︿精神と物質﹀序説 ︱︱ 心的秩序の存在論 野 口 勝 三 持つのかを示すことにあるのである。また、そこで扱われる身体は、 を 閉 じ 込 め る 牢 獄 で あ る。 人 間 の 生 は 魂 を 身 体 と い う 牢 獄 に 閉 じ 込 と同一のものではありえないとする。プラトンによると、身体は魂 きる。プラトンはその霊肉二元論において人間の精神︵魂︶を身体 で に 古 代 ギ リ シ ャ 哲 学 に お い て、 そ の 問 題 構 成 は 見 て と る こ と が で 精神と物質︵身体︶の関係は古くから哲学で論じられてきた。す るのである。そのために、アリストテレスでは、物理的な秩序とし 質 と し て 捉 え る。 身 体 は 単 な る 物 体 と は 異 な る も の と し て 把 握 さ れ ア リ ス ト テ レ ス は、 身 体 を 機 械 的 構 造 物 で は な く、 い わ ば 生 き た 物 独自の秩序を備えた、物体と区別された﹁自然的物体﹂ ︵ ︶である。 続ける﹁生命﹂を持った物体とみなされる。身体は﹁生命﹂という 体である。身体は﹁自分自身による栄養摂取と成長と衰退﹂ ︵ ︶し 単 な る 物 体 で は な く、 自 分 自 身 の う ち に 運 動 の 原 理 を 持 つ よ う な 物 めることであり、死は魂を牢獄から解放することである。そして、 ての身体と、心との関係については論じられない。二つの対象の間 一 はじめに 魂 は 死 に よ っ て 肉 体 を 抜 け 出 て 輪 廻 す る。 プ ラ ト ン は こ の よ う に 二 に ど の よ う な 作 用 が 働 い て い る の か と い う 問 い は、 か れ の 問 題 圏 域 ︵ ︶ 。 つを異なる実体として捉える ︵ ︶ 。 彼 に よ る と、 心 と は 身 体 が あ る 一 定 の アリストテレスは、プラトンとは異なり、身体と心がもともと一 つのものであるとする 能力を持った状態のことである。彼が人間の魂︵心︶の能力として あげるのは、栄養、感覚、欲求、運動、思考の五つである。そして、 身体と心の関係について、現在まで続いているような枠組みを最 二 デカルトの心身二元論 きをするのかを考察する。アリストテレスは、身体と心を同一視す 3 初 に 提 示 し た の は デ カ ル ト で あ る。 デ カ ル ト に よ る と 私 の 本 質 を な 4 る た め に 、 二 つ の 関 係 の 考 察 は、 心 を 含 む 身 体 が ど の よ う な 能 力 を 身 体 の 心 の 関 係 を 論 じ る に あ た り、 こ の 五 つ の 能 力 が ど の よ う な 働 には見られないのである。 1 2 ― 215 ― 京都精華大学紀要 第四十六号 のは﹁精神﹂である。では﹁考えること﹂に属しているのは何であ ら 切 り 離 す こ と が で き な い。 そ れ ゆ え 人 間 に と っ て よ り 本 質 的 な も と切り離すことができるが、 ﹁考えること︵コギト︶﹂ ︵ ︶は精神か すものは﹁精神﹂ ︵ ︶である 。﹁身体を持つこと﹂ ︵ ︶は私︵精神︶ 的なものとして認識・理解でき、また一定の空間的な位置を占める て、数量に基づき理解できるようなものである。それは誰もが客観 うに、その構成要素や性質、構造を数学的・物理学的記述の系によっ 彼によれば、私たちの身体は本質的には物体であり、机や椅子のよ トは、こうした性質を﹁事物そのもの﹂ ︵ ︶に属するものとみなす。 も客観的に存在するものではなく、それがどのようなものであるの である。 ﹁身体﹂の本質は﹁延長﹂であり、 ﹁精神﹂の本質は﹁延長﹂を持 と延長する実体 ︶ ︵ ︶ という二 たない﹁思考﹂である。このようにデカルトは精神と身体を、互い ︵ の 冷 気 を 感 じ て い る と き で も、 明 日 の 予 定 の こ と を 考 え る こ と が で カルトでは、世界は思惟する実体 を他に還元できない全く異なる﹁実体﹂とみなす。そのために、デ 痛みや暑さを感じ取っている感覚の状態とかかわり、さまざまな事 このように、デカルトでは、思考こそが精神の本質をなすのであ 成されていると主張する、このような立場を二元論と呼ぶが、デカ 10 ﹁空間における広がり﹂ ︵ ︶を指し、事物の大きさ、形、運動のよう どのように捉えられるかという問題である。つまり、精神と身体が れる。ここで注目したいのは、この二つの関係が二元論において、 ルトではこの二種類が物体と心なので、しばしば物心二元論と呼ば つの実体から成り立つことになる。世界が二種類の存在によって構 14 る。一方、身体の本質をなすのは﹁延長﹂ ︵ ︶である。﹁延長﹂とは、 柄に思いをめぐらし、自由に思考を展開することができる。 13 きる。 ﹁思考﹂は、いま・ここで見たり、聞こえている知覚の状態や、 考えることができる。また指に針を刺して痛みを感じたり、冷蔵庫 私 は リ ン ゴ を 見 た り、 音 楽 を 聴 き な が ら も、 昨 日 起 こ っ た 出 来 事 を て い る リ ン ゴ を 見 て い る と す る。 あ る い は、 部 屋 の 中 で 机 に 向 か っ 識することが不可能な非物理的存在である。精神とは、誰にとって 考﹂は数量によっては捉えられない、身体のように物理学的には認 空間内の特定の場所に位置づけることができない。そのために、 ﹁思 ものとして把捉される存在である。一方、﹁思考﹂は体積を持たず、 12 かを、思考を発したまさにその存在だけが認識できる主観的な存在 ることはできるからだ。たとえば、 いま私が目の前のテーブルにのっ ︶ ろうか。デカルトは﹁考えること﹂には、 ﹁疑い、理解し、肯定し、 といった﹁思惟﹂ ︵ ︶をあげる。というのも、感覚はなくとも考え が属しているという。その中で最も重要なものとして、理解や意志 否定し、意志し、意志しない、なおまた想像し、感覚するもの﹂ ︵ 6 ているときに、窓の外から音楽が流れてきたとする。そんな時にも、 8 7 5 9 な数学によって取り扱うことのできる性質を意味している。デカル 11 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 214 ― 状態に因果関係が成り立っていると考えている。例えば、うつうつ 互 に 関 係 し て い る の だ ろ う か。 私 た ち は 日 常 的 に 心 の 状 態 と 身 体 の と い う 問 い で あ る。 非 物 理 的 な 存 在 と 物 理 的 な 存 在 が ど の よ う に 相 全く異なる実体だとすれば、二種類の結びつきはどのようなものか る。二つの関係は物理的なものの間に作用する因果関係であるため きの因果関係は、弾性の法則という物理学の法則によって説明され が 別 の 球 に 当 た っ て、 当 た っ た 球 が 動 い た の な ら ば 、 二 つ の 球 の 動 け る と い う よ う に 。 例 え ば 、 ビ リ ヤ ー ド で 球 を 撞 い た 時、 撞 い た 球 一方、非物理的なものと物理的なものの間には共通となる何らか に 、 そ の 間 に 共 通 に 基 盤 と な る 物 理 的 法 則 が 存 在 し て お り、 理 解 で 関係からみれば、鬱々とした状態に陥ったという気分が原因で、窓 の法則が存在していない。そのために、二つの間の因果関係を説明 と し て 気 分 が す ぐ れ な い と 感 じ る と き に、 窓 を 開 け て 新 鮮 な 空 気 を を開けるという身体運動が生じたということである。気分という心 するためには、その因果関係が知られていない念力のような神秘的な きるものとなるのである。 的 状 態 が 原 因 で、 身 体 運 動 と い う 物 理 的 反 応 が 結 果 と し て 起 こ っ た 力を導入する必要が出てくる。このように物心二元論は、心と身体 取り入れて気分転換を図ったとする。このとき起こったのは、因果 わけだ。また、炎を見て怖くなった場合、炎という外的対象が網膜 の因果関係の説明について非常に大きな困難を抱えているのである。 三 近代の哲学者による心身問題の解決法 に︵視覚刺激という︶物理的刺激を与えたことが原因となり、恐怖 と い う 心 的 状 態 に 陥 っ た こ と を 表 し て い る。 こ の 例 か ら も わ か る よ う に、 私 た ち は 日 常 的 に、 心 の 状 態 は 物 理 状 態 と 因 果 関 係 を 構 成 す ると考えている。 し か し、 非 物 理 的 な も の と 物 理 的 な も の と の 間 に 因 果 関 係 が ど の デ カ ル ト も ま た こ の 難 問 に 直 面 す る。 そ し て、 か れ は こ の 問 題 を の と 物 質 的 な も の は そ の 本 質 が 異 な る た め に、 共 通 の 基 盤 と な る も とき、私たちは非常な困難にさらされることになる。非物質的なも かれは、外的な対象からの刺激は松果腺において精神に伝達される デカルトが着目するのは、脳室の中にある松果腺という器官である。 解決するために脳における相互作用という考え方を導入する よ う に し て 形 成 し て い る の か。 一 旦 そ の 関 係 を 説 明 し よ う と 試 み る の が 存 在 し な い。 そ の た め に 、 二 つ の 間 の 因 果 関 係 を 説 明 す る た め という。外的対象による刺激は、皮膚や目、鼻、耳、舌といった感 ︶ 。 に は、 何 ら か の 未 知 の 力 が 介 在 し て い る と 考 え る ほ か な く な っ て し 覚 器 官 を 通 し て 神 経 に 対 し て 多 様 な 反 応 を 与 え る。 こ の 反 応 は 神 経 ︵ ま う。 い わ ば 念 力 の よ う な 神 秘 的 な 力 が 二 つ の 間 に 作 用 し て 結 び つ 15 ― 213― 京都精華大学紀要 第四十六号 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 212― とを見いだす。また、私たちの感じている情念が、精気の運動によっ カ ル ト は、 あ ら ゆ る 情 念 に 生 理 学 的・ 物 理 的 働 き が 作 用 し て い る こ しみ﹂のように心に生じている感覚は、通常情念と呼ばれるが、デ き起こして、精神に様々な感覚を生じさせる。﹁驚き﹂や﹁愛﹂、 ﹁憎 を伝達して松果腺の中にある動物精気という物質に多様な運動を引 な心の状態がなぜ相互に関係できるのだろうかという疑問が生じる 可能なものになったが、あらたに脳という物質的な存在と非物質的 その結果、身体の状態と脳の状態の間の因果関係は理論的には説明 状 態 ﹂、 ま た は﹁ 心 の 状 態 ↓ 脳 の 状 態 ↓ 身 体 の 状 態 ﹂ を 提 示 し た。 の状態↓身体の状態﹂の代わりに、﹁身体の状態↓脳の状態↓心の も、身体と精神の間の因果関係は説明できないのである。 ことになる。心の状態と身体の状態の間に脳という存在を導入して ︶ 。 動物精気の運動は、心臓や肝臓、胃、脾臓、 て生じ、維持され、強化されるとして、情念に伴う血液と動物精気 ︵ デ カ ル ト 以 降、 近 代 哲 学 は こ の 難 問 を め ぐ っ て 展 開 し て い く こ と の運動を取り出す 筋肉に送り込まれ、 ﹁驚き﹂や﹁愛﹂ 、 ﹁憎しみ﹂、 ﹁欲望﹂、 ﹁喜び﹂、 ﹁悲 になる。ところで、精神と身体という二種類の存在の結びつきの説 は化学に還元され、化学は物理学・数学に還元されて説明可能なも しみ﹂といった情念を引き起こすことになる。そして、情念はあら こ の よ う に、 デ カ ル ト は 身 体 の 状 態 と 心 の 状 態 の 間 に、 脳 状 態 を のである、と。第一の方法は、心身の関係を物質的な観点で記述す 明として、論理的には三種類の考え方が可能である。第一に精神の 介在させることによって、身体の運動が生じた理由を説明していく。 ることから、物的一元論や唯物論、自然主義、物理主義と呼ばれる。 たな身体の運動を引き起こすようになる。デカルトは、情念と身体 確 か に、 脳 の 状 態 と い う 物 理 的 な も の が 原 因 に な っ て い る と 考 え れ 第二に、物質的な存在を否定して、世界の一切が精神的なもののみ あ り 方 を 物 理 的 に 説 明 す る 方 法 で あ る。 こ の 立 場 は、 世 界 に 存 在 す ば、身体運動が引き起こされた理由を理解できるようになる。脳の に よ っ て 構 成 さ れ て い る と す る 考 え 方 で あ る。 こ れ は、 精 神 の み を 運動の生じる仕組みを、動物精気と血液の運動から説明していく。 状 態 も 身 体 運 動 も、 同 じ 物 理 的 な 因 果 関 係 に よ っ て 統 一 的 に 把 握 す 実在しているとみなすため心的一元論と呼ばれる。第三に、世界が るものはすべて、その構造や構成要素、性質などを物理的・数学的 ることが可能であるからだ。しかしながら、その場合、今度は脳の 物 質 的 な も の で も、 精 神 的 な も の で も な い も の の 表 れ と み な す 考 え 彼 に お い て、 松 果 腺 と い う 脳 の 一 器 官 が、 外 的 対 象 に よ る 物 理 的 刺 状態と心の状態の結びつきが問題となってしまう。デカルトは身体 方である。この立場は、精神と身体︵物質︶を物質的なものでも、 に記述することができると考えている。脳の状態や脳における反応 と心の因果関係について、﹁身体の状態↓心の状態﹂ 、あるいは﹁心 激と精神を結びつける働きを果たすのである。 16 る。 そ こ で は、 精 神 も 物 質 も こ の 第 三 の 存 在 の 異 な る 属 性 や 側 面 に 精神的なものでもない第三のあり方により構成されていると説明す 結は、神という一つの存在の二つの側面として説明される。しかし る と 考 え て い る が、 彼 に よ れ ば そ れ は 誤 解 で あ る。 精 神 と 身 体 の 連 ︶ 。 ス ピ ノ ザ で は、 精 神 人 間 は そ れ を 認 識 で き な い。 そ の た め に 、 私 た ち は 精 神 と 身 体 が 相 ︵ すぎないとされる。そのために、これは中立一元論と呼ばれる。 互に作用していると考えているのである と 身 体 は も と も と 一 つ で あ る た め に、 心 身 二 元 論 の ア ポ リ ア が 生 じ 近代哲学では、ホッブスが唯物論の立場からデカルトを批判する。 彼は、精神の働きを﹁コナトゥス﹂という物体の運動によって説明す マ ル ブ ラ ン シ ュ も ス ピ ノ ザ と 同 様 に 神 の 概 念 に よ り、 心 身 二 元 論 ることはないのである。 ることができるものよりも、微小な空間と時間における運動﹂ ︵ ︶の の ア ポ リ ア を 解 決 す る。 彼 は 物 体 間 の 相 互 作 用 や 身 体 の 運 動 の よ う 神の発動は、一方の動きをきっかけ︵機会︶として、神が他方に働 な、物体の運動や精神の働きの原因を神に求める。物体の運動や精 心的一元論の立場に立つのがバークリーである。彼は外的対象が、 きかけて引き起こしたものだとするのである。このような心身の因 ︶ 。 神と事物は、神という実体の二つの表れであり、それらを神に起因 うに実体とはみなさない。スピノザでは唯一の実体は神である。精 果 関 係 で は な く、 並 行 関 係 で あ る。 ま た 精 神 と 事 物 を デ カ ル ト の よ 因果関係を否定する。彼によれば、精神と事物︵身体︶の関係は因 リ ア を 克 服 し よ う と す る。 彼 は デ カ ル ト に お け る 精 神 と 身 体 の 間 の スピノザは神の概念を提示することによって、心身二元論のアポ またモナドは知覚能力と表象能力を持っていて、多様な世界を思い ナドは自己表現・表出として、自己自身の内部から運動を展開する。 は相互に関係して、影響を及ぼし合うことがない。そのために、モ こ の よ う な 実 体 は モ ナ ド と 呼 ば れ る。 実 体 で あ る た め に 、 各 モ ナ ド ︶ ライプニッツは無数の実体の運動として世界の多様性を記述する ︵ 。 ような、世界の多様なあり方のすべてを一つの実体から説明したが、 代わりに無数の実体を置く。スピノザは精神の働きや物体の運動の ライプニッツはスピノザのように実体を一つとは見なさず、その ︵ 人間の知覚によってのみ精神に現れるという。人間の経験する外的実 。 する属性とする。私たちは精神を原因として身体に運動が生じる、 ︵ ︶ 20 描く。こうした無数のモナドが思い描く多様な世界のあり方が、世 物を否認するという結論を導き、心だけを実在するものと考える 果関係の起因を神に見出す彼の立場は、機会原因説と呼ばれる はこの概念によって説明することができると主張する。 ことである。人間の意志や理性、想像力など、あらゆる精神の働き る。コナトゥスとは﹁与えられうる、または提示や数によって指定す 19 在物は知覚されたものにすぎない。彼はそこから、一切の客観的実在 17 あるいは身体に対する刺激が原因となって身体運動が引き起こされ 18 21 ― 211 ― 京都精華大学紀要 第四十六号 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 210 ― 界の多様性と対応している。ライプニッツはスピノザと異なり、単 とみなすことで、心身二元論のアポリアを解決する。 元論の立場に立って、世界を精神でも事物でもない別の実体の表れ 四 現代の心の哲学 ︱︱ 物的一元論について 一の原理=神から世界の多様性を説明しない。事物、植物、動物、 人間など世界の一切は個々のモナドが表象したものとみなす。また モ ナ ド の 知 覚・ 表 象 能 力 に は 違 い が あ り、 表 象 能 力 の 高 い モ ナ ド か 近 代 哲 学 は 心 身 二 元 論 の 難 問 を 解 決 す る た め に、 物 的 一 元 論 と 心 ら、そうでないモナドまで存在しており、互いに階層をなしている。 個 々 の モ ナ ド の 表 象 能 力 の 違 い が、 世 界 の 多 様 性 を 生 み 出 す 原 因 と たとえば、チャーチランドは哲学や心理学によって研究されてい 的一元論、中立一元論という三つの考え方を提示したが、これは現 になるだろう。だが、そうした世界像の多様性にもかかわらず、私 る心的現象や観念の仕組みは、やがて科学によって明らかにされ、 なるのである。ライプニッツは世界の多様性をこのように説明する。 た ち は 一 つ の 世 界 を 生 き て お り、 互 い の 世 界 が 全 く 触 れ 合 わ な い と 心の哲学は心の科学へと自然化されることによって消え去るとす 代 哲 学 で も 変 わ り は な い。 現 代 哲 学 も ま た こ の 三 つ の 枠 組 み を め い う こ と も ま た 考 え ら れ な い。 個 々 の モ ナ ド が 思 い 描 く 世 界 の あ り る。 ま た、 心 の 哲 学 が 科 学 に よ っ て 統 合 さ れ れ ば、﹁ 素 朴 心 理 学 ﹂ では世界の同一性はどのように説明されるのだろうか。確かに世界 方 に 違 い が あ る に も か か わ ら ず、 な ぜ そ れ ら が 一 つ の 世 界 と し て 調 は﹁科学的心理学︵神経科学︶﹂によって消失することになるという。 ぐって精神と物体の関係を探究する。特に一九八〇年代以降、自然 和するのであろうか。ライプニッツはこうした世界の統一性を、 ﹁神 彼によれば、私たちは信念、欲求といった﹁日常的言語﹂によって は多様なあり方をとって私たちに表れている。個々人をとってみて の予定調和﹂ ︵ ︶によって説明する。神が個々のモナドの状態が対 心的現象を説明するが、それは極めて不正確で退行的な理論に過ぎ 科 学 の 進 展 に よ り、 人 間 の 意 識 や 心 的 現 象 も ま た 物 理 学 的 説 明 に す 応 す る よ う に 図 っ て い る の で あ る、 と。 個 別 の モ ナ ド の 状 態 が 別 の ず、それはちょうど、燃焼をフロギストンという物質の空気中への も、AさんとBくんの思い描く世界はずいぶん違ったものであるは モ ナ ド の 状 態 と 対 応 し て い る の は、 モ ナ ド 同 士 の 相 互 関 係 に よ る の 放 出 の 過 程 と み な す 説 の 代 わ り に、 可 燃 物 質 へ の 酸 素 の 化 合 に よ っ ることが可能であるという物的一元論が支配的となっている。 ではなく、神の創造の時点で決定された予定調和によるのである。 て急激な発熱を伴う反応とみなす説が登場したことで空想的な理論 ず だ。 ま し て や 動 物 と 人 間 で は 世 界 の 捉 え 方 は 根 本 的 に 異 な る も の このようにスピノザやマルブランシュ、ライプニッツは、中立一 22 るという ︶ 。 心的活動は科学によって説明可能なものであるとす に、 脳 神 経 科 学 の 進 展 に よ り 消 え 去 る 運 命 に あ る 未 熟 な 考 え 方 で あ さ れ た エ ー テ ル の 存 在 が、 特 殊 相 対 性 理 論 に よ っ て 否 定 さ れ た よ う と し て 退 け ら れ た よ う に 、 ま た、 光 を 伝 搬 す る た め に 必 要 な 媒 体 と 的 精 神 は 神 学 と 同 様 に、 あ ら ゆ る 事 物 と 目 的 を 明 ら か に し よ う と 試 らゆる事柄は理解可能なものとなるという考え方である。形而上学 残滓が残されている。それは究極原因を明らかにすれば、現実のあ り越えた段階に位置している。だがそこには、なおも神学的精神の 次の段階である形而上学的精神は、未熟な神学的精神の段階を乗 フォイエルバッハ、マルクスなどの唯物論的、実証主義的思潮が支 あ り 方 や 出 来 事 は 科 学 に よ り す べ て 説 明 さ れ る と い う、 コ ン ト や ず、人文・社会科学においてもヘーゲル的観念論は退潮し、世界の 一九世紀の半ばには、自然科学の発展により、自然科学のみなら その哲学は、空想的な抽象概念を用いた哲学体系を打ち立てている のうちで展開し、現実の社会や社会について説明を試みる。しかし、 象概念を用いる点にある。形而上学的精神は、こうした概念を思弁 るのに対して、後者が﹁実体﹂や﹁永遠﹂、 ﹁根本原因﹂といった抽 みる。神学と形而上学思考の違いは、前者が超自然的な力で説明す ︵ る、こうした立場は﹁消去主義的唯物論﹂ ︵ ︶と呼ばれる。 配的になっていた。心的現象についても、二〇世紀に入ってから、 だけで、現実を正確に認識しているわけではない。 コントは形而上学思考を批判的に捉え、人間の精神の最終段階と 人 間 の 思 索 は す べ て、 必 然 的 に こ の 三 つ の 段 階 を 順 次 通 過 す る と い ︶ 彼によれば、 証主義的段階﹂ という三つの段階に区分して論じる ︵ 。 ントは世界認識の枠組みを﹁神学的段階﹂、﹁形而上学的段階﹂ 、 ﹁実 こうした﹁実証主義的﹂風潮の趨勢について、オーギュスト・コ い う 未 熟 な 精 神 を 克 服 し、 成 熟 し た 段 階 に 達 し た 認 識 の あ り 方 と み ることになる。彼は実証主義段階を神学的段階、形而上学的段階と 的 に 把 握 す る の で、 人 間 の 生 の 条 件 の 把 握 と 改 善 に 有 用 な 働 き を す 実を正確かつ確実に認識しようと試みる。それは社会や現実を実際 り、空想的概念のうちに籠るのではなく、事実の観察に集中し、事 して、実証的精神を提出する。実証主義段階は形而上学精神と異な う。神学的精神とは、現象の究極原因を探求する精神のことである。 なすのである。 強め、社会生活を可能とした、そう述べる。 界の把握をあいまいで不正確なものと考える。現代の心の哲学にお このように、近代の合理主義的・実証主義的精神は思弁による世 彼は、この精神は神学的権威を生み出すことによって、人々の道徳 張がなされるようになる。 が認識論や論理学の基礎を担うものであるという﹁自然主義的﹂主 ヴント、エルトマン、ズィクヴァルトなどにより、実験心理学こそ 24 23 的・政治的観念に関する共通の教義を提供し、人々の社会的紐帯を 25 ― 209― 京都精華大学紀要 第四十六号 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 208 ― いても、こうした傾向を同じように見て取ることができる。現代の ①行動主義 行 動 主 義 は 心 的 状 態 を、 言 動 や 行 動 と い っ た 外 的 指 標 に よ っ て の 持する論者は少ない。その理由は、近代の実証主義精神にとり、物 づいて遂行されなければならないとする。人間の心の状態、痛み、 み研究する 心 の 哲 学 で は、 物 的 一 元 論 に 比 べ て、 心 的 一 元 論 や 中 立 一 元 論 を 支 的存在が世界を構成する実体であることを否認する心的一元論や、 思考、情緒といったものは、外側からの観察に基づいて検証できな ︶ 。 行動主義は、科学的な研究が観察可能な事実に基 中 立 一 元 論 は、 近 代 の 実 証 主 義 的 精 神 と そ れ に 基 づ く 科 学 を 否 定 す け れ ば 存 在 の 有 無 を 他 の 人 は 知 る こ と が で き な い。 心 の 内 側 で 生 じ ︵ るものとして映るからである。 立 っ て い る。 そ の た め に 、 心 身 二 元 論 を 心 の 身 体 に 対 す る 影 響 を 認 以外には一切の原因を持たないという物理的閉方性に基づいて成り 難 し く な っ て し ま う の で あ る。 自 然 科 学 は、 ど ん な 物 理 現 象 も そ れ 理 的 領 域 の 閉 方 性 と 矛 盾 し、 両 者 の 関 係 を 整 合 的 に 説 明 す る こ と が ︵物体︶に対する影響を認めてしまうと、自然科学の前提である物 従うという自然科学の基本的前提と対立するからである。心の身体 る 実 体 の 間 の 相 互 関 係 と み な す た め、 物 体 の 運 動 は 物 理 法 則 の み に 形 而 上 学 的 と 受 け 取 ら れ る。 心 身 二 元 論 は、 心 と 身 体 の 関 係 を 異 な カルト的心身二元論も心的一元論や中立一元論と同様に、思弁的・ 物 的 一 元 論 の 立 場 か ら は、 精 神 を 物 体 と は 異 な る 実 体 と み な す デ とはできない。私たちは外的な対象に対して様々な感情を抱き、そ え る か ら で あ る。 行 動 す る 側 に と っ て も 内 的 感 覚 の 存 在 を 避 け る こ ち自らが知り、感じ取ることができる内的感覚を反映していると考 だが、私たちが観察可能な外的行動を心的現象とみなすのは、私た 察可能なもの以外、存在しないものとみなされ、切り捨てられる。 ことができない。この立場では心のうちで生じる現象は、外的に観 の結果、行動主義は痛みや情緒、思考といった心的現象を直接扱う 行動主義は心的現象を特定の行動状態とみなすのである。しかしそ 検証可能な事実の存在により初めて知ることができる。このように る心的過程それ自体は、観察できないため、その存在は行動という 象を説明するという問題点を含んでいるのである。 ざまな性質が、あたかも存在しないかのような前提に基づき心的現 し た 内 面 性 は 捨 象 さ れ て し ま う。 行 動 主 義 は 行 動 の 基 盤 と な る さ ま の感情に基づいて種々の行動をとっている。だが行動主義ではそう つかを追うことから始めよう。 ともあれ、私たちはまず、物的一元論に関する議論のうちのいく めているとして、一種の神秘主義とみなすのである。 26 る心と脳の関係は、ちょうど、稲妻と電荷の関係や、雲と水蒸気の 対応関係があるということだけがいえるからだ。心脳同一説におけ の 状 態 と 脳 の 状 態 が 同 じ も の と は 言 え な い。 心 の 状 態 と 脳 の 状 態 に 変化と対応すると考えるわけである。とはいえ、これだけでは、心 ら別の欲望︵思考・感情︶への変化は、必ず、特定の神経の興奮の 奮︵活動電位︶が生じていると考える。ある欲望︵思考・感情︶か 定 の 種 類 の 感 覚 を 感 じ 取 っ て い る と き、 つ ね に 特 定 の 神 経 に 同 じ 興 一説では、二つは全く同じものとみなされる。この立場は、ある特 のであり、第三の実体の異なる側面や属性に過ぎなかった。心脳同 ある ︶ 。 中 立 二 元 論 の 場 合、 心 と 身 体 は 第 三 の 実 体 か ら 生 じ た も 心脳同一説とは心の状態を脳の状態と同一のものとみなす立場で かまわないことになる。機能主義では、すべての人々の脳の物理的 定の機能を心に生じさせることができれば、脳の構造が異なっても て定義される。こうした立場を機能主義と呼ぶ。この立場では、特 それを避けようという意識や行動を生み出すような機能的状態とし 感情は、自分を脅かす何らかの対象や事柄によって引き起こされ、 ているのかという観点から把握するのである。例えば、怖いという 定義する えて、心脳同一説は、心の状態を特定の機能を持った状態であると いう心に浮かんだ思考は同じものであるはずだ。こうした反論に答 異なるにもかかわらず、﹁∼は机である﹂や﹁∼は椅子である﹂と ある机や椅子を、机や椅子と判断するだろう。このとき脳の状態は とえ脳の構造が異なっていたとしても、たとえば、人々は目の前に 致するというようなことは、およそ可能であるとは思われない。た 関係のようなものだ。稲妻は別の見方をすれば電荷の運動であり、 状態が同一なものではありえないにも関わらず、同一の心的状態を、 ②心脳同一説 雲 は 水 蒸 気 か ら で き て い る。 心 の 状 態 と 脳 の 状 態 は 全 く 異 な る も の つまり、特定の機能の状態を引き起こすことが可能になるのである。 ︵ の よ う に 考 え る が、 心 脳 同 一 説 で は、 脳 の 状 態 と 心 の 状 態 と は 言 葉 このように、さまざまなタイプの物理状態が、︵心の︶特定の機能 ︵ ︶ 。それぞれの心の状態を、それがどのような機能を担っ ︵概念︶が異なっているだけで、 全く同じものを指しているのである。 ③機能主義 だが、ある特定の感情に対する脳の状態が、すべての人間におい て同一であるというようなことがありうるのだろうか。脳の設計図 デイヴィトソンは心的出来事に厳密な物理法則は当てはまらない ④非法則的一元論 呼ぶ。 的状態を引き起こすことができることを﹁多重実現可能性﹂ ︵ ︶と 28 27 である遺伝子は、個々人により異なっており、脳の構造が完全に一 29 ― 207― 京都精華大学紀要 第四十六号 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 206 ― 則 性 を 掲 げ る の で あ る。 デ イ ヴ ィ ト ソ ン は、 心 身 の 関 係 に は 次 の 三 する ︶ 。 彼は、物的一元論に基づきながらも、心的出来事の非法 が、 心 的 出 来 事 は 脳 と 同 じ 状 態 で あ る と す る 非 法 則 的 一 元 論 を 主 張 では、心の状態による身体への働きかけは存在しえないものとなり、 質 は 因 果 的 な 効 力 を 持 ち え な い こ と に な る。 そ の た め に 、 彼 の 論 理 基づくと、心的なものの一切は物理的な法則に支配され、心的な性 た心的因果性はどのように捉えられるのだろうか。物理的閉方性に ︵ つの原理があるとする。 ある。その結果デイヴィトソンの非法則的一元論では、心的因果性 心的性質における因果性は捉えることができなくなってしまうので ︵一︶心的現象は物理的現象と因果的に関係する。 という概念自体が退けられることになる。物的一元論はこのように ディヴィトソンを批判する。 は、すべて物理的法則によって説明されなければならないが、一方、 例 え ば サ ー ル は﹁ 中 国 語 の 部 屋 ﹂ と い う 思 考 実 験 に よ り 、 以 下 の よ こうした物的一元論に対して、さまざまな批判が展開されている。 五 物的一元論への批判 心 と 物 質 の 間 に は 厳 密 な 法 則 が 存 在 せ ず、 物 理 的 性 質 に よ っ て 心 的 うな反論を展開する ︵ ︶ 。 現象を捉えることができない。そのように彼は述べる。デイヴィド 理 は 同 時 に 成 り 立 つ と 考 え た。 原 因 と 結 果 と し て 記 述 さ れ る 出 来 事 デイヴィトソンは一見矛盾しているように見える、この三つの原 ︵三︶心的なものに関する厳密な法則は存在しない。 ︵ ︵二︶因果性は厳密な法則性に基づく。 ︶ 31 30 理 的 に 記 述 さ れ る と い う。 で は 心 身 の 因 果 性 や 心 心 の 因 果 性 と い っ 義 の 観 点 か ら は 不 徹 底 な 論 理 に 映 る。 彼 は、 す べ て の 因 果 関 係 は 物 と物質的出来事は調停可能なものとみなされるが、もちろん物理主 論を立てるのである。このようにデイヴィトソンでは、心的出来事 う、自然主義的世界観を同時に満たす考え方として、非法則的一元 私 た ち の 直 観 と、 す べ て の 因 果 関 係 は 物 質 的 法 則 に 支 配 さ れ る と い ソンは心身二元論を生み出す心的現象と物質的現象は異なるという ニ ュ ア ル に 従 っ て、 外 か ら 差 し 入 れ ら れ た 紙 に 新 し い 記 号 = 漢 字 を て 説 明 し て あ る マ ニ ュ ア ル を 渡 し て お き、 部 屋 の 中 の 人 は そ の マ の 並 び に 応 じ て、 ど の 記 号 を ど ん な 並 び で 書 い た ら よ い か を 、 す べ 部屋の中の人に渡すとする。また部屋の中の人には、書かれた記号 外とやり取りができる。いま紙に漢字で文章を書いて部屋の外から、 るとしよう。この部屋には小さな穴が開いており、そこから部屋の あ る 一 つ の 部 屋 に 漢 字 を 理 解 し な い︵ 例 え ば 英 国 ︶ 人 が 入 っ て い 32 果たしているだけで、書かれた文章の内容を理解していない。それ だ け で あ る。 部 屋 の 中 の 人 は、 マ ニ ュ ア ル に 従 っ て 機 械 的 に 役 目 を と こ ろ が 実 際 に は、 部 屋 の 中 に は 中 国 語 を 理 解 し な い 英 国 人 が い る の外の人は、部屋の中の人は中国語を理解していると考えるだろう。 彼にとってその漢字はただの記号の羅列に過ぎない。この時、部屋 た人は当然、漢字で書かれた文章の内容を理解することができず、 書き加えて返答し続けることになっている。この時、紙を受け取っ を持つように見えるのは、外側から観察する人間が、コミュニケー 子、数値、記号の示す作業を遂行しているだけである。それが意味 を理解してその作業を行っているわけではなく、単純に関数、演算 見えても、コンピューターは実際には、言葉︵プログラム︶の意味 場合、たとえコミュニケーションという機能が果たせているように 作をコンピューターのプログラムに対応すると考えてみよう。その できる。部屋の内部の人間がとるマニュアルに従って行う特定の動 このように現在心の哲学において、物理主義は、心的秩序の独自 シ ョ ン が 成 り 立 つ と い っ た 特 定 の 機 能 に、 意 味 を 読 み 取 っ て い る か サ ー ル の こ の 思 考 実 験 は、 物 的 一 元 論 の 機 能 主 義 に 対 す る 批 判 を 性 を 主 張 す る 側 に 対 し、 主 観 的 で 客 観 的 で な い と い う 批 判 を 差 し 向 にもかかわらず、部屋の中の人と部屋の外の人の間には、コミュニ 意味している。この思考実験は、意味の理解を一切伴うことなく、 け、逆に、物理主義に批判的な側からは、事物のような存在領域に らにすぎない。 コミュニケーションが成り立つということを表している。機能主義 対してのみ有効な方法を、それが適用されない人間存在論まで越権 ケーションが成り立っているように見える。 は、脳の状態を特定の機能を持った心の状態とするが、実は心的状 的に適用しているという批判の応酬がなされているのである。 六 心の哲学とフッサールの現象学 態とは単なる機能的状態ではなく、意味を伴った状態である。だが、 こ の 実 験 は 意 味 を 伴 わ な く と も、 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン と い う 機 能 を 果たすことが可能であることを明らかにする。心的状態とは意味を 伴う過程であり、そうした側面を機能主義は捉えることができない。 結 局、 機 能 主 義 で は、 意 味 と い う 心 的 状 態 の 独 自 性 を 説 明 で き な い フッサールは﹃現象学の理念﹄ ︵ ︶において、心的現象をめぐる さ ら に い う と、 こ の 実 験 は コ ン ピ ュ ー タ ー プ ロ グ ラ ム の ア ナ ロ いこう。フッサールは﹁自然的な学問﹂と﹁哲学的な学問﹂を区別 現 在 の 混 乱 を 予 言 す る よ う な こ と を 述 べ る。 以 下、 彼 の 主 張 を 見 て のである。 ジ ー と 捉 え る こ と で、 物 理 主 義 に 対 す る 批 判 と し て 解 釈 す る こ と も 33 ― 205 ― 京都精華大学紀要 第四十六号 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 204 ― ︶ 。 学問とは事実ではなく本質を探究する学のことである。フッサール する事実学としての自然科学や人文諸科学のことであり、哲学的な す る こ と か ら 始 め る。 自 然 的 な 学 問 と は、 実 証 主 義 を 方 法 的 原 則 と 立、心理主義と反心理主義の対立、実証主義と形而上学の対立といっ と経験論の対立、主観主義と客観主義の対立、観念論と実在論の対 認識の可能性は問題としない。現在の人文諸科学における、合理論 ように述べる。実証主義や自然科学は、認識が可能かどうかという、 ︵ フッサールは、実証主義・物理主義・自然科学は現象の一切を法 た混乱は、実は実証主義という自然科学の方法的原則を人文諸科学 立て、再び検証する。こうしたプロセスを繰り返すことで、現象を 則化し、科学の進歩により、それらをより正確かつ厳密に写し取る フ ッ サ ー ル は 自 然 的 学 問 を、 知 覚 に 基 づ い た 観 察 に よ っ て 遂 行 さ 説明する体系を押し広げ、学問を進展させていく。自然科学は、こ ことができるという﹁主観│客観一致﹂の図式に基づいて遂行され の領域にそのまま適用することで生じているのである。それに対し う し た 実 証 主 義 に 基 づ い て 遂 行 さ れ る。 人 文 諸 科 学 も 同 様 に 、 実 証 ているが、この方法がすべての学問領域に適用可能なものかどうか れる学問という。そこでは、観察された情報を整理することで、そ 主 義 に 基 づ く 自 然 科 学 の 方 法 論 を、 そ の 対 象 に 適 用 さ せ る こ と で 学 は検証されていない。実証主義はこの図式を暗黙の前提としている て現象学は、認識の可能性自体を問題とすることで、認識の妥当性 を展開し、そうした学こそが客観的と主張する。実証主義は観察し が、認識論的には、その前提は自明なものではない。そう述べる。 の 相 互 関 係 や 因 果 関 係、 そ れ ら に 作 用 す る 力 や 現 象 を 支 配 す る 法 則 たデータから出発して、客観に到達することを目指しており、その 私 た ち は フ ッ サ ー ル に な ら い、 心 的 現 象 に 、 そ も そ も 自 然 科 学 の が、どのようにして可能になるのかという問題を解明する。そのよ 学は﹁主観│客観一致﹂の可能という図式に基づいている。そのた 方法論が適用可能なのかという検討から始めなければならない。自 取り出そうとする。現象に関するさまざまな仮説を立てて、それを め に、 ﹁客観的な︵正しい︶認識が可能かどうか、また可能だとす 然科学と心的現象のおのおのがよって立つ認識論的・存在論的基盤 うに主張する。 れば、それはどのような根拠に基づくのか﹂という認識問題の原理 を明らかにする必要があるのである。 るからだ。 彼 は 哲 学 的 な 学 問︵ 現 象 学 ︶ の 実 証 主 義 に 対 す る 優 位 性 を 以 下 の ハイデガーは、現存在︵人間存在︶の存在様式が、事物、事柄な に 関 心 を 持 た な い。 実 証 主 義 は 客 観 認 識 を 前 提 に し て 成 り 立 っ て い 実験によって検証し、得られたデータを基に修正し、新たな仮説を は特に現象学を本質学とする 34 ど世界のあらゆる他の存在者の存在様式とは全く異なっていると主 張する。 現象学は、アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ、すなわち、 う か ら 示 す と お り に、 お の れ 自 身 の ほ う か ら 見 さ せ る と い う こ お の れ を 示 す 当 の も の を、 そ の も の が お の れ を お の れ 自 身 の ほ この自己、つまり具体的な人間は、具体的な人間として︱︱存 とにほかならない。 ︵ ︶ 在者として︱︱﹁世界的に実在的な事実﹂ではありません。そ ハ イ デ ガ ー は 現 存 在 の あ り 方 を 捉 え る た め に は、 現 象 学 に 基 づ か な れというのも、人間はただ眼前に存在している︹=手前に存在 している︺のではなく、実存している︹=脱存している︺から ければならないと述べる。そして、それは人間存在を自己了解的に 式 を 捉 え る た め に、 フ ッ サ ー ル の 現 象 学 を 方 法 的 原 則 と し て 提 示 す で は ど の よ う な 方 法 で 遂 行 す る の か。 ハ イ デ ガ ー は 現 存 在 の 存 在 様 ﹃存在と時間﹄で、現存在の存在様式の解明を行うことから始める。 かにしなければならない。そのように主張する。そして彼は実際に な 存 在 者 の 存 在 様 式 を 解 明 す る た め に は、 現 存 在 の 存 在 様 式 を 明 ら 味で現存在は、あらゆる存在者に先行する。したがって、さまざま そうした学はあくまでも人間存在が生み出したものである。その意 私 た ち は こ の よ う な﹁ 実 体 性 ﹂ を 疑 い え な い も の と し て 感 じ 取 る こ 見 い だ し え な い も の で あ る。 自 己 の 意 識 の 水 面 を 対 象 化 す る と き、 的に観察・記述されるものではなく、あくまでも自己了解的にしか 記述された﹁実体﹂ではないという点である。それは物のように外 己了解的︶に取り出された﹁実体性﹂であり、外側から観察され、 意識はすべての外的対象を疑うときに、自らの意識によって内的︵自 識︵コギト︶を見出した。ハイデガー的観点から重要なのは、この デカルトは、方法的懐疑によって﹁懐疑する私﹂という主体・意 こう。 味と射程について検討することはできないが、少しだけ確認してお 歴 史 に 初 め て も た ら し た の で あ る。 こ こ で は、 こ の 方 法 論 の 持 つ 意 方法論によって、心的存在としての人間存在を捉える方法を哲学の です。そして、﹁驚嘆すべきこと﹂は、現存在の実存体制がす ︶ 捉えることで果たされるという。私の考えでは、ハイデガーはこの となのです。 ︵ べての実証的なものの超越論的構成を可能にしているというこ 36 る。彼は現象学を次のように規定する。 あらゆる学問は世界のさまざまな存在者をその学の対象とするが、 ハイデガーは人間存在を独自の存在様式を持ったものとみなす。 35 ― 203 ― 京都精華大学紀要 第四十六号 とになる。心的存在は実証主義的観点により把握することはできず、 を照射することになる。そのとき、ハイデガーによる現存在分析は、 場からは、逆にプラトンのイデア論からアリストテレスの四原因説 観察、すなわち物理的方法は、シナプス間での神経伝達物質の放出、 ︵1︶プラトン﹃パイドン﹄ ︵岩田靖夫訳︶岩波文庫、 岩波書店、 一九九八年。 注 心的因果性や意味の新しい地平を開くに違いない。 それを捉えるための独自の方法論を必要としているのである。 サ ー ル の 思 考 実 験 に も 同 じ こ と が い え る。 サ ー ル の 実 験 は 神 経 の 受容、活動電位の変位などを観察することになるだろう。物理的方 ︵2︶アリストテレス﹃心とは何か﹄ ︵桑子敏雄訳︶講談社学術文庫、 講談社、 ネットワークのプロセスと解釈してみると、その場合、外側からの 法は科学技術の進歩に伴い、より詳細、かつ正確に、このプロセス て も、 そ の 過 程 で ど の よ う な 意 味 が 生 じ た の か に つ い て を 明 ら か に ︵4︶同右﹃心とは何か﹄同頁。 ︵3︶同右﹃心とは何か﹄七〇頁。 一九九九年。 することはできない。外的な観察は意味に触れることができない。 ︵5︶ルネ・デカルト﹃省察﹄ ︵井上庄七森啓訳︶ ﹃デカルト﹄所収、 中公バッ を 明 ら か に す る に ち が い な い。 だ が、 ど れ だ け 技 術 が 進 歩 し た と し 意 味 の 理 解 と は、 あ く ま で も 自 己 了 解 的 な や り 方 に よ り は じ め て 掌 ︵6︶同右﹃デカルト﹄二四六頁。 クス世界の名著、中央公論社、一九七八年。 察するという行為を含めて︶主体の内的な了解︵自己了解︶によっ ︵7︶同右﹃デカルト﹄二四七頁。 握可能なものとなる。サールの実験は、 意味とはそれを遂行する︵観 て 生 じ る 出 来 事 で あ り、 物 理 的 な プ ロ セ ス の 進 行 と は 全 く 異 な る 現 ︵9︶同右﹃デカルト﹄二五四頁。 ︵8︶同右﹃デカルト﹄二四九頁。 物 的 一 元 論 に 対 す る 批 判 は、 心 的 事 実 や 意 味 を 適 切 に 取 り 扱 え て ︵ ︶同右﹃デカルト﹄二九六頁。 象であるということを示している。 いないという点で一致する。だが、私たちは、いまだ意味や心的因 果性の存在論的基盤を明らかにしえていない。今後の研究は、原因 ︵ ︶ 。 アリストテレスは 概 念 の 検 討 か ら 始 め る こ と に な る だ ろ う。 原 因 概 念 に つ い て は ア リ ストテレスの四原因説がよく知られている プラトンのイデア論を批判して四原因説を打ち立てが、私たちの立 37 ︵ ︶同右﹃デカルト﹄二六三頁。 10 ︵ ︶同右﹃デカルト﹄二六三頁。 11 ︵ ︶同右﹃デカルト﹄二九六 二 ̶九七頁。 12 ︵ ︶同右﹃デカルト﹄二九六 二 ̶九七頁。 13 14 〈精神と物質〉序説 ̶ 心的秩序の存在論 ― 202 ― ︵ ︶同右﹃デカルト﹄三〇四頁。 ンサー﹄世界の名著、中央公論社、一九七〇年。 ︵ ︶スティーブン・プリースト﹃心と身体の哲学﹄ ︵河野哲也ほか訳︶勁 ︵ ︶ ﹃人間編﹄ ︵信原幸弘他編︶シリーズ心の哲学、勁草書房、二〇〇四年。 草書房、一九九九年。 ツ﹄世界の名著、中央公論社、一九六九年。 ︵ ︶同右﹃人間編﹄ 。 ︵ ︶同右﹃人間編﹄ 。 ︵ ︶ドナルド・デイヴィドソン﹁心的出来事﹂および﹁哲学としての心 理学﹂ ﹃行為と出来事﹄ ︵服部裕幸・柴田正良訳︶勁草書房、一九九〇年。 ︵ ︶同右﹃行為と出来事﹄二六三 二 ̶六四頁。 ︶ジョン・サール﹃ Mind =マインド︱︱心の哲学﹄ ︵山本貴光・吉川 ︵ ︶エドムント・フッサール﹃現象学の理念﹄ ︵立松弘孝訳︶みすず書房、 ︵ 浩満訳︶朝日出版社、二〇〇六年︵原著二〇〇四年︶ 。 ︶フェルディナン・アルキエ﹃マルブランシュ︱︱マルブランシュと キリスト教的合理主義﹄ ︵藤江泰男訳︶椙山女学園大学研究叢書、 理想社、 二〇〇六年。 ︵ ︶ライプニッツ﹃モナドロジー﹄ ︵清水富雄・飯塚勝久訳︶ ﹃スピノザ・ ライプニッツ﹄所収、中公バックス世界の名著、中央公論社、一九八〇 年。 ︵ ︶同右﹃スピノザ・ライプニッツ﹄ 。 ︵ ︶ポール・チャーチランド﹃心の可塑性と実在性﹄ ︵村上陽一郎ほか訳︶ 一九六五年。 ︵ ︶同右﹃現象学の理念﹄一二頁。 ︵ ︶ ﹁ハイデガーからフッサールへの書簡 ﹃ブリタニカ草稿﹄ 添付文書Ⅰ﹂ ︵谷徹訳︶所収、ちくま学芸文庫、筑摩書房、二〇〇四年、一六五頁。 ︵ ︶マルティン・ハイデガー﹃存在と時間﹄ ︵原佑訳︶ ﹃ハイデガー﹄中公 バックス世界の名著、中央公論社、一九八〇年、一一一頁。 ︵ ︶アリストテレス﹃自然学﹄ ︵出隆・岩崎允胤訳︶アリストテレス全集、 紀伊国屋書店、 1986 年︵原著一九七九年︶ 、一五九︲一八四頁。 ︶オーギュスト・コント﹃実証精神論﹄ ︵霧生和夫訳︶ ﹃コント・スペ ﹃翻訳編﹄ ︵信原幸弘編︶シリーズ心の哲学、勁草書房、二〇〇四年。 ︵ ︶ポール・チャーチランド﹁消去的唯物論と命題的態度﹂ ︵関森隆史訳︶ 、 ︵ 32 33 34 35 36 岩波書店、一九六八年。 37 ︵ ︵ ︶スピノザ﹃エティカ﹄ ︵工藤喜作・斎藤博訳︶ ﹃スピノザ・ライプニッ 書店、一九五八年。 ︵ ︶ジョージ・バークリー﹃人知原理論﹄ ︵大槻春彦訳︶岩波文庫、岩波 Sir W. Molesworth (ed.), 1839; reprint, 1961, p. 177. T. Hobbes, De corpore, in Opera phyilosohica, vol. 1, 26 27 28 29 30 31 ︵ ︶ クス世界の名著、中央公論社、一九七八年。 ︵ ︶ルネ・デカルト﹃情念論﹄ ︵野田又夫訳︶ ﹃デカルト﹄所収、中公バッ 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 ― 201 ― 京都精華大学紀要 第四十六号
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