饗庭三坊と城饗庭三坊と城 - 高島市

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滋賀県高島市新旭町北畑565番地
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2012.12 月号
不要となった広報誌は、その他古紙(雑誌)として古紙回収日に
出していただきますようお願いします。
ほったてばしらたてものあと
半の掘立柱建物跡や区画性のある
堀跡などが見つかっています。
跡からは土器とともに
あ 堀
み だ せ き ぶ つ
いっせきごりんとう
阿弥陀石仏や一石五輪塔などの石
造物が出土しています。これらに
こんせき
は火をうけた痕跡が認められると
とうき
ともに、多くの石材が投棄された
ような状態で見つかっています。
げんき
亀3年(1572)織田信長
元
あけちみつひで
「饗庭
の 命 を う け た 明 智 光 秀 は、
三坊の城下まで放火し、城を三箇
所落とした」ことを書状に記して
います。
発掘調査で見つかった吉武城跡
の堀跡からの出土物は、落城や城
はいぜつ
の廃絶が推測できる資料として注
目されます。
文化財課
(32)4467
0740(25)8000㈹
http://www.city.takashima.shiga.jp
[email protected]
早くも今年最後の月になりまし
たね。12 月というとクリスマスを思
い浮かべる方も多いのではないでしょ
うか。現在、オレンジリボンキャンペー
ン(児童虐待防止の啓発活動)の一環
として、市役所1階に大きなツリーを
設置しています。来庁された時は、ぜ
ひツリーをご覧いただき、子どもを想
う気持ちなどをカードに書いてツリー
に飾り付けてください。みんなで虐待
防止について考えましょう。
(広報担当S)
日爪城からの眺望
ます。
吉武壱岐守については、天正か が
年( 1 5 8 2) 織 田 信 長 の 加 賀
いっこういっき
とうめつ
とりごえじょう
一 向 一 揆 の 討 滅 前 後 に、 鳥 越 城
( 石 川 県 白 山 市 ) の 城 主 と し て、
けいちょう
そ の 名 が 見 ら れ る ほ か、 慶 長 3
よりかつ
年( 1 5 9 8) に 村 上 頼 勝 が 入
城 す る 村 上 城( 新 潟 県 村 上 市 )
くるわ
の 田 口 曲 輪 は、 村 上 氏 の 筆 頭 家
老であった吉武壱岐守とその家
やましゅう
臣 団「 山 衆 」 の 居 住 地 と し て
いきどのまる
「壱岐殿丸」とも呼ばれています。
昭和 ・ 年の国道161号バ
イパス建設に先立ち実施された吉
武城跡の発掘調査では、 世紀後
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発行▼ 高島市
編集▼ 政策部企画広報課
〒520 1592
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島郡
戦国時代の末になると、ど高
ごう
では「饗庭三坊」が有力土豪とし
て台頭してきます。
永 禄 9 年( 1 5 6 6) 高 島 郡
へ の 影 響 力 を 強 め る 浅 井 長 政 は、
よしづみのしょう
善 積 荘 ( 現 在 の 今 津 町 南 部 )・
かわかみのしょう
河 上 荘 ( 今 津 町 北 部 ) の ほ か、
こつのしょう
ほうざかのせき
木 津 荘( 新 旭 町 北 部 )・ 保 坂 関
さいりんぼう
の 取 り 分 の 一 部 を、 西 林 坊・
じょうりんぼう
ほうこうぼう
定 林 坊・ 宝 光 坊 に あ て が っ て い
ます。
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れています。
よしたけいきのかみ
『高島郡誌』には、
「吉武壱岐守
の 長 子 が 西 林 坊 と 号 し 日 爪 村 に、
次 子 が 定 林 坊 を 号 し 霜 降 村 に、
き し
季子(末子)が吉武壱岐守と称し、
五十川村の吉武城にいた」と記さ
れています。
この三つの坊は、他の文献史料
からもその実在を確認することが
できることから、西林坊、定林坊、
宝光坊が「饗庭三坊」であったと
考えられます。
新旭町の南部では、清水山城や
新庄城が築かれるのに対し、北部
の 木 津 荘 の 範 囲 に は、 日 爪 城 や
あいばやかた
饗庭館、そして五十川城やその城
下と考えられる吉武城が築かれて
います。
2 2) に 作 成
応 永 年( 1 4
けんちゅうちょう
さ れ た『 木 津 荘 検 注 帳 』 に は、
日爪城が位置する丘陵のふもと
きょうろく
に「西林坊」の地名が、享禄2年
あいばまたさぶろうばいけん
(1529)の『饗庭又三郎売券』
には「霜降定林坊」の名が記され
ています。
ま た、 五 十 川 村 に は「 宝 光 坊 」
の地名や、吉武壱岐守との関係が
推測できる「吉武」の名も見られ
月号
饗庭三坊について、地元ではさ
まざまな呼び名や伝承が語り継が
広報たかしま
No.
155
吉武城跡の堀
平成24年
12
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饗庭三 坊 と 城
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