医療事故調査制度

ディスカッション・ペーパー:<特集>医療事故調査制度
平成 27 年(2015 年)11 月 29 日(日)
、「動き出す医療事故調査制度」と題するフォーラムを開催します。
本年 10 月 1 日より、いよいよ医療事故調査制度の運用が開始します。これにより「医療事故調査・支援センター」が
開設され、医療事故が起きた場合、医療機関は同センターへ報告すると共に、医療機関で必要な調査を実施し、調査結
果について遺族への説明及び同センターへの報告を行うことになります。フォーラムでは、同制度の内容、医療機関が
直面している問題や抱いている疑問・不安を整理し、どうすれば新制度をうまく運用できるかに焦点をあてて議論をし
たいと考えております。
フォーラムに先立ち、医療機関の方から、医療事故調査制度への期待・不安・課題等について整理頂きました。
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「医療事故調査制度の開始にあたって予測される問題点とその対応
~病理解剖を実施する病理診断医の視点より~」
河原邦光
大阪府立呼吸器・アレルギー医療センター医務局長(病理診断科)
森田沙斗武
滋賀医科大学社会医学講座法医学部門
1. はじめに
医療事故調査制度 (以下新制度)が、平成 26 年(2014 年)6 月 18 日の医療法の改正の際に盛り込まれ、
平成 27 年(2015 年)10 月 1 日よりいよいよスタートする。新制度では、医療事故が発生した場合に、発
生した医療機関において院内調査を行い、その結果を医療事故調査・支援センター (以下センター)に報告
することが必要となる。センターは、医療の安全を確保するために、これらの調査報告を収集・分析し、
今後の医療事故の再発防止につなげるための調査の仕組みなどを、医療法に位置づけていくことが使命と
されている 1)。
しかしながら、新制度の開始に際して、その内容に、分かりにくい点が多いのも事実である。特に、セ
ンターへの報告のもとになる院内調査にどの程度の医学的なレベル、客観性が求められるのかについては、
現時点では明らかにはなっていない。筆者の専門である病理診断に関しては、病理解剖がどの程度に院内
調査に求められるかの点は不明である。また、明らかな異状死事例は、従来より司法解剖の対象であるた
め、筆者のような病理診断医は、これらを病理解剖の対象とすることは過去にはなかったが、新制度と医
師法第 21 条の異状死体などの届け出義務との関係には不明な点が多いため、病理解剖の実施に法的な問題
がないかどうかの判断に迷うケースが今後増えることも予測される。さらに、司法解剖の際に求められる
証拠保全をほとんど求められない病理解剖に従事し、解剖時には病態の検索しか行ってこなかった本邦の
多くの病理医は、疾患以外の異状所見の検索に不慣れであるのが現実であるが、新制度では、従来の病理
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解剖の実施に加え、さらにどのような対応が求められるかについても不明である。これらの点をふまえ、
病理診断医の視点より、予測される問題点と考えうる対応について述べる。
2. 医療事故調査制度における病理解剖の位置
新制度で扱われる医療事故とは、当該病院等に勤務する医療従事者が提供した医療に起因し、又はそれ
が疑われる死亡または死産であって、当該医療機関の管理者がその死亡又は死産を予期しなかった場合を
意味する 1)。平成 27 年厚生労働省医政局長の医政発 0508 第 1 号文書 2)によれば、このような医療に起因、
又はそれが疑われる死亡や死産には、A. 診察に起因するもの (兆候、症状に関連するもの)、B. 検査に起
因するもの (検体検査、生体検査、診断穿刺・検体採取、画像検査)、C. 治療に起因するもの (投薬・注
射、リハビリテーション、処置、分娩を含む手術、麻酔、放射線治療、医療機器の使用)、D. その他 (療
養に関連、転倒・転落に関連、誤嚥に関連、患者の隔離・身体的拘束/身体抑制に関連)の大きく 4 つに分
類される。B および C については検査・治療時の経過観察時の死亡も含まれる。対象としない場合の具体
例として、火災・天災などへの施設管理に関連したもの、提供した医療に関連のない併発症、原病の進行、
自殺、その他(院内発生の殺人・傷害致死)などが挙げられている。すなわち、新制度では、医療現場にお
いて医療従事者が少しでも関わった死亡・死産は、明らかな犯罪等の場合を除けば、すべて医療事故とみ
なされるという解釈も可能となる。そして、これらのうち、管理者が予期しなかった事例が、医療事故調
査制度の対象事案となる 1)。
一方、日本病理学会は、平成 27 年(2015 年)7 月に病理解剖が必要な場合について具体例 1~11 をあげ
ている 3)。彼らは、具体例 1 として、
“診療中の病気の経過や死因について、臨床的には説明がつかない、
あるいは、病理解剖以外の方法では確実な説明がつかない場合”
、具体例 3 として“診療行為中、あるいは
その直後に予期されない死亡をされた場合”
、具体例 4 として“治療中の方で、院内において突然死あるい
は予期しない死亡をされ、診療行為と関連がないと考えられると同時に、司法解剖の対象とならない場合”
、
具体例 9 として“全ての周産期あるいは小児死亡例”を挙げており、今回の制度で対象とされる医療事故
事例は、司法解剖の非対象例である限りにおいては、病理解剖の実施に全く問題はないことになる。
上述した状況は、病理解剖を実施する病理診断医に、院内医療事故調査への極めて重要な医学的エビデ
ンスの提供者としての役割が求められる可能性があることを示唆している。そして、これに関連し、医療
事故事例の病理解剖件数が増加し、病理解剖結果の医療事故調査委員会での説明等の機会が増えることが
予測される。
3. 医療事故調査制度下での病理解剖の実施に際しての死体検案書の発行について
平成 27 年度版の死亡診断書 (死体検案書)記入マニュアル 4)によれば、1. 診療継続中の患者以外の者
が死亡した場合、2. 診療継続中の患者が診療に係る疾病と関連しない原因により死亡した場合の 2 つの場
合においては、死体検案書が交付されるとされているが、大部分の死亡事例においては、主治医による検
案は実施されていないのが現状である。
また、病理解剖事例に際しても、主治医は、多くの場合、解剖の主所見を、死亡診断書 (死体検案書)
用紙の中の、
「死亡の原因」の「解剖」の欄に記録した後に、死体検案書ではなく死亡診断書として交付し
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てきた。
しかしながら、日本法医学会の異状死ガイドライン 5)・死体検案マニュアル 6)では、診療中の患者であっ
ても、診療に関わる傷病以外の原因で死亡した場合には、すべての死体を医学的に検査対象とし、検案す
ることが厳密に求められている。
これらを鑑みると、医療事故事例の解剖に先立って検案を実施する事例が圧倒的に増えることが予測さ
れる。これら検案とそれに続く検案書の発行については、大部分の臨床医が不慣れであるのが現実である
ため、検案実施時には、解剖に知識のある病理診断医が参考意見を求められる場面も今後増えることが予
測される。
4. 医療事故調査制度下での病理解剖の実施方法について
筆者は、日本医療安全調査機構にて大阪府の評価委員をつとめ、診療行為に関連した死亡事例に対して、
法医学者とともに、法医解剖と病理解剖を同時に行なう事例を経験出来た。そして、同じ遺体解剖ではあ
りながら、両者が、いかに異なっているかを実感した。しかしながら、本邦においては、病理診断医は、
実際の病理解剖の中では、法医学の知識の実践がかなり要求されるにも関わらず、正規の教育、トレーニ
ングを受けた者は決して多くないのが現実である
7)
。実際、日本病理学会病理専門医の資格取得に際して
も、法医学の教育、トレーニングは必須事項とはなっていない。これに対して、多くの欧州諸国、米国や
アジア諸国においては、
法医学はあくまでも病理学の一環として実際に運営されているのが現状である 7)。
すなわち、本邦以外の国では、法医解剖を行う者は、疾患の解釈に必要な病理学の知識を有して解剖業務
にあたっており、病理解剖に従事する病理診断医は少なくとも異状死体であるかどうかぐらいの最低限の
知識を有して病理解剖に従事している場合が多い
7)
。少なくとも病理学、法医学のトレーニングの段階で
は、本邦よりも諸外国のシステムの方が現状に即していると言える
7)
。このような本邦の特殊な状況の中
で病理解剖を実施してきた病理診断医が、新制度の開始後に、医療事故事例の解剖に携わる際には当惑す
る状況も多いと予測される。
そして、新制度下の対象事例を異状死体とみなすのであれば、通常の病理解剖では詳細には行っていな
い疾患以外の異状所見の記録は必須であり 8)9)、さらに解剖時の写真撮影等も、証拠保全の点から、通常の
病理解剖とは異なることを念頭に置かねばならない 8)。
法医解剖で詳細に調査される異状所見のうち、異状外表所見については、必要な部位に剃髪を行った上
での頭部表皮の観察、眼瞼・結膜の色調、結膜溢血点等の目の所見、皮膚の点状・斑状出血、表皮剥脱・
皮下出血・創などの皮膚表面損傷の、挫創・裂創の詳細な記載が必要である
8)
が、病理解剖においてはそ
れらの厳密な記載が求められることはほとんどなかったため、今後は病理診断医もこれらへの十分な認識
を持つことが必要であろう。さらに、一般内部異状所見については、臓器損傷がみられた際に必ず皮膚表
面の損傷との関連を調べること、開頭は必須であること、頭部の検索において皮下・頭蓋底・頭蓋骨の観
察が重要であること、頸椎・頚髄損傷を示唆する脊椎前面の出血をも逃さないこと
9)
などの点に留意が必
要であり、それらの所見の有無の記載も求められるであろう。
また、解剖時の写真撮影については、外表、内景検査上、損傷などの気になる所見があれば, 証拠保全
の観点から、その都度に写真を撮影することが必要となる
7)
。従来の病理解剖においては、これらの部位
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への頻回な写真撮影を実施することは極めて稀であり、さらに感染防止の観点から病理解剖ではホルマリ
ン固定前の臓器の撮影なども行わない施設もあるが、医療事故事例ではこれらについても見直しが必要で
あろう。
5. 終わりに
以上、現時点で予測される新制度の問題点と対応について病理診断医の視点より述べた。平成 27 年(2015
年)10 月の新制度の開始まであとわずかであるが、新制度の施行が、医療事故の防止にどの程度につなが
っていくのか、さらに我々病理診断医を含む全医療従事者にどれだけの負担が新たに生じるのか等の点は、
現時点では全く不明である。ただし、我々病理診断医は、どうやら、病理解剖を中心にさらなる業務負担
が求められることは間違いがないようである。しかしながら、著者は、新制度が、長年の関係者の御尽力
が結実し誕生した経緯は重々承知しており、この制度が、本邦の医療事故の再発防止を強力に推進できる
よう、市井の病理診断医の立場から協力していきたいと考えている。
【文献】
1)
2)
3)
4)
5)
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000061201.html
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/hourei/dl/150508-1.pdf
http://pathology.or.jp/ippan/byourikaibou.html
http://www.mhlw.go.jp/toukei/manual/dl/manual_h27.pdf
http://www.jslm.jp/public/guidelines.html#guidelines
又は、http://www.jslm.jp/public/guidelines.html
6) 的場梁次、近藤稔和編『死体検案ハンドブック』pp319-347、2005 年、金芳堂
7) 舟山眞人、齋藤一之、笹野公伸著『病理にも役立つ法医解剖入門』pp155-162、2003 年、文光堂
8) 舟山眞人、齋藤一之、笹野公伸著『病理にも役立つ法医解剖入門』 pp21-28、2003 年、文光堂
9) 舟山眞人、齋藤一之、笹野公伸著『病理にも役立つ法医解剖入門』 pp29-47、2003 年、文光堂
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