勝又教授は微笑んでいた。﹁蘇るかね﹂﹁あなたは何者だ﹂俺は自分の顔が火照っているのが判った。﹁ただの爺だよ﹂ほっほと笑う。非常に楽しげだ。﹁僕は山梨にいたんですね﹂﹁賢吾もそう言っておったよ﹂いつか行ってみるといい、と勝又は言った。至極真面目な顔だった。﹁二階堂くんの息子も連れて。そして、その深遠な瞳で確かめるといい﹂俺は勝又を見つめた。不思議な懐かしさが込み上げてくる。﹁賢吾もよくそうやって、今のきみと同じ眼をしてこの爺を見ておったよ﹂美しい男だった、と勝又は遠くを見て微笑んだ。窓から西日が差す。﹁日の光を横顔へ受けてね。良く出来た彫刻作品のようだった。高潔で、理知的で、一途で。この爺を父親のように慕ってくれた。良い思い出だよ﹂﹁父は、あなたに何かを伝えていったんですね﹂﹁思い出話をね、少々﹂そう言って勝又は再び俺を見た。俺の眼前に、新たな記憶の帳が下りた。 283 奪われ、それでも俺は頑なに無表情でいた。龍介も俺の横でソファの背もたれに首を乗せて茫洋としていたが、やがてリ俺は正直、その時見ていた番組の内容がまったく頭へ入って来ない状態だった。五感のすべてを龍介の存在に根こそぎくの龍介のマンションで、俺たちはウィスキーを片手にテレビを眺めていた。高校三年の夏に亡くした父親の法要を終えてきた龍介はその晩、俺を自宅へ呼んだ。夕飯は神田で済ませ、明治神宮近忘れもしない大学三年の夏。集中講義を三日間休んで山梨へ帰省していた龍介が戻って来た日のことだ。んだこともあったが、だからと言って、言い寄ってくる男たちをそういう目で見ることが出来るかと言えば、それも違った。まったく好きになれなかった。まるで興味が持てないのだ。女に興味のない自分はホモセクシュアルなのかと真剣に悩普通の男子学生として迫りくる女たちと交際を試みたこともあった。そして、ことごとく破綻した。ただそれだけの思いのために、臆病な俺はそれ以上龍介に近付くことを自分に禁じたのだ。龍介もそうだった。俺たちはにあれだけ好きだった龍介のことを、俺はそうして無理やり封印しようとした。失いたくない、去って行って欲しくない、になることを俺も龍介もいちばん恐れた。疲れ果ててそのまま眠ってしまっても、手に手を重ねたままでいても、思春期龍介も俺をそう扱った。互いの家へ行っても、他愛のない話をし、講義の話をして、ただただ時間をやり過ごした。無言俺たちはそうして過ごした大学時代、互いの私生活に一切干渉しなかった。普通に親友として、俺は龍介と付き合った。いというような、それは焦りにも似た気持ちだった。でいられる、若かった俺にはそんな傲慢さがあった。そうだ、俺は龍介なしでも俺でいられるはずだ。それを試してみた愛してしまうことが怖かったのだ。心さえ閉ざしておけば、いつか互いが互いから離れる時が来ても、きっと自分自身た直後から感じていた漠然とした別離の不安が常に付き纏っていた。じ、龍介もまた同じだったのではないかと思う。このまま行けば、歯止めが利かなくなる。そして俺には、龍介と知り合っていた。そして、その頃の俺たちは互いを避ける傾向にあった。俺は自分がどんどん龍介に惹かれていくことに怖さを感も取る講義の時間が違ったり、新しく出来た友達とつるむなど、俺も龍介もそれなりに大学生活というものに馴染み始め大学へ進学した俺たちは、もう高校の頃のように毎日を朝から晩まで共にいることはなかった。同じ法学部で 284 モコンを取りテレビを消した。恐れていた静寂が訪れた。俺は消えた画面を見つめ続けていた。﹁誠吾﹂喉がからからに乾き、返事が出来なかった。龍介は静かに続けた。﹁この三年の間、いろいろ考えた﹂俺は後ろの龍介を振り返り、グラスをローテーブルへ置いた。手がわずかに震えた。﹁そして、自分を試した。それは、誠吾も同じだったと思う﹂龍介の双眸が光を拾う。﹁でね、ダメだった﹂目の前の龍介は、高校時代に俺が見惚れ続けてきた龍介だった。﹁失うのが怖すぎて、最初から手に入れなければいいと思ってたけど、やっぱりそれは、無理だった﹂苦しい、と龍介は呟いて下を向いた。﹁もう、ずっと前から、もしかしたら、知り合う前から﹂洪水のような音が脳裡に反響する。﹁俺は誠吾なしでは、俺ではいられないんだ﹂俺の心臓は、それまで停止していたのが突然動き出したように鼓動を刻み始めた。高校以来の胸の高鳴りだった。﹁言ってほしい。もし誠吾が俺と違う気持ちなら、もう二度とこんな話はしない。約束する﹂俺は反射的に龍介の手を引き寄せた。互いの指が貪欲に絡んでいく。﹁もとへ戻ろう﹂と、俺は言った。目頭が熱くなり、腹の底が疼いた。﹁失うわけがない。たとえ失ったとしても、俺はまた必ず龍介を探す。だから﹂たまらず龍介を抱き寄せた。久々の感触にめまいがする。龍介の吐息が熱かった。﹁そばにいてくれ﹂ 285 俺の手は、龍介の細い背をまさぐった。恐ろしいほどの情欲が俺を襲い、それを上回る理性が戦いを始めた。﹁うん﹂﹁同じだね、俺たち﹂龍介がちょっと笑った。﹁俺も。この三年、よく生きてたと思う﹂俺の両腕に力が籠った。唇が首筋に触れる。﹁それなのに我慢して。俺、どうかしてた﹂俺の龍介。﹁気が狂いそうだった﹂龍介の手。﹁辛くて、辛くて、ほんとうに辛くて﹂龍介の匂い。﹁誠吾のことを想わない日はなかった﹂龍介の声が揺れる。﹁俺のほうこそ、ごめん﹂龍介のしなやかな手が俺の首筋と頬を覆った。ひんやりとした、懐かしい感触だった。﹁辛い思いをさせたな﹂ごめん、と俺は囁いた。涙が滲む。﹁融合してしまいたい、ひとつになってしまいたい、何度もそう思った。そうすれば、失わない﹂もう止められなかった。 286 ﹁バカだね、俺たち﹂﹁ほんとだな﹂俺は、いつか龍介がしたように、龍介の唇のすぐ横に俺の唇をそっと押しつけた。そのまま目を閉じると、大きなふんわりしたものに包み込まれるような安心感が訪れた。﹁どうしてこんなに惹かれるのかわからない﹂龍介はそう囁いて、両腕で俺の首を抱いた。恍惚が俺の背筋を貫く。龍介の吐息が直接肺へ入り込んできた。俺は龍介を抱きしめながら、このまま死んでもいいと思った﹁きみが魅了されたのと同様、賢吾もまた二階堂の血にのめり込んだ﹂賢吾の通夜の日、龍介の父は自分のことを、賢吾の恋人だと言ったのだ。﹁なぜこんなに惹かれるのかわからない、と賢吾は言ったよ。今生でも、そしてその前の世でも、幾度にも渡り輪廻と再生を繰り返し、彼らは姿を変え、形を変えて互いを探し続けた﹂今、命の灯が消えた、と勝又は呟き、俺に微笑んだ。﹁え？﹂﹁死んだのだよ、私が。並行世界でね﹂﹁あなたは、何者なんだ﹂と、俺は繰り返した。﹁時の番人だよ﹂勝又は楽しそうだった。﹁きみたちが生きた前時代は、今現在とほぼ並行にある。輪廻転生には四十九日を要するという説と、何年、何百年もかかるという説があるのは、聞いたことがあるかね？﹂ 287 ﹁きみが龍介を想う念と、龍介もまたきみを想う心が、同じ大きさと比率で惹き合う。きみが動なら、龍介は静、きみカップを俺へ渡しながら、勝又は続けた。俺は下を向いてしまった。かわいらしいなどと言われたことがない。﹁冗談だよ。きみはほんとうにかわいらしい青年だ﹂俺は青ざめたのだろう。勝又はおもしろくて仕方ないというようにほっほと笑い出した。﹁何のエキスですか・・・・﹂﹁スペシャルブレンド。エキス入り﹂﹁はい、ありがとうございます﹂﹁コーヒーは好きかね？﹂俺は改めて思った。木村を検死する勝又の姿が一瞬フラッシュバックした。勝又は立ち上がり、コーヒーサーバーのほうへゆっくり歩いて行った。白衣の背中が小さく、この人は高齢なのだと、﹁強すぎるのだよ﹂﹁俺たちが再生するのは、なぜなんですか﹂言い直した。﹁俺が﹂﹁そうだよ﹂﹁俺が見ているのは、並行世界の記憶なんですか﹂﹁きみと賢吾を見ている限り、それは嘘だと思うしかない﹂時の番人とやらは、俺を見てにっこり笑った。そうしているとかわいいおじいちゃんにしか見えない。﹁自殺した者は久遠の闇から永久に抜けられることがない、とも言うが﹂俺は黙っていることで肯定した。 288 が焔なら、向こうは清流。まったく違う属性のふたりが強大な磁力で導き合うのだ。ただし、近付き過ぎると互いが互いを滅ぼしてしまう。そうして、きみたちは決して結ばれることがない﹂焔はその身体を焼き尽くし、水は焔を消してしまうからだ、と勝又は言った。﹁天命への挑戦でしかない。今度こそ、次こそは必ず幸せにと想う気持ちが強すぎるから、禍陀を背負っていることを知っていながら輪廻を繰り返す﹂俺の脳裏には黒い雲に覆われた地平線が拡がった。それは、どこかの世で何度となく夢に見てきた光景だった。﹁賢吾たちの場合はもっと状況が悪くてね、共にいられる時間がどんどん短くなっている﹂かわいそうな男たちだ、と勝又が首を振る。﹁父が自害したとき、これが初めてではないと思いました﹂と、俺は言った。﹁だから俺は冷静だった。県警の男たちが葬儀を仕切ってくれていた間、俺の眼にはずっと、夕闇に佇む大木の八重桜が見えていた。その下で微笑む二階堂修哉も﹂俺は、賢吾の葬儀の後ひと月ほどして修哉が訪れたことを話した。﹁修哉が龍介の父だと知らなかった俺はもちろん、龍介の存在も曖昧でした。自分の心に存在するはずだった誰かというだけで、それが誰なのか、どんなひとなのか、どうしても思い出せなかった。ただ、修哉が血圧を見るために俺の首筋へ手を当てた時、咄嗟に俺は修哉を抱きしめていた﹂あの時の感触が蘇った。勝又はじっと俺を見つめている。﹁俺はこの感触を知っている、と思いました。修哉はその時、﹃出逢ったことを、後悔しないでやってくれ﹄と言い、俺の耳にはその直後、洪水のような音が溢れ出した﹂﹁閼伽の流れる音だよ﹂勝又は、追憶するように目を細めた。﹁二階堂修哉の身体に流れる水流だ。彼の中でさまざまな思いが噴流となって渦巻いたのだろう。不思議な力をもつ男 289 ﹁これは精神医学を出た学生がやっている店でね。最初は根津に店を構えていたのだが、手伝いの子の便宜上、我々のると、小さな構えのカフェが見えてきた。俺と勝又教授は、東大病院を出て不忍通りの方向へ歩いていった。旧岩崎邸庭園を右へ望みながら最初の角を左へ曲が勝又が笑い、先に立って検案室を出て行く。俺はその小さな背中を追った。﹁時空を超えた男が何をびびっておる﹂﹁冷蔵庫の住人たちだよ﹂と、後ろを振り返る。俺は背筋が寒くなった。﹁耳？﹂﹁では甘いものを食べて、今日のところは解散にしよう。ここは耳が多くていけないし﹂﹁はい、今日はもう、家へ戻るだけですので﹂﹁ところで、時間は大丈夫かい？﹂勝又はまたほっほと笑った。﹁目が覚めるだろう﹂俺はコーヒーを一口啜った。とんでもなく苦い。修哉は願ったのだ﹂﹁賢吾にはもちろん、修哉にも、きみと龍介が再会することは判っていた。そのことを、どうか後悔しないでほしいと一の人間だった。た。龍介は、出口を失った焔が俺自身を焼き尽くしてしまう前に、そうして俺の精神を司り、俺を鎮めることができる唯の下に俺はいつも爆発寸前の何かを抱えて生きてきた。それは宿命に対する激昂であり、拭い去ることのできない絶望だっそうだ。龍介の身体はいつもひんやりしていた。燃え滾る俺はその身体を抱くと、途端に心が安らぐのだった。無表情だった。龍介も、おそらく同じだろう﹂ 290 近くへ越してきたのだよ﹂子と言っても、きみと同い年くらいの青年だが、と言った。﹁マスターは、武郎という。オムライスを作るのが上手でね。今度、龍介と食べにくるといい﹂その名には聞き覚えがあった。勝又は俺の表情を見て微笑む。﹁並行世界でも彼はオムライスを作っているが、それはとりあえず今は、知らないふりをしてやっておいてくれ﹂﹁わかりました﹂ドアを開けると中は割と広い作りで、丁度良い照明が山小屋の雰囲気を出していた。いらっしゃい、とカウンターから男の顔が覗いて、﹁これは勝又教授！﹂と笑顔になった。﹁例の Ⅴ ＩＰルームは空いているかね？﹂﹁教授のお部屋ですよ﹂と、精悍な顔がほころぶ。俺を見て記憶を辿るような目をしたが、それは一瞬だった。奥の個室へ通された。壁面を医学書、参考書、六法全書、諸々の専門書で埋め尽くされたその部屋は、ある意味ほんとうのＶＩＰルームだった。﹁ここは、私や桐島、そして二階堂修哉の、お気に入りの休憩室なのだ﹂俺の記憶の中で、白衣を着た美貌の外科医が微笑んだ。注文を取りに来た女の子に﹁旨いコーヒーを二つと、例の魔法のケーキも二つ﹂と告げると、女の子は笑った。﹁はい、いつものですね。すぐにお持ちします﹂木の扉が閉まると、下界を遮断した。﹁りんごのケーキがとても旨いのだよ﹂勝又がそう言うと、実に良いタイミングで俺の腹が鳴った。﹁すみません、朝から何も食ってなかったので﹂勝又はほっほと笑いながら、﹁あの触ると切れそうな横顔の男は、まったく人遣いが荒いのだな﹂と言った。 291 を見開いて笑ったあと、フォークを豪快にケーキへ突き立てた。だが、俺が龍介のことを考えたのはお見通しだったのだ。それを言うと、﹁おお、そう言えばそうだった﹂と言い、目のは壊れていたし、いちばん近い研究室は十一階の遺伝子工学だったから。そのお礼に差し入れをしたのだ﹂﹁冗談だよ。さっきの冷蔵庫の住人が爪の間に何かを挟んでいたものだから、顕微鏡でそれを見てもらったのだ。私の﹁何せ、見えるから仕方ない﹂と言い、内心驚いている俺を前にほっほと笑った。﹁時の番人はテレパシーも使えるんですか﹂﹁大丈夫だよ。差し入れのザッハトルテがあるからな﹂と、勝又はつぶらな瞳を向けて笑った。俺の目は釘付けになった。龍介はちゃんと食ったかな、とふと思った。﹁失礼します﹂と再び扉が開き、輝くばかりのでかいケーキが二つ、それぞれ湯気の立つカップを従えて運ばれてきた。倉沢のことを言っているのだと思った。 292