カトリック 瀬田教会 カトリック瀬田教会広報 創刊 1973 年 編集・発行 瀬田教会信徒会 東京都世田谷区瀬田 4-16-1 Seta no Oka バー・ウィークと呼ばれるよう ない。村などのお年寄りの人た とはそういうことなのかもしれ はないから、年を取るというこ が。別に物知りになったわけで 関東地方に限定されるのである ん ど 関 東 地 方 に い た。 だ か ら、 大学時代と留学を除けば、ほと 普 通 の 日 常 生 活 の こ と に 多 い。 は、父母を敬わなければならな れている。無事に生きるために 大 人、 成 熟 し た 成 人 に 向 け ら 向けられたものではない。大の の よ う に、「 十 戒 」 は、 子 供 に の第四番目の掟がある。御存じ てそこで長生きするために、こ え」である。約束の土地に入っ 旧 約 聖 書 に 出 て 来 る「 十 戒 」 の 第 四 番 目 が、「 父 母 を 敬 る。凄いと思う。 言われなくても、自然とそうな 十 分 に 語 っ て い る。 「敬え」と 何も語らなくなるが、 その姿は、 の 生 活 の 名 残 が あ る の で あ る。 だけなのに、その生には、祈り ものを建てたのがこの日だか が、今日の老人ホームにあたる 日になったのは、昔、聖徳太子 が主旨のようである。九月 十五 りよい社会を作ろう」というの その知恵〈経験〉を借りて、よ と を 意 味 し た の で あ ろ う。「 長 は、そうした知恵や徳のあるこ の で あ ろ う。「 老 」 と い う 字 に 者は、長老として尊敬を集めた しれない。当然、そうした高齢 れが学校の始まりだったのかも あろう。洋の東西を問わず、そ り、神と共にある生である。確 とって、修道生活と言えば、祈 隠 れ 蓑 が な い だ け に、 彼 ら に られることである。司祭という と共にいられたことであり、い る。特に、高齢のブラザーたち ちと共に生きられることであ がある。それは、高齢の兄弟た 「敬老の日」があ 九 月 は、 るためか、高齢者の月のような 感じがする。元々は、九月十五 日に祝っていたが、九月の第三 月曜日に祝うようになった。今 年 の よ う に、 二 十 二 日 を は さ ん で 秋 分 の 日 が 来 る と、 間 の 二十二日は国民の祝日になるの なっても、ただただ生きている だ。春のゴールデン・ウィーク ちは、代々、折に触れ若者が知 い。無事に長生きするための何 理、掃除、庭木の剪定などなど から来るので、高齢を意味する らないことを教えて行ったので 伝える者だからである。 や家において、神について語り が含まれてくる。彼らこそ、村 そこには当然神についてのこと る。それは、生きる知恵であり、 かを、彼らは持っているのであ 「 シ ル バ ー」 か ら 来 る の で は な いようである。 あり、 「成人の日(成人式) 」が 「 敬 老 の 日 」 は、 戦 後 に 始 ま っ た よ う で、 「子供の日」が 老 あ る の に、 高 齢 者 の 日 が な い。 そこで、「としよりの日」を作っ ら、という説があるが、確かで 老」などという言葉はそんな人 かに、 まだ体力と気力があって、 たとか。 「高齢者を大切にして、 曲 が っ て い る 人 は 少 な い。 「高 はない。 のことであろう。だから、「老」 祈りや秘跡に参加できているう ところで、私は、瀬田の修 道院にいて幸せだなと思うこと 齢者」と「腰の曲がっている人」 ところで、時々、私自身に とっては、常識であり、ごくご でも、年齢に関係ないことがあ が、同じではないようだ。 く当然のことを、年下の神父が る。 ち も そ う で あ る が、 で き な く 知らないことがある。特に、調 構かくしゃくとしていて、腰が 使っている人を見かけても、結 ような人をあまり見ない。杖は く見かけたものだが、最近その は、腰の曲がったお婆さんをよ ら来ている字だそうである。昔 た人が、杖をついている」様か は、 「髪の毛の長い、腰の曲がっ してしまうのであるが、この字 る と、 私 は、 エ ビ を 連 想 人の「老」という字を見 瀬田の丘 で、連休となる。それで、シル 1 ◀ Seta no Oka 主日のミサ 午前 7 時、午前 9 時半 湯澤民夫 神父 老 No 300 2015 年 9 月 No 300 2015 年 9 月 「信徒について」考える を次の世代に伝える」という目 体 で す。 そ し て、「 先 人 の 贈 与 に加えてくださった。 日々、救われる人々を仲間 て い た。 こ う し て、 主 は おられます。このような試みは 代教会の様子です。これを見る 『使徒言行録』の二章にある初 わかりでしよう。今読んでいる て変わってしまったのだろうか に遭遇する度に、日本はどうし の 心 に 恐 れ が 生 じ た。 信 議な業と徴とを見て、みな て行われていた多くの不思 うわけです。 取っているのではないかなと思 何か新しい社会の在り方を先 中にありました。信仰は人の集 本に、堤未果さんの「沈みゆく と た め 息 が つ き た く な り ま す。 じる人たちはみな一つにな ましよう 3。 家ではパンを裂き、喜びと し て、 絶 え ず 神 殿 に 参 り、 (次号に続く) Seta no Oka ▶ 2 Seta no Oka 的をもった世代を超えた人の集 よく読んでいないのですが、ど 各地で形を変えながらなされて と、教会はその始まりから、共 小西広志 神父 うも、 資本主義という制度では、 います。 まりの大切さを訴え、実践して 以上見てきましたけど、少し 視点を変えてみましよう。現代 これから先、たち行かなくなっ は、ちよっと危機的な状況のよ てしまうようです。 まり中で生まれ、育まれていく うに思うのです。経済成長、成 使徒たちの教えを守り、兄 のです。そうしますと、これか 長戦略だけが社会を測る基準と 日本の社会は大きく変わりつ つあるようです。その中で人間 弟的交わり、パンを裂くこ ら先の時代、教会の中に表れる なっています。しかし、その一 関係の軋み、歪みみたいなもの と、 祈 り に 専 念 し て い た。 信 徒 相 互 の 関 わ り 合 い の 姿 は、 方で経済格差、生活格差は次第 が生じつつあります。時々、目 そ し て、 使 徒 た ち に よ っ 同体といわれる、人の集まりの にハッキリとしてきました。こ をふさぎたくなるような出来事 さ て、 彼 ら は、 ひ た す ら れは皆さんの方が実感としてお 大国アメリカ」というものがあ しかし、新しい人間関係を作り わ た し の お 話 し は 以 上 で す。 り ま す 1。 こ れ を 見 る と、 ア メ リカは保険制度が金融商品とし 中途半端でご免なさい。しかし、 新しい共同体試論 り、すべての物を共有にし、 新しい共同体を作る可能性があ 真心をもって食事をともに 3 内田樹、「街場の共同体論」、潮出版社、2014、p.84-89。東京新聞夕 刊第 5 面、2015 年 1 月 6 日 「瀬田の丘」編集担当 て流通している。お金のある人 とない人では、受けられる医療 あげていく働きもないわけでは 一 緒 に 考 え て い く、 一 緒 に 深 ま っ て い く こ と を 目 指 せ た ら、 は変わってくる。苦しむのは患 財 産 や 持 ち 物 を 売 り、 そ れぞれの必要に応じて、み 信徒の果たす役割は大きいかな ないようです。 な に そ れ を 分 配 し て い た。 者だけではない、医療機関の医 に資料として哲学者の お手た元 つる 内田 樹 先生の本のコピーを用 ま た、 日 々、 心 を 一 つ に なるのかなと思ってこの本を読 るのではと内田先生はおっし し、 神 を 賛 美 し て い た。 師もまた過剰な労働を強いられ ている。そんなことが分かりま 意しました。ちよっと読んでみ んでいます。 やっているようです。貧しいけ 彼らは民全体から好意を得 と思う次第です。 す。もしかしたら、日本もこう その一方で、この半年ぐらい の間、資本主義の終焉というこ れども、互いに支え合える共同 編集させていただきました。 2 例えば、水野和夫、「資本主義の終焉と歴史の危機」、集英社新書、 2014、あるいは、トマ・ピケティ、山形浩生他訳、「21 世紀の資本」、み すず書房、2014 など 神父の講義「信徒について考える」から転載・ 1 堤未果、「沈みゆく大国アメリカ」、集英社新書、2014、ISBN-13:9784087207637 主催の聖体奉仕者研修会で行われた小西広志 44 とがいわれてきました 2。ま だ、 47 脚注 本文は 2015 年 1 月に玉川通り宣教協力体 42 43 45 46 No 300 2015 年 9 月 担当:井之上 神父、小西神父 翌日の日曜日のお昼まで 参加申込書は修道院受付に 用意しております 粗末な設備ですが宿泊ができます 通いでの参加も可能です 日 日 ●●十二 月 日〜 日 ※一日だけの参加も可能です。 待ち望む、主の降誕の準備 日のプログラムが中心ですが、修 解散 朝食 日 朝の祈り 帰天祭 午後5時 集合 祈り、夕食 ● 対象 どなたでも ●プログラム ※ 道院に宿泊することもできます。 ●●十一月 日〜 日 死者の月に祈る 井之上神父、小西神父 ● 担当 ● テ ー マ 亡 く な っ た 方 の こ と を、 思い出して祈りましょう。 午後5時 祈りと黙想 夕食 分かちあい 日 午前7時 ミサ 朝食 解散 名限定 ※詳細はお問い合わせください。 ●担当 小西神父 ●対象 どなたでも、 5 ●● 九月 日〜 日 十字架と共に祈る サンダミアノの 3 ● 対象 どなたでも ● プログラム 6 10 ● 担当 小西神父 名限定 ● テ ー マ 聖 フ ラ ン シ ス コ が 祈 っ た ように、サンダミアノの十字架で祈り ましょう。 日 午後5時 集合 ● 対象 どなたでも、 ●プログラム 時 ミサ おはなし 午前 解散 日〜 日 朝の祈り 朝食 おはなし、夕食 十字架の前での祈り 日 ●● 十月 フランシスコの帰天祭 祈りの中で過ごす ● 担当 井之上神父、小西神父 ● テ ー マ 聖 フ ラ ン シ ス コ の 最 後 の 時を祈りによって追体験しましょう。 22 ☎ 03-3700-0652 時間は原則として土曜日の夕方 5 時から 4 Seta no Oka 3 ◀ Seta no Oka 21 東京都世田谷区瀬田 4-16-1 ゆったりとした恵みの時を過ごしてまいりましょう 27 15 4 〒 158-0095 聖アントニオ修道院の施設を用いながら、祈りの一時 3 21 22 26 27 聖アントニオ修道院 週末のひととき、ゆっくりとした時間のなか一緒に祈りませんか 26 11 3 2015 年 9 月〜 12 月 り No 300 2015 年 9 月 天の国は次のことに似ている。ある家の主人が葡 萄園で働く者を雇うために、朝早く出かけた。 庄司篤神父 おける神の国のことで、ぶどう 園で働く労働者とは、キリスト を信じて洗礼を受け、それ以前 の全ての罪を赦されて神の子と され、神の命を生き始めた者で 第一朗読:中里敏美 第二朗読:渡部明子 午前 7 時 司式:井之上神父 午前 9 時半 司式:内藤神父 第一朗読:里中英樹 第二朗読:吉田まどか 行事:敬老を祝う会 2015 年 9 月 20 日(年間第 25 主日) 午前 7 時 司式:井之上神父 午前 9 時半 司式:湯澤神父 第一朗読:小楠千早 第二朗読:中村小梅 行事:運営協議会 ナリオンの報酬は与えられませ ることを止めた人々には、一デ の途上でぶどう園の労働者であ て 生 き 抜 く 」 こ と で す。 (人生 る こ と、 つ ま り、 「神の子とし で、 「ぶどう園の労働者」であ は、私たちが地上の最期の日ま という言葉で主が強調されるの 日につき、 一デナリオンの報酬」 生 き さ せ て 頂 く こ と で す。 「一 妹・聖霊の神殿とされて永遠に て御父の子・キリストの兄弟姉 デナリオン」とは神の命を受け 生の最期の日までのことで、「一 ぶどう園で働き始めた時から人 「一日」とは私たち一人一人が 連中は、一時間しか働きません を 言 い ま す。「 最 後 に 来 た こ の 受け取ると、父である神に不平 「一デナリオン」です。それで、 と考えながら来ますが、彼らも 「もっと多くもらえるだろう」 民 と し て 生 き て き た 人 た ち が、 ずっと地上における神の国の 代 に 洗 礼 を 受 け て、 そ れ 以 後 た 人 た ち 」、 つ ま り、 幼 少 年 時 受 け 取 り ま す。「 最 初 に 雇 わ れ 来て、各々「一デナリオン」を そがれ時に神を信じた人たちが があります。そこで、人生のた こにこそ、神様独特のなさり方 やりなさい」と言われます。こ に来た者まで順に賃金を払って していない。神の命を与えるだ 「 子 よ、 あ な た に 不 当 な こ と は なる」と。この地上で神の子と が先になり、先にいる者が後に 主は最後に付け加えられまし た。 「 こ の よ う に、 後 に い る 者 の気前のよさを妬むのか。」 はいけないのか。それとも、私 の富を自分のしたいようにして やりたいのだ。私の命とすべて て、私の家で永遠に生きさせて キリストの共同の相続者とし たいのだ。つまり、私の独り子 ように、この最後の者にも与え いる全ての富をあなたに与えた けでなく、父である私が持って の 悪 い 自 分 の 子 を 諭 さ れ ま す。 父である神は、このもの分かり ん。 ) でした。まる一日、暑い中を辛 中とを同じ扱いにするとは。」 抱して働いた私たちと、この連 2015 年 9 月 13 日(年間第 24 主日) 夕方の六時に、父である神は 監督に、「労働者たちを呼んで、 午前 9 時半 司式:湯澤神父 す。主は「一日につき、一デナ 午前 7 時 司式:元田神父 最後に来た者から始めて、最初 2015 年 9 月 6 日(年間第 23 主日) リ オ ン の 報 酬 」 と 言 わ れ ま す。 ミサ・行事予定 午前 7 時 司式:静神父 午前 9 時半 司式:内藤神父 第一朗読:中川泰輔 第二朗読:齊藤美惠 さい。 決して言わないように助けて下 暑い中を辛抱して働く」 などと、 頂くことについて、「まる一日、 生涯を神の子として生きさせて 働 く こ と 」、 つ ま り、 地 上 の 全 「夜明けから夕方 天 の 父 よ、 までぶどう園の労働者として に生きるでしょう。 いて、永遠に感謝と賛美のうち に神の賜物であることを悟って れた人たちは、この恵みが完全 人生のたそがれ時に神の子とさ になる」と、主は断言されます。 働 い た 」 な ど と 言 う 者 は、 「後 を 悟 ら ず、「 暑 い 中 を 辛 抱 し て 上もなく貴重な賜物であること して生きさせて頂くことがこの 2015 年 9 月 27 日(年間第 26 主日) 第2朗読 フィリピ 1・20 − 27 主日の福音 マタイ 20・1 − 16 Seta no Oka ▶ 4 Seta no Oka 父である神はぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出 かけて行き、一日につき一デナリオンの約束で労働者をぶどう園 に送られます。更に九時、十二時、三時、そして五時にも出かけ 第1朗読 イザヤ 55・6 − 9 主日の御言葉 先にいる者が後になる て行き、労働者をぶどう園に送られます。ぶどう園とは、地上に 後にいる者が先になり、
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