1990年春号

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イタリア半島を長靴になぞらえた時に、かかとに相
当する部分をアブリア地方と呼ぶ。ここはアドリア海
に沿う気候議曜の地で、オリーブやアi モンド、ブド
ウといった果樹闘がなだらかな長綾地帯一面に広がっ
ていづ令。
この附近には、石炭殺の袋盤が露出している場所が
多いが、その石灰岩をたくみに活用した独特な石緩み
6
の建築様式としてかトゥルリ(複数形はトゥル5
がある。トゥルリは矩形一千頭の援の上に石灰岩の薄板
を円銭形に桜み重ねたもので、ひとつの躍根がひとつ
の部麗に対応している。堅持援を築く場合に辻、まず、
部屋の中心位置にポi ルが立てられる。このポi ルに
結び付けられた級を問転させることにより正確な丹を
描くことが可能であるが、この円簡に沿って関心内状
に平板を鱗み上げてゆくことにより、正確な円銭形が
形成される。均配が二況のため、屋根の大きさは下の
部屋の大きさに比例し、これが町全体のシルエットに
軽快なリズム感をい今、えている。援協棋の頂部には幾何学
的な形をした棟飾りが品川けられているが、この捺締り
と外援の漆喰の白さが、風化した石灰岩のくすん
1階
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地下室芝{露重量}よりの務段
ベンチ
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炉
テーブル
ミシン
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α この捜部にはアルコ
ccc余りのトゥルロが残
(ふとい・あきら/東京大学生ぷ校総研究所助教授)
もしだしている。そこには素材と造形との融和がある。
めに切り取る円錘形の窟根とが、心地よい緊張感をか
色の集落とが美しく対比し、碧く澄んだ空とそれを斜
っているが、地中海の陽光の下、持豊かな問問と無彩
アルベロベロには現在⋮
の上で行なう。
宅“内を避け、編物や縫物などは一戸外に持ち出した椅予
の道は一騒のコミュニティ・スペースで、主婦は暗い
いる。住居は斜磁を上る道に沿って並んでいるが、こ
を中心に発達した町で、広場から放射状に選が延びて
指定されている。この町はかつての市場である小広場
アルベロベロはトゥルロの町として閣の保存地域に
める貯水槽をもつものもある。
いる。地下にワインの貯議席や屋根に降った雨水を溜
iブぬこ一ッチが多数造られ、収納や棚として使われて
一浮い所では一メートルにも及ぶ
と寝室が設けられる。駿一も石灰岩の切石で築かれるが、
アーチ状の入口を入った一昨が居間で、その脇に艇場
根と品出火しいコントラストをなしている。
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﹁伝考﹂
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と反論をもらいそうである。﹁その土地やそこに住む人ぴとに屈有な考え方﹂
性を強調すれば、個人の力で保存されてきた伝統の流れはどうしてくれる、
な性震を強調するようだし、﹁集団で保有する知識や判断の体系﹂とその全体
来の慣習や様式を引き継いだもの﹂といえば、伝統という一言葉のもつ受動的
すがにか伝統的なもの即ち古きもの々という人はもはやいない。しかし、﹁出
してしまう。簡潔な表現なり、的確な定義があればいいが、それがない。さ
か、そうでないものとどう区別するかということになると、いつでも答に窮
という表現を数多く使っている。だが、それなら本当に伝統的なものとは何
連﹂、﹁持続性﹂、﹁変化の度合﹂、﹁経済・技術的な見方﹂に分け、それらを比
整理したうえ、五つのカテゴリー、すなわち﹁本来の特質﹂、﹁時制との関
この概念の特質を表わした単語や短文を選び出し、それをまず一二八項自に
うトラディショナリティ(伝統性)について、さまざまな学問の分野から、
トの。伝統の特質について。と題した発表があり、注目をあびた。英語でい
のひとつに、グ住まいと文化(邦題アの著者として名高いアモス・ラポポー
史・建築論、そして社会学関係の研究者が集まったのである。その基調講演
ムが開かれた。全世界から一 O O人を越、える文化人類学、文化地理学、建築
住居と集落に関する比較研究の方法。について、はじめての国際シンポジウ
一九八八年春、アメリカのカリフォルニア大学バークレイ校舎で、グ伝統的
と一言えば、卒の根的な伝統は拾われるにしても、地域や民族の差を越えて理
較しながら伝統の問題を考えていこうというものである。
彼の研究は、総体的にはまだ文献学・修辞学的な段階で、これから、さら
結局、伝統とは何かと真面目に説明しようとすればするほど、それに要す
す指標を設け、それが環境の形成過程に表われるものご七項目)と、その
て、建築的な環境のなかに、伝統的といわれるものの特質が何であるかを示
に内容を発展していきたいというものであったが、その次の研究の準備とし
る一一一一同葉は増えてくる。古いか新しいか、保守か革新かといった簡単な対立概
落において伝統の問題を論じるのに、非常に参考になった。形成過程では、
デザイナーの主体性と麗名度とのバランス、ひとつのモデルがあって、人ぴ
成果として表われるもの(ニ0項目)とに分けて発表したことは、住居や集
たくさん羅列していくことで、こうした難問の答を得ょうとする動きがでて
とがどこまでその変異を認め、その国式をどこまで共有するか、それを自分
妙な対立までを合めて、伝統的であるもの、そうでないものの言葉の概念を
くるのも、無理からぬことであろう。
念から、集日出の意志に従うだけか、個人の意向を尊重するかなどといった微
いかない。
解が可能な伝統文化もあるわけで、生まれた場所や時代で定義するわけにも
住まいの伝統とか、伝統的な建築という白河合に、わたくしたちは﹁伝統﹂
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伝統をモデルとして膏て、次の世代がそれを受け継ぐようにするのが建築の教育である。
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等の指標があげられている。
自意識をともなったもので、かつ計画や構造の知識に裏づけされたものか、
ンを、暗黙の、非合法化された世界でどこまで行なえるか、それがどこまで
らどれを選ぴ、それをどこまで周辺の文化と調和させるか、 そ う し た テ ザ イ
たちの環境とどう関係づけていくか等が特徴となる。また、 複 数 の モ デ ル か
それらの要素の関係がグ伝統的な。といえるだけのモデルにそのまま育って
ひとつのモデルを他のモデルに変えてしまったと判定することはたやすいが、
経るにしたがい、やはり変化していく。それをいくつかの時点で比べてみて、
している点はまことに興味ぶかい。伝統的な建築でも、その構成要素は時を
にわたって、伝統的であるか否かの指標に用いられるのではないか、と提案
かつての民家地理学の方法は、伝統的な住居や集落のでき上った形態をつ
い っ た と 判 定 す る こ と の ほ う が む ず か し い 。 ラ ポ ポl ト の 視 野 に は 当 然 こ の
ぶさに観察し、それを地域ごとに比較することで、いくつかのモデルを発見
一方、伝統的な建築に結果として表われる特徴としては、建築の空間構成、
環境との立体的な関連は、在来の建築学的な研究にもたびたび登場している
することに全力を注いできた。地理的な空間に、こうしたモデルがどう分布
後者のような分析の姿勢が要求されているわけで、これまで結果だけを見て、
ので、そう目新しいものではないが、これに加えてラポポiトは、変化をつ
しているかが研究の成果だったのである。建築史における民家や集落の研究
平面の形態、内部と外部との関連といった具体的な事項と並んで、文化的背
けながら単一のモデルを使って、全体としてのスケールをどうまとめている
も、すこしは図面の精度は向上しているとはいえ、環境形成の結果を見たう
そのパターンの分析だけをモデル検出の道具としてきた研究者にとっては、
か、そのモデルによって、どれだけ環境そのものが読みとり易くなったか、
えでのモデル分析、それを空間軸から時間軸に移しかえていっただけのもの
まことに痛烈な批判として受け取られるのである。
その環境に加算、減算的な変化が起きても充分対応できるだけの自由度があ
に過ぎなかった。たしかに、伝統的といわれてきた住居や集落を様式化して
景や地域の特性がどれだけ表わされているか、毘囲の自然の素材やスケール、
るか、不可視なものも合めて環境の変化を多元的に感知できるだろうか、ラ
とらえるのは、歴史的な流れを整理して把えるには役立つが、それだけでは
地勢との調和の程度が指標になる。こうした伝統的な住居や集落とその周辺
い環境設定がなされたかどうか、などといったソフト蕊での特徴を、伝統的
イフスタイルやその他の社会・文化の状況変化についていくだけの、効率よ
強い影響を与えるものにちがいない。なかでも、伝統的な建築の論議の中心
な部分をなすものであって、これからの住居や集落の研究者に、なんらかの
こうした柔軟にしてかつ広い比較研究への姿勢は、彼の報告の最も特徴的
ルの背景にあるとし、それを住居や集落が多様化する理由としたのは止むを
地の、歴史学ではその時代の、自然や社会経済の環境の違いがこうしたモデ
ルがなぜ変わるのか、その動機すらつかめない。そこで、地理学ではその土
社会全体がかくまでにひとつのモデルに固執していたはずなのに、そのモデ
そのモデルが形成されていく過程がわからない。個人の選択の自由が少なく、
に、単一または複数のモデルの存在を導入し、そのモデルの扱い方によって、
得なかった。
な居住環境に不可欠なものとしてとりあげている。
その建築的環境が形成される過程と、造りあげられたあとの結果、 その一向域
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レ イ 派 の か つ て の 本 拠 で 、 ラ ボ ポi ト が 提 言 し た よ う な 学 問 の 傾 向 が 歓 迎 さ
て発展していったアメリカの文化地理学、とくにその最先端にあったバーク
時間の問題である。伝統あるドイツ文化地理学、そしてその批判から出発し
していくのか、そのメカニズムを解明してみようという視点が出てくるのは
ロセスも見てみよう、なぜほかの形をとらずにそうした伝統の形として定着
への批判が当然のことながら噴出してくる。そこで成果だけを見ずにそのプ
しい動向と出来の伝統といわれたものとの関係が予測できない、という学問
しかし、 そ れ で は 現 代 の 社 会 に は 応 用 で き な い 、 現 在 形 成 さ れ つ つ あ る 新
居住の商人らしい外観でほかと調子を合わせながら、内部では秘かに民族的
した集団への帰属は、地域の伝統を重視したもの、というのは単純だ。都市
で整えることで、村や町が独得の景観を生みだすよう努めたのだった。こう
役割を家具その他の内部空間に求め、外観はその地域の伝統的な意匠や構法
そこで、民族の個性や家族のまとまりを象徴するものとして、人ぴとはその
ればするほど、その基本型は似かよってくる。地域を越えた情報化もはやい。
ンが重なりがちで、各地で住まいの平面を生業に合わせて合理化しようとす
る。せまいヨーロッパでは、同じような農耕生産の方式、都市生活のパター
に少なく、民族的な違いよりも地域差のほうが自立つのがヨーロッパでもあ
的にさえ見える。しかしその空間の質の違いは、彼らは伝統をそのモデル形
伝統的な建築への愛着は、日本人よりはるかに強い。日本人にとっては保守
いくか、という段措で生まれてしまったのではなかろうか。ヨーロッパ人の
まいの空間、農村や都市の空間の差は、まさにこのモデルをどう受け継いで
さて、 こ の 問 題 の モ デ ル の 形 成 過 程 に つ い て だ が 、 日 本 と ヨ ー ロ ッ パ の 住
われるには、たえず情報を親から子へ伝えねばならない。伝統を育てるため
して評価してしまうことで、充足感を味わうのだ。次の世代でもそれが行な
複数のモデルを組み合わすことである。そしてそれも新しい伝統のモデルと
え出した。同一のモデルでありながら僅かのヴァリエーションを生かしたり、
位空間の中で、ヨーロッパ人は伝統の上に自分達の個性を表現する手段を考
こうした制約を市民の義務と受けとめ、ますます均一化しやすい住戸の単
な生活様式を守る、ユダヤ人のような知恵者が今でもいるからである。
成の過程で受け継ぎ、日本人は先人の伝統を結果として受け取るだけで、育
の享の根の建築教育である。子供達に伝統的な建物が尊重されてきた理由を
伝え、彼らが他の建物とそれとを区別できたときに、はじめてそれは彼らの
てながら受け渡そうとしなくなったから、起こるのだ。
文化地理学や民家史の資料によれば、ヨーロッパで伝統的といわれている
心の中でモデルに育つのである。ヨーロッパ人は、子供達が大切なものだと
ところが日本はどうだろう。たしかに北から南へ細長い日本、山あり海あ
住まいの形態には、それが農村型であれ、都市型であれ、地域と時代によっ
ッパだけでおそらく数百種に及んでいる。そのうち、構造とか構法上の原則
りの自然では、伝統的な住まいの様式は多彩に見える。しかし、多くの外国
気づく前に、自分達が継いできた伝統の遺産を彼らに受け渡してしまうよう
を共にしているもの、平面の構成方法や住まい方が共通しているもの、など
の研究者が、はじめ歓声をあげて取材に飛びだすが、そのうち形の違いより
て実に多くの型があった。建築材料の種類、屋根や壁の形態、装飾の方法な
を注意深くまとめたとしても、ヨーロッパの住まいの発達の基礎となった基
類似性の多さに気づき、一屑を落として帰ってくるように、日本の住まいは、
なことはしない。
本 型 の 数 は 、 ど う み て も 五O は 越 え て し ま う だ ろ う 。 そ れ が ひ と つ に な ら な
伝統的な農家であっても、パターンの数はそう多くない。とくに外観でいえ
どを考慮に入れれば、地方色豊かなこれらの住まいの外観の様式は、ヨーロ
いのは、ヨーロッパの多彩な気候と風土、そして民族文化に複雑な背景があ
ばその数は限られ、民家地理の分布図は、平面形式や建物配置の型まで加え
てやっと成り立っている有様である。構造や構法についても、グローバルに
ったからである。
ただ、 外観や構法の違いにくらべて、 住 罵 の 平 面 構 成 の 種 類 の 方 が は る か
ロッパに比べ極端に少ないのである。
れと同じで、街並みの格好は変わるが、日本の伝統的な町家の種類も、ヨー
見れば、一つの基本原理が一圏内でこれほど普遍化しているのは珍しい。そ
ルチェンジしてしまうところに、近代日本の特徴がある。それにはいろいろ
新しいモデル出現の期待が生まれ、そして第三段階で簡単にその新型へモデ
規模の変更とやってくるが、第二段階からすでに基本型の交換、というより
その平阪が誰と誰とのコンセンサスを得ながら伝統的なモデルになったか、
も平面の構成と用途との関係を調べ、研究に幅を持たせようとする。だが、
とはかえって悪である、だから避ける、という教育体制に責任があったので
よく知っているだろうからもう教えない、さらに組織だってそれを教えるこ
て強く言及するとすれば、新型のモデルを期待するあまり、伝統的なものは
原田があろうが、こと伝統継承のメカニズム、とくにモデル形成過程に関し
考えようともしない。結果として残されたプランを頼りに、そのパタi ン分
はなかろうか。それまで生活空間のモデルとして子供達の心に育ってきた建
そこで民家史研究者は外観より平面、つまり間取りを、建築計画の研究者
析で終始する研究が大半である。たしかにプロセスの研究は非常にむずかし
い西欧諸国の建築の伝統、知識のみの伝統と同格、あるときはそれ以下と見
築の伝統は、明治以降の教育制度のなかで、新時代に急いで学ばねばならな
なされ、それ以後は、伝統的なモデルを扱うのは、建築家でさえ敬遠するよ
いが、これからは少なくとも伝統や﹁伝統的なもの﹂を扱う研究者としては、
日本の伝統的な住まいの場合、数少ない基本型に平面構成の変化をつける
モデル形成へ至る過程を度外視する訳にいかなくなるだろう。
の技術、材料や労力の供給があったのである。しかし、ヨーロッパと比較し
だ多く残されている。しかし、そのモデルとしての形成プロセスを考えるこ
日本人の周辺には、学びとる対象としての建築の伝統はヨーロッパよりま
うになったのは、衆知のとおりである。
て日本では、伝統的な民家にヴァリエーションを与える時、木の構造がより
となしに、伝統の多少や優劣を論ずることは、読まないで積んである本の多
ことで、地域の差、時代の要求に応えてきた。それを可能にするだけの建築
自在であるだけに、一千面を変えるとそのまま立函も変えられる可能性が常に
少を論ずることと間様に、意味のないことである。
にあるのではなかろうか。
おおた・くにお/心東洋大学工学部建築学科教授
かに位置づけ、あたらしい伝統のモデルを育てることができるか、という点
干問題は、それらをヨーロッパと同じ程度に、どこまで住まいの建築教育のな
あった。とくに近世末期からそれは著しく、養蚕農家の要請でかかぶと屋根。
が出現したように、日本の伝統的な住まいは、平面の使われ方が行き詰まる
と、普通的な型としてのモデルの役割をすく放棄してしまうのである。
こうした変化の波は、最初は使用材料の変更、つぎに平面、 さらに立面や
出ドイツ・シュヴァルツヴアルトの出家
出江
いず、ぇ・かん/建築家
私設待機/鴻
噂
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層
﹁建築知識﹂﹁ 5 D﹂などの創刊を手が
﹁住宅建築﹂を創刊し現在にいたる。
かたやま・かずとし/建築家
東京芸術大学建築科助教授
りつつあり、いろいろな考え方、空間、新しい工法などが入り混じる混乱し
とくにいまの住まいの状況は、昔からあった秩序感みたいなものがなくな
宮とか伊勢神宮とかだったと記犠しています。それに対してきょうおいで項
議論がありました。そのときに日本的感性のバックボーンだったのは、桂離
日本的伝統といいますと、僕が大学に入る前、戦後間もない時期に伝統の
知っていた感性ってどんなものかを理解してみたい、というのがこの対談を
た状況にあると思います。ある記事で宮脇檀さんが、かつては住宅設計は設
いた出江先生がお書きになった本では、利休とか世阿弥を引用して住宅の設
片 山 き ょ う は 、 大 変 難 し い テl マ で す が 、 日 本 と い う こ の 風 土 で 脊 ま れ た
計のグ王道。で、創造の原点みたいな意味があったんだが、いまはそういう
計、空間を説明されておられます。この変化はちょっとおもしろいなと感じ、
企画した主な動機です。
感じがなくなってきている。最近の住宅というのは、形の遊びじゃないか。
素材感とか、かつて私たちがもっていたような住宅とはかなり違うニュアン
された住宅作品を雑誌等で見ていますと、室内の明るさ、プロポーション、
られるのを読んだことがあります。それに近いことなんですが、最近、設計
考 え て お ら れ る よ う で 、 リi ジ ョ ナ リ ズ ム と い う 視 点 か ら 日 本 的 感 性 の 広 が
こ と に つ い て 、 ま た 、 い ま リl ジ ョ ナ リ ズ ム 、 批 判 的 地 域 主 義 と い う こ と を
をごらんになっていて、日本の住まいがどういう方向に進んできたかという
築運動として幅広く考えておられる。長い間、編集という呂から厳しく住宅
平良先生についてはご紹介するまでもないと思いますが、雑誌の編集を建
ここでもう少し詳しくお話を伺いたいとおもっています。
スのものがあるなと思っています。そこでもう一回このあたりで自分たちが
になっちゃ、おれはやる気がないんだよなあ、というようなことを一立回ってお
ファッショナブルであればパッと収まっちゃうというような、そういう状況
住まいの空間と生活、そこにある感性を振り返ってみようという試みです。
現代のエ議化された材料を用いて利休の精神を表現すること H Hベンキの数寄屋。をテ
!?に﹁丸亀の家﹂﹁北摂の家﹂﹁逆瀬台の家﹂など住宅作品多数 q
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出I
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一総集者としてさまざまな建築雑誌に関わる。
ける。一九七四年に建築思潮研究所を設立、
たいら・けいいち/編集者
敬
寛
春
日
後
平
良
話なんですが、それくらい自分の美学に対して強い信念を持たなければいけ
つけられて殺されることになるわけですね。殺されてしまってはつまらない
ういったものの考え方があんまり昂じすぎて、秀吉の逆鱗に触れ切腹を仰せ
けれども、最初に予定調和でなく進めていくほうが、かえってどこかで合う
ないと思いますね。
おふたりのお話がどこでどうなっていくのか、実はよくわからないんです
りを伺いたいと思っております。
視点があっておもしろいのではないかと思います。それでは、出江先生から
関東と関西のちがい
である。土並一倍的なデザインになってしまう。
関西というのは伝統を引きずっているから、もっさりする。パナキュラー
要があるのではないかと思います。
次に関東と関西の違いみたいなものもまた、ここではっきりさせておく必
﹁住まいの設計と日本的感性﹂についてお話しをいただければと思います。
日本的感性なるものとしてのコラの美
二元対比、間合い、色気
ポストモ、ダンという一言葉がいま盛んにいわれているけれど、現在、日本の
。ホストモダンというのは、マイケル・グレi ヴ ス の 後 に つ い て 走 っ て る わ け
ですね。で、軽薄短小でノイズをいっぱい発生している。パンチングメタル
出江
やラッセラlを ち ょ き ち ょ き 切 っ て 、 ま る で 幼 稚 園 の 子 供 の ア ッ プ リ ケ を 張
関東というのは東京を中心として、伝統から断ち切られたところにあるか
私は昨年、ある大学で教える機会があり、話したことは、住宅を設計
最 近 考 え て い る こ と は 、 自 分 は デ ザ イ ン を や っ て い る の か 、 アi トをやっ
ら、非常にファッショナブルなんですね。端的な例として、伊東豊雄とか長
するうえで、日本的な感性みたいなものはたくさんあるけれども、キミたち
ているのか、どっちなのかをはっきりさせないといけないのではないかとい
谷川逸子というような建築が美学として登場してくる。そういうものの代表
るようにペタペ夕、ビルに張りつけて、赤、車月、貰に塗りまくっている。商
う こ と 。 そ れ で 今 年 か ら は は っ き り 、 デ ザ イ ン を や る の で は な く て 、 アiト
として原広司がいる。そして彼等とはデザインの方向が違うが撰文彦がいる。
は一一一つだけ覚えなさい、と。それは二元対比の美学、間合いの美学、それか
を や る ん だ と い う つ も り で い る わ け で す 。 デ ザ イ ン と アlト と 何 が 違 う の か
関商のパナキュラ!な建築家の代表として安藤忠雄がいる。彼はコンクリ
業建築としてはいいだろうけれども、本建築としては、あんなことやってた
というと、商業デザインといいますね、デザインというものの背景にはいつ
ート打放しのいわば泥んこを固めてつくる建築。最近、商業建築で名を売っ
ら色気。この三つを覚えていたらたいがい設計はうまくいきます。
も経済、お金がある。アl トといったときは、心を背景としているわけです。
ている高松伸なんかでも、黒い御影右とステンレスというように、自然の石
らだめなんじゃないかという気がする。
いま世の中は、社会のニ!ズに応えるということが盛んに一言われている。そ
とつながっている。毛綱毅暖だって、もともと関西において宗教的なにおい
デ ザ イ ン か アi トか
れ を 言 っ て お け ば 正 し い こ と の よ う に 忠 わ れ て い る わ け で す が 、 そ の ニ iズ
のなかにあるわけですね。
伝統を心に置くほ、つがいいのか、そうでないのかということについては、僕
そう考えていくと、関東と関西というものがはっきりしてくる。ところで、
に応えることはハウジングメーカーさん達にまかせることにして、僕はそれ
よ り 、 い い 建 築 ( アl ト)をつくる方向でやりたいと考えている。
利 休 は 京 都 の 山 崎 に 待 庵 を つ く る と き に 、 社 会 の ニ iズ に 応 え る た め に つ
は伝統を心に量いたほうがきっといいと思う。地方文化の時代といわれなが
じあん
くったのではない。あれはやっぱりおのれの心に忠実につくっていって、そ
日本もやっぱり、世界の国々と違った文化が表現されていかなければならな
同じ。日本中の建築がこんなつまらないことになったら情けないでしょう。
ら、新幹線の駅を見たら分かるように、東京も京都も名古屋も福岡もみんな
ところが、崎原瓦造の建物だったら、中まで煉瓦色でしょう。煉瓦は赤いから
そういう動くものはみな木目なんですね。建築はあくまでも無機なんです。
休というものが取り上げられ、たいそうにいわれるようになってきましたが、
ぶことを学問としているわけですね。今年は利休生誕四O O年 で 、 初 め て 利
た様瓦壁はざらざらしている。ざらつとしたものとつるっとしたもの、これ
される。また、木自のドアがつるっとしているのに対して、白ペンキを塗っ
ら無機に見えてくる。そうしておいて、木目の家具やドアが有機として対比
です。で、彼はどうしたかというと、煉瓦に白ペンキを塗ってしまう。だか
血の色をしている。ということは有機費にみえてしまう。それでは困るわけ
ぽつぽつ、もう少し日本のすばらしい美学を勉強したほ、つがいいのではない
もまたこ元対比ですね。
いのではないかと、僕は思っている。明治以降百何十年、いまだに西洋を学
かと思うわけです。
自然に対する二つの考え方
さらに自然に対する考え方というのも、日本には二つがあって、一つは自
アアルトも二元対比の美学
去年の夏、北欧へ J I Aの仲間と旅する機会があり、アルパ l- アアルト
た。僕は向こうへ行って、ああアアルトは利休の美学をやってたんだなとい
も、実際に行ってみると、そんなのは真赤なうそだということが分かりまし
う美学をつくっていくわけですね。その一方で神仏とか王侯貴族のものとし
べく自立たないように質素にやっとけというのが、世界に誇れる数寄屋とい
要するに、貧乏人である庶民の建築は自然のなかに漆け込んでおけ。なる
然に迎合する、溶け込むという美学、もう一つは白然に対立する美学。
うことが分かった。一一一一一日でいうと、アアルトは二元対比の美学をやっている。
て、自然と対立する美学が出てくる。その象徴として金閣寺みたいなンがあ
をいろいろ調べてみたところ、彼は有機的な建築家だと一言われているけれど
アアルトの建築というのは、プランが曲線対直線のこ元対比になっている。
無機的なものという対比。インテリアにおいても同じです。廊下があります
対比になっている。材料も、煉瓦という情緒的な材料に対して、金属という
錦版でやっているから繰色になりますね。色彩においても赤と緑という補色
なっている。そしてさらに、一方は赤い煉瓦で、一方は鍋版でつくっている。
でつながっていて、この四角い事務所部分と曲函のある劇場とは二元対比に
ケイカの家のプランをみると、曲面のある劇場と四角い事務所が渡り廊下
あんな巨大な格子状のものが、しかも、懸農にうわあっと見上げるように建
また、清水の舞台なんて、ユークリッド幾何学の代表みたいなもンでしょう。
そこに突如、八坂の塔みたいなやつがピユツと建つ。当時の超高層ですね。
っているわけです。東山なんて、つまらん山ですよ、だらだらしていて。あ
山﹂という東山三六峰にリズム・アンド・アクセントのアクセントの役を持
とによって、自然を生かしているということです。﹁ふとん着て寝たる姿や東
よ。金ピカが自然に溶け込むわけがない。大事なことは、自然と対立するこ
るわけですね。あれは衣笠山という山を背景に金ピカが建っているわけです
とね、必ず廊下の右と左の色を変えているんですね。一方が黒いまるっこい
っている。東山のやさしい姿のなかに溶け込めるはずがない。自然に溶け込
当然、空間も二元対比的になるんですね。
筒状のタイルをやると、片一方は白いタイルで、対比させているんです。里山
んでないけれども
は有名になるわけです。これは、自然に対立した美学なんですね。しかも、
4清水の舞台からとぴおりる。というぐらい、清水の舞台
と臼の二一冗対比ですね。伎の建築は二元論なんですね。
また有機的建築家だと言われているけれど、実擦は無機と有機の二元対比
あのころには、
ベケ
をやっているんです。どう無機と有機の二元対比をやっているかというと、
知っていたはずです。だけど、筋交いをいれたら×ゃいうことから、ベケに
X状 の 筋 交 い を 入 れ た ら 地 震 に 強 い ぐ ら い の こ と は だ れ で も
建築は無機、家具とドアは有機。動くもの、生きているものは有機。だから、
U
日
る手法を開発したわけです。いわゆる大貫の手法です。
せえへんのですね。そこで地震に対応するために、太い貫きで横ぶれに対す
片山出江先生の話に圧倒されて(笑)。出江先生は、いや、おれは社会的ニ
料、すなわち工業製品で造って、日本的感性を出せばよいことになるのです。
いうお話をいただいたわけです。その後を受け継ぐのは難しいと思いますが、
ーズに応える必要はないと初めに貫一廿一周されてしまって、一一元対比と間合いと
でもだらだら続くなかに、突如ピュッと鋭く建つのです。しかも赤い色で。
ど集
りつ
まを
でを
出 江 先 生 を は じ め 我 々 が 之に
乙た編
のく巨
通、し て 振 り
アルヴァ・アアルトの建築は、北欧の自然の平凡な、森と湖だけがどこま
赤と緑いうのは補色対比でしょう。赤は目立ちますわね。しかもピュンと三
返って噴けないでしょうか。
平良敬一
戦後建築史にみる
近代性と日本的感性との融合と相麹
角にとび出すのは、言い換えれば、山なんですね。金閣寺をアクセントとし
て自然が生きたように、アアルトの建築も自然の中にあってリズム・アンド・
アクセントになっている。あれは日本と向じ美学ですね。
コルビュジエは間合いの美学
コルビュジエはニ元対比のなかに、間合いがとてもはっきりしている。コ
ルビュジエの建築というのは、こういうのがよくあるでしょう。曲がった庇
平泉学校を出てから雑誌の編集屋でずっと通してきましたが、いまから振
の下にピロティがあって、この間に直線的な格子状の形態がある。それらは
影によって区切られている、言い換えれば間合いであって、それぞれの形態
は昔、えないので、今日のテl マ に ど れ だ け 応 え る こ と が で き る か 、 た い へ ん
り返ってみますと、そのときどきで関心がかなり移動したり、拡散したりで、
こういうことは、日本ではとうの昔、室町の中期に世阿弥が言ってますね。
おぼつかないのですが、編集屋としての生活のなかで遭遇した臼本的な感性
の独立性が高められていて、対比がおもしろい。この間合いの閤に赤や寅を
グせぬところはおもしろき。と。これは間合いの美学をいっているわけです。
ということにかかわるような、たとえばどういう建築家と出会ってきたかと
どうも自立した評論家ほどにも一貫した思想と方法で問題を追求してきたと
それはグしてるとこ々はおもしろいのはあたりまえで、かせえへんところ。も
塗っておもしろくしているわけですね。
おもしろくせえということですから、世阿弥がいう能の舞いの、動から静へ、
その前に編集屋になる以前のことを申し上げますと、私、沖縄の宮古鳥で
いうことについて述べたいと思います。
静から動へ移り変わる一秒か二秒の間合い、その間合いにも心を込めておも
うしようと言っていろいろ検討するわけです。しかし決まったら、ただ貼れ
たとえば、タイルや石を貼りますね。口問番を決めるまでは、どうしようこ
です。沖縄は日本かといえば、グヤマト文化圏。としての日本とはいえない。
になじみつつ、成長するに従い、グ日本的なもの。に興味をもっていったわけ
は東京の田舎、田んぽのなかで育った。そういう生立ちから、だんだん日本
生まれまして、六つのときに上京して、いまの北区ですが、都会というより
と一言ってタイル屋に任せきりですね。タイル屋はざっと貼る。何か忘れてま
これは日本の周縁地域であって、確かに日本文化からいろんな影響を受け、
しろせ、えということです。
せんか。それは目地を忘れてますね。タイル貼りや石貼りにとって、自地は
けて、それを眠噂する時代もあった。しかし何よりも独自のグ琉球文化園。
あるいはそれを吸鳴しようと努力した時代があり、また中国文化の影響を受
今 日 の テl マ は ﹁ 現 代 の 住 ま い ﹂ の な か で 伝 統 を ど う 生 か す の か 、 と い う
を形成してきた歴史をもっ地域であること、そういうところから出てきた者
グせぬところ。です。
ことですね。先に言ったように、二元対比や間合いといったものを現代の材
にとっては、グ日本的なもの。というのはすごく興味があるわけですけれど
方もあるのか、という印象を強く持ちました。
どを見ながら、伝統的なデザインを継承する方法にはなるほどこういう行き
日本的といっても、たとえば数寄の世界に一辺倒することなく、さまざま
築。観の影響もありましたから。三越かどこかで﹁新日本感覚﹂とかいうテ
持ちながら接したような気がします。いまから顧みると、教条的なか近代建
しかし向時に、これは近代建築とは違うのではないかというような疑問も
も、そこへのめり込んでいくような姿勢というか構えとは、二疋の距離を置
な臼本的なものというのがあるんだろうというふうに、非常に相対化して日
ーマの展示会があったんですね。吉田五十八さんが会場構成して、吉田さん
く心理がはたらくわけですね。
本というものを見る、そういう心理が絶えず働いていたような気がします。
次に出会ったのが堀口捨巳先生。学生のときに図書館などで著書を読んだ
が設計された非常にスレンダ!な、篠を巻いたような椅子が並べであったり。
り、利休についてのいろいろな論稿を読んだ記憶があって、その後﹁新建築﹄
藤島亥二郎さんの﹁桂離宮﹂という本によって建築に興味を覚え、それで
なるんですけれど、大変な住宅不足で、社会的な建築家たろうとするものは、
それで、なんとなくモダンだとは感ずるんだけれども、私が考えていた近代
住宅不足に対してかなり使命感をもって取り組もうという共通した精神の構
の編集に携わっているときに、堀口さんと初めて会う。初めてというのはお
なんとなく建築へ進むことになったわけですが、建築家とはどういう存在な
えがわれわれの同世代、あるいはわれわれの上の世代には共通してあったよ
かしいですが、作品に触れるのは﹁新建築﹄の編集時代なんですね。これは
で、われわれはそういうものに触れ始めたわけです。
うに息、つんですね。で、雑誌の編集をしながら、そういう先進的な、使命感
また、吉田さんのデザイン感覚とはずいぶん違う。茶室の研究ということで
建築とは達、っ。違うけれども、とてもモ、ダンで、日本的だというような印象
をもって活動を始めた人たちと、ともかくわれわれの雑誌というのは歩みを
は大変な蓄積のある人であるにもかかわらず、その作品で気がついたことは、
のかよくわからないままに建築学科を選んで、それからいろんなことに遭遇
共にしていかねばならない。そういうなかで、アバンギャルドというか、前
茶室が単に伝統的ではなくて、天井に非常にモダンなグリッド状の、上から
するわけです。なにしろ、敗戦の焦土のなかでわれわれは大学へ通うように
衛的な人たちの後ろにつきながら、一緒に歩みながら建築を勉強する姿勢と
照明を照らすものが使われていたり、意外に新しいことを茶室のなかでも試
それからもうひとり、同じように日本的だと感じながら触れたのは、士口村
みているんですね。そういうのがとても印象に残りました。
いうのがあったような気がするんですね。
そういう戦後の状況から見ますと、現在は大変な状況の変化で、使命感を
際建築﹄なんですが、吉田五十八さんの事務所の一隅を借りて﹃国際建築﹄
この、日本的な感性という問題にしても、私が最初に携わった雑誌は﹁国
がいろいろ論文を書きました。作品としては、都庁舎から香川県庁舎。世界
それから、円新建築﹂時代にわれわれが伝統論を企画したとき、丹下健三さん
ように日本的なものを感じを受けるけれども、相当大きな違い、幅がある。
順三先生の作品です。東京芸大にも吉田五十八スクールと吉村順三スクール
もって社会的な開題に建築として取り組んでいくというような感じは、もう
は始まったんです。ですから、そういう意味では、日本的なデザインに私が
的にもあれは日本的だといわ仕、われわれも何か日本的なものをすごく感じ
あまり感じなくなってきています。
初めて職業的に出会ったのは、吉田五十八さんなんです。といっても作品に
た。そういう現代建築における日本的な表情をつくりだした感性というか、
というのがあって、いまでもその系譜はあるような気がするんですが、同じ
触れる機会にめぐまれていたとはいえないのですが、ともかく吉田五十八さ
そういうものに出会うわけですね。そういう時代に、いまから考えると、す
日本的感性と近代合理性の共存を見せた建築家たち
んがいつもいらっしゃる空間でわれわれは編集したわけで、戦前の作品集な
つ/﹄
うのは、アプローチのしかたが大変むずかしいぐらい、複雑になってきた。
見が、意外に若手のほうから出たりして、そういう意味で、日本的感性とい
的なるもの﹂という観念にとらわれないでやるのが本筋ではないかという意
と理詰めで、工業化を目指すとか、合理主義をもっと徹底させるとか、﹁日本
い多くて、なにをいまさら日本的なデザインか、というような感じで、もっ
というような論文を書く。それに対して必ずしも賛成でない人たちがわりあ
ごく機能主義的な、前衛であった池辺陽さんが﹁日本的なデザインについて﹂
がどれぐらい外に広がりをもって定並一倍していくか。そういう興味を、私は出
していくか。出江さんの作風から離れてでも、山山江さんがつくり出したこと
印象がとても強い。これがどれぐらい今後の日本の建築の流れのなかに定着
す ご い 強 烈 な りl ジ ョ ナ リ ズ ム を あ る 意 味 で は 象 徴 化 し て い る 作 家 だ と い う
びたび扱っているわけですが、私の目には、出江さんはやっぱり京都出身で、
僕には見えました。そんなこともあって、内住宅建築﹄で出江さんの作品をた
しつこく引きずり出そうというような、そういう積撞的な構えがあるように
っぱり伝統のなかにある空間表現の語葉を現代的な空間言語に変換しようと
それと向時に、出江さんの白から見ると、戦後、あるいは戦前から日本の
江さんには特別持っているわけです。
hmなんてい
私なども、池辺さんの仕事なんかをみても、たとえば作品の
うのは、日本的な印象を受けた。これはどういうことなんだろうということ
で、いまだに整理はしておりませんが、ともかくそういう空間から日本的な
これほど広い幅をもった我々の感性というのはどういうものか。それと近代
こう考えてきますと、かなり幅があるわけですね。同じ日本的といっても、
んから出てくるのかな。これは非常に個人的な興味ですけれども、かなり重
思うんですね。そういうものに批評を下すとすれば、どういう一言葉が出江さ
るのか。そういうものと出江さんはある種対決の構えがあるのではないかと
近代化のなかであらわれてきた日本的な感性と見えるもの、それはどう見え
性ということと伝統的感性は対立的にとらえるよりも共存しうるものとして、
要な意味を持っているような気がしております。
感清というか、表情を読みとることがかなりある。
絶えずオーバーラップさせて考えている。近代的であるとともに、非常に臼
前川川園男にみる臼本的な空間表現
それから、もう一つ日本的な感性について一一一日いたいことは、前川さんの仕
本的でもあるというような潮流に、私は立ち会ってきたように思います。
近代建築が示すモダンな感じ、モダニテというか、そういうものと日本的
事についてです。私は前川さんというのはそんなに日本的な人ではないと長
観念であった。しかし晩年の作品ニつ、埼玉と熊本の博物館と美術館を見て、
な、伝統的な感性を引きずっているということとが非常にダブって、融合し
ところが、高度成長とともに、あまりこういう議論もなくなりましたが、
大変新鮮な印象を受け、これに魅かれるのはなぜなんだろうとずっと考えて、
らく思っていたんです。つまりヨーロッパ的感覚を身に着けた人で、一所懸
消えていったわけではなくて、そういう系譜はいまだに底流にはあると思う
出した結論は臼本の伝統的感性の表出がそこにあったということ。意外にも
ているようなところに、大変興味を、覚えていたということがあります。
んですね。そんな感じでいるところへ、ポストモダンというような議論がい
というか、やはりというか、日本的な人なんだなと。近代建築のパイオニア
命、近代建築の日本の嵐土への定着に努めた人、というのがいわば私の国定
ろいろ起こり始めた七0年 代 か ら 、 と く に 八0年 代 に 入 っ て 、 た と え ば 出 江
で、かなり戦闘的な構えでやってきた前川さんが、晩年に至って、おのずか
ポストモダン以降
さんみたいな人がパッといきなり出てくる感じですね。私は突然出てきたよ
それを言葉で言いますと、まだ整理不十分なんですが、大仰な技術的な工
ら日本人としての感性がごく自然に出てきたのを私が感じたんだなと。
私の印象で申しますと、出江さんが表現として打ち出したことは、いまま
法を積極的に建築のボキャブラリーにしていった前期から比べると、後半の
うな印象を持っている。
での日本的な空間表現のボキャブラリーとはちょっと異質でありまして、や
外部空間と内部空間の全体構成にリズムと秩序を作り出していく手法にな
たとえば埼玉美術館は壁構造なんですが、壁の配置によって、敷地を含めた
のたたずまいの表出とそれを展開していく流れの方に力点が移動していった。
このニつの代表的な作品というのは、あまり技術を表に露出させない、空間
話を伺い、学生時代、吉村先生に﹁住宅を難しく考えるな。自分が歩いてい
片 山 戦 後 の 四O年を振り返っていただいたわけですが:::。前川先生のお
にちがいないと思います。
日本的感性の問題は、文明と文化のダイナミズムのなかで問われ続けられる
マイナス評価を合めて見直すこともまた必要だろうと思う。日常性における
するラジカリズムは、いまなお鮮烈な記憶を残しているが、そのプラス評価、
って、玄関を入って、どういうふうに空間が展開したらいいかを考えたら、
る。門を人って、複雑に屈曲するアプローチの奥に、入口があるんですね。
着くまでかなり長いアプローチ。呂標へストレートに最短距離をいかない。
自然にできるものだ﹂というふうに教わったことを思い出しました。あれも
このモティ l フ は 都 美 術 館 で も 行 な わ れ て い て 、 門 か ら 建 物 の 入 口 に た ど り
目標を忘れるわけじゃないけれども途中を楽しむというか、途中を散策する
日本的感性だったわけですね。それでは出江先生、平良先生の話を受けても
ついては、相当幅広く柔軟なとらえ方をしたほうがいいのではないかという
そういう感性も日本的なもののなかにあるので、日本的な感性ということに
れども、からだを動かして歩いているうちになんとなく感じるというような、
姿の特徴ばかりではなく、そういうものとは違って、すぐは気がつかないけ
の子供でも分かるわけでしょう。こういうやり方は幼稚過ぎる。茶室という
赤、育、黄で、おもしろい形とおもしろい色彩で、おもしろいことは幼稚間
ヴスのおもちゃみたいな建築や積木の家みたいなのを盛んにやってますね。
性で、沈黙の感性といえますね。いまはノイズを発生したマイケル・グレー
出江日本の大切な伝統の美学というのは、食の感性、つまりマイナスの感
日本的感牲を現代にどう表現するか
││美学と地域性
う少し現代における日本的感性について、お話しいただけないでしょうか。
というか、そういう進路モチーフが非常に優勢なんです。
それまでの前川さんの作品にはそういうのはあまり例がなく、言ってみれ
ば、日本庭園で回遊式庭園というのがありますね、そういうものと感性的に
向じなんではないかなぁと思います。非常に屈折したり、曲折したり、迂回
してみたり、近代の動線のエコノミー、節約して合理的に目標に卒く達する
という意味の、単純なモダニズムとは違う。逆に、動線をやたら引き延ばす
方向にいっているような、大変ゆったりした感じを受けるわけです。
ような印象をもっております。
ようなものは、かなりの建築家でもその美学が分からないから、皆が美しい
それに僕は日本的な印象を受けて、日本的というのは、立面にあらわれる
現代の住まいにおける﹁用﹂と伝統的感性のゆくえは
僕は思うわけです。それはどうしてかというと、利休の美学というのは、お
と一一一一口うから美しいと言うてるだけで、本当には分かっていない人が多いと、
もしろくない色彩、おもしろくない材料でおもしろいものをつくるという、
さて現在の状況ですが、建築創造に加わってくる圧力、人びとの欲望、理
したなかで、日常生活の場である﹁住まい﹂の現代的な﹁用﹂と伝統的な感
念的なものと感覚あるいは感情的なもの、複雑で多様をきわめている。そう
非常に屈折した美学なんですね。
じることですが、路地も石の組み方がまっすぐだったり、ゆがんでいたり、
先ほど平良さんがおっしゃられた前川さんの道が屈折するというのにも通
性との統一を目指す実践も、多様な展開をせざるを得ない。その間に予定調
和を期待することよりも、不断の相租と抗争のドラマが必至だと覚培してい
るほうがよい。戦後の一時期、浜口ミホさんの﹁玄関﹂と﹁床の間﹂を否定
いろいろするわけです。数寄屋というのは数奇な運命を表現するもので、あ
れは自分の人生観を道の石にも託し、木にも託し、建築にも託していくわけ
(希望)を意味した絵がかいである。竹葉亭だから竹薮的なイメージで空
チェッカiプレートを、王体に造ったわけです。そしたら建設委員会で問題に
かをやるときに道路に鉄板がパ l ン と 置 い て あ り ま す ね 。 あ あ い う 鉄 板 と か
障子、クロスというように伝統的な材料で造っている。僕は、地下工事なん
J山る釘はたたかれる。という意味合いですね。僕みたいなんですね(笑)。
い 色 。 そ れ を ハ ン マ ー トl ン 仕 上 げ と い っ て 、 鉄 板 を た た い て 仕 上 げ て あ る
ーチには鉄板の銚ぴ石が造つである。鉄板は茶黒い色で、なんとなくしんど
アルミのピカピカと光った銀のチェッカープレートを使い、度敷へのアプロ
o
竹:来勾: 玄関ホールより「却しへの送。
です。そういう思いみたいなものを置き物にも反映をせなあかんわけです。
だから、利休は床の間に四君子は活けない、と言ってますね。四君子という
のは竹と梅と附と菊で、利子的な表引はしたくない、ということなんです。また
池坊専応は﹁花を活けずして花を活けよ﹂と一言っています。これはおもしろ
という思想なんです。
くない材料でおもしろいものを、おもしろくない色彩でおもしろいものを、
美しい花は呂をつぶって活けても美しいんですよ。でも花をスパッと切っ
てしまって、さあ美しい花を活けろと一一一一同われたら、どうするか。おのれの心
で花を表現するしかない。花があると、花という美しい素材に頼ってしまう。
花を断ち切られてしまったら自分しか残っていない。だから自分の心で花を
らみると、かぐや姫が見えていて、これがか人生の花道。を意味しているわ
間を造る。竹薮の中に入ると正面にかぐや姫を葺いた床の間がある。入口か
け で す ね 。 こ の へ ん ( 玄 関 ホi ル ) は か ぐ や 姫 の 威 光 が あ っ て 明 る い 。 と こ
している。玄関ホ!ルは花道で、こっちは不運な道として、空間のニ元対比
利休は自分の煮えたぎるような美学に確信とか自信を持っていたんでしょ
ろい。待庵の壁は田舎の牛小屋と同じように藁スサがいっぱい出た荒壁。床
である栄枯盛衰を意味しています。数寄屋の数寄の意味どおり、波乱に満ち
ろが、鹿敷に行くアプローチは鬼(鬼瓦)もいてグ人生の不運な選。を意味
権も大きな節が三つもある。床柱かて赤太、白太、木呂は流れている。この
ているわけですね。人生というものは、いいときもあれば、悪いときもある
れるんだという、すごい執念で待庵を造ったんですね。だから待庵はおもし
ように利休はことさら惑い材料でことさらにおもしろい空間を造っている。
わけですから、そういうものが数寄屋だいうことになれば、建築の空間自身
も、波乱に満ちた空間を造ることがおもしろいわけですね。だから数寄屋は
おもしろい。
なって、ロイヤルホテルの社長に呼び出されるはめになった(笑)。この竹葉
人生をたたかれて、たたかれて、苦難の道合通って座敷へ入る。ここ(座敷)
こ の 竹 葉 亭 で そ う い う 人 生 の 運 命 論 を や ろ う と し た ん で す 。 玄 関 ホi ルに
亭を簡単に言うと、真中に島にたとえた客席をつくり、一番奥の壁面には朝
んですが、同じホテルの中にできた他の料亭空間は、皆さん木、土、石、紙
です。この間、僕は大阪ロイヤルホテルの地下に竹葉亭という料亭を造った
僕はそういう美学を、この現代の空間の中で生かしたいと思っているわけ
現代の材料で現代の空間に数寄の美学をどう表現するか
うね。おれは神さまみたいなもンに頼らんでも、おれの力で美しいものが造
活けるわけです。
日
に鉄板の床の間がある。反対側の壁は渋紙を張って、二一冗対比させてある。
二元論等、日本の伝統的な美学を僕らは持っているのに、西洋ばっかり見に
行って、今のポストモダン風のガチャパイの建築をみんな造っているんです。
iρHU
竹:束手 和l
室の鉄板の床の1I
J
1。
関東の人はとくにそうやね。建築がガチャガチャや。騒々しいて騒々しいで
かなわんなぁという建築。
片山だんだん関東の分が悪いようですが、平良先生いかがですか。
平良どういう聞いを発したらいいか戸惑っているところなんですが(笑)、
要するに、出江さんの、ま張していることは、歴史の中で形成された日本の最
高の美学、それは利久の到達した美学である。それをリコンストラクション
して、普遍的な建築美学にしようとしているのだと思います。その一方で、
我々はのんびり、ゆったり、のびのびとしたいというような気分もあるわけ
ですよ。さっきの自然に対抗して建てる、それによって白然がかえって生き
1
芸
竹葉 Á;~二の写真=村井
てくるという話の、自然のほうに身を置きたいなという感じもあるわけです。
そういうのはどうでしょう。というのは、住まいの中でそういう美学で押し
まくる部分と、さっと緊張を解いていくような空間というのと、現代の住ま
いには両方必要なような気がするんですね。
平良それを一つの住まいのなかで実現できなかったら別荘をつくるとか、
出江そうですね。
日 本 で も ヨ ー ロ ッ パ で も 、 都 市 生 活 は か な り ガ チ ガ チ な ハ i ドな構成になっ
ていくような状況の推移のなかで、現代の住まいに必要なか用。というよう
なところから考える、そのへんについて出江さんはどうお考えなんでしょう。
サ臣への浴 を反鉱して現i1iへと入り込むと、そ
こは 鬼 の 道 " で あ る ( ハ ノ マ ー ト ン 仕 上 の 鉄 板
を飛石とし、蛇紋右~苦と見 fこて C いる)。
のさらびやかなものと、鉄さぴ(数与を悉味する)
の深い表情と力対比三されている 2 正面にはンルク
の打ちかけ(アルミハ/マート,,)仕上げに包忘
れて かくや舷カ誼力れている。
出江用というようなことは、あってあたりまえのことだし、その辺のこと
は、先にも言ったように、ハウジングメーカーに任せておけばよいことで、
建築を造るときは、用のうえにたって考えるべきだと考えています。しかし
我々は今、平良さんがおっしゃったように、用に追い回される日常の生活で
あり、建築のプランも用さえ足せば良い、というのが今のマンションや住宅
いる。また、別荘を造れる人は良いが、それができないサラリーマンも大勢
で、生活のゆとりのなさがそのまま空間のゆとりのなさ、心のなさになって
竹薬事平面図設計ニ tl~ f
[
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一歩足を l
:'iみ込仁とそこは抽象化された竹薮で、
今、夜が白々と明けようとしている。
そニには
.,!への道"と 4鬼への辺町がある";歪への逃刊
は銀色(チヱソカーブレートカ竹の築会窓味する)
1
'、
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キ
目
当
事
にたどりつく 1 刊
さE
の正副にほ古びた訟の床の間
があり、ハロゲノ刊の鋭い光すりも底知れぬ深い
Pみへと段収してしまっている。天芥にはラスと
ハノテノグメタルどで 3.Eに3
凡まれたあじろ力、あ
り
、 すの 2奏"の'"力、こらりそ与うンランとした同て
附んている“然数の穴のむこうじは、笠数の沈引
の間労力、作花 iている自
建築やインテリアを芸術的に造ればいいですね。
必ずしも自然ばかりではないですね。芸術だって心を潤してくれるのだから、
中に身を置いて、心に潤いを求めることなのだから、心に潤いを求めるのは、
いるわけだから、 そこを考えなければ意味がないですね。別荘とは、自然の
と紙障子と襖と床の間でしょう。四面とも違うわけですね。四面とも違いな
たつと壁にしてしまいますね。比叡おろしが入らんように。だから楽楽の壁
紙障子があって明るい。北側を向いたら、京都なんかやったら寒いから、べ
南側は冬はぽかぽか暖かく日を入れるために、広縁があって、庭があって、
J
うことを先生は教えてくれなかった
がら一つの統一英をもっているところがうまい。そういう四面とも違うとい
くために、いつまでも茶室みたいな、風鈴の音を聞いて涼しいなんて言って
表現を常にフレッシュにすることが利休の教え
住宅というのは、子供もいるし、家族のなかでダイナミックに暮らしてい
いたら、それはやっぱり滅ぴてしまうと思いますね。しかし、風鈴ほど重要
や っ ぱ り 、 い ま 忙 し す ぎ て 、 み ん な 心 が 亡 ん ど る ん や と 思 い ま す 。 経 済l l
でやっているわけです。僕にはちっとも興味がない。そんなマンネリズムの
数 寄 屋 建 築 と い っ て も 、 い ま だ に 木 、 土 、 石 と い う 自 然 の ロ i テックな材料
江戸の中期ぐらいに、ほとんど日本の美学は完成してしまうわけですね。
お金ばっかりが前に行っているような状態ですね。いまますます忙しいとき
なものはないとも思うんです。忙しいという字はグ心が亡ぶ。と書きます。
にこそ、何か考えていかなあかんのではないでしょうか。
利休はどう一一一一口ってるかというと、利休の弟子の山上宗二が﹁茶の記﹄とい
建築をやれとは利休は一吉田つてない。
建築のなかで伝統的なものを生かして造るということを言いたかったので、
コルビュジヱを出し、アアルトを出したわけです。アアルトも、コルビュジ
エも、それからアスブルンドの斎場もみんなこ元論、日本的手法でやってま
を出すべし﹂。一
うのを書いている。その﹁茶の記﹂のなかに、一五歳から一一一O歳は﹁師の教
えに従い﹂、先生のいうとおりにやれ。三O歳 か ら 四O歳は﹁一 O のうち五我
O意見があったら五ぐらいは、四O歳にもなったら自分の意
すよ、だから現代の住宅をやるときも二元論でやったらどうですか、といい
見を一一一一口え。四O 歳 か ら 五O歳にもなったら、﹁師と、西と東と違えてするな
り。茶を若くするなり﹂といっている。それはどういうことかというと、た
たいわけです。
僕のつくっている住宅のほとんどは、実はニ一光論でやっているわけです。
にやってみろ。そのことが茶を若くするんだということですね。フレッシュ
とえば利休が西向きに茶を立てたら、弟子であるおまえは東向き(反対向き)
僕らが学生のころに、先生によく日本の建築というのは木と土でできてい
にするということでしょう。大変大事なことですね。創造性を持ち、お茶は
それは対比の美学なんですね。
て、それはニつの材料、ニつの色で出来てんのやと教わった。おひつもそう
フレッシュでなければつまらないよと教えているわけです。
いまは、師と反対のことを言ったら、破門ということになるわけですね。
やし、日叶風もそうやし、紙障子いうたかて木ゃないか。柄杓も木ゃないか。
そういうふうにみな木と土だけでできンのや。だから統一英のある美しいも
にだまされておった(笑)。例えば和室を例にとりましょう。本床やったら、
いたのかというと、そんな簡単なものではない,んですね。僕は長いこと先生
それじゃ、日本の建築がそういうニつだけの材料で単純にデザインできて
やれと言っているわけでしょう。だけど、何をやってもいいということでは
利休であり、一休であり、光琳であり、芭蕉である。その師と反対のことを
伝統の美学が師になるわけですね。それは藤原定家であり、世間弥であり、
僕にとっては師という人は誰もいなかったから、何が僕の師かというと、
利休は﹁おれと反対のことをせよ。もっと茶を若々しくせよ﹂と。
床柱があって、隣に違い棚があって、床の間の向こう側には次の間があるわ
ないんですよ。 これは大事なことなんですね。師の教えというのは、心を説
のが生まれたんやと。
けでしょう。控えの簡とかふとんの間とかが。なら向こうは襖ゃないですか。
同
FJ'
l
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ここに措書で書かれた書が四角くパ i ンと大きいのが吊つであります。そし
たら、棄と草のぶつかるところでどうなるか、四角いのに丸太がぶつかった
いたわけですからね。それはどういう心かというと、ストイックで、創造性、
ら、どうしても小口が出てきますね。この小口が出ないようにするにはどう
て、書院づくりのように、角材で全部できているわけです。そこにつづく﹁草﹂
そういう精神は変えることなく、しかし表現していくものはどんどん変え
の部分としての落し掛けは丸太でできているんですよ。丸太をそのままいっ
なさいと言ってるわけですから、建築というものも、いつまでも和風の建築
するか。それは削らなきゃしゃあないわけです。そこでタケノコ状に削って
アイロニカルな美学。そういう心を教えられるわけです。そやから、そうい
は木目と緊楽の土と紙障子でしかできないというのは間違いで、むしろ僕の
いるんですよ。
うものは欠いたらあかんわけなんですよ。
いうかペンキの数奇居。であってもいい。日本の感性の深きであるとか、静
ついたら丸太になっている。丸太をこうス!ッと見ていって、ふと気がつい
しょう。﹁亭﹂は丸い材料でしょう。それがス l ッと見ていったら、ふと気が
けれども、なにげなく見てると、見落としてしまう。﹁真﹂は四角い材料で
しかできないということではないんですね。
たら四角になっている。その真から卒へ変わるこの間の部分が﹁行﹂で、真・
けさとか、幽玄とか、そういう思想性を表現するのは、なにも来楽と木目で
﹁宙開・行・草﹂の併存混在
行・幕。﹁行﹂が間合いの美学やね。
この﹁行﹂の部分は、襖紙にここだけ松の絵が墨絵でかいである。僕らが
片山住まいそのものというよりも、住まいの空間をつくる場合の美学のほ
いう言葉をよく言っています。﹂伝統のなかで、書院というのは規範そのもの
うに偏った話になっていると思いますが、大江宏さんが﹁併存混在﹂なんて
正面に座ると、ちょうど真中に床柱と床柱の聞にぽこつと穴があいている。
合いをおもしろくするために、間合いとして絵が出てくる。グせぬところおも
だ。そういうかたい、専門家の造った書院建築に対して、数寄屋が出てくる。
それを分けてどっちがいいんだと言わないで、書院と数寄屋を混在併存さ
しろき 6ですね。﹁真﹂は具象でしょう。草は抽象でしょう。具象と抽象の聞
その向こう側の襖にだけ松がみえてくる。それは﹁真﹂と﹁草﹂との間の間
せるべきじゃないか。﹁粋﹂という言葉を、出江先生はよく使われています
をおもしろくしなさいと言っているわけですね。﹁行﹂をおもしろくしなさい
数寄屋というのは脱規範です。
が、野暮がなければ、粋が引き立たない。出江流二元論を借りれば。その、
とい、つんで、ここに絵が出てくるわけです。
書の世界でも同じです。一休が一一幅双幅の書のなかに﹁諸悪莫作、衆善奉
﹁混在併存﹂というような問題については出江先生はどうお考えでしょうか。
出江そのいちばん的確な答えが、一休の美学﹁真・行・草﹂という答えに
行﹂というのを、最初の﹁諸﹂いう字は措書で書いて、その次は行書で書い
なって遠州が出てきて一休の美学を建築にするんですね。それがこの密庵席
なると思いますね。書院というのは﹁真﹂だと思、つんです。﹁行﹂は数寄屋。
で、それを的確に表現したのが小堀遠州なんですね。これは私流の美学か
なのです。住宅を造るときも、こういうふうにつくることは十分に考えられ
茶室は﹁草﹂なんですよ。これは横書、行書、草書ということでしょう。
らの解釈ですから、当たってるか当たってないか分からないですよ。だけど、
るわけなんですよ。﹁併存混在﹂に対する答えが長くなってしまいましたね。
の芙学をしているわけです。それを建築化していくのが、ずっと後、江戸に
ι 負してるんです(笑)。遠州がつくっ
たぶん一 OO%当たっていると自分で 自
平良非常によく話は分かったつもりなんですが、たとえば書院造りと数寄
て、最後の二文字は草書で書いて、一休がすでに室町のころに﹁真・行・草﹂
た密庵席というのは国宝ですからね。あの密庵席はどうなっているかいうと、
屋、利休の茶室とその中間に桂離宮というのがありますね。
﹁真﹂は具象画なんです。﹁草﹂は抽象絵画。
真と行と草が併存混在している。﹁真﹂の部分がどうなっているかというと、
要するに片方は武家の文化の中から山山てきた、ものすごい豪華なやつの代
ずっと室町の末期ぐらいにかけて武士道が項点に達し、武士道が下り坂にな
あほらしくて、もう武士道やめやということになるわけです。鎌倉時代から
をかついでたやつが鉄砲を速くからパンと撃てば、ぽんと死んでまう(笑)。
鉄砲が出てきたからですね。武士が修線に修練を積んでも、きのうまで肥桶
ろうとしているわけです。混在すればするほど間合いが大事になるわけです
から、世界中のいろんなアlトや思想が入り乱れて、一二元論から多元論に入
造るときに、なにか規範とか美学が欲しいと思うわけなんです。世紀末です
んびり暮らせばいいんです。住み子を規定する気は無いですね。僕が建築を
しい話なんか知らなくてもよいのです。二元対比の間合いで好きなようにの
切るのはなかなかむずかしいのではないかと思うんですけれども。
あるような気がしているんです。そっちのほうからみると、全部美学で押し
なくて、逆に混在していくというのでしょうか、その閤に生活というものが
でしょうか。二元対比がパッと分かれているという解釈を位置づけるんじゃ
るところに対する広がりというか、つながりについてはどういうお考えなん
ども、現代の住まいという、凡庸かもしれないけれども普通の人が住んでい
片山二元対比と間合いという先生のお考えは、非常によく分かるんですけ
す。やっぱり利休の功績は大きいと思いますね。心であるということです。
を最初に言い出したのが利休で、あの待庵という形になって出てくるわけで
ら、逆にずっと離れたところのものを京都の美学で見ちゃうという危険もあ
があるのか。京都に住んでいると京都の伝統のなかにすっぽり入っているか
域差というものは出江さんの美学のなかでどういうふうに表れてくる可能性
とえば関西と関東という差だけじゃなくて、沖縄と北海道とか、そういう地
てくる差異というものがありますね。地域性。そういう視点でみますと、た
かいろんな儀式、ずっと長年丹にわたって蓄積された、そういうものから出
みて、いろんな気候風土や地勢、そこで行なわれてきた生活の伝統、慣習と
平良美学のほうは、私なりに分かるんですけれども、こんどは全地球的に
建築の地域性をどうとらえるか
ある人は、間合いもおもしろくしてくださいと言っているわけです。
耳恵講者をj!J!えて1fなわれた会場。
表ですね。それに対して、田舎家なんかをモティl フにした庶民的なもの、
だけど単純なものじゃないですね。おそらく書院造りに対抗する熱情という
か、抵抗するような構えからあらわれたのが茶室という複雑な構成体でしょ
うね。一言ってみれば、あれは反体制の建築だと。出江さんもそういうふうに
書いている。そこへこんどは古代以来の貴族の伝統が二つの閤に入って吸収
出江そう思います。
するのが桂離宮じゃないか、というふうに解釈しているんです。
っていくなかで、ちょうど関ケ原の戦いが起こる。そして日本は疲弊するわ
ね。間合いさえ置いていけば、混夜しでも、きっとそれなりに美しくなると
関ケ原の合戦から武士道は廃っていくわけです。なぜ廃っていくかいうと、
けですね。そのときに何が人びとにとって大事なものかというと、金銀とい
出江今までの話は、建築家がどう設計していけばよいのかというような、
ると思うんです。
だから開合いが重要となり、その間合いをさらにおもしろくできる能力の
心掛けや手法を話したのであって、住み子はこんなめんどうくさい、むずか
みんなが物費本位、金一銀本位のときに、大事なものは心ですよということ
僕は思いますね。
を絵解きする I'B~~[ Y:!:氏。
うことになる。
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成法州、!の昔;
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のにやっぱり二元論。それはどっちも風土に合っているわけですよ。どっち
って、マラサラパイの家とかチャンディガl ル の 建 築 と か 。 あ ん な 暑 い 国 な
素材も二元対比でできている。コルビュジエは、インドに作品がたくさんあ
寒い国のなかで十分にニ元論をやっている。プランも二元論でできているし、
よく分かるわけですよ。先ほどのアアルトは、北欧の、冬に閉ざされている
出江美学と地域差というのはまた別で、それはやっぱり世界を見てみると
いぶん違うが、間合いをちゃんととっているわけです。世界に誇る名建築は
隙間風という原理は一緒なんです。で、できた建築は、日本とインドではず
ういう違いがその国の風土、デザインとしておもしろいのである。けれども、
千本格子、インドは穴だらけという形で、しかもインド砂岩。日本は木。そ
ていく。隙間風の原理でこの王城をつくっているわけですね。日本は直線の
る。風の館にはちつちゃい穴が蜂の巣のようにいっぱいあいてて、風が抜け
は 千 本 格 子 に な り 、 イ ン ド で は ジ ャ イ プl ル に あ る ジ ャ イ シ ン の 嵐 の 館 に な
同じなのに、冷たいでしょう。隙間風の原理ですね。隙間風の原理は京都で
そういうように美学を使いながら、寒い国と暑い国とは材料や形態が違っ
も間合いをちゃんととって、二元対比でできている。だから、極端に暑い国
平良それは分かるんですよ。ただ、美学はあくまでもか学。で、理論なん
ている。それが悟性として出てくるわけです。日本は千本格子で日本人らし
みんなそうです。きちっと間合いがとれている。
ですよ。だからそれは分かる。だけど、その関じ原理を適用した場合でも、
い。日本の思想的には、直線という清廉漂白な、そういう思想みたいなのが
と極端に寒い国を対比しても、二元論という美学をちゃんとやって高い評価
やっぱり地域的な差というのが出てくる。全部か山山江。になるわけじゃない。
出てくるわけでしょう。インドは、こういう穴をあけて、ぐにゆぐにゆとし
を受けている。
同じこ元対比の美学を適用しても。やっぱりインドの人がその土地でつくる
た塁茶羅的な色合いのものが出てくる。それが個性だと僕は思う。
リカの一元論の日干煉瓦を積んだものが、たまたまおもしろいだけであって、
しかし庶民性のなかに美学を見出していくのは日本だけで、さっきのアフ
ものとの関に差が出てくる。グ出江。でない﹁人間﹂が出てくる。要するに﹁人
格﹂が出てくるわけですね。
日本が世界に誇れる美学というのは、庶民性のなかから生まれてきた美学で、
材料に寄る精神
とか簡素芙とか、静けさとか、そういう思想をもってやっている。
特別美学を持ったわけではない。しかし利休ははっきりとした美学、二元論
それが利休によって筒素芙という数寄屋に移っていくわけですね。それは貧
平泉もう一つ、最後に締めくくってほしいんですけれども、要するに個性
先ほど言ったように、世界の名建築というのは王侯貴族のものなんです。
出江そうですね。それはたとえば材料で出てきますね。
乏人の美学なんです。牛小屋と同じような丸太や土壁で国宝になるようなも
とか風土による差異とかは、材料によって出てくる。これは分かりました。
れども、まだまだ産業社会隆盛で、産業社会のなかで生み出されてくる画一
の、簡素美というものをつくりあげていくわけです。それは日本だけのもの
的、均霊的な材料に、我々は取り固まれているわけですね。そこで難しいの
ところが、我々が住んでいる社会というのは、ポスト産業社会なんていうけ
ところが、インドやアフリカなんかへ行くと、一元論でできている。土ま
は、材料によるといっても、日本で作られる材料とフランスで作られる材料
なんです。
んじゅう、日干煉瓦を積んでおわりというようなもの。一元論は一元論のお
出江僕はもう一つ、うちの所員に言っていることがあります。それはソリ
さんはどうされるか。
は、近代工場生産である限り、そう大差ない。そういう状況のなかで、出江
入 れ る 仕 掛 け で す ね 。 冬 に な っ た ら 、 手 が 冷 た い か ら 息 を ハ l ッとやったら
日本は、京都なんかでも暑いから千本格子というのが生まれた。隙間風を
もしろさがありますね。それなりの。
暖 か い 。 同 じ よ う に 、 熱 い お 茶 が 出 で き た ら 、 フl ッと吹く。身体の温度は
のを使え。パイプは使うなと。たとえば金メッキされたものがあったとしま
ッドを使えということ。重要な美学の必要なところにはソリッド、無垢のも
に頼れば下手くそな建築も美しく見える。自惚れたらあかん。石の力を借りて
す。石は神さんがお造りになったか花。なんですね。その石という美しいか花。
逆に一言うなら、下手くそのデザイナーは石を鮎っておきなさいということで
石のもう一つ大事なことは、グ石のように押し黙る。というでしょう。黙る
すわね。片一方は鉛の無垢でできていて、どっちも一万円。どっちをとるか
これは文化を造るのか、文明を造るかの違いで、文明はやりたくない。文
というのは沈黙です。神へ心を通じさせるのは、一言葉ではないですね。たと
いるだけなんだから。それが﹁花を活けずして花を活けよ﹂の美学になると
化をやりたいんだという思想。それは冒頭のアートか商業デザインかの話で、
えば﹁故人の冥福を祈って一分間黙龍﹂をする。これは言葉ではなく、沈黙
といったときに、うちの事務所では鉛の鉱山拐のを使ってくれ。金メッキは使
売 ら ん か な 主 義 な ら は げ た っ て い い ん で す よ 。 五 年 か 一 O年 の 単 位 で 流 れ て
なんですね。沈黙から始まって沈黙に終わっていくのが神へ通じる心なんで
思うんです。
いくのだから。同じ値段だったら、パッと目には問金のを一般大衆は買うだ
す。そして沈黙から生まれてきたのが石だということ。だから、石というの
わないでくれ。メッキははげるということです。
ろう。鉄の塊の同じかっこうしてるのだったら、そんな馬鹿な、文鎮にしか
一言葉というのは限界がある。だけど、沈黙は、宇宙のかなた、どこまでい
は常に沈黙を背景として存在する建築材料なんです。
そういうデザインをやれということです。
ならんのはやめとこうということになる。けれども僕は文鎮のほうを買う。
みたら、石の厚みなんて分からないはずでしょう。見えないのに、無垢の石
ま一一一一口ったようにある厚みのあるもの。ビルに石が貼つであるのを真正面から
いう、ある厚みをもったもの、それから金属類のすべてだけれど、それはい
ンクリートブロック、アスファルトブロック、それから、木毛セメント板と
ま具体的に精神性のある材料をあげてみろといわれたら、コンクリート、コ
高められないんだなと、強く感じたんです。けれども、平良先生が言われた
らしいと思いました。感性というのは国有の地域というようなものがないと
られている強さというのでしょうか、きょうの出江先生の美学も、実に京都
町家とその文化を育ててきているというお話をお開きしました。地域に鍛え
いうと、お宜いに見られているという感覚が非常にあって、そういう感覚が
片山お正月に京都の町家を拝見したんですが、京都の町家は何がいいかと
ったって存在している。沈黙というのは無限大の表現なんですね。
がどんと積んであるのと、ぺらぺらの石を貼つであるのはすぐ分かる。それ
はないかと逆に思いました。また今日は作る側の意見だけでしたが、暮らす
もっとゆるやかな感性、あるいは地域によって異なる多様な感性も、大事で
工業製品のなかにも精神性を持つものと精神性を持たない材料がある。い
は 石 が 知 ら ぬ 聞 に 人 間 の 霊 感 に 影 響 し て 、 ぺ ら ぺ ら や と い う メ ッ セ i ジを出
側の感性、それを掘り起こしたり協調していくアプローチがあってもよいよ
してるわけです。だから、できるだけ同じ単価だったら金メッキを使うより
も、要するに鉛か鉄でいいからソリッドのものを使え。これが利休の重要な
うに忠っていたのですが:・・:。それにしても出江美学のパンチは強かったで
{-H- 口、川町川会議市にて
すね(笑)。他の感性の話は皆ノックアウトされてしまいました。
美学だと思いますね。
いまは鉄といえば安物だ、ドブのふただと思ったら安物だと、こうなるわ
けです。だけどそれが美しく見えてきたときに、それはその材料に人の心が
乗 り 移 っ た こ と に な る 。 心 が 乗 り 移 っ た と い う こ と は アiトになるんですね。
だから、自分の心を乗せるに耐えられるだけの、精神性(ポテンシャル)を
材料が持っているかどうかということを、建築家は見抜かなければならない。
口
孝次部/よしだこじ﹀
ーがのすまいろん
*mwの写
EH(
は古川孝次郎氏提供
聞き手口益子義弘/れれ一一れれれれ建築家
写真撮影日木寺安彦
創建時の姿に復元されている吉田邸の外観。
向かいに松坂屋の京都仕入底という江戸の中期以
降の大庄がある。室町というエリアのなかでも、
名だたる商人が住んでおり、一生に一度はそうい
う町内でしっかりと高いをしたいという憧れの場
と、じいさん、おやじ、僕と、三代続けてここに
ここへ落ち着いたのが明治四二年。それ以来ずっ
れて、自分の商いにふさわしい家をさがし続けて、
町内に住んでおりまして、商いが大きくなるにつ
吉田この家に住まうようになる以前は、隣りの
この町家の歴史を簡単に伺えればと思うのですが。
エリアとがダブッているわけですね。で、自分は
吉田京の呉服を商う商人のエリアと祇園祭りの
所へのこだわりでしょうか。
益子それは商売の関係というよりも生活する場
離れることはできなかったんでしょうね。
カ町で生まれたわけですので、やっぱりそこから
りの三二ある山鉾のなかの函谷鉾という大きな一
吉田ええ。商いに敏ですよ。
益子まさにか商い。ですね。
らって、さっと買い取ったようです。
けて入ってくるんですね。そういうチャンスをね
商いが逼塞して出ていかれる。そこをうまくみつ
き上がっておって、その普請の途中で、前住者は
ゃなかったようです。府舗棟と住居棟はすでにで
所で、ようやくここへたどり着く。
住んできたわけです。その問、商いに応じた家に
呉服業を志す。やはり室町のエリアのなかで商い
とい、つのは、 じいさんも四条室町の、紙国祭
住むわけですけども、だいたい紙園祭りの区域の
たいというのが、商人の一つの夢かもしれません。
ここへ移り住むのが明治四二年の九月ごろのこ
その頃この家は、まだ完全にでき上がった家じ
なかで住まいをさがしておった。だから、非常に
とくにこの町内は、三井の新町邸というのがあり、
ね
祭りにこだわって生きたことには違いないです
益子最初に吉田さんのお家の沿革といいますか、
沿革・・・・・・予想外に激しい町家のうつりかわb
τヒ
をして、祭りに臨んだんだろうと忠われます。
と。それから一年近く祭りのための準備ゃなんか
そこに床を張って事務所にするなんてことのほう
ちゃんとあけであった理由があるわけで、むしろ
をとるということは一見むだなんですけれども、
て、新興勢力がこのへんの主流になっていく。
それにとって代わって、ヤミの混乱をかいくぐっ
動きについていけず、いったんそこで頓挫をする。
が無謀だったんでしょう。
たい一世代こういうところで住めたらいいんだ。
で、第一次世界大戦の恐慌ゃなんかもうまく乗
り切って、大正から昭和の初めにかけてが、いち
益子それにしてもずいぶん激しい動きがあるん
生まれるだけか、死ぬるだけか、途中商いするだ
て、ちょっと事務所も設けてという、そういう商
るわけですけども、大庖においては支配人を置い
になります。それまでは丁稚さん、番頭さんでく
らいから、ぽつぽつ店員さんたちが出征、戦地へ
ことで、このへんが大きく変わる。昭和二ハ年ぐ
戦争に突入して、企業整備だ、ヤミ商売だという
吉田
益子そうですかあ。私は連綿とここにずっとお
ことと言えましょうか。
えてそこにおったということは、よほどの異例の
ところなんですね。一二井や松坂屋が一二O O年を越
けか。それぐらいに激しく商業資本の動いている
そんなことでわかっていただけるように、だい
ばん高いは隆盛であったようですわ。
ですね。
昭和一 O年 に こ の 家 の 造 作 を 大 き く 動 か す こ と
い形態に変わります。庄の二階の丁稚さんたちの
赴く。絹製品は統制になる。切符制、配給制にな
住まいになって、先椋代々続けた商売があり、そ
昭和一二年、一三年になると、支那事変。
寝起きをする場所をか虫能。といいますが、天井
るということで、ほとんどの商いが止まってしま
うした中で築かれてきたのがこのあたりの町家だ
でっち
が低くて、梁が出ておって、背の高い人なら立っ
う。昭和一一O年 の 八 月 一 五 日 を 期 し て 、 こ ん ど は
というふうにみていたんです。特に、この家を拝
むしこう
て歩けないというような状況を、番頭さんが支配
大きくまた世の中が変わって、北自の大詰は新しい
そうやと思います。番頭さんが支配人とい
る。住まいぶりが変わる。けれども、もとになっ
があるんでしょうね。大きく商いというのが変わ
う名前に変わるように、それもまた一つのリズム
土問問
とですね。
益子空間の基本的な骨格は変わらないというこ
外はあまり変わっていないということでしょうね。
ているものですから、中身だけが入れ替わって、
住空間そのものは、長い積み重ねで築きあげてき
く時代につれて動くもののようですね。けれども、
しいことではない。高売というのは、非常に激し
いただけるんですけど、実際はそんなになまやさ
官ロ密たいがいの方はそんなふうにおっしゃって
見すれば。
人というハイカラな名前になるにつれて、労働条
件の改善をせなきゃならんというので、出品龍をい
まのような常すの高さに上げる。それがこの家の
改造のいちばん最初でしょう。
その次は、昭和一七年に、いよいよ手狭になっ
たんでしょうか、中庭に床を張って、ガラス屋根
を架ける。するとサンルームのようで、明るい事
務所で、非常に快適だとみんな喜んだようなんで
すが、夏になりますとたちどころに、空気が動か
なくなって、暑い空気がそこにたまる。で、とて
も事務所にはならんというので、二回品過ぎるか過
ぎん閣に、もうその麗根は取り壊したという、そ
もともと商人の憧れる場所でしたから、昔から
ういうおもしろい話があるんです。
地価が古向かったはずなんですね。そこに中庭空間
j'fllU\I>の全対。!日辺の ~I J
家の'ぷ、.
1
Eみはかなり改変されている。
ているものは、どこかでそれを生かしながらの変
化でしょうから。
それが戦争中は修理ができない。戦前でしたら、
どこかに昔の住空間を残しながら、新しい様式を
つくったかもしれませんけども、戦後の変革とい
うのは、生活を変えたし、心根を変えた。したが
って、商いの場、住空間のスタイルをどうしたら
いいのか考えるいとまもなく、繕いできたんじゃ
ないでしょうかね。以前は受注生産であったもの
が、昭和一二0年 代 の 好 況 期 に 、 全 部 見 込 み 生 産 に
変わるわけでしょう。すると大量の在庫を抱えな
きゃならないということで、こんな小さいスペー
スじゃとても大きな商いができない。横に広げる
ということはよほど金がないことにはできんこと
ですから、上へ積みあげてくる。その名残りがい
まだにそのままあるんやないでしょうかね。
おやじを亡くして、昭和田八年に私が東京から
畏り、ここの改修に手をつけるわけですが、帰つ
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丞り民主(玄関前)より入 1
1
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を見る。
てきたときには、格子はとり払われ表は軒のない
モルタルの壁になっておって、中庭は全館を冷暖
房 す る た め の ボ イ ラi室 に な っ て い て 、 家 じ ゅ う
ダクトが走りまわっていた。けれども、幸いなこ
とに、柱を抜いたりはしていなかったので、元に
一民る可能性はあった。僕は商売するんでないし、
美術学校出のことですから、なんとか元の状態に
戻したいということで、五年ほどかかって、まず
建具を集めかけました。
京都の家は京間という寸法でできていますから、
よそさまの道具がこの家でも使える。こちらがし
っかりと元の建其のスタイルさえ覚えておれば、
まだ間に合うものを集めることもできました。買
京間という寸法があったので、捨てたものも拾う
吉田そうです。そこでいちばん救われたのは、
ふうに建具を集めてこられたわけですね。
益子新しくつくったものではなくて、そういう
建具が集まってきましてね。
こ と を し て 、 だ い た い 八O%ほど古いスタイルの
けていって必要なものを抜いてくるとか、そんな
き 私 、 四O歳 で あ り ま し た 。 そ れ ま で は 、 寒 い と
すね。それはもう、圧倒的に美しいです。そのと
的に、非常にゆるぎなくできているということで
たんですが。戻してみていちばん思うのは、視覚
吉田まあ私にとっては、非常に楽しいことだっ
というのは、大変なことですね。
力でいま見るような昔のたたずまいに復旧される
れい
にし
も、
益 子 そそう
うて状
態から、個人の
い集めたり、大型ゴミの定点収集の日に車で出か
ことができた。その時はじめて僕は、京間という
くできておる。その、むだなくできておる寸法が、
か、涼しいとか、その程度のことしか思っていな
現在あつらえる建具というのは、消耗品で、再
建物を美しく見せておるんだなあということにも
ものをつくりあげたことはずいぶん立派なことな
度使用するということはできないでしょう。それ
気がつきました。
かったですけどね。寸法の出し方が非常にむだな
が京間でつくられた建具ですと、すり減った分だ
益子寸法とか、ニカ所にあるお庭を中心とした
んだなと思い直しました。
け足してやれば、きちっとはまる。
むだではなくて、非常にそれぞれが有効に機能し
だなもののように感じられるものが、実は決して
の香りがたちのぼる。それは、よそゆきのかつこ
箱を運び出す。木箱のふたを開けるときに、樟脳
蔵にしまってありまして、ニ掛か総出でお雛さんの
光の強弱や陰影という空間の骨格。
吉田
ているということのように思うんですけど。
吉田現在の新しいピルなんかは、自然に触れて
の臼とか、そういった色彩がとても印象的です。
じられるものがなくて、その分、繰とかワビスケ
じますね。それ以外に、家そのものには色彩と感
が、お庭を開けていただいたときにパッと色を感
かに産っている関に白然にまた正常な状態に一戻る
で混乱してるような頭も、その座敷でひとりで静
きますしね。そういうゆとりといいますか、商売
ば、緑があるし季節のかわいい花を見ることがで
ながらも、一歩、主人の部屋に入って窓を開けれ
昔の商売人というのは、非常に厳しく商いをし
入らんとこなんです。私は次男で育ちましたから、
は、主人か長男か、あるいは特別の客ぐらいしか
ひと丹後には五月の節句ですね。座敷というの
だにそういう状況をいきいきと感じるんです。
感じる、よそゆきの母親とダブりましてね、いま
うをした母親に連れ沿う私がフッと母の衣服から
そうです。
益子いまは冬で、自然界に色の乏しい季節です
ハツと瞬間に驚くような、そういうことっていう
常は鹿敷には入れない。五月の節句のときには、
のは無視しちゃっているんでしょうかね。
益子吉田さんは美術がご専門で、私たちも感覚
しずつ大きくなっていく。それを厳しい、冷えき
ましてね、 そ の 陽 だ ま り が 春 の 彼 岸 に か け て 、 少
昭和ニ一年に兄貴が亡くなってからは、僕が宮沢
っぴり感じられるときでした。
張感というか、自分が男であるということをちょ
僕なんかも入れるわけで、ちょっと常とは違う緊
とか、そういう機能をもっておったでしょうし。
的に共感しながらいまの話を伺ったんですけど、
かな、日一日ずつ春のくるのを待つ喜びというの
った鹿敷から雪見障子越しに非常に実感できるん
ばと忠いますが。
は大きかったように思いますね。
こういう町家での日常生活、一年間を通してのい
吉閏この家では、いちばんハレの臼は祇園の祭
益子あの冷たい鹿敷の実感から、それを想像す
ですな。これは大変うれしい待ち遠しきというの
りのひと月。それが中心になって動いておるんで
るのは大変すてきだなあ。
所でいちばん大きいのは光ですか。
それは花でもない、緑の変化でもない。この場
たいです。冷たいだけに、気持を清らかにしてく
春闘糊漫。そのときに雛祭り。お雛さんたちは道具
雛祭りをする家が多いんです。桜の花も咲いて、
まだ冷たいんです。だから京都では四月の三日に
そして、やがて雛祭りです。京都は一一一月三日は
吉田そう、光ですね。
ぬれ縁、このへんにポッと鵠射しが入ってまいり
大寒も過ぎて、節分も過ぎれば、庭のつくばい、
非常に厳しい耐える生活を続けておる。
状況下で正月を迎えて、実、が明けるまでの間は、
れるのかもしれませんが、そういう非常に厳しい
のが一つのスタートで、真冬はこの家は非常に冷
す。一方、暦を追っていくと、やはり正月という
ろいろな生活の場面についてお聞かせいただけれ
季 節 @行事@そして町家の生活:::光や風のしつらい
見
む
同時
。
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見
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ナ
5
2
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力ノ
チ
妥
ケ
ピ
ス
ヮ
は
冬
奥の悶
主的部屋。主人の他は長男しか入れ
ない。
「ここで二時間ぐらいかかつてひと
りで食事するわけですか勺ね。主事
Lたあと、布白敷いて一人で枕扉鼠
たてて寝よるわけですか'0.やっぱ
り主人というのは威厳があったとい
うか、ひとりでじっとおれるといっ
σ
)
1
ま
、
現在はタタミを入れて{芝居に改造し
ている。ーいだんはこちりで生,舌 Lて
中の間
「冬はここが家族の寝室。醇摩障子
を張って畳廊下にすると独立した 6
畳間になるんですむ 4
0人がにぎやか
に商いしている最中でも、病人もこ
昔は局、現在は吉田さんの芸書斎
禁応接室。
祇園祭りのときは格子、建具を外 L
て奥田和室まで全部が開放される。
通庭
商品蔵
「子供の顔、商品蔵で遊ぶのは楽し
かったですよ。務品を収納する竹の
ハリボテ白書E
。それで迷路を作った
りしてね」
男代わりになるわけですから、それからはそうい
うことはなくなるわけですけども、それ以前の、
ごく小さかったころというのは、そういう思い出
端午の節句は、鹿敷の床の間に定紋の入った幕
があります。
を掛けましてね。兜と座敷鯉と馬でしたから、わ
りに渚楚な飾りつけ。それも実はみな兄貴の誕生
のときに整えたもので、僕の持ち物は張り子の虎
一つ(笑)。それぐらいに、家を継ぐ人間と分家を
する立場の人間との扱いに差がありましたです。
義子そんな幼いころからですか。
吉田幼いころからね。それが五月。鴨居の上に
あの雲障子を少しずつ広げていって、外の空気を
雲障子てありますね。本格的な春になってくると、
家のなかに呼び込んで、部犀を暖めるというよう
な、そういう作業がありました。
冬の座敷というのは冷たくって、畳も柱もなに
もかもが冷えきっとるんですね。そういうような
ものが常塩に回復するまで、かなり時間がかかる。
益子それをじっくり季節の移りに任せるといい
ますか、待つわけですね。
吉田そうですね。やがて六月。六月の半ばもす
ぎると、梅雨です。子供にとって梅雨のころとい
うのは本当に陰欝な日々でしかないんですが、最
近は、雨が降ったりすると落ち着きましてね。い
まは梅雨時分の、空気がしっとりとした座敷とい
うのは、なんとも好きになりました。
梅雨の明けかけるころになると、祭りの準備が
吉田邸実測図 (R.ROSE A.WINDERMAN 作側、 1984年)
H皆
蔵カ、らの荷の出し入札、汚水の搬出、
認1
mなどさまぎまに使われるロ r
;
量
り庭 l
立中つう簡単に台所というんで
すけれど、なりわいをするところも
あるんです。朝、土問にずっと生地
をな bべて、土からあがってくる混
り気を生地にくれてやるとか
台所というような小さなことではな
〈て、もっと広い多様な働きをしま
すJ
中庭
「底は一つでは駄目のようですね c
こち b はけっこう日が入って空気が
乾いている。もう つは空気が混っ
ている。その空気の軽さ重さが愚を
適当に揺らかすというんですな Jロ
冬はワビスケ、亙はクチナシ 自由
G
掻げi
吉
「中世かり近世にかけては、これだ
けが庖なんですね。これ力、吉践のよ
うに残っているのが今日現在の庖な
んです」
ぽつぽつと始まりだす。そして七月の日を期し
て、冬座敷から夏鹿敷へ大きく変化するわけです。
i
鹿敷まわりの建具を全部夏の建呉に替える。これ
4 戸 ン / / ¥ ¥¥三ミミ¥
は大きな節巨をつくります。中学校の相子に白い
引
布をかぶしたりしたでしょう。冬服から夏服に替
レ V﹂
t
/さ込ト
AP
乙/¥〈苛忌k
わる。あれと同じようなことになるわけです。
冬の問うんと閉鎖的に住んでおったのが、四月、
トa
「ここは長奥田勉強部庭になってい
ましたな。家を結くものと骨設する
ものとは不文律として、われわれ子
供の頃はきちっとまもらされていま
したれ以前はタタミの問。
五月でやや開放的になるものの、建具は襖がはま
っておる。それを蔑戸に替え、網代を敷き詰める
とすがすがしい夏座敷。
ただし、部居の明るさは、冬座敷よりもかえっ
て暗くなるんですね、軒に吊ります簾ゃなんかも、
冬の関は少しでも光を入れようということで半幅
に上へあげておるんですけども、逆にこんどは光
を遮るように、長くたらしたりするので。襖です
と鳥の子ですから、多少の反射もあるわけですけ
r最盛期には家族が 1
0人内外、底的
人カ、 25-26人、女中さんカ、 4-5人。
人 ('Gいがこの家に住まった
最大 40
ようです。庖の 2,首は奉公人の場所
で、女、子供は入
されていま Lた J,
二階の座敷
号表段づくりという。
i この一枚の土地を最大限に利用す
るということでしょうね。いまはそ
れをいい加減に Lといて、セカンド
ハウスを持つという商売をする。だ
かり、究極のところまで詩的へんの
でしょうな」
fこの設は得替諮というんですか。
捻ではないて'す。栂というもので全
部できています。大黒柱だけが憾で
翠
す。外側はみな杉。そういう部材 i
定ははっきりしとったですね J
「煤払いのときに、火袋町梁にのぼ
勺せてもりうのが子供の楽しみでも
ありま Lてね。そこへ上れたときに、
やっとおれはこの設のひとつの有効
な存在になれたと自覚するときでも
ありましてね J
ど、霞戸にしますと、反射光なんかがなくなりま
すので、外の庭は非常に明るくて、部屋のなかは
うんと暗く、ちょうど海の底にいるような、そう
いうしつらえにいたします。それやこれやで、暗
では非常に有効に使っておるのでしょうね。
さのなかでほの明るさというものを、京都の町家
益子建具にかぎらず、調度や道具が季節ととも
網代を敷くと、部屋へ入ったときにヒヤッ
東活断商図(南俣1
]
)
にある・ .
.
.
吉田
と足の裏に涼しさを感じたりすることやら、明る
いところからフッと暗い座敷に入ったときの静け
さや涼しさ、温度の変化がどれだけあるのかとい
H皆
底の H皆
を賢慶っくり
このように j
苦舗の練、すまいの棟、
意控室と 3つの鞭に骨かれているもの
うことは別にして、視覚的、触覚的に、瞬間フッ
と感じる涼しさというのは非常にうまくつくりあ
げ て い る と 思 い ま す 。 網 代 の 上 に 二O分も三O 分
も産り続けると、それは体温が伝わってどうって
い一介の商人が、生活実感を通して、こういうも
のが必要だと定めきった感覚というのは、非常に
鋭いものがあったように思いますね。
益子中庭というのは、とくに夏は、風の通りに
とってとても大事なところだと忠、つんですね。以
前ほかの町家を拝見して、中庭に笹をたくさん植
えておられるお宅があったんです。最初は笹の色
の美しさしか気づかなかったのですが、ちょっと
した風でパラバラバラと葉っぱが動いている。か
らだに感じるだけじゃなくて、風が見えるという、
そんな感じで、これはすてきなデザインだなとい
う感じを受けたことがあります。
土問問そうですね。中庭というのは直射日光が入
らないので、笹だとかシロチクだとか、そういう
逆の話になるかもしれませんけど、この家での
植物で確かに涼しい風を見せますね。
シロチクの効用というのは、冬、夜中にシロチク
がザワザワl ッと雨戸をたたくぐらいに揺れると
きがあるんですね。すると、子供の僕らは﹁ああ、
あしたの朝雪が降る﹂と思うんですね!京都の
子供にとって雪が降るというのは非常にうれしい
ことでして、冬のシロチクは雪を予告してくれる
近年はっきりしたことなんですが、北海道大学
ような存在でもありました。
と京都大学の住環境の研究室が四年続けて調査に
入りまして、二つの中庭の効用を調べているんで
す。一方の中庭は東の光が入ったり、西日が入っ
たり、空気が比較的乾いているんです。もう一方
j
EJl飾りのある玄関。
i
i
t
'
;夏座敷(2階)。策戸越しに 1
[
1庭を兄ドろす:
ことはないんですけども、入ったときに感じる涼
しさというのは、これは非常に知恵を凝らして組
み立ててきたなというように感じますね。
夏を演出するさまざまな小道具というのは、京
都においてはずいぶんこまやかな配慮のもとに作
られております。それが冷暖房の生活になって無
用になった。無用になったとたんに、そういうも
のをつくっておった職種の人たち、伝統工芸をず
いぶん捨てたんじゃないかと思いますね。われわ
れは意識的に学校のなかでそういうことを教え込
まれたわけですけども、そんな教養もなんにもな
へっついの I
J
I
Iより{ましりもとを通して見る。
るがすんだというんですね。いままで僕たちは、
は寵射日光が入らなくて、比較的空気が湿ってい
益子臨戸から簾にまた替わる。
を促すのと河じようなことで。
するというのは、中庭に打ち水をして風の揺らぎ
吉田簾に替わるのは、いちばんハレの日の祭り
るそうです。その空気の軽さ重さが風を適当に揺
いまの笹の葉が揺れるように、視覚的に納得して
とですね。すると、住空間がもっと開放されまし
のときだけで、七月の一三、一回、一五、一六、
打ち水をしたりするのも、乾いた空気を混らせ
てね、毎年のことなんですが、これがわが家かと
おったんですけども、計測しましでも、違う条件
て、逆に空気を軽くさせて動かすとか、そういう
みまがうぐらいに、広々と、また美しいんです。
一七日の五日間だけ常の夏座敷から祭りのしつら
効果があるようですね。かてて加えて、この建物
私、いま小袖ゃなんかに興味があるんで、そこへ
の二つの庭があって、それがうまく機能して風を
は縁の下を空気が通りますでしょう。すると、い
そういうようなものを数点配置しますと、まさに
えに替わる。その聞に霞一戸が簾に替わるというこ
ちばん冷たい空気が縁の下にあって、それもこの
ハレの日に変換する。この変化は一度楽しみかけ
揺るがすんだと。
こつの中庭がうまく連動して、涼やかな風をわず
は、そんなことに参画することはなかったんで、
ると、たまらんもんでしてねえ(笑)。子供のころ
いや増しをしている。そういうことがはっきりし
さほども思わなかったんですけども、この復元が
かであるけれども動かして、それが夏の快適さを
てまいりました。いずれきちっとしたレポiトに
なってから、人さまにどう思われようが何を一言わ
この吉田家実測図ができ上がったのも、そうい
なるだろうと思って、楽しみにしているんです。
って、夏を過ごすのに非常に有効な存在なんです。
れようが、年々楽しんでおります。
昭和一七年の改造の失敗は、そういうことを無視
留学生が上がり込んできて、話をしているうちに、
う祭りに家を開放していたがゆえに、見も知らぬ
二つの庭は視覚的で、なおかつ物理的な機能もあ
してしまった。
能を代行する。通りと中庭とがやっぱり連動する。
町家になると、表通りがこの効果を持った庭の機
吉回そう、一つじゃだめ。これが小さな規模の
益子
同士そこで出会いが起こるわけでしょう。だから、
の出会い、主人と客との出会いだけではなく、客
そんなことが起こるほどに、さまざまな人さまと
まり込んで、でき上がったというようなことでね。
ずいぶん興味をもってくれて、夫婦で三カ月も泊
一つではだめなわけですね。
益子そういう風を誘う効果があるというのはお
関係というのは、非常に広まっているように思い
もしろいですね。
よく京都のどんな家でも表通りに打ち水を
この五日間にこの家のなかで出会われた人たちの
吉田
J
奥いい
li
の川
ト
﹂
。
見
を
庭
4AV
',~i:; U:台所:
紙弱者寄りの符官官ÍJîりをしつらえた吉田郡(昼)~
お祭りの期間はここのお宅全体を開放され
ますが・・
益子
るのですか。
吉田そうです。なかを拝見したいというような
声がかかれば、上がってご覧いただけますし、夜
は多少酒盛りの場になるので、どなたもというわ
けにいかんのですけども、ここにお招きした友だ
ちが友だちを呼んでくる。すると、主人がおらん
でも、客だけで二部屋で楽しく過ごされる。その
聞にいろんな会話が渦巻いてまいりますし、話が
話を呼んでというような場面もあるようですね。
益子京都の町家の生活のいちばんのハレの場が、
お正月よりも紙麗の祭りだっていうのが、季節の
はこぴの話と合わせて良くわかりました。
吉田その祭りが済めば、あとはまた、ただただ
暑い夏をじっと耐える(笑)。祭りが終わったころ
からは、セミ時雨のなかで、座敷の部分は非常に
薄暗く、かえって静かに感じられます。暑さにま
いった頃には秋の彼岸が訪れて、涼風が立つ。そ
の変化も劇的ですわね。京都というのは、冬は寒
くてたまらん、夏は暑くてたまらないんだけど、
限界にきたころにスッとすかされるといいますか、
それで患をつく。ひと息ついて、また冬の建具に
替えて、こんどは冬龍もりの準備をする。そうい
うことの繰り返し。ただ、それは向じサイクルで
繰り返しているようでありながら、そこに人の出
会いがさまざまに生じて、メリハリをつけてくれ
ると言えましょう。
U
日
均ぺ d
の気持を清らかにしたり、日常無いものをここで
うはならん。このたたずまいがあって、思わず人
それにつけても、このたたずまい抜きには、そ
うのをみずからつくりあげていく、認めていくと
事の判断の基準が金銭でしかない。自分の分とい
ぶりもそういうことに裏づけられている。いまは
ってこの家が成り立っておるし、この家の住まい
O 畳という限られた空間をやや広くも見せてい
一
が無いというようなことがひとつでして、それが
心構えがあった。そして、分を越えてものをあつ
ル以下でも以上でもないという、住まいに対する
こにはここのレベルというのがあって、そのレベ
識できる部分でしょうね。
吉岡それは住まっている側もささやかながら意
像力が刺激される。
すか、いきいきと色を感じるんですね。とても想
そういうもののなかに、すごくはなやぎといいま
いろいろな調度、ときにはものを飾ったりする、
の生活の変化、紙園祭りの生活、そこに出てくる
れがかえって吉田さんのお話にあった冬から春へ
なかで華美なところがいっさいありませんね。そ
益子実際にここのお宅を拝見して、しつらえの
れをもので表しているのがこの建物じゃないか。
とさせていくんじゃないかと思うんです。で、そ
り、そこで住まっていく人の人格なりをいきいき
めていく分というのは、やっぱりその家の生活な
いうことが、あまり無いでしょう。みずからが定
フッと感じていただける。そんなところから、の
っけの会話が違ってくると思いますね。
なんでもない家なんですけれども、実によくで
きている。建物を構造物として成り立たせている
必要最少限の仕事というか、その考え方を生かし
きっているからこその美しさ。
これはやっぱり商人の家だからだと思いますね。
京都の商人というのは、一銭でもむだにしない、
一銭でも生かしきるということで営々となりわい
を築いてきたわけで、だからむだな、よけいなも
るでしょうし、頭を押さえつけるような重さも無
らえたり造作することはない。分を守りながらな
のをくっつけない。たとえば鴨居があって、長押
い。といいながら、網代を敷くなんてことは、い
りわいに勤む。そういう気持がバックボーンにな
して、以来、江戸時代の小袖等がずいぶん身辺に
文化のふところの深さというのを私なりに感じま
ていちばんショッキングだったのは、京都の染織
ぜかというのには理由があるんです。京都に帰っ
か。そこんとこでカツを入れたいというので。な
に、そういうドギッたものを置いたらどうなるの
これからのこと・・・・・・山内側からの発想吾育てる界隈の一再興
まそんなものを買えば高価なものには違いないん
ですが、一種のステイタスでしょうか。大工が
こういうことを言いますよ。おふくろと大工の会
吉田
今年の正月はちょっとドギってみまして、
わんし、安く、簡単にしといてや﹂と一言うわけで
でしょう(笑)。閤アフリカのマリ共和国で出来た
アフリカの敷物を敷いたんです。それは僕がこの
益子グ格。ですね。
もので、そこの結婚式のときに敷く敷物のようで
この程度のことをせんと恥ずかしいですよ﹂と。
吉田そういうことがよくあったものです。この
すが、京都のきめ細かな、おだやかなもののなか
すね。すると大工が、﹁いや、お宅さんであれば、
あたりは室町商人のか華々の場所なんですね。こ
へんに住んでる人に比べれば、ゆがんだ性格なん
話としますと、おふくろは﹁お金かかったらかな
紙関祭りの宵宮飾りをしつらえた吉田創刊夜)~
れが非常にものごとが洗練されていく大きな要国
ぅ、その、人の自にさらすという関係ですね。そ
綾子義弘氏
実にそういうものが非常にビビッドに伝わってく
になるような気がするんですけど。
精神的にも実利的な商売面でも、沈滞ムiドとい
る気がします。
吉田そうです。人さまに見られているというこ
たまってまいりました。つれて、毎年、海外への
うような、そんなことを年の暮れに考えて、この
吉田家々がするこういう祭の宵飾りをグ界風祭
とは、緊張感もあります。張り合いも持たせます
うものにそれが予想外な刺激をして、年々のなり
四月一日に開館いたします。
り。なんて一言葉でいいますが、国府風というのは半
し、人の視総に立ち向かって、次何ができるか、
貧乏旅行を心がけて、あっちこっちで求めたもの
ンド、等々。一見やさしく見える京都の文化に、
ば、ケの場所をにわかにハレの場所にするために、
というようなこと。これは無視できないですね。
わいの励みにしたんだろうという事例どおり、こ
そういう土俗的なものをぶつけて、そんなとこか
ざっと引き回せばむさいものが隠れてしまうとい
一年かかって蓄えて、購入したものが、そういう
がずいぶん増えてまいりました。一言葉はぎくしゃ
ら何か将来が出てきはしないか。
う効果も一方には持つわけですが、要は、たたず
ハレの場でどれぐらい有効に働くか。これはやっ
の祭りのしつらえや正月のしつらえに、反努をさ
これはいま僕が一一一一向うと、吉田だけがそういうこ
まいを主人の遊び心でいかに美しく快適に見せる
ぱり主人の目が問われることでもあり、主人の遊
くするんですが、京都生活工芸館・無名舎という
とを始めるかのように思われるんですが、実はそ
かという演出法なんでね。ただゴタゴタとものを
び心がどれだけ有効性を持つかというテストかも
せていただいていると言えましょうか。
うではなくって、ここの祇園祭りというのが絶え
並べたんではだめなんで、たたずまいをどう生か
しれませんですね(笑)。
益子いまこのお宅のなかにいてお話を伺うと、
ずそういうことをしてきでいるわけですね。祭り
すかということ。そのための小道具として自分自
益子そのあたりは町とか界隈とか、いろいろな
に、もうちょっと世間さまに出してみょうかとい
に使います怒装品のさまざまというのは、江戸の
身が収集したものを、年々の興味で組み合わせて
ま わ り と の お つ き 合 い と い うB常的なことだけで
ようなかつこうで、自分の内側にあったものを表
初期から中期、後期にかけて絶えず外来のものを
遊んでるわけです。
アフリカ、インディアン、中南米、トルコ、イ
持ち込んで、それまでにあったものに新しい刺激
ゃの最たるものでしてね、これはド真剣に遊んだ
吉田
いま町や界隈が非常にバラバラなデザイン
そうですね。
が出てくるということになるんでしょうね。
はなくて、町や家のつくりにかかわるおつき合い
んでしょうな。やっぱり、現代にゆとりを取り込
益子
絢欄豪華なあの山鉾というのは、大人のおもち
ですから、私がこれからしようとすることも、
むのには、そういう遊び心というものをいかにダ
で埋まっています。それはある種の自由であり、
を加えて、ちょうど祭りでいう和御魂と荒御魂の
先人たちのそういう生活体験を平成に持ち込んだ
イナミックに、あるいはこまやかにもつか。それ
ある意味ではいい時代なのかもしれませんが、そ
ぶつかりを絶えずやってきているんですね。
だけのことなんです。京都人というのは、絶えず
があるかないかで、ただの部屋がずいぶん変わる
れはお互いに批評したり批判したりして淘汰され
て育ってくるというよりも、まだそれがバラバラ
ものだろうと思います。
益子面白いのは、個人の内側だけにこもってい
にただ置かれ存在している状態であるんだと思う
ことを、ネグってきたような気がいたします。
京都の町家というのは、きつい性格をもってな
る話ではなくて、それが外にさらけだされるとい
そういうことを繰り返して、都の空気が沈滞する
いがゆえに、外来のものを取り込むことによって、
結論めきますけど、この家は商人の家としては、
これをやっとったわけでしょう。すると、隣りの
たたずまいがずっと軒を連ねておって、各家々が
う緊張感があまりないですな。以前は、こういう
吉田町内づき合いしておっても、最近はそうい
だなと思います。
ていく。そんなことが期待できれば、大変すてき
かでものが自律的にだんだん変化したり洗練され
おれはどうしようというやり取りを経て、そのな
表にさらされ、人の呂とやり取りのなかで、次は
高さだとか、そういうことを越えて、やはりこの
し、それは法律で定められた面積とか容積だとか
このエリアのなかで一二つほどできてまいりました
の軒の深さを鉄骨で出すような、そういう建物が
に見せて、京都のまち並みの特徴であった平入り
建物が。六階建てでありながら、表は三階ぐらい
わってきましたですよ、このへんの新しく建てる
長かった。しかしここ一、二年前からちょっと変
るということだけになり下がった期間がずいぶん
ったので、ただ小さな面積を経済的に有効利用す
いまはそういうことが、つんと稀薄になってしま
ムがあったりするんですが、実際の住空間を土俵
か、家をどうしようとか、市民運動やシンポジウ
いまいろんな立場で、町並みをどうしようかと
味はさらさらないと思っておりますんです。
があるとすれば、それは公開すべきだし、拒む意
しても減るもんじゃないし、もしこの家に社会性
け接客するようにしているんです。どんなに公開
ときに、自分の時間の都合さえ合えば、できるだ
ういう住まいぶりをして、いろんな要望があった
なっていくだろうと。そのために、私、あえてこ
次の様式をつくったりするときの何か刺激剤には
いては一つのオブジェとして目に入って、それが
の両人が住まっておったたたずまいが、現在にお
自分のあり方というものを定めていく。これがあ
気配を一肩で感じるわけですな。町を歩いていて。
建物がずっとレベルとしであったころの、そうい
んですね。 い ま の お 話 で す と 、 こ れ は 町 の た た ず
しげしげと見るようなことはせんのですよ。よそ
う良さを生かそうという施主が現われてきたとい
にしての話というのがあんまりできないんですね。
現在は機能を停止しています。けれども、かつて
さまの飾りをそうジロジロと見るもんではない。
うことでしょうね。土地持ちの土着のオーナーが
私はここを一つの土俵にして、その土俵にいろん
ったから町議みは整っていったわけですね。
でもね、この一周のへんで見とるわけですよ(笑)。
建物を建てる場合には、そういうゆとりを示して
まいにも関わることで、いろんなものが常に一図
益子一周で感じるというのは、なかなかおもしろ
れが実質的な町並みを考えたり、将来の町を考え
な力士に上ってもらって、それで話を聞かせてい
コンクリートの建物になって、日叶風等を蔵から
たりする場合の実質的なことになるだろう。そう
くれるようになってまいりました。この面は大事
出してやってみるけれども、もうひとつおもしろ
したいというのが、私の念願なんです。
い表現ですね。
隣りよりも出過ぎてはいけないとか、絶えず一屑で
く並ばないということもみな体験してきたと忠、つ
吉田隣りは隣りや、うちはうちなんやと。とい
意識しながら、向かい一二軒両隣りを越えて、町内
んですよ。日肘風そのものがこういう京聞の寸法で
ただき、見ていただき、話も開いていただき、そ
の気風というものをうまくバランスをとってい
できてきてるものですから、 そ れ が ミ リ 単 位 で で
にせにゃいかんなと思っておるんです。
く。それがいちばん顕在化するのが、祭りのとき
きた窓にはなかなかうまく映らなかったり、関口
いながらも、隣りに迷惑をかけてはいけないとか、
ですね。けれども、おたくさんのは今年はどうで
部が小さいと、なかに飾っていても、もうひとつ
(一月四日、京都・士口問邸にて
したな、ああでしたな、そういうことは言わずに、
効果がなかったりというようなことを感じてる人
士口問孝次郎氏
じゃあ来年の白分、これからの自分はどうであっ
も出始めたかもしれませんね。
あくまでも肩で感じてるところでとどめといて、
たらいいのかなと、町内の空気を守りながらも、
すまいのテクノロジー iil②
明かb の
設
一
一
時
期
視覚的なもののため、照明においても形の見える
しかし日本人の考える伝統的な美しさというのは
るため、どちらが良いとか惑いという話ではない。
ある。どちらの照明を選ぶかは設計者の姿勢によ
で空間機能を満足させる光のスペースデザインで
トデザインと、器具はできるだけ見せずに明かり
は照明器具の存在を空間に表わす光のオブジェク
照明デザインには二通りの考え方がある。それ
すことが意味あるのかなどを決めなければならな
外の味付けとなる光の選定、どこを重点的に照ら
ないのである。さらに光色の選定や、投光照明以
えないよう、対象は明るすぎても暗すぎてもいけ
例えば光量の調整である。周辺環境と違和感を与
が大変むずかしい。何がむずかしいかと言うと、
すると誰でもできそうな演出であるが、実はこれ
的である。おもに投光器によって照明され、一見
ため、照明器具はできるだけ見せないことが効果
をかけたわりにでき上がった結果十分な効果が得
られないで悩むより、ずっと得策なのである。ラ
イトアップはまさしく光のスペ i スデザインの代
表的演出で、その考え方は住宅空間にも浸透しつ
つある。
もっている。ロ l ボルテージハロゲンランプは、
ンプは、これからの家庭照明に期待できる特性を
ボルテージハロゲンランプとコンパクト形蛍光ラ
ンパクト化の波がおしよせている。なかでもロ l
るが、いま蛍光ランプを合めて一般照明光源にコ
光源が小さく高輝度なほど光の制御は安易にな
法を除いてあまり適していないといえよう。
気の求められる演出的な家庭照明には、一部の手
全般を明るく照明するには良いが、照度より雰囲
言えば、今までの蛍光灯はオフィス空間のように
ツクの質感を強調することもむずかしい。端的に
イトを得ることはできず、さらに家具やファフリ
いない。しかし蛍光ランプでナロ!なスポットラ
い。したがって経済的なランプであることは間違
O情 も あ り 、 ラ ン プ 寿 命 も 同 様 に 長
量)が三 j 一
に白熱ランプに比べ一ワットあたりの光束(光の
0 1九O %が白熱灯である。蛍光ランプは一般的
と推定されるが、北米や北ヨーロッパでは逆に八
が 高 い こ と で あ る 。 現 在 で も お よ そ 七O %くらい
大きな特徴をもっている。一つは蛍光灯の普及率
わが国の住宅照明は、他の先進留に比べ二つの
コヌパクト佑照明の波
1 ライトアップの例
写築
これからの住空間に求められる照明設計
龍興
る景観照明である。昼間の景観に支障なく、
光のオブジェクトデザインが評価されやすい。事
ックが必要なのである。そのため多少面掛かも知
い。その他に自然を照明することによる虫や鳥、
いまライトアップという言葉が流行している。
れないが、できれば事前に照明実験して概略の効
実、住空間における照明の多くは、インテリアと
これは屋外の建造物や'自然などで、ステータスの
果を確認することが望まれる。それは多額の費用
魚類などへの影響、人にまぶしい光を与えないか、
高い所や本物の部分を、夜でも明るく美しく見せ
の調和を考えた器具デザイン選ぴにウェイトがお
わ
器具のメンテナンスはどうかなどまで入念なチェ
に照明したい対象をよりドラマチックに表現する
さ
かれている。
二つの照明デザイン
中
島
熱線を八O %以上カットできるダイクロイックミ
ラーとの組合せで素晴らしいスポットライト効果
を得ることができる。最近ではそれを細いパイプ
ランプや照明器具のコンパクト化は、 照明の効
五1
ニ・
O %くらいと言われている。
その比率を
インテリアや建築デザインの質の向上は、照明
円程度とすれば、インテリアにおける照明の地位
ている家でも、各部屋全部の開明器具代が五O 万
ある。もしシステムキッチンに一 O O万円を投じ
他の空間で比較すると、商業施設よりオフィスには
に関心をもっ人の急増につながっている。しかし
はまだかなり低いと評価せざるを得ない。お金を
来演出を拡大していく波でもあろう。
ヤー(低電圧が流れている)に支持することで、
現実的に十分なお金をかけて明かりのかもしだす
るかに近い状況である。二OOO万円の家でも三
0 1四O万円ほどしか照明器呉費にかけないので
あたかも光が中空に漂った感じで美しい。またコ
雰囲気を楽しもうとする人は少ない。今、住宅で
増えるかっ・照明予算
ンパクト形蛍光ランプは二七W のもので一 OOW
かければ必ずしも快適で楽しい照明が約束される
に取り付けたり、時点から壁に張られた二本のワイ
の普通電球とほぼ同じ光束をもつため、反射鏡付
照明器具にかける費用は平均すると建築費の⋮
2
7
1
5
2
0
1
6
0
0
1
5
5
0
寿 命 (h)
1
0
0
0
2000
6000
1
0
0
1
0
0
不可能
有
210E
x
きダウンライトに使われると少ない電力で部屋の
天井 80%
基本照度を得ることができる。さらに演色性(物
の色の見え方を表わす性質で、一般に平均演色評
ランプ
175E
x
265E
x
8灯
援 50 %
0 0が最高館)が恥八
一一
価数 b で評価される。恥一
表
(
関
口
)(
暴
行
)(
天
井
高
)
-4
室の大きさ (m)
四と高く、光色に白色と電球色をもっているため、
各種ダウンライトによる平均照度
﹂
ロ
床 20 %
4.5X5.4X2.4 1
5長
反射率
資料提供:ヤマギワ鰍
2 パイプ器異の例
写真
部可能
可能
r
U
:
:
i分は合まれていない。
トランスの
2. '!i: 定 ~:i( 点灯装 wo 、
白色塗装宝章E
事
白色・電球色
よりやや白色
後白色
光 色
によって行干興なる。
(日) 1. ラン 7'~ 手性はメーカ
ランプの交換だけで部屋の雰囲気を視覚的に暖か
トランス有無
9~27
連 続 調 光
(安定器)
有
(ダウントランス)
無
安定器
1
0
0
20~200W
20~
電力パリエー γ ョン
(
4本チューブ)
くしたり、涼しくしたりすることが可能である。
1
0
0
光 東 (1m)
平均漬色許信教(司 a
)
コンノてク卜形
/¥0ケeン
白色主主装電球
8
4
1
0
0
ワ ッ ト 数 (w)
ロ ポjレテージ
ー
7
'
フ
(
(
1色 i
1
i
装
'
;
t
i
:f
A
<と比較)
1 小型光源の特性
表
前後する。住宅では坪一灯くらいの照明器具数を
カタログから照明器具単価を割出すと一灯二万円
なくなる可能性もある。推測だが、照明メーカーの
など他のインテリア要素と質的にバランスがとれ
果を表現することがある。その意味で数年前に家
駆使して内部の複雑な機能によってさまざまな効
として、シンプルな外観に対してコンピューターを
る可能性が大きい。電子デザインの一つの考え方
これから住宅照明にも電子デザインが採用され
和食の場合の拡散照明に対して、洋食なら天井内
明効果がすすめられる。また料理による照明では、
は白熱灯による食卓中心に光のウェイトをおく照
形蛍光灯で部屋全般を明るめの間接照明で、夕食
が望まれる。そして朝食には例えば白色の高演色
を除いて大半の器具は建築構造にかくされること
インテリアとの調和を考えた、主要なデザイン器具
必要とするため、仮に一二O坪の家では六O万円の
庭 用 と し て 開 発 さ れ た シl ン記憶調光器は、電子
に小さく埋め込まれたロ l ボルテi ジハロゲンラ
た補助照明が求められる。
器具予算がとれて初めて平均的なものが購入でき
デザイン時代の開明に欠かせない道具になるであ
ンプによるスポットライトで照明されるとおもし
訳でもないが、お金をかけなければ、高価な家具
る計算になる。照明器具は照明メi カi各 社 と も
ろう。これはいくつかの生活行為(例えば食事や
調光器に記穏させておくことで、リモコンを合め
読書、回議など)に対して、それらの生活にふさ
考 え て い る 人 が 多 い よ う で あ る 。 六O万の投資で
た 簡 単 な ス イ ッ チ 操 作 だ け で そ れ ら の 照 明 シl ン
寿命保障をしている訳ではないが、さまざまな統
も一 0年間っかえれば一年あたり六万円であり、
を瞬時に再現できる装置である。現在市販されて
生活のゆとりは確実に文化にふれる時間の増加
における照明手法の一つの解答であって、これが
日常的に使われる商品としては決して高くはない
いるもので営業用は数十チャンネル用もあるが、
に結びついている。家庭空間における照明も、部
ろいだろう。なお上述の照明はダイニングル l ム
と言えよう。むしろ高価で優れた器具を購入する
家庭用では四と八チャンネルが主流である。つま
屋に物があふれ倉庫化していた時は天井中央の光
わしい問問効果をあらかじめコンピューター内蔵の
ことで、それが飽きずに長く使えれば、長い巨で
り八シl ン ま で の 照 明 効 果 を 記 憶 す る こ と が 出 来
でただ明るくしであれば良かったかも知れないが、
計調査によると、およそ一 O年 を 目 安 に 取 替 え を
見た時きっと安い買物だったことに気付くに違い
るわけだが、インテリアの変化や好みの明りが変
方式もできれば、部屋全体をより均一に明るく照
の点滅調光回路が分れていると良い。そして照明
多灯が条件であり、少なくとも四回路以上に照明
することが望まれる。そのための照明設舗は一室
間では、生活場面に合せて照明効果が多彩に変化
ある。もし一つの部屋でこれらの効果の全てを求
は違うと思うのでどうしたら良いかという質問も
和食と洋食ではそれらがおいしそうに見える照明
っても朝食と夕食では光を変えたいという。また、
だわる人も増えてきた。例えば食事の場面一つと
ここ数年、生活者の一部では、かなり照明にこ
いままでは誰でも比較的簡単に出てきた照明(そ
ており、その効果的用途の指導にも積栃的である。
目され、メーカー各社は続々器具の開発をすすめ
ている。そのため小型で高品位の集光型器具が注
のや意味のある対象が積極的に照らされようとし
いる。さらに部屋の中で芸術性の高い価値あるも
いま、芸術性の高い伝統工芸的な器具が売れて
進佑する家庭照明
全てではない。
なし
わった場合、いつでも自由に記憶する照明効果を
ると、そういう訳にはいかない。
インテリアが美しくなり生活にこだわりが出てく
生活シiンと照明
変えることができるのも大きな特長であろう。
らしてくれる全般照明と、作業面ゃある特定の対
めようとするのであれば、いろいろな照明器具を
リビングやダイニングのように一室多機能の空
象を全般照度より明るく(一 O 倍 以 内 ) 浮 き 立 つ
その空間に用意しなければならない。そのため、
の分、 照 明 効 果 も 簡 単 な も の だ っ た ) も 、 こ れ か
ように照明する局部照明、それに装飾効果を含め
図
1 住宅の照明設計例
(
間
以T,光のイメージ, l
.
i
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N
各分け f
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11
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トー一一一一一一一一一一一一一一一… 5,
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∞
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照度[1>)
住宅の主な部屋の照度纂準 (J 1S)
1
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。手
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。調理台
3
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主
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1
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回路分け
全
75全
青
空
売E
らはユーザーがよほど勉強しなければ満足する照
明効果が得られにくくなるだろう。さらに優れた
開明を期待するのであれば、照明専門家との共同
作業がすすめられる。しかし考えてみれば照明は
建築やインテリアに関係する要素である。そのた
るように、本来、照明設計は光のイメージ図から
凶路分け、効果の管理まで詳細にするべきである。
そ こ ま で し て も お そ ら く 想 像 し た 効 果 の 七O %も
得られないこともある訳だから、図面からインテ
リアをイメージしてそれに外観的調和を考えた器
具デザインを、照明カタログの写真で簡単に選ん
(なかじま・たつおき/ハロデザイン研究所)
でしまう今までのやり方は、やはりおかしいと忠
。
、﹁ノ
め建築及びインテリアデザインが詳細に行なわれ
5
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それぞれの場所の用途に応じて,全般!
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することが望ましい。
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m,応接室,寝室については,利光を可能にするこ
とが"古ましい。
古川るい場戸正を
全般!!日明の!!日!主に対して, 防部品甘に数f
i
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'ることにより,室内に町1
1
1
訴の変化を与え平たんな照
明にならないことを l~ i
l
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Jとする。
経ぃ M
U}は娯楽とみなす。
{也の場所でもこれに準ずる。
。印は同部!照明によってこの照度を符てもよい。この
場合のfE般j
照明の!!¥¥皮は同部1)照明による照度の 1/10
以上であることが望ましい。
東京電機大学出版局刊「照明設計の実際と考え方 J より
川町住宅建築シンポジウム︽都心居住の行方を探る︾へ向けて七月七日(土)に関倦
︿論文﹀
於 建 築 会 館 ホ lル
でもなく、住環境は世界の水準から比べて劣悪な日本
の人にとって最大の関心事である。その理由はいうま
東京にどうやって快適に住むかということは、多く
本人の意識、あるいは世界の日本を見る呂の変革の観
る東京、あるいはその近郊での衣食住の豊かさは、日
であろうし、その中で世界へのショウウインドウであ
持つためには、住生活が充実することはきわめて大事
はないだろうか。﹁金持ち信一時せず﹂の気持ちの余裕を
事を考える余裕が出てこないということにもあるので
たがって、昔ながらのひたすら一生懸命働き、他人の
ことにある。
ルで扱える個人あるいはグループが存在しないという
えだした最も複雑で優れたシステムの問題を、トータ
にもない。結局、最大の問題は、都市という人間の考
も良質な住環境を安価に提供できるという保証はどこ
地の宅地並課税も根本的解決策にはほど遠いし、しか
こ の 論 文 は 同 研 究 年 報 ﹄ 刊 号 ︿ 一 九 九O 年 四 月 刊 ) に も 、 こ の シ ン ポ ジ ウ ム へ 向 け て の 他 の 三 編 の 委 託 論 文 と 併 せ 掲 載 い た し ま す 。
において、近年の首都圏を中心とした地価の高騰が、
都市は有機体に似た性格を持ち、そこに住む倒入、
より状況を悉くしていることにある。広さ、近隣のア
飛躍的豊かさの向上と比べると、住の貧しさは際だっ
にあえぐということになっている。衣、食、その他の
し、部分的な解決策であり、説得力に欠けるのが大半
か。実際にはいろいろな提案がなされてはいる。しか
ないのが実態であろう。本当に解決策がないのだろう
しかし、その解決策となると、これといった決め手が
るとき、設都圏という有機体が持っている自己調節能
することも確かである。したがって、住宅問題を考え
しかし、有機体と同じように病気になり、また、衰弱
実である。したがってどこかでバランスを保っている。
てくれるというすばらしい能力を持っていることは事
法人、その他団体の個々の活動を包含し、自己調節し
ている。議論が飛躍するかもしれないが、最近の司本
誰もその重要さを否定する人はいないであろうが、
点からきわめて重要である。
たたきの原田の一端は、往生活の貧しさが相変わらず
である。例えば、最近議論されている市街化区域内農
力を活用しながら、どれだけ有効な模を多商的に打ち
日本人を貧乏人根性から抜け出させることをせず、し
はほど遠いものを子に入れ、しかもロ l ン返済の重圧
メニティ、通勤距離、子供の教育等の観点から満足に
禎
徳
都 における住宅開題解決へ向けての
フレームワーク
出
はじめに
横
を合わせることができるならば、小さな行動が大きな
都圏になんらかの形で関わる人達が少しでもベクトル
が方向を転換するようにちょっとずつではあるが、首
者を充分説得できる必要がある。ちょうど巨大な戦憶
えていくであろうということが、多方面にわたる関係
面的な模がトータルとして有機体を望ましい方向へ変
込んでいけるかが最大の課題である。そして、その多
にならないのである。移すなら立法と行政を一体で移
が日本の実態であり、立法府と離れてしまっては仕事
し、官庁の仕事のかなりの部分は立法の仕事であるの
に分散させれば良いというような考え方である。しか
京に機能集中が起こる、したがって、監督官庁を地方
性も薄い。例えば、監督官庁が東京に存在するから東
ずしも効果的な解決策とい、えないばかりでなく、実現
要であるからである。また問題の裏返しの解決案は必
新たな高度成長の時代が来ることが確実であるといっ
程度のGNPに対する効果も期待できる。その結果、
すなわち、利用技術まで含めれば、数十兆から百兆円
多様な事業機会を提供することになると考えられる。
である。したがって、一九九0年代には大規模、かっ
事業という観点からはやっと離陸期に来たという状況
えるための枠級みを提案してみたい。それがまず第一
そういう観点から、ここでは首都圏の住宅問題を考
な機能分散であるが、実現するには長期の努力が必要
にゆずってしまうのなら問題は別である。最も効果的
すより方法はない。それよりも監督権限を地方自治体
とコミュニケーションの一体化という方向で今後展開
サi の利用技術の展開である。それはコンピューター
その中で中核になるのが多種多様なマイクロプロセッ
その中でも社会に広範な影響を与えるのが、半導体、
て良いであろう。
うねりになることが期待される。
歩と考えるからである。その枠組みの中での個々の具
ISDNの整備等を通じて情報化社会がよりいっそう
していくであろうことは異論のないところであろう。
伺様に、時代の流れに逆らった施策はほとんど効果
現実のものとなっていくことは確かである。そして
である。
るいは個別企業等の間体の間のせめぎあいの中で評価
我々の公私にわたる臼常生活を根本的に変えてしまう
体案は多数ありうるし、その選択は、政治、行政、あ
され選択されていくであろう。だからこそ解決策を導
可能性すら存在する。そういう観点からまず産業構造
をあげないばかりか、今より状況を慈化させてしまう
その枠組みをできるだけ多面的に考えてみるのが本稿
き出すための枠組みがしっかりしている必要がある。
であろう。
すでにその恩恵を最も幅広く受けると思われるのは
の変化と首都圏の役割について考えてみる。
の罰的である。
に税法の問題がある。そして第五に都市構造と交通の
に消費者の経済状態と価値観、生活感覚がある。第四
二に企業活動における首都圏の意味合いがある。第一二
まず第一に産業構造の変化と首都圏の役割がある。第
である。それではその領域はどのようなものであるか。
り、その実態を十分認識しないでの議論はほぼ無意味
べてが複雑に絡み合い、その結果としての住環境であ
いといけない領域及ぴ分野は多岐にわたる。それらす
大発明は不連続な技術展開である。すなわら、一九六
そして各種新素材の実用化がそれである。これらの三
の実用化を含めたニュ l バイオテクノロジi の出現、
それはマイクロプロセッサ!の発明、遺伝子操作技術
るものに、一九七0年代に出現した一一一大発明がある。
代から一二世紀にかけての産業の展開を大きく友右す
構 造 の 変 化 と リ ン ク し て い る か ら で あ る 。 一 九 九0年
うことはありえないと考えるべきである。それは産業
まず大前提として首都圏への集中が今後弱まるとい
わち、生損保、信託銀行、その他の金融機関あるいは
ートの動きに影響し、また、日本の機関投資家、すな
とは周知の通りである。各市場の金利の動向が為替レ
しかも、世界の主要金融市場が連鎖を深めているこ
ピューターを大々的に活用した応用数学の世界である。
ワップ、フユ│チャ l、オプション等も、すべてコン
トレ l ディング、インデックスファンド、あるいはス
えられない商品である。株式市場に於けるプログラム
変額保険、 MMCなどは、コンビュ i タ!なしには考
ずである。新たな金融商品、例、えば中国ファンドや、
はこの電子パルスの活用なくしてはありえなかったは
スに転換してしまっている。最近の金融市場の急成長
金融業界である。すなわち、お金が紙から電子のパル
問題がある。最後に立法及び行政の所在地の問題があ
これらの技術の出現は予測されていない。そしてその
0年代にアメリカで行なわれた将来の技術予測の中に、
国産業構造の変化と首都圏の役割
る。これらの一つだけでは問題は解決に至らない。い
商社の相場観が、ニューヨークの投資銀行、あるいは
首都圏の住宅問題を考えるとき、当然考慮にいれな
くつかの事が同時平行的に進む必要がある。それは住
可能性はまだまだ十分開発し尽くされていない。特に
宅問題の解決には短・中及び長期のすべての施策が必
あるいは、東京、ロンドン、ニューヨークの金融市場
通等であれ、直接面会し、対面情報として入手したも
言い換えれば、顧客や取引先、あるいは開業者、業界
情報の発生源から直接入手した情報ということになる。
そうやって突き詰めてみると、最も質の良い情報は、
レーダーにとって、赤坂と六本木の中間にあるアl ク
東京においても、ボンドや為接、オプションなどの卜
世界では、ウォ l ルストリートやシティがそれであり、
あることである。時々刻々の情報が重姿である金一憾の
証券会社の営業にとって大変重要になってきている。
いる機関投資家、証券会社などは、世界の各種情報を
は毎日順繰りにオiブンし、それらの市場に参加して
はないからである。あるいはギブ・アンド・テイクの
が望ましい。人は誰にでもいい情報を提供するわけで
当て込んだ高層ビルがいくつか建設中である。このよ
融機関が集中する可能性が出てきている。またそれを
移転を企画している。このようにして大手町近辺に金
ロモンブラザーズのような有力投資銀行は大手町への
っている。情報化時代の恩恵を最も受けているのが金
うに情報技術を使いこなしているはずの金融機関が、
ヒルズでは情報源から透すぎるのであり、すでに、サ
融関連業界であるといえる。すなわち、マイクロプロ
から期待できない。したがって、何度も閉じ人に会っ
関係にあることも望ましい。そのような関係は初対面
でふめヲ令。
お互いからの歩行距離の範囲内に集まり始めているの
のが最も良い情報である。ただし、その質の良い情報
セッサーを活用した電子技術、ソフトウェア技術の展
て親しい関係をつくる必要が出て来る。そうやって何
を得るためには、相手が自分に好意を持っていること
開なくして、咋今の金融市場の大発展はなかったであ
度も会い、食事をし、酒を欽み、ゴルフをし、仕事を
レビスクリーンで見ながら、債券や為替の売由民を行な
ろう。このように金融業界で先行した情報技術は、他
一緒にやってみてお立いの気心が知れる。そのような
提供してくれるロイタiやテレレiトなどの情報をテ
の分野、すなわち製造業に珍けるCIM、そして流通
相手からの情報が最も質の良い情報であることが多い
のである。自分もそのような相手に役にす一つ情報を与
文化イベントの数、情報技術者の数等では十倍近い差
工業出荷額では過去それほど味方一は聞いてはいないが、
はっきりしている。例えば、首都圏と関西圏とでは、
いるのである。工場が首都関に集中し始めたというこ
すなわち、ハードの生産においては昔も今も分散して
があり、株式取扱い高でももっと大きな差が存在する。
である。最近のグロ i パリゼl ションの進展の中で、
このような状況は国と人種が違っても全く向じこと
えるのは自然な感情である。
それほど極端でなくても、東京に住んでいる理由は
食業の戦略と一体化が進んでいっている。
業の顧客・売れ筋情報システム、航空業のCRS等
、
しかし
一方ですでに情報過剰時代であるという言
これだけ通信技術が発達しているにもかかわらず、そ
い方もある。すなわち我々の多くは情報の洪水の中で
溺れている状況にいる。当然、質の良い情報を選別す
臼本﹂といういろいろな意味で評判になった本の中で
ることが最も重要な事になってきている。質の良い情
石原慎太郎氏が述べている、半導体工場の不良品率改
とは余然ないのである。例えば、製造技術の改善とい
相手と親しくなるために、附一界を飛び回るのである。
して、旅客輸送技術は通信技術ほどには発達していな
印刷際旅客の大半が観光というわけではない。例、えば、
その工場の若い女性従業員が工場の近くの鉄道の振動
善の例は日本電気・熊本工場であり、改善のヒントは、
うものは製造の現場の工夫である。﹁﹁N O﹂と言える
メディアによっても加工されていないことである。し
ユナイテッド・エアラインの太平洋線旅客のうち約四
いにもかかわらず、人は対面情報を求めて、あるいは、
かし実際は、多くの人びとは大半の情報を新問、雑誌、
O%はビジネスが旅行目的である。この傾向は強まり
の人達は持っていないこと、そして大事なことはどの
テレビ、ラジオ等のメディアを通じて得ている。それ
報の特徴は何か。まず、新鮮であること、そして、他
はすでに加工された二次情報である。このようにジャ
こそすれ、弱まることは考えにくい。
済性、あるいは顧客ニ!ズなどの観点が欠務している
る。多くの場合、企業にとって重要な事業としての経
望ましい。最も望ましいのは、すべてが歩行距離内に
う対象となる人が多くいるところに住んでいることが
えるよう近くに住んでいることが望ましいし、そうい
的にきついものである。それよりもお立いが気楽に会
しかし、亜音速機による一 O時 防 以 上 の 飛 行 は 肉 体
グループ制であり、﹁カンパン﹂方式であった。東京に
企業ではなかったのである。それは提案結であり、小
舎裂﹂の企業であり、東芝とか臼産などの﹁都会型﹂
は、日立、トヨタであり、松下であった。要するに﹁田
が評判になった時、その例として挙げられた日本企業
の問題に気がついたことである。数年前、日本的経営
ーナリストによって加工された情報が、例えば企業の
のである。したがって企業にとっては、質の高い情報
経営判断のために本当に役に立つかは大いに疑問であ
とはいい難い。
斗a
n
u
d
しかし、企業競争の重点は今日、生産の現場以外の
場が最も重要な組織単位であった。
企業の競争のゆ心が品質とコストにあった時代は、工
いないと思いつかないようなものではない。すなわち、
ン現象というべき集中化状況が発生しているのである。
述べたような理白から、世界中の大都市でマンハッタ
中は逆説的に展開するもののようで、実際には、先に
う、当時の考え方を表現している。しかし、常に世の
によってエネルギーを失い、じわじわと滅亡するとい
化時代においていっそう顕著に見えてきている。例え
な経済単位ということになる。このことは近年の情報
もと不自然な経済単位であり、都市経済圏が最も自然
ブスによると、政治的に境界の決まる国家経済はもと
アメリカの都市経済学者であるジェイン・ジエイコ
がこようとしている。そして、その流れを推進する強
研究開発、商品企画、営業等の高付加価値化と、市場
力 な カ に な っ て い る の は グ ロ i パル化しようとする企
ことはできないのである。国境が意味を持たない時代
と分るが、住居の質、安全性、その他各種都市サービ
ぎない。実際にマンハッタンに住んで仕事をしてみる
業である。そして、企業は、都市経済圏と同じくらい
ば、電子パルスであるお金の流れを国境でせき止める
短縮に移行している。すなわち、企業戦略の要である
自然な経済単位であると考えることができる。昔、ア
ると、それは情報化時代に遅れているということに、過
競合他社に対する差別化と優位維持は、日本中均一化
スの質としては不満足なことは多く、インフラストラ
まだそのような状況になっていない大都市があるとす
した生産の場にはなくなりつつあるということである。
クチャーの容量の限界を感じるが、それらの不満を超
メリカの自動車会社であるG Mの勢いが強かった頃、
G Mの成長率の方がアメリカGNP成長率よりはるか
て製品を返すTAT(タl ンナラウンド・タイム)の
すなわち、このような付加価値が製造以外の機能に移
えて、情報の集積の魅力は大きいのである。
との接点から情報を得て、市場に質の良い﹁答﹂とし
っていくことが、経済のソフト化の意味であると捉え
る。そういう意味から、市場との接点に情報源が結び
先ほど述べた、 TATの短縮と﹁答﹂の質の向上にあ
がよく言われるが、その目的は事務の合理化ではなく、
いるのである。オフィスオートメーションということ
ッサ!を活用した情報機器の出現によって加速されて
題ではないと考えられる。当然のことながら、東京以
問題であり、東京への集中と比べてあれかこれかの問
以外の地域がどう発展していくかはまったく独立した
象は変わらないという前提で考える必要がある。東京
在すると考えることは非現実的であり、今後もこの現
したがって、東京への集中化も解消する手だてが存
行動は見えてこない。そして、これらの企業行動にど
十分考えてみないと、企業行動ひいては従業員の生活
における最大の都市経済圏である首都圏の意味合いを
構成要員であり、したがって、企業活動にとって日本
きている。しかし、一方でこれら企業は都市経済閣の
グローバル化する企業においては現実的な話になって
カより大きくなってしまうという笑い話があったが、
ることができる。そしてその傾向は、マイクロプロセ
ついていないオフィスオlトメi ションは価値がない
いろな手だては工夫されるであろう。しかも、世界的
外の地域はもっと発展すべきであり、そのためのいろ
に高かったので、このままでいくとG Mの方がアメリ
のである。
きるであろう。そしてその情報の質は、すでに述べた
はきわめて重要なものになってきていることが理解で
とにはならず、日本の各地域も発展するが東京も発腿
う。しかし、それは何かが東京から移転するというこ
もいっそうのアイデンティティを確立していくであろ
なリl ジョナリズムの台頭と呼応して、日本の各地域
事情が大きく左右されるといってもよい。
のような方向を期待すべきかによって、首都圏の住宅
そのように考えてくると、企業にとって外界の情報
ように、対面の一次情報であるかどうかに左右される。
を続けると考えるのが自然であろう。結局、東京とい
である。ほんのちょっと前までは、情報化時代の特質
容量の拡大と質の改善を考えることが、最も現実的な
う名に代表される集中機能に十分な活動の場を与える
称するものを置き始めている。しかし、それらの企業
る。また、近年多くの関西系の企業が﹁東京本社﹂と
O存在するが、その約六O %が東京に本社をおいてい
日本における上場企業は応頭上場も入れて約二八O
国企業活動における首都圏の意味合い
である。この本質を十分理解することはきわめて大事
結局、情報化時代には集中化の傾向は避けられないの
を 逆 に 見 て い た こ と も あ る の で あ る 。 一 九 四0年代に
否であるかではなく、与件であるとの前提に立って話
方向である。したがって、東京の巨大化は是であるか
はすべての活動を東京でやっているのだろうか。当然
で、情報通信の技術が進んだ結果、人類は分散して住
を進めることにする。
クリフォード・シマックは﹁都市﹂と題したS Fの中
むようになる。そして当然都市は衰退し、人類も分散
を東京、あるいは首都圏に置いておく必要はないので
在している。そのように、企業にとってすべての活動
のことながら、工場、支脂、営業所等は全国各地に散
必要はある。しかし、それは必ずしも東京とは限らな
確かに生活体験が時代の先進的な部分と関わっている
のごとく考えられるかという心構、えの問題に帰結する。
わたってきているのである。したがって前線支援の機
と同様に、歩兵だけで戦うには金業戦争が複雑多岐に
全社サービスと呼ばれるべき部門である。近代の家紋
ム、法務、特許、資料、広報、宣伝、事務改善等は、
るべき部分が急拡大している。教育訓練、情報システ
っともっと拡大強化されていくであろう。例えば、一
能が必然的に充実せざるを得ない。これらの機能はも
い。例えば消費財においても海外がトレンドセッター
設計者にとって必要なことは、動き回ることであって
であることは相変わらず多いのである。したがって、
東京に住んでいることではない。
にここで﹁ビジネスシステム﹂という枠組みを導入す
る。すなわち、事業をするための業務の流れと考えて
ある。その状況をもう少し分析してみよう。そのため
よい。例えば、メーカーにおいてのビジネスシステム
な人不足の時代であると考えられる。当然、各企業は
九九0年 代 は 新 た な 高 度 成 長 期 で あ る と 同 時 に 、 極 端
外研修等も充実することは間違いない。結果として、
購買は多くの場合、工場に所属しているし、工場は
教青訓練部に人が投入される。これらの八五社サi ビス
東京に立地することはない。大平は全国に散らばって
一か所に集中することはリスクが高い。まして、東京
機器メーカー等のユーザーへの供給支任の観点からも、
が多い。すなわち、本社スタッフとして扱われている
機能は多くの場合、本社機構の山中に援かれていること
は、技術開発、設計、購買、製造、営業、販売、物流、
多くの場合、技術開発、あるいは研究開発は郊外の
あるいは首都圏では、地震等によりいっそうリスクは
サ!ビスのステップから成り立っている。これらの機
広々とした敷地を持った研究所で行なわれていること
官問いと考えられるのが普通である。また、経済性の観
のである。したがって当然のごとく本社ピルの中に陣
人材の育成訓練機能を拡充するであろう。すでに大手
が多い。確かに中央研究所の弊害として、外界との接
取っている。一方、もっと前線に近く、営業サービス
企業は豪華な研修所を競って建設している。出向、海
点が弱い、あるいは研究者が外界に興味を示さないと
点からも、土地の値段、労働力の供給とコスト等、地
いる。例えば、先述の日本電気の半導体工場は、九州
の批判は存在する。しかし、毎日外に出ていることが
機能が存在する。営業企画、商品企画、業務推進、お
だけでなく、中呂、東北と谷地に分散している。情報
望ましい仕事でもない。集中没頭できる環境であるこ
しない。営業及び販売は前述のごとく各地方にある。
方のほうが断然有利である。したがって東京には集中
はないことは明らかである。
とは基本である。特に今後基礎研究に傾斜していくこ
能がすべて東京に存在しないといけないということで
とを考えると、いっそう環境は重要であろう。工場の
ろう。すなわち、ビジネスシステムがソフト寄りに拡
くなって来るとこの種の機能はもっと増えていくであ
大していっているのが現状である。
客様相談、チャネル開発等の機能である。営業が難し
化の傾向の中でも本質的な変化は出てきていない。す
に分散している。この状況は前節で述べた高付加価値
よいという理由は見つけにくい。商品設計も同じよう
なわち、付加価値の新たな源泉である技術・商品開発、
そしてサービスも顧客に近いことが必要であり、地方
な状況である。確かに、外国介、特に顧客に近いことが
近くにあることは考、えられでも、都心にあったほうが
望ましいが、必ずしも顧客が商品の発想を教えてくれ
充実され、人数も増えていっている。そしてこれらの
あ る い は 営 業 に 直 接 関 わ ら な い サi ビス機能が急速に
すでに多くの企業にとって、このような実際の製造
のではない。ではいったい何が東京に集中しているの
付加価値営業は相場所を移すことによって展開している
企業を、いま述べた観点とは別のカットで見てみる
だろうか。
るわけではない。ソニ i の超小制定8 ミリビデオ、ある
いはシャープの左右どちらにも開く冷蔵庫は、顧客に
のが当然だのごとく扱われている。しかし、これらの
機能ははっきりと命名されないまま、本社機能である
開附いて出た発想ではない。素人である顧客にいくら何
ムとすると、最近はソフトな機能が充実してきでいる
マネジメントは対外的な活動が多い。すなわち、主要
人たちは東京にいないといけないのだろうか。トップ
と、先ほどのビジネスシステムが伝統的ハ lドシステ
ことが顕著な特徴ということができよう。最近は本来
が欲しいか聞いてみても、素人の悲しさ、見たことも
の本社スタッフ、すなわち、経営企画、人事、経理、
ないものは欲しがれないのである。電車や電子手帳が
た電子手帳を欲しいといった人はいないであろう。し
存在しない時代に、薄型電卓や辞書、住所管穫のつい
総務などに加えて、本来他部門へのサービス機能であ
顧客、官庁との接触、政治家とのつきあい、業界、あ
たがって、やはり、設計者がどれだけ顧客になったか
て重要な情報源としての日常のつきあいは必要と考え
るいは経営者団体のつきあい等、儀礼的なものも含め
必要がある。従って、東京にいることになる。
的市場である東京、あるいは首都閣は十分知り尽くす
市場との接点を求めることが多く、特に巨大かつ先端
ローテーションを行なう時代ではなくなってきており、
が実態である。したがって、転勤に関しても、全員の
その選別はかなり早いうちから行なわれ始めているの
る。現在、大手企業が計画しているような東京の社宅、
ることができる時代にきている。あとは実施のみであ
たちに東京に住む必要のないことを会社として保証す
新しい世代も、出世に対する期待感が減少しているこ
る。しかし、前に述べたように、会社、及び営業サー
大半の社員を東京以外に配霞することができるのであ
独身寮の大幅グレードアップに数百億円かけるよりは、
これまで兄てきたように、本当に東京の本社にいな
の重要性からいっても企業トップは質の良い情報を入
るのが常識的であろう。さきに述べたような対面情報
し、これら本社スタッフの人数はそれほど多くないし、
ビス機能を、本来の本社スタッフとはっきり分隊して
とは指摘されるとおりである。今後ホワイトカラーの
あまり増える理由は存在しない。それでは全社サービ
考えるところまで多くの企業は至っていない。したが
このように、企業内での職種も新たな分化を起こし
より安価であり、中盤、中小企業でも実施可能である。
ければならないのは、本社スタッフと一部のサービス
ス、営業サービスなどの拡大傾向にある機能はどうか。
って、本社、特に東京の本社にいる人員数は肥大化し
始めており、従業員の価値観も多様化の時代になって
手するには有利な地位にある。そのトップマネジメン
これらの機能は東京の本社ビルにいる必要があるのだ
ていくのである。この傾向を助長しているのが、本社
きている。また、大会業の従業員だけでなく、中堅、
トを補佐するためには、本来の意味の本社スタッフは
ろうか。
にいるのが出世コースという人事上の固定観念である。
中小企業の従業員、自営業その他の人びとも各々の生
いくことになるのであろう。したがって、これらの人
その問題を考える枠組みとして、外界との接点の重
したがって、やらなければいけないことはかなり明快
活感覚と価値観を持っている。政策立案者の各種施策
多くは専門職種として全社及び営業サービスを支えて
要度と接触頻度を考えてみる。まず、全社サービス機
である。すなわち、トップマネジメントサービス機能
でも数百人のスケールであろう。したがって、企業は
能であるが、その多くは前線の活動をし易くする環境
以外を十分吟味し、急拡大しつつある新たなサービス
の方がその実態を無視した単一の施策になっているの
機能のみである。小さな本社の傾向を考えると大企業
を整えることがその責務であるから後方支援部隊であ
ではないだろうか。ここで消費者のセグメントの観点
トップの近く、すなわち東京にいることになる。しか
り、外界との接点が日常的に必要ということはない。
ロケーションを決定することである。そして、それを
機能は外界、特に東京との接点の重要度に応じてその
からの可能性を見てみる。
は重要であるが、それは大半が企画段階であり、開発、
十分裏打ちするためには、本社ビルにいるのが昇進に
例 え は 情 報 シ ス テ ム サ ー ビ ス は 社 内 ユ ー ザi との接点
ビュ i タl センタi は 本 社 ビ ル と は 離 れ た と こ ろ に 存
運用は本社にある必要はない。実際多くの会社のコン
たが、大井松田のビルにはシステム部門が残っている
例えば、第一生命の郊外への本社移転は成功しなかっ
首都圏以外の土地で望みの家が持てたにしても、東京
員もそれを望むであろうかという問題はある。たとえ
を企業は減らすことができるはずである。果たして社
このようにして、東京に住まないといけない人たち
に効率の良い業種の場合は十分な給与を支払うことも
に住むことは難しいことは明らかである。金融のよう
が必要である。これまでどおりの考え方では、首都圏
首都圏に住むためには、消費者自体の側からも変革
置消費者の経済状態と価値観生活感覚
有利という観念を実際の人事で撃ち破ることであろう。
ようである。教育訓練機能も本社にいる必要はほとん
可能であろうが、東京の持つ魅力自体が地価の上昇に
在する。まして東京にいないといけないわけではない。
どない。というよりは、人事部と情報を交換しないほ
に転勤になれば問題は同じではないかということも言
わることは考えにくく、多くの勤労者にとって、常に
えよう。しかし、ホワイトカラーの増大の中で、ホワ
自分の収入からくる資金量の限界を越えたことになっ
いともいえる。外界との接点もそれほど頻度は高くな
い。資料も同様である。しかし、宣伝、広報等の機能
イ ト カ ラ ー の グ レ ー カ ラi化が一吉田われている。すなわ
ち 、 す べ て の ホ ワ イ ト カ ラi が役員までの出紋コ l ス
うが教育はやりやすく、したがって離れていた方が良
は外界との接点が重要であり、東京にいる必要性は高
に乗っているのではないという事実である。そして、
つながる状況は、マンハッタンの例を見ても簡単に変
い と 考 え ら れ る 。 一 方 、 営 業 サi ビ ス は そ の 性 格 か ら
てしまうであろう。したがって、そのままではいつま
を中心に考える。
たすら新しく子の届くようになった家電製品や、自動
四O代の住居ニーズは、独身、あるいは新潟のこO代
、
、
ズの代理指標である。すなわち、妻子のある一二O代
り主張のはっきりした世代である。過去に新たなライ
と考えられる。その次の世代である団塊の世代は、よ
た歌代である。住感覚も親から受け継いだものである
車、その他の耐久消費財、ブランドものを購入してき
潜在需要の大きさを考えると、多少の住宅供給量の増
あるいは子供の手が離れていく五O代 よ り 白 出 度 は な
フスタイルを作り上げてきている。﹁ニュ i ファミリ
まず、年齢であるが、これは家族を含めた住居ニー
加では短・中期的にはともかく、長期的な解決策には
i﹂ と い う 言 葉 を 定 義 さ せ 、 そ の 後 ﹁ ニ ュ l サl テ
でたってもいたちごっこになってしまう可能性が強い。
ならないであろう。ここで必要とする抜本的な発想の
の規模、質のみでなく、どのようなコミュニティに住
イ﹂、そして四O代に突入した現在﹁ナイスミドル﹂に
く、また、姿求もはっきりしている。それは単に住居
なっている。はっきりしたものの選別基準を持ってお
づいた住民ニ!ズの多様な把握と、それに応じた供給
一定水準以上を確保しているか、もっと具体的には質
むかがきわめて重要である。それは子供の教育の質が
転換の基本として、消費者のセグメンテーションに基
わち、土地付きの一一戸建てを求める人びとにとってマ
策を立案実施することを考えてはどうだろうか。すな
いうことではものを買わない世代である。その選択基
り、単に高くて高級、あるいは有名ブランドだからと
しており、反面、生活の質に関心が高く、いろいろ工
の良い学校がそのコミュニティにあるかということで
夫をする。仕事を通じて国際感覚もあり、世界の質の
ある。しかし、子供に束縛されることがなく、また、
フスタイルを求めるようになるのである。このような
よい住環境も知っている。生活の各側面で闘の肥えた
マンションの利便性がニ!ズに合う人達もいることは
年齢に応じた住居ニ l ズは時代を超えて普通的なもの
世代である。そして、それより若い世代はもっとはっ
ンションの生活は耐えられないものであろうが、一方、
と考、えることができよう。そしてそれは年齢に応じた
きりライフスタイルの主張がある。すなわち、自分に
準も多元的、かつ許容度の狭いものであり、メiカi
普都閣の住宅政策を考、える人びとも、このような発想
ライフスタイルを反映しているのである。戦争から帰
とって望ましいライフスタイルがあり、それにふさわ
定年以降は会社のロケi ションにも束縛されない年齢
を活用してみる必要がある。
ってきて結婚し、居を構えるという形で、同じ年齢層
周知の通りである。顧客の属性に応じてそのニ iズが
それではどのようなセグメンテーションが首都圏の
だけでできあがった戦後のアメリカにおける大都市郊
しい時空間を求め、そしてその時空間に合うものを買
などの企業にとって扱いにくい世代である。その数の
住宅問題を考えるのに適しているだろうか。それはラ
うという順序になる。したがって住居ニ i ズもはっき
多さから食業における出世に対しても現実的な見方を
イフスタイルの違いに基づいたセグメンテーションが
外の町では、一九七0年代に入ると定年に達し、みん
りしたものを持っている。しかしまだ子に入れる状況
になると、また新たな住居ニーズが出て来ることは良
望ましいであろう。なぜなら、住生活はその重要な部
な老後をフロリダで生活するために移住してしまい、
にはなっていないが、明らかに求めているものは高度
く知られている。夫婦でこれまでと違った新たなライ
分であるからである。それではライフスタイルを左右
人口が減るということを経験している。これは年齢に
成長世代、あるいは団塊の枇代の住感覚とは違うもの
り、顧客セグメンテーションも当り前のことである。
する消費者の属性はどのようなものであろうか。ここ
には差があれ同じような現象があり得るのである。
よるライフスタイルの変化の様端な例であろう。程度
違うことは消費者マ i ケ テ ィ ン グ で は 自 明 の こ と で あ
の組合せがライフスタイルの遠いを構成していると考
で、年齢、世代、そして職業を捉えてみる。この三つ
きは日本も貧しく、戦後日本と一緒に豊かになった世
すでに五O才を超えた高度成長枇代は自分が貧しいと
める余裕と絡んでいる。職業のタイプとして考えられ
スタイル全体に絡んでいる。
は遠い、もっと仕事と私生活との関係も含めてライフ
である。その遠いは単にデザインで処理できるものと
代である。したがって、上昇志向が強く、勤勉で前向
るのは大企業の従業員、中堅、中小及ぴ零細企業の従
次に世代によるライフスタイルの違いをみてみよう。
それは持ち家が相続という形で入手可能である確率が
婦のどちらかが一人っ子であるかどうかが考えられる。
きであり、良き企業人であるが、家庭では家父長的で
えて良いだろう。もう一つあえて追加するならば、夫
高いからである。しかし、このセグメントは今後増加
あり、消費者としてはものの選別能力が弱く、ただひ
職業の違いも、ライフスタイル、あるいはそれを求
らない人が大多数である。したがってそれらの人ぴと
するにしても、当部は自分で住居を確保しなければな
る。転勤は多いが社宅は充実しているし、低金利の住
業の従業員はこと住居に関しては恵まれている方であ
業員、白山昂業、自由業、そして公務員等がある。大企
資源、省エネルギi、一九八0年 代 へ か け て 、 社 会 的
の関心、一九七0年 代 初 め の オ イ ル シ ョ ッ ク 以 降 は 符
精神とは例えば、一九六0年代は環境やエコロジーへ
てはめて、ある程度理屈の通った判断をするからであ
と違って、団塊の世代以降はいろいろな選択基準を当
たような高度成長世代が理屈抜きに持ち家を欲したの
ている。したがって、常にある程度の質の住居を確保
あろうか。それが﹁ゆとり﹂という一言葉で表現された
予想されるのは﹁心と体の両方の健康﹂ということで
連しているであろう。それではこれからどうなるか。
給できるように環境を整備していくことが望ましい。
ぶはずであり、そのパターンを具体的な住宅として供
いくつかの選択肢から自分の好みにあった住生活を選
る。一一戸建ての持ち家であればどんなに通勤時間がか
できるセグメントである。体面上ライフスタイルは常
り、あるいは住宅における男の書斎の要求になってき
ンがあるだろうか。まず、多少大きめの一一戸建てが欲
も東京に勤め先がある人にとって、どのようなパター
かっても良いとは考えない世代である。したがって、
識の範囲内であり、あまりオフビートな生活感覚は強
ているともいえる。そしてまた、その先には自分から
しい人は勤め先から二時間同以上離れたところに持ち家
いる。これも団塊の世代が四O才を超えたこととも関
くない。このセグメントは多くても就業人口の三O%
社会へ関心が移っていくことも考えられる。世界の環
関心から自分への関心、それが健康志向となってきて
程度と考えられる。それに比べると、中堅、中小及び
境問題がそれである。いずれにしても今後五年、一O
られないか。週末だけ帰宅するという生活のパターン
をし、都内では賃貸住宅に生活するということが考え
スタイム等、状況に合わせて常にいろいろ正夫がされ
零細企業の従業員は、大企業に見られるような福利厚
年、ニO年の単位で住宅政策を考えるとき、人びとの
宅ロ l ン、新幹線通勤をも含めた通勤手当、フレック
生を享受できないだけでなく、給与水準も不利であり、
価値観を左右する時代精神まで含めて検討する必要が
外に山山ることによって安く土地を手に入れる。そして
もありうるかもしれない。要するに東京への通勤圏の
では、先に述べたような企業の従業員分散努力の後
終身雇用でもない。したがって、自助努力に頼る部分
ふめフQ
。
が多いが、結局、通勤距離、規模、住環境のすべてに
おいて大企業の従業員より恵まれていない。今後慢性
小 さ な ア パ ー ト を 借 り る 。 当 然 、 ロ i ンの支払いと家
自宅と勤め先との中間で、毎日通、える範囲内の地点に
化すると考えられる人不足の状況の中で、より高い収
さて、このような﹁心と体の健康﹂が今世紀末にか
る一戸建て住宅との比較になる。通勤時間の長さを考
けての時代精神だとすると、その枠の中で、-主要セグメ
えると、この二住居方式も選択の余地はあるだろう。
入を求めて、あるいは住み易い環境を求めて流動性が
い往生活の提案をすることによって、ガイドしていく
る願望を、彼らのライフスタイルに沿った形での新し
二時間圏を一 0 0キロ固と読みかえると北は宇都宮、
高まる可能性がある。自営業は多くの場合零細地主で
を相変わらず確保していると考、えられる。自由業者は
東は銚子、南は房総半島のすべて、南西は伊豆半島の
かしすべてをロ l ンの支払いに向けて通勤圏に得られ
千差万別であり、収入階層も広がっており、捉えにく
ことである。各種メディアをつかった広報宣伝戦略が
一部、凶は甲府、北西は前橋、高崎であり、それより
賃とのこ重払いになり、分が惑いように思えるが、し
いが、このグルiブが最も多いと考えられる東京にお
必婆である。まず、ここで最も大きなセグメントと考
外と考えると好みに応じて多様な選択が可能である。
ントごとの首都圏における往生活の姿を考えてみる。
いても就業人口の数%を占めるだけであり、あまり重
えられるのは大企業以外の企業につとめている団塊の
これらの地域には水準の高い学校も多く、教育、自然
ここで重要なことは、これらのセグメントが持ってい
要とは考えられない。公務員も相対的にはあまり大き
世代、そしてその次がより若いサラリーマンの世代で
環境、取得可能土地の規模、主婦の一雇用機会、都会的
が高まり、建物の高層化を通じてそれなりの質の住居
なセグメントではなく、その福利厚生も比較的完備し
あろう。これらの、大企業が提供する福利厚生の怠恵
アメニティ等の組合せが十分可能である。
ある可能性が高く、地価の高騰により土地の担保能力
ているほうであると考えられる。
いる住居への願望を、首都圏という中で捉、えられるか
を受けることのないサラリーマンセグメントの持って
が大きな課題である。しかし、ある意味で対策が打ち
よく知られていることであるが、買取り市場と賃貸
この三つの属性の組合せでライフスタイルの異なる
易いかも知れないと考、えられる。なぜなら、さきに見
セグメントが考えられる。この組合せに今後予想され
スタイルや価値観の変化も推定できるのである。時代
る時代精神をつけ加えると、セグメントごとのライフ
り、見たことがないものは欲しがれないのである。し
する課税自体があまり大きくないので、農民である地
が宅地に転換するという保証はあまりない。宅地に対
見方がある。要するに中途半端な施策である。なぜ、
塊以降の世代も、資産形成に関してはやはり素人であ
発想を変えて、宅地に転換するとメリットがあるよう
市場との比較をしてみると、当然対象顧客の支払い能
降の主婦は家計簿のような月次損益計算書ではなく、
主にとって、それほどの負担にならないだろうという
上がり方は緩いのである。賃貸価格はインフレ率にほ
借金と資産がマッチしていれば借金は恐くないという
かし、知識水準はかなり高まっている。団塊のサ一代以
ぽリンクしているが、買取り価格はそれより上昇率は
な租税措置をしないのであろうか。
力を反映して、賃貸の方が地価の高騰にもかかわらず
高く、賃貸価格とは全く独立の動きをしている。この
ている。若いうちからこのような資産形成の規律を身
ような貸借対照表の概念が理解できるようになってき
かし、一家の主一人が死亡した場合の家族の生活の安定
能力によるから、低収入では宝の持ち腐れになる。し
しかないのである。それが活用できるかは金利支払い
が高くなっても、担保価値が増えるくらいのメリット
った住居を自分で使用する場合は、いくら不動産価値
くのであれば、賃貸の方が有利なはずである。由民い取
はこ%を切るような状況である。今後もこの傾向が続
のが税法であるともいえる。そういう意味でも税法を
あるといえる。局所対策であり、全体観に欠けている
却メリットを無くそうという考え方は間違った方向で
観点からすると最近検討されている事業用不動産の償
口化商品などが多く販売される必姿がある。そういう
うな不動産高騰をへッジする商品、例、えば、不動産小
にも十分対応できるはずである。そのためにはそのよ
につけるような啓蒙と指導がなされれば、地価の高騰
市は乱開発が防げるし、農民は思いがけない資金が手
たな概念に変えたわけである。これによってシアトル
有権を要素に分解し、﹁所有権﹂と﹁開発権﹂という新
う考え方である。すなわち、これまでの概念の土地所
限り、農民に旧来の﹁所有権﹂がそのままであるとい
考え方である。したがって、農地として活用している
農民から所有権ではなく﹁開発権﹂を長い取るという
の保護をリポiトしている。すなわち、地方自治体が
はシアトルにおける全く異なった発想による都市民地
一九八九年二一月一五日付の朝日新聞は、アメリカ
ば買い取ったマンションを賃貸に回してみても利回り
事離はオイルショック以降ひどくなり、現在では例え
を考えると、賃貸は不安であるということになる。し
考えてみる必要がある。
に入り、農業経営の改善に遣うことができるという形
で、両者がメリットを得ている。
品、あるいは長期株式投資、中リスク商品である外貨
例えば、ハイリスクハイリターンの不動産の小口化商
地転がし等の不当な利益機会をなくすための、長期譲
産に関する税法でみる限り、懲罰的な色彩が強い。土
れるように、本来中立的なものである。しかし、不動
税金というものは泥棒からでも所得税をとるといわ
である。土地建物を含めた﹁プロパティ・インブルー
ば人間の常として懲罰や規制の哀をかこうとするから
も、懲罰的発想から転換する時期であろう。なぜなら
単なる規制とも異なる。首都圏の不動産に関わる税制
はインセンティブと組み合わせたコントロールである。
園税法の問題
かし、この貿取り市場と賃貸市場の本離をうまく利用
したい。どうすれば良いか。それは最近の金融商品の
多様性を活用するのが良いであろう。すなわち、賃貸
預金等の資産運用ポートフォリオを紐み、家族の安定
渡に比べて非常に高い短期譲渡の税額、高い相続税率
状況は異なるにしても、一方は懲罰的であり、一方
を考えるといういきかたもあるかも知れない。市立は賃
プメント﹂は日本の場合、不動産倒値の向上につなが
住宅に住み、収入の余裕のある部分を各種金融商品、
貸住宅に住み、八ホ資を事業用の不動産投資に回した方
ンセンティブを基本思想とする、不動産開発にたいす
等がある。しかし、プラスの行動を誘発するようなイ
っと言うと、﹁プロパティ・インブル│ブメント﹂とい
いのである。
る税制は希である。例、えば、市街化地域内農地の宅地
が節税の観点からも、インフレヘッジの観点からも賢
このためには賃貸市場環境を整備する方向が必要で
らない。少なくとも売値にはほとんど影響がない。も
ある。一定の質を確保した賃貸住宅の提供者に対する
地の上にのっている建物ではなく土地自体の値段が高
くならないといけない。そのため、建設費のうち七O
う概念すらないのではないだろうか。したがって、土
%が土地の値段で三O%が建物の値段というような状
促進する意図であろうが、その表には、高資産家であ
るこれら農民の﹁不当な利益﹂への懲罰的色彩が強い。
並課税を例にとってみよう。これも宅地供給の増加を
しかし、宅地裁課税をしたからといってそれらの土地
税制面の優遇措遣、質に関する基準等である。一方、
の啓蒙が必要である。なぜなら、選別能力の優れた団
並行してこのような考え方を理解させるための消費者
況になる。だから、建物の質の改芽をしてみてもはじ
ほどかけ離れた経済活動はできるだけ地域を集中する
っている。ここでもう一度、住から職へ、職から職へ
下鉄網の整備は都市構造を散没なものへと変革してい
ている規模からみると点に近くなっている。しかも地
ここで提案する構造は、山の手線の規模を超えてリ
ように力が働くこと、それは特に金融関係の活動を意
て容積率のボーナスを提供するというものをもっと進
ニヤl に広がる都心、実際には線状に連結された都心、
味する。例えば大手町近辺へのより高度な集中を助長
めて、一定以下の家賃におさめた場合、所得税の面で
副都心群を核とする構造である。すなわち、それらの
まらない。それよりも土地を数年寝かしているだけで
特典、を与える等である。要は何が望ましい方向かを明
アクティビティ・センターが高速交通網で結びつけら
キャピタルゲインがある。という悪循環に陥っている。
て値段が上がらないとメリットがない。したがってそ
ない。そうすると土地ころがしのためには税額を超え
示し、それに向かって民簡の意志が働くインセンティ
れた構造である。ちょうど新街副都心と丸の内を結ぶ
の移動のしやすさを前捻とした、都市の容量を拡大す
れだけ上がるということになっているのではないのだ
ブを創造的に工夫することである。それは規制を強め
大深度地下の高速道路が計画されているが、それが幕
る構造を求めるべきであろう。
ろうか。
るということではない。しかし、どのような方向にも
張副都心まで延ぴたと考、えてみれば分かりゃすい。将
るいは一部の涯で行なわれているような、住居に限っ
オランダのある町で、ゴミがそこらじゅうに散らば
っていきたいかは、首都圏の構造を長期的にどのよう
するような容積率のボiナスを与、えるとかである。あ
り、誰もごみ箱に入れようとしないのできつい罰則を
に考え、その根幹となる交通網をどのように構築する
したがって土地の流動性が増せばそれは値段を釣り上
作ってみたが、いっこうに状況は改善しない。そこで
げることにきいてしまい、罰則的税率をかけざるを得
部金をとるというネガティブ・インセンティブよりポ
来的には千葉まで延びたることも考え得る。このよう
って、都心のアクティビティ容量を拡大することが考
にして山の手線を超えた線状都心を形成することによ
かが基本になる。
園都市構造と交通の問題
ジティブ・インセンティブがいいのではということに
なり、ごみ箱にゴミを入れるとテiプが伺ってジョー
クが聞けるようにしたところ、そのジョークを聞きた
えたが、円もクローズドな形態であることから限界が
えられる。すなわち、山の手線は都心を点から円に変
首都閣の地価の高騰の理由としていろいろな視点が
ここでは点から線への拡大を志向するほうへ転換する
見えてきたとい、えるのではないだろうか。したがって
いためにみんながゴミをごみ箱に入れるようになった
という。これと同じような発想の転換はできないので
ありうるが、現在の東京の都市構造が容量的に限界に
るが、開発余地を考慮すると、新宿から丸の内、そし
きたことも、その理由の一つではないだろうか。都市・
て千葉への軸が一番望ましいであろう
あろうか。日本人の性格からできないのではなく、多
鉄とのモ│ダルチェンジポイントを上野、池袋、高田
きい。一周一時間という円であることはもちろん、私
の間にはまだまだ開発可能な土地が多く存在する。
分、どういう方向へ不動産開発をもっていったらよい
の即応場、新宿、渋谷、五反田、品川と作ることによっ
この構造の要は、この軸に沿った高速交通網にある。
いう考え方である。この線状の軸はいろいろ考えられ
から、結果としてネガティブ・インセンティブになる
インセンティブを働かせたらよいのかわかっていない
て、丸の内だけが欧米の都市に多く見られるようなセ
現行の電車、高速道路ではこの都市構造の核にはなり
ことによって、新たな都市発展の構造を獲得しようと
のであろう。すなわち、無策の象徴であるといってよ
ントラル・ビジネス・ディストリクト (CBD) とな
の優れた都市構造は山の手線の存在に負うところが大
い。ゴミの例ほど単純ではありえないが、政策決定者
ることをさげ、都市活動の容量を物理的に小さい中で
い上にモ lダル・チェンジがドア・ツl ・ドアの閑に
得ない。なぜなら電車は確実ではあるがスピードが遅
地域計画家の押剖健雄氏が指摘しているように、東京
は大枠の方向を出すべきである。その方向はどのよう
最大限に広げているということができる。しかし、こ
が速いはずであるが、渋滞の発生によって確実さに欠
必ず二回発生する。一方、高速道路は本来、スピード
かの方針、あるいは戦略といってもよいものが存在し
なものであるべきだろうか。
の構造も同心円状にスプロ l ル す る 状 況 で は 、 す で に
ないことが最大の原因であろう。したがってどういう
いくつかの望ましいことが考、えられる。それはすな
山の手線という円も、印キロ閤から別キロ閤へ広がつ
丸の内と幕張
わち、流動性が高いこと、不動産の質の改善が倒格の
9
評価に組み込まれること、ほかとつじつまが合わない
ジが必要なく、スピードが速く、時間が確実なもので
ける。したがって必要な交通機関はモl ダル・チェン
は、従業員の分散ではなく、企業の本社自体がこの線
することになるであろう。そして、もっと重要なこと
て長期的には二時間圏のカバーする範囲は大きく拡大
に転換していくことを考える必要がある。それによっ
これは首都閣の住宅問題を超えたところで議論される
できるだけ少なくすることが必要であるからである。
いけない、あるいは目を向けなければいけない状況を
べき広がりを持った課題である。しかし、住宅問題へ
ち自動率自体の輸送による線状高速交通網ということ
ある。そこで考えられるのはセミパブリック、すなわ
換しえていないことは、誰もが指摘する事実である。
の効果も多大であると考えられるので、}こで議論を進
に坪一 O 万円の声を開くような事態になっているオフ
めてみる。
ィスピルの家賃の高さにあえいでいても、例えば、幕
いこうという考え方である。そのやり方で枕界の批判
その典型的な問題は、すべてを中央で指導し規制して
ろうということである。現在の状況では、都心のすで
張に本社を移す企業はきわめて少ない。すなわち、高
状都心に沿って移転していくことが多くでて来るであ
ないようにする工夫は可能であるし、トラックを排除
もなく確実であると考えられる。入口、出口で渋滞し
速交通網のない状況では幕張は線状都心の一部ではな
ではないだろうか。道路というよりは自動車をパレッ
すれば、現在の首都高速と違って首都圏を通過する車
を受けたものの、戦後の日本の発展に十分寄与したこ
トあるいはベルトコンベアi で輸送する形の方が渋滞
両はほとんど利用しないであろう。大深度地下を利用
く、単なる点に過ぎないのである。建設に時間はかか
とは確かである。しかし、根本的に事情が変わった今、
日本の行政が戦後の復興期のあり方から本質的に転
するならば、パレットやベルトコンベアーのほうが排
っても、構想の明示は早いことが望ましい。
行政はこれまでと方針は変わったのであろうか。答、え
は密である。確かに制度自由化の動きはある。金融制
由化の動きが加速されたのは日米内ドル委員会の後で
アメリカからの圧力によるところが大きい。それは自
度の見直しがその例である。しかし、そのきっかけは
選都の議論は古くて新しい課題であり、結論がでる
園立法と行政の所在地の問題
気ガスの対策がいらずコスト的にも楽になるはずであ
る。距隊的には新宿と丸の内が直線で、七、八キロ、
丸の内と幕張が約一一一0キロ、途中の浦安がちょうど一
五キロに位回読する。したがって、時速六0 キロのスピ
可能性は、現在のような意志決定機構の中ではほとん
あったことでも明らかである。
が可能であると考える人はよほどの理想主義者である。
商品の多種多様性、国際的連鎖の進行、コンピュータ
産業分野において、北日に比べると、量の飛躍的増大、
長くて一時間以内がほぼ確実になる。
のような問題を引き起こしてしまう毘において、遷都
どないといってよいだろう。成田空港を作るだけであ
ードが確保されると、ドア・ツl ・ドアで一五分から
現在、山の手線より一回大きい環状線が計画されて
たとえ、選都が可能であったとしても、それを受け入
しかし、自由化の流れは時代の流れである。多くの
いるが、山の手線と同じような効果を期待するのは間
るが、明らかに山の手線がっくりだしたようなアクテ
可能になってきている。結局、市場は市場にコントロ
脳をもってしでも、効果的にガイドしていくことが不
違いである。ロンドンの環状線は一周に約ニ時間かか
けであろう。もし、それが新都市であれば多くの人は
ールさせるのが良い。すなわち、市場の持つ自己調節
ムは幾何級数的に複雑になり、いかに優秀な官僚の頭
移住することをせず、ほとんどのフェイス・ッi ・フ
能力を活用することであり、行政のやるべきことはそ
ーシステムへの依存など、市場を変動させるメカニズ
持ち込むことが必要であろう。人口密度からすると当
ェイスの対話は相変わらず東京で行なわれるのがおち
りいっそうひどい都市問題を東京以外につくり出すだ
然ライ、ダ│シッブは少ないと考、えられるので、カーフ
である。どの程度の可能性と効果を考えて議論されて
れる都市は東京よりもインフラが弱いはずであり、よ
ェリー的な機能をここにも持込み、道路交通とのリン
の自己一調節能力が壊れないように保護することである。
ィビティ・ノウドをつくりだしてはいない。したがっ
クを増すことが望ましいのではないだろうか。これと
いるのか、理解に苦しむというのが大方の実感であろ
しかし、実態はまだまだそのような発想にはなってお
て単なるこれまでの鉄道の考え方とは違う創意工夫を
小型パスを結びつければ非常に便利な交通機関になる
う。ここでもっと発想の転換を図つてはどうだろうか。
らず、たとえ、発想がそうなっても、自分の権限を縮
小するような行動を官僚はとらないのである。結局、
それは中央における立法と行政の権限を縮小し、転換
いずれにしても、山の手線と、それに首都高環状線
することである。その発想の背景は東京に米なければ
はずである。
を中心にした同心円状の都市構造を、リニヤ!な構造
があるのである。
未だに許認可権限を持つ官庁へ常に出かけていく必姿
企業の上場が増えているが、これらの企業も長年東京
る必要も減じることであろう。近年地方に本社を持つ
る。この商での対策が進めば、企業の本社が東京にあ
っている。すなわち、この結果、国境というものの意
世界の連鎖進行の強力な要悶となっていることと関わ
さきに述べたマイクロプロセッサ!の発明と実用化が、
本社ができてしまうと、俗にいう﹁情報格差﹂が地方
本社を作りたくなってしまうのである。いったん東京
への行き来を繰り返しているうちに、どうしても東京
ことは技術的に不可能なのである。それに誘発されて
に変わってしまったお金の流れを、国境でせき止める
味が薄れ始めている。すでに述べた通り、電気パルス
しかし、許認可権をほとんど持たない通産省におい
産業に対する指導性の低下、他省庁との縄張り意識に
ては、すでにそのような課題すなわち、自省の役割、
よる大局観の持ちにくさ等に近年直面し、ジレンマを
分かってきたことは、国境というものがいかに人工的
そして国境の代わりに地域が浮上してきでいる。新
かつ不自然なものであるかということである。
たな地域主義の時代がこようとしている。これは世界
てしまうのである。したがって根本から改善するため
には、まず政府及ぴ官庁自体が、企業、団体の人ぴと
本社との院に生じることになり、東京の吸引力に負け
が頻繁に東京に米なければならない理由をなくすこと
民間への流出が起こり始めている。大蔵省と並び称さ
れる官庁においてそのような悩みが存在することこそ、
感じているのが実態のようである。その結果、人材の
行政の大きな転換期であると考えるのが妥当であろう。
的傾向であるということができる。ヨーロッパ一九九
自由化の流れに対しては、既存権誌を有する各種団
うな地方交付税のやり方ではなく、地方自治体が直接
その最も重姿な部分は徴税権の委譲である。現在のよ
どこに権限を委譲するかというと地方自治体へである。
ァ、アルサス・ロレ l ヌ 、 ト ラ ン シ ル バ ニ ア 等 が 、 自
の中で、地方、すなわち、ロンパルディア、カタロニ
傾向はかえって強まるのではないかと考えられる。そ
くなってきているが、ヨーロッパ・ファミリーという
二は東欧諸国の民主化への急転問から予想がつきにく
をやらなければならないのである。
体の力関係の問題はあるにしても、大枠としては今後
課税し、徴税する部分を大幅に増やすことである。そ
然な経済単位としてのアイデンティティを確立してい
このような問題解決には権限の委設が必要である。
そしてその転換の方向は、よりいっそうの自由化と許
も加速されるということになるであろう。自由化、そ
れによって、中央への陳情というものはかなりの部分
認可権限の委譲である。
この方向が自然である理由はいくつか考えられるが、
れは市場のメカニズムに、より依存する方向である。
サンベルトであり、オレンジカウンティなのである。
くであろう。アメリカにおいてはシリコンヴァレ l、
欧米から見ると一枚岩に見、えるであろう日本も、実は
必要がなくなるはずである。政治の問題であり、その
多数の性格の異なる地域から成り立っているのである。
決定には好余曲折もあろうが、多大の効白木が期待でき
ることは明らかである。この問題は単に首都圏への集
は医療システムであれ、システム全体の規模の果てし
中排除策として考えるとするならば、ある意味では本
最も重要な攻白はそれが金融システムであれ、あるい
いくことがこれまで以上に重要になってきていること
ない増大につれてシステムトータルのコストを下げて
そして、そのアイデンティティはこれまで以上に確立
ションの流れの中でこれら地域が直接国際的連鎖に組
する可能性が強くなっている。そしてグロ l パリゼl
み込まれていき始めている。それはドイツのパ l デ
末転倒である。本来、この問題はそもそも我々は日本
いはどのように運常していきたいかと関わった問題と
ン・ビュルテンベルグ州と神奈川県のつきあいに兇ら
という国をどのような方向にもっていきたいか、ある
して扱われるべきである。今後はこの方向への力がい
れるような展開である。
のに最も適しているのは市場の自由競争に任せること
である。そして監督官庁の介入を最小限にすることで
っそう強く働くことになるであろうと考、えられる。そ
が挙げられる。そしてシステムの非効率さを解消する
ある。それは田内外を間わずあてはまるということが
の理由は次に述べる世界的傾向に関わっている。
このような世界的な流れの中で、地域主義の台頭に
できる。政府がどのような対策を講じようと、この間
これまで何度も地方の時代ということが議論されて
であろう。ここにも外庄が働くならば、それは大変禁
応じた権限の付与は避けて通ることはできにくくなる
題を避けて通つては首都圏集中の原因の大きな部分が
とり残されてしまうのである。企業、その他の匝体の
いものであった。しかし、ついにこれまでと比べて現
きた。しかし、それは現実の話というよりも願望に近
ましいタイプの外圧である。こうして、中央政府の権
職員が官庁に出頭し、いろいろな官庁対策を講じなけ
実味を帯びた話となってきている。それはすなわち、
ればならない理由を作っているのは政府そのものなの
である。したがって、最も対策が講じやすいはずであ
改めて作るような案よりは、もっと首都圏集中問題に
いは官庁を地方に分散するなどの単に小東京を各地に
限が縮小していくならば、なにも遷都をしたり、ある
の権限委譲を通じて東京へ出かける必要性を低減させ
最後に、行政、立法のあり方を変え、自由化と地方へ
の新しい方式の高速交通網の必婆性も論じた。そして
する。速や門のための予算は参加市町村と都の予算から
合意の基に﹁新首都盤整備推進局﹂という機関を設置
幅広い参加が達成できれば、これらの地方自治体の
参加するかどうかは各々の市町村の自由意志とする。
﹁新首都閤﹂構想を立案し、実施する。企業に対する
捻出する。ここに、民間を含めて幅広く人材を集め、
従業員の圏内分散化を働きかけることや、新しいライ
ることを指摘した。これらのことはそれぞれ大変なエ
は遂行することが考えにくいものばかりである。これ
フスタイルを提案し、参加市町村に働きかけてそれを
ネルギーを要求する。しかも、ほっておいては自然に
までの議論の中で、誰がやるのかということは﹁政策
受け入れる住環境を獲偏したり、メディアを通じて啓
ことになろう。
でその点に鴎して提言を考、えてみる。
立案者﹂という言葉で意識的に媛昧にしてきた。ここ
速効性があり、また、新たな経済発展の可能性を開く
おわりに
これまでみてきたように、東京に住めるようにする
これまで述べてきた六つの分野のうち、最後の行政、
て、全体構想の要である都市構造の変革をデザインし、
などのすべての活動を実際に行なう機関である。そし
面情報をよりいっそう重要なものと考、えるようになる
方で東京都という行政区闘を超えた広がりの中でしか
がイニシアティブをとるべき分野である。しかし、一
りとさせることが基本になる。しかし、その活動は単
実施に結びつける中核機関としての位置付けをはっき
ような税法を立案し、中央官庁や政治家に働きかける
重ねる必要があることは明らかである。その考、えられ
いであろう。しかし、残りの五分野は、本米、東京都
立法の問題は国家的広がりがあり、除外せざるを得な
蒙を行なったり、ポジティブ・インセンティブになる
る施策を六つの分野に分けて、枠組みとして提示した。
ためには、単一の施策ではなく、多面的な施策を積み
すなわち、第一には産業構造の変化、特に情報化は対
ことから、東京集中排除より、東京のアクティビティ
に伝統的な都市、あるいは地域計画を超えた発想をす
的人材の糾合が必要であるが、その前に﹁新首都圏整
る必要があることは明らかである。したがって、学際
べてきた考え方を推進するには、新たな首都圏の定義
れも本当の意味での首都閣とはいい難い。これまで述
これまでの首都関という考え方は一都三県であり、こ
のような対面情報を必要とする機能は企業の中でも限
を発揮できる人材を見つけだすことが急務である。ど
備推進局長﹂としてのダイナミックなリーダーシップ
有効な対策を講じることは難しい課題が多い。しかも
られており、社内サi どス機能を本社スタッフと分け
が必要になってきている。すなわち、これまでの首都
のようなリーダiを 見 つ け う る か で 成 否 は ほ と ん ど 決
とが現実的であることを指摘した。そして、第二にそ
てはっきりと定義することによって、本当に少数の機
まってしまうであろう。
容量を今より大きくする方向で住宅問題を解決するこ
能と戦民だけが米京にいさえすればよいことが分かる
と定義してはどうだろうか。ここで章一婆なことは県単
一よこやま・よしのり/一
一 7 yキンゼl ・アンド・カンパニー・インク東京支社長一
圏の規模より大きい一 0 0キロ閣を新たに﹁新首都圏﹂
セグメントが望むライフスタイルに沿った形で往生活
定義することである。したがって、﹁新首都圏﹂構想に
位の考、ぇ方ではなく、一 0 0キロ殴内の市町村単位で
ことを述べた。第三に消費者をセグメントし、各々の
を提案することによって、多様な住居ニ lズに転換し、
単一な住居要求でないようにガイドしていく必要を指
摘した。第四に税法に関して、全体として懲罰的考、ぇ
方の限界を示し、インセンティブ方式へ転換が必要で
あり、そのためには望ましい方向が明確であることが
ィ容量を拡大するためには現在の首都閣の構造をリニ
必要であることを述べた。そして第五にアクティビテ
ヤ!なものへ転換していく必要を議論した。そのため
戸
川d
ハ
U
度
中 住
J
I
I 宅
史
の
映
関年度の当財団の助成研究・会ね繍の要旨を収録しました。
詳しい内容をお読みになりたい方は、研究年報第日山号に全編の梗概が掲載されています。また、
④映像教材としての時間的長さ、である。結果
する興味の度合、③テi?に対する理解の度合、
マについての自分の知識の評側、②テ!?に対
を考慮しつつ、逃構の現地調査も行ない、近世
させて史料を検討するため、入手史料との対応
000点に山注する。また具体的な笠間と関連
一
点、﹁阿触﹂約四O O点、証文相制約三O O点など
料数は﹁町定﹂約一⋮一O点、﹁水帳絵図﹂約一 00
海、用途調査を行ない、これを建設時と比較分
討している。次に現況住宅地の街区、街路、羽
の史的経緯、住宅地計画、住居計画について検
宅地を調査対象として、文献資料を中心に事業
は文米、制(旧道林町)、山谷洞(白馬町)の二住
論文のフルリボiトについては当財団へお問い合わせ下さい。
として、今回の回答者に限つては、このような
った。また、現存住宅の笑測及び住み方調査を
映像教材は一応の良い評側を得ることができた。
しかし本来、教材としての良否は一専門家によ
析して、住宅地の変遷状況について考察を行な
前年度に行なわれた(その 1) の研究報告に
行ない、増改築の分析を通して伎様式の変容と
つぎに三都市の倒則的﹁町﹂のモデルとして、
存続についての考察を行なった。おわりに三地
る評価を侠たなければならない。さらに、その
京都の山鉾町、大坂の船場、奈良の奈良町を取
おいても述べられているように、本研究は日本
り上げ、居住システムを報告した。いずれの抑制
な知見を以下に記す。
域を総括的に比較検討している。そこで得た主
使用法の良否が重要な要因となることは無論で
が行なわれ、居住地の生活管理や空間の維持管
に計画された上道町、道林町住宅地の建設は一
山卒業の史的経緯一営団の三大事業として最初
九凶一年一 O月に地鋲祭を行ない、翌一九四二
理が有機的に巡渇されるシステムが抑設備されて
市においても﹁町﹂共肉体による自治的な迷営
ある。
きるように、映像教材を試作開発することが本
研究の目的であった。このような談題に対して、
は日本の都市史上波目すべき歴史的事実である
宅地もほぼ何時期に計幽は進んだが、竣工は遅
年九月に竣工式を迎えた。受託卒業の白馬町住
いた。こうした住民による自主的な居住地管理
と考える。一方で三都市の居住システムには微
主交谷底綴
本研究は、近世における﹁町﹂共同体の空間
妙な差異をみせるが、その背景には一二都市の﹁町﹂
﹁日本建築幽像大系﹂の編集委員会に参加してお
り、本研究はその中のテ!?の一つとして前年
構造と社会構造を解明し、わが国の風土や伝統
ω住宅地計幽一営団の住宅地計画は敷地状況に
れて一九四凶年一一月である。
度(その 1) 研究がスタートし、今年度の(そ
共同体の成立事情や人口構成などが介在してい
ることを思わせる。
のやで脊まれてきた都市居住のシステムを描き
型の三タイプを使い分けている。上道町、道林
応じてロータリー型、グリット設、両者の折衷
出すことを課題とするものである。
本年度は三都市の都市底伎システムについて、
町、番大方町の営団三大卒業はそれぞれのタイ
近世の町人地においては、市街皮居住ながら
間住居計品開・朝鮮住宅営団の住居計画は﹁型計
プの試験的使命を持っていた。
したがって、その制作のために検討された記
的に樹立比較して、近世﹁町﹂共同体における
みたが、次年度では、分類項目を横断的・編年
都市般住システムの全体像を明らかにしたい。
個別の﹁町﹂の概略を紹介し、簡単な比絞を試
社会構造によって支えられていた。本研究はこ
比較的成熟した都市生活が営まれていたが、そ
うした都市居住システムを、京都・大坂・奈良
れは近世﹁町﹂共同体に代表される空間構造と
今年度の作業は、①から⑥のプロセスについ
果口問である。
ては前年度に行なわれた作業であり、今年度は、
二九種類の標準規格住宅の中から多穣多様の担
品開﹂却去一酬の典型的な実即時事例である。五タイプ
を選び合理的に配置した滋林町住宅地の﹁製計
鐙嬬鵬舗翻閥鰯関関麟関麟鰯鰯麟関
iisソウルに現存する悶営団住宅を対象
立し成熟した街に変察している。しかし文米州
凶住宅地の変遂一上滋洞、山谷抑制は計幽から自
は伝統韓日胞の型が用いられた。
同﹂は最も質が高い。臼閥均町受託事業の計幽に
昨年度の上道綱川営凶住宅地に引絞き、今年
主交 話井正憲
として
の一一一都市に求め、住宅・都市生活・印刷住地経常
研究の方法は史料研究を基礎としつつ実地調
⑦スーパーインポーズテロップ等作成、⑧オン
査を併用している。まず近世都市に関する史料
朝鮮住宅営自の住宅に関する研究倒
によって約一五分間の映像教材を完成させた。
の中から本研究の滋題に即して多数の史料を収
.居住地管理などの側耐から多角的に検討しよ
制作された映像教材の詳細についてみてみる
集し、それを都市印刷住の観点から整思した。山九
ライン編集、⑨シナリオ涛構成・推敵、⑬M A
ために、約五O名の学生に試聴させ簡単な評価
うとするものである。
アンケート調査を試みた。その内容は、①テi
(ナレーション・音楽べといった作業を行なうこと
録とともに、試作された映像教材が本研究の成
ができた。
の2) 研究によって当初の目的を達成すること
当研究グループは建築分野の映像化を推進する
近世﹁町﹂共間体における
都市農俊システムに関する研究開
における住宅の歴史について、まずイメージと
の地割り、問町並み、建築状況の参考とした。
量
雲
事
して定着させることを主阪として、特に初学者
関
す
る
研
'
*
'
:
1
u
川崎句稽誠司副
像
化
や一般の人びとに対して簡潔に伝えることので
裁
8
8
事
事(2)星
は防災、的な工火をしながらも、基本は山内地と同
山川住様式の変容と存続・標準制服絡住宅は細部で
は住環境の惑化が悶立つ。
は伎の一ぬい計幽で出発したにもかかわらず、今
計画が対応していく、その過程を直視していこ
の逃緩ごとに様々な矛盾や線開閣が発生し、政策・
集積によって住宅地が形成・更新されるが、そ
一闘をもっ新しい裂の住宅供給狼が出現し、その
姿協唱が形成され、それに対応して新しい住宅千
方としてはそこを接客も ♂泊めて多燥に使おうと
の分析を返して、現状のL にあっても生活の仕
とらえるべき根拠を示した。次いで実際の生活
ついての考察を試み、それを多目的空間として
本論ではまずはじめに、回出問の経史と理念に
するための方策を探ろうとしたものである。
シヨン機能を核とした多口口約空間として得総戎
波辺らのこれまでの集合住宅と応住者の心身健
環境心理学の視点から検討するとともに、山本、
まに、家族と住まいに隠して家族社会学および
め、従米の研究より印刷使者の生活実態に迫った
を般住者の家紋のライフサイクルとの適合に求
1七五年)、第限矧(一九七五年 1) という区分
第二期(一九悶0 1五O年)、第三期(一九五0
ととした。第一期(一八六八年 1 一九四O年
)
、
住宅事情の歴史を、大きく凶矧に区分するこ
た
。
の諸点への配慮が重姿であることを明らかにし
多目的空間としての居間の計凶にとっては以下
する傾向があることを指摘し、更にそのような
ブルを問聞き出し、さらに統祭法を加えることに
きめの総かい集合住宅についてのニiズとトラ
資研究では、デプスインタビュ
ていた市総省に開削する研究を返加した。この剥
からの見直しを行ない、さらにこれまで欠落し
康に関する一迷の研究をライフサイクルの祝臨
本線開曜は二年間の継続研究である。昨年度は
分析を行なう。
じ﹁続き聞をもっ中廊下型﹂住宅である。凶五
うというストーリーである。
である。今回はこのうち第一郎、第二期のみを
と、勉強・仕事唯一ザの作業ができる卓が絞け、
山居間は、ソファセットが惚けるイス肢エリア
A
年間で山営団住宅がもっ日本的な住様式は怒︿
扱った。別の機会には第三刻、第四郊の住宅事
より問題の所在を突き止めた。
崩壊、消滅して、勝国の伝統的かつ独自の住様
が的問国に与えた往時体式の影響を丸いだすことは
式が再生、構築されている。調資本例から日本
情に、近い米米の予測を含めて分析を加えたい。
かつ子どもの遊びゃ洗泌物の務理が可能な空
民本の住宅事情史に鴎する研究
主交三宅醇
い家族形態である芯犬始のみの役般公昌三可
族と住生活﹂について討議を汲ね、老後の新し
本年度は、この結果をもとに﹁これからの家
B
I
S
B
-
の方法により
鰍しい。
今閣の作業は、まだ光迷の研究の浅いブ才ロ
いた床一闘を持つユカ座エリアの、市川方が設け
d 司瑚割樗
吋咽議薄
ーでの端緒的レベルにとどまったが、今後、廷
られ得る広さを般仰附する。
山山間抽間同は、そこに現れる多品憾なモノを出し入れ
その尚親欧叶引を調資の対象として、昨年度にお
詰己)に照準を合わせ、幼児のいる者年険制 Wと
けるそれぞれの研究を発展させた形の、質問紙
できる収納系の家口討を霞くスペースを、特に
近辺に、ある問問皮の規淡を持つ収納空間を設
フスタイル、心理的家族を合めたネットワーク、
法による調査を実施し、火焔を単位としたライ
そのための卜分な鐙長を持つ。また、反問の
ける。後者は家事空間との兼用も考えられる。
で考察した。また、若年夫総と夫方安方双ト刀の
お紛期の住要求等について同世代を比絞する形
紋低限、この中の一方を配慮する。
ω居間は、玄関から独立してアプローチできる
九土市北江上
ijiコ ミ ュ ニ ケ ! シ ョ ン 機 能 を 核 と し て
多目的空鴎としての居間の計画
に関する研究
吋湖叶溜碍湾民磁
に充実させていきたい。
明治以降一二O年の問に、日本社会は大きく
変わった。産業構造、人口構造、階層構造、生
活水準、生活様式等の変化は、世界的にみても
最も激しいものの一つであろう。それにつれて、
住宅事情の変化も大激変を経由してきたし、相官
に大きな転換の過程にある。現在を廷しく税価
ようにし、台所との叩明党的分離を凶る。
し今後の展望をする上でも、この歴史の総括が
川湖句閣剖司均銅議
変化と伎宅平一山の変化(住宅計画的アプローチ)
変化(住宅市場論的アプローチ)③生活条件の
の把握(住宅問題的アプローチ)②住宅供給の
つれての伎宅需要岡崎の析出と、川県的質的な変化
機能しているとはす悶い難い。近年の Lに対する
このようなコミュニケーションの場として十分
き部屋であるが、現状の一般的なL は必ずしも
下Lと記す)は、そうした領域の核ともなるべ
が汲婆な地仲間曜となる。民間日目リビングルi ム(以
イフサイクルの各段階ごとに争中ずるニ!ズに対
求められるが、防昨吋にそこで生活する家族のラ
住宅の質を問題にする場合、応住性の向上が
るのに役立つと考える。
計をより人間即応伎の場として伎の一品いものにす
ニティ心理学、家族校会丸山干の知見は、住潔境設
的共同研究である。特に、環境心攻学、コミュ
近代住居の大きな特質は私領域化・私性の深
ーション空間としての共ないし公の領域の形成
化であるが、それ放にこそ一方ではコミュニケ
④住宅建設に伴う住宅地の形成・更新と都市の
た過度の私領域化とそれに伴う家族問のディス
批判的論議の広がりゃ、子ども郎問団を中心とし
応しているか、また、そのニiズに迎合した環
どうしても必妥な作業であると考えられる。
住宅事情の抱擬には、幾つかの側関からのア
発腿(都市計画的アプローチ)⑤住宅政策の役
コミュニケーションの指摘等がそれを如尖に物
111
特に幼児とお輩切のいる家族の場合
主交渡辺素子
専門家が共通の問問題意識のもとに行なった学際
なお、この研究は心哩学、社会学と建築学の
を把擬した。
では傍られない生き生きとした生活意織の実態
ケi ススタディi的に詳細に分析し、統計処理
別と限界(住宅政策的アプローチ)の五つのア
語っていよう。本研究はこのような現状に対し、
の大きな課題である。本研究は、住環境の評側
境終備をどのように終えるべきかの検討が今後
ライフサイクルと集合住宅に罰する
人間科学的研究間
悩を観察し、社会的諸条件のやに佼夜づけてみ
プロ iaチを試みた。こうした側面から、住宅事
いてそのあり方を検討し、そこをコミュニケl
今日の都市住成の居間における生活実態に基づ
すなわち、社会の変化の中で、新しい住宅街
ることを犯いとした。
判制械の全デiタの揃ったん↑手会ケi スについては、
プローチが必姿である。①人口、減層の変化に
徽
防院蝉脱脂伝弱
寝たきり老人回避のための住宅改
善計画に関する研究
確保が重要で、四・五登と六位が多いが、最低
きり療については、拠点化することから規模の
らに介設省の総主との述結が滋姿となる。一以た
同体の持つ第一次的且つ基本的な編組といえよ
なほどの幸福感がみられるが、これこそ村落共
いる。その結栄養護ホ!ム入所者としては災例
が後んで、地域社会と市山娘なつながりを保って
である。
中で孤立したり疎外されたりしないことの問点
ビスのネットワークで結ばれ、コミュニティの
家族、近隣、公共団体等の悩報・生活福祉サー
。
っ
、施設設備の断では二人一家の六長閑に便所っ
もなう急激な家賃依上げや﹁地上げ﹂による高
鈴者の集住と沈殿、③地代家賃統制令廃止にと
しかし京阪神三大都市では、①高齢者へ
限六同一院は必要である。また、ベッド・ポi 夕
、
ア
き(洋風水洗式)、各室冷房つきであるが、食堂、
主資片岡正義
床の板張り化をもっと進める必姿があろう。サ
居室とも佐敷でユカザである。居室の狭さはな
直結させ便所と浴宮市を増築すれば、適切な配慮
が求められる。敷地に余地がある相場合、寝室に
ている相場合には、そのスペースを活用した改造
努凶気である。こうした居心地のよさが知られ
の住金鴻と生活様式において似通った家庭的な
お不満として残るが、その他の点では在宅老人
3
発現している。
本盟インナl シティ問題﹂とも言うべき状態が
題と地域衰退問題が住宅問題に煤介にされて﹁日
齢者追い出しと居住不安の拡大など、高齢者問
の入居羨別の顕在化、②インナl エリアへの高
ニタリl関係でも、便所と浴室が分縦し小規模
2
寝たきり老人を回避するためには、自立化を
だが、対応策としては、洗商脱衣室が述統化し
ルトイレの導入、さらに事いす使用を考えると、
が基本的に求められる。
促し、介護の負担を軽減できる住宅改善の方策
きくは自立移動を経て寝たきりに至るものと、
るにつれ、村氏の老後感は微妙に変化し、故郷
寝たきり老人の移動状態の変化をみると、大
いきなり寝たきりに至るものとがあり、その過
もでき効果的であり、この方法は便所のみにつ
の老人ホi ムに身を託したい意向も増、えている。
研究の呂的・方法県代の農村地域は、かつて
の急を姿するが、その周辺の住居水準を勘案す
結 論 過 疎 地 に お け る 老 人 ホl ムの増設は焦協
住宅像として家族、友人、近燐集問、公共凶体
での今後の高齢者の居住一一iズを満たす高齢者
﹁地域高齢者住宅﹂という)ともいうべき新し
﹁地域街義型小集凶高齢者集合住宅﹂(略称・
い住宅タイプを想定し、その成立可能性を滋姿
等とのコミュニティ・ネットワークで結ぼれた
ミニ施設を分散配置し、地元労働力を活用しな
れば、最新の機能性を具備する近代施設である
がら巡営することが地域住を考慮した、適切な
一線護曝羽劃副
サイドと供給サイドから追求する。
吋
略
報
通
盟
副
議
解決策であると考えられよう。
必要はない。むしろ既存建物の転用を主とした
本研究では、このような大都市状況の下
程で率いす使用の段階がほとんどみられない。
いても有効である。
小規模老人施設の研究
のような老人福祉機能を備えた地域共同体的特
湯川磯子、忠一野久
i i非都市的地域の場合
間間齢制桂信箱程
寝たきり回避のためには、自立移動と率いす使
用を可能にする状況をいかにして見いだすかが
今後の重要な課題となる。また、寝たきり老人
の住生活は、自立から部分的介助、さらに全両
介助となり、生活行為の集中する寝家が寝たき
対策として基本的には、高齢化社会では高齢
質を喪失している。そのため、家庭や地域共同
り老人の住生活の拠点となる。
期の居住を前提とし、介護と車いす使用を可能
その上で、世慌たきりに向かう事態に当面したと
ことを目的とした。
り、過疎地の施設づくりについての示唆を得る
る後護老人ホi ムのケi スを調査することによ
行する鹿児島県紙偽において、成功例と目され
i フリ!の原則一住宅および近隣地域の物的環
活を営める高齢者住宅の基本条件は、①バリア
高齢者が健康かつ文化的で安定した住生
目的である。過去五か年(一九八三;八七)の
﹁住み方ルi ル﹂を明らかにするのが本研究の
惑の実態を明らかにし、気持ちよく住むための
宅地において生活騒音、ベット飼脊等の近所迷
日本人が未だ住みこなしていない都市集合住
体の代待機能を来たす地域施設としての名人ホ
にするための主要なスペースを想定し、板張り
きに、設備やディテール等の直銭的な対応をし
結 果 飯 島 の 養 護 老 人 ホi ムは、発足後二五年
設備的性能を有していること。②アフォiダビ
境条件が、高齢者の賠住にふさわしい形態的・
一位であり、次に特に最近の傾向としてベット
新聞記事を分析した結果、騒音問題が迷惑の第
化、ドアの幅員・形式等に、あらかじめ配慮し
ていく必婆がある。その場合に、和風住宅の構
を経て、平均年齢八O歳を超える老人五O人を
リティの原則一居住コストの負担が、高齢者の
都市築合住宅地での ﹁住み方ル!
ル﹂に関する研究
造(畳、サニタリl、段差等)からくる問題へ
悼惜する施設となっている。その特徴は全員がお
所得に見合う妥当な水準にコントロールされて
i ムが必須のものとなりつつある。過疎化の進
当面の対策としては、寝たきり室の条件盤備
の出身者であり、中でもホi ムのある字からの
そのためアンケート調査では、それらに一つの
問題が大きくなってきていることがわかった。
た構成・構造として計画していくべきである。
とそれを中心とした空間構成のあり方が大切と
入所者が過半数を占めるところにある。中には
いること。③セキュリティの原則一居住の継続
主交西村一級
なる。そのためには、①寝たきりに至る過程に
や住み努えに関して高齢者の怠志が尊重され、
大都市民鶴高齢者蜜貸住宅の公的
管理に関する鵠査研究山
おいて使用要求の古川い室、とくに寝室・便所・
べく帰郷してきた人もある。一般のホ!ムとは
長年故郷を後にしていたが、老後をおで過ごす
の連絡関係に配慮が求められ、最優先としては
に、日常的外出や、
災なり、務者街時代の楽しさを再現している上
④ヒューマン・ネットワークの原則一高紛者が
妨害や強要されたり差別されたりしないこと。
は、大阪市の南港ポlトタウンである。
焦点をあてて調査し検討している。判例査対象地
fどもや級制叫 略
M 者との伎米
便所・海宰一との迷結、次いで食事室・底問、さ
の対応が震妥である。
られる。また、②寝室を中心とし、これらの家
浴室、次いで食事室・居間について配慮が求め
主査広添盛明
国
山首燃はほぼ維持されており、総同四は二一刻ほどが
通りである。山仲はみ始めに後拶まわりをする
認査により符られた知見のいくつかは以下の
時期をむかえた地区が多くなり、建築協定が定
している。また、一人協定地区においても克新
半であるため、協定巡則上で様々な問題点を残
制院脚叫注目日
混住化農村集落における住宅部地
計画に関する基礎的研究的
制院師叫隠箆
﹁雪国における居住地計繭﹂
に開閉する文献瞭究
生活時間に、ぱらつきがみられ特に夜更しの生
では、起床・就寝、楽器演炎、洗濯、入浴等の
を検討したものである。そのために、成熟化過
有効に機能させるような合意形成手法のあり方
を改善して、伎民参加による住環境形成活動を
本研究は、このような迷築協定制度の問題点
研究の前提として、作業仮説の設定を行なっ
川明らかにすること﹂を大きな悶的としている。
コミュニティおよび底住環境の形成の立場から
決村地域の社会的・空間的ストックを生かした
村地域に計的するための法礎的な終倣方法を、
献があり、どのような研究ジャンルがあり、そ
規に始めようとした場合、どこにどのような文
る居住地計幽﹂に関する研究を若い研究者が新
化されていない。従って、例えば、﹁雪国におけ
とより、その全体像の解明及び方向づけも別総
についたばかりで既存研究の到迷点の抱阪はも
我閉山の多雪地における賂仲間地計幽研究は、絡
M
活も陥唱えている。万一いに迷惑にならないよう一
程にある住宅回地での協定山鳩山川の災態を犯即時す
た。すなわち﹁山山伎民型﹂﹁淡山本・新伎氏慰﹂﹁各
析した段階での新たな政策展開が必妥となって
定の生活コントロールが必姿になろう。山山魚沼
るとともに、建築協定が有効期限に透した地区
タイプ川出合問点﹂﹁新住民集凶型﹂の関つのタイプ
、五交深潔大櫛
i!腿住地計踏の到達↑ 山と問題点
騒音に対する﹁住み方ルi ル化﹂では、特に早
での更新状況を明らかにした。さらに、住民合
﹁市川隣と上下の住戸﹂、二部ほどが﹁雨降だけ﹂
主資土肥博道
朝深夜の楽器演炎は﹁⋮険しく然止﹂の意向が強
滋をふまえて建築協定を締結・一史新するための
のかがわからず、研究に若手のしようも無いの
れぞれどれ佼の研究成果があり、到迷している
きている。
い。川間生活騒北日を減ら宇前一点として﹁居住者の
を﹁泌住化地山崎における地域社会類型﹂とし、
となっている。間笠活路立臼にかかわる栄治時間
自主性が肝心﹂との見解が過半を占める。山間ベ
合意形成活動の実態を犯擬した。そして、これ
本研究における﹁泌住化﹂とはこの凶つのタイ
本研究は、﹁都市住民の腿住地を近郊滋住化淡
ット飼育は五%未満だが、山実態はより多いと扱
らの災態から地区住民の合滋形成を促進するた
プで炎哨喝される地域社会を形成している状況と
する意見が圧倒的に多い。
して﹁側人側人の自主性に任せるしかない﹂と
いる人が多い。川間﹁仲間みガルl ル﹂のあり方と
は、七割ほどがもらっていて一応は尽を過して
挺された。さらに、池築協定に対する AU
窓形成
するなど、様々な対応がなされていることが犯
区の実情に応じて、協定内容や協定区域を変更
いることがわかった。しかも、一史新を機会に地
用伎が詳倒され、多くの地区で一見釈に成功して
その結果、一人協定地区においても協定の有
類型の地域区分の特性について考察した。次に
仮説である﹁地域社会類型﹂の設定を行ない、
用いて首都間間近郊の市町村を単佼にして、作業
る。はじめに広域レベルでは、既存統計資料を
域レベルと集洛レベルの一一ガ向から考察してい
本論では、滋住化地域のとらえ方として、広
解明し、その分野の研究を推進して行く体制を
雪国応住等のソフト耐の附阪の研究の全体像を
開門する克安建築や克安宅地計画等のハiド耐と、
ついたばかりの﹁雪国における居住地卦則的﹂に
る物を補充し、到迷市⋮と問題点を務理し、絡に
側々バラバラな文献を一堂に集め、欠市惜してい
が現尖である。そこで、附様な研究を各地で行
定しうる。山間ベット飼育について二⋮判的弱は禁止
めの基本条件を検討した。
以上をもとに、項目ごとに多くの人々に受け
活動には、協定の締結背対や地区の環境条件な
総立すべく、研究にお手した。
なっている研究者同士が交流して悦報交換し、
すべきでないとしている。 m
w ﹁伎まいのしおり﹂
入れ可能な﹁撚準住み方ルl ル﹂をつくり、﹁伎
集務レベルでは、新住民の住宅の配絞形態から
することを述べた。
まいのしおり﹂の改善等を通じて務及、定符し
どにより特徴があることを明らかにした。一人
別いて地域交流・コミュニティな議・底住潔境
﹁新住民賎伎地形態分類﹂を設定し、この分類を
時間を要しており、住環境の同質性や、相胤総な
区し、川出、任化の形態や進展状況等の桃山小から分
トックの総合的な指紋として﹁集洛形態﹂に校
評価の分析を行なった。さらに集務の定問的ス
カlド幻データベースソフトに文献を入力し、
ーワード
を探り、ジャンル別にシソーラスを作成し、キ
に関する文献を収集し、次にその研究ジャンル
本研究では、まず、﹁安闘における応住地設的﹂
てゆくことが緊急の課題といえる。
るものの、更新時には合滋手続き作業に多くの
協定は焼純形成の上で重要な役制的を来たしてい
住宅露地の住環境形成過翠における
合意形成システムに関する研究
ていた。こうした災態から、建築協定に対する
識の存在などが更新活動を左右する姿阪となっ
住民自らの予で住環境を管喫していく﹁山地築
の一闘での対策が重要であることを論じた。また、
機づけ、④住環筑の条件、⑤行政側の支媛など
②リーダーシップ・タイプ、③隠標達成への動
合怠形成を促進するためには、①地区の魅力皮、
れた知見を加味しながら、より具体的な混住化
後に結論として、佐保務形態則的に各磁調交で相官ら
特徴が見られること、等が明らかになった。最
条件・空間利郎状況・コミュニティの災態等で
の形態が規制を受けること。集落形態別に自然
析を加えた。その他和泉、集落形態により泌住化
告書等が多数リストアップされたことは、大き
究論文のみならず市町村や道県・国レベルの報
回、戦後のほとんど全矧問について、学会の研
る文献として約二、
した。
キーワードによる文献検心掛が可能となるように
(MM
準ディスクリプタ)を山逃走して、
!11建 築 協 定 地 誌 を や 心 と し て
協定﹂には大別して、地区住民が自主的に締結
住民組織の鴻周とともに、非計幽慨を付与した
集落の務俄条件・開発方式について検討した。
史資河辺絵
した﹁全員会認による協定﹂(合な協定)と、事
建築的な︿しかけ﹀も必婆であることを提案し
000件が抽出できた。今
この絡来、﹁雪闘における底伎地計幽﹂に関す
業主が分譲前に締結した﹁住民合訟をふまえな
ム
た
。
AA
口滋をふまえない一人協定を締結した地区が大
い協定﹂(一人協定)とがある。実際には、仲田氏
文献で、合国の居住地の立問的設備に絞り狭いな
な成果と言える。しかし、そのほとんどは閃迷
の関連を分析、考察するのが本研究のとる方法
ぞれの地区の建築物と聴覚的景観の特徴と両者
地ほれをケ!ス・スタディとして取り上げ、それ
した。その問的述成のため、神間地川崎の
民族であるが、これまでその高床伎尽に関する
リ!族とともに、高床住居を保有する代表的な
たしかにトン族は、謀術のタイ族や海南おの
中国・蘇鮒需の住宅地形成の研究
取り組みが、雪国の都市計凶をな識した廿革路約
りの中で、凶・旧民・市町村レベルでその改義の
分けられる。研究の主な成果としては一第一期
対鋭とのより共体的な関述を考察した第二期に
えて側々の建築物とそれらの出附する道の聴覚的
削慨を主限とした第一期と、その調査結果を踏ま
全体は、対象地区の聴覚的波紋の全体像の把
究がめざすもう一つの目標は、このような多民
数の民族が居住しているからだ。われわれの研
外にもミヤオ族、プイ族、スイ族、漢族など多
地である約束雨前族似族自治州には、トン族以
しかし、問題はそれだけではない。調査対象
ること自体に大きなな味があるといえるだろう。
越の末商たるトン族の高床住居を研究対象にす
市を文献資料と民民遺構の両面から解析して、
えたといわれている。本研究はそのような蘇州
はほとんど都市構造を変えないまま、近代を迎
特に一一三O年に兵火に巡い、再興されてから
変えずに現在まで続いてきている都市である。
五一四年に建設され、それ以後城市の輪郭線を
化をみせなかったといわれている。刊紙州市は前
中国の住宅建築は明治時代を通じて大きな変
ま笈鈴木充
なレベルで活発になっている。これに対し、研
には、山﹁時間紬﹂﹁受山容紬﹂﹁上下納﹂といった
族地域における文化の重層伎と問有性を、住居
られている。
味に限定して探すと、数は大変少なく六四件に
研究はほとんどされていない。したがって、百
究がやや後手に廻っているきらいがある。雪国
ω 聴覚的 一一民間慨を構成する五組類の斎とその
rHつの
とどまった。
である。
の般住地務備のムダを排するためには、今後、
聡党的対鋭の特徴を担う三つの軌の存衣を昨印紙
最近、雪国の住民の生活環境改善要求の高ま
研究成果を受けて行政が対策や務備を推進して
し
、
景観の関連を考察するための三つの類型を把握
相関関係を明らかにし、間建築物と道の聴覚的
る。これは、文化人類学における﹁文化の受饗
という物質文化を媒介にして解明することであ
ものである。
中国都市住宅の歴史的背景を解明しようとする
u
必要がある。今回の報告がその⋮助になれば幸
行ける体制づくりを早急に研究者側に樹立する
いである。
s
九
を資料にして、現地形に一⋮一 一
れる水郷都市としての特徴ある敷地約が、米時
年時点の蘇川の市街を再現し、前街民一川といわ
V
叫川究は、まず、文献と一二一⋮九年ごろ刻まれ
今年度の調査は、次年度以降、継続的になさ
た︿平江川出
れるであろう集中的な調査の予備的役割を担う
とエスニシティの維持﹂というテ!?に直結す
し、間建築物の用途がそれが誘導する人々の活
以前の住宅地は現在大規模住宅の敷地になって
代に始まったという推論を得た。従って唐時代
る、重要な問題といえるだろう。
動を介し、その建物の発する点目を左右する大き
るかぎり多くの家屋を鋭祭・実測することに主
ものであり、自治州を広域的に踏査し、できう
した。第二期には、川建築物の形態と滋の資環
な要因であることを確認し、間建築物の総党的
限をおいた。その結果、トン族、ミヤオ族、プ
境との基本的関連の枠組とその災態を明らかに
特徴が各地区の聡党的対鋭にどのように寄与し
イ族、渓族の家屋を、合わせて五O棟尖測する
主査鳥越けい子
ているかその分析手法の子僚かりと関連の一端
iil神 間 地 区 に お け る 五 つ の 遂 を や 心 に
これまでの都市や波観の研究は、視覚的なも
を山明らかにした。
費削mトン族の高床倹愚と集落構成
に関する調査と研究山
主査邸中・・淡
遺構耐での追及は、民国時代に脅かれた建築
刊誌遠の住宅も慕本的には民居の構成方法と変ら
ないことを般かめた。また、実際の住宅建築逃
者︿営造法日開﹀の分析から、敗曜と呼ばれるお
機では、間門西北の山崎街制閉山女浜で明初期から
ことができた。本一梢では、以上の諸例老民族別・
ら、平阪と加本格について、トン族本米の形式と
中末期にかけての遺構三棟と、
類型別に報告するとともに、民族相万一の比較か
漢文化受容以後の形式の差異を論じ、また住般
械を発見し、明時代から笠と天井(中庭)と刷
米年度以降は、調査対象を一か所に限定し、
その単位を奥行方向に繰返すことにより、借用宅
房を組み合わせる一一一合院を基本単位(進)にして、
川
J 時代の遺構七
いる。
に現れた﹁渓化﹂の諸側而についても指檎して
布する高床住民は、主として近年の発揃成果に
諸民族が、初期におけるお床住居の担い手であ
時代の恭雨に岬剛山附した百越という一併の南方系
あり、間同凶の住宅を民収することによって大宅
形成され、各務は年代的に異なっているものも
一⋮一落と議べ一践を形成することによって大宅が
れら一山中の住宅を務と呼び、主落の両脇に二淡
を形成していることがはっきりした。また、こ
山﹁建築物﹂と﹁川崎党的対鋭﹂との関連を扱う
った。本研究の対象となる此州のトン族は、こ
守
合
。
住み込みによる集中的な羽交を行なう予定であ
ための研究の基本的枠組を設定すること、間建
の百越の一一地方集日間であった勝越の求術と考え
つつある。そして、最近の研究によれば、先秦
m 時代の昨中南にその起源を求められ
より、新石 帝
東アジアから東南アジアにかけて集中的に分
いる部分に集約されることになる。
の、形あるモノをその主な対象とし、まちの﹁族
プローチは少なかった。しかし都市の景観やま
ちなみを、私たちは災際には祝党だけではなく
五感のすべてを合む諸感覚の統合としてとらえ
ている。こうした状況を断まえ本研究は、都市
究のなかでも聴覚的側副から都市の﹁まちなみ﹂
聞くため、日品加同研
を会感覚的にとらえる端緒を m
をとらえなおそうとするものである。
﹁建築物の性格が都市の聡党的日品開制に及ぽす
その実態を分析すること、をその基本的同目的と
築物が聡党的呆鋭に及ぼす具体的影響を犯憶し
滋響﹂をテ!?とする第一年度として本研究は、
柑有寵認諾
郎気﹂や﹁活気﹂といったソフトな側耐へのア
建築物の性格が蔀市の聴覚的景観
に及ぽす野饗に関する基礎研究開
雪
量
九七問年から一九八四年にかけての新規開発は
都心から一
よう。このうち伎要求の把艇については、毎年
会の形成と住民参加の汲視の三点にまとめられ
治体における総合的な行政サービス、③地域社
のは、①地域伎民の多同時な住姿求の犯則問、②自
いる都内の小規模な伎宅供給業者幻を対象とし
宅と木造住宅の双方を設計施工一式で必負って
研究の方法としては、三、凶階建て鉄日付造住
o
h 開閉山内のインナi エリアでは、一
活発でなく、安定した市街地を構成している。
山城街は主として二進一程度の小宅からなり、
都心から二OM閣内のミドルエリアは、新規開
が形成されて行くものと考えられる。
狭広による節づけが成されており、その雨に絞
街路祭間の構成は、十数メートルおきに道一蹴の
MV加工業者とALC阪工応それぞれ複数を対象
環境省に従出する司
とした実態調交を行ない、それらの結間引を分析
て詳細な間取り潟水川を、また文緩組織である鉄
発が訟も刊紙んで、特にチャオプラヤ川米山はこ
体は絞験を蓄積してきでいる。ところが八0年
する形をとった。
住宅投資計幽)で自治
く銭安浜には明治建築からなる五進三務の大宅
の時期のバンコクの住宅地供給の主要な位択を
代には、回目︼ M は
m その機能と限界を問われ始めた。
る小柄鉄竹治住宅生産供給の実態としてれなも
MMVω(
があり、市民に五進一議系の山部集地もあり、前術
m
山肌閤以巡のアウタ
そればかりでなく、総合的な行政サービスの実
のを挙げると、①木造住宅の場合と何様、地紋
本論で明らかにした小規般住宅供給業名によ
占めている。
現のための、自治体内地域分権さえも出攻し、
住宅行政全般の見流しも進められてきた。本ぬ
ほとんどが段数の設計咋任者を擁するが、ほぽ
的な受注内容を付つ、②年尚一
l エリアは、
-MMの山山叩街と合わせ、水郷都市緑川川の氏居を
れと区単位の住宅地開発の動向の分析結果を合
市街化本も低く住宅開発が規制されている。こ
わせて、バンコク市はインナi エリア三地域、
では、こうした八0年代のイギリス住宅政策の
1
明し、保存の扱期限が議ぜられることになった。
ミドルエリア二地域、アウタi エリア一地域の
動向を祝貯に入れながら、次のような課題につ
いて共体的な分析を行なった。
来続を外注している、③欽竹加工品公有等との取
全社外部のぷ品川組織に一ん掬凶作成を中心とする
写となる。
能の遂行が不充分なものに止まる傾向が強い、
が包淡く、各 州
M の叶げ同・検先行為による統制機
引・契約関係はけ常的な信頼関係としての悦僚
①住宅政策における図と地方自治体の役刻分担
o
m山内以k では
合計六地域に区分された。
さらに、一九八七年の土地利川凶からチャオ
プラヤ川東山地械を問地区に分類し、仰せて一
②自治体伎宅行政機構と地域分権化の実態
の変巡
果、区分された為地区毎に市街地の物別的特徴
九八九年八刃に各地区の現地調査を行なった結
東南アジアの発展途上諸国では、都市への人
(大態
③自治体伎宅行政における住印刷管攻システムの
本論の後半では、こうした尖態の分析に悲づ
き今後の文緩体制に関して、①日常的な目的頼関
④自治体における地域伎宅計一闘の策定
なお本研究は二か年度にわたり行なわれるも
係に基づくm
w
m
Jという特性を前総にすれば、欽
八開年、一九八七年の三時点の航空写災を基俗
的とする。本年皮の研究は、一九七閲年、一九
と市街化のメカニズムを明らかにすることを目
凶の首都バンコクを対象に市街地の空間的特性
このような問題な識に基づき、本研究はタイ
鴎の住宅政策に対する教訓を得ることを目的と
年代のイギリス伎宅政策の分析を返して、わが
ったイギリスの住宅政策は、八0年代を通じて
急激な変動を経験した。本研究では、特に八0
で、公共住宅主導取のモデルとして評価が向か
な住宅政策の総立が求められている。その一方
について、①外部総織による支媛・補完関係の
一定の役刻を狙い始めた小規模な住宅供給業者
凶はこの成間取を受け、一一一、凶際建て住宅分野で
組みが求められること、②現状でもごく部分的
の文俊業山械を、統制刷機能の補完という観点から
な外注先として佼説付いている構造役計事務所
兇直すべきこと、③倒別プロジェクトネ佼での
対的・管周一項目を最小限に抑える方向での部品
化が有効性を持ち得ること等、方向性の見緩め
一一⋮、間階建て非木造住宅建設の分野で新たに生
吋咽認嘘必持制
ては、自然エネルギーの利用による仲間宅の冷却
γ める日本におい
季開法⋮暑の地域が大部分をし 日
主資片山市掛久
地盤冷熱利用による住宅のパッシ
ブク!リングに関する研究
を行なった。
制のあり方を考、えることをロ約とする。
起しつつある時四分け構造を川明らかにしたが、今
前年皮の研究では、郷市川崎を中心に急補する
付加工業者等の伝頼性を客観的に詳側できる仕
ので、ここではその一として報公するものであ
る
。
資料として、住宅地の開発形式加の土地利用現
している。とりわけイギリス住宅政策の中心的
実態、②内総組織の設計能力・品質管埋能力を
住宅供給業者の楼分け構造に関す
る研究出
況閃を作成し、住宅市街化の進行過棋の分析を
ながら、基本的動向を地域住宅政策の再構築と
役割を担ってきた、地方自治体の対応に済自し
u 松村秀
行なうと共に、現地調査により各開発形式毎の
中土木
住宅地の実態犯挺湖水日を行なった。
本年度の研究結果は以下のように絵原される。
地域住宅政策の基本的性絡として考えられる
して犯則招しようとしている。
近年わが闘では、地域に即したよりきめ細か
栄木品鈴木浩
イギリスにおける地域住宅政策の
展開に翻する研究川
-
明らかにし、③核分け構造を前提とした支援体
重姿である。
的特性と市街化のメカニズムを犯駁することが
で有機的に伐採づけるためには、市街地の空間
である。それらを効果的に実行し都市全体の中
は例えばインフラストラクチャーの慾俄が急務
境を持つ住宅地を育成するためには、泣接的に
とその変容が特有であり、マクロスケールの分
と発
しと
て市
街
化
析における航笠写災を別いた上地利用区分の有
会 流 L号
口の集中に伴う市街化の進行が若しく、特に首
向(1)開
位都市において線々な都市問題が顕在化してい
ニるる
効性が航認された。
2空全
る。このような状況下において、良好な日伯仲間環
波タ造市
辺イにに
定¥潤お
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代炎する建築空間を有する地区であることが判
の大
資
都心からの距離と住宅地開発の動向の関係は、
園
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構都
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:
同
qd
ρnu
と災用化が重姿な談題である。戸建住宅の場合、
方法、いわゆるパッシブクiリング手法の開発
蔽、水分京発により、十以季において他の部伐に
床下地盤而は地桃山の持つ大きな熱中廿設や日射遮
集合住宅の遮音性能情報の認知と
評価に関する研究
気を印刷本に導入するパッシブクlリング子法を
この低淑の地税漏に抜して冷却される床下の小笠
印刷住者と建設供給者にどのように伝達・認知さ
集合仲間宅において、滋が H性能に関する悩織が、
ヴェランダのバゲの有無がん金山内環境形成に
zt:
。
称。の効田市と考えられる。 N C←G CとN O←
PH
芥凶気に隔たりがある﹂ガへ変化している。戸
G Oでは、いずれも﹁室内とヴェランダの外の
いた場合には、ヴェランダがよりん長内側に近い
の間間関にかかわらず、ヴェランダにか給。を扱
小玄関としてとらえられていることがわかる。
臨海住宅闇地の自然環境と農住環
境に関する研究
ふ辺市一は森山正和
住成境について多様な側一山から分析と提案を行
本研究は臨海伎宅凶地におけるお然環境と居
エランダ ;
iんが内)のつながり感の関子であっ
なったものである。はじめに、阪神総潟市街地
度が多く、おい性能を求めて設計されていない。
識の伝達も十分ではない。企梁聞の遮式日性能悩
ω設計者・分談会社営業員に対する述式日性能川川
た。ここに、 N Cはより跡。を前かない戸の閉ま
子、室内系と外との一体感の悶子、袋内系(ヴ
ルを用いて床下の冷却能力に関する級々のパラ
織の内山骨に差災がみられ、地場・⋮縮問山県の染者
シミュレーションおよび磁外災験を行ない、両
の有無償守、担問々の条件における試験家践の数依
から、丸なが読んだり開いたりして紡報を得て
三%が情報をもっており、そのうち L包が体験
間フ?iリング騒資に山附する情報は、成住者の
に十分に伝没されていない。
する。
態
、 G Cはよ縁。を置いた戸の閉まった状態、
、 P紋 4を白いた戸の山附いた状態を、意味
G Oは
いる。前者は後者よりも紡立同に気をつかって生
一体感)に属する形容災対に、
(自然らしさ)、第
臨海地域に特有な自然環境である大気中の取分
m
H却にチェ
っている。また、臨海住宅凶地計幽における民
たアンケート減資による生活環境の訴備を行な
米京にある三つの海上ニュiタウンを対象とし
地の概要のまとめを行ない、つついて神戸・大阪・
の発展の磁史的経緯と大阪湾問辺の臨海住宅凶
メータについて調べる。次に、このモデルを山手
者の比絞によりこのパッシブクiリング予法に
ヴェランダの一戸の開聞によっては、第日岡山子
活している。
っては、第I国側子(評価(好ましき))、第日凶子
調資の解析、臨海地域に多数立地している下水
泌皮について神戸市六叩アイランドで行なった
NM
ックできるパソコン瓜グラフィック処理の開発、
mを
総要点(海の桃山裂など)の可視 H
凶フローリングへの係り終え希笠が多く、採り
(自然らしさ感)、に印刷する形容詞対の、それぞ
m悶子(ヴェランダと外との
符えは今後さらに増加すると予測される。川町り
れの評定依に、有怠差がみられた。即ち、 N C
柿 4の有無によ
山附する数値シミュレーションを通して、この手
殺えに閃しては﹁弘行域組合でゆし合わせを作る﹂
利川然エネルギー)を有効に利用した都市エネル
処現場・ゴミ焼却場などからの m
Mおな廃熱(米
等マンション全体の問題として佼郡山づけて考え
ギー供給のあり方の検討。川以後にカリフォルニ
すれば、
じているのに対して、 G O←G Cでは第w
m則子
←N Oでは第四国子(ヴェランダと外との一体
提供すること、悩同怖の伝達経路としては住宅専
る印刷使者が多い。このためには、まず、悩織を
u理組合・自治会のお知らせ等が有効
門祁守山、 m
つ治作域管湿のあり方について検討している。
集合住宅の遮抗日性能情報の実態は、居住者が
との一体感
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が強化され JU
称。のある相場合には
ヴェランダと釜山内のつながり感。が強化される
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先
慨ま
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ア州沿伴コンサl パンシィi の活動を紛介しつ
日常の生活実感から資に対して関心を高めて的
(←印は調査状態の変化)。また、日目 C←G Cと
る形容制対に有意な評定の変化が生じている。
び通気構法住宅において、床下冷気の導入によ
報を集め、住まい方にも配慮がみられるのに比
N O←G Oについては、第I因子(評価(好まし
(小玄関(ヴェランダと家内)のつながり感)に印刷す
山床下において、流叫附の今ふさが長くなること、
換気対が柿明大することおよび地殺而の蒸発比が
増加することにより床下の冷却能力は駒大する。
ω領時の標準気象デ!タに基づく計算によると、
り奈川畑および室内のω向、﹃右初℃以下に保つこと
絞し、山地設供給側の建物の遮音性能的報が欠落
さ))、知即日関子(自然らしさ感)に属する形祭
一戸を開放したときによ紋。のない場合にはグ外
ができる。これは外気温よりも低い純であり、
し、騒音の尖態に対する認識も欠如している例
初対に有意な評定の変化が生じている。これは
夏季の日中、一夫大スケールの木造、 R C逃およ
このパッシブクiリング手法の突川伎を示唆し
がみられ、企業向の悦綴の川県と内務の差問調が大
ている。
きい。特に建設供給者に対して、遮北日性能悩総
である。
感)に印刷する形谷誠対に有なな狩定の変化が生
用いた積々の構造を持つ実大スケールの住宅に
法の実用伎について検討する。その結附引を姿約
する。さらに、このパッシブクlリング手法を
関する数値シミュレーション法の妥当性を検討
泌解析プログラムと結合して、透過日射品目⋮取引符
た状態、 N Oは
、 ρ縁。を涜かない戸の開いた
の妥当性を屋外尖験により検討する。このモデ
まず、床下の熱挙動計算モデルを作成し、そ
及ぽす効聞取を、ヴェランダのある講義室の四状
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れているかその実態を明らかにするために、一伯
長果
提案し、その効果を試験家爆を別いた屋外実験
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態 (NC、N O、G C、GO) を対象に調査し、
繰
尚市と周辺都市で制州中川Hを行なって以下の知見を
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および数似シミュレーションにより検討してい
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比絞して低沿な耐となっている。本制限抱けでは、
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ロi コ ス ト ・ リ ッ チ ・ ラ イ フ 入 門 │ │ 成 熟 社 会 型 都 市 居 住 単 位 に お け る 低 廉 ・ 豊 穣 ・ 生 活 の す す め
境浩志
イフスタイルは大きく変化し、また、
論、この動きは、高齢者のみならず健
とっては、甚だ迷惑な問題である。勿
な老後を過ごそうとしている高齢者に
都市、コルピュジェのユニテ等を理想
オスマンのパリ計画、ハワードの間関
ところで、近代日本の都市計画は、
となる。
生活できる町であり続けることが肝要
住艮の生活の知恵を学ぴ、低廉・豊穣
くない米米像に備えるならば、行政は
空間に占拠されてしまっていたという
気付いたら都心部は法人の業務(商業)
れない部分があまりに多く存在してい
日本の都市にはこれらの理想論では語
として実践されてきたが、残念ながら
ような生活環境を、今のうちから開発
盟穣な生活を将来とも一史に担保できる
があり、住民は行政の指導の下に低燦・
すなわち、これらのあまり予測した
きかける支務を負っている筈である。
自由時間の増大に伴い、積極的に余暇
る全ての住民をも排除する方向に働く。
全な都市生活を享受したいと考、えてい
人生八O 年 時 代 を 迎 え 、 人 び と の ラ
いる、といった話をよく聞くが、きた
を楽しもうとする気運が高まってきて
な福祉を実現する方法を開発する必要
い。とくに、団塊の世代が一斉に高齢
るべく高齢化社会はそんなには甘くな
ことになる。
と比べて、実質的な豊かさ(例えば、
また、現代の日本人は額一則上の収入
現在は見かけ上﹁出且かな時代﹂である。
により﹁愛しい時代﹂となる。関みに、
し、扶養を受ける世代が増加すること
果として、多くの人がより﹁安い生活﹂
スに甘んじるを得ない状況になる。結
た福校受益者はより単価の安いサービ
税者は過酷な負担に端ぐ一方、増加し
い時代﹂に突入すると、数が少ない納
このような歪んだ社会状態で﹁貧し
を示すためだけの計画の産物とも一宮悶え
外国人に日本という小さな国家の威信
揚、未来への遺産、つくり等を無視して、
市民の生活環境の向上、都市文化の高
その代表である。これらの居住環境は、
パ ー ト 密 集 地 幣 や ス ブ ロ i ル地区等が
騰の時代から蓄積されてきた、木賞ア
る。例えば、ムハ0年 代 の 前 半 の 地 価 高
れる。
し、実践しておく必要があると考えら
化すると、収入を稼ぎ出す世代が減少
収入から最低限の生活に必要な経費を
かろう悪かろうではあまりに寂しい。
を強いられることになる。ただし、安
住宅費等の生活費が安く済み、かっ、
ある。居住水準は多少惑くとも、物価・
済成長を支えた都市居住者に対して、
︿ひろば﹀へのご投稿をお待ちしております。
﹁住﹂に関する提案から日頃お感じになって
おられることまで、研究者・実務者から市民の
皆さま方の忌憾のないご投稿をお待ちしてお
ります(採用文については薄謝進皇)。
原稿用紙(飽 O O字詰)三枚程度。原稿に
は住所、氏名、年齢、機構慌を傍記入下さい。
なお、内容を儀っけない範密で一部手直しさ
せていただく場合がありますので、ご諒承下
さい。
︿宛て先 v
一
γ156東京都世田谷区松綴4 丁自明日 8
財団法人住宅総合研究財団
すまいろん綴築部﹁ひろば﹂係
ネ
(さかい・ひろし/環境デザイン研究所代表)
筏点では、とても満たされている状態
除いた所得二夫質可処分所得)という
えられ、もはや、簡単に住宅を購入で
してや、その環境の中でしたたかに自
大いなる交任を感じる必要がある。ま
いだけの生活環境に住んでいるお度経
きる時代ではなくなってしまったと断
ている、いわば、豊かな生活が実現で
豊かなコミュニティによって支えられ
てきた住民たちの英知を、単なる法人
分たちの生活を豊かな暮らしに昇華し
る。国家は、この結果生み出された安
収入の増加を超える地価の上昇、法人
定できる(首都留ではその現象が顕著)。
きる環境づくりが求められる。とくに、
の利判例追求のためだけに奪い取ること
いが暮らし易い町﹂が求められる筈で
とごく少数の倒人だけを対象として供
今後の収入増加が望めない高齢者、年
などあってはならない。また、行政レ
笠かに生活していくためには﹁住み難
給される都市住宅(生活の論理を超越
金生活者等にとっては、親しんできた
ベルでもその動きを阻止するように働
は、現実的な収入と帯磁した状況と捉
した住宅)等、近年の淫らな不動産の
生活地図を変えることなく、安心して
とは一言い難い。とくに、住宅に関して
動きは、現状の生活を維持しつつ豊か
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小て、成果の 一捕を、 市民、実 務者
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一 松村秀 一 (
東京大学建築学科鴻 師)
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究者の皆様 に、より広 ぺ、
i り手軽に ご ,一立松久 昌ド(月刊住宅建築編集長 )
理W 川だだくど とも に、モの 意見 交流 の ム * │安員長
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なる ことを願 つ
て刊 什 (季刊) され
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お願 い申し上げま す。
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(本号責任編集 仏片山和俊一
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