No300 発刊2015年9月

カトリック
瀬田教会
カトリック瀬田教会広報
創刊 1973 年
編集・発行 瀬田教会信徒会
東京都世田谷区瀬田 4-16-1
Seta no Oka
バー・ウィークと呼ばれるよう
ない。村などのお年寄りの人た
とはそういうことなのかもしれ
はないから、年を取るというこ
が。別に物知りになったわけで
関東地方に限定されるのである
ん ど 関 東 地 方 に い た。 だ か ら、
大学時代と留学を除けば、ほと
普 通 の 日 常 生 活 の こ と に 多 い。
は、父母を敬わなければならな
れている。無事に生きるために
大 人、 成 熟 し た 成 人 に 向 け ら
向けられたものではない。大の
の よ う に、「 十 戒 」 は、 子 供 に
の第四番目の掟がある。御存じ
てそこで長生きするために、こ
え」である。約束の土地に入っ
旧 約 聖 書 に 出 て 来 る「 十
戒 」 の 第 四 番 目 が、「 父 母 を 敬
る。凄いと思う。
言われなくても、自然とそうな
十 分 に 語 っ て い る。
「敬え」と
何も語らなくなるが、
その姿は、
の 生 活 の 名 残 が あ る の で あ る。
だけなのに、その生には、祈り
ものを建てたのがこの日だか
が、今日の老人ホームにあたる
日になったのは、昔、聖徳太子
が主旨のようである。九月 十五
りよい社会を作ろう」というの
その知恵〈経験〉を借りて、よ
と を 意 味 し た の で あ ろ う。「 長
は、そうした知恵や徳のあるこ
の で あ ろ う。「 老 」 と い う 字 に
者は、長老として尊敬を集めた
しれない。当然、そうした高齢
れが学校の始まりだったのかも
あろう。洋の東西を問わず、そ
り、神と共にある生である。確
とって、修道生活と言えば、祈
隠 れ 蓑 が な い だ け に、 彼 ら に
られることである。司祭という
と共にいられたことであり、い
る。特に、高齢のブラザーたち
ちと共に生きられることであ
がある。それは、高齢の兄弟た
「敬老の日」があ
九 月 は、
るためか、高齢者の月のような
感じがする。元々は、九月十五
日に祝っていたが、九月の第三
月曜日に祝うようになった。今
年 の よ う に、 二 十 二 日 を は さ
ん で 秋 分 の 日 が 来 る と、 間 の
二十二日は国民の祝日になるの
なっても、ただただ生きている
だ。春のゴールデン・ウィーク
ちは、代々、折に触れ若者が知
い。無事に長生きするための何
理、掃除、庭木の剪定などなど
から来るので、高齢を意味する
らないことを教えて行ったので
伝える者だからである。
や家において、神について語り
が含まれてくる。彼らこそ、村
そこには当然神についてのこと
る。それは、生きる知恵であり、
かを、彼らは持っているのであ
「 シ ル バ ー」 か ら 来 る の で は な
いようである。
あり、
「成人の日(成人式)
」が
「 敬 老 の 日 」 は、 戦 後 に 始
ま っ た よ う で、
「子供の日」が
老
あ る の に、 高 齢 者 の 日 が な い。
そこで、「としよりの日」を作っ
ら、という説があるが、確かで
老」などという言葉はそんな人
かに、
まだ体力と気力があって、
たとか。
「高齢者を大切にして、
曲 が っ て い る 人 は 少 な い。
「高
はない。
のことであろう。だから、「老」
祈りや秘跡に参加できているう
ところで、私は、瀬田の修
道院にいて幸せだなと思うこと
齢者」と「腰の曲がっている人」
ところで、時々、私自身に
とっては、常識であり、ごくご
でも、年齢に関係ないことがあ
が、同じではないようだ。
く当然のことを、年下の神父が
る。
ち も そ う で あ る が、 で き な く
知らないことがある。特に、調
構かくしゃくとしていて、腰が
使っている人を見かけても、結
ような人をあまり見ない。杖は
く見かけたものだが、最近その
は、腰の曲がったお婆さんをよ
ら来ている字だそうである。昔
た人が、杖をついている」様か
は、
「髪の毛の長い、腰の曲がっ
してしまうのであるが、この字
る と、 私 は、 エ ビ を 連 想
人の「老」という字を見
瀬田の丘
で、連休となる。それで、シル
1 ◀ Seta no Oka
主日のミサ
午前 7 時、午前 9 時半
湯澤民夫 神父
老
No 300 2015 年 9 月
No 300 2015 年 9 月
「信徒について」考える
を次の世代に伝える」という目
体 で す。 そ し て、「 先 人 の 贈 与
に加えてくださった。
日々、救われる人々を仲間
て い た。 こ う し て、 主 は
おられます。このような試みは
代教会の様子です。これを見る
『使徒言行録』の二章にある初
わかりでしよう。今読んでいる
て変わってしまったのだろうか
に遭遇する度に、日本はどうし
の 心 に 恐 れ が 生 じ た。 信
議な業と徴とを見て、みな
て行われていた多くの不思
うわけです。
取っているのではないかなと思
何か新しい社会の在り方を先
中にありました。信仰は人の集
本に、堤未果さんの「沈みゆく
と た め 息 が つ き た く な り ま す。
じる人たちはみな一つにな
ましよう 3。
家ではパンを裂き、喜びと
し て、 絶 え ず 神 殿 に 参 り、
(次号に続く)
Seta no Oka ▶ 2
Seta no Oka
的をもった世代を超えた人の集
よく読んでいないのですが、ど
各地で形を変えながらなされて
と、教会はその始まりから、共
小西広志 神父
うも、
資本主義という制度では、
います。
まりの大切さを訴え、実践して
以上見てきましたけど、少し
視点を変えてみましよう。現代
これから先、たち行かなくなっ
は、ちよっと危機的な状況のよ
てしまうようです。
まり中で生まれ、育まれていく
うに思うのです。経済成長、成
使徒たちの教えを守り、兄
のです。そうしますと、これか
長戦略だけが社会を測る基準と
日本の社会は大きく変わりつ
つあるようです。その中で人間
弟的交わり、パンを裂くこ
ら先の時代、教会の中に表れる
なっています。しかし、その一
関係の軋み、歪みみたいなもの
と、 祈 り に 専 念 し て い た。
信 徒 相 互 の 関 わ り 合 い の 姿 は、
方で経済格差、生活格差は次第
が生じつつあります。時々、目
そ し て、 使 徒 た ち に よ っ
同体といわれる、人の集まりの
にハッキリとしてきました。こ
をふさぎたくなるような出来事
さ て、 彼 ら は、 ひ た す ら
れは皆さんの方が実感としてお
大国アメリカ」というものがあ
しかし、新しい人間関係を作り
わ た し の お 話 し は 以 上 で す。
り ま す 1。 こ れ を 見 る と、 ア メ
リカは保険制度が金融商品とし
中途半端でご免なさい。しかし、
新しい共同体試論
り、すべての物を共有にし、
新しい共同体を作る可能性があ
真心をもって食事をともに
3 内田樹、「街場の共同体論」、潮出版社、2014、p.84-89。東京新聞夕
刊第 5 面、2015 年 1 月 6 日
「瀬田の丘」編集担当
て流通している。お金のある人
とない人では、受けられる医療
あげていく働きもないわけでは
一 緒 に 考 え て い く、 一 緒 に 深
ま っ て い く こ と を 目 指 せ た ら、
は変わってくる。苦しむのは患
財 産 や 持 ち 物 を 売 り、 そ
れぞれの必要に応じて、み
信徒の果たす役割は大きいかな
ないようです。
な に そ れ を 分 配 し て い た。
者だけではない、医療機関の医
に資料として哲学者の
お手た元
つる
内田 樹 先生の本のコピーを用
ま た、 日 々、 心 を 一 つ に
なるのかなと思ってこの本を読
るのではと内田先生はおっし
し、 神 を 賛 美 し て い た。
師もまた過剰な労働を強いられ
ている。そんなことが分かりま
意しました。ちよっと読んでみ
んでいます。
やっているようです。貧しいけ
彼らは民全体から好意を得
と思う次第です。
す。もしかしたら、日本もこう
その一方で、この半年ぐらい
の間、資本主義の終焉というこ
れども、互いに支え合える共同
編集させていただきました。
2 例えば、水野和夫、「資本主義の終焉と歴史の危機」、集英社新書、
2014、あるいは、トマ・ピケティ、山形浩生他訳、「21 世紀の資本」、み
すず書房、2014 など
神父の講義「信徒について考える」から転載・
1 堤未果、「沈みゆく大国アメリカ」、集英社新書、2014、ISBN-13:9784087207637
主催の聖体奉仕者研修会で行われた小西広志
44
とがいわれてきました 2。ま だ、
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脚注
本文は 2015 年 1 月に玉川通り宣教協力体
42
43
45
46
No 300 2015 年 9 月
担当:井之上 神父、小西神父
翌日の日曜日のお昼まで
参加申込書は修道院受付に
用意しております
粗末な設備ですが宿泊ができます
通いでの参加も可能です
日
日
●●十二 月 日〜 日
※一日だけの参加も可能です。
待ち望む、主の降誕の準備
日のプログラムが中心ですが、修
解散
朝食 日 朝の祈り
帰天祭
午後5時 集合
祈り、夕食
● 対象 どなたでも
●プログラム
※
道院に宿泊することもできます。
●●十一月 日〜 日
死者の月に祈る
井之上神父、小西神父
● 担当
● テ ー マ 亡 く な っ た 方 の こ と を、
思い出して祈りましょう。
午後5時 祈りと黙想
夕食
分かちあい
日 午前7時 ミサ
朝食
解散
名限定
※詳細はお問い合わせください。
●担当 小西神父
●対象 どなたでも、
5
●● 九月 日〜 日
十字架と共に祈る
サンダミアノの
3
● 対象 どなたでも ● プログラム
6
10
● 担当 小西神父
名限定
● テ ー マ 聖 フ ラ ン シ ス コ が 祈 っ た
ように、サンダミアノの十字架で祈り
ましょう。
日
午後5時 集合
● 対象 どなたでも、
●プログラム
時 ミサ
おはなし
午前
解散
日〜
日
朝の祈り 朝食
おはなし、夕食
十字架の前での祈り 日
●● 十月 フランシスコの帰天祭
祈りの中で過ごす
● 担当 井之上神父、小西神父
● テ ー マ 聖 フ ラ ン シ ス コ の 最 後 の
時を祈りによって追体験しましょう。
22
☎ 03-3700-0652
時間は原則として土曜日の夕方 5 時から
4
Seta no Oka
3 ◀ Seta no Oka
21
東京都世田谷区瀬田 4-16-1
ゆったりとした恵みの時を過ごしてまいりましょう
27
15
4
〒 158-0095
聖アントニオ修道院の施設を用いながら、祈りの一時
3
21
22
26
27
聖アントニオ修道院
週末のひととき、ゆっくりとした時間のなか一緒に祈りませんか
26
11
3
2015 年 9 月〜 12 月
り
No 300 2015 年 9 月
天の国は次のことに似ている。ある家の主人が葡
萄園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。
庄司篤神父
おける神の国のことで、ぶどう
園で働く労働者とは、キリスト
を信じて洗礼を受け、それ以前
の全ての罪を赦されて神の子と
され、神の命を生き始めた者で
第一朗読:中里敏美 第二朗読:渡部明子
午前 7 時 司式:井之上神父
午前 9 時半 司式:内藤神父
第一朗読:里中英樹 第二朗読:吉田まどか
行事:敬老を祝う会
2015 年 9 月 20 日(年間第 25 主日)
午前 7 時 司式:井之上神父
午前 9 時半 司式:湯澤神父
第一朗読:小楠千早 第二朗読:中村小梅
行事:運営協議会
ナリオンの報酬は与えられませ
ることを止めた人々には、一デ
の途上でぶどう園の労働者であ
て 生 き 抜 く 」 こ と で す。
(人生
る こ と、 つ ま り、
「神の子とし
で、
「ぶどう園の労働者」であ
は、私たちが地上の最期の日ま
という言葉で主が強調されるの
日につき、
一デナリオンの報酬」
生 き さ せ て 頂 く こ と で す。
「一
妹・聖霊の神殿とされて永遠に
て御父の子・キリストの兄弟姉
デナリオン」とは神の命を受け
生の最期の日までのことで、「一
ぶどう園で働き始めた時から人
「一日」とは私たち一人一人が
連中は、一時間しか働きません
を 言 い ま す。「 最 後 に 来 た こ の
受け取ると、父である神に不平
「一デナリオン」です。それで、
と考えながら来ますが、彼らも
「もっと多くもらえるだろう」
民 と し て 生 き て き た 人 た ち が、
ずっと地上における神の国の
代 に 洗 礼 を 受 け て、 そ れ 以 後
た 人 た ち 」、 つ ま り、 幼 少 年 時
受 け 取 り ま す。「 最 初 に 雇 わ れ
来て、各々「一デナリオン」を
そがれ時に神を信じた人たちが
があります。そこで、人生のた
こにこそ、神様独特のなさり方
やりなさい」と言われます。こ
に来た者まで順に賃金を払って
していない。神の命を与えるだ
「 子 よ、 あ な た に 不 当 な こ と は
なる」と。この地上で神の子と
が先になり、先にいる者が後に
主は最後に付け加えられまし
た。
「 こ の よ う に、 後 に い る 者
の気前のよさを妬むのか。」
はいけないのか。それとも、私
の富を自分のしたいようにして
やりたいのだ。私の命とすべて
て、私の家で永遠に生きさせて
キリストの共同の相続者とし
たいのだ。つまり、私の独り子
ように、この最後の者にも与え
いる全ての富をあなたに与えた
けでなく、父である私が持って
の 悪 い 自 分 の 子 を 諭 さ れ ま す。
父である神は、このもの分かり
ん。
)
でした。まる一日、暑い中を辛
中とを同じ扱いにするとは。」
抱して働いた私たちと、この連
2015 年 9 月 13 日(年間第 24 主日)
夕方の六時に、父である神は
監督に、「労働者たちを呼んで、
午前 9 時半 司式:湯澤神父
す。主は「一日につき、一デナ
午前 7 時 司式:元田神父
最後に来た者から始めて、最初
2015 年 9 月 6 日(年間第 23 主日)
リ オ ン の 報 酬 」 と 言 わ れ ま す。
ミサ・行事予定
午前 7 時 司式:静神父
午前 9 時半 司式:内藤神父
第一朗読:中川泰輔 第二朗読:齊藤美惠
さい。
決して言わないように助けて下
暑い中を辛抱して働く」
などと、
頂くことについて、「まる一日、
生涯を神の子として生きさせて
働 く こ と 」、 つ ま り、 地 上 の 全
「夜明けから夕方
天 の 父 よ、
までぶどう園の労働者として
に生きるでしょう。
いて、永遠に感謝と賛美のうち
に神の賜物であることを悟って
れた人たちは、この恵みが完全
人生のたそがれ時に神の子とさ
になる」と、主は断言されます。
働 い た 」 な ど と 言 う 者 は、
「後
を 悟 ら ず、「 暑 い 中 を 辛 抱 し て
上もなく貴重な賜物であること
して生きさせて頂くことがこの
2015 年 9 月 27 日(年間第 26 主日)
第2朗読 フィリピ 1・20 − 27
主日の福音 マタイ 20・1 − 16
Seta no Oka ▶ 4
Seta no Oka
父である神はぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出
かけて行き、一日につき一デナリオンの約束で労働者をぶどう園
に送られます。更に九時、十二時、三時、そして五時にも出かけ
第1朗読 イザヤ 55・6 − 9
主日の御言葉
先にいる者が後になる
て行き、労働者をぶどう園に送られます。ぶどう園とは、地上に
後にいる者が先になり、