語りとしての音楽

語りとしての音楽
デカルトやマッテゾンが宣言しているように、バロック音楽の主目的は「聴衆に情念を喚起するこ
と」にあったと言ってよい。(音楽がまだ自律的に芸術の表現形式として自己目的化する時代の前
であるので、音楽はあくまで情念を喚起するための手段と考えられていたのである。)聴き手をして
情念を喚起するには、①該当する情念を音として表現し、②共感という人類に備わった機能を
使って情念をコミュニケートすればよい。
バロック時代の音楽には音量を指示するダイナミクス記号がほとんど無いが、これは記譜法が未
発達だったということ以外に、旋律を語るように、喋るように演奏し、強調すべきところ、声をひそめ
るところ、賛同するところ、反駁するところを文脈で理解し、喜怒哀楽といった感情の表出を適切に
付随させれば、わざわざ「大・小」などと書き込まなくても自明のことだったのである。当時の音楽家
がそういった語りとしての楽譜の読み方に習熟していたということでもあり、当時の音楽様式自体も
語りに近かったということが言える。(後の時代に音楽の形式自体が自己目的化して発展していく
につれ、音楽は語りではなく純粋な音楽その物となっていき、それとともにダイナミクス記号がなけ
れば作曲家の意図を読み取れなくなっていったのである。)
語りとしての音楽における音量は、情念的効果によって自然に決められるものであったから、上
行音型では高揚してくる感じに合わせて自然なクレシェンドが、下行音型では退潮していく感じに
合わせて自然なデクレシェンドがつくのが当然であったし、指定された楽器のテッシトゥーラに合
わせて、標準音域より高音域ではより精神的高揚と強調に合わせて少し大きく、標準音域より低音
域では落ち着いた精神状態に合わせて少し小さく弾くのが普通であった。その他、音型から判断
される多様な効果(Figurenlehre)に合わせて、怒り、驚き、高揚、復讐などの強い感情や、痛み、
叫び、ショックといった強い情動に対しては大きな音量で、愛、平和、希望といった穏和な感覚や 、
悲しみ、悲哀、哀訴といったネガティブな感情などは小さめの音量で表現する。
バロック音楽の語法に疎い音楽家がしばしば誤解していることであるが、バロック音楽は、音程
やリズムを正確に取り、綺麗な音色で演奏すれば、それだけで音楽になるものではない。そのよう
に音を並べただけのものは、まったく生命の吹き込まれていない無機的な音の羅列に過ぎない。
バロック音楽の演奏に魂を吹き込むのは、「音楽を語りとして理解する技術・読解力」であり、その
ためには音楽修辞的な知識や修練もさることながら、情念喚起の手段として、楽譜も自分に語りか
けてきているという認識を持つこと、そして、作曲者と聴衆の間に立つ<情念の媒介伝達者・共振
体>として自分の役割を認識すること、語りかけるように演奏すること、といった演奏態度と様式理
解が重要である。
表現形式として、語りかける音楽という思想はモンテヴェルディが<第二技法>と呼んでバロック
の書法を創始したときから、既に内包されていたと考えてよい。第二技法の理念とは、従来のルネ
サンス音楽で重視されていた複雑な多声音楽の構成の巧みさ、対称性、協和音の澄んだ響き、
緻密で理念的な動機模倣の技法などから決別し、敢えて単純な旋律、薄い内声、躍動するバス、
多用される不協和音といった、むしろ “野蛮な” 書法に拠ることで、感情をいきいきと表現するた
めのものだったからである。音楽理論の方は古代ギリシャ以来、綿々と数学的な調和の理論に基
づく説明が続いていたが、数学と音楽美の理論を切り離したのは、18 世紀の数学者・音楽理論家
のエクシメーノであり、理論化の方は実践に 100 年以上遅れていた。