す語。﹁∼だなあ﹂ほどの訳。
646
第214首 恋に駆られ︵後書き︶
君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも︵万葉集
4−593︶
647
第215首 恋を表す数︵前書き︶
やおかゆく はまのまなごも わがこいに あにまさらじか おき
つしまもり
︵笠郎女︶
648
第215首 恋を表す数
八百日間かけてようやく行くことができる広いひろい浜辺。
わたしはひとり、数え尽くすことができないほどの砂粒を見てい
る。
でも、この砂粒の数もわたしがあの人に寄せる気持ちに勝ること
はないでしょう。
ねえ、そうでしょう、沖の島守さん。
やおか
︻ちょこっと古語解説︼
まなご
○八百日⋮⋮非常に多くの日数の意。
○沙⋮⋮細かい砂。﹁まさご﹂とも。
うちけし
○あに⋮⋮決して。
○じ⋮⋮打消の推量を表す助動詞。﹁∼ないだろう﹂くらいの訳。
○沖つ島守⋮⋮沖の離島にあって外敵の来襲に備える兵士。
649
第215首 恋を表す数︵後書き︶
八百日行く浜の沙も我が恋にあにまさらじか沖つ島守︵万葉集4−
596︶
650
第216首 眠れない夜︵前書き︶
みなひとを ねよとのかねは うつなれど きみをしおもえば い
ねかてぬかも
︵笠郎女︶
651
第216首 眠れない夜
就寝の時間を告げる鐘が鳴っているみたい。
その遠い響きにあなたのことを思う。
今頃あなたはどうしているかな、もう寝ているのかな。
そんな風にあなたのことを思っていると、なかなか寝られそうに
ない。
︻ちょこっと古語解説︼
○皆人⋮⋮全ての人。
○寝よとの鐘⋮⋮寝静まるべき時刻になったことを知らせる鐘。
○なれ⋮⋮元の形は﹁なり﹂で、推定を表す助動詞。﹁∼ようだ・
い
∼らしい﹂くらいの訳。
○寝ねかてぬかも⋮⋮寝ねは元の形は﹁寝ぬ﹂で﹁寝る﹂を表し、
かてぬは﹁∼することができない﹂の意であり、﹁かも﹂は詠嘆を
表す語で﹁∼だなあ﹂くらいの訳。全部で﹁寝ることができないな
あ﹂ほどの意味。
652
第216首 眠れない夜︵後書き︶
皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも︵万葉
集4−607︶
653
第217首 気鬱のわけ︵前書き︶
いまさらに いもにあわめやと おもえかも ここだわがむね い
ぶせくあるらん
︵大伴家持︶
654
第217首 気鬱のわけ
なぜかこのごろ気づまりでうっとうしい。
今はもうあなたに会うことはない。
そう思うからなのだろうか。
これほどぼくの胸がふさがって気が晴れないのは。
︻ちょこっと古語解説︼
いも
○今さらに⋮⋮今はもう。
いもうと
○妹⋮⋮男性が女性を親しんで呼ぶときに使う語。現代語の妹に限
られず、﹁妻・恋人・姉﹂も指す。
○めや⋮⋮﹁∼だろうか、いや∼ない﹂という意味。
○ここだ⋮⋮こんなにもはなはだしく。
ん
○いぶせく⋮⋮元の形は﹁いぶせし﹂で、気が晴れない気持ちを表
す。
○らむ⋮⋮現在の推量を表す助動詞。﹁今∼しているだろう﹂くら
いの訳。
655
第217首 気鬱のわけ︵後書き︶
今更に妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらん︵万
葉集4−611︶
656
第218首 告白を悔い︵前書き︶
なかなかに もだもあらましを なにすとか あいみそめけん と
げざらまくに
︵大伴家持︶
657
第218首 告白を悔い
いっそ黙っていればよかった。
なにがしたかったのか分からない。
どうして君に想いを告げてしまったのだろう。
遂げることができる恋ではないのに。
︻ちょこっと古語解説︼
もだ
○なかなかに⋮⋮いっそのこと。かえって。
○黙⋮⋮黙っていること。
○あらまし⋮⋮﹁あら﹂は元の形は﹁あり﹂で﹁ある﹂、﹁まし﹂
は反実仮想を表す助動詞で﹁∼だったらなあ﹂ほどの意味。全体で、
﹁あったらなあ﹂くらいの訳。
ん
○見そめ⋮⋮元の形は﹁見そむ﹂で、﹁恋し始める﹂の意。
○けむ⋮⋮過去の推量を表す助動詞で、﹁∼だっただろう﹂ほどの
訳。
うちけし
○遂げざらまくに⋮⋮﹁遂げ﹂は元の形は﹁遂ぐ﹂で﹁なしとげる﹂
、﹁ざら﹂は元の形は﹁ず﹂で打消を表す助動詞、﹁まくに﹂は﹁
∼だろうことなのに﹂ほどの意味。全体で﹁遂げられないであろう
ことであるのに﹂くらいの訳。
658
第218首 告白を悔い︵後書き︶
なかなかに黙もあらましをなにすとか相見そめけむ遂げざらまくに
︵万葉集4−612︶
659
第219首 命に届く恋︵前書き︶
ものもうと ひとにみえじと なまじいに つねにおもえり あり
そかねつる
︵山口女王︶
660
第219首 命に届く恋
恋の物思いにふけっていると人に見せないようにしよう。
そういつも注意していました。
でも、この恋心を隠すなんてできようはずもありません。
あなたへの気持ちで苦しくて生きていられないほどなのに。
もう
︻ちょこっと古語解説︼
○物思ふ⋮⋮物思いにふける。
○人⋮⋮ここでは﹁他人﹂の意味だが、和歌で﹁人﹂とくれば、﹁
うちけし
恋人﹂を指すことが多い。
い
○じ⋮⋮打消の意志を表す助動詞。﹁∼しないようにしよう﹂くら
いの訳。
○なまじひ⋮⋮できそうもないことを無理におこなう様。
○り⋮⋮完了を表す助動詞。
○あり⋮⋮単に﹁存在する﹂意を表すだけでなく、﹁生活する﹂や
﹁生きている﹂などの意まで表す。
○かね⋮⋮動詞の下について、﹁∼するのが難しい﹂という意を添
える。
○つる⋮⋮元の形は﹁つ﹂で、完了を表す助動詞。
661
第219首 命に届く恋︵後書き︶
物思ふと人に見えじとなまじひに常に思へりありそかねつる︵万葉
集4−613︶
662
第220首 片思いの涙︵前書き︶
あいおもはぬ ひとをやもとな しろたえの そでひつまでに ね
のみしなくも
︵山口女王︶
663
第220首 片思いの涙
こちらがいくら思っていても、同じように思いを返してはくれな
い。
それでも、あの人のことがわけもなく思われてしまう。
どうしてこんなにあの人のことが好きなんだろう。
わ
う
わたしの白い服の袖は涙に乾くことがなく、今日もまた声を上げ
て泣くばかりです。
あい
︻ちょこっと古語解説︼
○相思はぬ⋮⋮﹁相思は﹂は、元の形は﹁相思ふ﹂で、﹁お互い同
うちけし
じように愛しく思う﹂という意味であり、﹁ぬ﹂は、元の形は﹁ず﹂
で、打消を表す助動詞。全体で、﹁お互い同じようには愛しく思っ
ていない﹂くらいの訳。
え
○もとな⋮⋮﹁わけもなく・むやみに﹂の意。
たもと
○白たへの⋮⋮白たへとは﹁こうぞ類の樹皮からとった繊維で織っ
た白い布﹂ のことであり、衣服に関する語、﹁衣﹂﹁袖﹂﹁袂︵
まくらことば
=和服の袖の下の袋状の部分︶﹂などを導く。このようにある特定
の語を導くための言葉のことを﹁枕詞﹂という。
○袖⋮⋮和歌で﹁袖﹂と来たら、涙を暗示していると思うこと。袖
ひ
で涙を拭くのです。
ね
○漬つ⋮⋮水につかる。
○音のみし泣く⋮⋮﹁音を泣く﹂で、声を上げてなくことを表す。
﹁のみ﹂と﹁し﹂は強調のための語。
664
第220首 片思いの涙︵後書き︶
相思はぬ人をやもとな白たへの袖漬つまでに音のみし泣くも︵万葉
集4−614︶
665
第221首 枕を夢見て︵前書き︶
わがせこは あいおもわずとも しきたえの きみがまくらは い
めにみえこそ
︵山口女王︶
666
第221首 枕を夢見て
わたしがあなたを思うほど、思いを返してくれないあなた。
夢の中でさえわたしに会いに来てはくれない。
たとえこのままわたしの思いが届かないとしても願いたい。
せめてあなたの枕くらいは夢に見ることを。
せこ
︻ちょこっと古語解説︼
わ
う
○背子⋮⋮女性が親しい男性を呼ぶ時の呼び方。
うちけし
○相思はず⋮⋮﹁相思は﹂は、元の形は﹁相思ふ﹂で、﹁お互い同
じように愛しく思う﹂という意味であり、﹁ず﹂は、打消を表す助
え
とこ
まくら
動詞。全体で、﹁お互い同じようには愛しく思っていない﹂くらい
の訳。
○しきたへの⋮⋮﹁しきたへ﹂が寝具を表すことから、﹁床﹂﹁枕﹂
まくらことば
などを導く。このように、ある語を導くために、その前に置かれる
言葉のことを、枕詞という。
○夢⋮⋮ここでは、﹁いめ﹂と読む。
○こそ⋮⋮元の形は﹁こす﹂で、希望を表す助動詞。
667
第221首 枕を夢見て︵後書き︶
我が背子は相思はずともしきたへの君が枕は夢に見えこそ︵万葉集
4−615︶
668
第222首 千鳥を妬み︵前書き︶
さよなかに ともよぶちどり ものもうと わびおるときに なき
つつもとな
︵大神郎女︶
669
第222首 千鳥を妬み
夜中にしきりに千鳥の鳴き声がします。
友を呼んで鳴いているのです。
ひとりで恋の物思いにふけり、つらい気持ちでいる夜。
その声を聞いていると、たまらない気持ちになるのです。
︻ちょこっと古語解説︼
○さ夜中⋮⋮夜中、に同じ。
○千鳥⋮⋮鳥の名。ちどり科の鳥の総称。川・海・湖沼の水辺に群
もう
れをなしてすむ。
お
○物思ふ⋮⋮物思いにふける。
○わび居る⋮⋮﹁わび﹂は元の形は﹁わぶ﹂で﹁気落ちする﹂意。
﹁居る﹂は元の形は﹁居り﹂で動詞のあとに続けると﹁∼し続ける﹂
意を添える。
○つつ⋮⋮動作の反復を表す。
○もとな⋮⋮むやみに。
670
第222首 千鳥を妬み︵後書き︶
さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわび居る時に鳴きつつもとな︵万葉集
4−618︶
671
第223首 恋しさ一人︵前書き︶
われのみそ きみにはこうる わがせこが こうということは こ
とのなぐさそ
︵坂上郎女︶
672
第223首 恋しさ一人
あなたはわたしのことを恋しいと言います。
でも、本当に恋しいと思っているのはわたしだけ。
あなたが恋しいというのはかたちだけのこと。
言葉の上だけでわたしを慰めようとしているのでしょう。
われ
︻ちょこっと古語解説︼
○吾⋮⋮わたし。
せこ
○そ⋮⋮強調を表す語。
○背子⋮⋮女性が親しい男性︵夫・恋人・兄弟など︶を呼ぶ時の呼
び方。この和歌では、思いをよせる人を呼ぶためのもの。
○なぐさ⋮⋮心を慰めるもの。
673
第223首 恋しさ一人︵後書き︶
吾のみそ君には恋ふる吾が背子が恋ふといふことは言のなぐさそ︵
万葉集4−656︶
674
第224首 翻意の早さ︵前書き︶
おもわじと いいてしものを はねずいろの うつろいやすき わ
がこころかも
︵坂上郎女︶
675
第224首 翻意の早さ
あの人のことをもう想わないようにしよう、報われない恋だから。
そう誓ったけれど、すぐに心変わり、どうしてもあの人のことを
想ってしまう。
まるではねずで染めた色みたい。
う
その色がすぐにあせてしまうように、わたしの決心もすぐにひる
がえってしまう。
わ
︻ちょこっと古語解説︼
うちけし
○思はじ⋮⋮﹁思は﹂は、元の形は﹁思ふ﹂で、単に心に浮かべる
ということではなく、恋しく思うこと。﹁じ﹂は打消の意志を表す
助動詞で、﹁∼しないようにしよう﹂という意味。全体で、﹁恋し
く思わないようにしよう﹂くらいの訳。
○てし⋮⋮﹁て﹂は、元の形は﹁つ﹂で完了を表す助動詞。﹁し﹂
は、元の形は﹁き﹂で過去を表す助動詞。過去のある時に、何かが
完了したことを表す。
○ものを⋮⋮逆接を表す語。﹁∼だけれども﹂の意。
い
○はねず色の⋮⋮はねず︵=初夏に赤い花をつける植物︶で染めた
まくらことば
色があせやすいところから、﹁移ろひやすし﹂を導く。このように
ある語を導くための語のことを、枕詞という。
○かも⋮⋮詠嘆を表す語。﹁∼だなあ﹂くらいの訳。
676
第224首 翻意の早さ︵後書き︶
思はじと言いてしものをはねず色のうつろひやすき我が心かも︵万
葉集4−657︶
677
第225首 不明な理由︵前書き︶
おもえども しるしもなしと しるものを なにかここだく わが
こいわたる
︵坂上郎女︶
678
第225首 不明な理由
どれほど恋しく思っても意味がない。
あなたは振り向いてはくれない。
そんなことは分かっているのにどうしてだろう。
こんなにあなたのことを思い続けてしまうのは。
え
︻ちょこっと古語解説︼
○思へ⋮⋮単に心に浮かべるという意味ではなく、もっと積極的な
しるし
意味がある。ここでは、恋い慕うということ。
○験⋮⋮効果。
○ものを⋮⋮﹁∼だけれども﹂という逆接の意を表す。
○ここだく⋮⋮こんなにもたくさん。
○わたる⋮⋮元々は﹁移動する﹂という意味だが、動詞につくと﹁
∼し続ける﹂という意を添える。
679
第225首 不明な理由︵後書き︶
思へども験もなしと知るものを何かここだく我が恋ひわたる︵万葉
集4−658︶
680
第226首 噂への憂い︵前書き︶
あらかじめ ひとごとしげし かくしあらば しえやわがせこ お
くもいかにあらめ
︵坂上郎女︶
681
第226首 噂への憂い
もうわたしとあなたの間に噂が立ってしまいました。
その噂が頻繁に聞こえてくること。
今のうちからこのようでは、もう覚悟を決めるしかないのでしょ
うか。
ねえ、あなた、この先どうなってしまうのか心配です。
︻ちょこっと古語解説︼
ごと
○あらかじめ⋮⋮前々から。
しげ
○人言⋮⋮他人の噂。
○繁し⋮⋮﹁多い﹂を意味するが、﹁多くてわずらわしい﹂という
意味にもなり、ここでは後者。
え
○かくしあらば⋮⋮このようであるならば。
○しゑや⋮⋮﹁えいっ、もうどうにでもなれ﹂と物事を思い切ると
せこ
きの言葉。
○背子⋮⋮女性が親しい男性︵夫・恋人・兄弟︶を呼ぶときの呼び
方。
○奥⋮⋮これから先。
○いかにあらめ⋮⋮﹁どうなるのだろう﹂くらいの意味。
682
第226首 噂への憂い︵後書き︶
あらかじめ人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥もいかにあらめ
︵万葉集4−659︶
683
第227首 求める言葉︵前書き︶
こいこいて あえるときだに うつくしき ことつくしてよ なが
くとおもわば
︵坂上郎女︶
684
第227首 求める言葉
恋しく思い続けてやっとあなたと夜を迎えられました。
いつもは素っ気ないあなた。
こんなときくらいは優しい言葉をかけてください。
う
二人の仲が長く続いて欲しいと思うなら。
あ え
︻ちょこっと古語解説︼
○逢へ⋮⋮﹁逢へ﹂は元の形は﹁逢ふ﹂で、単に会うのではなく、
﹁男女が一夜を共にすること﹂を含む。
○る⋮⋮元の形は﹁り﹂で、完了を表す助動詞。
うつく
○だに⋮⋮﹁せめて∼だけでも﹂と最低限を表す語。
○愛しき言⋮⋮﹁愛しき﹂は元の形は﹁愛し﹂で、ここでは﹁愛情
のこもった﹂ほどの意味。
○ば⋮⋮仮定を表す語。
685
第227首 求める言葉︵後書き︶
恋ひ恋ひて逢へる時だに愛しき言尽くしてよ長くと思はば︵万葉集
4−661︶
686
第228首 嘗てない恋︵前書き︶
おみなえし さきさわにおうる はなかつみ かつてもしらぬ こ
いもするかも
︵中臣郎女︶
687
第228首 嘗てない恋
山野にはおみなえしが、沢には花かつみが咲いている。
その風景にわたしは見惚れた。
世界がこれほど美しかったなんて。
これは恋のおかげ。
世界を輝かせるかつてない恋。
お
え
︻ちょこっと古語解説︼
さ
○をみなへし⋮⋮花の名、日当たりのよい山野に生える。おみなえ
さきさわ
しは咲く、その﹁咲く﹂の変化形である﹁咲き﹂を使って、同じ音
を持つ佐紀沢を導いている。沢は低湿地を表しており、おみなえし
は山野に咲くので、﹁おみなえしが咲く佐紀沢﹂と解釈することは
さきさわ
難しい。
○佐紀沢⋮⋮現在の奈良市水上池のあたりか。
○花かつみ⋮⋮水辺に生える草の名。野生のハナショウブの一種か。
﹁かつ﹂の部分を使って、同音を持つ﹁かつて﹂を導いている。
○かも⋮⋮詠嘆を表す語。﹁∼だなあ﹂くらいの訳。﹁∼かもしれ
ない﹂と言っているわけではないので注意。
688
第228首 嘗てない恋︵後書き︶
をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも︵
万葉集4−675︶
689
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3385bm/
ワカコイ ∼恋の和歌∼
2016年9月24日20時43分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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