第8章 知覚の古典的理論

第8章
知覚の古典的理論
懐疑論と知覚の古典的理論
わたしは知覚は17世紀以来西欧哲学の中心的先入観だったとこの本の初めて言った。だ
がわたしがこの本で論じたほとんどの問題は、この主題に関する伝統的著者たちの主要な
関心事ではなかった。彼らの第一の関心は認識論的だった:彼らは内的知覚経験と外的
世界の証拠に基づく関係を検証していた。研究は、内的知覚経験、観念、センスデータだ
けが直接的に知覚されうるという仮定に基づいて行うことができると考えられた。具体的に
は、わたしたちが知覚するものすべてが自分自身のセンスデータなら、どのように外的世
界の確実な知識を手に入れるということは可能なのか?わたしはセンスデータしか知覚で
きないという仮説を拒否した。反対に絶対に知覚できないひとつのものがは、私たちの内
的知覚的経験、私たちのセンスデータである。一旦悪い議論を放棄し、その主題の歴史
にもつ恐るべき効果についてのいくつかの細部に立ち入るなら、わたしは伝統的問いより
もっと重要にみえる、そして伝統的哲学が解決すらできない一連の問いを議論することが
できる。すなわち、一旦あなたが悪い議論を受け入れるなら、一旦あなたが知覚の対象が
つねにセンスだと考えるなら、わたしが知覚の哲学で興味深いと考える問いは解決すらで
きない。選言主義者は、彼らが自分自身が反対していると考える伝統と同じ大きな誤りを
犯すだけである。なぜなら、悪い議論の形式的構造を受け入れながら、その最初の前提を
拒否し―本物ケースと幻覚のケースの間に共通のものがないと言う前提をして―有害な結
果を避ける事を望むことによってを、彼らは知覚に関する本当に興味深い問題のいくつか
―たとえばどのように生の現象学は志向内容を決め、充足条件を決めるか―を解決不能
にする。
この章でわたしは伝統的な問いのいくつかを解決しようと思う。どんな知覚の哲学に関す
る一般的な本も、その説明が懐疑論の問題にどのように関係するか、どのようにそれが、表
象的理論、現象主義、観念論、などの伝統的古典的理論に関係するかを読者に何らかの
説明する責任を負う。さらにいくつかの店で、第一性質と第二性質の間の区別が解決され
る必要があり、わたしはその問題についての短い議論でこの章を結論するつもりである。
わたしは多くの哲学者たちがするほど真剣に、多くのこれらの問題を受け止めていないこ
と、そしてそれがそれを本の最後においたひとつの理由であることをはじめに告白しなけ
ればならない。そして悪い議論のは以後の誤謬を明らかにし、知覚の哲学として直接的実
在論を正当化する知覚の志向性の説明を受け入れるなら、多くの伝統的論争は単に関心
を失う。しかし完全を期すために、先に進もう。
第1節 懐疑論
わたしがこの本で提示した知覚の説明は知覚に由来する知識についての懐疑的な疑い
に対するなんらかの種類の答えを与えるだろうか?一般に哲学における懐疑的議論は同
じ形式を持つ(と実際わたしは思う):ある主張に、どれだけ証拠(根拠、理由、保証、基礎
など)を持っているいようと、その主張をするため、あなたの認識論的基礎がどれだけ完全
であろうと、あなたはつねに誤りえる。(ヒュームは、最も極端に懐疑的に、実際あなたは証
拠をもたないと論じる)。証拠と結論の間にはつねに大きな隔たりがある。だからあなたは
太陽が明日東から上るだろうとか(帰納の問題)、他の人々は意識があるとか(他者の心問
題)、モノを知覚することによってその存在を知ることができる(知覚の問題)の証拠をもつ
と考えるが、どのケースでも完全な証拠を持ちえるがなお誤りえるのである。
確定法の認識論的基礎本性を正確に特定することに本当の問題があることは指摘する
価値がある。わたしが用いた言葉、「証拠」「理由」「保証」「基礎」などの用語はそれぞれ、
ミスリーディングするされる可能性がある。なぜならそれぞれはものを見るある仕方を私た
ちに負わせるからである。あなたがこのテーブルを見るとき私の視覚経験が、そこにテーブ
ルがあると言う「証拠」であるというのは誤りである。だがその場合それを記述する正しい方
法とはなにか?マクドゥエルは「保証」(warrant)という表現を用いるが、だがそれは、法律
のメタファーであるため、等しくミスリーディングでありえる。わたしがこの視覚経験をもつこ
ととテーブルがそこにあると知っている関係を記述する正確に正しい方法とはなにか。わた
しはそれは同一性の形態であると思う。この視覚経験はただテーブルがあることを知って
いるひとつのケースである。だがそれはトリッキーでありえる。なぜならわたしは正確にこの
ような経験もつことができ、かつテーブルがそこにあることを知らないことがありえるからであ
る。現象学はふたつのケース、良いケースと悪いケースで、正確に同じでありえる。その事
実が懐疑論を生む。
これが懐疑論的な一般形式であると考えるなら、わたしがこの本でしてきた知覚の説明
は知覚についてそれに答えるか?さてある意味でそうであるようにみえる。なぜなら私たち
の近くにあるものについて主張する証拠に役立つ基礎をもたないと懐疑論は言うからであ
る。反対に私たちは直接周囲のモノをものを見て、触る。わたしはテーブルがある「証拠」
はもたないが、わたしは「見る」ことができる。そしてそれを見ることはこのケースでそれを
「知ること」である。わたしが、直接経験する足が二本ある「証拠を持っている」以上に目前
にテーブルがある「証拠を持っている」以上のことはない。大きな誤りは、見ることが「証拠」
(あるいは根拠、保証、基礎)を提供すると考えることである。そうではなく、これらはすっか
り誤りである。見ることは知ることの方法である。
だから今や数世紀間、私たちがもってきた懐疑論のバージョンに関して、私たちはある種
の答えをもつ。懐疑論の的議論はあなたが知覚できるすべてはあなた自身の経験である。
だからどのようにその経験の外部の現時についてあなたは知るのか?このページで提示し
てきた知覚の説明に関して知覚の関係は、直接的現前の関係である。私たちは証拠やイ
ンターフェースをもたない、私たちは周囲の物や事態を直接的に見る。だから古典的哲学
者たち―デカルト、カント、バークリー、ヒューム、カントなど―を苦しめた知覚に関する懐
疑論の形式は、この説明を苦しめない。一般に、彼らはロックとデカルトが採用した、モノを
見るのではなく、モノの表象を見るという表象理論か、バークリーとその後継者の現象主義
ないし観念論の間の選択をもった。そこで証拠と結論の間の区別がないため懐疑論の問
題は取り除かれる。あなたが見るセンスデータは単にあなたが見る対象である。これはいか
なる形式の観念論にも通用する標準的な議論である。実在だけが実際に証拠なら、証拠
と実在の間の区別は取り除かれる。
わたしの解答は懐疑論に十分な解答か?さてある意味で明らかではない。なぜならそれ
は私たちが実際に知覚状況にいるかいないか、私たちが区別不可能な幻覚をもっている
かどうか語る方法を提供しないからである。だが、私たちが手放した懐疑論の形式は異な
る次元のものである。それは原則的に地十分な証拠を消してもつことができないという問い
ではない。証拠の問いはすっかり取り除かれた。わたしはテーブルがそこにあるといういか
なる「証拠」も必要としない。わたしはそれを「見る」。
私たちは物質的対象後核についての懐疑論に対するこの解答を、他者の心についての
懐疑論についてのウィトゲンシュタインの議論を比較するすることができるかもしれない。
ウィトゲンシュタインは「基準」と「兆候」の区別が必要だと指摘する。横腹をつかみ、わずか
に顔をゆがめる男を見るなら、わたしは彼が横腹が痛いと「推測」するかもしれない。だが
自動車にひかれ、足が自動車の下に挟まり、痛みの叫びを上げている男を見るなら、この
ケースでわたしが観察するものは痛みの兆候ではない。だがウィトゲンシュタインが言うと
おり、これは男が「痛みを感じている」と私たちが「呼ぶ」状況である。さて、私たちは両方の
ケースで誤っているかもしれない。男が実際痛みを表しているのではない兆候のケースで
あるかもしれないし、ハリウッド映画の全体の一場面でありただ痛みを感じている男のケー
スを演じている基準のケースかもしれない。だが第二のケースで演じられているものが正確
に「痛みを感じている男」だと見ることは重要である。いわばウィトゲンシュタインが言ったよ
うに、痛みを帰属する言語ゲームは、基準が充足されるためそれを痛みと呼ぶのがこの場
合正しいケースのようなことである。;そして私たちが誤ったケースでさえ、その誤りの帰属
は、いわば、痛みのまさに本質に基づいているのである。
これは懐疑論的疑いの可能性を取り除くものではないが、私たちが異なる視点から問題
全体をみることを可能にする。他者の心についての伝統的懐疑は、私たちが十分な証拠
をもたないと考えることを求めるが、ウィトゲンシュタインはもし「兆候」(すなわち証拠)と「基
準」を区別すらなら、あなたは「痛み」という言葉で私たちが行う言語ゲームが正確に私た
ちが、たとえ基準に自己保証が何らなくても、基準的ケースでその言葉を用いる資格を与
えると言っている。私たちはその言葉を基準的に適用し、なお演技をしていると言うような
いくつかの理由で誤ることができるかもしれない。さてその教訓を見ることに応用するなら、
「これは私たちが『男は痛みを感じている』と呼ぶケースであると言うことができるのとちょう
ど同じく、「これは私たちが『目前のデスクを見ている』と呼ぶケースである」と言うことができ
る。もちろんわたしは誤りえるのだが、誤りの次元は証拠の欠如ないし不十分な証拠の場
合とは異なるのである。だから結論はウィトゲンシュタインが痛みのケースについて正しい
なら、そしてわたしがモノの知覚のケースについて正しいなら、両方のケースで、なお懐疑
論的疑いを主張することは可能であるということである。だが懐疑論的疑いは古典的懐疑
論が私たちに提起するそれとは異なる次元のものである。それは証拠の欠如や不十分な
証拠ではない。それはすべて誤りの別の次元なのである。
第2節 現象主義、観念論そして知覚の表象理論
哲学者やある種の哲学者のタイプの中で最も根本的な違い、おそらく「固有の」最も根本
的な違いは、哲学者が存在論的な「岩盤」と見なすものの問いへの答えにある。すなわち、
哲学的立場の隠れた意味を組み付くそうと意思する哲学者にとって、その問いに対する答
えがある。「なんであれ、どれが他のすべてが説明されなければならないかに関連して、ど
れがそれ自体他の何に関連して説明される必要がないかということである」。
わたしがこの本で語ってきた説明に関して、岩盤が原子物理学で描かれる世界であるの
は明らかだ。これはわたしが自然科学の特定の段階についてとくべる内見をもっているか
らではない。反対にわたしはそれは変化し発展し続けるだろうと思う。だが、過去300年の
知識の増大、私たちがミスリード的に「科学研究」と呼ぶものの結果として、世界が私たち
は完全に正しいとはいえないとしても、「物理的粒子」と呼ぶのが便利な実体からなるだろ
うと非常にうまく結論できると、わたしは思っている。このような粒子は、諸システムの境界が
因果関係によって設定される力の場に存在する。システムの例には、水の分子、赤ちゃん、
国家、銀河がある。
わたしは暗黒物質とか暗黒エネルギーとかに当惑していることを認めざるをえない。他方
わたしの困惑は物理学者や天文学者の当惑とは全く違う。彼らが「暗黒」と言うとき、彼らは
色について語っているのではなく、彼ら自身の知識のなさについて語っているのである。
わたしが上述のように「既知の世界」と言うとき、慎重に暗黒物質や暗黒エネルギーを除外
しているのである。わたしはそのような現象を解明するのを物理学者に任せなければなら
ない。だがどんなことがあっても、そのような仕方で存在する実在する世界が完全に観察
者独立的であり存在論的に客観的であるとわたしが考えるもので説明が底に達することは、
わたしがあなたに語っていることはその説明から明らかである。哲学の課題のひとつは高
次のシステムの構成やそれがどのように原子論的物理学の実体の底に達するかを説明す
ることである。
過去300年の哲学の歴史において、存在論が物理学を岩盤とする主張は、恒に支配的
意見ではなかった。実際、悪い議論は長い間非常に影響力があったため、それは悪い議
論の延長の二つの形式につながった。その両方とも旧きょっくてきな実在は主観性を岩盤
とした。そのひとつは究極の実在は観念であるという観念論の伝統である。すなわち、それ
は専門用語で「イデア」と呼ばれる精神現象からなる。物理学はヘーゲルによれば、最終
的な言葉ではない。反対に物理学はたんにさらにもっと根源的なもの、ガイスト(Geist:精
神)の表面的表現にすぎない。わたしは20世紀の現象学、とくにハイデガー、フッサール、
メルロ=ポンティの著作に様なざま中たちで生き残っていると考える。(1)
観念論は多くの異なる形態をとるようになる。わたしはバークリーの観念論はうまく的によ
く理解する。哲学の伝統において、私たちは皆、ある意味でその上に育った。わたしは
ヘーゲルの観念論はその細部について知的見解を持てるほどあまり十分理解していない
が、その観念論の基礎を拒否するためには一般的に十分理解していると思う。すなわち
ヘーゲルの観念論の形式はその特定の詳細がわたしには恐ろしく曖昧に見えるが、存在
論の岩盤としての物理学的粒子の拒否はドイツ観念論で非常に明白だと思う。わたしはそ
れについてそれ以上述べる必要なはい。なぜなら言ったとおり、わたしはその詳細を本当
に理解しているからである。
表面上完全に異なる感じを持つが、わたしには正確に同じ誤りを犯していると見えるもう
ひとつの伝統は、経験論的伝統の一派である現象主義者である。論理実証主義によって
代表される現象主義的経験論によれば、究極的にすべてのものは検証に岩盤をもつ。そ
こで経験的検証はセンスデータの知覚に本質的に存在する。わたしは実証主義者は彼ら
の主張に関して、センスデータは存在論的に岩盤であることを否定してきたと思う。反対に
彼らは原子論的物理学の究極的存在論を受け入れると主張するだろうが、彼らはまた哲
学者の任務はその主張の「意味」を明確にすることだとも主張するだろう。そして原子論的
物理学の陳述、あるいはその問題のためのどんな経験的陳述であろうとその意味を分析
するとき、それはセンスデータに岩盤をもたなければならなず、さもなければそれは無意味
となるだろう。実証主義者の説明においては、陳述の意味は、その検証の方法であり、経
験的陳述は経験によって、すなわちセンスデータによって検証される。わたしはこの問題
を後にさらに論じるつもりである。 これら二つの伝統、観念論と現象主義は表面上非常に
異なるイデオロギー的に互いに対立すしたが、同じ誤りを犯し、その誤りが両方のケースで
悪い議論に基づいているというのは皮肉なことだ。
わたしが最初から最後まで言及してきた同じ基本的主張の別の表現は、「知覚の表象理
論」である。表象理論の批判は相対的に単純である。だからそれを始めよう。
第3節 知覚の表象理論の反駁
表象理論によれば、私たちは決して実際モノを直接知覚しない。そうではなく私たちはセ
ンスデータを知覚し、そのセンスデータからモノについての知識を得ることができる。なぜ
ならある面で、センスデータはそれを引き起こすモノと似ているからである。表象は類似性
によって生じる。だからわたしが緑色のテーブルを見るとき、テーブルの形と大きさが私の
経験において表象され、そのテーブルは本当に形と大きさをもつ。私のセンスデータと
テーブル自体の類似性が私の経験からテーブルの知識を得ることを私に可能にする。
デカルトとロックにその例を見出される、表象理論の標準的バージョンにおいて、わたし
のすべての経験がテーブルの実際の特徴と似ているのではない。色はわたしの経験の特
徴だが、テーブルそれ自体の特徴ではない。テーブルそれ自体は無色の分子からなる。
伝統的に表象理論家は、一方で大きさ、形、速度、動き、数からなる第一性質と、他方で
色、味、音、匂いからなる第二性質を区別する。ロックによれば、その理論は第二性質は
本当にモノの性質ではなく、私たちに経験を引き起こす大地性質の「諸力」でしかない。だ
からこの理論ではたとえば色はある種の体系的幻覚である。モノは本当は色をもたないが。
私たちの神経システムが色の幻覚をもつ要構造化されているのである。
表象理論への決定的拒否は、バークリーが観念は単に他の観念に似るだけだといった
時、彼によってすでになされた。この文脈でそれによって彼が意味したものは、わたしたち
がモノにもつ知覚的観念は、決して物自体には似ることがありえない。なぜなら、モノは完
全に不可視か、さもなければ感覚にはアクセス不可能であるからである。私たちが近くでき
る観念はものの実際の特徴と似る(あるいは似て見える、視覚的に類似する)ことができる
ことは決してないのである。なぜなら定義によりモノは私たちの感覚にアクセス不可能だか
らである。それはあたかもガレージに正確に似て見える2台の自動車が、1台が完全に不
可視であることを除いて、あるようなものである。「似て見える」という考えは、両方が可視的
であることを前提にし、表象理論ではその一方はそうではないのである。これがなぜ重要
なのか?問題の表象理論の形式は、類似性を必要とするからである。私たちはモノの絵の
ようなものとしてその観念を考えることになるが、絵を描く関係は、描かれるモノが不可視な
ら意味がない。わたしはこれが表象理論の決定的反駁であるとわたしは思う。そしてわたし
は決してその理論を真剣に受け取ることができなくなった。
第4節 現象主義の反駁
現象主義は非常に長い伝統を持ち、あまりに信じがたいので、わたしはどれだけ非常に多
くの聡明な哲学者たちがそれほど長くそれほど真剣にそれを真に受けたのか理解できな
い。その考えは私たちが知覚するのはすべてセンスデーであるというものである。だか、そ
れはとにかくなんらかの世界に対して、私たちが知覚する実際のセンスデータと私たちが
知覚しえる可能なセンスデータがあるということがそのすべてである。だからこの説明では
誰も居ない時でさえ中には木があるということが可能である。なぜなら中庭に行ったなら、
私たちは関連するセンスデータを知覚するだろうからである。だからセンスデータは実際で
ある必要はなく、可能であることができる。言語哲学の全盛期、これは物質的対象につい
てのいかなる陳述、事実どんな経験的陳述であっても、センスデータについての陳述ある
いは陳述の集合に翻訳することができその陳述はともに、カテゴリー的であるか(わたしは
今しかじかのセンスデータを見ている)か、仮説的(わたしがしかじかの操作を行うなら、わ
たししかじかのセンスデータを知覚するだろう)かである。
それの反駁を始めるまでは知らない非常に多くの拒否がこの理論にはあるが、基本的な
問題は、それは公共的な存在論的に客観的成果を私的な存在論的に主観的な現象に還
元することである。知覚の哲学的分析の目的は、世界におけるモノや事態を知覚すること
について語ることのの日常的科学的意味を分析することである。そして現象主義者-観念
論者の分析はすべてのそのような話を本当に存在論的に主観的であるという結果をもつ。
だがそれはそのプロジェクトが私たちの日常的な考え方や話し方の説明だったら、失敗す
るということを意味する。さてそれは失敗するということ、存在するものが本当にあなたや他
の人々の心の中の私的経験であるというのは何が誤りなのか?答えはこれは懐疑論に帰
結するということである。さてそれはわたしが語ることが意味をなす世界における唯一の現
象が私自身の経験であるという結果になる。あなたが経験を持っても、わたしは決して知り
得ない。なぜならわたしはそれを経験できず、そして実際あなたが存在するならあなたは
わたしの経験に還元可能でなければならない(後にさらに述べる)。
現象主義の反駁の標準的テキストがある。完全を期すため、後にわたしはその標準的な
拒否の一部を短く要約するつもりである。しかし現象主義と表象理論についてわたしを悩
ますものは、それらがもつ一部のテクニカルな問題ではなく、深刻な非常識さである。それ
らはともに世界に独立して存在するモノや事態を実際に決して見ない結果をもつ;そうで
はなくあなたが見ることは何もかもがあなた自身の経験である。これは私たちがもつ―おそ
らく私たちは幻覚を見るし、悪魔によって欺かれるし、水槽の中の脳であるなど―なんらか
の認識論的懸念のためではなく、たとえすべて完全であっても、あなたが見るものはなにも
かも、貴方自身の経験なのである。厳密に言えば、あなたか見るものが頭の中にあるとす
ら言うことができない。なぜならもちろん頭は経験の集合に還元可能だからである。
現象主義を批判する前に、20世紀中葉の数十年受け入れられた熱狂を振り返るのは重
要である。わたしは根本的存在論が原子物理学の生の物理的実在ではなく存在論的に
主観的センスデータに岩盤を置くという理由で、それを拒否してきた。これは実証主義者
自身にショックを与えた。そして彼らはそれを拒否してきた。彼らは実在は物理学に岩盤を
もつと考えた。だが彼らは哲学者の任務はそれが何を「意味する」かを説明することだと考
えた。そしてそれが意味することは、検証主義的ボキャブラリーで陳述されなければならな
い。なぜなら彼らによれば、陳述のまさにその意味は検証方法によって与えられる。あなた
が物理学についての陳述を検証する方法は、適切なセンスデータを知覚することによって
である。だからそれはふたつの対立する存在論、物理学的存在論とセンスデータの存在
論があるのはない。基礎的な物理学的存在論は有意味があるため、センスデータへの分
析を必要とする。そしてこれが観念論のように、純粋に精神的である基礎的存在論を私た
ちに与えるわたしの拒否は何なのか?実証主義者は「基礎的存在論」についての子のす
べての話は単に無意味な形而上学だと言ってきた。彼らの任務は実在の究極的な本質に
ついての無意味な問いに答えることではなく、経験的主張の意味を分析することだと言っ
てきた。世界についての真なる主張はふたつの種類に別れる。経験的総合的種類か、論
理的分析種類か。一方で、あなたは科学とほとんどの日常的常識をもち、他方で、あなた
は論理的、数学的そしてトートロジーをもつ;他の全ては無意味である。さてこの主張のク
ラスのなかで経験的クラスの科学と常識はセンスデータに関連した哲学的分析を必要とす
る意味をもつ。現象主義者たちはこの点を形式論理にするのを好む:どんな経験的陳述も
センスデータについての陳述の集合に分析できる。それらは意味と等価である。それは、
原則的にセンスデータの陳述の集合は無限に長いが、私たちは陳述が構造化される理論
的原則を陳述することができるので、無意味な形而上学はもはや残らないということである。
さてわたしはそう解釈された実証主義者にどう答えるのか?わたしは発話の言語的ない
し形式論理に変換することによって、主観主義的存在論を採用して非難を逃れることはで
きないと考える。あなたは自問しなければならない。言語的定理におけるこのような表現が
何を表現するのかと。どのようにそれは持ち金を使い果たすのか?あなたが経験的陳述は
センスダータについての陳述の集合に分析可能であるという時、それはどんな経験的事
実も、人の経験に関する多くの存在論的に主観的な事実に等しい、そしてこれらの人の経
験はつねに諸個人の心の中になければならないという帰結を持たなければならない。どの
ように現象主義者がその教条が潜在的に独我論的の非難を避けることができるのかわか
らない。それは現象主義者の分析に対する決定的な反論であるようにわたしには思える。
実在する世界の客観的存在論はセンスデータの主観的存在論を支持して排除される。そ
してなぜならセンスデータは存在論的に主観であるから、それらはつねに個人的主体の
心の中につねに存在する。だがそれは渡したあなたのセンスデータにアクセスしないとか
あなたがわたしのセンスデータにアクセスしないということを意味しない。陳述の意味が、そ
の検証方法であり、検証方法がすべての経験的陳述をわたしの経験に還元されるなら、そ
の陳述の意味は独我論的である。独我論はすべての理論の帰謬法(reductio ad
absurdum)である。そしてこの理論は独我論を含意する。
現象主義に対してはいくつかのテクニカルな反論がある。わたしはそのうちふたつを論じ
る。第一に経験的陳述の現象主義的分析を提供するためと仮定される前件的な仮説的陳
述を特定しようとするなら、あなたは物質的モノへの参照を常にしなくてはならないことを見
出す。そしてそれゆえ分析は物質的物に関する陳述とをセンスデータについての陳述へ
の還元に成功しない。「今誰も見ていない中庭に木がある」という陳述の意味が、陳述「も
し私たちが中庭に行った場合には、木のセンスデータを見るだろう」によって与えるべきで
あるなら、私たちは問題を抱える。なぜなら私たちはその仮説的状況を立てるために物質
的モノに参照しなければならないからである。私たちは自分の身体に、中庭に、参照しなく
てはならなかったが、それらはこれまで分析されていない。第二の反論はあなたが、それ
は適切な分析を得ることができるようにみえない。なぜなら、二条件一致の一報を主張しか
つ自己矛盾することなく他方を否定することが可能だからである。センスデータがあるが、
やはりモノがないということはつねに可能である。あるいはモノはあるが、やはりセンスデー
タはないということはつねに可能である。この困難を扱う一部の現象主義者は、現象主義
的文政を提供する陳述の集合は数において無限かもしれないが、正確に物質的モノの概
念は、ジョン・スチュアート・ミルが示唆したとおり、可能な間隔経験の無限集合の概念であ
りえるから、これはそれに対する反論には思えないと言った。
わたしはこれらの反論に深入りするつもりはない。なぜなら前に言ったとおり、本当の反
論はいくつかのテクニカルな困難にあるのではないからである。本当の反論は、その理論
はただ私たちの経験に不適切であるようにみえるということである。経験が世界に独立して
存在するモノや事態直接達するということは、私たちの経験についての単なる事実である。
さらに経験が達するモノや事態は、公的にアクセス可能な世界に存在する。あなたもわた
しも正確に同じものを見る。これらの主張のいずれも、現象主義の伝統内では許容できな
い。彼らの主張では、私たちが見るすべてのものはセンスデータでありセンスデータは本
質的に私的なのである。
もし公的言語におけるコミュニケーションにとって必要な条件を考慮するなら、顕著な形
式でこれらの困難を理解する。現象主義者の主張においていったいどのようにコミュニ
ケーションをすることは可能なのか?現象主義者は私たちがお互いにコミュニケーションが
でき、私たちの科学的真理が表現される公的言語はいわば無料で生じると考える。私たち
は単にそれを当然のこととし、どのようにそれが私たちの経験的形而上学に関係するかを
当然のこととする。だがわたしはここで公的言語が公的世界を前提することを、そしてそれ
は、公的世界の日において、現象主義者が公的言語なしに私たちを置き去りにしたように
みえることを論じたい。現象主義者はこれを様々な仕方で扱った。一つの点でカルナップ
は、厳密に言って、私たちの発話の「主観的内容」はコミュニケーション不可能であるが、
私たちは共通の「客観的構造」をコミュニケーションできると言った。わたしにはこれがその
困難をどう解決するか理解し難い。だから悪い議論に基づく、これらのすべての理論に対
するわたしの反論は、悪い議論が本質的に世界への私たちの関係の信じがたい概念を残
すということである。
第5節 古典的理論と知覚の適学的問題
知覚の古典的理論に対する最も深刻な反論のひとつは、悪い議論の結論に基づいてい
る理論は正しい知覚の説明を与えることができないだけでなく、それは知覚についての最
も重要な問いの一つを提起することさえ不可能にするということである。その問いはこうであ
る:どのように知覚経験の特定の特徴は、そうする充足条件を決定するかということである。
さて、それはなぜその理論はそれを行うことを不可能にするのか?表象理論は経験が充
足条件を決定する仕方は類似によると言う。知覚経験と世界のモノの類似性がモノを表象
する知覚経験を可能にする。知覚経験はある種の絵であり、頭の中の観念であり、その絵
ないし観念は実際に世界のモノや事態に似ている。私たちは類似関係の一方の項が定義
により不可視の場合、類似性の概念はいみをなしえないことを見てきた。だからその問は
表象理論によって適切に提起されない。現象主義理論では私たちの一連の経験を除いて
モノに対するいかなるものもない。モノはバークリーが言ったとおり単に「観念の集合」であ
る。現象主義者の主張では、ものについてのどんな陳述も、実際いかなる経験的陳述すら
存在論的に言えば主観的であるセンスデータについてのの集合に翻訳することができる。
制すデータの反対側にモノはない。センスデータはモノの分析の底辺である。だがこれら
の理論は全て渡しが中心的問いとみなすものを提起することを不可能にする:どのようの
私たちの経験の生の現象学は経験が存在論的に客観的な世界におけるモノや自体の現
前であるような充足条件を設定するか?
第6節 第一性質と第二性質
知覚の理論における伝統的区別は第一性質と第二性質の間の区別である。ロックがその
区別を発明したわけではないが、その古典的陳述はロックの論文にある。第一性質とは、
「その地位がなんであれ、身体からまったく不可分のもの」である。かれはこれらは「モノ自
体の第一性質は私たちに単純な観念を生む能力をもち、これらは固さ、広がり、形、動き
や停止、数である」と言う。第二性質は「モノ自体にはなにもないが、第一性質によって私
たちに様々な感覚を生む力」である。彼はこれらは「色、音、味など」だと言う。認識論的に、
区別はロックにとって重大である。なぜなら第一性質の観念は実際に類似だからである。
彼は書く:
身体の第一性質の観念はそれとの類似である。そしてそのパターンは現実に身体
自体に存在する;だが第二声質によって私たちに生み出される観念はそれ自身と
は何も似ていない。それらは私たちがそれから支持する身体において、私たちのそ
れらの感覚を生む力だけである。観念における甘さ、青さ、暖かさは確実な大きさ、
形、身体自体の可感的でない各部の動ではない。私たちはそう呼ぶ。(2)
最初の章で私が導入したジャーゴンで言えば、ロックの説明においては、第一性質は観察
者独立的であり、第二性質は観察者相対的である。それらは、私たちが議論してきた観察
者相対的な質とは異なる。なぜなら、行為者の活動に依存しないからである。お金や政府
とは異なり、人間の志向的行為位によって生み出されるのではない。だがそうではなく、私
たちの感覚器官における第一性質の結びつきの力が第二性質の観念を与える。
専門家が標準的リストに同意しないことを、少し気になくてはならないが、もっともらしいリ
ストを作るのは難しくはない。第一性質は形、塊の大きさ、運動、数である。運動によって
彼はものが動いているかいないを、数によってどれだけ多くのものがあるか、1つのものか2
つのものかなど意味している。第二性質はリストするのは簡単である。それは色、匂い、音、
味を含む。わたしは質感(texture)、すなわち第二性質として物の表面の感じも彼は含めた
と考える。わたしはこれがロックの意味での第二性質であると思うが、彼は第一性質としてリ
ストする。
存在論的に、第二性質が実在ではないという意味があるようにみえるためそれは重要な
区別である。それらは、第一性質によって生み出されるいわば体系的な幻覚である。モノ
は本当は赤くも青くもないが、それが赤いとか青いとかいう印象を私たちに与える分子の
結合をもつ。だから赤さと青さの属性は、たとえ色彩自体は観察者相対的であったとしても
認識論的に客観的である。ロックのジャーゴンでは、色彩は色の経験と呼ぶ経験を私たち
に生む第一性質のただの「力」である。
近年、第一性質と第二性質の区別を拒否するのがファッショナブルになったが、わたし
はそこに何かがあると思う。そしてわたしはそれをはっきり説明したい。第一性質と第二性
質のリストを見るなら、いくつかのことに気づくだろう。第一に第二性質のそれぞれはひとつ
の感覚に由来する。色は視覚、音は聴覚、臭いは臭覚、味は味覚に由来する。伝統的な
五感のそれぞれに対し、ひとつ、一つだけがある・第二性質は触覚の感覚を例外としても
つ。それがわたしが第二性質に、ロックはそうリストしていないが、質感をリストすべきだと考
える理由である。なぜふたつの感覚にアクセス可能であることが重要なのか?その答えは、
これらの第一性質をもつということは、物質的モノの私たちの概念の一部であり、私たちの
ものの取り扱いが視覚と触覚の組み合わせに基づいているということである。ロックがどん
な状態が可能であるにせよものから分離不能であるという時、彼はこの概念的点えようとし
ているのである。それが第一性質をもつべきであるということは、物質的モノ―イス、テーブ
ル、山、天体―の私たちの概念の一部なのである。だがそれがある臭いをもったり、ある音
がしたりすることは私たちのモノの概念のいびつではない。あなたは色は違うと思うかもし
れない。なぜならすべての物質的モノは色をもつからである。だがそれは物質的モノの定
義の一部ではないようにおもわれる。たとえ完全な透明性がありえないとしても、あなたは
なお色のないモノを持ちえる。なぜならそれは完全に透明だからである。だから批判を生
き延びるその区別の特徴のいくつかの基本的特徴がある。ひとつは第一性質はモノの概
念に本質的であるようにみえるというロックの趣旨である。そしてもうひとつは第一性質は同
じふたつの感覚、視覚と触覚につねにアクセス可能であることである。
だが、第一性質の観察者独立性に対立するものとして第二性質の観察者相対性につい
てはどうか?さてどのように世界の特徴が志向内容を決定するかについてのわたしの説明
が正しいなら、この区別は私たちが考えたほど厳しくない。なぜなら赤はある種の経験を引
き起こす能力と部分的に定義されるが、直線であるとか、円であるとかがある種の経験を引
き起こす能力と部分的にまた定義されるからである。色とある種の波長が一対一の対応を
得るという夢は失敗を運命付けられているようにみえる。適当な波長は赤の経験を生むた
め「十分」であるが、「必要」であるようには見えない。適切な条件ですべての種類の異なる
波長は赤い経験を引き起こすことができる。だが基本的特徴で観察者相対的な要素を認
めたとしても、なお第一性質と第二性質の間の対照はある。ひとは第二性質が第一性質に
よる場合をのぞく他のモノへの因果的関係で姿を現さないという仕方で、他のモノへの因
果的関係でモノの基本的幾何学が本質的に姿を現すということによってこの点を指摘でき
るだろう。この意志がこの形を持つという事実は他のモノへの因果関係に影響する。それ
はある場所に適合し、他の場所には適合しない。この石が赤いという事実は、他のモノへ
の因果関係でそのように姿を現さない。ひとはそれは因果関係において姿を現すと言うこ
とによって、これに反対できる:赤いという事実は、白いという事実がより少ない光を吸収す
ることを可能にするという仕方で、それが光を吸収することを可能にするだろう。だがこの反
対にたいしてひとはロック主義的傾向で、まったく物理的な反射の特性が、第一性質の関
係ですべて定義されうるということができる。色の実際の性質は重要ではない;重要なのは
モノが光の波を吸収したり反射したりする仕方である。
わたしのなにほどか躊躇のある結論は、なにか区別があるが、それはロックが考えたもの
では全くないということである。
1. Searle, John R. "The Phenomenological Illusion," in Philosophy in a New Century: Selected Essays.
Cambride: Cambridge University Press, 2008.
2. Locke, John. An Essay Concerning Human Understanding. London: Routledge, 1984. Book II,
chapter8, 87.