点 心 御降り お さが もつと 今日は御降りである︒ 尤 も歳事記を検べて見たら︑ ほう らい 二日は御降りと云わぬかも知れぬ︒が蓬莱を飾った二階 にいれば︑やはり心もちは御降りである︒下では赤ん坊 こ たつ が泣き続けている︒舌に腫物はれものが出来たと云うが︑ が こう そう 鵞口瘡にでもならねば好い︒じっと炬燵に当りながら︑ ﹁つづらふみ﹂を読んでいても︑心は何時かその泣き声 じ ゆん き よ にとられている事が度々ある︒私の家は 鶉 居ではない︒ 5 娑婆界の苦労は御降りの今日も︑遠慮なく私を悩ますの ある ね な こ げ 大 き な 踏 み 台 を 運 ん で 来 た ︒ そ う し て そ の上 へ 乗 り な が しの溝みぞに落ちこんでしまった︒彼は早速勝手から︑ 所がその内にどう云う拍子か︑彼のついた金羽根が︑長押 きん ば が︑自然と誰でも私より︑彼へ羽子板を渡し易かった︒ ら羽根をつき落したものは︑羽子板を譲る規則があった にいた少女たちと︑ 悉 仲好しの間がらだった︒だか ことごとく り幾つか年上の︑おとなしい少年が交っていた︒彼は其処 そ ついて遊んだ事がある︒その仲間には私の外にも︑私よ である︒昔或御降りの座敷に︑姉や姉の友達と︑羽根を 6 ら︑長押しの金羽根を取り出そうとした︒その時私は背 の低い彼が︑踏み台の上に爪立ったのを見ると︑いきな り彼の足の下から︑踏み台を側へ外してしまった︒彼は まま 長押しに手をかけた儘︑ぶらりと宙へぶら下った︒姉や すか 姉の友だちは︑そう云う彼を救う為に︑私を叱ったり賺 したりした︒が︑私はどうしても︑踏み台を人手に渡さ しばらく な か っ た ︒ 彼 は 少 時 下 っ て い た 後︑ 両 手 の 痛 み に 堪 え 兼 たのか︑とうとう大声に泣き始めた︒して見れば御降り の記憶の中にも︑幼いながら嫉妬なぞと云う娑婆界の苦 労はあったのである︒私に泣かされた少年は︑その後学 7 問の修業はせずに︑或会社へ通う事にな った︒今ではも 御降りや竹ふかぶかと町の空 降りはどうであろう︒︵ 一月二日︶ 降りは︑赤ん坊の泣き声に満たされている︒彼の家の御 う四人の子の父親になっているそうである︒私の家の御 8 夏雄の事 か とり ほ ず ま か のうな つ お 香取秀真氏の話によると︑加納夏雄は生きていた時に︑ 百円の月給を取っていた由︒当時百円の月給取と云えば︑ もち ろん 勿論人に羨まれる身分だったのに相違ない︒その夏雄が しばしば 晩年床に就くと︑ 屡 枕もとへ一面に小判や大判を並べ させては︑しけじけと見入っていたそうである︒そうし てそれを見た弟子たちは︑先生は好い年になっても︑ま たん しん だ貪心が去らないと見える︑浅間しい事だと評したそう である︒しかし夏雄が黄金を愛したのは︑千葉勝が紙幣 9 を愛したように︑黄金の力を愛したのではあるまい︒床 手段に過ぎぬのだそうである︒そうしてその機微を知ら ると︑彼が遊蕩を止めないのも︑実は人生を観ずる為の き事だと︑即座に賛成の意を表した︒彼の述べる所によ 男に︑この逸話を話して聞かせたら︑それはさもあるべ 解釈した︒私も恐らくそうだろうと思う︒所がその後或 卑しそうである︒香取氏はこう病牀にある夏雄の心理を う︒師匠に貪心があると思ったのは︑思った弟子の方が 刻んで見ようかなぞと︑仕事の工夫をしていたのであろ を 離 れ る よ う に な っ た ら ︑ 今 度 は あ の 黄 金 の上 に ︑ 何 を 10 ぬ世俗が︑すぐに兎や角非難をするのは︑夏雄の場合と 途 同じだそうである︒が︑実際そうか知らん︒ ︵ 一月六日︶ 冥 こ の 頃 内 田 百 閒 氏 の ﹁ 冥 途 ﹂︵﹁ 新 小 説 ﹂ 新 年 号 所 載︶ ことご とく と 云 う 小 品 を 読 ん だ ︒﹁ 冥 途 ﹂︑﹁ 山 東 京 伝 ﹂︑﹁ 花 火 ﹂︑ くだん ﹁ 件 ﹂︑﹁ 土 手 ︑﹂﹁ 豹 ﹂ 等 ︑ 悉 夢 を 書 い た も の で あ る︒漱石先生の﹁夢十夜﹂のように︑夢に仮託した話で 11 まま の小品が︑現在の文壇の流行なぞに︑囚われて居らぬ所 具合には出来なかろうと云う気がする︒つまり僕にはあ 話は書かなかったろうと云う気がする︒書いてもあんな 塵 氛 の 中に ︑ 我 々 同 様 呼 吸 し てい た ら ︑ 到 底 あ んな 夢 の じんぷん を読むと︑文壇離れのした心もちがする︒作者が文壇の Pathosが 流 れ て い る ︒ し か し 百 閒 氏 の 小 品 が 面 白 い の は︑そう云う中味の為ばかりではない︒あの六篇の小品 小品だが︑あの中には西洋じみない︑気もちの好い 品 中 ︑﹁ 冥 途 ﹂ が 最 も 見 事 で あ る ︒ た っ た 三 頁 ば か り の はない︒見た儘に書いた夢の話である︒出来は六篇の小 12 が面白いのである︒これは僕自身の話だが︑何かの拍子 に以前出した短篇集 を開 い て見ると︑ 何処か流行に囚 わ のきし た れている︒実を云うと僕にしても︑他人の廡下には立た うぬ ぼ ぬ位な︑一人前の自惚れは持たぬではない︒が︑物の考 え方や感じ方の上で見れば︑やはり何処か囚われている︒ ︵ 時代の影響と云う意味ではない︒もっと膚浅な囚われ方 で あ る︶︒ 僕 は そ れ が 不 愉 快 で な ら ぬ ︒ だ か ら 百 閒 氏 の 小品のように︑自由な作物にぶつかると︑余計僕には面 白 い の で あ る ︒ し か し 人 の 話 を 聞 け ば ︑﹁ 冥 途 ﹂ の 評 判 たま たま は好くないらしい︒ 偶 僕の目に触れた或新聞の批評家 13 なぞにも︑全然あれがわからぬらしかった︒これは一方 もつと 云う中でも︑自分が此処に書きたいのは︑あの小説の主 ら﹂に動かされたものが多いらしい︒その動かされたと 我々と前後した年齢の人々には︑漱石先生の﹁それか 長井代助 では︑尤もでないような心もちもする︒︵ 一月十日︶ 現状では︑ 尤 ものような心もちがする︒同時に又一方 14 人公長井代助の性格に惚れこんだ人々の事である︒その 人々の中には惚れこんだ所か︑自ら代助を気取った人も︑ 少 く な か っ た 事 と 思 う ︒ し か し あ の 主 人公 は ︑ 我 々 の 周 囲 を 見 廻 し て も ︑ 滅 多 に い な そ う な 人 間 で あ る ︒﹁ そ れ から﹂が発表 された当時︑世間にはやっていた自然派の 小説には︑我々の周囲にも大勢いそうな︑その意味では 人生に忠実な性格描写が多かった筈である︒しかし自然 派 の 小 説 中 ︑﹁ そ れ か ら ﹂ の よ う に 主 人 公 の 模 倣 者 さ え 生んだものは見えぬ︒これは独り﹁それから﹂には限ら ず︑ウェルテルでもルネでも同じ事である︒彼等はいず 15 れも一代を動揺させた性格である︒が︑如何に西洋でも︑ 能性を見出すのであろう︒だから小説が人生に︑人間の その主人公が︑何処かに住んでいそうな所に︑惝怳の可 ぬ所に︑ 惝 怳の意味を見出すのであろう︒そうして又 し ょ う こう だ言葉である︒人々はその主人公が︑手近に住んで居ら ぬかも知れぬ︑が︑何処かにいそうだ位の心もちを含ん 何処もいぬと云う意味ではない︒何処にもいるとは云え にいぬからではあるまいか︒無論滅多にいぬと云う事は︑ い ぬ よ う な 人間 が ︑ 反 っ て 模 倣 者 さ え 生 んだ の は ︑ 滅 多 彼等のような人間は︑滅多にいぬのに相違ない︒滅多に 16 意欲に働きかける為には︑この手近に住んでいない︑し かも何処かに住んでいそうな性格を創造せねばならぬ︒ これが通俗に云う意味では︑理想主義的な小説家が負わ ねばならぬ大任である︒カラマゾフを書いたドストエフ スキイは︑立派にこの大任を果している︒今後の日本で そも そも は 仰 誰 が ︑ こ う 云 う 性 格 を 造 り 出 す で あ ろ う ︒︵ 一 月 十三日︶ 17 嘲 魔 えい れい 一かどの英霊を持った人々の中には︑二つの自己が住 M. de la っ た ︒ 不思 議 に も こ の 二 つ の 自 己 を 同 時 に 生 き る 人 間 で Rochefoucauldは こ れ で あ る ︒ が ︑ モ リ エ エ ル は そ う で はない︒彼はこの二つの自己の分裂を感じない人間であ 唯賢明な批評力を獲得するだけに止まり易い︒ の自己を有する人々は︑ややもすると創作力の代りに︑ る︒他の一つは冷酷な︑観察的な自己である︒この二つ む事がある︒一つは常に活動的な︑情熱のある自己であ 18 あった︒彼が古今に独歩する所以は︑こう云う壮厳な矛 盾の中にある︒ Sainte-Beuve のモリエエル論を読んでい たら︑こんな事を書いた一節があった︒私も私自身の中 しりぞ に︑冷酷な自己の住む事を感ずる︒この嘲魔を 却 ける 事は︑私の顔が変えられないように︑私自身には如何と も出来ぬ︒もし年をとると共に︑嘲魔のみが力を加えれ また ば ︑ 私 も 亦 メ リ メ エ の よ う に ︑﹁ 私 の 友 人 の な に が し が こう云う話をして聞かせた﹂なぞと︑書き始める事にも や L'Avare École des Femmesを書い 倦みそうである︒殊に虚無の遺伝がある東洋人の私には 容易かも知れぬ︒ 19 かんさい ﹁言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど︑そは多く俗 池西言水 少い幸福者である︒︵ 一月十四日︶ 陥らなかったモリエエルは︑ 愈 羨望に価すべき比類の いよいよ 三役の繁務に追われながら︑しかも猶この嘲魔の毒手に︑ なお 悩 ま さ れ ︑ 病 肺 に 苦 し ま さ れ ︑ 作 者 と 俳 優 と劇 場監 督 と たモリエエルは︑比類の少い幸福者である︒が︑奸妻に 20 事物を詠じて︑ 雅ならしむる者のみ︒其事物如 何雅致あ る者なりとも︑十七字に余りぬべき程の多量の意匠を十 ほと 七字の中につづめん事は︑殆んど為し得べからざる者な れば︑古来の俳人も皆之を試みざりしに似たり︒然れど いけにしごんすい も一二此種の句なくして可ならんや︒池西言水は実に其 作者なり︒﹂これは正岡子規の言葉である︒ ︵﹁俳諧大要﹂︒ 一 五 六 頁︶︒ 子 規 は そ の 後 に 実 例 と し て ︑ 言 水 の 句 二 句 たんぽ を掲げている︒それは﹁姨捨てん湯婆に燗せ星月夜﹂と つぼね おんな ﹁黒塚や 局 女 のわく火鉢﹂との二句である︒自分は言 水 の こ れ ら の 句 が ︑﹁ 十 七 字 に 余 り ぬ べ き 程 の 多 量 の 意 21 匠を十七字の中につづめ﹂たとするには︑何の苦情も持 しようは 余りに広すぎる憾みはないか︒こう自分は思うのである︒ にも 確 に当て嵌まるが︑言水の特色を云い尽すには︑ たしか してはいないか︒して見れば子規が評した言葉は︑言水 ﹁ わ く ﹂ と 云 う 言 葉 使 い が 耳 立 たな い だ け に ︑ 一 層 成 功 十七字の形式につづめてはいないか︒しかも﹁燗せ﹂や ねかしの男うれたき 砧 かな﹂も︑やはり複雑な内容を きぬ た て は い な い か ︒﹁ 御 手 打 の 夫 婦 な り し を 衣 更 へ ﹂ や ﹁ い 字に余りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ﹂ っ て 居 ら ぬ ︒ し か し こ の 意 味 で は 蕪 村 や 召 波 も ︑﹁ 十 七 22 では言水の特色は何かと云えば︑それは彼が十七字の内 に︑万人が知らぬ一種の鬼気を盛りこんだ手際にあると 思う︒子規が掲げた二句を見ても︑すぐに自分を動かす のは︑その中に漂う無気味である︒試に言水句集を開け つま猫の胸の火や行く 潦 蚊柱の 礎 とな る捨子かな いしずゑ 夜桜に怪しやひとり須磨の蜑 あま に はたづみ 御忌の鐘皿割る罪や暁の雲 ぎよき ば︑この類の句は外にも多い︒ 23 ひとだま とう ろ 人魂 は消えて梢の燈 籠かな あさましや虫鳴く中に尼ひとり 火の影や人にて凄き網代守 句の佳否に関らず︑これらの句が与える感じは︑蕪村 あ る ︒ 言 水 通 称 は 八 郎 兵 衛︑ 紫 藤 軒 と 号 し た ︒ 享 保 四 年 に趣を異にするのは︑此処あると云わざるを得な いので 最も神妙なものだとは云わぬ︒が︑言水が他の大家と特 自分は言水の作品中︑必しもこう云う鬼趣を得た句が︑ にもなければ召波にもない︒元禄でも言水唯一人である︒ 24 歿︒行年は七十三である︒︵ 一月十五日︶ 托氏宗教小説 と し 今日本郷通りを歩いていたら︑ふと托氏宗教小説と云 う本を見つけた︒価を尋ねれば十五銭だと云う︒物質生 う ずふ く 活のミニマムに生きている僕は︑この間渦福の鉢を買お うと思ったら︑十八円五十銭と云うのに辟易した︒が︑ 十 五 銭 の本 位 は ︑ 仕 合 せ と買 え ぬ 身 分 で もな い ︒ 僕 は 早 25 速三箇の白銅の代りに︑薄っぺらな本を受け取った︒そ さら ぶん き ゆ う どう 紙を開けた所に︑原著者托爾斯泰の写真があるのは︑何 みさえすれば︑すぐに取ってくれるかも知れぬ︒が︑表 ている︒この本は勿論珍書ではあるまい︒文 求 堂に頼 もち ろん である︒但し翻訳に用いた本は︑ Nisbet Bainの英訳だ しゆ ど ろ ん と云う︒内容は名高い主奴論以下︑十二篇の作品を集め 香港の礼賢会︵ ︶が︑剞劂に Rhenish Missionary Society ドイツ 付した本である︒訳者は独逸の宣教師 と云う人 Genähr き けつ 宗教小説は︑西暦千九百有七年︑支那では光緒三十三年︑ れが今僕の机の上に︑古ぼけた表紙を曝している︒托氏 26 カ フ タ ン ク ミ ス なんとなしに愉快である︒好い加減に頁を繰って見れば︑ ムジイク 牧 色 ︑ 加 夫 単 ︑ 沽 未 士な ぞ と 云 う ︑ 西 洋 語 の 音 訳 が 出 て 来 る の も ︑ 僕に は や は り 物珍 しい ︒こ んな 翻 訳 が 上 梓 さ れた事は原著者托氏も知つていたであろうか︒香港上海 の支那人の中には︑偶然この本を読んだ為めに︑生涯托 氏を師と仰いだ︑若干の青年があったかも知れぬ︒托氏 はるか はそう云う南方の青年から︑ 遙 に敬愛を表すべき手紙 を受け取りはしなかったであろうか︒私は托氏宗教小説 を前に︑この文章を書きながら︑そんな空想を逞しくし た ︒ 托 氏 と は 伯 爵 ト ル ス ト イ で あ る ︒︵ 一 月 二 十 八 日︶ 27 ﹁西洋の民は自由を失った︒恢復の望みは殆ど見えな 税 こが Jules Sandeauのいしと Palais Royalのカッフェへ よ し 行っていると︑出版書肆のシャルパンティエが︑バルザ 印 る︒︵ 一月三十日︶ れは次手に孫引きにしたトルストイの書簡の一節であ い ︒ 東 洋 の 民 は こ の 自 由 を 恢 復 す べ き 使 命 が あ る ︒﹂ こ 28 ックと印税の相談をしていた︒その後彼等が忘れて行っ た紙を見たら︑無暗に沢山の数字が書いてあった︒サン ドオがバルザックに会った時︑この数字の意味を問い訊 す と ︑ そ れ は 著 書 が 十 万 部売 切 れ た 場 合 ︑ 著 者 の 手 に 渡 るべき印税の額だったと云う︒当時バルザックが定めた 印税は︑オクタヴォ版三フラン半の本一冊につき︑定価 の一割を支払うのだった︒して見ればまず日本の作家が︑ 現在取っている印税と大差がなかった訳である︒が︑こ れがバルザックがユウジェニニ・グランデエを書いた時 分だから︑千八百三十二年か三年頃の話である︒まあ印 29 税も日本では︑西洋よりざっと百年ばかり遅れていると 日︶ 文壇のみに存在する日米関係を云いたいのである︒日本 日米関係と云った所が︑外交問題を論ずるのではない︒ 日米 関係 説 家 は ︑ 貧 乏 に 堪 え ね ば な ら ぬ よ う で あ る ︒︵ 一 月 三 十 思 え ば 好 い ︒ 原 稿 成 金な ぞ と 云 っ て も ︑ 日 本 で は 当 分 小 30 イ ギ リ ス に 学 ば れ る 外 国 語 の 中 で は︑ 英 吉 利 語 程 範 囲の 広 い も の メ リ カ はない︒だから日本の文士たちも︑大抵は英吉利語に手 ア 依っている︒所が英吉利なり亜米利加なり︑本来の英吉 利語文学は︑ショオとかワイルドとか云う以外に︑余り 日本では流行しない︒やはり読まれるのは大陸文学であ る︒然るに英吉利語訳の大陸文学は︑亜米利加向きのも こう ぶ のが多い︒何故と云えばホイットマン以後︑芸術的に荒蕪 な亜米利加は︑他国に天才を求めるからである︒その関 いちじる 係上日本の文壇は︑さ程 著 しくないにしても︑近年は 亜米利加の流行に︑影響される形がないでもない︒イバ 31 ネスの名前が聞え出したのは︑この実例の一つである︒ て見たら︑イバネス︑ブレスト・ガナ︑デ・アラルコン︑ だけに存外見落され勝ちのようである︒ 偶 丸善へ行っ たまたま うだ︒こう云う日米関係は︑英吉利語文学が流行しない 文学が持て囃されたのも︑火の元は亜米利加にあったよ これは大陸文学ではないが︑以前文壇の一角に︑愛蘭土 アイル ランド ぞの伊太利文学が︑日本にも紹介され出すかも知れぬ︒ イ タ リ ア ︒向う河岸の火の手が静まったら︑今度はパピニな た︶ 外に︑英吉利語訳のイバネスは何処を探しても見当らなかっ ︵ 僕が高等学校の生徒だった頃は︑あの﹁大寺院の影﹂の 32 ス ペ イ ン バ ロ ハ な ぞ の 西 班 牙 小 説 が 沢山 並 べ て あ っ た 為 め ︑ こ ん な事を記して置く気になった︒︵ 二月一日︶ Ambroso Bierce 日米関係を論じた次手に︑亜米利加の作家を一人挙げ よう︒アムブロオズ・ビイアスは毛色の変った作家であ る ︒︵ 一 ︶ 短 篇 小 説 を 組 み 立 て さ せ れ ば ︑ 彼 程 鋭 い 技 巧 家は少い︒評論がポオの再来と云うのは︑確にこの点で 33 も当っている︒その上彼が好んで描くのは︑やはりポオ コスモポリタンだった︒南北戦争に従軍した事もある︒ で い る と 思 う ︒︵ 三 ︶ 彼 は 同 時 代 の 作 家 の 中 で は ︑ 最 も を読めば︑精到の妙はないにしても︑犀利の快には富ん さい り さ れ た 結果 自 殺 を 遂 げ た と 云 わ れ て い る ︒ が ︑ 彼 の 批 評 と云う︑確か波蘭土系の詩人の如きは︑彼の毒舌に翻弄 ポオランド を書くと︑辛辣無双な皮肉家である︒現にレジンスキイ の小説家では︑英吉利に があるが︑ Algernon Blackwood 到 底 ビ イ ア ス の 敵 で は な い ︒︵ 二 ︶ 彼 は 又 批 評 や 諷 刺 詩 と同じように︑無気味な超自然の世界である︒この方面 34 ロンドン 港 の雑誌の主筆をした事もある︒倫敦に文を売っ サンフランシスコ 桑 ていた事もある︒しかも彼は生きたか死んだか︑未に行 方 が 判 然 し な い ︒ 中 に は 彼 の 悪 口 が︑ 余 り に 人 を 傷 け た 為 め 暗 殺 さ れ た の だ と 云 う も の も あ る ︒︵ 四 ︶ 彼 の 著 書 には十二巻の全集がある︒短篇小説のみ読みたい人は 及び In the Midst of Life Can Such Things Be の ? 二巻に 就くが好い︒私はこの二巻の中に︑特に前者を推したい こ の で あ る ︒ 後 者 に は 佳 作 は 一 二 し か 見 え ぬ ︒︵ 五 ︶ 彼 の こ 評伝は一冊もない︒オウ・ヘンリイ等に比べると︑此処 でも彼は薄倖である︒彼の事を多少知りたい人は︑ケム 35 ブリッヂ版の 第二版の三 History of American Literature 八六︱七頁︑或は 著 Cooper Some American Story 日︶ 一 つ も 見 え な い ︒ 紹 介 も こ れ が 最 初 で あ ろ う ︒︵ 二 月 二 のビイアス論を見るが好い︒前に書くのを忘れ Tellers たが︑年代は一八三八︱一九一四? である︒日本訳は 36 む し たれぎぬ 私 は ﹁ 龍 ﹂ と 云 う 小 説 を 書 い た 時 ︑﹁ 虫 の 垂 衣 を し た 女が一人︑建札の前に立っている﹂と書いた︒その後或 人の注意によると︑虫の垂衣が行われたのは︑鎌倉時代 くだり 以後だそうである︒その証拠には源氏の初瀬詣の 条 に も︑虫の垂衣の事は見えぬそうである︒私はその人の注 ぎ さん えん ぎ こ かわ で ら えん ぎ 意に感謝した︒が︑私が虫の垂衣云々の事を書いたのは︑ し ﹁ 信 貴 山 縁 起 ﹂﹁ 粉 河 寺 縁 起 ﹂ な ぞ の 画 巻 物 に よ っ て い たのである︒だからそう云う注意を受けても︑剛情に自 37 説は改めなかった︒その後何かの次手から︑宮本勢助氏 うた では多少寂しかったのを知った︒︵ 二月三日︶ ○ ○ 説は曲げずにいても︑矢張文献に証拠のないのが︑今ま へ云々﹂とある︒私は心の舒びるのを感じた︒同時に自 の 吹き開きたりつるより見奉るに︑更に物不 レ思罪免し給 語 の 中 に ︑﹁ 転 て 思 す ら む ︒ 然 れ ど も 昼 牟 子 を 風 の ものがたり の部巻六︑従 鎮 西 上 人依 観 音 助遁 賊 難 持 命 ち ん ぜ い よ り の ぼ る の ひ と か ん の ん の た す け に よ り て ぞ く な ん を の が れ い のちを じする 云う事を教えられた︒それから早速今昔を見ると︑本朝 にこの事を話すと︑虫の垂衣は今昔物語にも出ていると 38 蕗 と 坂になった路の土が︑砥の粉のように乾いている︒寂 しい山間の町だから︑路には石塊も少くない︒両側には 古いこけら葺の家が︑ひっそりと日光を浴びている︒僕 等二人の中学生は︑その路をせかせか上って行った︒す ると赤ん坊を背負った少女が一人︑濃い影を足もとに落 しながら︑静に坂を下って来た︒少女は袖のまくれた手 に︑茎の長い蕗をかざしている︒何の為めかと思ったら︑ 39 それは真夏の日光が︑すやすや寝入った赤ん坊の顔へ︑ こんな心もちを云うのかも知れない︒︵ 二月十日︶ っきり記憶に浮ぶ事がある︒里見君の所謂一目惚れとは︑ いわゆる の顔だちの少女である︒その顔が未にどうかすると︑は やはり静に通りすぎた︒かすかに頬が日に焼けた︑大様 と微笑を交換した︒が︑少女はそれも知らないように︑ 当らぬ為の蕗であった︒僕等二人はすれ違う時に︑そっ 40 ︵削除分︶ 時弊 一つ ﹁ 彼 ︵ 一 茶︶﹂ の 結 婚 生 活 も 決 し て 幸 福 な も の で は な かった︒生まれる子供も︑生まれる子供も︑皆夭折して 行くのであった︒︵ 中略︶さればこそ︑﹁唯頼め桜はたは た あ の 通 り ﹂ と 云 う よ う な ︑ 宗 教 的 な 句に 対 し て も ︑ 陳 腐な感じを起すよりも︑寧ろ吾々は何ともいえない厳か 41 な 感 じ を 起 す の で あ る ︒﹂ こ れ は 西 宮 藤 朝 氏 が 一 茶 の 生 を 云 え ば ︑ 西 宮 氏 は こ の 句 を 鑑賞 す る 際 ︑ 一 茶 の 伝 記 を が氏の態度に現れていると思うからである︒私の見る所 ぞ喋々しない︒私が西宮氏を難ずる所以は︑時弊の一つ にそれのみなら︑私は何も物知り顔に︑この句の価値な 全然私たちとは︑異った神経の所有者である︒しかし単 と思う︒この句に厳かな感じを起すと云えば︑西宮氏は ら ず ︑ こ の 句 は 一 茶 の 作 中 で も ︑ 見 る に 堪 え な い 俗 句だ ︶が︑私は一茶の生活を知ると知らざるとに関 の諸相﹂ 活を論じた文章である︵﹁国粋﹂十二月号所載︑﹁家庭生活 42 知っていた為めに︑眼光が昏んでしまったのである︒云 わばこの句の正体も極めず︑一茶の伝記が句の上に懸け た︑円光ばかりを拝んだのである︒この態度は宗匠連が︑ 芭蕉の﹁古池や﹂を難有がるのと︑邪道に堕在した上か ら見れば︑五十歩百歩と云う外はない︒これは独り句の みならず︑小説でも画でも同じ事である︒評家は常に作 品 に の み ︑ 作 品 の 価 値 を 求め ね ば な ら ぬ ︒ も し 作 品 の 鑑 賞上︑作家の伝記が役立つとすれば︑それは作品が与え た感じに︑脚注を加えるだけのものである︒この限界を 守 ら ぬ 評 家 は ︑ た と い 作 品 の 価 値如 何に 全 然 盲 目 で な い 43 に し て も ︑ す ぐ に 手 軽 な ﹁ 鑑賞 上 の 浪 曼 主 義 ﹂ に 陥 っ て がしないでもない︒︵二月五日︶ である︒引き合いに出された西宮氏には︑気の毒な心地 蕉︑ベエトオフェンなぞが軽々に談られるのを好まぬの が︑多少でも見えるのを好まぬのである︒ユウゴオ︑芭 忘却した︑上の空の鑑賞に流れ易い︒私はこう云う弊風 しまう︒惹いては知見に囚われる余り︑味到の一大事を 44
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