カトリック 瀬田教会 カトリック瀬田教会広報 創刊 1973 年 編集・発行 瀬田教会信徒会 東京都世田谷区瀬田 4-16-1 主日のミサ 近、 三 軒 茶 屋 教 会 で、 あ る方の葬儀ミサを司式し た。この方は、数年前に脳梗塞 で倒れ、発見が少し遅れたこと もあって、意志の疎通はできな くなっていた。数年前、最後に 訪問した時も、分かっているの か、いないのか、私には、分か らなかった。その後、息子さん のいる町の施設に移ったため に、全く訪問することができな くなっていた。気にはなってい たが、消息が伝わってこないた め、ほぼ没交渉になった。 し か し、 私 が 訪 問 で き な く なったにもかかわらず、繋がり を持ち続けてくれていた信徒が いたことを知って、ありがたい と 思 っ た。 間 接 的 に 情 報 を 得 る、それは、私にとって幽かな 繋がりであったからである。世 であったが、東京の自宅を処分 けが仕事の合間に世話する程度 たちの場合、必ずしも教会と全 由で教会と疎遠になっている人 なった人たちの場合、様々な理 がうまくいかなくて来られなく いるわけではなかろう。高齢者 の場合、いきさつ上来られなく なった人たちの場合、人間関係 も、糸ではないが、似たような いる、と言われている。西洋に 足首ではなく小指がつながって だ と い う 説 も あ り、 日 本 で は、 「 赤 い 糸 」 で は な く、 「赤い縄」 伝説が、 中国にある。もっとも、 赤い糸で結ばれている、という 女性は、足首を目には見えない の日本の福音宣教、信徒の宣教 ろうか。こうしたことも、現代 網目のように張り巡らせないだ に、更に綱にできないだろうか。 体を作っている。その糸を、縄 それで教会に繋がり、教会共同 場 合 も あ る だ ろ う。 と に か く、 の場合もあろうし、数本の糸の 大切だと思う。たった一本の糸 聖母マリアはよい天気を 司 り 昇 天 の と き、 美 し い 日々を恵んでくださる イエズスの死と復活の 後、 聖 母 マ リ ア は 使 徒 ヨ ハ ネ の も と で 生 活 し、 使 徒 た ちに見守られて亡くなり天 に 上 げ ら れ た。 一 生 を 罪 の 汚れなく過ごしたマリアに は 原 罪 の 汚 れ す ら な く、 そ のために肉体は汚れの象徴 である腐敗を免れたとい う。 これを祝うことはアン ティオキアでは四世紀頃か ら、 パ レ ス テ ィ ナ で は 五 世 紀 頃 か ら お こ な わ れ、 西 方 教会では七世紀頃から現在 の八月十五日におこなわ れるようになったといわ れ る。 マ リ ア の 被 昇 天 は 一九五〇ピオ十一世によっ て正式に信仰箇条に加えら れ た。 イ エ ズ ス の 場 合 に は 昇 天 と い い、 マ リ ア の 場 合 に は 披 昇 天 と 呼 ぶ。 こ れ は 日と年中行事)より引用 ヨーロッパ歳時記(主な祝 自らの力で天に昇ったイエ ズ ス に 対 し、 聖 母 に は そ の よ う な 力 は な く、 た だ イ エ ズスの力によって天に上げ られたという違いを示すた めである。 この日から九月八日まで は「 マ リ ア の 三 十 日 」 と 呼 ば れ、 植 物 や 動 物 に は 三 倍 の祝福が宿ると信じられて い る。 特 に 薬 草 は 最 も 強 い 効 き 目 が あ り、 人 々 は 七 種 か九種の薬草を集めて教会 で 清 め た の ち、 雪 除 け や 魔 除けとしてあらゆる災難の た め に 利 用 し た。 教 会 へ 行 っ て 季 節 の 花 々 と 野 菜、 く だ も の を 捧 げ、 薬 草 や ハーブなどの実りを祈る。 聖母の被昇天 Seta no Oka のではないかと思う。教会に来 せずに繋がりを保とうとしてい く切れてしまうわけではなかろ られる人だけが、教会で活動し てくれていた。 う。だとしたら、こうした糸は、 ている人だけが、教会を作って いつか結ばれるはずの男性と ものや話しはあるようだ。 そう考えるのである。 司牧の一つではなかろか。最近 教会が、交わりの教会という 時、こうした面があってもいい 糸 瀬田の丘 話をしていた息子さんも、彼だ 1 ◀ Seta no Oka 午前 7 時、午前 9 時半 湯澤民夫 神父 最 No 299 2015 年 8 月 No 299 2015 年 8 月 これは教会の生活と使命に る よ う 勧 め ら れ て い ま す。 大きな責任感をもって生き のうちに受け取り、同時に、 の で す。 信 徒 は こ れ を 感 謝 し た。 実 際、 典 礼 を と り 行 れに参加するようになりま 白 な 自 覚 を も ち、 進 ん で こ 果たす務めについてより明 礼集会とその準備において 刷 新 の 結 果、 信 徒 自 身、 典 ••共通祭司職と役務的祭司職 の均等化 別な使用 Seta no Oka 定、信徒による典礼への奉仕と 参加することによって具体 うことは会衆全員の聖なる 「信徒について」考える いったものはすべて「行動的参 的 に 実 現 さ れ、 信 徒 は そ の ●● 参加の神学と実践 各種委員会などあげられるでし るのです 3。 効果的にかかわることにな 伝えることや司牧活動にも る な ら、 神 の こ と ば を の ベ に信徒が効果的にかかわれ しばしばあります。 だろうかと思わせられることも 奉仕がなされているのではない しながら、この世的な価値観で は成り立たないでしよう。しか ••信徒の「教役者化」 ••教会内に別な組織を作る危 険 4 よう。さらには、困難を抱えて 小西広志 神父 加」への取り組みの結果とみる た め に、 そ れ ぞ れ 多 様 で 補 行 為 で あ り、 教 役 者 ク (レ 積極的な参加 ことができるでしよう。何より 足し合う奉仕職とカリスマ リクス だ ) けのものではあ り ま せ ん。 し た が っ て、 叙 も、典礼が聖職者がささげるも を役立てるのです 2。 実際、小教区だけを見てみま しても、いろいろな形で信徒が 公会議後の実りとして教会が いただいたものの一つに 「参加」 の か ら、 「信徒と共にささげる 事 で な い も の を、 信 徒 が 果 奉仕し、協力し合っているのが の概念と、 その実践があります。 キリストの記念」へと変わって たすことは全く自然なこと わかります。信徒なしに小教区 すでに典礼の分野で信徒による いき、典礼行為そのものが生き 具 体 的 な 信 徒 の 参 加 の 姿 は、 例えば小教区であれば共同体運 で す。 こ う し て、 典 礼 行 為 ••教会法規の軽視 「委任」の概念についての •• 勝手な解釈 典礼への効果的、行動的参加が 生きとしたものへと変わってい 営のための教会委員会などの んでいる。…… 全会衆によ のボランティア活動も信徒によ 奉仕はその人の能力とカリス 階を受けた奉仕者本来の仕 奨励されていました。 きました。 るこの十全かつ行動的な参 「 交 わ り の 教 会 」 を 生 き よ う とするとき、信徒は教会にある る 参 加 の 実 践 で し よ う。 ま た、 信徒が個人のレベルで教会の あらゆる活動、とりわけ典礼に マに従ってなされるもの。特 母 な る 教 会 は、 す べ て の 信 加 は、 聖 な る 典 礼 を 刷 新 し 豊かな交わりへと積極的に参加 小教区の枠を越えたとこ ろで 積極的に関わるようになったこ 定の人が奉仕の務めを独占し 動的に典礼祭儀に参加する よう 導かれることを節に望 五十年間の歩みの中で 促 進 す る に あ た っ て、 も っ し て い く こ と が 勧 め ら れ ま す。 の、信徒同士の協力体制や、社 とは、評価されるべき事実です ないという配慮のあまり、無 者 が 十 全 に、 意 識 的 か つ 行 とも留意すべきことであ これは信徒自身の信仰を育むと 会の様々な団体との協働関係で が、一方でいくつかの行き過ぎ 理矢理に奉仕を強要してよい ● 信徒による教会活動への る。このような 参加は、信 いう点からも必要です。なぜな も信徒の果たす奉仕の務めは存 があったことも否めないでしよ 第二ヴァチカン公会議に い る 方 々 へ の 援 助、 支 援 な ど 者が真のキリスト教精神の ら、信仰は教会の交わりにおい 在しています。 し た が っ て、 教 会 の 交 わ り よって推し進められた典礼 ••お当番制への危険 奉仕の務めを信徒が分担する ものでしようか。 ••奉仕職ということばの無差 う。 ● いくつかの危険性 よ り ど こ ろ と す る 第 一 の、 てしか、成長しないからです。 は、 聖 霊 の 大 い な る た ま も ••一人一役という悪しき平等 主義 欠かすことのできない源泉 だからである 1。 典礼の国語化、典礼聖歌の改 Seta no Oka ▶ 2 No 299 2015 年 8 月 しようか。 があってもよいのではないで でしよう。時には手放す勇気 ••年齢と共に 奉仕の務めは名誉職ではない う。 びの奉仕とはならないでしよ ように考えてしまったら、喜 のはすばらしいが、お当番の 誕 生 と 広 が り の 結 果、 特 別 たいろいろな形の集まりの ループ、共同体、運動といっ の 信 徒 グ ル ー プ は、 会、 グ しかし現代におけるこの種 れ を 明 ら か に し て い ま す。 会、 第 三 会、 信 徒 団 体 が そ し た。 今 日 で も 種 々 の 信 心 通していつも存在してきま 徒の諸団体は教会の歴史を が 特 徴 と な っ て い ま す。 信 のが生ける神のみ言葉である ま た、 交 わ り を 求 め た 結 果、 自分たちを相互に結び合わせる てきました。 定の成果が見られるようになっ 教会と社会で果たす役割には一 極 的 な 参 加 に よ っ て、 信 徒 が、 以上のように、交わりの教会 論と信徒による教会生活への積 ●● 新しい福音宣教へ いると思います。 も、必要不可欠なものとなって の独自性を明らかにするために 体祭儀は自分たちの活動と存在 信 徒 に と っ て、 み こ と ば と 聖 るでしょう。 も一番必要とされている奉仕 もあるでしよう。しかし、それ りへと人びとを招き入れること のグループでの信徒相互の交わ の活動に奉仕します。また、そ 信徒は、様々なグループ活動 を通して教会へと参加し、教会 言葉の読み方として『レクチオ・ いったと思います。そして、み 二千年代に入ってから、信徒 のみ言葉への希求は強くなって たといえるでしよう。 スティア祭儀がおいた結果だっ 第二朗読: 小野佳織 午前 9 時半 司式:庄司神父 2015 年 8 月 23 日(年間第 21 主日) 第一朗読: 吉村毅之 午前 7 時 司式:庄司神父 第二朗読: 酒井育子 午前 9 時半 司式:内藤神父 2015 年 8 月 9 日(年間第 19 主日) 第一朗読: 谷裕文 午前 7 時 司式:庄司神父 第二朗読: 小平恵子 午前 9 時半 司式:内藤神父 2015 年 8 月 30 日(年間第 22 主日) 第一朗読: 佐々木孝治 午前 7 時 司式:井之上神父 第二朗読: 福喜多みさ子 午前 9 時半 司式:湯澤神父 2015 年 8 月 15 日(聖母の被昇天) 第一朗読: 酒井彰 午前 10 時 司式:未定 第二朗読: 中川裕子 (次号に続く) 今や、真に活動的で、真に信 仰に根づいた使徒職を実践する ••心の伴わない奉仕 形にこだわったばかりに、神 いという事実にも気がついて 主イエス・キリスト以外にはな 代 は、 信 徒 が グ ル ー プ 作 り いったと思います。それは忍耐 な 刺 激 を 受 け て い ま す。 現 よい」式の奉仕のあり方でよ を試みる新しい時代だとい 学、霊性を欠いた「こなせば いのでしようか。 の務めは「祈り」です。 ぞれのグループが真に信仰に基 3 ◀ Seta no Oka 強くおこなってきた聖書のみ言 ● グループによる参加 づくもの、真に教会的なもので デ ヴ ィ ナ (Lectio Divina) 』が教 皇ベネディクト十六世 によっ 午前 9 時半 司式:湯澤神父 えるでしよう 5。 個人による教会活動、奉仕職 への参加の他に、グループによ なければなりません6。そうで て提示された際には、教会全体 午前 7 時 司式:静神父 葉 の 分 か ち 合 い の 結 果 で あ り、 る 参 加 も あ り ま す。 第 二 ヴ ア な け れ ば、 教 会 は い つ の 間 に が喜んでこれを受け入れ、小教 2015 年 8 月 16 日(年間第 20 主日) ••誰にでもできる奉仕のつと め チカン公会議後、教会の内部に か、公民館、ボランティアセン 区や各グループで実 践するよ 午前 7 時 司式:マリオ神父 本文は 2015 年 1 月に玉川通り宣教協力体主催の聖 体奉仕者研修会で行われた小西広志神父の講義「信 徒について考える」から転載・編集させていただき ました。「瀬田の丘」編集担当 第二朗読: 石原晶世 すべての活動の源泉にエウカリ 様々な信徒のグループが生まれ ターのようになってしまうでし うになっていったのは、この十 年間の大きな実りだったといえ 第一朗読: 古川義雄 脚注 2015 年 8 月 2 日(年間第 18 主日) 1「典礼憲章」14 2「信徒の召命と使命」(Christifideles Laici)20 3「信徒の召命と使命」(Christifideles Laici)23 4「信徒の召命と使命」(Christifideles Laici)23 5「信徒の召命と使命」(Christifideles Laici)29 第一朗読: 児島竜也 信徒の誰にでもできて、しか ていきました。 よう。 現 代、 信 徒 同 士 が 連 合 す る 現 象 は、 そ の 多 様 性 と 活 力 Seta no Oka ミサ・行事予定 No 299 2015 年 8 月 て・・・感謝と謝罪と祈りになっ た。一人でも多くの人に現実を 島を伝えてほしいと言ってい でもある。私は、原町ベースで れずずっとつながっていくこと 和を祈ることは福島を決して忘 Seta no Oka ▶ 4 Seta no Oka のにどうして希望という言葉が た。今日、福島の絶望と思われ 見てほしい、声を聞いてほしい、 (前号から) 出てくるのだろうと思う。そう る景色の中に希望を見つけるこ です。わたしは、さいしょとてもこ 思いながら吉沢さんの話を聞 のしみです。ありがとうございま した。 原発から十四キロ北西、警戒 区域内にある牧場。肉牛として めてつくってくれたからだと思いま の体験を通して感謝と共にその わしていただきました。らい年もた 感じてほしいと思う。まずでき れは、きっとお母さまが、思いをこ とができた。私には信じられな アリーダーやお母さまがたに、おせ き、なぜか涙が止まらない。吉 たです。いろんなリーダーやジュニ した。とてもおいしかったです。そ 育てていた和牛たちは皆殺処分 はんは、カレーとサラダとゼリーで 生き方をあらためて心に深く刻 な人とお友だちになれて、うれしかっ るのは一人でも多くの人に伝え きょうだいがっしゅくでは、いろん ルパのやくで、声ゆうでした。お夕 い恵みだった。この震災と原発 パントマイムのげきでわたしは、オ 沢さんの中には神様がいる・・ の人にもなってみいなと思いました。 するようにとの政府からの通 のあとはげきのれんしゅうでした。 んだ。 てよかったです。今どはぶたいの上 ることだと思った。私は文章を ずかしかったのですが、うまくでき うぎにかててうれしかったです。そ の中に希望がある・・・。神に や二人三きゃくなど、ぜんぶのきょ と思った。本当に誰にもどうし べつなので、いきを合わせるのがむ 達。原因はすべて人間にあるの たのしかったからです。すいかわり 書くのはとても苦手だが次の何 は、ぶたいの人とせりふを言う人が 感謝、吉沢さんに感謝・・・そ てしまいました。パントマイムげき うです。パンをくわえてはしるのが ようもないどん底の時にこそ聖 のしかったのは、パンくいきょうそ に人間のために生きてきた何の 家ぞくが近くにすわったので、わらっ かにつなげていきたい。生きて なうんどう会をしました。一ばんた れで心はいっぱいになった。 しは、とってもきんちょうしました。 霊は働くのだ、主は共にいるの の方しかありませんでしたが、わた いのりに行きました。そのあと小さ 罪もない牛たちは放射能を浴 ぱいでした。教会につくと、まずお いくことは平和を祈ること。平 の日に、絶望の中に本当の希望 した。わたしのせりふは、さいしょ 原町で会った人達は皆、この福 ら ね。 」震災と原発の大きな被 の光を見つけた吉沢さんと主の て、ミサにあずかって、げきをしま みでしたが、きもだめしだけ、しん だ・・・ と 思 え た。 聖 霊 降 臨 害 を 受 け た 牛 た ち と 吉 沢 さ ん。 復活が重なった。放射能を受け 日がやってきました。前からたのし び、 体 内 被 曝 も し、 そ し て 今 放射能ですべてが死んでしまっ た草を食べて生きている牛たち ました。つぎの日、朝のさん歩にいっ 人 間 の 都 合 で 殺 さ れ る・・・。 たかのようだったが、決してそ の優しい目を見て、澄んだ心と きょうだいがっしゅく 「ここに牛がいるから自分は離 れない。何の罪もないこの被爆 した牛たちと生きていくよ。餌 を運んで被爆してもね。本当に 絶望しかない、生かしてどうす るのかと思う・・・だけどこの 牛は原発事故の生き証人だ。無 意味に死なせるのではなく活か うではなかった。生きている牛 吉沢さんの熱い思いと世の中の いのりへいって、おふろに入ってね す道を考えるよ。今、その先に がいる、吉沢さんは生かし続け 不条理への怒りと人間の犯した らだと思います。つぎは、よるのお 希望が見える。やがては必ず希 る・・・吉沢さんの心は強く揺 拭い去れない大きな罪・・・い ニアリーダーがついてきてくれたか 望へとつながると信じているか るぎなかった。深い悲しみと苦 もだめしがこわくなかったのは、ジュ 平和を願う会 対馬直美 ろんな思いがないまぜになっ ていたより、たのしかったです。き 2 年 松嶋 杏 わかったけれど、行ってみると思っ 原町ベースで 見つけた希望 しみと行き場のない絶望の中な 今としもきょうだいがっしゅくの す。つぎはいよいよき、も、だ、め、し、 福島原発から約 25 キロ 食の時のことです。 子供たちや中高大学生の リーダー、リーダーなど、全 「 こ う い う 人 間 関 係 っ て、 他 に 学Jrの子もこれに同意するか の よ う に 深 く う な ず き、「 そ う だよね。中学とか行ったら上下 と「ロの字」に机を並べて、み ホールにめいっぱい、ぐる~っ は来なくなってしまったが、自 に通うようになり、その後友達 その子は幼稚園の頃、同じ幼 稚園の友達に誘われて土曜学校 んだと、そのようなことを妙に 会にはまずない不思議な関係な ような、友達のような、他の社 人間関係は、本当、兄弟姉妹の はないって」 。 んなで中を向き合って一緒に座 分だけはなぜかずっと通い続 意気投合して表現し、話してく 関係すごく厳しいし、何が何で りました。隣の子となにやらお け、 長 い 人 で は も う か れ こ れ れました。 部で四~五〇人ぐらいいたので 話している子、離れた席の子に 十三年ほどの付き合いになって きっとこれは人によるので も敬語だしね」と。土曜学校の 呼びかけ話しかけている子、そ い る の だ と い い ま す。 そ し て、 し ょ う か。 ア ン ト ニ オ 会 館 の れぞれに身を乗り出しておしゃ 元気に走り回ったりと毎回毎 わったり、パン食い競争では して運動会で楽しくすいかを ほんの少し前までは、生徒と 私は今回のきょうだい合宿 に参加してみて思ったことは、 ました。また、小学校低学年 成りたっているんだ。と感じ るからこのきょうだい合宿が かった、周りの人が支えてい と同時に生徒の時には感じな んだなあと思いました。それ きょうだい合宿を終えて 回楽しく過ごしていました。 から今でもつながりをもって のような点から私は成長した Jrになってからは手伝いと いる、高一のメンバーたちが 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 しそうにカレーライスを食べて べりしながら、楽しそうに美味 係だというのに、まして卒業後 日にたった週一回会うだけの関 に、週にただ半日だけの、土曜 しかもその関係は不思議なこと しぶりに会って、カレーを食べ 気持ちになりました。すごく久 とても素直に、不思議な嬉しい 接聴かせてもらって、なんだか しょうけれど、私はこの話を直 か。 話というか、おしゃべりという に子供たちとぐっと知り合うこ が 素 直 に 嬉 し か っ た で す。 去 くさん話せて、触れあえたこと ! ! いる子供たちが、やけに微笑ま はだんだんと足が遠のき、今で ながら、すぐさま妙にどこかで 私は、実際に自分で名前を呼 んで相手に呼びかけないと、そ とが出来て、仲良くなれました 4 4 し く 思 え ま し た。 「 は た し て、 は年にわずかしか会わないとい すでに心が通じ合っているとい の人の名前をなかなか覚えるこ からね。そして思うのです。私 4 4 自分にもこんな時期ってあった ういのに、それでも土曜学校の うか、うまく表現できないので とができないタイプのようで 自身もまた、神様の御前に、そ 4 4 のかなぁ…」私もまた、子供た 人たちとの人間関係は今でも特 すが、「きょうだい合宿」の「きょ す。今回は私にとって二回目の のようにして誰かから呼ばれる 4 4 いう形でやらせてもらってい いるからこそ毎年きょうだい 4 4 4 ますが、案外大変でせわしく 合宿へ行こうと決心できます。 4 動いたりするので、楽しかっ 学校の友だちとはまた違うつ 4 4 4 た運動会の裏はこんなに準備 ながりを、さらに深めさせて 4 が大変なんだと痛感しました。 くれるきょうだい合宿という 4 また、劇では裏方をやること 行事が私は大好きです。来年 4 になり、「私たちもとうとう見 も絶対行きます ちに混じってそれぞれに、同じ 別なんだと、そんな風に自分で うだい」ということばの味とい 「 き ょ う だ い 合 宿 」 で し た が、 神様からのプレゼント 守る側になったのか…」とし テーブルの人たちと話しながら 話しながら嬉しそうに驚いてい うか、つながりというか、神様 年 も、 「きょうだい合宿」を境 上野 ゆう 一緒に食卓を囲みました。 ました。 みじみ思ったりしました。こ 隣 に 座 っ た 大 学 J r の 子 が、 しみじみとこんなことを話して ことでやはり嬉しく、心開かれ くれました。 今年は去年よりも子供たちとた 合宿 の御前に何かが伝わってくる会 きょうだい 一緒にカレーを食べていた中 井之上 強神父 Seta no Oka 5 ◀ Seta no Oka Jr 夕 No 299 2015 年 8 月 No 299 2015 年 8 月 まさに「きょうだい」になれる ! ゆく人間なのだと。イエス様が 神様からの不思議なプレゼント 『見よ、兄弟が共に座ってい 主が行われた奇跡的なパンの増 される、次の言葉から明らかで このことは、パンの奇跡的増 加の翌日、カファルナウムで話 た。 こと、つまり、相互の交り…」 る 。]あなたは愛が何を要求す るかを知っている。ただ一つの 性も 完 [ 全にあなたのためにい めにいる。私の霊魂も体も神 です」( を、あなただけが御存じだから 訳されている言葉は、ギリシア 照) 。 『感謝の祈りを唱えて』と ・ 参 作は、最後の晩餐における動作 )というイエスの動 り、 感 謝 の 祈 り を 唱 え て 』 (ヨ 福 音 で 言 及 さ れ る、 『パンを取 う に 説 明 し て い ま す。 「今日の れについて、聖書学者は次のよ に 与 え る 食 べ 物 で あ る 」( ヨ ハ これこそ、人の子があなたがた る 食 べ 物 の た め に 働 き な さ い。 なくならないで、永遠の命に至 物のためではなく、いつまでも て満腹したからだ。朽ちる食べ 見たからではなく、パンを食べ 私を捜しているのは、しるしを きり言っておく。あなたがたが て、 主 は 言 わ れ ま し た。「 は っ くださいます。あなたをどのよ たは御心の蜜と乳で私を養って 容されるよう切望します。あな よ、全世界があなたへの愛に変 な た は 御 存 じ で す。 我 が 花 婿 と、私が望んでいることを、あ 愛をもってあなたを愛したい なたを愛したことがないような がイエスよ、如何なる霊魂もあ 聖ファウスティナは、この愛 に 次 の よ う に 答 え ま し た。「 我 らせ、大切にさせて下さい。 私たちに御聖体の真の価値を悟 もの』と見なされています」と。 まらないもの、取るに足りない 初め多くのキリスト者から、『つ 重なものであるのに、修道者を 儀(ミサ)または聖体を意味す たかを、聖ファウスティナに語 主は、御自分がどんなに深い 愛をこめて聖体の秘跡を制定し て下さいました。私があなたを た御自身のためにのみ私を育て きるように、幼い頃から、あな と全く同じです(ルカ る言葉となります。 」要するに、 られました。「さあ、今から聖 愛していることを、あなたは御 うに愛すべきかを知ることがで 「 パ ン を 取 り、 感 謝 の 祈 り を 唱 体の中の私の愛を考察しなさ 存じです。なぜなら、私が日々 ウ カ リ ス テ ィ ア で、 感 謝 の 祭 えて」パンを奇跡的に増やされ い。聖体の中で、私はあなたの ある神の御目にこの上もなく貴 語では『エウカリステオー』と ネ6・ 〜 )。 ハネ6・ いう動詞です。この名詞形がエ 天の父よ、聖フランシスコは 言 い ま す、「 御 聖 体 こ そ、 父 で No Seta no Oka ▶ 6 Seta no Oka この私を呼んでくださったよう 合宿なんです。土曜学校の子供 神に感謝 に。 加は、最後の晩餐の席で制定さ す。イエスを捜し求めてカファ 一七七一) 。 れる感謝の祭儀と聖体の秘跡と ルナウムに来た群衆に向かっ ( 一七七〇)。 を前もって示すものでした。こ 今日はヨハネ六章の一節から 十 五 節 ま で が 朗 読 さ れ ま し た。 る。 な ん と い う 恵 み、 な ん ていった。 たちに、いつも神様の祝福が豊 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわち、ティベ という喜び』(詩一三三・一) リア湖の向こう岸へ行かれた。大勢の群衆が付い 庄司篤神父 No たのは、後ほど制定なさる聖体 19 あなたにお献げする犠牲の深み 22 花婿として完全にあなたのた 27 主日の福音 ヨハネ 6・1 - 15 主日の御言葉 11 の秘跡を前もって示すものでし 26 第2朗読 エフェソ 4・1 - 6 かにありますように。 第1朗読 Ⅱ列王 4・42 - 44 瀬田教会土曜学校の「きょう だ い 合 宿 」 は、 私 に と っ て も、 パンの奇跡的な増加と御聖体
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