32頁 - 高島市

139
樹の息子で、藤樹の死後はその学
行なわれます。常省とは、中江藤
毎年、7月 日に安曇川町上小
じょうしょうさい
川 の 藤 樹 書 院 で は、「 常 省 祭 」 が
性であったと伝わっています。
たちの世話や家事をよくこなす女
鍋之助がいましたが、その子ども
7歳の長男・虎之助と3歳の次男・
問を受け継いで中江家の跡取りと
藤樹は常省が生まれた年の8月
日に死去したため、常省は生後
なった人物です。7月 日は常省
常省
じ ょ う し ょ う( じ ょ う せ い )
中 江 藤 樹 の息 子
死去しました。
持病の悪化のため上小川村に帰郷
わずか 日で父親と死別すること
山の弟である泉仲愛とともに岡山
常省が中江家の家督を継ぐことに
になりました。藤樹は臨終に際し
藩の学校奉行となっています。
常省の門人は、地元の上小川村
周 辺 住 人 や 大 溝 藩 士 な ど に 多 く、
日で父と死別
えんぽう
いずみちゅうあい
政に出仕することになり
学を講じたところ、
門人が増加し、
、 歳
貞 享 4 年( 1 6 8 7 年 )
の時に対馬藩を辞し、京都で藤樹
日、 歳で
て、門人に幼い子どもたちのこと
彼らは常省の死後も藤樹の教えを
生後
こうてい
仕えるようになりました。
京都で藤樹学を開講、
江西常省先生と呼ばれる
ま し た。 藤 樹 の 学 問 を 深
この頃から人々は常省を「江西常
じょうきょう
く慕っていた池田光政に
省先生」
と呼ぶようになりました。
は、 先 に 二 人 の 兄 も 召 し
62
文化財課 (32)4467
0740(25)8000㈹
http://www.city.takashima.lg.jp
[email protected]
宝 永 6 年( 1 7 0 9 年 ) 5 月、
し、1か月後の6月
の命日にあたることから、その遺
を頼んでいたため、上の二人は小
延 宝 6 年( 1 6 7 8 年 )、 常 省
は岡山藩を辞して生地である近江
広めることに尽力したと言われて
けいあん
慶安元年(1648年)
常省は、
7月4日(以下、日付は旧暦)に
なりました。その2年後には、蕃
徳をしのんで儒式での祭典が行な
川 村 の 村 人 に、 1 番 幼 い 常 省 は、
国上小川村に帰郷し、その後京都
います。常省の墓は、上小川の玉
われています。
藤樹の高弟である熊沢蕃山の妹が
に転居して、延宝8年(1680
林寺門前に父や祖母と並んで建て
くまざわばんざん
嫁いでいた東万木(青柳)村の岡
年)には、父・藤樹を尊敬してい
やさぶろう
藤 樹 の 三 男 と し て 生 ま れ ま し た。
り
した。
きじゅう(すえしげ)
ふ
岡山藩の学校奉行に
名 前 は 季 重、 通 称 を 弥 三 郎 と い
べっしょ
まんじ
歳 の と き、 蕃 山 が 仕 え
抱 え ら れ て い ま し た が、
その後、対馬藩の江戸藩邸に召
し出されて江戸で過ごした後、京
る 備 前・ 岡 山 藩 の 池 田 光
二 人 は 体 が 弱 く、 若 く し
都四条に隠棲しました。
て 亡 く な っ た た め、 寛 文
5年(1665年)には、
滋賀県高島市新旭町北畑565番地
発行▼ 高島市
編集▼ 政策部秘書広報課
〒520 1592
40
いました。母の布理 は、大溝藩士・
198
、
常省は万治元年(1658年)
7
23
6月中旬、たまたま高架
下の道を通った時、川辺に
チカチカと光る黄緑色の光
を見つけました。思わず「蛍や!」と
大声で叫び、聞かれていないか周りを
確認。カメラが手元になく残念でした
が、夏を身近に感じられました。高島
市は水と緑のまちですから、蛍の名所
がたくさんあります。写真に収めるも
良し、飽きるまで眺めるも良し。お住
いの近くで蛍の光を探してみてはいか
がでしょうか。(M)
ひがしゆるぎ
田家に引き取られることになりま
られています。
23
た対馬藩主に招かれて、対馬藩に
25
月号
32
2016. 7月号
23
別 所 氏 の 娘 で、 藤 樹 に 嫁 い だ 時、
ひさこ
平成28年
50
11
50
中江家には先妻・久子の子である
常省の墓