兵庫教育大学 研究紀要 第47巻 2015年 9 月 pp. 1 10 広島女学校におけ る子 ども本位の活動に根 ざし た保育の確立 - ア メ リ カ人教育宣教師M ・ M ・ ク ッ ク と 進歩的 な保育の導入 一 Establishing kindergarten method rooted in the natural activities of children at Hiroshima Girls' School: U.S. Educator-M issionary M. M. Cook and the adoption of progressive method 橋 川 喜美代* HASHIKAWA Kimiyo 本研究は, ア メ リ カ人教育宣教師, M ・ M ・ ク ツク が広島女学校におい て進めた進歩的 な保育への改革につい て分析す るこ と に目的があ る。 分析の結果、 次の 4 点が明 ら かと な っ た。 ①恩物 ・ 作業は, 子 ども の経験 を深め発展 させ る手段 と い う 観点か ら 問い直 さ れ, 新 た な材料が自由製作 に導入 さ れた。 ②一つの主題 を中心に系 統立 て ら れた中心的統合主義 な 保育内容は, 子 ども の心身 の発達 と い う 観点か ら 精選 さ れた。 ③恩物 ・ 作業で教え る場で あ っ た幼稚園は, 子 ども の経験 を深める生活の場へと 移行 し た。 ④ ク ツク ら ア メ リ カ人教育宣教師 ら によ る改革は当時のわが国の幼稚園 を10年余り リ ー ド し た内容で あ っ た。 The objective of this research is to analyze progressive reforms made to kindergarten by U.S. educator-missionary M . M . Cook at Hiroshima Girls' School. The analysis clarified the following four points: 1) New materials were introduced to the idea of free construction, following a revision of the gi fts of kindergarten from the perspective of deepening and developing children's experience; 2) Concentration Curriculum based in a single-subject line- age was chosen as a means of helping children develop both physically and mentally; 3) the kindergarten, which was a place where children received various gifts and were taught by way of di fferent kinds of works, was transformed into an environment where they could deepen their experience of day-to-day li fe ski lls, and 4) the reforms implemented by Cook and other American educator-missionaries were some ten-plus years ahead of other Japanese kindergartens of the time. キーワ ー ド : M ・ M ・ ク ツク , 広島女学校, ア メ リ カ人教育宣教師, 進歩的 な保育 Key words : M . M . Cook, Hiroshima Girls' School, U. S educator-missionary, progressive method は じ めに ら れてい た 2)。 ま た, ルイ ス ウ' イ ル無 償幼稚園協 会の長 広島女学校 (現, 聖和大学) 附属幼稚園は, ア メ リ カ か ら , 後 に コ ロ ン ビ ア大学 テ イ ーチ ヤーズ カ レ ツ ジに奉 人教育宣教師たちがいち早 く 進歩的な保育 を導入 し た。 職す る ヒ ル (Hill, P. S ) と の交流は深 く , その友情の 進歩的 な保育 と キ リ ス ト 教伝道は, 大阪 に 移転 さ れた 証が1901 (明治34) 年, マ コ ーレー (Macoulay, F. C ) 1919年から41年 ま でのラ ンバス女学院時代 に結実 を迎え の日 本派遣 と な っ た 3)。 ヒ ルの元 で指導 を受 け たマ コ ー る。 1887 (明治20) 年, 私立広島英和女学校は, 砂本貞 レ ーはゲ ー ンス を助け , 附属幼稚園 に進歩的 な保育 の息 吉が広島 に開い た私塾 を併合 し て設立 さ れ, ア メ リ カ人 吹 を も た ら し てい く 。 教育宣教師ゲー ンス (Gaines, N. B ) を初代校長 と し て こ う し た新 しい保育法を受け継いだのが1904年, 広島 招聘 し た。 1891 (明治24) 年 9 月に, 幼稚園を併設し た がキ リ ス ト 教への反対 から 園児が集ま ら ぬう ち に, 台風 女学校に着任 し たク ツク (Cook, M. M ) であ る。 金子 は保姆養成科学生, 松下 ト クの 『保育案ノ ー ト 』 を分析 で園舎が崩壊 し たため, 開園は翌年 9 月ま で延期 さ れた。 し , ①中心統合主義的影響 を受け, 連続性 ・ 系統化 さ れ 1895 (明治28) 年 4 月, 広島英和女学校 (翌年, 広島女 学校に改称) は, 修業年限 2 カ年の保姆養成科 (1908年 に保姆師範科と 改称) を発足 させた ' )。 ゲ ー ンスは中心 てい た こ と , ②子 ど も の興味関心 ・ 発達段階に歩 み寄 る 姿勢の一端が見 ら れる こ と , の 2 点 を挙げ, ク ッ ク によ る恩物中心主義改革への端緒 を明 ら かに し てい る 4)。 ク ッ 統合 の提唱 者 , ク ッ ク 群 師範学校 のパ ー カ ー (Parker, クは1911 (明治44) 年の休暇帰国に際し, コロ ンビア大 F ) と 交流があり , 彼から の著書や学校の刊行物が届け 学 におい て新教育 を デ ユー イ か ら 学 び, 従来 の保育時間 * 兵庫教育大学大学院人間発達教育専攻幼年教育 コ ース 平成27年 6 月26日受理 橋 川 割 を廃止 し , 自由作業 を目指 し始める。 こ れを支え たの 喜美代 1 . 恩物中心主義からの脱却 わが国の明治以来の教育 にキリ ス ト 教が果た し た役割 が, 1912年 に来任 し た フ ル ト ン (Fulton, J ) で あ る。 フ ル ト ンは コ ロ ン ビ ア大学 卒業後 , ア ド ラ ー (Adler, は大きい。 こ こ では, 広島女学校附属幼稚園の実践 を明 F ) が ニ ュ ー ヨ ー ク に設立 し た倫理文化協 会 5) の師範 ら かにす る前に, ア メ リ カ 人教育宣教師 た ち がわが国の 科を卒業, 同校で長い保育経験を積んでいた。 田中はク ツ 幼児教育 に与 え た影響 と と も に, ア メ リ カ の幼稚園運動 ク が進め た改革 を進歩主義のキ ーワ ー ド で あ る子 ども の につい てまず見 てお き たい。 「興味」 を用い て分析 し , フ レ ーベル主義 と 進歩主義の 統合 を図り , 独自の子 ども中心主義 を模索す るものであっ た と 指摘 し てい る 6)。 (1) ア メ リ カ人教育宣教師の活躍 松平は, キリ ス ト 教が幼児教育に与え た影響について, 1919 (大正 8 ) 年11月, 広島女学校保姆師範科は神戸 イ エ ス ・ キ リ ス ト が 「神 に近付 く には幼子のよ う で あ る の ラ ンバス記念伝道女学校 と の合併が決議 さ れ, 神学部 こ と が必要であ る」 と し て, 幼児の存在 を重視 し たこ と , と 保姆専修科 と を も つ ラ ンバス女学院 と し て, 広島 を離 フ レ ーベ ルの教育観, 人間観がキ リ ス ト 教のそ れに基づ れ, 大阪での新たなる出発 を目指 し た。 1928 (昭和 3 ) い てい る こ と , 優れた保育者がキ リ ス ト 教宣教師やキリ 年, ク ッ ク は進歩主義教育 に基づい た保育への転換 を決 ス ト 者のなかか ら 生 ま れた こ と な ど を挙げ てい る。 松平 意するが, こ の自由な保育の礎を築いたのは1923 (大正 は その優 れた キ リ ス ト 教 宣教師の中 で も , ハ ウ (Howe, 12) 年に来日 し , 翌年から ラ ンバス女学院の教師と な っ A. L ) の功績 を次のよ う に称え てい る 9)。 て い た ピ ー ビ ー (Peavy, A ) で あ る。 ピ ー ビ ーに指導 「彼女は, 神戸の教会の婦人会のメ ンバーが, 幼児教 を受け た主任保姆立花富の回想によ れば, 「教師が立て 育施設 を開設す るにあ た っ て保育者 を探 し てい る と の講 た計画で 子 ども を引 っ張 る」 保育 か ら , 「子 ども が中心 演 を聞 き , た だ ち にその求 めに応 じ , 母国 ア メ リ カ を離 で , 教師は よ く 子 ども を観察 し て子 ども の求 め る も のか れて来日 し た。 1887 (明治20) 年のこ と である。 ハウは, ら教育す る」 と い う やり 方への転換が進め ら れたのであ シカ ゴの幼稚園での約10年間の保育者と し ての経歴 を も っ る。 し か し , 立花は, 教師主導から子 ども中心への保育 てい たが, その経験 と知識 と を日本で役立 て る こ と を願っ への転換が, 親たちの理解 を得 る には困難 を要 し た と 述 たのであ る。 彼女は, 1889年に頌栄幼稚園 を設立 し実際 懐 し てい る 7)。 子 ど も 本位の活動 に根 ざ し た保育 を模索 の保育 に当 た る と と も に, 頌栄保母養成所 を設立 し保育 し続けたラ ンバス女学院附属幼稚園は1931 (昭和 6 ) 年 者養成に も力 を注い だ。 こ の養成所 では, 官立の東京女 4 月 に , ナ ース リ ー ・ ス ク ール を開設 し , 3 歳児保育 を 子師範学校の保母練習科に比べて修業年限, 週時間数の 開始す る。 当初, 女学院近 く の西洋館 を買収 し て園舎 を 面で合計約 3 倍の時間 を設け てい た。 ハウが, いかに質 設け る予定 であ っ たが, 不便だ と い う 理由 で附属幼稚園 の高い保育者の育成 を考え てい たか を う かがう こ と がで の一室 を保育室 と し て開園 さ れた。 ナ ース リ ー ・ ス ク ー き る。 ま た, フ レ ーベルの思想や方法の表面的 な理解や ルの導入は幼稚園が自由遊 びを基底 と し たキリ ス ト 教保 導入に と どま っ てい た当時の日本の状況の も と で, ハ ウ 育 を確立す る き っ かけ と な っ た 8)。 初代園長には ピー ビー がその精神や原理 を保育の中に生か し , ま た 『人之教育』 が就任 し , ナ ース リ ー ・ ス ク ールは, ラ ンバ ス女学院が 『母の遊戯及育児歌』 な どの翻訳 を と お し て フ レ ーベ ル 1941 (昭和16) 年, 西宮の現在地に移動するまで続いた。 の哲学 ・ 思想 を本格的 に紹介 し た功績 も見逃す こ と はで ク ツク ら が目指 し た子 ども 本位の活動 に根 ざ し た保育 き ない。 さ ら に, 彼女は保育者の団体 を組織す る こ と を は, 第 1 期 : 恩物中心主義からの脱却 (1904年~ 1910年) , 第 2 期 : フルト ンによる自由作業導入 (1912年~ 1928年) , 提唱 し , そのこ と を と お し て も幼稚園の振興発展 に寄与 第 3 期 : ピ ー ビー に よ る自由遊 び を基底 と し た保育 の確 は, も っ と も 基本にな る条件であ るが, と同時に, フ ォ ー 立 (1928年~ 1941年) , と いう 3 期を通し て段階的に進 マ ル, イ ン フ ォ ーマ ルな団体や組織, 仲間 たち と協力 し め ら れてい く 。 合い , 学 び合 っ て ゆ く こ と は, 実践の質 を向上 さ せ て ゆ 本研究では, 第 1 期と第 2 期の前半である1900年から し た。 保育 の仕事 に と っ て, 保育者個々人の努力 や工夫 く ために不可欠な条件であ る。 ハウは1927年 (昭和 2 ) 19年 ま で, つま り 広島女学校 におい て ク ッ ク ら が進めた 年 に ア メ リ カ に帰国す るま での40年間 を日本の幼稚園教 改革の動向 を, 松下 ト クの 『保育案ノ ー ト 』 と 本園の保 育のために文字通り 献身 し たのであ る。」 育内容が記載 さ れた 「保育細目」 から明 ら かにす る こ と ま た, マ コ ー レ ーは1906年 に出版 し た自伝 『勲章の貴 を目的 と す る。 そ れは, 恩物 に よ る教授 の場 で あ っ た幼 稚園が経験 を深め る生活の場へ と 移行す る過程 を辿 る こ 婦人』 (The Lady of the Decoration) によ っ て, 彼女が 導入 し た スキ ッ プと と も に, 広島女学校の名前 をい ち早 と で も あ る。 く ア メ リ カ に広 めた。 マ コ ー レ ーは赴任早々, 保姆養成 科の学生 に ス キ ッ プ を導入 し た様子 を次 の様 に語 っ てい )。 る'° 広島女学校におけ る子 ども本位の活動に根 ざし た保育の確立 「 レ ツ シ ン グ先生は私に, 幼稚園保姆養成科の年長 ク 次の 3 点 におい て大 き く 異 な っ てい た。 まず第 1 に, 教 ラ スに , 体育 の授業 を始 め て く れる よ う に と お っ し やい 育の出発点た る子 ども の生来的 な衝動に対す る解釈であ ま し た。 そ こ で 私は, 最初の レ ッ ス ン と し て 『ス キ ッ プ』 る。 第 2 に, 子 ども の思考力 を組織す る手段 で あ る。 そ を教 え る こ と に決めま し た。 ス キ ッ プは, 日 本 で はま だ し て第 3 に, 象徴主義に対す る解釈であ る。 フ ロ ーは, 恩物の組織的体系 を強調 し , 恩物に対す る 知 ら れてい ない実技のよ う ですが, こ れがない と , 幼稚 園教育は成立 し ない と 思う のです。 そ んなわけ で , 私は, 教師 の認識 を高 め る こ と に よ っ て , 改革 を目指 し たの に 担当 す る十四名の生徒 を外 の ポーチ に連 れだ し て, 身 ぶ 対 し , ヒ ルら進歩派は恩物 を子 ども の生来的衝動 ・ 本能 り 手ぶり で私のやる通り にやっ て ごら んと指示 し ま し た。」 と の関連か ら研究 し , 子 ども が家庭生活におい て目 にす こ の取 り 組みはマ コ ー レ ーが散歩 に出かけ た際, 通り る諸活動 を再現す る手段 と し て取捨選択す る。 フ ロ ーは すがり の年 配の女性が一生懸命 スキ ッ プ を踏 んでい るの 1908年 に 出 版 し た 『 幼 稚園 に お け る 教育 的 問 題』 を見 かけ るほ ど周辺 の人々に も影響 を与 え た。 そ う し た ( 結果に気 を よ く し た彼女は, あ ら ゆる種類の ス キ ッ プや レ ーベル主義幼稚園 を脅かす新 しい潮流と し て紹介 し て フ イ ギ ヤー ・ ダ ン ス を生徒達 に教え た の で あ る。 い るのが, へルバル ト 派によ る中心統合主義 プロ グラ ム と こ ろ で, ア メ リ カ の フ レ ーベル主義 に基づ く 保育 を cafzona fssues zn f e Kzndergarfe ) に お い て , フ と 自由遊戯主義 プロ グラ ムで あ る。 根底 か ら 問 い直 し たのは , ケ ン タ ツキ 一州 ルイ ス ウ' イ ル 中心統合主義幼稚園の特色は, すべ ての課題があ る特 の幼稚園教師 ブ ラ イ ア ン (Bryan, A. E ) と 弟子 ヒ ルで 定の テ ーマ に結 び付 い てい る点 にあ る。 選択 さ れた テ ー あ る。 マ コ ー レ ーは こ のルイ ス ウ' イ ル無償幼稚園協 会の マ を基に, 恩物 ・ 作業 ・ ゲームが利用 さ れる。 例え ば, 養成 コ ース を修了 し てい た。 ブ ラ イ ア ンが1890年の 「全 リ ン カ ー ンの生涯 と 人格 と い う テ ーマ が選ばれた な ら , 米教育協会」 (National Education Association) で行 っ た その成長 に合 わせ て, 生 ま れた家 ・ 貧 し さ を象徴す る よ 「恩物作業は子 ども に仕 え る も のではな く , 支配す る も う な木の葉のべ ツ ト ・ 平底舟が恩物 を用い て製作 さ れ, のにな っ て し ま っ た」 と い う 歴史的演説に始ま る恩物批 彼 が働 く 暖炉 は, カ ー ド に シ ャ ベ ル を形 ど っ て貼 る作業 判が, 幼稚園界の恩物崇拝 を突 き崩 す き っ かけ にな っ と し て行 われる。 さ ら に, 学校時代の様子や優 し い祖母, た'' 自信 を持 っ て生き る祖父, そ し て困難な仕事に対す る リ ) マ コ ー レ ー に よ る保育は, 和服 を着 た園児 や保姆 を始 め, 養成科の学生にま で動 き やすい よ う に, 両肩 に フ リ ルのつい た白いエ プロ ン を着用 さ せ る こ と から出発 し た。 ン カ ー ンの誠実 さ が語 ら れ る' 4) 。 こ う し たやり 方 に対 し , フ ロ ーは リ ン カ ー ンの生涯 を ド ラ マ化 し たと こ ろで, そう し たも のを正確に把握で き 遊戯の中 に リ ズ ム を取 り 入 れ, ピ ア ノ に合 わせ た ス キ ッ る も のでは ない と 批判 し た。 子 ど も が想像で き るのは, プ指導は, 難解で歌いに く い曲を改良 し , 楽 し く 歌え る 彼 ら の経験 に根 ざ し た も ののみで あ り , そ う し た も の以 よ う な工夫へと発展す る。 お辞儀 を し ながら歌い, スキ ッ 外 の知識は教育的価値 があ る か どう かにかかわ ら ず, 教 プす る 「 お早 う 先生」 は, 恩物 と し つけ に と ら われてい 師 か ら の詰 め込 みの強要 に な る。 そ れゆえ , リ ン カ ー ン た従来の保育法に新 しい息吹 を吹き込むには十分であ っ の誠実 さ を見習 わせ る こ と にはな ら ない と 考え る' 5) 。 た 12) 0 子 どもの想像力から , 蝶 ・ 鳥 ・ 農夫 ・ 大工 と い っ たテー この進歩的な保育は1904年に広島女学校に着任したク ツ マ を想像 で き るのは, 経験 に基づ い た も ののみだ, と い ク に よ っ て受 け継が れてい く 。 1937年 , ク ツク は フ レ ー う フ ロ ーの指摘は正 し い。 子 ども の教育は, その衝動 と ベル幼稚園百年祭におけ る講演 を終え, 翌年68歳で定年 活動から出発すべき であり , 組織だ っ た外的知識体系 で を迎え て帰国 し た。 広島女学校での ク ツクの功績は金子 はない と い う 指摘は注目に値す る。 なぜ な ら , 先 に述べ に よ っ て解明 さ れて き た。 し か し , その集大成 と も い う た国際幼稚園連盟での論争は, フ レ ーベル主義幼稚園が べ き ナ ー ス リ ー ・ ス ク ール開設 に至 る ラ ンバ ス女学 院 で 恩物 ・ 作業 と い う 外的 に組織立 て ら れた体系 で, 子 ども の改革には踏み込 んでい ない。 の生来的 な衝動や活動 を損 ねてい る, と い う 指摘 に基づ い て行 われたか ら で あ る。 こ う し た一見矛盾 す る よ う な (2) アメ リ カにおけるフレーベル主義幼稚園の理論 と実際 ア メ リ カ幼稚園教育は1855年に始ま り , 20世紀初頭に 問題点 につい ては, 次 の自由遊戯主義 プロ グラ ムに対 す る フ ロ ーの批判 か ら明 ら かに な っ て く る。 黄金時代 を迎え る。 その象徴が, 1903年 から始 ま る国際 自由遊戯主義 プロ グラ ムでは, 恩物 ・ 作業以外に多 く 幼稚園連盟の19人委員会であり , フ レ ーベル主義幼稚園 の材料 を子 ど も た ち に与 え る こ と に よ っ て, 自発的 な子 を代表す る フ ロ ー (Blow, s. E ) と 進歩主義幼稚園 を ど も の活動 を促す こ と が, 改革の目的 で あ っ た。 そのた 代表す る ヒ ルの論争が繰り 広げ ら れた こ と は, す でに多 め, フ レ ーベル主義幼稚園では見 ら れなかっ た人形 ・ 皿 ・ く の研 究者 に よ っ て明 ら かに さ れて き た' 3)。 両派の論争 箒 ・ 塵取 り ・ 洗濯板 な ど を与 え模倣遊 びが取 り 上げ ら れ は, 共に フ レ ーベル主義に基づ き なが ら も , その解釈が る と と も に, シー ソ ー ・ ブ ラ ン コ ・ 登 っ た り , ジ ャ ン プ 橋 川 喜美代 し た り す る設備 ・ ボールに よ る競技 が重視 さ れた。 恩物 見 てい る と , 1 年目 と 2 年目の内容に違いが見 ら れ, そ によ る手先の活動 よ り も , 身体全体 を使 っ た活動 に よ る の違い に ト ク自身の子 ども 理解の成長が偲ばれる。 特 に, 各器官の発達が求め ら れたのであ る。 こ う し た傾向は, 2 年目の 4 月には新入園児が幼稚園の生活に慣れ, 集団 フ ロ ーが自由遊戯主義 プロ グラ ムの一例と し て挙げたパー 活動が だ んだ ん増え て く る よ う 配慮 し よ う と す る点 か ら ク (Burk, F ) ら に よ る カ リ フ ォ ル ニ ア州 サ ン タ バ ーバ も , 恩物によ る一斉画一的 な指導形態ではあ っ たが, 子 ラ の保育 に見 ら れる' 。 ども の育 ち への確かな視点 が見い だせ る。 6) フ ロ ーは, サ ン タ バ ーバ ラ の保育活動のすべ てが, 現 表1 時点 での子 ども の衝動 ・ 興味の遂行 にす ぎず, よ り 高次 な表現へ と 導い てい ない点 を批判 し てい る' 7)。 その一 例 が 6 色の ビーズ を通す活動 であ る。 フ ロ ーはこ れを色の 概念 を習得 し てい ない幼い子以外 には, あ ま り に も単純 で力 を要 し ない課題だ と 見 なす' 8)。 し か も , フ ロ ーは恩 物 や組織 だ っ た ゲ ー ム以外 の伝統的 な遊具が加え ら れた こ と は 「教育的進歩では な く , 後退 であ る」 と 異論 を唱 え る' 9)。 こ れは先ほ どのフ ロ ーの考え と 矛盾す る。 こ の 点 を も う 少 し説明 し ておこ う 。 フ ロ ーに よ れば, 恩物は フ レ ーベルが伝統的 な遊具の 中か ら , 最 も 教育的 に価値あ る も の を 選 び出 し , 組織化 し た も のに他 な ら ない。 恩物 に含 ま れる論理的 統一は, 教師が フ レ ーベルの発生的発達法に基づ き , 子 ども に恩 春の指導計画 【月およ び週の主題】 4 月 すべての生命の相互依存 第 1 週 自然の春への準備 第 2 週 鳥の春への準備 (渡 り 鳥が戻 っ て く る, 親鳥が巣 を作 り 卵 を 産む, 親鳥が雛 を育 て る , 親鳥 が雛に飛 び方 を教え る) 第 3 週 花の春への準備 (木々がよい時期に芽生え る, 蕾がよ い時期 に目覚める, 花がよい時期に開 く , 木々の葉が茂り 木陰がで き る) 5月 すべての生命の相互依存 第 1 週 野菜の春への準備 (種から でき る野菜, 球根からで き る野菜, 店に並ぶ旬の野菜, 家庭で料理 さ れる旬の野菜) 第 2 週 穀物の春への準備 (稲の苗植え, 苗床の世話, ト ウモロ コ シ の開花, 家庭の料理の具材や動物の肥料 と な る穀類) 第 3 週 家庭の変化 (母親によ る家の掃除, 蚊帳の利用, 衣服の洗濯, 衣替え) 第 4 週 家の変化 (厚手から薄手の服へ, 日傘の準備, 帽子の準備, 団扇の準備) 物 を意識的に利用 さ せ, 興味 を惹起す るこ と ができ れば, 子 ども の自発性 を損 な う こ と な く , し かも高次の理想へ 4 月は前年度の冬の計画 と 近づけ るこ と ができ る, と捉え ていた。 こ う し たフ ロ ー を受け継 ぎなが ら , 自然の の恩物 を絶対視す る考えが, 未熟 な教師 たち を機械的な 法則 と全体的統一が目指 さ 恩物教授へ と 追いやる原因 と な っ たこ と はい う ま で も な れる。 保育 カ リ キ ュ ラ ム全 い o 体は聖書の教えに則り , 子 2 . 中心続合主義保育への試み 則 に従う のに失敗 し ない よ ど も たちが自然の普遍的法 金子は, 広島女学校附属幼稚園の保育実践 を分析す る う に, 復活 さ れた生命 の召 資料 と し て, 松下 ト クの 『保育案 ノ ー ト 』 以外 に, ク ッ 命に応 じ て目覚める自然界 ク の 「 ノ ー ト」 , 宮崎 カ メ の 『保育案 ノ ー ト 』 に基づい の様子 を子 ど も た ち の眼前 て考察 を試 みてい る。 そ れに よ る と , ク ツ ク の ノ ー ト で に示 し てい く 。 4 月16日か は, フ レ ーベル主義的 な要素 と 統合主義的構成方法の混 ら 5 月31日までの春季計画 合が見ら れるが, 宮崎の保育案では, 主題に沿っ て遊戯 ・ は, 第 1 週か ら 第 7 週ま で 唱歌 ・ 談話 ・ 手技 を行う 中心統合的主義的な技法が全17 と 書かれており , 4 月 と 5 月は連続 し て考え ら れていた。 週に渡 っ て用い ら れてい た と い う 。 し か し , 宮崎の保育 第 1 週目の主題は, 「自然の春への準備」 であ る。 月 案はわずか17週と期間が短い。 そこ で, 1906年 4 月16日 から1908年 3 月20日に至る, 松下ト クの 『保育案ノ ート』 の年間計画から附属幼稚園におけ る実践 を分析 し てお く )。 こ と と す る2° 曜か ら 木曜 ま での主題は 「木の眠り と 時にかな っ た目覚 図1 め」 「時 にかな っ た葉 っ ぱの目覚 め」 「時 にかな っ た花 の 蕾の目覚め」 「木陰の効用」 と 続 く 。 金曜日の主題はな く , 自由画, 遊具 を使 っ た ピ ク ニ ッ ク 遊 びな どが計画 さ れてい た。 (1) 春 ・ 夏の指導計画と指導法の改良 松下 (以下, ト ク) の保姆養成科入学はマ コ ー レ 一帰 4 月16日初日の日案は図 1 で示 し たよ う に, 1 時間目 にはお話 「春 と その助け人」 , 2 時間目の主題 「木の眠 国後 で あ っ た。 当時 , 養成科の生徒 ら は ア シス タ ン ト し り と 時 にかな っ た目覚 め」 では, 子 ど も た ち を外 に連 れ て, 卒業生の保姆たち を補佐 し , その経験 を踏まえ て保 出 し, 少 し話を し た後, 木や葉っぱのついた木を提示 し, 育案 を作成 し てい た2)。 観察 さ せる。 それを踏まえ , 3 時間目は切り 抜いた木 を ' 1906年 4 月時点では, 「冬の計画の続き におい て」 と 断 り 書 き がな さ れてい る。 し か も , 2 年間分の ノ ー ト を 手技帳に貼 る活動が展開す る。 こ のよ う に春季の主題が週案, 日案 におい て系 統性, 広島女学校におけ る子 ども本位の活動に根 ざし た保育の確立 連続性 を も っ て具体化 さ れてい く 。 子 ども を外 に連 れ出 目の16日 (火) には, 春の食事 につい ての話に続い て, す な ど, 自然への関心 を持 たせ る工夫はな さ れてい るが, 前日同様, 第 1 恩物 を使 っ て数遊びがな さ れ, 作業は ビー 家庭から幼稚園の集団生活に入 っ たばかり の子 ども の心 ズ通 し で あ っ た。 ト ク は最初, 恩物 によ っ て 「色 を教え 情面 を配慮 し てい る と は言いがたい。 る」 と 記 し てい たが, 「色 を強調 し た遊 び」 に変更 し て 続い て作成 さ れたのが 6 月 から の夏季計画であ る。 ト い る。 2 日目の 「数 を教え る」 が, 「数 を強調 し た遊 び」 クは 4 月から の中心的真理 を踏ま え, 自然の法則に従う に書 き替え ら れてい る。 保姆が教え るのではな く , 子 ど 例題 と し て 「太陽」 を取 り 上げ てい る。 太陽の熱や光線 も が遊 び を通 し て自 ら学 ぶこ と への移行が進 んで い く 。 の効用が自然, 生 き物, 人間 と の関わり から 解き明か さ さ ら に, 第 2 週目の25日 (木) では, 子 ども たちは 「バス れてい く 。 ケ ッ ト を持 っ て野に出かけ , 草原で遊ぶ」 と あ り , 春の 日差 し を浴 びて美 し く 咲 く イ ◆ を摘みながら , 季節の変化 表2 6 ・ 7 月の指導計画 【月お よ び週の主題】 6 月 自然の法則 と全体の調和 第 1 週 夏の太陽 (冬 と の比較, 花が温か さ で目覚める, 緑の小麦畑 が太陽光線 で黄色 く な る, 麦の生長に必要な水) 第 2 週 夏の水辺の生 き物 (魚, 水生生物, 蛙, 亀) 第 3 週 夏の草原の生き物 (蟻, 峰, 蝶, 鳥) 第 4 週 夏の子 ども たち の生活 ( 日中の木陰がも た ら す楽 し み, 月明 かり での楽 し み) 7月 6 月の継続 第 1 週 夏の太陽で活動す る鳥た ち (雲雀, カナ リ ヤ, ツバ メ , 雄鶏 鶏 と ヒ ヨ コ) を味 わう ので あ る。 昨年 の自然 を観察す る ため出かけ る 計画 と は大 き く 異 な っ てい る。 また, 「雑草を野菜に見立てる」 (1907年 4 月23日) , 「粘土のケーキと 木の葉の紅茶で喫茶店 をす る」 (1907年 6 月19日) , 「雑草を米の苗に見立て田植えや稲刈 り をす る」 (1907年11月25日) と いう よ う に, い ろい ろなもの が遊 びの材料 と し て活用 さ れてい た。 (2) 秋 ・ 冬の指導計画と恩物 ・ 作業の指導法 6 月に続き , 7 月には 9 月から の秋 ・ 冬季の指導計画 が作 成 さ れ る 。 年 間 の主題 は 「 相 互 依存 と 協 働」 生き物がただ科学的知識 (Interdepandence and Cooperation) で あ り , 生命 と そ の と し て教え 込ま れるのでは 関連性が追求 さ れる。 そ の聖句 は, 「 天 に あ な たが たの ない。 例え ば, 3 週目の草 父 がお ら れ る」 「神 が あ な たが た を 養 っ て く だ さ る」 「 み 原に生息す る生き物と し て, んな兄弟」 「互いに助け合いな さ い」 であ る。 9 ~ 11月 蟻, 峰 な どが主題 と な る。 の秋季主題は, 「家族の統一 と 相互依存」 で あり , ①子 6 月19日(火) の 1 時間目に ども の家庭, ②子 ども の暮ら し , が保育内容と し て取り は, 峰の巣の絵 を切 り 取 る。 上げら れる。 12月の主題は 「全家族の唯一の父」 であり , 2 時間目の主題 「夏の草原 天にお ら れる父 な る神 が中心 と な る。 1 ~ 3 月 の冬季主 の生き物 : 峰」 では, 本物 題は 「 地域社会の相互依存」 で あ り , 子 ど も の社会生活 の峰の巣 を利用 し , 紙の峰 が取 り 上げ ら れる。 を持 っ て遊 びに出 かけ る。 3 時間目には峰の巣の絵 を 描 く 。 こ のよ う に実物 を見 図2 せてから製作 させる と い っ た実物教授に加え, 前日に行 っ た蟻の巣 と 比較 さ せ, その違い を明確化 さ せ る こ と の必 要性が実践後 に書 き 込ま れる な ど, 教え る方法での工夫 を行 っ てい る。 1907年の春 ・ 夏季の指導計画におけ る 4 月の目的は, 子 ども が入園に伴う 環境の変化 に慣 れ, 家庭 と 周り の世 界に興味が向 く よ う 助け る こ と であ っ た。 なお, 1907年 1 月 1 日から, 「 1 時間から 3 時間」 と いう 時間割に替 わっ て, 「朝の話 (morning talk) ・ 恩物 (gift work) ・ 作 表3 年間の指導計画 【月およ び週の主題】 9 月 家族の統一 と 相互依存 : 子 ども の家庭 第 1 週 家庭から幼稚園への復帰 第 2 週 家庭 ( その秩序 と 整頓, 家庭の成員) 第 3 週 私たちの幼稚園 ( その秩序 と 整頓, 幼稚園の成員) 10月 家族の統一 と 相互依存 : 子 ども の暮 ら し 第 1 週 子 ども の衣服 (母が作 っ た木綿の着物, 着物 を売 る店主, 綿 工場, 農夫等) 第 2 週 衣類のつづき (下駄 を買 う , 下駄 を売 る, 木を切り 出す権夫, 農夫) 第 3 週 子 ども の食物 (母が米 を調理す る, 店が米 を売 る ために確保 す る, 農家が米俵 を作 り 店に送る, 農家が稲 を植え て刈 り 取 る) 第 4 週 子 ども の食物 ( お茶, 野菜, 果物, 水) 業 (occupation work)」 と い う 枠組みを用い る よ う に な っ た。 4 月 1 週目, 初日の 4 月15日 (月) は週の主題であ る 「 春の家庭に おけ る活動」 に従 っ て, 朝の話は春の服 装について話す。 恩物は, 第 1 恩物 を使 っ て色によ るゲー ム遊 び。 続 く 作業は紙に描かれた丸 を色づけす る。 2 日 11月 家族の統一 と 相互依存 : 子 ども の暮ら し 第 1 週 暮 ら し (石屋, 石工, 採掘人) 第 2 週 建物 第 3 週 屋根 (藁ぶき) 第 4 週 漆喰 (泥) 橋 喜美代 り す る。 母親や子 ども らは素晴 ら し い着物 を持つこ と によ っ て喜 びと 幸せが得 ら れる。 12月 全家族の唯一の父 第 1 週 花や木の家族 第 2 週 鳥や昆虫の家族 第 3 週 生き物の冬の生活 1月 川 1906年10月 2 日 (火) 1 時間日 紙の衣服 を作 る。 地域の相互依存 第 1 週 休日 第 2 週 新年 を迎え る助け人 (清掃す るのは誰, お餅 を作 るのは誰, 年賀状 を運ぶのは誰, 新年の挨拶が交わせ るのは誰のおかげ) 第 3 週 毎日の助け人 (郵便配達人, 駅員 , 水夫, 電話交換手) 第 4 週 毎日の助け人 (警官, 消防士, 医者, 牧師) 2 月 地域の相互依存 第 1 週 日々の救い (鉄道員の視覚, 消防士の聴覚, 母の味覚, フ ェ リ ーボー ト の乗組員 の技能) 第 2 週 偉人 (看護師ナイ チ ンゲール, 大統領 ジ ョ ー ジ ・ ワ シ ン ト ン の少年時代等) 第 3 週 あ る少年の育 ち (少年 セ ド リ ッ ク の成長) 3 月 地域の相互依存 第 1 週 水 (雲 ・ 雨 ・ 雪 と な っ た水, 春の小川 と し ての水, 飲み ・ 体や洗濯物 を洗 う 水) 第 2 週 風 (北風と その働き , 東風 と その働き 風 と その働 き ) 第 3 週 太陽, 月 と 星, 蝋燭 と 油, 電気 大 海の水 , 魚 の住処 南風 と その働き , 西 2 時間目 主題 : 店主が セ ールの ため に揃え た服 材料 : 第 4 恩物で作 っ た店 と 紙の衣服 3 時間目 店の絵 を描き , 衣服 を糊づけす る。 ねら い 店 が新 し い木綿 の着物の セ ール を準備 す る。 そ こ で私 た ち は着物 を買 い, 女性 た ち を綺麗に し , 寒い日 を温か く さ せ る こ と がで き る . 1906年10月 3 日 (水) 1 時間目 織物の絵 を切 る 2 時間目 主題 : 工場で生産 さ れる糸や着物 材料 : 第 2 恩物 を機に見立 て, 子 ども た ち に織 ら せ る 3 時間目 機で織 っ てい る絵 を糊づけす る。 ねら い 工場の職人が綿 を織物 や糸 にす る。 私 た ち は素敵で温かな 服 を着 る こ と がで き る。 1906年10月 4 日 (木) 1 時間目 綿の実 を作 る 2 時間目 主題 : 畑で育 っ た綿 材料 : 子 ども たち を砂場に行かせ, 綿 を植え る。 3 時間目 綿の茎 と 葉の絵 を描 き , 綿の実 を糊づけ す る。 ねら い 農夫は綿がよ く 育つ よ う に畑 を耕すので , 私 た ち は優 れた 綿が確保でき る。 1906年10月 5 日 (金) 9 月の夏休み明けの 1 週間は, 家庭から幼稚園に戻 っ て き た子 ども たちの状態が徐々に整え ら れる。 2 週目の 主題は 「家庭」 で, その秩序 と 整頓が家族 と の関わり か ら取り 上げら れてい く 。 9 月17日 (月) は 1 時間目に, 1 時間目 布 , 糸, 服 につい ての自由 な話 2 時間目 遊具の日 3 時間目 未完成の仕事 を片付け る。 10月 の 1 週目の週案 を細か く 見 てお こ う 。 子 ども の暮 ら し に不可欠 な衣服が主題 と な る。 指導は, a 活動す る 掃除の歌 を歌 っ た後, 2 時間目には主題 「家庭の秩序 と のは誰 か, ど こ か, b ど ん な活動 が な さ れて い る か, c. 整頓」 にそ っ て, 紙 と 棒で寝室か客間, そ し てそ こ にイ ◆ 結果は どう か, と い っ た点 に あ る。 を飾 る花瓶 を作 る。 3 時間目にはその部屋 を描 く 。 18日 (火) の 1 時間目は, 紙でバケ ツ と モ ッ プ を作 る。 2 時間 目には主題 「 母親の掃除。 家庭の秩序 あ る整頓 さ れた部 屋」 に そ っ て, 子 ど も た ちは紙のモ ッ プで床 を綺麗 に掃 く 。 3 時間目には床 を掃除する絵 を切っ て貼る。 翌, 水 曜には障子の張 り 替え をす る父親が, 木曜にはそ う し た 庭仕事で両親 を手伝 う 子 ど も が主題 と な る。 月曜日 裁縫の絵 を切り 取り , それを白い紙に糊 づけする。 第 4 恩物で部屋 を作 る。 火曜日 一紙で服 を作 り , そ れを白 い紙に描い た店 に糊づけする。 第 4 恩物で店 を作 る。 水曜日 一機で織 る職人の絵 を切 り 取 り , そ れを糊 づけす る。 第 2 恩物 を機に見立て る。 木曜日 一綿の実 を作 り , そ れを白い紙に描かれた 茎 と 葉に糊づけす る。 表4 指導の観点 子ど も の衣服 : 木綿の着物 誰によ る 1 . 母親 活 動 木綿の着物 を買 っ たり , 作る 2. 3. 4. 5. 衣服 を売 る 店主 糸や服 を生産す る 木綿工場 畑で綿 を栽培す る 木綿農夫 週全体の復習 結 果 新 しい着物 を着 る 幸わせと 満足 こ う し た恩物 ・ 作業はそれを作 らせるこ と自体が目的 ではない。 そ れは ねら い で あ る自分 た ち の衣服が どのよ う な過程 を経 て手 に入 れら れるのか, その過程 に展開す 新 し い糸 や衣服 る相互依存と協働の実態を体験を通し て知り , 感謝をも っ 新 し い綿 て生 き る道案内 をす る ための手段 で あ っ た。 そ れゆえ , 必要 と あ れば, 木曜のよ う に砂場に綿 を植え る と い つた こ と も行 われたので あ る。 し か も , 主題は子 ど も に と っ 表5 週案 て身近な生活圈であ る家庭から , 同心円的に店, 工場, 1906年10月 1 日 (月) 畑へ と 拡大 し てい く よ う に並べ ら れてい た。 こ う し た点 1 時間日 裁縫の絵 を切 り と る。 2 時間目 主題 : 母親が買 っ た り , 作 っ た木綿の着物 材料 : 第 4 恩物で作 っ た部屋 と 母親の紙人形 3 時間日 裁縫の絵 を糊づけす る。 から , フ ロ ーが中心統合主義保育に対 し て批評 し たよ う ねら い 母親は子 ど も た ち の た め に新 し い着物 を買 っ た り , 作 っ た に, 恩物 ・ 作業 と い う 外的 に組織立 て ら れた体系 で, 子 ど も の生来的 な衝動や活動 を損 ねてい る と い っ た批判は 当 てはま ら ない。 一斉指導 ではあ っ たが, 子 ど も やその 広島女学校におけ る子 ども本位の活動に根 ざし た保育の確立 生活 と の関連性が常に考慮 さ れ, 恩物 ・ 作業への固持 ・ し た丈 では 遵守は見 ら れず, 主題 にそ っ た柔軟 な時間 ・ 遊具の利用 何で も 其物 がな さ れてい た と いえ る。 が真に自分 のも のと し 3 . 子ど も本位の活動に根 ざ し た保育への模索 て し っ かり 1912 (明治45) 年, ク ツクは休暇帰国し ていたアメ リ 這入り ませ カ から フ ル ト ン を伴 っ て帰校 し た。 保姆師範科生徒から ん。 ですか 附属幼稚園保姆 と な っ た佐野小春はこ こ から始ま る動き ら行 っ て後 を 「 未曾有の大改革」 と 称 し てい る22)。 従来の時間割 を 自分達の経 図3 廃止 し , 自由作業の導入から始ま っ た取組みは, 1914 (大正 3 ) 年の 「保育綱目」 にま と めあげら れてい く 。 (1) フル ト ンの保育観と自由製作 ま ず, 佐野の回顧談か ら , フ ル ト ンに よ っ て進め ら れ た改良に つい て触 れてお こ う 23)。 「明治45年の春, ク ツク先生は フル ト ン先生 を同伴帰 校 さ れま し た。 験 し た事 を 積木や其の他の材料で造 っ て見たり , 絵 をかいたり , 劇 的遊 を し たり 一緒にその経験 を話合 っ たり す る事が大切 です。 故に見 て き た後は先生が気 を つけ て, 子供の心 を 刺 激す る様 な材料 や話や絵 を用 意 し て, 此等 の も の を通 し て彼等の経験 を深 め, 真 の意味 がわか る様 に」 す る た め で あ っ た26)o 大正 を迎え た母校は教育上に も大変化で未曾有の大改 また, 幼児曲集 『リ ズムと歌の遊戯』 が1915 (大正 4 ) 革 で し た。 黒 リ ボ ンで小 さ い頭 を く る り と 巻い て斜め前 年 , フ ル ト ンに よ っ て編纂出版 さ れた。 そ の序 には, 本 で蝶結 び, 日本 びい き の先生, さ っ さ と 靴 をぬい で白足 書の目的が 「本書八多年幼稚園児 ノ 音楽遊戯ニ ツキテ研 袋草履ばき と い う いで立 ち。 市内 も身軽 く 歩かれる姿は 究 ヲ 重ネ ラ レ シ フ ル ト ン女史 ノ 三年前当幼稚園来 ラ レ幼 随分人目 を驚かせた も のです。 優れた事は一つ だに逃が 児 ノ 日々ノ 遊ヲ 観察 シ彼等 ノ 要求= 応 ジ是= 適当 セル楽 さ じ と , かぶき 劇 には実 に熱心 に行 かれて, そ れこ そ幼 譜 ヲ 選バ レ卒業生数名 ノ 歌詞 ラ付 ケ セ シモ ノ ニ テ特 = 本 児劇の ド ラ マ に表情に早速応用 さ れるので し た。 リ ズ ム 書八楽譜 ラ シテ歌詞同様 ノ 意味 ラ発表ナサ シ」 むこ と で 体操 も当時出来初めだ と の事 で ア メ リ カ土産 と し て野球 あ っ た と 記 さ れてい た27)。 季節 や行事 の歌, 基本 リ ズ ム, も 教え て遊ばせ て下 さ っ た。 音楽唱歌の時間 に, ア ク ビ ゲ ー ム, 簡単 な手遊 びが 1 冊 に ま と めあげ ら れる な ど, の練習 , 口笛の稽古 には と っ て も 驚か さ れま し た。 フ ル ト ンに よ る改革は急 ピ ッ チ に進 んでい く 。 作詩, 作曲, メ ロ ディ ーに対 し ての調和音の作譜等素 そう し た中, 「保育時間割 を一切廃止 し て, 入門から 晴 ら し い指導振 り で其頃に歌詞改訂, リ ズ ム, 唱歌の書 左様な ら ま で子供の動き の儘に指導, 見守り 役の」 保姆 籍出版ま で さ れた も のです。 画 も大胆 な指導方法 に一転 た ち が と ま どい続け たのは, 子 ど も の動 き に込め ら れた し, 手技は小 を大に, 材料 を豊富に し て, 自由作製にと 思い をい かに指導 し , どのよ う に見守 る のかがす ぐ には 指導 さ れるので, 木片, 紙片, 古箱, 空缶等何で もが作 理解で き なか っ たから だ と 考え ら れる。 品材料 に さ れる事 に な り ま し たので当時手技係 で あ っ た 私は毎度仰天 し ていま し た。 保育時間割 を一切廃止 し て, 入門から左様 な ら ま で子供の動 きの儘に指導, 見守り 役 の私達は当分はかな り と ま どい続け で し た。」 佐野が言う 大改革は1914 (大正 3 ) 年, ク ツクが日本 キリ ス ト 教連盟の第 8 回報告書に掲載 し た図 3 に示 さ れ (2) 「保育綱目」 の作成 新 し い保育観に基づ き出来上がっ たのが, 以下 に示す 「保育綱目」 であ る28)。 まず, 「保育綱目組織上熟慮 ヲ要 スル事項」 と 「保育綱目 ノ 指示スベキ点」 と い う 2 点か ら保育綱目編成の考え方 を明 ら かに し てお こ う 。 てい る24)。 子 ども た ちは, 一斉指導 か ら 解放 さ れ, そ れ ぞれが思い思い に製作 し た船, 家, 郵便局 , 銭湯な どを 使 っ て大掛かり な ご っ こ 遊 び を展開 し てい る。 し か も , こ の 「保育綱目」 は, 下線で示 し たよ う に, 子 ども の 遊びが家庭, 社会, 自然への興味や能力 を も と に展開す その材料は フ レ ーベルの恩物 な どよ り も は る かに大 き な る も の と と ら え る。 そ し て, その遊 び を談話, 童話, 唱 積木であ る。 歌, 音律, 郊外遠足 によ る観察 と い っ た保育内容 を も っ さ ら に, 第10報告書 には, 兎や鶏 を飼育す る子 ど も た て, 変化 ・ 発展 さ せ る こ と を通 し て, 心身 の発達 を目指 ちの写真 に加え て, 海岸への園外保育の後, グルー プに す も の で あ っ た。 そ の た め に , 恩物 ・ 作業 に加 え て , 分 かれ, 蛤 を料理 し て, 客 人に ご ち そ う す る ご っ こ 遊 び 「木片, 紙片, 古箱, 空缶等何で も」 が作品の材料と な っ の様子が紹介 さ れてい る25)。 たのであ る。 と こ ろ で, こ う し た遊 びのと ら え方並 びに こ う し たやり 方は自由 な保育の礎 を築い た ピ ー ビーの 保育内容の精選は, 1919 (大正 8 ) 年12月から1922 (大 次の考え が参考に な る。 「子供達には只見 た り 聞い た り 正11) 年 , 文部省の派遣で ド イ ツやア メ リ カ に在外研修 橋 保 育 綱 川 喜美代 目 保育綱目組織上熟慮 ヲ要スル事項 第一 家庭 社会 自然界= 存 スル幼児 ノ 興味 第二 幼児身心上= 於ゲル能力 保育綱目ノ 指示スベキ点 第一 幼児 ノ 成長発達 ヲ促サ ンガタ メ 是等 ノ 興味 ヲ利用スベキ事 第二 心身 ノ 発達 ラ増長 セ シ メ ンガ為 メ ニ幼児 = 適当 セルモ ノ ト シテ精選サレ タ ル談話 用 ヒ 及 ビ郊外遠足 ヲ ナ シテ自然物 ノ 観察 ヲ ナサ シム 第三 普氏 ノ 恩物手芸及 ビソ レニ付属 セル材料 ラ用 ヒ テ幼児 ノ 工業的 美術的 構成的 一年 ノ 間保育綱目 ノ 原基 幼児 ノ 有スル興味 家 庭 社 会 自然界 童話 唱歌 遊戯 音律 ラ 創造的 能力 ノ 進歩 ラ助 ク へバ 春 ( 3 月 4 月 5 月) 家庭= 於ゲル興味 家 族 日々 ノ 職業 家屋及 ビ屋内 ノ 器具 時候ノ 変化= 伴 フ家庭 ノ 仕事 社会= 於ゲル興味 幼稚園 近 隣 店頭及 ビ店頭 ノ 働人店頭= 於ゲル時候ノ 変化= 伴 フ準備 自然界= 於ゲル興味 家 畜 幼稚園= 飼養スル動物 種 子 鳥 葉花木 保育綱目 幼児 ノ 日々為 ス遊 ビハ実= 多方面 ニ シテ従 ツ テ其表 ス遊 ビハ家庭的 社会的 自然的ナ ルア リ テ此等 ノ 遊 ビハ各時期 = 伴 ヒ テ変化 ヲ生ス此等 ノ 遊 ビヲ通 シテ吾等八幼児 ノ 心身発達 ヲ促サ ン ト ス (下線 : 引用者) 時期 ヲ分チ テ 春 3月 4月 5月 夏 6月 7月 8月 秋 9 月 10月 11月 冬 12月 1 月 2 月 幼児ノ 興味ノ 種別 家庭= 於ゲル興味 幼稚園近隣店舗等 社 会 自然界 木 ノ 葉 ノ 変化 スル事 種子蒔 鳥獣及魚類 ノ 生活 題 目 大正 3 年 4 月 ヨ リ全 4 年 3 月マデ 4 月 第 1週 新入園児 ヲ シテ幼稚園及保姆並= 朋友= 慣レ シム事 春季= 於ゲル幼児 ノ 経験 正確ナル時= 従フ事 第2 週 家庭内= 於ゲル春季ノ 活動 家族及 ビ各自 ノ 職務 第3 週 春季= 於ゲル自然界及 ビ社会ノ 変化 春季ノ 花及種子蒔 春季 ノ 衛生 大掃除 (家庭内 ノ 清潔法及自然界= 存 スル清潔) (以下 略) 広島女学校におけ る子 ども本位の活動に根 ざし た保育の確立 立 て ら れた中心的統合主義 な保育内容は, 子 ども の心身 に出てい た倉橋惣三の考え に近い。 1925 (大正14) 年に開催さ れた 「全国保育代表者協議 の発達 と い う 観点 から 精選 さ れた。 ③恩物 ・ 作業 で教え 会」 におい て作成 さ れた幼稚園内容案では, 幼稚園教育 る場 で あ っ た幼稚園は, 子 ども の経験 を深 め る生活の場 要項 を以下の様 に記 し てい る29)。 へ と 移行 し た。 ④ ク ツク ら ア メ リ カ 人教育宣教師 ら に よ る改革は当時のわが国の幼稚園を10年余り リ ー ド し た内 幼稚園教育要項及編成につい て 容で あ っ た。 幼児 を教育す るには遊 びの生活 を本体 と し幼児 なお, こ う し た先端的な改革は保護者は言う に及ばず, に適切 な る実際生活, 芸術生活, 及び運動遊戯 保育 に携 わ る者の理解 を得 る に も なお時間 を要 し たので を以て し又自然界及社会生活の直観をな さ し む。 あ る。 そ れは 「全国保育代表者協議会」 におい て作成 さ (説明) 幼児教育要項は従来遊戯, 談話, 唱歌, 手技 れた幼稚園内容案が 「幼稚園令」 に反映 さ れず, 従来通 の四 に限定 さ れて あ るけ れ ど も , こ れでは幼児 の遊 び り の 「遊戯, 談話, 唱歌, 手技」 に 「観察」 が加わっ た の生活 を全体 と し て指導す るのには不十分の点がない だけ に終わっ た こ と か ら も推察で き る。 で も ないから常に幼児に適当 な実際生活, 芸術生活及 注 び運動遊戯等から , 自然界 に及 び社会生活の観察等 を 1 ) 聖和保育史刊行委員会 『聖和保育史』 聖和大学, 以 てその内容 と す る。 而 し て実際生活と は身のまわり の始末, 仕事の手伝, 食事の当番, 会話な どの如 き もの を意味 し , 芸術生活 1985年, 54頁には1895年の保姆養成科設置, さ ら に76 頁には1908年の学則改正に伴う 保姆養成科は保姆師範 には音楽, 童話, 図画, 製作等 を包含 し , 運動遊戯は 科に改称 さ れた こ と を記 し てい る。 し か し , こ の保姆 各種の運動遊戯や, あ る種の律動遊戯な どであ り , こ 養成 機関名は そ の略則 表記 に よ る と , 1908年 ま で は れに動, 植, 鉱物の直観, 自然現象の観察 な どと , 社 「広島女学校附属幼稚園師範科」 と 記 し , 1909年以降 会生活のあ ら はれた る市街, 村落, 停留場, 市場, 店 「広島女学校保姆師範科」 と 変更 さ れてい る。 舗な どの社会事象や社会の中 にあ ら は れる種々の仕事, 2 ) サ ムエ ル ・ M ・ ヒ ルバ ー ン著 , 佐々木 翠訳 『ゲ ー ン 事項の類 を観察 さ せ る こ と を含む。 ス先生』 広島女学院, 2002年, 17-18頁。 3 ) 同上書, 107頁。 4 ) 金子嘉秀 「明治後期の幼稚園におけ る中心統合主義 け れども , こ れら は分科 と し ての要目ではない。 常 に具体的 な幼稚の生活 を指導す る こ と を主 と す る。 そ れゆえ一つの遊 びを と っ て見 る と 前記各方面の称々の カ リ キ ュ ラ ムの受容 ・ 実践内容に関す る研究 内容 を包含 し て を る。 学校附属幼稚園師範科生徒の保育案 ノ ー ト を手がかり 広島女 こ の 「全国保育代表者協議会」 は, 「今回の会議は近 と し て一」 『保育学研究』 第51巻第 1 号, 2013年, 6-16 頁。 く その制定 を熱望 し て居 る幼稚園令の基礎た るべき内容 5 ) 倫理文化協 会は ア ド ラ ー がニ ュ ー ヨ ー ク に設立 し た 案の攻究 を目的 と し , 應ては文部当局が同法令の制定に 幼稚園から 中等学校, さ ら に保姆師範科から 成 る綜合 際 し ては その最 も有力 な る参考案 と し て否 も一歩進め て 学園 で あ る。 1878年 , ア ド ラ ーは カ リ フ ォ ルニ ア州 サ はその基本 と な るべ き案の作製協議 を目的」 と し て開催 さ れた3)。 倉橋は当初未定であ っ た幼稚園教育要項 と し シルバ ー ・ ス ト リ ー ト 幼稚園が設立 さ れる。 ° ン フ ラ ン シス コ で, 幼稚園の開設 を訴え る講演 を行い, て, 「幼児 を教育 す る には遊 びの生活 を本体 と し 幼児 に 6 ) 田中ま さ子 『幼児教育方法史研究一保育者と 子 ども 適切な る実際生活, 芸術生活, 及び運動遊戯 を以て し又 の共生的生活 に基づ く 方法論の探求 一』 風間書房 , 自然界及社会生活の直観 を な さ し む」 を提出 し たが, 議 論が沸騰 し , 説明が付け加え ら れる こ と にな っ た3)。 ' 1998年, 153-186頁。 7 ) 立花富から聞き取り (聖和保育史刊行委員会の1979 「保育綱目」 は, 倉橋 ら が説明す るすべ ての も の を含 年10月のイ ンタ ビュー) , 1 頁。 (聖和大学資料室所蔵) んでお り , その考え が当時のわが国の幼稚園 を リ ー ドす 8 ) ラ ンバス女学院幼稚園の 「昭和13年度修了記念帖」 が北陸学院短期大学の 「南文庫」 と し て所蔵 さ れてい る も ので あ っ たこ と は明 ら かで あ る。 る。 こ こ には 「 ナ ース リ ース ク ールノ ト キ」 か ら 「黄 おわ り に 組ニナ ッ タ バ カ リ ノ 生徒サ ン」 「 キイ グミ ノ ト ピ ッ ク」 , 広島女学校におい て ク ッ ク ら が進めた 『保育案 ノ ー ト 』 そ し て 「 ミ ド リ グミ ニ ツキ ( - ) 」 「 ミ ド リ グ ムニ ツ キ から 「保育綱目」 に至 る改革は, 次の 4 点 に ま と め ら れ (二)」 へ と 成長す る子 ど も た ち の姿が写真 と と も に続 る。 ①恩物 ・ 作業は, 子 どもの経験 を深め発展 さ せる手 く 。 こ の 「 ミ ド リ グムニ ツ キ (二) 」 には, 「 ト モ チ ヤ 段 と い う 観点 から問い直 さ れ, 新 た な材料が自由製作 に ン ノ ツ ク ツ タ 六角時計 デ ミ ンナ ガ ヨ ロ コ ン デ針 ラ ウ ゴ 導入 さ れ, 豊か さ を増 し た。 ②一つの主題 を中心 に系 統 カ シナ ガラ イ ツ タ コ ト 」 が綴 ら れてい る。 ま た, 最後 橋 川 喜美代 に 子 ど も た ち の将来 の夢 が 「 僕 ガ大 キ ク ナ ツ タ ラ」 「 私 ガ大 キ ク ナ ツ タ ラ」 に語 ら れて い る。 ち な みに , Report of the Kindergarten of Japan, 1907-1908, pp 2526. 師範科の生徒 ら は毎日幼稚園で, 前週末に主任保 立花はこ の時緑組の担任であ っ た。 当時学生であ っ た 姆から検閲 を受け た保育案通り に実習 を終え る と即座 「 , に学校に戻 り , 学課授業 を受け る生活であ っ た。 南信子が数年後聖和幼稚園で と も に働い た関係で入手 22) 聖和八十年史編集委員会 『聖和八十年史』 聖和女子 し た も の と 推察で き る。 83号, ミ ネ ルウ' ァ書房, 2000年, 4 頁。 A ・ L ・ ハウ 短期大学, 1961年, 211-215頁。 23) 同上書, 214頁。 に つい ては, 拙稿 「 A ・ L ・ ハ ウの幼児 教育思想 と キ 24) The Kindergarten Union of Japan, Eighth Annual 9 ) 松平信久 「保育者は何を期待 さ れてき たか」 『発達』 リ ス ト 教主義」 『鳴門教育大学研究紀要 (教育科学編)』 Report of the Kindergarten of Japan, 1914, pp 34-37. 第20巻, 2005年, 81-90頁 を参照。 10) フ ラ ンセ ス ・ リ ト ル著, 佐々木 25) 翠訳 『勲章の貴婦 The Kindergarten Union of Japan, Tenth Anmia1 Report of the Kindergarten of Japan, 1916, pp 34-37. 26) ピー ビー 「幼稚園の見学」 ラ ンバス女学院 『 ラ ンバ 人』 広島女学校, 1996年, 22-23頁。 フ ラ ンセス ・ リ ト ルはマ コ ー レ ーのペ ンネ ームで あ る。 滞日 5 年間の ス女学院報』 第 1 号, 1932年, 1 頁。 (聖和大学資料 見聞 をま と めた本書の出版は1906年 2 月 であ っ たが, 室所蔵) 27) 広島女学院附属幼稚園 『幼児曲集』 (1915年) は, 1911年ま で毎年版 を重ね, 世界各地で愛読 さ れた。 11) Bryan, A. E., The Letter Ki1leth, National Education 『小 さ き 者への大 き な愛』 広島女学院に収め ら れてい Association, Addresses and Proceedings, 1890, p 576. 12) 聖和保育史刊行委員会, 前掲書, 56-58頁。 100年史』 聖和大学, 1991年, 16頁において, 「 リ ズム る。 こ の書は聖和幼稚園100年史委員会 『聖和幼稚園 と 歌の遊戯」 と し て紹介 さ れてい る。 13) Shapiro, M. S., Child 's Garden-The Kindergarten 28) 広島女学院附属幼稚園 「保育綱目」 1914年 (聖和大 学資料室所蔵) Movement from Froebel to Dewey, The Pennsylvania State University, 1983. pp.171-191. 藤武 『 ア メ リ カ 幼児教育思想の研究 一デユーイ 理論 を基軸に し て 一』 29) 第一法規 1985年。 1925年, 107-108頁。 30) 同上, 100頁。 幼稚園令制定をめぐ る 「全国保育代 表者協議会」 の動向については, 湯川嘉津美 「大正期 におけ る幼稚園発達構想 幼稚園令制定 をめ ぐ る保育 14) Blow, S., Educational Issues In the Kindergarten, D. Applen and Co., 1908, pp 2-4. フ ロ ーは中心統合主 義, 自由遊戯主義に加え , 産業主義 プロ グラ ムを新 し 界の動向 を中心に 」 『上智教育学論集』 31号, 1997 い潮流 と し て挙げ, 批判 し てい る。 年, 1-20頁が詳 しい。 15) ibid., pp 6-7. 16) 「全国保育代表者協議会概況」 『帝国教育』 第516号, 31) 同上, 103頁。 Burk, F. and Burk, C. F., A Study of the Kindergarten Problem, The Kindergarten and First Grade, 2, 1917. こ れは, Burk, F. (et ll ) , A Stu 謝辞 of zc Kzndergarfe of 本論文執筆の資料閲覧にあたり , 広島女学院図書館長 Santa Barbara, for the year 1898-9, Whitaker and Ray Co., 1899. を ヒ ルが編集 し直 し た も のであ る。 理子館員 には格別の ご高配 を賜 り ま し た。 こ の場 をお借 f e K indergar ten Pro em zn f e P の佐藤茂樹先生 な ら びに広島女学院歴史資料館の西原眞 り し て, お礼申 し上げます。 17) Blow, op.cit., p.156. 18) ibid., p.154. 19) ibid., p.179. 20) 金子嘉秀 「明治後期の幼稚園におけ る フ レ ーベル主 義 をめ ぐ る保育実践の変容 に関す る研究 京阪地域お よ び広島女学校附属幼稚園を中心と し て 」 広島大学 大学院教育学研究科, 2013年, 103-144頁。 広島女学 院歴史資料館所蔵の松下 ト クの 『保育案ノ ー ト 』 全 3 冊は, 松下が師範科に入学 し た1906年 4 月から卒業 を 迎え た1908年 3 月ま での ものであ る。 こ こ ではデ ジタ ル化 さ れた井上と く 氏 (旧姓松下) 「保育日誌」 (英文) (1906~ 1908. 19011) 『小さき者への大きな愛』 広島 女学院2006年10月 1 日発行を用いた。 21) The Kindergarten Union of Japan, Second Annua1 10
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