第三王子エルメル - タテ書き小説ネット

第三王子エルメル
せい
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
第三王子エルメル
︻Nコード︼
N9835BF
︻作者名︼
せい
︻あらすじ︼
高校3年、病気によって命をおとした少年。再び目を開いたとき、
過保護な従者に、自由行動の多い龍。勘違
彼は赤ん坊になっていた。存在を消された第三王子は喋らない、笑
わない、出来損ない?
ほのぼの⋮⋮異世界生活。投稿
︵旧:氷の王子︶
いを繰り返しながら生きていく。
は不定期です。四章終了
1
0−1 名前 ︵前書き︶
随時更新していますので、ネタバレを多く含みます。お気をつけく
ださい。
主にすぐに自分でつけた名前を忘れる筆者が名前を確認するために
寮生の紹介文を増やしました。
作ったものですので、途中で誰がだれだか分からなくなった人はど
うぞ。
2.12
2
0−1 名前 ︻主人公・側近他︼
◆エルメル・ルプランス・ド・アリメルティ︵↓エル︶
主人公。アリメルティ王国第三王子として生まれ、母は出産時に
死亡。父親は一度しか会いに来ていないため顔を知らない。
感情を一切出さなかったことから、幼少期は一部の人間にプリン
ス・ドールと揶揄されていた。爆発を気合いで抑え込んだため、魔
力がないと思われ大きな誤解をされていく。成長しても表情は乏し
い。
透き通るように白い肌に銀髪。白い背景に同化する。毛の生えた
動物が好き。迷子になるのが得意。液体を凍らせる強力な魔法を使
う。
◆マティアス・フォン・マーキス・ウエストヴェルン
エルメルの第一従者。火を操るウエストヴェルン家の次男。戦闘
紫炎の騎士
。学生時代に魔法と武術の優秀
能力は王家の人間を凌ぐとも言われている。本気で戦うことはほと
んどないとか。通称
な使い手として将来を期待されていたが、卒業後数年後には姿を消
した。実際はエルメルの子育てをしていたのだが、周りからは体調
を崩したためだと思われている。
持ち前の器用さから経験のなかった従者職にも徐々に慣れていく
が、同時にエルにかまってもらいたいという面倒くさい一面も開花
させた。料理は壊滅的に苦手。
・ソラ
3
エルの影。マティアスの影の手伝いをしながら、エルの周りをう
ろつくものを排除したりと地味に活動している。
魔法では植物を操る。
・清爛
エルメルが作り出した龍。名前はエルが適当につけた。話すこと
ができなかったはじめの頃からどことなくふてぶてしい。話せるよ
うになった後もふてぶてしい。声が高く、ついでにプライドも高い。
勝手な行動が多い。
・エドナ
エルメルの母、ディアナの元侍女。今はエルメルつきの侍女であ
る。エルメル暗殺の章では攻撃的な一面も。他種族の血が混じって
いる。家庭環境は恵まれなかったが、養女として貴族の家に入った。
︻王家並びに第一従者︼
・王
エルメルの父親。魔力をもつ兆候をみせなかったエルメルの抹殺
を長男に命じる。
・ディアナ
出産時に死亡したエルメルの母。詳しい出自は不明。自由奔放な
性格で周りからは﹁太陽妃﹂と呼ばれていた。
◇アマリア
元アリメルティ王国第一王女。リクハルドの姉。過去に大きな怪
我をし、車椅子での生活を送る。すでに他国に嫁ぎ、王妃となって
いる。
4
◇ミリナ・フォン・マーキス・サウスティーナ
ナレクの姉。アマリアの第一従者で、主のアマリアについて他国
に住んでいる。口数は少なく、アマリアに常に付き従う。左目に眼
帯をしている。
◇リクハルド・ルプランス・ド・アリメルティ・カサリエル
アリメルティ王国第一王子。有能だが王子にしては気が弱く、今
のところ王になる気はない。マティアスとは幼馴染で、極度の年下
好きだと思っている。
◇フェルナンド・フォン・イーストカルティア
リクハルドの第一従者。並びに土操るイーストカルティア家長男。
大人びた風貌から年齢よりも上に見られることが多い。年もほとん
ど同じなため、リクハルドは友達のような主従関係を築く。
◇セヴェリ・ルプランス・ド・アリメルティ・カサリエル
アリメルティ王国第二王子。エルメルと学園の先輩として知り合
う。兄弟の中では一番性格が父親似。
◇ナレク・フォン・マーキス・サウスティーナ
セヴェリの第一従者。風を操るサウスティーナ家の長男でもある。
マティアスとは仲が悪い幼なじみ。
◇ティモ・ルプランス・ド・アリメルティ
アリメルティ王国第四王子。ただし、エルメルの存在が明かされ
ていないため、第三王子として扱われている。ティモ自身も兄がい
ることは知らない。婚約者はマティアスの妹であるシェンリル。
◇イーリス・プランセス・ド・アリメルティ
アリメルティ王国第二王女
5
︻ウエストヴェルン家︵+使用人︶︼
⋮⋮四大貴族の一つ。赤い髪に、火の魔法。最も攻撃に優れた家
系。
・クリストバル・フォン・ウエストヴェルン
ウエストヴェルン家当主。マティアスの父。当主にしては気が弱
く、妻の尻に敷かれ気味。
・ルクシェル・ウエストヴェルン
マティアスの母。王都にいる家族と離れて、ウエストヴェルン家
の領地を守っていた。デザイナーとしても活動中。ファッションに
関しては並々ならぬこだわりがあり、エルの服をすべて決めている。
・カシュバル・フォン・マーキス・ウエストヴェルン
ウエストヴェルン家長男、次期当主。マティアスの兄。性格容姿
共に母のルクシェル似。美しい物好き。女装癖あり。
・マティアス⋮⋮次男
・シェンリル・フォン・マーキス・ウエストヴェルン
ウエストヴェルン家長女で、マティアスの妹。ブラコンだが、そ
マティアス
れはマティアスに対してであり、カシュバルの方はどうでもよい。
真っ赤な髪をツインテールにしている。兄を取られ、エルに嫉妬。
ティモの婚約者。
・リチャード
ウエストヴェルン家家令であり、レオニートの父親。現在は爵位
6
はないが⋮⋮。
・チュラ
リチャードの夫、レオニートの母親。ウエストヴェルン家子供の
世話係として働いていた。ルクシェルと仲が良い。
・レオニート
マティアスの乳兄弟で、仲が良い。現在は家令見習いとしての教
育を受けているが、子供っぽい一面がある。エドナにベタ惚れ。
︻マティアスの影︼
・イェデン
マティアスの影のリーダー。名前の由来は数字の1。任務に忠実。
子供を一人拾って育てた。
・ピェット
マティアスの影の一人。ウエストヴェルン家お抱えのコックでも
ある。
︻その他︼
エルメル暗殺の旅について行くことになった唯一の近衛。マテ
・アロイス
ィアスに憧れて近衛になった。エルとは騎士団見学時に再開し、幼
少期に遊んでいたお兄さんという設定にされた。おかげでマティア
スの恨みをかう。
・ケイライ
アロイスの上司。
7
ちゃぼ
・矮鶏
初等部にいる大きな鳥。怪鳥と呼ばれている。王家が学園に預け
ている。言葉を理解する頭脳はあるらしい。エルになついている︵
おびえている?︶
・サリル先生
エルが初等部担任の先生。温厚な性格。
・レント
エルと仲の良い友達。明るく、思いやりがある。王宮医師の母、
騎士団に所属していた父を持つ。妹が一人。騎士を目指している。
マティアスのファン。
・トルカ
レントの妹。母を同じ医師を目指す。
・カール・ヴァラシナ
エルメルに絡んできた学生。しかし、軽くあしらわれた。
・ルーヴ・ハッヘルベルト
レントとともに初等部からの同級生。貴族の生まれ。同年代では
頭がきれる方。
・リーシャ・エディンヌ
各国で王家貴族御用達のエディンヌ商会の跡取り息子。マティア
スとレオニートは学園での友だちで、よくつるんでいた。生徒会会
計。現在は自分の担当地区をまわり、次期代表としての地位を築い
ている、弟シャンテが学園に通う。
・スタン
8
ヴァラシナ家当主に命令され、エルメルの調査をしていた男。ソ
ラに見つかり、二度とエルメルについて調べないことを約束させら
れた。元々雇い主︵当主︶に思い入れもなかったため、この事件を
きっかけに転職を決意。しかし転職先は⋮⋮。
・涼
主人公の前世での弟。
*フィアランス学園編*
︽皐月寮・寮生︾
⋮⋮皐月寮。別名、例外寮。魔力が高い生徒が長年生活している
ため、寮内でゆらぎと言われる現象が起こっている。現状は誰も把
握できていない。皐月寮への入寮条件は明かされていないが、寮生
全員の身分経歴性格が変わっているためか、他寮から遠巻きにされ
ている節がある。
︻六年︼
・シシェリエンヌ
寮長。身体が弱く、学園を休むことが多い。寮の最上階の一人部
屋に住み、大量の本を所有。部屋にこもりっぱなしの筈なのに、誰
よりも学園内の情報を持っていることをみんなに不思議がられてい
る。変わり者の多い例外寮をまとめ上げる。入学当初は反抗してい
たセヴェリもシシェリエンヌの言うことは聞く。彼が使う魔法につ
いてはよく知られていない。
︻五年︼
・セヴェリ・ルプランス・ド・アリメルティ・カサリエル
9
学年代表。欠席の多いシシェリエンヌに代わって、実質的には生
徒会長を務めている。自分も幼かったためエルのことは知らないが、
異母兄弟。アリメルティ王国第二王子。自分にも他人にも厳しい。
・ハルト・フォン・シーテンベリ
学年副代表。大貴族の長男。セヴェリの補佐を務める。明るい性
格で、周りから反感を買いがちなセヴェリをなだめる係。例外寮で
は会話の中心︵あるいは問題ごとの中心︶にいることが多い。見た
目の校則違反はナンバーワン。
︻四年︼
・ヴェレナス・ポープラニア
エルと同室の先輩。大陸を取りまとめているともいえる始神教・
教皇の一人息子で、次期教皇。学年代表。しっかりしているように
見えて、少しぼんやりとしたところがある。肩につかないくらいの
長さの黒に近い髪。
︻三年︼
・ドルチェ
大陸中を魅了した歌姫と嘗て剣王と呼ばれた男を両親に持つ。お
だやかな見た目からは想像もつかない剣の見事な腕前に注目が集ま
るが、本人は音楽にも興味を持つ。決して恵まれた体格ではないが、
特別枠で剣の稽古をしなければならない日が多いため、食事は寮で
一番の寮を取っている。
・シャンテ・エディンヌ
寮生の中では一番面倒見がよい。歳が近
エルがお世話になったエディンヌ商会の次男坊。︵次期代表リー
シャ・エディンヌの弟︶
いので、エルとは仲が良い。
10
︻二年︼
不在
︻一年︼
・エルメル・ルプランス・ド・アリメルティ︵↓エル︶
・プレスト・フォン・ドゥ・マーキス・システニア
国王従兄弟で、プライドが高い。基本的に自分以外への興味は薄
い。学年副代表
*エル、パリシェが六年生のとき
︻五年︼
不在
⇦
︻四年︼
双子。外見はそっくり。エルは全く見分けがつかない。
︻三年︼
・ウルシュ
大人しい後輩。灰色の髪。
実は異種族︵狼︶とのハーフであった。通常の魔法は使えず、ハ
ーフ特有の獣の力を解放するという戦い方をする。解放の段階は五
つある。
・ロンド
︻二年︼
・ティモ
11
同学年の生徒︾
エルの弟。
︻一年︼
︽その他
・レント
・シュウ
・ラシャ・フォン・フィレットランス
海に面する南国の小国の生まれ。珍しい褐色の肌のためではなく、
自由な行動が多いためにクラス内でも目立つ。
︽教師︾
・校長
誰も見たことがないので、正体不明。姿を現さないため何をして
いるのかわからないが、仕事はすべて生徒会に回ってくる。指示は
動物を介して行なわれる。
・アーロン
エルのクラス︵二組︶の担任。怖すぎる顔面が災いし、無罪の罪
で投獄されること5回。教師をしていて、投獄された場合は校長が
助ける。学園でエルと再開。
・レディフィリア先生
一組の担任。眼鏡をかけている、おとなしい女性。
・ネロー先生
エルの選択授業を受け持つおじいちゃん先生。授業を本館の一室
12
で行う。授業はエルへの質問で始める。
13
1−1 死亡と思望︵前書き︶
至らぬ点も多いと思いますが、よろしくお願いします。改善した方
が良いところ、誤字脱字等何かありましたらメッセージをいただけ
ると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
14
1−1 死亡と思望
機械音が鳴る
それは一年間、この部屋の主であった少年の心臓がたった今止ま
どうしてこの子が!﹂
ってしまったことを表していた。
﹁いや!
女性のかん高い叫び声が真っ白い部屋に響き渡る。
崩れ落ちる女性を慌てて支える初老の男性。呆然とした表情でベ
ッドの横に立ち尽くす中学生くらいの男の子。白衣を着た医師に数
人の看護師。
少年の希望でいつも開け放されていた窓。まるで少年を連れて行
ってしまうかのように吹いた風がそこにかけられている薄い水色の
♢♢♢♢♢
カーテンをふわりと揺らした。
自分が呼吸をしていることに気がついたのは突然だった。
まどろんでいる時のような、まるで意識が低反発まくらにすっぽ
りと沈みかけた状態のような気持ちの時だった。ふわふわとして気
持ちいい。
何で俺息してるんだ?
15
おかしい。あの時、確かに死んだはずなのに。すべてが終わった
はずだったのに。
全力で頭を覚醒させようとする。
やっぱり呼吸してる!目をつぶっていても自分の胸がわずかに上
下しているのがわかった。
状況を確認しよう!落ちつけ!死んだ後も呼吸ぐらいするもんな
のかもしれない。別に呼吸したっていいじゃないか!そもそも俺の
勘違いかもしれないし。
何度も深呼吸を繰り返して、目を開けて事実を確認する心の準備
をする。吸ってはいてを3度ほど繰り返したところで深呼吸してる
ってことはお前、呼吸してるじゃねーかということに気がついたが
なんだか眠くなってきたぞ。もう一度寝よう。寝てから
綺麗にスルーした。気にしない、気にしない。
いや⋮⋮
考えよう。
♢♢♢♢♢
最近、痛みでぐっすり眠れることなんてなかったからな。
次に目が覚めたのは、誰かにからだをさわられていると感じたか
らだった。驚きから目を開けてしまった。
病院の壁を
白い天井が見える。白い天井⋮⋮毎日同じ光景を見ていた俺には
すぐにわかった。
ここは⋮あの病室じゃない。もしや、霊安室か!?
見続けたといっても、さすがに霊安室の天井にまでは詳しくない。
16
なんということだ!と心の中で嘆きなが
お化けのたぐいは苦手なんだ。
霊安室で目覚める⋮⋮
ら頭を抱えようと手をあげる。
手。手だ。これはなんだ?
自分の視界の中に突如入ってきたぷっくりとしたものを顔に近づ
ける。やせ細り、点滴のあとが消えることがなかったあの手か!?
ひっくり返して動かしてみる。想像したのと全く同じようににぎに
ぎと真っ白い手が動いた。
もう間違いない。この赤ん坊の手は明らかに俺の手だ。
そこでようやくなぜ自分が目をさましたかについて思い出した。
真っ白な手を下ろすと、今度は真っ白い足が視界を横切る。
足。今度は足だ。
足元から何やら音がしている。さわさわと下半身に違和感を感じ
たところで気がついた。
自分はなんて⋮なんて格好をしているんだ!?
他人に下半身を見せているじゃないか!俺はもしかして変態だっ
たんだろうか⋮⋮
走馬灯よりも速く勢いで今までの自分の人生を振り返って行く。
⋮大丈夫だった。いたって正常だ。
パニックにおちいっている間に女の人に哺乳瓶のようなものでミ
ルク?を飲まされていたらしい。哺乳瓶が空になると、何か言って
いなくなってしまった。
ベットに寝そべったまま横をむき、部屋に自分しかいないことを
確認する。子供部屋にしては少々大きすぎるのではないかという部
屋には確かに誰もいなかった。
17
無意識にぎゅっと握りしめていた手をほどいた。
ぱちん、とほおを打つにしては可愛らしい音がする。わずかに感
じる痛み。
あれ、いま赤ん坊?
それからしばらくすると、部屋が暗くなってきた。日が沈んでい
く。つまりさっきのはお昼だったのか⋮。あれから誰も部屋に入っ
てくることはない。
ど
普通、中身は違ったとしても見た目赤ん坊をこんなに長時間ほお
っていくものだろうか。さっきの人は母親じゃなさそうだし⋮
んな放任主義だよっ
まあ、いい。なんにせよ、俺はこの数時間で現状把握というもの
すごく大きな一歩を踏み出したのだ。
赤ん坊である。しかも、自分の赤ん坊の頃とは部屋が一致しない
ことから、完全に違う肉体。
つまり、生まれ変わったのだ、この俺は。
この一歩はローラーシューズで白線の上を滑る距離並みじゃなか
ろうか。白線の上ってよく滑るんだよな∼
母親がだれか、父親は?兄弟はいるのか?
一体どこの国に生まれて、今はいつなのか。
一体﹁俺﹂はどんな人間なんだ?名前は何?
18
いくら考えても疑問が尽きることはない。
いいか。今は寝るのが仕事の赤ん坊なんだ。明日から調べていこ
う。
せっかく生まれ変われたのだから
心の中でそう嘆くと、再びまぶたをおろした。
19
1−1 死亡と思望︵後書き︶
修正しました。
20
1−2 演技と太陽
一ヶ月がたった。その間に俺が見た人は3人。たったそれだけだ
った。しかもその中に母親らしき人も父親らしき人もいないのだ。
それについてはもう少し情報を集めて
それなのにお手伝いさんがいるこの状況はおかしい。だれか親戚が
引き取ってくれたのか⋮⋮
今までの常識は通用しない、異世界なの
から判断した方がいいだろう。
なんたってここは⋮⋮
だから。
ドアがあいた。
とりあえず脱力して、人が近づいてくるのを待つ。泣いたりはし
ない。何か言ってみようとしたこともあったが恥ずかしくて出来な
かった。下手に赤ん坊の真似とかしたらボロが出そうだし⋮⋮
黙って脱力、それが俺の苦肉の策だったのだ。脱力という細かい演
技に至っては気づいてもらえている可能性皆無だ。
かちゃがちゃと少しだけ音をたてながら二人のお手伝いさんが近
づいてくる。朝ごはんだな。
お手伝いさんを盗み見る。カートをごそごそやっている彼女、彼
女の片腕の肌は蛇と一緒だった。それだけではない。黒目白目でも
ない。瞳もいつか動物園で見たは虫類と同じ目だった。
21
これはシーツを変えるために抱き上げられた時に気がついたのだ。
叫ばなかった自分を褒めてやりたいくらい。お手伝いさんの髪の色
が黄緑とかピンクとかだったこともおかしいと思ったんだ。だって
派手すぎる。派遣会社が黙っちゃいないだろう。
そして言葉。日本語でも英語でもない。全く知らない言語。
ぐちゃぐちゃ理由を並べてきたがこれらの理由からここは異世界
だ。オムツと服を替えられて横たえさせられたので空を見上げる。
例の二人は出て行った。
窓の外を見る。建物一つさえぎるものがない空に太陽が二つ出て
いる。
もう何が起こっても驚くまいと思いながら背を起こす。これが俺
の努力の結果だ。へにょへにょの体でもベッドのわくにつかまれば
起き上がれるということを発見した。
さっき着替えされられた服を引っ張ってみる。びよんといつもよ
りよく伸びる生地。青色の服。服のセンスは皆無なのでおしゃれな
のかはよくわからなかった。
気をつけてたのに。体がいうこときかないんだよ。
なんで朝なのに着替えさせられたのだろう?おもらししてたとか
?恥ずかしい⋮
再び横になってシーツに顔を埋める。恥ずかしいから寝てしまお
う。そして忘れてしまおう。
なんとなく天井を見ていたくなくて、こてんと寝返りをうって寝
る体勢を整える。
あ、寝返りうてるようになったんだよ!誰もきづいちゃくれない
22
♢♢♢♢♢
し、誰も祝ってくれてないけどね。お手伝いさん、もっと構ってよ。
暇だ⋮。
誰も相手をしてくれない赤ん坊がこんなに暇だと思わなかった。
病院だって暇だったけどみんな遊びにきてくれたし。そういえば、
結局高校を卒業することはできなかった。高2の最初の方だったか
な⋮体に違和感を感じて病院に行って、それから入院。治療法は見
前までは楽しく部活してたのに⋮
ぼーっと考えてみるが、理由な
ただ死ぬのを待つだけの時間。
つかっていない病気だった。徐々に体の自由が奪われて行く。一年
なんで生まれ変わったのかな⋮
これはチャンスなのかもしれない。いや、チ
んて思いつくはずもなかった。
生まれ変わった?
ャンスだろう。
意
とか思ってたことはあ
やりたかったこともできる。友達と遊んで、勉強して⋮。子供の
ころに戻れるんならこんな風になりたい⋮
ったけど、それがほんとになったってことじゃないか?
なんかテンション上がってきた。
その場でベッドの端までより、ベッドの下を覗き込む。⋮⋮
外と低いな。
これならいけるかもしれない。
その日から俺はこっそりとはいはいの練習を始めた。
23
そしてある日⋮⋮
俺はシーツをはがし、ベッドフレームに巻き
つけて結んだ。今日こそ成功させる。
弟の赤ちゃんの頃なん
それに捕まってシュルシュルとベッドを降りた。
うまくいった喜びで顔がほころぶ。
でも、降りながらふと思った。
あれ?赤ちゃんってこんなだったっけ?
きっとこんなだったよな。
て、もちろん覚えてない。
まあ、でも⋮⋮
床に降り立った俺は部屋を見て回る。なんか殺風景な部屋だ。
ベッド、本棚、机、クローゼット⋮基本的な家具しか置いてない。
本棚から本を取り出してめくってみる。
読めない。そりゃそうだ、習ってないのだから、完全に外国語だ。
日本語かもなんて期待は微塵もしてなかったので、落ち込むことも
なく何冊か本を抱える。わからないことは学ぼう。期末とか中間と
かあのときは嫌で嫌でしょうがなかったけど、あれはできなくなる
と無性にやりたくなるのだ。
重い本を持っているためにさらによたよた歩いていると、部屋の
中に動いているものがいるのに気づいた。まずい。さっきまでの行
動は生後数週間の赤ん坊しては不審すぎる。
悲しいかな。とっさに取れた行動はいつも自分がとっていた行動
だった。
脱力⋮
24
物音一つしない。しばらく待ったあとそろそろと顔をあげ、あた
りを見渡す。冷静になって考えると、赤ちゃんが本棚の前で死んだ
ふりしてんのも十分怪しい。以後気をつけよう。
ぱち、と赤ちゃんと目が合った。真っ白な肌に銀髪。くりっとし
た大きな目に青味がかかった瞳。手を伸ばすとぶつかった。鏡だ。
つまり⋮これは⋮俺だ!
まじまじともう一度鏡を見る。わかってはいたが、改めてみると
本当に別人だった。将来どんな顔になるかも外人系の顔のよさの基
準もわからないが普通の顔にはなりそうだ。かっこよくなれるかも
しれない。よかった、よかった
一安心して、ベッドに戻る。もちろんシーツを元に戻すことも忘
れない。夕ご飯まであと少しある。
♢♢♢♢♢
俺はパラパラと本を読み始めた。
はじめこそ何がなんだかわからなかった俺だが、恐るべし子供の
記憶力。幼児用の単語ブックからさらにもっと上のレベルの単語を
片っ端から覚え、本が読めるになった!
本読
しかしそれでも結構な時間かかってしまった。相変わらず3人の
お手伝いさんしか見ない。もう気にしないことにしたけど⋮
むの楽しいしね。
本を読んでてわかったことは多かった。一番驚いたのは魔法やら
25
が存在しているのだということ。お手伝いさんが人間じゃない時点
でそこ考えておくべきだった。
そして、その力は髪の色素に影響するらしい。色が強いほど強い
ってこと。
ぱさりと自分の髪を持ち上げて見る。よく染まりそうな銀髪だ。
やっぱりこの色はめちゃくちゃ弱いってことだろう。気づいたとき
はめちゃくちゃ凹んだ。
でも、別に魔法使えないから死ぬわけじゃないし。今までの使え
なかったんだから使えなくても困らないよな、と立ち直った。
そうそう。生きてるだけでできることは無限に広がってるんだ。
これが一度死んだからわかったこと。
26
1−2 演技と太陽︵後書き︶
6/14
この回に関しては多数の指摘をいただきましたので、訂正しました。
まだ赤ん坊にしてはありえない行動をしていますが、それは理由有
りということで、食事に関しては記述を減らしました。
主人公はミルクも食事と認識しているようです。
27
1−3 恐怖と魔法
最近毎日が充実してる。本読んで、寝て。でも、少しだけ変化が。
お手伝いさん同士が仲良くなったのか、俺の世話をしながら会話
をしているのだ。これは正直助かった。文字は自分で学べても会話
の方は人がしゃべっているのを聞かないとどうしようもない。今は
簡単なフレーズならわかる程度かな。
お手伝いさん3人いるが、一人は待機か休みなのかいつも2人で
やってくる。俺の観察によると蛇のお手伝いさんはあまり他の人と
は馴染んでないようだった。
さて今日も読書にいそしもう、とベッドの下に隠しておいた本を
引っ張り出す。
半分ほど読んだ時だった。
突然胸が刺されたような痛みがはしった。激痛に声も出すことも
できず、少しでも楽になろうと必死に背中を丸めて胸を抑える。
この痛みはやばい。入院生活後半に味わった生と死の境目をさま
よう時の痛みだ。
思い出す。
泣き崩れる母さん、呆然とする父さん、ゆがんだ涼の顔、一生懸
命治療してくれた先生に、ずっと退屈な俺の話し相手になってくれ
た看護師さんの表情
28
助けてくれ。だれか⋮⋮誰でもいい⋮⋮!
息が荒くなっていく。
いやだ⋮⋮!
再び訪れた痛みの波に耐えきれず、助けを呼ぼうとベッドから身
を乗り出して手を伸ばす。つきだした手が大きくぶれた。
手の甲になにかあたった。
それは飲み水がはいったコップだった。抵抗もなくあっさりとひ
こぼれてしまう。
っくり返り、中身の水が左手にかかる。
ああ⋮⋮!
その瞬間、バキバキッと音がして胸がすっと軽くなった。
﹁え⋮⋮?﹂
空中に投げ出されたコップが空中で止まっていた。中身の水がき
れいに全部凍ってコップを支えているのだ。
うそだろ!慌ててコップを引きはがす。飛び散った形に凍った水
だけが残った。
すごい!もしや魔法というものだろうか。びっくりだ。何度かつ
ついてみるが水は確かに凍っていた。しばらく見ていて、途中で気
がついた。これって普通の赤ん坊の範囲内?この髪の色からいって
こんなのは些細なことかもしれない。
しかし、他の赤ん坊を見たわけでもないし、なかったことにして
おきたい。今までの赤ん坊演技は無駄にしたくなかった。
29
そういえば、胸の痛みも消えている。魔法使うたびにこんな目に
あうわけじゃないよな?
そんなことを考えながら、氷をこすって水にしてコップにためて
いく。
やはりこれは紛れもなく氷だ。ひんやりとした感覚が手のひらに
伝わっている。
俺の中でもっと魔法について知りたいという欲求はむくむくと湧
き上がってきた。
これは蒸発だ、蒸発。水蒸気が水に戻る速さが水が水
時間をかけてコップの中に水を戻し終わった。少し減ってる気が
するが⋮⋮
蒸気になる速さが上回っただけ。
俺はコップをいそいそと足の間に挟んでベッドの上に座り直す。
魔法の実験を始めようと思ったのだ。
凍れ!
﹂
人差し指をコップにつけて、顔の前に持ってくる。
﹁
外に聞こえないように小声で言ってみる。
しかし、何も起こらない。
なんでだろう。俺のイメージでは勢いよくパリッと指先が凍るん
だけど⋮⋮?
そう考えてると、ピキピキという音をたてて本当に指先が凍った!
関節でうまく指が曲がらない。今度は力を込めて動かすと、氷が
パキパキと割れて指が自由にうごくようになった。
30
ただ﹁
﹂と言った時
﹂と言ったとき、はっきりとイメージした時、イ
凍れ
凍れ
メージして﹁
この3つを繰り返し、明確なイメージが必要条件ということはわ
かった。言葉をつけるとより速い速度で凍るみたいだ。
﹁凍れ﹂﹁凍れ﹂﹁凍れ!﹂
それから、俺はアホみたいに凍れと繰り返し、小さな氷を作って
遊んだ。
しばらくたつと、動いてもいないのに息があがってきた。なぜだ
ろう。不思議に思いながら窓に目をやると、太陽が沈み、すっかり
暗くなってきた。夕飯のために人がくる時間が近づいていることに
気づき、コップと本を片付けて横たわる。
この身体にたまった疲労感は魔法がこれ以上使えないという意味
なのではなのだろうか。
もっと調べてみる価値がありそうだな。これからはもっと練習し
てみよう。
明日からなにをするか考えているうちに瞼が下がってきた。
俺の魔法は最弱かもしれない。一体他の人達はどんなに恐ろしい
魔法を使うのだろう。一瞬で血をふきださせたり、殺してしまった
り?
こんな氷をつくる魔法とは比べものにならないだろう。
しかし、悩んでいても仕方がない。
これさえ使えれば、ジュースからアイスが作り放題だからいいと
しようか。
31
♢♢♢♢♢
そう考えて、俺は自分を慰めることにした。
その日から魔法の研究と練習が始まった。
だれも教えてくれないから、全部自分で調べなきゃいけないのだ。
手のひらにすくった水を凍らしてみるところから始まり、
半年たった今では3メートル離れた位置にあるコップを呪文を唱
えずに凍らせることができるまでに成長したのだ。時間はかかるが。
水に触れずに凍らせるところに大きな壁があった。毎日魔力がか
らになるまで︵魔力という言い方が正しいのかはさっぱりわからな
い︶魔法を使い続け、なんとかできるようになった。
今はすこーしずつ距離を離して練習してる。
疲れたら本を読んで⋮そんな毎日を繰り返していた時だった、つ
いに新たな男がこの部屋にやってきたのだ。
幸い、俺はベッドの上でコップを見つめている時だった。中身も
凍ってない。端からみればただの赤ん坊にしか見えない。見えない
よな?
内心汗ダラダラな俺はコップから目を離せず、この状況をどうフ
ォローするかを必死に考えていた。
32
だいたいなんで突然入ってくるんだよ。半年も放置していたくせ
に!心臓止まるかと思ったぞ!ばかやろー!
微動だにしないままぐるぐると考えていると、男が本を持って目
の前に立っていた。思考に気をとられていてさっぱり気がつかなか
った。男はそのうちの一冊を机の上におくと、その本を読み始める。
俺のために本をよんでくれるらしい。
でも、ごめん。その本もう読んじゃったよ。半年前にやって欲し
かった。しかもそれは挿絵が綺麗なのを売りにしてるんだと思った
んだけど、俺に見せながら読んでくれる訳じゃないんだ⋮別にいい
んだけども。
暇なので、彼の顔を観察する。目につくには真っ赤な髪。顔は⋮
イケメンだ。めちゃくちゃかっこいい。この世界の人はみんなこレ
ベルなのかもしてない。凹む⋮。しかも真っ赤ってことは魔力が強
いんだろう。
いいなー
年は俺の最後の年より少し上ってとこかな。父じゃないだろ⋮
兄?まぁ、おいおい知っていこう。
本の内容は知っているし、さっきまでの魔法の練習で疲れていた
俺はこの読み聞かせはいつ終わるんだろう、などと考えながら時間
を潰した。
33
1−4 従者と対面
﹁
かしこまりました。﹂
では、マティアスよろしく頼む。﹂
﹁
王が部屋を出たのを確認して、毛の長い見るからに高級な絨毯に
ついていた膝をあげて立ち上がった。右前に立っていた父上と目が
合う。しっかりやれよ、と語りかけてくる目に軽く頷き、重い扉を
開けて部屋を出た。
今日のは本当に形だけのものだった。前々から王と父上と時折自
分をいれて詳細なことは話し合っていたから。
エルメル・ルプランス・ド・アリメルティの第一従者に任
マティアス・フォン・ウエストヴェルンをアリメルティ王国第
三王子
︼
︻
命する
先ほど渡された分厚い紙を改めてみてみると金の文字でかかれた
書かれた文字は重みがある。これが自分の一生を左右するかもしれ
ないのだ。そう思うのも当然かもしれない。綺麗に丸めて水翠宮へ
向かう。
水翠宮は幼き王子や姫がいらっしゃる離宮である。王の子供達は
そこで育てられ、母君に引き取られて別の離宮へ移動したり、臣下
へ下ったりするのだ。
門番に任命書を見せて巨大な門を開けさせる。出入り口はここの
み。ここは王子たちをお守りする要塞、といったところか。
34
色とりどりの花が咲き誇る庭園を抜け、建物の中にはいる。再び、
入り口に立つ兵士に書類を見せ、エルメル様の部屋へ向かった。
しかし、いつまで歩いても目的地につかない。どうして王子の部
屋が見つからないんだ!
今、マティアスの怒りは最高潮に達していた。ここは王子が幼少
期を過ごすところ。つまり、一番大きい部屋に行けば必然的にたど
り着くはずなのだ。
はじめに中心に向かって大きな部屋を見つけたが、それはセヴェ
ちょっといいか
﹂
リ王子の部屋であった。
﹁
これ以上歩き回っても時間の無駄だと判断し、近くを通り過ぎよ
わっわたくしですかっ
﹂
うとしたメイドに声をかける。
﹁
持っていた布、洗濯物かもしれない、を落とすぐらい慌てている。
﹂
貴族の最上位である身分の人間から声をかけられることなんてめっ
ききたいことがあるんだが⋮
たにないことだからだろう。
﹁
えっえっあのっ
﹂
﹁
王子のお部屋はどこか教えてくれ
顔を真っ赤にしている。だからこの手段を使うのはやだったのだ。
﹁
その突き当たりをまっすぐ行った⋮
﹂
﹁
そちらはセヴェリ様のお部屋だろう。私が聞きたいのはエルメ
﹂
﹁
﹂
エ⋮
ル様のお部屋だ
﹁
本当に!本当に申し訳ありません!
﹂
エルメル様ですか⋮?どちらのお部屋なのかはちょっと
⋮
わかった
﹂
﹁
そっけなく一言答えるとすぐにその場から離れる。後ろでなにか
35
言っていたが、無視した。
王子の部屋がわからない?
あのメイドはここにきたばかりなの
か!?エルメル様と聞いて全く意味がわからないという顔をしてい
たのだ。
イライラがたまっただけでなんの助けにもならなかった。少し歩
いて、違うメイドに声をかける。彼女からも場所を聞くことは出来
なかった。その後何人に聞いても同じ。
10人目。10人目でようやくわかった。彼女はエルメル様つき
の侍女らしい。確かに髪の色はさっきまでのメイドに比べて濃い。
﹂
しかし、案内してくれる最中もちらちらこちらを見てくる彼女にあ
エルメル様の部屋はこちらです
まり良い印象は受けなかった。
﹁
中心から離れるようにかなり長い距離を歩いた後、そう言って立
これが?
﹂
ち止まった彼女は扉を指し示した。
﹁
うそだろう。さっきの部屋よりもはるかに質素な扉がそこにはあ
った。
入って真実を確かめなければ。背を伸ばし、襟を正す。この日の
﹂
出会いはこれからの僕の人生に大きな影響を与えることになるかも
失礼します
しれない。
﹁
ノックをして部屋に入る。普通なら主人の許しなしで部屋に入る
なんて絶対にあってはいけないことだが、まだ返事ができる歳では
ないだろう、と判断した。
部屋に入り、深く礼をする。
36
﹁
﹂
マティアス・フォン・ウ
恐れながら、このたびあなた様の第一従者をつとめさせていた
と申します
だくことになりました、ウエスト家次男
エストヴェルン
本当にこんな⋮
ゆっくりと顔を上げる。
まさか⋮
﹂半年前、
王から説明を受けたとおりだった。いや、想像してたよりもっと
﹂王の言葉
このたびお生まれになった王子は、呪われている
ひどかった。
﹁
エルメルは出来損ないなのだ
宮中に広まった噂
﹁
王は生後間もない王子を一度見に行ったきり、一度もお会いにな
っていないらしい。
透き通ってしまうかのように白い肌に、色が全く入っていない銀
髪。王家の子供ならば海を思い起こさせるような深い青の髪をもつ
はずなのに。
おかしいのはそれだけではない。彼の二つの目はどこも見てなか
った。部屋に入ってきた自分をちらりとも見ることをしない。
普通の赤ん坊ではない、まるで⋮人形⋮のような⋮
嫌だと思った。
第一従者。それは常に主人のそばにいて、絶対の忠信を誓う従者。
すべての王女と王子につき、主人からは絶対の信頼をおかれる者。
自分の一生を捧げる相手、力が絶対であるこの世界において自分
も強い者に仕えたいと思っていた。心から尊敬できる相手。
37
水を操る王家アリメルティと火のウエストヴェルン家、水のノー
ステレス家、土のイーストカルティア家、風のサウスティーナ家。
この四色家と呼ばれる4つの家からできるだけ平等に年齢が近いも
のが従者に選ばれる。常に勢力争いが繰り広げられている四色家で
はできるだけ多くの従者を、なによりも王になる王子の第一従者に
自分の家の者を送り込みたいと思っているのだ。
今回は年齢とバランスを考慮してウエストヴェルン家から自分が
行くことになったが、はっきり言うと家の思惑には興味がなかった。
そもそも家、つまり父上に思惑があるのかは疑わしい。気が弱い彼
は、それでも思惑と陰謀が渦巻いた世界であの地位を保っていられ
るんだから本当は裏で何かやっているのかもしれない⋮と考えてい
た時期もあったが、単に運が良い星の下に生まれてきただけかもし
れない。
自分は小さい頃から言い聞かされてきた王家の主人なるものにた
だ期待していた、そんな強い人に仕えられるなんてなんて名誉なこ
とだろうと。
しかし、エルメル様が意志を全く表さない不気味な子供だという
噂は本当だったのだ。さっきのメイドは魂をおいてきたような子供
だと言ってた。
落胆しながら、エルメル様に本を差し出す。本の読み聞かせをし
ようとおもって持ってきたのだ。妹にやってあげたときはとても喜
んでくれた。その後も何度もせがまれて困ってしまったほどだ。
どちらの本が良いか聞いてみるが、反応は⋮ない。しかたなく勝
手に片方を選んで本を読む。本をいくら読んでも、エルメル様が笑
ったり泣いたり、表情を変えることはなかった。
38
なんてことだ
主は呪われた王子⋮エルメル・ルプランス・ド・アリメルティ、
自分は彼の第一従者。そして同時に王の密命を受けた見張り。
王子を殺すかどうかを見極めるためにつけられたスパイなのだ。
39
1−4 従者と対面︵後書き︶
マティアスはこれから迷走します︵笑
あたたかい目で見守ってください。
40
1−6 決意と練習︵前書き︶
いつもいつも間違いが多くてすいません。
間違いがない回がないという⋮
41
最近、俺はとても困っていた。
1−6 決意と練習
本を読んでくれる男、いや青年がよく俺の部屋にくるの
なぜか。
だ。
いつ入ってくるかわかったもんじゃないから魔法の練習をしなが
らドキドキしてる。昔、テスト前に勉強してると言いながらこそこ
そ部屋で漫画を読んでいたときと同じ気分だ。あーゆうときに読む
漫画って異常に面白いんだよな、なんでだろ。
あのときも生死に関わってたけど。母さん怖かったし⋮
しかも、今回は俺の一生がかかっている。
いや⋮
︶、今まではお手伝いさんが朝ごはんと
彼は俺のいる部屋とドアでつながっている部屋にいるらしく︵
住んでるのかもしれない
ともに俺を起こしてくれていたが、青年が毎朝起こしてくれるよう
になった。
夢から覚めたばかりでのほほんとした気分で目を開けたとき、も
のすごい整った顔がこちらを覗き込んでいたときの驚き。イケメン
すぎるというのも問題だな。こんなとこでバイトしてないで、モデ
ルとかしてた方が絶対いいと思う。すぐに売れっ子になれるだろう。
﹂
このことはしゃべれる年齢になったら教えてやろうと心にとめてい
おはようございます。本日はあいにくの雨でございますが⋮
る。
﹁
長い
︶
︵
42
目を覚ますと毎朝俺に話しかけてくれる。
昨日はあんなに晴れてたのにな!
﹂とか返事してるんだぜ。
赤ん坊だから返事は期待してないだろうけど、ちゃんと心の中で
﹁
ぶっちゃけ外に出ないから天気関係ないけど⋮ここの家の方針は
子供は部屋の中で育てる!なのか俺は一回も外に出たことがない。
窓から見える景色も綺麗で好きだし、魔法という未知のものと日々
格闘している俺は特に困ってはいないが、俺の体は大丈夫なのだろ
うか。
昔授業で読んだ英文に、子供はある程度外で遊ばせてケガをした
方が病気に強くなるとか書いてあったし。そもそも日に当たってな
いから、色白の肌がもっと白くなってる気がして心配なんだ。もや
⋮
﹂
本日は私用がございまして、控えていることができません。
しっ子になってしまう。
﹁
申し訳ございませんが、なにか御用がございましたら⋮
おっとまだ彼の挨拶は続いていたらしい。再び彼の言葉に耳を傾
ける。もうヒアリングは完璧だな。
青年はカーテンを開けて、水差しを近くにある机の上におくと、
一礼をして部屋を出て行った。
今日は青年がいない=魔法の練習ができる日だったが、俺はすぐ
に始めようとはしなかった。
実はやりかけていることがあるのだ。
俺はベッドの上に横たわったそのままの体勢で天井を見つめる。
10458、10459、10460、10461⋮
それは天井の模様の数を数えること。最近何もしないで横たわっ
ていなきゃいけない時間が長かったので挑戦しているのだ。コツコ
ツと続けていたから、順調に進み、あと少しで終わる。忘れないう
ちに終わらせようと淡々と数を数えていく。
43
10768、10769、10770⋮
ラストスパートだ
⋮11108、11109、11110、11111
天井左下すみの最後の模様を数える。終わった。
なんだ、ゾロ目だったのか。俺の心が満足感でみたされていく。
やっぱり大きなことをやりきったあとは気持ちがいいな。本当に天
井の数を最後まで数え切るような奴は滅多にいないだろう。
凝視しすぎてしばしばする目を休ませたあと、俺は起き上がった。
さて、今日も始めるか。時間もあることだし、最近考えていたあ
る実験をしてみようと思っている。
水差しから手のひらに水をたらす。手のわずかな振動に合わせて
美しき氷の花となりて姿をあらわせ!﹂
ちゃぷちゃぷと踊る水をしっかりと見つめる。
﹁
考えておいた呪文と共にパキパキと音を立てて水が中心に集まっ
て行く。やっぱり魔法って何度見てもおもしろい。俺が魔法のない
世界の感覚だからかな。ここの人にはこれが当たり前なんだろう。
手のひらにのった氷をコロコロと転がしてみる。
なんだかな⋮
いまいち美しくない。もっと幻想的な美しさを想像してたのに。
だいたい左右対称じゃないしなと思いながら、氷の花を見てると、
花にお前の力不足だよと言われているような気がしてきた。
なぜこんなことをしているのか。
もしこの世界が魔法が使えなきゃ生きていけない世界だった場合、
44
生きて行くためには他の技術を磨くしかない。すなわち芸術。
俺が唯一できることは凍らせること。それならば俺は⋮
喫茶店のマスターになるしかないっ!!
夏の売れ筋はシェイク。落ち着いた店内には静かなクラッシック
音楽が流れ、ジュースの中に浮かぶ可愛らしい形の氷が人気。若い
女性や子供連れで店内はほどほどに賑わっている。
もう俺の頭の中には完璧なヴィジョンが見えていた。これはその
ために必要な第一歩なのだ。
しかし、まだ美しい氷の花を咲かせられるにはまだ時間がかかり
そうだ。喫茶店のインテリアとして大きな氷の彫像も作れるように
なりたいし、小さいものはきれいな形は当然として、大量に作れる
ようにならないと商売として成り立たない。
昼ごはんの時間がやってきた。何食わぬ顔で食事を済ませる。今
日は蛇さんが休みの日らしい。食事の時間もずっと横にいる青年も
いないし、部屋にいたのは俺を含めた3人だけだった。
二人が出て行ったあと、練習を再開しようとすると、ベッドの上
に哺乳瓶が置いてるのが目に入った。哺乳瓶がおいてあるのは初め
てだ。ようやく赤ん坊の横にコップを置いていてもしょうがないこ
とに気づいたのか。全く!普通の赤ん坊だったら大変なことになっ
ていたぞ。
食事の時にいつも飲んでいるのと同じだと思うが⋮
不透明な哺乳瓶の蓋をあけ、中を覗き込む。白い、ミルクだ。
ミルクか⋮
45
なぜいつもと哺乳瓶が違うんだろう。前には割っちゃったのかな?
フリーズ
﹂と唱える。
今日はラッキーだ。部屋で俺一人と牛乳。最高なシチュエーショ
ンだ。
哺乳瓶の中身を覗き込み、﹁
うまくいったことを確かめるため、牛乳の水面をつつく。水面は
ふわんふわんと揺れた。
薄めの固まりをつまみ上げ、口の中に放りこむ。口を動かすとシ
ャリシャリと涼しげな音がした。
ミルクアイス完成だ。
ちょっと味が薄いけど。水から固まっちゃうんだよな。全部凍ら
せて食べても良かったが、この体がお腹を壊したらやだったので哺
乳瓶の蓋をしめて脇においやる。
今度こそ練習の続きをやるためだった。さっきの行動からわかる
ように、直接目で見ている液体じゃないと凍らせられないことはも
うわかっている。
何はともあれ、今は毎日魔力をからにして、絶対量を増やそう。
俺が水が入ったコップを5メートル離れたところにおく。
フリーズ!
﹂
最弱でも最高のアイスをつくるために。
﹁
46
1−6 決意と練習︵後書き︶
訂正しました。主人公がミルクを凍らせる前に飲んだこと
天井の模様数えてる場合じゃない
8.9
について。理由はすぐにわかると思います。とりあえず、筆者こそ
主人公に模様数えさせている場合じゃありませんでした。すいませ
ん。
47
1−7 嘲笑と報告
第一従者として働き始めて少しの時が流れた。
今日も朝日が出るのと同時に起き、身支度を整える。従者に指名
されて始まったのは一人暮らし。第一従者たるもの主人の助けとな
るために常にそばにいなければならない。そのため、水翠宮には必
ず従者の部屋が用意してある。色々と不安はあったが、一人暮らし
に関して特に困っていることはなかった。
よし、今日も時間通り。父上から先日いただいた懐中時計で時間
を確認し、エルメル様のお部屋へと続く扉をノックしてから開ける。
﹂
そこには精巧に作られた人形のような主人が目を閉じて横たわっ
おはようございます⋮⋮
ていた。
﹁
起床時間を知らせるため、王子に近寄って手を伸ばそうとすると、
長いまつげに縁取られた目だけがぱちりと開いた。はじめの時は最
初から起きてたのではないのかと疑ったほどに子供らしくない起床
だ。
今日一日の予定を述べながら、様々な支度をする。主人がもう少
し大きくなったら、朝の着替えのお手伝いをしなければならないが、
まだ早いだろう。
気が晴れるようにベッドの上の近くにあるカーテンを全開にする。
そこから見える景色は私がここへくる時に見た中央の庭園とは比べ
48
物にならない寂しいものだった。普通ならば一年中花咲き乱れるよ
うに手入れされているはずのそこには植物が葉を、花を散らす光景
しか広がっていない。誰がここが大国、アリメルティ王国王子の私
室だと信じるだろうか!
⋮やはりカーテンを開けない方が良かったかもしれない。
ちらりとエルメル様をみるがその表情からは何も感じ取れない。
本日は私用がありまして⋮⋮
﹂
今更カーテンを閉じるのも不自然なので、そのままにする。
﹁
王子のお呼びがかかってもすぐに駆けつけられない旨を話す。今
まで一度たりともお呼びがかかったことはないが。
メイドにエルメル様をよろしく頼むと言って、一度私室に戻る。
﹂
クローゼットを開け、現在着ている服より上等なものに着替え始
イェデン
める。
﹁
お呼びですか
﹂
何もない空間に向かって1、という名を持つものを呼ぶ。
﹁
今日は王に謁見してくる。王子の方を頼む
﹂
すぐに返事が帰ってきた。もちろん姿は見えない。
﹁
御意
﹂
﹁
いつもこちらの期待以上に働きをしてくれるイェデンは優秀だ。
さすが影のリーダーといったところか。影とはすなわち個人が雇っ
ているスパイ。彼を含め、自分の影は失敗をしたという報告はほと
んどしてこない。
どこの貴族も影を持っているのだろうが、彼らをどう扱っている
かは知らない。自分は出会った順番に数字で読んでいた。名前をつ
49
けようと思っていたのだが、本人が数字で呼んでくれと言ったのだ。
それが陰としての立場からなのか、自分のネーミングセンスがない
彼らはそういった風に教育されている。
と思っているからかはわからない。感情を一切見せず、主人の命令
を死んでも守り抜く影⋮
彼らの生き方に対する感情はともかく、確かに自分は影を信頼して
いた。
⋮⋮やはり訂正する。影に一人、問題児がいたのを忘れていた。
今は他国の王家に行かせているから静かだが⋮。イェデンがどこか
らか拾ってきた子供。言動に問題があるが、イェデン曰く恐ろしく
腕がいいらしい。別に気にしてないが、あいつは本当に影らしくな
いやつだ。
支度が整ったので、水翠宮の出口へ向かう。
10分ほど歩いたところで見覚えのある顔が目に入ってきた。
マティアス⋮⋮なぜこんなところにいる
﹂
オレンジ色の髪の毛。サウスティーナ家の長男のクレトだ。
﹁
エルメル様がこちらにいらっしゃいますから
﹂
﹁
よく考えれば同じところで生活していて、今まで顔を合わせること
誰⋮⋮?﹂
がなかったのが不思議なくらいだ。
﹁
決して友好的とは言えない空気の中、クレトの影から子どもが顔
を出した。
セヴェリ・ルプランス・ド・アリメルティ・カサリエル、水翠宮に
住む第2王子。何度か自分も拝見している、エルメル様のお兄様に
当たる方だ。
爆発の規模も大きく、王も今後に期待を寄せているとか。
50
﹁
マティアスか
﹂
そうです。セヴェリ様、早くお部屋に戻りましょう
セヴェリ様は自分のことを覚えていてくれたらしい。
﹁
﹂
クレトは遮るように立って、すぐ目の前の私室へとセヴェリ様の手
を引いた。
失礼。王子のお世話で
立ち尽くす自分の横を通るとき、誰にも聞こえないようにそっと囁
﹂
プリンス・ドールとのおままごと⋮⋮
かれた。
﹁
も精々頑張ってください
クレトが薄ら笑いを浮かべていたのは、見なくてもわかった。
王子の発言はともかく、クレト・フォン・サウスティーナの露骨
な嫌味にイライラしながら王宮の中央へ向かう。
クレトは四色家の子供の中で一番年齢が近いからか何かにつけて
自分に突っかかってきた。決闘で一度も勝ったことがないことを気
にしていたのか、王子の従者に選ばれた時はしつこく自慢してきて、
迷惑をこうむった。
きっと俺が出来損ないと言われる王子の従者になったことで、さ
﹂
ぞかし気分がいいんだろう。
マティアスです
扉を叩いた。
﹁
入れ
﹂
﹁
失礼します
﹂
ノックした扉の奥から低い声がする。
﹁
51
お待たせしてしまいましたか?
﹂
一礼して部屋にはいると、すでに王は椅子に座って待っていた。
﹁
かまわん。報告を聞こうか
﹂
﹁
前置きもなく、
さっそく本題にはいる。
エルメル様について
笑わない、泣かない、しゃべらない。こちらの行動に対して全く
無反応なこと。
食事は口元持っていけば、口をあけて食べること。
一通りの報告を受けた王は黙り込んでしまった。
⋮⋮爆発もまだ起こらんのか
﹂
自分もなにもしゃべらずに王の判断を待つ。
﹁
はい
﹂
﹁
爆発、物騒な言葉だが確かに危険である。魔力が高い子供は体内
の魔力が一定量になると爆発するように体外に放出するのだ。コン
トロールがきかないため、近くにいて巻き込まれると危険である。
王家の子供は間違いなく起こす。それだけの魔力を持っているか
らだ。
それを体験すれば、王子の感情のたがも外れるのではないかと王
は思っているのだろう。爆発を起こす年齢は人によって違う。エル
メル様はまだその年齢の範囲内にいる。しかし、魔力が全くないの
ではないかと危惧されているエルメル様は爆発を起こすのだろうか。
52
﹁
6歳だ。それまでに爆発を起こさなかったら処分する
王がそう述べた。
﹂
あと約5年。短いのか長いのかわからない。しかし、それが我が
主のタイムリミット。それだけは間違いがなかった。
53
本文、訂正しました。
1−7 嘲笑と報告︵後書き︶
8.22
54
1−8 事件と断罪
王から引き続きエルメル様を見張れという命令を受け、水翠宮に
戻る。
エルメル様に会う前に着替えるため、自分の私室に入った。
この部屋に入るたびにいつも思う。
私室が王子の部屋と大差ないとはどういうことなんだ。別にこの
部屋が気に入らないというわけでもないが、この部屋は身分の高い
マティアス様
﹂
ものが住む部屋ではないのかもしれない。
﹁
﹂
どうした。王子の部屋を見張ってろと言ったはずだろう。まだ
天井からイェデンの声がした。
﹁
⋮⋮
俺が王子の部屋に戻るまで見張れ。そういう命令だったはずだ。
﹂
申し訳ございません。このイェデン、任務を遂行することがで
きませんでした
﹂
﹁
なにっ!?
﹁
手が滑って上から3つめのボタンをうまくかけられなかった。
報告します。命令を受けてすぐ王子の私室の天井へ出向きまし
今、イェデンは何と言った⋮⋮?
﹁
た。部屋も王子もマティアス様がいらっしゃった時と全く同じ状態
55
でしたが、私が天井裏で息をひそめていましたところ、すぐに王子
は私のいる左隅をじっと見つめて口をゆがませました。はじめは気
﹂
のせいかと思いましたが、はっきりと目があった時点で気づかれて
いると判断。任務続行不可能として、撤退いたしました
赤ん坊だからといって気を抜いていたのか、そう聞こうとしてや
﹂
めた。イェデンがそんなことをするわけがないことはよく知ってい
本当に王子に気づかれたのか
る。
﹁
信じられない。あのエルメル様が影に気づくのか。いや、エルメ
ル様だからというわけじゃない。気配を消されたら、自分でさえ全
私もはじめは勘違いだと思いましたが、目が合った時のあの表
くわからないのに。
﹁
情。あれは獲物を見つけた捕食者の目でした。恐れながら危険な場
﹂
面を幾度となく乗り越えてきたと自負する私ですが、情けないこと
に恐怖でしばらく体が縛りつけられました
もうなにも言うことができなかった。イェデンに今日はもう休ん
でいいと言うと、エルメル様の部屋に入る。
エルメル様は就寝なさっていた。そっとそばによる。特にいつも
と変わらない。疑っているわけではないのに、やはりイェデンの報
告が本当だと思えなかった。
ん?
王子には何も変化はないが、ベッドの上に見慣れないものがある。
起こさないように枕のそばにあるものをそっと持ち上げると、それ
は哺乳瓶だった。
56
哺乳瓶⋮。
蓋をあけて、中身を見る。
イェデン
﹂
その途端、マティアスの目がすっと細くなった。
﹁
ここに
﹂
音量を抑えた声で再び影の名を呼ぶ。
﹁
﹂
命令だ。犯人を突き止めろ。影を何人使ってもかまわない。期
休めと言ったはずの影はやはり自分のそばにいた。
﹁
限は2日
冷酷といえるほど感情にこもっていない声が部屋に響く。その声
御意
﹂
﹂
♢♢♢♢♢
で王子が起きることはなかった。
﹁
それはまことかっ
その翌日。
﹁
﹂
本当です。私がいない時間をみはからってこれが置いてありま
王宮の一室。青年と中年男性2人が向かい合って座っていた。
﹁
した
マティアスが間の机にことん、と不透明な素材でできた哺乳瓶を
置く。
57
﹁
中身は?
﹂
普段エルメル様がお飲みになっているミルクに多量のエルファ
未だ発言をしていない王が聞いた。
﹁
﹂
エルファレン!
﹂
レンが検出されました。王宮の医術部に確認してもらいましたので、
エ⋮
確かだと思われます
﹁
マティアスの父が息を飲む。王は何も言わないが、驚いているよ
うだった。
あまり世間に知られていないが、ある植物から
それもそうだろう。
エルファレン⋮
作られる猛毒だ。他とは比べ物にならない毒性の強さを誇る一方、
独特に臭いがあるため暗殺には向かないとされている。
だから今回はミルクに混ぜてあった。丁寧に臭いのわからない哺
乳瓶にいれて。
小さじ一杯弱で大人を数秒で内臓から破壊し、ものの数分で死に
いたらしめる。そんな毒を乳幼児にあたえようとしていたのだ。今
﹂
回の事件は脅しなどではない。ただ、殺害だけを目的としたものだ
今すぐ、犯人の捜査をさせよう
ということを示していた。
﹁
﹁
﹂
それには及びません。実行犯、首謀者。すべて把握しておりま
側近を呼ぶため、王が立ち上がろうとした。
す
マティアスが哺乳瓶を見つめたまま答える。
58
﹁
昨日の事件なのにか⋮
!?
﹂
さっきから驚いてばかりのマティアス父、クリストバルが一番の
驚きを見せた。こんなに驚いていて大丈夫かと王はもともとあまり
はい。毒入りミルクを渡したのはエルメル様付きメイドの一人。
気が強くない彼のことを少し心配そうに見る。
﹁
彼女はバラーシュ家当主の命を受けてました。バラーシュ家。当然
ご存知だとは思いますが、ここ最近力を伸ばしている新興貴族です。
バラーシュ家本家の娘が後宮で陛下のご寵愛を受けているため、
陛下の子どもを身籠る日も近いと判断し、我が子を王とするために
王子を殺害する計画に至ったようです。
またさらに一人のメイドも貴族の息のかかったものでした。こち
﹂
﹂
らはまだ過激な行動には出ていませんが、王子についての報告をさ
愚かな
せていました
﹁
王が吐き捨てるように言い放った。
それでマティアス、お前の望みは
﹂
王家に牙を向けるなど、許されたことではない。
﹁
それだけ調べてから報告したんだ。言いたいことがあるんだろう、
と王の鋭い視線がマティアスを射抜く。
弱気な父と、目の前の息子。この二人は本当に親子なんだろうか。
彼らにこの手で断罪を
﹂
マティアスは哺乳瓶から目を上げた。
﹁
59
アリメルティ王国貴族バラーシュ家当主以下一族、原因不明の事
故で死亡。
おはようございます
﹂
♢♢♢♢♢
ならびに第三王子つきメイド2名焼死。
﹁
今日もマティアスはカーテンを開けて、庭を見る。
この間は咲いていなかった小さな花が咲いているのを見つけた。
結局最後まで王子が無事だったのか王に問われることはなかった。
自分が報告しなかったため、王子の手に渡る前に哺乳瓶を回収し
たと思ったのだろうか。
マティアスは思い出す。確かに自分は何も報告しなかった。王子
は無事だ。でも、あの哺乳瓶は元から入っていた量から減った形跡
があった。
なぜ、王子に全く異変がないのか。
わからない。
なぜ、なぜこの王子は致死量をはるかに超えた毒を飲んで生きて
いるのだろうか。
60
なぜだ
なぜ、いつもと同じように目を覚ます
自分にはわからない。
61
1−9 歩行と葛藤︵前書き︶
今回は二人の視点で
62
1−9 歩行と葛藤
今日はいい天気だ。
俺、たぶん2歳半過ぎ。なんでたぶんかっていうと日にちを記録
していたベッドの枠がなくなったから。今までは魔法で作った氷で
がりがり木を傷つけて記録してた。なんか無人島に漂流した人みた
いだけど。
そしたら、今日ベッドを交換されたんだよ。赤ちゃん用のベッド
じゃちっちゃくなってきたからだろう。すでに隣の部屋にベッドが
用意されてていたらしく、寝ているうちに運ばれてた。朝起きたら、
イケメンの顔+知らないベッドだった俺の胸中を察して欲しい。
ちなみに新しいベッドは大人用でふかふかだ。しかもでかい。
というわけで、ベッドを撤去された俺はもともとベッドのあった
窓際におかれたソファのような椅子のようなものの上に座っている。
一日ベッドの上にいたらベッドメイキングできないだろうし。
この歳なら普通に歩いてもおかしくないだろうと思って、歩いて
移動した。
でも、子供って何歳から話すのか全然思い出せない。思い出した
ところで
突然流暢にしゃべり出したら怖いだろうし、しゃべるとボロが出
そうで怖い。だから、もっと大きくなるまで無口キャラで押し切る
予定だ。
実は、あれから一度も外に出てない。完全に引きこもりへの道を
63
歩んでいる。しかし、魔法に未だ心奪われている俺は、外に出たい
欲求まで行き着いてないのだ。
あともうひとつ。お手伝いさんの数は二人になった。
蛇さん以外の二人がやめて、ショートカットの元気そうな女の人
になったのだ。前の二人は契約期間が過ぎたのかある日姿を見せな
くなった。今は青年が前よりも俺の世話をしてくれる。バイトなの
に仕事増やしちゃって悪いなぁ⋮といつも申し訳なく思ってる。残
業代とか出てないよね。
マル⋮⋮
そういえば青年の名前がわかったんだった。
⋮マル⋮⋮
マティアス!そうだ!辞めちゃった二人がマティアスさんがいか
にかっこいいか、美しいかについてよく語っていたのでわかった。
二人しかいないと名前必要ないんだよね。
マティアスさんはお金持ちでしかも強いらしい。お金持ちなのに
なんでバイトしてるのかわからないけど、そこはきっと社会勉強だ
ろうと納得した。ごめんね、俺社会について何も教えてあげられな
くて。
例のマティアスさんが部屋から出て行った。なんか今日はいつも
より見られてた気がする。
ああ⋮ついにこのバイトをやめた方がいいんじゃないかと考え始
めちゃったのかもしれない。ほんとごめん。
今日はコップの中の水を凍らせることはしない。実はもうこの部
屋の中のものなら凍らせられるようになったのだ。魔力の量も順調
に増えている。めざせ24時間営業!を合言葉に毎日がんばってる
からな⋮
64
今日は前々から温めてきた計画を実行する。
我は欲すーー大気に満ちる水よ、集え、凍れ!
ヴェイパー
喫茶店の営業が不調になったとき、なにか切り札が欲しいと思っ
﹁
﹂
て考えたもの。
!
左手を前へ突き出し、呪文と共に拳を握りしめた。
﹂
コツン
いてっ!
コツン
﹁
頭になにかぶつかり、肩をすくめる。
頭を触ると、何粒かの小さな氷の粒が乗っていた。
これは成功なのか⋮?
微妙だ。とにかく、この方法でうまくいくことはわかった。やっ
ぱり魔法はおもしろい。
俺ももっと魔力が強くていろんな魔法を使えたらなぁ⋮と思うこ
ともあったが、自分の凍らせるという魔法だけを駆使するのも意外
と楽しい。
今のは呪文の通り、空中の水蒸気を集めて凍らせる魔法だ。呪文
に名前を入れようとした時に、ようやく今の名前がわからないこと
に気がついた⋮。そもそも親も一度も会いにこないのにちゃんと名
前あるのかわからない。
どうも俺は液体は操れないけど、氷の粒子にしてしまえば操れる
らしい。操れるってことは、自由に空中を移動させることができる
っていうこと。これも最初は使ったあとの疲労感が半ぱなかったけ
ど、今は暇さえあればこれをやって遊んでる。集めて空中で好きな
65
形にするのって工作みたいなんだよ。
音楽も好きだけど、歌歌うのは嫌いだから音楽選択はや
俺は芸術の授業は工芸選択だったからな。こういうの結構好きな
︶
んだ。︵
めた
ちなみにもっと疲れるけど、粒子じゃなくって氷の塊にしてしま
ってからでも操れる。
この世界には本を読んでても車はないみたいだった。排気ガスが
ないきれいな空気だからこそ、この魔法をやってみようと思ったん
だけど。何もないところから氷の彫像な現れるとかマジックみたい。
練習して氷の龍とか作って、動かして子供達を喜ばしてあげるん
だ。ほんとは病院でよく一緒に遊んだ子達に見せてやりたい。俺は
入院するまで、あんな小さな子たちが病気と戦って頑張っているな
んて知らなかった。でも、みんながなついてくれて俺は嬉しかった。
もう会えないんだな⋮
そんなことを考えながら、また呪文を唱える。
♢♢♢♢♢
フェルー!フェルー!フェルナンド!!
﹂
俺の魔法の可能性が知りたいんだ、もっと、もっと
﹁
様々な人で賑わう王宮の中心部。何者かが異常なスピードで駆け
てくる音がした。
執務室の大きな机に向かって大量の書類を処理していたリクハル
ドは思わず立ち上がって身構える。
66
﹁
フェルナンドー!あれ?なんだリクハルドか⋮
﹂
﹂
ノックされることもなく扉が開いて、鮮やかな赤い髪を持つ男が
なんだとはなんだ。これでも王子⋮
執務室に入ってくる。
﹁
まぁリクハルドでもいいです
﹂
﹁
この国の第一王子、リクハルドの反論はスルーされた。ショック
を受けた王子は使い込まれた大きな机の下に入って小さくうずくま
﹂
る。いじけているのだ。心なしかどんよりとした黒い空気が机と絨
おお!マティじゃん!ってリクどうしたんだ!?
毯の下から漏れだしているように見える。
﹁
入り口から入って右手奥の隣の部屋から、重そうな書類の束を抱
えた茶髪の男がやってきた。この男こそフェルナンド・フォン・イ
ーストカルティア。マティアスに探し求められていた人物だ。土魔
法を得意とするイーストカルティア家の長男であり、珍しく年上の
王子の第一従者をつとめる男であった。
いや、なんにもしてない
﹂
大柄な体と大人っぽい性格のせいでそんな風には見えないが。 ﹁
マティアスが首を振る。王子と大貴族の息子二人。身分は違う三
頑張る
﹂
王子できない
﹂
大丈夫だ!リクはちゃんと
﹂
人だが、臣下であると同時に学院で友情を培った仲であり、三人し
フェル⋮
かいないときは非常にフランクな関係であった。
﹁
またマティにからかわれたのか⋮
もう僕ダメかもしれない⋮
﹁
うん⋮
王子やってるよ。いつかは宰相になるんだろ!?
﹁
のそのそとリクハルドが出てきた。
67
普通はいつか立派な王様になるんだろ?と励ますところだが、あ
いにく普通ではなかった。
リクハルド・ルプランス・ド・アリメルティ・カサリエル、父を
アリメルティ王国国王、母を元カサリエル国王女に持つセヴェリ王
子と同じ腹の兄でもある、正真正銘王子だ。現在父の補佐として働
﹂
いているが、彼は政務に興味を持ち、王としてではない政治への関
で、どうしたんだ?
わりを希望していた。
﹁
マティアスは執務室までの門番を含めた兵士全員をぶっ飛ばして
ここまできたはずだ。じゃないと面倒な手続きを踏まなければなら
﹂
エルメル様が動いたんだよ!!
﹂
人間なんだし⋮
﹂
そりゃあ歩くだろうよ⋮
﹂
﹂
ない。自分達に会いにくるなら夜の方が断然楽だ。彼をそこまでさ
は?
エルメル様が⋮
せるなんて、いったい何があったんだろうか。
﹁
﹁
いやぁ⋮
エルメル様が歩いたんだって!
リクハルドの間抜けな声が響いた。
﹁
﹁
はじめてなんだ!動いたの!
フェルナンドが困ったように髪をかき上げる。
﹁
今度はリクハルドが持っていた筆記用具をぽろりと落とした。確
初めてだと!?
か母親の違う二人目の弟は三歳に近い歳のはずだった。動いたのが
⋮⋮
生まれた弟に会いに行きたいと何度か父王に申し上げたが、その
度に却下され、そのために弟とは一度も会ったことはない。一切感
68
情を持たないプリンス・ドールと揶揄され、国から忘れ去られてい
く王子。父王は彼の話題を一切しないし、マティアスにも会ってい
なかったから、本当の彼のことは何も知らなかった。
今
自分もフェルもきっと噂が大きくなっただけだと思っていたのだ。
おとなしい子供という事実がゆがめられただけだと。
じゃあ、今までは⋮?
﹂
﹁
いっつもどこか空中をみてて⋮ずっとベットの上にいた。
﹂
﹁
日も感情は見られなかったけど、初めて歩いたんだ!
初めて歩いたことはもうわかった。外では冷静沈着、親しい友人
の間でもあまり騒がしいとは言えないマティアスがここまで興奮し
ているのは初めて見たかもしれない⋮とフェルナンデスは思う。
大貴族と言うだけではなく、頭脳明晰、ウエストヴェルン家では
﹂
勿論、王族をしのぐほどの強さを誇っている男がこんなにも取り乱
よかったなぁ⋮
すのか。
﹁
僕も弟に会いたいなぁ⋮
﹂
﹁
ああ⋮
﹂
﹁
マティアスは返事をした後、表情を少し曇らせた。
よかったのか⋮?確かに人形のような主人が人間であることを確
かめられたのは嬉しい。
でも、もし爆発が起こらなくて彼の暗殺命令が出たら⋮?自分は
躊躇なく殺すことが出来るのだろうか。
わからない。
でも、素直に嬉しいと思う気持ち。
69
いったい、自分はどうしたらいい?
70
1−9 歩行と葛藤︵後書き︶
やっぱり話のテンポが遅いですね⋮⋮
どうしても自分が書くとそうなってしまうみたいです。難しい!
71
1−10 大雨と軟禁
今日は大雨だ。雨粒が部屋の窓を激しく叩きつけている。以前の
俺ならこんな天気の日は憂鬱でしょうがなかったけど、今は結構好
きだ。
こんなに水が満ちあふれているんだ。別になくても集めれば良い
んだけど、今日のような日の方が使う魔力が少なくて楽。
そう、もう一度言うが雨の日の俺は気分が悪くない。
今日が軟禁されていることに気がついていた日じゃなかったら、
だ。
魔法の練習をして五年。毎日休まず続けた&それと読書しかやる
ことがなかった俺はすでに喫茶店を24時間開店をできるまでに成
長したと確信した。
これで外に出たらみんな当然のようにできることだったとしても、
そんなことが出来るならもっと他の仕事ができるはずだし、喫茶店
が飽和状態だったらレストランの飲み物担当に雇ってもらおうと思
っていた。
生まれて五年目、ついに外に出る覚悟をしたのだ。本当は決めて
から覚悟するのに一ヶ月かかったんだが。
俺は勇気を出して、扉に手をかけた。
開かない扉に。
72
気づかなかった、閉じ込められていたなんて。
自ら出ていないのと、出してもらえないのとじゃ意味合いが随分
違う。
どうしようもなくなった俺は結局いつもの場所に戻ってきたのだ。
なぜ閉じこめられているのだろうか?それは俺に外に出て欲しく
ないからにほかならない。そう思っているのは父親?母親?それと
も違う人?
こんなに月日がたった今でも、会いにこない両親は死んでいるの
かもしれない。顔を知らないまま育ったせいか悲しいとは感じなか
った。俺の中ではまだ前世の家族が俺の家族なんだ。
それでも、毎日食事からなにまで面倒を見てくれているってこと
はどういうことなんだ。この年になっても、お手伝いさんは食事を
すべて口元に持ってきてくれ、お風呂もいれてくれる。彼女たちは
仕事だろうが、そのお給料を払ってくれている人は何処かにいる。
あ、なんか本気で申し訳なくなってきた。こんな毎日遊んでてい
いのかな。俺のさっきまでの怒りは何処かへ吹っ飛んでいった。
その人は俺のことを心配してここに閉じ込めているのかもしれな
い。
喫茶店マス
外は危険で弱いとすぐに殺されるから、強くなるまでここにいろ
やばい。五年もあったのになんにもしてねー!
ってことか?
⋮
ター修行しかしてない。それどころかアイスとか作っていた。
今日から、いや明日からはどんな風に恐ろしい外の人たちに対抗
しようか考えよう。自分で自分の身を守れるようにならなければ、
死んでしまう。
今日は遊ぼうと考えた俺は近くにあった水差しを引き寄せた。そ
73
の中に手を突っ込み、水滴が滴るほどにを濡れてから引き抜く。ゆ
っくりと数回、手を握りなおす。
いける。
俺はおもむろに残った水を空中に放り投げた。
物音一つ立てず、手が凍りついたかと思うと、空中に浮かんだ氷
の塊が現れる。それはみるみる大きくなったかと思うと、部屋いっ
ぱいの大きさの龍となった。
氷龍。
俺のお気に入り。暇な時によく作る奴だ。
空中の水分を集めてこれだけのものを作るのは難しい。すでに目
に見えて存在している水が多くないといけない。さらに、魔力が弱
い俺は手をたっぷり濡らして、核としないとできないのだ。それに
なんでも作れるというわけでもなかった。魔法はそこまで万能では
ないらしい。うまく形になったのは、小鳥とこの龍ぐらい。あとは
小さなものだったらできる。
あと、今みたいに音を立てずに作り出すのもめんどくさい。本当
はバリバリ音を立てながら作った方が手っ取り早いけど、見つかっ
てこんな低レベルな魔法の練習してたのかとか苦笑いで言われた日
には凹む。だからこそこそ練習中してる。
もしやこいつ戦えるんだろうか。氷龍の顔をそっと撫でると気持
ちよさそうに目を閉じた。
目を閉じた!?
今、俺そんな風に操っただろうか。
74
お前、生きてんのか!?
﹂
びっくりして仰け反ると、ペロリと巨大すぎる舌で顔を撫でられ
お⋮
た。
﹁
必死に小声で囁くと、龍がコクコクと頷く。
生きている。というより、意思があると言った方が正しいんだろ
うが、びっくりした。
いや∼これはほんとにほんとにびっくりしたわ。
暇な時にしょっちゅう愛でてたからかな⋮。昔から大事に使って
いるものには命が宿るっていうしな。
異世界にいる時点で理由をグダグダ考えてもしょうがないか。こ
﹂
うなったからには、事実を受けれよう。
名前欲しいよな?
とりあえず⋮
﹁
﹁
﹂
そうだよな∼
氷龍じゃやだよな。⋮⋮ドラゴンのドラちゃん
また頷く。さっきから頷くたびに尻尾が当たって痛いんだけど。
!
言ってからそれはないなって思ったよ。だから爪でどつかないで
氷ちゃん、龍ちゃんといった名前はすべて拒否された。うんざ
くれ。
清爛!
﹂
りした俺は、少々投げやりに名前を言っていく。
﹁
呼びかけると、ガクガクと頷く。
75
の
それでいいという意味のようだ。魔法で作り出したからと言って、
﹂
清らかなる水からできた龍。その姿は高貴にして豪華絢爛
心の中で会話ができるなどどいってことはないようだ。
﹁
略な!
我ながらひどい略だ。てか、ぶっちゃけ後付けだ。やり過ぎたか
?とりあえず褒めまくった結果がこれだ。
﹂
しかし清爛を見ると、満足げに髭をいじっている。本人がいいん
清爛って戦える?
なら別にいっか。
﹁
清爛はまたしても頷いた。お前、戦えたのか!マジックとか言っ
てごめん。
﹂
戦えるなら外の世界に出るためにも、俺は強くならなきゃいけな
一緒に強くなってくれるか?
い。
﹁
まあそんな感じだ。
今度はお互いがしっと手を組んだ。実際はちょっと違うけど⋮清
爛は人間じゃないし⋮
じゃあ、さっそく特訓しようぜと言いかけてそんなことが不可能
なことに気がついた。部屋は清爛でみっちりなのだ。動いたりなん
?
﹂
お前って一回消したり、大きさ変わったりしても清爛のままな
かしたら俺まで吹き飛ぶ。
﹁
んだよな⋮
問いかけると、清爛はそうなんじゃない?とでも言いたげな瞳で
めんどくさそうにこちらを見てきた。
なんかお前のことがよくわかってきたぞ!ふてぶてしいな!
76
きっと、大丈夫だろう。
﹁よし、じゃあ小さくなれ﹂
すると、目の前にいた清爛はどんどん小さくなり、手のひらサイ
ズになった。
かわいい。手乗り龍。ミニサイズの可愛さに必要以上に撫でてい
ると、尻尾でぶたれた。ぶたれたなんてもんじゃない。小さい身体
じゃ威力が足りないとでも思ったのか、胴体をしならせてキックし
﹂
まあ、いいさ。このサイズならいくら動き回っても大丈夫だろ
てきた。本気ではないんだろうが、痛い。
﹁
う。とりあえず⋮こいつを敵だとする
俺は本棚によじ登り、﹁経済学の基礎から応用まで﹂と書かれた
辞書並みに分厚い本を引っ張り出した。俺がこの中で一番嫌いな本
だ。この本は長すぎて意味がわからない!
俺たちに目標はどんな敵からも逃げ切ることができるようにな
それを俺と清爛の前に立てる。
﹁
ることだ。喫茶店を守り切れればなおよし。ってそんな嫌な目で俺
を見るなよ。目標が低くて悪かったな。周りのやつはとんでもなく
﹂
空気読んでそれっぽく構えてくれよ⋮
。答えられ
フォーメーシ
強いらしいからな。せめて⋮そのレベルにはっ!とにかく!まずフ
ォーメーションAだ!かまえ!
清爛⋮
格好良く言ってみたが、清爛は全く動かない。
﹁
ョンAって何だって聞かれても決めてないんだからな
ないぞ。﹂
77
フォーメーションAは俺と同じ大きさの相手、人間などに使お
俺を責める空気に耐えられなくなって頭をフル回転させる。
﹁
くれ!いくぞ!
︵
﹂
?
今までの会話はすべて小声
︶
無数の氷の
う。俺は氷の粒を相手に飛ばしまくるから、お前はお前で頑張って
掛け声と共に
粒を作り上げる。ねらいは経済⋮学⋮
それはすでに清爛によってあっさりと倒されていた。本を指さそ
﹂
じゃあ⋮フォーメーションBは、大きい相手に出会った場合。
うとしていた手を下げ、うな垂れる。倒された本を優しく戻した。
﹁
俺は氷の槍をつくるから⋮
力ない声で説明をしてると、ぐさっという音が聞こえた。
伏せていた目をあげると、清爛が尾に本を表紙から突き刺して持
ち上げている。
俺はあわてて尻尾から引っこ抜くとさっきまで敵だったはずの本
の穴をそっと撫でた。
78
1−10 大雨と軟禁︵後書き︶
本文訂正しました
魔法使用時
79
次は∼こちら∼
﹂
1−11 小鳥と拾得
﹁
手になにも握ってないことを見せてから、軽く右手を握る。さっ
と手を広げるとそこには小鳥が現れた。小鳥はパタパタと羽を広げ、
では見てててくださいね
﹂
一周天井付近で回るとまた今度は左手に戻ってきた。
﹁
そう言って、コツコツと小鳥を窓ガラスに当てた。
これはマジシャンは俺、観客は清爛だけというマジックショーだ。
フォーメーションZまで続けて、俺は諦めた。もう本は無残な姿と
成り果てている。というか、もう手元には紙片が数切れしかない。
そこで、即席マジックショーの開催となったわけだ。清爛の誕生
記念とでも言おうか。
氷で出来た小鳥は飛び立ち、窓ガラスの方へ向かう。さっき通り
抜けられなかった場所だ。
なんてことでしょう!小鳥が逃げ出してしまいました!
﹂
しかし、今度はするりと窓ガラスを抜け、外に出てしまった。
﹁
成功だ。清爛がパチパチと拍手をし⋮てなくて、バンバン尻尾で
俺を叩く。だから痛いんだよ。加減しろって。
それでも喜んでくれてるらしい。
80
もちろん小鳥が窓ガラスを通過したわけじゃない。窓ガラスに当
たったところから氷を水蒸気に戻し。なくなった部分と同じとこを
向こう側で作り直しているというだけだ。それでも結構うまくでき
た手品だと思う。魔法だけれども。
忘れてた!魔法があるの
そこではっと気づいた。俺はすごいとか思ってたけども、もしか
したらこっちの世界では当たり前かも⋮
は常識だ。種も仕掛けもありませんとか言ってる場合じゃない。今
までの練習って意味ない!?
予定ではお客さんのグラスの中を通過させたりするつもりだった
のだ。子供たちには大受け⋮のはずだ。
清爛⋮
むなしいな⋮
﹂
小鳥のあんなに愛くるしい形をしているのに。
﹁
俺は小鳥を窓の向こう側で思いっきり飛ばした。氷なので、離れ
てしまうとすこし見づらい。
ガチャ⋮
小鳥に気を取られていたのか、ドアが開く気配に気づくのに遅れ
てしまった。慌てて清爛を消し、経済学の死体︵といってもいいと
ご夕食の時間です
﹂
思う︶を握りつぶした。
﹁
お手伝いさんとマティアスさんだった。
もう一日が過ぎたのか。
清爛がいたからかいつもより夜が来るのが早かったような気がす
る。
81
ふざけんなよ、クソじじぃ。また面倒臭い仕事押し付けやがっ
♢♢♢♢♢
﹁
﹂
て
苛立ちに任せて、足元の水たまりを蹴り上げた。服にどろがかか
くそぉお!
﹂
り、それがさらに彼をイラつかせる。
﹁
この雨にさえイライラする。
大体、あのクソじじぃが全部悪いのだ。ちょっと俺がいたずらし
たぐらいであんなに怒ることないだろう。怒られるとは思っていた
が、仕事を増やされるとは思っていなかった。
何年も他国の貴族の見張りをさせられた腹いせに貴族のバカ女の
一番高級なドレスに毛虫を詰めただけだぞ!?
そういや、ピェットが言ってたな⋮じじぃが俺がいない間に見張
りの任務失敗したとかって⋮
信じられなかった。じじぃは確かにむかつくじじぃだが、腕は確
かなはずだ。今まで彼のこなしてきた難しい任務は数え切れない。
なのに、失敗した相手が幼い王子、とかピェットが語り始めたので
話の途中で逃げ出してきたのだ。あいつは話すと長い。めんどくさ
くなったら逃げるべしというのは影の常識だった。
王子っていうと、じじぃのマスターのマティアスの新しい主人の
ことか。って子供だろ?そんなことってあるのか?まぁ、俺には関
82
係ないか
今日はさっさと家に帰りたいし、庭の隅をつっきって行こうかな
⋮と少年は考える。隅といっても本当に隅を歩くわけじゃない。死
角となる場所のことをそう呼ぶだけのことだ。その場所がどこから
なら見えてしまうのかわかっていれば、そこに誰も居ないことを確
認して歩けばいい。そんなことを簡単にやってのけてしまうその潜
在能力と運動神経の良さこそ、師匠や仲間から有能だと称させる一
因なのだ。
そうはいっても、少年は未だ見習いだった。
拾ってくれたじじぃ、つまり師匠には感謝してる。親に売られ、
クソみたいな生活で死にかけていたところを助けてくれたんだから。
拾って仕事まで教えてくれている。じじぃは若い者でも育成してみ
ようとか思ったとか言ってたが、影の仕事は俺には天職だと思うし、
衣食住の心配だってしなくていいから仕事は好きだ。
このままいけばきっとマティアスが俺のマスターになる。元々嫌
いじゃなかった。あいつにいたずらすると、説教めちゃくちゃ長い
のは気に食わないが。
仕事柄色んな貴族を見てきて、あいつは普通とは良い方向に違う貴
族なんだと知った。だから今だってマティアスに忠誠を誓って直属
の影になれと言われたらイエスと言うだろう。でも誰もそんなこと
いってこない。
はじめの頃荒れていたころに、一度だけマティアスに言われた事
がある。お前の師匠は俺のために働いてくれているが、別にお前に
までそれを求めない。さすがに情報を売られたりするのは困るけど、
仕える主人は自分の目で見極めて決めろ。だからお前の名を俺が決
めることはしない、と。
そんなこと言う貴族は普通いない。大体名前なんてつけない。影
83
なんて貴族にとったら人間じゃないからだ。じじぃの名前が1とい
う意味のイェデンなのは、マティアスが名前をつけようとしたとこ
ろ、じじぃが影は数字で呼べばいいと言い張り、結局折れたマティ
アスが名前っぽい外国語を見つけてきたとか聞いた。
だからじじぃたちも彼についていくのだろうか。
俺にもいつかそんな相手に巡り会うのだろうか?それともこのま
まマティアスのもとにいるのだろうか?別にどっちでもいい。ただ
⋮ただもし、前者ならマティアスと敵対してない奴がいいな。
そんなことを考えながら隅を通っていた。
水翠宮の一番人目の少ない庭。そこで突然、頭の上になにか重い
いってー⋮
﹂
ものが落ちてきた。
﹁
﹂
痛い。割れたかと思うほどの痛みに思わず顔をしかめてしゃがみ
なんだ?
込む。
﹁
攻撃じゃないはずだ。致命傷はあたえられてないし、殺すつもり
なら殺意を感じる。どちらでもないっていったら事故しかない。
しゃがみ込んだ地面の上。少年の目の前には半透明な置物の小鳥。
落ちた時に汚れてしまったのかところどころに泥がついていた。
少年は着ていた服で置物をこする。まるで生きてるかのようなそ
の美しさに目を奪われた。注意深くあたりを見渡すが、誰の気配も
ない。
こんな綺麗なものなら、どっかの貴族の令嬢のおもちゃかもしれ
ない。捨てたんなら俺がもらお。
そう思った彼は小鳥を服のポケットに忍び込ませる。
84
あーあ、やっぱり今日はちょっとだけいい日かもしんない
いて足を早めながら。
と呟
85
1−11 小鳥と拾得︵後書き︶
新キャラ登場!
名前はまだありません。
毛虫詰めるとか、イジメだからね!と彼に教えてあげたい。
86
2−1 爆発と計画
今日もまた変わらぬ一日が過ぎていく。
あと半年だな
﹂
特に異常はございません
﹂
それが苦しかった。無慈悲にもタイムリミットは近づいてくる。
﹁
はい
﹂
﹁
いまや恒例となった王との謁見。﹁
そのことについて話がある。爆発が半年以内に起こらなかった
だけで終わるはずだった会話は、今日に限って終わらなかった。
﹁
﹂
場合の処置はリクハルドにまかせた。王子と相談して詳細をつめて
くれ。わしへの報告はお前がしろ。以上だ
それで謁見は終わった。
王の執務室から主人の部屋である水翠宮に帰っていつも通りに仕
事を終え、深夜、王宮の中心部からやや外れた瑠璃宮へ出向く。
門番にここの主人に会いたい旨を伝えると、あわてて執事を呼び
に行ってしまった。これはいつものことだから気にしない。またい
い加減大人なんだから先に伝えてから来いと文句を言われるかもし
れないが、あの二人だって同じ事を自分にしてるんだからいいだろ
う。前に、連絡なしに二人が遊びにきた時の我が家の門番の驚きぶ
りの方がすごかった。昔からつとめている方の門番なんてぎっくり
腰になって数ヶ月暇を与えなきゃいけなくなったのだから。
執事がやってきて部屋に案内してもらう。いつ見ても瑠璃の名に
ふさわしい離宮だと思う。まるで深海に潜り込んだような気分にな
87
ってくる。しかしここの主人にそれを言ったとき、この離宮のデザ
インは好きでも、もっと狭い方がいいと困ったように笑って言って
いた。さみしがりやだからな。
目的の部屋に案内された。客室でも寝室でもない。小さな部屋。
なんだ先にいたのか⋮
︶、
どう
ここはリクハルドが母親と住んでいた時から三人で使っていた部
屋だ。学院に入る前にご学友としてフェルが選ばれてから︵
せ学院で一緒になるんだからと、俺も連れていってもらってた
勉強を抜け出してよくここに逃げ込んでいた。その度に探し回って
いたこの執事と自分たちしか知らない。リクの母君が出ていかれて
来たか
﹂
からはここにくることは減っていたから、本当に久しぶりだ。
﹁
ああ。王から今日聞かされたんだ
﹂
リクとフェルがなにか書類をはさんで向かい合っている。
﹁
扉の鍵を閉め、フェルの隣に座った。ここにこんな気分でくる日
始めようか
﹂
がくるなんて思いもしなかった。
﹁
フェルがその言葉と共に紙を広げた。書類だと思っていたそれは
これって⋮
机にいっぱいの大きさをもつ地図だった。
﹁
王の出された条件に当てはまるプランを考える﹂
﹂
﹁
条件?
﹂
﹁
王都から離れたところで実行すること、人目につかないように
マティアスが反応する。
﹁
88
﹂
秘密裏に行うこと、できる限り秘匿するが、例えばれたとしても不
自然のない建前を用意すること。これが王のご命令だよ
父である王の言葉をいつもよりなげやりに伝えるリクハルド。納
やっぱりこの計画気が進まない⋮。確かに魔法の使えない弱い
得がいっていないというのがありありとわかる態度で続ける。
﹁
王子なんて他国からつけ込まれる格好のウィークポイントになるの
﹂
﹂
こんなに存在が知られていないんなら、王都から離れたところ
はわかるけど、それでも⋮
﹁
でひっそりと生かしてやったっていいんじゃないか、だろ?
腕を組んだフェルがリクハルドの言葉を続ける。今度はマティア
王子の存在を知ってるのはどこまでなんだ?
スが口を開いた。
﹁
王家はみんな知ってる。四色家の上から俺たちの世代までは知
﹂
﹁
ってるはずだ。特に俺たちのような国政に関わっているメンバーだ
な。貴族と王宮勤めのもの達の一部には王子出生当時に噂が流れた
﹂
けど、それから一切目撃情報がないことからデマだとみんな思って
﹂
そうだったのか。すごいな。そこまでしてるのに、なんで⋮
る。民衆には情報は全く流れていない
﹁
王子王女の誕生というのは、簡単に秘密にできる話ではない。後
宮がいくら閉ざされた場所だと言っても、大量にいる使用人、母親
となる女性の貴族の親戚関係からあっという間に広がってしまう。
﹂
そもそも、そのようなめでたい話を隠すことなんて話聞いたことが
第三王子の母君のことがあるからかもしれないな⋮
ない。
﹁
いや、知っていても後宮にいると思え
リクハルドがポツリとつぶやいた。
同時に、知らなければ⋮
ないような方だった女性のことを思い出す。
それはリクハルドだけではなかった。フェルナンドもそうだった
89
し、マティアスは直接はあったことはなかったが彼女についての話
を思い出す。
第三王子を産んで亡くなった彼女は、最期に何を考えたのだろう
太陽妃
﹂
彼女はつまらない後宮の中でも楽しいことをどこから
か?家族のこと?皇帝のこと?それともまだ見ぬ息子のこと?
本当に⋮
か見つけてくる天才だった。ついたあだ名は﹁
それは混じりっ気のない金髪からついたものなのか、暑苦しいと
父王はおそらく⋮
太陽妃様が命を落としてまで産んだ子供
いう意味でつけたのか王に何度に問い詰めていたという。
﹁
が泣もしないし魔法も使えないことが受け入れられられないし、王
子のことを考えるたび自分が許せなくなる。だから一回きりしか会
﹂
っていないし、閉じ込めてる。でも、期間をここまで伸ばしたって
いうのは迷ってたことじゃないかな。それでも⋮
爆発は普通3歳までに起こる。4歳で起きるというのも滅多に聞
かない話だ。それを6歳まで伸ばしたところに父の迷いを感じた。
父は今回の命令もほとんど弟のことを教えてくれなかった。
知っているのは年、名前、魔力がないことだけ。容姿も知らないの
それでも⋮
今はやるしかない
﹂
だ。マティアスだって何も言わない。
﹁
﹂
マティ、お前は本当にそれでいいのか。お前がやることになる
かたいマティの声。
﹁
んだぞ
その問いかけにマティはしばらく押し黙ったあと、ゆっくりと頷
いた。
わかったよ。じゃあまず⋮
﹂
こうするしかない。他にどうすればいいのだ。
﹁
90
﹁
﹁
﹁
﹁
﹁
﹁
⋮
御者ができる兵士だな
護衛はどうする?
んー⋮
こっちは?
いや、それだろ近すぎ⋮
⋮ルートはここか?
フェルナンドを中心に話は進む。
﹁
一人でいい
何人いる?
﹂
﹂
﹂
﹂
﹂
﹁
大丈夫か
﹂
﹂
﹁
お忍びなんだろ
﹂
﹁
ばれた時口止めできる若いやつだな
﹂
﹁
馬車と必要なものははこちらで用意する
﹂
﹂
﹁
服は
﹂
﹁
一通りの計画ができた。
﹂
﹂
フェルナンドはため息をつく。顔をあげるとマティアスが目に入
⋮大丈夫か?
った。
﹁
これだけ考えたんだ。大丈夫だろう
﹂
﹁
91
ーーそうじゃない、お前が大丈夫かと聞いているんだ
そうは言えなかった。彼の唇が血が出るほどに噛み締められてい
るのに気がついてしまったから。
92
なさけない⋮⋮
2−2 謁見と落涙︵前書き︶
な⋮⋮
93
アロイスはこのまま俺について来い!それ以外は解散!
2−2 謁見と落涙
﹁
小隊長のその声で訓練はお開きになった。
﹂
ヘトヘトになっているところに上司の呼び出し。しかもその理由
がさっぱりわからない。
兵士として王宮勤めとなりまだ日も浅いアロイスは心当たりがな
かった。
友人や先輩たちが﹁頑張れよ﹂﹁骨は拾ってやる﹂などと言いな
がら肩を叩いて去って行く。特に親しくない友人から同情の目で見
られるのはわかるが、仲のいい奴らぐらいもっとやさしい言葉をか
けてくれてもいいと思う。
なんて薄情なんだ。
小隊長について訓練場から王宮内に入るが、連れていかれると思
っていた彼の部屋を通り過ぎてしまった。
どこにいくんだろう⋮⋮?
まだあまり王宮内の構造を把握できていないが、こっちはもっと
お偉い方々のお部屋だったはずだ。
失礼します。アロイスを連れてまいりました
﹂
そうこう考えているうちに小隊長は大きな扉の前で立ち止まった。
﹁
小隊長が声をかけると部屋の中から声が聞こえ、入室の許しが出
る。
なにが起こっているのかわからないアロイスは肩に置かれた手に
94
気づき、手の持ち主である小隊長を見る。
この目は⋮⋮
一緒に部屋に入ると思っていた小隊長は口パクで
と言って、ものすごい早足で立ち去って行く。
小さくなっていく後ろ姿を見ながら思った。
あの目はさっきの友人たちの目と一緒だ!
がんばれよ
小隊長にまで見捨てられたアロイスは呆然と扉の前に立ち尽くし
ていたが、ようやく我に返った。
しっしっ⋮⋮失礼しますっ!﹂
もう一度ノックをし、部屋に足を踏み入れる。
﹁
アロイスはすぐに深々と頭を下げる。急に目の前の現れた床には
やばいかもしれない。
汚しただけで一生分の給料が飛びそうな絨毯が敷かれていた。
これは⋮⋮
そうとう高貴な方のお部屋だと思った。緊張して震えている自分
の足を見て止まれ⋮止まれと念じる。
﹂
気のせいだ。きっと絨毯に目がない方の部屋ってだけだ。しっか
顔をあげて
りしろ!自分!
﹁
声に従っておそるおそる顔をあげた。
おわった。
目の前には、濃紺の髪をもつお方。
⋮⋮
直接は拝見したことはないが、すぐにわかった。この髪色、年齢、
顔立ち。第一王子のリクハルド様に間違いない。
心の中で家族にお別れを言う。
95
父さん、ごめん。
母さん、姉さん⋮
その根性鍛えなおしてこいって問答無用で僕
を兵士にしたよね。おかげで僕の寿命は予定よりも早く終わりそう
君がアロイスか?
﹂
だよ。恨んでるから。必ず化けて出るから。
﹁
リクハルド様のものではない声がした。声の主を確認するためギ
もうだめだ。
ギギッと壊れた機械のように首を左に回すアロイス。
⋮
四色家のフェルナンド様がいる。本物だ。
こんな偉い人の前に連れてこられて、きっと僕はめったんめった
君に特別任務を与える。ある馬車の護衛だ。お忍びなので、こ
んのぎったんぎったんにされるんだ。
﹁
のことは絶対誰にも言ってはいけない。一ヶ月はかかるだろう。近
衛の方には里帰りをしなければならなくなったと伝えておけ。その
﹂
許可はこちらで出すから、心配いらない。また、君には旅の間は御
者をしてもらうことになる。わかったか?
フェルナンド様の言葉を聞いて、とりあえず今すぐ殺されるわけ
もう一人護衛につくけど、それは当日行けば分かるよ。後は彼
ではということがアロイスにはわかった。
﹁
﹂
に一任してあるから。あと、このことは例え上司でも言わないでね
?
フェルナンドの威圧感とリクハルドの優しそうな笑みで念押しさ
わかりましたっ⋮⋮
絶対⋮⋮
墓場まで持って行きますから
れたアロイスは恐怖で震え上がった。
﹁
96
⋮
﹂
グスッ⋮失礼しました!
﹂
わかってもらえてよかった。出発は一週間後の朝4時。以上だ
だから早く解放してくださいっ⋮⋮!
﹁
しつ⋮
﹂
﹁
頭が床に突き刺すんじゃないかと心配になるスピードで頭を下げ
ると、廊下へ向かって走って行った。
なんで泣く⋮?
部屋に残されたリクハルドとフェルナンド。
﹁
フェルが怖かったんじゃない?﹂
﹂
﹁
普通だろ、普通
﹂
﹁
少なくとも僕のせいじゃない
﹂
﹁
二人はあの兵士で大丈夫かと不安になった。
でもあいつが勧めてきたんだから⋮⋮
﹂
一人しかつけないのだから、あまりに問題点のある人物でも困る。
﹁
あいつってフェルの従兄弟でしょ?逆に不安かも
﹂
﹁
そんなことはない。いや⋮⋮
やっぱり⋮⋮大丈夫じゃないな
﹁
﹂
目的が⋮⋮
あれの旅だし
﹂
言ってること矛盾してるよ。でも、一緒に行くのマティだから
﹂
﹁
そうだな
大丈夫だと思うけど。それに⋮⋮
﹁
97
♢♢♢♢♢
現在泣きながら廊下を走り抜けている兵士、アロイス。
こんな彼だが、別段能力がないというわけでもない。
と
むしろ希望最多、最難関の道である、王家に直接忠誠を誓った騎
怖い母と姉となるべく離れていられるから
士団の座を勝ち取っているのだから、腕は確かだ。
近衛志望理由に
書いて出したのが、軍の上層部に面白がられて採用が決まったこと
を差し引いたとしてもーー。
98
2−3 平凡と旅路
その感想は
だった。
馬がかわいい
でも
意外と広い
でもなくて、
揺れる。今、俺は人生で初めて馬車に乗っていた。
尻が痛い
一言では表せないほど痛いのだ。
お
体すべてがお尻になってしまったようだ。それでもこの旅はまだ
初日。
朝、いつものように起こされた俺はいつもとは違う服に着替えさ
せられた。そして、いつもは履かない靴。試しばきをした記憶もな
﹂
⋮今日から馬車に乗って長い旅路⋮なんたらかんたら︵聞いて
いのに、おれの足にぴったりな綺麗な革靴がそこにはあった。
﹁
なかった︶
不思議そうに靴を見ていた俺に気づいたのか、マティアスさんは
今日は外に出るんだということを長い間説明してくれた。こんなに
話が長いマティアスさんに長いと言わせてしまう馬車の旅はどんな
ならな
に長いんだろうと思っているあいだに、俺はあっさりと6年ぶりの
外、生まれてはじめての異世界に足を踏み出すことには⋮
かった。マティアスさんにお姫様抱っこされて運ばれたからだ。子
供だし、軽いんだろうけど、それなら靴はいらないだろうと思った
のも事実。
99
それにびっくりして外もほとんど見れなかったし、そもそも朝早
決して外にお出になりませんよう
﹂
すぎてまだ真っ暗だし、気がつけば馬車の中にいた。
﹁
彼はそう言っていなくなったが、走っている馬車から飛び降りる
ほど俺もバカではない。そんなことできるわけない。それとも、こ
の世界では馬車とは飛び降りるものなのか。
でも今なら思う。
俺がすすんで飛び降りることはなくても、このまま俺がお尻に侵
食されたらやっちゃうかもしれない、異世界式下車方法。
長い現実逃避をしてたけど、お尻の痛みは変わらなかった。
馬車に揺られて一週間。
お尻に氷を当ててうつ伏せる俺の姿が見られるようになったのは
しょうがないと思う。
♢♢♢♢♢
だって痛いんだもん。
なんか
なんて抽象的なものではなく、具体的かつ
緊張したときって口からなんかでそうって思うけど、今の僕はも
っとすごい。
的確に表すことができるのだから。今不用意に口を開けば、胃から
順番に体の中にあるものが全部出てくるだろう。
それを防ぐためにも僕は一生懸命口を閉じていた。
それでも手は震える。手綱を持った手が震えるので、前にいる馬
100
が時折迷惑そうに後ろを振り返ってくる。
ガタガタ揺らしてんじゃないぞ!紛らわしいんだよ!ってことだ
ろう。
わかってるよ。そんなこと言われてもどうしようもない。だって、
隣に座っている方を見てくれ。
切れ長の目に、閉じられた唇。思わず見とれてしまうほど美しい
横顔。一見わからないが、実はバランスよく鍛え抜かれた体。燃え
さかる火のような紅の髪。ほっ⋮⋮本物のマティアス様が横にいる
のだ。緊張しないはずがない。
リクハルド様とフェルナンド様のおっしゃっていた場所に行くと、
すでに馬車は待機していた。
直前に必要なものはすべてこちらで用意すると言われたので、自
分は身軽な格好で。
一週間前の悪夢を思い出すと寒気がしたが、あの時の僕はあんな
こと、人生で一回あるかないかの大事件だと思っていたのだ。
馬車に寄りかかって目をつむるマティアス様の姿を見るまでは。
僕は今まで平凡な人生を歩んできたという自信がある。
生まれは田舎の貴族。貴族という位はあっても、領主だというだ
けで、あとはまわりのみんなとたいして変わらない。
父は畑を耕して、母は家事をしていた。それに姉がひとり。
子供のころ、朝はみんなで大人の畑仕事を手伝いながら遊び、昼
間には木の実を探しながら遊んだ。一週間にいっぺんは川に落ち、
泥だらけになって母上に怒られる。初恋は近所の年上のきれいなお
姉さんだし、もちろんその恋は成就できずに終わった。
ある程度大きくなると、軍に放りこまれ、毎日クタクタになるま
で訓練をさせられた。
101
そんな僕が騎士団への希望を出したのは、その時に魔法武闘大会
を見たからだった。
戦いに目が離せなくなっていたのだ。会場をまるごと沸騰させそ
うなほど熱をもった炎の中心にいたのは、ウエストヴェルン家の次
男、マティアス様だった。
彼はその大会で圧倒的な力を見せつけ、優勝した。見習いを終え
て実家付近で勤務するか迷っていた僕は、その足で騎士団への異動
届を提出しにいった。さすがに理由はその通りにかけず、2番めの
理由を書いたけど。
それからなんとか騎士団に入り、今、隣にその憧れのマティアス
様がいる。
夢かもしれない。
そう不安になり、現実であることを確かめる。
両手で自分の頬を思いっきり叩いた。
どうした。代わるか?
﹂
その瞬間、馬が嘶きながら大きく前足をあげ、止まった。
﹁
いいいいえ、だいじょううぶですす
﹂
マティアス様が怪訝そうに僕に話しかけてくれた。
﹁
震えながら、答える。
ーー手綱持っているのを忘れていただけなので。
頬を叩くついでに後ろへ引いてしまっていたのだ。
102
ふざけんなよ、と同時に振り向いた二匹の馬を再び走らせ、旅路
を進む。
やっぱりこれは夢かもしれない。
もう一度、確かめた方がいいだろうか?
103
2−4 戦闘と変化
それは旅も終盤に差し掛かっていたある日のことだった。
隣に座る兵士、アロイスと時折会話を交わしながら進んで行く。
マティアスはアロイスのことを結構気に入っていた。
はじめこそ不審な行動が多く見られたが、話してみると素朴で誠
実な人柄だった。
貴族社会で生きてきた自分の周りには今までいなかったタイプだ。
しかも、彼は誰かに憧れて騎士団に入ったらしい。激しくかみな
がら教えてくれた。なので、なにを言っているのかよくわからなか
ったが、そんな内容だったと思う。学院を卒業してから第一従者に
なるまで、自分は騎士団に籍を置いていたため、一通りの人物とは
面識があるが、いったい誰のことだろうか?あそこの上層部は変わ
り者が多い。憧れの人物になるのが難しかったとしても、彼のよう
なタイプが騎士団にいるのもいいと思う。
それだからなおさら、このような旅に同行させたくなかった。
彼は今、誰の護衛をしているのか知らない。詮索も禁止されてい
るだろうし、彼の目の前で要人は一度も姿を現してないのだから、
わかりようもないだろう。
彼がどんなにいい人でも、自分の心は日が経つにつれ、深く沈ん
でいく。
エルメル様は結局一度も笑うことも泣くこともなさらなかった。
104
はじめての馬車の中でさえ、驚いた様子はなかった。
しかし食事を運んだ時、侍女のようにできずに困っているとエルメ
ル様は食器をとり、ご自分で食べ始めたのだ!
エルメル様はちゃんと自分でできたのか!
驚きと喜びで心が踊ったが、すぐに今の状況を思い出してしまった。
エルメル様の新しい一面。もしかしたら自分には見えていないとこ
ろはまだあるのかもしれない。
そんなことはない。考えを振り切ろうとする。
お姿を見ているのが辛くて、必要な時以外は御者台にずっといた。
やはり、エルメル様は何も映っていない目を開き、じっと微動だに
せずに座席に座っていらっしゃるのだろうか。それとも⋮⋮?
あのお姿ももうすぐ見れなくなるのだ。
フェルに聞かれたとき、自分はこの手でやる決意を固めた。例え、
短い時間でも、一度も心通わなかった主人でも、どこぞの知らない
奴にエルメル様の生命を終わらせられるのは嫌だった。
誰にもわかってもらえないかもしれないが、これが自分の、第一
従者としての覚悟だ。これはただのゆがんだ独占欲と思われるかも
マティアス様、マティアス様!
﹂
しれなかった。それでもいい。そんなことはどうでもいい。
﹁
﹂
どうも深く考え込みすぎていたらしい。隣でアロイスが呼んでい
すまん。どうした?
るのに全く気づかなかった。
﹁
橋が落ちています。どうすればいいですか?
﹂
﹁
105
そう言われて前を見ると川が増水し、橋が中央から4分の3ほど
なくなっていた。
それを見て、ようやく雨が降っていることに気がついた自分はど
れだけ上の空だったんだろう。この様子じゃ、今降りはじめたわけ
﹂
ここら辺は村も町もないはずだ。このままここにいてもしょう
でもなかろうに。
﹁
がないな。道を変えよう
地図を出し、二人で道を確認する。道を決め、馬を走らせた。
﹂
山崩れに気をつけながら、山道を進む。雨はどんどんひどくなっ
ていた。
うわぁああぁああ!
そんな時だった。
﹁
アロイスが絶叫しながら、馬車を止めた。
目の前には、魔物。
A級か!
急いで御者台から飛び降り、魔法を発動しようとする。呪文を唱
えようと口を開いてから気づいた。
ーーああ、今日は雨じゃないか
アロイス、属性は
﹂
ついてない。ウエストヴェルン家の者は火を操る魔法を使う。
﹁
震えながらも剣に手をかけたアロイスに聞く。一介の兵士にA級
はキツイだろうに、さすが騎士団いうべきか。
106
火⋮
です⋮
﹂
アロイス、君は誰かに憧れなくとももう立派な騎士じゃないか。
﹁
別に気にしなくていい
﹂
アロイスが申し訳なさそうに答える。同じだったのか。
﹁
続いて呪文を唱える。
別に雨の日だから魔法が使えないわけではないのだ。ただ、魔力
を多く使うことになるというだけ。しかも威力は落ちる。
それでもA級1匹ならきっと大丈夫だ。
ウエストヴェルン家の力をなめてもらっては困る!!
呪文を唱え終わり、魔方陣が展開する。赤く燃えたぎる火が魔物
をつつみこんだ。
さすがに燃やしつくすのには時間がかかり、身体半分を失って、
燃やされながらも、こちらへ攻撃してくる。
あたりに生えている木々を引っこ抜き、投げてくるのだ。飛んで
くる木もすべて当たる前に消し炭にした。隣でアロイスも頑張って
いるのが見えた。
身の毛もよだつような叫び声をあげながら魔物が倒れた。
さすがに魔力を使いすぎたか。節々が痛む身体がそう物語る。
A級なら国で討伐隊を組んで倒すレベルだ。しかもこの悪状況。
後ろを振り返り、二人の無事を確認しようとする。
見えたのは巨大な石、いや岩が馬車に向かって飛んでくるところ
107
だった。直撃した馬車が軽く吹き飛び、おもちゃのようにコロコロ
と横転した。
あわててかけよる。
その途中で、横転しへしゃげた馬車から出てこようとしていりエ
ルメル様が見えた。白い頬から血が出ている。
無事で良かったと思ったのは一瞬。
目は、魔物の鋭い爪を捉えていた。
A級一匹だけじゃなかった。
他にもいたのだ。まだ二匹。
岩を投げた大型の魔物と、今にもエルメル様を殺そうとしている
小型の魔物。
小さくても、あいつは強い。あの種類は村をいくつも潰してきた
やつじゃないか。森に近づきすぎていたのか。
いろんなことが頭に浮かんだ。
危ないっ!
﹂
もう呪文を唱える時間はない。
﹁
体が勝手に動き、エルメル様を押し倒して倒れこむように地面に
伏せる。
その途端、背中が焼けるように熱くなった。見なくても、切り裂
かれたんだとわかる。痛みで頭が割れるように痛む。
なんとか、下を向いて、エルメル様の無事を確認した。
108
大丈夫だ。
よく考えたら、今エルメル様を助けても、A級相手にアロイス一
人はどうしようも無い。
あのまま見逃せば、直接手を下さずにすべてを終わりにできた。
二人でだって逃げ出せただろう。
エルメル様が⋮無事で⋮
よかった⋮
﹂
でも、守りたいと思ったのだ。後悔はしてない。
﹁
つっ⋮
﹂
出した声は自分のものでないようにかすれていた。
﹁
もう痛みで声にならない。
エルメル様が起き上がり、ずるりと自分が下に下がった。
傷口に何かあたった。
エルメル様の右手、べったりと真っ赤な血がついている。ああ、
自分の血だ。
それを見たエルメル様の表情が歪んだ。
初めて見る、血。初めて触れた、死。それに恐怖を感じられてい
るのだろうか。
生まれて初めて見ることができたエルメル様の感情。最期に見る
エルメル⋮
さま⋮
?
﹂
ことができて嬉しかったが、やっぱり笑ったお顔を見たかった。
﹁
109
ひゅっとあたりの気温が下がった気がした。鳥肌がたち、吐いた
息が白くなる。気のせいではないようだ。ものすごく⋮寒い。
エル⋮⋮
﹂
エルメル様が立ち上がろうとしているのがわかった。
﹂
おやめくだ⋮⋮
無理⋮
す⋮
﹁
大丈夫。助けてくれてありがとう
で⋮
﹁
自分の声を遮って発せられた声は静かに耳に響いた。
呆然としてエルメル様を見上げる。
さっきまで頬についた傷がみるみるうちにふさがっていく。
立ち上がるエルメル様の目は光が入ってすっと鋭くなり、瞳の青
色が濃くなっているような気がした。肩につかない長さで切ってい
たはずの髪が伸びていく。その間にパキパキとなにかが割れるよう
か?
な音がして、エルメル様を中心に地面が氷の大地へと変化していっ
た。
どういうこと⋮です⋮
とっくに限界を超えた身体はそれを声にすることはできず、
そこから意識は、途絶えた。
110
2−4 戦闘と変化︵後書き︶
マティアスとエルメルの初会話。喜んで倒れるどころではなく、怪
我で失神⋮⋮。
111
2−5 神様と横転︵前書き︶
神様降臨
主人公視点に戻っています
112
2−5 神様と横転
その日も昨日までとなにも変わらない日だった。
どの体勢が一番臀部に負担がかからないか実験をする。初日の反
省を生かして、誰も見てないのをいいことに俺は膝立ちで過ごして
みたりといろいろやっていた。
その日はお尻を座席につけないということを一番に考えて座席で
土下座の体勢で過ごしていた。
はじめの頃に比べて馬車の揺れも少しは収まったし、その日の体
勢が意外と良く、これからはこれでいこうかと検討している時だっ
た。
突然馬車が大きく揺れ、俺は鼻を座席に強打した。想像できると
思う。土下座の態勢は顔が座席のすぐそばにあるから、跳ね上がっ
た身体の重さがかかって鼻一点にきたのだ。
痛みで涙が滲む。鼻を押さえて顔をあげて、一人で必死に耐えて
いた。
やっと鼻がジンジンするというところまで痛みが収まった時、本
気で鼻が曲がったんじゃないかと心配して、ピカピカに磨かれた金
具に顔をうつす。
⋮⋮これが俺の顔か。
金色の金具にはあどけない顔をした子供がこちらを覗き込んでい
る。鏡を見ない生活をしていたので、久し振りに見る顔は前より成
長していた。きっとかっこいい、のだろう。地球では。
113
しかし、ずっとマティアスさんの顔を見続けた俺は自分の顔がい
いのかは分からない。ああ、このことを考えるのはやめたほうが良
さそうだな。悲しくなってくる。
ため息をついていると、今度は突然馬車がグルングルンと横転し
始めた。
俺もどうすることもできず、一緒に回転する。その途中で自分の
爪で顔を引っ掻いてしまった。反射的に鼻を抑えていた手がぶれて
しまったのだ。
なんだ!?
俺はパニックになる。
決して外にお出になりませんよう
﹂
慌てて馬車から出ようとした時に、マティアスさんの言葉を思い
出した。
┃┃┃﹁
もしかして、まだ外に出てはいけないのだろうか?
こんなことなら、馬車がぐにゃんぐにゃんになったときはどうす
ればいいのか聞いておくべきだった。それとも、これは普通のこと
なんだろうか?きてくれてありがとう的な歓迎のしるしとか、もし
かしたら馬車を転がすことで俺が本当にマスターになれるのか試し
ているのかもしれない。おそるべし、異世界。
でも⋮⋮実は顔を見ている時、叫び声が聞こえた。あの時は鼻が
痛かったし聞き間違いかと思ったけど
やっぱりなんか起こったんだという確信が生まれる。
止めていた手を再び動かし、壊れた馬車の残骸を押しのけて外に
114
這い出る。外に出た部分から雨に濡れ、体が少しずつ冷たくなって
いった。
ようやく足が馬車の残骸から抜けたところで、俺は顔を上げた。
雨が降っていて視界が悪い。
こっちに走ってくるマティアスさんに気づく。
なぜそんなに急いでいるのかわからなくて、彼の動く視線の先を
追った。そこにいたのは俺のそばの映画やアニメでみたことのある
ような醜悪な魔物。
逃げなきゃとわかっているのに、それから、その魔物から目を離
せなかった。恐怖で足がすくんでいるのだ。
危ないっ!
﹂
残像を残しながら目の前にせまってくる鋭い爪。
﹁
上に
そう叫ばれたのと同時にどさっとなにかがぶつかった衝撃で倒れ、
その時には嫌な予感が俺の胸を占めていた。
俺の視界は雲の覆われた空でいっぱいになっていた。
まさか!?
よかった⋮⋮
﹂
のっている人の身体がびくりと痙攣したのがわかり、慌てて上半身
エルメル様が⋮⋮無事で⋮⋮
を起こす。
﹁
弱々しい声が俺の耳に届く。いつも凛々しく響いていた声が。
一緒に起き上がるはずのマティアスさんがずり落ちたので、咄嗟
に背中をおさえた。
ぬるりと手をぬめった。冷えた指先に伝わる熱。
真っ赤に染まった俺の右手。
115
それが何を意味するか、考えなくてもわかった。俺がよく知って
エルメル
同時にマティアスさんの言葉について考える。
いるものだ。
それがここでの俺の名なのか。聞き慣れないものでも、初めて名
俺を⋮⋮
庇ったんだ!!
を呼ばれて実感する。夢ではない、確かにここにいて、目の前のこ
なんで⋮⋮
とは現実なんだと。
どうしてだ!
真っ赤な手を力強く握りしめると血が一滴、ぽたりと落ちて、溶
死
がまたやってきている。今度は俺の代わり
け合うように水たまりに消えていった。
6年前体験した
に違う人の元へ。
だめだ!
身体が熱くなる。
彼を死なせたくない。死んだらだめだ。
死んだら何もなくなる。違うな。家族や友達に深い傷跡を残して
消えるんだ。俺はそれを知ってしまった。
彼にだっているはず。今の俺にはもういない家族が、恋人が、友
人が。俺はマティアスさんの名字も年齢も知らない。
でも、代わりに彼を見てきた。
俺なんかを庇って死んじゃダメなんだ!!
はやく病院に連れていかないと!
そのためには、お前が、じゃまだ
116
かっとなった頭ではへなちょこ魔法でこいつにかなわないから、
逃げようなどという考えは頭に浮かばなかった。
無理⋮
で⋮
す⋮
おやめくだ⋮⋮
エル⋮⋮
﹂
血の巡りが活発になり、身体が燃えるように熱くなる。
﹁
マティアスさんがとめてくれても、このままじゃ引き下がれない。
彼を見捨てるなんて絶対に出来ない。
本当に熱い⋮⋮
幸い、今日は雨の日だ。
ああ⋮⋮
♢♢♢♢♢♢
俺のアドレナリンが魔法にどう影響したのかわからないが、今目
の前にいる魔物はあっさりと倒すことができた。やっぱり雨の日は
やりやすい。
マティアスさんの様子を確認する。
背中をざっくり切られているのはわかったが、あいにく俺には医
療知識がない。無知なことがもどかしかった。
近くに兵隊さん?のような人がいる。こんな森で偶然通りかかっ
たわけではないだろう。俺は一度も外に出てなかったから会わなか
怪我の⋮⋮
﹂
っただけで、一緒に旅をしていた人に違いない。
﹁
117
治療はできますか。と聞こうとしたときだった。兵隊さんなら軍
でそういう訓練も受けているはずだ。しかし、彼は俺の言葉を聞く
うわあああぁぁあ
﹂
前に叫び出してしまった。
﹁
腰を抜かして、俺のはるか頭上を指さしている。
うぁわああああぁ
﹂
彼の驚き方からすると、やっぱりアレは⋮⋮
﹁
魔物だったんだ。
俺がマティアスさんを揺らさないようにそっと後ろを振り返ると、
そこには体中一面にベタベタとはりついた眼球をすべて氷に刺され
た魔物がいた。
もちろん俺の氷だ。
さっきいるのはわかっていたんだが、攻撃していいのかわからな
くてそのままにしておいた。
あまりに大きいから、山の神様かなんかかもっ
眼という弱点を明らかにさらけ出している分さっきのやつより弱
そうだったし⋮⋮
て思ったんだ。ああいうのいるよね?自分の縄張りで騒いでるから
確認しにきたとか。
でも、さっきの人の叫び声は明らかに恐怖しか含まれてなかった
し、なんか嫌な予感がしたからとりあえず氷の槍を後ろに向かって
飛ばしまくった。的大きいし、絶対当たるだろって思って。
こんなにみんな命中するとは思わなかったけど。
問題が解決したところで、今度こそマティアスさんの怪我を!そ
あの⋮⋮
﹂
う思って、兵隊さんに声をかける。
﹁
118
﹁
今すぐ手当いたしますっ!
﹂
俺が声をかけただけで彼は腰を抜かしたまま地面をつかんで後ろ
へ下がっていき、なんとか立ち上がると、馬車の残骸へ向かって走
り出していく。どうも治療の道具をとりにいってくれているみたい
不安になってつい顔
だが、なんだか魔物を見たときと俺の顔を見たときの態度が似てい
たことが気になった。
俺の目って二つしかないよな?
それともそんな怖い顔して頼んだのかな?
を触って確認してしまった。
119
2−6 治療と姫様
これで大丈夫だと思います。後は安静に⋮⋮
はさみで糸を切る。
﹁こ⋮⋮
﹂
今日ほど軍で治療の講義と実践をしていて良かったと思う日は今
治療してくれてありがとう
﹂
までもなかったし、これからも絶対にないと思う。
﹁
ずっと心配そうにみていたその人はホッとした表情で僕にそう言
った。
だって、マティアス様の役に立てて⋮⋮お姫様にお礼を言われた
んだ。
突然、現れた魔物。見たことのない魔物だった。
だから、マティアス様の言葉でA級ということを知ったのだ。
そこまでの魔物が国内までやってきたことは五年に一度あるかな
いかだ。その時は、軍で討伐隊が組まれ、退治する。
そんなやつにこっちは二人。剣を持つ手の震えはどれだけ力を込
めても収まらなかった。
しかも、自分は火属性。技の威力は高いが、代わりに雨に弱い。
つまり、自分は大した戦力にならないということだ。
でもマティアス様は違った。それこそ生粋の火属性なのに、強力
な魔法であっという間に魔物を火だるまに。少しでもそんなマティ
120
アス様の助けになればと、僕も剣に火を纏わせて戦った。
魔物は倒れた。本当ならそれだけで奇跡みたいなことなのだ。で
も、現実は厳しかった。
守らなければいけなかったはずの馬車が攻撃されたとき、動けな
かった僕と違ってマティアス様は血相を変えて、走り出した。
片手で持てるような軽いもののように馬車は転がる。本当に僕は
馬車の中を知らなかった。護衛と言っても、何も聞かされていなか
ったし、旅の間もその話題は一度も出せなかったからだ。でも、食
事や普段の様子から中には人がいるんじゃないかとは思っていた。
なぜ一度も出てこないのか。
身分の低いものが嫌いな女性なのかもしれないし、出せないよう
な顔の持ち主かもしれないとか色々考えていた。
しかし、ゴロゴロ転がり、壊れた馬車から出てきたのは⋮⋮5,
6歳の子供。
ほっそりとした頼りなさげな彼女はマティアス様に庇われ命を取
り留めたが、魔物を見た瞬間まるで別人のようになった。
彼女の目が怒りで細められると、その瞬間からあたりは氷の監獄
となった。僕の口から吐く息は真っ白に姿を変え、僕の手は寒さと
恐怖からブルブルと震え始めた。
一切の反撃を許さず、白い氷が魔物を締め付けて絶命させたとき、
自分の手はすでに魔物への恐怖から震えているのではないんだと気
づいた。
121
目の前の強大な力に対しての恐れ。
感じたのは王者の力。
マティアス様とは違う、冷たい力。
その場のすべてが彼女の手中にあり、自然までもが跪く。
魔物が弾け飛ぶと、彼女は怪我をしたマティアス様を助けようと
の⋮⋮
﹂
マティアス様を抱きかかえたまま彼女が何かしゃべりか
する。何時の間にかその姿は元に戻っていた。
なんだ?
け⋮⋮
けてくれている。
﹁
何を言われたのか聞こうと、そばに寄ろうとした僕は、自分でそ
の声をかき消すことになってしまった。
でもあれを自分の目で見て、叫ばず、腰を抜かさない人間なんて
いるのだろうか。
今度は見たことがある魔物だった。習ったことがある。50年ほ
ど前に隣国に甚大な被害をだしたあれは、我が国からも討伐隊をだ
して連合軍が封印したはずだった。討伐できなかったのだ。
特筆すべきは、その大きさ。
山が動いているかのような巨体に張り付いた目は360度すべて
の方向からの攻撃を見破ることを可能にする。それゆえ、致命傷を
与えるまでの攻撃を続けることは不可能。
そう挿絵ととも書いてあったのを読んだ記憶がある。
それは本当だったはずだ。
でもそれは彼女には当てはまらなかった。
例え見えていても避けられない攻撃をすればよかったのだから。
122
僕は今、歴史的瞬間に立ち会ったのかもしれない。
彼女は攻撃する時は後ろを振り向きもしなかったのに、地響きを
立て倒れるのを思い出したように振り向いて見ていた。
﹂
呆気に取られて、魔物がいなくなった空を見上げていると、彼女
今すぐ手当いたしますっ
の声がする。
﹁
慌てて道具を取りに行く。早くしなきゃという気持ちで足が絡ま
ってなかなか進まない。
転がるように馬車に積んであった荷物をもって、治療をし、今に
どこにいけばいいですかね?
あの⋮⋮
﹂
とりあえず、マティアスさんを看病できるところに行かないと
至るわけだ。
﹁
⋮⋮
お礼を言われて、惚けていた僕は姿勢を正して、敬礼をする。自
わ⋮⋮
﹂
わわわたしは、今回の護衛を任されました、騎士団所
己紹介がまだだったのか!
﹁
﹂
エル⋮⋮エル⋮⋮
属のアロイスと申しますっ!
﹁
失礼ながら姫様と呼ばせていただいてよろしいでしょうか
﹂
﹁
え⋮⋮
﹂
﹁
そう言うと、彼女はしばらく困ったような様子を見せてから、こ
くんと頷いた。その姿からじゃさっきと同じ方だとは思えない幼さ
を感じた。
よかった。もしかしたら名前は明かさないように言われているの
123
では、いきましょう。こちらです
﹂
かもしれなかい。これからは僕がしっかりしなきゃだめだ!
﹁
マティアス様がこのような状態になった今、王都に戻るべきだろ
う。そう判断し、姫様を促したところで問題が発覚した。
怪我をしたマティアス様をどう運ぶか。すぐに傷口を縫ったけれ
ど、背負ってできるだけ早く一番近くの村へ向かおう。
僕がマティアス様を背負おうとしたことに気づいて何かを言おう
﹂
とするように、彼女のピンク色のくちびるが開く。
﹁
しかし、発せられた不思議なメロディーの一節のような言葉は単
語一つも聞き取れることができなかった。
しかし、その結果。
彼女の足元から一本の直線となって氷の道が伸びて行く。どこま
でも。
なんだ!?
魔法だ。何を言ったのか分からないが、彼女はこうなることを知
っていてあれを発したってことだ。
実はここでもう僕の頭は限界を迎えていたらしい。
一つの可能性を思いついてしまったのだ。そしたら、もうそれ以
外には思えなくなってしまった。
│││彼女は妖精とかそういう類のもので、きっとこの世界に挨
拶をしたんだ。
だから、世界は彼女を歓迎したんだ。それなら納得できるじゃな
いか。
124
さっきから呆気に取られているばかりだと自分でもわかっている
﹂
が、また呆気に取られていると、パリパリと彼女が氷を踏みしめる
行きましょう
音がした。
﹁
彼女の手には馬車の残骸から作り出したと思われる、木の板。そ
してその上にマティアス様を乗せ、前に進んだ。
彼女のためだけに敷かれた赤いカーペットを進むように。
もう夕日が傾きはじめていたのだ。
♢♢♢♢♢
アロイスも急いでその後を追った。
彼女の歩みは止まらない。
あたりは真っ暗で、すでに灯りと言えるのはアロイスが魔法でと
もした右手の炎だけ。
アロイスからすると姫様のどこにそんな力があるのか不思議だっ
た。
しかもここにくるまで、マティアス様を乗せた台を手放そうとし
ないのだ。仕方ないので、アロイスは野宿で必要になりそうなもの
を馬車から選び出して持っていた。
125
不意に隣を歩いていた姫様が止まった。
﹂
⋮⋮流石に体力の限界が来たんだろう。こんなに歩いたんだ。立
姫様、ここらへんで今日はお休みにしましょうか
派なものだと思う。
﹁
しかし、返事は返ってこない。
見ると、空を見上げ、ポトリと即席台車の取っ手を落としたとこ
ろだった。
様子がおかしい。無視しているのではなく、耳に入っていないと
いった方が正しそうだった。
そうか
﹂
空を見上げたまま、彼女は口を開く。
﹁
そう呟いた声が今度ははっきりと聞こえた。
はずだったが、目の前の光景を見た僕は、今度はぱたりと
その直後、鼓膜が割れそうなほど大きな音がして咄嗟に耳を抑え
た⋮⋮
マティアス様の上に折り重なった。
126
2−6 治療と姫様︵後書き︶
みんな、失神しすぎですね。実際失神すると怖いですよね。昔、後
頭部を強打して気を失ったのが忘れられません。
アロイスはちょっと気持ち悪い。
127
うおぉぉお!飛んでる!飛んでるよ!﹂
2−7 帰還と侵入
﹁
風を切り、真っ暗な空を進んで行く。
嬉しくなってあまり乗り気ではないらしい清燗の身体をバシバシ
と叩いた。
何でもっと早く思いつかなかったんだろう。夜道を無言で歩き続
けて、終わりは見えない。いい加減体力がなくなった時に、よくや
く気がついた。
歩いて着かないなら、飛んでいけばいい。
清燗は呼び出すといやそうな様子を見せたが、怪我人がいるんだ
と説得するとしぶしぶ承諾してくれた。
意識がないマティアスさんは清燗に優しく︵ここは念押しした︶
咥えて運んでもらうことになり、アロイスさんには自分で乗ってく
ださいと言おうと後ろを振り向くと、マティアスさんの上に倒れて
いた。
ちょっと目を離した隙に闇討ちでもされたのかと思ってびっくり
したが、どうも寝ているだけらしかったので、今は清燗の体に縛り
つけて運んでいる。
俺はしっかり清燗につかまったまま後ろを振り返って、アロイス
さんが落下してないことを確認した。
ああ、よっぽど疲れてたんだろうな。
128
俺もすごく疲れている。きっとアロイスさんと歩いているときは
酷い顔をしていただろう。
風が気持ちいい。
そこではたと気がついた。今はあの時アロイスさんに言われた方
﹂
に飛んでいるが、よく考えたらどこに向かおうとしてたんだろう。
清燗ー、ごめん。どこに行けばいいか聞くの忘れてた
やべ。どうしよう。
﹁
もしかして当てがあるのか?
﹂
声をかけると、清燗はふんっと鼻から息、いや冷気を吐いた。
﹁
おい、噛むなよ
﹂
今度は答えるように低く唸った。
﹁
清爛はマティアスさんがいることを忘れて、吠えたりしそうだ。
﹂
今の返事は儂に任しておけってことか?
﹁あ⋮⋮
﹂
空を飛び始めてしばらくした頃、後ろから自分のものではない声
が聞こえた。
一体、なにが⋮⋮
アロイスさんが起きたんだ。
﹁ここは⋮⋮
小さな声でつぶやいたかと思うと、下を見てすぐにカタリと首を
落としてしまった。
にじり寄って大丈夫か聞いても、返事が返ってこない。
きっと二度寝だから問題ないだろう。この感じ学校に行ってたと
きの朝の俺の様子にそっくりだ。
話し相手もいない俺は仕方なく考え事を始める。
129
姫
﹂って?
アロイスに言われた言葉についてだ。
なんだ﹁
あんまり自然に言われたので、固まってしまった。意味が分から
なかったけど、顔が真剣だったから断れなかった。目、血走ってた
し。
一応気をつけよう。もし俺は女の子に見えてるんなら、ちゃ
アロイスさんって変わってる人なのかな。いい人そうなんだけど
⋮⋮
んと男だって言わないと。
しばらくすると、清燗は真っ暗な地上の中で光が集まっている場
所を目指して、高度を下げはじめたようだった。
空気の抵抗強くなり、思わず目をつぶる。
内臓が浮かび上がってしまうかのような浮遊感。ジェットコース
ターが落ちるときのような、気持ち悪さ。
それに必死に耐えているとふわっと清燗が止まった。
目を開けると、暗いけど、どこか見覚えのある景色。
ここ、どこで見た?ものすごく良く知っている気がする。
部屋から見える庭だ!
そう気づいてからもう一度見渡すと、去年見た花が今年も同じ場
所に咲いていた。
清燗から飛び降り、俺が眠っているアロイスさんを下ろしている
と、すでにマティアスさんも横たえられていた。顔色はさっきとあ
サンキュー、清燗
﹂
まり変わってないようだ。
﹁
130
﹁
よいしょ、と
﹂
♢♢♢♢♢
二人をベッドに横たえた俺はため息をついた。
鍵がかかっている部屋にどうやって入ったか?
もちろん窓を蹴破ったさ。
蹴破ったけど、ガラスは割れずに足が痛くなっただけだったから、
突き刺した氷を消して入った。
怒られるだろーな。
でも、マティアスさんのこともあってはやく入りたかったからし
ょうがない。
ごめんなさい。すぐに人、呼んでくるから。
そう寝ているマティアスさんに声をかけ、俺は外に出た。
この家、天井高すぎじゃないだろうか。しかもデカい!
広すぎて、人が誰もいない。
そんなことを思いながら、走る。家?の中はところどころに松明
があってかなり明るかった。
自分の部屋の廊下を曲がり、さらに長い廊下をがむしゃらに走っ
て、角を曲がろうとした時だった。
131
﹁
何奴っ!
﹂
怒鳴り声と同時に急に首筋に冷んやりとしたものが当てられる。
今の大声が聞こえたのか、何人かの男の人が集まってきた。まだ
あの⋮⋮
﹂
首筋にあてられたものは離してもらえてない。
﹁
こいつ!血だらけだぞっ!
﹂
﹁
え?ゆっくりと顔を下げると、確かに俺の服や身体は血だらけだ
った。
誰の?そうだ。マティアスさんと魔物のか。
結構ぐろい。
違う!僕は⋮⋮
﹂
必死だから気づかなかったんだろう。
﹁
﹂
事情を話すために、振り向こうとする。これはちゃんと否定しな
逆らうなっ!
いと⋮⋮
﹁
まてよ!おい!人の話は聞けって習っただろ!
ドンっと首筋に衝撃が走り、視界が奪われた。何が起こったのか
わからないまま、何処かへ引き摺られて行く。
132
2−7 帰還と侵入︵後書き︶
たくさんの評価、お気に入り登録ありがとうございます。
133
起きろ!﹂
2−8 拷問と拘束
﹁⋮⋮おい!
おい!﹂
暗闇の中で、誰かがしきりに叫んでいる声を聞いていた。
﹁おい!
声が段々と近くなる。耳元で叫ばれているのではないかと思うほ
ど声が大きくなった時、急に意識がはっきりした。
﹁ここは⋮⋮?﹂
ぼんやりとした視界を何とかしようと、何度か瞬きをする。
﹁やっと目を覚ましたか、小僧。さんざん待たせやがって﹂
次第に男の輪郭が浮かび上がり、机を挟んで互いに椅子に座って
解いてくれ﹂
いたのだと気づく。
﹁なんだ、これ!
俺は腕も足も動かせない状態だった。力を入れても、同じだけ縄
が肌に食い込んでくる。
状況を理解出来ないながらも、目の前に中年の男に助けを求めた。
しかし、男は手を貸してくれるどころかガタガタと椅子を鳴らす
俺を鼻で笑って見ているだけだ。こんな太い縄を千切れるわけがな
い。無駄な努力だと分かった俺は、男を睨みつけた。
﹁正直に言ったら、その縄を解いてやろう﹂
﹁正直に⋮⋮何を?﹂
134
意味が分からず、俺は眉をひそめた。
大体ここはどこだ。部屋には大きなドアがついているだけで窓は
ない。狭くて薄暗い空間はいるだけで気分が悪くなりそうだった。
﹁ウエストヴェルン家の次男、マティアス様を怪我させたのはお前
だろう。血だらけで廊下を走っているなんてな、自分がやりました
何か勘違いをしているようだが⋮⋮﹂
と叫んで走り回っているようなもんだ﹂
﹁違う!
なぜかとんでもない誤解をされているようだと知り、俺は声を荒
げて訂正した。不自由な足で立ち上がろうとする。
﹁煩い!﹂
﹁⋮⋮な、に﹂
男が椅子から立ち上がったかと思うと、次の瞬間には目に見える
ものすべてが反転していた。
視界に真っ赤な色が流れ込んでくる。鉄くさい匂いと生暖かい感
触で、それが頭から垂れてきた血だとわかった。
俺は男に殴られたのだ。よく考えば身動きができないからどうす
ることもできなかったのだが、椅子ごと面白いように倒れ、堅い地
面に頭をぶつけていた。
止まらない血は冷んやりとした石についた片頬を濡らし、地面に
水溜りを作っていく。
諦めろ、お前の仕事は失敗したん
﹁俺は何も、誰かいないかと探していただけで﹂
﹁そんな訳ないだろう。ああ?
だよ﹂
男は怒鳴り散らしたかと思うと立ち上がることができずに横たわ
ったままの俺の髪の毛を掴んだ。
135
﹁正直に言えば、すぐに楽になるぞ﹂
﹁⋮⋮ち、が⋮⋮うあ⋮⋮﹂
否定の言葉がすぐにうめき声に変わる。
男は緩慢な動作で俺の頭を持ち上げるとガツガツと何度も床に叩
きつけた。俺の軽い体は男の片腕で面白いように持ち上がる。
耳を塞ぎたくなるような音が部屋の中で響いた。
最初は同じ部分に当たらないように、反射的に体を捻じっていた
が、次第にそんな力もなくなっていく。
痛みで言葉を失い、体を硬直させていると、男はようやく手を止
めた。
今度は俺を無理矢理持ち上げると、自分の顔を近づけてきた。
﹁普通ならとっくに気を失ってておかしくないんだがな。流石に訓
練されているか。依頼主は誰だ﹂
﹁だ、から、ごかいを、して⋮⋮マテ、ィアスは﹂
思ったように動かない口を震わせて、誤解を解こうとする。
マティアスさんが怪我したのは本当だ。俺を庇って傷を作ったの
だから、責任がある。ただ、この男は俺がわざと怪我をさせたのだ
と思っているらしい。
マティアス様というあたり、身分が高いのだろうか。そんな人を
傷つけたから、こんな拷問のようなめに合っている?
わからない。
﹁ああ。訓練を受けているなら、これが必要か。自殺されたら俺の
手柄がおじゃんだ。ああ、こんな餓鬼まで暗殺者とは世も末だな。
それで油断させて、ということか⋮⋮﹂
男は俺の言うことに聞き耳を持たず、興味を失ったように手を離
136
した。
支えを失った体は床に叩きつけられて、二度跳ね上がる。
﹁聞け、よ⋮⋮おぃ﹂
﹁お前の上まで見つかればなおいいんだがなぁ。取り敢えず、お前
に罪を認めてもらわんと﹂
男は俺の口に何か嵌めながら、面倒だとため息をついた。
まともな言葉を発することが出来ない。やめてくれと頭を揺らし
たが何の抵抗にもならなかった。
金具を留め終わり、男は太った体を椅子の上に乗せた。最初に俺
が座らされていた椅子だ。木製の椅子が、ギシギシと軋む。その前
で俺は横たわっていた。
﹁お前は暗殺者だ。命令を受け、マティアス様の殺害を実行しよう
とした。しかし、失敗。血まみれで水翠宮にいたところを見回りの
兵士に見つかった。そうだろう?﹂
違うんだと頭を横に振る。血をたくさん流したからなの
﹁んんん﹂
違う!
か、頭を何度も打ち付けられたからか、力強く動かしたはずの頭は
小僧が!﹂
僅かに左右に揺れただけだった。
﹁くそっ!
男が再び顔を真っ赤にして、俺の頭を掴む。そして、振り下ろす。
ガツンと、また脳が揺れた。
⋮⋮このままじゃ殺される。
口を塞がれ呼吸もままならない状態で、命の危険を感じ取る。ま
137
だ小さな体は力では到底男のかないそうもない。
逃げなければ、どこかここ以外のところへ。
きっと部屋の外には男の仲間がいるだろう。でも、とにかくここ
から逃げなければ俺は死んでしまう。躊躇もせずに人の頭を堅い床
にぶつける男が怖かった。
朦朧とした意識で必死に考える。
男の腰に刺してある剣が目に入った。動く度に、ガシャガシャと
揺れている。
その音を聞いて思い出す。ここは地球じゃない。だから剣が持ち
運べて、魔法がある。
床に銀色の髪が何本か散らばっている。男が引っ張ったときに抜
けたものに違いない。割れるように痛かったために髪の毛が抜ける
痛みなど全く感じていなかっただけだ。
自分の弱い魔法は通用するだろうか。
あまり素早く動きそうには見えない男を観察する。しかし、髪の
毛はもちろん真っ白ではない。それを差し引いても、魔法初心者の
自分が敵う可能性は低い気がした。
また男の腕が、力なく倒れたままの自分に伸びてくる。
反抗する気力もない俺のことを、男は全く警戒していない。
これならいけるかもしれない。魔法を使ってここから逃げ出し、
話を聞いてくれる人を探そう。マティアスさんにも証言してもらえ
れば、きっと助かる。
138
︵
氷結能⋮⋮力⋮⋮
︶
魔物に使った時と同じ魔法をイメージした。同時に意味をなさな
いうめき声が漏れる。
床に夥しく広がった赤い液体が、引きづられたせいで何箇所も擦
りむけた腕の周りで凍った。
なんで!︶
でも、それだけだった。
︵
体の中で何かが急速にしぼんでいく感覚が体に走る。動いてもい
ないのに、一段と息が苦しくなった。
魔法、なんでうまくいかなかったんだろう。
もう一度試してみるが、今度は何も起こらない。
﹁お前は王宮に誰かの手引きを受けて忍び込んだ。そうなんだろう
?﹂
突然、頬を打たれた。体の横で氷がパリパリと割れる音がしたが、
男の耳にが入っていないようだった。
そこでようやく魔法が使えなかった理由に思い当たる。
こんな悪い夢のようなことでも現実だ。気持ち悪い化物に襲われ
て、知らない兵士と清爛に乗って部屋へ帰ったのだ。練習以外で魔
法を使ったのは始めてだ。
139
ずっと前に何度か体験した魔力がなくなった時の感覚と同じだっ
た。
もうどうすることもできない。自分に出来ることがなくなった。
誰か助けて。心の中で必死に叫ぶ。
俺がこうして暴力を受けていることを一体誰がどうやって知るこ
とができる?
親もいない、友達もいない。
今の自分には助けてくれる人など誰もいないのだと気づいた時、
じわりと両目に涙が浮かんだ。
﹁可哀想になぁ。失敗したお前はもう切られたんだよ。誰も助けに
なんかこない﹂
男は全く同情してない顔でそういうと、俺を引きずり始めた。
中で大きな音がしていましたが、一体何が⋮⋮?﹂
足が地面に力なく垂れ、進む方向に一本の赤い線を引く。
﹁隊長!
部屋を出るとすぐ、若い男の声がした。俺を言葉を失って息を飲
んだ気配がする。
上を向く気力など残っておらず、ただ徐々に掠れてきた血の線を
ぼんやりと見ることしかできないので、その男の表情は分からない。
﹁何だ、言いたいことでもあるのか﹂
俺に暴力をふるっていた男はその様子を見て気分を害したらしい。
一層不機嫌な声になった。
﹁それ以上やったら、死んでしまうのではないでしょうか。まだ幼
140
いようですし、一旦休ませてから⋮⋮﹂
﹁黙れ。こいつはこう見えても殺しをしようとしたんだ。まだ続け
る。地下室の用意をしろ﹂
二人が何か話しているのは分かったが、頭がついていかず、内容
は理解できなかった。
﹁しかし、あそこは反逆者や間者に使用する部屋です。ですから⋮
⋮!﹂
﹁ああ、知っている。お前の意見は聞いていない。それと、こいつ
のことは絶対に他言するな。横取りされてはかなわんからな﹂
俺を掴んでいる男の手が揺れ、再び落とされるのではないかと身
を強張らせた。
結局男は手を離さなかったが、そのことに心から安堵している自
分がいた。
あまりにも非現実な環境の中で、逆らえない暴力への恐怖を体が
覚え始めていたのだ。
先ほどから、頭は白い靄がかかったようにはっきりしない。これ
以上何かされたら、おかしくなりそうだった。
﹁さぁ、着いたぞ﹂
何箇所も角を曲がり、階段を降り、ようやく部屋に着いた。その
途中の道では誰にも会っていない。
男に言われ、無理に顔を上げさせられた。
同時にさっきの若い男が言っていたことを理解する。
141
♢♢♢♢♢
そこは確かに拷問用の部屋だった。
﹁⋮⋮だから、これ以上やるなと言っているんだ!
しまうぞ。一体この子が何をしたというんだ!?﹂
反響する男の声で目が覚めた。
寒い。鳥肌が立ち、心持四肢を体に近づける。
本当に死んで
今どこにいるのか確認しようと、瞼を押し上げるが、重くて下が
ってきてしまう。
そんな風にはとても見えない。きっと何かの
﹁こいつはなぁ、こんななりでも立派な犯罪者なんだよ﹂
﹁証拠はあるのか?
間違いだ。例えこの子が犯罪を犯したとしても、まだ保護者の責任
のなる歳だろう﹂
誰かが大声で言い合いをしているようだ。割れそうなほど頭が痛
いことに気づき、もう少し静かに話して欲しいと思った。
暫くすると、とても静かになった。
静寂の中、ぴちゃんぴちゃんと水が落ちる音が聞こえる。自分じ
ゃないから、涼か父さんが洗面所の蛇口を閉め忘れたに違いない。
億劫だが、水を止めにいかないと。この前、母さんが水道料金を
気にしていたから。
142
そう思って目を開けると、見たこともない男の人が俺の方へ手を
伸ばしていた。
﹁⋮⋮だ、れ?﹂
驚いて声を出したが、隙間風のような小さな音が喉から漏れるだ
った。それでも焼け付くように痛い。
俺がそう聞くと、男の人は鉄格子の向こうへ手を引っ込めた。
不思議に思った俺は、さっきからいまいちピントの合わない目で
男の姿を捉えようとする。
あ、れ?﹂
暗い中、厳つい顔をしたアーロンさんが労しいものを見る目をし
て、唇を噛み締めている。
﹁アーろ⋮⋮ン⋮⋮さん?
俺が名前を出すと、アーロンさんは厳しい表情を少し崩した。
﹁そうだ。君と一緒でここに捕まっているアーロンだよ﹂
﹁そっ、か﹂
確かにアーロンさんは隣の鉄格子に入れられていたが、俺とは違
って手足は自由に動かしていた。だから、捕まったとしても軽い罪
に違いない。一体この人は何をして捕まってしまったんだろう。
それに対して俺は両手両足を縛られている。
こんなのがなければ殴って逃げ出せるのにと苦々しく思って、足
元を見た。
﹁あれ?﹂
きっちり足を束ねて縛られているはずの縄は何処にも見当たらな
143
かった。
食事持ってきたぞ﹂
さらに驚いたことに、服は元の色が思い出せないほどどす黒く染
まっている。
﹁少年、大丈夫か!?
ドタドタと足音が近づいてくる。
それを聞き、さっきまで俺を殴っていた男の声ではないとだけ思
った。
さっきから難しいことが考えられない。頭が痛いせいなのか、何
かおかしい気がした。
アーロンさんは足音にすぐに反応し、牢屋の前までやってきた兵
士に問いかけた。
﹁あいつはどうした﹂
﹁食事にきつめの睡眠薬を混ぜておいたので、暫く時間を稼げると
思います﹂
兵士は早口で答えながら、地面に持ってきた食事を並べる。
アーロンさんはそれを聞いて、ほっと安堵のため息をついた。
﹁ああ、よくやった。でも、もう限界だ。この子がここまで持って
いることの方が驚きだよ。先ほどから意識が溷濁しているみたいで、
会話が支離滅裂なんだ。目を覚ましたときは私のことも分からない
ようだった。どうすればいい。校長から連絡はないし⋮⋮﹂
アーロンさんに意識が混濁していると言われてから俺はようやく
起きてからずっと感じていていた違和感を認め、納得した。
144
この手足についた縄の跡はちょっと暴れたぐらいでつくものでは
ない。気にしないようにはしていていたが、背中は焼け付くように
痛む傷があるようだ。そして、夥しく付着している血液。
ここに来てからの記憶が飛んでいる。断片的には思い出せるけど、
自分をコントロールできなくなっている。
どうしてもアーロンさんと出会ったときのことは思い出せそうに
ないし、さっきまで俺は自分が病気になる前に戻ったのだと勘違い
していた。
今だって、気を抜けばまた眠ってしまいそうだ。
落ちそうな意識を必死に食い止める。二度と目覚めないんじゃな
いかという恐怖と、もし目覚めたとしても自分は一体どうなってい
るのかという不安。
時間はあ
﹁取り敢えず、食事を取って寝た方がいい。ですよね、先生?﹂
﹁そうだな。そのスープがいい。自分で食べれるかい?
るから少しずつゆっくりでいいんだよ﹂
兵士がアーロンさんが指し示したカップを俺の前に置き、じっと
見ている。
寒々しい牢屋の中でスープが白い湯気を立てて、存在を主張して
いた。
﹁このスープは美味しいって人気なんだよ。前に飲んで、気に入っ
ていたからこれにしたんだ﹂
小刻みに震える手をカップに手を伸ばす。凍えた手には熱すぎる
ような気がしたが、二人の期待に満ちた目を無視できない。
145
膝に載せてそっとスプーンを口にいれる。前に俺がこれを飲んだ
かのような口ぶりで勧められたが、スープを舌にのせても本当にそ
うなのかは分からなかった。
味はよくわからないけれど、何口か飲むと、体の奥から暖かくな
ってきた。
スープを飲む俺の横で、牢屋の中のアーロンさんと兵士が会話を
始める。
﹁これは不当な取り調べだろう。お前がなんとかできないのか﹂
﹁今は団長副団長がいないんです。こんなこと初めてで⋮⋮。本当
ならもうとっくに団長が戻っているはずなんですよ。何かトラブル
があったのかもしれません。俺は上に伝手もなくて、恐らくバレた
らこの子が先に潰されてしまいます。それに今は俺の行動も制限さ
れているんです﹂
一体この国はどうなっているんだ﹂
見なくても、アーロンさんのイライラとした雰囲気が伝わってく
る。
﹁ああ!
﹁先生⋮⋮﹂
暖かいものを体に入れた俺は、段々と瞼が重くなってくるのを感
じた。
まだ二人は何かを話し合っているようだが、耳を通り抜けて行く
ばかりで、内容が頭に入ってこない。
寝てしまおうと思う前に、俺は硬い石の壁に背中を預けて深い眠
146
りについていた。
寒い。体に痛みを感じて、目が覚めた。
静寂の中、ぴちゃんぴちゃんと水が落ちる音が聞こえる。自分じ
ゃないから、涼か父さんが洗面所の蛇口を閉め忘れたに違いない。
億劫だが、水を止めにいかないと。この前、母さんが水道料金を
気にしていたから。
そう思って目を開けると、見たこともない男の人が俺の方へ手を
伸ばしていた。
﹁⋮⋮だ、れ?﹂
喉から掠れた声が出る。
それを聞いた男の人はほとんど泣きそうな顔で心配ないよと言っ
た。
﹁私はアーロンだ。まだ時間はあるからもう少し寝てていいんだよ﹂
何故か痛む体をそっと動かすと、膝の上からカップがずり落ち、
大きな音を立てて床に転がった。
何を入れていた入れ物だろう。水かなにかだろうか。
いくら考えても俺は分からず、首を傾げた。
147
2−9 過去と異動
もうずっと前の話だ。
お父様が亡くなったと聞かされた。
目の前が真っ暗になったが、私には今やらなければならないこと
がある。
伝えてくれた同僚に休んだ方がいいのではないかと言われたが、
なんで。
大丈夫と戻ってもらった。
⋮⋮
私の育ての親。本当の母親には虐待を受けた。なぜかはわからな
い。ただ自分の姿から異種族の男との子どもが嫌なのだろうと思っ
た。だからだったのか。働いて、働いて。結構周りの人は優しかっ
た。私が外へ出るたびに母の生活は堕落して行った。
そんな時だった。知らない男、後のお義父様がやってきて私に言
ったのだ。
│││辛いか、と
あの時何を言ったのだろう。ただあれが私の日常で、あの生活だ
けが生きるということと同意義だった。
わからない。助けて欲しいとは言わなかったはずだ。そう思って
いなかったのだから。
その男の周りには誰もいなかった。もしかしたら辛くて寂しかっ
148
たのは彼自身だったのかもしれない。やがて私は彼の家で働き、同
時に娘のように育ててもらった。
そして、自分がいなくなってから生きていけるようにと王宮の侍
女として働きに出してくれた。
私は正式には養子になってない。だけど、彼は私に十分すぎるほ
どの財産を残してくれていた。養子を断った代わりに、考えてお父
様が用意してくれたんだろう。私には子どもとして愛してくれただ
けで十分だったのに。
あなた、ちょっとこっちへいらっしゃいな
﹂
││週末にお休みをもらって家に帰ろう。花を持って。
﹁
紅茶をいれていた手がびくりと止まる。どうしよう。
うわの空で仕事をしてしまっていた。
なにか粗相をしてしまった
今日は手が足りないとかで華月宮の妃の私室ででお茶を入れなけ
ればいけなくなったのだ。なにか⋮⋮
はい
﹂
のだろうか。せっかくお父様が紹介してくださった仕事だったのに!
﹁
カタカタと震える手で食器をカートの上に置き、妃の前に立つ。
頭を下げたままでも、妃が椅子から立ち上がられてこちらへいら
っしゃるのが分かった。
何が起こるのか分からない恐怖からぎゅっと目をつぶる。どんな
お方だったろうか。どの方にお茶を入れていたかも思い出せないな
んて⋮⋮!ぼーっとしていた今日の自分が恨めしかった。
肩をそっと押される。不敬にあたるのに思わず顔を上げてしまっ
149
た。
ようやく自分の前に立っている方顔を見る。
ああ⋮⋮!
ディアナ様
初めて拝見するお顔だったがすぐに分かった。
よくも悪くも後宮では必ず話題にあがる方。他の後宮の姫たちか
らは悪口を。
﹂
侍女の間では様々な噂。出自は不明。王の寵愛を一番に受け、そ
妃にあるまじき行動の数々。
座ってね。私が今、おいしいお茶をいれてあげるから
して⋮⋮
﹁
そのままなぜか、背中を押されてさっきディアナ様が座られてい
あのっ⋮⋮
﹂
た椅子の向かい合っている椅子に座らされた。
﹁
ポッドを手に持ったディアナ様を止めようと立ち上がると、ディ
いいの!これは命令よ!
﹂
アナ様は振り返ってこちらを見られた。
﹁
そんな命令聞いたことないと思いながらも、カチャカチャと食器
を鳴らして前に紅茶を出される。飲んでといわれ、恐る恐る口に含
おいしい?おいしい?
﹂
んだ。私のような者は同じ席でお茶を飲める身分ではないのに。
﹁
ディアナ様にもし尻尾がついていたんなら千切れんばかりに振っ
ているだろう姿に、ついくすりと笑ってしまった。私より年上だと
美味しいです
﹂
思っていたのに、なんとも可愛らしい方だ。
﹁
150
﹂
そう言うと、ディアナ様は飛び上がってしまうのではないかと思
じゃあ、今度は面白い話をしてあげるわ。あのね、││
うほどに喜んだ。
﹁
それが私とディアナ様の出会い。
何個目のお話だっただろうか。王のポケットをこっそり夜中に縫
い付けておいて、手を突っ込もうとしてびっくりしていた話を聞い
たときに、ようやく私を慰めようとしてくれていたのだと気づいた。
浮かない顔でお茶を入れていたに違いない。
♢♢♢♢♢
私、エドラがディアナ様付きの侍女になったのはそれから遠くな
い先の話だ。
エルメル様がいない。
一週間前から突然言い渡された休養。私はそれのすべてを情報集
めに使っていた。
あの日、マティアス様とエルメル様が旅に出られてから日が経っ
ていて、いつものように朝のお部屋の掃除に立ち寄ったのだ。
そこにはいないはずのマティアス様の姿があった。しかもなぜか、
エルメル様のベッドの上に。
151
慌てて部屋に入ると、マティアス様の横には知らない兵士。驚き
のあまり叫び声をあげそうになったところでようやくマティアス様
の怪我に気がついた。
掃除道具を素早く床に置き、救急箱を持ってくる。お医者様を呼
ぶ前に状態を確認しないと。
マティアス様の怪我はきちんと治療できていた。お医者様を呼ぶ
必要はあるだろうが、マティアス様のお話を聞く余裕はありそうだ
と判断した。
﹂
その間に隣にいた兵士は起きて、ここじゃ水翠宮だと聞くと、﹁
マティアス様にお礼を言っておいてください。お願いします
といって走り去ってしまった。
問題が起きたのはそのあとだった。
血が滲んだ包帯を取り替えているとマティアス様が目を覚まされ
た。
すぐに聞かれたのは、エルメル様のこと。
見ていないと答えると私の言葉を振り切ってふらつきながらどこ
かへ走って行こうとする。
怪我をしているのに私は追いつけず、途中で見失ってしまった。
しばらくして、水翠宮に戻ろうと包帯を持ったままとぼとぼ歩い
てるときに見つけたのは、マティアス様を馬車に乗せようとされて
あ⋮⋮!
﹂
いるフェルナンド様。
﹁
152
第三王子つきの侍女か?
い⋮⋮
﹂
﹂
一ヶ月休養を与える。新しい配属の
私に気づいたフェルナンド様は言った。
﹁
ことは追って連絡する。王子のことは口外しないで欲しい。
は⋮⋮
それと、マティアスの怪我の手当をしてくれてありがとう
﹁
自分の部屋に戻り、同室の同じくエルメル様つき侍女に配属が変
わるらしいと伝えた。
彼女は突然できた休みの間、どこに行こうか考えてウキウキして
いるようだった。
そう。侍女の配属が変わるなんてよくあることだ。
エルメル様がいないんだ
﹂
でも、私には休日の予定を立てる心の余裕なんてなかった。
﹁
私室から走って行かれるときに聞こえたマティアス様の言葉。こ
れが頭をぐるぐると回って私を離さないのだ。
それは一体どういうこと?
153
2−10 見習と人質
次の日から、エドナは情報を集め始めた。
彼女はこの六年間、たった数人のエルメル王子の世話係メンバー
だったのだ。
・
隔離された場所でもあったことから他の侍女ときちんと会話を交
おかしいわ。
わす機会はほとんどなかった。
⋮⋮
そう、おかしかった。
確かにエルメル様は外にお出にならない。でも、なんで誰もエル
メル様のことを知らないの?
まるで、いないかのように。皆が次の王子、ティモ様を第三王子
と呼んでてる。
エルメル様はこのままいなくなってしまうの
嫌な予感がした。マティアス様の怪我、たった二人の侍女の異動
の話。
もしかしたら⋮⋮
ではないだろうか。
エドナの心に不安がよぎる。
そうだ。私たちさえ口を閉ざせばこれで、エルメル様を知る者は
いなくなる。口外しないで欲しいと言われたが、それは忘れろとい
う命令だったのだ。
154
エドナは歯をギリっと噛み締めた。そんなことできるはずがない。
ディアナ様が自分を犠牲にしてまで産んだお子様が生まれたことす
名前は何がいいかしら!
﹂
ら知られずに、消えていくなんて許されるはずがないのだ。私はこ
﹁
今、この子蹴ったわ!﹂
のままでは終わらせない。
﹁
おなかをさすって、無邪気に笑っていた。
私の代わりにこの子を見ていてあげて
﹂
もう聞くことは叶わない、嬉しそうなディアナ様の声が頭に響く。
﹁
私にはそうは思えない。
最期にディアナ様に言われて、私はエルメル様を見てきた。
感情がない子ども?
野菜は生より調理してあるのが好き。にんじんはきらい。特にバ
ター炒めは大嫌い。トマトは好き。朝ごはんは少なめで、お昼にた
くさん食べる。派手な色より落ち着いた色が好き。
見ていればわかる。外に出すのが下手というだけだと思う。
エルメル様に感情がないなんてどうして言えるの?
ディアナ様に言われたからだけじゃない。私は勝手にエルメル様
のことを自分の子供のように思うようになっていた。
きっと理由があるのだと思ったのだ。エルメル様にはなにかお考
それでも、その邪魔をしないように
えがあるのだ、と。あんな小さい子にそんなこと思うなんておかし
いと思われると思うけど⋮⋮
こっそりと世話をさせていただいてきた。
お気に入りの椅子に座られて空を見上げてらした時、エルメル様
155
を見て悟ったのだ。この方は何かをなさろうとしている。
それならば、私は許される限りどこまでもついて行こう。
エルメル様はどこへ行ってしまわれたのだろう?
マティアス様もエルメル様を探したいに違いない。でも、あの怪
私は
我では⋮⋮きっと動くことすらままならない。それに、今は王宮に
いらっしゃらないのだ。
今、動けるのは私だけだ。
誰かのせいで危険な目にあっていられるのだとしたら⋮⋮
そいつを許さない。
幸い、この国に私より暗闇で目がきく者などいないのだ。夜は私
が一番有利に動ける時間。種族が違う王宮につとめている者など相
手にならない。ほどの強い体力。
♢♢♢♢♢
私は生まれて始めてこの体に感謝した瞬間だった。
フェルとリクの部屋で倒れてから、目覚めれば自宅にいた。
何度もエルメル様を探しに行こうとしたが、周りのものに止めら
れる。いつもならそんな制止、簡単に振り切れるはずだ。それが出
来なかったのは確かに自分が怪我で弱っていることを示していた。
156
このままではいつまで立っても王宮へ戻れない。
そう考えて、助けを求めたのは今隣にいる男だ。
乳兄弟のレオニート。小さいころから兄弟同然に過ごし、学園に
も一緒に通った。
今は家で家令見習いをしている。
レオに洗いざらいすべてを話した。頼む、なんとか自分を王宮に
連れて行って欲しいと。
それを聞いたレオはニヤリと笑った。制服を着崩した軽い男だ。
どこまでやっていい?
﹂
それでも、きっと頼りになる。
﹁
どこまででも
﹂
﹁
あと⋮⋮
﹂
﹁
王宮の侍女だろ?
﹂
﹁
自分の言葉に答える代わりにレオはニヤリと笑うと部屋を出て行
った。今から三十分で逃がしてやるよ、と言い残して。
きっかり二十分後。聞こえてきたのはたくさんの悲鳴と破裂音。
そして、清々しい顔で﹁逃げよう﹂と部屋に入ってきたレオ。に
こやかに差し出す姿が逆に恐ろしい。
しかし、躊躇する暇などない。迷わずその手をとった。
馬にのって、王都に向かっている途中。
レオ⋮⋮
﹂
﹂
﹁
いや、褒めてくれなくていいよ∼
もしかしてお前⋮⋮
﹁
もう何も言う気になれない。
157
レオが何をしたかは想像がついた。
屋敷じゅうに花火をまく。レオは火力は強くないものの、そのコ
ントロールは群を抜いている。針を通すような正確さで魔法を操れ
る男だ。広い屋敷の様々な場所に仕掛けられた花火に一斉に火をつ
けたに違いない。ああ、絶対そうだ。レオがあんな風に笑った時、
兄様は⋮⋮
﹂
ろくなことにならないのを忘れていた。
﹁
⋮⋮!
﹂
﹂
父上から自分を王宮に行かせるなと言
今日は兄様が家にいたはずだ。レオは兄様にかなわない。一体ど
うして追ってこないのか?
われているに違いないのに。
﹁そうだ。ついでに帰ったら、これ返しといて
なんだ?
ほいっとレオが何かを投げてよこした。
﹁
これは兄様がとても大切にしているティーカップの一つじゃない
お前はこれを人質にとったんだな⋮⋮
か!部屋に飾っているのを見たことがある。
レオ⋮⋮
この男は本当に家令見習いなのか?
長男の兄様は言わずもがな次期当主である。
この男、危険だ。
﹂
すっきりした顔で隣を走っている男から逃れるように馬を走らせ
ほんとに大丈夫か?
た。
﹁
苦しげな呼吸をしている自分にレオニートが心配そうに聞いてく
る。
息が切れている今の状況では大丈夫だという体力もなく、隣の男
158
に向かってひらひらと手をふる。
体力の限界がきたからといって止まるわけにはいかないのだ。
王宮に入ってからは馬を降り、執務室に向かって走る。
ひっ
﹂
ちょうど、騎士団訓練所の近くを通った時だった。
﹁
マティアス
﹂
近くから小さくくぐもった悲鳴が聞こえた。
﹁
ああ
﹂
﹁
レオの視線に頷いた。あれは訓練の一環じゃない。恐怖を含んだ
悲鳴だった。何かあったに違いない。
剣に手をかけ、そろりそろりと倉庫の裏へ回る。ここにいる!研
ぎ澄まされた神経はっきりと気配を感じた。
は?
﹂
待てとレオを手で制し、先に暗闇から顔をそっと出す。
﹁
つい声をあげてしまった。しょうがないだろう。信じられないも
どうした!?
﹂
のを見てしまったんだから。
﹁
﹂
後ろにいたレオが自分を押しのけ、前にいってしまう。しかし、
マティアス様、大変です!
彼の動きもすぐに止まった。
﹁
そっちも大変なことになっているぞ⋮⋮
﹂
﹁
159
う⋮
﹂
﹂
﹁
え?ああ⋮⋮
い⋮
﹁
エルメル様つき侍女、エドナがそこにいた。エルメル様が生まれ
たときから仕えている一番古参の侍女だ。
エルメル様が大変なことに⋮⋮!
﹂
とりあえ
彼女に片手で首を掴まれ、持ち上げられていた男はぐしゃりと地
面に落とされた。
マティアス様!
彼女はその男をチラリとも見ずに、言う。
﹁
﹂
どういうことだ?なぜ騎士団に?
ず、騎士団第二支部の方へ!
﹁
話は走りながらお伝えします!
﹂
﹁
すごい剣幕のエドナに圧され、走り始める。なぜか、レオも必死
な形相でついてきていた。
﹂
ここ一週間王宮の色々なところを調べていたんですが、エルメ
初めは王宮に連れて行くだけだぞとか言っていたのに。
﹁
ル様の情報は全然なかったのです
ただ、今日聞いたのは一週間前に銀髪の少女がマティアス様暗
そうだろう。すごい情報統制がなされていたからな。
﹁
とはもしかして。知らなければそう見え
殺未遂の罪で捕まったということです﹂
まさか⋮⋮!少女⋮⋮
ても⋮⋮おかしくない。分かっている。銀髪なんてエルメル様以外
うつ⋮⋮
い
﹂
いないじゃないか。
﹁
真剣な自分たちの後ろでレオが何かをつぶやいている。
160
﹁
わかった。急ごう
誰か騎士団の人間が口止めをしていたとかで
﹂
﹁
﹂
リクたちから連絡が一つもない今、手がかりはそれだけなのだ。
可能性は一つ一つ潰しいかなければいけない。
痛む傷もきれる息も気にならなかった。
マティアス様、こちらです
﹂
ただ第二支部へ向かって走る。
﹁
自分は止めようとする兵士を強引に遠ざける。隣ではエドナが倒
まだ何かを言っている。一応助っ人をしてくれてい
された兵士を締め上げている。侍女ってこういう感じだったろうか。
レオは⋮⋮
るので邪魔ではないが、不気味だ。いつもならうるさいほど話しな
がら戦うのに。
締め上げた兵士に情報を吐かせ、銀髪の少女の元へ向かう。
次第に薄暗く、狭い通路へ。
嫌な汗が背中を流れた。
地下に降りたところにある突き当たりの小さなドア。
それを開けた瞬間、怒りに身が震えた。
突然ドアが開いたことに驚いて手を離したのかバシャリと水音が
161
して、押さえつけられてたものが上がってきた。縛られながらも触
れられている手をどけよと必死に暴れる姿。
それはぼろぼろのエルメル様だった。いくつもの傷ができている。
なんて⋮⋮
﹂
﹂
自分を見たエルメル様は目を大きくし、すぐに安心したように微
マティアス様、この餓鬼があなたの暗⋮⋮
笑んだ。
﹁
黙れ
﹂
﹁
何があったのかは明らか。
自分の中の魔力がボコボコと膨れていく。
今、ちょうど拷問を
こいつは、エルメル様を、
﹁
黙れ
﹂
﹁
その薄汚い口を開くな。
後ろでエドナが拳を握りしめたのがわかった。ああ、悪いが、自
分にやらせてくれ
魔力を抑えきれない。抑えても抑えても溢れ出してくる。こんな
こと今までになかった。
いや、抑える必要は、ないのか。まるで魔力の爆発のようだとど
こか頭の片隅で思った。エル様の爆発を待ち続けた自分がそう感じ
るとはな。
それでもいい。それならば自分はこの瞬間から生まれ変わろう。
火の竜巻がいくつも自分の周りを回る。
162
その日、騎士団所有の建物が第二支部全壊。本部、第三支部は半
壊した。
163
2−11 安堵と恐怖
水翠宮。最も活気に溢れていてもおかしくない宮の裏寂れた一角
にあるエルメルの自室はとても静かだった。
自分のせいで、こんな⋮⋮
押しつぶされそうな沈黙の中で、マティアスはもう何日もベッド
の横から動こうとはしなかった。
﹁エルメル様、申し訳ございません!
こんなことになってしまって。申し訳ございません。早くお目覚め
になって下さい﹂
彼の主は救出された後から、まだ一度も目覚めてはいなかった。
騎士団の建物を爆破し、エドナとレオニートの協力でそのまま誰
の目にも触れないようにここまで連れてきた。
我を忘れてエルメルを抱え走り、ようやくたどり着いた私室で、
エルメルをベッドに横たえたときの絶望をマティアスはこの先忘れ
ることはないだろう。
その小さな体には、見ているのも痛々しいほどの傷が無数に散ら
ばっていた。
早く傷の手当をしなければと絶望で震える手で触れたのは、擦り
切れ所々どす黒く染まった布切れ。それが、最後にエルメルに会っ
た日に自分が選んだ服の成れの果てだと気がついた時にはマティア
164
スは体の力が抜け、崩れ落ちていた。
﹁彼女の言った通りならそろそろ目を覚ましておかしくないはずな
のに⋮⋮﹂
マティアスは西日が差し込んでいることに気づき、立ち上がって
窓の前に立った。誰が手入れしているのかも分からない庭が見える。
マティアスにはカーテンを閉めながら、最初に医師がきたときの
ことを思い返し始めた。
レオニート経由で伝えられたのか、エルメルの元へ派遣されたの
は王族の体調管理を任されている医師であった。
医師が部屋にやってきたとき、マティアスは非常に驚いた。考え
てみれば、当たり前のことだ。実の息子が死にかけているのだから。
しかし、今までの王の対応はそれほどまでに冷たいものだったのだ。
エルメルを診察した医師は女性で、ベッドの横で何も出来ずにオ
ロオロしているマティアスにこう言った。
普通なら死んでいてもおかしくないほど酷い状態です、と。
マティアスはその時になってようやく自分の愚かさを知った。結
局は何の覚悟も出来ていなかったのだ。
瀕死のエルメルを見て、マティアスは思った。
きっと、この方は許されない暴力に黙って耐えていたんだろう。
自分が助けなかったから、こんなことになったんだ。
165
その考えを読み取ったのか、それとも気づかぬうちにマティアス
が口に出していたのか、医師は包帯を巻きながら首を横に振った。
﹁それは違うと思います。手首と足首を見てください﹂
言われるままに、マティアスはエルメルの手首を取った。縄の跡
が赤くつき、皮膚が擦り切れている。
痛そうだ、とマティアスは顔を歪めた。
﹁これは、彼が必死に逃げようと、助かろうと暴れたからできた怪
そんなことはありません。彼はずっと
我です。喉も一体どれだけ叫んだのだろうと思うほどに腫れていま
した。黙って耐えていた?
戦っていましたよ﹂
ずっともがいていた?
医師の話を聞いて、マティアスは無意識に手を握りしめていた。
ずっと叫んでいた?
いつも人形のように座っている、じっと本を見ている主の姿しか
知らないマティアスには全く想像出来なかった。
﹁普通ならもう助からない状態ですと言いましたが、今命があるの
は彼の異常なまでの回復力によるものです。安静にしていればいず
れ目を覚ますでしょう。その頃までには多少なりとも傷も良くなる
はずです。ただし、この脇腹の深い傷は痕が残ってしまうと思われ
ます﹂
医師は診察と治療を終えて、そう告げた。
そして、マティアスに包帯の変え方など看病の方法について話し
た。
166
﹁それでは、私はこれで。これから毎日様子を見に顔を出しますが、
何かあったらすぐに連絡してください﹂
出て行こうとする医師に、ありがとうと力の抜けた声で答えた。
実に的確で素早い治療だったと思う。だが、その時のマティアスに
は感謝を十分に伝える気力もなかった。
感情が混ざり合い、おかしくなりそうだった。黙っているのもつ
らくて、叫びだしてしまいそうだった。
すぐにドアを開けて出て行くと思った医師が戻ってきたので、マ
ティアスは不思議に思ってエルメルから目を上げた。
彼女は一瞬躊躇して、口を開いたのがわかった。
﹁これは⋮⋮医師ではなく、二児の母親としての意見です。過ぎる
ことを申し上げますが、お許しください﹂
そう言われれば、医師は確かに子供がいるような歳の女性であっ
た。こうやって複雑な立場のエルメルを診てほしいと言われるほど、
信頼がある医師なのだろう。
マティアスは頷いて、彼女の次の言葉を待った。
﹁子供はたとえ血が繋がっていなくとも、自分のことを本当に受け
入れてくれる存在には心を許すものです。子供は敏感です、自分に
向けられた感情に⋮⋮特に賢い子なら尚更﹂
それだけを言うと、彼女は一礼して出て行ってしまった。
167
その日から何日も経った。死んでしまったように眠り続けている
エルメルの横で、マティアスはずっと言葉の意味を考えていた。
エルメル様の何もかもが分からない。
王に命じられ、殺そうと計画まで立てた相手。
本当は最後まで迷っていた。エルメル様を連れ出し、あのままど
こか遠くへ逃げてしまおうと考え、実は資金もすべて用意していた。
もちろんそのことは誰にも言っていなかった。
そうやって殺したくないと思う一方、ぽっかりと心が抜けてしま
ったような王子が怖かった。自分とは何か違う存在のようで。
出来損ないの子
だと
一方、エルメルは自分の存在を認めてくれていたとは到底思えな
かった。
マティアスはエルメルに会う前に、
聞かされていた。だから、何があっても普通の子供とは違うから仕
方ないのだと諦めていたのだ。
でも、実際はどうだろう。
抜け殻だと思っていた王子は本当は話すことができ、魔法も使う
ことができた。
すでに事件から数日経っていたので、同行した騎士アロイスから
話を聞いたエドナから、エルメルが魔法を使って残りの魔物を殺し
168
たことを知っている。
﹁自分はとんだ勘違いをしていた、ということですか﹂
包帯を変え終わり、マティアスは目を伏せてひとり言をいう。
今日もエルメル様は目覚めない。エドナにいつもと同じ伝言をし
ようと、腰を浮かせた時だった。
﹁うっ⋮⋮﹂
衣擦れの音に掻き消されてしまいそうなほど小さな呻き声がした。
マティアスは慌てて、ベッドへ駆け寄る。
﹁エルメル様っ!?﹂
身を乗り出して、エルメルの顔を覗き込んだ。
うっすらとだが、目を開けていた。
﹁エルメル様、よかったです。お目覚めになったんですね!﹂
意識が戻ったことは嬉しい。ただ目が覚めれば、今度は怪我の痛
みに苦しめられることになる。マティアスはそれが心配だった。
エルメルは焦点の合わない瞳を左右に揺らして、ゆっくりと口を
開く。
﹁⋮⋮怪我、だいじょう、ぶ?﹂
医師によると、安静にしていれば治るそうですよ。
乾いた声で、エルメルが囁いた。マティアスは耳を寄せて、なん
とか聞き取る。
﹁痛みますか?
すぐに、お水と薬を持ってきますね﹂
169
傷はむしろお腹の方に多かったは
慌てて席を立とうとするマティアスをエルメルは引き止めた。
﹁ちが⋮⋮う。せなかの﹂
背中の傷が痛むのだろうか?
ずだ、とマティアスは暫く悩んで、ようやく気がついた。
﹁もしかして、私の怪我のことをおっしゃっているのですか?﹂
エルメルはマティアスの言葉にこくこくと頷いた。
﹁かなり良くなっております。普通に動き回ることもできますよ﹂
﹁⋮⋮よかった﹂
エルメルは弱々しく笑った。いや、その表情はほとんど変化して
いなかったが、マティアスにはエルメルの声が柔らかくなり、どこ
か安心したように思えた。
ご自身がこんな大怪我されているのに、自分の怪我を心配してく
れたことにマティアスは驚いていた。
︵なんてお優しいんだろう!︶
今まで人形のようだったのに、きちんと喋れて言葉を理解してい
たり普通に意思疎通ができていることに対する疑問はどこかへ遠く
へ吹っ飛んでしまい、唯々主の優しさに感動していた。
感動で硬直しているマティアスをよそに、エルメルはベッドのヘ
ッドボードにもたれかかろうと試みていた。しかし、体を起こそう
とした瞬間にくぐもったうめき声を漏らしてしまい、その苦しそう
まだ横になっていないといけま
な声はマティアスを我に返らせた。
﹁ご無理をなさらないで下さい!
170
せん﹂
寝かせようとするマティアスに、エルメルは嫌だと首を振る。結
局先に折れたのはマティアスで、エルメルは手伝われながら何個も
枕を重ねた場所に背を預けることとなった。
ありがとうございます﹂
﹁夢、じゃない。本当に助かったのか⋮⋮。マティアスさんが助け
てくれたんですよね?
エルメルは自分の手をマジマジと見て、ほっと安心したように息
を吐くと、マティアスの方へ向き直ってぎこちなく頭を下げた。
マティアスは慌てて、エルメルを止める。
﹁頭を下げられるようなことではありません。自分がしっかりして
いなかったばかりに、エルメル様をこんな目に合わせてしまい、本
当に申し訳ありませんでした﹂
頭を下げたマティアスは固く目を瞑り、エルメルの言葉を待った。
お前は従者失格という言葉を。
これは自分の責任だ。エルメルの看病をしながら、主の身を守れ
ないなど、従者として最悪だと自分を責め続けていた。
もうそばにはいられない。
今後何らかの理由をつけて、国内外へエルメルの存在を明らかに
するだろう。王位を継ぐことは無理でも、この国の王族として然る
べき責任を果たしていくに違いない。
マティアスは手に汗が広がり、鼓動が早くなっていくのを感じた。
緊張ではなかった、マティアスの感情を支配していたのは絶望だ
った。
エルメル様が成長した、その未来にも周りには自分の姿はないと
171
考えるだけで、息が苦しくなってくる。
マティアスはすっかりエルメルという存在を失いかけて始めて、
いつの間にかかけがえのない相手になっていたのだと知った。
外界から切り離されてしまったかのように静かな部屋。窓際の椅
子に腰掛け、読んでいるのかわからない本を、じっと眺める主。
不気味なほどに整った顔に、決して感情を表さないエルメルを見
ながら、何を考えているのだろうと思いを巡らせる。持ち込んだ仕
事を始めると、時折エルメルがページを捲った音がする。
春は気持ちの良い風が部屋に吹き込み、夏は虫の声が、秋は庭か
ら僅かに見える草花が枯れ始め、冬は暖炉の中で薪が爆ぜる。
一年が巡っても、エルメルとマティアスの行動は変わらない。た
だ、互いに思い思いの行動をするだけ。
何の面白みもないと思った、あの日々はマティアスの日常だった。
怖い、何を考えているのかわからないと思ったことはあっても、
﹂
数年を過ごしたエルメルはマティアスの中で主となっていたのだっ
た。
﹁それは⋮⋮
エルメルが口を開き、マティアスは手に力を込めた。
エルメルは、マティアスが想像していたよりもずっと澄んだ声を
していた。
﹁それは⋮⋮俺も一緒です。庇って怪我をさせてしまって、ごめん
なさい﹂
172
マティアスは予想外の反応に、顔を上げた。
エルメルはさっきよりも深々と頭を下げている。声にこそ出さな
いが、脇腹を抑えているところを見ると、体を動かして痛むのだろ
う。
今度こそエルメル様をお守り
自分に一度だけ、もう一度だけ従者として仕えるチ
﹁あれは当然のことをしたまでです。気になさる必要はありません。
エルメル様!
ャンスをいただけないでしょうか。
させて下さい。お願いします。あとマティアスと呼び捨てにしてく
ださい﹂
エルメルの姿を見ているうちに、マティアスはこのまま別れたく
ないという感情が湧き上がってきた。
言葉を失い、キョトンとしている︵気がする︶エルメルに、マテ
ィアスはお願いしますと迫る。
﹁此方こそ、よろしくお願いします⋮⋮?﹂
エルメルが少し身を引いて困ったように言った。
王への報告。王子としてやっていけるかどうかの見定め。
もうやめさせて欲しいと申し出よう。自分は王の従者ではない、
目の前の方に忠誠を誓ったのだ。
マティアスが本当の意味で、第三王子付き第一従者となった瞬間
だった。
173
♢♢♢♢♢
﹁エルメル様、もう頭を下げるのはおやめになって下さいね﹂
エドナが持ってきた食事をエルメルに渡しながら、マティアスは
言った。
食事といっても、しばらくまともなものを口にしていなかったエ
ルメルのために、胃に優しいものを用意していた。連絡するとエド
ナが驚くほどすぐに食事と水を持ってやってきたのは、彼女もずっ
と回復を信じて、いつ呼ばれてもいいように備えてきたからに違い
ない。
大きな病気などもしたことはないマティアスは、初めて見る病人
食を見て戸惑ったが、エルメルは特に抵抗もなく嚥下していたので
よしとした。
﹁なんで?﹂
心底不思議そうにエルメルは聞き返す。
﹁身分ある方はそうそうそのような姿を見せるものではないのです。
特にエルメル様は王子なのですから、立場という⋮⋮﹂
水をコップに注ぎながら、マティアスは視界の端にうつるエルメ
ルの動きが止まったことに気がついて顔を上げた。
﹁お、お⋮⋮王子?﹂
﹁はい。王子、です﹂
﹁えっと、うそ⋮⋮でしょ、う?﹂
瞳を不安気に揺らして聞いてくるエルメルに、マティアスはきっ
174
ぱりとした口調で告げた。
﹁エルメル様は紛う方なき王子でございます﹂
スプーンがベッドの上を転がり、音を立てて床の上へ落ちた。
マティアスはどうしてエルメルがこんな反応をしたのか分からず、
困ってしまった。
もしかして、怪我の所為でなにか体に支障をきたしているのだろ
うか。それとも、記憶に障害でも⋮⋮?
マティアスは一旦場を仕切り直そうと、いずれ伝えようと思って
いたことを話すことにした。
﹁王からは、﹃今回のことは悪かった。体が回復するまでこの部屋
でゆっくりと休養するように﹄と仰せつかっております。その後は、
エルメル様の自由にしてよい、とも。何か希望があれば聞き届けて
くださるそうです。ですから、今はゆっくり休んでください﹂
そう言って、マティアスは食事を下げ、エルメルに寝るように促
す。
場所を移さずに、しばらくはこの部屋を使おうとマティアスは考
えていた。
ここは狭いが、誰も来ないという点は好都合だ。エルメルを王子
として国民に紹介するにあたって、今までの境遇をありのまま説明
するわけにはいかない。時間をかけて、考える必要があった。
その後はこの宮の中心に部屋を移すことになるはずだ。ここより
175
も何倍も広く、警備がしっかりしていて、一年中花が咲き乱れる庭
が見える場所へ。
﹁本当に、何でもいいのかな?﹂
﹁ええ、どんなことでも﹂
マティアスが﹃エルメル様は王子の資格あり﹄と報告したとき、
王は顔をあげず、そうかと一言呟いただけであった。
指示はその後、当主である父から伝えられた。
今回のことをどう思っているのか分からないが、エルメルに非が
ないのは事実。マティアスはある程度のわがままならば聞き届けら
れるだろうと考えている。
もう一つ宮を作るとか、どこかの土地が欲しいとか。
エルメルの言葉で、何か欲しいものがあるのだろうと予想する。
思い返してみると、マティアスはおもちゃなどをエルメルの部屋に
持ってきたことはなかった。
それどころか、この部屋には何もない。いつからあるのか分から
ないほど古ぼけ埃をかぶった本と、家具だけ。殺風景という言葉が
これほど似合う部屋はないような気がした。
なぜ今まで気が回らなかったのだろうと反省する。
レオニートに頼んで、色々なおもちゃを手配してもらおうと心の
中で計画を立てた。
え?﹂
﹁じゃあ、王子をやめます。今日限り。そう伝えてもらえる?﹂
﹁はい、かしこまり⋮⋮。おおお、王子を?
マティアスははいはいと頷いてから、我が耳を疑った。
176
エルメルは王子をやめると言った。大きな責任も伴うが、ようや
く認められた恵まれた立場を捨てるという意味がマティアスには理
解できない。
﹁それで、それからどうなさるおつもりなので⋮⋮?﹂
悪ふざけなのかもしれないと考えたマティアスは恐る恐るエルメ
ルに問いかける。
それは本気なのですか?﹂
﹁とりあえず町に出て、住む場所を探して働いて、それから⋮⋮﹂
﹁ちょっと待って下さい!
真剣に考え始めてしまったエルメルを止めて、マティアスは自分
を落ち着かせようとした。
﹁うん、本気﹂
王子といっても小さな子供だ。適当に言いくるめて、寝かしつけ
てしまえばいい。
普通ならそう思うのだろうが、エルメルの目を見たら、そうは考
えられなくなってしまった。曲げない意思を感じたのだ。
﹁結果はどうなるか分かりませんが、確かにエルメル様の御意志、
お伝えします。ただし、市井で暮らすのはおやめ下さい。よろしけ
もちろん私もエドナもお供させていただきます﹂
れば代わりに、我がウエストヴェルン家の本邸へいらっしゃいませ
んか?
﹁でも、急にお邪魔したら悪いから⋮⋮﹂
エルメルが断ろうとする素振りを見せた。
﹁ご安心ください。現在本邸の方には母しかおりませんゆえ、手は
余っております﹂
﹁いや、部屋とか開けてもらうのも迷惑になるし⋮⋮﹂
177
﹁ウエストヴェルン家は仮にも、王家からマーキスの名を拝命して
いる貴族でございます。その名に見合うだけの屋敷を構えているつ
もりです。空いている部屋なら幾らでも、エルメル様のご希望の部
屋を必ずご用意してみせます﹂
アリメルティ国西部一帯を取り仕切るウエストヴェルン家の本邸。
庭という名の広大な森と湖を持つ屋敷は、エルメルの傷を癒すのに
もピッタリなように思えた。
﹁じゃ、じゃあよろしくお願いしようかな⋮⋮﹂
エルメルはマティアスの気迫に押されて、コクコクと首を縦にふ
った。
﹁了解いたしました。それでは、これから連絡等をしてきます。も
う夜も更けてまいりましたので、お休み下さい﹂
エルメルが自分の屋敷にくるかもしれない。ただそれだけなのに、
マティアスの気分は弾んでいた。
﹁マティアス!﹂
部屋を出て行こうとするマティアスは、エルメルに呼び止められ
て振り返った。
﹁どうかいたしましたか?﹂
﹁これからはエルメルじゃなくて⋮⋮エルって呼んでよ﹂
エル
に。
王子としての名前を捨てたい。絶大な影響力を持つ家名も捨てて、
ただの
つまりはそういうことか。マティアスは王家を出たいという覚悟
を知った。
178
しかし、そこでふと不思議な点に気がついた。
普通なら、この大国の王家の血筋を引くものが長期的に外で暮ら
すなんてことはあり得ないことだ。学園を卒業するまでは王宮内で
過ごし、考え方によっては非常に不自由な生活を強いられるだろう。
しかし、エルメル様は違う。目の前の立場を捨てて、誰にも知ら
れることなく、自由な生活を手に入れようとしている。
つまりは、今までの王子が誰も辿ったことのない道を行こうとし
ている。
そういう星に生まれついた方なのか。不思議な運命だ。
そこまで考えて、マティアスは部屋を照らし出していたランプを
消そうとした。
その直前、エルメルの小さな独り言が聞こえた。
﹁⋮⋮ようやく外に出られるなぁ。本当に長かった、ずっと⋮⋮﹂
マティアスは思わずエルメルの表情を盗み見る。
暗くなる前一瞬見えた、エルメルの狂気を孕んだ表情。無表情の
中に垣間見えた、まるでこの世の全てを破壊してしまいそうな恐ろ
しい激情。
たった一瞬の出来事だが、マティアスの脳裏に強烈に焼き付いた。
179
逃げるようにエルメルの私室から飛び出たマティアスは、胸に手
を当てて考えた。
あれがまだ幼い子供がする表情だろうか。
もしかして、エルメル様はこうなることを知っていた⋮⋮?︶
まるで、こうなることを長いこと待っていたかのような台詞。
︵
マティアスは根本から考えを改めてみる。
周りに魔法の使えない王子だと思わせて。
もし、あの無能なプリンス・ドールからエルメル様の計画通りだ
としたら?
そんなはずはない。赤子の時から演技をしていたということにな
る。演技は完璧で、誰にも見破ることはできず、事件は起こった。
マティアスは浮かんだ可能性を否定しようとして、恐ろしい事実
に気がついてしまった。
イェデンの監視に気がついたのはお生まれになってから一年も経
っていないころだった。
一日中猛毒のミルクを横にして、口をつけなかったのは、メイド
の思惑を知っていたからではないか?
従者である自分にも話しかけなかったのは、王の密命を受けてい
ると分かっていたから?
﹃⋮⋮ようやく外に出られるなぁ。本当に長かった、ずっと⋮⋮﹄
180
エルメルの言葉が何度も頭を回って、離れない。
マティアスは背筋が凍りつくのを感じた。
181
3−1 本邸と貴族
舗装されていない道路になったのか、急に馬車が揺れ始めた。お
。
尻は前回ほど痛くない。事件で出来た怪我は脇腹以外完治し、気分
もいい。馬車に慣れたからか、それとも⋮⋮
﹂
隣でそわそわしている男、マティアスの友人、レオニートがぱく
あ⋮⋮あの∼、しゅっ趣味は?
ぱくと口を開く。
﹁
﹂
え?
趣味ですか?
﹁
エドナが不思議そうに聞き返す。
﹂
﹂
いや、やっぱり趣味はいいです。何だっていいです。それより
それを聞いて顔を真っ赤にするレオニート。
﹁
つきあ
エドナ、こいつは無視していい
俺とつっ⋮つつ⋮
﹁
はぁ
﹂
﹁
エドナはマティアスの言葉に頷いた。まだレオニートは何か言い
たげにしているが、マティアスに阻まれていた。
そうだ。馬車に乗っているのが自分だけじゃないからか。
救出されてから紹介されたレオニートとようやく名前を知ること
ができたメイドさん、エドナと俺は馬車に乗っていた。
182
意識朦朧としていた俺を救い出し、家にきてもいいと言ってくれ
たマティアスには言葉で言い表せないほど感謝している。
俺が実は王子だったと聞かされた時は驚いたが、同時に納得する
こともできた。
拷問はやはり、最初に俺の頭を打ち付けた男の誤解だった。結局
責任をとって罪を与えられたらしいが、滅んだ国の王子として軟禁
されていたんだと分かれば、俺が顔も知られず、王宮にいて、あん
な目にあった理由も説明できる。
しかし、いいこともあった。
今回の事件で俺が魔法もろくに使えない奴だということが判明し、
人質としての価値がなくなったらしい。
王様は自由にしていいと言っていると言われ、迷わずここを出よ
うと思った。外は危険かもしれないが、王宮ははもっと危険だ。ま
たあんな目にあったら次こそ死んでしまう。
名前を身分を捨てて、今より安全な生活を送りたかった。
俺は馬車に体を預けながら、腕を組んでいるマティアスを盗み見
る。
マティアスが家に住まわせてくれると言ってくれたのは正直、有
難かった。家も職も見つかるという保証はないのだ。
住む場所さえ貸してもらえればだいぶ楽になる。
カーテンの隙間から、緑の多い風景が後ろへ流れていくのが見え
た。
ここから出れると思ったときは本当に嬉しくて、思わず笑ってし
183
まったぐらいだ。マティアスは部屋を出る瞬間だったから、気づか
れてはいないと思うけれど。
﹂
マティアスの家に行くのには馬車で五日ほどかかるらしい。今日
お屋敷にはマティアスのお母様がいるんだよね?
はその小旅行の一日目。
﹁
口調が少し子供っぽくなってるのは、久しぶりに人としゃべるよ
うになって子供のしゃべり方を思い出したというか、口調が体に引
きずられてきたのだ。
魔法に夢中になってたせいで王子だったってことにも気づかなか
はい。母は残って、我が家が代々治めている領地管理をしてい
った訳だし、今度はちゃんと情報収集しないとね。
﹁
ます。父と兄は王宮に行くことが多いため、王都の屋敷を拠点に。
﹂
﹂
﹂
妹は学園入試に向けて、少し前に王都の屋敷に住み始めました﹂
﹁学園?
﹁学園だ。俺たちも行ったよな
あっ⋮⋮
﹂
﹁
学園は行かなければいかなくちゃいけないもの?
ああ
﹁
いや、そんなことはない。王都にあるのは初等部だけだが、高
この世界にも学校があるのかと驚く。
﹁
等部まで行けばいい仕事につける。成績優秀なら簡単に奨学金はも
﹂
らえるが、やっぱり貴族が多いな。エルの歳だと、もう入学してい
るな
レオニートが説明をしてくれる。
184
﹁
そうか⋮⋮
﹂
学校、ちょっと行きたいなって思ったけど。義務教育じゃないな
ら行けないかな。精神的には違っても同年代の友達はやっぱり欲し
かった。
今度こそ最後まで学校通ってみたかったなぁ⋮⋮。
でも、今は子供で親もいないし、魔法がある世界なんだ。この前
﹂
の事件で、魔物には対抗できる奴がいるのはわかったけど、人間の
そんなことない
﹂
エル様は学園にお通いになりたいのですか?
方はどうなんだろう?
﹁
いや⋮⋮
エドナがエルに聞く。
﹁
そう言って外へ目をやる。
馬車の中の三人はこっそりと顔を見合わせた。
表情にも出さなかったが、エル様は学園に行きたいんだろうとい
﹂
途中入学も試験は難しいですが、できないことはありません!
うのが分かったからだ。
﹁
いいの?
﹂
﹂
何年か勉強して、お通いになったらどうですか?
﹁
もちろんです!
﹂
﹁
﹁はい!俺、勉強教える!
﹂
俺、先生ってやってみたかったんだよなぁ⋮⋮。いっつもマテ
レオニートが急に張り切り始めた。
﹁
ィアスに教えてもらってばっかだったから⋮⋮
185
マティアス様は頭がよろしいんですね
﹂
何か辛いことを思い出してしまったのか、遠い目になっている。
﹁
エドナの一言がレオニートにとどめを刺したらしい。なにか虚ろ
な目で何かを呟いている。
そのやりとりを聞きながら、俺はまた後ろへ流れて行く風景を眺
めていた。
♢♢♢♢♢
馬車は進む。目指すはウエストヴェルン家の本邸。
お帰りなさいませ!
﹂
ゴゴゴ⋮⋮と地鳴りのような音を立てて目の前の巨大な扉が開く。
﹁
扉の奥には⋮⋮想像を絶する豪邸。いや、宮殿?その後ろには裏
山とはすでに呼べない、森。
そして、扉からお屋敷までへの長い道の両側にずらりとならんだ
人たちが一斉に頭をさげていた。全員ぴったり同じ角度で。もう⋮
⋮なんていうかすごい。
ここでようやくマティアスが言っていたのは俺を納得させるため
の嘘ではなかったのだと知った。
この人たちはここに仕えている使用人さんなんだろう。数えきれ
ないほどいる。
186
びっくりして、固まってしまっていた。先に進もうとしているマ
ティアスが後ろ振り返って自分を見ていたことに気づき、遅れない
ように慌てて後を追う。
通り過ぎた後ろの人たちがどんどん頭をあげていくのがわかる。
堂々と歩くマティアス、後ろにいるレオニートとエドナ。驚いて
いるのは俺だけだ。
なんで気づかなかったんだろう。マティアスは貴族なのだ。生ま
れながらにして身分関係があり、それが当たり前のように受け入れ
られている世界。別に日本がみんな平等だったわけじゃない。偉い
人だって沢山いたし、メイドさんだっていただろう。
それでも感じた。ここは違う、自分の知っている世界とは。
どうしてだろう。言葉が違う。文字が違う。顔立ちが違う。動物
も植物も服も食事も違う。異世界だなんてずっと前からわかってる。
どんな治療だってやった。はじめは親が躊躇したほど副作用の強
い薬は、しだいに迷うことなく投与されるようになり、終わりが近
づくにつれ量が増えていった。俺の体は無事なところの方が少なく
て、もうあれ以上はどうやっても生きられなかった。
頑張った。だから、最期も死ぬのを受け入れられると思った。で
も、ダメだったのだ。
お屋敷に向かって一歩一歩足を進める。
そう。生きたいと思った叫びを誰か聞き届けてくれたのだろうか。
願いは叶った。あの時夢見た健康な体。元気だった昔より体力もあ
る。
187
やろうと思えば、なんだってできる。
それなのに、どうして。どうして、こんなに悲しいんだ。
違う世界に生まれた。
記憶を持ったまま生き返る、命をもらった代償としてそれは少な
すぎるくらいだろう。自分が一番よく分かっていた。
この世界で、自分は一人。一生同じものを見て、前世の知識が元
になった、俺と似た思考回路を持つ相手は現れないということだ。
今更言葉にしなくても、そんなこと当たり前だと知っている。
痛む胸が気のせいなのかどうかは考えないようにした。
188
3−2 執事と洋服︵前書き︶
遅くなりました。すいません。
189
3−2 執事と洋服
途中の記憶はほとんどなくても、俺はまっすぐ道を歩いていたら
しい。気がつけば門は遥か後方に遠ざかり、お屋敷の扉の前までき
ていた。
その二つの扉の前にはピシッと背筋を伸ばし、かっこよくスーツ
を着こなした一人の男性が立ちはだかっている。さっきはいなかっ
たよな?
﹂
﹁いらっしゃいませ、エル様。お帰りなさいませ、マティアス坊っ
﹂
父さっ⋮⋮んっ
ちゃま
﹁
レオニートがひぃっと悲鳴のような声をあげた。
﹂
父さん?そう聞いて、この人はレオニートのお父さんなのだと分
よろしくお願いします
かる。
﹁
俺は挨拶をして、もう一度よく男の人を見た。
確かにレオニートに顔は似ている。特に目の形なんてそっくりだ
った。でも、雰囲気は全然違う。レオニートはスーツのような服を
どっからどうみても執事だ。
着ているはずなのに、なんだかだらしないような、チャラチャラし
たお兄さんって感じ。お父さんは⋮⋮
私にそのようなお言葉は結構ですよ、エル様。私はウエストヴ
うん。そうとしか言い表せない。
﹁
190
ハウス・スチュワード
ェルン家、家令を務めさせていただいております。リチャードと申
﹂
します。さあ、どうぞ中へ。奥様がお待ちです。ああ、レオニート、
少し話しましょう
丁寧に俺に話してくれたあと、リチャードさんはレオニートに声
をかけた。振り向くとレオニートは後ろで小さくなりガタガタ震え
ている。
どうしたんだろうか。
﹁レオニート﹂
もう一度名前を呼んで、その人はレオニートの腕をがっしりと掴
んだ。
﹁私は少し失礼いたします、お前は一緒に来なさい﹂
にっこりと笑って言ってくれるが、後ろではレオニートが助けて
助けてと口を動かして、俺に助けを求めている。どうすることもで
きないので、レオニートのことは放っていくことにした。
リチャードさんに森の方へ引きずられ、すぐに叫び声が聞こえた
気がしたけど、気のせいだろう。
言葉を合図とするかのようにドアが二人掛かりで開けられていく。
﹁エル様、すみません﹂
小さい声でマティアスが隣でポツリと呟いたのが聞こえた。でも、
何が⋮⋮
﹂
﹂
何を謝っているのか分からない。
﹁
﹁あらあらあらあら
その言葉は女性の声によって遮られる。
エドナじゃない、知らない声だ。前を向くと、ふわふわしたレー
スが目に入った。幾重にも重ねられた黒い色の布は、ドレスだ。上
191
を向くと、扇子を仰ぐ女の人と目が合った。
背が高い。マティアスの方が高いといっても、女性にしては大柄
な人だと思った。すらっとしているが、迫力がある美人だ。俺が小
さいから尚更かもしれないが。
﹁あらあら﹂
突然、綺麗な
貴婦人
が大声
俺は上から下まで見られているのを感じながら、どうすることも
﹂
できずに立ち尽くす。
﹁リチャードー!
飛び上がらんばかりに驚いた。
わたくし
をあげたからだ。ドレスも豪華で、顔もすごい美人。うちわを持っ
てふふふと笑う、俺のイメージが崩れていく。
﹂
何でしょう、奥様。毎回申し上げてますが、叫ばれなくとも私
しかし、驚くのはまだ早かった。
﹁
﹂
あら、ごめんなさい
聞こえております
﹁
瞬間移動したのか。
森の方へ行って姿を消したはずのリチャードさんが、汗ひとつか
かずに女の人と喋っている。名前を呼ばれた瞬間現れた気がするん
どうかされましたか
﹂
だけど、そんな訳ないよな。魔法か!魔法なのか?
﹁
リチャード、あなたなら?
﹂
突然微笑みながら言われ、慌てて首を横に振る。
﹁
動揺している俺は放っておかれ、ゆっくりと扇子を仰ぎながら会
話を続ける二人。
192
﹁
そうですね⋮⋮
﹂
黒、または紺をを基調をした上着と短めのズボン。今流行りの
意味がわからないまま今度はリチャードさんに見られる。
﹁
襟が大きめのタイプがよろしいでしょう。デザインは少し柔らかめ
﹂
で。靴は黒のエナメルのブーツ。今のお洋服はものはサイズがあっ
ていらっしゃいません
そうね。私も創作意欲を刺激されたわ。もちろん
﹂
﹁
はい。全員準備は終わり、いつもの部屋に控えております。仮
﹂
﹁
﹂
眠も十分です。北から最高級の生地一式を揃えました
さすがね。リチャード。では、行きましょう
二人の会話は流れるように続く。
﹁
女の人に腕を引かれ、ずんずん中へ引っ張られる。さっきのレオ
ニートみたいだ。よくわからないが、俺の服がダサいと言われたこ
とがわかった。マティアスがくれたものを着てただけなんだけど。
そんな変かな⋮⋮?普通だよな。でも俺、ファッションのことに関
しては自信ないから⋮⋮
とりあえず、掴まれた腕が痛い。歩幅が合わず、すでに俺は足を
動かすことを諦めた。綺麗な天井を見つめながら引きずられている。
﹂
♢♢♢♢♢
もうだめ⋮⋮だ⋮⋮
荷物のように。
﹁
何度もこけそうなりながら、ヨロヨロと進む。俺はベッドまでた
193
どり着くと大きな音を立てて倒れこんだ。高いんだろう。沈み込み
そうなほど柔らかいベッドだ。
それにしても、本当に疲れた。あのまま、沢山の女の人のいる部
屋に連れていかれ、身体中をメジャーではかられ、布を当てられ、
何度も服を着替えさせられ。
みんな盛り上がってて誰も俺の話聞いてくれなかった。デザイン
を描いた紙が投げられて宙を舞ってたもんな。
予想はしてたけど、あの貴婦人がマティアスのお母さんの、ルク
シェルさんだってことだけはわかった。
あれからエドナは一緒に盛り上がってるし、マティアスも助けに
きてくれないし⋮⋮ひどい。レオニートはいいや。ごめん、見捨て
ちゃって。
瞼が重い。もう一秒だって起きていられない気がする。疲れちゃ
った。寝ていいよね?
﹂
﹂
どうするか色々考えな⋮⋮きゃ⋮⋮
♢♢♢♢♢
エル様、夕食の準備が出来ております
明日から⋮⋮
﹁
エル様⋮⋮?
部屋の中からは何も物音がしない。
﹁
廊下に一番近い部屋で倒れているエル様の姿が見えた。血の気が
引いていく。
襲われたのか!?
194
慌てて駆け寄って、どうもそうではないことに気がつく。
寝ている。
どうしてこんな来客用のソファでお休みになられているのだろう
か。奥にちゃんとベッドがあるはずだが。それに服が試着用のもの
になっている。
ともかくエル様が無事だったことに胸を撫で下ろす。王宮での一
件があってから心配なのだ。自分の主人は無茶をする方らしいとい
うことがよくわかった。
無理に起こさない方がいいだろう。音を立てないように部屋の奥
にしまってある毛布を小さな体にかけた。
部屋の温度を調節し、夕食の席に戻る。
パーティーを開くときは国内外の貴族がダンスを楽しむダンスホ
ールともなる食堂では母様がテーブルについて自分たちを待ってい
た。
あら、エルちゃんはどうしたの?
﹂
﹁
お疲れのようで、お休みになられてしまってました
﹂
﹁
そう、それなら仕方ないわね。エルちゃんとお話するの、楽し
﹂
﹁
みにしてたのだけれど⋮⋮
悲しそうに目を伏せる母様を見ながら自分も席につく。本当に楽
しみにしていたらしい。母様には申し訳ないが、あの部屋に連れて
いかれて無事だった男性を見たことがないので仕方が無いと思う。
俺もレオも兄様もあそこで何度も地獄を見た。まぁ母様は父様を見
明日からいくらでもお話しできますからね
﹂
ても全く創作意欲が湧かないらしく、父様だけは無事だけれど。
﹁
母様を慰め、メイドに食事を始めるよう目線を送る。それにして
195
も意外だ。母様はいつも自信に満ち溢れていて、こんな風な感情の
出し方はあまりしない人だ。エル様がそうとう気に入ったんだろう。
⋮⋮を⋮⋮
﹂
﹂
﹁
どうかなさいましたか?
って⋮⋮
﹁
⋮⋮を
﹂
一品目が来たというのに、母様はまだ顔を上げない。
﹁
どう⋮⋮?
﹂
﹁
リチャード!お酒を!
﹂
﹁
﹂
母様がそう叫んだ瞬間、目の前にはお酒を持った執事を携えたリ
奥様。叫ばなくて結構です
チャードが待機していた。
﹁
母様⋮⋮?
﹂
﹁
お酒を!ついでにレオニートも呼びなさい!
﹂
﹁
そう言っている母様の横には次々とワインとグラスが並べられて
行く。レオニートもやって来た。
完全に日が暮れ、真夜中。
﹂
奥様は坊っちゃん達がお生まれになってからお酒をやめておら
混乱している自分にリチャードが教えてくれた。
﹁
れたのですが、最近またお酒を嗜まれるようになったのです
学園を卒業をしてからは王都にいたから知らなかった。
でも信じられない。
あれは⋮⋮嗜んでいるのか?確かに母様はいつもと変わらずワイ
ングラスを右手に優雅にお酒を飲んでいる。その姿は社交界の華と
呼ばれるのに相応しく艶やかで。
例え、周りに潰したメイドや執事が倒れていても。
196
飲んでいる?
﹂
﹁
ええ、奥様
﹂
﹁
一緒に飲みましょ。みんなどうして寝てしまうのかしら。レオ
﹂
﹁
﹂
しかし、奥様。マティアス様はまだあまりお召しになってない
ニートももう飲めないみたいなの
﹁
ようですよ
あらそう。良かった。ちょっとこっちへいらっしゃい。私、あ
リチャードの言葉に母様が笑みを浮かべ、手招きする。
﹁
﹂
なたの小さなご主人様にあのような服を選んでいたことについてお
﹂
マティアス様、ごゆっくり
話したいわ
﹁
リチャードがワインをついでくれた。
ああ、間違いない。今の言葉。この表情。
やっぱり、こいつはレオニートの父親だ。
197
3−3 迷子と料理
一体どこなんだよ、ここは!
とりあえず歩けばなんとかなると思った俺が馬鹿だった。こんな
の家じゃない。立ち止まっていても仕方ないので、勘だけを頼りに
前に進む。
まだ早朝とも言えない早い時間。もちろん太陽なんて登っていな
い。昨日早く寝たせいで俺は誰も起きていないだろう時間に目を覚
おなかすいた
﹂
まし、思ったことはただ一つ。
﹁
そこまで考えて、もしかしたらという期待が生ま
小声で嘆いてみても、道を教えてくれる人もいないし、返事は返
ってこない。
﹂
人、返事⋮⋮
清爛
れた。
﹁
清爛、お前頑張れば話せるんじゃないか?
﹂
小さく嘆き、周りの水分を凍結させ、姿を表す小さな龍。
﹁
そう問いかけても、清爛は何も言わずこちらを見ているだけだ。
⋮⋮ちょっと待ってろ
﹂
しばらく続く無言。つぶらな瞳でこちらを見つめてくる。
﹁
俺は目をつぶり、久々に魔法を使う感覚を甦らせる。
198
﹁
ねぇ
﹂
その途中、頭に高い声が響いた。誰かやって来たらしい。いつも
あれ?
﹂
のくせで慌てて清爛を消し、道を尋ねようと人を探す。
﹁
﹁
うわぁ
エル!
﹂
﹂
ぐるりと当たりを見渡しても誰もいない。
﹁
﹂
﹂
﹂
﹂
消したはずの清爛がさっきと同じところにいる。
なんで!?
エルの魔力使ってるから
な⋮⋮
﹁
なんで⋮⋮?﹂
﹁
﹁
だからっ!魔力を
﹂
﹁
なんで、おじいさんじゃないんだよ⋮⋮
声を荒げる清燗。
﹁
は?
そう言って俺は項垂れた。
﹁
イラついたように清爛の鼻がヒクヒクと動く。でもしょうがない。
魔法を使う前にこいつが喋れるようになったとかそんなこと気にし
﹂
どういうことだ
龍と言えば、ダンディなおじいさんだろ。なんとかじゃとか言
てはいられない。
﹁
ばかやろー!
ってさ、俺に助言をくれるんだ。それなのに⋮⋮
ばーか!
﹂
﹁
暴言を吐かれながらため息をつく。もういい。これも全部俺の魔
法が未熟だったせいに違いない。また練習しよう。それにしても性
格は似ていないと信じたいが、ボキャブラリーが貧困なところは俺
に似ているらしい。
199
そんな中、静かな廊下で俺のお腹の音がなった。さっきまで空腹
あのさ、食べ物の匂いとかわかる?
﹂
﹂
を感じていたためにこのような状況に陥っていたことを思い出した。
﹁
⋮⋮
﹂
﹁
頼むよ
俺の言葉は清爛に無視された。
﹁
﹂
﹂
さっきまでの会話は都合良く忘れることにして、両手を合わせ頼
ボクは犬じゃないっ!
みこむ。
﹁
そんな犬みたいな真似はできないと言っているんだ
そんなの見ればわかる。大体龍の形にしたのは俺だ。
﹁
どうも龍からすると犬と龍はずいぶんと違うらしい。今の清爛は
﹂
小さくて、チワワぐらいのサイズにしかないのにな。さて、どうす
わかった
ればいいだろうか。
﹁
わかればいいんだ。謝れば許してや⋮⋮
﹂
﹁
今から犬にしてやるから
﹂
﹁
そしたら問題ないよな、という意味を込めて清爛に笑いかける。
出来るだけ多くの魔力を練りはじめた。最初から犬にすれば良かっ
たかもしれない。一度龍として固定してしまったからか、少ない魔
力では形を変えられそうにないのだ。魔力は対価だ。大きな魔法を
使うためにはそれ相応の力を使う。
こっち、こっち、こっちだから!
﹂
しかし清爛は焦ったようにふわふわと飛んで逃げていき、曲がり
ちょっと待って!
角で俺を振り返って叫んだ。
﹁
どうしたんだろう。今回は魔力を大量に出すからあんまり動かれ
あと少しだから
﹂
ると外しそうで怖い。だから動いて欲しくないのに。
﹁
200
﹁
やだ!
犬はやだ!
﹂
﹂
その言葉を聞いて、俺の両手に集めた魔力がみるみるうちに減っ
そうなのか⋮⋮
ていく。
﹁
その高い声は絶対小型犬だと思ったんだけどな、と心の中で嘆い
﹂
て、何かに追われるように進んで行く清爛を見失わないように追い
かけた。
♢♢♢♢♢
おい、そっちの準備は終わってんのか!
﹁
こっちの担当は誰だ
﹂
﹁
﹂
清爛を追ってようやくたどり着いたついたキッチン、そこは絶え
ず叫び声が飛び交う戦場だった。
あの⋮⋮
﹂
﹁
こっちの皿洗ってないぞ、見習い!
誰か⋮⋮
﹁
精一杯出した声も、たくさんの声に遮られ誰の耳にも届いてない
ようだ。そもそもコックさん達の背が大きく誰からも存在を認識さ
れてないような気がする。
話を聞いてくれそうな人を探すため、歩き回る人の邪魔にならな
いよう中に入っていく。
清爛は俺を案内すると、ちょっと遊んでくると言い残してどこか
へ行ってしまった。どうも話すだけじゃなく、勝手に消えたり現れ
たりする能力まで身に付けたらしい。
人をかわして歩いていると自然と人の少ない端に来てしまった。
と考えてはじめていたときだった。少し離れ
みんな忙しそうで声をかけられない。あきらめて戻って朝ご飯の時
間まで待とうか⋮⋮
201
たところになにか作業をしている若い男の人がいるのを見つけた。
他の人とは違って話しかけやすそうだ。そう思ってその人に近づい
﹂
ていく。見習いの人かもしれない。包丁を持つ手つきが危なっかし
遅いぞ!さっさとそれ終わらして、皿も洗っとけよ
かった。
﹁
突然叫ばれたその男の人はびっくりして、手に持っていた野菜を
﹂
落としてしまう。それをまた近くのコックさんが見つけ、怒鳴りは
きちんと働けねぇ奴が食う飯はねぇぞ!
じめた。
﹁
すいませんっ!
﹂
﹁
思わず前に踏み出しかけていた俺の足が止まる。
それは俺のことじゃないか⋮⋮?
そうだ。働いてないのは俺の方だ。怒られた見習いの人は必死に
謝って、また包丁と悪戦苦闘している。
料理は作れない。キッチンの外れにいる俺の
食べ物を貰おうとここまできた自分が恥ずかしくなった。働かざ
る者食うべからず。
働こう。
なにができるか?
右手に広がる大量の洗い物。
思わず自分の服を見る。きっとお金持ちのおうちの服だから高い
んだろう。汚れないように、俺は山積みになっていた清潔そうな白
い布をくるくると巻き付ける。
洗い物。これだけは家庭科の実習と家でのお手伝いでやったこと
がある。
よく考えたら喫茶店ではちょっとした食べ物か何かを出すからな。
匠の技は見て習え、そのためにはまずこれからだ。一石二鳥だ。
自分でもすばらしいとしか言えないアイディアに心が躍る。
202
結局、窓から日が差し込む寸前まで空腹の事は忘れ、俺は洗い物
に夢中になることになるのだった。
203
3−4 授業と不幸
エルが迷子になった日の朝、食堂。
昨日の惨状はすっかり息を潜め、開け放たれたいくつもの窓から
差し込む朝日が部屋を照らしている。
⋮⋮本当に酷い目にあった。
目の下に隈を作り、見るからにやつれているレオニートは昨晩の
ことを思い出して食事の配膳をしながら小さく息を吐いた。
いつからだろう。気がつけばルクシェル様は何かあるたびに自分
の息子であるマティアスよりも俺を呼ぶようになっていた。別にウ
エストヴェルン家の親子仲が悪かった訳じゃない。俺の母親とルク
シェル様は異常に仲が良く、俺もマティアスも互いに母親が二人い
るように思えるほどだった。
なんで僕なの?﹂と。そうしたら彼女は口元を扇
子供の頃、一度聞いたことがある。着せ替え人形のように服を着
せられながら﹁
﹂
だって、レオニート。マティアスよりも貴方の方が面白くなく
子で隠し、笑いながら教えてくれた。
﹁
て?
そうなのだ。俺はマティアスが冷めた子供だったとばっちりを食
マティめ⋮⋮!
らっていただけなのだ。
許せん!
これだけじゃない。いつも一緒にいたからこそ降りかかってきた
数々の災難を思い出し、思わず手の中のナイフを握りしめてしまう。
204
何時の間にか食事を終えたルクシェル様が静かにスプーンを置い
エルちゃん、色々なマナーを学んだ方がよろしいかと思って、
てエル坊に話しかけた。
﹁
﹂
なんだかとっても聞き覚えがある。
先生を頼んでおきました
マナー⋮⋮先生⋮⋮
マナーなら自分がっ⋮⋮!
﹂
しかし、この言葉に反応したのはマティアスの方が早かった。
﹁
そう?
あなたもシュリから教えてもらったのだからそちらの
顔を見なくても焦っているのが声でわかる。
﹁
﹂
方がよいと思ったの。それにもう頼んでしまったわ。ごめんなさい。
今日から⋮⋮
とりあえず今日は俺が勉強を教える約束だったんです!なぁ?
少しも悪いと思ってない様子で嬉しそうに笑うルクシェル様。
﹁
﹂
初日に母さんの授業はキツイ。
エル坊に同意を求めると、突然話しかけられたことに戸惑いなが
しょうがないわね、お勉強は明日にしましょ
﹂
らも俺に向かって頷く。そりゃあ、今日勉強するとは一言も言って
そうなの?
なかった訳だから驚いても当然だ。
﹁
全く考慮してもらえなかったらしい。
彼女が決めたことはもう覆らない。もう俺にできることは応援す
ることだけだ。
やっぱり誰にも知られないようにしなければ。
│││自分の初恋の人がこの人だったなんて。
205
﹁
いい?
♢♢♢♢♢
﹂
さっきからどうしてそんなに確認す
母さん、エル坊はまだ昨日ここに来たばかりだから午
﹂
﹂
もちろん分かってるわ。
前中で終わらせて
﹁
母さん悲しい
だって⋮⋮
るの?
﹁
母さん、悲しいな
﹂
﹁
ああ、ごめんごめん
﹂
﹁
こりゃだめだ。母さんに関しては諦ることにし、先に座っている
大丈夫そうか?
﹂
マティアスの隣に座る。
﹁
すぐにマティアスはテーブルに身を乗り出し、母さんに聞こえな
大丈夫だと思うのか?
﹂
﹂
いぐらいの小さな声で尋ねてくる。
﹁
思わない
逆にこっちが聞きたい。
﹁
そうだろうな。思うんだとしたら、今俺の目の前にいる男はマテ
ィアス・フォン・ウエストヴェルンじゃない。
母さんのレッスンが始まった。ここは先日からエル坊の部屋の一
﹂
つになった場所だ。俺たちは邪魔にならないように部屋の隅で様子
そういえばさ⋮⋮
を見ている。
﹁
俺が話しかけるとマティアスが母さん達から目を離す。今あっち
は歩き方の練習中だ。
206
﹁
エル坊の部屋入って思ったんだけど、なんかあったのか?
なんだ?
﹂
﹁
﹂
さっき気づいたのだが、いくつもの家具が黒焦げになっていた。
ここにきてから父さんに頼まれて確認した時にはどれも普通だった
はずだ。
﹂
しかし、マティアスは何のことを言っているのか分からないとい
魔法の練習でもしたのか?
う顔をしている。
﹁
ああ。ちょっと驚いた弾みで。悪い
﹂
﹁
別にいいけど⋮⋮
﹂
﹁
新しい家具の代金はウエストヴェルン家が払うんだし。俺は注文
をするだけだ。折角だからエル坊のために背の低い家具に買い換え
ようか。あいつは背が伸びない気がする。今だって小さいし。
それにしてもマティアスが魔法の制御ができないなんて珍しい。
魔法が上手いか下手かというのはいかに自分の魔術を完璧に操るか
にもよるのだ。もちろん、こいつにそれができないはずがない。一
体何があったんだろう。まぁ想像できないこともないが。
おい、レオニート!﹂
﹂
人が折角⋮⋮
♢♢♢♢♢
そうだ。母さん、もうお昼だよ。
﹁
レオニート!
マティアスの声だ。なんだ?
﹁
うるさいな
207
﹁
どうした!?
レオニート!エドナが
﹂
﹁
﹂
聞き捨てならない言葉に返事をすると、マティアスが呆れた顔で
寝てたぞ
﹂
自分を見ていた。
﹁
確かに。マティアスと喋ってしばらくしてからの意識がない。
﹂
窓を見るとすでに太陽は沈んでいる。予想通りだ。目の前ではエ
エル様が頑張っているんだから、お前も頑張れ
ル坊が食事のマナーを教えられていた。
﹁
はーい
﹂
﹁
俺たちが特になにもすることないのにここにいる理由。それがこ
れだった。母さんはとても温厚だ。それは普段も、授業でも。でも
一つだけ欠点があるのだ。
時間を忘れる。この時間まで決めているのにいつまでたってもレ
ッスンを終わらせてくれない。しかもレッスンは意外と体力も使う。
俺たちは二人一緒に受けさせられた。辛いのは自分だけじゃない
という一心で乗り切った。でも今回はエル坊一人。辛すぎる⋮⋮。
だから俺たちが応援しようというわけだ。
というか、今考えればあそこまでのマナーは俺には必要なかった
はずだ。きっとマティアスに付き合わされたんだ。
レッスンと言えば、昔は母さんのレッスンとルクシェル様の着せ
替え部屋のどちらかを選ばないといけないならどちらを選ぶかで何
急に思い出したんだが
﹂
度マティアスと喧嘩したなぁ⋮⋮
﹁
﹂
なんでお前、今日の朝ナイフとフォークとスプーンを全滅させ
なにやらマティアスが難しそうな顔で話し始めた。
﹁
てたんだ?
208
﹂
今日の朝は!
なんのことだろうか。今度は俺が考え込む番になってしまった。
朝。そうだ!
﹁お前のせいだよ!
急に忘れかけていた朝の恨みを思い出し、大声を出してしまう。
そのせいで母さんに睨まれてしまった。全く、自分はもう何時間
も延長していることを棚にあげて。
俺の声には気がつくのに、目の前で生徒が死にかけていることに
は気がつかないのか。
エル坊、お前は悪くない。次は絶対に勉強の時間を勝ち取ってや
るからな。
よし、時間はたっぷりある。今日は隣で涼しげな顔をして座って
いる男に思う存分文句を言えそうだ。
209
3−5 授業と勉強
この家はどうなっているんだ?
俺はもやもやとした気持ちでサラダをつつく。
しかし、途中でフォークを止める。そうだ。お行儀良くしなきゃ。
どうやらこの家で生きて行くのは簡単なことじゃないらしい。そ
れはここに着いてから今日まででよくわかったし、家中で見られる
謎の焦げ跡が俺を不安にさせていた。
俺はここでやっていけるんだろうか⋮⋮。貴族の作法なんて知ら
ない俺はシュリさんの午前中のレッスンが次の日までかかってしま
ったのだ。礼儀を知らないガキに付き合わされてさぞかしガッカリ
したにちがいない。
エルちゃんシュリがあなたのことすごく褒めていたわ。それで
﹂
﹁
ね、とっても飲み込みが早い生徒で楽しいから、今日もーーー
﹂
ルクシェル様!
今日は、今日は俺が勉強を教えるんです
﹁
﹂
﹂
ルクシェルさんの言葉に驚くほど早くレオニートが答える。どう
そう言えばそうだったわ
してそんなに必死なのだろう?
﹁
そうです!
﹂
﹁
じゃあシュリには私から言っておくから、お勉強頑張ってね
残念そうな顔でルクシェルさんが立ち上がった。
﹁
そう言うと、おほほほと部屋を去って行った。貴族の女の人って
みんなあんな感じなんだろうか。
210
別に不満はないんだが、俺の関与しないところで今日の予定が決
﹂
♢♢♢♢♢
算数と社会どっちがいい?
まっていくな。
﹁
レオニートとの勉強会。昨日まではなかった目の前の机にはエド
いや、待てよ。読み書きやってないのか
﹂
ナが出してくれたお茶と何冊かの本が置いてある。
﹁
人に質問しといて急に思い出したらしい。ちょっと待ってろよ、
と言い残して何処かへ行ってしまった。
必然的に俺は部屋に一人になる。ただ待っているのも暇なので、
少し離れた所にある本をよいしょ、と引き寄せてパラパラ読んでみ
た。算数ならいけると思ったが、やっぱりちょっと違うなぁ⋮⋮。
お待たせ∼
﹂
どうも数字の書き方が違うらしい。
﹁
レオニートは大きな丸められた紙を右手に持って戻ってきた。そ
の紙をバサバサと音を立て机の上に広げる。
こんなの見るの何年ぶりだろうか。異世界版あいうえお表だ。俺
が見たかった数字も書いてある。
ふーん⋮⋮。こうなってるのか。
大体わかった。
211
見たか?
次はこれだ。さっき算数の教科
これの小さいやつはここに置いておくからな。
あいうえお表から顔を上げると、レオニートが目の前で何か書い
お?
ている。
﹁
﹂
分からなくなったら見ていいぞ。
書見てたから、算数の問題
教えてやる
﹂
そう思って、レオニー
一枚の紙をくれた。さっと目を通すと確かに書いてあるのは一桁
+一桁の足し算だ。
それにしてもレオニートの字汚いな⋮⋮
わかんないのか?
トを見ると楽しそうにこっちを見てる。
﹁
考えるんだ。7歳は小学校1年生か2年生か。この世界では5歳
くらいで入学するらしい。ということは3年生。それなら足し算は
大丈夫
﹂
解けてもいいな。
﹁
できた
﹂
レオニートから紙を取り返し、とき始める。
﹁
声を上げると、レオニートが答え合わせをしてくれた。うん、久
﹂
♢♢♢♢♢
また足し算だ!
全問正解。次はこれな
しぶりだったけど、流石に合ってると思う。
﹁
よし!
紙の上をサラサラと滑る音が静かな部屋に響いていたが、急にパ
タリと止まった。
212
ぜ
﹁
﹁
いい!
﹂
ああ!
これ⋮⋮
﹂
難しいかもなぁ⋮⋮
本当にレベル合ってる?
﹂
やっぱ難しいか?
﹁
本当にこれが小学生の解く問題か?
俺は解けた
ずいぶんとこの世界の勉強は難しいらしく、俺は今方程式を解い
ていた。
足し算、引き算⋮⋮割り算までは良かったんだ。
言
﹂というレオニート
わからない
たくさんの問題を解いた後、レオニートは難しい問題を出してき
しかし、
これ解けないだろ?
た。小学生レベルじゃない。
おうと思った一言は﹁
の言葉を聞いて引っ込んだ。
解けないだと?
ペンを手の上でクルクルと回転させてからエンジン全開で解いて
できた!
﹂
いく。こっちの数字も慣れてきたし、いい感じだ。
﹁
は?
﹂
どうだ!という顔はしてないが、解答をレオニートに突きつける。
﹁
もしかして間違えてたか?
しばらく
間の抜けた返事を返して、俺の答案に目を通し始める。
紙で表情はわからない。
すると、レオニートの手がカタカタ揺れ始めた。
何事かと俺はキョトンとしていたと思う。急に解答を叩きつけ、
213
エルはバカだ!
バカ!
﹂
立ち上がって俺に向かって叫んだ。
﹁
は?
214
﹂
3−6 本音と家族
ばかか⋮⋮
バカ、馬鹿
﹁
レオニートが走って出て行ってしまってからしばらく経ったが、
頭の中ではまだ馬鹿という言葉がぐるぐる回っていた。
﹂
簡単を出された問題とは言え、レオニートに対抗して結構本気の
⋮⋮勉強しなきゃ
スピードで解いた。
﹁
それは勉強だ。
元気のない声がため息と共に漏れる。頭が良くなるために何をす
れば良いか?
まずそうなのは歴史だな。
一応本は読んだが、あれだけ
自信のあった算数、いや数学がダメなら他の科目はどうなんだろ
うか?
でいいんだろうか。
そんなことを考えつつ部屋にある数学の本を漁り、適当なものを
見繕ってとき始める。
こんなとこで躓いてたらレオニートに笑われて
﹂
意外と難しい。
そうか!
しまう。
﹁
ちゃんとした解答を書き始めてから気がついた。今まで覚えた定
理の名前は全部違うんだ。多分あれは発見した人の名前をつけてる
しょうがないので、取り敢えず一から証明して番号をふって書
んだよな?
215
いていく。
﹂
何問か解き終わった頃には机の上や周りの床にたくさんの紙が散
できなくなってるなぁ
らばっていた。
﹁
何年間も勉強してなかったから当然だな。
足がつかない椅子から降り、床に落ちた紙を拾おうと手を伸ばす
まぁ!
﹂
部屋にいたのはルクシェルさんだった。足音が聞こ
上手にかけてるわ!
と、さっと誰かに掠め取られてしまった。
﹁
うわぁあ!
﹂
えなかったので全然気づかなかった俺はびっくりして尻餅をついて
これ、もらっていいかしら?
しまった。
﹁
そうはいいつつもすでにルクシェルさんは数枚の紙を手に持って
いる。
どうせ解きおわったものだ。捨ててくれるんなら有難いし、俺の
走り書きを保存しても⋮⋮しょうがないだろうとは思うが。
別に断る理由はないので頷くと、ルクシェルさんは嬉しそうに笑
﹂
お勉強が終わったのなら、このお洋服を着てみて欲しいのだけ
った。
﹁
﹂
洋服?
れど
﹁
失礼します
﹂
﹁
ルクシェルさんが何処からか持ち出してきた服をお手伝いさんが
丁寧に受け取っているのを見ていると、他のお手伝いさんが二人が
216
えっ⋮⋮
﹂
かりで俺の服を脱がせてきた。
﹁
生まれ変わってから着替えを手伝ってもらうのには慣れたけど、
動かないでください
﹂
こんなに大勢の前で脱がされるのはいやだと思い、お手伝いさんの
﹁
魔の手から逃れようとする。
俺の力が弱すぎるのかあっちが強いのかはわからないが、あっと
お似合いです
﹂
いう間に新しい服を着せられてしまった。
﹁
可愛いわ!
﹂
﹁
お手伝いさんもルクシェルさんも口々に着替え終わった俺を見て
今たくさんの声が聞こえた気がする。
褒めてくれる。
あれ?
後ろを振り返ると、ズラッとハンガーに掛けられた大量の服とそ
れを持った何人かのお手伝いさんが立っていた。お手伝いさんはあ
の部屋で見た人たちと同じメンバーだ。
それにしてもものすごい数の服だ。これが全部俺の⋮⋮?
高いってことは俺にだってわか
もう一度ちゃんと自分の服を見てみる。高そうな布に裾もぴった
りで、いわゆるオーダーメイド。
る。
﹂
それならこっちのー
いくらお金持ちだからと言っても、こんなによくしてもらったら
受け取れません!
もしかして気に入らなかったのかしら?
申し訳ない。
﹁
﹂
う⋮⋮
ーー
﹁
217
今言わなくては。
ちょっと変だけど、とてもいい人だからマテ
ィアスもルクシェルさんもきっと色々と俺の世話を焼いてくれるに
どうして?
お洋服が嫌い?
﹂
違いない。それこそ食器洗いだけじゃ返せそうにないくらいの。
﹁
﹂
ルクシェルさんの顔を見れず、顔をあげずにパタンと閉じられた
そうじゃなくてっ⋮⋮
扇を見つめて話す。
﹁
そうだ。話しながら思い出してしまった。外の世界を見たとき、
﹂
こんなたくさ
出向かれたときに感じた孤独。この人たちは俺が異世界からきた人
僕なんかに⋮⋮
そうじゃなくて、本当の子供じゃないのに⋮⋮
間だと知らないのだ。
﹁
んの服⋮⋮
﹂
そして忘れちゃいけない。俺は、俺が人とは違う
よく考えたら親がいないのにご飯と住むところをもらえてるだけ
で十分なんだ。
それは⋮⋮
ってこと。
﹁
ルクシェルさんの扇を持った右手が揺れてミシミシと巨大な木が
折れるような音が響いた。
﹂
それは誰が、言ったのかしら?
一体誰が?
﹁
ルクシェルさんが言葉を発する度に部屋の温度がどんどん上が
﹂
﹂
えっ⋮⋮
っていく。
﹁
僕なんか⋮⋮
あの
﹁
218
俺が否定しようと声をあげても小さくブツブツとつぶやいている
エルちゃん?
﹂
私は、あなたのことを本当の子供だと思ってい
だけで、聞こえてないようだ。
﹁
る、し、そんなこと、言ってはいけないわ!
その言葉と同時にルクシェルさんの扇が真っ赤な火を吹いた。
熱い。
﹂
お母さ
炎は蛇のようにうねりながらだんだんと部屋中に広がって行く。
だから、あなたも私の子供、なのよ
同時に俺の体も火照っていく。
﹁
興奮しているのか言葉が切れ切れになって聞こえる。
だからだろうか。
俺の本音。漏らしてしまったのは生まれて初めて会った
ん
真剣に答えてくれた。ちょっと熱くて、ちょっと強引だけど。
居場所はここにあったのか。
219
マティアース!
3−7 天才と手紙
﹁
聞いてくれ!マティアス!
﹂
﹂
自分の部屋で手紙を書いていると、突然走ってやってきたレオニ
取り敢えず落ち着いた方がいい。一体どうしたんだ?
ートが騒ぎ始めた。
﹁
﹂
いつも落ち着きがないが、今は特におかしい。手紙を書くのを諦
エル坊に酷い目にあわされた!
め、レオニートに向かい合う。
﹁
嘘だろう
﹂
﹁
見てくれよ、これ!
﹂
レオニートが開口一番、あり得ないことを言ったのでついあっさ
本当だ!
りと切り捨ててしまった。
﹁
だな⋮⋮
﹂
強い口調で言われ、目の前に突き出されたレオニートの右手を見
灰⋮⋮
る。
﹁
言葉を発した時に漏れた空気のせいか風が吹いたのかはわからな
は?
﹂
﹂
いが、手の上に乗った僅かな量の灰がパラパラと宙に舞う。
﹁
落ちたぞ
灰!
﹁
レオニートが動いたのでさらに灰は散り、床を汚す。それを見て、
眉をひそめた。汚した当の本人は自分の手を見て目を丸くしている。
220
﹁
エル様の?
あー!
﹂
燃やしちまった!エル坊の⋮⋮
﹁
﹂
聞き捨てならない言葉に付き合いきれないと思って机に向かい直
中等部で落とした試験あった
した体を止めた。そういえばレオはエル様の勉強をみてるはずでは
﹂
あれが本に挟まっていたからふざけてやらせてみたんだ。
そうなんだよ。エルが俺が⋮⋮
なかったのか?
﹁
だろ?
そしたら、あっさり解かれた
そういえば数学を教えてくれと頼まれたことがあったな。
同時に、当時のレオニートがリチャードさんに見つかると怖いか
聞いてるか?
それをエルが解いたの!
﹂
らと悪かったテストを本棚に隠していたことも思い出す。
﹁
嘘だろう
﹂
﹁
はじめの一言の意味はそういうことかと納得する一方、そんなこ
とはあり得ないと否定する。絵本の読み聞かせは散々したもののエ
﹂
ル様に勉強を教えたことは一度もないし、家庭教師を手配したこと
俺ってそんなに頭悪かったか!?
もない。
﹁
悪いか悪くないかで言ったら悪くないな。つまり微妙だ
﹂
﹁
﹂
﹂と騒いで
今、すごい傷ついた
俺は当日の朝に賭ける
﹁
テスト一週間前にいつも﹁
いた奴が何を言う。本当にそうして、授業もろくに聞かずに学園生
活で一度しか赤点をとってないのだからある意味すごいじゃないか。
そうか、そうか
﹂
得意科目は結構いい成績取れていたしな。
﹁
221
﹁
ちゃんと俺の話を聞いてくれよ!
最初文字と数字が書いてあ
﹂
それを見たら一瞬俺の方を見て嫌そうな顔をしたん
だから微笑ましいなと思って足し算の問題を作って解かせ
る表を見せた時は、エル坊、難しそうな顔をしてそれを見つめてた
んだ。
てみたわけ。
﹂
レオのことが嫌だったんじゃないか
だ。何でだったと思う?
﹁
あー!
違うってば!
後から気づいたんだけどあれはこんな
今の話の流れからだとそれぐらいしか推測できない。
﹁
﹂
﹂
問題を解かせるのかって顔だと思うんだ。数字覚えて、あんな簡単
あぁ、母様。どうかされたんですか?
に解くなんてエル坊は天才だよ。しかも前代未聞の!
﹁
﹂
おーい!
マティアス聞いてる?
﹁
レオニートがドア開けたままにして入ってきたため、廊下を歩い
あぁ!
マティアス、何か用かしら?
﹂
ている母様が見えた。他人には気づかれないだろうが、嬉しそうな
あ⋮⋮
様子だったので思わず声をかけてしまった。
﹁
﹂
﹂
やっぱり何か変だ。話しかけられた瞬間、不自然に動いた左手が
母様⋮⋮
気になる。
﹁
何でもないわ
今隠されたのはなんですか?
﹁
いつもの母様なら隠すようなそぶりは絶対に見せない。あの女性
﹂
社会のトップとして生き抜いているのだから、隠し事などお手の物
いいから見せてください
だ。
﹁
この部屋はいつも扉が閉まっているし油断していたのだろう。母
様は諦めたように差し出した、何枚かの紙を受け取る。
222
﹁
これは⋮⋮
﹂
﹂
書いてある文字に目を走らせながら言葉を失った。
これエル坊のですよね?
これは?
ルクシェル様!
なんだ?
﹁
ええ
﹂
﹁
信じられない。しかし、今までに見たことのない筆跡のそれは紛
こんな定理が⋮⋮
﹂
れもなくさっきのレオニートの言葉を裏付けていた。
﹁
中等部の問題なので、もちろん解ける問題だ。しかし、丁寧に解
﹂
答を見ていると考えたことも教わったこともないような考え方が書
すごいぞ!
いてある。
﹁
だろ!?
﹂
﹁
すごい
﹂と言っただろう。ただ、自分の主人が
やっぱりエル様は只者じゃない。きっと自分はこれが誰のものか
知らなくても﹁
﹂
それにしても⋮⋮
﹂
なぜ母様はこれを隠そうとなさったのです
書いたものだということがより一層嬉しかった。
﹁
か?
上手に描けているから額にいれて飾ろうと思ったのよ
ふと疑問に思い、母様に尋ねる。
﹁
何を言っているんですか!?
﹂
﹁
これは新しく発見された定理だ。それは学園に高等部まで通った
母様にはわかることだ。しかも発表すれば少なからず新しい議論を
巻き起こすだろう。これを取られたくなかったから見つからないう
ちに飾ってしまおうと思ったのか。
223
﹁
﹂
王宮の学問を研究している部署に提出して、原本は返してもら
いましょう
すぐに返してもらうわよ
﹂
それぐらいの我がままは簡単に通る。
﹁
﹂
そもそも理解がものすごく速そうだし、勉強の面では通
話は変わるけど、エル坊はもう学園の入学試験に受かるんじゃ
そこでさっきから静かだったレオニートが口を開いた。
﹁
ないか?
う必要性は感じないけど
レオニートの言うことは最もだった。
でも、学園は卒業することに意味がある
﹂
﹁
じゃあ、中等部からか?
﹂
﹁
いや。ここは療養の意味も兼ねてるからしばらくいた方がいい
﹂
﹂
﹁
エル坊なら受かるもんな
が、小学部の途中入学もありだと思う
﹁
違うわ
﹂
途中入学はとても珍しい。行われることも、受かることも。
﹁
何がです?
﹂
﹁
学園に通う一番の理由よ。時に社会の縮図ともなる学園で人間
レオニートと話し込んでいると母様が急に口を挟んできた。
﹁
﹂
関係を学ぶこと。そして気が置けない友達が出来る。だから私はあ
なた達を学園に通わせたの
確かにその通りだ。しかし、母様の言葉を聞いて一つだけ引っか
﹂
かることがあった。どうもレオニートも同じだったらしい。お互い
エル坊に友達は⋮⋮
に顔を見合わせた。
﹁
224
﹁
﹂
確かに貴族の子供は早くから社会に入るし、家
⋮⋮いらっしゃらない
なんてことだ!
の事情が複雑に絡むため総じて友人は少ない。
エル様はどうだろうか?
﹂
私、次の街の視察にエルちゃんを連れて行こうとっているの。
一人もいない。誰かと言葉を交わした回数すら数少ない。
﹁
その間、貴方は留守番をしていて頂戴
母様はエル様の交友関係を広げようとなさりたいのだろう。確か
私も行きます
﹂
うちにはリチャードがいるじゃないですか
﹂
に色々な職種の者は見れるだろうが、同世代の友を作るには学園に
街に行くのはいいですけど⋮⋮
勝るものはないな。
﹁
駄目よ
﹂
﹁
何でですか?
キッパリと断られてしまった。
﹁
はっきり言えば、リチャードがいれば軍が攻めてきたってなんと
かしてくれそうだ。赤ん坊の頃から知っているのにリチャードは謎
﹂
が多すぎる。ちなみにその件に関しては息子であるレオニートにも
エルちゃんとのデートするのだから、貴方は駄目よ
わからないらしい。
﹁
♢♢♢♢♢
やはり、母様は母様だ。
225
﹁
マティアス、手紙書いてたのか?
﹂
母様とレオニートとエル様の今後について話し合い、解散しよう
ああ
﹂
かとなった時に、レオニートが机の上の手紙に気がついた。
﹁
見ていい?
﹂
﹁
マティアス、怪我は大丈
見られて困るものでもないので、レオニートに渡す。
先輩からか。なになに⋮⋮
あ!
﹁
か
﹂
夫か?
うわ⋮⋮これはないな
﹂
いくらなんでも端折り過ぎだ。もっとちゃんとしたことが書いて
お前の返事はこれ?
あっただろう。
﹁
そんなことはない
﹂
﹁
﹂
こんな感じかなって。前から思ってたんだけどお前の手紙は堅
まだ途中だが、普通に返事を書いてあるはずだ。
﹁
苦しい
貴方がもうちょっと打
もっと軽い感じで返そうぜ、と言われてしまった。堅苦しいとは
私もそう思っていたわ。レオニート、
失礼な。手紙なんだから当然だろう。
﹁
ち解けた手紙を書いて頂戴。せっかく心配して送ってきてくれたの
﹂
だし、その方が好印象よ。内容は変えないし、私が出しておくから
心配は要らないわ
﹂
絶対にエル様の解答のことを恨んでいるな。
それはいいですね
母様⋮⋮
﹁
レオニートが頷き、意気投合して部屋を出て行こうとしている。
226
﹁
﹁
﹁
ちょっと⋮⋮
失礼したわね
﹂
﹂
レオニート、お休み
﹂
何なんだったんだ。嵐のようにやってきて、そして去って行った。
水翠宮の静かな生活で忘れていた、騒がしい生活。
ああ⋮⋮せめて、ドアは閉めていってくれ
﹂
その環境で生まれ育ったのだ。慣れている。慣れている、が。
﹁
227
エル様、ベッドでお休みになったらどうですか?
3−8 母親と形見
﹁
エドナさんにそっと肩を叩かれた。
﹂
﹂
もうすっかり部屋は暗くなっていた。
薄暗くなった部屋で勉強していたはずなのにどうやらウトウトし
うん。寝ようかな
てしまっていたらしい。
﹁
眠たい目をこすって返事をした。
ウエストヴェルン家に来てもう一ヶ月弱。朝早く起きて調理場に
行って、ご飯食べて、レオニートやマティアスたまにリチャードさ
んと遊んで、毎日充実した時間が過ぎていく。ただ、レオニートに
はもう勉強しなくていいと言われてしまった。そんなに見込みはな
﹂
いのかと凹んだが今は地道に一人で勉強して地道に学力の向上につ
明日はお早いですし
とめている。
﹁
そうだ。明日も洗い物をしないと⋮⋮。
なにかしたいからやっているというのもあるけど、見習いの人が
一生懸命やっているのに手際が悪くて怒られているのを毎日見てい
たら手伝わなければと思うようになってしまった。
洗い物も手慣れてきて、結構楽しいしね。もちろんこっそりと料
﹂
懐かしいです。エル様のお母様も私が夜中に参ると、よく机に
理の様子も見学させてもらってる。
﹁
突っ伏して寝ておられました
ゴソゴソとベットから顔を出すと、エドナが微笑んでいた。
228
﹁
お母さん?
﹂
﹂
この世界でのお母さんの話を聞くのは初めてだ。その言葉がエド
私、エル様のお母様の侍女をやらせていただいていたんです
ナの口から出たことに驚いた。
﹁
どんな方だった?
知らなかった。だから俺の世話をしてくれてたんだな。
﹁
そうですね。いつも周りに笑顔が溢れているようなとっても明
﹂
﹁
るい方でした。驚かせることと喜ばせることが大好きな。陛下もそ
んなお母様のことを愛しておられました。それはもうこちらが見て
﹂
﹂
いて恥ずかしくなるくらいでした。でも、エル様をお産みになられ
そう⋮だったんだ⋮⋮
るには少々お身体が弱かったのです
﹁
お母さんは敗戦して処刑されたか、戦争でなくなったんだとばか
り思っていた。それはお父さんの方で、俺を産んだせいで亡くなっ
﹂
﹂
それはわかっておられたんです。それでも産むと譲られなかっ
てたのか。つまり俺を産まなければ⋮⋮
﹁
うん。ありがと
た。エル様のこと、産まれる前から愛しておられたんですよ
﹁
﹂
そういえば、エル様にずっとお渡してしようと思っていたもの
考えていたことが全部顔に出ていたんだろうか。
﹁
があるんです
エドナがポケットから大切そうに出してきた箱を俺の手にのせた。
エル様のお母様が最期に下さったんです。もう要らないからと
白い箱を開けると、中に入っていたのはネックレス。
﹁
229
﹂
﹂
これを私だと思って大切にして
もう要らない?
言って
﹁
そこは
とか言って渡しそうな
私は他のものを頂いていたんです。このネックレス、以前お城
ものだけど。
﹁
﹂
を抜け出した時に街でお買い物されたもので、ご自分のお金で買っ
﹂
そんなに欲しかったのかな?
てらしたんですよね
﹁
そう聞き返しながらシャラリと小さな音をさせながら持ち上げて
陛下からたくさんの贈り物を頂いてましてから、アクセサリー
みる。普通のネックレスだ。少なくとも俺から見たら。
﹁
は数えきれないほどお持ちでした。それをお求めになっているとき、
﹂
プレゼントとおっしゃっていたのです。結局、渡すことはないだろ
﹂
お父さんへのプレゼントじゃないってことだね
うとご自分で包装を開けられましたが
﹁
言われてみると、男物のネックレスだ。いったい誰に渡したかっ
そうです。お手紙を一生懸命お書きになっていたこともありま
たんだろう?
﹁
した。どなたかは存じ上げませんが、連絡をお取りになりたい方が
﹂
﹂
いらっしゃったようです。もう今となっては何も分かりません。エ
大事にする。お休み、エドナ
ル様が持っていらしたらお喜びになると思います
﹁
お休みなさいませ
﹂
﹁
あ、待って
﹂
﹁
部屋を出て行こうとするエドナを引き止めた。
230
﹁
お母さんのこと、大好きでいてくれてありがとう
なんでしょうか?
﹂
﹁
お母さん
﹂
の話をしている時のエドナの
俺を産んで亡くなった人。謝りたくてもお礼を言いたくても、も
う会うことはない。ただ
顔を見ていたら少し救われた。今でもこんなにしたってくれている
人がいるなんて。
エドナが出て行った後、もう一度起き上がってネックレスを灯り
の元へかざす。
│││A
小さく小さく削ってある文字。さっき触っていて気がついた。光
の具合によって見えなかったからエドナは気づかなかったのかもし
れない。
自分の名前か、誰かの名前の頭文字か。それともなにか意味があ
るのか。
考えてもわからないか
﹂
浮気相手がいたなんてオチはやめてくれよ。
﹁
もう寝よう。
ここに産んでくれてありがとう、ネックレスにそう呟いて。
231
集合だ、来い
﹂
3−9 仕事と興味
﹁
朝っぱらからじじぃの声で叩き起こされた。それだけで最低な気
見た目は?
﹂
分なのに、迷子の捜索をしろだろ?
﹁
小柄で銀髪。お前は屋敷内を探せ
手短に必要なことだけを聞く。
﹁
それだけ?
﹂
﹂
﹁
他のメンバーはもう向かった。行け
﹂
﹁
へーい
﹂
﹁
欠伸をしながら間の抜けた返事を返し、少年は男の前から掻き消
自分の主人だからって、餓鬼の迷子捜索に全員使うなんてマテ
えた。
ィアスの頭はおかしくなったんじゃないのか。それにしてもじじぃ
はいつにもましてピリピリしてたな。
そんなことを考えながら、少年はビュンビュンと屋敷を廻って行
く。
王子サマは銀髪らしい。いや、王子じゃなくてエル様だっけか?
大人しく王子しときゃあいいのに。ああ、父親に殺されそうにな
ったからか。
任務から帰った時に言われたことを思い出す。陛下が秘密裏に息
232
子を処理しようしたことはじじぃまでしか知らないことだ。そこま
では俺には伝えられなかった。
知っているのは、自分でこっそり調べたから。わざわざ恵まれた
いねぇなぁ
﹂
環境にいる奴がなぜそれを拒否したのか気になったのだ。
﹁
屋敷の部屋は全部見て回ったはずなのに見つからない。しかし、
屋敷の外に出て行ってしまった可能性もあるのだ。いくら自分の担
当場所を探しても見つからないということもある。
さっさと終わらせよう。
﹂
欠伸を噛み殺して、少年は多くの使用人達が働く部屋へと足を向
しっかし、いつ見ても馬鹿でかい屋敷だな
けた。
﹁
一体どれだけの使用人がいるんだ?
﹂
仕事柄いろんな国のいろんな屋敷を見てるけど、ここはやっぱり
大きけりゃいいってもんじゃないぞ
規模が大きい。
﹁
少年は第4洗濯室からスルリと抜け出ながら誰にも聞こえないよ
うに悪態をつく。
そして最後の部屋、厨房の前に立った。偶々最後になったのでは
行くか!﹂
ない。少年が自ら最後に回したのだ。
﹁
肩をぐるぐると回し、気合を入れてから体の力を抜いた少年は気
配を消して中に入る。
233
中はいつもと変わらず相変わらず熱かった。料理に火を使ってい
るから暑い、というだけじゃない。活気があるのだ。朝から鬱陶し
いくらいの。
壁沿いに部屋を回る。高めの料理台には準備中らしい色とりどり
の料理が置かれている。
見ているうちに空いてきたお腹を押さえ、さらに奥に目をやった
ときさっと何か動いたような気がした。
ここからだと積み上げられた鍋が邪魔でよく見えない。誰かコッ
クがいたのかもしてないし、怪しいやつだとしてもここはウエスト
ヴェルン家の厨房。別にほおっておいても大丈夫だ。
確認するべきか?
正直、面倒くさい。でも確かめた方がいい気がする、となんとな
く思った。
│││お前の勘は結構頼りになる
訓練の時にじじぃに言われた言葉が浮かんでくる。
取り敢えず確認だけして帰ろう。
そう決めた少年は大きく回って、動いたものを再び探す。
﹂
確かに何かが蠢いている。
見えづらいな
いる!
﹁
少年は目標を捉えられないことにイラついて舌打ちをする。
距離があるからかもしれない。腰のナイフに手を添え、そっと近
づいていく。
子ども⋮⋮
あいつか!
﹂
近づくにつれ見えてきたのは、銀髪の子供だった。
﹁
234
緊張を解き、ナイフにかけた手を下ろす。背が小さい上に白い壁
には場所が変だ。
に同化して、他の人に気づかれなかったんだろう。
でも、なんでこんなところにいるんだ?
迷子になったなら声をあげればいい。遊ぶ⋮⋮
しばし考える。
やっぱり何をしているかだけ見てから戻ろう。
一歩一歩足を踏み出して、気づかれないように後ろに立つ。
目の前の光景を見た少年はそのまま頬っぺたを思いっきり抓った。
夢なら早く醒めてじじぃの呼び出しに応じなきゃ。いや、そもそ
も呼び出しから夢なんだ。きっとそうだ。
少年がそう思ったのも無理はない。
子どもが迷子でも遊んでいるわけでもなく、食器を洗っていたの
だから。
それだけなら彼の柔軟な頭は受けいれることができたかもしれな
い。
でも、どうだろうか。
泡でモコモコになった子どもの両手のそばに沢山の透明な小鳥が
いたら?
小鳥が白い泡がついたお皿を支えながら、洗い流してもらうため
に列に並んでいるのを見てしまったら?
そして、その小鳥に見覚えがあったら?
少年は呆然と一枚一枚のお皿が綺麗になっていくのを見続けてい
たが、遂に最後の一枚を流し終わったことに気がついた。
大きなお皿が音を立てて置かれた瞬間、小鳥たちが消え、はっと
235
我に返る。
後ろを振り向かれたら気づかれてしまう。
♢♢♢♢♢
少年は慌てて厨房から出て、迷子を見つけたという報告をするた
めに走った。
報告を終えた少年は誰よりも早くさっきまでいた厨房に走る。
大きな肉塊を前に刃物を持つコックに声をかけた。大柄なコック
おいっ!﹂
が多い中、一際体格がいい。
﹁
しかしコックは無心に刃物を振り続けている。料理をするにして
は無駄に大きい動きをしているため、包丁らしきものが幾度となく
少年のすぐそばを掠めていた。それをひょいひょいと避けながらよ
ちょっと話がある
﹂
うやく少年はコックの手を抑えることに成功する。
﹁
それだけ言うと、部屋の外に引っ張っていく。厨房の台には得体
﹂
﹂
のしれない肉が残され、武器が大きな音を立てて床に落ちたが、も
﹁
うその時には二人の姿は消えていた。
気づいてたんだろ!?
せっかく今、奥様たちの朝食を⋮⋮
﹁
何をだ?﹂
なんだ!?
﹁
236
何のことかわからないと返すコックに一つしかねぇじゃないかと
少年は吐き捨てるように言った。
こいつが気づかなかったわけがない。
ああ!
﹂
﹂
コックはしばらく黙っていたが、暫くして声を上げた。
﹁
何で黙ってた
気づいてた、気づいてた!
﹁
毎朝楽しみでさ
﹂
やっぱり気づいてたのか。こいつがじじぃに報告すれば俺がもっ
だって面白かったんだよ!
と寝られたのに。
﹁
﹂
毎朝?
今日だけだろ?
﹁
いつも、いつも!
﹂
毎朝行方不明になられたらこっちも溜まったもんじゃない。
﹁
いてぇ
﹂
﹁
﹂
お前あの子のこと
助かるし、
がはは、と笑って背中をバシバシ叩いているのだ。逃げるように
なんだ?
見習いがやる分の仕事を手伝ってくれてたんだよ!
体を捻ったが、鈍い痛みが残っている。
﹁
しかも楽しそうにやってるしねぇ!
﹂
さっきも随分覗き込んでたじゃないか
そんなんじゃない
が気になるのか?
﹁
俺が入ったのもわかって見てたなんて、悪趣味な奴。
ピェット。マティアスの影の一人で、大柄な男みたいな女。普段
はコックをやっている。コックから影になったのか、影からコック
になったのかは知らないが俺によく構ってくるメンバーの一人。
残念だね!
あの子は男の子だよ!
﹂
だから、厨房には入りたくなかったんだ。
﹁
また大声で笑って、バカみたいに強い力でまた背中を叩かれた。
237
﹁
知ってるってば
﹂
痛む背中をさすりながら考える。
確かに自分はあいつのことが気になってる。でも、それはあれの
ことが知りたいから。
家についた時には溶けていた鳥の置物。
それを調べるためにちょっとだけ、
あいつのことを見てみよう。
親に捨てられ、そしてある男の気まぐれで拾われた少年。
そのせいなのか何事にも淡白な彼が、初めて興味を持った瞬間だ
った。
238
3−9 仕事と興味︵後書き︶
これで次回更新まで間があくと思います。
239
3−10 料理と外出
一体どういうことですか!﹂
ああ⋮⋮さっぱり忘れていた。
﹁
マティアスのめったに聞かない大きな声が耳に響く。
今日はルクシェルさんに誘われて街に行くから早く起きなければ
朝、お部屋に行ったら、エル様がいらっしゃらなくて、どれだ
いけない日だったなんて。
﹁
け心配したと⋮⋮!﹂
洗い物を終えてそろそろ部屋戻ろうかと思ったとき、マティアス
が調理場に飛び込んできたのだ。ぼーっとそれを見ていると、俺の
エル様、聞いてますか!﹂
前に仁王立ちをなったマティアスが怒り始めてしまった。
﹁
マティアスを心配させてしまったらしい。確かに子どもが朝いな
かったらびっくりしないはずがない。
今更不思議に思う。
そもそもなんで洗い物のことをマティアスに言ってなかったのだ
ろう?
ごめんなさい
﹂
最初から言ってれば心配させることもなかったんだ。
﹁
自分が悪かったと思った俺はぺこりと頭を下げて謝る。そして、
言葉を続けた。
240
﹁
﹁
あら、そんなんじゃだめねぇ
だめです!
明日からは
エル様、何をおっしゃっているのか⋮⋮
﹂
﹂
﹁
﹂
明日からと言ったことで余計怒らせてしまったらしい。どうしよ
うかと身をすくめたとき、ルクシェルさんがやってきた。その後ろ
には朝からバッチリ決めているリチャードさんも立っている。まあ、
母様は黙っていてください!﹂
﹂
ここに来てからリチャードさんがOFFモードの時なんて見たこと
﹁
黙るのは貴方よ。叱る前には理由を聞きなさい、理由を
がないけど。
﹁
ビンッと弾けるような音はしたかと思うと、マティアスがさっき
いたところから数メートル離れたところに飛ばされていた。思わず、
視線がマティアスとルクシェルさんの間を往復する。
額を押さえてるマティアスと扇を手のひらに打ち付けているルク
シェルさんを見る限り、扇で叩いたんだろう。扇から白い煙があが
っているのは見なかったことにした。
﹁だから子育ても経験していないような若造はだめなのよ﹂
ルクシェルさんが吐き捨てるように言う。実の息子に対してずい
さっき聞いたわ。エルちゃん、お手伝いしてくれていたんでし
ぶんないいようだが、誰も気にしている様子はない。
﹁
うちのコックは優秀なのだけれど、数が足りなかったみた
﹂
ょう?
いね
そういうルクシェルさんの背後では優秀なコックさんたちがゾン
ビのように働いていた。朝のこの時間、いつもの光景だ。
241
﹁
﹂
奥様それには及びません。手が足りないなら各自が三倍働けば
良いだけです
なぁ、みんな?﹂
リチャードさんの発した言葉を聞いて、一斉に手を止めるコック
その通りだ!
さん。
﹁
それに追い打ちをかけるように何時の間にか現れた大きいコック
さんが豪快に笑いながら他の人に呼びかける。
日に焼けた肌に白い歯とコック服が眩しい人だ。話し方からする
う⋮⋮うす⋮⋮
﹂
と偉い人何だろうか?
﹁
なんとも悲しそうな顔で口々に返事を返す他のコックさんたち。
このままではみんなが死んでしまう!
﹂
ここは俺がはっきり否
全然大丈夫そうじゃない。三倍働けだなんて、どんな鬼畜の所行だ
!
違うんです。僕は料理がしたくて
定しないといけない、そう俺は判断した。
﹁
だからやってただけなんですと言って、ルクシェルさんを見上げ
る。これがすべてではないにしろ、理由の一つだ。
やっぱりそうだったのか!
﹂
しかし、それに一番に反応したのはルクシェルさんではなく、大
がははは!
きなコックさんだった。
﹁
俺の言葉が面白かったのか、楽しそうに笑っている。特に面白い
﹂
ことを言ったつもりもなかったので、はぁと間の抜けた返事しかで
私が料理を教えてあげよう
きなかった。
﹁
今度はコックさんだけじゃない、部屋にいた俺以外の全員の動き
が止まった。
242
なぜだ?
理由を考えているうちに、俺は料理台の前に連れていかれる。今
からさっそく教えてくれるみたいだ。机の上にはまだ調理されてい
ない生のお肉が置かれていて。調理器具を出そうとコックさんはし
やっぱり料理はすばらしい。その極意は戦いに通ずるものがあ
ゃがみ込んでいる。それにしても、このお肉は何の肉なんだろう。
﹁
る。そう思うだろう?﹂
自分で言っておきながら、うん、うんと一人で頷くコックさんに
視線を戻す。どうも俺に返答を求めていたわけではないらしい。
少し変わった人なのかなと思い、すぐに自分の考えを否定する。
こんなことで変わっているといっていたらやっていけない。今はだ
まだ慣れてないし、大き
いぶ慣れたものの。ウエストヴェルン家の人たちはみんな個性的だ。
﹁どれか使ってみるかい?﹂
包丁でも選ばせてくれるのだろうか?
いものは手を切りそうで怖い。
それならこれだな﹂
﹁小さめの⋮⋮﹂
﹁小さめのね!
はいっと威勢のいい声で渡されたものを見て、声にならない悲鳴
を上げる。
それは明らかに包丁というより限りなくのこぎりに近い代物だっ
た。滑り落ちそうになって、慌ててつかんだところが刃の部分だっ
たらしい、鈍い痛みとともに、少量の血が流れた。俺の鮮やかな赤
で、刃が濡れる。
さっと青ざめて、コックさんに助けを求めた。
243
﹁血⋮⋮﹂
﹁平気さ!
料理は少しくらい血を流しながら、やった方がうまく
なるもんさ!﹂
眩しいほど白い歯で、笑うコックさん。
違う、俺のやりたかった料理じゃない。
死なないでください!﹂
ただちょっと⋮⋮
体が痛いんだ
﹂
有無を言わせず、肉をさばき始めたコックさんにそう伝えること
エル様!
はできなかった。
﹁
大丈夫だよ⋮⋮
マティアスが再び叫ぶ。
﹁
ちょっとというよりかなり痛い。全身が痛い。
ピェットさんの楽しい料理教室第一回が終わった。
周りのコックさんたちも心配する声をかけてくれているのがわか
った。いい人たちだ。これでみんなの仕事量を増やすことを免れた
だろうか。
当然のことながら振り回された武器にあたって怪我をしていた俺
♢♢♢♢♢
はお医者さんのところへ連れて行かれたため、その日に街に行くの
は中止になった。
244
﹁
いってきます!﹂
留守番をするらしいマティアスに手を振り、ルクシェルさんと共
に馬車に乗り込む。始めてのちゃんとした外出に俺は浮き立ってい
すぐに、今すぐに帰ってきて下さいね∼!﹂
た。マティアスも一緒に来られたらよかったのにと思う。
﹁
出かけざまに言われたマティアスのさっきの言葉を思い出して、
首を傾げる。外出が決まってからよく言っていたけど、そこはゆっ
くり楽しんできてね、とかじゃないんだろうか。
周りのメイドさんたちもいぶかしげな顔でマティアスを見ていた。
本人は全く気にしていなかったが。
まぁ、いいか。
ウエストヴェルン家の屋敷から離れていく。
そこは西の要塞と異名を持つ、大貴族の屋敷。侵入するのは簡単。
でも、一度入れば戻ってこれない。味わう地獄は三つある。生きて
いることを後悔させられるような目に遭うと。
戻ってきたものがいないのなら、そんな話しが出るはずもないの
だが、そこに突っ込むものはいなかった。
嘘か本当かわからないような噂話は屋敷周辺の町ではあまりにも
これでエルメルはその鉄壁の守りの要とも言える者全員に出会
有名なものだ。
ったことになる。そんな一日だった。
245
エルちゃん、自由に見ていらっしゃい
3−11 砂場と子供
﹁
﹂
時間になったら迎えに参りますわと言い残して、ルクシェルさん
は女の人と何処かに行ってしまった。
見て回ると言ってもなぁ⋮⋮
周りを見渡して、適当な方向に歩き始める。
ここが孤児院だということは建物の入り口に書いてあった。一日
街の色々なところを回ったけど、今日はここで最後らしいから結構
待つことになるかもしれない。
建物の中心に向かって歩いていると人の声が聞こえてきた。声の
する方へフラフラと近づき、そっと覗いて見る。
子どもが遊んでいる。地球だったら幼稚園児や小学校低学年くら
いの子たちだろう。四人で集まって砂遊びをしていた。
話しかけようか。物陰でどうするべきか考える。
元々子供と遊ぶのは好きだ。だから話しかけたい。しかし、その
前に自分の格好を見て不審者だと思われないか確認する。
ルクシェルさんお気に入りの服に靴。髪の毛も乱れてない。大丈
夫だ。ただ少し身体中に巻かれた包帯が普通じゃないかもしてない
が、問題ないだろう。ピェットさんの横に立っていてついた傷だ。
そんなことをしていると、後ろからポンっと肩を叩かれた。
246
﹁
遊びたいのか?﹂
振り向くと、中学生くらいの子が立って俺を見ていた。
よし、行こう
﹂
なんと答えるべきか。ただ時間を潰したいだけなんだけど。
﹁
返事を考えていると、その子が俺の手をとって、砂場の方へ歩い
て行く。俺はこけそうになりながら、砂場へ近づいて行く形になっ
あー!
た。
﹁
遊んでくれるの?
﹂
兄ちゃーん!﹂
﹁
おう!
遊んでやるぞ!﹂
男の子の姿を見た子供たちがわーっと言いながら集まってきた。
﹁
にいちゃ、その子だれ?﹂
男の子がそう言うと、みな一斉に喜ぶ。
﹁
﹂
こいつ、お前たちと遊びたいんだと。だからみんなで一緒に遊
その中の一人の子が俺に気がついて、指を差して聞いてきた。
﹁
ぼう
いいぞ!
仲間にいれてやるから、こっちこいよ
﹂
兄ちゃんと呼ばれた子が俺を四人の前に押し出した。
﹁
どうしてだろう。精神年齢でも今の年齢でも︵こっちは兄ちゃん
♢♢♢♢♢
に負けるにしても︶年上の俺が遊んでもらう流れになっているのは。
247
﹁
そういえば、エルはなんでいたんだ?
けじゃないよな?﹂
ここら辺に住んでるわ
ザクザクと砂の山を掘りながら、カストが尋ねてきた。カストと
ルクシェルさんについてきたんだ
﹂
いうのは俺の肩を叩いたお兄ちゃんだ。
﹁
俺も反対側から掘り進めながら答えた。もうかれこれ二時間ぐら
い掘っているが、トンネルを四方から貫通させないと終わらせられ
ないらしくずっと同じ作業を続けている。やる気とセンスがないと
子供たちに判断された俺とカストが穴を掘る係りなのだ。他の子供
領主様のところで働いているのか?﹂
たちは補強をしたりと忙しく動き回っているため、自然と二人で会
ルクシェル様に?
話が進む。
﹁
働いてないから使用人ではないと思う。でも改めて聞かれると俺
預かってもらってる⋮⋮のかな?﹂
自身よくわからない。
﹁
貴族なのか
﹂
﹁
貴族というより元王子のような感じ、とも言えずに黙っていると、
カストの穴を掘る手が止まった。
カストの視線が痛い。居心地が悪いのと、気のせいかもしれない
が、俺の包帯を見ているような気がして、思わず伸びない袖を引っ
張って傷を隠そうとする。魔法もダメなくせに料理も出来ないのか
お前⋮⋮偉いな
と思われるのが嫌だったのだ。
﹁
そんなことないよ
﹂
﹂
﹁
何が偉いのかわからない。偉いといえば、馬鹿と言われてもめげ
ずに勉強していることぐらいだと思う。普通の子どもだったら不良
248
﹂
そういえばさぁ、エルはウエストヴェルン家に住んでるんだよ
になっているところだ。
﹁
うん
な?﹂
﹁
山を三回崩してスコップを取り上げられ、木の棒で穴をつつくカ
マティアス様っているよな?﹂
ストを見る。
﹁
いるよ
﹂
﹁
﹁
具合?﹂
マティアス様の具合がすぐれないっていうのは本当か?﹂
マティアスの家なのだから当然住んでいると、頷く。
﹁
噂に聞いたんだけど、最近様子が変だって
﹂
﹁
様子が変。一体何が変で何が普通なのかよくわからない。マティ
例えば?﹂
アスさんは普通だと思ってた。
﹁
そこまではわからないんだ。エルなら知ってるかなと思ったん
﹂
﹂
﹁
だけど⋮⋮。俺たち昔遊んでもらったことあるから心配で
倒れてた
俺は最近印象に残っているマティアスを思い浮かべる。
﹁
大丈夫なのか!?﹂
そうだ。調理場でルクシェルさんの扇から煙が出ていて⋮⋮。
﹁
頭が⋮⋮
﹂
﹁
249
物凄く痛そうだったな。自分がやられたらと思うだけで、額が割
れそうだ。
顔を歪めていると、カストが切羽詰まった様子で砂山を突ついて
マティアス様に大丈夫か聞いといてくれ!﹂
いる。
﹁
うん。わかった
﹂
﹁
︻マティアスに頭大丈夫?と聞く︼カストの伝言は俺の頭にしっか
り刻まれた。
砂山から半径一m以内のカスト立ち入り禁止令が出された頃、ル
辛くなったらいつでも来ていいんだぞ!﹂
クシェルさんのお供の人が帰る時間だと告げにやってきた。
﹁
うん
﹂
カストが俺を抱きしめながら行ってくれた。
﹁
今日一日で仲良くなれたのはすごく嬉しい。でも、今生の別れで
またくるね
﹂
もないのに涙目でお別れを言うものだろうか。
﹁
エルちゃん、楽しかった?﹂
暑い男、カストと子供たちに別れを言って、孤児院を出た。
﹁
うん
﹂
﹁
♢♢♢♢♢
今日のこと、なにから話そうか。考えると自然と笑みがこぼれた。
250
﹁
にいちゃ、にいちゃ
﹂
日が沈みかけた中庭でスコップを片手に持った女の子が男の子の
﹁
なんでもないよ。ただ、今は保護されたとはいえ、あんな小さ
にいちゃ、どうしたの?﹂
裾を引っ張る。
﹁
﹂
い子が虐待にめげずに頑張っているんだから俺も頑張ろうと思った
だけだよ。さぁ、行こうか
そう呟き、女の子の服の砂を払ってあげてから手を繋ぐ。
砂山には二人分の長い影が伸びていた。
251
3−12 名前と星空
それはある夜のこと。
﹁お前に頼みがあるんだ﹂
いつもと同じようにマティアスにおやすみを言い、一人になった
どこから入ったんだ?
混乱した頭で部屋を見渡すと、
時、突然部屋に不法侵入者がやってきた。
どこだ?
何時の間にか確かに締めたはずの窓があいていた。
そろそろと後ろに下がりながらいつでも大声で叫べるように身構
える。灯りがついていない部屋では相手の場所もよくわからない。
誰?﹂
それがさらに恐怖をあおった。
﹁
心臓が早鐘を打つ。それでも、ゆっくり深呼吸をして動揺してい
俺は⋮⋮
﹂
ることを悟られないように聞く。
﹁
なぜかそこで口を噤む侵入者。沈黙に唾を飲み込み、途切れた相
手の言葉を待った。
﹁⋮⋮俺だ﹂
何も言わないから不思議に思ったのかもしれない。彼は俺に問い
かけてきた。
﹁驚かないのか?﹂
252
十分驚いている。暗いから俺のびっくりした顔が見えないのだろ
う。
異世界版新手のオレオレ詐欺じゃないか。しかも、それだけじゃ
ない。あれは電話だから成立する詐欺であって、直接言いにきたら
だめだ。こいつは知らないのか?
次第に闇に目が慣れてきて、相手の顔がぼんやりと見えるように
なった。相手の顔を確認する。見たことない顔だ。思ったよりも若
取り敢えず座ろう
﹂
い男、いや子どもじゃないか。
﹁
俺を襲おうとしているわけではないことが分かったので、毛布を
俺を影にしないか?﹂
捲り、ベッドに座るように促した。
﹁
影⋮⋮?﹂
知らない言葉だった。
﹁
戸惑いながら口にする。それがこの世界の常識で、変に思われた
あ?
かな?﹂
影っていうのはあれだ⋮⋮
えっと、お前の仕事をサポ
らどうしようと不安に思いながらの質問だった。
﹁
ートしたりする仕事⋮⋮
彼の様子から知らなくても問題ないことばだったらしいと分かる。
語尾が疑問系なのが気になるが、言葉の意味は理解できたし、この
子が何のために来たのかわかった。同時に彼が道を踏み外した少年
理由を聞かせて欲しい
﹂
ではないと分かり、安堵した。
﹁
わざわざ俺のところにきた理由が知りたかった。若い彼になら他
の選択肢が沢山あっただろうに。
253
﹁
あと、小鳥が⋮⋮
それは⋮⋮
﹂
お前が面白そうだと思ったんだよ!
!
それだけだ
彼は照れたようにごにょごにょと小鳥が可愛いしと呟いていた。
﹂
﹂
俺が作る氷の小鳥を知っているらしい。清爛じゃないところが通だ
そうか
な。
﹁
﹁マティアスの許可も取ってある
だめだ
俺じゃ、力不足か?﹂
彼は随分と準備がいいタイプらしい。それは大歓迎だ。でも⋮⋮
﹁
何でだっ!?
﹂
﹁
僕はまだそれを決める資格がないんだ。だから、大きくなって
否定するために横に首を振る。そうじゃないんだ。
﹁
﹂
資格を得たその時にまだ影になってもいいと思っていたら頼んでい
いかな
俺としては彼になって欲しいと思うが、今はまだ早い。時間がか
資格⋮⋮?﹂
かるかもしれない。それでも彼は待っていてくれるだろうか。
﹁
﹁
﹂
僕はまだ何も持ってないんだ。でも、絶対手に入れてみせるか
彼は不思議そうに俺の言葉を繰り返した。
ら
﹂
やっぱり、お前を選んで良かった。俺の勘が言ってるんだ。お
無力な自分を痛感し、手のひらを見つめる。
﹁
前といれば、面白いものが見れるって
嬉しそうに彼は言うが、別に面白いものは見られないと思ったが、
取り敢えず曖昧に笑った。嬉しそうな彼に水を差したくなかったの
だ。
254
それから暫く二人で話をした。
彼は今も影として働いていると言い、その時がくるまで、彼は今
これからよろしく⋮⋮
﹂
までの仕事を続けることになった。
﹁
影と呼べばいい
﹂
﹂
握手をしようと手を伸ばしたが、彼の名前が分からず、口ごもる。
﹁
駄目だ。影とは呼べない。僕にとって君は影じゃない
彼は俺を見て、素っ気なくそんなことを言った。
﹁
暗闇に浮かび上がる彼の真剣な瞳がじっと俺を見つめている。
﹁名前は?﹂
彼は答える気がないのか、黙ったままだった。はっきり見えなく
ても、その目はまるで鉱石のようで、何も映ってなかったように思
う。
﹁うーん⋮⋮困ったな﹂
なんて呼べばいいだろう。どうしようかと視線がフラフラと部屋
ソラと呼ばしてもらう
﹂
の中を彷徨う。その時、風に吹かれたカーテンが舞い上がり、星が
ソラ⋮⋮
綺麗な夜空が目に入った。
﹁そうだ!
名乗るつもりはないのか、彼に名前がないのかは知らないが、影
だなんて呼べない。それなら、勝手に呼ばせてもらおう。
﹁ソラ⋮⋮?﹂
255
﹁気に入らなかった?﹂
﹁ちげーよ!何だっていい!別にそんな名前なんかなくたってかま
わないし⋮⋮﹂
﹂
ソラの顔はうつむいていてこちらからは見えなかった。嫌じゃな
かったならいいんだけど。
﹁そっか、それじゃあ、よろしく、ソラ
﹂
おずおずと伸ばされた俺のより大きい手を引き寄せて、しっかり
と握手をした。
﹁じゃあ、俺行くわ。困ったことがあったらすぐ呼べよ、エル
﹂
ソラが窓に足をかけたまま、振り返った。
﹁うん。仕事ない時は遊びにきて
彼氏が彼女に言うような言葉を残して、窓の外に体を投げ出した
しかも携帯ないのに、どう
かと思うと、やってきたときと同じように忽然と姿を消したソラ。
﹁ほんと、なんだったんだろう⋮⋮?
やって連絡するんだ?﹂
まぁ、いいか。夢に一歩近づき、気分がいい俺は特に気にするこ
となく、窓を閉め、カーテンを引いた。
雲に隠れていた月が出て、少し明るくなっていたが、もちろんソ
ラの姿は見えなかった。実は飛び降りて、下で潰れてないか心配だ
ったのだ。
始めと同じようにベッドに潜る。
すごくびっくりしたけど。
肌触りのよい毛布を頭まで引き上げながら、さっき起こったこと
256
を思い返してみる。
やる気のあるスタッフの人が見つかって良かった。一緒に天下一
喫茶店を目指そうじゃないか。
ちょっと常識がないことがネックだな。家と部屋には出入り口と
いうものがあることを教えてあげないといけない。まずはそれから
だ。
257
﹂
﹂
エル坊ちゃん、終わりですね。またこちらにいらしたときは一
3−13 菓子と視線
﹁
ありがとう
緒に料理しましょう
﹁
俺は最後まで応援してくれたコックさんにお礼を言った。
これ、持っていきな
﹂
廊下を歩きながら、手の中で包みを弄ぶ。
﹁
部屋を出るときに、こっそりクッキーを貰ったのだ。見習いの人
がこっそり手に握らせてくれた。最初の頃、よく怒鳴られてた人だ。
まあ、今も上のコックさんに怒鳴られてることには変わりないが。
結局刃物を振り回すピェットさんの料理は危険だということで副
料理長が簡単な料理を教えてくれた。でも、残念ながらそれも今日
で終わりだ。
もうそろそろ時間。思っていたよりも時間をかけてしまったなと
早足で、玄関ホールに向かう。
お待たせ
﹂
長い廊下はこういうときに困る。なかなか目的地につかないのだ。
﹁
大量に荷物に囲まれながら周りの人たちに指示を出しているマテ
ィアスを見つけて、階段を駆け下りた。
258
もう宜しいのですか?﹂
マティアスが俺の姿に気づく。
﹁
うっ
﹂
﹁
うん、と答えようとしたのに、喉から潰れた声が出た。突然、身
エルちゃん、もう行ってしまうの?﹂
体が押しつぶされたのだ。
﹁
﹂
﹁
ええ
ルクシェルさんに強く抱きしめられていて喋れない俺の代わりに、
マティアスが答えてくれた。
私も行ってしまおうかしら
﹂
﹁
それは駄目です、奥様。お仕事がありますから、しっかり働い
﹂
﹁
てください
﹂
マティアス、向こ
リチャードさんがルクシェルさんの力が弱まった隙に俺を引っぺ
がす。
﹁カシュバルはいつ、一人前になるのかしら?
﹂
言うことは言いますが、兄さんは自分の手には負えませんよ
うに行った時に言って置いて頂戴
﹁
そうか。マティアスはお母さんとまた別々に暮らさなきゃならな
くなるんだ。親子水入らずの時を邪魔してはいけないと思い、マテ
ィアスのそばを離れた。
そういえば、レオニートは一緒に来るのだろうか。リチャードさ
んもシュリさんもここにいるから残るのかもしれない。もしそうな
ら、少し寂しいな。
ここで過ごした時間の半分くらいは穏やかで、そして賑やかだっ
た。レオニートともかなり仲良く慣れたと思う。
259
﹁
エドナさーん!﹂
何でしょう
﹂
レオニートの声だ。
﹁
玄関ホールで忙しそうに準備をしていたエドナさんに目を向ける
エドナさん!一緒に幸せな家庭を築きましょう。好きです!
と、近寄ってくるレオニートを迷惑そうに見ているところだった。
﹁
俺と結婚して、ここに残って下さい!﹂
﹂
突然始まったプロポーズに、周りの使用人がギョッとして荷物を
嫌です。私は一生、エル様について行きますから
落としてしまった。
﹁
そう言うと、エドナさんは片手で近くに落ちた荷物を拾い上げて
それなら、俺も王都に行きます。一生、死んでもエル坊につい
いる。
﹁
て行きますから!﹂
全員に聞こえるような大声で宣言をし終わった時には、もうエド
ナさんは居なくなっていた。荷物を積みに行ってしまったのだ。そ
というわけで、エル坊、よろしくな
﹂
の光景を初めて見た人以外は、たんたんと仕事をこなしている。
﹁
レオニートに手を握られ、さっきの気持ちは何処かへ行ってしま
った。
参りましょうか
﹂
やっぱり、マティアスだけでいい。それで十分だ。
﹁
準備も終わり、マティアスの言葉に頷く。同時に大きな扉が開か
れた。
260
﹁
いってらっしゃいませ
﹂
そこに待っていたのは、もちろん見たことのある顔。ずらりと門
まで並んでいる。
いってきます!﹂
俺は深呼吸をして、屋敷の外へ足を踏み出した。
﹁
ここにきた時と同じ光景なのに、全然違う。変わったのは、自分
だ。
真っ直ぐに伸びた道の向こうには馬車が止まっている。羽を広げ
♢♢♢♢♢
た鳥が描かれた真っ赤なウエストヴェルン家の紋章がついた布地を
はためかせて。
馬車に乗り込む前、ポケットの中でカサカサと音がした。さっき
のクッキーだ。
楽しみだな
﹂
馬車の中で食べよう。
﹁
なんか遠足に行く子どもみたいに思われるかもしれないけど、ウ
エストヴェルン家特製クッキーは本当に美味しいんだ。
想像して思わず笑みが溢れたが、誰かに見られていたら怪しまれ
るので、すぐに顔を引き締めた。
しかし、隣にいたマティアスには絶対に気づかれたと思う。その
⋮⋮あげないよ
﹂
証拠にじっとこちらを見ているのを感じる。
﹁
261
そんな物欲しそうな目をしたって一枚もあげるつもりはない。取
られたらいけないので、先に牽制しておこう。マティアスは甘いも
のなんて興味ありませんという顔をしているのに、甘党なのか。
面白いから少し意地悪してみよう。
﹁見せてはあげるよ﹂
見せてあげるけど、食べさせてはあげない。少ししかないのだか
ら、大切に食べないと。これは頑張った人に対するご褒美なのだ。
少し優越感に浸って、くすりと笑った。
それでもマティアスが俺を凝視しているので、だんだん不安にな
ってくる。
怒っているのか?
それとも、さっき一枚つまみ食いをしたのがばれているのか?
遅いかもしれないが、ペロリと唇を舐めて証拠隠滅を図る。
それでもまだ見てくるマティアス。
怒っているのかもしれない。
こいつ、どんだけクッキーが好きなんだ?
262
3−13 菓子と視線︵後書き︶
これでこの章は終わりです。お疲れ様でした。
更新だいぶ遅くなってしまいました。書いてはいたんですが、タイ
ミングを見失ってしまって⋮⋮。次はいつになるかわかりません。
皆さんの暇つぶしでもなるとうれしいです。
263
4−1 食事と兄弟
﹁
そうです。以前お話した学園の入学試験を受けてみませんか?﹂
入学試験?﹂
﹁
学校に行きたい。マティアスの言葉に頷き、再び王都にやって来
た。
滞在場所はもちろん、王都のウエストヴェルン家別邸である。
流石に本邸よりは小さいなと思ってしまったあたり、俺の感覚は
だいぶ鈍ってきているらしい。行きに見てきたどの家よりも大きな
お屋敷の部屋に案内され、部屋で少し過ごした後、夕飯に呼ばれた。
本邸とどことなく似たような雰囲気の廊下を通り、食堂についた。
まだ俺とマティアス以外いない。
いや、屋敷についてから使用人の人たち以外にはまだ会っていな
かった。
お待たせしました
﹂
マティアスに引いてもらった席について、二人で料理を待つ。
﹁
目の前にお皿が置かれ、ようやく来た!とスプーンに伸ばしかけ
と壊れた人形のように首を捻る。見たくない、でも
た手が止まった。
待てよ?
ぎぎぎ⋮⋮
確認したい。
﹁どうかされましたか?﹂
やっぱりそうだった!
264
﹂
双子なのか
俺の後ろに立っていたのは紛れもなく、リチャードさんであった。
﹁なんでもないです⋮⋮
すぐに前を向き直して、自分を落ち着かせる。
俺を見送ってくれたはずなのに、なんでいるんだ?
?
マティアスが前に教えてくれたじゃないか。考えるな、リチャー
ドさんに関して考えたら負けだ。
でも、なんで⋮⋮
しかし俺の思考は新たな人物の乱入に気づいたことによって遮ら
れることになった。
﹁おかえり、マティアス﹂
俺は一瞬見えた光景にギョッとして、前に座っているマティアス
をまじまじと見る。
﹁やめて下さい﹂
マティアスが見たことがない女性に腕をとられていた。マママ⋮
⋮マティアスが女性に絡まれている!
見てはいけないと思いつつも、すぐ前で食事を取っているので、
どうしても目が離せない。
﹁本当にやめて下さい、その格好。もう少しなにかあるでしょう﹂
﹁夜会から帰ってきたばかりだからしょうがないだろう?﹂
相手の女性は彼女だろうか。この家にいるということは同棲をし
ている相手!?
随分親しそうだが、もしかして結婚していたとかいうおちじゃな
いよな。
265
俺はこっそりと観察を続ける。綺麗で、少しきつめの顔立ちはル
クシェルさんに似ている気がする。服装もルクシェルっぽいし⋮⋮。
まさか!俺は気づいてはいけないことに気づいてしまったようだ。
﹁エル様!?﹂
﹁ごめん、やっぱりお腹空いてないみたい﹂
マティアスがマザコンだったという衝撃的事実のせいですっかり
食欲が失せてしまった俺は静かに席を立った。
今日は、部屋に戻ろう。色々と考え直した方が良さそうだ。
目を合わせてもらえなかったマティアスはエルを引き止めること
もできずに立ち尽くす。
﹁兄様のせいでエル様に嫌われてしまったではないですか!いい年
して、兄様大好きだと思われてしまったかもしれません。ああ、ど
うしたら⋮⋮﹂
﹁いいじゃないか。しかし、彼もまた美しい。気に入ったよ﹂
女性が事も無げに自分の髪を引っ張ると、ずるりと落ちて、地毛
が現れる。マティアスと全く同じ赤い髪もまた、また綺麗な長髪で
あった。
﹂
﹁私はよくありません!エル様にちょっかいを出すのはやめて下さ
い
♢♢♢♢♢
事態はもう少し深刻である。
266
さて、今日は入学試験の日である。
学園に行くため、俺とマティアスは二人並んで街を歩いていた。
学園まで馬車を出すか聞かれたが、街を直接見てみたかったので断
エル様、試験の帰りに入学に必要なものを買いに行きましょう
ったのだ。
﹁
﹂
か。家に呼んでもいいのですが、王都の商店は一度見ておいて損は
ないですよ
﹂
お店はぜひ見たい。でもにこやかなマティアスとは対照的に、俺
試験に受かるか分からないから⋮⋮
はぎこちない笑顔を浮かべて言った。
﹁
受験前なのである。緊張して夕べも中々寝付けなかった。久しぶ
りのテストに今だって足がガタガタだ。落ちたらウエストヴェルン
家の人に申し訳なくて、合わせる顔がない。しかも、受かるのを前
提で買い物まで行こうとか言っちゃっている。
エルメル様は天才ですよ﹂
悪気はないのだろうが、これ以上プレッシャーをかけるのはやめ
てくれ。
﹁何をおっしゃっいます。
心配などみじんもしておりませんよとあっけらかんした様子でマ
ティアスが言う。
﹁でも、レオニートが馬鹿だって⋮⋮﹂
そして、あれから誰も勉強をしましょうとは言わなくなったのだ。
俺の前で勉強というワードが禁句になってしまったかのように。
レオニートが?
その話、詳しくお話してもらっても宜しいで
きっと見限られたんだろう。
﹁
すか?﹂
マティアスが足を止め、にっこりと俺に聞いてくる。
267
さっきと同じ笑顔のはずなのに、明らかに目が笑っていないマテ
ィアスに向かって、さっきの緊張も忘れて首を縦に振った。
﹁お分かりになりましたか?﹂
﹁わ、わかった﹂
学園の前でマティアスが俺に確認をとる。あれからここに着くま
でずっと、俺の頭は悪くないんだということを語られていた。どう
もレオニートの言葉は誤解だったらしい。
結局、あの馬鹿の意味はわからなかったが、マティアスのお世辞
分を引いても学園の試験は大丈夫そうだった。それを聞いて、一安
﹂
でも⋮⋮
﹂
帰りは迎えにまいります。エル様、頑張ってください。いや、
心したと同時にレオニートに殺意を覚えたのは言うまでもない。
﹁
頑張るよ
エル様は頑張る必要はありません。自然体が一番⋮⋮
﹁
このまま話を聞いていたら、試験に遅刻する。
俺はマティアスに軽く手を振って、学園の敷地に足を踏み入れた。
学校とは思えないほど広々としている。授業時間なのか、休みの
日なのかは知らないが、人気が全然なかった。
だから迷子にだってなる。建物の中には入れたけど、職員室の場
所がわからない。
時間に余裕を持って来たはずだけど、悠長に道に迷っている暇は
なかった。
どうしよう。
268
落ち着け。学校なんだから誰かが何処かにいるはずだ。
それに⋮⋮ここで道案内をしてくれた子と偶然同じクラスで、そ
のまま始めての友達にってことになるかもしれない。
切羽詰まっている状況での現実逃避だということは分かっている。
待ってろ!
俺の初めて友達になるかもしれな
当てもなくフラフラと彷徨っていると、ガチャガチャと音が聞こ
えてきた。
⋮⋮助かった!
い人!
俺はその金属音に向かって走り出したのだった。
269
4−2 矮鶏と試験
音のする方へ走っていると、建物の中心から外れた裏寂れた中庭
のようなところへ出てしまった。
まぁ、でも人に会えさえすれば職員室に行けるのだから構わない
だろう。
大きい⋮⋮
矮鶏だ⋮⋮
ちゃぼ
﹂
歩きながら息を整え、角を曲がる。
﹁
そこにいたのは鳥だった。乱暴に足を揺らし、その度に金属の足
枷が大きな音を鳴らしていた。
小学校で飼育している鳥だろうな。大きいのは異世界サイズって
ことか。先程つい言葉にも出てしまったように、形は昔見た矮鶏に
似ていた。
あの時の矮鶏の数十倍ある分、可愛さも若干減っている気もしな
くはない。
落ち着けって
﹂
知らない人が来たからか、より一層激しく矮鶏は暴れ始めた。
﹁
このまま暴れたら金属の枷で足を怪我してしまうかもしれない。
それは可哀想だ。
撫でてやったら安心するんじゃないかと考え、ゆっくりと近づく。
しかし、それも数歩で止まってしまう。そのまま近づいても、怖
270
がらせるだけだ。どうしたら正気に戻してあげられるだろうか。
俺が一人考え込んでいる間にも、矮鶏は絶えず金属音かき鳴らし
待てよ
﹂
ていた⋮⋮はずだった。
﹁
さっきまで遠くにいたはずの矮鶏君がこちらに向かってきている
気がする。羽を広げ、こちらを真っ直ぐ見つめたまま。
これは俺が仲良くしたいという気持ちが伝わった結果、鎖を引き
千切って来てくれているのか、それとも⋮⋮。いや、人のことを始
めから悪く思うのは良くないな。
後ろに逃げるか、助けを求めるか。俺が咄嗟に思いつけた選択肢
は二つ。残念ながら助けを求める相手がいなかったからこんなとこ
ろにいるんだし、後ろに逃げるにしてもいづれは追いつかれると思
う。
後ろがダメなら、残された道は一つ。
慌ててカバンに手を突っ込み、革製の水筒を取り出す。焦れば焦
るほどぶれる手で乱暴に蓋を取ると、反対側の左手に撒き散らした。
そして、目の前の光景から目を離さずにその場にしゃがみ込む。
間に合えっ⋮⋮!﹂
距離はどれくらい必要か⋮⋮
﹁
言い終わる前に、矮鶏君は先程まで俺が立っていた場所に突っ込
んでいた。
体を襲う痛みはなく、直前に瞑ってしまった目を開いて状況を確
認する。
271
嬉しいことに、矮鶏君は俺の予想以上の反応をしてくれたようだ
った。スピードがあったからか、体が大きいからか。
俺のすぐそばにしゃがみ込んでいる矮鶏君はおとなしい。
そのすきに⋮⋮と、背中に回って抱きついた。空気を含んだよう
なふわりとした羽毛に包み込まれる。そのまま顔も埋めてみる。ち
ょっと臭いけど、ふわふわで気持ちいい。
その柔らかさを堪能していると、背中に標的が乗っていることに
気づいたらしく、矮鶏君は急に狂ったようにもがき出した。
矮鶏君の足に当たり、転がっていた水筒がさらに遠くへ蹴られる。
もう水は一滴も入っていないだろう。代わりに地面はスケート場の
ように氷が張っていた。そのため、もがくと余計に足元をすくわれ
てしまう。先程も、氷で滑って俺を攻撃し損ねたのだ。あれだけ勢
いよく走ってくれば急には止まれない。
﹂
暴れるんなって。別に焼き鳥にしようって言ってる訳じゃない
振り落とされないようにしっかりと首に手を回して掴まる。
﹁
んだから
伝わるかは分からないが、声がけは大切だ。
焼き鳥。こんなに大きな鳥だったら、長い串がいるなぁ。甘辛な
おっと
﹂
タレをたっぷりつけて、直火で焦げ目がつくまでじっくり焼いて⋮
⋮
﹁
妄想に気を取られているうちに腕に力を込めすぎていたみたいだ。
慌てて手を離す。さっきまでの暴れようが嘘みたいに矮鶏君がグッ
タリとしていた。
272
﹁
おいおい、そのままじゃ本当に焼き鳥に⋮⋮
﹂
されてしまう。俺じゃなくて、校長なんかにな。
すると、矮鶏君は突然元気を取り戻したようで、プルプルと身を
俺の言っていること、わかるか?﹂
震わせ始めた。まるで、言葉が分かるかのように。
﹁
そう聞くと勢いよく首を回して、背中に乗った俺を大きな丸い目
でじっと見てくる。
これは言葉をある程度理解しているのか。やっぱり体が大きい分
脳も発達しているのかな?
﹂
しかし、さっきから一度も喋らないところからすると、話すこと
じゃあ、職員室の場所を教えて欲しい
はできないようだ。
﹁
話の通じる相手に今、聞きたいことはただ一つ。ようやく思い出
したが、もう遅刻していると思う。方向を指し示すだけでもいいか
うわっ
﹂
ら教えて欲しかった。
﹁
羽毛の中で体が回るように跳ねる。矮鶏君が体を揺らしているの
だ。
なんだ、なんだ?
突如、左右後ろに砂埃が舞い始め、その隙間から後ろに流れゆく
景色が目に入ってきた。
ピシピシと頬に当たる風が痛い。
矮鶏君の足枷が外れていたことを忘れていた。俺のためにわざわ
ざ職員室まで送ってくれようというのか。
273
なんていい矮鶏なんだ。俺はいたく感激した。
さっきまでの攻撃的な姿勢も我を忘れてやってしまったことに違
いない。きっとそうだ。それに対して、一瞬でも焼き鳥のことを考
えた自分が恥ずかしくなった。
その間にも、矮鶏君の走りは止まらない。時々、急ブレーキをか
﹂
けて激しく揺れることがあっても、彼の体が衝撃を受け止めてくれ
ありがとな
ていた。
﹁
ドアの前で降ろしてもらい、矮鶏君にお礼を言う。
ふんふん、と頭を下げられた。
﹂
ちゃんと元の場所に戻るんだぞ。試験受かったら行くから、ま
撫でろってことか。
﹁
た遊ぼう。じゃあな
矮鶏脱走の罪で落とされたら堪らない。まぁ、こんないい矮鶏だ
ったらそんな心配ないだろうけど。
廊下一杯の巨体を揺らしながら、元来た道をかけて行った矮鶏君
を見送り、職員室らしき部屋のドアに手をかける。一度深呼吸をし、
俄かに早い鼓動を打ち始めた心臓を落ち着かせる。
♢♢♢♢♢
さあ、ここからが本番だ。
274
﹁
では、君。魔法は使えるかな?
何でもいいからやってみて
﹂
筆記試験はできた。小学校入学テストには流石にできるみたいだ。
試験を受けるのは俺一人で、試験監督の先生と二人っきり。一度
外で大声がして、先生が何処かへ行ってしまったこと以外は特に何
もなかった。見張られなくても、そもそもカンニングする相手すら
いないのだから、それも問題ない。
悪いけど、まだ試験があるからこっちに来てもらえるかしら?﹂
制限時間内にとき終わり、試験終了を申し出た。
﹁
帰り支度をしていると、試験監督の女の先生に声をかけられた。
やってない科目なんてあっただろうか。支度を終えた俺は先生に
そこに座って
﹂
導かれるまま次に部屋に。
﹁
案内された部屋は殺風景な部屋だった。言われた通りに椅子に座
る。
だっけ
﹂
その椅子の前には机がなく、少し離れたところにおじさんが座っ
エル君⋮⋮
てこっちを見ていた。
﹁
はい
﹂
﹁
﹂
この感じは面接、だろう。手を膝の上で重ね、意識してしっかり
何でもいいから魔法を使ってもらえるかな
と返事をした。
﹁
275
魔法の試験だったらしい。突然言われても、何をしたらいいか困
ってしまう。
でも、ここは思いっきり魔法を見せないといけないな。こうやっ
てきちんと魔法を使うのは初めてかもしてない。
何をやろうか。
殺風景な部屋を見回すと、右手の窓から中庭が見えた。中庭には
﹁
ああ⋮⋮
いきます
﹂
﹂
大きめに池がある。
﹁
窓の外をじっと睨む。
できました
﹂
男がじっと黙り、俺も口を閉ざしたままだ。
﹁
君、ふざけているのか
﹂
﹁
苛立ったように言われて、俺は焦った。
﹁いえ、ちゃんと魔法使いました。見て下さい!窓の外に
⋮⋮﹂
あの⋮⋮
﹂
ちょっと⋮⋮
﹂
魔法が使えないなら、最初からそういえばいいんだよ。じゃあ、
こんなんじゃ全然だめだということなのか。
﹁
え?
もう帰っていいから
﹁
男はうんざりした声で俺にそう言うと、外に出て行ってしまった。
よく考えたら先生がいた位置からは池が見えない。透視の魔法を
使って見てたなんてことも考えられるが、あの人を馬鹿にしたよう
276
な感じはムカついた。
これで落ちてしまったら困る。
俺は職員室によってもう一度話を聞いてもらおうとしたが、相手
エル様、どうされましたか?﹂
にされず、近くにいた女の先生に追い出されてしまった。
﹁
﹂
とぼとぼと学園の門へ辿り着くと、マティアスがお迎えにきてく
ダメだったよ⋮⋮ごめん⋮⋮
れていた。
﹁
とりあえずマティアスには謝っておきたい。受かるかどうかは魔
法の試験と学科試験の比率によると思うんだ。
﹂
不思議そうな顔をしているマティアスに事情を簡潔に話す。詳細
魔法の試験があったんだけど、うまくいかなくて
までいう元気はなかった。
﹁
俺の言葉にしばらく考え込んだマティアスが独り言にも俺に話し
ているようにも取れるような話を始めた。
魔法がいけなかったのでしょうかね
﹂
﹁
中庭の池を全部凍らせてみたんだけど⋮⋮
なら、受かるかもしれない
﹂
ん?すみません
﹂
﹁
魔法の試験は点数化されないはずですし⋮⋮
良かった!
﹁
本当?
﹂
﹁
277
助かった!
急に安心したと同時にウキウキしてきてつい走り出してしまって
いた。
﹂
マティアス!買い物行くんだよね。早く行こう!﹂
横をみると、マティアスがついてきていない。
﹁
後ろを振り返って、呼びかける。
池を⋮⋮
エル様!﹂
﹁
何言ってるか分からないから、先いくね
え!?
﹁
マティアスは何と言っているのか。それは心踊る俺にとってささ
もう少しお話を!﹂
いなことだった。
﹁
278
4−3 買物と事実
﹁
これ、美味しいよ
いらっしゃい!﹂
﹁
﹂
頭上を様々な人の声が飛び交う。マティアスと一緒にやってきた
王都の商店街はとても賑わっていた。食べ物の匂い、甘ったるい花
のような匂い、全てが絶妙に混ざり合った街の香りを胸いっぱいに
吸い込んだ。
ウエストヴェルン家の本邸にいた時の町にもたくさんの人がいた
﹂
気になるようでしたら、後でこちらにまた寄りましょう。先に
けど、ここはそれを上回る熱気だ。
﹁
必要なものを揃えなくては
よっぽどキョロキョロしていたに違いない。マティアスに苦笑し
ながら言われてしまった。
俺たちは商店街を抜け、どんどん前に進んで行く。次第に人も少
なくなり、お店の一軒一軒が大きくなってきた気がする。決して寂
れているわけではなく、通り全体が落ち着いていると言った方が正
ここです
﹂
しいだろうか。
﹁
マティアスはあるお店の前で立ち止まった。店の構えからして、
明らかに高級店だ。貴族御用達と看板に書いてありそうな。
扉を開けて入るとスペースを多くとり、ゆったりとした店内に色
々な品物が置かれていた。店員さんがマティアスの顔を見て、すぐ
279
に店長を呼んでくるから待っていてくださいと椅子を進めたが、俺
何か、お気に召すものがありましたか?﹂
は店を見てまわることにした。
﹁
﹂
ショーケースの中に清燗に似た龍のブローチを見つけ、じっと見
ていると店員さんに声をかけられた。
あ⋮⋮
﹂
﹁
ゆっくりご覧になってくださいね
はい⋮⋮
﹁
ニコニコと満面の笑みで言われる。営業スマイルなんだろうけど、
教育が行き届いてるという感じだった。
一通り見終わって満足した俺はマティアスのところに戻る。マテ
ィアスは足を組んで優雅に座り、上品に紅茶を飲んでいた。俺の席
の前にはピンク色のジュースがおいてある。毒々しい色に一瞬躊躇
したが、椅子に座ってストローをくわえた。見た目に反して爽やか
影が多いね
﹂
な味が口に広がる。うん、おいしい。これは何のジュースか調べて、
うちのお店で出そう。
そういえば、ずいぶん⋮⋮
俺はマティアスにそっと耳打ちした。
﹁
一周する間に何回話しかけられたことか。店員に対して客の数が
少なすぎるんだ。
﹂
きっと貴族は家にお店の人を呼ぶから、わざわざ足を運ばないの
すみません
だと思う。
﹁
一周回った感想を言っただけなのに、マティアスは引きつったよ
うな顔をした後、すごく申し訳なさそうな顔で謝ってきた。
280
﹁
別にマティアスが悪いわけじゃない
﹂
本当にその通りだ。別に全然気にしてないのだから。マティアス
﹂
おまたせしました。お久しぶりでございます、マティアス様。
は時々ずれた返答をしてくることがあるな。
﹁
﹂
エル様です
それに⋮⋮
﹁
店の奥から店長と名乗る初老の男性が出てきた。挨拶を終えた後、
店長がずらっと品物を並べ始めた。その中から欲しいものを選べば
いいらしい。何を選べばいいのかわからいでいると、マティアスが
選ぶのを手伝ってくれた。手に取って見ていいと言われたので、落
とさないようにおそるおそる商品を裏返す。値段が書いてない⋮⋮。
﹂
びびった俺は隣を盗み見るが、顔色一つ変えずにマティアスは片っ
﹂
ああ、これ全て屋敷に届けて下さい
そんなにいらないよ
端から買おうとしていた。
﹁
﹁そうですか?
全然話聞いてない。金持ちの買い物って恐ろしい。結局、マティ
アスと店長が何やら話し込み始めてしまい、手持ち無沙汰になった
俺は外に出てみることにした。
しばらく時間はかかりそうだし、あまり遠くにいかなければ大丈
夫だろう。ちょっと歩いてまた戻ってくればいい。
重い扉を開け、ぶらぶらと道を歩き出す。
左右に伸びる細い道に入ってしばらくすると、急にお店が減り、
人の影も見えなくなってしなった。
﹁本当にこれしかねぇのかよ!﹂
曲がり角を数回曲がったとき、物騒な男の怒鳴り声が耳に入って
きた。
281
やだ⋮⋮﹂
気になった俺は物陰から何事かと覗いてみる。
﹁や⋮⋮だ⋮⋮
壁際に小さな女の子が一人。それを柄の悪くて大柄な男三人がそ
の女の子を囲んでいる。
それは明らかにカツアゲの現場だった。
周りに人はいない。あの子を助けられるのは俺だけだ。どうする。
勝てるか?
心臓が早鐘を打ち始めるた。
行くか?
体格が違うのだ。力では完全に負ける。でも、この世界には魔法
がある。相手次第だが、魔法なら不意打ちでいけるかもしれない。
いける。あいつらが強かったらこんなところでカツアゲなんてして
ない。
清燗に乗って速攻
成功したらあの子を助けられるし、勝てなくても逃げる隙ぐらい
は作れるだろう。負けたときは⋮⋮そうだな。
で逃げよう。
まだ誰も俺に気がついてない。
でも、今の
男が女の子の胸ぐらを掴んで、壁に押しつけた。早くしないと⋮
⋮
とりあえず中くらいのサイズで清燗を呼んで⋮⋮
水筒を持っていなかった。核がないと、清燗を呼び出せない。手を
水で濡らさないと魔法が発動しないのはそれが俺の魔法の発動条件
だということだろう。
ここは裏道で、しりじりと後退しているうちにとんと背中をつい
た先は誰か家のようだった。
ふと自分の隣に樽があることに気がつく。
頻繁に開けられているのか簡単な蓋でしまっているだけだったの
282
で、そっと中を覗いて見た。
水だ。俺はついているらしい。雨水を貯めてある樽だった。
﹁お借りします﹂
家に向かって小声で断りをいれてから、左手を水を浸し、引き抜
く。ぼたぼたと大粒の水が垂れ、地面に染み込んだ。
﹁清燗﹂
助けてくれ、と瞼の裏に生意気な龍の姿を思い浮かべる。
﹁呼んだ?﹂
すぐに聞き覚えのある声がした。とんでもなく重いものを引きず
﹂
っているような音があたり一体に響いた。
﹁⋮⋮清燗
確かに俺はお前を呼んだ。そんな大きな体で出てこられたら計画
が台無しだ。そもそもどうして勝手に出てこれるようになっている
んだ。言いたいことをすべてまとめてため息に込める。
曲がり角に隠れていたはずなのに、清燗の体の三分の二は完全に
飛び出ていた。
﹁うわぁあ﹂
﹁なんだ!?﹂
男たちは清燗を見て騒いでいる。まぁ、当然だ。
途中はどうであれ、不意打ちには成功したらしい。これで女の子
も逃げられるだろう。
﹁うるさい。あー、食べちゃおう﹂
ギャーギャーと喚き立てる男たちを向いて清燗がぼそっと恐ろし
いことを口に出した。
283
﹁え⋮⋮ちょ⋮⋮
﹂
後ろを向いて逃げ出す男たちに対して、大きく口を開けて飲み込
もうとする清燗。
これは予想外な展開になってしまった。脅かして、尻尾でべしっ
とやろうかなぐらいにしか思ってなかったが、想像以上に清燗はイ
ンパクトがあったみたいだ。
きっ⋮⋮
綺麗に食べろよ
﹂
もう今にも食べてしまいそうだ。清燗を止められない。
﹁
違うだろ。
思わず口にした言葉に自分で突っ込みを入れた。
そこで、助けようと思った女の子が座り込んでこちらをじっと見
つめていることに気がついた。
とっさの事で逃げられなかったのかもしれない。
﹁ねぇ、そこの君⋮⋮﹂
﹁きゃー!﹂
俺が声をかけようとすると、女の子は恐怖にゆがんだ顔で叫び、
荷物を投げ出して走り始めてしまった。呆然と背中が小さくなるの
を見届け、曲がり角を曲がったのか姿が見えなくなったところで我
あれ?﹂
に返った。
﹁
伸ばしかけて宙を切った手を引っ込める。逃げて行ってしまった。
何事ですか!﹂
大丈夫か聞こうと思っただけなのに。
﹁
284
声をする方を見ると、女の子と入れ替わるようにして、マティア
よくわからない
﹂
スが俺が来た道を走ってきていた。
﹁
お怪我は⋮⋮
なさそうですね。こいつらはなんです?﹂
﹁
マティアスが見下ろしている先にはさっきの三人組が気絶して地
女の子からお金を巻き上げようとしてたから、ちょっと脅かし
面に横たわっていた。
﹁
﹂
﹂
こいつらは警備兵に引き渡しましょう。それにしても無理はな
たんだよ
﹁
さらないで下さい
⋮⋮服が凍っています
﹂
そう言うと、マティアスはしゃがんで男をじっと観察し始めた。
﹁
寒そうだね
﹂
﹁
マティアスの言うとおり、男のうちの一人の服がガチガチになっ
﹂
ていた。真夏ならともかく春先のこの季節は遠慮したいファッショ
エル様の手も凍っています
ンだ。
﹁
そうだね
﹂
﹁
マティアスの言うとおり、俺の手は凍っていた。手を濡らして魔
法を使ったあとはいつもこうだ。なぜか魔法を使うのをやめても手
﹂
の氷だけは溶けない。手を動かすと、パラパラと小さな破片が地面
一体どういうことでしょう
に落ちた。
﹁
魔法を使っただけだよ
﹂
﹁
一体マティアスはどうしてしまったのだろう。気づいたことを一
285
買い物は中止です。屋敷に戻ります
つ一つ口に出して。様子が変だ。
﹁
え、どうして?﹂
﹂
﹂
マティアスはしばらく黙ったあと、俺の腕を力強く掴んで早口で
﹁
取り敢えず戻ります
言い切った。
﹁
きっぱりと返事を返され、商店街ではなく、屋敷へまっすぐ向か
っている。
帰りに焼き鳥食べかったのにな⋮⋮。
その時の俺は、この日、この8年間信じていたことを覆されるこ
♢♢♢♢♢
とになるなんて思いもしなかったのだ。
マティアスに連れられて辿り着いたのは屋敷ではなく、屋敷を囲
む広大な森の中の湖のほとりだった。
そこで魔法を使ってみてくださいと言われて、適当に湖の水を凍
だからだったんですね⋮⋮
﹂
らせて見せる。暖かくもない外で一日に二回も手を凍らせたくなか
ったので、池を利用させてもらった。
氷⋮⋮
その証拠に巨大な湖に氷の島がプカプカと浮いている。
﹁
どうしたの?﹂
エル様、だからか⋮⋮
﹁
マティアスはそれを見た瞬間驚いた顔をしたかと思えば、嬉しそ
うな顔をし、終いには一人で納得し始めてしまい、置いてけぼりに
286
﹁
この銀色?﹂
ずっと不思議だったのです。なぜエル様の髪の色について
された俺は尋ねた。
﹁
﹂
自分の髪を一房持ち上げながら堪えた。水面に反射する光のよう
に太陽に当たった髪が煌めく。
全く、この髪で生き残るために生まれた時からどれだけ頑張らな
エル様はとてつもなくお強い。それが逆に他の色をすべて打ち
きゃいけなかったか。
﹁
﹂
消してしまった。貴族の中では薄い色素は弱者と見なす風潮があり
ますが、銀色の髪は氷結能力の色だったんですね
明るい顔のマティアスとは対象的に俺の顔色は優れない。
何ということだ。
生まれてこの方こんなに驚いたことがあっただろうか。
マティアスの強いって言葉がお世辞にしても最弱ってことはなさ
そうだった。大げさに言うのを差し引いて、まぁ良くて普通ぐらい
だろう。
様々な思いや考えが泡のように浮かんでは消えて行く。
俺が最弱でないなら、喫茶店の選択肢が広がるな。ああ、でもそ
こまで弱くないなら喫茶店もやる必要はないのか。
今度は学校をきちんと卒業したい。じゃ
急に選択肢が開けても、何も思いつかない。混乱してきた。
俺はどうしたいのか?
あ、それが叶ったらその先は?
287
異世界に生まれ直して、八年。長いようで短く、短いようで長い。
様々な経験を重ねた歳月。二度目はどう生きる?
﹁エル様、ご気分が優れないのですか?﹂
考え込み、難しい顔をしていたらしい俺をマティアスが心配そう
な顔で見ている。
﹁何でもないよ﹂
なりたいもの。別に今すぐ死ぬわけじゃない。これから考え
俺ははっと我に返り、笑って答えた。
ていけばいい。
喫茶店が最後の選択肢だったとしても、俺は人々に一息つける空
間を提供できる仕事に魅力を感じていた。
ゆっくり考えていこう。もし、もっとなりたいものが見つかれば
それになるために頑張ろう。
﹁帰ろうか﹂
そういうと、マティアスは安心した顔をした。
288
﹁
なんだ?﹂
ねぇ、ソラ
4−4 魔法と菓子
﹁
魔法のこと教えてくれない?﹂
﹂
﹁
二つの太陽が沈み、月が顔を出してからしばらく経った頃。
ソファに腰掛け、左の肘おきに体を預けたまま、俺のベッドを陣
取っているソラに聞いてみた。
マティアスに聞いても良かったのだが、ものすごく長くて丁寧な
解説が帰ってきそうな気がしたので一番話しやすいソラを選んだの
だ。
﹁魔法か⋮⋮。俺たちには草、火、風、土の魔法があるのはいいよ
な?﹂
聞いたことがない。当然のこととして片付けて、次の話をしよ
﹁よくない﹂
うとしたソラを止める。
﹁これらは魔力が発現する程度あるものなら、誰でも使える。俺た
ちが使う魔法の力は必ずそのうち四つのどれかに属するわけだ﹂
﹁わかった。その中に氷はないの?﹂
﹁ないな。でもそれには数えられてない水はある﹂
俺は水は操れない。何回も挑戦しないと、氷の状態にしないと絶
対に無理だった。
﹁初めから氷しか使えなかったけど⋮⋮﹂
289
それはやはりおかしいんだろうかと思い始める。
沈黙の中、月を流れる雲が隠して部屋の明るさをゆっくりと変え
ていく。
あー、お前ってや
気まずさに耐えきれなくなり、先に俺が口を開いた。
﹁それって普通?﹂
﹁絶対普通じゃない。というか、本当なら⋮⋮
っぱりすごい。そして、おかしい﹂
心当たりがありす
ガシガシと乱暴に髪をかきながらソラは言う。
やっぱり変なのか。俺が一度死んでるから?
ぎて、逆に何が原因なのか特定できない。
ソラは、魔法はどんなの?﹂
まだドキドキしている心臓を悟られないように話題を変える。
﹁
属性は遺伝らしい。ウエストヴェルン家の人は火であることは間
違いないが、ソラは何だろう。もう始めてあった時からたくさん話
﹂
をしているのに、俺はソラのことをあまり知らないことの気がつい
た。
﹁俺は草だよ
﹁花咲かせたりするの?﹂
ガーデニングを楽しむソラの姿を思い浮かべてしまう。色とりど
まぁ、しないこともないけど﹂
りの花に囲まれるソラ。意外とメルヘンな趣味を持っているのか。
﹁花!?
﹁見たい﹂
なんで、そこでソラが驚くのかわからなかった草=花という発想
がおかしかったのか。それともあれか。盆栽の方なのか。
290
な
﹁
﹂
んー。俺のはあんまり見せられるのじゃねぇから、またいつか
﹁そっか⋮⋮やっぱり⋮⋮﹂
やはりその性格で趣味はガーデニングだったとはという目でみる
と、ソラに不思議を顔をされた。
新しい一面を見れた気がする。
﹂
それからもう少しお喋りをした後、ソラは立ち上がった。確かに
お子様はもう寝ろよ。じゃ
そろそろ帰る時間だ。
﹁
お休み。あ⋮⋮
﹂
﹁
お休みと言った瞬間、ソラが消えてしまった。前にドアから出て
行くのはダメ、と言ったら何故かその場で消えるようになってしま
ったのだ。いつもどうやって消えているのかわからないから次あっ
た時に聞こうと思って忘れちゃうんだよな。
いつもならここでベッドに行き、大人しく寝るところだ。しかし、
今日は違った。
さっき閃いたことを試してみないと眠れそうにない。
いつかのソラのように窓に足をかける。
氷結能力⋮⋮。俺の魔法は他の人とは違う。それが何をもたらす
か。注目されるかもしれないし、実験されるかもしれない。そして
いつか魔法だけじゃない、俺が異質なこともばれてしまうかもしれ
ないと思ったのだ。
291
手を伸ばし、窓のそばにまで伸びている木に乗る。
それでもマティアスは俺の魔法を見て、喜んでくれた。ソラもル
クシェルさんもエドナさんもきっと⋮⋮受け入れてくれるような気
がする。あ、レオニートも。カシュバルさんはよくわからないけど、
なんか不気味な感じが⋮⋮。
俺は幹につかまり、枝に足をかけながらゆっくりと降り始めた。
とにかく、ウエストヴェルン家にきて居場所を見つけることはで
きたんだ。でも、これとそれとは話が違う。ウエストヴェルン家の
迷惑になりたくないというのもある。
転校生というだけで遠巻
しかし、考えてもみてほしい。俺はもうすぐ学校に行くことにな
る、と思う。そのとき、どうだろうか?
きにされ、魔法が変という理由で友達が一人もできなかったら。
あっ
﹂
最悪じゃないか。
﹁
地面が近くなってきたとき、かけようとした足が見事に宙をきっ
た。思わず手を離してしまい、地面にぐしゃりと落ちた。昨日雨が
降ったせいで服に泥がべったりとついている。
部屋に戻ったら着替えよう。マティアスに見つかったら怒られそ
うだし。俺のは服なんていちいち覚えてないよな。バレないように
この服は洗濯してもらえばいい。
そんなことを思いながら地面にしゃがみ込んだ。
さて、準備をしよう。
292
﹁
清燗
﹂
何?﹂
♢♢♢♢♢
部屋に戻った俺は魔法で清燗を呼び出した。
﹁
眠そうな様子の小清燗が現れる。
こいつは一体どういう仕組みで出てくるんだ?
かと思えば、
勝手に出てきた
昔のようにそこらへんの水から作っても同じ清燗になる。いつか
ちょっといいか?
えい
﹂
調べる必要がある。でも、今は⋮⋮
﹁
何をするんだ!﹂
﹂
右手で油断している清燗の首根っこを掴み、同時に左手を袋の中
﹁
まぁまぁ。すぐに終わるからさ
に突っ込んだ。
﹁
袋から出てきたのは泥だらけの手。その手が自分に近づいてくる
汚いっ
﹂
のを見て、清燗は身を捩って逃げ出そうとする。
﹁
取りたてだから新鮮だよ
﹂
﹁
しかも誰も踏んでない場所からとってきたのだから汚いわけがな
い。気が済むまで清燗を泥だらけにしてから開放した。
﹂
散々暴れまわって疲れてしまったらしく、自分の姿を見て茫然と
ひどい⋮⋮
している。
﹁
293
﹁
やっぱり無理があったかな。これだと、激しく動き回ると土を
つけただけってわかるか。周りだけじゃなくて泥水から体を作れば
うまく行きそうだな。もう一回やっていい?﹂
俺は水でも氷でもなく、土の魔法として通るかやってみたかった
絶対やだっ!もう怒ったぞ。帰る!﹂
﹂
のだ。色々と制約がつきそうだが、意外とうまくいくことがわかり、
﹁
ごめん!どーしてもやりたかったから
満面の笑みで清燗に問いかけた。
﹁
どうもいたく彼のプライドを傷つけてしまったらしい。全力で拒
否して、ドアの方へ消えてしまった。
そんな怒らなくてもいいのに。俺だってさっき泥だらけになった
子どもはそれぐらい泥んこになって遊ぶもんだぞー!﹂
し。
﹁
一応叫んでみたが、返事は帰ってこなかった。お詫びに今度何処
かへ行こうと誘ってみよう。
清燗は子供なのに遊んだりしなくていいんだろうか?いつもフラ
寝るか。ん?﹂
フラしてるみたいだけど。
﹁
綺麗な服でベットに入った時、廊下から変な音がした。それは清
燗が出て行った方だ。
様子を見に行くべきかしばし考える。怒ってたし、清燗の性格を
考えれば、さっきのことを思い出して八つ当たりをしている可能性
が非常に高い。ということは顔を出せばとばっちりをくらうに違い
ない。いや、俺が悪いんだからとばっちりではないか。
とにかく、怖いからここを出るのはやめよう。
そう決めて、今度こそ眠りについた。
294
おい!
﹁
この先だ!﹂
♢♢♢♢♢
金目のものはどこにある?﹂
﹁
ウエストヴェルン家の屋敷内に、十数人の襲撃者が入った。いく
つかのグループに分かれ、屋敷中を動き回る。
西の要塞、本邸に方ならともかく、ここは王都邸。それに加えて
当主は本日不在だで、いるのは息子二人と娘一人。それでも厄介な
のには変わりないが、次男の方は体調が優れないという噂があった。
残るは情報が少ない長男だが、夜中のこの時間に油断してない奴
などいない。数もこちらが勝っている。こちらはプロだし、娘は子
どもだ。
あれは何だ?﹂
腕に自信がある盗賊たちは足取り軽やかに走っていた。
﹁
仲間のうちの一人が前方を指差して、声をあげた。指差ている先
うわっ
﹂
をみると、白っぽい目が浮かんでいる。
﹁
その二つの目がギロリとこちらを向いた。
﹂
思わず後ずさりをするが、得体のしてないそれはゆらりゆらりと
今、僕すごく機嫌が悪いんだ。だから一緒にあそんでよ
確実に近づいてくる。
﹁
子どものような無邪気な声があたりに響く。
295
﹁
うっ
﹂
当惑していると、次々に仲間の呻き声が聞こえてくる。
何が起こっているんだ!
しかし、それもつかの間。残ったのは自分だけになる。倒れる直
前、暗闇に慣れてきた目で謎の襲撃者を一瞬捉えた気がした。透け
た子どもの体。そんなことあるわけない。やっぱり気のせい⋮⋮か
⋮⋮。
﹁丁度いい。エルへの嫌がらせに部屋の前にこいつらを重ねとこう
﹂
﹂
透き通った声が闇に消えていく。その後、子どもの足音と、廊下
やっぱりクッキーで許してやろう
で何を引きずる音がした。
﹁
暫くして、考え直したらしい。香ばしいクッキーのことを考えて
いるのか、次第に上機嫌になっていく。
その後ろには、積まれた男たちの山ができていた。
296
4−5 従者と歓喜
ウエストヴェルン家王都邸の一室。
マティアスはこれで何度めになるか分からないため息をついた。
もういつもならば眠っている時間だ。
しかし、一度自分の主人のことを考え始めたら眠くなくなってし
まったのだ。
無理に寝ることを諦めたマティアスは立ち上がり、部屋に置いて
あるミネラルウォーターをグラスにつぐ。
自分の主人が何を考えているのか分からない。他の従者もこんな
ことを考えているのだろうか。
⋮⋮少なくとも俺の知り合いではそんな従者はいないな。
フェルナンドはもちろん、リチャードは誰かの従者という訳では
ないが、家の者のことを誰よりも把握している。
今まで努力さえすれば、大抵のことはできた。他人よりは能力を
持っていると思っていたし、またそれ相応の周りの期待にも応えら
れていたんじゃないかと思う。
でも、今はどうだ。エル様に一挙一動に驚いてばかりじゃないか。
暗殺の一件で驚いたものの、本邸で過ごしていたエル様は少し大
人びた子どもといった様子で、毎日楽しそうに過ごしておられた。
それゆえ、忘れかけていたのだ。エル様の本当の姿を。いや、知
らなかったと言った方が正しい。
王都へ向かうこととなり、馬車に乗り込もうとした時に見たエル
297
様の表情。
楽しみだな
﹂
マティアスは一気にグラスの中身を喉に流し込んだ。
﹁
誰にともなく呟いていた。聞こえたのは一番そばにいた自分だけ
だろう。他所を向いていたが、振り返った。
エル様の今まで見たことがないような残忍な笑みを浮かべ、目に
は狂気の焔が揺れていた。
見てはいけなかったのかもしれないと気づいた時には遅かった。
⋮⋮あげないよ
﹂
初めて見たエル様から目を離せなくなっていたのだ。
﹁
はっと正気を取り戻したときにはエル様が自分に気がついて、話
しかけてくださっていた。
何とおっしゃったのだろう。気になったが、どうしても問うこと
は出来なかった。あの表情がすべてを物語っていたから。
エル様はやはり王族なのだ。生まれ持った支配者としての力。全
てのものの上に立ち、身内を守る優しさと目的のためになら手段を
選ばない残忍さを兼ね備えている。その一端を垣間見たのかもしれ
なかった。
そして、あの店での出来事。確かにあの日、自分は街にいつもよ
り多くの影を配置していた。勿論、売り子や通行人としていたもの、
存在感を完全に消させたものもいたはずだ。それにエル様はすぐに
気がつかれたのだ。あのとき店内を歩き回っていたのはやはり一人
一人の影を確認されていたと考えるのが自然だろう。
それだけではない。自分の息がかかっていないものは素通りして
いたはずのエル様が一人だけ一般人の売り子に長い時間立ち止まっ
298
て見ていたのが気になり、あとから調べさせたらそれは他国の間者
であった。
すべての影の気配がわかるなど、鬱陶しいに違いない。エル様の
﹂
命が危険に晒されるまでは黙って見ているよう指示を出したが、あ
れで良かったのだろうか。
﹁マティアス様、宜しいでしょうか
﹂
ノックと共に家のメイドの声がした。
﹁入れ
﹂
﹁失礼いたします。先ほど賊が何匹か入り込みましたが、いかがい
﹂
﹂
普段のとおりに
たしましょうか
﹁
﹁畏まりました
短い言葉を交わしただけで自分の意図することを理解し、優秀な
メイドは静かに去って行った。
ここ、王都邸では本邸と比べ、襲撃者の数が格段に多い。正確に
言うと実際のところは分からない。ただ、自分たちや宝物を狙って
実際に建物の中に入ってくる数が多いのは事実だった。
そのときはどうするか。賊ならば、メイドか執事が倒す。暗殺者
ならば狙われた人が倒す。取り敢えず、居合わせたものが自分で何
とかしろというルールがあるのだ。
それもそれを可能にするだけの実力があるものが妹を含め揃って
いるから出来るのだが。そういえば、家にいるはずなのにほとんど
あの子に会わないな。
それは今度部屋を訪ねてみるか。
大丈⋮⋮夫?
賊ならば、外を出歩かない限り会うことはないだろう。
だから⋮⋮
299
そこで、マティアスは先ほどまで頭の中を占めていた主のことを
エル様!﹂
思い出した。
﹁
勢いよく立ち上がった拍子に倒したグラスに構うことなく、マテ
ィアスは部屋を出た。
その間、賊に会うことは一度もなかった。エル様が被害に遭われ
ている可能性がそれほど高いわけではない。それにエル様だって魔
法を使えるのだ。頭ではわかっているのに早足が何時の間にか駆け
﹂
足になって行く。今ほどこの無駄に広い屋敷にイラついたことはな
これは⋮⋮
い。
﹁
エル様の前に辿り着いたマティアスは言葉を失った。
男が何人も重ねられている。
急いで男のうちの一人をみると、先日エル様が暴漢から女性を救
ったとおっしゃった時と同じやられ方だということがわかった。た
だ気絶させられているだけ。しかし、どの男の顔もなにか恐ろしい
ものを見たかのように恐怖でゆがみ、一撃で気を失ったようだ。
間違いなくエル様がやられたのだ。
マティアスは静かに主の部屋に続くドアを開けた。明かりが消さ
れ、規則正しい寝息が聞こえる。
主の無事を確かめ、マティアスは男を放って廊下を歩き始めた。
メイドが賊の侵入を知らせにきてから時間はそんなにたっていな
い。それは驚くべき速さで戦闘が終えられたことを示していた。
300
⋮⋮エル様が無事でなによりなのに。
﹂
オレンジ色の光がぼんやりと照らす廊下を歩きながらも、心はな
またですか⋮⋮
ぜか晴れなかった。
﹁
しばらく歩いたところでマティアスはため息をついた。
彼の足元には無数の薔薇の花びらが散っている。真っ赤な色を残
﹁
﹂
それとも兄様なら、これで済んで良かったと思うべきでしょう
しているのもあれば、完全に燃え尽きて灰となっているのもあった。
か
本来廊下とはドアで仕切られているはずの左右の部屋が丸見えに
なっているのを見ながら考え込む。ドアと壁は綺麗に抉られてしま
っていた。この被害にあったものたちはメイドの手によってすでに
片付けられているようだった。
ウエストヴェルン家次期当主の名は伊達ではないのだ。気分屋の
兄様は外で力を使う機会が少なかったせいか、強いと言われること
が少ないように思う。大方、今日の賊もそんなところだったんだろ
う。
強さでは自分が家族一だとしても、残虐さは不機嫌なときの兄様
が一番だ。基準はよくわからないが、美しくないものに対する扱い
は特に酷い。
しかし、こうやって周りのものを破壊するのはやめて欲しいもの
だ。
こうやってうちの執事たちの修理スキルがあがっていくんだな、
と実感したマティアスは寝ることを諦めて、仕事をするために部屋
301
に戻るのだった。
﹂
♢♢♢♢♢
おはようございます
﹁
おはよ
﹂
﹁
結局一睡もすることなく、朝を迎えた。部屋の前の賊も片付けら
エル様、お洋服が変わっておられますが⋮⋮?﹂
れ、すっかりいつもと変わらない様子であった。
﹁
昨日自分が選んだ寝巻きと違うものをエル様が着ている。自分の
選ぶものを気に入ってくださっているのか、服に興味がないのかは
あれから汚れちゃったんだよ
﹂
わからないが、そんなことは今までになかった。
﹁
あれから⋮⋮昨日の賊のことだ。怪我を負ったご様子もないこと
﹂
は昨日の時点で分かっている。あのようなものたちに触れられて穢
昨晩はお疲れ様でございました
れたという意味か。
﹁
ああ。マティアスはなんでもお見通しなんだね
﹂
﹁
エル様はそう仰られながら、キャラキャラとお笑いになっている。
﹂
昨日の賊をあのような姿にした方だと知っている自分にはその無邪
そんなことはありませんよ、エル様
気な笑顔が若干恐ろしくも感じられた。
﹁
そういえば、先ほど学園の入学許可がおりました
﹂
エル様はお強いのだから別に自分がいなくても大丈夫なのだ。
﹁
302
﹁
ええ、勿論です
本当!?﹂
﹂
合格しない訳がなかったが、一応お伝えしておかなければ。
﹁
よかった!ありがとう、マティアス
﹂
﹁
自分は何も
﹂
﹁
違う。合格のことも協力してくれたからだし、いつもマティア
すべてはエル様が自分でなされたことだ。
﹁
﹂
スが色々なことをやってくれているからすごく助かってる。マティ
アスには本当に感謝しているんだ。ありがとう
やはり自分は従者失格だ。主のちょっとした行動にに一喜一憂し
て。
自分は一生エル様についていきます
﹂
エル様の一言がこんなに嬉しいなんて。
﹁
ずっと優秀だと期待され、恵まれていたはずの生活の中にはなか
った喜び。
そこでマティアスはずっと引っかかっていた一つのことを思い出
した。
エル様がなぜ料理をなさっていたのかは分からないが、将来何処
かへ旅でもなさるつもりなさるのか、独り立ちになさりたいのかい
ずれにせよ足でまといにはなりたくない。
そうだ。自分も料理をしてみよう。従者たるもの主の常に一歩先
を歩いて、準備しないといけないのだ。
303
あなたなんか、大っ嫌い!﹂
5−1 不思議な転入生
﹁
女の子の叫び声が響いた。突然ことだった。
机の上に乗っていたスプーンが跳ね上がり、塵一つない床に転げ
落ちる。
俺を見た瞬間に朝食の席を立ち、睨みつけながら言い捨てた小さ
な女の子はドアの向こうへ駆けていく。真っ赤な髪のツインテール
がひょこひょこと揺れていたが、すぐに姿を消してしまった。
一瞬場は騒ついたが、すぐに何人かのメイドさんがその女の子を
追いかけていく。俺はしばらくその様子を呆然と見ていたようで、
気がつけばスプーンはすでに拾われていて、何事もなかったかのよ
うに磨き上げられたものが整然と並んでいた。
我に返った俺は、マティアスをみた。すると、一体どうしたのか
と思わず声をかけてしまいたくなるくらい顔面蒼白になっているで
はないか。
﹁だ⋮⋮大丈夫?﹂
﹁申し訳ありません!今のは自分の妹のシェンリルです。後でしっ
かりと謝らせます。エル様にあのような暴言を!﹂
﹁ああ⋮⋮うん。そのことはいいんだけど、何かしちゃったかな?﹂
マティアスは何度も何度も申し訳なさそうに謝ってくれたが、一
瞬のことで何がなんだか分からない。
今日はついに学園に転入する日で、いつもと違う時間に朝食を取
ることになったのだ。
304
食堂に入った途端、女の子に嫌いと言われてしまった。初対面の
はずだが、あっちは俺を知っているようだった。
﹁しかし、なぜシェンリルはあんなことをしたのでしょうか﹂
朝ごはんを食べながら、マティアスは首をひねった。結局時間も
なかったためそのまま食事をとることとなったのだ。
それはこっちが知りたいところだ。俺が何かしてしまっただろう
か。でも、初めて会ったはずなのだ。
マティアスわかんないのか。あれは嫉妬だろ﹂
一体何に対してだ?﹂
﹁なんだ?
﹁嫉妬?
何時の間にか現れたレオニートがきっぱりと言いきった。
﹁マティを取られて怒ってる。シェンリルはお兄ちゃん大好きだか
らな。お兄ちゃんと言っても、マティアスだけだけど。カシュバル
さんのことはこの前、﹃女装していて、気持ち悪い﹄って言ってた
し﹂
ブラコンということか。
そもそも、いきなり見知らぬやつが現れて勝手に暮らし始めたん
だ。マティアスを取られたとか関係なしに嫌だったに違いない。マ
﹂
ティアスの妹さんの存在を知らなかったとはいえ、これは俺が悪い。
﹁悪いことしちゃったな。これから頑張って仲良くなってみるよ
フォークがささった野菜をじっと見つめ、自分に言い聞かせるよ
うに言った。
シェンリルちゃんは学園で俺が入る予定のところより下の学年に
いるんだそうだ。同じ家に住んで、同じ学校ならなおさら仲良くし
たい。今度会ったときは自分から話しかけてみようと思った。
305
﹁
♢♢♢♢♢
エル様、何かあったらすぐ言ってくださいね。帰りは自分がお
﹂
迎えに上がります。道は先日お教えしましたし、職員室に行けばい
いようにしてありますから、あとは⋮⋮
校門の前でさっきからあたふたと同じことを繰り返しているマテ
ィアスを制す。
﹂
﹁そんなに心配しないでも大丈夫だよ。地図持ってるし。いってき
ます
試験の日と同じように校舎に人が少ない。もう一時間目が始まっ
﹂
ているせいだと思う。初日は二時間目から受ければいいと学校から
少しだけ矮鶏くんの様子を見てから行こう
の手紙には書いてあったのだ。
﹁
マティアスに書いてもらった地図を持っているので、もう迷子に
元気か∼?
遊びにきたよ
﹂
なることもなく、時間に余裕がある。俺は中庭に向かうことにした。
﹁
矮鶏くんは最初にあったときと同じように足に鎖を繋がれ、横た
わっていた。
前回よりも頑丈な足枷になっている気がする。そんなに逃げられ
たくないんだろうかと俺は矮鶏くんに近づきながら不思議に思った。
﹂
何か事情があるのかもしれないが、言葉で説明すればもう少しマシ
お前は今日もフワフワだなぁ
になりそうなのに。
﹁
306
矮鶏くんは眠そうな目でこちらをじっと見ている。俺は矮鶏くん
の白くて柔らかな毛に飛び込んだ。
﹁この毛毟って、お布団にしたいぐらいだ﹂
天然羽毛布団なんて贅沢だ。顔を柔らかい毛が撫ぜてくすぐった
い。幸せな気持ちになって、グフフと笑う。
今日はもう行かなきゃいけないんだよ。ごめんな
﹂
すると、急に矮鶏くんが体をおこして身を震わせ始めた。
﹁
思わず武者震いをしてしまうほど、遊びたかったらしい。俺はさ
っきまで退屈そうに横になっていた姿を思い出して可哀想になった。
﹁また遊んでやるから。じゃあな﹂
それを聞いて、鎖が伸びる限りの範囲を走り回って暴れ出した矮
鶏くんを背に職員室への道を歩き出した。あんなにはしゃいで、よ
君がエルくんか。私はサリルです。早速クラスのみんなに紹介
っぽど人と遊ぶのが嬉しいんだろう。
﹁
よろしくお願いします
﹂
するからついてきてもらえるかな?﹂
﹁
職員室で俺を待っていたのは担任になるサリル先生だった。優し
そうな男の人で、ホッとしながら挨拶をした。
﹂
みんなには新しい子がくるとだけ言ってあるんだよ。こんなこ
長い廊下を歩きながら先生と話をする。
﹁
﹂
とは滅多にないからね。今ごろクラスは盛り上がっているはずだ
﹁はぁ⋮⋮
それはかなり困る。転入生がやってきて盛り上がる気持ちはわか
307
るがそれは男子が可愛い女の子がくるんじゃないかとか、すごい子
がくるんじゃないかとか期待しているに違いない。でも、実際やっ
てくるのは俺だ。盛り上がりの中、現れたのがこんな男だったら、
﹂
私は先に教室に入るから、エルくんは外で待っていてもらえる
俺なら間違いなく暴動を起こす。
﹁
﹂
呼びかけたら前から入ってきて
分かりました
かな?
﹁
かわいいですか?﹂
﹂
俺はたった一人、声にならない声で
﹂
こういう時ほど時間ははやく過ぎていくらしい。俺をおいてサリ
今日はみんなにこの前話したように新しいお友達がきてます
ル先生はさっさと教室の中に入っていってしまった。
﹁
女子ですか?
扉越しに先生の声が聞こえる。同時に生徒たちの歓声も。
﹁先生!
違う。ごめん、違うんだ!
﹁いえ、男の子ですが⋮⋮
叫んだ。
そうだ。先に否定してくれてありがとうございます。できるだけ
ハードルを下げてくれないと、俺は目の前のドアを開けられない。
﹂
﹁とっても可愛くて礼儀正しい子ですよ。さあ、どうぞ。入ってき
てください
先生がハードルをあげるのはやめめてください。
俺は覚悟を決めて、教室のとびらを開けた。左手に座っている生
﹂
徒たちの顔を見ないように俯きがちに先生の横まで歩く。
﹁さっそく自己紹介してくれるかな
ここへくる途中に考えた挨拶も自己紹介もすべて頭の中から吹っ
308
飛び、真っ白な頭で唯一言えたのはこれだけだった。
﹁⋮⋮エルです﹂
ダメだ。反応が怖くてみんなの顔を見ることが出来ない。下を向
勇気出して恐る恐るまっすぐ前を向いた。
いたまま俺の耳には誰の声も入ってこない。
どういうことだ?
俺を見つめるたくさんの目。全員が呆気に取られたような顔でこ
ちらを見ている。驚きすぎて声をあげることも忘れているという感
じだ。覚悟していたとはいえ、流石に自分もショックを隠しきれな
﹂
﹂
い。若干涙目になってしまったのは仕方がないだろう。
はい
﹁後ろの空いてる席に座って
﹁
気まずい空気を感じ取ってくれたのか、先生が助け舟を出してく
れた。言われたのは一番後ろの窓側の席だ。緊張でこけないように
一歩一歩慎重に席へ歩く。その間も絶え間なく周りの視線が突き刺
さる。一種の拷問だ。
俺は目的の席に辿り着くと、鞄をおろして椅子に座った。鞄も服
と同様に自由なので、マティアスは用意してくれた肩掛けのバッグ
を持ってきている。
腰をおろして、右に広がる広い校庭を窓越しにみながら、ため息
をついた。
⋮⋮マティアス。人間、第一印象が大切っていうけど、俺の第一
印象は言葉を失うぐらい最悪だったみたいだよ。できるならもう一
度入るところからやり直したいな。
309
その後、さっそく二時間目の授業が始まった。教科書も用意して
もらっていたので、隣の席の子とシェアするなんてこともなく、俺
は教室を観察してみることにした。
クラスは二十五人程度のようだ。ここは四年三組だけど、四組ま
であるらしい。男女比は少し男子が多いくらい。俺の前は男の子で、
エル⋮⋮だっけ?
なんでこんな時期に入ってきたわけ?﹂
隣の子は女の子だった。
﹁
俺が色々と考えを巡らしている間に学園は休み時間になっていた。
遠くの方で療養してて、最近王都にきたから⋮⋮
授業終了とともに前の席の男の子が椅子に逆向きに座って俺に話し
えっと⋮⋮
かけてきた。
﹁
﹂
よかった。誰も話しかけてくれなかったらどうしようかと思って
いたのだ。クラス全体が俺たちの会話を興味津々で聞いているのを
感じながら、話す。
﹂
ちなみに今言ったのは、マティアスが考えてくれた理由だ。
﹁ふーん。でも、家名はないから貴族じゃないんだよな
﹁違うよ﹂
﹂
﹁変なの。田舎でりょーよーするなんて貴族のやることだぜ。しか
もお前ってそういうじょーりゅーかいきゅうみたいな感じだし
﹁そうかな⋮⋮普通だよ。普通普通﹂
舌足らずに難しい言葉を使う少年に元上流階級ですからといえる
わけもなく、曖昧に頷く。とりあえず普通ということだけはしっか
りと強調しておく。
﹁まぁ、いいや。俺はレント、よろしく﹂
﹁うん。こちらこそ﹂
310
白い歯を覗かせて笑うレントという少年とは、なんだかすごく仲
良くなれそうな気がした。
♢♢♢♢♢
一方、教室前方では。
﹁これ、なんだ?﹂
生徒が床に落ちていた白いものに気がつき、拾い上げた。
﹁羽⋮⋮?﹂
それは白くてふわふわとした羽だった。
﹁転校生から落ちていたの見たよ﹂
その後クラスメイトたちの間で、もしかしてあの転入生は天使な
のではないか、それなら容姿の説明もつくなどといった憶測がとび
かっていたが、初めてできた友達に舞い上がっているエルが気づく
はずもなかった。
311
5−1 不思議な転入生︵後書き︶
先ほどは操作をミスして、途中からの投稿になってしまいました。
教えていただきありがとうございます。結局データのほとんどが残
ってなくて、今急いで書き直したので、誤字が多いかもしれません。
久しぶりの投稿です。活動再開のめどは少しずつたってきました。
まだ時間はかかりますが、これからもよろしくお願いします。
312
5−2 紫炎の騎士様
落ち着いた家具で統一された部屋の中、学園に行く支度を終えて、
じっとしているエルがいた。
﹁エル様、そろそろ出発のお時間です﹂
エル同様外出着に着替えたマティアスが声をかける。
﹁うん。⋮⋮わかった﹂
具合が悪いのでしたら、学園に休みの
浮かない顔で立ち上がったエルを見て、マティアスは困ったよう
に問いかけた。
﹁どうかされたのですか?
連絡をいれさせましょう﹂
﹁違うよ。ただちょっと学園に行きたくないだけ﹂
ポツリとつぶやかれた主の言葉に、過保護な従者は動揺を隠せな
い。登校初日の昨日は嬉しそうに、正しくいうとあまり表情はは変
わっていなかったがマティアスにはそう見えた、していたのに今日
は明らかに気乗りしないでじっと俯いているではないか。
﹁何かあったのですか?ぜひおしゃってください。原因を今すぐ排
除してまいります﹂
マティアスの頭の中に様々な可能性が浮かんでくる。
珍しい銀髪のことで何かトラブルが起きたのかもしれない。身分
を隠すどころかどころか平民として編入しているので、どこかの貴
族に目をつけられてもおかしくない。エルの希望でそうしたとはい
え、もっと目を光らせておくことは出来たのだ。
顔に出さないだけで、実は辛い思いをしていらっしゃったのかも
313
しれないと考えて、マティアスは未熟な自分を責めた。
﹁行きたくないんだ、マティアスと一緒には﹂
﹁それでしたら、無理に行く必要はございま⋮⋮もう一度おっしゃ
っていただいて構いませんか?﹂
マティアスは原因を排除する算段を立てながら自分の耳がおかし
くなってしまったのかと、エルに聞き返す。
﹁今日からマティアスじゃなくて、エドナと一緒に行く﹂
言いにくかったことを言い、気分良く部屋を出て行こうとするエ
ルの横で、マティアスは衝撃のあまり言葉を失っていた。
﹁お待ちください、な、なぜですか!﹂
しばらくして現実世界に戻ってきたらしいマティアスは鞄を肩に
かけ、出かける準備を始めていたエルに叫んだ。
以前は昔とだいぶ性格の変わったマティアスに戸惑いを見せてい
たウエストヴェルンの侍女や執事も、今やいつものこととして自分
たちの仕事を淡々と片付けている。
﹁だって昨日⋮⋮﹂
ため息でもつきそうになりながら、エルはマティアスの方へ振り
返った。
♢♢♢♢♢
そして、理由を説明しようと口を開きながら昨日のことを思い出
していた。
314
休み時間に他のクラスメイトも話しかけてくれ、初日にしてはう
まくいったんじゃないかと思っていたお昼休みの終わりの時間。エ
とにかく見に行きましょう﹂
校門のとこに紫炎の騎士様がいらっしゃるって﹂
ナイト
ルは職員室で用事を済ませ、残り一時間の授業のために教室へ戻っ
ていた。
﹁大変!
﹁どうしてかしら?
先ほどまでの静かだった廊下とは打って変わって騒がしい空間と
なっていた。興奮気味の高学年の女の子たちが何組もバタバタと横
を走り抜けて行く。中には男子生徒も多く混じっていた。
すごく嬉しそうだったが、学園に有名人がきているんだろうかと
エルは内心首を傾げて教室に入った。
﹂
なぁ、さっきから廊下で騒いでるのってなにか知ってる?﹂
席に着くと、すぐにレントが話しかけてきた。
﹁
それほんとか?﹂
﹁なんとかの騎士様が校門にいるってみんな言ってたけど
﹁
もう授業始まるし、隣のクラスから忘れ物は借りら
レントが俺の机に両手をついて、立ち上がりながら身を乗り出し
てきた。
﹁どうした?
れないと思うよ﹂
俺ら
さっきの時間、レントが忘れ物をして友達に借りていたことを思い
なんでそんな冷静なんだよ。早く立てって!
出して言った。
﹁ちげーよ!
﹂
﹂
も見にいくぞ
﹁僕は別にいいよ
そんな恥ずかしい名前を付けられている男のアイドルに興味を感
じなかったため、すぐに断った。
315
﹁
お前、知らないのか?﹂
どうやらこの国は知らない人がいないくらいの有名人みたいだ。
何て答えようか困っているとレントが俺の腕を引っ張りながら熱く
語り始めた。
﹂
王家の方々もいちもくおいてるんだよ
﹂
﹁しえんの騎士様はなぁ、めちゃくちゃ強くて、大会でも余裕で優
ふーん
勝してるし!
﹁
レントの目がキラキラと輝いている。騎士様という人はよっぽど
すごい人なんだろう。早く見に行きたい気持ちは分かるが、グイグ
とにかくヤバイんだよ!なの
それになぁ、もちろんここの卒業生ですごく頭もいいんだ。戦
イと腕を掴んで歩くのはやめて欲しい。
﹁
いのときも冷静でかっこ良くて⋮⋮
に最近までずっと姿を消してたんだ。だから俺は直接見たことはな
シェンリル様のためかな
﹂
いけど、本とか絵とか沢山出回ってるし。でも、なんで学園にいる
んだろ?ああ、もしかして
レントは騎士様のファンらしい。しかし、これだけ学園が賑わっ
ていることを考えるとレントだけではなく好きな人は多いようだ。
それよりも俺が考えていたのはシェンリルちゃんのことだった。
今日は自分から話しかけたけどつんっと顔を背けられたし⋮⋮。同
﹂
じ家にいるのに会わないのは避けられているからだったのだとよう
着いたぞ。くそっ!もう沢山集まってて全然見えない
やく気がついた。どうしたらいいんだろう。
﹁
レントのいう通りすごい人だかりで、学園の生徒が全員外に出てき
こっちからは見えそうだよ﹂
てしまったかのように思える。
﹁
俺は少し人が途切れたところを見つけてレントに言いながら、集
316
団の中心を見て言葉を失った。見間違いかと思って、目を擦る。そ
どうした?
してもう一度そっと目を開けた。
﹁
あ⋮⋮うん⋮⋮?
見えたけど、見えていない気がする﹂
見えたのか?﹂
﹁
本物のマティアス様だ。やっぱりかっこいいよな!﹂
﹁何わけわかんないこと言ってんだ!ちょっと代わって。本物じゃ
ん!
俺を押しのけて﹃紫炎の騎士様﹄を見たレントは興奮して、俺の背
中をバシバシと叩く。
﹁かっこいい⋮⋮﹂
目の前の光景が信じられなくて、馬鹿みたいにレントのいうことを
繰り返す。頭の中は同じ言葉がぐるぐると回っている。
﹂
マティアスが
一体、どういうことだ。マティアスが紫炎の騎士様?
﹁いつもクールだし
﹁クールか⋮⋮﹂
一体今までの説明は誰のことを言っていたんだ?
﹂
格好いいことは認めるが、果たしてクールかと言われると、それは
頷き難い。
﹁俺もあんな風になりたい
﹁⋮⋮そっか﹂
本当に格好いいよな、そして強い。しかし、普段のマティアスは
全然クールではないと思うんだ。結局俺はレントに何も言わないこ
とにした。純粋な少年の夢をこんなところで壊してはいけないと思
﹂
った。それよりも俺は恥ずかしし、厄介なことになる前にさっさと
授業始まるし、教室に帰ろう
ここを立ち去りたい。
﹁
そうだな。あ、校長がきた
﹂
﹁
317
レントの視線を追いかけると、中年のおじさんが汗をハンカチで
拭きながら小太りの体を揺らして走ってきているのが見えた。
﹂
マティアスがいいと言ったから学園に入るにあたって校長に挨拶
シェンリル様も来たし、校長室に行っちゃうみたいだ
をしていないから初めて校長の顔を見たことになる。
﹁
本当だね
﹂
﹁
校長は生徒たちの列を掻き分けてマティアスのいるところまで辿
り着くと、今度は生徒を追い払ってシェンリルちゃんと共に校長室
の方へ案内しだした。
でも、俺はマティアスがキョロキョロと首を回して何かを探して
いるような素ぶりをしていることが気になっていた。そして、さっ
きまで笑顔だったシェンリルちゃんの顔は遠くから見てもわかるく
らい不機嫌になっていたことも。
それは自惚れすぎか。マティアスが自分のことを探しているかも
だなんて。そう俺は自嘲して、背を向けようとした。その瞬間、マ
ティアスもこっちに気づいたようで⋮⋮。
﹁マティアス様が今、こっち見なかったか。﹂
違う方向を向いていたはずのレントが急に声をあげた。
﹁気のせいだよ﹂
﹁そうかな。でも今絶対⋮⋮﹂
﹁相手はあのマティアス様だよ?﹂
まぁ、どのマティアス様かは分からないが適当に言ってみる。
﹁そうだよな。なんたって国内、いや世界屈指の大貴族ウエストヴ
ェルン家のマティアス様が俺たちに気づくわけないか﹂
﹁そうそう﹂
納得したレントと一緒に廊下を歩きながら考える。ちなみに授業
はとっくに始まってしまっている。まぁ、この様子だと教室に残っ
318
ている生徒なんていないだろう。
別にマティアスと知り合いだと言っても良かった。マティアスが
どんな英雄でも、こっちが恥ずかしくなる変な二つ名を持っていて
と口
も、世間からの評価とは違う面を持っていても生まれた時からずっ
迎えに参りました
と一緒にいてくれた大切な存在なことには変わりない。
でも。でも、さっき目が会ったときに
パクした後、思いっきりウインクを飛ばしてきた時に思ったのだ。
﹁知らない人のふりをしよう﹂と。
﹁というわけで、エドナ一緒に行こう﹂
﹁よろこんで﹂
マティアスが行くと学園が大騒ぎになるから、と簡単な説明をし
お待ちください!帰りはお迎えに参っても?﹂
てエドナと外に出ようとする。
﹁
帰りもダメ
﹂
﹁
マティアスがいたら昨日と同じ惨事が繰り返される。おかげで俺
﹂
﹂
は生徒がいない下校時刻ギリギリに職員室に用事があるふりをして、
そんな⋮⋮
校長室にマティアスを迎えに行かなきゃいけなかったんだ。
﹁
いってきます
最後の望みも絶たれ、絶望するマティアス。
﹁
きちんとお送りしてきますから心配なさらないでください
﹂
﹁
﹂
マティアス、しょうがないぜ。高等部で派手にやっちゃって、
そんな彼を置いて、笑顔で二人は出て行った。
﹁
有名なお前が悪い
319
﹂
落ち込む友人にレオニートは声をかけたが、それでもマティアス
俺なんか今日エドナに結婚を断られたんだから
は何も言わずに倒れている。
﹁
今日もだろうと言いたい気持ちを押さえて、マティアスは立ち上
がった。
思わぬ時間が空いてしまった。エルが帰ってくるまで何時間も待た
⋮⋮
そうだ。料理をしよう
﹂
なければけないかと思うと、憂鬱だった。
﹁
それならば主がいない寂しさを紛らわせるし、お役にも立てる。
♢♢♢♢♢
マティアスはそう考えたのだ。そう、ちょっと思いついただけだっ
たのだ。
帰りの会が終わり、生徒たちがパラパラと席を立って帰り始める。
いつもならみんな家に帰るはずだと思うんだが、今日はなぜか男子
エル、今日暇か?﹂
生徒たちはわらわらと俺の席に集まってきた。
﹁
放課後なら大丈夫だよ
﹂
そのうちの一人が話しかけてくる。
﹁
今日の予定は何も入っていない。
エドナさんは学園から離れた所に馬車を待たせてくれているらし
い。それに今日は学園内を見て回ろうかと思っていたので、遅くな
じゃあさ、ちょっといいか
﹂
るかもしれないと伝えているから自由な時間はある。
﹁
320
﹁
いいよ
﹂
鞄を肩に掛け、目的地も言わずに歩いて行くみんなについていく。
心なしか顔がこわばっている子いるのは何でだろう。
﹂
この線からまっすぐ同時に走って、一番遠くまでいけた奴が勝
そして、辿り着いたのはあの矮鶏くんのところだった。
﹁
ちだ
落ちていた太い枝を使って、横に長い線を書き終えたクラスメイ
一番遠く?﹂
トに言われた。
﹁
線の向こうには矮鶏くんが寝ている。そうか。クラスの男子全員
で足の早い奴を決めようということか。
小学校での駆けっこの順位というのはとても大切だった気がする。
頭がいい奴より運動神経がいい奴は周りから一目置かれる存在にな
り、運動会ではヒーローだ。女子の人気も高くなる。きっと新しい
メンバーを加え、順番を決め直そうということなのだろう。
﹂
﹂
でも、どうしてもここでやることに合点がいかない。あんなに広
い校庭があったのに。
うん
﹁無理だと思ったら止まっていいから
﹁
失礼な。確かに俺はあまり筋肉がついているようには見えないが、
みんな並ぶぞ
﹂
こんな短い距離を走れないほどひ弱じゃない。
﹁
その声と共にみんながわらわらと思い思いのところに立ち始める。
もちろんつま先は線の手前。
そうか!
俺も線の中央、走れば矮鶏くんにダイブできる位置に並んだ。一
番空いていたというのもあるが、なぜここでやるかの理由が思い当
321
たったからだ。
きっと一番乗りの子が矮鶏くんと戯れる権利を貰えるに違いない。
それならば俺も負けていられない。必ず一番にあの白い羽中に飛び
ちょっと待った!﹂
込んでみせる。
﹁
端っこに行った方がいい
﹂
同じに中央の数人挟んだ場所にいたレントがストップをかけると
こんな真ん中でいいのか?
俺のところにやって来た。
﹁
ここでいい
﹂
﹁
俺の肩を掴んで説得しようとするレント。しかし、俺は屈しなか
った。端っこより周りと競争しやすい真ん中の方がいいに決まって
いる。速い人と走った方がタイムははやくなるのは、前世で経験済
﹂
みだ。それに⋮⋮レントのこの目は俺と同じく優勝を狙っている目
なら⋮⋮無理だと思ったらすぐ止まれ
だ。
﹁
うん
﹂
﹁
駆けっこで誰も逆走しないと思うんだけど。
しかし、それだけをいうとレントは自分の場所に戻って行き、再
びスタート位置に男子全員が並んだ。
絶対勝つ。あそこに飛び込む。
よーい
﹂
クラスの女の子の一人が、スタートの合図をしてくれるらしい。
﹁
声と同時に足を片方引いて構える。静かな中庭に砂をかく音だけ
ドン
﹂
が響いた。
﹁
その声と、矮鶏くんが体を起こして叫び始めたのは同時だったと
思う。
322
あんなに俺のことを歓迎してくれてるんだ!
走り続けた。叫び声も地面を蹴る音もすべて無視して。俺はただ
矮鶏くんを目指して足を進めた。
誰もいない。俺が一番だ。そう思ったときにようやく周囲の様子
がおかしいことに気がついた。まだストップと言われれいないのに
誰も近くを走っている気配がない。ゴールへ向かって足を踏み込む
直前、好奇心に負けた俺は首を回した。
⋮⋮本当に誰もいないじゃないか。
近くに人がいないどころか、全員逆走していた。逆走してないと
たどり着けないほど遠くにいたのだ。なんというドッキリ。
∼∼∼!﹂
俺は矮鶏くんの手前数mで走るのをやめた。
﹁
みんなが懸命に口々に何か自分に叫んでいる。しかし、すぐそば
にいる矮鶏くんの鳴き声とみんなが同時に話すせいで何を言ってい
全然聞こえない!﹂
るんだか全然分からない。俺を指差している子もたくさんいた。
﹁
この声も聞こえてないと思うが、とりあえず立ち止まったまま言
∼∼∼!﹂
い返した。
﹁
あっちも負けじと叫び、意味をなさない声は最高潮に達した。
なんだ?
ああ、矮鶏くんか
﹂
体の後ろ側に何かふわふわしたものが擦り付けられている。
﹁
ちょっと待っててな
﹂
遊ぶのが待ちきれなくなって俺にアピールをしているらしい。
﹁
323
遊ぶ前にクラスの子たちと話さなければならない。そう言うと、
矮鶏くんは俺の体を押すのをやめて大きな体を沈め、俺の足もとに
で⋮⋮?﹂
座り込んだ。
﹁
さっきまであんなにうるさかった中庭が、なぜか静まり返ってい
る。さっきまで必死に声を上げていた子もぽかんと口を開けている
ばかりだ。
長い沈黙が場を支配する。
何をしているんだ!﹂
誰も何も言わないなか、校舎の方から大きな声が響いてきた。
﹁
逃げろ!﹂
それは俺が始めて見る先生の声だった。
﹁
先生だ
﹂
﹁
途端に中庭は大騒ぎになる。全員が荷物を抱えて出口へ向かって
え!?﹂
走り始めたのだ。
﹁
みんな俺をおいて行くの?
どうも先生に捕まったらまずいらしい。俺も慌てて鞄の肩掛けの
紐の部分を握りしめて追いかける。一番遠いのは俺なのだ。
お前すごいよ
﹂
全力で走ったおかげか、途中からなんとかみんなの中に紛れ込め
エル!
た。
﹁
校門を駆け抜ける直前、レントが息を切らしながら声をかけてく
れた。
324
﹁
びっくりしたぜ!まさかあれを手懐けるなんて﹂
﹁転入早々食われてちゃうかと思ったもんな﹂
前を走っていた子もわざわざ後ろを向いて俺に何か言ってくる。
ただ、みんなは息を切らせて話しているので、きちんとは聞き取れ
でも、あれどうやったんだ?﹂
なかった。ただ褒めてくれているのは伝わってくる。
﹁
普通にしただけど
﹂
﹁
そんなに足が早いと褒められても困る。普通に走っただけなんだ
から。
汗をかき、息もきれているのに、俺の心はすっきりとしていた。
途中ドッキリをしかけられたみたいだけど、クラスの一員になれた、
﹂
♢♢♢♢♢
っていうことがあったんだよ
そんな気がしていた。
﹁
俺は今日の出来事を話しながら上機嫌でエドナと帰路についた。
ただいま
﹂
話しているとあっという間で屋敷についてしまう。
﹁
お帰りなさいませ
﹂
﹁
マティアス、どうしたの?﹂
屋敷ではマティアスが出迎えてくれた。しかし、様子がおかしい。
﹁
何でもありません
﹂
﹁
325
なんで厨房がなくなってるの?﹂
俺が朝見た時より数倍やつれている。声にも元気がない。
﹁
そこでマティアスが立っている方向にあったはずの厨房がごっそ
りなくなっている。周りの壁も模様が分からないほど黒焦げだった。
本当に何でもないんです。何も聞かないで下さい﹂
まるで局部的に大爆発があったかのようだ。
﹁
それならいいけど
﹂
﹁
マティアスに連れられて部屋に戻る。マティアス服も所々焼け焦
げていることが気になった。
着替え終わったら、今日の話をマティアスにもしてあげよう。
うきうきとしながら、袖に腕を通した。
326
5−3 度胸試し
学園に通い始めて一週間ちょっと経ったある放課後のことだった。
学校のある生活にも慣れ始め、声を交わす友達も少しずつ増えてい
る。
﹁エル!一緒に帰ろう﹂
﹁うん﹂
いつもと同じようにレントと共に帰ろうとしていた。帰るといっ
てもレントとは帰り道が異なるので、校門の前で別れてしまうこと
になるのだが。
﹁エルくん、少しお話があるので、前にきてもらってもいいですか
?﹂
教室を出ようとしたところで、サリル先生に呼び止められた。
﹁はい。分かりました。レント、ごめん。ちょっと先行っててくれ
る?遅くなりそうだったら、先に帰っていいから﹂
先生に返事をしてから、隣のレントに謝る。レントは先生と俺を
交互に見た後、ドア近くの誰かの机に荷物を降ろして言った。
﹁いや、俺はここで待つよ﹂
﹁ありがと﹂
クラスで友達は増えたものの、俺が行動を共にしている相手は大
抵レントだった。何かテンポが合う。そんな風にしか言い表せない
が、一緒にいるととても楽なのだ。
﹁エルくんの入学試験の結果を見せてもらったんだ。試験の点数は
327
素晴らしく良かったんだけど、魔法の方の点数が分からなくて。提
出する書類に書かなくてはいけないから、属性だけ教えてもらえな
いかな。お家から出してもらったプリントも空白だったんだよ﹂
﹁えっーと、僕は多分土です﹂
やっぱり点数ついてなかったのか⋮⋮。土で通したい今ならそれ
でいいんだけど、あの時のことを思い出すと微妙な気持ちになる。
多分⋮⋮?
そうですか、わかりました。まだ不確かなもので
先生に不信がられないように新しい属性を答えた。
﹁
もかまわないので書いておきますね。それともう一つ。最近君を飼
育係にして欲しいと言ってくる生徒が沢山いるんだ。みんな理由は
﹂
言わないんだけど、適任だから係りに加えて欲しいって。どうだろ
う。君さえ嫌じゃなければやってみないかい?
﹁飼育係ですか⋮⋮。ぜひやってみたいと思います﹂
やるのは全然変わらないが、沢山いたってどういうことだ。そん
なに生き物が好きそうな顔してたのだろうか。そう考えると恥ずか
しい。確かに俺は毛が生えた動物は好きだ。昔も飼育係をやってい
た。しかし、実際俺が世話をしなきゃいけなかったのは金魚、ザリ
ガニ、カマキリ、カエル。ヤゴにグッピー、蚕。うねうねと蠢いて
いた白い虫が繭を作り、中から出てきた時、俺は飼育係を辞任した。
限界だった。
あの反省を生かして、俺はもう一度挑戦してみようと思った。こ
﹂
の教室には水槽も虫かごも見当たらないから、昆虫の類を押し付け
悪いね。それで、今日早速活動があって⋮⋮
られることはないだろう。
﹁
別に大丈夫ですけど⋮⋮
﹂
﹁
せっかく待っててくれたレントに申し訳ないなと思った。誰かの
机に落書きをしているレントをチラチラと見ると、先生は事情を察
したようだった。
328
ばれたか
﹂
﹁レントくんのことなら平気だよ。彼も飼育係だからね
﹁ちっ!
﹂
俺たちから少し離れたところに座っていたレントがため息をつい
た。話はしっかり聞いていたらしい。まさかこいつ、係りの仕事を
なかったことにして帰ろうとしてたのか。
このクラスでいる期間もあまり長くないし、君には係りを割り振
る予定はなかったんだよと言う先生。別にいいんですというと、先
生に褒められる。
飼育係のレ
﹁君みたいな子が入ってきてくれて嬉しいよ。僕は今から職員会議
があるから、エルくんは連れて行ってもらえるかな?
ントくんに﹂
そう言って、にっこりと笑って念押ししながら教室を出て行った
あー!
きたきた!﹂
♢♢♢♢♢
先生に、隣のレントは小声で悪態をついていた。
﹁
中庭にはすでに同じクラスの生徒が集まっており、俺たちを見て
手を振っていた。それだけだと普通の飼育係みたいだが、見た目が
どこかおかしい。
それはきっと、あたりに置かれた沢山の箱のせいだろう。真新し
い木々を組んで作ってある箱が山のように積まれているのだ。
そして、その向こうには矮鶏くんがどっしりと座って微睡んでい
る。
329
﹁待たせてごめん。何やればいい?﹂
何をすればいいかかわからなかったので、先に矮鶏くんを遠巻き
これの芯取ろうか!﹂
に見ているクラスメイトの一人に話しかける。
﹁そうだねぇ。レントもエルも来たし!
﹁芯?﹂
﹁あいつのご飯は果物だからね﹂
そう言って、その子は箱の蓋に手を掛けた。蓋をずらすと、中に
散らばっていた生徒が腕まくりをして集まってくる。作
は果物がぎっしりと詰まっていた。
業を始める準備のようだ。俺も袖を汚さないように、みんなを見習
って袖を数回折った。渡されたナイフと果物を手に取る。
みんなが黙々と果物と格闘している姿は飼育係というよりむしろ、
調理自習をやっているかのようだった。
﹁終わったー!﹂
誰かが叫んだ。あたりには甘ったるい匂いが広がっている。互い
に果汁で手や顔をベタベタになっているのを見て笑った。
足元にはくり抜かれた芯が幾つも転がり、その中には時々疲れ果
ててぶっ倒れた子どもも混じっている。
大量の果実は全員で手分けをしても、相当な作業だった。初めは
口を動かしながらやったから持ったものの、作業に手中するにつれ
て言葉少なになっていった。今は彼方此方からもう明日は何も持て
ない!という声が上がっている。
作業が終わったのを見計らったかのように、ヨロヨロしている俺
たちにところに先生がやってきた。
﹁仕事が入って遅くなってしまった。そうか、終わったのか。みな
330
ご苦労﹂
声をかけながらこちらにやってくるを先生をもう一度見た。俺の
入学試験の魔法のテストをしたやつだった。またあの時のことを思
い出して、イライラしてくる。
しかしここで文句を言っても仕方がないので、気を紛らわせよう
としていると隣の子に話しかけられた。
﹁他の先生の時だと一緒にやってくれるのに、あいつはいつも何か
と理由をつけて遅れてくるんだよ。汚れたくないからわざと仕事入
れてんの﹂
嫌われているといった言葉の通り、周りはまたかと言った顔で先
生見ていた。当の本人はその視線に気づいているのかいないのか、
一仕事終えたような満足げな表情を浮かべている。
﹁今から、鎖を外すの?﹂
思っていたより大きい声が出てしまい、隣の子に聞くだけのつも
りが注目を集めてしまった。先生が俺の方を見て、バカにしたよう
に笑った。
﹁君、そんなこと出来っこないよ﹂
この足枷は王宮から専門の騎士を派遣してもらっているんだから
と言って、先生は無理無理と鼻を鳴らした。
ずっとあそこにいるんですか?﹂
専門家を呼ぶなんて、どれだけ複雑な鍵なんだろう。
﹁じゃあ、散歩は?
﹁ああ、そうだ。餌だって遠くから投げていれば、勝手に食べる。
王家から直々預かっている獣だから、芯をくり抜いたりとわざわざ
こんな面倒くさいことをしているだけだ﹂
次第にお喋りが止み、俺と先生の会話に皆の意識が集まる。
331
﹁遠くから、投げる⋮⋮?﹂
もういいです﹂
﹁あんな動物には誰も近寄りたくないだろう!この間鎖を引きちぎ
って、暴れ﹂
﹁分かりました!
当たり前だと言わんばかりに胸を張った、先生の言葉を遮った。
﹁そうか。それなら⋮⋮﹂
いいか、少し待っていろ﹂
次の指示を出そうとしたところで、先生の名前を遠くから呼ぶ声
がした。
﹁なんだ!
﹁はぁい﹂
緊急の用事なのか、呼び声は何度も繰り返された。先生は舌打ち
をして、渋々と去って行く。
その場には生徒だけが残った。
﹁あいつ、もっと広いところ歩きたくないのかな⋮⋮。鎖がなかっ
たら⋮⋮﹂
気まずく重い雰囲気の中、俺は矮鶏くんを見ながらポツリと呟い
た。前よりも、鎖の長さが短くなっていることは明らかだった。あ
れじゃあ、本当に全然動けないじゃないか。
この前のを見て、エルを推
﹁それはみんな思ってたけど、危なくて近寄れないんだよ。すごく
暴れるし﹂
﹁でも、エルならできるんじゃない?
薦したってことはみんな考えていることは同じ。ようは誰も怪我し
なきゃいいんだろ﹂
﹁でもどうやって!﹂
﹁別に先生なんていなくたって、鍵はあるし﹂
332
あっけらかんとしたレントの声がして、俺と同じように俯いてい
た子が同時に顔を向けた。
﹁レント、それ⋮⋮﹂
先生のポケットからとっちゃった!
あいつの腰、
もしやと思って、レントが手に持っているものを指差した。
﹁じゃーん!
ガラ空き﹂
あははと楽しそうに笑って、レントが人差し指にかけてクルクル
さすが、レント﹂
怪我なんかしたら⋮⋮﹂
と鍵を回す。鍵同士が何度もぶつかり合って、金属音を立てた。
﹁すげー!
﹁確かにエルになら出来るかも﹂
﹁でも、やっぱり危ないんじゃない?
﹁今まで誰も⋮⋮なかったのに、俺らの代で⋮⋮﹂
皆、口々に自分の意見を述べ始める。
それは賛成だったり反対だったりするようでいつまでも議論は収
束を見せなかった。
ここはエルに決めてもらおう。あいつの足
それを見兼ねたレントが声を張り上げた。
﹁よーし、わかった!
枷を外して暴れないようにさせられるか。この場合餌と水を置いて、
ついでに掃除もできる。それか先生が帰ってくるのをまって、餌を
投げるか。あいつが監督の時はいつもそうだ。あの先生、怖くて転
がす距離まで生徒を連れていけないんだよ﹂
一斉に俺に注目が集まる。視線だけで焦げてしまいそうだ。
﹁えっと⋮⋮﹂
口を開くと、俺を見ているレントが緊張したように何度か瞬きを
333
する。何故だか、俺の心臓まで鼓動を早くしている。
﹁鍵って、挿して回すだけ?﹂
レントの持っている鍵の形状を見て、思ったのだ。騎士団を呼ぶ
悩むところそこかよ﹂
ほど、複雑な鍵じゃないんじゃないかって。
﹁はぁ?
俺以外の声が綺麗に重なって返ってきた。みんな
♢♢♢♢♢
何かおかしいことをいっただろうか。
金具が回る音がし、鍵がはずれる。
遠くで見守っていたクラスメイトのツバを飲み込む音が聞こえて
きそうだった。呆れたよう説明された通り、本当に何の仕掛けもな
いただの鍵だった。
﹂
足枷を持って、取れたよと合図すると皆が飛び上がって喜んでい
るのが分かった。
﹁よし、向こうにいってような
先生が戻ってくるまでの時間は限られているので、予定通りすぐ
に俺は矮鶏くんとその場所から離れた。
それと同時に一斉にブラシや果物を持った皆が、元々矮鶏くんが
﹂
いた場所へと走る。
﹁暇だな∼
大人しくしている矮鶏くんに同じ場所に止まるように言って、手
334
﹂と言われてしまったのだ。
何でエルここにいるの!ほっんとに向こういっ
伝おうとしたが、全力で断られてしまったためやることがない。
近寄ったら、﹁
てて。出来るだけ遠くに行ってて
仕方なく遠くからみんなが楽しそうにキビキビと働いているのを
眺めていた。
﹁餌でも一つもらってこようかな。お前、一人で待てるよな?﹂
頷く代わりにその場に座り込んだ矮鶏くんを確認し、箱の置いて
ある方へ向かった。
﹁あった、あった﹂
ごめん!﹂
まだ箱に残されていた果実から、綺麗そうなのを選んでいたとき
ごっ⋮⋮
だった。
﹁
誰かが叫ぶ声がして、頭に水が降ってきた。雨じゃない、ホース
の水だ。
ごめん!
本当ごめん!
気づかなくて
﹂
周りに水を撒いていた時に誤って俺にかけてしまったらしい。
﹁
﹂
ホースを放り投げて、謝りながら走り寄ってきた子を責める気に
別にいいよ。気にしてないから
もなれない。
﹁
その子はまた謝って自分の仕事に戻って行った。俺ってそんなに
存在感が薄いんだろうか。前にソラに言われたけど。
今回はフラフラしてたのがいけないってことかな。
矮鶏くんに癒してもらいに元に場所に帰ろう。果物を両手に持っ
て、歩き出す。
335
﹁うっ⋮⋮
﹂
しかし、歩き出して数歩で問題が起こった。両耳に水が入ったの
だ。実はさっきから片耳に入っていたのだが、もう片方もやられた
らしい。ぼわんぼわんと耳の中が気持ち悪い。よりによって両耳に
なんて最悪だ。
そこで、向こうから男の子がずんずんと自分の方に向かってきて
いるのが見えた。知らない顔だし、この子も飼育係なのかもしれな
おい!﹂
い。俺も足を進め、彼の横を素通りしようとした。
﹁
お前だな!
最近入って調子に乗っているエルとかいうやつは
突然、乱暴に肩を掴まれる。どうも彼は俺に用があったらしい。
﹁
!﹂
ん⋮⋮。何を言っているんだろう。耳の中でわしゃわしゃと水が
動いて全然聞こえない。
エルというワードが聞こえた気がしたので、とりあえず頷いてお
いた。頭から水をかぶって両耳に水が入ったと初対面の人に言うの
は恥ずかしかったし、もしかしたらなんとなく聞こえる単語で話を
終わらせられるかもしれないと思ったのだ。それに人間、初めて会
った相手には挨拶をすると相場が決まっている。
﹁うん。初めまして﹂
﹂
たかが平民が調子に乗るなよ。怪鳥を手懐けたのだってマグレ
こう言っておけば間違いない。
﹁
に決まってる
手懐けた⋮⋮。この単語をうまく文にしなけ
目の前の男の子は何か言いながらちらっととても遠くに座ってい
鳥⋮⋮
る矮鶏くんを見た。
調子⋮⋮
336
れば。早くしないとと思う気持ちがさらに俺を焦らせた。
と聞いているのか。もしかした
わかった。あのちらちらと矮鶏くんを気にしている感じ、君が最
近仲良くなった鳥の調子はどう?
ら彼は矮鶏くんと遊びたいのかもしれない。
しかし、俺は考え込みすぎていたらしい。俺の返事を待ちきれな
無視するとはいい度胸だな。俺のこと誰だかわからないのか?
くなった彼は先に話し始めてしまった。
﹁
俺は高位貴族であるヴェレシナ家の!﹂
﹂
もうだめだ。何を言っているんだか全然わからない。早く耳から
悪いんだけど、何を言っているんだかわからない。今さ⋮⋮
水を出したいし、ここは恥をしのんで正直に言おう。
﹁
な⋮⋮
﹂
﹁
男の子は俺の言葉を聞いて、プルプルと震えてた。想像以上に激
しいリアクションに逆にこっちが動揺してしまう。
大変だ。これは耳が聞こえてない俺でも察することができた。彼
はかなり怒っている。怒りながら泣くことってあると思う。まさに
そんな感じだった。
忘れていたが、相手の子は初等部、小学生である。それに対して、
こっちは本当なら高校生を卒業している年齢だ。一回りも歳が違う
子供を泣かせるなんてまずい。
どうしようか考える。
そこで、一ついいことを思いついた。彼は矮鶏くんと遊びたいみ
たいだったし、これでなんとかなるかもしれない。
果物を握っていた手を差し出した。俺と彼の間に美味しそうな果
物が現れる。
一緒に餌でもあげようかと誘おうと思ったのだ。
しかし彼はちっとも受け取ろうとしない。果物を差し出して促す
337
と、顔を真っ赤にして俺を見た。照れているのかと思ったが、どう
も様子が違う。
対応を間違えたか。
どうするべきか必死に考えをひねり出そうとしていた俺の目に入
ったのは、矮鶏くんだった。
もうここは矮鶏くんを呼ぼう。
きてくれ
︶
俺は彼に見えないように下げた手でこっそりと矮鶏くんに合図し
お願いだ!
た。
︵
必死な願いが通じたのか、矮鶏くんはすぐに気がついてこっちに
やってきた。少年は俺と向かい合っているので、大好きな動物が今
ぎゃああ!﹂
にも自分の背中を嘴でつつこうとしていることに気がつかない。
﹁
矮鶏くんが背後にいることに気がついた瞬間、彼は大きく口を開
お前の家がどうなるか、覚悟しとけよ!﹂
けて叫ぶと、逃げ出してしまった。それも驚くほど早いスピードで。
﹁
そんな遠くで言ったら余計聞こえないよ。水を抜いたらもう一度
話を聞きに行こうと思って、俺は去りゆく彼に笑顔で軽く手をふっ
た。
でもそれは伝わらなかったようだ。遊びのお誘いを断られて機嫌
を損ねてしまったのかもしれなかった。俺の顔を見るやいなや、走
っていってしまったから。
会話の途中で、置いていかれた俺は耳の中の水を抜くことにした。
彼との会話がこんなにうまくいかなかったのはそもそもこれのせい
なのだから。
338
﹁
ちょっとつかまらせて
﹂
呼び寄せた矮鶏くんの体につかまり、頭を左右に傾けて何度かジ
﹂
﹂
ャンプした。しばらくすると、耳がじんわりと熱くなった。
エル∼
﹁ああ、スッキリした
﹁
あいつとお前、知り合いじゃない
声がする方に目をやると、仕事が終わったらしいレントが走って
カールと何話してたんだ?
きている。
﹁
だろ?﹂
﹁うん。初めて話しかけられた﹂
彼は同学年のカールというのだとレントは教えてくれた。違うク
﹂
あいつすごいわがままでさ。学園をやめさせられたやつがたく
ラスだったから面識がなかったのだ。
﹁
さんいるんだ。エル、何にも言われなかったか?
﹁ただ一緒に遊びたかったみたいだよ﹂
子どものいざこざんで学園に通えなくなるなんてことあるんだろ
は?あいつそんなキャラじゃなかったと思うけど。まぁ、大丈
うか。
﹁
。あ、もうすぐ先生帰ってくるだろうから早く戻そうぜ﹂
夫ならいいよ。入ったばっかなのにやめさせられるとか笑えないも
んな
﹁そうだね。ばれないようにこっそり鍵返さないと﹂
学園は楽しい。辞める気なんてさらさらない。心の中でそう呟く
♢♢♢♢♢
と、俺はさっさと歩き出したレントの後を追いかけた。
339
その日の夜、ヴェレシナ本家の屋敷の一室。仕事をしていた小肥
り男の元へ顔立ちのよく似た少年が走り込んで来た。顔立ちだけで
父さん!﹂
あいつヴェレシナ家のこと馬鹿に
なく、少々ふくよかな体は少年の食生活が充実していることを窺わ
﹁
なんだい、カール?﹂
せる。
﹁
エルって奴なんとかして!
初めて聞く名だね。何処の子だい?﹂
﹁
エル⋮⋮
したんだ!﹂
﹁
﹁知らないっ。それも調べて。あいつだけは、絶対に許さない﹂
そのあと、獣を嗾けてきた
何があったか聞く父親に、少年は顔を赤くして怒り始めた。
﹁俺には、獣の餌がお似合いだって!
んだ﹂
父親は学園に獣などいただろうかと思いながらも、子供に約束し
黄金時代
の生
た。息子のいう獣が、王家が学園に預けた巨大な鳥のことだとは思
い当たらなかった。
それも仕方がなかったかもしれない。遥か昔、
き物だと言われているその鳥は、騎士団も手を焼くほどだったため
に学園に隔離されていたのだ。一介の生徒のいうことを聞くはずが
﹁
﹂
わかった、わかった。すぐに調べさせるから今日はもう寝なさ
なかった。
い
絶対だよ
﹂
﹁
少し落ち着きを取り戻した少年は、満足して帰って行く。父さん
と呼ばれた男は目を細めて、跡取りであり息子が部屋を出て行くの
を見届けると、すぐに指を鳴らし、指示を出した。
340
│││エルという子どもの家を潰し、学園から追い出せと。
341
5−4 街へ︵1︶
一旦下駄箱にいったものの、忘れ物をしたことに気がつき、教室
に戻る。
燦燦と輝く太陽の光がさす教室はまだ騒ついている。帰りの会が
終わってしばらく経っているが、今日はまだほとんどの生徒が残っ
ていた。
ここから少し離れた廊下よりの席ではレントやシュウなどクラス
で仲良くしている男子たちが集まって、なにか話している。貴族と
いっても様々なタイプがいるらしく、クラスの中でも貴族とだけし
﹂
か仲良くしない子もいれば、シュウのようにそんなこと気にせずに
⋮⋮だから今日⋮⋮
遊んでいる子もいる。
﹁
エル、帰るのか?﹂
ただ、話している内容までは聞こえない。
﹁
﹂
教室の後ろの扉に向かって歩いていると、俺のことに気がついた
レントに声をかけられた。
﹁うん。用事があるんだ。また明日
﹁じゃーな﹂
﹁うん﹂
ヒラヒラと手をふるレントに手をふり返した。
みんなは今から遊ぶのだろうか。少し羨ましいが、今日は本当に
予定があるのでしょうがないと自分を納得させた。
342
﹁ばいばい﹂
廊下で隣のクラスの女の子を見かけたので、挨拶をした。名前は
えっ⋮⋮
﹂
知らないが、何回か飼育係で一緒に仕事をしたことがある。
﹁
普通に声をかけたつもりだったが、俺を見たかと思うとその子は
さ⋮⋮
さようなら
﹂
ものすごく戸惑った顔をした。
﹁
女の子は俺を見た途端、不味いっ!と言ったような顔で俺から目
うん⋮⋮
﹂
を背けて戸惑ったように挨拶を返してくれた。
﹁
気まずい空気の中、前を通りすぎ、下駄箱に向かう。
もしかして俺のこと知らなかったのかもしれない。照れている反
応じゃなかったし、見たことない奴に話しかけられてびっくりした
のかな。もう何回も仕事してるのに、そんなに存在感がないのか⋮
⋮。それにしてもあの反応。彼女の周りにいた友達もギョッとして
た。
軽く凹みながら靴を取り出し、履き替えた。
校舎の入り口にあるガラスを覗くと、校舎の周りを囲むようにし
て作られた花壇と白っぽい子どもがうっすらと写っていた。赤、黄
色の花が鮮やかに咲き乱れていた。
そこでふと気がついた。
俺、女の子と全然話せていない。
﹁顔が悪いのか?﹂
俺は知っていた。クラスの女子ほとんどがマティアスが来た日に
は浮き足立ってたし、さっき俺の挨拶に引いていた子もキャーキャ
ー言っていた子の一人だと。
343
﹁顔はそこまで悪くないと思ってたんだけど⋮⋮
﹂
学園に通う前から薄々感づいていたが、マティアスは顔面偏差値
が高い。自分のように子供っぽい容姿ではなく、どこからどう見て
も完璧な男前なのだ。しかも、凄いのはそれだけじゃない。背も高
く、強くて、半端なくお金持ちで、気も使える︵はず︶⋮⋮。なん
で、結婚していないのが不思議なくらい。
普段は使わない街へと続く道を進む。学園にしか行けない道だか
らか、人通りはとても少ない。
もう絶対にマティアスは学園立ち入り禁止にしよう。とりあえず
会ったら一発殴らせてもらおう。
普段とおり慣れてない道でそんなくだらない考え事で頭が一杯だ
ったのが悪かったのだろう。
階段があったのか。そう気がついたときにはもう遅かった。前に
踏み出した足が宙をきる。勢いのついた俺の体はあっという間に宙
に投げ出された。
痛い。
石の階段に何度も頭を打ち付けたのだ。特に後頭部が割れるよう
に痛い。俺は転がった格好のままぼんやりと空を見ていた。
ここは通行の邪魔になりそうだから、端っこに寄ろう。なぜか一
番に思い浮かんだのはそんなことで、ヨロヨロと立ち上がった。少
しふらつくが、骨はおれてないようだ。
怪我しちゃったの?
治して
こんなとこから落ちたならもっと大怪我しそうなものだけれど。
﹁お兄ちゃん、へーき?生きてる?
344
あげようか﹂
芝生が生えている場所に腰を降ろそうとしていると、目の前に女
の子が現れた。ニコニコと笑いながら俺の怪我を眺めている。
﹁トルカにまかせて。じっとしててね﹂
その女の子はポシェットから何か取り出したかと思うと、擦りむ
いたい?﹂
いた膝を治療してくれ始めた。
﹁
﹁少しだけ⋮⋮﹂
小さい子なのにすごくしっかりしていて、包帯を巻く手つきも慣
れたものだ。本当はすごく痛かったが、小さい女の子の前で弱音を
﹂
あんなとこから落ちたら頭ぱーんって
そうだね
﹂
お兄ちゃんすごいね!
吐くこともできずに強がってみた。
﹁
割れちゃうのに
﹁ぱーんって⋮⋮
大きな目をまん丸にしていうトルカちゃんの言葉に笑う。自分で
もよく生きてたなと思ったばかりだ。
おかしいな、さっきからこの子にあったことがあるような気がす
できた!﹂
る。
﹁
ありがとう、トルカちゃん。⋮⋮そうか。もしかして、前に裏
あ!
あの時のおにーちゃんだ
﹂
﹁
うらどーり?
通りで会ったことあるかな?﹂
﹁
そうだ。マティアスと学用品の買い物に行ったときに男に絡まれ
あのあと、ちゃんとお家に帰れた?﹂
ていた子だった。
﹁
うん!
﹂
﹂
﹁
こっちも驚かせちゃってごめんね。あ⋮⋮俺もう行かなきゃ
あの時、びっくりして逃げちゃってごめんなさい
﹁
せっかく会えたのだから、もう少し話していたかったが、あいに
345
く今日は待ち合わせがある。
﹂
お兄ちゃん、トルカね、あの道通ったらいけない道なの。だか
俺はもう一度、治療のお礼を行って立ち上がった。
﹁
ら、秘密にしといてね
お母さんに危ないから通っちゃだめよと言われていたのに近道を
使ったらしい。俺は言わない代わりにもうあそこに行ったら駄目だ
よと念押しして別れた。
ここに住んでいるらしいから、また会えるかもしれない。そんな
エル様!﹂
ことを思うながら、小さな友人に手を振りかえした。
﹁
お待たせ
﹂
﹁
すでに待ち合わせ場所にはマティアスが立っていた。一応誰だか
わからないように変装しているつもりらしいが、サングラスをかけ
た顔も真っ赤な髪も明らかに周りの目を集めている。
そのお怪我はどうされたのですか!
何が!﹂
﹁
ちょっと転んだだけ。くる途中の階段から落ちちゃったんだよ
わかりました。エル様の怪我の責任を取ら
もしや学園に続くあの長い石階段ですか。あ
﹁
そ⋮⋮そんな!
﹂
﹁
んな高いところから!
せ、今すぐ破壊させます。そこに待機させている家のものに伝えま
すね。ウエストヴェルン家総出で原型をとどめないほどにハンマー
で⋮⋮いや、爆破します。欠片の一片たりとも許しません。それに
﹂
エル様にお怪我をさせてしまった私にも責任があります。爆破の前
﹂
はいはい。マティアスは悪くないし、階段も爆破しないで。早
に自分が王都内のすべての階段から落ちて⋮⋮
﹁
く買い物行こう
このまま放っておくといつまでも終わらないので、強引に話を切
346
そうでした。申し訳ありません。行きましょう
る。
﹁
﹂
俺のことを心配してくれるのはわかるんだけど、やっぱりマティ
アスは変だと思う。俺は本当にレントが言っていた人物と同一人物
ねぇ、本当にここ?﹂
なのかと首を捻った。
﹁
間違いありません
﹂
﹁
マティアスが案内してくれたお店はついにこじんまりとした一軒
家だった。戸惑いつつも中に入ると、何処にも商品は置いていない。
マティアスの家にあるような高級な家具が揃えられている。これが
お店なら、前回よりも高級店なんじゃ⋮⋮。
﹂
マティアスは構うことなく案内された奥の個室に入って行き、俺
お待ちしておりました。エル様、マティアス様
もそれに続いた。
﹁
ああ
﹂
﹁
個室は濃い色の木材の家具で統一されていた。しっとりと濡れた
ように見えるのはワックスがたっぷり塗られているから。そんな部
お初にお目にかかります、エル様。私はここエディンヌ商会を
屋で男の人が俺たちを出迎えてくれた。
﹁
﹂
まとめております、エディンヌ家長男リーシャでございます。以後
﹂
始めまして、エルです。よろしくお願いします
お見知りおきを
﹁
どうもここのお店の跡継ぎらしい。マティアスとそんなに歳が変
わらないように見える。服や立ち振る舞いも俺より全然洗練されて
いて、エディンヌ商店というお店のブランドを感じさせられた。
でも、俺が今日買いたいものはこんな高級店じゃなくても買える
んだけどな。
347
﹁
﹂
﹂
では、さっそく品物を持って来させましょう。我が商会の威信
楽しみですね
をかけて作らせていただきました。我ながら最高の出来ですよ
﹁
リーシャさんの後ろから制服を来た女の人が恭しい手つきでお盆
を両手に持って部屋に入ってきた。長方形のお盆には艶やかな赤い
ビロードのようなものをかけられ、膨らみから中に何か入っている
のが分かる。布には当然のように、今となってはすっかり見慣れた
ウエストヴェルン家の家紋がしっかりと描かれている。
なんかおかしい。この中に俺の頼んだものは本当に入っているん
﹂
だろうか。マティアスに先になにが欲しいかを伝えたのは間違って
ご苦労。頼まれていたのはこちらです
いたかもしれない。
﹁
女の人から真っ白い手袋を受け取ったリーシャさんはすぐにそれ
これは⋮⋮
﹂
を右手につけると、さっと布を取り払った。
﹁
そこに置かれていたものがわかった瞬間、俺はぐっと息を飲み込
んだ。
鮮やかな青色のナイフ。刃は研ぎ澄まされて、触れただけでなん
の抵抗もなく物を切り裂きそうだ。何本か並んだナイフの横には用
途がわからない道具数種類と布の入れ物が並び、それら全てに金色
掃除道具が欲しい
と。
の紋章が入っていた。空に登る勇ましい胴の長い魚が金色に輝いて
いる。
⋮⋮全然違う。
俺は確かに頼んだはずだ、
348
ことの発端はソラの発言だった。
﹁お前の周り、掃除していいか?﹂
いつものように二人で部屋で遊んでいるときに突然聞かれたのだ。
いつもウエストヴェルン家の人たちは完璧な掃除をしてくれている
けど、それでも汚く見えたらしい。ソラはよっぽど綺麗好きに違い
ない。俺はあまり気にならないタイプだから、ソラの好きにしてい
いと言ったのだ。
今すぐ始めるのかと思ったが、じゃあ今度やるといって出て行っ
てしまった。ソラが遊びにくるのはいつも夜だから仕方ない。
でも、人に掃除したいと思わせたのは申し訳ないし、綺麗好きな
らソラに掃除道具をあげようと考えた。
だから、マティアスに掃除道具が欲しいと話した。すると何色が
いいですかと聞かれた。ソラだからと青を頼んだ。確か好きなもの
も聞かれた。動物と答えたら、もっと具体的にと。まだ青色のイメ
ージを引きずっていたので、思いついたのは清燗の姿だった。でも
龍と言って伝わるのだろうか。多分無理だろうと判断し、﹁胴が長
くて、大きくて、あの空を⋮⋮﹂ともごもごいっていると、マティ
アスに分かりましたと頷かれた。
こんな説明で分かってくれるのか、さすがに優秀な人は違うんだ
なと思ったことを覚えている。
﹂
マティアスが手配してくれると言ってくれて今に至る。
これは隣国の海沿いの街でしか取れない珍しい⋮⋮
何がどうしたらこれが掃除道具になるんだ。
﹁
リーシャさんは使った石、ケースの布地、これを作った職人さん
など一つ一人丁寧に教えてくれた。
こんなに手間暇かけて作り上げてもらったのにこれじゃないんで
すけどとは言えなかった。要はお礼なんだからこの際ナイフでもい
349
いだろう。使い道はないだろうが、綺麗だから飾ったらいいと思う。
俺は掃除道具ではなかったことについては黙って受け入れることに
決めた。
でも、もう一つ問題がある。今日の買い物は自分のお金で買う予
定だったのだ。
ポケットの中でお財布をぎゅっと握りしめた。俺の着せ替えでイ
ンスピレーションをもらったからという理由で、お金と一緒にルク
シェルさんに前にもらったものだ。お財布というよりポーチみたい
で、兎と猫の中間のような動物の顔の形をしている。全体的にふわ
﹂
ふわして触り心地がいいのと、赤と青の透明な石の目が可愛くて、
マティアス、これ高いよね?
気に入っていた。
﹁
不安になって、リーシャさんに聞こえないようにこっそりとマテ
心配いりません。他に欲しいものがおありですか?﹂
ィアスの耳元で伝えた。
﹁
違う。マティアスはお金持ちなので、既製品を買うという発想が
﹂
そもそもないらしい。桁違いの金持ちの感覚に触れて、頭がクラク
自分で買いたいんだ。でも、お金これしか持ってない
ラした。
﹁
﹂
自分の熱でじんわりと温かくなったポーチを見せて、マティアス
エル様はそんなこと気になさる必要はないんです
に訴えかける。
﹁
だめ。自分で買わないといけないから
﹂
﹁
思い出しました。エル様の財産もきちんとあります
﹂
暫く押し問答を続けていると、急にマティアスは思いついたよう
﹁
僕の?﹂
に言った。
﹁
350
全く心当たりのない話。生まれ変わってまともに働いたこともは
ないから、お金は稼いでない。稼いだとしても、こんなものをぽん
そうです。以前、エル様も思い出すのも心が痛むほどの目に合
と買えるほどには一生ならないと思うけど。
﹁
﹂
わせた男がおりましたでしょう。あの時の謝罪費用をエル様名義の
財産としておきました
﹁
ええ。たっぷりとふんだくりましたから。お金では償いきれな
それで払える?﹂
それはきっと、経費使い込み男のことだとすぐにわかった。
﹁
い罪でしたけれど、ゴミ以下の男の財産でも使えることはあるかと
﹂
思いまして。それにしても、自分は許せません。今からでもエル様
﹂
わかった、わかった。それを使って
のお許しがあれば、命を⋮⋮
﹁
ふふふ⋮⋮
マティアスが⋮⋮﹂
﹁
突然部屋に響いたのはリーシャさんの笑い声だった。
﹁リーシャ!﹂
﹁ごっ、ごめん。ちょっと待って、笑いが⋮⋮どうしよう。くくっ
﹂
お腹を押さえて机に手をつくシーエンさんを見て、マティアスは
﹂
眉を顰めた。その横で俺はさっきの気然とした様子とはまるで違う
姿に戸惑っている。
﹁リーシャ、どうした
﹁マティアスがそんなに動揺しているのははじめて見たから、面白
くって﹂
俺のキョトンとした顔を見て、マティアスは俺に説明してくれた。
351
﹁
実は自分とリーシャは同級生なのです。黙っていたわけではな
く、珍しく真面目に仕事をしていたので、自分もそれに合わせてい
﹂
そうなんだ
ただけで⋮⋮
﹁
マティアスが最近全く音沙汰なかったのに、急に依頼がきたっ
﹂
﹁
担当にしてもらったんだ。面白いもの見れ
大満足!﹂
て報告受けてさぁ⋮⋮
て、満足!
リーシャさんはニコニコと満面の笑みを浮かべていた。
﹂
しばらく三人でたわいのないことを話し、お店を出る時間になっ
何かお望みのものがあれば、エディンヌ商会にどうぞ
た。
﹁
リーシャさんは見送りのときに、最初のように気取って言った。
俺もマティアスと話すところを見た後なので、その変貌ぶりにクス
マティアス、ちょっと﹂
クスと笑って答えた。また来ます、と。
﹁
さっきまでにこやかに笑っていたリーシャが急に真剣な顔に変わ
る、そして、エルに続こうとしていたマティアスの腕をぐっと引い
た。
﹁なんだ﹂
マティアスは怪訝そうな顔で問いかける。
﹁あれ⋮⋮あれは本当にいいんだよな。おまえほどの奴がわかって
ないはずはないだろうけど、この青を使っていいのは王家の血を引
く方だけだと決められている﹂
﹁前もって王から許可されている書類は渡してあるだろう。全く問
題ない。あの書類は持って欲しい。また使うこともあるだろう﹂
﹁あの紋も⋮点いいのか﹂
352
﹁
そうだ。エル様はあれをお望みになった。ただ今まで選ばれな
かったというだけのことだ。たとえ公になったとしても、エル様に
はあの紋をお使いになられる器があるお方だ﹂
マティアスは一片の疑いもなく言い切った。
﹁あの年齢。顔立ち。髪色は違うが、もしかしてあの子は太陽妃様
なぜ明かされていない?
なぜ存在を抹消されている
の御子なのか?噂には誕生のときにはすでに亡くなっていたと聞い
ているが。
のだ﹂
﹁⋮⋮信頼しているからお前のところに依頼したんだ﹂
厳しい顔で答えたマティアスに、リーシャは肩を竦めた。これ以
上深入りしない方がいい。
﹂
﹁わかったよ。書類は預かっておく。これ以上首を突っ込むのもや
めよう。書類は俺が誰にも見られないように管理しとくよ
﹁助かる。エル様がすべて明かされる日がいずれくるだろう﹂
リーシャは返事をせず、ただじっと久しぶりに会った友を見つめ
なんだ?﹂
る。
﹁
マティアスは怪訝そうな顔をした。
﹁何でもない。すべて了解した。引き止めて悪かった。早くいかな
リーシャ、こっちにいるんなら暇な時に家に来て
いとおまえの小さな主様が帰り道とは全く違う方向に歩いていった
エル様!?
ぞ。ほら﹂
﹁
くれれば、歓迎する﹂
よかったな。お前、昔より随分面白くなったよ﹂
別れの挨拶もそこそこに小さな背中を追いかけて行くマティアス。
﹁
リーシャそう呟いて、くるりと背を向けた。
353
これ、買おうかな⋮⋮
﹂
帰り道、俺は街であるものに目を奪われていた。
﹁
花のモチーフがついた髪飾り。ラメがふってあるのか、太陽の光
に当たるたび、キラキラと輝いていた。それを見た途端、シェンリ
ルちゃんにぴったりだと思ったのだ。
まだ一度も口も聞いてくれてないけど、街に行ったお土産にこれ
を渡したら仲良くなれるかもしれない。
﹂
周りをみると、何人かの女の子が似たような髪飾りを手に取って
見ている。
﹁すいません。これ、下さい
男がこんなものを買っていると思われるのが恥ずかしく、可愛い
﹂
店員さんにまるで姉妹にお使いを頼まれたんですよという雰囲気出
銀貨一枚と銅貨五枚です
しながら言った。
﹁
ポーチに入っていた数枚の硬貨のうちの一つを手に乗せ、精一杯
背伸びをして差し出す。よく考えたらここのお金の数え方を知らな
かったので、マティアスに聞くと、これで足りると言ってくれた。
店員さんは硬貨を見て、慎重に受け取ると慌てたように奥に引っ
お待たせしまして申し訳ございません!﹂
込んでいった。出すお金を間違えたのかと内心焦る。
﹁
しばらく待ったあと、お釣りを持って出てきたのはさっきの可愛
い店員さんではなく、おじさんだった。
おじさんに愛想良くお釣りを手渡しされても嬉しくないんだけど
な⋮⋮
354
そんなことを考えていると、差し出された俺の手には溢れんばか
りの硬貨がのせられた。落ちないようにそっと受け取ると、おじさ
んがおろおろと困っている。
﹁残りは私が受け取ります﹂
﹂
お釣りは俺が受け取ったのが全部ではなかったようで、マティア
スがさっと引き取ってくれた。
﹁だめだ。これ以上ははいらない⋮⋮
お店から離れた人通りの少ないところで、お釣りをポーチに詰め
ながらため息をついた。すでのポーチにはぎっしり硬貨が詰まって
いるにも関わらず、まだ横にいるマティアスの手にはたくさんの銅
貨と銀貨が乗っている。
﹂
﹁それ以上入れたら、壊れてしまいそうですね。残りは屋敷の方で
﹂
お渡ししましょう
﹁うん⋮⋮
マティアスのいう通り、お財布はすでに限界を迎えていることは
﹂
明らかだった。硬貨で形が変形し、可愛いかった動物の顔はゴツゴ
ツしてしまっている。
﹂
﹁これを。もう帰る。馬車を回せ
﹁かしこまりました
マティアスが指を鳴らすとどこからか男の人が現れた。マティア
スから残りのお釣りを渡されると、さっとどこかへ行ってしまう。
はじめのころと違い、いちいち驚いたりしない。もう十分身に染
みているが、マティアスは正真正銘のお金持ちなのだ。
街へただお買い物に行くにも、たくさんのお供の人がついてくる。
さっきの買い物だってそうだ。ナイフを預かったのも別の人だった。
355
お金持ちは買ったものを決して自分で持たないのか。
流石だなとこっそり頷きながら、俺はプレゼントの髪飾りをこそ
こそと自分の鞄にしまった。こっちはつい最近までお年玉を切り崩
して生きていたんだ。金銭感覚はそう簡単には変えられそうにはな
かった。
356
5−5 街へ︵2︶
﹁急に思ったんだけどさ、エルって謎が多いと思わない?﹂
誰かがそう近くの席の子に声をかけたのはある日の放課後だった。
﹁確かにな﹂
話しかけられた男子は少し考えたあとに帰りの支度をしていた手
を止め、そう答える。
﹁どこに住んでいて、何者なのかも分からないよね﹂
さっきまで黙っていたシュウが急に会話に加わってきた。他にも
数名会話に興味を持って、集まってきている。
﹁考えれば考えるほどエルは不思議だなぁって思うよ⋮⋮﹂
立ち話じゃ終わらないだろうと無造作に近くの椅子を引いて腰掛
けて、シュウは同意した。貴族という立場であるためか、シュウは
周りの子供よりも大人っぽい物言いをする。面倒見も良くしっかり
していて、周りからの信頼も厚かった。
﹁偽名かな?﹂
﹁どういうこと?﹂
でもさ、エ
意味がわからないという顔をした子にレントが説明を始めた。
﹁家名がないって言ってたから、貴族じゃないだろ?
ルが俺と同じとは思えないんだよな。かと言って嘘を言ったように
も見えなかったんだけどな﹂
﹁まあそう言われると、エルってなんか近寄り難いオーラを持って
るかも。最初話しかけるの戸惑ったし。雰囲気かな?﹂
納得したのか、自分で話しながらうんうんと頷いている。レント
357
もそれを聞いて、そう思ってたのは自分だけじゃなかったのかと思
った。
﹁立ち振る舞いもあれ、かなり上流階級のものを習っていると思う
よ。普通に暮らしてたら、ああはならない。この前エルの鞄の中が
﹂
ちらっと見えたんだけど、持ち物も全部結構な値段のものじゃない
かな
シュウの言ったことはもっともだった。
エルの持ち物はすべてマティアスが用意したものである、生粋の
お金持ちであるマティアスが中途半端なものを持たせるはずがない。
母親にファッションについて再教育された後、鞄から小物一つまで
一週間悩み通して選んだのだ。
エル自身は対してなにも考えずに持ち歩いているが、普段からい
﹂
いものに囲まれて過ごしていたシュウはそれを敏感に感じ取ってい
お弁当もすごいの持ってきてるし
た。
﹁
﹁すごいのって?﹂
でも、エルは全然食べないから量は少ないけど﹂
﹁なんて言うか⋮⋮豪華?あれ母親が作っているんなら、相当気合
い入ってるよ。
その後も、エルの不可解な点についての話は弾む。
そうこうしているうちに帰ったはずの張本人が教室に戻ってきた。
せっかくなので、本当のことを問い詰めようと声をかけるが、今
日は用事があるらしい。ばいばいと言って帰ってしまった。
エルが出て行ったあと、一名の男子生徒が決意したように立ち上
がって言った。
﹁エルを尾行しようよ!﹂
358
﹁
前にどこに住んでいるのか聞いたとき、エルわかんないって言
は?﹂
﹂
絶対なんか秘密があるは
﹁
ったんだ。でも、そんなわけないだろ?
ずだって。だからこっそりついて行って確かめる
クラスが静まり返る。授業が終わってしばらくしたこの時間帯は
普段ならだいぶ空席が見られるが、今日は面白い話をしていたので、
﹂
残っている生徒は多かった。直接会話に入ってなくても、みんなの
話を聞いている子もいたのだ。
﹁確かに誰もエルの家知らないなんて変だね
今度はシュウが言う言葉に皆思い思いに頷いた。
この学園の生徒はみんな王都に住んでいる。実際、入学前から知
り合いだというケースも珍しくない。それならば、最近エルが引っ
越してきたとしても、誰かが家を知っていてもいいはずなのだ。
それにあれだけ頭が良くてしっかりしているエルが自分の家の住
所を知らないはずがないとシュウは考えていた。きっと何か隠して
いるんだ。エルを見た時から一番疑っていたのはシュウだった。
貴族の子で、あんなに綺麗な顔立ちをしていたら噂にならないは
ずがない。少なくともシュウは今まで見たことも聞いたこともなか
った。本当に家名がないなら、ちらほらと聞く落胤というやつかも
しれない。シュウの父親にはいなかったが、使用人の噂話などで知
った言葉だ。
それなら少し納得が行く。療養をさせ、学園に行かせて、持ち物
に惜しみなくお金を使うなら相当高い身分の父親を持っているとい
うことになる。
そして、最も気になること。白い髪⋮⋮。全体からすれば魔法を
使えるのはほんの一握りで、ほとんどの人の髪は様々な色が混じり
合って灰色や茶色などに落ちついている。しかし、銀色の髪の毛は
359
見たことがなかった。髪色は魔力の量をみる一種のバロメーターで
ある。おそらくエルの魔力は少ない、あるいは魔法は使えないのか
もしれなかった。古い歴史を持つ家系では魔力がないことは致命的
だ。エルが本当は貴族の出だったら。それはシュウの考える最悪の
パターンだった。稀に生まれる魔力が弱い貴族の子の扱いはひどい
ものだからだ。両親の魔力の強さが影響するので、そんなことは滅
多にないのだが。
幸い、このクラスにはそのような偏見を持った貴族が少なく、誰
もエルの髪について陰口を言っているのは聞いたことがない。
クラスメイトの純粋な好奇心とは異なる気持ちで、シュウはエル
﹂
の秘密を探って見ることにした。
﹁こっちは街にでる道だな
数人の男女がエルの後をこっそりとつけていけていた。
王都において高位貴族の居住区は一般市民立ち入り禁止にしてあ
り、きちんと分けられている。街へおりる道を歩いている時点でエ
さっきからなんかいい匂いがしない?﹂
ルは高位貴族ではないはずだった。
﹁
同じクラスの女の子が首をかしげる。さっきから時折、ふわりふ
﹁
これが?﹂
エルのだよ
エルの持ち物とか服とかだと思うけど、
わりといい香りが風に乗って、みんなの鼻をかすめていた。
﹁
気づかなかったのか?
﹂
﹁
﹂
﹂
俺も気づいてた
全部同じ匂いがするんだよ
﹁
エルの近くの席の数人も同意した。
360
シュウはもう一度空気を吸い込んでみる。一瞬脳内を満たす甘い
液体で満たされ、そしてそれは幻であったかのようにすっと消えた。
﹂
残ったのは爽やかな香りのみ。
﹁本当だ⋮⋮
思わず声が漏れる。
﹁やっぱりエル様ね!﹂
﹁なんだよ、エル様って?﹂
きゃあきゃあと騒いでる女子にうるさいとぼやきながら、レント
が尋ねた。尾行だというのに緊張感がないのは許せないらしい。
﹂
﹁うちのクラスの男共とはレベルが違うからね。様付けすることに
したの
﹁へーへー﹂
興味なさそうな様子で返事をするレントのことを気にすることな
く、女子同士は盛り上がっている。
﹁あいつらは放っておいて早くエル追いかけよう。このままじゃ見
失うよ﹂
シュウの言うとおり、エルの姿はだいぶ小さくなっていて、角を
曲がる直前だった。街の入り口までは一本道なのでどこにいくかわ
からなくなることはないだろうが、目を離さないにこしたことはな
い。
前にいるクラスメイトを追いかけようと、レントとシュウが足を
はやめた瞬間だった。
二人の間を割ってはいるように前からさっと何か黒い影が通り抜
けた。先ほどまでこの道にはエルを尾行する仲間しかいなかったは
361
ずなのに。
﹂
﹁尾行はもうやめておけ。これ以上首を突っ込むな。これは警告だ﹂
﹁えっ⋮⋮
すれ違う一瞬で、耳もとで囁かれた声にはっと息をのんだ。
後ろを振り向いても、どこにも人影はない。両脇を緑に囲まれた
道が佇んでいるだけだった。それでも、確かに自分たちに向かって
囁かれた低い声はまだ二人の耳に残っていた。
﹁なんだ、今の?﹂
エルのことを調べるなって⋮⋮
﹂
レントは恐怖で震える声で、まるで自分に言い聞かせるように言
った。
﹁わかんない⋮⋮
いつも冷静に物事を観察しているタイプのシュウも無意識に握り
締めた自分の手が汗で濡れていることに気がつく。それだけ先程の
出来事に緊張し、恐怖を感じたのだ。
何も考えられないほど混乱していた頭を整理し始める。なぜ真横
を通り過ぎるまで全く気がつかなかったのか、あいつは何者なのか
考えることは尽きず、お互いに言葉を発することはなかった。クラ
大変!
エルがいなくなった﹂
スメイトが大きく手を振って、こちらへ走ってくるまでは。
﹁エルー、シュウ!
﹁どういうこと?﹂
立ち止まった二人より先を歩いていたなら、見失うはずがない。
﹁階段のところにいるはずなのに、俺が角曲がったらいなくなって
たんだ!﹂
﹁嘘だろっ﹂
言葉と同時に走り出す。さっきの恐怖から逃れるように石階段を
362
走り抜けて街に入っても、どこにもエルの姿は見えなかった。
﹁おかしいよな。エルが階段から走ったって、ここまで探せば必ず
急に消えるわけないよ﹂
見つかるはずだもん﹂
﹁そうだよ!
結局いつまでたってもエルは見つからず、探すのは諦めることに
﹂
なった。広場のベンチに腰掛けて、集まった全員で話し合いをする。
﹁やっぱりさ⋮⋮
ガヤガヤと思い思いに話しが進む中、ずっと考え込んでいたシュ
ウが口を開いた。
これ以上エルのことを探るのはやめよう。きっと言えない事情と
﹂
かよくわからないこととかあるんだよ、とみんなを説得する。二人
だけにされた警告の話は口にしなかった。
﹁別にエルの家のこととか知らなくても、友達はできるしな
レントが頭の後ろで腕を組んで、ゴロンと後ろの芝生に横になる。
白い光に照らされて、その表情はうかがいしかがいしれなかった。
﹁そっかー。エルが嫌がるんならやめよっか﹂
﹂
最初にそう言ったのは飼育係でエルに誤って水を掛けてしまった
子だった。
﹁そうだよね
その気持ちは他の子供にも伝染していく。今までだって何も知ら
なくても、エルはクラスに馴染んでいた。所々価値観がおかしく、
表情が乏しいという問題点はあるが、面倒見のよいエルはみんなか
ら頼られるようになっている。納得したメンバーは解散することに
した。
363
それぞれが各自の家路に着いたであろう頃、レントとシュウは未
だ広場から立ち去っていなかった。
⋮⋮忘れてたよ。エル、あの怪鳥をいとも簡単に手なずけたん
まだ話が、一番大切な話が終わっていない。
﹁
﹂
だ。何もないわけない。でも、それは何だか分かりそうにないね。
あの声⋮⋮
ポツリポツリとシュウがはなしはじめた。今まで胸にモヤモヤと
溜まっていたものの正体を探すかのように。
﹁俺は寒気がした。あれはやばい。みんなに言わなくて正解だった
と思うぜ﹂
レントも何時の間にかシュウの横に座っている。さっきの発言も
レントの本心だったが、みんなの意識をそらしたいと考えたのも本
当だった。
﹁だよ⋮⋮ね⋮⋮﹂
みんなに打ち明けるには重すぎるし、わからないことが多すぎる。
正体不明の人物からの警告は二人だけの心の内に秘めておいたほう
がよいと思った。これ以上探ろうなどとは思えなかったのだ。
﹁エルって一見気も弱そうだし、喧嘩も弱そうだよね。確かに優し
いけど、見た目に騙されたら痛い目みる。あーあ、エルが内側に隠
してるもの、いつかわかるかな﹂
無表情だと思ってたけど、別に冷たいわけじゃない。時々予測を
つかない行動するから、一緒にいて楽しいんだけどねと付け足すシ
ュウの声はどこかスッキリしていた。
﹁まだ中等部も高等部もあるからわかるさ。それに隠しているのだ
って何か事情があるかもしれないんだし﹂
364
レントはシュウが中等部への進学を希望していることを知ってい
た。初等部を卒業すれば、寮生活が待っているのだ。
エルが編入してからの僅かな期間の間に見られた普通ではない行
﹂
最初にクラスの度胸試しをしたとき、エルのことを心配してい
動に話は移る。
﹁
たよね。危ないと思ったんでしょ
からかうようなシュウに何も答えない。それは肯定の沈黙だった。
学校の裏庭にいる怪鳥。とても危険で凶暴、素早いので下手な魔
法の使い手では太刀打ちできない。
飼い主にとっては厄介なペットだが、非常に珍しく、始まりの世
代の生き物だとも言われているため、学園で保護しなければいけな
いのだ。
先生がいない時に近づくと呼び出しをくらうのにもかかわらず、
誰が言い出したのか分からないが、少し前レント達のクラスではど
こまで怪鳥に近づけるかという遊びが流行っていた。近づければ近
づけるほど勇気はあるとみなされる。
だから、男子が編入してきて、そいつにもやらせようという話に
なったのは自然な流れだった。そんな中、現れたのは小さくて細く
て、とてもじゃないけど怪鳥に立ち向かう姿なんて想像できないエ
ル。むしろ逃げ遅れて怪鳥に食われてしまいそうだった。
そんなエルに一人で度胸試しをやらせるのを迷った結果、全員で
まさか、怪鳥を手懐けるとは誰も思わなかったからね。暴れ出
やり直すことにした。
﹁
﹂
した瞬間に全員逃げたのに、一人で行ってしまったときは心臓が止
まるかと思ったよ
365
﹁
今考えると、走る前から自信があったってことだよな
﹂
端を走った方がいいんじゃないかという忠告を無視したのもエル
﹂
エルは手懐けるだけじゃなくて使役できるとか、規格外すぎ⋮
が怪鳥に勝てる自信があったからだったのだとレントは思った。
﹁
⋮。あれで魔法が苦手だとか冗談だろ
動物は本能的に自分より強いと認めた個体にしか従わない。始ま
りの世代、太古から存在したとされる種族、生物、植物は今はほと
んど存在しない。それらは総じて今を生きるものの理解の範疇を超
えると言われているが、レントはエルから感じ取った強さから怪鳥
が従っているのだと考えていた。
レントはその目で見たのだ。カール・ヴァラシナに怪鳥を使って
威嚇したところを。その前の会話は聞こえなかったが、内容は用意
に想像できた。大方エルに対して、暴言を吐いたのだろう。
怒ったカールがエルをそのままにしておくとは考えづらい。今ま
で通りなら、そろそろ経済的にエルの家に異変があるはずだった。
レントは心配して、それとなく何回か探りをいれていた。エルは
しばらく考え、家に花火を撒き散らかしてあったと報告してきた日
もあれば、家のあちこちで火事がおこるとか、帰ると台所が爆発し
ていたとか言う日もあった。それも真顔で、当たり前のことのよう
意味わかんないよ⋮⋮
﹂
に。エルの家では火事は日常茶飯事らしい。
﹁
深く追及できなかったので、それがエルの冗談だったのかはわか
らない。きっと理解できないんだろうとあきらめにも似た気持ちで
ため息をついた。
でも、それはエルに対する興味を引き立てる。二人がもっとエル
と一緒にいたいと思った瞬間だった。
366
♢♢♢♢♢
街には貴族街へと続く、通称貴族通りと呼ばれる通りがある。馬
車が余裕を持って数台すれ違えるほど幅が広く、舗装もされている
のだ。そこを通って家に帰るシュウと別れて、レントは広場から家
学園、終わったの?﹂
に向かって歩いていた。
﹁レント!
騒がしい商店街をぶらぶらしていると、道に沿って立ち並ぶ店の
そうだよ。今帰り﹂
中から女性の声がした。
﹁姉ちゃん!
小さい頃よく一緒に遊んでもらっていた近所のお姉さんが手を振
っている。レントは親しみを込めて、姉ちゃんと呼んでいた。
久しぶりに話そうと走り寄る。しかし、通りのここら辺だけ妙に
混んでいて、途中レントは何度か肩をぶつけてしまった。
﹁お疲れ様﹂
﹁さんきゅ。今日、なんでこここんなに混んでるの?﹂
特に商店街のイベントはなかったはずだ。レントは台に手をつき、
それはね⋮⋮
﹂
身を乗り出して聞いた。
﹁
姉ちゃんと呼ばれた女性が声を潜めたかと思うと、誰かを探すよ
うに通りを見渡した。
367
﹁
﹂
もういらっしゃらないみたいね。残念。さっき、うちの店にす
ごい子が来たのよ
レントは自分が手をついた台に乗った商品に目を落とした。女性
ものの装飾品が置いてある。店内では日用品を売っているはずだが、
すごいってどんな?﹂
最近外で売り出したピンやらゴムやらが人気らしい。
﹁
どれもデザインは違うと以前に姉ちゃんに力説されたことがある
が、レントには全部同じに見える。それでも、クラスの女子も持っ
ているのを見たことがあるので、売れているのは間違いないらしい。
支払いに中金
私、受け取る時手ぇ震えちゃったわよ。お父
﹁レントより小さな子だったと思うんだけどね⋮⋮
貨を出してきたの!
ちゃんが家中の硬貨集めて、お釣り出して、そりゃあもう大変だっ
たんだから!﹂
頬をほんのりと赤く染めて、いつもより饒舌に話すことで、それ
だけ興奮していることが伝わってくる。
すげぇ、そんなので買い物するやつ見たことないよ。
金貨!
﹁
﹂
﹂
残念。父ちゃんが預けに行っちゃったからもうここにはありま
俺も見たい
﹁
﹂
ちぇ、なんだよ
せーん
﹁
レントはくやしそうに舌打ちをした。
﹁でも、なんであんなお坊ちゃんがうちみたいなお店にお買い物を
どこかの国の王子様だったりして﹂
しにいらっしゃったのかしら。お付きの人も顔は見えなかったんだ
けど⋮⋮
﹁まさか、王子様はこんな市井にこないから﹂
ないない、と呆れた顔でレントは手を振った。
368
﹁そうよね﹂
現在存命しているこの国の王族は王、他国に嫁がれた第一王女ア
マリア様。第一王子リクハルド様、学園に通っていらっしゃる第二
王子セヴェリ様、第三王子ティモ様だ。どの方も高い能力を持ち、
一目見たいと誰もが願う雲の上の存在だった。レントは騎士団に入
りたいと思っている。王族に対しての憧れはもちろん強かった。
﹁そういえば、トルカちゃん迎えに行かなくていいの?﹂
﹁もうそんな時間?﹂
いつもより遊びすぎてしまったらしい。走ってこけないでねとい
う姉ちゃんの言葉を背中に聞きながらリュックを背負い直して、目
的地へ駆け出した。
レントが立ち止まったのは街に溶け込むようにひっそりと建つ、
教会の前だった。
﹁しつれいしまーす﹂
見慣れた門をくぐり、誰もいないエントランスで一応挨拶をする。
おっ⋮⋮
おー﹂
﹁レント兄!﹂
﹁
腹部に小さな塊が勢いよくぶつかってきた衝撃で思わず呻き声が
漏れた。
﹁おそいよー﹂
﹁悪い、悪い﹂
レントは抱きついたままの妹を片手で引き剥がす。はがすときに
べりべりと音が聞こえてきそうなほど兄の体にしがみついていた。
さらに怒っていることを最大限表現しようと、ぷくっと赤い頬を膨
らませていじけている。
369
﹁あら、レントくんきたのね﹂
﹁シスター。すいません、今日もありがとうございました。もう家
に帰ります﹂
﹁はいはい。じゃあね、トルカちゃん﹂
﹁また来ますー!﹂
ばいばーいと大きくシスターに手を振っている妹と手を繋ぎ、レ
ントも頭を下げた。シスターも笑顔で送り出してくれる。
﹁今日ねー﹂
妹は自分に今日あったことを一つ一つ教えてくれるつもりらしい。
家に帰ってもまだ母親、父親の姿はない。仕事で帰りが遅い両親
に代わってレントはいつも学校帰りにこうやって妹の迎えにきてい
た。幼い妹を家で一人にしておくわけにはいかないので、昼間は家
の近くの教会で預かってもらっている。
どこで会ったんだ?﹂
﹁それでね、怪我してる子を見つけたからちりょーしてあげたの!﹂
﹁怪我⋮⋮?
﹁えっと⋮⋮坂のとちゅ⋮⋮﹂
坂の途中で見つけたんだよと言いかけたトルカは、急に困った顔
をして両手で口を塞いだ。
トルカを預かるといっても、教会は教会の仕事がある。トルカの
面倒を見てもらうというよりは敷地内で遊ばせてもらっていると言
った方が正しい。手が空いたシスターもかまってくれているようだ
が、シスターも暇ではない。
﹁もしかしてまた、抜け出したのか!﹂
問いかけるレントにトルカはふるふると首を横に振る。その頭を
370
つかまえ、しゃがみこんだ自分と無理矢理目を合わせた。しかし、
トルカは目を泳がせるばかりだ。
トルカは嘘をつくとき必ず目をそらす。それを知っているレント
はトルカが教会を抜け出して怪我をしていたという子に会ったこと
を確信した。
王都でも、教会の周りは比較的治安がいい。自分たちは昔から住
んでいるから、トルカのことを知ってくれている住民も多い。それ
でも、フラフラと何処かへ行ってしまったら危険な目にもあう。レ
もうぜったいしないから﹂
ントは忙しい母親の代わりに、何度もトルカに注意していた。
﹁ごめんなさい!
怖い顔をしたレントを前にして、トルカはしゅんとした。
よっぽど退屈なんだろう。トルカの気持ちもわかる。
本当なら自分が面倒を見ているはずだった。初等部に通わせても
その子の怪我は大丈夫だ
らっているせいで、幼い妹が一人で遊ばなければならないことに責
任を感じているのも事実だ。
﹁絶対しないって約束できるか?﹂
﹁うんっ﹂
﹁じゃあ、今日は許してやる。それで?
ったのか?﹂
﹁足から血がでてたから、しょーどくして⋮⋮﹂
﹁今どき、こけて怪我するやつなんているんだな﹂
どんだけ鈍臭いんだとレントは笑った。聞けば、トルカより大き
い子だという。学園に通っていてもおかしくない年齢だ。
同時に世の中には色々なタイプがいるってことかと実感する。年
相応のクラスメイト、シュウのようにしっかりして計算高いタイプ
もいれば、カールのように自分の思い通りにならないことが受け入
371
れられないやつ。
エルはどうだろう。大人びて頭はいいけど、どこか抜けている。
一緒
何にも興味がないような顔して、実はそんなことはない。ぼーっと
していることが多いが、意外と話を聞いてくれているし⋮⋮
にいると楽しくて⋮⋮
﹁なぁ、トルカ。俺さ、中等部に行こうかな。それとも軍の学校に
入ろうかな﹂
トルカと呼びかけたのも関わらず、レントは自分に問いかけるよ
うに話した。
母親が王宮勤めの薬師、父親が武官という家庭に育った兄妹は将
来の夢がはっきりしていた。兄レントは父親のような騎士に、妹ト
ルカは母親のような薬師に。
武官になるためには学園の高等部を卒業するか、軍の学校に入る
という二つの選択肢がある。親にはどちらでも好きな方に行きなさ
いと言われていたレント。
どちらの寮に入らなければいけないが、軍学校の寮は王都内にあ
り、休みに帰ってこれる。中等部に進めば、今より妹を寂しい思い
をさせてしまうだろう。ずっと悩んでいたのだ。
﹁兄ちゃんがいないと、嫌か?﹂
トルカに引きとめられたらやっぱり軍に入ろう。進学したい。で
レント兄いない方がお菓子もたくさん食べれるし、
も、自分は成績もわるいし、軍の方が合ってるのではないかとも思
う。
﹁ぜーんぜん!
ぜんぜんへーきだもん!﹂
372
﹁ひでーなー﹂
握っていた手を離して、前に周りこむと、トルカの頬っぺたをむ
にーと横に伸ばした。仕返しとばかりにやってみただけだが、子供
の頬は面白いほどによく伸びる。
トルカはレントの腕を叩いて、離してもらおうと暴れた。
﹁いたいよ!﹂
転げるように二人でじゃれあってから、トルカを解放した。ヒリ
ヒリと痛む頬を摩る妹に睨まれる。
いつもの光景だった。夜になれば母さんも帰ってくる。父さんは
この日常を捨てるなんてやっぱり⋮⋮
自分は、
王都から離れた勤務だが、みんなで今日あったことを報告して、ご
飯を食べて⋮⋮
最近楽しそうだもんね﹂
﹁だから、ちゅうとうぶに行ったらいいよ。レント兄、一緒にいた
﹂
いおともだちができたんでしょ?
﹁そう⋮⋮かな⋮⋮
的を得た妹の発言にレントは目を丸くした。家では全く変わりな
いように過ごしていたつもりだったのだが、妹は敏感に感じ取って
いたらしい。
﹁そうだよ。にやにやして帰ってくるし。いっつも学校の話してる
し﹂
﹁そっか⋮⋮。よし!決めた﹂
レントの心は決まった。もともと悩むような性格じゃない。答え
なんて出てたじゃないか。
﹁中等部に行こう﹂
あと二年、妹と家族と大切に過ごそう。言葉に出せば、悩んでい
373
たのも嘘のように初めからそうだったような気がした。
﹁ん。じゃあ、勉強しないとね﹂
﹁勉強は明日から!﹂
満足気に頷く妹の手を取る。
﹁今日は母さんが帰ってくるまで、遊ぶか﹂
嬉しそうにした妹を引っ張るように走り出す。王都の道に二つの
長い影が並んだ。
374
5−6 いつか王子様が︵1︶
凍りつくような寒さが和らぎ始めた頃、学園初等部は長い休みを迎
えていた。
大量の課題を持たされた生徒たちはそれぞれの家で春を迎える。
エルは王都からウエストヴェルン家本邸に移動し、休みの後半を
過ごしていた。
﹁暇だな﹂
窓際の椅子に力なくもたれかけ、手の甲を額においた。閉じた目
はじんわりと熱く、それでようやく目を酷使していたのだと気がつ
く。
今、広い部屋にいるのはエルだけだ。
マティアスはルクシェルさんに引きずるようにして連れていかれ、
仕事を手伝っている。エドナは買い出しに行っているし、本邸まで
ついてきたレオニートはデートとか言って、エドナのストーカーを
しているところだろう。
リチャードさんは神出鬼没で、居場所がわからない。それにリチ
ャードさんに構ってと頼んだら、何をしてくれるんだろうか。気に
なるが、知りたくない。
さっきまでいた机の上には何冊もの本が積み重ねられている。休
みの課題に、それに使う資料、屋敷にあった参考書。課題はさっき
終わった。頑張ったし、出来もまずまずだろう。
はやく終わらせようと課題をやっていたのだが、いざ終わってし
375
まうと他にやりたいことが見つけられなかった。先の予習をしても
いいが、できれば遊びたい。疲れた頭をこれ以上使いたくなかった。
⋮⋮今までなにして時間つぶしていたんだっけ。
携帯、テレビ、ネット、ゲーム、漫画。毎日やらなければならな
いものをないがしろにしてまでやっていたものがここには何もない。
あっちでは毎日を追われるように生きて、暇な時間など全然なかっ
た。この世界に来て、ぼーっと空を見ながら考えごとをする時間が
増えたように思う。
﹁ほんと、暇⋮⋮﹂
この世界の娯楽は少ない。それでも、前にマティアスがカードゲ
ームやボードゲームはあると言っていた。トランプとは違うだろう
が、今度教えてもらおう。覚えてみんなで遊ぼうと誘ってみよう。
色々と考え、ああこうやって俺はこちらに馴染んで行くんだなと
思いながら柔らかな椅子に腰を沈めた。
そこでドアをノックする音が聞こえた。マティアスが仕事から解
放されたのかもしれない。慌ててだらしない座り方を直して、どう
ぞと返事をする。
﹁エル様、シェンリル様からお話があると伝言を承っております。
もうじきこちらにいらしゃいますかと﹂
あれからずっと俺を無視
本邸にいたときに見たことがあるメイドさんはそう教えてくれる
と一礼してすぐに出て行ってしまった。
シェンリルちゃんがこの部屋にくる?
し続けているシェンリルちゃんが?
告げられた言葉を何度か頭の中で反芻し、椅子から落ちるように
立ち上がった。
376
﹁なんで?
どうしよう。とと⋮⋮とりあえず着替えなきゃ﹂
今日は一日部屋にいる予定だった。だから今俺が着ているのは思
いっきり部屋着だ。
こっちにきてから異様に着替えの回数が多くなった。朝起きたら
着替え、昼に着替え、夜に着替える。前に一度、今身につけている
ような服で出かけようとしたらマティアスとエドナに止められた。
外出着はまた別らしい。
そんな風習があるのに、部屋着でシェンリルちゃんを迎えるわけ
にはいかない。俺にはよくわからないが、すごく失礼なことかもし
れないし。
着替えよう。そう思って、隣の部屋に駆け込んだ。走りながらボ
タンをぶちぶちと外して、脱ぎ捨てる。普段は手伝ってもらい時間
がかかる着替えも、久しぶりに誰もいない場所で行えば驚くほど早
く終わった。服を点々と落としてたどり着いた先、普段は触らせて
もらえない大きなクローゼットを開け放つ。
どれならいいんだ?﹂
中にはずらりとハンガーにかかった服が並んでいた。
﹁くそっ!
服を見ても、どれが今の状況に適した服なのか判断できない。し
かも最悪なことに背が低くてハンガーに手が届かなかった。
マティアスだ。マティアスなら余裕で届く。こちらは身長に難あ
りなのに、神は彼に二物も三物も与えてしまった。
やり場のない怒りを抑えて、どうすればいいか考える。いつシェ
ンリルちゃんが来てもおかしくない。今の姿を見られたら、彼女に
一生口を聞いてもらえないだろう。
椅子を持ってくる時間も惜しいと思った俺は服の下の部分を鷲掴
377
みにし、腕を思いっきり上げてジャンプする。うまくハンガーが外
いやこれ?
どれも一緒だ
れたのはいいが、大量の服が顔にかぶさり、そのまま後ろに倒れこ
んだ。
﹁いてぇ、腰打ったな。服はこれか?
ろうが。あーもう。これでいいや﹂
痛む腰を摩り、絨毯の上に散らばった服を物色する。マティアス
の名誉のために言っておくと、俺からみると似たような服でも決し
て同じではない。
冬だからしっかりした生地のものを着ようと適当に手にとったや
つに袖を通す。パリッと糊の効いたシャツのボタンを止め、カーデ
ィガンを羽織った。下は半ズボンしかとれなかったので、並べてあ
った茶色のブーツを履く。
床の服を両手一杯に拾い上げると、ばさっとベッドの上に放り投
部屋が汚い!﹂
げた。一枚一枚しまうことができないので、あとで自分で片付けよ
う。
﹁あとは⋮⋮そうだ、部屋!
バタバタと慌ただしくさっきまでいた部屋に戻った。なぜか今日
に限って入って一番目の部屋で作業をしていたのだ。プリントやら
本やらをかき集めてまたベッドの上におきにいく。
その作業を何度か繰り返し、ようやく最後の本を片付けた時に扉
がノックされた。
できれば紅茶なんかも用意した方がよかったのかもしれない。そ
んなことを思いながら、シェンリルちゃんを迎えに部屋に戻ってい
るときだった。
378
焦って前しか向いていなかった。何者かに足を引っ張られ、前に
つんのめる。捕まるところが見つからない両手が踊り、ガクンと落
ちた顔と絨毯の距離が近くなる。
そう、ドアノブが回される音を聞きながら俺も部屋の中で回って
いた。見事な一回転だ。
なんて最悪なタイミングなんだ。無様にこけた姿で出迎えること
になるのか。
シェンリルちゃんの赤い髪が部屋を覗いた。
﹁失礼いたします。少しよろしいかし⋮⋮ら?﹂
﹁どうぞ﹂
震えた声を発した俺は床に倒れるでもなく、頭を打ちつけるので
もなく、椅子に座ってシェンリルちゃんに向かい合っていた。
何を隠そう。運良く、回転した先には椅子があったのだ。そして、
その後すぐに足に絡みついたコートを拾い上げていた。ファーがつ
いたもこもこのコート。うっかり落としていたこれに引っかかって
転がったんだなと思いつつも、必死に何もありませんでしたけどと
いう顔をした。
﹂
﹁突然の訪問になってしまってごめんなさい。私、エル様に頼みた
いことがあるんです﹂
﹁うん⋮⋮かまわないよ。頼み事は何?
手の中のコートを弄ぶ。初めてまともに口をきいてもらえた。俺
より年下らしいが、随分しっかりした口調だなと思う。見た目は年
相応だけど、大人びているのは貴族として生まれ、恵まれた生活の
分周囲から求められていることも多いということだろうか。社交界
というものも存在しているらしいし、屋敷には毎日シェンリルちゃ
379
んの習い事の先生が出入りしていた。
﹁これです﹂
目の前に木のつるで編まれたような籠を差し出される。
﹁お兄様に差し上げるお花を森で摘みたいんです。手伝ってもらえ
ません?﹂
﹁マティアスに?﹂
唐突な話に瞬きをして問い返したが、シェンリルちゃんは何も言
わずに、そっと俺に向かって籠を押し出すだけだった。
﹁今日も外は寒いです。まぁ、そのコートなら暖かいと思いますけ
ど。それでは私はエントランスで待っておりますから﹂
俺が持っているコートを一瞥したあとさっと身を翻して去って行
やっぱ
くシェンリルちゃんの動きは余りにもスマートで、口を半開きにし
﹂
て見送ることしか出来なかった。
﹁えっ⋮⋮
一人残された部屋で、籠とドアを交互に見やる。
どうして、急に俺を誘ったんだろうか。歳が近いから?
りマティアスのことが好きというのは本当なんだなと思いつつも、
めげずに挨拶をしたことが報われたのかもしれないことは嬉しかっ
た。
﹁待たせるのも悪いし、行くか﹂
コートをばさりと広げて着ると、襟元についたファーがくすぐっ
たいほどに頬を撫でる。
マティアスに伝言はいるだろうか。
シェンリルちゃんはきちんと防寒対策をしていたし、きっと誰か
に俺と一緒に出かけていることを伝えているだろう。それならマテ
380
ィアスの耳にも入るはずだ。
部屋を出る前、俺はしばしドアの前で立ち止まった。一度引き返
すと、上から二番目の棚にそっと手を伸ばして、コートのポケット
に手を突っ込む。
そのまま俺は歩き出した。
♢♢♢♢♢
今日なら、できる気がする。
﹁シェンリルちゃんは学園通ってるんだよね。次は三年生になるん
だよね?﹂
﹁ええ﹂
僕より年下なのに言葉遣いしっかりしてるね﹂
﹁じゃあ、僕は今度五年生だから⋮⋮二歳差かな﹂
﹁三歳差です﹂
﹁そうなんだ!
﹁このくらい当然です﹂
﹁そっかぁ⋮⋮﹂
ザクザクと落ち葉を踏みしめる音がやたらはっきりと耳に響く。
さっきからずっとこんな会話というにはお粗末すぎる言葉のやり取
りをしながら、森の奥へ進んでいた。
まだ昼間だが、散っていない木の葉が光を遮って少し暗い。木の
根に躓かないように、迷うことなく歩くシェンリルちゃんについて
行く中、めげそうな自分を叱咤していた。
381
そんなつもりはなかったにしても、マティアスは昔から俺の面倒
を見てくれていたことは事実だし、お兄ちゃんを取られたと思われ
ても仕方ない。でも、今日はこうやって誘ってくれた。きっと、仲
良くなれる。
﹁私は欲しいのはあの花です﹂
森のずっと奥で、ようやくシェンリルちゃんは立ち止まった。
﹁この赤い花?﹂
﹁ええ。これで籠一杯に﹂
足元には花びらをいく枚もつけた赤い花が二輪咲いている。
﹁籠一杯かぁ⋮⋮。あんまり一箇所に咲いていないから時間かかり
そうだね﹂
少し離れた所にポツンポツンと咲いているが、そこにも数輪しか
見えない。籠二杯分となると結構な作業になりそうだ。
シェンリルちゃんよりも沢山摘もう。そんなことを思いながら、
見つけた花に手を伸ばした。僅かな抵抗があった後、ぷちんと茎が
千切れる。
横を見ると、シェンリルちゃんもせっせと花を集めていた。コー
トからはみ出たスカートが地面についてるのも気にならないようだ。
森も慣れてたし、外で遊ぶのが好きなのかもしれない。意外な一面
を見た気がした。
籠にいれ、またフラフラと歩いて次の花を探す。
周りに花が見つからなくなったら、シェンリルちゃんに声をかけ
て移動する。そして、またバラバラに地面に目を泳がす。
それをただひたすら繰り返した。
籠の三分の二ほどの花を摘み終わった頃だった。
﹁ねぇ、これって⋮⋮﹂
382
ずっと下を向いていたため痛む首を気にしながら、声をかけた。
少し離れたところに見えると思っていたベージュのコートの後ろ姿
シェンリルちゃん?﹂
は何処にも見えななった。
﹁シェンリルちゃん?
だんだんと声は大きくなり、焦りを帯びて行く。さっきまで慎重
に歩いていた地面を踏みつけ、何度も同じところを回った。二人で
別れた所を中心に段々と円を広げても見つからない。ずっとお互い
の姿は見える位置にいたのに。
﹁いない⋮⋮﹂
空は赤く染まり、森は夕暮れを迎えようとしている。
力が抜けた俺の手から赤い斑点のついたキノコがかさりと音を立
てて地面に落ちた。
﹁俺のせいだ。俺がしっかりしてなかったから。どうしよう。どう
しよう。どうしよう﹂
影が長くなるにつれ、一歩一歩がはやくなっていく。歩いても歩
いても、シェンリルちゃんに会えない。
どうしようとうわ言のように繰り返す。それでも、状況は変わら
ない。俺が目を離したせいで、シェンリルちゃんを迷子にさせてし
そうか。こんなに暗くなるのか﹂
まったという事実が胸の鼓動を不自然に高めるだけだった。
﹁あ⋮⋮
日が暮れた。森を照らし出していた存在が沈み、赤かった世界が
暗闇に。ぽっかりと浮いたような感覚に陥ったのに驚いて、慌てて
近くの幹へ手を伸ばした。
思えば、こんな時間に外にいるのは初めてかもしれない。いつも
ならみんなで食事をしている時間だろうか。電球もお店のイルミネ
383
ーションもない、森の奥の想像を超える暗さと、寒さに身を震わせ
た。
﹁シェンリルちゃん!﹂
この闇の中、木の根が張り巡らされた森を歩くのは難しい。でも、
前に進まない訳にもいかなかった。年上の自分の責任だ。遠くで響
き渡る獣の遠吠えが聞こえ、前も後ろも分からない中、どんな気持
♢♢♢♢♢
ちでいるだろう。右手で木の肌を確かめつつ足を進めた。
闇に目が慣れて両足が痛みを訴えるようになっても、まだエルは
シェンリルちゃんを見つけることが出来ていなかった。躓く度に地
面についた手や足が汚れる。はじめは一々払っていた泥も、だいぶ
前にその労力を歩くことに使いはじめたため、心身ともにボロボロ
になっている。
悪い視界はエルの体力を削っていく。それでも籠を握りしめる手
だけは離さなかった。
﹁シェンリル⋮⋮ちゃん?﹂
何度目になるかわからないほど同じ名前を叫んだ時、急に前が開
け、頭上には淡い光を放つ月が見えた。
﹁ここは前にきたところか。この湖、見覚えがある﹂
知っているところに出たというだけで心に余裕が生まれた。まる
で吸い寄せられるように巨大な湖に近づく。
籠を傍におくと、かくりと膝を折って湖を覗き込んだ。泣きそう
384
な顔の自分がこちらを見ている。惨めな自分から目をそらしたい。
逃げるように籠に顔を向けた。
⋮⋮籠の中には数枚の花びらと二本の花しか残っていなかった。
何度もこけて、その時にほとんど落ちてしまっていたのだ。
﹁はは。何やってるんだ、俺。全然ダメじゃん。迷子にさせちゃっ
たあげく、肝心の花はなくしちゃうしさぁ⋮⋮ああ、もう。ほんと
何やってるんだよ⋮⋮﹂
乾いた笑い声はすぐに消えた。
情けない。乱暴に花を掴むと、湖に向かって思い切り投げた。
だが、あまりにも軽い花は遠くへは飛ばない。波紋を作りながら
手前の水面に浮かんだ。
やがて水中に潜り、エルが見ている中逆さまにゆっくりと落ちて
行く。真っ暗な湖底へ。
思わず手を伸ばして、花を掴んだ。くったりと頭をもたげ、茎か
ら雫が落ちる。花を握りしめ、なぜだがホッとした。
その時、湖が真っ赤に色づいた。
﹁山、火事?﹂
顔をあげると、奥の森が燃えている。そこだけ昼間のように明る
くなっていた。
幻想的な風景に心奪われたのは一瞬で、すぐに籠を握りしめて、
花を握りしめて立ちあがる。
│││あそこにシェンリルちゃんがいるような気がする。
385
俺は迷わずに走り出した。
386
5−7 いつか王子様が︵2︶
﹁⋮⋮ジュリアンナの粗末なドレスの裾が今にも掴まれそうになっ
たとき、何処からか馬の蹄の音が聞こえてきました。﹃ジュリアン
ナ!﹄ジュリアンナを見て馬上の男が叫びます。それはジュリアン
ナが町で出会い、密かに心惹かれてた青年でした。でも、先ほどパ
レードで知ってしまったのです。彼は病弱と言われ、滅多に外に出
てこないこの国の王子様でした。彼と私は釣り合わない。そう思っ
たからこそ楽しみにしていたパレードを見ていられてなくて、逃げ
出してしまったのです。当てもなくさまよっていたときに盗賊に捕
まってしまったのでした。
一番会いたくない王子様に見つかってしまい、ジュリアンナの頬
は涙で濡れています。
白馬に乗った青年は厳しい視線で周りを見渡し、叫びました。﹃
彼女に触るな!﹄さっそうと馬を降りると、腰の鞘から剣を引き抜
き、盗賊たちを華麗な動きで倒していきます。それは、いつも彼女
の隣にいた青年とは別人のようでした。その姿に目を奪われながら、
やっぱりこんなにみすぼらしい自分とは違う、そう思いました。
盗賊全員を気絶させた王子は剣をしまい、地面に座り込んでいた
ジュリアンナに手を差し伸べました。
﹃黙っていて悪かった。俺の本当の名はユリウス。この国の王子だ
ったんだ。君にはありのままの俺を見てほしくてどうしても打ち明
けられなかった。さあ帰ろう﹄﹃そんな⋮⋮一体どこへ帰るという
のですか。私の身分のようなものは貴方とは釣り合いません!﹄﹃
身分なんて関係ない。ジュリアンナ、よく聞いてほしい。俺と結婚
して欲しいんだ。一生側室も取らないと約束する。お前だけを愛し
387
ているんだ﹄﹃ユリウス⋮⋮!﹄ジュリアンナは涙を拭い、王子の
手を取りました。
後日、ジュリアンナとユリウスの結婚式が行われました。二人の
幸せそうな姿を見て全国民が祝福しました。ジュリアンナは美しく、
優しい王妃としてユリウスの隣に寄り添い続けたのです⋮⋮﹂
抑揚のない声で本を読み上げ、最後の一ページを捲ったシェンリ
ルは本を脇に押しやった。
﹁これもだめ。どうしてこうみんな同じような内容なの?﹂
本棚にはたくさんの恋愛小説が並んでいた。国の発展に伴い、ア
リメルティ王国の識字率もじわじわと上がっている。
今まで民たちの間で流行っていたお話が本という形で数多く出回
るようになったのだ。そしてこのシェンリルの部屋には恋愛ものの
本が大量に集められていた。
﹁王子様はかっこ良くて、勇敢で国で一番強いなんてうそよ。読み
聞かせてもらった絵本にはどれもそう書いてあったけれど、違うじ
ゃない。それにこんなに身分差があって簡単にうまく行くわけない
わ。国民はみな祝福したとしても、貴族共は反対するに決まってい
る。側室もとらないで子供がなかなかできなかったら、国は混乱す
るに決まっている﹂
小さい頃は絵本に何度も目を通し、いつか自分の元にも白馬の王
子様がやってくると信じていた。でも、その夢は大人たちによって
あっさりと打ち砕かれることになる。
初めて連れていかれた王都。そこでシェンリルを待っていたのは、
ティモ・ルプランス・ド・アリメルティ・ノースラレス。この国の
第三王子で、自分より幼い婚約者様だった。
388
別に結婚相手を決められたことに不満はない。貴族の女性ならそ
れは義務であり、仕方のないことだと受け入れている。
﹁でも、王子様だと聞いていたなら期待するじゃない!﹂
メイドを下がらせた部屋で、声を荒げる。
王様が上に王子がいたから第三王子のティモは王位を継承するこ
とはないと考え、そうそうと婚約者を決められた⋮⋮らしい。王位
継承権があるものが身分的に釣り合って、一番年が近い女性という
ことでウエストヴェルン家の長女シェンリルに白羽の矢が立った。
今のところシェンリルとティモの関係は仲のよい幼馴染といった
ところだ。互いに同世代の友達と遊ぶ機会はなかったが、婚約者二
人で過ごす︵遊ぶ︶時間は用意されていた。大人たちがどういう意
図があるのかはわからないがあるときは王宮で、あるときは彼女の
屋敷の中でと場所が異なるものの年下のティモの遊びに付き合って
いる。砂遊びで泥だらけになり、ちゃんばらごっこで捻挫している
うちにどんどんと白馬の王子様は遠ざかってしまった。
﹁それでもお兄様は、マティアスお兄様だけは違ったのにっ⋮⋮!﹂
そんな中でも、二番目の兄マティアスはシェンリルの憧れだった。
学園にはいるまでは本邸で過ごしていたため、顔を見たことはなか
ったと思う。
しかし、メイドや執事からよく話を聞いていた。マティアス様は
賢くて、王族の方よりもお強いのではないかと言われているのです
よ、と。大会で優勝した時の話は物語にもなっていた。
王都にやってきて、初めて会ったときのことは忘れない。顔には
出さなかったものの嬉しくて仕方がなかった。
お仕事が忙しいのか、ほとんど家に帰ってくることはなく、忘れ
389
た頃にふらっと立ち寄るだけ。
屋敷以外の何処かで寝泊まりしているのは明らかだったが、何の
仕事をしているかは周りに聞いても分からなかった。ただ将来を有
望視されているお兄様なら何か大きな仕事をされているのだと思っ
ていたのだった。それなのに⋮⋮。
シェンリルは窓の外に目をやった。昼が過ぎ、寒い季節の中一番
暖かい時間が終わろうとしていた。
ちょうど顔を出してくれたメイドに用事を伝える。まだここに来
て日が浅いメイドだと思う。いつもなら慣れているメイドの方が色
々と楽なのだが、家の勝手を分かっていないのは今日はむしろ都合
が良かった。
メイドが部屋を出て行く。残ったシェンリルは膝の上のレースが
たっぷりとあしらわれた布を座っていた場所に置いた。その足で向
かった先は冬の洋服が所狭しと並べられた奥の部屋だ。
その中から今日の気分にあったものを探す。
母、ルクシェルはこの国の服飾の部門の開拓者と言われている。
学園の寮に入って元々好きだった裁縫に力をいれ始めたらしい。
しかし、母は貴族の嗜みである繊細な刺繍だけでは満足が出来ず、
自らドレスを作ることにした。当時にしては斬新なデザインのそれ
は誰に見せても否定されるだけだったという。でも、母は気に入っ
ていた。だから自分で作ったドレスをお茶会などに着て行くことに
したののだ。
暇な貴族の女は陰口が好きだ。幼い頃から大人のいる場所に出入
りすることが多かったシェンリルは知っていた。やることがなく、
サロンや観劇に興じるしかない女性は根も葉もない噂と悪口に大半
の時間を費やす。きっとお母様も当時は陰口を叩かれたに違いない。
390
母は昔最初に外に着ていったドレスを見せてくれたことがある。
手放さず持っているのはそれだけ愛着がある、武器だからだろうか。
しかし、女性は流行のものも好きだった。圧倒的な美貌でドレス
を着こなし、徐々に貴族界の注目を浴びるようになったお母様の服
はそれから後流行の最先端を独走することになる。
さらには子供服。カシュバル兄様を生むと同時に、今まで大人の
小さな服としか認識されていなかった子供服を作り始めた。この国
の新たな産業として陛下からも頑張ってほしいとお言葉をいただき、
今では大陸中に店舗をもつ事業へと拡大させた。
﹁王様にお言葉をいただいたから頑張ったというよりは、お母様は
作ることが好きで好きでしかたないんでしょうけど﹂
誰もいない部屋で一人呟き、服についたりぼんを結び終えると部
屋を出た。部屋を温めていた暖炉の火は扉を閉めた瞬間、萎むよう
に消えた。
こつんこつんと小さな足音を鳴らしながら廊下を歩く。部屋のな
かは暖かかったが、ここは少し冷気が漂っていた。シェンリルは誰
にも会わずにある部屋の前にたどり着いた。
ドアの前で服の上から胸に手を当て、早まる鼓動を鎮まらせる。
どく、どくと血を送り出す心臓は目を閉じてじっとしていると落ち
着いてきた。ドアノブに手をかけた。
﹁失礼いたします。少しよろしいかし⋮⋮ら?﹂
﹁どうぞ﹂
前もって用意してきた言葉を発しながら、初めてまっすぐ正面か
391
らみる相手と目を合わす。外出着をきっちりと着て、手にはコート
を持って、椅子に腰掛けていた。どうみても今にも出掛けるといっ
た出で立ちだった。
予想外のことにシェンリルは思わず目を見張り、言葉を詰まらせ
かけた。それを隠すように続ける。
﹂
﹁突然ごめんなさい。エル様に頼みたいことがあるんです﹂
﹁何かな?
エルの無表情な顔からは自分の行動にどういう思いを抱いている
のかは読み取れなかった。どこかかったるそうに手の中のコートを
さわるエルに気圧されないよう、シェンリルは自分を励ました。
﹁これです﹂
自分の部屋から持ってきた木のつるの籠を差し出す。
﹁お兄様に差し上げるお花を森で摘みたいんです。手伝ってもらえ
ません?﹂
﹁マティアスに?﹂
不思議そうな声色で聞きかえされた。﹁白々しい﹂と口に出して
しまいそうになった。自分の用事を知っていたかのように外出着で
待っていたくせによくも予想もつかなかったという反応をするもの
だ。
いや、そん
なぜ外に誘おうとしていることがわかったのだろう。もしかして、
これから自分がしようとしていることも知っている?
なはずはない。
その間も、エルが透き通ったガラスのような眼でこちらを見てく
る。心をみすかされているようでもう耐えられなかった。
﹁今日も外は寒いです。まぁ、そのコートなら暖かいと思いますけ
392
ど。それでは私はエントランスで待っておりますから﹂
これ以上同じ部屋にいたら、本当に心を読まれてしまいそうだ。
一気に言いたいことを口にして、部屋を出た。
﹁平気よ。私の計画を知っているわけないわ。誰にも言ってないん
だもの﹂
それにあっちだって私と数歳しか違わないとお兄様が言っていた
♢♢♢♢♢
じゃない。シェンリルはそう考えながら早足で歩く。廊下には誰も
いなかった。
﹁僕より年下なのに言葉遣いしっかりしてるね﹂
﹁このくらい当然です﹂
見かけによらず話すことが好きなのか、森を歩いている最中もエ
ルはしきりに話しかけてきた。
明らかに自分をよく思っていないものに誘われてのこのことつい
てきて、饒舌になるんだからよっぽどめでたい性格をしているに違
いない。
一体どういう出自をしているのかわからないが、本当にウエスト
ヴェルン家のものとして貴族界で生きるならそれではいけない。互
いに腹の中を隠して生きているのだ。こんな風にのんきに生きてい
たらいつか足元をすくわれるに違いない。
⋮
そこまで考えを巡らせてからはっとシェンリルは我に帰った。
これからのことを考える必要なんてないのだ。ずっと考えて
⋮彼を追い出すと決めたのだから。
393
いつまにか探していた花も見えていた。
﹁私は欲しいのはあの花です﹂
﹁この赤い花?﹂
﹁ええ。これで籠一杯にしたいの﹂
手に下げた籠に少し持ち上げて、目をやる。
それからはお互い花摘みに没頭し、会話はほとんどなかった。ち
ょっと休もうとか移動しようとか、ほんの少し言葉を交わすだけ。
しかし、その時は刻一刻と近づいていた。
日に陰りが見え始めた頃、シェンリルは動かしていた手を止め、
横目でエルを見た。
エルはそんなシェンリルの視線に気づくことなく、せっせと花摘
みに精をだしている。端正な顔立ちにも上品な身なりにも合わない
行為だというのに、その姿はなぜか様になっていた。
シェンリルは足音を立てないようこっそりとエルのそばを離れた。
初めはゆっくりと、そして足音が聞こえない距離にきたと思った途
端、走り出す。
﹁やったわ。絶対に気づいていない﹂
十分離れたところで、ようやく立ち止まった。体の中で心臓が動
く音が大きく鳴り響く。それはついにやったという緊張からの解放
のせいでも、走った直後だというせいでもあるだろう。
突然、がさりと足元の草むらが揺れた。シェンリルの体に緊張が
はしる。次の瞬間には飛び上がらんばかりに驚いて、咄嗟に進もう
としていた方向とは違う方へ走り出してしまった。
394
獣、ないしは自分を傷つけるかもしれない何かだと思ったのだ。
本人がそれに気づいたのは走り疲れて足を止めた時だった。
﹁印がないっ⋮⋮!﹂
森を遊び場としていたシェンリルは木につけた傷を目印にして歩
いていた。目線に合わせて昔、刃物で削ったのだ。それなのに、自
分の周りのどの木の幹にも印を見つけることができない。
嫌な予感が頭をよぎるなか、森を彷徨い続ける。
少し冷静になった頭で考えると、場所のわからないここはともか
く、危険な動物がさっきのところにいるはずがない。危ない生物が
いないからこそ、家のもの達は自分が逃げ出しては森で遊ぶのを見
逃してくれていたのだということにようやく気づく。
いつもなら迷子になんてならない。こうなってしまったのもあの
子⋮⋮突然やってきたエルのせいだ。歩きはじめたばかりで、まだ
体力に余裕があるシェンリルはそんなことを考えて、方向も分から
ずに森を歩きはじめた。
暗くなり、一層寒くなってきた森の中で、シェンリルはついに足
を止めてしまった。力が抜けたように座り、木の幹を背に体を折っ
﹂
て、足を抱え込む。いくら暖かい格好をしていると言っても、外気
寒いよ⋮⋮
に晒されている顔や手から体は冷え切っていた。
﹁帰りたい⋮⋮お母様、お兄様⋮⋮
シェンリルはエルに話していたときのものより幼い口調で弱気な
395
言葉を吐いた。
今まで一人で思い切り遊べる、大好きな場所だった森がとても恐
ろしく感じた。
屋敷では自分がいないことは気づいているだろう。でも、ここま
できてくれるだろうか。急にシェンリルの心は不安でいっぱいにな
った。
﹁⋮⋮もしかしたら、誰も探しにきてくれないかもしれない﹂
顔を膝頭に押し当て、目を閉じるともっと小さい頃に父親に言わ
れたことを思い出す。
│││シェンリル、こっそり悪いことをしても始神様は全部知っ
ておられるからね。いつか悪い行いは自分にかえってくるんだよ。
でも、しょうがなかったのだ。
お兄様が本邸に住むことになったと教えてもらった時は本当に嬉
しかった。
褒めてもらいたくて、学園の勉強もたくさんした。辛くても習い
ごとだって頑張った。
しかし、屋敷にやってきたお兄様の隣にはエルがいた。自分より
少し大きいだろうと思われる子ども。お兄様がことさらにその子を
気にかけているのは一目でわかった。
我が目を疑ったのだ。飛びついて迎えようと思い、うわついてい
た心が行き場を失って宙に浮く。
その日は誰にも気づかれないように自分の部屋へ戻った。
396
それからメイドに二人の関係をそれとなく見てきて欲しいと頼ん
だ。しかし、報告のどれもが心を打ち砕くのに十分なものだった。
名前はエル。マティアス様自身がエル様と呼び、面倒をみている
様子。出自は詳細は不明だが、外国のとても高貴な生まれで、ウエ
ストヴェルン家が引き取ることになったと説明があったという執事
の報告。
また感情の起伏を表すことはほとんどなく、読書や勉強、何もせ
ずに外をながめて一日を過ごしている。その様子を見て無表情が怖
いと思っていると、別に怒っていらっしゃるわけではないとマティ
アス様が教えてくださった。
そう言われてみると、メイドに対する物腰も丁寧でおとなしく、
優しい子供にも見える。
シェンリルは悔しかった。マティアスの目に写っているのは自分
ではなくエルとわかったから。
妹よりどこぞの子供を大切にしているのが許せなかった。
それなのに、その子供は悪びれた様子もなく話しかけてきた。暴
言を吐いたせいでお兄様には怒られ、さらにエルへの怒りが増す。
無視しても無視しても、無表情で声をかけてくるのだ。
一体何を考えているのか。わからないが、その恐ろしく整った顔
の裏で、確かにシェンリルの世界は侵食されていた。マティアスお
兄様は騙されている。
エルがお母様にも気に入られているのを間のあたりにした時、シ
ェンリルの心は決まった。意地悪をして、家から出て行きたくさせ
ようと。
そして、その作戦はうまく行った。
397
どこからか鳥の声がして、緊張でまた体を固くする。
森のすべてが自分を受け入れず、すきあらば消してしまおうとし
ているような錯覚にとらわれる。本当なら今頃、炭火が爆ぜる音を
聞きながら美味しい食事をとっているはずだったのだ。
⋮⋮私だけじゃ⋮⋮ない?﹂
シェンリルはそこで大変なことに気がついた。
﹁あれ?
今このような取り残してきたエルもまだ森にいるに違いない。太
陽の下で遊んだことはありませんと言わんばかりの白い肌だった。
高貴な生まれならば、外でこんな時間まで過ごしたことはないだろ
う。
エルが不慣れな森で屋敷に帰れるはずがないのは一目瞭然だった。
同じように寒いと思っているのだろうか。きっとさみしいと立ち
止まって泣いているんだろう。
エルをそんな状況に追い込んだのは全部自分だ。
一度思いついてしまった最悪の想像はシェンリルの頭から離れな
い。自分のやってしまったことの重大さを感じ始めた。
今こうして、誰にも見つけてもらえないのも悪いことをした自分
に対する罰なのかもしれない。
もう二度と帰れないんじゃないかと思ったシェンリルの頬に涙が
流れた。
﹁ごめんなさい⋮⋮もうしないからぁ﹂
しゃくりあげながら、誰に向かってでもなくごめんなさいと口に
する。
398
自分の居場所を奪ったエルが嫌だ、エルばかりにかまうマティア
スも嫌だ。
エルに服を作るルクシェルも嫌だ。
でも、ずっと、みんなが楽しそうにしているのにそんな風にしか
考えられない自分が一番嫌だった。
何でもない風に振舞っていた反動で、心の中で渦巻いていた感情
が溢れ出す。
それと同時にシェンリルの座っているところから波面のように火
が地を這って周りに拡がった。近くの草や木に燃え移り、あたりは
すぐに昼間のように明るくなって、中心の少女を照らし出す。
無意識に魔法を使っていたことに気づき、シェンリルは慌てて止
あれ?﹂
めようとした。
﹁あれ?
シェンリルは何度も何度も腕をふった。しかし火は消えることは
誰か⋮⋮誰か助けてよ﹂
なく、むしろ一層勢いを増したように思えた。シェンリルの声に焦
りがにじむ。
﹁どうして消えないの!どうしよう!
必死なシェンリルの思いとは裏腹に火はどんどんと広がっていく。
﹁もう帰りたいよぉ⋮⋮﹂
何度もかすれて小さくなった声で嘆いたとき、爆ぜる火の合間か
ら枝を踏みしめる音が聞こえた。
何かが近くにいる。自分を狙いにきているのだ。疲れきった体に
鞭を打ち、腰を浮かせる。暗闇の中、恐怖で眼だけが左右に揺れた。
﹁ひっ⋮⋮﹂
399
足音は近づいてくる。すぐ近くまできたかと思うと、目の前の草
がガサガサと揺れた。
間に合わない。襲われるのを覚悟し、背中を向けてしゃがみ込み、
目をかたくつむってその瞬間を待った。
しかし、来ると思った痛みはやってこない。獣の唸り声なども聞
こえず、火が爆ぜる音だけが響いている。
何が起こっているのだろう。
シェンリルは恐る恐る目を開けて、後ろを振り向いた。
﹁やっと、見つけた﹂
見えたのは少しかがむようにして、こちらに手を差し伸べている
エルの姿だった。自分が最後に見かけた時と違う服装なのではない
かと錯覚するほど、ぼろぼろになって。
﹁え⋮⋮﹂
なんで、なんでとシェンリルはパニック状態になる。エルの顔を
じっと見るだけで、動くことができなかった。
怖い。そう思った途端、周りに拡がっていた火が中心に集まって
くる。二人の周りを取り囲み、エルの足元やコートの近くで踊る。
意思を持ったように暴走する炎はシェンリルすらも襲おうとしてい
た。
﹁帰ろう?﹂
今度は困ったような声色で、エルは言う。
エルの服は破れたり汚れたりしているだけではなく、所々焦げて
いた。火をくぐり抜けてここまでやってきたのだ。今もそんなエル
400
の服に炎の先端が触れている。
このままいけば、怪我をしてしまう。
シェンリルは火には慣れているつもりだ。家族はもちろん、メイ
ド、執事も日常的に火を使う。初めてだった、こんなに火が怖いと
思ったのは。
制御できない火は、二人を囲んで輪を狭めていく。
逃げなきゃいけないのは分かっているのに、シェンリルの体は恐怖
で動かなかった。涙で目の前のエルの姿が滲んでいく。
最初に動いたのはエルだった。
突然コートのポケットに手を突っ込み、そのまま何も言わずにシ
ェンリルに花を差し出した。
握られていたのはしんなりと首をもたげる花だった。
エルはその花を悲しそうな目をしてじっと見つめると、指を三本た
ててシェンリルの前に出した。
﹁三秒だけ、目をつぶって﹂
と数える。数えながら心臓の音
目を細め、落ち着いた声で話すエルのいう通りに、目を瞑る。
心の中でゆっくりと1、2、3
が落ち着いていくような気もした。
﹁なん⋮⋮で⋮⋮?﹂
﹁花、途中で全部落としちゃったんだ。ごめんね。代わりになるか
はわかんないけど﹂
溢れんばかりに花が盛られていた。あの時、シェンリルがエルに
渡した籠に。しかし、その花には色がついていなかった。
401
折れそうなほど細い茎に透明な花びらが何枚もついている。氷の
きらきらしてる⋮⋮﹂
花だ。キラキラと光を通し、シェンリルの前で輝いていた。
﹁すごい!
シェンリルはその美しさに目を奪われた。
﹁すぐ溶けちゃうと思うけれど、約束通り花は集められなかったか
らそのお詫びにあげる﹂
﹁いいの?﹂
シェンリルがエルの言葉に顔を輝かせると同時に、赤々と燃えてい
た炎も徐々に力を失って行った。
﹁帰ろう。マティアスもルクシェルさんも心配してるよ﹂
﹁はい⋮⋮。あの、その、ごめんなさい﹂
こっちこそ早く見つけてあげられなくてごめん
シェンリルは立ち上がり、恐る恐るエルに謝った。
﹁なんで謝るの?
ね﹂
ちっとも責めるような口調でないことにシェンリルは驚いた。シ
ェンリルは自分がエルのことを迷子にさせようと思っていたことが
ばれていないのではないかと期待した。もしそうならば⋮⋮と考え
たところで、横を歩くエルの顔を盗み見る。
前を向いていたエルだが、シェンリルの視線を感じたのか横を向
﹂
いたため、目があった。
﹁どうしたの?
消えゆく炎に照らされながら、こう言ったエルはゆっくりと口角
を上げた。
﹁ひっ⋮⋮!﹂
402
喉の奥で声を飲み込み、思わずシェンリルは後ずさる。
まだわずかにくすぶっていた炎に照らされたエルの顔を見てシェ
ンリルは悟った。
全部わかっていたんだ。すべて気づいていた上での行動だった。生
かすも殺すも、気分次第。自分は彼の手の上で転がされていただけ。
今回はたまたま許しただけなのだ。二度目はない。
シェンリルはすべてを一瞬で伝えるのに十分なほど恐ろしい、エ
ルの笑みを見たのだ。どんな人の顔でも、下から光を当てれば怖く
なる⋮⋮そんなことには大事件で頭がいっぱいだったシェンリルに
♢♢♢♢♢
は考えのつかないことだった。
﹁乗って?﹂
しゃがんで、こちらに背中を向けてくるエルに戸惑うシェンリル。
合流できたのはいいが、帰る道もわからない。そんな中、たどり
着いたのは森の中のおおきな湖だった。
﹁乗るんですか?﹂
そう、と頷くエルの背中に覆いかぶさる。ヨロヨロとエルが立ち
上がり、シェンリルをおんぶしたままおぼつかない足取りで歩き出
した。
﹁あのー、降りた方がよろしいのでは?﹂
﹁全然大丈夫だから。籠は持っててくれる?﹂
全然大丈夫という割には左右に体が揺れているし、歩みも遅い。
403
しかし、エルの中にシェンリルを降ろすという選択肢はないような
ので、代わりに籠を手をしっかりと握りしめた。先ほどとは打って
変わってあまりにも頼りない姿だ。
エルという存在はシェンリルにはまだつかめそうにない。
ヨタヨタとエルは進む。正直体は疲れきっているので、おぶって
もらうのはあり難い。
そちらに進んだら落ちます!
湖ですよ!﹂
しばらくして、シェンリルはエルの進む方向がおかしいことに気
がついた。
﹁エル様?
もう足元に湖が迫っている。必死に声をかけるが、エルの反応は
と覚悟したシェンリルだが、予想に反して体が投げ出
なかった。背負われているので、顔も見れない。
落ちる!
え?﹂
されることはなかった。
﹁え?
先ほどから自分ばかり泣いたり驚いたりしてるなと思いながらも、
驚きの声を隠せない。同世代の中でも、大人びているシェンリルは
そんなことを思うのは初めてだったが、湖の上を歩いているのを目
の当たりにしてびっくりしないはずはない。
﹁やっぱり、迷子になったときはさ⋮⋮﹂
エルの踏み出した足元から亀裂を入れながら湖が凍っていく。そ
れは信じられない光景だったが、エルは全然関係ないことを口走り
始めた。
やがて湖の中央に辿り着く。その頃には湖の氷はすべて凍ってい
た。エルは言葉を失っているシェンリルをとんと降ろす。
404
﹁その場から動かないのが鉄則だけど﹂
シェンリルはどういうつもりなのか分からず、じっとエルの話に
耳を傾ける。
エルが凍った水面を見たと思った瞬間だった。
﹁きゃああ!﹂
シェンリルの体は物凄い勢いで上に押し上げられて行く。水は中
心に集まって自分たちの立つ場所を上へ上へと持ち上げていたのだ。
遠かった空がどんどん近くなる。
﹁それじゃあ、気づいてもらえなさそうだしね。高いところから見
れば、マティアスたちも見つかっ⋮⋮たね?﹂
へたり込みながら下をみると、なるほど。確かに森じゅうに散ら
ばったいたらしい松明の光が、四方八方から列をなしてこちらへ向
かっているのが見えた。
いなくなった自分たちを探すためにこんなに数を集めたのだろう。
想像以上に大ごとになっていたのだ。
﹁これならすぐ気づいてもらえそうだね。良かった、良かった﹂
水が凍って、持ち上がって!﹂
嬉しそうに言うエルに、シェンリルはようやく聞きたいことを口
にすることができた。
﹁これは、何なのですか?
興奮するシェンリル。
﹁魔法だよ。便利だよね。今まで飲み物作るぐらいにしか使い道が
405
ないと思ってたんだ。でも、これからは人探しにもつかえそうだか
ら、迷子になっても安し⋮⋮﹂
魔法というものは始神がいらした時代から今まで
シェンリル!﹂
﹁なんですって!?﹂
﹁エル様!
﹁いいですか!
﹂
伝わる神聖な力なんですよ。それを飲み物冷やすために使うなどと
いうことは⋮⋮
マティアスをはじめとする捜索隊が湖に到着した時、魔法の使い
方を間違えているとシェンリルがエルに噛み付くように話して聞か
せている真っ最中であった。
﹁マティアスお兄様⋮⋮﹂
シェンリルもようやく口を閉じ、エルが助かったという顔で振り
返った。
仕事の途中に報告を受けて、どれだ
しかし、今度はマティアスが怒り始める番だった。
﹁すごく心配したんですよ!
一体何
け探し回ったことか。どこかに誘拐されたのかと思って、もう少し
きちんと説明してもらいますよ!﹂
で可能性のありそうな奴らを殺してまわるところでした!
があったんですか?
余裕のなさが窺える口調でマティアスはまくし立てた。
﹁お兄様⋮⋮あの、私が﹂
シェンリルはすべてを話そうと思った。話し終わった時には軽蔑
406
されるだろうとおもったけれど。
しかし、シェンリルの言葉はずいと前に出てきたエルによって遮
られる。エルはマティアスに向かい合って、話し始めた。
﹁マティアス、心配かけてごめん。僕がシェンリルちゃんを誘った
勝手に出て行ったのはすぐ帰ってこようと思って
んだよ。森に行きたいってさ。でも、途中に迷子になっちゃって、
日も暮れて⋮⋮
たからなんだ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
戸惑いの声あげさせまいとしているかのようにまたすぐにエルは
喋り始める。
﹁だから見つけてくれて本当に助かったんだ。シェンリルちゃんも
探してくれたみんなに一緒にお礼言おう﹂
後ろを振り向いて目線を送ってくるエルに気圧され、シェンリル
は曖昧に頷いた。
まだ話は終わっていませんよと言い残したマティアスが一瞬離れ
なぜ嘘をっ﹂
た隙に、シェンリルはエルに問いかけた。
﹁どういうことですか!
エルが嘘をつく必要はどこにもないのだ。お兄様に正直にいえば、
それで話は終わる。
感情を露わにしたシェンリルに、
エルはしぃっと人指し指を口に当てて小さな声で言った。
﹁いいから。こうした方が怒られないと思うんだ。だから、僕の言
う通りに今日のことは秘密にしておいて。お願い﹂
407
﹁意味がわか⋮⋮﹂
途中で、用事を終えたらしいマティアスがエルを呼んでいる声が
聞こえてきた。
エルはシェンリルのポケットに手を突っ込むとマティアスのもとへ
行ってしまった。
﹁ごめんなさい。でも、よく考えたら小さい頃一度も外で遊んだこ
となかったから、どうしても森に行ってみたかったんだ﹂
﹁うっ⋮⋮確かにそれはそうですけど⋮⋮確かに⋮⋮﹂
エルにそう言われてしまえば、マティアスは言い返すことができ
なかった。
その様子をぼんやりと見ていると、いつも面倒を見てくれている
メイドがやってきて、汚れたコートなどを交換してくれる。
﹁秘密にしてくれる代わりに、プレゼントがあるんだ。余り高くな
いものだから気に入らないかもしれないけど、良かったら使って。
その花は溶けちゃうからね﹂
シェンリルはエルが去り際に自分にだけ聞こえる声で言った言葉
を頭の中で反芻していた。
なので、マティアスに心配かけたのは悪いと思っているけど、早
くご飯食べたいんだよね。お腹空いたし。と言って去って行ったエ
ルの言葉も、心配しているメイドの言葉もすべて上の空で聞いてい
た。
暖かいマントの下に隠れそうになる籠にそっと目を落とす。ポケ
ットから取り出したピンクの花は暗闇の中で、キラキラと輝いてい
た。
408
5−8 職業体験学習︵1︶
夏が近づいている。生徒たちの服にも半袖が見られるようになっ
た。外で少し運動したら汗ばむようなそんな季節の移り変わりの時
期だ。
学園も新学期となり、休みの間にはなかった活気が戻っている。
エルたちのクラスでは、サリル先生がホームルームを行っていた。
﹁7かぁ⋮⋮少ないな⋮⋮﹂
というか、今何やってるの?﹂
エルの隣の席のレントが黒板を苦々しげに見つめて言った。
﹁何が?
黒板の文字に目を走らせながら、エルはレントに問う。外を見て
今度、学習見学や
いたら完全に乗り遅れてしまった。前にはサリル先生の丁寧な字で
様々な職業、その下には数字が書かれていた。
﹁見学だよ。お前ちゃんと授業聞いてんのか?
るって先生言ってたろ。今から行きたい場所の希望を取るんだって﹂
﹁あー、確かに言ってたかも。もしか知って7って、あそこの騎士
団のこと?﹂
騎士団7
と書いて
将来のために気になる職場を見学をさせてくれるらしい。昔やっ
た気がするなぁと思いながら前を見てると、
あるのを見つけた。
﹁そうだよ、もちろん﹂
いつも
409
﹁ふーん。騎士団から⋮⋮﹂
騎士団の他にも、王宮薬師、魔法研究者などどれも地球ではお目
にかかれなかった職業が並んでいた。
色々なものがあるが、文官など王宮で働く仕事が多く用意されて
いる気がした。どんな仕事があるのか調べようというより本格的に
将来を見据えて行われているということだろう。
昔俺が見学したのは江戸からかみの職人さんの所だった。
サリル先生が希望が定員以上集まった場合はくじ引きで決めると
説明している。どうやら今すぐ決めるつもりのようだ。どれにしよ
うか考えているうちに、サリル先生は希望を取り始めてしまった。
﹁では、騎士団に行きたい人は手をあげて﹂
﹁はい!﹂﹁はーい!﹂﹁はい!﹂
﹁うわっ!?﹂
突然、一斉にクラスのあちこちから声が上がった。声だけじゃな
早く手上げないと﹂
く、たくさんの手があげられている。
﹁エルももちろん騎士団だろ?
﹁え?﹂
一体何事かと戸惑っているとレントに右手を掴まれ、半ば無理矢
理挙手することになってしまった。周りを見渡すと、男子全員が騎
士団を見学したいと思っているようだった。騎士団というのは相当
な人気職業らしい。
サリル先生は数を確認し、教壇で何か書きつけている。
﹁わかりました。騎士団に行きたい子は多いですね。今手を上げた
子はくじを引きに前にきてください。紙に丸が書いてあったら当た
りですよ﹂
先生の声を合図にわーっと生徒が立ち上がり、次々と小さな紙を
410
とって行く。
俺とレントも残り少なくなった紙片をそれぞれ手に取った。
﹁あ、当たった﹂
やったー!﹂
小さく折りたたまれたくじを開くと、丸がついている。
﹁俺も、俺も当たってる!
隣のレントのくじを覗き込むと、自分と同じ丸が書いてあった。
嬉しいことに二人とも当たりらしい。レントは飛び跳ねて、体全体
で喜びを表現していた。ハズレだと残念がって席に戻る生徒の流れ
に逆らって、サリル先生に報告にいく。
﹁はい。エルくん、レントくんは当たりですか﹂
先生が黒板に名前を書き、七つの名前が並んだ。当たった子も外
れた子もみんな席に戻ったものの、教室はまだ騒がしい。
﹁そういえばさ、なんで騎士団って人気なの?﹂
さっきからずっと気になっていたことをレントに聞いた。他にも
軍関係というか戦いそうな仕事があった。それなのに騎士団だけが
国中から集められた王族、王宮を守る精鋭部隊。
ダントツで人気なのが不思議だった。
﹁騎士団だぜ!
特に王族付きの騎士とかめちゃくちゃ強いって聞くし。人気に決ま
ってるだろ。それの本部に入れるんだもんなぁ。普通は王宮内の本
部なんて見せてもらえないもん!﹂
﹁王族つきの騎士か⋮⋮﹂
﹁そうだよ。つまりエリートの集まりなんだ。あーあ早く行きたい
な、王宮﹂
411
﹁ん?
おうきゅう?﹂
レントの言葉に気になるフレーズが入っているように感じ、首を
捻った。
王宮!﹂
﹁王宮。ここ王都だし﹂
﹁おおお、王宮?
レントが平然と話すものだから、あやうく聞き流すところだった。
仰け反って驚く。王宮は不味い。
同時に忌まわしい記憶がよみがえる。忘れようとしてた事件。も
しかしたら、あの男は騎士団員ではなかったのか。王宮で剣を腰に
さし、隊長と呼ばれていたアノ男。
そこまで考えて、俺は嫌な思い出を振り払うように首を振った。
こんなとこで思い出しても何もいいことはない。
あいつはもういないのだ。あの事件は男の勝手な思い込みで行わ
れたことだった。
ただ、俺にはもう一つ心配なことがあった。
前にマティアスと、俺が軟禁されていたことに対して少しだけ話
し合ったことがあった。
自分が魔法を使えることが王様に知られてしまったら、どうなる
かと聞いてみたのだ。人質としての価値がないから見逃してもらえ
たはずなのでそう口に出してみたのだった。
﹁確実に連れ戻されるでしょう。少なくとも国中が大騒ぎになるこ
とは間違いありません﹂とマティアスは厳しい顔をして言った。
仮にも敵国の王子だったものが生きているには問題になるらしい。
マティアスの何か含んだ物言いに、次は軟禁ではなく殺されると思
いますと言いたいのだろうなと感じた。そしてマティアスのその表
情を見てから俺は自分が生まれた国がどんな国だったのか、どんな
412
両親だったのか聞けていない。
﹁サリル先生!﹂
俺は決めた。不思議そうな顔をしているレントを横目に手を上げ
る。
女子の人気職業の王宮仕えの職があっさりと決まったところだっ
た。元々の女子の数が少ないため希望人数に収まったのだ。
代わりに⋮⋮、飲食店⋮⋮
あ、
空気の読めない俺の発言にクラスメートの視線も一気に集まる。
﹁騎士団やめてもいいですか?
居酒屋にしたいんですけど﹂
わざわざ王宮に言って、自分の身を危険にさらすことはない。慌
てて、黒板の端にひっそりと書かれていた職業の名前を出す。喫茶
店に一番近いものを探したのだが、それはなかった。居酒屋は人気
がないらしく、人数制限すら書いてなかった。
﹁いいですよ。本当に騎士団をやめてしまっていいんですか?﹂
﹁はい。むしろよろしくお願いします﹂
名前が消され、居酒屋の下にただ一人エルと書かれているのを見
て、一安心をする。
﹁やったー!﹂﹁エル、すげー!﹂﹁なんて偉いやつなんだ!﹂
どうやら俺が抜けて一枠空いたことで、外れだった男子たちに再
び希望を与えることも出来たらしい。四方八方から感謝の言葉をも
らった。すごい盛り上がりようだ。
良かった、良かった。
断った理由が自分勝手なものだし、みんなに喜んでもらえたんな
413
ら良かったと思いながら、緊張してた身体の力を抜いて背もたれに
もたれ掛かる。
俺は入
騎士に興
﹁勿体ねぇー。居酒屋ってあの街にある小さいやつだぜ?
ったことないけどさ、なんであんなとこにしたんだよ?
味ないなら文官にすればいいのに﹂
﹁まぁ、居酒屋って行ったことないし。いいかなって﹂
﹁あそこ怪しいやつ入ってるの見たことないし、絶対変えた方がい
いって!﹂
大丈夫だってと口を尖らせて文句を言うレントに弁解した。
⋮⋮それでも結構楽しみにしてたんだ。例え、俺と先生だけで居
酒屋に行くことになってたとしても。評判の良くない居酒屋でも。
それなのに⋮⋮。
﹁ごめんね、エルくん。今日放課後に行く予定だった校外学習の件
なんだけど、オーナーのところのエリザベスちゃんがいなくなって
しまったらしくて、中止にして欲しいと連絡が入ったんだ﹂
﹁そう⋮⋮ですか。それなら仕方ないですね﹂
落ち込んで俺の声を聞いて先生は申し訳なさそうな顔をしてくれ
るが、ここでどうこう言っても仕方ない。
エリザベスちゃん、名前から言うときっと娘さんだろう。行方不
明なら彼女の捜索の方がはるかに大事だ。
でも、メモの準備もしてきたのになぁと少し残念な気持ちになっ
てしまうのは仕方ないと思う。
414
俺はうつむいて、手に持っていたメモを鞄にしまった。
﹁そうだ!明日の校外学習では騎士団の方々のところにお邪魔する
予定なんだ。今日は残念だったけど、明日一緒に行こう。エルくん
は元々行くはずだったんだし、文句もでないよ。それがいい﹂
落ち込んでいた俺を励まそうとしてくれているのか、いつもより
明るい調子でサリル先生は提案してくれた。
﹁えっと、僕が行くと、オーバーしちゃうんじゃ﹂
不味い。なぜか、話が元に戻っている気がする。
﹁付き添うが僕だけだから、全員を連れて行くのは大変だという話
になってね、制限をつけていたんだ。でも君はしっかりしているし、
問題を起こすどころか、むしろ止めてくれそうだ。校長もエルくん
の成績と普段の行いを高く評価してくださっているから、許可はす
ぐ出る﹂
﹁ありがとうございます﹂
人数制限は絶対ものではなかったようだ。これを盾に申し出を有
難く断らせていただく作戦は完全に失敗した。
﹁みんなのためを思って、譲ってくれたのは分かってるよ。君は周
りのことを考えられる子だ。それもいいことだが、たまにはわがま
まも言っていいんだよ。とりあえず、明日は楽しんでほしい。では、
また放課後に﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
先生は大きな勘違いをしていらっしゃいますと本当のことを伝え
るわけにもいかず、後ろ姿を見送る。
415
こうして、俺の王宮行きは決まった。あの時の恐ろしい記憶が蘇
りそうになる。
その日の夜。屋敷に帰り、俺の部屋で仕事中のマティアスに明日
の予定を話した。
﹁だから、明日は騎士団本部を見学させてもらうことになったよ。
帰りは遅くなると思う﹂
﹁それはよろしいですね。あの店に⋮⋮というエル様のお気持ちは
分かりますが⋮⋮まだよろしいでしょう﹂
マティアスは思ったより騎士団に行くことに賛成のようだった。こ
の前居酒屋での校外学習が決まったと報告したときとは全く違う反
応だった。居酒屋自体に抵抗があるのかと思ったが、居酒屋という
より具体的な場所を述べるととたんに様子が変わっていた。理由は
聞かなかったが、きっとレントと同じ理由であろう。
﹁ああ、でも、王宮で気づかれたらどうしよう。今からでも断った
方がいいかな﹂
﹁それはないと思いますよ。王宮と言っても、騎士団はエル様が以
前いらっしゃった場所とは全く違うところにあります。あの男もも
ちろんいません﹂
即座に否定され、俺の気持ちはかたまり始める。
サラサラと細かな字をびっしり書き込んでいくマティアスの前で、
内容がスカスカの宿題をやるのはなんだか気まずい。いわゆる小学
校のお勉強なので仕方ないのだが、大変そうだし、こちらが終わっ
たら手伝ってあげようと思いながら問題を片付けていく。
416
﹁そうなんだ。マティアス詳しいね﹂
﹁ええ。働いてましたし、小さい頃から出入りさせられましたので、
王宮はほとんど把握しているつもりです。レオと無意味に歩き回っ
ていましたから﹂
マティアスほどの貴族になると、子供でも王宮に出入りするのか
と関心する。
﹁顔も知られておりませんし、知り合いの方に出会ってしまうとい
うこともありませんから﹂
そう言われると、王宮で働くようなエリートの友達や顔見知りな
んていない。騎士団には王様のような偉い人住む場所とは完全に区
切られていると聞いて、心が軽くなる。
﹁そうか。騎士団ってかっこいいんだろうな。レントも憧れている
ようだったし。すごく楽しみだ﹂
レントに一緒に行けるようになったことを伝えたら、きっと喜ん
でくれるだろう。遠足の前のような、ワクワクした気分だった。
だから、気づかなかった。俺が﹁かっこいい﹂と発言したときに、
♢♢♢♢♢
目の前で淀みなく動いていたはずのペンの動きが止まったことに。
﹁大きい⋮⋮!﹂
本当に昔、ここにいたことがあるのかと思ってしまうくらい威圧
感のある門の前にやってきた。唖然として門を見上げる。
﹁荷物を出してください﹂
417
歩行者用の出入り口で制服を着た男の人に言われた。指示通りに
荷物の蓋を開けて預ける。
そのまま奥で武器を持っていないかチェックされる。次に名前を
言わされて事前に提出されていた名簿と間違いないことを確認され
てようやく中に入ることができた。
飛び入りの俺は大丈夫か心配だったが、問題なく入ることができた。
厳重な警備を目の前にして自然と緊張した雰囲気になる。王宮に
くるまではとても盛り上がっていたのに、途中まで案内してくれる
という人について歩いている間の口数は少ない。
俺は目深に帽子をかぶり直した。不安から周りをキョロキョロと
見渡すと、近くに巨大な建物が立っていた。でも説明によるとこれ
は王族が住む住居でも、執務が行われるところでもないらしい。子
供たちがその大きさに驚いているのを見て、説明の人はこんなの小
さい方ですと言う。中にはもっと大きいものがあるのか。
こんな広い場所だから働き手も多いのだ。敷地内に沢山の人が蠢
いているのを見て、昨日マティアスの言っていたことを実感する。
﹁学園の方々ですか?﹂
横を見ながら歩いていたので突然前から声がして驚いた。
﹁はい、そうです。よろしくお願いします﹂
﹁よろしくおねがいします!﹂
サリル先生に続いて、騎士団に所属しているという男の人に口を
揃えて挨拶する。
﹁今日、君たちを案内することになったケイライというものだ。こ
こは広いので、迷子になりやすい。勝手に出歩くことはないように
して欲しい。一日、よろしく頼む﹂
418
自分くらいの子供がいてもおかしくない年齢に見える、中年のお
じさんだった。おじさんと言っても、前線で働いています!といっ
たオーラが出ている。かっこよく歳をとるというのはこういうこと
を言うのだろうか。
﹁ケイライさんってすごい強いんだって﹂
レントがこちらを向いたかと思うと、小さな声で教えてくれた。
﹁知ってるの?﹂
﹁父さんが昔言ってた。それに前に酔っ払った父さんを迎えに行っ
たとき、会ったことあるんだ﹂
入ってたけど、今はいない。地方で働いてる
﹁ってことは、レントのお父さんは騎士団に入ってるの?﹂
﹁話してなかった?
んだ。あの事件のせいで⋮⋮﹂
あの事件?何を言っているのか分からなくて聞き返したが、レント
♢♢♢♢♢
は黙り込んでしまった。無理に聞き出そうとも思えなくて、話は途
切れてしまった。
﹁ここが騎士団本部の建物だ。此方には騎士はほとんど立ち寄らな
いがな﹂
がらんとした建物の中にケイライさんの声が響いた。
幾つかの部屋を覗かしてもらい、どんどん奥に進んで行く。
そして、最後に通されたのは倉庫の中だった。
﹁剣だ!めちゃくちゃ一杯ある﹂
419
先に入ったレントに続くと、薄暗い室内にく光る剣が壁にずらり
と並べられていた。
一つ一つ丁寧に剣が置かれている場所を通り過ぎ、割と無造作に
突っ込んであるところの前に集まった。
これは全部訓練などに使う剣だという。確かにあまり綺麗な見た
目ではなかった。ケイライさんが片手で一つ引き抜きながら教えて
くれる。
﹁持ってみるかい?﹂
ケイライさんがそう言って、一番近くにいたレントに剣を手渡し
た。
体に対して少し大きい剣を持って、レントが嬉しそうにこっちを
見てくる。
﹁レントくん、流石に力持ちだな。お父さんゆずりかな?﹂
レントは毎日トレーニングしてますと自慢げに答えた。
持ってみる?と次は俺に回してくれようとするので、受け取ろう
と手をのばした。レントの手が離れた途端、ずしりと腕に予想以上
の重みがかかった。
﹁うっ⋮⋮﹂
重い。重すぎる。渡されてすぐ剣は手からこぼれ落ちた。耳を刺
すような大きな音が倉庫じゅうに響き、床に鈍く光る剣がころがっ
た。
﹁無理⋮⋮!﹂
﹁なーにやってるんだよ﹂
ビリビリとする両手を見ていると、床の剣をレントが拾ってくれ
た。
420
今度は抱きかかえるように受け取る。
抱いて持つのが精一杯で、とてもじゃないがレントのようにいか
ない。レントは両手でこれを振れそうなほどの余裕を見せていたは
ずだ。
俺はすぐに次の子に剣を渡した。
﹁エルくん、と言ったかな?﹂
﹁はい﹂
結局、一番剣を持ってつらそうな顔をしたのは俺だった。レント
はかなり優秀な方らしいが、全員に回っても俺より非力な奴はいな
かった。
﹁ここにきたということは騎士団に興味が?﹂
無駄のない動きでずいっと近くに寄ってこられたので、思わず後
ろに下がってしまった。真剣な目で見られているのがわかって怖い。
﹁興味というか⋮⋮こうやって剣で戦うにのはすごくかっこいいな
と憧れているんですけど⋮⋮﹂
﹁ふむ﹂
俺の話を聞いたケイライさんは難しそうな顔で頷くと、突然俺の
腕を掴んだ。
﹁え⋮⋮?﹂
身をよじって逃げ出そうとするが、腕をしっかりと掴まれていて
逃げられない。暫く握られた後、また急に解放された。
何が起こったのかもわからないが、ケイライさんの握力の強さだ
けは身を持って実感できたと思う。まだ握られているのではないか
と錯覚してしまうほど感覚が残っている腕を摩りながらケイライさ
んを見上げた。
421
﹁君は⋮⋮騎士には向いていないね﹂
途中いい淀みながら、ケイライさんはしっかりと俺を向いて言っ
た。
﹁体が騎士をできるようなものではない。これから成長するだろう
が、俺の経験上このタイプは大きくなっても⋮⋮﹂
﹁えっと⋮⋮つまり、どういうことなんでしょうか?﹂
さっき俺の腕を掴んだりしたのは、どうも体の特徴を知るためだ
ったらしい。ケイライさんは俺にもよくわからない話を早口で始め
てしまった。
﹁はっきり言おう。君は剣術には向かない体格だ。魔法が得意なら、
文官を目指すことを強く勧める。頑張れ、少年!﹂
魔術を極めることに全力を注いだ方がいい。もし苦手なら、そうだ
な⋮⋮
頑張れと言いながら肩をこれまた強く叩かれた。手を置かれた衝
撃でよろめいたのは言うまでもない。それがまたケイライさんの言
うことを証拠づけているようだった。
﹁さて、最後は訓練場だな。今日はラッキーだぞ。なんていっても、
あの⋮⋮﹂
頭いいし﹂
動揺している生徒を置いて、ケイライさんは歩いて行ってしまう。
﹁⋮⋮どんまい﹂
﹁頑張れ!﹂
﹁お前ならできる!
嘘だろと嘆く俺にも投げかけられたのは友人の優しいのか無責任
なのかよくわからない声。みんな俺にウインクをして、次々にケイ
ライさんを追いかけていく。
最後に残ったのはレントだった。俺の前に立って、何と声をかけ
422
たらいいのかと言葉を探している。直前に自分がほめられていたか
ら一層困っているんだろう。
﹁ケイライさんって剣術の素質を見抜くのがすごい上手らしい。と
いうことはエルは剣術は本当に向いてないんだと思う。でも、今日
ケイライさんを一番びっくりさせられたのはエルだよ!ケイライさ
んっていつも冷静なので有名なんだって。だからある意味すごいっ
て!﹂
﹁⋮⋮。はぁ、レントが一番慰めになってない!﹂
全然慰めになっていないレントの言葉を聞いて、思わず笑ってしま
う。
﹁おいていかれちゃうから、もう行こう﹂
びっくりしたと同時にどこか納得してしまう自分がいた。背は小
さいし、素人目から見ても俺は強そうには見えない。薄々気づいて
いた。どうやらそれは変わることはないようだ。これで栄養が足り
ないのではないかと心配したマティアスに、牛乳を飲まされずに済
むだろう。
歩きながら考える。
やっぱり、諦めて喫茶店のマスターになろう。ケイライさんの言
ったとおり、魔法も生かせるし。それがいい。
423
5−9 職業体験学習︵2︶
それはケイライさんの後について王宮を歩いていたとき、突然目
の前に現れた。
初めは霧か煙でも立ち込めているのだと思ったが、近づくにつれ
半透明の白っぽい膜のようなものが立ちはだかっていることが分か
った。
﹁なんだ、あれ?﹂
前を歩くみんなは気づいていないのだろうか。それとも見えてい
るが気にする必要のないものなのか。
他の人は立ち止まることはなく、膜が目の前に迫っても歩き続け
ている。一瞬人型に膜に穴が空いたかと思うと、次の瞬間には元通
りになってしまう。何事もなかったかのように膜がふわんふわんと
揺れているのだ。
不思議な光景だった。
得体のしれないものを通り過ぎて向こうに行く勇気が出ず、俺は
足を止めてしまった。
どうしよう。列の後ろをいたことを利用して迷いながらも謎の物
体を人差し指でつついてみる。指先にかすかな弾力を感じて、膜は
浅く窪んだ。シャボン玉のように薄い。爪を立てて引っかけば簡単
に破れてしまいそうだった。
一人でそんなことをしているうちに、先にいったみんなは自分が
ついてきていないことに気づかずに向こう側の角を曲がってしまっ
424
た。もう誰の姿も見えない。ケイライさんの話だと、訓練場は曲が
って真っ直ぐ行ったところにあるらしいので、迷子になることはな
いだろうが、どうしたらいいだろう。
早く行かないと分かっていてもここを通りたくない。
何処かに膜が途切れるところがあるかもしれないと期待して、俺
は膜沿いに歩いてみることにした。
王宮の中にたくさんの人がいるはずだが、都合のいいことにエル
の進む場所には人の気配は全くしなかった。
通路を完全に無視して、足を進める。膜を追いかけているうちに
通っていいのかわからない植え込みも無理に掻き分けて通ることに
なってしまった。かなりの距離を歩いたように感じたが、どこまで
も膜は続いているようで、いつまでも終わりが見えない。
﹁本当に何なんだよ、これ。なんか気持ち悪い﹂
どこに続くかもわからない道の真ん中に立ち尽くして、エルは嘆
いた。
﹁どうしたのかな?﹂
しばらく悩んでいると、後ろから声がして、うなだれていた顔を
上げた。
振り向くと、見知らぬおじいさんが近くにニコニコと笑ってこち
らを見て、立っている。
怪しい人ではないように見えたので王宮で働いているおじいさん
なのだろうと判断し、適当に言い訳をつけて逃げようとした。あま
り王宮関係者と言葉を交わすのはよくないと、思い出したのだ。
﹁いえ、何でもないんです。道の真ん中に立っていて通行の邪魔で
425
したよね?
ごめんなさい﹂
この人が歩いてくるのは見えなかったわけだから、向こう行く途
中だったんだろう。
おじいさんに道を譲ろうと思って体をずらした。
﹁はて⋮⋮﹂
俺が脇に退いておじいさんを妨げるものは何もないはずなのに、
目の前にご老人は一向に歩き始める様子を見せずにぼんやりと立っ
たままである。
﹁あの。どうかしましたか?﹂
具合でも悪いのかと思い、先ほどおじいさんに言われたことと殆
ど変わらない言葉を口にする。
﹁君は﹂
良かったら教えて欲
俺の質問に答えることもこちらをちらりとも見ることもせず、お
じいさんは話し始めた。
﹁君はなぜここに立ち止まっていたのかな?
しいのだがね﹂
﹁いえ⋮⋮暇だったので、立っていただけです﹂
まだそこにこだわっていたのか。どうしてスルーしてくれないん
だろうと考えながら、同じことを繰り返す。
﹁そうかい、そうかい。何か見ているようだったから気になったの
さ。気のせいだったかな?﹂
﹁はぁ﹂
もしかしておじいさんにもこれが見えているのではないかと思った
が、どうやら違うらしい。変な人だと思われたくないので、曖昧な
悲しいことにね、この歳になるともう殆ど目が見えなくなって
返事をした。
﹁
426
きてね、君の顔もよくわからない。だから心配事があるのなら言っ
ておきなさい﹂
おじいさんは嗄れた声でゆっくりと話し終えると、ニコニコと笑
みを浮かべて俺のことをじっと見ている。
みたところ、確かに結構な高齢のようだし、体の調子も芳しくな
いのかもしれない。こちらを見つけていると言っても、こっちの方
をぼんやりと見ていると言ってもおかしくないような気がした。
この人になら言ってもいいかもしれない。俺よりものを知ってい
そうだし、一瞬会った人のことをいちいち覚えているとも思えない。
﹁さっきからここに白い膜が見えるんです。これがなんだか聞こう
にも一緒にいたみんなは通り抜けて先に行ってしまって⋮⋮。どう
しようか考えていたんです﹂
﹁そうか、そうか。白い膜がねぇ⋮⋮﹂
おじいさんは俺の話を顔色一つ変えることなく聞いてくれた。ブ
ツブツとつぶやいたのはおじいさんの独り言なのか判断できずに、
言葉を探す。
こんな得体の知れないものがあったら
﹁それが怖いなんて君は臆病なのかな?﹂
﹁そんなことないですっ!
戸惑うのが普通でしょう﹂
語気を荒げて否定するが、おじいさんは目を糸のように細めたま
ま何も言わない。
しばらく睨み合った後、なぜ初対面の人にこんなことを言われな
きゃいけないのだと気がついて、なんとも言えぬ不快感が胸に沈殿
し始めた。
﹁ああ、もう!いい加減にしてください。行きますよ。行けばいい
427
んでしょう!こんなの何ともありませんから﹂
意地を張って、何も言わないおじいさんに宣言した。
それにさっさと行かないと、俺がいなくなったと騒ぎになる。俺
ならしっかりしているから大丈夫と言ってくれたサリル先生の期待
を裏切ってしまうのも嫌だった。
言葉を吐き捨てて、膜の前に立つ。今度は立ち止まることなく、
一歩を踏み出した。
前から後ろにゆっくりと柔らかいものが撫でていくような感覚を
感じながら中に入る。周りの景色も変わらないし体が痛くなること
もない。
目を瞑っていればきっと何とも思わなかっただろう。
﹁ほら、おじい│││﹂
見てましたか、と少し得意げな顔でおじいさんに言おうとした。
﹁若い時は無茶をしすぎるぐらいでいい。では、銀髪の少年。今日
は君と話せてよかった。また会おう﹂
えっと後ろを振り返る。
しかし、確かに後ろで俺を見ていたはずのおじいさんの姿は何処
にも無かった。
﹁なんで⋮⋮?﹂
そんな遠くにいけるはずもない。足音もしなかった。
狐に包まれたような気持ちになりながら、首を傾げる。それから
♢♢♢♢♢
どれだけ探しておじいさんは見つからなかった。
428
結局ケイライさん一行は訓練場の手前の部屋で他の説明やらして
急に居なくなるからびっくり
いたようで、何食わぬ顔で紛れようとした俺にレントが小声で話し
どこ行ってたんだよ!?
かけてきた。
﹁おい!
したぜ﹂
﹁ごめん、ごめん。ちょっと変なおじいさんに捕まってた﹂
軽く謝る俺にレントは意味がわからないといった顔をする。仕方
が無い。本人もイマイチ理解できていないのだから、これ以上説明
まぁ、俺以外誰も気づいてなかったから良かったけどさ﹂
のしようもなかった。
﹁は?
﹁やっぱり気づかれてなかったんだ⋮⋮﹂
﹁ばれなくてラッキーだったじゃん。見つかったら面倒くさいこと
になってたし﹂
存在感が薄いというのは喜ぶべきところのだろうか。とても複雑
な気分だった。
訓練場が近づくにつれ、たくさんの人のかけ声が聞こえてくる。
幾つもの色の声が混じり、さらに音が反射しているため何を叫ん
でいるのかは理解できない。それでも伝わってくる熱気に、お目当
のものが見れるとばかりに生徒たちが目を輝かせる。
なんで!﹂
﹁本当に君たちは運がいいよ。何たって今日は⋮⋮﹂
﹁嘘だろ!
建物を抜け出ると、ばっと前が開けた。ケイライさんの声を遮っ
て、悲鳴のようにレントが叫んだ。
﹁うそ⋮⋮﹂
429
なんだ?
顔をあげ、中央で動いている人物に目を奪われる。閉じた喉から
思わず、くぐもった声が漏れた。
﹁マティアス様だ!﹂
﹁マママ⋮⋮マティアスが⋮⋮﹂
俺の小さい声はレントの大声の掻き消されて、ケイライさんの耳
には届かなかった。きっと声も出せないほど驚いたと思っているだ
ろう。まぁ、ある意味合っているのだが。
目を見開いている子供たちを見ながら、ケイライさんは低い声で
笑った。
﹁そうだ。ウエストヴェルン家のマティアス殿が剣術の稽古をつけ
てくれるとおしゃってくれたんだ﹂
﹁そんな話、聞いてない⋮⋮!﹂
信じられなくて、よく目を凝らす。
しかし、少し離れていても鮮やかな紅の髪の男は紛れもなく、毎
日顔を合わせているマティアスだった。
今日の見学はご迷惑だったでしょうかと言うサリル先生にケイラ
イは首を振った。サリル先生の困惑した様子からすると、先生も生
徒同様マティアスが来ていることを知らされていなかったことがわ
かる。
﹁気にしないでください。急に決まったことですから仕方ありませ
ん。私も昨日聞かされて耳を疑いましたよ﹂
生徒たちには嬉しいサプライズでしたと返事をするサリル先生の
近くで、俺はまだ混乱していた。
430
﹁マティアス様が本邸の方で療養されているとは聞いていたました
が、まさか王都に戻ってこられているとは思わなかったです。こち
らで体調を考慮させていただいて、新兵の相手からやってもらって
いたが、流石に⋮⋮相手になりませんか﹂
ケイライさんが訓練場を見渡して言葉を詰まらせた。
訓練場ではマティアスは剣の練習稽古を行っている最中だった。
剣を抜いて向かい合っている。
距離があるため聞き取ることはできないが、若い兵士に何か言っ
たかと思うと、直後高い金属音が鳴り響いた。それからは急に時間
が飛んだようだった。訓練場に砂が舞い上がった。
次の瞬間には兵士は弾き飛ばされて尻餅をつき、マティアスは顔色
一つ変えずに剣を下ろしているところだったのだ。
﹁すっげぇ!﹂
隣でレントがごくりと唾を飲み込む。
砂埃がおさまった頃、吹き飛ばされて某然としていた兵士が慌て
て立ち上がった。マティアスに頭を下げて、周りで見守っていた同
僚のもとへ戻って行く。交代をするようだ。
﹁君たち二人はマティアス様に特に驚いていたね。直接お話するこ
とはできないが、剣をふるっておられるところを見られるのも幸運
だ。よく見ておいた方がいい﹂
﹁はい!勿論です!﹂
じゃない。一体どういうことなんだ。訓練場を一
ケイライさんにレントが元気よく返事を返した。
全く⋮⋮はい!
生懸命見ているふりをしながら、状況を整理する。
話によるとマティアスは臨時で騎士団にきているだけということ
らしい。一瞬、実は騎士団に入っていたのかと思ってしまった。学
431
園の時間はマティアスの行動を知らないものの、休みの日は家にい
るのだから、そんなはずはないのだが。
そこまではいい。
ではなぜ、今日、この時間に、ここにいるのか。
マティアスも同じ予定があるなら、先に言ってくれれば良かった
のに。そうも思ったが、話がおかしい。俺が昨日話した時点ではそ
んな様子は見せてなかった。マティアスは嘘をつくようには思えな
い。
もし昨日ケイライさんが話を聞くことになったのが、昨日急
に決まったためだとしたら?
﹁嫌な予感がする﹂
﹁なんか言った?﹂
まさか⋮⋮と思い当たった考えに顔を顰めると、レントが自分を
見て不思議そうにしていた。
それとも貶しているのか!
騎士団に来てから、エルいつにも増して、変な気がす
﹁いや、何も言ってない﹂
﹁そうか?
るんだけど⋮⋮﹂
それは心配してくれているのか?
とレントに文句を言って、笑い合った。
笑いが収まると、再びマティアスに目を戻す。すでに先ほどから
数えて三人目の対戦相手が戻って行くところだった。しばらく二人
で戦ったあとにマティアスが助言をし、倒すという繰り返しだ。
はじめから必死な騎士団の人になら対して、マティアスが余裕た
っぷりなのは傍目からでもわかった。
432
﹁絶対そうだ⋮⋮!﹂
マティアスを見ているうちに予感が確信へ変わる。
俺たちがここに着いてからというもの、マティアスは何度も生徒
がいる方を見てくる。気のせいかとも思ったが、レントと話したあ
とに確実に目があった。
絶対こっちを見ている。
そうと意識すれば、マティアスの不自然な視線ばかりが気になっ
てしまう。
ケイライさんの話からすると、マティアスは本当に強いらしい。
家で毎日見ている時とは違う印象を聞くことで、実はすごい人なの
かもと思ってしまう。
それならば、尚更子供を何度もチラ見するなど、大貴族の御曹司
がする行動ではない。
きっと、マティアスは俺が心配だったんだ。
彼の心配性は身に沁みてわかっていた。俺が何かするたびに物凄
く心配してくれる。精神年齢はともかく、もう高学年になったのだ
から大丈夫と言っても、マティアスには通用しなかった。
騎士団に行くと分かってから、俺が変なことをしないか見守ろう
と連絡を取ったんだろう。
﹁はぁ⋮⋮﹂
王都を守る騎士団本部なのだから安全だと思う。むしろ、マティ
アスと知り合いだということが知られてしまった場合の方が厄介な
ことになる。
433
とりあえず、今はマティアスが戦いに集中をしてくれるのを祈る
しかなかった。
﹁マティアス様、気のせいかもしれないけどこちらを見ていらっし
ゃるような⋮⋮﹂
あり得ない!
本当にあり得ない!﹂
息をもひそめるように、真剣に見ていたレントが首を傾げて言っ
た。
﹁え、絶対気のせいだよ!
﹁そう、だよな?﹂
つい声が大きくなってしまったのか、レントが呆気に取られた顔
で見ていた。咳払いをして、素知らぬふりをする。
ああ、本当に心臓に悪い。
あんなに心配性でマティアスは大丈夫だろうか。
ここで親がいない俺にはとっては、とても有難い存在な訳だが、
心配の度合いは世の中のお母さんお父さんのレベルを遥かに凌駕し
ている。
それなのに、何とかの騎士と呼ばれているなんて信じられない。
顔はかっこいいは、二つ名はもっとクールな人につけるのがいいと
思う。
﹁ずっと見ていたい気持ちもわかるが、騎士に話をききたいという
のはもう始めても?﹂
﹁はい、騎士の方に直接生徒たちから質問をさせていただきたいの
です。もちろんケイライさんが宜しければ、このまま⋮⋮﹂
434
大人二人が会話をしている。小学生程度の子供の校外学習だ。あ
まり遅くになっても困るのだろう。騎士団に着いてから時間は結構
経っているように思えた。
ちょっとこっちへ来い!﹂
﹁せっかくの機会だか、他の騎士を呼んだ方がいいかな⋮⋮ああ、
お前ら!
顎に手を当て悩んでいたケイライさんは、騎士の制服を来た人達
が歩いているのに気づくと、急に大声を上げた。
﹁はーい﹂
この子等もしかして⋮⋮ケイライ副団長
ガヤガヤと体格のいい男の人たちがケイライさんの呼ばれてやっ
て来た。
﹁何でしょう。はっ!?
の隠し子⋮⋮!﹂
その内の一人が口を手を覆って大げさに驚いた振りをする。
﹁はっ!?じゃないだろう。ふざけるな。見学に来ると前に伝えた
初等部の生徒さんに決まっている﹂
﹁そうですよね。すいません、副団長﹂
他の一人がふざけた男の頭を押さえて、ケイライさんに向かって
下げさせた。
ケイライさんは副団長だったのか。それよりも、思っていたより
軽いノリを目の前にして戸惑った。いわゆる軍隊なわけだから、も
っと厳しいのを想像していたのだ。
新しくやってきた騎士さんは全部で五人。他のメンバーも何時も
のことであるかような呆れた表情だった。
435
どうもこんなふあけたことを言うのはこの人だけらしい。
﹁もう話を戻すぞ。お前たち、どうせ暫く暇なのだろう。ここに残
って質問に答えてやれ﹂
ここを通りすがったのは皆さん、王宮を見回る仕事の
﹁暇って、俺たち見廻組で今ようやく休憩なんですけど⋮⋮﹂
見廻組?
わかりました。やりますよ﹂
帰りだったかららしい。
﹁任せたぞ﹂
﹁ちょっ⋮⋮!
ケイライさんは任せたぞと肩を叩いて何処かへ行ってしまった。
真面目そう性格だから、きっと仕事があるのだろう。
騎士五人と生徒が向かい合って並ぶ。メモを取り出し、キラキラ
した目で騎士を見る生徒が質問を始めた。
﹁騎士にはどうやったらなれますか﹂
﹁学園か軍の学校に通わないといけないね。そこで条件を満たす成
績だったたり、スカウトされれば騎士団員になることができます﹂
﹁ありがとうございます﹂
﹁仕事内容を教えてください﹂
﹁王族、要人の方の護衛。王宮内の見廻り。また王都に配置されて
いる兵士との連携しながらこの街の治安維持にも当たる。国内から
要請があれば、必要に応じて隊も派遣する﹂
﹁えっと⋮⋮ちあんいじ⋮⋮﹂
淀みなく質問に答える騎士の言葉を必死にノートに書き取るクラ
スメイト。
436
予め何を聞くかは決めてあり、内容は先生からokが出ているら
しく、滞りなく順番は回っていた。
俺も一応鞄から出した小さめのノートを持って、パラパラと眺め
る。そこに箇条書きにされている質問はここでは使えそうになかっ
喫茶店を始めるのに必要なものは何ですか。資金は幾らぐらい
た。
どのくらいのお客さんを集めることが出来たら、黒字になりま
仕事内容を詳しく教えてください
用意した方がいいですか
すか
喫茶店に行く予定だったので、一人でやるつもりだった。
色々と聞きたいことがったので、残念だ。
みんなが何を聞くも知らないので、列の一番後ろにおまけ程度に
並んでいる。
暇だ。質問がなく、メモも使えない俺の視線は空を彷徨い、自然
と騎士五人に移る。
そこでバチっと一人の騎士さんと目があった。
なんだ?
不思議に思うも、気まずさからすぐに逸らした。また手元のメモ
を見るふりをした後に、そっと前を向く。どんな人なのか確かめよ
うと思ったのだ。
こっそり顔を確かめるだけだった。それなのに、また目が合う。
たまたまじゃなかった。ケイライよりは遥かに若く見えるその騎
437
士は何か言いたげに口をパクパクとさせて、じっと俺だけを見てい
た。周りは応答に集中していて気がついていないようだ。
エル!
次お前の番だけど﹂
どうしたんだ。チラ見なんてレベルじゃない。
﹁エル?
﹁えっ?﹂
﹁早く質問しろよ﹂
レントに急かされる。いつの間にか全員が担当の質問を終え、自
分だけになっていた。
俺がなかなか反応をしないことを不思議に思ったのだろう。みん
なの視線が一気に集まっている。
﹁えっえーと⋮⋮﹂
どうしよう。聞いていた限り、騎士団に応用できそうなものはす
べて使われている。
﹁あの、さっきからずっと目があってますよね⋮⋮﹂
﹁覚えていてくださったんですか!﹂はっきりと俺のことを見てい
る人に話しかけた。
﹁覚えて⋮⋮?﹂
俺の言葉を聞いた瞬間、弾けたような笑顔を浮かべて騎士さんは
思ったより大きな声を上げた。
﹁話しかけていただけるとは思っていませんでした。アロイスです
!﹂
438
﹁アロイス⋮⋮ああ!﹂
名前を聞いて、ようやく思い出す。俺がまだ人質だったときに、
一緒に馬車の旅についてきてくれた人だ。
あまり知り合いがいないので、胸が暖かくなるような懐かしい気
持ちになる。
﹁お久しぶりでございます。ずっとお会いするのを楽しみにしてお
りました!﹂
﹁ちょっと、あれ?﹂
なんかおかしいな。そう思う前には、アロイスさんが一歩前へ踏
み出していた。
流れるような身のこなしで、俺のすぐ前まで歩いてくる。かっこ
いい騎士団の制服を着ているからだと思うが、昔より大きく見えた。
砂利を踏みしめる音する。
﹁あの時はお守りできず申し訳ございませんでした。│││姫様﹂
力の抜けていた手を足元の騎士に取られていた。
﹁姫様?﹂
﹁あの時?﹂
間の抜けた誰かと俺の声が混ざり合った。
頭の中が真っ白になる。そうだ、あの時。俺はアロイスさんに呼
び方を否定し忘れていた。そんな暇などなかったという方が正しい
か。
439
これは今すぐ否定しないと。
口を開きかけた時に、新たに問題が発生することに気づいた。
この人は恐らく、俺が元王子だということを知っている。護衛を
してくれていたのだから、間違いない。
少なくとも俺からは口止めしていないから、それも全部引っ括め
てこの状況をフォローしなければならない。周りから明らかに不審
に思う視線が集まっていた。
背中をひやりと嫌な汗が流れる。
どうすればいい。
﹁やだなぁ﹂
大きくなったんだからその遊びはいいって!﹂
アロイスさんの手を握って、力を込めた。そのまま後ろに引いて、
立つように促した。
﹁もう高学年だよ?
﹁遊び⋮⋮?﹂
俺は明るい声で言う。よほどわけが分からなかったのか、不思議
そうな表情をしている。
バランスを崩しつつ、アロイスさんを無理矢理立たせることに成
功した俺は誰にも口を挟ませないようにすぐに言葉を続ける。
﹁僕も小さかったし、長いこと会ってなかったから顔見ても、わか
んなかった!﹂
﹁それはどういう⋮⋮﹂
余計なことをいいそうになったアロイスさんの背中を思いっきり
つねる。
440
︵いいから、こっちに合わせて︶
他に人には聞こえないよう小声で呟くと、アロイスさんはカクカ
小さい頃やっていたお姫様ごっこの続きでしょ?﹂
クと壊れた玩具のように頷いた。
﹁そうそう!
今度は周りに聞こえるようにはっきりと問いかける。アロイスさ
﹁アロイス⋮⋮?
そうそう。知り合い。昔、王都でね。そうそう﹂
昔の知り合いなのか?﹂
んはさっきよりも激しく、首を上下に振った。
﹁えっ、あああ!
アロイスさんは根が正直なのか、嘘をつくのがとても下手だった。
同僚の言葉に体を揺らして反応し、誰が見ても動揺していると思わ
れるだろう。
﹁えー、でもお前、王都には転入前に来たばっかだったろ。おかし
いじゃん﹂
今度は俺のクラスメイトかツッコミが入る。王都にいたことがあ
ると言っても、俺は学園に入った頃、街のことを何一つ知らなかっ
た。軟禁されていたからなどと言えるはずはない。
﹁王都じゃないでしょ。なんで間違えてるの?﹂
内心しまったと思いつつ、アロイスさんに話をふる。
周りの疑惑を含んだ視線が痛い。
﹁ああ、そうだった。ちょっと言い間違えた。田舎で昔、遊んでい
たんだ⋮⋮﹂
﹁へー、そりゃあ、偶然だねぇ﹂
本当に信じてくれたのかは分からないが、形だけでも納得しても
らえたことに安堵する。
441
﹁あのさ、エル?
さっきの姫様がっていうのは何なんだよ?﹂
ちっ。覚えていたか。
忘れてくれているかという淡い希望は虚しく消える。
﹁あれはさ、お⋮⋮お姫様ごっこ﹂
もう適当に言っておこう。
﹁は?﹂
みんなの口が揃いも揃ってぽかんと空いているのが面白かった。
﹁ごっこ遊びってやるだろ。役になりきって遊ぶの。それで昔、僕
はよくお姫様役をやっていたわけ﹂
﹁へぇ⋮⋮そうだったんだ﹂
引かれているな。顔に出ているのを察することができても、引き
下がることはできない。このまま突っ切ろう。
│││ねぇ、アロイス兄ちゃん?﹂
﹁お姫様と騎士になってよく遊んでたから、その名残であんなこと
したんでしょ?
さっきから初耳ですという顔で俺の話を聞いていたアロイスさん
を見上げた。
ん?
なぜか一瞬固まった雰囲気を打ち破ったのは、誰の声でもなく、
近くで鳴り響いた爆音だった。
﹁なんだ?﹂
全員が会話をやめ、音のした方を注視した。
﹁マティアス様⋮⋮?﹂
アロイスが情けない声を上げる。
爆発した場所のそばでマティアスが佇んでいた。相手をしていた
442
のであろう騎士がその近くで腰を抜かしている。
全くマティアスにこと
マティアスは口を固く結び、無表情の中に不機嫌さを伺わせてい
た。そして、こっちを睨んでいる。
俺らが話している間に何があったんだ?
を見ていなかったので、状況が読めない。ただ、こっちを見ている
のは俺に原因があるからではないといいなと切実に思った。
顔に煤を付けた騎士が慌てて立ち上げって、マティアスから遠ざ
かって行く。
さっき迄質問に答えてくれていた騎士たちが声を潜めて話してい
るのが聞こえてきた。
﹁絶対、あれ怒っていらっしゃるよな。あいつらじゃマティアス様
の相手にならなかったか。そりゃそうだろうけど⋮⋮。でも、今隊
病気で休養なされていたと聞いていたが、全
長格はいないし、どうする⋮⋮?﹂
﹁俺は無理だって!
然弱られていないじゃないか。今のマティアス様に本気出されたら
消し炭にされそうだ﹂
マティアスはストレスがたまっているのだろうと騎士たちは言っ
ている。
そこで、俺はとてもよいことを思いついた。
笑みを浮かべてアロイスさんの服の裾を引いて、少し屈んでもら
った。
自分じゃ相手になりません﹂
﹁アロイスさん。アロイスさんがマティアスの相手をすればいいん
じゃいかな﹂
﹁それは⋮⋮無理ですよ!
周りに声が漏れないようにヒソヒソと話し合う。
443
﹁大丈夫だよ。マティアスは優しいから、人のことを全身やけどに
も消し炭にもしないと思う。ついでに、文句言ってきて欲しいんだ
けど。黙って騎士団まできたのはともかく、知り合いだってバレる
からチラチラこっち見るなって﹂
それこそ殺されてしまいま
ひぃとアロイスさんは小さな悲鳴をあげた。
﹁そんなこと恐れ多くて言えません!
す﹂
でも、伝言がかりを頼めるのは彼しかいないのだ。しかも、これ
以上アロイスさんといると嘘が露呈しそうで危ない。
絶対に無理です!
無理です
﹁平気だよ。ついでに一発殴ってきてくれるくらいがいい。ほらお
願い﹂
﹁申し訳ありませんが、無理です!
無理です﹂
首を振って全身で拒否の意思を表すアロイスさんをマティアスに
向かって押し出した。
﹁勘弁してください。まだ生きていたいですー﹂
﹁ふぅ﹂
文句を言いながらとぼとぼと歩いていくアロイスさん、いやアロ
イスを送り出し、ため息をつく。彼には悪いが厄介払いができた。
アロイスはペコペコ何度も頭を下げながらマティアスに何か伝え
ている。
きっとさっき俺が頼んだことを話してくれているのだろう。
暫く口を開けたり閉めたりした後に地獄から招待状がきたかのよ
うな絶望に染まった顔で俺を見てきた。目が救いを求めている。
444
よっぽどマティアスと戦うのがいやらしい。アロイスには悪いが、
これでマティアスもチラ見をやめるだろう。ありがとうという意味
を決めて、笑顔で手を振った。
しかしアロイスは俺を見て、さらに表情の中に悲しみの色を強め
る。
﹁変だな?﹂
マティアスが笑顔を浮かべて、アロイスにまた何か言っている。
するとアロイスは何かを必死に弁解するように両手を振った。
マティアスが言い返し、アロイスが再び頭を下げ、二人の練習試
合が始まる。周りの空気も緊張し、訓練場に注目が集まった。
﹁始め!﹂
声が響き、先に動いたのはマティアスだった。早口なのか聞いた
こともなく、意味が理解できない言葉を話したかと思うと、アロイ
スのいた場所に火柱が立った。
﹁うわぁぁ!﹂
彼方此方から叫び声というより、感嘆を含んだ歓声が沸いた。
アロイス、燃えたか?と思ったが、こは流石騎士。咄嗟に右に飛
んで、避けていた。
それを見たマティアスが、態勢を整える暇も与えずにまた魔法で
攻撃を重ねる。
炎の熱気のせいだけでなく、一気に会場の温度が上がった気がし
た。
マティアスの攻撃は数を増し、あたり一帯が火事のようになると、
445
二人の姿は見えなくなる。
﹁⋮⋮ごめん、アロイス。安らかに眠れ﹂
マティアスって容赦のない性格をしていたんだな。あれは確実に
殺る気な目だった。魔法も混ざると、攻撃がこれ程になるとは思っ
ていなかったのだ。訓練場が地獄になった。
前にマティアスが俺のことを強いと言ってくれたが、あれはお世
辞だったんだろう。叶う気がしない。
﹁助けでぐだざーい﹂
砂埃の中から地を這うような声が聞こえ、身を引く。
﹁誰?﹂
﹁アロイスですよ。姫様ぁ⋮⋮ぐすっ﹂
もうもうと立ち上っていた煙や砂埃が段々と薄くなり、姿を現し
たのは向こうで戦っていたはずのアロイスだった。あちこちが燃え
て、ボロボロになっている。
あのままあそこにいたら⋮⋮うう⋮
﹁あれ、いつの間にここに?﹂
﹁ひどいじゃないですかぁ!
⋮絶対殺されてました﹂
半泣きのアロイス。男の泣きそうか顔を見ても、特に優しい言葉
をかける気にはなれなかった。
﹁ちょっとだけダメかもとは思ったけど⋮⋮、練習試合なんだから
マティアスだって考えて攻撃してたよ。ギャラリーには全く被害な
かったし。アロイスにも配慮してた⋮⋮じゃないかな﹂
そう。俺の方にも待機する騎士の方にも火の粉一つ飛んでこなか
った。
446
そうか
姫様の仰られたことをそのまま伝えたら、笑顔
と言って、上級魔法で俺を殺そうとしてきたんで
﹁そん無責任な!
で
すよ。姫様が自分に手を振って下さった後なんて、特に目が笑って
いませんでした!﹂
お前まだ試合の途中だろ。戻れー﹂
アロイスが必死に訴えていると、騎士たちから声が飛んできた。
﹁おい、アロイス!
﹁ほら、呼んでるよ﹂
﹁嫌です。ここだけが安全地帯なんです。今まであの時お守りでき
なかった無念を忘れずに訓練してきましたが、姫様やマティアス様
の方が強いことを再確認致しました。今だけでいいので助けてくだ
さい!﹂
﹁それはマティアスとの⋮⋮﹂
両手を合わせて拝むアロイスに答えた時、誰かに焦った大声がし
た。
誰だろうと聞いたことのない名前に首を傾げた
﹁殿下が、リクハルド様が此方へいらっしゃいます!﹂
リクハルド様?
のは俺だけで、先ほどまで和やかだったとも言える訓練場の空気が
一変する。
方々に散らばっていた騎士の人達が一斉に膝をつき、頭を下げた。
アロイスもみんなに違わず、膝と片
生徒の何人かも同様の格好になる。
何が起こっているんだ!?
手を地面について微塵も動かない。
447
流石の俺もこのままじゃいけないことらしいことは理解できた。
よく分からないが、慌ててみんなと同じようにする。急に近くなっ
たざらりとした地面を数度瞬きして見つめた。
誰も話さない。あんなにもうるさかった場所だとは思えないほど、
静寂に包まれた。
﹁これ、どうなっているの?﹂
﹁第一王子のリクハルド様がここにいらっしゃるようですね。マテ
ィアス様がいらっしゃっていることがお耳に入ったのかもしれませ
ん﹂
アロイスが頭を下げたまま小声で教えてくれる。俺もアロイスの
方を向かないように答えた。
﹁マティアス?﹂
﹁リクハルド様とマティアス様は学園入学以前からお知り合いのは
ずです。お二方は雲の上の身分のかたですから、詳しくは存じ上げ
ませんが。そういえば、なぜ姫様も一緒に頭を下げられているので
すか?﹂
耳を澄ましていると、地面を踏みしめる音が微かに聞こえてきた。
一人分の足音じゃなかった。速いペースで少しずつ音が大きくなっ
てくる。
﹁なぜって、王子様って偉いでしょ⋮⋮﹂
俺にだって、王子が偉い人だって事ぐらいはわかるぞ。顔を見ら
れたらまずいんだろうが、会ったこともないし、俺のことなんて知
らないだろう。
448
﹁えっと⋮⋮失礼を承知でお聞きしますが、姫様はマティアス様と
はどういう関係なのですか?﹂
﹁保護者みたいなものかな?﹂
改めて聞かれて、困ってしまった。未だになぜマティアスが親切
に面倒を見てくれるのかよく分からないのだ。前に突然放り出され
自分は死んでもどエル
たらどうやって生きていこうか悩んでいたら、理由を問い詰められ
た上に怒られた。
見捨てるはずなどないじゃないですか!
メル様について行きますと熱く語られ、以来口に出さないようにし
ている。
﹁マティアス様はウエストヴェルン家本家の方です。西の広大な土
地を治め、四大貴族と称されるほど大きな家。めったな身分では一
一体?﹂
緒にいることはできません。しかし、姫様はマティアス様のことを
呼び捨てにらっしゃるし⋮⋮そうとなると、姫様は⋮⋮?
一人悩み始めてしまったアロイスにそのことは黙っておいてねと
言っておく。ちなみのこの会話、すべて互いに跪いて俯いたまま行
っていた。
足音が止まり、代わりに軽く言い争うような声がする。
マティアスの声だろうか。気になって仕方がない。
俺は項垂れていた頭をそろそろと上げた。
少しだけ、少しだけ見てみよう。きっと生で王子を見るチャンス
なんて二度と来ない。それなら一度くらい⋮⋮
﹁あれが⋮⋮?﹂
結論から言うと、王子様の顔は見えなかった。王子だろうと思え
る人はこちらを向いているマティアスの腕を取っていたため、背中
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しか見えない。その後ろにもう一人背の高い男の人がこれまた背中
を向けて立っている。
もしかして、こっちが王子か?
わからない。でも、どちらも偉い人だろう。何偉そうな人が見れ
たようなので来て良かったと思うことにした。
一瞬、マティアスと目が合ったような気がする。珍しく俺に向か
って、困った顔をしたようにも思ったが、王子らしき相手に出来る
ことは何もない。
﹁頑張れ﹂
と声に出さずに口だけを動かして伝えると、再び頭を下げた。こ
れで目をつけられたら大変だ。
しばらくすると、足音させながら王子一行は去って行く。一気に
緊張の糸が切れ、訓練場に音が戻る。
顔を上げるとすでにマティアスの姿はなく、王子に連れていかれ
明日学校のみんなに自慢しようぜ﹂
たようだ。本当に友達なのかと実感した。
﹁すげー!
﹁そうだね﹂
俺を含め、生徒が全員興奮状態だったのは言うまでもない。
その後しばらく、騎士団に行けなかったクラスメイトからあこが
れの目で見られることになる。おかげで、アロイスのことはみんな
の記憶から薄れたようだった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9835bf/
第三王子エルメル
2016年9月18日11時44分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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