古 い 友 人 市川茂子

古い友人
市川茂子 思いがけない人が紙袋を持って立っている。
突然ブザーが鳴ったので、あわててドアを開けたら、
急いでいるようだったが、わざわざ来たのだから昔話をしようと言って、手を引っぱった。が、
道路にタクシーを待たせているからと、菓子折りの入った袋を置いて帰ってしまい、啞然とした。
昔、
世話になったので一度お礼をしたかったと言う。
もう帰宅した頃だろうと思って電話したら、
彼女との当時のことは心にとどめてはいるが、長い間、ときどき電話が来たり賀状での近況だけ
で、何かと忙しい日常の生活からは、はみだしてしまうこともある。
今は八十六歳になって、病院に通うのもタクシーを利用している、近くの商店街に出るのも思う
よう に な ら な い と 言 う 。
彼女との過ぎた日のことを手繰り寄せると、いろいろなことが思い出される。家政婦協会からの
紹介で、琴の宮城道雄の宗家で、宮城喜代子の代に住込みの家政婦として身のまわりの世話をして
いた。その後は、妹の数江先生に仕えていた。
休日になると、近所に借りている部屋に帰って来て、友人や知人をたずねたりして、必ずわが家
へも寄ってくれる。宗家では届く品々を従業員にも分けて下さるようで、彼女はおみやげだと言っ
て、親しい人に持って来てくれる。私はカーテン生地の残りをいただいた。
うすいピンク色に小さな花房を散りばめた図柄の織物で、さっそくカーテンにしたら、いつまで
も色落ちや布のゆがみもなく、一生使えるようだった。
ときどきカーテンをほめてくれる人もいた。
また、宗家で使っているという懐紙は、習字用の半紙よりも少し幅広く持ち上げると透き通るよう
な和紙で、ふだんのくらしでは使いみちがない。そんなときに友達のお嬢さんが、お茶を習ってい
るか ら と 喜 ん で も ら っ て く れ た り し た 。
彼女は仕事を辞めてから転居して、七十歳を過ぎた頃に大病をして入退院をくり返している。病
院が近くだったので、その都度かけつけたりしていた。こちらが通院するときなど、病院の廊下で
出会 う こ と も あ る 。
特別な世話をしたわけではないのに、いつまでも変わらない感謝の思いを告げられると、戸惑っ
てしまう。一度はこちらから出向いていかなければと思いながら、雑用に追われている。
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展景 No. 79
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