第189話 - 典和進学ゼミナール

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2015年3月号
塾長の徒然草
第189話
∼あぁ
高校入試∼
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典和進学ゼミナール
塾長 塚本 典雄
寒い日が続きますが、皆さん元気していますか?もうすぐ3月4日。この日が何の日か知ってい
ますか。そうです。茨城県立高校の入学試験の日なのです。私たち塾の人間にとっては年中行事な
のですが、中学3年生にとっては一世一代の勝負の日なのです。典和の中3生も流石(さすが)に気合
が入り一生懸命 頑張っています。「もっと前から今のような気持ちで努力していれば…」と思うの
ですが、人間 やはり自分の尻に火が付くまで楽な道を選んでいるようで…。いけませんねぇ。
―ということで今月の 徒然草 は私の高校入試について書いてみたいと思います。
私は中1の頃までは、それほど成績は良くありませんでした。(そんなにバカでもなかったけれど
……)。中1の後半から中2の夏休みまで努力を続けた結果 学年で(500人中)1番∼3番位の成績
を取れるようになりました。中3の6月まで新潟県新津市(現在は新潟市)に住んでいて新津高校に進
学する予定でした。それが父の仕事の関係で東京に転居することになり「ヨォ∼シ、それならば都
立日比谷高か、都立西高をねらってみよう」と考えたのです。
日比谷高校、西高校は当時、東京大学合格者数全国1位と2位の高校で、
「ビリで入学しても東大」
と言われていました。両校とも合格最低点が9科目で(当時は9科目入試だったのです)820点。ナ
ント平均90点では不合格になってしまうのです。私の転校先は中野区立第一中学校で、学区(第3
学区)は都立西高の受験が可能でした。転校した初日に、校長室で学年主任の先生から「いくら新潟
で成績が良かったからといっても、都立西高は無理でしょう。ここは東京ですよ。」と言われ「カチ
∼ン」ときた私は、西高合格を目指して一生懸命努力しました。そしてなんとか受験できるレベル
「ダメだったか」と思って
まで達することができたのでした。そして ― 取った点数が817点。
いましたが、色々と情報が入ってきて今年の合格最低点は790点台後半ということが合格発表前
に何となく分かったのです。担任の先生から「塚本、大丈夫 合格だ」と言われ「何で発表前に分か
っちゃうんだろう」と不思議に思いながらホッとしたことを覚えています。あと受験した高校は、
倍率が東京で一番高いというので難易度は分らないまま海城高校(合格)。担任にすすめられて学芸大
附属高校(合格)と教育大駒場(現 筑波大駒場高校、不合格)でした。開成高校は「日暮里にあって遠
いし受かっても行かないから」との理由で受験しませんでした。当時の優秀な生徒は皆、都立高校
をねらっていました。ただ私にとっては教育大附属駒場高校だけは誤算でした。問題がとんでもな
く難しいのです。新潟の田舎で教科書中心の勉強でヒーフー言っていた私の能力をはるかに?越え
る問題だったのです。社会で「あれ、これは簡単だな!!」と思った問題、
「関ヶ原の戦い」は何世
紀の出来事か?も間違えてしまいました。関ヶ原の戦いが起きた1600年は16世紀(1501∼
1600)の最後の年で私の解答した17世紀は1601年からスタートだったのです。(皆さん 知
っていましたか?)あとで知ったことですが『西の灘高、東の教駒(現、筑駒)』は日本で1、2を争
う超難関高校で『ビリでも東大』と言われる高校なのだそうです。とにもかくにも私は第一志望の
都立西高になんとか入学することができました。西高に入らなければ東大を目指すこともなかった
でしょう。そして高校3年の時、東大入試が中止にならなければ東大理Ⅰ→東大文Ⅰへの文転(理系
から文系に転向すること)もなかったでしょう。そして水戸に住むこともなかったと思います。人生
とは本当にどうなるか分からないものですねぇ。
塾生の皆さん!!皆さんの人生はまだまだ長く、その途中には色々なことがあるはずです。辛
いこと苦しいこともあるでしょう。しかしそんな時でも心は前を向いていてほしいと思います。皆
さん、よく覚えておいてください。
「自分の壁を破るのは自分の努力だけなのだ」ということを。そ
して前向きに頑張り続けていれば、必ずや 希望の光 が見えてくることを。