第6章 選言主義(Disjunctivism)

第6章
選言主義(Disjunctivism)
地球を訪問している火星人哲学者は知覚の哲学的議論で、多くの注意を幻覚に払うのに
驚いて、幻覚はたいへんありふれたものにちがいないと理由なく結論はしないだろう。わた
しに限り、生涯で一度も幻覚を見たことがない。人が見聞きする実際の生活で見聞きする
のは、普通病的か、もっと頻繁には、余興かである。統合失調の患者はふつう「声を聞く」
幻聴をもったり、ある種の異常な薬物では、視覚的幻覚がある。ピック病(認知症の一種、
初期に幻覚や妄想がともなうことがある)のケースでは、患者が、実在の部屋の実在の本棚
に猫が座っているのを見る幻覚をもつ実在の環境に埋め込まれた視覚的幻覚をもつこと
がある。余興の幻覚は、多くの人々が「幻覚」ドラッグを用いるようになった20世紀終わりの
数十年でたいへんありふれたものになった。わたしはやったことはないが、やった人のこと
は知っている。だが哲学者たちが好んで「水槽の脳」や「悪魔」(evil daemon)のファンタ
ジーを使って議論する視覚的幻覚の種類は哲学の重要なツールであり、たとえ実際にそ
のような幻覚がなくても有用なままであり続ける。というのもつぎのような理由のためである:
意識的知覚の分析において、知覚される存在論的に客観的な自体から存在論的に主観
的知覚経験を分離することができるため、繰り返し見てきたように重要である。これらをはっ
きり区別することなく、知覚する者の脳における意識的志向性である知覚経験の基礎的生
物学と、その志向性と知覚される事態の間の因果関係を説明することができない。条件に
応じて幻覚の現象学と本物の経験の現象学が正確に同じでありうるため、幻覚を議論する
のは哲学的に有用である。
そしてこれはファンタジーではない。現在の状況で、たとえばわたしが緑のテーブルを見
るが、このものと同じ経験のタイプをもっていることができず、何も見ていないというのはど
のように可能か?視覚経験の原因は客観的視覚フィールドにおける光子の反射で始まる。
光受容体の細胞の刺激の後、神経システムにおける内的なプロセスが、意識的視覚経験
を産むのに因果的に十分である。いったん視覚刺激が網膜を通過するなら、視覚システム
はもはやその外的原因について何も関知しない。どのようにそれはできるのか?だから原
則的に、外的刺激を因果的を差し引いた因果的出来事の連続を正確に複製することは原
則としての可能である。事実、意識的視覚経験は視覚システムからかなり全く離れて決定
される。クリックとコッホによれば、V1(視覚エリア1)は視覚経験にほとんど、あるいは場合
によっては全く影響を持たない。(1) 幻覚との経験と本物の経験―良いケースと悪いケー
ス―が現象学的かつ志向的に正確に同じであることを否定するなら、その場合あなたは誤
りを犯したことがわかる。帰結としてその理論を支持するなら、その場合あなたはその理論
が偽であることがわかる。なぜなら、偽の命題を伴うからである。驚くべきことに、正確にこ
の帰謬法を受け入れる一群の哲学者たちがいる。彼らは選言主義者(Disjunctivist)と呼ば
れる。
わたしは幻覚を専門とする脳科学者が彼らの見解を否定して彼らを困惑させるべきだと
思う。それゆえ、シャルル・ボネ症候群の患者がかかる幻覚を報告したフィッチェ(ffytche)ら
による論文で(2)、「これらの患者が経験する自発的視覚的知覚(視覚的幻覚)は、その信じ
がたい、しばしば興味深い性格のため、また弱視となった患者であるため、より詳細な、し
たがって実在の刺激で見られるためだと考えることができるのだが、正常な視覚と関連した
ものと同じである」。そしてフィッチの別のよく知られた論文で、彼は次のように質問に対し
回答したと報告している。「あなたが幻覚を見ているとき脳では何が起こっているのか」は
「あなたが本物の経験をした時と同じ」である。(3)
第1節 正確に選言主義とは何なのか?
選言主義に関する膨大な文献が今ある。それにはかなり多くのその分野を書いた二次文
献が含まれる。(4) 多くのことなる説明があり、選言主義は正確にその主張が何なのか選言
主義者の中でも合意はないが、これは驚くことではない、彼らはみな哲学者だからである。
だが選言主義者に共通した、わたしがその概念を定義するのに使えると考える特徴は、良
いケースと悪いケースの療法で起こる共通の意識経験はないということである。バーン
(Byrne)とログ(Logue)がその論集の序文で言うように、「良いケースと幻覚の悪いケースの
経験は、精神的両者を特徴付ける(経験的)精神的中核を共有しない、すなわち両者の
ケースを特徴付ける「(経験的)精神的種類はない」。(5) 彼らはよいが本物を、悪いが幻覚
を意味する良いケースと悪いケースにおいてる経験に何ら共通の要素はないと続ける(斜
体は著者による)。知覚がその場合「選言的」と考えられる意味が、本物のケースと幻覚の
ケースの間の「選言」であると考えられる。
だが選言主義の定義ついて一般的合意がないという事実は、実際大きな点であり、わた
しは後に振り返るつもりである。この場では、わたしはただ疑問を「空白」のままにし、その
テーゼは、良いケースと悪いケースの間の共通性には「空白」がないと言いたい。ただ議
論する用語法をいくつかもつため、選言主義を「共通性」のテーゼの否定と定義したい。そ
の場合共通性は良いケースと悪いケースの共通性が「空白」であることを含意する。
私たちがかなり厳しく選言主義の定義を検討していることを強調するのはこの後続くこと
において重要である。たとえば関連する主張でわたしのような直接的実在論をもつ多くの
知覚の哲学者たちは、誤って選言主義者と呼ばれる。バリー・ストラウド(Barry Stroud)は絶
対に選言主義者ではないが、彼がそう呼ばれるのを耳にしたことがある。わたしが最もよく
知る同僚ジョン・キャンベルとマイケル・マーチンもそうである。
次に、選言主義には多くの異常な側面があることを見つけようと思う。だがおそらく単一
のもっとも唖然とする側面はこうである:彼らは共通性はある「仮説」であると考えていること、
その文献で明らかである。その一部は良いケースの経験と悪いケースの経験は同じである
と考えることができると考え、他の者はこれを否定する。そしてその後、自分の経験を内観
する時、正確かどうか、区別不可能性が同一性を証明するか否か、そして区別不可能性
の印象の非−他動性が共通性のテーゼが誤りを示すかどうかについての果てしない議論
を続ける。(非−他動性はつぎのような実験である:主体は A を B とは区別できない。そして
B を C とは区別できない。だが A を C は区別ができる)。わたしはこれらの議論がすべて
最初から間違いだと思う。哲学では(神経科学と異なり)、本物の経験と同じ現象学と同じ志
向内容を持つ幻覚があり得るという考えは、仮説ではなく、(要求する)「条件」(stipulation)
である。わたしは区別不可能である幻覚と本物の経験があるだけではなく、それらが正確
に同じ現象学的特徴をもつため、区別不可能であると条件とすることを思考実験としてた
だ決めただけである。私たちは、議論を現象学が志向内容を決定するケースに限定した
い。現象学が、あるひとが赤い何かを見るように見えることなら、その場合志向内容は主体
が何か赤いものを見ることである。区別不可能性の非−他動性や、自らの内観のデータに
ついて誤る可能性についての議論のすべては、単にその論点を外している。デカルトが悪
魔の可能性を前提した時、彼はたくさんの悪魔の経験的研究をすることなく、悪魔が本物
と同じである幻覚を生む能力を見出したのである。彼は悪魔を思考実験として前提した。
それを反駁するためには、(ひとが区別する能力制限されたり、区別不可能性が非−他動
的であるとかの)自らの経験についてひとが誤りえることだけでなく、それが本物の経験が
対応する幻覚と同じでなければならないという何らかの概念的、論理的に不可能であるこ
とを示さなければならない。状況は論理的につぎのとおりのようである:ふたつの主観的知
覚経験があり、そのひとつは幻覚でありもうひとつは本物であり、どちらも何らかの現象学
(それらは現象学一般である必要はない)をもつ少なくとも可能性があることをわたしに認め
てほしい。もし単なる可能性としてそれを認めてくれるならその場合哲学的目的のため、現
象学と志向内容がふたつのケースで正確に同じであるケースを私たちが検討することを条
件とすることが可能である。実際に異なる知覚である物を区別することを私たちが不可能
であること、区別不可能性の非−他動性など、についての文献で読む他のすべての経験
的特徴は単に関与しない。私たちは共通性を条件としているのである。
状況は「X が羊の数だとしよう」という学校の先生に、哲学者な心得がある子どもが「けど
先生、X が羊の数ではないと仮定してよ」と言う有名なケースに似ている何かである。選言
主義か、共通性か証拠の責任は、選言主義者か共通性の理論家のどちらにあるかという
議論さえある。先生は X が羊の数であることを証明しなければならないのか?共通性の
テーゼを反駁するため、あなたは共通の現象学がありうることを論理的に不可能であること
を示さなければならないだろう。ひとはいずれのケースでも誤りでありえ、区別不可能性の
判断は、非−他動的であると論じるのでは十分ではない。共通性は仮説ではない。それは
条件である。
そのようなすべての条件をもつものとして、条件を作る理由がある。羊のケースでは、羊
が自然数を使う加算名詞であると仮定している。そしてたとえば「−7の平方根」は「羊は何
匹」という問いに対する答として可能ではない。幻覚のケースでは、何らかの現象学をもつ
幻覚が少なくとも「可能」でなければならない。少しでも現象学があるなら、その場合思考
実験として、ふたつのトークンの別の経験が実際同じタイプであるケースを検討しよう。現
象学的に同じ経験があることが可能な場合、そして少なくともいくつかの特徴、基礎的特
徴に関して、現象学が志向内容を決定するのに十分なら、その場合共通の現象学は共通
の志向内容を含意する。
私のように決して幻覚をもったことがないなら、夢の意識的主観的構成要素が、はっきり
知覚される外的対象から、独立して存在する夢について考えるのもまた役立つかもしれな
い。
さて、条件として共通性を扱うことができるなら、なぜ選言主義者は同じく、うまく選言主
義を条件にできないのか?すなわち、なぜ彼らは実際知覚の対象があるか、ないかによっ
てい知覚的経験的要素が個別化される「知覚的経験」の感覚を条件にできないのか?そ
のようなケースで、あなたは知覚経験が良いケースか悪いケースに違いがあると単純に条
件として要求する。あなたがそれらの文献を全く注意深く読むなら、これが実際、正確に起
きていることであるとわたしは思う。本物の知覚をもつことについてのマイケル・マーチンに
よるつぎの主張を検討してほしい。彼は言う:「根本的に同じ種類の経験がない、このような
どんな経験も、意識の適切な対象は存在しない」。(6) どのように彼は知るのか?これが唖
然とする主張である。それは明らかに幻覚に関する神経科学研究によって否定されている。
(7) その表面で、幻覚と、区別がつかない良いケースの間に共通性があることは、同じ現象
学を、それゆえ、少なくとも一定の範囲の特徴について、同一の志向内容を共有すという
ことである。マーティンは「根本的に同じ種類の」ものはありえないと条件とする。「根本的
に」によって何が付け加えれると考えられているのか?マーチンや問題となる他の選言主
義者は根本的に異なるふたつの種類のケースであることを発見する知覚経験の心理学的、
神経生物学的注意深い研究をしなかった。彼らは哲学的な理由で、それらを根本的に異
なるものとして扱うことを決めたのだ。これが正確に良いケースと悪いケースの間に「共通
する」ものないと言われる非常に曖昧な理由である。実際の戦略は、知覚経験が本物であ
るかどうかによって個別化されることを条件とすることである。選言主義は本物の知覚と非−
本物の常識的な違いから始める。ここまでは良い。だが個々の知覚「経験」に決定を下し
た時、良いケースと悪いケースの間に経験それ事態における何らかの違い、「あるものが
本物でありかつ他のものが本物でない事実を越えた何らかの違い」があると彼らは言わざ
るをえない。良いケースと悪いケースの間には明らかな違いがある― 一方は良く、他方は
悪い。だが選言主義者たちはそれを越えた何かが何かがなければならないと主張したが
る。わたしがモノを見ているケースと、そのモノの本質的に同じタイプの幻覚をもっている他
のケースおいて単なる事実以上の何かがなければならない。
この点を正確に理解することが重要である。わたしはデカルトと同様、また単にすべての
ひとについて、正確に同じである視覚経験の本物のケースと対応する幻覚のケースを検
討するとすると条件によって決める。両者は意識的質的主観的が実在することに同意しな
ければならない。意識的主観性なければ、その問題は全く議論が不可能である。(8) わた
しが進めている理論、意識的近知覚的志向性はその現象学とそれゆえ基礎的ケースに関
して、その志向内容によって、これこれの経験を個別化する。しかし繰り返すが、選言主義
の条件は、共通性のテーゼの条件よりはるかに大きな約束をしている。共通性の条件は、
正確に同じ現象学と同じ志向内容をもつひとつは良い、ひとつは悪いふたつの知覚経験
がありえることだけを必要としている。選言主義の条件は、ひとつがよく、ひとつが悪いとい
う事実に加え、すべてのケースでさらに何らかの違いがなければならない。だが彼らの考
えでは、正確に同じ現象学と志向内容を持つひとつは良く、ひとつは悪いふたつのケース
があり得ることは不可能である。
そのような条件をもつなら、選言主義はすべての経験で異なる必要がある本物の経験と
幻覚の経験の意識的構成要素の注意深い記述を提供する責任がある。わたしは選言主
義者の誰もこれを真面目にしようとしたのを見たことがない。では次の深い問いに進もう。
なぜ誰がこの条件をしたいと思ったのだろう。マーチンは明確な答えを与える。彼はこれを
条件にしないなら、素朴実在論ないし直接的実在論を否定せざるをえないと信じるのであ
る。マーチンが書くように、「選言主義を支持する第一の理由はわたしが素朴実在論と名
付ける知覚の主張を拒否するのを阻止するためである。素朴実在論は私たちはの感覚エ
ピソードの少なくとも一部が経験から独立した実在の現前であると考える」。(9) 共通性の
仮定を認めるなら、その場合「もっとも高度の共通の要因」は知覚の対象であろう。実際、
これがわたしが定義したとおり、また読者がこれまで悪い議論と認識しているだろうとおり、
選言主義に関するわたしが見てきた唯一の真面目な議論であると考える。しかしわたしは
後でより詳しく述べようと思う。選言主義の深い動機は共通性のテーゼを犠牲にする高い
哲学的価値があるという確信であり、ひとは誰でも次々とそれを見出す。「いったん知覚経
験の現前的志向性の適切な説明をもつなら」、共通性のテーゼを犠牲にする価値は全く
ないと わたしは この章の残りで論じるつもりである。皮肉にもマーチンが彼の見解を表現
するため使うまさにその形式こそ、彼の選言主義の拒否を買って出るわたしの見解を特徴
付けるために用いるだろう。「私たちの感覚的エピソードの少なくとも一部は経験−独立的
実在の現前である」(斜体は著者)。これは正確にわたしの見解を述べるものである。
第 2 節 選言主義に賛成する議論とそれへの回答
最もありふれた議論は、共通性のテーゼが素朴実在論が偽であることを帰結するという、
悪い議論のひとつのバリエーションである。だが素朴実在論は真であるから、共通性は偽
である。良いケースと悪いケースに共通の特徴、マクドゥエルの言い方では「もっとも高度
に共通の要因」があったと仮定してほしい。もしそうなら、もっとも高度に共通な要因は知覚
の対象、知覚される存在論的に主観的な実体だろう。だがそれが真なら、素朴実在論は
偽である。私たちは素朴実在論が真であると独立して知っている。だから対偶によって、
もっとも高度に共通の要因の理論は偽でなければならない。伝統的形式における悪い議
論は、もっとも高度に共通の要因が知覚される対象、センスデータであるとして排除する。
この議論は最も高度な共通の要因があるという最初の前提を否定する。その結果、最初の
前提が偽である根拠に関する健全性に挑戦的だが、議論の確実性を受け入れることに
よって素朴実在論は維持される。
だからセンスデータの理論も選言主義も、両者は互いに論争しているように思っているの
だが、同じ誤りを犯している。その誤りは共通性のテーゼが本物のケースと幻覚のケース
の両方で知覚されることを含意すると仮定することである。
この本の全体を通じて、わたしは共通性のテーゼと矛盾しないだけでなく、実際、第2章
で提示した知覚の現前的志向性の説明の直接的帰結である直接的実在論の形式にいつ
いて論じてきた。わたしと選言主義者との間の不一致が最も強く生じるのはこの点でである。
共通性は直接的実在論を反駁しないし、反駁していると考えるのは悪い議論であるとはわ
たしは思う。
選言主義は共通性のテーゼを完全に犠牲にしなくてはならないと考える点で誤りだとわ
たしは言った。わたしは彼らが共通性を受け入れることを犠牲にすると考える物をリストし、
その後すべてのケースで、その犠牲を払う必要がないことを示すつもりである。この本の主
要な主張のふたつ、第一に悪い議論は本当悪く、第二に純粋な知覚は現前的志向性をも
ちそれゆえ直接的実在論を含意するということを受け入れる場合を想定してほしい。その
ふたつを受け入れるなら誰にも選言主義を受け入れる動機はまったくない。それは大それ
た偽ではなく、ただ不必要なだけになる。
欠点1:共通性は素朴実在論の否定を含意する。
わたしが言ったように、選言主義に関するもっともありふれた議論は素朴実在論を保守す
る唯一の道であるということであり、実際にこれは悪い議論である。だが、この場合問題が
たいへん大きいため、少しそれを論じたい。わたしは最初から最後まで、いったん悪い議
論の誤謬を認めたなら、あなたは共通性と素朴実在論をもつことができると論じた。直接的
実在論はただあなたは最初に何か他のものを知覚することによってではなく、物を直接知
覚するというだけである。視覚経験は内容であり、知覚の対象ではない。わたしが知ってい
る選言主義者は、わたしが支持してきた単純な直接的実在論より、強い意味の素朴実在
論をもっていると考えている。彼らが好んで言うことは本物のケースでは、対象は字義通り、
知覚経験の一部だが、幻覚のケースでは、知覚経験の一部として対象がないということで
ある。だから知覚経験はふたつのケースで「根本的に」異なる。これまで、わたしはこの素
朴実在論のこの概念に答えてこなかった。
欠点1への回答
対象は字義通り知覚経験の一部であるという主張を検討しよう。瑣末に真であるようなこの
主張を解釈する仕方と、瑣末に偽である別の解釈の仕方がある。主体 S は対象 O を見る
の真理条件に注目するなら、「O」の発生は外的であるということは明らかである;すなわち、
陳述が真であることは O の存在を含意する。そしてその意味で、対象はその陳述の真理
条件の全集合の一部である。だからその主張は瑣末に真である。だが瑣末に偽である別
の意味がある。なぜなら見られる物理的なモノは字義通り頭の中の主観的経験の一部で
はありえない。
だがまた対象は構成的部分である、正確に、経験の形式は現前的志向性の形式である
ためである、さらに深い意味がある。志向性がすぐモノに到達せず、モノがその経験を引き
起こさないなら、条件は充足されない。知覚が単に「表象(representation)」なのではなく直
接的な「現前(presentaition)」であることを思い出してほしい。だから繰り返せば直接的知
覚は選言主義を支持する議論ではない;そうではなく、知覚の現前的志向性の自然の帰
結である。
いかなる意識的知覚にも主観的構成要素がある。視覚のケースでは、主観的経験は知
覚者の頭の中にあり、モノは頭の中にない。だがわたしの経験において、選言主義者は対
象が字義通り経験の一部である素朴実在論の概念のより強い意味をもっていると信じてい
る。この主張は瑣末に真でも瑣末に偽でもない。正確に彼らは何を言いたいのか?これら
すべては実際に実在する時空で起きる実際の出来事やモノである。モノは外にある。頭の
中で起きる主観的経験はある。そして主観的経験はわたしの光受容体細胞にモノから反
射した光の衝撃によって引き起こされる。わたしはこれらの実体がどのように相互に関係す
るかについての絵を第1章で描いた。わたしはその関係が明確にその章で描かれたと考え
る。どのように選言主義者たちが知覚状況の首尾一貫した絵を描くことができるか理解す
るのは簡単ではない。なぜならその絵の制約はつぎのとおりだからである:
(a) モノに反射した光は網膜の光受容体で始まる一連の神経の発火を引き起こす。
(b) その連続は最終的に「意識的視覚経験」を生む。
(c) すべての意識状態と同じように、意識的視覚経験は、質的で、存在論的に主観
的で、統一された意識フィールドの一部である。彼は決してただ孤立しては起こら
ず、いつでもわたしの意識全体の一部である。
(d) それはすべて頭の中にある。すなわち、光子の衝撃は最終的に質的、主観的
視覚経験を引き起こし、光合成や消化のような他のすべての生物学的現象と同じく、
それは完全に生物的システムに存在する。それは細胞のシステム―このケースで
は神経システム―に存在し、いわば脳の外に漏れたり、そのそばの周りに漂ってい
たりすることは決してない。わたしは後にこの点に戻るつもりである。これがおそらく
選言主義の決定的な拒否であるとわたしは考える。なぜなら完全に頭の中にある意
識の質的主観的知覚経験が見られる物質的対象を含むことはできないからである。
だから私たちはその主張の第三の解釈の方法を見つけた:瑣末に真か、瑣末に偽のいず
れかであることに加えて、関与するさまざまな実体の間の関係の図式を可能にするある方
法でそれに何ら明確でない意味が与えられるという主張を理解する道はある。わたしの色
の経験が、字義通りわたしの知覚経験の一部であるのと同じ意味で、テーブルは字義通り
テーブルの私の知覚経験の一部であるとと考えるなら、主観的かつ客観的存在論とその
因果関係を示す絵をわたしに描いてほしい。
欠点1への回答の続き:知覚状況の要素
この問題は非常に重要なのでふたた図表を掲載する価値がある視覚的知覚の哲学は、
知覚されるものに反射した光子が網膜に衝突し、一連の出来事を開始する時始まることを
思い出してほしい。このストーリーは、因果的かつ、志向的であるが、単純化するため、ま
た不要な議論を避けるため、わたしはしばし知覚の志向性を無視する。つぎは(図 6.1、図
6.2)それを絵にしたものである:
図6.1.これは視覚的知覚が脳内の意識的知覚経験を引き起こす因果的連鎖を描いたものである。
図6.2.これはものの知覚なしにタイプが同じの視覚経験が起こる幻覚を描いたものである。
ふたつのケースで、条件によって、幻覚的経験の現象学と本物の経験の現象学は同一
である。
さて、選言主義者はこれらの絵について何を言うつもりなのか。わたしは世界における実
在的(生物学的)かつ、それゆえ物質的出来事について語っているのを思い出してほしい。
すなわち慣れ親しんだ、質的、主観的内的知覚経験は単に生物学の物質的データなの
である。その存在はもちろんわたしはそれについて議論する用意があるが、議論に値する
何かではない。知覚の理論をもつものは誰でも、これらの絵を描くことができなければなら
ない。なぜなら関連する異なる実体の間の空間的因果的関係がなければならず、それら
は描画可能でなければならないからである。また知覚経験はそれ自体は見られないという
ことを思い出してほしい。なぜならそれは本物の経験において知覚される対象を正確に
「見ていること」ことであり、幻覚の経験では、それは対象のない意識的知覚経験であるか
らである。
わたしはその著者たちと議論する機会をもち、そのためわたしはさらにわたしの表現に自
信を感じたのでふたつの説明の絵を描く。わたしが選言主義者の他の説明よりよくそれら
を知っている。第一にジョン・キャンベルに関連する関係理論(relational theory)である。関
係理論に関して、知覚状況に3つの、そして3つだけの要素がある。知覚者、対象、視点
である。彼の説明には知覚者の頭の中で起こる意識的、質的、主観的知覚経験の存在を
認めるものは何もない。最初に持続する主体を受け入れる主張を積極的に否定する。本
質的問いは提起されない:何が正確に存在論的に主観的な意識経験と、存在論的に客
観的な見られるものの間の関係なのか?さらにその問いに対するこの主張に関する答えも
ない:何が正確に光受容体細胞への光子の衝撃が引き起こしているのか?これは哲学的
に誤りであるだけでなく、神経生物学的に誤りである。なぜなら何ら理由なく、どのように視
覚的知覚が起きるかに関する標準的神経生物学的説明を否定するからである(標準的説
明については、クリストフ・コッホの『意識の探求:神経生物学的アプローチ』(Christof
Koch. The Quest for Consciousness:A Neurobiological Approach.を見よ)。(11) わたしはこ
の説明における幻覚の絵をどのように描くのかわからない。「関係」的説明にたいする4つ
の明白な反論があるように見える:
1.それは幻覚についての説明ではない。
2.それは光受容体細胞を光子が衝突したあと起きるものについての因果的説明を
与えない。
3.それは潜在的に意識的知覚経験の存在を否定している。
4.それは異なる様相における同じ内容を区別できない。そのためテーブルの滑ら
かさを見ることと、テーブルの滑らかさにテーブルの滑らかさを感じることは知覚者を
テーブルの滑らかさに関係させるが、見ることの主観的質と感じることの主観的室は
全く異なる。わたしはどのように相関理論がこのような事実を述べることができるのか
理解できない。わたしのこの点に後で振り返るつもりである。
図6.3. これは知覚されるモノを含むような意識的知覚経験について一部の選言主義者たちがどのように考えるかを描いてい
る。わたしはこれは無意味だと論じる。
これら 4 つの反論に加えて他にたくさんの反論がある。しかしこれらはどれも明白におも
えるので、おそらくこれで十分である。わたしは、意識的知覚の意識の側面を検討する時、
この章のあとでキャンベルの説明に更に反論するつもりである。
マイケル・マーチンとアルヴァ・ノエと関連するかもしれない第二の見解は、何らかの仕方
で、あるいは本物のケースにおける他の仕方で、意識は頭の外に出て、モノそれ自体を包
摂する。率直に言って、わたしはそんな主張は、筋が通りえるものとは思わないが、試して
みよう。わたしたちが語っている意識は生物学的現象である:すなわち、それは質的であり、
存在論的に主観的であり、それは全意識フィールドの一部とし常に存在する。比較可能な
生物学的現象としての光合成、消化、あるいは授乳を考えてほしい。これらのいずれも、空
中に漂っていたりすることはありえない。すべての生物学は、物質的生物学的システムの
中で実現されなければならない。だが、生物学的システムの外部に人工的視覚的意識を
私たちが創造したと考えてほしい。確かにそのようなものが、論理的に可能であり、いつか
技術的に可能でさえあるかもしれない。すばらしい。やはり、意識はなお、何かに実現され
なければならない。これは実在するすべての高次のレベルの一般的特徴―テーブルの硬
さ、水の液体性、金属の棒の弾性―である。すべての高次の物質的現象は物質的基盤に
実現される。意識が脳の外に漏れ出す時正確に物理的基盤は何なのか。わたしはこんな
ことを問わなければならないのがなさけない。なぜならその問いを問うことは、試験の時に
理論の信じがたさをすでに晒しているからである。(わたしは質的主観的意識が実在の生
物学的世界の身体的特徴ではないというデカルト主義は問題外と前提している。私たちは
この主張を理解する 3 世紀以上失敗してきた)。だが、わたしの学生が言うとおり、この議論
の要点は、知覚されるモノとその意識経験や知覚者の脳のような環境の他の要素間の空
間的、因果的関係についていかなる一貫的な説明もないため、選言主義者の知覚の概念
は矛盾というほど誤りではないということである。これらの関係に現前でき、そのように本物
と幻覚のケースが互いにいかに関係するかを示すことは、誰の理論であっても適切さの条
件である。
欠点2:選言主義者についての選言的議論
マイケル・マーチンは、わたしが悪い議論だとした反論には承服しないと考えると言う。わ
たしはそう考える。だからそれを詳しく述べる価値がある。彼とわたしが共に受け入れ、彼
はその主張を経験的自然主義だと呼ぶと彼は考える。それは大雑把に言って私たちの経
験が自然の世界の一部であり、因果的秩序に服従するという考えである。彼は経験的自
然主義は共通性のテーゼ―彼が「共通の種類の仮説」と呼ぶもの―とともに、素朴実在論
の拒否を強いると考える。その議論はこのようである:
だから、経験的的自然主義は、幻覚のケースについて真のある種の基盤を設ける。
そのような経験は経験-依存的モノだけを持つことができるか、「モノと全然関係持た
ない」かのいずれかである。「共通の種類の仮説」によって、何が人が幻覚を見てい
るときもつものについて真であろうと、同じものは、ひとが知覚している場合もつ種類
の経験について真でなければならない。だから、どちらの経験も、本当に知覚して
いる時には、何らかの心-依存的モノあるか、その経験が本質的に何にもモノに対す
る関係でないかであるのいずれかである。(12)
欠点 2 への回答
重要な文はこの、「共通の種類の仮説によって、何が人が幻覚を見ているときもつものに
ついて真であろうと、同じものは、知覚している場合もつ種類の経験について真でなけれ
ばならない」である。この文は曖昧である。それは良いケースの存在論的に主観的な質的
性格について真であるものが悪いケースでも同様に真であることを意味することができる。
これは実際必要条件でありわたしが提示してきた共通性の仮定に適う。だがそれはまたモ
ノへの関係がなんであれ、ふたつのケースは同じでなければならず、悪いケースはモノへ
の関係ないため、不条理がうまれることを意味するだろう。それは幻覚と呼ぶことによって
意味されるものである。条件によって明白に真ではないひとつのものがある。ひとつは心独立的な対象の知覚に関与し、他のものはそのような知覚に関与しない。「共通の種類の
仮説」は実際の経験の質的性格が、それである、ふたつのケースで同じであることを含意
する。だがこれはひとつが本物で他のものがそうでないという事実と矛盾しない。だがわた
しは急ぎすぎたくないので、繰り返そう。
マーチンのふたつの選言を検討しよう。幻覚のケースで対象がないのは明らかだと考え
る。それは幻覚の定義の一部である。そして対象としてセンスデータがなければならないと
仮定するのが悪い議論である。本物の経験は見られるモノへの関係である。幻覚の経験
は対象がない。その問題は何を仮定しているのか?繰り返しになるが、ここが重大な主張
である。共通の種類の仮定は「何が人が幻覚を見ているときもつものについて真であろうと、
同じものが人が知覚している時もつ経験の種類について真でなければならない。だから、
どちらの経験も、本当に知覚している時には、何らかの心-依存的モノあるか、その経験が
本質的に何にもモノに対する関係でないかであるのいずれかである」。わたしはこの主張
は正確に悪い議論を強調する内容とモノの区別できないことを示している。わたしはそれ
が単なる悪い議論の繰り返しではないことにマーチンと同意しているが、悪い議論を引き
起こす基本的原則の繰り返しである。すなわち同じ「内容」が同じ「モノ」を含意しているの
である。それは悪い議論だろう。この点を強調させてほしい:経験的自然主義は良いケー
スと悪いケースの間の共通性がそれぞれ同じモノをもつことを含意するという結論をもたな
い。それは誤った結論だろう。なぜなら良いケースと悪いケースを区別することの全ての点
は、モノをもつ点と、持たない点を区別することだからである。なぜ誰もそれらが同じ「モノ」
をもたなければならないと考えるか?わたしはこれをしばしば言うことができない:同じ内容
は同じモノを含意しない。「経験的自然主義」と「共通の種類の仮定」の連言は同じ内容が、
同じモノを含意するとは述べない。反対に、これらのケースについて私たちが焦点を当て
いる唯一の理由は、ふたつの知覚経験において、あなたが一方のケースで志向対象をも
ち、他方で志向対象をもたない正確に同じ志向内容をもつことができるという点を説明す
ることである。
欠点3: 認識論的議論
その文献で、形而上学的選言主義と、認識論的選言主義の間の区別はありふれている。
わたしはこれまでキャンベルとマーチンの形而上学的選言主義に集中してきた。だが選言
主義にはもうひとつ別の認識論的議論、わたしがこれまで無視してきたふたつの種類の経
験を区別することに関する議論がある。わたしが定義したような選言主義に関する議論だ
とは考えないが、その議論を述べ、私たちが何をみつけるか見てみよう。
本物の知覚において、私たちは自分の周囲の世界の直接的知識を得る。共通性のテー
ゼが正しいなら、知覚状況にはなにか付随的な要素があるだろう。そしてどのように認識論
の正しい説明を与えうるかを理解するのは困難である。共通性のテーゼにおける知覚の概
念は、本物の知覚は単に付随的である。あなたは幻覚を見て、その幻覚を引き起こすもの
をそれに加える。これは知覚の馬鹿げた絵であり、私たちが知覚経験から得る直接的な知
識について説明することは不可能である。
ジョン・マクドゥエルの、タイラー・バージへの回答で(3)、「客観的実在のある側面は、主
観にとって“そこに”あり、彼女に対して知覚的に“現前する”。それは経験が単に本物であ
ること以上のことを要求する条件である」と彼は考える。彼は続けて「そのような語で記述可
能である経験を持つことは、経験が物があるべく明かすように物があると考えるための“か
けがえのない”権利をもつことである」と言う。
欠点3への回答
マクドゥエルの記述は「かけがえのない」というメタファーを除いて、わたしの主張に非常に
よく似ているようにみえる。彼はわたしが使っているように「現前する」という同じ概念を使う。
だから、たとえば、わたしが今仕事をしているテーブルを見るなら、彼の主張に従うという意
味で、それはわたしに直接現前している。そしてそれは単に本物である以上に強い。なぜ
ならわたしは遠くの非常にぼんやりした何かの本物の知覚を持っているかもしれないから
である。だが、そのテーブルの現前についてぼんやりして点は何もない。マクドゥエルとわ
たしが同意したとおり、それはわたしに知覚的に現前する。そして現象学的に言って、この
状況ではテーブルがそこにあることをわたしが疑うのは大変難しいだろう。だから彼の説明
の多くはわたしに正しく見える。問題はこうである:直接的現前自体の現象学は成功を保
証しないということである。わたしはそれが、バージが指摘し、わたしが同意した、あなたが
正確にこの現前的現象学を持ち、なお誤りである点であると考える。マクドゥエルは失敗で
きる能力をもつフリースローの投げ手とのアナロジーを描くが、それはすべてのケースで失
敗し得るということは意味しない。反対に、その一部は成功しうると知られている。だがその
アナロジーは弱い。なぜなら実際のアナロジーはフリースローを投げることが「成功可能」
だということではなく、投げる現象学を伴うフリースローを投げることを「試み」、投げるいか
なる努力も、たとえ多くはそうでなくとも、失敗しえるということである。同様に知覚経験の、
そのような経験をもつことの、現象学それ自体が、たとえほとんど成功可能なとしても成功
を保証するには不十分なのである。
彼が代替案で描いた絵は共通性の仮定の誤った概念であるとわたしは考える。その代
替案は、視覚経験を痛みのように扱うと考えるようにみえる。人は外的なモノによって時に
引き起こされ、時に引き起こされない同じ種類の痛みをもつかもしれない。だが、共通性の
テーゼは独立した要素の「追加」によって到達される知覚の概念を含意しない。正確にな
ぜなら、視覚経験は本来的な志向性を持っているからである。視覚経験は知覚されるモノ
や自体の直接的現前である。それらはその現前に付け加えられる何かではない。わたしが
提起したとおり、共通性のテーゼは、知覚の現前的志向性を強調する。本物のケースは正
確に経験を引き起こすモノが、経験それ自体の志向対象である場合に真である。因果関
係の形態は志向的因果関係である。直接的知覚の認識論的説明は―わたしは正しいと
思うが―、例えばストラウド(14)の場合、見出される。わたしが説明してきたことは現前的志
向性の結論である。それは絶対に選言主義に関する議論ではない。(15)
欠点4: インターフェースとしての知覚経験
共通性のテーゼに関して、知覚経験は知覚者と知覚されるモノの間のインターフェース(接
点)であるだろう。この主張は選言主義を拒否する一部の哲学者にさえ進められている。例
えば選言主義者ではないティム・クレインはこう書く。
ある意味で、その場合志向性主義の批判は、その志向性主義の主張において、知
覚は、世界に「とどかない」と言う場合正しい。そしてこの意味でパットナムが心と世
界の間の「インターフェース」とと呼ぶものを生む。知覚の本質―知覚経験それ自体
―はまさに世界にとどかない。だが志向性主義者によれば、これはいかなる形而上
学ないし認識論的懸念も生む何かではない;それは伝統的な知覚としての志向性
の一般的側面の単なる気血である。(15)
欠陥4への回答
これは唖然とする文である。わたしは知覚知覚の志向性の誤った説明を与えると思う。そし
てわたしは見間違えようがないと考えるが、ひとつづつ見ていく。
1.「 その場合志向性主義の批判は、その志向性主義の主張において、知覚は、
世界にとどかないと言う場合正しい」とクレインはわたしに語る。わたしのこの反論に
対する回答は、わたしは彼の念頭に誰の志向性の説明があるのかわからないが、1
983年以来わたしが訴えてきた種類の志向性において、知覚は正確に世界に「とど
かない」のではない。わたしの「志向性主義」の説明において、わたしはテーブルを
つかむときには、わたしは実際テーブルをつかむ。わたしがテーブルを見るときに
は、実際わたしはテーブルを見る。
2.「知覚の本質―知覚経験それ自体―はまさに世界にとどかない」。「まさに知覚
の本質は世界にとどかない」。これはわたしが知覚と実在の間の関係について進め
てきた主張の正確に反対である。人は問わなければならない。もし世界にとどかな
いのなら知覚はどんなものなのだろうか?その答えは知覚は正確にそれが今あると
おりのものであり、世界に達しないのではないとわたしは考える。
3.この世界にとどかないことは、パットナムが心と世界の間の「インターフェース」と
呼んだものである。これを語る者は正確に「インターフェース」が何を意味するか語
らなければならない。それは、わたしがモノを見るときわたしとモノの間に間にある何
らかの実体と考えるべきなのか?そしてこれが「インターフェース」なのか?選言主
義者ではないクレインがそのインターフェースの本質について正確に私たちに語ら
ないのはおそらく驚くべきことではない。なぜ知覚が、「インターフェース」によらず、
とどいていると考えられるモノに実際にとどいていないかは彼は語らない。
4.彼はこれが「どんな形而上学的、あるいは認識論的懸念」も生まないという考え
で私たちをなぐさめる。それは単に伝統的に知覚されるものとしての志向性の一般
化された側面の帰結にすぎない。わたしは、その伝統が何かを正確に語ったのであ
ればと思う。前に言及した本の中で、わたしは知覚経験と行為中の意図の両方の現
前的志向性強調した。
視覚経験はインターフェースではない。インターフェースは知覚者と、知覚されるモノの
間にある実体だとわたしは考える。だが実際、経験はモノの知覚「そのものである」。それ
はインターフェースでも、インタフェースする実体でも、他の何かでももない。わたしがハン
マーで爪を打つときはいつでも、ハンマーと爪の間にはインターフェース、つまりわたしが
打つことがあると誰かが言ったと思ってみてほしい。だが打つことはインターフェースでは
ない。それは単にわたしが爪を打つとき、時起きていることである。それは視覚経験がモノ
を見ることであるのと同じ仕方で、爪を打つことである。インターフェースはそれ自体知覚さ
れることある別々の実体なのだろう。そしてもちろん私たちが繰り返し見てきたとおり、それ
は悪い議論である。あなたは視覚経験を近くできない。なぜならそれは知覚することだから
である。それはインターフェースではなく、知覚することそれ自身である。
いつものとおり触覚を検討するなら、これらの点をはっきり理解することができる。テーブ
ルの上を手でなでてほしい。するとあなたはテーブルの上の表面の滑らかさの感触をもつ。
だがその感覚はあなたとテーブルの間のインターフェースではない。そうではなくそれはあ
なたがテーブル自体を感じる仕方なのである。
クレインの説明の特徴で最もがっかりさせる点は、それが何らかの、あるいは他の選言主
義が知的に尊敬できるよう見させることである。あなたが志向性主義を犠牲にし、かつ選言
主義を犠牲にするとしても、賢い哲学者たちは、どちらかを犠牲にすることができるだろう。
わたしはこれは誤った考え方だと思う。もし知覚の志向性の適切な理論をもつなら、誰か
がまじめに選言主義を享受する事ができるとは考えない。
欠点5: センスデータ
共通性のテーゼに反対する第5の議論は、私たちが世界について知る基礎に「データ」と
か「根拠」を私たちに提供する知覚をもつというものである。それにもかかわらず、実際、知
覚が私たちに提供するのは直接的な知識である。
欠点5への回答
これは何度も繰り返されたのと同じ誤りである。視覚経験は、モノがそこにあることを知る基
礎にある「データ」「エヴィデンス」「根拠」あるいは他の何かではどんな意味でもない。そう
ではなく本物の知覚では、見ることと知ることは同じものである。ストラウドはまさにこの点を
指摘している。(16) だがそれは知覚経験の志向性の現前的概念から完全に構成される
(事実それから帰結する)。
欠点6: 本物の知覚は透明である
知覚の本物のケースはモノ自体に直接とどく。わたしたちはモノを真っ直ぐ見るのであって、
何らかの媒介的な実体を見るのではなく、自分の知覚の記述は正確に外的世界のモノの
記述である。「あなたが自分の経験を記述しようとするなら、あなたが知覚するモノや事態
を記述して終わる」。そこにただひとつの物があるということが起きているもののただひとつ
の記述があるという事実から帰結するようにみえる。経験とモノのふたつの独立した実体が
あるのではない。経験は透明であり、モノに直接とどく。知覚の他のどんな説明もこれを見
落とし、結果的に選言主義を受け入れなければならないことになる。
欠点6への回答
わたしがこの議論について言おうとすることが明白であり、わたしは以前の章で述べた。透
明性の源泉は正確に視覚経験のの現前的志向内容である。現前的志向内容は「わたし
は緑色のテーブルを見ている」である。その事実に対応する世界における事実は、そこに
緑色のテーブルがあるということである。「透明性は選言主義のための議論ではない。それ
は選言主義に反対する議論である。事実それは選言主義に反対する単一の最も強力な
議論である。なぜなら透明性は説明を必要とするが、選言主義者は説明によって提示でき
るものがなにもないからである。どのように完全に頭のなかにある質的主観的経験はわたし
に世界における存在論的に客観的なモノや事態の直接的即時的現前を与えることができ
るのか?答えは、経験は正確にわたしが描いてきた種類のものの現前的志向性をもつと
いうことである。
透明性は選言主義者にとっては問題である。そしてわたしは正確になぜかと言いたい。
透明性はこのように生じる。もしわたしが次のように言うなら:
(1)わたしが緑色のテーブルを見る
わたしがその出来事の主観的構成要素を捉えたいなら、次のように言えるだろう:
(2)わたしは緑色のテーブルを見るように見える。
だが(2)真でありえる別の方法がある。私たちが心にあることを明確にしよう。すなわち:
(3)わたしは正確にあたかも緑のテーブルを見ているかのようであるわたしの頭のなかの
意識的視覚経験をもっている。
(1)の形式のなんらかの意識的知覚経験は、(3)のような定式を許容するだろう。だが(3)
は透明性の源泉である。視覚経験の記述は、多かれ少なかれ、正確に知覚される事態の
記述に対応する。その事実は、説明を必要とする。わたしの経験では通常、選言主義者は
説明が必要であることを理解できない。
しかし透明性に由来する議論は視覚への集中のため過剰に評価されている。テーブル
が滑らかであることを見るわたしの視覚経験は、テーブルの滑らかさと区別するのは難しい。
だがわたしが滑らかな表面をなで、かつそれが滑らかであるなら、わたしはわたしの指先の
滑らかさの感覚と実際のテーブルの滑らかさとをたやすく区別できる。視覚経験は身体的
感覚ではない。だから視覚経験の内容と世界における充足条件を混同する可能性がある
のである。だが、あなたの指や手のひらの滑らかさを感じるような身体的感覚について実
際語っている時、その混同をするのは大変難しい。わたしはキャンベルの理論を論じる次
節でこの点に戻るつもりである。
第 3 節 意識と知覚:キャンベルの説明
わたしにとってキャンベルの知覚の概念を説明し評価する最善の方法は、それとわたしの
概念を対照させることである。わたし自身の説明は大変短い。
わたしがひとつは緑色、他は青のふたつの2枚の四角いキャンバス、前に立っているとす
るなら、わたしは同じ意識経験に青と緑色の両方を見ることができる。それはどのように働く
のか?第一に、キャンバスに反射した光が一連の神経生物学的プロセスをを始め、最終
的に緑と青の意識経験を生む。これらの経験は本来的志向性である―すなわち、わたし
は、少なくともわたしが緑色や青い何かを見ているようにわたしに見えることなく、その経験
をもつことはできないだろう。その経験は存在論的に主観的である;それらは質的であり、
頭のなかにある。経験が本物なら、その場合、わたしの目の前のモノの特徴の現前を正し
い仕方で引き起こす。どちらも見ないなら、どちらも緑色でも青でもないことを再び強調す
るのは重要である。これはその経験が、緑色と青を「見ること」だからである。あなたは見る
ことを見ることはできない。その色を見ることはそれ自体色は付いていない。これれは大し
て複雑な話ではなく、私達自身の経験と、神経生物学からどのように世界が働くかについ
て知っていることと一致している。
同じ光景のキャンベル説明は正確にどういうものか?わたしが立って、これらふたつのモ
ノを見るとき、彼の説明では、まったく質的、主観的意識はない。ふたつのモノの現前だけ
があり、わたしの「意識的」知覚は、わたしとモノの直接関係からなる。その関係の要素は
単にわたし自身の視点とふたつのモノだけがある。「意識」はこの関係にある。それゆえ、
わたしの説明の3つの本質的な特徴はキャンベルによって全て否定される。それらは:
(i) わたしが意識的に何かを見るとき、わたしの頭の中で進む意識的、質的、主観的経験
がある。
(ii) これらはわたしが見ているモノによって引き起こされる。
(iii) それらは本来的な志向性をもつ。
キャンベルはこれらすべて否定する。なぜか?わたしが言える限りでは、彼の唯一の議論
は透明性だけである。視覚経験に注意を集中するならば、通常モノの特徴に集中するだ
けのようにみえる。視覚経験の記述とその充足条件の記述は通常同じである。だから彼に
は唯一の起こっている現象しかなければならないようにみえる。わたしは透明性のデータ
には同意するが、透明性は問題なのであって、答えではないと考える。透明性についての
説明とはなにか?目を閉じたとき、意識的視覚経験は消えるが、知覚されるモノのは消え
ないという事実によって示されるように起きている現象にはふたつあるようにわたしにはみ
える。これは明らかに、わたしの意識的主観的経験と知覚される実際のモノの特徴とに何
か違いがあるからである。なぜそのふたつは同じ記述をもつのか?なぜ一方と他方を混同
することが可能であるようにすらみえるのか?そして答えはわたしがこの本で書いたことす
べてから明らかである。存在論的に主観的な意識的経験は、その充足条件として世界の
存在論的に客観的特徴をもつからである。前者後者の直接的現前である。
キャンベルの説明はいかなる正常な意識的知覚者も緑色と青の意識経験を持つため、
そしてこれは2色の現前を単に説明するより多く必須であるため、直ちに誤りのようにみえ
る。グレーの陰影だけしか知覚できない色盲の人は緑色と青の区別を、グレーの陰影の違
いで知覚するよう学ぶことができるかもしれない。わたしはキャンベルはどのようにこのケー
スを説明できるか理解できない。なぜなら、彼は意識的知覚の本質である「私的」質的、主
観的経験の存在を否定するからである。
キャンベルの説明は明らかに表面上あきらかに偽であるが、哲学者は議論好きで、わた
しも例外ではない。ではどんな議論をわたしはその彼の不適切さを示すために提示できる
のか?わたしはいくつかそのような議論を述べるのは大変難しいとは思わない。わたしは
色の違いを説明する正常な色覚と色盲の違いについてそれをすでに提示した。より強力
でさえある第二の議論はこうである。テーブルの表面を見ていると仮定する。わたしはテー
ブルの机の滑らかさを見る。それはわたしに滑らかさの意識的経験を引き起こす一連の出
来事を提供する。さてわたしが同じ表面を手でなで、わたしが見ているのとまさに同じ滑ら
かさを感じる。誰かがまさに心のなかで、わたしの指先のなめらかさの意識的経験がその
モノのなめらかさとは別の、実際の意識的経験であることをどのように否定できるかわから
ない。誰も、モノのなめらかさと指先のなめらかさの感触がひとつの同じ物だと言うことはあ
りえない。わたしが指先を上げてなめらかさが終わるが、なめらかさ自体は終わらない時単
純な証拠が与えられる。
なぜ同じことが視覚経験について明らかではないのか?視覚経験は知覚される質とまっ
たく異なる。なぜなら、すでに述べたとおり、目をつむった時、視覚経験はなくなるが、その
質は止まらない。頭の中の視覚経験は、それゆえわたしが知覚している質と同じではない。
触覚的経験と視覚経験の違いは、触覚経験は「感覚」(sensations)だが、視覚経験はそう
ではない。なめらかさの感覚は身体的感覚である。触覚経験となんらかの対照をなす視覚
経験ケースで幻覚をもつことは可能である。なぜなら視覚経験は、なめらかさの感覚が実
際にわたしの指先の感覚であるという仕方で身体的場所を持つ感覚ではないからである。
視覚と触覚の両方が同じ仕方で扱われなければならない証拠はなにか?わたしがなめ
らかさを見る視覚経験とわたしがなめらかさに触れる触覚経験はひとつのそして同じ総合
的な意識経験の一部であることに注意してほしい。この特定のケースで、わたしはふたつ
の独立した経験をもたない。わたしは視覚的に知覚されるなめらかさの経験と触覚的に知
覚されるなめらかさの経験の両方をもつひとつの持続的意識フィールドをもつ。わたしの
視覚経験にとって、その充足条件としてあるものは、正確にわたしの触覚経験にとって、そ
の充足条件としてあるものと同じである。両方のケースで、わたしは一方は触覚的に、他方
は視覚的になめらかさを知覚している。同時にわたしが背中にわずかに痛みを感じと仮定
してほしい。わたしはその場合少なくともこれらの構成要素をもつ単一の継続的な意識
フィールドをもつだろう(疑いなく、同様に多くの他のものがある):視覚的に知覚されたなめ
らかさ、触覚的に知覚されたなめらかさ、背中の痛み。これらすべてはわたしの意識フィー
ルドで起こる存在論的に主観的な現象である。痛みを加えた理由は痛みの経験が存在論
的に主観であることが明らかであり、全て単一の意識フィールドのすべてひとつであるため、
わたしが3つすべて(触覚的経験、視覚経験、痛み)は正確に同じ主観的存在論をもつこと
を示したいということである。
キャンベルの説明は、決して直感的に訴えるものではない。彼はそのためにどんな議論
を提起しているのか?前に言ったとおり、彼は、ムーアに帰される、ひとつの議論、透明性
に由来する議論を頼りにしている。意識経験の質的特徴の主題に関して、彼はムーアに
由来する議論を賛意をもって引用する。「だが、ムーアは強調して、青の経験と緑色の経
験を区別する本来的な特徴があると考える理由はないという点を指摘する。経験を区別す
る色の表象の概念にも、ふたつの色の経験を区別する経験の本来的に感覚的な特徴の
概念にも訴える必要はない。一方で青、他方で緑色のモノは適切にその経験を区別する」。
わたしはこれがムーアの正しい解釈かどうかわからないが、どんな場合もわたしには誤りに
おもえる。そしてわたしは単一の統合された意識フィールドの一部として色の経験、なめら
かさの経験(触覚的、視覚的の両方)、痛みをもつという前の例でその理由を示したことを
願う。
しかしこれは、経験の「現象的性格」(phenomenal character)が単にモノの物理的質であ
るという、キャンベルによるもうひとつの尋常ではない主張につながる。意識的視覚経験に
おいて、通常少なくとも3つの要素がある。知覚されるモノないし事態、モノが知覚される意
識的知覚経験、モノが意識的視覚経験を引き起こす因果関係がある。キャンベルが経験
の「現象的性格」について言うことはこうである。「関係的な主張において、部屋を見回すと
き、阿那賀の経験の現象的性格が部屋の実際の配置自体によって構成される:特定のモ
ノ、色や形のような本来的特性、そしてあなたと互いに関係する仕方がそこにはある」(17) これは唖然とする主張である。だからすでに述べたいくつかの例でそれを詳しく検証しよう。
部屋を見回す。あなたは存在論的に客観的な視覚フィールドの一部である知覚可能な
テーブルをもつ。最初に触覚の感覚を取り上げそこから始める。わたしはテーブルの上を
手でなでる。滑らかに感じる。客観的知覚フィールドの一部であるテーブルのなめらかさが
あり、主観的知覚フィールドの一部であるわたしの指先の指先の意識的感覚がある。これ
らが異なる現象であるのはまったく明らかである。テーブルの上を手でなでるとき、テーブ
ルの客観的なめらかさが主観的なめらかさの経験を引き起こす。さて信じがたいことにキャ
ンベルはわたしの手のなめらかさの主観的感覚はテーブルの実際のなめらかさ「から構成
され、それゆえそれと同じである」と言っているようにみえる。彼はテーブルのなめらかさは、
あなたの経験の「現象的性格」と同じであると言う。テーブルから手を離すと「現象的性格」
は停止するが、テーブルのなめらかさは停止せず、そのなめらかさは「現象的性格」を引き
起こすという事実によって示されるとおり、それは正しいことはありえない。さらに悪いことに、
テーブルのなめらかさを見ることの質的視覚的経験はテーブルのなめらかさを感じる質的
触覚的経験と全く異なる。同じ客観的質が両方のケースで経験されるが、客観的な質は、
経験が異なるため経験と同一ではありえない。
主観的質的知覚経験の哲学的問題はどのようにこれらの知覚が、知覚されるモノと関係
するかを説明する試みでありこの本の多くはその問題に捧げられてきた。この議論に対す
るキャンベルの貢献は何か?彼は主観に変更を加えるのだとわたしには見える。主観は
知覚される存在論的に客観的な事態ではなく、人の頭の中で起こる存在論的に主観的な
経験である。彼にとって、主観を存在論的な客観性と同一視することで存在論的主観性を
説明することである考えるのは、単に主観性を変更することなのである。唯一の両者のつ
ながりは「質」という言葉がモノの質と経験の質的性格の両方に適用されるようにみえること
である。だがこれは単にひどいダジャレである。それはまるである人が癌(cancer)の問題を
説明するとき「さて癌(cancer)の問題の解決は、cancer(蟹座)は crab(蟹)も意味すると言う
ことだ。だが蟹と癌は同じではない」というようなものである。知覚の質的性格の問題は、モ
ノの客観的特徴のそれと同定することを試みることでは単に解決されない。それは、意識
的志向性と因果関係が関係するふたつのまったく異なる現象である。実際の知覚では、私
たちが質的経験の問題を解決するため探求するのに必要なのは志向性と因果関係である。
キャンベルは知覚的意識の存在の積極的に否認しており、彼はそれへの指示の存在を
否定する語彙を使い続けることで彼の読者にはこれは隠されている。この章の初期の草稿
への回答で、彼は知覚的意識は存在しないと彼は実際には言っていないと彼は指摘した。
まったくその通りである。彼が言ったのは、視覚的知覚は3つ、たった3つだけの構成要素
によって構成されるということである:知覚者、知覚されるモノ、視点。わたしはこれが彼に
知覚的意識(わたしは実在する意識:感情、感覚、気付きなどの質的主観的状態のことを
言っている)は存在しないとういう主張を抱かせると考える。あたかもわたしが誰かに「サリー
は部屋にいたか?」と尋ね、その人は「部屋には3人だけがいた:トム、ディック、ハリーだ」
と言うようなものである。さて彼は実際サリーが部屋にいないとは言わなかった。だがサリー
はトムでもディックでもハリーでもないというもっともな理由で、彼はサリーが部屋にはいな
いと言う主張を抱くのと同じ仕方で、キャンベルは質的主観的意識的知覚経験は存在しな
いという主張を抱くのである。その仮定をもって意識的知覚の説明し「始める」ことができる
とはわたしは思わない。
第4節 相違の本当の源泉
通常哲学では、表面的な相違は、つねに表面では現れないより大きな相違の兆候である。
わたしは今回のケースでもそのような何かが起きていると思う。それは哲学者たちが教室で、
良いケースと悪いケースに共通の「根本的何か」がることを議論しており、選言主義は「根
本的に」共通なものは何もないと議論している何かのようである。だが、その明らかに平凡
な相違は、様々な哲学者たちがもつ知覚の概念における大きな違いに本当は依存してい
る。わたしは選言主義にさらに反駁を加えるだけでなく、単に共通性のテーゼが否定され
るならあなたが払わなければ犠牲を示すことで、この議論を結論したい。
選言主義のもつ本当の困難は、関与する実体の一貫した矛盾のない説明をすることが
できないということである。前に述べてように、これらすべては―幻覚のケースであれ、本物
の視覚的知覚であれ―物理的世界における実在の出来事であり、図に描くことができなけ
ればならないものであることを思い出してほしい。わたしは第1章とこの章の初めでそれを
試みた。頭の中の意識経験を引き起こす頭の外のモノがある。意識経験は、充足条件とし
てのモノが現前する。幻覚のケースでは、頭の中のものは正確に(条件により)同じものであ
りえるが、(再び条件により)モノがないため、その明らかな充足条件であるモノによっては
引き起こされない。わたしは空間的因果的関係、特に視覚経験と知覚される対象への関
係を詳しく扱うことができる選言主義者の説明を見たことがない。
どんな知覚理論にとっても良いテスト・ケースは、100万年前存在するのをやめたモノの
本物の知覚を説明できるかである。わたしは2億7000万年前存在するのをやめたと知っ
ている星を望遠鏡で今見る。ある面では、その経験は本物ではない。なぜなら、繰り返しに
なるが、すべての経験は今ここの経験であるからである。そしてその星は実際そうでないと
わかっているのに今ここに存在しているようにわたしには見える。やはり、わたしはその特
定の星を見ていると知っている。さてわたしはこの章で書いたように実際その絵を描くこと
ができる。星はわたしに視覚経験を引き起こす。わたしは選言主義者がその絵を描くのを
見たい。正確にどんな意味で、彼らにとって、その星はその経験の構成的部分であるの
か?モノが2億7000万前存在するのをやめたことを描くのは非常に難しい。
第5節 選言主義と視覚的想像力
マーチンは視覚的想像力に関する私たちの能力に基づいて選言主義に関する付加的議
論をしている。わたしは議論はあまりに込み入っていると思うので、それを要約しようとは思
わない。だが、わたしが理解する限り、議論の中心は、視覚的想像力の形成において、私
たちが、想像された光景におけるモノの存在になんらかの重要な意味で積極的に関与し
ているということであり、これは実際の知覚においてその光景のモノが知覚経験の一部で
ある仕方を説明すると考えられているということである。わたしはこれは視覚的想像力の正
しい説明であるとは思わない。そしてわたしはここでより適切な説明だと考えるものを述べ
たい。
視覚イメージの形成と実際何かを見る事の本質的違いは、第一に視覚イメージは実際に
何かを見ている場合より不鮮明で不明瞭であることである。第二に視覚イメージは、通常
自発的に作られるということである。それは主体の行為中の意図によって引き起こされる。
私たちが検討しているそのケースでは、それは志向的に形成された経験である。だが、あ
なたが何かを見ている時、あなたの経験であるものは、あなた次第でできるのではない。あ
なたの経験は光景自体の実際の特注によって決まる。ひとつの例で見てみよう:わたしに
指示が与えられたと考えてほしい;エッフェル塔の視覚イメージを形成する。その光景の一
部として自分で想像していない重要な意味がある;それはわたしが想像するエッフェル塔
にすぎない。その後第二の指示を受ける:特定の場所、パリのアレクサンドル三世橋から
エッフェル塔を自分が見ている視覚イメージを作る。二番目のケースでは、わたしは想像さ
れた光景の一部であり、わたしが想像しているものはわたし自身実際エッフェル塔を見て
いるものである。ついで第三の指示を受ける:正確に第二のケースでしたことをする。だが
それが幻覚であると想像する。そのケースでは、わたしは正確に同じ内容を想像すること
ができる。だが幻覚では想像された光景のモノの存在にいかなる意味でも積極的に関与
していない。なぜならわたしが想像しているものはそのモノの幻覚をわたしがもっていること
であるからである。ふたつのケースで、同じ想像された内容があり、第二のケースではモノ
への積極的関与がない。同じ内容をもつ同じ経験を自分がもっていることを再び想像する
第四のケースがある。だがこのケースではわたしがそれが幻覚かどうかわからないことを想
像する。わたしはそれが元かどうか迷うと想像することができる・その問いは答えられないま
まである。
この例の趣旨は、私たちは本当に視覚的想像力の特徴から興味深い重要な結論を得る
ことができないことを説明することである。なぜなら、視覚イメージにどんな特徴を加えるか
の決定は私たち次第であるからである。私たちは想像された光景で見られるモノの存在に
積極的に関与している視覚イメージと、正確に内容は同じだが、積極的関与はない視覚イ
メージをもつことができる。なんであれ視覚イメージは選言主義に反するものとみなされる。
なぜなら同じ内容を持つがひとつは幻覚であるふたつの視覚イメージをたやすくもつこと
ができるからである。3つのケースで、わたしは、自分が正確に本物のケースをもつ同じタ
イプの視覚経験を想像するが、条件により、想像されたケースは幻覚をもつことを想像して
いる。正確に同じ内容が、ひとつは本物であり、もうひとつは幻覚である。そしてわたしがど
のようにそれを想像するのを選ぶかは、わたし次第なの
である。
1. Koch, Christof. The Quest for Consciousness: A Neurobiological Approach. Englewood,
CO:Roberts&Co. Publishers, 2004,105.
2. fftche, D.H., R.J. Howard, David A. Brammer, P. Woodruff, and S. Williams. "The Anatomy of
Conscious Vision: A fMRI Sutudy of Visual Hallucinations." Nature Neurosciencce(1998): 1, 738-43.
3. ffyrche, D.H. "Hallucinations and the Cheating Brain." World Science Festival(2012).
4. これらの中で、わたしが最も役に立つことがわかったふたつは、"Disjunctive Theory of Perception"
by Matthew Soteriou in the Stanford Encyclopedia of
Philosophy(http://plato.stanford.edu/entries/perception-disjunctive/) and "Disjunctivism" by William
Fish in the Internet Encyclopedia of Philosophy(http:..www.iep.utm.edu/disjunct/).
5. Byrne, Alex, and Heather Logue, eds. Disjunctivism: Contemporary Readings. Cambridge, MA:
MIT Press, 2009,. ix.
6. Martin, M.G.F. "The Limits of Self-Areaness," in Byrne and Logue. Disjunctivism: Contemporary
Readings, 279.
7. ffytch, Howard, Brammer, Woodruff, and Williams. "Anatomy of Consciousness Vision."
8. キャンベルは、「意識」の語彙を使い続けるが、実査は意識的知覚経験が存在しないことを含意する。
すなわち、その意味で、わたしやほとんどすべての他のひとは、「意識」と言う表現を「どのように感じる
か」という特徴をもつ状態に言及するため用いる。彼はそのような意識的知覚的状態の存在を認めない。
彼は知覚状況の特徴「だけ」が知覚者、モノ、視点であると言う。この章の初期の草稿への回答で、彼は
知覚的意識の存在をあからさまに否定していないと言う。まったくそのとおりだが、もし3つの特徴しかな
いのならそれらすべては客観的であり、存在論的に主観的な知覚的意識に存在の余地はない。さらに
彼の主張については後を見よ。
9. Byrne and Logue, Disjunctivism: Contemporary Readings, 272.
10. マーチンは想像力について別の議論をしており、後に短く論じるつもりである。
11. Koch. The Quest for Consciousness: A Neurobiological Approach.
12. Martin, "The Limits of Self-Awareness" in Byrne & Logue eds: p.275.
13. McDowell, John. "Tyler Burge on Disjunctivism." Philosophical Explorations 13(2010):3, 243-55.
14. Stroud, Barry. " Seeing What Is So" in Prenceton, Causation, and Objectivity, ed. Johannes
Roessler, Hemdat Lerman, and Naomi Eilan. Oxford: Oxford University Press, 2011, 92-102.
15. Crane, Tim. "Is There a Perceptual Relation?," in Perceptual Experience, ed. Tarmar Szabo
Gendler and John Hawthorne. Oxford: Clarendon Press, 2006, 141.
16. Stroud, "Seeing What Is So"."
17. Cambell, J. Reference and Consciousness. Oxford: Oxford University Press, 2002, 116.