和 解 と 痛 み

商学論集 第 83 巻第 1 号 2014 年 6 月
︻ 研究ノート ︼
和解と痛み
序
こんばんは。
││ 戦後ドイツの芸術論にふれて
きょうは戦後ドイツの社会や思想についてという枠組みで、旧西ド
す。
神 子 博 昭
いまひとつの理由は、これはあまり確たる証拠をあげていえるわけ
ではないのですが、ドイツの思想圏では芸術は独特の位置をしめてい
るのではないかと思えるからです。
少し説明しましょう。
なぜ芸術論なのか。
識するのです。しかしこの関係が無色透明な中性的な関係ではなく、
係が基本的な枠組みとなることは御存知でしょう。わたしが対象を認
認識、ものごとを知るはたらきにおいて、﹁主観/客観﹂という関
これには個人的な事情があります。じつは思想、哲学や社会状況な
これは主観による客観の統御、支配、搾取の図式ではないか、という
イツの芸術論についてお話しします。
どについては、わたしはあまり、というかほとんど詳しくないのです。
見方が、とくに第一次世界大戦後︵一九二〇年代︶
、明確にうちださ
﹁ 人 間 / 自 然 ﹂ と い う 枠 組 み に 読 み か え ら れ も し ま し た。 人 間 は 自 然
戦後のドイツについてなにかお話しできるとすれば、詩や小説、芸術
といったところでは、戦後ドイツの芸術論からは、とても大きなもの
を統御し、支配し、搾取しているわけです。では自然との和解は可能
れるようになってきました。この﹁主観/客観﹂という枠組みはまた、
を受けとりました。これは影響などといったものではなく、むしろそ
なのか。どこでそれは実現されるのか。ここで芸術のもつ意味が、い
などについてしかないのです。ただ詩や小説の読み方、音楽の聞き方
れらによってわたし自身が育てられたという感じをもっています。で
ま一度見直されることになるわけです。
﹁ 主 観 / 客 観 ﹂ の 主 観 と は、 知 性 で あ り、 悟 性 で あ り、 理 性 で す。
すから自分の受けとったものを整理することをとおして、戦後の西ド
イツの芸術論を紹介する、それならできるのではないかと思ったので
一
― 50 ―
神子 : 和解と痛み
ンの富裕な商人たちをまえにしたこの講演は、かれの公の活動の再開
二
つまり主観は、たとえでいえば、一本の道をしき、どこまでもその道
を告げるものとなりました。
の講演にもどります。
と い う 動 詞 が 中 心 に な っ て い ま す。
stellen
︵一︶ 用立てること
この講演では
vor-
﹁目のまえに立てる、思いうかべる、表象する﹂
、もうひとつ
stellen
﹁ と と の え て や る、 来 さ せ る、 注 文 す る ﹂ で す。 vorstelbestellen
と ら え て い ま す。 bestellen
は や や わ か り に く い。 den Tisch mit Brot
は あ る 程 度 お わ か り と 思 い ま す。 vor
︵- 前 に ︶ stellen
︵立てる︶
len
ということですね。これはひとが対象と向き合うことで認識の過程を
は
となりましょうか、あるいは set
が近いのかもしれません。
を も と に ふ た つ の 動 詞 が 引 き 寄 せ ら れ ま す。 ひ と つ は
stellen
﹁立っている﹂の他動詞で﹁立てる﹂という意味です。 stehen
stehen
は 英 語 で い え ば stand
と な り ま す が、 stellen
は 他 動 詞 と し て の stand
は
stellen
あげます。話の都合上、二番目の講演をはじめに紹介し、ついで最初
これは四つの講演からなっていますが、ここでは前半の二つをとり
をたどる。すじ道をたてる。そこからはずれるものは、拒否され、無
視され、あるいは抑圧される。それは秩序をつくる行為であるが、同
時に支配の行為でもある。秩序とは、支配なのです。
そうした過程で拒否され、無視され、あるいは抑圧されたものは、
どこで自らをあらわすでしょう。芸術において、そうしたものが自ら
を表現する場が成立する可能性があるのです。なぜなら芸術とは肉体
や感性、感覚や感覚を超えるもの、狂気や妄想、あるいは神秘や神々
が解放される場でありうるからです。
こうして芸術論が﹁主観/客観﹂にもとづく認識論への批判となり
ます。芸術論が哲学や思想の自己省察となり、自身、哲学となるので
す。自然との和解という視点をなかだちとして、芸術と哲学とがこれ
ほど緊密に結びついているのは、二十世紀ドイツの思想の特徴ではな
いかと思えるのです。
││ ハイデガー
Ⅰ 用 立-てシステムと四者
洞察﹄
︵一九四九︶を紹介します。ハイデガーは二十世紀のもっとも
ここではハイデガー︵一八八九│一九七六︶の講演﹃在るものへの
ということではないかと思います。食事のために、テーブルをととの
きたい点は、なにかの﹁ために﹂あることをする、立てる、設定する、
﹁ そ の 本 を 注 文 す る ﹂、 と い っ た 具 合 に 使 い ま す。
das Buch bestellen
ハイデガーのいうところをたどってみますと、この動詞でおさえてお
﹁ パ ン と ワ イ ン で 食 卓 を と と の え て や る ﹂、 den
und Wein bestellen
﹁そのお客にレストランに来てもらう﹂
、
Gast ins Restaurant bestellen
著名な哲学者のひとりといわれていますが、戦前のナチスとの関係を
える、商談のためにレストランに来てもらう、読むために本を注文す
一、用 立-てシステム
問われ、戦後、しばらく公的な活動を抑制されていました。ブレーメ
― 49 ―
る、というように。これをひとまづ用立ての過程と呼んでおきましょ
ではどこまでも形成されて行くのです。この連関全体を
し、また無限に別のものをとりこんで行きます。こうした連関が現代
像する、そしてそれを対象として観察する過程です。しかしこれは一
の過程は、あるものを目のまえにおく、あるいは目のまえにあると想
れていますが、じつはそうではない。用立ての過程があってはじめて
であるとハイデガーはいいます。技術は自然科学的認識の応用と見ら
イデガーはいいます。 Geと
- い う の は 接 頭 語 で、 あ る も の の 集 合 を 表
わします。用 立-てシステムです。この用 立-てシステムが技術の本質
とハ
Ge-stell
う。
見そう見えるほど純粋な観察過程ではない。ハイデガーはここでライ
認識の過程が成立し、自然科学的認識が成立するというのです。
認識の過程と用立ての過程とは別のものとみなされています。認識
ン河の認識をとりあげています。
ライン河は長さ、幅、流水の量や速さ、流れの勾配などによって表
さや流れの速さがわかったとして、ライン河とはなにか、わからない、
﹁用 立-てシステム﹂をとおしては、物に、世界に、行きつ
Ge-stell
かない。物とはなにか、世界とはなにか、ついにわからない。河の長
自然科学的にライン河を認識すると、どうなるか。
わされ、他の河川と比較されます。ではなんのために、このような認
とハイデガーはいいます。
ブレーメンの第一講演でとりあげられるのは Krug
﹁甕/壺﹂です。
かめの役割はなにか。水やワインが注ぎ入れられ、保たれます。つ
ここでハイデガーはきわめて古風な議論をします。
物とはなにか。世界とはなにか。
︵二︶
甕/壺
識をするか。
それは、たとえばそこにダムを造るためである、あるいは、なにか
他のことのためである。ようするにライン河を、あることに用立てる
ためな のです。 用立ての過 程
に支 えら れ、あ るいは 少な く
bestellen
ともそれと裏腹の関係となって認識の過程 vorstellen
は成立するので
す。河は数値とエネルギー量として表わされるのです。
この用立ての過程が現代ではすべての局面に行きわたっているので
す。それは目標もなく、ただそれ自身循環する過程です。たとえばラ
こし、産業を発展させる、産業の発展は生活の豊かさをもたらす、し
エネルギーを得るためにダムを造り発電する、電力により工業をお
す。そこに陽ざしと雨がふりそそぎ、水と光、熱と空気により、大地
過され浄化され、地表にわきだします。葡萄の木は大地に根をはりま
水やワインとはなにか。水は天からふりそそぎ、地にしみこみ、濾
いでそれが注ぎだされます。
かしそれが到達点ではない、豊かさはさらに豊かさを要求する、その
と大気により実を熟させます。それをしぼり、さらに熟成させ、ワイ
イン河を例にとれば、こうです。
要求をうけ、いっそうのエネルギーをもとめる、エネルギーをふやす
ンとなります。
注ぎ入れ、また注ぎだすのは死すべきもの、死を死ぬことのできる
ため、またダムの建設にとりかかる、云々。
こうしてあるものを別のことのために用立てる過程は無限に循環
三
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第 83 巻第 1 号
商 学 論 集
神子 : 和解と痛み
四
ただしかれ自身、ヘルダーリンの原稿に目をとおし、バイスナーのテ
キストに若干の変更を加えています。
もの、人間です。それを受けるのは人間であり、また神々です。
ここに天と地、死すべきものと神々の四者がひとつらなりとなるの
とりあえず日本語にしてみます。
ギリシア
です。甕/壺には Geviert
﹁四者﹂が集うのです。そこにおいて四者
が あ ら わ れ る の で す。 こ の あ ら わ れ こ そ 世 界 の あ ら わ れ だ と ハ イ デ
ガーはいいます。
﹁用 立- て シ ス テ ム ﹂ に お お い つ く さ れ た 現 代 の さ な か で
Ge-stell
﹁ 四 者 ﹂ の あ ら わ れ を、 つ ま り 世 界 の あ ら わ れ を 気 づ か せ て
Geviert
くれる場があるでしょうか。それが芸術作品、詩という場なのです。
おお 皆さま 天のめぐりの声また声よ さすらい人のいく条もの
道よ
というのも[目の]学び舎の青空に
かなたより 天のざわめきだちて
四者
二、
黒つぐみの歌のよう 鳴りわたるのは
雲の[確たる]晴れやかな音律
してのち、ナチズムからは距離をとりながら、ドイツのひきおこした
仔牛の革張りのごとくひびくのは
不滅の皆さま また英雄めざし。
さまざまな記憶があるのだ。それにこたえ
神のあらわれ 鳴る神にみごとに和して。
そして呼ぶ声 見あげるごとく
﹃ヘルダーリンの地と天﹄という一九五九年の講演について、少し
紹介します。
ヘルダーリン︵一七七〇│一八四三︶という詩人は、ハイデガーに
ヨーロッパ大戦の時期を、ハイデガーはヘルダーリンの詩とともに生
とって特別の詩人です。一九三四年、フライブルク大学の総長を辞任
きてきた、といってもいいほどです。それまでほとんど知られていな
大地 荒れはて 聖者を誘惑し
というのもはじめにことはなしとげられる
からです。ヘルダーリンは二十世紀の詩人だ、という評価もあるほど
その大地が大いなる掟にしたがう 深く知り
かったこの詩人の後期の作品が公刊されたのは、二十世紀にはいって
です︵哲学者ガーダマーによる︶。
優美であること そしてのち天を ひろく純粋なおおいを
あらわれては歌雲がうたいだす。
です。この断片は編者によりさまざまなテキストのかたちをとります
ゆるぎないのだ。すなわち岸辺の草にとらえられ
というのも大地のへそは
ハイデガーがとりあげているのは﹃ギリシア﹄という未完成の断片
が、ハイデガーが参照したのはバイスナーというひとのテキストです。
― 47 ―
つつまれた炎 偏在する
四大。しかし純然たるもの思いに空高くエーテルは生きている。し
かし銀色なすは
清らな日の
光り。愛のしるし
大地は菫の青にそまる。
[しかし輪舞が
てそうするように
大地を神は導き給う。過ぎたる歩みは
しかし神はとどめ給う だが黄金色に花咲くように
そのとき魂の力は 親しき魂の集まりは心をひらく
そしてこの地上にこそ
そのとき木々の高き影のもと
美は住み処をさだめる そして精神がいづこからかやってきて
いよいよ人間たちとむつみあう。
ささやかなものにも訪れる
婚礼をおとなうように]
大いなるはじまり。
学ぶようにと開かれてあっ
[しかし輪舞が
の中心は、
ハ イ デ ガ ー の 見 る と こ ろ に よ れ ば、 こ の 詩︵ 断 片 で は あ り ま す が ︶
りに、この詩をざっと読んでみましょう。
のですが、これもうまく理解できません。ハイデガーの解釈を手がか
いかがでしょう。ヘルダーリンの後期の詩は、みなわかりにくいも
いくたりもの歩みがしたがうが いっそう美しく
道また道が花咲くものだ そこでは国土が
いのちいとしみ いよいよ正しく測りつつ
丘の辺に住まうのは甘美だろう 陽をあび 道は
石敷きつめられて教会につづく。しかし旅するものには
しかし日常のよそおいに すばらしいのは人間をいとおしむため
神が衣を身にまとうこと。
そして知るはたらきには神は面をかくし
術もちて大気をおおう。
風と時とが
線と角とのごとく
恐ろしき方をつつむ ひとつがあまりに
祈りもてそのお方を愛しすぎぬようにと もしくは
魂が。というのもすでに久しく
木々の葉のごとく
た自然なのだ
しかしときに
婚礼をおとなうように]
そして陽も月もいよいよ黄色味をおびる
大地の古き形がほろびゆかんとするならば
大いなるはじまり。
ささやかなものにも訪れる
高みにあり
すなわち歴史において
生成し勇ましく戦われるなかでほろばんとするならば
五
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第 83 巻第 1 号
商 学 論 集
神子 : 和解と痛み
というところにあります。カッコ内の二行はハイデガー自身がバイス
は地と天の婚礼、神々と死すべきものら、人間とが祝う婚礼なのです。
これがはじまりの姿なのでしょう。ハイデガーの見るところ、これ
六
ナーのテキストに付け加えたものです。テキスト編集という点からい
さてここにはさきほど甕/壺のところで述べた四者が読みとれま
鳴りひびく天
す。
えばいくつもの異論がでてくるところでしょう。いまはそれを度外視
しますが、それでも﹁ささやかなものにも訪れる/大いなるはじまり﹂
が、この詩の中心であることはまちがいないでしょう。
この中心をとりまく領野を点描しますと、
鳴る神
それにこたえる地
雲の晴れやかな音律が鳴る神に和してひびき、
呼びかけるひと︵声をあげる詩人︶
う。この四者のありようを、ヘルダーリンのテキストから、さらに見
の思想を形成していったのではないでしょうか。さきほどの Geviert
﹁四者﹂も、
ヘルダーリンによりそうようにして定めていったのでしょ
ハイデガーはヘルダーリンと一心同体になるかのようにして、自分
不滅の神々、英雄めがけて呼ぶ声があがる。
大地は天のひびきに共鳴しながら、大いなる掟にしたがい、
歌雲が天をうたいだす。
もの思いながらエーテルは空高くに生き、
日の光りは銀色に、
大地は愛のしるしとして菫の青にそまる。
きわめようとします。
四者は、ヘルダーリンのことばでいいかえれば、
﹁ 関 係 全 体、 そ の
自然は、ひとが学ぶようにと、いつもひらかれてあり、
ひとがあまりに神を愛しすぎぬようにと、風と時とが神をつつむ。
神は人間をいとおしむために衣を身にまとい、
です。四者が結び合い、つながり合い、たがいに内的になるようにと、
したものではなく、無限にお互いどうし結びつき合っているものなの
係﹂と名指されているものだ、とハイデガーはいいます。四者は独立
そして大いなるはじまりを示す情景をあげますと、
大地の古い形がほろぼうとするときは、神が大地を導く。
その関係の中央をなすものが Geschick
﹁天のめぐり﹂だといいます。
これは、わかりにくい。あるいは、別のことばでは、こうもいって
中央をふくめて﹂であり、さらに天、地、神、人は﹁精妙な無限の関
そのとき魂は集い、たがいの心をひらき、
います。
それは天と地の婚礼のときだ、そこに神々は喜びの天上の炎をまと
地上には美が住み処をさだめ、
精神がひととむつみあう。
― 45 ―
い、酔いしれて集い、輪舞をおどる、と。
これでも、わかりにくいですね。ハイデガー自身、 Ge-stell
﹁用 立てシステム﹂の支配する現代では、ヘルダーリンの見つめていたもの
を理解するのは、きわめて困難だといっています。それでも Ge-stell
の支配が転回するとしたら、ヘルダーリンの詩のようなことばが、そ
うした芸術が大きな意味をもってくると、かれはいいたいのでしょう。
Ⅱ 啓蒙と断念
││ アドルノ
一、啓蒙
きょうは、はじめに﹃啓蒙の弁証法﹄︵一九四四︶から、その第一
には、ハイデガーのいう﹁四者﹂の内的な結びつきを、その中央の神々
あったでしょう。それでも作品を 造するひとは、
造の最高の瞬間
かれのいうような芸術作品は、現在はおろか、二十世紀でも不可能で
した。これはアメリカ亡命時代に書かれたものですが、戦後、旧西ド
人の家庭に生まれ、ナチスの時代はアメリカに亡命を余儀なくされま
ドルノ︵一九〇三│一九六九︶の共著です。ふたりとも富裕なユダヤ
クス・ホルクハイマー︵一八九五│一九七三︶とテオドール・W・ア
章﹃啓蒙の概念﹄の内容を紹介しましょう。
﹃啓蒙の弁証法﹄はマッ
の炎の輪舞を予感するのではないでしょうか。ただそれはすぐ幻想で
イ ツ の み な ら ず、 ヨ ー ロ ッ パ で も っ と も 議 論 さ れ た 著 作 の ひ と つ と
ハイデガーの芸術論はすこぶる古風ですが、たいへん魅力的です。
あったと意識することになるでしょう。それにもかかわらず、ふたた
いっていいでしょう。ふたりの主導したフランクフルト社会学研究所
は、戦後、一九七〇年代ころまで、旧西ドイツの思想界の中心でした。
びその幻想を目ざして、ひとは 造行為にとりかかることもまちがい
ありません。
︵一︶
知ることと支配すること
神話から科学、さらに実証主義へとすすむ啓蒙の過程は、脱魔術化
の過程である、
﹃啓蒙の概念﹄はそういいます。啓蒙とは、迷信、恐れ、
未知や無知を克服し、目のまえにあるものを知ろうとするはたらきで
す。これは対象を正確に認識することですが、同時に、あらゆる対象
を同質化し、数にまで還元し、すべてを統一的にまとめあげることで
もあります。
このようにして知ることは客観的、中立的で、価値判断をふくまな
七
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第 83 巻第 1 号
商 学 論 集
神子 : 和解と痛み
い公正なものと思われているが、じつはそうではないのです。こうし
いるわけです。
いっています。社会と支配の一体性が、論理性という価値をささえて
八
た認識のもとでは、それぞれのものやことの異なった質がすべて均質
れ、世界からは特有の質が、神々と意味とが消えてしまうのです。要
性質をもちつづけ、個別性を保ってきたものが、ことごとく同質化さ
抑圧しなければなりません。自らを抑制することをとおして、はじめ
維持するためには、少数者は自らの内なる自然をも統御し、支配し、
ちにして、その支配を通じて外なる自然を支配しますが、その支配を
こうして啓蒙のはじまりにおいて、少数者は多数者の労働をなかだ
するに、すべて認識の対象でしかなくなるわけです。そしてそれらの
て多数者にたいする支配が、さらにまた外なる自然への支配が、持続
になってしまうのです。人類の歴史のなかで、長いあいだ固有の性格、
対象は、認識する主観の統制と支配、さらに利用のもとに入ることに
的に可能になるのです。
︵二︶
芸術
なります。
これは前回のハイデガーによる批判と重なるものです。ただハイデ
ガーの場合、﹁主観/客観﹂はもっぱら﹁人間/自然﹂の枠組みで考
えられていました。人間による自然支配が技術の本質ととらえられて
だが抑圧され、支配された自然は、いわば背後から支配するものに
おそいかかります。死と快楽というかたちをとり、支配する少数者の
いました。
﹃啓蒙の弁証法﹄では支配については、対自然だけではなく、人間
立ち姿をさらおうとするのです。自己を制御し、多数者を支配し、た
えず特定の目的地点へと向おうとする少数者は、つねに解放と解体の
関係における支配もとりだされます。つまり支配の社会的性格も明確
にえぐりだされてくることになります。
への直接の働きかけからはなれ、労働を多数者にゆだね、自らは労働
時点についても、つぎのようにいわれています。それは少数者が自然
た場合のように、二度ととりもどせないひとやものへの深い愛着や執
むかしから知っていました。あるいは身近でたいせつなひとをなくし
たとえば麻薬や、自己崩壊とひとつものである性的な快楽を人類は
誘惑にさらされています。
には従事しないことによって自然から距離をとれるようになった時点
着の念にかられ、
死へと身をゆだねる欲望の大きさも知っていました。
たとえば認識の基本的な枠組みである﹁主観/客観﹂関係の成立の
だというのです。﹁主観/客観﹂という一見純粋な認識行為の基盤にも、
ここでホメロス﹃オデュセウス﹄のセイレーンの場面をめぐる非常
に印象的な読解を紹介しましょう。これは﹃啓蒙の弁証法﹄のなかで
じつは自然からの距離と、その距離を可能とした少数者による多数者
にたいする支配がうめこまれているわけです。
魔女キルケーのもとにひきとめられていたオデュセウスは、望郷の
もっとも有名な箇所です。
摂と連合といった論理的秩序が成り立つためには、社会において一定
思いにかられ、ふたたび航海にのりだします。しかしその航路はセイ
また論理のまとまりや一貫性、つまり諸々の概念の従属と連鎖、包
の支配の構成が、つまり分業の諸関係が成立している必要があるとも
― 43 ―
レーンの住む岬をとおらなければならないのです。これは女性の声で
ます。
とりあげられるものはとりおき、自分をいわば組みかえることになり
るのです。これは自然との和解の試みです。
生きようとするのです。自然との近さを、ふたたびとりもどそうとす
生きたものとして救いだそうとします。もう一度、幼年時そのままに
しかし芸術の目ざすものはちがいます。それは幼年時そのものを、
うたう一群の魔物であり、サイレンの語源となったものです。船乗り
はセイレーンの歌にききほれ、呼び声にしたがおうとして難破するの
です。海の難所であったのでしょう。
魔女キルケーからそのことを知り、オデュセウスはどうしてもセイ
レーンの歌がきいてみたくなります。きかなければ無事、通過できる
これは前回紹介しましたハイデガーの芸術論と重なる議論です。四
者の結びつきと親密さという、もうすでにすぎさった時間を、ふたた
ときえゆ
く定めです。キルケーはひとつの策をさずけます。オデュセウスは部
び生きたものとしてとりもどそうとする試みが、その芸術論の核心に
でしょうが、快楽の誘惑はおおきい。しかしきけば海の藻
下の水夫たちに命じて、自分の体を帆柱にしばりつけさせ、縄をとい
あるものでした。
はどこまでも、そう見えるというにすぎない。では芸術には、なにが
て、あたかも失われた時間がよみがえったかのように見えても、それ
それの実現はあくまでも見かけにすぎないとみなします。作品におい
しかし﹃啓蒙の弁証法﹄は、芸術のそうした核心に触れながらも、
てくれとかれが要求するときは、いっそうきつくしめつけるようにさ
せる。いっぽう漕ぎ手の水夫たちの耳には蠟をつめさせ、セイレーン
の歌声がきこえないようにする。
こうしてオデュセウス自身は死の誘惑と快楽に身をゆだねながら、
支配下にある部下の労働︵舟漕ぎ︶をとおして、無事、海の難所をの
精神はどこまでいっても自らが支配するものであることを、少なく
可能でしょうか。
つけるオデュセウスに、コンサートホールの椅子のうえで身をかたく
とも自覚する必要があるのではないでしょうか。そして自然との和解
りこえてゆきます。ホルクハイマー/アドルノは、帆柱に身をしばり
して演奏にききいる聴衆の原像を見ています。それは自らは支配の位
は窮極には不可能であると知り、和解を断念し、その断念がもたらす
世界によりそう可能性が開けてくるのではないでしょうか。ホルクハ
置につき、安全なところにいながら、失われた自然に身をゆだねよう
芸術は、すぎさったものを、現在に役立つものとして利用するので
イマー/アドルノは傷ついた世界に共振し、共鳴する姿を、芸術に見
痛みを痛みとして受けとめることによって、支配のもと、痛みを抱く
はなく、それ自身生きたものとして救いだそうとする、とここではい
ているのではないでしょうか。
とする試みなのです。
われています。
たとえば幼年時の時間をとりあげてみましょう。
おとなになることは、自然といっそうひとつであった幼年時のあり
方を失うことを意味します。そして幼年時のあり方のうち、利用でき、
九
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第 83 巻第 1 号
商 学 論 集
神子 : 和解と痛み
一〇
これらふたつの主題を展開し、改変し、別の視点からとらえなおし、
ヴェンの晩年様式﹄︵一九三七︶という短いものですが、アドルノの
アドルノの芸術論に触れてみます。ここでとりあげるのは
﹃ベートー
異質なものやすでにあるものが主観のエネルギーにくまなく充電さ
展開部の対立と対決、深化と捉えかえしをくぐりぬけることにより、
ります。再現部は提示部と同じではありますが、
同じではないのです。
さらに深くほりさげる。この展開部を経て、ふたたび主題が舞いもど
著作のうち、わたしが最初に読んだものというせいもあり、たいへん
れ、そうしたものとして主観によって受けいれられるのです。他律と
二、断念
印象にのこっています。
シンフォニーは、よくききはしましたが、いまひとつしっくりとはき
ことです。個人的なことをつけくわえますと、﹃熱情ソナタ﹄や第五
の一連のピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲をきいてみれば、すぐわかる
を見せています。これは﹃熱情ソナタ﹄や第五シンフォニーと、最後
いないのに、作品のなかだけで和解をいいたてるのは、欺瞞ではない
のものが表現となるのです。それはこの社会において和解が成立して
です。和解はたんなる見かけにすぎないのではないか、という疑念そ
します。しかし晩年の作品では、この和解への違和感が表明されるの
円熟期にあるベートーヴェンの作品の充実感は、この達成感に由来
自律との和解がはたされるのです。
ませんでした。それにたいして、晩年のピアノ・ソナタや弦楽四重奏
か、という疑念なのです。
ベートーヴェンの晩年の様式は、円熟期の様式とはきわだった対照
曲は、こころにしみました。清冽なわき水が、のどごしに、からだの
人の自主性、自律性、主観性です。アドルノはそう見ています。これ
さてベートーヴェンの音楽の中心にあるものは、ひとりの特定の個
力がかけられていた。それが晩年の作品では、いたるところ慣用の書
た、伝統的、通俗的な語法でも、そこにはかならず主観性の強力な圧
とを指摘しています。円熟期のベートーヴェンは慣用を甘受しなかっ
具体的にはアドルノは慣用、つまりよく使われている音楽語法のこ
は一八世紀ヨーロッパの市民精神の核心です。この精神は、束縛し、
式や語法がちりばめられているというのです。
すみずみにまでゆきわたるようでした。
抑圧し、支配力をふるうものにたちむかい、自らの個人性を主張し、
他律と自律、既定性と主観性とが対立し、対決し、そして和解する
おくことにより、逆にそれは表現となるのです。円熟期には圧倒的な
かしを見ています。だが慣用を慣用として、そこにむきだしにほって
アドルノはここに死の影を、そして死にむきあった個人の無力のあ
場となったのがソナタ形式です。御存知のとおり、提示部、展開部、
力を示した主観性が、自らの無力を、みずからの限界をさらすことに
外の世界を変革し、みずからをも成長させてゆきます。
再現部がソナタ形式の図式をなしています。提示部ではふつう二つの
より、和解の断念が痛みとして表明されるのです。
アドルノの論はたいへん説得的で、わたしには共感できます。かれ
主題が提示されます。これらの主題はまだ十分にその意味と価値とが
くみとられていない。これからどこにむかうのか、今後どのように自
ら変わり、あるいは出合うものを変えてゆくのか、まだわかりません。
― 41 ―
身が問いかけ、確認し、さらに自省する批評の過程をなかだちとして、
す。しかもたんなる受け身の鑑賞ではなく、聞き、読み、見るひと自
りそうようにして、作品をともに生きることができるような気がしま
の論を読んでいますと、 作する人間の挫折、苦渋、そして痛みによ
れまでの枠組みが流動し、解体し、崩壊する、その一歩手前で、蓄積
にもどることになります。ところがヘルダーリンの詩の世界では、こ
圧倒的に強く、この枠組みが一瞬ゆれはするが、ふたたびもとの状態
も、ふつうのひとであれば、これまでの経験や文化、伝統などの力が
といえば、すこしおわかりいただけるでしょうか。
か、これは詩の例ではないのですが、ゴッホの絵をごらんください、
向き合うわけです。自然があらたな姿であらわれるとはどういうこと
であらわれることになります。天と地と神々と人とが、いわばじかに
いを裂いて、自然があらたな姿
されてきた経験や伝統、文化などの
Ⅲ 戯れ
作品をともに生きているのです。
た。このような芸術作品はもはや不可能だとわかっていても、かれの
さてハイデガーの芸術論は古風ではありますが、非常に魅力的でし
のではないかという気もします。このへだたりがあたかもないかのよ
われの生きている世界とは、橋をかけようもないほどへだたっている
成されてきたのではないでしょうか。かれがとりあげる作品と、われ
ハイデガーの論はこうしたヘルダーリンの世界との共生のうちに形
論を読みすすめてゆくと、ひとと自然とがむきだしで向かい合ってい
うに、というか、このへだたりを特権的に越えゆくことができるかの
││ ベンヤミン
る、こころの古層が思いおこされてくるような気がしてきます。こう
との関連はなかなかむつかしい。かれの詩は病の記録ではなく、独自
いまでいう統合失調症であるとみられますが、この精神病とかれの詩
廃疾者として、いわば余生をおくりました。かれの病は精神分裂病、
ヘルダーリンは七十三歳まで生きましたが、後半生の四十年ほどは
びと解放感を否定され、八方ふさがりにおちいってしまうかのような
ます。あまりに批評意識が大きすぎ、強すぎて、
ただかれの音楽論を読みすすめてゆきますと、少し息苦しくなってき
れは読むひとをつきはなし、自分の頭で考えるようにとしむけます。
一方、アドルノの論は、わたしにはたいへん説得的なものです。か
ように、ときにハイデガーはふるまうのですが、そこにどうしても、
の価値をもち、自立した世界をくりひろげているわけですが、この世
気がしてくるのです。これは典型的には、かれのジャズ論にたいする
なるのはかれがヘルダーリンをとりあげていることが大きいのではな
界はやはり独特のものといえるでしょう。詩のことばは、日常のこと
違和感となって意識されます。生きているのは楽しいんだよ、などと
ある種のいかがわしさを感じてしまうのです。
ばや科学のことばとはことなり、人間の意識の流動状態と、いっそう
吹聴する大衆娯楽は、かれには欺瞞そのものなのです。たしかに大衆
いでしょうか。
つながりがあると、ふつうにはいえるでしょう。主観/客観という枠
娯楽は商業主義に支配され、むしろそのためにあるといってもいいほ
作行為すべてが喜
組みがゆれうごく場面に生まれてくることが多いのです。ただそれで
一一
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第 83 巻第 1 号
商 学 論 集
神子 : 和解と痛み
一二
ます。持続した時間が断片化し、密であった人間関係が解体し、孤立
パリのような大都会を歩くことは、村落をひとめぐりするのとはち
どなのですが、それでも受けとる大衆の喜びや慰めには、ぎりぎり、
それぞれが真実となる、固有の場面といったものがあるのではないで
がうのです。たえず行き来する馬車や車に注意し、まったくなじみの
したひとびとが群集をなし、茫漠とした都市空間をさまよい、あるい
しょうか。たしかにその場面からはずれれば、その喜びや慰めが偽り
ない人々と瞬間的にまなざしを交わし、すれちがい、そして離れてゆ
一分の真実があるのではないでしょうか。喜びや苦痛、あるいは解放
のもの、こしらえものとなることもあるでしょうが。それでも最終の
くのです。
こうしたすれちがいがひとのこころに刻み込む傷のことを、
はアパートの狭い空間にとじこもります。
和解が不可能であるからといって、ちいさな喜び、ちいさな解放もと
ボードレールの詩をひいてベンヤミンは指摘するのですが、この読解
感といったものには、いくつものレベルがあるのではないでしょうか。
もにことごとく否定されるいわれはないのではありませんか。そんな
は啓示的です。
通りすがりの女に
気がします。ただアドルノの論もこまかく読んでゆくと、いくつもの
ニュアンスがあるようですが、それはここではおいておきます。
ハイデガー、アドルノ、ともに芸術論で、あるべき芸術作品をさし
わたしのまわりに通りの喧騒は耳を聾さんばかりであった。
示そうとしています。窮極の芸術作品の姿を名ざそうとしているので
す。しかし芸術はまた、それを受けとる過程ではないのか。
ヴァルター・
丈高くほっそり喪服すがたに厳かな苦痛をたたえ
おんながひとり通りすぎた。あでやかに腕を
ベンヤミン︵一八九二│一九四〇︶は、ふたりの芸術論とは異なった
視点から芸術を論じています。﹃複製技術時代の芸術作品﹄︵一九三六︶
ゆりあげ花綱の縁取りと折り返しを揺らし
働から、工場労働への変化があります。生活の形態でいえば、小さな
その姿に不意に蘇ったわたしであるが
一閃⋮⋮⋮ついで闇!│││一瞬の美よ
蠱惑する甘美さと命を奪う快楽とを。
その目の嵐を孕む鉛の空に
こちらはといえば呑んだものだ痴れもののように身をひきつらせ
かろやかにしとやかに彫像めいた足取りにて。
をかんたんに紹介しましょう。ベンヤミンも富裕なユダヤ人家庭の出
身で、のちにアドルノも兄事することになりますが、ナチスの迫害を
逃れる途上、スペインにて自らの命を絶ちます。
一九世紀後半から二〇世紀はじめにかけて、西ヨーロッパでは急速
な産業化、都市化がすすみます。大衆の生活も根本的に変化します。
閉鎖的な村落の暮らしから、都会でのアパート暮らしへの変化があり、
ふたたびおまえに見えるのはあの世でのことなのか?
労働形態についていえば、これまでの農業のような自然のなかでの労
また交通の発達は、距離感をいっきに縮め、人々の往来をさかんにし
― 39 ―
部分的、限定的です。そしてそれは本質的に複製可能なのです。
ここではなくどこか遠くで! もう遅い! もはや決して!
おまえの行方をわたしは知らぬ。おまえもわたしの行方を知らぬ。
です。これはたいへん有名となった概念ですね。アウラとはなにか、
ウラの崩壊﹂ととらえています。アウラは、英語ふうにいえばオーラ
この芸術の変化の根底にある知覚の変化の本質を、
ベンヤミンは﹁ア
おまえを愛してやれたというに。おまえもそれを知っていたのに。
いまひとつうまく答えられないのですが、ものとひととの、いま、こ
ここでベンヤミンは映画の意義について論じたいわけですが、映画
こでの関係において、一回かぎりのものと経験される雰囲気のことで
の陶酔は、ひと目ぼれによる恋というよりは、最後のひと目による恋
は写真のもつ意義をさらに先にすすめたものだといいます。つまりア
こうした姿は群集のなかから、群集によって詩人のもとにはこばれ
です。つまりこころうばわれる瞬間が、同時に永遠の別れなのです。﹁わ
ウラの崩壊にいっそう対応した芸術だというのです。映画を成り立た
す。円山応挙や伊藤若冲の屛風はひとつしかないのです。それにたい
たし﹂は身をひきつらせているのですが、それは自分の存在のすみず
せているものは、断片化した時間であり、俳優は観客ではなく、機械
てくるとベンヤミンはいいます。群集となってひとがすれちがう、都
みまでがエロスに満たされている幸福感ゆえではないのです。むしろ
を相手に演技します。映画の世界は、知覚にとってはショックとして
し携帯でとった画像はいくらでも複製可能なのです。
それは、孤独な人間を襲う性的な混乱状態です。この詩は、大都会の
あらわれる世界なのです。
会のなかでしか、こうした姿はあらわれないのです。そしてそのとき
生活が愛にきざみつける傷をうかびあがらせているとベンヤミンはい
な経験が失われるのです。しかし同時に、それは新しい可能性を開き
アウラの崩壊は否定的な意味をもちます。持続的、総体的、超越的
一九世紀半ばから二〇世紀はじめにかけて、そして一九三〇年代の
もします。ベンヤミンはその可能性に最大限の意味を与えようとする
います。
いまもなお、大きな知覚の変化に大衆は見舞われているのではないか
のです。
知覚の変化をおしすすめもします。スローモーション、拡大撮影、鳥
映画は知覚の変化に対応して成立したのですが、それ自身、さらに
とベンヤミンは推測します。それに呼応して芸術も変化しているので
はないか。
知覚と芸術の変化の例として、ベンヤミンは絵画と写真とを対照さ
いわば無意識の領域を視覚化する、といっています。一九二〇年代、
瞰図のアングルなどといったものは、人間の知覚を深化、変化させ、
絵画、肖像画や風景画は、持続した時間のなかで描かれます。画家
三〇年代、映画がまだその可能性を開拓しつつあった時代の興奮がし
せます。
は対象の全体に向きあいます。そしてできあがったものは、ただひと
のばれます。
もっと重要なことは、つぎのようなことです。
つしかないのです。それにたいし写真は、ひとの写真であれ、街の風
景であれ、瞬間をとらえます。対象への向きあい方は全体的ではなく、
一三
― 38 ―
第 83 巻第 1 号
商 学 論 集
神子 : 和解と痛み
のむこうにいる監督や経営者のまえで演じるわけですが、映画は最終
く、カメラや録音機を相手に演じます。正確には機械をとおして、そ
俳優は舞台の場合と異なり、人間を目のまえに演戯するわけではな
うくだりがありますが、このかかわりをいっそう深める仲立ちの役割
にとり本質的なこと、つまり死と愛にかかわりあうようになる、とい
純労働を人間にかわってとりおこなうようになるにつれ、人間は人間
すといいます。これもなかなかむつかしい。現代の技術が少しづつ単
一四
的には観客のまえで上映されます。ここで俳優が見せたいものは、機
ベンヤミンはいいます。たえず作り変えられる可能性をとおしてはじ
を現代の技術は果たすのでしょうか。たとえば映画はその技術をとお
ここはもっとも肝心な点であるとは思うのですが、じつはよくわか
めて、自然と人間とは戯れと遊びの結びつきを、つまり和解して自由
械を相手に、いかに自分の人間性を主張できたかという点だとベンヤ
りません。具体的には、どういうことでしょう。ここでは労働過程と
な関係をもつようになるということでしょうか。そしてその前提とし
して、たえず良く作り変えられる可能性をもちます。これは古代ギリ
の類比が考えられているのでしょうか。工場労働では、機械のシステ
て、単純労働をひきうける機械のシステム全体と人間は折り合いをつ
ミンはいいます。観客も、俳優が機械をとおして人間性を主張する姿
ムにより分刻み、秒刻みで作業します。人間はそれに対応するだけで
けなければならないのですが、映画を見るということは、その折り合
シア人の芸術観からすれば、芸術作品にもっとも認めがたいものだと
精一杯で、それ以上は無理ですね。人間性を云々するとすれば、生産
いの過程における重要な訓練のひとつである、
ということでしょうか。
を見る、というのです。
のシステムそのものの改編まで視野にいれなければならないでしょ
いづれにしても自然と人間との戯れとは窮極の状態であり、現在は
その緒についたにすぎません。大衆は技術と機械の圧倒する力におし
う。そしてじつは映画を見にきている大衆は、工場の機械制システム
の圧力のもとであえいでいる労働者たちです。その労働者たちが、機
つぶされんばかりの状態です。
さて映画を映画たらしめているのは、
モンタージュという手法です。
械をまえに自由にふるまい、人間性を主張している俳優に自分の姿を
重ねているというのです。ここの要点は、俳優のふるまいと観客であ
モンタージュにより映画は、前後関係や持続なしの断片のつらなりと
としてあらわれる世界に、知覚の大きな変動に、なじもうとこころみ
る大衆の願望との重ね合わせにあると思うのですが、しかしそれでも、
ベンヤミンは太古の技術と現代の技術とを対比しています。太古の
るのです。さらに機械をまえに自由にふるまい、アウラの崩壊に耐え
なり、ショックとして感受される世界そのものとなります。観客であ
技術、つまり魔術のことですが、それは自然の制御を目ざしていると
て自己主張し、自分の人間性を保つ俳優の演技に自分を重ね合わすこ
ベンヤミンがどのようなふるまいを具体的に考えていたのかという
いいます。魔術により自然の圧倒的な威力、大風や大水、火災とか病
とにより、大衆は新しい世界への準備もしているというのです。俳優
る大衆は映画をとおして、その画面に反応することにより、ショック
とかを制圧しようとすることをさしているのでしょう。それにたいし
の主張する人間性とは、おそらく自然と人間との共同の戯れを目ざし
と、残念ながらよくわかりません。
て現代の技術は、窮極的には自然と人間との共同の戯れ、遊びを目ざ
― 37 ―
ているものなのでしょう。しかしもう一度いいますが、この戯れとは、
どのようなものなのでしょうか。
映画の展開はベンヤミンの希望とはまったく異なったものとなりま
Gesammelte Schriften Bd. 5 S. Fischer 1987
Gesammelte
Gesammelte Schriften Bd. 7, 1 suhrkamp
B e n j a m i n , Wa l t e r : D a s Ku n s t w e r k i m Z e i t a l t e r s e i n e r t e c h n i s c h e n
Adorno, Theodor W.: Spätstil Beethovens.
Moments musicaux.
Schriften 17 suhrkamp taschenbuch wissenschaft 1997
マルティン・ハイデッガー ﹃有るといえるものへの観入﹄︵ハイデッガー全集
第七十九巻﹃ブレーメン・フライブルク講演﹄所収︶ 森一郎、ハルトムート・ブー
Reproduzierbarkeit.
Zweite Fassung.
taschenbuch wissenschaft 1991
得の手段にすぎず、産業を維持することそのものが映画制作の目的と
フナー訳 した。映画はむしろ、一方では巨大な映画産業にとりこまれ、利潤獲
すらなり、他方では、時間とともに芸術ジャンルとしてひとつの自然
マルティン・ハイデッガー ﹃ヘルダーリンの地と天﹄︵﹃ヘルダーリン論﹄所収︶ 柿原篤弥訳 理想社 一九八三
Erläuterungen zu Hölderlins
ヴァルター・ベンヤミン ﹃複製技術の時代における芸術作品﹄︵﹃ベンヤミンの
仕事2﹄所収︶ 野村修訳 岩波文庫 一九九四
テオドール・W・アドルノ ﹃ベートーヴェンの晩年様式﹄︵﹃楽興の時﹄所収︶
三光長治訳 白水社 一九六九
マックス・ホルクハイマー/テオドール・W・アドルノ ﹃啓蒙の弁証法﹄ 徳
永恂訳 岩波書店 一九九〇
文社 二〇〇三
性を獲得し、小説や芝居とおなじように、鑑賞の対象になりました。
しかし芸術の根底に、知覚の大きな変動を見、芸術作品を受けとる過
程に、その変動にたいする大衆の対応を、さらには新しい世界への準
備すら見る、という芸術論は、いまなお静かにわたしたちに問いつづ
けているのではないでしょうか。
︵了︶
︵これはもともとは私的なつながりを通じて依頼された講演の原稿で
した。事情によりその講演は中止となり、その後、現代教養コースの
講義科目﹁現代世界の社会と思想﹂の二回の講義︵二〇一三年十一月
七日、十四日︶の原形となりました。そのとき聴講なさった学生の皆
さんに、ここでもう一度、文字のかたちで読んでいただけますならば、
これにまさる喜びはありません。︶
Heidegger, Martin: Hölderlins Erde und Himmel.
Heidegger, Martin: Einblick in das was ist.
Bremer und Freiburger Vorträge.
Gesamtausgabe Bd. 79 Vittorio Klostermann 1994
Dichtung. Vittorio Klostermann 1971
Horkheimer, Max/ Adorno, Theodor W.: Dialektik der Aufklärung.
Max Horkheimer
一五
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商 学 論 集