﹁ た か み ね ま す み さ ん の こ と で す ﹂ 耳に手を当てる。 ﹁ 何 だ ね ? ﹂ ﹁ 教 え 子 の 高 嶺 真 澄 さ ん の こ と を 伺 い た い の で す ﹂ 教授は俺に椅子を勧めてくれた。嬉しそうに微笑む須藤教授を見て俺は良心が痛んだ。 ﹁ ご 無 沙 汰 し て い ま す 。 お 元 気 そ う で 何 よ り で す ﹂ 御年九十歳。期待した俺が間違いだったのか。とりあえず話を合わせることにした。 ﹁ あ あ 、 き み か 。 久 し ぶ り だ ね え ﹂ ﹁ あ さ く ら せ い ご で す 。 ほ う が く ぶ し ゅ っ し ん で す ﹂ こちらを見てはいるが反応がない。にこにこしている。俺は声の音量を上げた。 ﹁ 初 め ま し て 。 朝 倉 誠 吾 と 言 い ま す 。 法 学 部 出 身 で す ﹂ うなしぐさを繰り返し、首が常に動いていた。パーキンソン病の症状だ。かなり進行している。 自宅へ返すのも心配だからと医局で世話しているのだろう。激しい安静時振戦が見られる。右手の指先は何かを丸めるよ と執務室を与えられてはいるが、窓際族扱いなのは一目瞭然だった。応接セットの奥にはベッドと点滴スタンドがある。 高嶺真澄を知るそのたった一人とは脳神経医学専攻臨床神経精神医学博士・須藤名誉教授。脳神経外科病棟の片隅に机 の底が焼ける思いだった。天命にいたぶられている。なかなか辿り着くことが出来ない。 いたことになる。真澄 いや、龍介があの容姿のままだとすれば記憶に残らないはずはない。俺は焦燥感に駆られ胃 見かけたが、片っ端から当たっても皆首を横に振るだけだった。真澄は四年制博士課程を合わせると十年東大に在籍して 澄という学生に心当たりがあったのはたったの一人だった。真澄と同年代、もしくは俺と同い年くらいの教授はちらほら 医学部で一九九五年から六年間に渡り教鞭を執った教授・助教授で現在も大学に残っているのは四名。そのうち高嶺真 339 ﹁ お お 、 そ う だ っ た そ う だ っ た 。 勝 村 く ん か ら 話 を 聞 い て い る よ ﹂ おそらく勝又の間違いだが、俺はあえて訂正しないで先を促した。 ﹁ 高 嶺 さ ん は 先 生 の 研 究 室 に い ら っ し ゃ っ た の で す か ? ﹂ ﹁ そ う だ よ ﹂ 須藤教授は急に流れるように話し出した。 ﹁ 四 年 間 私 の 教 室 に い た 。 優 秀 な 子 で ね 。 そ し て 信 じ ら れ な い 美 貌 の 持 ち 主 だ っ た 。 博 士 号 を 取 得 し た 年 に 国 家 試 験 に に合格した。その後は研修医として私の助手をしていたのだ﹂ そうだ、写真があったはずだ、と机の引き出しをごそごそと漁る。俺の心臓は一気に跳ね上がった。 写真立てに入った色褪せたスナップ。真ん中に座っているのは須藤教授だ。今とあまり変わらないが目に輝きがある。 病気になる前だろう。教授の周りを白衣の男たちが囲んでいるが、その中でひと際目を引く相貌が俺の網膜に飛び込んで きた。片時たりとも忘れたことのない龍介の顔は、そこから真っ直ぐに俺を見つめ、柔らかい微笑を浮かべていた。周り の若い男たちが歯をむき出しにして大笑いしているのとは対照的に、龍介の微笑みはどこか寂しげで儚く見えた。何を思 いながらカメラへ目を向けたのだろう? 俺の記憶はあるのだろうか。俺の存在を憶えていてくれるのだろうか。 ﹁ だ が 、 高 嶺 く ん は 突 然 こ こ を 辞 め て 山 梨 へ 帰 っ て し ま っ た の だ よ ﹂ 教授の声が間延びする。遠くを見つめ、視線は茫洋と彷徨った。 ﹁ 桜 が ね 、 呼 ん だ の だ ﹂ ﹁ 桜 ? ﹂ ﹁ そ う 。 血 の 色 の 花 を 咲 か せ る 八 重 桜 が ね ﹂ 俺は瞬時に八重比丘尼を思い出していた。龍介と修哉、そして賢吾と俺、四人で花見をしたあの晩。俺だけが隔絶され た世界にいる気がしたのだった。眼前に低く枝を伸ばす桜が俺の前から愛しい人間を奪い去っていく。その恐ろしい予感 は的中した。須藤教授はその桜が龍介を呼んだと言うのか。並行世界の中を辿った時、唐土神社の桜は無残に枯れ果て、 340 俺は微動だにせず教授ののっぺりとした顔を見据えていた。何かが乗り移ったようにしゃべる。目が虚ろで、どこを見 ﹁ き み は 焔 。 内 な る エ ネ ル ギ ー が 頂 点 に 達 し た 時 、 迸 る 情 念 は 留 ま る ど こ ろ か 己 の 身 体 を 焼 き 尽 く し て し ま う ﹂ 早くも山梨のことを考え出した俺の鼓膜に、須藤教授の不気味に低い声がねっとりと貼りついた。無表情だった。 ﹁ 気 を つ け な さ い ﹂ は腹を決めた。 山梨。昼から出ても余裕の時間だ。こうなったら直接行くしかない。いざとなれば警視庁の名乗りを上げるまでだと俺 くんを手放すのは惜しかったが、彼の研究のためなら致し方ないと諦めたよ﹂ ﹁ 遺 伝 子 工 学 だ よ 。 魂 の 研 究 を し た い と 言 っ て お っ た 。 あ の 頃 遺 伝 子 工 学 の 最 先 端 は 山 梨 医 科 大 だ っ た の だ 。 私 は 高 嶺 教授は再び矍鑠として語りだした。時々モードスイッチが切り替わるらしい。 ﹁ い や い や 、 山 梨 医 科 大 学 で 研 究 を 始 め た い と 言 っ て ね ﹂ 帰る家はなかったはずだ。清流荘は焼け落ちてしまったのだ。 ﹁ 山 梨 へ 帰 省 し た の で す か ? ﹂ たのは一九七七年八月。賢吾が自殺したのは一九九九年十二月。八重比丘尼は咲いたのだろうか。 か ら 二 十 一 年 も 経 て 賢 吾 は 自 害 し 、そ の 年 に も あ の 桜 は 花 を つ け た 。こ の 世 界 で は ど う だ っ た の だ ろ う ? 修 哉 が 亡 く な っ て、何世紀にも渡り俺たちの再生と消滅を静かに追ってきたはずだ。八重比丘尼が狂い咲きした年に修哉は死んだ。それ 俺たちが翻弄され続けているのは、もしかしたらあの八重比丘尼の呪禍なのではないか。あの桜はいつもあの場所にい 俺はそこでほとんど非現実的な仮説へ辿り着き愕然とした。 もしかしたら。 にして花を咲かせ続けるというのか。 元に埋葬されたという伝説。未だその歯牙にかかる獲物を待ち続けているのか。何百年という時を経て、人の生き血を糧 ざっくり割れた幹を晒しているだけだった。この世界ではどうなのか。樹齢七百年とも言われた神木。白比丘尼がその根 341 ているのか判らない。 ﹁ 水 を 求 め な さ い ﹂ 龍介。 ﹁ 紅 緋 色 の 伽 陀 を 絶 ち 、 白 眼 夜 叉 を 切 り 裂 き な さ い 。 き み の 父 親 は 火 之 夜 藝 、 そ し て そ の 子 供 で あ る き み は 火 之 炫 毘 古 の化身。きみの求める水は闇御津羽神の申し子﹂ そ の 言 葉 を 最 後 に 、須 藤 教 授 は 黙 り 込 ん で し ま っ た 。 一 点 を 見 つ め ゆ っ く り 呼 吸 を す る だ け で 話 し か け て も 反 応 が な い 。 誰かを呼ぶべきか考えていると、教授がゆっくりと顔を上げて俺を見た。 ﹁ 白 亜 の 館 が 十 六 夜 月 に 照 ら さ れ る 晩 、 水 面 を 見 つ め る 頭 蓋 骨 が 浮 上 す る 。 そ こ を 通 る 方 舟 は 沈 み 、 無 数 の 魂 の 欠 片 が 光の帯となって、不帰の客を導くのだ﹂ 白亜の館。 俺の眼前を伊豆大島で最後に見た光景が覆う。 小高い丘に建つ白い建物。濃い灰色の空を従え、幻覚のように浮かび上がる白い要塞。 これは何だ。 342
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